粉川哲夫の【シネマノート】
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★今月あたりに公開の気になる作品:

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ウォンテッド   最後の初恋   ウォーリー   リダクテッド   その土曜日、7時58分   ヨコズナ・マドンナ   ザ・ムーン  

2008-08-29

●ザ・ムーン (In the Shadow of the Moon/2007/David Sington)(デイヴィッド・シントン)

In the Shadow of the Moon/2007
◆今月は、たてつづけに韓国のソウル(SFX Sound Effects Seoul Radio 2008neMaf 2008 8th New Media Festival in Seoul)に行かなければならなくなり、試写を見る回数が激減した。ソウルまでは飛行機で2時間半だが、空港への長いアクセス時間、ワークショップやレクチャーやパフォーマンスの準備に要する時間は海外のどこへ行く場合にも同じで、2週間以上、映画から封印されることになった。また、お盆の期間、試写の数も減り、こちらの時間はあっても、食指が動かないこともあった。
◆そういう映画に飢えた日々の最後を締める作品としては、この映画は、物足りない。アポロ計画に関する、「マスタリングし直していたNASAの驚愕の記録映像」、「これまで使われることのなかったオリジナル素材がほとんど」というふれこみだったが、素人目には、その「驚愕」が伝わってこなかった。
◆「1968~72年の5年間に9機のロケットが月へと飛び立ち、12人が月面を歩いた」というが、そのうちの10人がカメラに向かって語る。月面を歩いた日から数十年のときがたち、彼らも高齢に達している。月面だけの経験だけではなく、宇宙飛行をしたことによって彼らが得た栄光は並大抵のものではないから、彼らは、もはやただの宇宙飛行士ではない。だから、彼らの話は、決して退屈ではないのだが、だからといって、思想家や哲学者の深い話とくらべて、異次元を体験した人間の奥行きのようなものが感じられるかというと、それほどでもない。
◆このドキュメンタリーで発言している飛行士のなかで、わたしが一番惹かれたのは、アポロ17号の船長だったジーン・サーナンである。一つには、表情と声がいいということもあるが、その言葉のはしはしに政治的な批判のニュアンスを感じさせるのだ。
◆アポロ計画は、科学技術のプロジェクトというよりも、アメリカが国を挙げて行った政治プロジェクトであった。ここで登場する多くの飛行士は、そうした面については知りつつも、それを暴露するような言い方は避けている。ケネディ大統領が月面着陸計画を宣言した1961年5月25日のスピーチは、冷戦体制下でのケネディ一流の大博打(ばくち)であり、それまで地球の側ばかりから世界を見ていた視点を月に移すことによって、地球=アメリカという文字通りグローバルな展望を開いたのだった。宇宙船から地球を眺めることはすでに地球支配の願望を示しているが、その視点は一時的なものであり、地球は、ただながめられたにすぎない。しかし、月面に地球人が立つということは、地球を単に知覚的にだけではなくて、物理的に操作しうる固定した支点 (fulcrum) を所有するということを意味する。そして、「支点」を持つということは、それを軸にして巨大な「梃子」(てこ)で地球を動かそうとする暗黙の欲望を示している。
◆月には、まだ、われわれ一般人の知るかぎりでは、アメリカの基地が出来ているわけではない。が、アメリカは、1969年7月16日に、アポロ11号を打上げ、ニール・アームストロング飛行士をはじめて月面に到着させることに成功したことになっている。このとき、アームストロングは、月面に星条旗を立てた。これは、地球をアメリカの「梃子」で動かそうとするアメリカ的グローバリズムの開始を宣言するものである。
◆わたしは、「地球」という概念ほどまやかしの空虚な概念はないと思うが、アポロ計画は、まさに「地球」という概念があたかもぬくもりのある具体的な物として存在するかのような錯覚を世界中に浸透させることに貢献した。「地球」と言ってしまえば、気楽である。ローカルなもの、瑣末な個々のものは、この概念で吹き飛んでしまう。「地球を救え」と言うことは、多くの場合、何もせずにあたかも何か有意義なことをしているかのようにうそぶく技法である。地球は、かぎられた宇宙飛行士にしか知覚できないものであり、依然として、月を想像力の「梃子」として使うことによって構想されるものにとどまる。
◆映画の終わりの方で、宇宙飛行士の一人が、月面着陸はヤラセだという説があるが、多くの人間が参加したプロジェクトで口裏を合わせることは不可能だと笑うシーンがある。これは、「アポロ計画陰謀論」のことを言っているのだが、問題は、月面着陸が嘘だったかどうかにあるわけではない。月面着陸が本当に行われたとしても、依然としてきわめてかぎられた経験としてしか不可能な月面着陸の経験を一般化することが問題なのだ。これは、近代科学では、1度だけ実験で立証されればその理論は妥当性を持つという発想ともつながりがある。つまり、「希少性」のうえに成立つ世界が一般化されているのであり、それは、「利潤のかぎりなき蓄積」を理念とする近代資本主義や、稀少であることを最高価値とする格差と競争の社会と同根のものである。
◆誰でもが経験できることを「標準」とすることと、特権的な者だけが経験できることを「標準」とすることの違いの問題だが、前者の「標準」では、「地球は丸い」という発想は生まれなかったかもしれない。が、この「標準」では、世界を支配するという発想が生まれなかったこともたしかである。
◆世界を「視点」でながめ、「支点」を見出そうとすること。近代認識論の基礎としての「遠近法主義」(パースペクティズム)。「帝国」の欲望。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2008-08-27

●ヨコズナ・マドンナ (Cheonhajangsa madonna/Like a Virgin/2006/Hae-jun Lee)(イ・ヘヨン)

Cheonhajangsa madonna/Like a Virgin/2006
◆ソウルから帰ってきてすぐ見た試写がこの作品だったので、新鮮だった。たまたま、ソウルでわたしのワークショップに来てくれたノイズミュージッシャンのPark Seung Junが、この映画の舞台になっているインチョンの出身だったのも、面白かった。インチョンの港町には行ったことがないが、往き帰りをインチョン国際空港を利用したので、飛行機の上からは見た。
◆主演のリュ・ドックアンは、『トマッコルへようこそ』にも出ているらしいが、どの場面に出ていたかは、記憶がない。特に女ぽいわけではないが、栄光の夢を事故で失った元ボクサーの父親(キム・ユンソク)、家を出てテーマパークのようなところで働いている母親(イ・サンア)とのあいだでの屈折を表現する演技は並ではない。
◆この映画の主人公オ・ドング(リュ・ドックアン)は、子供のときからトランスセクシャルな子で、親に隠れて口紅をつけたりして「女装」を好んだ。マドンナを愛し、その身ぶりを真似た。その彼/彼女が、性転換手術のために町の恒例の「シルム」(韓国式相撲)コンテストに出て賞金を取ろうと、学校のシルム部に入り、がんばる。トランスセクシャルな彼/彼女が、それとは正反対のマッチョ志向の強いシルムの世界に入るところが興味を引くが、その過程は、その世界に関係のない人間がそこにとけこんで行くよくあるドラマとあまり変わりがない。だから、この話は、必ずしもトランスセクシャルな主人公ではなくても、また、性転換が目的ではなくてもよかったのであって、トランスセクシャルの問題への突っ込んだ視点はない。ただし、父親と息子との関係を描いたドラマとしては、面白いだろう。その場合、息子がトランスセクシャルであることを父親が知るということは、古い頭の父親にとってはショックであるから、父親と息子との関係がそのことによってドラマティックになるわけだ。
◆韓国では、近年、ゲイやレズビアンの活動が活発になり、マチズモや父権への批判が、浮上するようになった。社会意識全般で見れば、日本よりもマチズモや父権意識が強いといえるかもしれない(酒を飲みに行くと、女は女、男は男でかたまる傾向がある)が、流れは明らかに変わりつつある。それと、キリスト教の浸透が根強く、西欧的なものの考え方や、西欧的な「愛」の観念が日本よりも浸透している。この映画で、オ・ドングと父親とが対決するシーンがあるが、それは、西欧的な「父殺し」(別に本当に殺さなくてもいい)の弁証法そのままである。息子は、「父殺し」によって父親を乗り越える。
◆日本は、文化的に父権制であるよりも母権制だと言われる。しかし、明治になって、西欧的な観念が導入されることによって、西欧型の父権制が成立した。明治天皇は、その意味での「父」を象徴することになった。だから、明治大正期の日本の文学には、父親との相克のテーマが主要なものの一つとなった。そして、父親をどう乗り越えるかというテーマは、高度成長期まえ、あるいは、全共闘運動まえの時代ごろまで生き延びた。ちなみに、団塊の世代は、父親よりも母親が強い家庭を作る。母権制にもどってしまったわけだ。こうして、息子が父親を越えるという儀式が単純には行かなくなる。が、これは、日本が西欧近代型のファミリーを作るのに失敗したということではない。どの道、いま、どの国でもファミリーは混乱のさなかにある。
◆男なら「エディプス・コンプレクス」、女なら「エレクトラ・コンプレクス」があるという図式は、西欧近代社会を形づくってきたものだが、それが、くずれはじまるところに、さまざまな「情緒不安定」が生まれる。フロイトは、19世紀末から20世紀初頭のウィーンで、この過渡期現象を「精神分析」として定式化し、治療の対象にした。その情緒不安定は、社会の構造そのものの揺れから生じ、それを変える以外には、乗り越えることができないものであるが、フロイトの精神分析は、その揺れをしばらくのあいだ落ち着かせる(あるいはごまかす)「療法」(セラピー)として機能することになる。しかし、21世紀のいま、フロイト的な「療法」は、依然として制度的に普及はしているが、限界に達している。「パパ・ママ・子」の三角形は、成立たない。
◆おそらく、韓国では、キリスト教が、フロイト的なセラピーの役を果たしてもいるだろう。韓国のキリスト教の浸透は、ある種の「西欧的近代化」のプロセスである。そして、脱近代化(ポストモダニゼイション)の過程は、そのプロセスの延長線上にある。だから、韓国は、今後、日本より矛盾の少ない「脱近代化」の道を歩める可能性がある。日本は、「西欧的近代化」を徹底させずに、それを飛び越えてテクノロジーの脱近代化の過程にさらされてしまったために、対決すべき相手も、乗り越える先も見えないのである。
◆オ・ドングがひそかに愛しているのが、高校の日本語の先生。これを演じるのが、(くさなぎつよし)。これは、とても面白いキャスティングだと思う。日本のテレビ・映画という文脈のなかでは、彼は、どちらかというと「韓国人」ぽく、またどちらかというと「ゲイ」ぽく見える。だが、この映画では、日本語を教える「日本人」で、しかも、オ・ドングから愛を告白されて驚き、「おまえ、変態じゃないのか」と怒る「ストレイト」男を演じている。この映画で草なぎ剛は、日本のテレビで演じさせられている「健康」で「優等生」的な雰囲気をわずかに壊した微妙な部分を見せる。SMAPの連中は、日本では(特にテレビのなかでは)自由な演技が出来ない。
◆シルムを見ていると、日本の相撲よりも、モンゴルの相撲(ボフ)との類似性が感じられる。ここから、日本の相撲は、モンゴル→朝鮮半島→日本の流れで定着したと考えることができるが、すべてを伝播や渡来によって説明するのは、単純すぎるかもしれない。相撲のような、身体の基本動作にもとづくスポーツは、異なる民族の「神話」時代の記述にたいてい見出されるからだ。日本では、『日本書紀』に相撲に類する身体表現の記述がある。また、埴輪のなかに相撲をしていると解釈できる身ぶりを示したものがあるという。
◆インチョンは、ソウルの都心から見ると、ある種の「マージナルエリア」である。が、港町というのは、外に開かれた地形の象徴的な影響か、あるいは、実際に海上交通で外来のものが入って来る場所であることもあってか、ぶっ飛んだキャラクターの人間が生まれる可能性がある。最後の方で、オ・ドングが、性転換を果たし、マドンナの「ライク・ア・ヴァージン」をクラブで歌っているシーンがあるが、このクラブは、インチョンではなく、ソウルのホンデあたりのクラブだろう。いっしょに姿をみせるラップグループ「Super Kid」は、ホンデのクラブでは売れっ子だ。
(シネマート銀座試写室/ファントム・フィルム)



2008-08-20

●その土曜日、7時58分 (Before the Devil Knows You're Dead/2007/Sidney Lumet)(シドニー・ルメット)

Before the Devil Knows You're Dead/2007wha
◆上映すこしまえに隣にケータイを2つ腰に二挺拳銃のようにぶらさげた男性がとなりに座った。全体にそれほど混んではいないのに、なぜわたしの隣に座るのか? 予感した通り、この人、深刻なシーン(普通の意味で「耐え難い」シーンがかなりある)になると、両手を頭にやったり、首のまわりをこすったり、祈るような身ぶりで手もみをする。落ち着かないことこのうえない。が、おかげで、この映画のどこが「常識」のレベルで抵抗があるのかがよくわかった。それだけ、シドニー・ルメットのねらいは成功しているということである。
◆冒頭から挑発的だ。フィリップ・シーモア・ホフマンがマリッサ・トメイとドギー・スタイルでセックスをしている。醜く太った中年男がやや若めの女と浮気をしているのかと思ったら、二人は夫婦であるが、すでに相当深刻な倦怠期に陥っており、この日は、リオのホテルで特別に盛り上がっただけなのだった。だから、セックスが終わると、じきに二人のあいだに溝が見えてくる。このイントロは、エクスタシックな快楽を幸せの尺度ととりちがえている人物をまず見せておいて、その行く末を非情なまでに見据えるためのものだ。
◆ホフマンは、マンハッタンにオフィスのある会社の会計士で、ばりっとした格好をしているが、麻薬に溺れている。ゲイの男がマンションで営む隠れ屋に通い、ヘロインを打ってもらう。会社の金を使い込み、国税局の査察が入るまえに帳簿の帳尻を合わせなければならない瀬戸際にいる。
◆ホフマンの弟のイーサン・ホークは、離婚しているが、娘の養育費が払えない。学芸会に行き、娘から、『ライオン・キング』の鑑賞ツアーに学校で行くから130ドル出してちょうだいと言われて、あわてる。ホークには、どことなく「スラッカー」の雰囲気がつきまとっているから、さしずめ彼がここで演じているハンクは、世間的には「ルーザー」であり、娘からもそうののしられる。傍観者として見れば、このハンクという男は「情けない」し、その感じをホークがなかなかうまく演じていると言えるが、自分がそういう身であれば、こういうときほど自分がみじめなことはあるまい。
◆ホフマンが演じるアンディとハンクとは、世代が違う設定になっている。が、どこかで人生が狂ってしまった点においては共通している。が、おそらくベトナム戦争の時代の空気を吸って育ったはずのアンディは、「スラッカー」のハンクとは違う。ドラッグに溺れて、「まとも」な考えが出来なくなっているともいえるが、彼は、父親(アルバート・フィニー)と母親(ローズマリー・ハリス)がウェストチェスターで経営する宝石店を襲うことを弟に教唆(きょうさ)する。どうせ保険で埋め合わせがつくから、誰も損をしないというのだ。想像もしなかったアイデアに度肝を抜かれるハンクだが、さんざん抵抗したあげく、兄の説得に負けてしまう。このへんも、「スラッカー」らしい気弱さだ。
◆わたしは、スラッカーどちらかというと肯定的にとらえているが、映画では、スラッカーは決まって、借金に追い込まれたり、たちの悪い相手にそそのかされてつまらぬ犯罪に巻き込まれて身を滅ぼす。ハンクが強盗の仲間に誘ったバーでウエイターをやっている顔見知りの男ブライアンなどは、さしずめその典型だ。犯罪経験があり、びくつくハンクをおさえ、予定にない銃による押し込み強盗を決行する。ハンクは、おびえ、外の車で待つ。兄アンディの話では、当日、店番をするのは、使用人のはずだったが、店には実の母親がいた。彼女は、強烈な脅しにもかかわらず、スキを見て、ブライアンを撃つが、自分も深手(ふかで)を負う。
◆信用していた人間が裏切って強盗に入るというテーマは、1960年代の「アメリカン・ニューシネマ」のはしりとなる名作『質屋』(The Pawnbroker/1964)でルメットが使ったテーマである。ハーレムのどまんなかで質屋を営むユダヤ人(腕には、アウシュヴィッツかどこかのナチ収容所で入れられた刺青がある)のソル・ナザーマン(ロッド・スタイガー)は、近所の貧しい黒人青年ジーザス(ジェイミー・サンチェス)を、かわいがり、助手にして、日々いろいろなことを教えるが、そのジーザスが、悪い仲間に脅されて、店の鍵を開けてしまう。彼自身はしかし、窃盗をやめさせようとして、撃たれ、死ぬ。ソルは、ジーザスの死が自分の身勝手さにあったことを思い、自分を責める。最後のシーンで、彼が千枚通しを手の平に突き刺してギリギリと自分をさいなむシーンが強烈だった。
◆この映画では、ハンクと父親チャールズとの確執も描かれる。父は、長男の彼に大いに期待をかけたらしい。その期待のなかで彼は、エリートになっていった。父親は、貧しいユダヤ人で、若いときは、マンハッタンのダイヤモンド街で闇の仕事をしていた。そこから身を起して、アップステイトのウェストチェスターで店を開くくらいになったのだった。強盗の反撃をくらって意識がもどらず、周囲の判断で人工呼吸器をはずされる妻は、葬式の様子から見ると、ユダヤ系ではなさそうである。おそらく、彼は、キリスト教徒の彼女と結婚し、改宗したのだろう。底辺のユダヤ人からすれば、彼は「裏切り者」である。
◆アルバート・フィニーが演じる父親のユダヤ人的屈折が、ずばり出るシーンがある。アンディは、強盗の「成功」を予定し、47丁目のダイヤモンド街のうらぶれたビルに一室にある故買屋(こばいや)を訪ねる。そこには、レオナルド・チミーノ(この俳優は、実際にナチの強制収容所の生き残りらしい)が演じるうさんくさい感じ(チミーノはこういう役がうまい)の老人がいるが、実は、彼は、その昔、フィニーの相棒だったことがあとでわかる。そして、運命の皮肉、息子は、それを知らずにここを訪れるのである。
◆『質屋』のテーマを引き継いでいるとはいえ、この映画は、実の息子が親を裏切る話である。その裏切り方と関係者の非情さとつらさは、倍加されている。この描き方を見ると、ふと、シドニー・ルメットには、息子がいたのかなという余計な思いをいだく。あるいは、高齢になると、息子も肉親も信じられないという気になるのだろうか、と。そういえば、80歳をすぎたイングマール・ベルイマンも、『サラバンド』のなかで、エルランド・ヨセフソンが演じる父親と息子(ボリア・アールステット)との確執をどぎつく描いていた。とはいえ、そこでは、殺人はなかった。親というものは、歳をとると、自分の息子にあらぬ妄想や不安をいだくのだろうか? ひょっとしたら、自分を殺すかもしれないという不安。これは、エディプス・コンプレックスの逆の面である。そこでは、オイデプスの父ライオスは、漠然とであれ、息子に殺意を感じたはずだから。
◆この映画の親子関係は、オイデプス神話型の家族であり、その意味ではこの映画は、家族の古いとらえ方を継承している。実際、ハンクは、エディプスコンプレックスを地で行っている。だから、母の死後、気が弱くなった父が、息子の幼い時代にとった態度はまちがっていたと言って詫びたとき、大いに動揺する。エディプス的パパ=息子関係では、父親はつねに権威であって、決して謝ったりしてはならないからである。父が謝るのは、エディプス的な家族の否定であり、フロイト心理学的なセラピーの失墜を意味する。
◆ルメットは、この映画で、自分より若い2つの世代、自分の息子世代を否定している。ハンクのとアンディの世代である。とりわけ、ハンクに対しては厳しい。彼らには、全くいいところがない。いまのアメリカを悪くしているのは、彼らの世代であると。彼らは、抹殺すべき存在であり、そうすることがルメットらの世代の責任であると思っているかのようだ。
◆このところ、希望のないアメリカ映画が多い。それは、すべてにおいて自嘲的な表現が支配的だった「ニュー・アメリカン・シネマ」の時代を思い出させる。その自嘲性や自己批判は、次第にある種の映画的気分にもなっていった。いま、アメリカ映画は、あのころと似たような気分を生み出しつつあるかのようだ。
◆アメリカン・ニューシネマをリアルタイムで片端から見あさりながら、わたしは、アメリカの「良心」のようなものを感じた。こういう自己批判をする社会・国家は、もう二度と同じ過ちを犯さないだろう、と。しかし、そうした予感は、見事裏切られた。映画は、決して社会を変えることはできないのである。どんなに自己批判的な映画でも、その気分はそうあとまでは残らないのだ。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)



2008-08-19

●リダクテッド 真実の価値 (Redacted/2007/Brian De Palma)(ブライアン・デ・パルマ)

Redacted/2007
◆冒頭のサブタイトルからして凝っている。「このフィルムは、完全にフィクションであり、イラクで起こったと広く報道されている事件にインスパイアーされたものである」(This film is entirely fiction, inspired by an incident widely reported to have occured in Iraq)」で始まる6行の文章がまず現れ、「fiction」という単語が黒く塗りつぶされる(検閲のスタイル)。さらに、「登場人物たちは完全にフィクショナルである」の「fictional」が塗りつぶされ、次第にその墨塗りが全体に及ぶなかで、「a」「d」「e」「d」「e」「t」「t」の8文字だけが残り、それらがたがいに戯れるような形で「redacted」というタイトルに結晶する。これは、「検閲された」という意味である。
◆全体としてド時代と場所を「レイプと殺人のあった2006年前後のサマラ米軍駐留地」に設定したドキュメンタリーのタッチだが、随所にデ・パルマらしい映像がある。ここでは、そうした「ドキュメンタリー」タッチの映像のなかに、さらに、フランスの女性ジャーナリストによるテレビリポートという体裁のシリーズショットが入る。が、この人工的「リポート」のなかにも、デ・パルマらしい引用がある。チェックポイントを映すその映像でカメラが地面にズームすると、アリにつきまとわれたサソリの姿がある。これは、言うまでもなく、サム・ペキンパの『ワイルドバンチ』の最初の方に出てくるシーンの引用。ペキンパの場合、サソリは、「世界の警察官」アメリカ合衆国を象徴するものであり、それを取り巻くアリたちは、アメリカを窮地に追い込んだ中南米のゲリラのイメージだった。デ・パルマのこのフェイク・TVリポートでは、それを面白がってDVカメラに撮る米兵エンジェル(イジー・ディアズ)の姿を映すが、『ワイルドバンチ』では、見ているのは子供たちであり、彼らは、最終的にサソリとアリの上に火を放つのだった。なるほど、いまは、「火」より「ビデオ」なのだ。
◆この映画は、サマラに駐屯する米兵が日々やってきた行為を再現する。産婦を病院に連れて行こうとするイラク人の車をゲリラとまちがえて銃撃し、妻を殺してしまったり、ルーティンで行われる検問で少女を陵辱したり、それがエスカレートして、民家に夜押し入り、女をレイプし、それを隠滅するために家族や目撃者を虐殺する・・・。同じことは、ベトナムでもあったし、日本軍も、『リーベンクイズ[日本鬼子 RIBEN GUIZI ]』で暴露されたように、中国人をレイプし、殺した。デ・パルマは、こうした事件が、それぞれに異なる過去と経験のなかで鬱積したものをつのらせている兵士たちの相互関係のなかで起こってくる過程を冷徹に見据える。
◆軍隊の仲間内で秘密を隠蔽したり、そのために「良心」の呵責に耐えられない仲間を脅したりするくだりは、ポール・ハギスの『告発のとき』を思い出させる。
◆映像といっても、この映画では、ただの映画的フィルム映像だけではなく、兵士の持つハンディなDVカメラ、報道カメラマンの放送用プロ映像、監視カメラのレゾルーションの荒いモノクロ映像、兵士の暗視装置の緑の映像、兵士が故郷の親たちに接続したインターネットのストリーミング映像など(を模した映像)が多彩に使われている。
◆この映画がつきつけるものは、マイケル・ウィンターボトムの『グアンタナモ、僕たちが見た真実』などよりも、はるかにインパクトのある。スタイルの人ブライアン・デ・パルマが、ただスタイルの趣味だけで映画を撮ってるんじゃないぞということを突きつける作品であり、デパルマの社会・政治意識のありようをはっきりと見せる。必見の一作。
すぐには、
(松竹試写室/アルバトロス・フィルム)



2008-08-18
●ウォーリー (WALL·E/2008/Andrew Stanton)(アンドリュー・スタントン)

WALL·E/2008/
◆パラマウント ピクチャーズ ジャパンは、試写にメールでの予約システムを導入した。これまでのように、試写状を持っていきなり行くのではなく、あらかじめウェブから予約をするようにした。FAXであらかじめ確認を取るというやり方は大きい試写だとこれまでもやられていがが、各試写に対して予約制を導入したのは、この会社がはじめてだろう。が、なぜか、早めにアクセスすると、「満席」状態になっており、そのくせ、まじかになるとそうではない。あまらじめどんぶり勘定で予約しまくる人がいるのだろうか? そうは思えない。
◆非常にラブリーな作品。いまの時代の個人感情をせつなく愛撫するかもしれない。そもそも、地球に人間が住めなくなり、退避してしまった無人の地球上で、ロボットが放置されたときのまま毎日せっせとゴミを集め、塊に圧縮して積み上げるという作業を忠実にやり続けているという設定がせつない。人間が去ってすでに700年もたっている。彼、ウォリーの「友人」は、一匹の虫だけ。気晴らしは、1960年代から1980年代にかけての(そうは誰も言わないが、彼が集めているものを見ると、それがわかる)めずらしいものを集めることと、『ハロー・ドーリー!』(Hello, Dolly!/1969/Gene Kelly) のビデオをくりかえし見ることと、録音したそのテーマソングをボディに内蔵されたプレイヤーで聴くこと・・・。映画は、ウォーリーが、その歌をこだまさせながら、荒涼とした都市の廃墟のなかを動き回っているロングショットから始まる。
◆ある日、そこへ、宇宙船が飛来する。人間が地球の状態を探索するために飛ばした宇宙船である。そこから、卵型をし、地上を浮いたまま移動するロボットが降りてくる。キャタピラで動く20世紀型のロボットであるウォーリーは、驚異の目で「彼女」イヴを遠くから見、すぐに彼女に惚れてしまう。イヴは、地上のさまざまな物体に青色のレーザー光を当てながら着々と調査を進める。少しでも抵抗するもの(大きなマグネットに吸いつけられたときなど)には、破壊的に対抗する(このへんは、「女」が機械を使うときの感じがよく出ていて笑いをさそう――女性が国家の長になったときの戦争は、男の場合よりもイヴの光線銃の使い方に似ているかもしれない)。小さく、かわいげでありながら、その力は破船一隻(せき)を爆破するほどだ。
◆ウォーリーがイヴと目を合わすシーンが面白いが、そのシーンでルイ・アームストロングが歌う「ラヴィアン・ローズ」が実に効果的に使われる。廃墟と機械と先端技術のハイブリットな環境では、こういうノスタルジックな音楽が合うのだ。むろん、元歌は、『エディット・ピアフ 愛の讚歌』のあれであるが、それをサッチモが1950年代に歌ったヴァージョンも当たった。だから、この曲のサッチモ版を使うのは、二重のノスタルジアをかもし出す。このときから、次第に、2人(?)は親しくなり、定期的に訪れるらしい砂嵐(?)で方向がつかめなくなったイヴをウォールは、自分の住処(コンテナーのような金属の箱)に連れて来る。
◆このシーンでサッチモの歌を出したのは、ひょっとして、ウォーリーとイヴの関係に、『ハロー・ドーリ!』のなかでサッチモとバーバラ・ストライサントがデュエットで歌うシーンを関係づけているからかもしれない。このシーンには、まだ黒人差別が歴然としていた時代の黒人と白人との距離感のようなものがあらわされている。サッチモは、やや自分を卑下してバーバラに歌いかけ、バーバラは、「仕方ないなあ」といった呈で距離を置きながら対応する。イヴにとって、初対面のウォーリーは、そんな感じだったはずだ。抜群の機能を持つ最新ロボットにとって、ウォーリーは、どう見ても「下流」だ。そのへんのニュアンスが面白い。
◆ウォーリーが廃墟で見つけ、自分の住処に持ってきて育てていた植物を見ると、イヴは、それを体内に取り込み、そのまま静止してしまう。それは、地球上に生命が復活したかどうかを調査する使命が終わったためだったが、ウォーリーは彼女が病気になったのかと思ってあわてる。静止したイヴは、再飛来した宇宙船に回収されるが、ウォーリーは、その宇宙船にしがみついて、人間の住む宇宙ステイションまでついていく。
◆面白いのは、人工の「島」に住む人間たちの姿だ。彼や彼女は、えらく肥満し、どうやら自力では歩けないようだ。いまの子供のように、始終、マクドナルドやスターバックスで売っている飲み物を思わせるようなものをストローで飲んでいる。歯を使わないないから、顎が退化している。動くのも、リニアカーのように宙を浮く「車椅子」で移動する。だから、足は退化していて歩けない。700年後など、どうなるかわからないが、こうはなりたくないものである。ここには、当然、この映画の企画者・製作者たちの現代文明批判がこめられている。
◆宇宙に浮かぶ人工島には、「貧富の差」はなさそうである。ただし、そこには、「富者」だけしか住んでいない感じ。そもそも、地球に人が住めなくなったとき、脱出できたのは、「富者」だけだったはずだ。これも、考えようによっては、なかなか意味深である。実際、いまの「文明」の方向は、エリートしか住めない方向へ向かっているのだから。
◆すべてがマニュアル志向の風潮も風刺されている。宇宙船の艦長は、オートマチックに作動するようにセットされたスーパーコンピュータと闘う。このへんは、月並みで子供向きのストーリー展開だが、地球に生命がよみがえったという証拠(イヴが持ち帰った)だけで、地球に帰ることを決断し、戻ってしまう「無謀」なところは、「やっちまえ主義」でなかなかいい。
◆【追記/2009-01-08】津田塾大の坂上香さんの招きで映画の話をし、『ウォーリー』を取り上げたので、書き加えたいことが出てきた。どう見ても、植物の生えなくなった地球を捨てた人間が、また植物が再生したというので、地球に帰ってくるのだが、無理すぎると思うのだ。退化してロクに歩くこともできないのに、あんな帰り方はあまりに無謀ではないか? それと、地球の破壊から700年以上もたっているという設定なのに、あいも変わらず巨大で、爆音とアグリーなバックファイヤーのロケットから脱することのできないのはおかしいではないか。これでは、地球の次は他の惑星を破壊することになるだろう。いまの地球環境危機論が正しいのなら、700年後には、もっとクリーンな乗り物や機械が生まれるのでなければ、話が矛盾する。大体、NASAがぶち上げるロケットこそ、温暖化にかなり「貢献」しているのではないか?
◆【追記/同】現在のエコビジネスに見合った作品でもある。最初と最後のシーンで地球が映るが、アメリカ大陸しか映っていない。地球とはアメリカだけか?
◆【追記/同】とはいえ、ウォーリーもイヴもある種の「ヒキコモリ」だから、ヒキコモリ同士が「愛」(コミュニケーション)を持つ話として見ると、なかなか面白い。
(ディズニー六本木試写室/ウォルト ディズニー モーション ピクチャーズ ジャパン)



2008-08-13

●最後の初恋 (Nights in Rodanthe/2008/George C. Wolfe)(ジュージ・C・ウルフ)

Nights in Rodanthe/2008
◆今日も暑い。電車に乗ると、子供連れの親子が目につく。外気との温度差は、ソウルとは大分ちがう。ソウルの地下鉄内は、ひと昔まえの日本のように、ズキ~んと来る温度差だ。まだ冷房の環境対策を意識していない感じ。
◆典型的なハリウッド・ラブストーリーのパターンで進むが、最後の30分で大逆転。最後の方から見直すと、この映画は、ただのラブストーリーというよりも、「自己愛」ではない愛を見出して行く者たちの物語。ある意味で、仏教徒リチャード・ギア好み。が、それならば、こういう逆転劇にしなくても、もっと別の展開の仕方もあったと思う。しかし、離婚の試練のなかにある子供と親との関係は、なかなかよく描かれている。子供たちもまた、「自己愛」とは別の愛にめざめる。
◆別居中の夫婦(ダイアン・レインとクリストファー・メロニ)。夫は、女が出来て出て行ったらしい。子供と会いに定期的に来るある日、いきなり、またやり直したいと言う。レインの方は、その気がないが、事情を知らない子供たちは、母の拒否に反発する。彼女は、ときどき、友人(ヴォワラ・デイヴィス)のアウター・バンクスのローダンテにある――だから、原題は「ローダンテの夜」)に手伝いに行く。子供を別居中の夫にまかせて、ローダンテの別荘に来たとき、そのたった一人の客がリチャード・ギアだった。天候が不順で、客が少ないという設定だが、嵐で別荘に二人が封じ込まれる(そうなれば、二人のあいだに何かが起きる)ことを計算したドラマ仕立てであることは言うまでもない。最初はぎごちない会話。明らかにギアはわけありでここに来た。が、だんだん、(レインが料理上手であるという設定も手伝って)うちとけていく。
◆ギアは、医師だが、別れた妻とのあいだの息子(ジェイムズ・フランコ)と確執があり、また、麻酔の事故で死なせてしまった患者の夫(スコット・グレン――執念深い感じが真に迫る)から攻められている。彼は、実は、その夫に会うためにこの村に来たのだった。
◆リチャード・ギアとダイアン・レインの組合せは、『運命の女』を思い出させる。このときも、いかにもシナリオ的に仕組まれた「偶然」の出会いだった。
●それほどの作品ではないが、レインもギアもフランコもレインの子供たちも、みな、映画の最初と最後とで変わる(成長する)ところか? とりわけ、子供が親の気持ちを理解すること。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-08-11

●ウォンテッド (Wanted/2008/Timur Bekmambetov)(ティムール・ベクマンベトフ)

Wanted/2008
◆月はじめから韓国のソウルに行っていたので、今日が8月の試写の初回。東京の街は、猛暑のうえに、夏休みで休業の店もあり、沈滞した雰囲気。が、この映画の試写は活況で、すぐに満席になった。たしかに、面白い作品だ。スタイルが斬新だ。猛烈なアクションのあいだにストレス過多な日常へ、「自分とは誰か」という問い、息子と父親の問題等にも鋭い視線をそそぐ。
◆基本は、「スラッカー」(要するに、リチャード・リンクレイターが好んで取り上げるタイプだ。働くのがいやで、「家庭」生活もズルズル。遠くは、ポウル・ラファルグの『怠ける権利』の系統を引く者たち。この「シネマノート」の「Search」に「スラッカー」と入れると、いろいろ出てくる)タイプのウエスリー・ギプソン(ジェームズ・マカヴォイ)が、うるさい「デブ女」の上司ジャニス(ローナ・スコット)の目を盗みながら、仕事をさぼっている最中に見た「夢」――と受け取れば、わかりやすいが、そこが、まさにカフカの小説のように、どこまでが「現実」でどこまでがウエスリーの「夢」なのかがわからないようになっている。そのシームレスさは見事。
◆ウエスリーはさえない毎日を送っている。コンパートメントに仕切られたオフィースのコンピュータでGoogleを立ち上げ、「Wesley Gibson」と入れても、「該当資料なし」(did not match any documments)と出てしまう。まさに「無名」なのだ。
◆冒頭、「1000年まえに織物師の一派が暗殺の秘密結社を作った。彼らは、混乱の瀬戸際にたった世界に秩序を回復するために、ひそかに処刑を実行した。彼らは、自分たちをザ・フラタニティ(友愛会)と名乗った」という文字が出る。そして、「6週間まえ・・」から映画がはじまる。ナレーションで説明されるシーンは、オフィースで開かれたジャニスの誕生パーティ。まずいケーキをいやいや食う。ウエスリーは彼女を軽蔑しているが、向こうも、彼を馬鹿にしきっている。彼女から目をそらすと、自分のガールフレンドが、自分の親友とドギーセックスをしているシーンに飛ぶ。それを知りながら、どちらにも文句も言えない自分がなさけない。親父は、「21世紀で最も無意味なくそたっれ野郎だった」。が、ここに挿入されるシーンは、その「親父」とおぼしき男(デイヴィッド・オハラ)が高層ビルの一画でくりひろげる壮絶な銃撃戦。ここで見ることができるガンエフェクトは、CGとSFXによるものだが、のちのカーチェイスのシーンとともに、この映画の白眉だ。この「親父」のアクションが、ウエスリーの白昼夢なのか、「実際」に、(彼にとっては不明のマフィアまがいの組織の人間として)銃撃戦の果てにくたばったのかどうかはわからない。ありていには、ウエスリーは、父親がそんなドラマティックに死んだというような実生活を送ったわけではなく、たかだか、自分と母親を残して、どこかに消えてしまったといったところかもしれない。
◆ローナ・スコットが演じる上司のキャラクターは、ウエスリーにとっては、うるさい「母親」のイメージでもある。「スラッカー」たちは、両親を軽蔑し、憎むパターンがある。母親がうるさいのは、父親が頼りにならない(パターンとして、子供が幼いときに家を出てしまうパターン)からでもあるが、「スラッカー」の息子が、そんなことを理解するよしもない。しかし、パターンとして、「スラッカー」の息子は、母親よりも父親に親しみを感じる。この映画でも、母親は出てこないが、その代わりに、実母への憎悪を倍加したかのような上司が登場し、彼をさいなむ。やがて、彼女とは決別するが、「父親」とは(たとえ「妄想」のなかでであれ)愛情を確認する。
◆『ブルース・ブラザース』に出てくるようなシカゴの線路端のアパートメントでいっしょに住んでいる彼女がわめいている。ウエスリーは、ベッドにいぎたなく横たわっている。テーブルのうえには、精神安定薬の器とShad Helmstetterのベストセラー『What to Say When You Talk to Yourself』が見える。ウエスリーには、上司の「デブ女」同様、彼女のキイキイ声がたまらない。短いが、このへんのシーンで、ウエスリーのスラッカー的生活感覚が活写される。ほかにも、ATMで金を下ろそうとすると自嘲の言葉が表示されるとか、ストレスにさいなまれる彼の日常が「さりげない表現主義」風の描写で描かれる。
◆そういう退屈きわまりない日常が、突然変わる。薬局のコーナーがあるスーパーへ調合薬を受け取りに行くと、謎の女(アンジェリーナ・ジョリー)が出現し、男(トーマス・クレッチマー)と壮絶な撃ちあいをはじめ、しかも、女は、ウエスリーを「拉致」するかのように自分のスポーツカーに乗せ、逃げるクレッチマーを追う。このカーチェイスのシーンも、これまで作られたいかなるカーチエイス・シーンともちがっている。それは、最近の『ダークナイト』のカーチェイス・シーンもかなわない。アンジェリーナ・ジョリーは、ここでタフは女を演じるのだが、単に「本当」らしく「タフ」なのではなく、シュールな雰囲気をただよわせながら「タフ」な感じを見事に出している。それによって、このアクションシーンが、ウエスリーの「夢」とも「現実」とも断定できないシームレスなリアリティを確実なものにする。銃を撃つときの彼女の表情に注目。
◆白昼夢のように布石が打たれ、やがてメインになっていく物語では、ウエスリーが、1000年もつづく暗殺組織「フラタニティ」の暗殺者の血を引いているということになっている。アンジェリーナ・ジョリーが演じるフォックスという女もそのメンバーで、トップのスローン(モーガン・ルリーマン)の命令でウエスリーを迎に来たのだった。
◆以後、彼は特訓を受けて「暗殺者」に育っていくのだが、彼が初特訓を受けたあと、会社で「デブ女」の上司に最期的なタンカ(Shut Fuck Off!)を切り、やりたい放題の「親友」をキーボードで殴りつけ、会社を飛び出すシーンが続く。会社で神経をさいなまれている者が、最終的にキレて、何かをするというのは、映画的にめずらしくもなんともないが、この映画は、そうした飛躍を「表現主義」風に描くところがみそだ。
◆「フラタニティ」の本拠は、織物の工場という設定で、機織機がならび、織物がつくられている。このへんは、わたしには、なかなか示唆的だった。「織る」は、weaveで、「ウエブ」(web)と関係がある。新しい技術の出現に反対する者を「ラダイト」(Luddite)と言い、そのたぐいの運動を「ラダイズム」と言うが、これは、19世紀の産業革命の時期に、新しく導入された織物機械を破壊したネッド・ラッド(Ned Lud)に由来するらしい。「フラタニティ」は、この映画では1000年の歴史を持つことになっているが、フラタニティが織物機械を使っていることは、反ラダイズムであり、新技術の導入に反対する者は暗殺するということを意味する。つまり、フラタニティが支持する「秩序」は、時代の「新秩序」であり、「New World Order」なのだ。その点で、この映画のなかで、この組織が最期にどうなるかは、見ものなのである。
(東宝東和試写室/東宝東和)




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