2012年11月公開作品

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2012年11月公開作品リンカーン 秘密の書  ★★★★★北のカナリアたち ★★★★★ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋  ★★★★★みんなで一緒に暮らしたら  ★★★★★ユニバーサル・ソルジャー  殺戮の黙示録 ★★★★★アパートメント:143  ★★★★★トールマン ★★★★★シルク・ドゥ・ソレイユ  ★★★★★チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢  ★★★★★映画と恋とウディ・アレン ★★★★★388 ★★★★★ハード・ソルジャー 炎の奪還  ★★★★★人生の特等席 ★★★★★ロックアウト ★★★★★ドリームハウス ★★★★★HICK ルリ13歳の旅 ★★★★★裏切りの戦場 葬られた誓い  ★★★★★HOME: 粉川哲夫のシネマノート
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2012年11月公開作品

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リンカーン 秘密の書  ★★★★★

Abraham Lincoln: Vampire Hunter/2012/Timur Bekmambetov(ティムール・ベクマンベトフ)

◆なぜいまリンカーンなのか? 昨年の「声をかくす人」を皮切りに、今年は、「アブラハム・リンカーン VS ゾンビ」(原題)と「リンカーン/秘密の書」が公開され、スピルバーグの「リンカーン」(原題)が公開を待つ。言うまでもなく11月の大統領選との関係である。アメリカ映画は、依然として啓蒙の機能を忘れない。プロパガンダだとわからせずに、泣かせたりスリルを覚えさせたりするなかでさりげない教育機能を果たす。

◆本作は、南北戦争が実は、南部に王国を築く吸血鬼との戦いだったという設定で、リンカーンはみずから斧で吸血鬼の首をぶった切る。「アブラハム・リンカーンン VS ゾンビ」は、ゾンビ化した南部人が北軍を襲い、リンカーンも銃でゾンビを殺しまくる。これならば、リンカーンを知らなくても〝楽しめ〟、ついでにゲティスバーグの有名な演説も頭に入ってしまうという仕掛け。

◆しかし、これを低俗的と一蹴するのはうかつだ。まず、両作品における戦争の肯定である。南北戦争はアメリカ史上最大の死者を出した(ベトナム戦争の4万人に対し62万人ともいわれる)戦争で、この映画のなかでリンカーンは、〝人間の自由〟のためであれば、兵士の死も辞さないと主張する。次に〝敵〟を殺す正当性であるが、吸血鬼もゾンビも人間を食い物にするから、無条件で殺すことができる。映画でリンカーンが吸血鬼を殺し始めるのは、自分の母親が吸血鬼によって殺された恨みからだが、ここには、復讐が〝自由のための戦い〟という形で正当化される、アメリカの常套的パターンがある。

◆ところで吸血鬼とゾンビとの違いは何だろう?  吸血鬼は、高知能、国際的ネットワーク、プライドの高さなどのイメージがつきまとう。対するゾンビは、無知能で地域に群れるというロワーなイメージだ。かくして、吸血鬼は、国境を越えて営利をむさぼるグローバル産業や金融資本を、ゾンビは、競争原理からはじき出されたルーザーや、支配階級にとっての〝オキュパイ・ウォールストリート〟プロテスターたちを代理する。

◆こう見ると、吸血鬼とゾンビのリンカーン映画は、今後の政権に対し、いまよりひどい反動性を暗黙に支持していると言えないこともない。では、ひかえるスピルバーグはどうか?  彼自身は、〝政治のエサにはなりたくないので、意図的に大統領選挙後に公開する〟と言っている。さすがだ。選挙などより長期の教育効果をねらっている。

◆以上は、『キネマ旬報』2012年10月上旬号の粉川哲夫「ハック・ザ・シネマ」所収から取った。

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●個別のレビューを参照。

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みんなで一緒に暮らしたら  ★★★★★

Et si on vivait tous ensemble?/2011/Stéphane Robelin(ステファン・ロブラン)

◆気のせいか、老後をどうするかという話の映画が多い。『人生の特等席』のイーストウッドは、職場では引退を仄めかされるが、生涯現役を貫く。『恋のロンドン狂騒曲』は、40年連れ添った夫婦が、離婚し、男は若い女を追い、女は神経症に陥るが、最後は平安を得る。『アルバート氏の人生』では、仕事のために男装をし続けた老女が、第二の人生を夢見る。ホテルのウェイターとして日々手にするささやかな(ときには予想外の)チップをこつこつと貯め、タバコショップを開こうと思っている。『東京家族』は、小津安二郎の『東京物語』の翻案だが、すでに東京に定住している子どもたちに会いにくる老夫婦の話である。彼らにとって、事実上、この旅が老後の区切りになる。妻のほうは、この旅が、老後の最後になる。『マリーゴールド・ホテルで会いましょう』では、インドの青年が西洋人を対象

に老後をインドで過ごす旅行プランを編み出し、ネットで客を募集する。集まったのは、夫を亡くしたジュディ・デンチ、ビル・ナイとペネロープ・ウィルトンの夫婦、元判事でゲイのトム・ウィルキンソン、・・・。『カラカラ』は、大学を定年退職した61歳のカナダ男が、〝自然と生活の一体

化〟を夢見て沖縄を訪れ、年下の女性(工藤ユキ)と出会う話。

◆老後をあつかった映画はどこかうさんくさい。というのは、この手の映画は、観客が登場人物に同化し、自分に引きつけて見ることを想定しているからである。まあ、メロドラマはすべてそうだが。しかしわたし自身は、そのつど別の(自分がなじんでいるのとは別の)世界をつかのま実感できることに映画の価値を見出しているので、こういうのをわたしは買わないのである。

◆『みんなで一緒に暮らしたら』は、その意味で、老後の問題に直面している人には切実さを感じさせるかもしれない。逆に、自分が年寄ではないと思っている人には、自分とは関係のない話に映るかもしれない。しかし、一点注目すべきは、この映画がフランス映画であり、フランスの観客を第1に想定してつくられている点だ。ステレオタイプ的に言うと、フランス人は、群れることを好まない。だから、歳をとっても一緒に住むなどということは耐え難い。だから、そういうフランス人から見れば、この映画の世界は〝新しい〟かもしれないのだ。

◆現実に、人は老いるし、死なないわけにはいかない。しかし、そういう<あたりまえ>のことをあたかも必然であるとして話を展開するのはつまらないと思うのだ。むしろそれだからこそ、映画は、超能力の老人や全然悟っていない老人を登場させるべきだと思う。

◆うえで挙げた作品の老人たちは、ことごとく老人らしい。多少の差はあるとしても、老人が考えそうなことをやる。

◆『みんなで一緒に暮らしたら』は、まず、身体レベルで登場人物を老人であらざるをえない状態に置く。アルベール(ピエール・リシャール)は、アルツハイマーが出ている。その妻ジャンヌ(ジェーン・フォンダ)は、ガンの状態が思わしくない。クロード(クロード・リッシュ)はセックス依存症であるが、心臓発作を起こしている。ジャン(ギイ・ブドス)は、社会に不満をいだき、デモに参加したりしているが、昔のようにミリタントに活動できないのを情けなく思っている。アニー(ジェラルティン・チャップリン)は先のことを考えないようにしているが、子どもや孫たちがあまり近寄らないことに孤独を感じている。彼や彼女らは、自分ではまだまだやれると思っていても、生物学的衰弱はどんどん近づいてきている。

◆そういう状況のなかでたがいに助け合わざるをえなくなり、〝社会派〟のジャンがまえまえから言っていた共同の生活をはじめる。バイトでアルベールの犬の世話をしていたドイツ人のディルク(ダニエル・ブリュール)が介護的な世話をすることになるあたりがドラマ的なぐらいである。彼は、バイトをしながらオーストラリアのアボリジニについての論文を書くはずだったが、この機会にテーマを老人問題に切り替える。

◆ジェーン・フォンダを見るのは久しぶりだ。ここでは、アメリカからフランスに移り住み、アルベールの妻となったという設定。最後に仲間たちが彼女を看取ることになるので、やはり、よそ者は(映画のなかで)殺されるのかなと思う。

◆共同生活をする場合、フランス人なら特に食事の問題が重要だと思うが、そのことが特に立ち入って描かれるシーンはなかった。

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トールマン ★★★★★

The Tall Man/2012/Pascal Laugier(パスカル・ロジェ)

◆本作の宣伝文やポスターを読むと、ホラーかミステリーだと思うかもしれない。しかし、この映画は、産業構造のシフトと経済の落ち込みによって貧困化した町の悲劇の一端を抉り出している。撮影はカナダで行われたが、設定は、アメリカのワシントン州ピッツヴィル郡のコールド・ロックという田舎町。ここでは、6年前に鉱山が閉鎖され、町は急速に経済地盤を失って孤立した。いつのころからか、子どもが頻々と失踪する事件が起こり、それは、<トールマン>(背の高い男)が連れ去るのだという伝説が出来上がる。

◆映画は、その謎を明らかにする。その過程を明かすのは、やめておこう。むろん、誘拐する者がいなければ、こういうことは起こらない。しかし、この映画は、その犯人を探し出し、償わせるというような経過をたどらないところがいい。この事件は、貧困の深い深刻な事情がからんでいる。

◆子どもを失った母親と〝犯人〟とが警察の面会室の遮蔽ガラスごしに電話で話をするシーンが印象深い。犯人は、自分はこの町の子どもたちがかわいそうだから誘拐し、ほかへ移したという。子どもたちのもつ無限の可能性が貧困や暴力のために失われてしまうのを見ていられなかったと。それに対して、母親は言う。仕事もなく、家庭をやっていくのは大変でした。しかし、子どものために死ぬ覚悟は持っていたと。

◆この映画の基本には、産業のうねりのなかで貧しい者はどんどん貧しくなり、そのなかでも女と子どもは徹底的に犠牲になるという現実認識がある。

◆貧しいこどもがこの現実から救われる(とりあえず)のは、裕福な家庭に養子としてもらわれていくことしかない。〝犯人〟が、実はこのへんのことも承知して誘拐をくりかえしていたことが最後に示唆される。これは、こういう悲惨な町の話の救いではある。が、このくだりはやや空想的なトーンになるのを否めない。

◆パスカル・ロジェは、前作の『マーターズ』(Martyrs/2008) でも、誘拐や子どもの虐待をあつかっていた。

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シルク・ドゥ・ソレイユ  ★★★★★

■Cirque du Soleil: Worlds Away/2012/Andrew Adamson(アンドリュー・アンダーソン)

◆被写体がアナログでそれを極めている場合、3Dがいかに無力かということをさらけだしている。アナログ的(つまり身体に直接響く効果を重視する方法)な技術で構成されているシルク・ドゥ・ソレイユの舞台は、観客が肉眼と体感で経験するように出来ている。映画というものは、そうしたアナログ経験とは基本的に異なる体験だ。それがアナログ表現をより強化する場合はないわけではない。しかし、今回はそれが裏目に出た。たとえば、アクロバットなどの複雑な身体の動きや飛び散る水飛沫(しぶき)に対して頻繁に加えられるハイスピード撮影である。1度ぐらいならいいが、たびかさなるにつれて、うんざりしてくる。

◆映画における特撮やCGI効果は、人間技を越える神業を映像として実現させる。しかし、シルク・ドゥ・ソレイユのは、そういう神業を軽業にしている集団である。特撮やCGIの効果画面を見ている観客は、それが実際(身体的レベル)には起こりえないことを暗黙に知っている。が、シルク・ドゥ・ソレイユの観客は、それが実際に起りえるということを目の当たりにする。知覚経験の意味が全く異なるのだ。

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チキンとプラム あるバイオリン弾き、最後の夢  ★★★★

■Poulet aux Prunes/2011/Vincent Paronnaud & Marjane Satrapi(マルジャン・サトラピ&ヴァンサン・パルノー)

◆この映画ほど、ヨーロッパで公開されたときと、日本での反応とのあいだに大きなギャップが生まれるであろう作品はないかもしれまい。なぜなら、日本では、配給上の都合もあるのだろうが、<死を決意した天才音楽家は、人生最後の日に〝叶わなかった恋〟に想いを馳せる>といった広告がなされ、また、マスコミで流される著名人らのコメントが、ひたすら〝恋〟と〝夢〟だけだからである。何が抜けているかというと、政治である。この映画は、きわめて政治的な作品だ。これは、イランからの移民や亡命者が身近にいるヨーロッパでは、直感的にわかることである。それが日本に来ると、すっぽりと抜けてしまう。しかし、ちょっと考えれば、前作「ペルセポリス」でイラン社会における女性の位置を鋭く批判したマルジャン・サトラピとヴァンサン・パロノーがただの夢物語を撮るわけがない。

◆字幕の功罪というものがこの映画でははっきり出る。字幕では〝イランーヌ〟になっているが、ゴルフテ・ファラハニが演じる女性の名Irâneは、音で聴けば、イランであり、彼女が国家としてのイランを象徴していることはこの映画の基本的な前提である。これをとらえそこなうと、この映画がただの夢物語になってしまう。〝象徴〟などというのは古いスタイルだと思うかもしれないが、この映画は、最初にナレーションが言うように、あえて<おとぎ話>のスタイルを採用しており、おとぎ話では語りたいことを別のものでメタファー的に語るのは常套だし、直裁には語れないからこそおとぎ話の技法を使うのだ。

◆冒頭、トップクレジットのあと、岩の多い山に囲まれた街の俯瞰から路地にカメラが降りて行き、ナレイターが、〝イキ・ブート、イキ・ナブート〟というペルシャ語を語る。ナレイターはここで、〝ペルシャのおとぎ話はイキ・ブート、イキ・ナブートではじまります〟と言うのだが、このとき、フランス語でこの〝イキ・ブート、イキ・ナブート〟を "Il y avait quelqu'un, il n'y avait personne"とフランス語に訳す。このフランス語の部分を直訳すると、〝ある人がいました、誰でもないひとがいました〟ということだが、要するに〝むかしむかしあるところに〟や〝むかし男ありき〟(伊勢物語)と同じ言い回しである。こうして、はっきりとこれから始まる物語は、イランのおとぎ話のスタイルにのっとって展開するのだよということを明示しているのである。ここまでちゃんと断っているにも関わらず、この映画をおとぎ話をして受け取らない/受け取れない ポイントをはずした映画評だらけなのである。

◆〝イキ・ブート、イキ・ナブート〟といえば、イランのポピュラーな音楽バンドBlack Cats の "Yeki Bood Yeki Nabood"を思い出す。これは、YouTubeで聴ける。

◆おとぎ話は8日間にわけて話される。その間に、主人公のナセル・アリ(マチュー・アマルリック)の生涯――バイオリニストであること、妻ファランギース(マリア・デ・メディロス)、母(イザベラ・ロッセリーニ)、娘(成人後:キアラ・マストロヤンニ)、息子、幼少時の自分のこと、さまざまな出会い、とりわけイラーヌ=イラン(ゴルシフテ・ファラハニ)への愛――が語られるのだが、多くの日本のコメントは、ナセルの<最後の8日間>を描いているかのように書いている。この8日間というのは、実時間の8日ではなくて、物語時間の8日間であることを見逃している。アラビアンナイト(千夜一夜物語)は1000日かけて話されるのだが、その内容は長大な時間をあつかう。

◆この映画が、ナセルが死ぬ<最後の8日間>を描いているとすると、物語のなかに出てくる彼の老年時代のことは、ただの想像か妄想だということになってしまう。イラーヌ=イランを見初めた中年の時代と、イラーヌ=イランが孫を連れて歩いているのを発見するとの時間のギャップも、単なる夢のなかの混濁にすぎなくなる。息子がアメリカに行き、アメリカンな生活をしているのも、わけがわからないということになるだろう。しかし、この映画には、シュールレアリズムのやすっぽい応用など微塵もない。非常によく計算された映画である。

◆この映画のタイトルは「鶏のプラム煮」という意味だが、これは、ナセル・アリという人物を象徴する。彼は、旧いイラン男で、料理は女が作るものだと思っている。妻との仲がこじれても彼女が作る「鶏のプラム煮」は好物だ。しかし、1958年以後、イランがアメリカに接近するなかで、情勢が変わる。フェミニズムは(アメリカでも)まだだが、女は家事労働への一方的な従属に抵抗し始める。だから、ナセルが甘えることができたイランはもはやない。

◆ナセルとイラーヌ=イランとの出会いは、<旧きよき>イランとの出会いである。男を甘えさせてくれる女。しかし、彼は彼女とは結婚できず、母親の指示でファランギースと結婚した。彼女は、イランの女としては<近代>派で、イラン社会の変容とともに、家事一切を女にまかせる<旧い>男にがまんができなくなる。ところが、夫は、自分はアーティストだと称して、家事にはかかわらない。だから、ある日、彼女は、彼のバイオリンを床に叩きつけて壊してしまう。が、ナセルにとってこのバイオリンは、職業上の愛器であるだけではなく、結婚したくてもできなかったイラーヌ=イラン(彼女の父親はナセルよりももっと社会的地位のある金持ちに娘を嫁がせた――これも旧きイランの慣習)の思い出と重なる象徴的な意味を持っていた。バイオリンの破壊→旧きよきイレーヌ=イランの思い出の喪失→絶望→死の願望。

◆彼が、イラーヌ=イランへの夢が壊れただけでは、死を願望しはしなかったかもしれない。彼が師を決意するのは、イラーヌ=イランからも無視されたからだった。若き日に恋したイランーヌ=イランとの再会のシーンは、単なるラブストーリーのクライマックスではない。自分がそれと一体をなす(結婚)ことはできなかったにせよ、その記憶と想いは決してうしなったことがないナセルにとって、再会した相手から<人違いでしょう>と言われるのは、ショックである。ここには、イランーヌという個人への愛とイランという国への愛とが重ねられており、その愛が自分のほうからではなくて、相手のほうから拒絶されるときの絶望が見事に描かれている。

◆わたしは、最近、キネマ旬報(11月上旬号)の連載(ハック・ザ・スクリーン)にこの映画の評を書いたが、その末尾をこうしめた。

イラーヌ=イランは、彼を忘れたのではなかった。泣く泣く忘れたフリをし、そうすることで〝旧きイラン〟に執着するナセルのような男を表舞台から退場させたのである。

◆この映画が、イランの話であるにもかかわらず、フランス語、フランスやヨーロッパの俳優で撮られ、ドイツで撮影されたことを問題にする批判がある。しかし、これは、原作・監督のマルジャン・サトラピがあえて行った選択だった。彼女にとってイランはそこから彼女が放逐された国である。そして、フランスやヨーロッパには、イランから放逐された人々が多数いる。その放逐のされかたは単純ではなく、この映画の物語のはじまりに指定される1958年(アメリカとの関係の始まり)から原理主義的なイラン革命の時代までの幅がある。サトラピやイラーヌを演じるゴルシフテ・ファラハニは、イラン革命以後の政治情勢のなかでイランを放逐されたのだった。その意味でも、この映画では、イラン=イラーヌは、イラン政府から出国禁止処分を受け、のちにフランスに亡命したゴルシフテ・ファラハニが演じなければならなかったのである。

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映画と恋とウディ・アレン ★★★★★

Woody Allen: A Documentary/Robert B. Weide(ロバート・B・ウィード)

◆アレンが自作について気取らず、割合まともに語っているのが意外だった。左の目が赤いのが気になった。

◆自作についてかなり批判的に見ていて、ちゃんとわかっているんじゃないかという印象。

◆創作者は、映画であれ小説であれ、作品をみるとこんな困難な状況で創作していたのかと思わせるところがある。平和で余裕のある環境ですぐれた作品が生まれることはまれだ。ミア・ファーローの養子のスーインとの不倫関係が発覚したとき、アレンは、『夫たち、妻たち』(1992)を作っていた。逆境に陥ったミアとウディーが演技のなかで向かい会い、「わたしたちは終わりよ」とミアが語るシーンをいま見ると、怖いものを感じるだろう。以後、二人はマスメディアのターゲットになり、裁判中に『ブロードウェイと銃弾』(1994)が撮られた。

◆ひととおりの作品にふれていて、ウディ・アレン入門にはいい。しかし、バーバラ・コップルが撮った『ワイルドマン・ブルース』(Wild Man Blues/1997/Barbara Kopple)にくらべると上っ面な感じがする。こちらは、アレンの老いや彼と〝新〟妻スーーン・イ・プレヴィンとの関係、両親とのことなどが鋭くとらえられていた。

◆ミア・ファーローを出すのは無理だろうが、出るべき〝証人〟が少なく、彼の長年のプロデューサーのジャック・ロリンズやチャールズ・H・ジョフィーの発言が多い。すっぱ抜くような発言は皆無なのだ。

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388  ★★★★★

388 Arletta Avenue/2011/Randall Cole(ランドール・コール)

◆この手の映画に興味を持つひとしか相手にしないようなあまりに素っ気ない邦題だが、原題は、カナダのトロントの<アーレッタ・アヴェニュー388番地>。

◆すべてのシーンが盗撮カメラで撮られている映像という設定。だから、この映像を仕掛け、盗視している映像ストーカー的人物がいる。その人物は顔を出さない。出しているのかもしれないが、わからない。画面のなかで展開する出来事は、この番地の家に住む男女(→夫婦)が事件にまきこまれるところまで進むが、その筋書きだけを追うだけなら疲れるだろう。なにせ映像が監視カメラ的なローレゾルーションであり、不安定だから。しかし、監視する、盗撮する側からこの映画を見れば、なかなかスリリングである。

◆最初は、家を車のなかから盗撮する程度だが、カメラが窓にズームして家のなかが映され、さらに、住人が玄関で鍵を隠す(よくやる)のを撮影し、侵入の手口をつかみ、家のなかにはいる。当然、監視かめらがあちこちに設置され、無線で離れたところから家の内部がのぞけるようになる。さらに、このストーカーは、この家に住む男(→夫)の車の内部や仕事場にまで監視カメラを設置することに成功する。

◆この映画に出てくる監視・盗撮カメラは、決して空想的なものではなく、日本なら秋葉原でもAmazonでも手に入る品々である。最近はタクシーのなかにもカメラがあり、客の姿が記録されている。むろん、街には監視カメラがあり、コンビニはもとより、ビルのなかにもカメラがある。わたしはもう10年もまえに、こうした総監視カメラ体制に対して、デジタル・ヌーディズムを唱えたが、その意味は、監視カメラがいたるところにある状況では、われわれはデジタル技術によって裸にされているのだから、それならばいっそのこと裸体主義者(ヌーディスト)のように裸になってしまえばいいということだ。しかし、その間に、対抗する側よりも状況のほうがどんどんエスカレートし、いまや、われわれがそんなことを唱えようが唱えまえまいが、そんなことにはかかわらず誰もがデジタル・ヌーディストにされてしまった。

◆その意味で、この映画は、デジタル・ヌーディズムの時代のドラマ作りの一例を提供する。かつて、イギリスのチャンネル4が製作した『マックス・ヘッドルーム』で、監視カメラを次々にハックしてビルの内部を映し出すというシーンが出たとき、その時点(1985年)では、これはまだ未来の出来事だった。このシーンは、監視カメラがドラマを作るということを示唆したのだったが、それがいまでは具体的に可能になっている。これは、これまでの映画のドラマ作りに対する大いなる挑戦であり、警告だ。いまみたいなドラマ作りはいずれ終わるよという。

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HICK ルリ13歳の旅 ★★★★★

Hick/2011/Derick Martini(デリック・マルティーニ)

◆Rotten TomatosでもiMDbでも、評価がえらく低いが、そんなに悪いわけではない。最近のアメリカの評は、モラル志向が強く、〝教育上よろしくない〟ものは理由なしに評価を落とす傾向があるようにわたしには感じられる。主人公は、クロエ・グレース・モレッツが演じる13歳の少女ルリだから、そのあつかいには気をつけなければならない。しかし、この映画は、父親がひどいアル中、母親がふしだら、ルリの誕生プレゼントは酒場で渡され、そのなかには叔父からの実銃まである。そのあげく、父親は家から飛び出してしまい、母親は成金の不動産屋と出来て家にいないという状態。絶望したルリは家を出ることにし、ヒッチハイクをする。しかし、その道すがら、彼女を車に乗せた女グレンダ(ブレイク・ライヴリー)は、〝どうせ大人になりゃやるんだから〟とか言いコカインをすすめ、あげくのはてにはコンビニで現金を盗む計画にルリをかませる。おそらく、こういうところがアメリカでは〝許せない〟ということになるのだろう。

◆13歳の娘がハイッチハイクをすれば、いろいろな連中に会うのは当然で、そのなかには、いま挙げたような奴らもいるだろう。しかし、いろいろあるが、それらがあまりルリの人生にとって実になりそうではないところが評価が下がる理由かもしれない。

◆ルリが最初にヒッチハイクした相手は、エディ・レッドメインが演じる足の悪い男だが、性格が悪そうでいて、そうでもなく、心優しそうでいて、ルリがビリヤード場でレイプされそうになると、相手を(おそらく死んだであろうほどに)痛めつける。この場合、どう見ても、最初の段階では、ビリヤードで負け、200ドルを請求されたエディが、<お前の女で借りのかたをつけな>というようなことを言われて、それをのんでしまい、そのあげくに相手の男がルリに近づいたというのが事実の流れであるように見える。そして、エディが必要以上の暴力を振るったも、そういう屈折の果てではないかという推察もできる。

◆あとのほうでは、ルリが目覚めると両手両足をベッドに縛り付けられているシーンがある。しかし、このシーンからだけでは、エディはルリを眠っているときに犯したのかどうかはわからない。むしろ、彼はエディを〝天使〟あつかいしていて、安易にセックスしたりはしないのかもしれない。すべてに関して表現があいまいだという批判はあるのだが、それは必ずしもこの映画の欠点にはならないだろう。

◆グレンダは、エディと関係があることがわかるが、それを知らない彼女の夫のロイド(レイ・マッキノン)のバーで4人が一同に会する場面は、それぞれに複雑な感情が入り混じった面白いシーンである。エディとグレンダとの微妙な視線、突然狂ったように(エディがソーダを7UPsではなくてSquitを出したと言って)怒り出すロイド、何がなんだかわからずとまどうルリ・・・俳優たちの演技力を要求されるシーンであるが、みないい演技をしている。とりわけブレイク・ライブリーはなかなかいい。

◆クロエ・グレース・モレッツは、同時期に アミ・カナーン・マン『キリング・フィールズ 失踪地帯』(Texas Killing Fields/2011/Ami Canaan Mann) でこれまた家庭に問題のある子を演じていた。

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裏切りの戦場 葬られた誓い  ★★★★

■L'ordre et la morale/Rebellion/2011/Mathieu Kassovitz(マシュー・カンソヴィッツ)

◆映画には〝現実〟に近づこうとするリアリズムというものはあるが、それは、所詮、映画のスタイルの一つにすぎない、とわたしは思う。しかし、ある〝現実〟をテレビも新聞もほとんど事実を伝えようとしないとき、映画がその〝現実〟に出来うるかぎり近づき、模倣し、そのスケッチを伝えようとすることは称賛すべきことだと思う。この映画が描く〝現実〟の真相については、この映画の原作が1990年に発表されるまでは、一般には知られていなかった。そこには、国家的陰謀があり、国政選挙の利害によって操作された情報だけが流されていたのだ。

◆事実は、1988年、ニューカレドニアの一つの島ウベアで島の独立を主張するカナック族が蜂起し、フランス憲兵隊宿舎を襲って、警官4名が死亡、検事代理ほか30名のフランス人が拉致されるという事件が起きた。ただちに現地に派遣された国家憲兵隊治安部隊のリーダー、フィリップ・ルゴルジェ大尉(マチュー。カンヴィッツ)は、次第に奥深い背景を知ることになる。

◆時代がちがっていたら、この映画が描くような〝反乱分子〟の虐殺は起こらなかったかもしれない。折しも、フランスでは、ミッテラン大統領の第1期が終わり、選挙がおこなわれようとしていた。第2期をねらうミッテランに対する対抗馬は中道右派のシラク首相だった。シラクは派は、この事件を選挙効果として利用しようとした。ニューカレドニアの独立なんて許せない、蜂起は断固として抑え、国家の威厳を誇示すべきだというわけである。さらにまずいことには、交渉のためにジャングルにおもむいたフィリップ・ルゴルジェ大尉率いる国家憲兵隊治安部隊は、〝反乱分子〟によって捕らわれてしまうのである。

◆民主主義は、時間がかかるものだ。あるひとが民主主義者であるかどうかを判断する単純な尺度はその寛容さである。話し合いに時間をかけることができるか、どうせ結論は決まっているとしても即断しないで話しあいをするかどうか。右翼は即断する。王も独裁者も民主主義はいらない。シラク派は、選挙が始まるまえに結果を出そうとした。だから、最初はカナック族と交渉をするつもりで現地におもむいたフィリップ・ルゴルジェ大尉は、人質解放のために彼らと話し合いをくりかえし、信用関係が生まれるところまで持っていった。しかし、土台〝反乱〟を認めない側からすれば、それは無駄なのである。フィリップらの努力は、反故にされる。それだけではない、捕らわれてしまったフィリップらを犠牲にしても鎮圧を強行しようというのである。ある意味、フランス人に犠牲が出れば、それも利用価値がたかまるという計算まであった。

◆こういう映画を見ると、いつの場合にも、こういう奴がいるために世の中が悪くなるのだなと思う人物が何人も登場する。こういう奴は、権力や保身のためなら国家のためと称してひとを殺すこともいとわない。一体、どうすれば、こういう奴の考えを変えることができるのだろうか? 

◆試写で配られるプレスは、ほとんどのものがレヴューを書く際になんの役にも立たないものが多い。しかし、今回配られたプレスは、紙面にびっしりと文章を詰め込んでいるが、非常によく出来ている。監督と主演のマチュー・カソヴィッツへのインタヴューも読みごたえがある。

◆ニューカレドニアは、1998年にフランスからヌーメア協定を勝ち取った。これによって、2014年をめどに、ニューカレドニアのフランスからの独立への方向が一応は約束された。しかし、ニューカレドニアは、電子部品に使われるレアメタルの宝庫であり、独立したとしても、〝先進国〟との従属関係はなくならないだろう。