粉川哲夫の【シネマノート】 リンク・転載・引用・剽窃は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete.
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今月気になる作品
● GAMER (ゲームの内と外にとどまらず、位相の異なる現実をシームレスに移動する映像は見事。メディア依存症的世界のすぐれたアプローチでもある)。 ● 武士の家計簿 (←リンク参照)。 ● 白いリボン (コメント)。 ● クレアモントホテル (←リンク参照)。 ● ロビンフッド (←リンク参照)。 ● レバノン (タンクの照準から見た戦闘シーンがユニークで新しい)。 ● 人生万歳! (ウディ・アレンのそっくりさんに会ったようで気持ちが悪かった)。 ● バーレスク (←リンク参照)。 ● 最後の忠臣蔵 (←リンク参照)。 ● ゴダール・ソシアリスム (←リンク参照)。 ● シチリア!シチリア! (←リンク参照)。 ● キック・アス (←リンク参照)。 ● 死なない子供、荒川修作 (以前、ニューヨークのアップステイトで開かれたフルクサス回顧展で荒川のオナラパフォーマンスを見た。「日本」の枠には収まらないアーティストだった)。 ● シュレック フォーエバー (←準備中)。 ● きみがくれた未来 (←準備中)。 ● エリックを探して (コメント)。 ● デザートフラワー (←準備中)。
今月のノート
ランナウェイズ トスカーナの贋作 バーレスク お家をさがそう 完全なる報復
2010-12-15
●完全なる報復 (Law Abiding Citizen/2009/F. Gary Gray)(F・ゲイリー・グレイ)
◆妻と娘を殺された夫クライド(ジェラルド・バトラー)が加害者に「復讐」する手口の念入りな描写が見どころ。加害者の一人は死刑になるが、ただの死刑では済ませない。そんなことが出来るのかどうかはわからないが、映画は映画の「内的論理」で理解しなければならない。その内的論理という点では、申し分ない。
◆クライドは、当局が儀式的に行う死刑にも満足できないのだから、主犯が、検事ニック(ジェイミー・フォックス)の点数かせぎ的な妥協(証拠が弱いので、有罪にできなくなるのを恐れた司法取引)によって軽い刑を受けると、その「復讐」はエスカレートする。それは、「現実」にやられたら「許しがたく残酷」だが、映画的には「劇的」で「美しく」すらある。拘置所か刑務所に入れられたクライドが同房の男を殺す手口も同様である。
◆結末は、「悪」を肯定したままにはしないハリウッド的定石を踏むが、かなりの場面は、「善悪の彼岸」にあるべき映画的「内的論理」にしたがって撮られ、最後の場面を除くと、此岸の「善悪」の偏見(?)にとらわれない論理展開が進む。簡単に言えば、ゲーム感覚で殺しが進むのである。「これは報復」でも「復讐」でもないというクライドの言は、文字通りに受け取らなければならない。映画内の論理展開として見るべきだ。が、言語もわたしたちの意識も、「現実」と映画世界とのあいだを揺れ動くから、言語表現としては、まだるっこしくなる。
◆こういう展開には、最後で必ず「ハリウッド的良心」が登場して、無理やりのバランスが取られるが、それは大抵、映画を台無しにしてしまう。この作品も、その例外ではない。もし、商売のことを考えるのなら、この作品は、最後をあいまいにして、続編の可能性をもたせるべきだった。
◆ニックの「司法取引」がクライドによる殺人を加速させるのだが、映画はその責任をニックには着せない。このへんが、意図的にそうしているのか、ジェイミー・フォックスのあいまいな演技によってそうなったのかはわからない。しかし、脚本がそうなっているのだろう。映画で見るかぎり、ニックは、訴訟成績を上げることばかり考えているエリート検事には見えない。が、クライドにくらべれば、「普通」の市民感覚の持主なのだろう。それが、彼の家庭での態度と、最初の方と最後に出てくる娘のチェロ演奏のシーンで表現されている。しかし、クライドの「普通」ではないシーンをさんざん見てしまった観客としては、クライドの「平和」な家庭のシーンを見て安心するよりも、むしろ、違和感をいだくかもしれない。それは、監督がひそかにすべりこませた法批判である。ちなにみ、原題は、「市民であることにとどまる(耐えしのぶ)法律」。
◆クライドがテロ対策技術をマスターし、それで警察を翻弄するというのは、いまのアメリカにとっては象徴的な出来事である。国家が戦争をし、テロを実行しており、市民が法によって守られないとき、「市民」が武器を取って自ら解決をはかるというのは、アメリカ憲法で保証されていることだからである。
◆冒頭に、バトラーが、基盤の半田付けをやっているシーンがある。つまり彼が演じるクライドは、電子工作に強く、電子装置を組み立てる能力があるという暗示。この蓄積のうえに、(家族が殺される場面から「16年後」の設定になるので)16年間、政府機関でテロ対策技術をマスターしたという設定だから、やがて彼が電子技術を縦横に使って相手を翻弄するのは、納得がいくというわけ。
(ブロードメディア・スタジオ配給)
2010-12-14
●お家をさがそう (Away We Go/2009/Sam Mendes)(サム・メンデス)
◆冒頭すぐ、ベッドに寝ているヴェローナ(マーヤ・ルドルフ)の姿が映り、チュッチュッ~という何かを吸う音が聞える(日本の試写ではなぜかブーンというハム音が入って聞えなかった?!)。すぐにそれは、彼女のシーツの下でバート(ジョン・クラシンスキー)がフェラチオをしている音であることがわかるのだが、この感じだとこの二人にはカップルとしての生活上、何の問題もないようにみえる。が、バートのとっての悩みは、彼女が、いっしょに住むことには同意しながら、結婚してくれないことだった。
ある意味でこの映画は、家族形態は保っているが結婚しない、家(ホーム)がないカップルの話である。
二人は、子供とホームをはぐくも場所を探している。わたしがかつて言った「ネットのなかにしかホームがなくなった〈ホームレス〉の時代」に、はたして彼らが求める場所はあるのか?
◆二人が、アリゾナ州から始まって、フロリダ州まで事実上のアメリカ大陸横断をする車と列車(飛行機には妊娠6ヶ月だというので断られる)の旅をすることになったのは、バートの両親(ジェフ・ダニエルズ+キャサリン・オハラ)の家を訪ねたことだった。もともと、車でさほど遠くはないコロラドに住み着いたのも、両親を気遣ってのことだった。しかし、いずれ生まれる(ヴェローナは妊娠6ヶ月孫を親の家で生み、孫の顔を見せてやろうと思った二人の思惑は、完全にはずれる。父親と母親は、勝手な奴で、「孫の顔が見たい」とか言ったせりふはどこへやら、ベルギーに移住し、しかも家を売ってしまうという。親の家を当てにしていた二人は、かくして、定住の場所を探して旅することになるのである。
◆この映画は、「夫婦の危機」とか、「定住の場所を求めて」とかいった深刻なムードよりも、のほほんとしたバート、どこか抜けている感じのヴェローナの組合せが示唆するように、喜劇的なトーンでまとめられている。旅の途中では、深刻な相手にも出会うが、それもコミカルなタッチで描写される。そこには、二人の性格に見合い、シニカルに突っ放すよりも、新鮮な驚きとしての印象がある。
◆アリゾナのフェニックスで会うヴェローナのかつての上司リリー(アリソン・ジャネイがアクの強い演技を見せる)は、何でもずばずば言う猛烈な(ある意味ではやり手の)女。子供のまえでもどぎついことをズバズバ言う。夫(ジム・ガフィガン)は、いつも文句を溜め込んだような態度をしている。こういう夫婦もいるという感じで描かれる。
◆マディソンのウィスコンシン大学で教えているL.N.(マギー・ギレンホール)[「L.N.]とは、速く発音すれば「エレン」となる。つまりEllenの略]は、バートの幼馴染だが、子供と夫(ジョシュ・ハミルトン)とともに、東洋趣味とエコロジーがないまぜになったニューエイジ・カルチャーにかぶれており、バートもヴェローナも辟易(へきえき)する。こういう連中が、家で靴を脱ぐ生活をしているのはパターンで、その感じがよく描かれている。
◆このL.N.は、「名前は忘れたが」と言って引用する「女は女に生まれるのではなくて、女になるのだ」は、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』の文章。大学で教えているのに、原典のタイトルも思い出せない。この言葉は、本文とは別に一人歩きをしてしまったから、彼女は、その本を読んだことはないのだろう。そんな感じの女ををマギー・ギレンホールが熱演して、笑える。
◆カナダのモントリオールまで足を延ばしたのは、ここに二人の大学時代のクラスメート、トム(クリス・メッシーナ)とマンチ(メラニー・リンスキー)が住んでいるからだった。訪ねた彼らの家は、絵に描いたような暖かさに満たされているように見えた。みんなで食事に行ったとき、レストランでトムが、こんな「パフォーマンス」を披露する――ホットケーキのうえに角砂糖を乗せ、家族のイメージ、そのまわりに楊枝を刺して柱を作り、そのうえにコースターをのせる。が、トムは、言う、「これは、ホームじゃない、ファミリーじゃなんいだ」と。そして、「すべてをいっしょにするものがなけりゃ」と言い、そのうえから、シロップをかける。「これこそが愛なんだ」と。バートとヴェローナは感動する。見ているほうも、「そうなんだ」と一瞬思う。とってつけた感じだと、「こいつ、本気かねぇ?」という感じがするが、アットホームな家庭を見せられ、夫婦のあいだにも信頼と愛がみなぎっているように見えるので、それが、「パフォーマンス」にすぎないとは思わない。が、ここにも実は「ホーム」はないことがわかる。(わたしの経験でも、訪ねた先で「ほのぼの」として「いい感じ」の家庭というのは、実は訳ありだったりすることが多かった)。
◆恋人でも夫婦でも、関係がうまくなくなったとき、あっさり別れてしまうのも一法ではあるが、そうでなく改善をはかりたいのなら、たがいの「心構え」を変えようとするよりも、部屋の模様替えをしたり引越したりするほうが、効果が期待できる。しかし、いまの時代、「ホーム」(固定した「拠点」)に安楽の地を求めようとしても、無理である。最後のシーンで、バートとヴェローナは、ようやくフロリダのリースバーグの海岸沿いの家に「ホーム」を見つけたように見えるが、それが所詮はテンポラリーな場所であることは明らかだ。海に向かったドアの敷居に二人で腰を下ろし、バートが「この場所はぼくらにはパーフェクトだ」と言うが、そこには、いっときの安心感と次に来るだろうことへの不安が感じられ、とても「パーフェクト」には見えない。だからヴェローナは答えず、涙を流す。さらにバートが「そう思わない?」と尋ねると、「そうだといいわ」(I hope so)と答え、半泣きと半笑いの顔で、「I really fucking hope so」(じゃなきゃしょうがないよね)と言うのである。このシーンは、複雑な感情が込められていてなかなかいい。バックでは、アレクシ・マードックの「Wait」が流れる。「ぼくがつまずいたら・・・待って欲しい・・・待って欲しい・・」。
(フェイス・トゥ・フェイス配給)
2010-12-09
●バーレスク (Burlesque/2010/Steve Antin)(スティーヴン・アンティン)
◆この映画は、一見バーレスクを上っ面だけ利用しているように見えながら、意外にその歴史を押さえている。「バーレスク」(burlesque)というと、いまでは性的露出のきわどさを売る「ストリップ」のことであるが、歴史的には、19世紀のヨーロッパで上流階級の「上品」でウィットに富む娯楽(ヴァラエティ・ショウ―日本のテレビのそれとは異なる)として花開いた。それがただちに北米に移植されたが、1920年代以後「ストリップ・ショウ」的な「俗悪さ」を帯びるようになる。だから、いまでも、「バーレスク」といえば、おおむねその種の安い見世物を意味する。ところが、この映画は、ロサンゼルスのハリウッドの一角に、「バーレスク・ラウンジ」という看板をかかげ、「古典的」なバーレスクを見せている店があるという設定なのである。
◆1976年だったか、ニューヨークで演劇の研究をしていたわたしは、知り合いと雑談していたとき、「バーレスクのことを調べたいな」と言った。するのその人は、「バーレスクって、ストリップだよ」とやや呆れ顔で言うのだった。わたしは、「バーレスク」をヨーロッパのヴァラエティ・ショウのイメージでとらえていたので、意外な感じがした。19世紀ヨーロッパの「バーレスク」は、北米に流れる半世紀あまりのあいだに、一方は、ミュージカル、他方はストリップ・ショウに分岐したらしい。その意味で、この映画は、「バーレスク」を「源流」の方に遡及させる効果がある。この映画を見て、まさにアリのように、「バーレスク」の「原型」に興味を持つ人が出てくるかもしれない。
◆クリスティーナ・アギレラが演じるアリ・ローズは、アイオワのど田舎でウエイトレスをやりながら、シンガー/ダンサーになりたいとう夢を抱いているが、店主のもの言いに頭に来たのをきっかけに、片道切符を買ってハリウッドに出てくる。が、新聞片手にダンスの仕事を探し回っても、うまい仕事はない。このへんは、よくある話だ。そのときたまたま目に入ったのが、「バーレスク・ラウンジ」の看板とその店で働く女の姿で、アリは、予感に惹かれて店内に入る。ゲイっぽいバーテン(カム・ジガンデー)は、けっこう親切にしてくれて、ステージの出しものを見物することになる。が、それが予感以上にすごく、彼女はここで絶対働きたいと思う。これが、この映画の導入部である。
◆「バーレスク・ラウンジ」でアリが観たのは、ニッキ(クリスティン・ベル)をはじめとするダンサーが踊り、経営者のニッキ(シェール)が歌うステージだったが、もし、ここが「普通」のバーレスクつまうりはストリップ劇場であったら、アリがこういう舞台に接することはできなかっただろう。この映画と一部設定が似ている『ショーガール』 (Showgirls/1995/Paul Verhoeven) で、やはりアリと同様に田舎から野心を抱いて出てきたエリザベス・バークレーが、最初に仕事をするのは、「バーレスク」小屋であるが、そこは、ステージの女たちが性器丸見え(ただし日本版はボカシあり)のショウを見せ、客は紙幣を女たちの下着のあいだに挟む。しかし、「バーレスク・ラウンジ」は、そういうことはしていない。
◆この映画は、非常に「教育的」である。「バーレスク」というものについて教えてくれることもそうだが、「田舎娘」が街に出てきて、荒波にもまれながら成長していく「ビルドゥングス・ロマン」的な面があること、また、アリに親切にするバーテンダーでミュージシャンのジャック(カム・ジガンデー)も、最初はそっけなかったテス(シェール)も舞台主任のショーン(スタンリー・トゥッチ)も、みな、アリに思いやりのある言葉をかけたりする。逆にいえば、未熟な者や新参者に対して、経験者・上司・目上の者・年上の者などがどう対応すればよいかを教えてくれる。こういう「教育」効果は、もともとハリウッド映画の特質とスタイルであって、ハリウッド映画が「国民映画」であり、「国民教育」や「人生訓」の装置であることを典型的に見せている。
◆アリを演じるのクリスティーナ・アギレラのキャリアを知らない者はいないから、彼女が、田舎のアルバイト先のバーで、一人、ダンスの練習をし、歌い出すとき、こいつはちょっと「ルール違反」じゃないかと思う。アギレラの歌唱能力がずばり出ていて、こんな才能を持った「田舎娘」なら、わざわざ都会に単身出ていかなくても、どこかからスカウトの声がかかるだろうからである。同様に、ふだんはカラオケ方式をとっていた「バーレスク・クラブ」(歌うのは、ときたまのテス=シェールのみ)で、あるとき、エンジニアがいじわるをして、音楽を止めてしまったとき、アリがとっさに地声で歌い、みんなを驚かせるシーンもそうだ。その歌は、とても素人の歌ではないからである。が、これが映画であり、ハリウッド映画の「文法」である。
◆やがてアリの彼氏になる、「ゲイ」っぽい(それは仕事上の戦略だという)ジャックとの関係も、非常に「教育的」である。たぶん、いまのアメリカが、モラル的にかつてとくらべてかなり保守的になっているのだろう。ここでは、アリが、成金的な事業家のマーカス(エリック・デイン)の執拗な誘いに揺れて、彼と夜を共にしたらしい暗示はあるが、二人のベッドシーンを映したりはしない。それは、恋人になるジャックとの場合もそうで、最後の最後にジャックがストリップのまねをして裸になるぐらいしか、セックスを示唆するシーンは少ない。これならば、「バーレスク」という名にもかかわらず、R指定になることは絶対にないし、子供の観客も動員できる。
◆テスは、節操のない元夫ヴィンス(ピーター・ギャラガー)――ゲイに転向したらしい――とその恋人のマーカスの計略で、クラブを乗っ取られそうになる。そもそもこのクラブは、もうかっておらず、青息吐息なのだが、テスは、金儲けのためにやっているのではないという。「金よりも大切なものがある」というメッセージは、別に新しいものではないが、この映画の場合、その「教育」効果を考えると、「フリー」(クリス・アンダーソン『フリー 〈無料〉からお金を生み出す新戦略』、NHK出版)の「ビット経済」を射程に入れていると解釈してもよい。アメリカは、よきにつけあしきにつけ、「新しい」ことがすぐに国家的規模で展開するところだが、「フリー」の場合、かつての非常にモラリッシュな「施し(ほどこし)」や「奉仕」の伝統がよみがえり、「ビット経済」と結びついて、強力な流れになる気配がある。日本にも、かつては、タダ働きをよしとする文化があったが、それはいま確実に失われた。そのことをアメリカに教えられる日はそう遠くはないのではないか?
◆シェールを映画で見るのは久しぶりだ。彼女の「能面」のような表情が、いささか神秘的な貫禄を感じさせたかつてのシェールだが、この映画では、すっかり、「人情味」のある「ママ」役を演じていて、昔のファンには淋しい感じがする。映画のなかで「Welcome to Burlesque」と「You Haven't Seen The Last of Me」の2曲を歌うが、クリスティーナ・アギレラを立てつためにあつかいは抑え気味になっているのはいたしかたあるまい。どちらもライブで一発で決めたとか。
◆「古典的」な投資家(つまり金儲けのことしか考えない)のマーカスを演じるエリック・デインは、どこかデカプリオに似ている。
◆クスティン・ベルは、アリの進出を恐れ、ひがむ女を典型的に演じる。「典型的」という意味は、「こういうのよくいるよな」と思わせるということだ。ところで、彼女は、もともとアルコール依存があるのだが、その描写も適度にマイルドにされており、R指定になるのを避けている。このごろのアメリカは、リアルな表現は、みんなR指定にされてしまうようなご時勢である。
◆ただし、抑圧の強い時代には、その力が微妙なエロティシズム(日本語の「エロ」とは違う)を生み出す。この映画のも、ダンサーたちの肢体や動きを撮る撮り方は、ある種の抑制のなかで、そういうエロティシズム(日本語では「セクシャル」なという言い方になるか?)をうまく出している。照明も、全体としてはいいと言える。 (ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)
2010-12-03
●トスカーナの贋作 (Copie conforme/2010/Abbas Kiarostami)(アッバス・キアロスタミ)
◆映画は、フィレンツェから100キロぐらい離れたアレッツォという小都市でイギリスの作家のジェイムズ・ミラー(ウィリアム・シメル)が新しく出た自著の宣伝講演をする会場シーンから始まる。本人はなかなか登場せず、ゲスト講師のいないテーブルがながながと映され、場内の声と音が聞える。やっとあらわれたジェイムズは、ある意味ではふてぶてしく、ある意味ではドジな男に見え、その描き方は最初から両義的である。講演中彼のケータイが鳴ってしまうと、講演を中断して電話に応えるのである。そのときの感じは、「嫌な奴」でも、まるっきり「ドジ」な奴というわけではなく、観客も「あっけにとれれている」ようでもあり、面白がっているようでもある。この両義性こそが、この映画の基本にあるものだと思う。
◆やがて、この会場にジュリエット・ビノシュがあらわれ、前の席に座る。映画ではただ「彼女」という役柄になっている。「彼女」は迷わず、この講演を企画したらしい男の隣に座る。ということは、「彼女」とジェイムズとの関係が赤の他人同士だとは思えない。しかし、この映画の「解説」のなかには、「彼女」がジェイムズのファンで、「彼女」がこの機会に彼に接近し、この映画が描く奇妙な「ラブ・ストーリー」が展開するかのような解釈をしているものがる。また、ふたりは、夫婦でありながら、他人同士を装い、ある種のゲームを披露するというふうに解釈したものもある。
◆しかし、最初の解釈では、後半の展開が矛盾をきたす。双方が知り合いでなければ知らないことをたくさん口にするからだ。また、もうひとつの解釈は、「彼女」の「息子」(アンジェロ・バルバガッロ)が、「彼女」に向かって「あの男に夢中になってる」という台詞を吐くのが矛盾する。むろん、その「ゲーム」を「息子」も一緒に楽しんでいると取れば、矛盾がなくなるが、それは少し無理である。
◆わたしの解釈では、ジェイムズと「彼女」とは、15年来の愛人関係にあり、たまたまこの映画は、二人があたかも見知らぬ者同士であるかのように「ゲーム」をするのだと思う。その出逢いは、ジェイムズがイギリスに、「彼女」がイタリアにいるという形で長いあいだ引き離されたのちの再会でもいいし、もっとひんぱんに会っているという設定でもいい。その鍵は、「彼女」が、ジェイムズに彼の新刊本のサインをもらうシーンの彼女の台詞にある。その一冊を「息子」のためにサインしてもらうのだが、「彼女」は、ジェイムズが息子の名をフルネームでサインしなかったことを軽くとがめるのだ。つまり、ジェイムズにとって「息子」は、他人ではないということであり、ひょっとすると彼の子供であるかもしれない。その際、「彼女」はその「息子」を連れて他の男と結婚したのかもしれないし、結婚した相手の子供であるかもしれない。そういう両義性をつねにはらんでいるのがこの映画の面白さである。
◆両義性という点で、ジュリエット・ビノシュは、ふと涙を潤ませるとか、複数の意味に取れる微妙な演技を見事に見せる。ジュリエット・ビノシュというと、わたしは、レオス・カラックスの『ポンヌフの恋』(Les amants du Pont-Neuf/1991)のミッシェルのイメージが強いのだが、それから20年ちかくたち、彼女は大女優になった。が、この映画のあるシーンで彼女が高らかに笑うとき、『ポンヌフの恋』のときと全く同じ笑いをしているのが面白かった。
◆ジェイムズが、美術作品の贋作(がんさく)のリアリティを主張する(贋物が「真実」に見えるのならば、それは「贋物」ではないのではないか?)のは、一つのアレゴリーである。この映画の二人の関係に関しても、「夫婦」関係がニセモノかホンモノかが問われている。ただし、いまの時代―つまり電子的な複製技術の時代には、ニセモノかホンモノかという議論、ひいては夫婦であるかどうかという問題は、どうでもいいのではないか?
◆すでにこういう「認識論」的問題は、1950年代後半から60年代に、エドワード・オールビーの演劇(『動物園物語』や『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』)などでさんざんあつかわれたことだ。彼の世界では、最初は「演技」だと言い、周囲もそう思っているが、その果てにそういう距離を無効にする深刻な事件(たいてい死がからむ)が起こり、その「虚構性」が「現実」に直面するのだった。サルトルも、『嘔吐』のような小説では、そうした虚構主義を共有していた。だから、60年代の作家たちは、いかにそうしたレベルを越えるかがチャレンジとなり、たとえばウジェーヌ・イオネスコのように、そういう問題はとっくに乗り越えていた作家に関心が高まるのだった。シュールレアリズムの再考がなされたりしたのも、こういうコンテキストにおいてである。映画の世界では、ゴダールもアントニオーニなども、この「認識論」から「存在論」への移行過程をテーマにしていた。その意味では、キアロスタミの姿勢は、古いともいえなくもないわけだが、イランというコンテキストを背負っている彼としては、どうしてもここを押さえてみたかったのではないか?
◆ただし、50年代後半から60年代の演劇や映画や小説が虚構性を問題にしたとき、この映画のような多言語空間は出てはこなかったように思う。ウジェーヌ・イオネスコの有名な芝居『授業』(1954年)のなかで「教授」は、<「イタリア」という言葉は、フランス語では「フランス」です。・・・そして東洋語で「フランス」は「東洋」だ>と言う。これは、いみじくも多言語を否定する当時のフランスの状況を示唆している。ちなみに、イオネスコは、ルーマニアからの移民である。
◆キアロスタミのこの映画の世界を単なる「認識論」的虚構主義の作品とみなすことはできない。ここで問われている「ニセモノ/ホンモノ」は、多言語をしゃべる人間にとって、どの言葉が「ホンモノ」なのかというような問いと関連している。通常、「母語」(マザータン)が「ホンモノ」で第2、第3言語が「ニセモノ」ということになるが、そんなことは言えないだろうというのが、この映画の根底にある。
◆ジョージ・スタイナーは、その自伝のなかで、「典型的なウィーン生まれの女性だった母は、ある言語で何かを言い始めると終わりはいつも別の言語になった。・・・ダイニングルームや居間では英語とフランス語とドイツ語が三つ巴だった」、「私には最初に覚えた母語についての思い出がない」と書いている(工藤政司訳、みすず書房)。この映画の登場人物は、まさにスタイナーのような言語状況にある。スタイナーは、多言語間の環境での母語の優位性よりも、その「翻訳的」なズレの創造性を評価する。ある言語が他の言語に「正しく」翻訳されないというのはまちがいであり、むしろ、翻訳によってズレが生ずることが言語の創造性なのだと。
(ユーロスペース配給)
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