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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

ノーウェアボーイ ひとりぼっちのあいつ (←リンク参照)。   ● 100歳の少年と12通の手紙 (←リンク参照)。   ● リトル・ランボーズ (準備中)。   ● 裁判長!ここは懲役4年でどうすか (←リンク参照)。   ● リミット (準備中)。   ● スプリング・フィーバー (中国の現状からすれば、「大胆」な表現といえるが、「挑発」が見え透いている)。   ● マチェーテ (準備中)。   ● ラスト・ソルジャー (「里」→「国」→「帝国」の動きには反対なのだろうが、ジャッキーの熱意の焦点があいまい)。 ● ハーブ&ドロシー アートの森の小さな巨人 (準備中)。   ● クレイジーズ (準備中)。   ● ハリー・ポッターと死の秘宝 Part1 (ハリー、ロン、ハーマイオニーの「三角関係」の屈折した描き方がスキゾ分析的でなかなか面白い)。   ● 黒く濁る村 "苔" (←リンク参照)。   ● クリスマス・ストーリー (←リンク参照)。   ● レオニー (見過ごしたが、イサム・ノグチの母親の話だから是非劇場で見るつもり)。   ● アメリア 永遠の翼 (←リンク参照)。   ● リッキー (←リンク参照)。   ● デイブレイカー (←リンク参照)。  


レヴュー・インデックス:  (クリック)  

クレアモントホテル   ヤコブへの手紙   しあわせの雨傘   ハリー・ポッターと死の秘宝 PART1   ヒアフター   デュー・デート   再会の食卓   イリュージョニスト   フィルム・ソシアリスム  


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●デュー・デート (Due Date/2010/Todd Phillips)(トッド・フィリップス)  

◆前作『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』と同様に、ある種70年代”ドラッグノリ”が基本にある。ドラッグでは苦い経験を積んでいるロバート・ダウニー・Jr.がこの映画では”シラフ”で、お相手のザック・ガリフィアナキスのほうがドラッグ漬けの雰囲気なのも笑わせる。自分のではない手荷物にマリワナパイプが入っていて、係官からとがめられる(ただし、危険物のチェックをする役目のこの係官には、薬物を拘束する役目はない)と、ロバート・ダウニー・Jrが、「わたしは生まれてこのかた薬物はやったことがありません」と真顔で言うのも、笑わせる。
◆しかし、全体として、イーサンという自己中の男を演じるザック・ガリフィアナキスのパターンが、『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』と変わらないので、ロバート・ダウニー・Jr. の役柄も生きない。ロバート・ダウニー・Jr. が演じるピーター・ハイマンは、プライドの高い建築家で、妻が出産まじかで、出張中のアトランタからロスに帰ろうとしているという設定。ロバート・ダウニー・Jr. は、そういう状態で神経がイライラしている感じをうまく出しているが、基本的に意志の強よそうなキャラなので、ザック・ガリフィアナキスが演じるイーサンのような困った人物によってきりきり舞いさせられるとしても、その困り度が深刻に映らない。どうせ、ボカっと殴るかして終わりにしてしまうのではないか、あるいは知的に解決してしまうのではないかという予想をいだかせるのだ。が、実際にはそうはならないのだから、ザック・ガリフィアナキスの相手としては、ロバート・ダウニー・Jr. よりも、「弱さ」を演じられる俳優のほうがよかった。
◆ピーターにはいやいやの道中、イーサンは、彼をドラッグディーラの家に連れて行く。ハイディというディーラーを演じているのがジュリエット・ルイス。おそらくこの映画で一番うまい演技を見せるのは彼女かもしれない。その身体的存在感そのままに、リリティのある演技をしている。ちなみに、彼女は、10代から20代にかけてドラッグにはまったことがある。現在、サイエントロジーの教団員だが、「22歳のとき、サイエントロジーのリハリビ・プログラムのおかげでドラッグをやめることができた」と語っている
(ワーナー・ブラザース映画配給)


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●ヒアフター (Hereafter/2010/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)  

◆最下段の「追記」で、それ以前に書かれた以下の行の意味も、ニュアンスが変わらざるをえない。この映画に対するいまのわたしの評価は、非常に高い。
◆この映画は「死後の世界」や「死」についての深い考えを提示しているわけではない。といって、こけおどしやはったりでそれらを取り扱っているわけでもない。「死後の世界」や「死」について何か深い考えを期待したら、裏切られるだろう。霊能者のジョージ(マット・デイモン)が相手の両手を握ると、電気に触れたようなショックとともに、スクリーンに彼が見る死者(手を握った相手の近親者など)の姿が映るというシーンは、すでにデイヴィッド・クロネンバーグが『デッドゾーン』(The Dead Zone /1983) でクリストファー・ウォーケンにやらせた身ぶりであり手口である。この映画は、むしろ、「死後の世界」や「死」について生者(しょうじゃ)が持っている観念を媒介にして構築したラブストーリーとして見たほうが面白いし、イーストウッドのチャレンジのディテールに接近できる。
◆ある意味でイーストウッドは、ラブストーリーしか描いてこなかったともいえる。その媒介を彼は暴力や戦争や犯罪に求める。今回彼は、その媒介を「観念的なもの」にした。ただし、大衆路線というかエンタテインメントというか、そういう路線を決して踏み外さないイーストウッドは、その「観念」を哲学や宗教の概念的な観念にではなく、幽霊や亡霊としてわれわれが知っている観念を選択する。うまいやり方である。
◆イーストウッドの映画では、つねに強者があらわれる。拳銃のあつかいが抜群である場合もあるし、指導能力が秀でているリーダーの場合もあるが、彼らは、「媒介者」として姿をあらわし、人と人とを結びつける。媒介者を登場させるイーストウッドのやり方の根には、彼のキリスト教的信仰があるかもしれない。近年、その媒介者は、腕っぷしの強いヒーロー的人物よりも、もっと非暴力的で観念の洞察に強い人物に傾斜してきている。この映画の霊能者のジョージは、まさにその典型だ。
◆ラブストーリーは、多くの場合、愛することの難しさを前提にする。この映画にイーストウッドが登場させる人物たちは、すべて、人を愛することへの困難に直面している。まあ、現実にそうでない人なんていないのだが、映画ではその部分を切り取って強調する。
◆パリからディレクターといっしょにインドネシアに仕事に来て、逢引をしているマリー(セシル・ドゥ・フランス)は、津波(ハワイのマウイ島で撮り、高度のCGI処理がなされているが、津波の規模は、2010年10月の「インドネシア・スマトラ沖津波」を思い出させる)に襲われ、臨死体験をする。その経験は、帰国してからの仕事にまで及び、まさに彼女の人生を変えてしまう。テレビの人気キャスターとしてその関心は「メジャー」路線だったのに、次第に「ニューエイジ」的な問題に関心を持ち、キャスターの座も降ろされてしまう。予定されていた本の企画もボツになる。
◆並行的に描かれるのは、ロンドンに住むマーカスは、双子の兄を交通事故で失い、そのショックから抜けられない。母親(リンゼイ・マーシャル)は薬物依存のため、二人で助けあって生きてきた。兄の死後、母は保護施設に入り、彼は里子に出される。嫌いではない母との別れの寂しい思いのなかでますます兄への思慕がつのる。兄の死は自分のせいだったという思いも捨てられない。兄と会いたいという思いは、やがてインターネット(やはりGoogleYouTube)の霊能者のサイトに導く。が、実際に会ってみた相手はみな彼を失望させた。しかし、最終的にジョージと会うことになるのは、予想のつくことだが、なかなかいい話に仕上がっている。
◆人を助ける側のジョージの方も、愛に満たされているわけではない。死者の霊に会うことはできるが、自分の心を伝える相手はいない。兄は、彼の超能力で商売をしようとしている。兄が連れてくる客の依頼で霊を読むのにうんざりしている。隠者のような生活をしている彼は、生活を変えようとして料理学校に入る。そこでペアを組むことになるのが、ブライス・ダラス・ハワードが演じるメラニー。このシーンが実にラブリーであり、ハワードの演技がすばらしい。ここでは、シェフの指導のもとに、トマトをきざんだり、料理の味見をしたりするのだが、メラニーが目隠しをし、ジョージがスプーンに少量の料理かソースを彼女の口にもっていくシーンが実に(英語的なな意味で)エロティック(インタヴューではそんな感じではないから、彼女は、中谷美紀のようなタイプの女優なのかもしれない)。目隠しをしてこれだけの演技が出来るハワードは凄い。しかし、この愛は実らない。メラニーがかかえる霊を読んでしまったために、彼女は彼のもとを去る(このへんはフランス映画的――イーストウッドはこの映画を「フランス映画」風に撮りたかったらしい)。
◆最後は、グランド・ホテル方式の3人の出会いだが、もともとラブストーリーなのだから、終わりがパターンだからといってこの映画の質を貶(おとし)めるわけではない。パターンで始まったのだから、パターンで終わればいい。その舞台となるジョージが観光で訪れるロンドンのチャールズ・ディケンズ博物館と、たまたまアレキサンドラ・パレスで開かれる設定のロンドン・ブックフェアー(そこにマリーの新著が並べられる)とは、よく考え抜かれたスタイリッシュな選択だ。
◆【追記/2011-02-11】先日、復刊された『ele-king』のために2010年公開映画の回顧を書いてくれと三田格からたのまれた。う~ん、星の数ほど公開された作品を短文で紹介も含めて書くのは難しいなと思いながら、ふと思いついたのが、「ひきこもり」という観点から見直してみることだった。で、それをいざやってみると、けっこうこのテーマを発見できる作品が多いのだった。ビフォとも大分まえからメールなどで意見交換してきた(最近、彼の『ノー・フューチャー』が翻訳された)が、「ひきこもり」現象というのは、日本独特の傾向ではない。それは、ポスト情報資本主義社会の気分であり、ライフスタイルの一つである。それが「病理」とみなされるのは、メインストリームの社会の諸条件がまだその動きに対応できていないからである。「ひきこもり」については、他所でも書いているので、くり返さないが、この『ヒアアフター』について最近『スポーツ報知』の「シネマ斬り」の短文を書かなければならなかったとき、この映画は、「死後」の世界などの映画であるよりも、むしろ、「ひきこもり」に対するクリント・イーストウッドのアプローチなのだなということに気づいた。
◆「ひきこもり」もいろいろだが、この映画の登場人物たちは、みなある意味での「ひきこもり」である。その直接の動機は、違うのだが、マリー(セシル・ドゥ・フランス)は津波の経験で、マーカスは兄の交通事故死で、そしてジョージ(マット・デイモン)は霊能という能力に気づいたことで、「普通」の世界から「ひきこもる」ことになる。わたしは、「ひきこもり」自体が不幸だとか危険だとか思うのはおかしいと思う。他人とつきあいたくなければ、それでもいいだろう。「ひきこもり」は、他人とのつきあいにおいてある種の「距離」が必要なのだが、それが出来ないために過度の孤立をしたり、「現実」を拒否したりする。彼や彼女らの不幸は、「ひきこもり」自体から来るのではなくて、「ひきこもり」に対する社会の一面的な対応の結果から生まれる。
◆『ヒアアフター』を「ひきこもり」という観点から見直すと、この映画は、「ひきこもり」を無理やり「ひきもどし」たりはしていないことに気づく。マリー、マーカス、ジョージの3人は、自分の意志で出会うのであり、その出会いがもたらす感動は、彼や彼女らの自発的な行動が、地理的には長大な距離(東南アジア[ロケはハワイ]、サンフランシスコ、ロンドン等)を飛び越え、かつ、計画や計算とは無縁のハプニング的偶然の帰結としてたがいに出会わせるにすぎない点である。なお、その媒介者として、スイスで独自のクリニックを開いているルソー博士(マルト・ケラー)の存在は重要で、この医者がどう描かれているかを検討する必要がある。
(ワーナー・ブラザース映画配給)


2010-11-11
●しあわせの雨傘 (Potiche/2010/François Ozon)(フランソワ・オゾン)  

◆フランソワ・オゾンの作品は、比較的よく見ている。シネマノートでも、『焼け石に水』(1999)、『8人の女たち』(2002)、『スミング・プール』(2003)、『ふたりの5つの分かれ路』(2004)、『ぼくを葬る』(2005)、『RICHY リッキ』を取り上げた。
◆だんだんエンターテインメント的な要素を増してきたが、基本のところでは、ジェンダーへの今流の意識や、底辺やアウトサイダーとまではいかないが、「庶民」の側に味方する姿勢は一貫している。
◆この映画の舞台は1977年の北フランスのとある町の「ブルジョワ」家庭。パリの社会的雰囲気から若干ズレている。1977年といえば、イタリアでは体制レベルでユーロコミュニズムが生まれ、もっとミクロなレベルでは過激なアウトノミア運動が起こっており、その影響はフランスにもあらわれた。ミシェル・フーコーは精力的に活動し、ガタリとドゥルーズも時代を射抜く新しい概念を提起しはじめていた。
◆といって、時代は思想で動くわけではない。思想は、時代の動きを捉えたり、先取りしてスケッチするだけだ。もっと物理的な動きが時代を決定する。一つは、工業化から脱工業化/サービス・情報化への動き。腕力や声の大きさよりも、知力が優先される時代への移行。当然、既存の工業は、転換を強いられる。スザンヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、雨傘製造会社の創業者の娘だが、仕事は彼女の夫ロベール(フィリップス・ルキーニ)が継ぎ、彼女は主婦の位置にとどまっている。すでに結婚30年がすぎた。夫は、浮気を繰り返し、会社の秘書ナディージュ(カラン[カリン]・ヴィアード)と出来ている。スザンヌは、それを許容している。「貞淑」な夫人然としている彼女にも過去がある。結婚してまもなく、トラック運転手で(いまでは市長の)ババン(ジェラール・ドパルデュー)と行きずりの浮気をしたことがある。父の会社の会計士とも寝たことがある。このへんは、70年代のフランス喜劇風なタッチで描かれる。ルキーニの「おとぼけ」演技ががとりわけいい。
◆1977年というと、フランスの女性の位置は相当変わってきたはずだが、この映画の夫の姿勢は、ジュリー・ロペス=クルヴァルの『隠された日記』で副次的に描かれた1950年代のそれに近い。彼は、妻を育児と家事に囲い込み、外に出そうとしない。会社の労組に対しても50年代以前の古い発想で臨み、反発を食らっている。が、それが、組合のストと、それに続く夫の急病で突如変わる。スザンヌが社長代理を務めることになったのだ。その結果は、会社を継ぐことには関心がなかった「芸術家肌」の息子ローラン(ジェレミー・レニエ)もデザイナーとして加わえ、スザンヌの改革は傾いていた会社の再建を果たす。要するに、産業構造の変化を受け入れ、旧態然とした商品を生産するのではなく、デザイン効果を取り入れた商品の生産、労働者の待遇改善をはじめる。
◆ストのとき、労働者が会社のトイレは「トルコ式」の古いままだという苦情を言う。トルコ式トイレというのは、フランスやイタリアには80年代にも残っていた。便器はなく、穴だけが空いている。水を流すと「床」に水があふれてきて、どうしようと思ったことがある。棒が立てかけてあったので、それで穴を押したら、水が引いた。マリアローザ・ダッラコスタに連れて行かれたパドバのレストランでの話である。
◆事実を描くというより、事実を誇張して、滑稽に描くスタイルだから、ある意味ではノスタルジックな映画である。スザンヌがババンと会ったときのシーンなどでときどき流れる音楽は、セルジオ・レオーネが『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』で使ったエンニオ・モリコーネのテーマ音楽にちょっと似ている。
◆ブルジョワジーの娘スザンヌには、「労働者/プロレタリアート」コンプレックスがあるらしい。最期のほうで、怒ったババンに置いてきぼりにされたスザンヌは、街道で車をヒッチハイクする。止まった車を運転するのは、「労働者」のにおいがムンムンしそうな男。それを演じるのが、『Ricky リッキー』で「夫」役を演じていたセルジ・ロペス。そのときのセザンヌの目つきが面白い。昔、ババンにやはり街道で初めて会ったときの記憶と重なって、欲情が高まっていくような感じ。
◆冒頭、カトリーヌ・ドヌーヴがジョギング(ちなみに、「ジョギング」がはやりはじめるのは、1970年代のニューヨークからだった)をしていて、鹿やウサギやリスを見かける。が、そのウサギは交尾している。フォランソワ・オズの作品には、あっけらかんとセックスするシーンを挿入するパターンがある。それが彼流の一つのユーモアになっている。『RICKY リッキー』でも、知り合った二人が早速トイレでセックスする。ただし、このスタイルは、いかにも70年代流で、いまでは古い印象をあたえるかもしれない。
◆この映画で、カトリーヌ・ドヌーヴは、最後に歌まで歌ってしまい、終始ノリノリである。見るまえ、この映画はジャック・ドゥミの『シェルブールの雨傘』を意識しているのかと思ったが、実際にはそれほどではない。『シェルブールの雨傘』では「泣き節」に終始したドヌーヴも、ここでは晴れやかに「人生肯定」の歌(C'est Bon La Vie)を歌う。
◆『シェルブールの雨傘』は、アルジェリア戦争に出征した男と彼を待てなかった女との悲恋の物語であり、これでもかこれでもかと強まるメロドラマの背後には強烈な反戦意識がみなぎっていた。その最終場面は、1963年となっていた。『しあわせの雨傘』の最終シーンでドヌーブが歌う「C'est Bon La Vie」は、ナナ・ムスクーリの1967年のヒットだと思う。当時、「人生はすばらしい」とは、皮肉でもあったが、それから10年以上もたつと、とりわけ女性にとっては、皮肉の要素は薄れただろう。が、70~80年代には元気一杯だったフェミニズムも一回転したいま、女性たちも、単純に「セ・ボン・ラ・ヴィ」とは言ってはいられない。
(ギャガ配給)


2010-11-09
●クレアモントホテル (Mrs Palfrey at The Claremont/2005/Dan Ireland)(ダン・アイアランド)  

◆この映画は、ロンドンに住む作家志望の若者ルードヴィック(ルパート・フレンド)が、タイプライターで原稿を書くシーンから始まる。つまり、すべてはこのルードヴィックの視点で描かれる。しかし、スクリーンに映し出される「主人公」パルフリー夫人(ジョーン・ブロウライト)は、この若者のこのロマンティックなイメージとは若干齟齬(そご)がある。少なくともわたしは、この作者(ルードヴィック)に同化してパルフリー夫人をルードヴィックのように愛する気にはなれないのだ。一体パルフリー夫人のどこに魅力があるというのだろうか? ジョーン・ブロウライトは、長い芸暦の達者な役者であり、パルフリー夫人を破綻なく演じている。おそらく、彼女が演じるパルフリー夫人はまさにわたしが受け取るような人物として演じられているのだろう。つまり、ルードヴィックも、本来なら決して愛を感じなかったはずの相手なのである。それが、不思議な展開を見せる――まさに、そこがこの映画の見せ場なのだろう。
◆二人のあいだに生まれるのは、単に年令をこえた男女愛ではない。が、それは、単に親子や祖母・孫のあいだに生まれる情愛ともちがう。ルードヴィックには恋人らしい相手がいるが、最初の一人は、彼とパルフリー夫人との関係を「まるで『ハロルドとモード』じゃない」(すなわち親子歳の恋)とけなし、ルードヴィクのもとを去ってしまう。やがて、パルフリー夫人と3人で旅行をする女性が登場するが、ここで三角関係が生まれるわけではなく、といって、パルフリー夫人が一段高い位置で二人の関係を黙認するというのでもなく、ルードヴィックとパルフリー夫人との関係は、彼と若い彼女との関係とは全く別の関係であるかのように進行する。が、この関係は何なのか? 老人に対する若者の哀れみの関係か? むろん、そうではない。
◆「普通」、スコットランドくんだりから出てきた老人が、ロンドンで親切にされたら、警戒するのがあたりまえである。しかも、その相手は、定職がなく、バスカー(大道芸人/実際には地下鉄の通路でギターを弾いて歌っている程度で、特殊な芸を見せるわけではない)である。が、パルフリー夫人は、最初から彼を信じ込む。一期一会の関係なのである。
◆映画は、ルードヴィックが、タバコを吸いながらレミントン・ランドのタイプライターをたたいているシーンから始まる。映画の物語を彼がタイプして展開していくというよくある形式である。2000年代にタイプライターを使っているということは、相当の「変人」である。こだわりの人である。その後、ルードヴィックは、「自分は間違った時代に生まれたと思う」と彼女に言う。肉体的には若いが、心はパルフリー夫人の時代にあるというわけだ。とすれば、彼女がルードヴィックのなかに、いまは亡き夫の面影を見出しても不思議ではない。
◆全編にわたって、ルードヴィックは、パルフリー夫人にサービスのし通しである。老いてくるとよく転ぶが、彼女は、ある日路上のごみにひっかかって転倒する。その姿をルードヴィックが、半地下にあるフラットの窓から目撃し、助けに飛び出す。これがきっかけで、二人が知り合うのだが、彼は、彼女の頼みでホテルの長期滞在者たちに孫のふりをするのを頼まれたりする。それを彼は素直にきくのだが、パルフリー夫人が彼のなかに見ていたのが、結局は、彼女の亡き夫のイメージだということになると、彼としては割が合わなくはないか?
◆実際、ルードヴィックはパルフリー夫人によく尽くす。ルードヴィックはあるとき彼女に、ズッキーニのトマト味のタリアテッレを手際よく作って食べさせる。そのとき、ルードヴィックは、恋人とゲームでもするように、「好きな曲は?」という質問をする。パルフリー夫人は、「For All We Know」と答え、「若いから知らないだろう」と言いながら、歌詞を口ずさむ。すると、ルードヴィックは、ギターを爪弾きながら、For all we know we may never meet again.・・・と歌い始める。それを聴きながら、彼女は涙ぐむ。ここで、ルードヴィックがある種のドンファン的誘惑者の意識を持たなかったとは言えない。が、この映画では、そういう「不謹慎さ」は決してあからさまには描かれない。ルードヴィックは、終始「誠意の人」でありつづける。
◆パルフリー夫人が好きな「For All We Know」は、1930年代にヒットし、その後非常に多くの歌手が歌っている。ジャズでも、ビリー・ホリデイ、ナッツ・キング・コール、ダイナ・ワシントン、サラ・ヴォーン、ニーナ・シモン、カーメン・マックレイといった代表的なシンガーが歌っているほどポピュラーな曲である。この歌はクロージング・クレジットでも出てくるが、歌っているのは、ローズマリー・クルーニーである(→歌手と歌詞)。だから、バスカーのルードヴィックが知らないわけはないのである。しかし、パルフリー夫人は、そのことを知らないで、彼がその歌を知っているというだけで感動してしまうのは、単純すぎるのである。が、それは、それとして受け取る必要がある。つまり、パルフリー夫人は、「普通」のうぶな女性なのである、と。
◆ルードヴィックのフラットのまえで転ぶとき、パルフリー夫人がかかえている大きな本は、その表紙から、『チャタレー婦人の恋人』だとわかる。こういうタイトルの本をこれ見よがしに持ち歩くというのは、どういう感覚だろうか? いまの時代にこの本が、「破廉恥」でもなんでもないとしても、そのタイトルをこれ見よがしに見せながら街を歩く高齢の女性というのは、やや不可思議である。そういえば、ホテルの食堂に初めて姿をあらわすときも、「正装」(といってもダサい)をしてきて、ホテルの長期滞在者たちを驚かせる。このシーンで、彼や彼女らの癖が短いショットで次々に紹介され、みんな一筋縄の人間ではないことが示唆される。
◆この映画を一度見たときにはわからなかったのだが、この映画は、老女と若者の出会いという設定にありがちな老人の「色気」を極力消している。最初に見たときは、ジョーン・ブロウライトが演じるパルフリー夫人の「老いの気難しさ」のようなものがストレートにただよってきて、なじめなかった。別にそんなに魅力があるように見えないパルフリー夫人にルードヴィックが惹かれるのも、蓼食う虫も好きづきと思いながらも、なんか納得がいかなかった。ジョン・ブロウタイトの顔が「くしゃっと」しているせいもある。が、これは、こういう設定の老人は、絵に描いたような「色気」や「高貴さ」をただよわせていなければならないという映画の俗見を否定しているのである。最初の方で語られるように、パルフリー夫人は、スコットランドからやって来た「田舎者」で、「ずっと誰かの娘で、誰かの妻で、誰かの母親だった」のであり、「普通」の老人なのだ。スポットライトが当るような人生は送ってこなかった。だから、彼女は、特別であってはならない。そして、相手の男のほうは、そういう老女に夢をはぐくませるような風貌をしている必要がある。ルパート・フレンドは、まさにそれにうってつけの俳優であり、その感じを十分出すことに成功した。
◆エリザベス・テイラーの原作の舞台は1960年代だが、映画は時代設定を現代にしている。映画のなかで、ホテルに長期滞在するする老人たちが、テレビルームで『セックス・アンド・シティ』を見る話がある。これは、UKでは1999年から2004年まで放映された連続テレビドラマのことだと思う。マイケル・パトリック・キング監督の映画ヴァージョンの公開は2008年である。ここから考えると、映画の時代設定は、2000年代の初めか前半であって、2000年の後半ではないことになる。
◆パルフリー夫人がタクシーでホテルにやってくるとき、タクシーの運転手が、「英国でおいしい料理[excellent cuisine](なんて期待できませんや)」と言い、彼女が宿泊したホテルの料理もえらくマズそうに描かれているが、2000年後半のロンドンの料理は、かつての「汚名」を挽回し、excellent cuisineが食べられるようになる。
◆パルフリー夫人が、タクシーでホテルに向かうとき、ここが自分のホテルかなと一瞬思うが、通りすぎてしまうホテルは、「The Gresham Hyde Park」という看板からすると、4星ホテルである。そしてタクシーが彼女を連れて行くの邦題になっているクレアモント・ホテルであり、表に見えるボードには、「Lancaster Gate」とあるから、ハイドパークに近いエリアのホテルだ。それからしばらくして、彼女が路上で身なりのいいイスラム系の女性とすれちがい、彼女が一瞬驚くシーンがある。イスラム系の移民は、イースト・ロンドンを中心に増え続け、2000年の後半には、イスラム系の人間を見ても(少なくともロンドン子は)驚かなくなっているから、このシーンからすると、映画の時代設定は2000年の比較的早い時期だといえる。
◆どこをとってみても、パルフリー夫人は、ごく「普通」の老女である。好きな映画は?と聞かれて監督デイヴィッド・リーンの『逢引き』と答えるのもそうだ。
◆ルードヴィックは、病気で倒れ、入院したパルフリー夫人を最初に見舞ったとき、ウィリアム・ワーズワースの詩「I wandered lonely as a cloud(わたしは雲のようにさ迷い歩いた)」で始まる詩を読んで聞かせる。彼女が好きな詩だからだ。このへんになると、年令やジェンダーの決まりきった型を越えた愛のようなものが浮かびあがってきて、映画としてユニークな表現になっているのではないかと思う。何度目かの見舞いのとき、パルフリー夫人は、彼を死んだ夫のアーサーとの結婚式のころを思い出す。「もう一度あのころに戻りたいわ」と言うとき、明らかに、彼女はルードヴィックをアーサとみなしている。彼は、優しく「戻ろう」と言う。彼女は、安心したように目をつむり、それが最期の別れとなる。
◆身近な者がだんだん死んで行き、肉親だからといって頼りにならなくなる老いの孤独。そんなとき、「男」と「女」との愛とも異なる別種の愛――しかし、それは「純愛」と呼ぶのは単純すぎる――が生まれたら、どうなのか。この映画はそんな仮定を映像化している。
(クレストインターナショナル配給)


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