粉川哲夫の【シネマノート】
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★今月あたりに公開の気になる作品:

★★★ 相棒―劇場版―     ★★★ 靖国     ★★★★ ミスト     ★★★ 最高の人生の見つけ方     ★★★ ハンティング・パーティ     ★★★ 光州5・18     ★★ チャーリー・ウィルソンズ・ウォー     ★★★ マンデラの名もなき看守     ★★★ 丘を越えて     ★★★★ 幻影師アイゼンハイム     ★★★ Mr.ブルックス 完璧なる殺人鬼     ★★★★+1/2 シューテム・アップ     ★★ JOHNEN 定の愛     ★★★★ ぼくの大切なともだち    

クライマーズ・ハイ   ビューティフル・ルーザーズ   スカイ・クロラ   シークレット・サンシャイン   シティ・オブ・メン   インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国  

2008-05-26

●インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国 (Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull/2008/Steven Spielberg)(スティーヴン・スピルバーグ)

Indiana Jones and the Kingdom of the Crystal Skull/2008
◆国分寺駅に文字通り走り(といっても早足のスピード)、中央線で神田に出て、有楽町へ。あらかじめFAXで予約する方式の試写だが、プレスをもらってから長蛇の列に並ぶ。しかし、この劇場は大きいので、心配はない。7時半入場したら、まだ6割方の埋まりぐあいだった。とはいえ、開始までに満席。最後に、日本ではめずらしく拍手があがった。
◆冒頭、砂漠のなかを50年代のハリウッドおバカムービーから飛び出してきたかのような「明るい」風情の若者たちが車に乗ってつっぱしり、ドラマのかなめになる「米軍」トラックの一隊を追い抜く。映画は、まさにこの若者たちの車の運転の仕方とスピードで展開する。あっけらかんとしていて、こだわりがない。ハリソン・フォードは何度も地面にたたきつけられたり、殴られたり、滝から落ちたりするが、まったくこたえない。不死身というより、ディズニー・アニメの感覚だ。車に飛び移るスタントからハリソン・フォード本人にすりかわるとき、彼の尻がぶよぶよしているのを感じるが、あまり気にしないほうがいい。典型的なジェットコースター・ムービーだが、スピルバーグらしいこだわりはトリヴィアルなかたちで示唆される。
◆冷戦体制の50年代、赤狩り、ソ連は敵、米軍は核実験を繰り返し、ジョン・ウェインが撮影中に遠距離から被爆したかもしれないという1957年のネヴァダ州のテストサイトでの水爆実験、などが書き割りとして出てくるが、深い意味があるわけではない。なにせ、フォードは、「敵」に終われて、原爆か水爆が落とされる実験家屋に迷い込み、すわ「ラースト・ファイヴ・ミニッツ」だというので、あわててGEの大型冷蔵庫のなかに飛び込み(ごていねいに、中身をあわてて外に引き出しながら――そのなかには、いまではなつかしい銘柄の食品などが見える)、そのまま空中に吹き飛ばされ、地面にたたきつけられる。「普通」なら、そんな被爆をしたら、黒焦げだが、インディアナ・ジョーンズは不死身。あとは、シャワーで全身を洗って、もとの体にもどる。
◆ハリソン・フォードが知っている古代の財宝「クリスタル・スカル」(水晶髑髏)がネバダのテストサイトに隠されているのを探知し、「米軍」に化けてそれを奪おうとするのがケイト・ブランシェット。ソ連軍の指揮官という設定だが、彼女は、『さらばベルリン』のときよりも直裁で、冷酷というより、決めたことは徹底的に実行する、いわば『フィクサー』のティルダ・スウィントンをアニメ的にしたようなキャラクターを見事に演じている。ケイト・ブランシェットは、あまり悪役がうまくはないが、トム・ハンクスのような根っからだめというのではなく、潜在的には何でもできる俳優だ。このぶんなら、歳をとれば、『007/危機一発』のロッテ・レーナ(あのクルト・ワイルの夫人でもあった)がやったような役もできるかもしれない。
◆原案・ストーリー・製作総指揮をジョージ・ルーカスがやっていることになっているが、スピルバーグが完全に全体を掌握している。単なるゲーム的な戦争大好き映画にはなっていない。最後には、彼がこだわっているエイリアンないしはET(Extra-terrestrial=地球外生物)のテーマも引っ張り出す。ところで、彼が「神」ではなく、「地球外生物」にこだわるのはなぜだろうか? それは、彼がある種の「合理主義者」だからではないか? 古代の「神秘」を神話で説明するよりも、宇宙人がかつて地球にもたらしたものだと考えるほうが「合理的」だ。「神」は信じ、信仰するしかないが、宇宙人は探求の対象になる。スピルバーグは、いつも(特に幼少年代者への)教育者なのであり、サービスマンなのだ。
◆しかし、この映画に出てくる宇宙人的テーマは、すでに『A.I.』で十分あつかわれている。では、この映画で教育者/サービスマン=スピルバーグは、何を教育したかったのか? インディアナ・ジョーンズがかつて知らずに生ませた息子(シャイア・ラブーフ)は、女手一つ(カレン・アレン)で育てられ、ろくすっぽ学校には行っていない。ラブーフのきびきびした演技(若きマーロン・ブランドの『乱暴者』(The Wild One/1953)そっくりのかっこうでバイクで疾走するあたりもいい)とあまって、この青年はいい印象を残す。カレン・アレンが演じるのもちょっぴり無鉄砲は母だ。このあたりの「アメリカ的」寛大さへのノスタルジアはたしかにこの映画にただよっている。これは、弁護士やデジタル・エリートが支配するいまのアメリカにはない世界だ。そういう夢にいっとき連れて行くという意味では、この映画は、成功している。
(日劇1/パラマウント ピクチャーズ ジャパン)



2008-05-20

●シティ・オブ・メン (Cidade dos Homens/City of Men/2007/Paulo Morelli)(パウロ・モレッリ)

Cidade dos Homens/City of Men/2007
◆2002年にフェルナンド・メイレレスとカチア・ルンジが監督した『シティ・オブ・ゴッド』とタイトルが似ているし、フェルナンド・メイレレスのプロデュースではあるが、質的には雲泥の差がある。監督のモレッリは、この映画のもとになっているテレビシリーズの『シティ・オブ・メン』を担当してきた人で、全体がややテレビのりであり、「モラリッシュ」(道徳・教訓的)なのはそのためである。『シティ・オブ・ゴッド』は、その意味では、アモラルであり、もっと「あやうさ」をはらんでいた。こちらは、いささか「啓蒙的」であり、青少年の「非行」をひきとめようとする気配すらある。
◆『シティ・オブ・ゴッド』にくらべて、若者たちがつくりものめいている。手に負えなさが感じられない。どうしようもなく、街のロジックで育ってしまった子供といった恐怖や絶望が感じられない。若者たちは、銃を手にしてそれなりに「無慈悲」で「悲惨」な抗争をくりかえすが、その「無慈悲」や「悲惨」は、ドラマのなかのテロや暴力のパターンと域をいささかもこえていない。
◆場所(ブラジル、リオデジャネイロのスラム街ファヴェーラ)登場人物は、『シティ・オブ・ゴッド』を引きつぎ、あの時代の少年少女たち(生き延びた者にかぎられるとしても)が青年期に達している。そして、その一人、18歳のアセロラ(ドグラス・シルヴァ)にはすでに子供がいる。相手は、クリス(カミラ・モンテイロ)。もともとは、ほしくて作った子ではない。だから、ファヴェーラの男のパターンで、子供を放り出して仲間とつるんでいる。親友のラランジャーニ(ダルラン・クーニャ)は、幼いときに自分を捨てて出て行った父親の消息を知り、会いたいと思い始める。アセロラは、ラランジャーニと彼の父親を探しているうちに、自分の子供への意識が変わっていく。
◆ファヴェーラのような街では、父親が不在の家庭が多いという。これは、アメリカの低所得の家庭でも多いという。この場合、父親の気まぐれで家を出てしまう場合もあれば、犯罪に加担し、家に帰りようがないという場合もある。これは、これまで優勢な価値観からすると、父親の「無責任」や「無能力」とみなされる。だから、父親を憎んだり、したったりする子供のドラマは涙をさそう。しかし、これは、一面では、父親と母親がそろっているのが「普通」という習慣のなかで意識・身体に刷り込まれた記憶と慣習にすぎない。もともと価値観とは、絶対的なものではなく、時代と場所が変われば、全く逆になったりもする。だから、アメリカを初めとして、70年代以降、母親、父親だけの単親家族(ワン・ペアレント・ファミリー)の数がふえるにつれて、そういう家庭をまっこうから批判することはできなくなった。長い歴史、広大な地域をみわたせば、核家族は決して普遍的なものではない。その意味では、ファヴェーラの状況は、必ずしも否定的・批判的なものだけではなく、そこから別の可能性を導き出すことも可能なのだ。にもかかわらず、この映画は、両親がそろっているのが「正常」という価値観ですべてをさばき、その「正道」にもどることを示唆している。
◆しかし、われわれは、自分が生きてきた時代とその蓄積や記憶から逃れられないのだから、子供に会いたくても会えない父親、実父と会いたいと願う子供、再会したが加担していた犯罪のためにすぐ逮捕され、引き離されてしまう親子・・・を見るのは、つらい。しかし、つらさをただ描くだけでは、メロドラマにすぎない。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2008-05-15_2

●シークレット・サンシャイン (Milyang/Secret Sunshine/2007/Chang-dong Lee)(イ・チャンドン)

Milyang/Secret Sunshine/2007
◆内幸町のワーナーからタクシーを飛ばして、東銀座の万年橋へ。席を取ってから、同じフロアーにあるカウンターだけの小さな店でアイスクリーム。食事をしたいところだが、時間が10分ぐらいしかない。コーヒーがメインのその店でアイスクリームなど注文する人は少ないとみえ、冷蔵庫から出してきた大きな容器のなかのアイスクリームをすくい取るのにマダムが苦労している。「いや、少しでいいです」とわたし。
◆夫を交通事故で失い、夫の故郷ミリャン(「密陽」=秘密の日差し→シークレット・サンシャイン)に息子とともに移って来たシネという女性(チョン・ドヨン)は、運命に追い討ちをかけられるかのように子供を誘拐され、その子を殺される。が、その展開は、ありがちなドラマのように、観客の涙を搾り出すために設定される「悲劇」のような感情操作ではない。その犯人は、シネともたびたび顔を合わせるが、そのような事件を起すそぶりは微塵もない。しかし、それは、犯罪映画によくあるようなやり方で隠蔽されている(ポーカーフェースを装っている)のではなく、その事件は、「魔がさす」という言い方しかできないようなやり方で起こる。
◆一般化は避けたいが、ここに登場する息子が、実に今的だ。それを演じるソン・ジョンヨプがまた実にうまい。いつも「心そこにあらず」の態度を大人に向ける。おそらく、ゲームをしているときにしか、明確な感情をあらわさないのだろう。ちょうど、イ・ジョンヒャンの『おばちゃんお家』に登場する7歳の子供の同類である。こちらは、田舎に移り住み、だんだん変わっていくが、この映画のシネの息子は、そういうチャンスもなく、殺されてしまう。その突然の消え方は、こういう子供がいまどうしようもなく増えているという暗示にもなっている。
◆俳優の演技が非常に「自然」なのが驚き。シネを演じるチョン・ドヨンもソン・ガンホもみんな、大物俳優なのに、既存の演技の枠をこえている。あえていえば、ソン・ガンホが演じるジョン・チャンという人物が、終始シネに善意を示し続ける道化的なキャラクターであるために、職業俳優が演技をしているという印象をあたえる。それ以外は、俳優という存在を忘れさせる。「狂ってきた」シネに誘惑される薬局のキリスト教信者の主人は、車のなかで股間をさわられ、とまどうが、そのとき、顔を赤くする――演技にしてはすごい。
◆シネは、町についてすぐ、薬局の奥さんからキリスト教の集まりに勧誘される。そのときは距離をおいていた彼女も、息子の死後、次第にその仲間に加わる。彼女がキリスト教に帰依するプロセスがかなり本気のように見えたので、最近の韓国映画に多い傾向(2月に見た『裸足のギボン』などは、どう見てもキリスト教の薦めである)に迎合したものかなという気がして、がっかりしかけた。しかし、イ・チャンドン監督がそんな安易なことをするはずがないと思っていると、案の定、そのプロセスがひっくりかえるのだった。彼女が、信仰に懐疑をいだいてからのシーンは強烈だ。
◆キリスト教の救済のテーマへの懐疑。犯罪を犯した人物が、神に許しを請い、許されたと信じた場合、子を殺された親が信仰の末に得た赦しの気持ちはどうなるのか? それは、相殺され、赦しの努力は無になってしまう。このへんの問題は、キリスト教信仰の根本的なところを突いている。
◆シネが次第に「狂って」きて、説教の会場に飛び込み、テントのなかにあるPA装置(韓国のキリスト教団体はこんな金をかけたPA装置を持っているのだろうか?)を操作し、「みんな嘘よ」という歌のCDをかけるアクションに出るとき、彼女がオーディオ装置を操作する手つきがすごい。プレイヤーにCDを突っ込み、パッパパとボタンを押す。これだと、彼女は、かつてDJか何かをやっていたか、こういう仕事をしていた感じになるが、どうなのか?
◆この映画は、最終的に、この町の人たちのキリスト教信仰を否定してはいない。最後の方のシーンで、ジョン・チャンの運転する車の後ろの窓に十字架が下がっているのが見える。それは、信仰のあかしというよりも、その町にいるさまざまな人間を彼が肯定しているあかしにすぎない。シネは、キリスト教信仰にふたたびたちもどるかどうかは別として、この町にしか自分の仲間はいないことを悟るかのように映画は終わる。
(シネマート銀座試写室/エスピーオー)



2008-05-15_1

●スカイ・クロラ (The Sky Crawlers/2008/Oshi Mamoru)(押井守)

The Sky Crawlers/2008
◆押井守作品の試写なので、見に来る客がいつもとはちがう。飲食物を持ち込んではいけないことになっているこの試写室に缶をかかえて入ってくる人、ひと昔まえの「オタク」的雰囲気の人・・・。わたしのとなりの人は、見ている最中、プレスを落としたが、拾わない。体をひんぱんに動かし、落ち着かない。映画を見るというより、テレビを見ている雰囲気。
◆押井守の作品には、きちっとした「思想」やテーマがある。映像の恣意的なセミオティクスから引き出すことが可能な「思想/テーマ」ではなくて、最初から言いたいことがあり、その一部はしばしば登場人物の比較的長いセリフで表現される。それを嫌う人もいるし、それがいいと言う人もいる。しかし、映画は映画であるから、恣意的なセミオティクスの要素は避けられない。以下は、わたしのセミオテック的な「恣意性」の産物である。
◆押井がとらえる若者は、決して「大人になれない」のであり、日常的には何ごとにも確固としたリアリティを持てないから、殺人や死に最後の期待を託すしかない。しかし、「私は56歳になりました」という書き出しの文章をプレスに寄稿している押井は、この映画で、それではつらすぎるのではないかという異議を提起している。「衣食住に困らず、多くの人が天寿を全うするまで生きてゆける社会を、我々は手に入れました。しかし、裏を返せば、それはとても辛いことではないか――と思うのです。永遠にも似た生を生きなければならないという状況。その中で次々に引き起こされる痛ましい事件。親が子を殺し、子が親を殺す時代。何の理由もなく、若者が自らの命を絶つ時代。物質的に豊かだけれど、今、この国に生きる人々の心の中は、荒涼とした精神的焦土が広がっているように思えてなりません」。
◆タイトルは、「空」を「クロールする者」(もがいて/泳いで進む者)という意味を示唆するが、その「空」は戦闘中は灰色になり、それから紺碧の青さをたたえる。空は「空虚」でも、そこを「泳ぐ」/「クロールする」には、それが灰色であるときと青色であるときがある。その青さは一つの希望か? 
◆格納庫には、押井らしく、犬(この映画のなかで、人間よりも唯一表情豊かな登場者)がいて、飛来する飛行機をうれしげに迎える。わずかの希望は、犬になることと、犬として見上げる青い空かもしれない。
◆プロペラ戦闘機での空中戦、レーダーサイトやもろもろの機械装置は工業化時代のものが多い、日本語と英語がまじった『讀賣新聞』(ちなみに本作のプロダクションはI.G.と日本テレビである)、国家ではなく企業単位で戦闘を繰り返している、登場する「大人になれない」戦士の「キルドレ」は、遺伝子操作の産物らしい等々、時代は、あえて無時代、場所は無国籍に設定されているが、どちらかといえば、「いま」の日本に照準が合わされている。
◆アニメが日本の「特産品」である最も深い意味を押井はつかんでいる。ここでは、モーション・キャプチャー・アニメーションのような技術を使わず、2次元的なアニメを使い、表情を多くの場合口と顎の動きだけで表わし、目の動きを抑制しているのだが、これは、日本人の無表情を表わすには最も効果的だ。そのなかでも、菊池凛子が声優を演じている司令官・草薙水素(クサナギ・スイト)は、そうした側面を最も強く体言するニヒルな「キルドレ」である。
◆アニメには、独特のセリフまわしがあり、通常の映画の「うまい」セリフまわしと比較すると、台本を棒読みしているのではないかという感じがするときがある。が、そういうダメなアニメもあるだろうが、この作品で入念に選ばれた声優たち(加瀬亮、栗山千明、谷原章介など)が行う「棒読み」的なセリフまわしは、かえって「キルドレ」たちの「心そこにあらず」の感性を表現することに役立っているようにみえる。面と向かっていても、「心がない」彼や彼女ら。だから、つきあいはつねに「表面的」になる。快楽のないセックスかセックスレスの関係。
◆パイロットが戦闘から生還すると、しばしばビールを飲む。そのラベルに「Green Label」という文字があるので、どこの銘柄かと思ったら、どうやらキリンの「端麗」の特注品か、海外で売っている「端麗」のようだ。
◆シガレットを吸うシーンがたくさん出てくるので、最近のハリウッドの傾向(なにせ、映画ではことごとく喫煙シーンをなくし、あるものも、DVD化のときにはカットする)とくらべると、異色である。クサナギもカンナミ・ユーイチ(声:加瀬亮)もよくシガレットを吸うが、カンナミは、クサナギに初めて会ったとき、こう言う――「タバコを吸わない上司を信用しないことにしている」と。登場する吸うタバコの箱には、「天狼星」というタイトルがある。ところでハリウッドの「禁煙ファシズム」に異を唱えている近年の傑作は、アキ・カウリスマキの『街のあかり』(Laitakaupungin valot/2006/Aki Kaurismäki) だろう。これについては、『TASC』という雑誌に書いた。
◆「キルドレ」たちが戦闘機にのっているとき、装着しているマスクの形で、顔がみな「犬」のようになる。
◆基地になっている格納庫の屋根に「Rostck Iron Work Co.」という文字が見える。この会社と「Lauterun」という会社が空で戦っているという設定だが、「Rostock」は、ドイツのバルト海に近い都市で、第二次世界大戦のときまで、航空産業の中心地の一つだった。「Lauterun」は、ドイツ語の「läutern」(不純物を取り除く、熟成させる)という語を想起させる。むろん、これは、わたしの「恣意性」の産物だが。
◆ラウテルン社所属のエースパイロットは「ティーチャー」と呼ばれ、「キルドレ」が決して勝つことができない相手とされている。この人物は姿を見せないが、「キルドレ」とはちがい、「大人」なのだという。つまり、この「ティーチャー」がいるかぎり、「キルドレ」は戦いをいどみ、「戦死」せざるをえない。逆に言えば、「ティーチャー」との戦いだけが、「キルドレ」にとって人生の一大事であり、命を張れることなのであり、彼や彼女らが「大人になれない」ようにしている存在なのである。
◆ここで、わたしは、「ティーチャー」と日本の近代天皇制における天皇とのアナロジーを考えないわけにはいかない。日本の国家制度は、国民を「大人」として認めない制度であり、個々人を子供あつかいする「甘え」と「無責任」の文化によってささえられている。対外的には「元首」が天皇であるこの国は、国民を天皇の「子供」にしてしまう。だから、個々人は、国家や天皇との対立・緊張のなかでしか最高度のリアリティを感得できないのである。個々人を問題にしなければならないときに、「日本は・・」とか「日本人は・・」とか「いまの若者は・・」とかいう一般化がなされるのも、この天皇制に由来する。
◆この天皇制は、単に天皇のシステムではなく、日本のあらゆる組織や集団にあてはまる。さらに、集団のなかでも、そのなかにあるサブ集団のなかに「天皇」が入れ子状に生まれる。それをこの映画が「エンペラー」とは呼ばず、「ティーチャー」と呼んでいるのも意味深長だ。学校の「先生」も、「天皇」として機能することがあるからだ。ところで、押井守は、今年の4月からわたしも勤める東京経済大学の客員教授になった。押井は、もともと学芸大出身であり、教員免状を持っているという(ちなみに、わたしは持っていない)。ひょっとして、押井は、自分のなかにも「天皇制」を感じているのだろうか?
◆「大人になれない」/「大人にならない」ということは、「ピーターパン症候群」という言葉があったように、必ずしも日本の特殊現象ではない。メディアと情報のテクノロジーが占有し、力をふるう時代や場では、年令という概念が希薄になる。ニーチェの「永劫回帰」は、そういう時代を予見するものだった。ハイデッガーが再把握したニーチェの「ニヒリズム」、「超感性的世界の喪失」の全般化、「存在忘却」、「故郷喪失」等々は、そういう「大人になれない/ならない」現象を包含する。しかし、わたしがいま問題にした日本的現象は、そういうグローバルな「ニヒリズム」を認めず、うやむやにし、あたかも「近代」がまだ続いているかのような錯覚を起させた上でのものなのだ。問題は、「大人」であるか「子供」であるかではない。「責任」か「無責任」かの問題でもない。むしろ、リアリティの強度を個々人が創造し、体験することを阻害している制度の問題だ。
◆ある意味で、日本は、ニーチェ/ハイデッガー的な「ニヒリズム」の「永劫回帰」を制度として先取りしているところがなくもない。『電子国家と天皇制』に入れた文書で論じたことがあるが、日本の天皇制は、ヘーゲル的な君主制を先取りしていた。説明は省くが、へーゲル的世界の行き着いたとことに「永劫回帰」がある。「永劫回帰」のなかでは、人は歳をとることができない(テクノロジー的にも、文化的にも)。人は、「死すべき人間」であることをやめる。だから、そこでは、ただ「愚者」のみが、「愚者」になれる者だけが、「幸せ」(悦ばしき知恵)を経験することができる。この映画には、そういう破廉恥さはない。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-05-08

●ビューティフル・ルーザーズ (Beautiful Losers/2008/Aaron Rose/Joshua Leonard)(アーロン・ローズ+ジョシュア・レナード)

Beautiful Losers/2008
◆最前列に座わり、まわりにほとんど人が来なかったので、「マスコミ試写」の初日にしては入りが悪いなと思ったが、終わって立ち上がって初めて後ろを見たら、けっこうの人だった。
◆「ルーザー」と名乗っているが、ちょっとおこがましいのではないかという印象。カリフォルニア・ベースのアーティストたちが、ニューヨークのロワー・イーストサイドに「アレッジド・ギャラリー」を作り、やがてそのグループ活動が注目を呼んで、売れっ子になったのだから、みずからを「ルーザー」と呼ぶには、本当の「ルーザー」に気の毒ではないかと思うのだ。インタヴューを中心に進むドキュメンタリーで、みなが「金には興味がない」と言うが、結果的にであれ、コマーシャルな仕事をして、成功したのだから、そういう言い方は欺瞞である。
◆この映画にはいくつかの要素があり、それがすっきりとは切り分けられていない。それは、ある意味で、観客が自分の関心で切り分けて見ればよいということにもまるが、全体としては、どこか中途半端な感じがする。
◆まず、ここにインタヴューを中心に登場する11人ほどのアーティスト(マーガレット・キルガレン、バリー・マッギー、クリス・ジョハンソン、ジョー・ジャクソン、マーク・ゴンザレス、ジェフ・マクフェルトリッジ、マイク・ミルズ等々)は、1990年代に「ローブロウ」(lowbrow)とか「ポップ・シュールレアリズム」(pop surrealism) とかの名で呼ばれ、有名になったヴィジュアルアートのアーティストたちである。その多くは、西海岸を拠点にしていた。とりわけ、「ミッション派」(Mission School) の連中である。Mission というのは、サンフランシスコのミッション地区のことで、もともとは工場や倉庫が多い場所だったが、90年代に入ると、アーティストたちが住み込んできた。次第に雰囲気が変わり、アーティストのたまり場も増え、「ボヘミアン」的な雰囲気が強まった。
◆わたしの友人のジェッシー・ドルゥー(現、カリフォルニア大学デイヴィス校準教授)は、ここにアパートメントを借り、ニューヨークのペーパータイガー・テレヴィジョンの支局(ペーパータイガー・ウェスト)をつくっていた。1992年当時、彼の奥さんはミヤ・マサオカ(現、ジョージ・ルイス夫人)で、わたしは、彼女が琴の練習をし、ジェッシーと彼女の幼い娘が遊ぶアパートメントの一室でラジオワークショップをやった。そのときのことを詳述したジェッシーの記事を載せたのが『サンフランシスコ・ベイ・ガーディアン』(San Francisco Bay Guardian) というローカル紙だったが、実は、「ミッション派」という言葉でこれらのアーティストをひとくくりにして紹介したのもこの新聞だった。そのワークショップには、かなりの人が来ていたので、のちに「ミッション派」と呼ばれるようになる人たちも来ていたのではないかと思う。いずれにしても、やがてホットな場所になるエリアの熱気がその部屋に充満していた。フォルクスワーゲンのボディを華麗なグラフィティで塗りこめていた女性アーティストもいたが、それは、まさに「ポップ・シュールレアリズム」の「作品」だったのだ。
◆この映画で、そうした「ローブロウ・アーティスト」の活動と発想が紹介されているのは貴重である。しかし、映画の流れを作る線として、2001年でガンで亡くなったマーガレット・キルガレンにかなりの焦点が当てられている――にもかかわらず、その当て方がやや散漫なので、全体としては中途半端な印象をあたえる。
◆もう1点は、「ローブロウ・アート」をコーディネイトし、全米/世界に知らせる役割を果たした「アレッジド・ギャラリー」の描き方だ。これは、「ローブロウ・アート」を取り上げるとき、避けることができない話題ではあるが、映画の焦点が拡散する要因になっていることは否めない。1992年に、この映画の監督でもあるアーロン・ローズによってニューヨークのロワー・イースト・サイド (Ludlow Street) に開かれたこのギャラリーについては、アーロン自身の編集による『Alleged Gallery: Young, Sleek and Full of Hell Book』に詳しいが、このギャラリーの活動は、この映画に登場する西海岸ベースのアーティストのサポートをはるかに越えている。そもそも、90年代のロワー・イーストサイドは、映画では『レント』でも描かれたように、西海岸のミッション・ディストリクトにおとらぬ(それ以上の)熱気を持ったエリアであるが、この映画では、両方がしっかりとは、描き分けられてはいない。映画をぼんやり見ていると、西海岸の「ミッション派」のアーティストたちがニューヨークに移住し、「アレッジド・ギャラリー」で仕事をするようになって、大成したかのような印象を受けかねない。インタヴューを見ていれば、西海岸でのインタヴューが多いのだが、試写のプレスの書き方では、映画のメインの舞台があたかもニューヨークであるかのような印象をあたえる。
◆「アレッジド」(alleged)というのは、「自称・・・」というような意味で、これを冠すると形容される語はうさんくさいものになる。「アレッジド・ギャラリー」とは、だから、「自称ギャラリー」であって、「ギャラリー」としてはちょっと・・・という自虐的な意味を含む。ちなみに、「allegedly」は、"you sent it allegedly on May 12th" と書くと、「あんたは5月12日に送ったといっているが、ホントかね」といった疑惑の意味が含まれ、そう言われた人は、どきっとしたり、怒ったりする。アーロン・ローズは、「ギャラリー」と称しても、「作品」を売買するギャラリーを開く気はまったくなかった。むしろ、彼は、パフォーマンス的なスペースを開いた。しかし、この映画では、なぜ彼がスケボー、グラフィティ、ストリート・カルチャーにこだわるアーティストを支援するようになったのか、なぜニューヨーク・ベースよりも、この映画に顔を出すマーク・ゴンザレス(プロのスケートボーダーでもあった)、バリー・マッギー(彼のはアディダスの靴のデザインでも有名になった)、マイク・ミルズ(映画『サムサッカー』も監督している)、エド・テンプルトン(彼もスケートボーダーだった)といった西海岸ベースのアーティストに関心を持ったのかは、詳しくは描かない。つまり、このギャラリーとローズに関しても中途半端なのだ。
◆単純には、アーロンが西海岸の出身であるから、そのコネクションで西海岸のアーティストを引っ張ったということだろうが、じゃあ、ギャラリーの場所がなぜロスやサンフランシスコではなかったのか? 彼がメディアアートなどに関心を持たないのはなぜなのか? そういうことも知りたかった。
◆いずれにしても、この映画は、アーロン・ローズの作品なのだから、彼自身がわかっていることはあまり立ち入って描く必要を感じなかったのかもしれない。その意味では、この映画も、まさに"Alleged Documentary"であり、彼の関心は、彼が親しくつきあったアーティストとの交流を記録しなおしたかったのかもしれない。
◆アーロンには、もともと、空間の「脱領域化」(de-territorization)ということに興味があるのかもしれない。この映画は、彼がプロデュースし、世界を巡回している「Beautiful Losers: Contemporary Art & Street Culture」という展示イヴェントから来ているが、カリフォルニアのものをニューヨークに「脱領域化」し、さらにニューヨークのものを東京を含む世界の各地に移動し、「脱領域化」するというぐあいに。そういえば、スケートボーディングというのも、ある種の「脱領域化」の行為ではありますな。
◆「fluxネット」にアーロンへの面白いインタヴューがある。
(アスミック・エース試写室者ファントム・フィルムル)



2008-05-01

●クライマーズ・ハイ (Climber's High/2008/Harada Masato)(原田眞人)


◆混む。手順の悪い導入。おそらく、宣伝上最も有効と思われる人々を先に入れるため。30分まえに行ったが、整理券をわたされ、ロビーで15分ぐらい待たされる。整理券と同時にプレスも渡してしまえば、入場の際、もたつかないと思うが、それをしない。
◆原田眞人の作品なのと、試写会場が不便(わたしには)なので、敬遠してきた。が、先日、Nさんにすすめられて気をとりなおす。しかし、予想はあまりはずれなかった。とにかく、テーマが分散している。1985年8月12日に起こった群馬県御巣鷹山での日航機墜落事故。そのときの、群馬県にあるという設定の新聞社の取材と報道のエピソードをいかにもの「新聞記者」もの風に積み上げる一方、そのシーンと並行して2007年夏に設定された(この映画の主人公・悠木和雅記者――堤真一―が友人安西の遺児――小澤征悦―と谷川岳の一ノ倉沢の絶壁をロッククライミングする)別のシーンを並行描写するのだが、どこにポイントがあるのかがわからない(わたしだけ?)のだ。
◆メインは、飛行機事故を報道する記者たちの話。地方紙と中央紙との競争を描く部分は面白い。社内には、かつて連合赤軍事件の取材で名を上げた猛者(もさ)連が何人もいる。それらを遠藤憲一と蛍雪次郎が臭く演じる。会社は、山崎努のワンマン会社で、「反権力」風のポーズを取っているが、女性秘書にはセクハラのしっぱなしという困った男。堤も連赤の取材で名を上げた一人だが、遠藤や蛍とは仲が悪い。
◆例によって、遠藤や蛍は、困った「団塊世代」を代表しており、「記事は体で書け」といった精神主義を部下に強制し、無線電話(ケータイはまだなかった)も導入しない。堤は、彼らとは意見がちがうらしいが、映画で見る対立は、ドラマに緊迫感を作るための仕掛けにすぎない感じがする。そうした対立のなかで「若い」社員の苦悩や苛立ちがあったりし、中立的にたちまう者、堤の気風に惹かれて体を張る者・・・が登場する。
◆しかし、145分もの長い作品を見終わって、結局、これは何なのだという印象が残る。墜落の原因の公式発表と事実とのずれといった問題(国家的陰謀・隠蔽?)も示唆しているが、中途半端に終わる。ワンマン社長の横暴も、最後には、「あれもありか」といった感じで流れる。とにかく、詰め込みすぎというか、ポイントをはっきりさせろと言いたくなる。高嶋は、営業の過労で、あっさり死んでしまうが、このあたりは、この時代の「社畜」状態に疑問を提起しているのか、何なのか。堤は、団塊世代のパターンで、仕事のために家庭や家族を犠牲にしたという罪の意識をいだいているらしい。そういうパターンは、そろそろ願い下げにしてほしいが、さんざん新聞社のなかでの怒鳴りあいを聞かされたすえに、堤が、長い間会っていない息子に会うためにオーストラリアに行く(しかもちゃんと現地を映してしまう)のも、よくわからない。別に、そんなことはいいじゃないか。
◆堤の母が戦後、米軍兵士相手の「パンパン」だったという過去、自分の妻・息子との確執、自分を育てた新聞社主(山崎努)との屈折した関係、山登りの仲間で同じ社の営業部にいた友人安西(高嶋政宏)との友情、盛り沢山だが、これらと取材シーンとが発展的な共鳴効果を起こさない。
◆せりふがへたに聴こえるのは、俳優のせいではない。「心ここにあらず」の発声法は、何度も批判したが、これも歌舞伎の発声法と同じように、一つの型だと認めなければならないのかもしれない。しかし、立ち話などのシーンで状況を長々と説明してしまうというような安易な方法が使われているとことを見ると、脚本がよくないと言わざるをえない。堤と尾野真千子とが喫茶店に行き、「何にする?」と訊かれた尾野が、「大丈夫です」と言うが、こういう言い方はない。時代を1985年に限定したドラマのセリフなら、「けっこうです」と言うべきだ。いらないことを「大丈夫です」と言うのは、この5年ぐらいのあいだに(特に女の子のあいだで)普及した今風の言い方である。
(ギャガ試写室/東映/ギャガ・コミュニケーションズ)




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