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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

アイルトン・セナ 音速の彼方へ (←リンク参照)。   ● ナイト&デイ (←リンク参照)。   ● ブロンド少女は過激に美しく (←リンク参照)。   ● プチ・ニコラ (『キネマ旬報』にもレヴューを書いたが、いまのフランスとの差異を意識して見るか、ただのコメディと見るかで評価が分かれる)。   ● 冬の小鳥 (←リンク参照)。   ● エクスペンダブルズ (←リンク参照)。   ● 桜田門外ノ変 (←リンク参照)。   ● ルイーサ (職を失った老女が物乞いになる厳しくもユーモラスな話。ブエノスアイレスの「物乞い」カルチャーの奥行きの深さも面白い)。   ● わたしの可愛い人―シェリ(←リンク参照)。   ● 隠された日記 母たち、娘たち (←リンク参照)。   ● 遠距離恋愛 彼女の決断 (←リンク参照)。   ● 約束の葡萄畑 あるワイン醸造家の物語 (←リンク参照)。   ● ソフィアの夜明け (←リンク参照)。   ● クロッシング (←リンク参照)。   ● ストーン (←リンク参照)。   ● 義兄弟 (←リンク参照)。   ● フィンランド映画祭2010  (←リンク参照/10月31日~11月5日開催)。  


レヴュー・インデックス:  (クリック)   わたしの可愛い人―シェリ   キック・アス   デイブレイカー   黒く濁る村   わたしを離さないで   ソーシャル・ネットワーク   リミット   シュレック フォーエバー【2D字幕版】   リッキー   デザートフラワー  

ショートメモ:  (マウスをのせる)   キック・アス 画面がやけに荒れているなと思って、後ろを見たら、プロジェクターからの「ビデオ上映」だった。すでにブルーレイのDVD版を見ており、この映像より画質がいい。クロエ・モレッツが実にいい演技をしているので、フィルム版を見て是非書きたいと思っていた。ビデオは見たくないので、途中退出してしまったので、レヴューは延期。申し訳ない。(10/5)  


2010-10-22
●Ricky リッキー (Ricky/2009/François Ozon)(フランソワ・オゾン)  

◆どちらかというと、脚光を浴びることが少ない人生を歩んできたらしいシングル・マザー、カティ(アレクサンドラ・ラミー)の話。冒頭、彼女が福祉委員に泣きついているシーンが出る。これは、話の筋からいうと、もっとあとの出来事で、時間系列からすると、仕事場でたまたまスペインから来た労働者のパコ(セルジ・ロペス)に会い、一目ぼれして、トイレでセックスをする。期間の経過の詳細は描かず、彼女と彼はいっしょに住み、赤ん坊がいる。リッキーだ。すでに長女リザ(メリュジーヌ・マヤンス)がいるから、4人家族というわけだ。が、パコは、カティが育児に追われ、相手にしてくれないのがこうじて、出て行ってしまう。よくありがちな話。しかし、その後、そのリッキーに異変が起きる。なんと背中に羽がはえてきたのである。
◆最初は赤ん坊の背に赤い斑点が出るだけだったが、やがてなかから骨のようなものが出てくる。しかし、カティは全然騒がないのが面白い。このへんが、フランソワ・オゾンのうまいところだと思う。ある種の「無知」というか、結局はしたたかさでもあるのだが、本当は大変なことなのに、自分の知っている知識で処理しようとする。へたをすると不幸のもとになったりもするのだが、その生真面目で「ロワー」な感じをアレクサンドラ・ラミーは実にうまく演じる。
◆オゾンは、アレクサンドラ・ラミーに「ごく普通の女」のイメージを求めたらしい。オゾンの場合に「普通」とはワーキングクラスのという意味だ。だから、あえて撮影では「ノーメイク」を彼女に求めたという。それは、十分に成功したと思う。経済的に恵まれた生活をしてきたわけではない女性、教養が特にあるわけではない。職場でも恵まれないから、さびしくなると、簡単に男と寝てしまったりする。そのあげく、妊娠し、子供を生んで、さらに生活に縛られることになる。しかし、人間が嫌いなわけではなく、子供を愛し、男が逃げて、またもどっても受け入れてしまう。利口な友達なら言うだろう―「ばかねぇ」「別れてしまいなさいよ」。でも、彼女にはそれができない。困った男や夫を持つ女の典型。オゾンは、そんな女性にプレゼントをする。生まれた子が天使になる。すばらしいアイデアではないか!
◆生まれた子供が「天使」だったといっても、そこを決して「形而上学的」に描かないところがいい。羽が生えて来る過程と空中を飛ぶ姿を(むろん特殊撮影を使ったとはいえ)リアルに描く。最初わたしは、登場する赤ん坊のリッキーを複数の幼児を使って撮ったのかと思ったが、これが、アルチュール・ペイレという1人の子供だけで撮ったのだという。笑顔が実にいい。むろん、そう撮ったからなのだが、この表情を撮り切るには相当な苦労があったらしい。
(アルシネテラン配給)


2010-10-20
●リミット (Buried/2010/Rodrigo Cortés)(ロドリゴ・コルテス)  

◆顔の見える出演者は、イラクの「テロリスト」に拉致され棺桶に容れられて地中に埋められる運送会社のアメリカ人ポール・コンロイ(ライアン・レーノルズ)だけで、あとはすべて電話を通じた声だけの出演という実にクールな演出。最初から最後まで映るのはその棺桶の内部だけだが、それで95分間、観客の目を引きつけて離さない。見事である。
◆イラク戦争以来、運送会社の社員といっても、「戦争の民営化」で多くの戦時作業が民間会社にアウトソーシングされ、食料や軍需物資も「民間の」運送会社が運搬するのがあたりまえになった。ブッシュ政権で副大統領を務めたディック・チェイニーは、自分の息のかかった戦争株式会社からうまい汁を吸っていたという。ポール・コンロイもそういう会社の作業員の一人であり、ある意味では「犠牲者」だが、攻撃されたイラク側から見れば「加害者」である。このへんの屈折が、この映画では実に鋭く、かつ皮肉に描かれる。
◆棺桶のなかには、拉致した者が意図的にケータイ、懐中電灯、発光剤などを彼といっしょに置いてある。意識を失っていたポールは、意識をとりもどすと、自分の(これはまえから持っていたらしい)ライターで周りを照らしてみて、愕然とする。箱に閉じ込められていて出られない。思い出すのは、兵士も乗せていたトラックが武装グループに襲われ、トラックを爆破されたこと。どうしようと思ったとき、かたわらにケータイがあった。文字はペルシャ文字の表記(あとで基本設定で英語にも替えられることに気づく)。それを使って電話をすることを思いつく。最初は自分の妻へ。が、外出していて電話は留守番モードになっている。
◆電話をかけようと思えば世界中にかけられるというボーダーレスな状況がここにあるが、その一方で、今日ほど電話が不便なコミュニケーション装置になってしまった時代はない。「テロの脅威」もあるが、それ以前から、デジタル技術を使ってさまざまなプロテクトをかけたり、いままで生身の人間がやっていたことを自動化したりする傾向がエスカレートした。その結果、必要な情報が電話では得られない。大きな組織に電話すると、ダイアルの1を押せとかいうように、かけた方がいろいろと選択をしなければならない。困ったことに、こういうプロテクトと自動化が、生身の人間にまで逆影響してきて、電話の交換係など、「おまえロボットかい?」といちいち確認したくなるような紋切り型の受け答えしかしない。この映画で電話の応対をする人間の「ロボット」的な対応は、実際の現実である。あるとき、わたしは、アメリカの会社にかけて出た電話の相手に対し、本気で、「Are you an android?」と尋ねてしまったことがある。「android」というのは、いまはやりのOSのことではなくて、映画『ブレードランナー』に登場した、人間と区別のつかないロボットのことを言う。「はあ?!」と、急に人間らしい声になったので、「Are you a real person?」と訊きなおすと、「Yes, real」と答えたが、その声は歯車機械のようだった。
◆アンドロイド化社会では、契約や法律が実際よりも優先され、弁護士の法的操作が大手を振ってまかり通る。会社は、訴訟のリスクを抑えるために、契約事項を詳細に決める。この映画で、主人公は、雇い主の会社から、手際よく解雇されてしまう。「事故」の補償をしなければならなくなるのを会社は巧妙に回避したのだ。そのくだりが、滑稽かつ恐怖のブラックユーモアで描かれる。
(ギャガ配給)


2010-10-14
●ソーシャル・ネットワーク (The Social Network/2010/David Fincher)(デイヴィッド・フィンチャー)  

◆もし、この映画がFacebook の誕生とその創始者マーク・ザッカーバーグについてのものであるとするならが、これは失敗作である。映画としても、ここにはデイヴィッド・フィンチャーのサエはほとんど出ていない。どうやら彼には(あるいは脚本家のアーロン・ソーキンには)ネットカルチャーや「ビット経済」のことがわかっていないようだ。いや、わかっていながらわからないふりをしてこの映画を作ったのかもしれない。いまの時代、Facebookとマーク・ザッカーバーグは実にアップデイトな話題である。
◆Facebookが剽窃だとする裁判のための協議のシーンを「現在」として、Facebook創設時代の「過去」にさかのぼるという形式だが、その協議自体が茶番なので、あまり成功してはいない。この協議では、実は、コネや権威や金額といった古典的な価値観がすでに過去のものとなりつつあることがあらわになっているのだが、ザッカーバーグの側を支持するのではないらしいこの映画は、そういう時代の変化のリアリティをとらえていないからである。
◆映画製作のための予算の獲得、興行収入が至上課題であるハリウッドのなかで戦ってきたフィンチャーには、当面利益や利潤に関心がないというザッカーバーグの(彼にとってはごくあたりまえの)価値観は、本当には理解できないのではないか? 映画製作には金が要る。実績なしでは誰も投資してはくれない。が、ネットは独力でサイトを立ち上げることができる。その結果、想像を越えた反響に出会うことがあるようなメディアであり、そういうロジックのこの世界は動く。これまでのビジネスとは根底から違う世界を既存の世界のなかで描くのは難しい。
◆映画としては、しかしながら、いいシーンがかなりある。たとえばザッカーバーグ(ジェッシー・アイゼンバーグ)とショーン・パーカー(ジャスティン・ティンバレイク)との出会いだ。1999年に立ち上げたNapstarである期間いい思いをしたショーン・パーカーは、ザッカーバーグの先輩だから、はじめての面会が彼の「独演会」になっても不思議ではない。その後、二人がクラブで会い、ズンズンと体に響くDJミュージックの大音響のなかで叫ぶように話をするシーンもいい。とにかく音楽はかなりいい。
◆ジャスティン・ティンバレイクの演技は、『ブラック・スネーク・モーン』よりもさらに確信を持った演技で、すばらしい。他方、ジェッシー・アイゼンバーグの演技は、ティンバレイクよりも「地」で行っている感じで、控え目だが、それがこの俳優の持ち味である。明らかにユダヤ系の役を演じることが多いアイゼンバーグだが、その持ち味は、前回の『ゾンビアイランド』のほうがよく出ていた。このあと、主演作としては、日本では未公開だが、『Holy Rollers 』(2010/Kevin Asch)があり、ブルックリンのユダヤ人を演じている。
◆もし、フィンチャーがザッカーバーグをとらえそこねているとすれば、ジャスティン・ティンバレイクが自信たっぷりに演じるショーン・パーカー(Napstarの共同創立者)も、この映画の描くような人物ではないだろう。映画は、ショーンをいささか1970年代的な人物として描いている。実際の彼がカリフォルニアにこだわるのは、カリフォルニアにシリコンバレーがあるからにすぎないが、映画のなかのショーンは、女と美食とドラッグが好きな「70年代人」である。ちなみにショーンは、1979年生まれであり、ザッカーバーグ(1984年生まれ)と同じく90年代のネットバブルの環境のなかで育った。が、映画のなかのショーンは、フィンチャーやあるいはもっとまえの世代の人間を想起させる。たとえば、エレクトロニック・フロンティア・ファンデイションの創立に関わった(ザ・グレイトフル・デッドの作詞者でもある)ジョン・ペリー・バーローからその「60年代」的な要素を取り去ったような人物だ。いや、まだ70年代のうさんくさくてラディカルなカルチャーのなごりを残していた初期のヤッピーといった感じと言ったほうがいいかもしれない。
◆この映画は、ザッカーバーグを浮き彫りにするための単純化を犯している。そもそも、Facebookやマーク・ザッカーバーグは、個人を浮き彫りにしようとするような表現形式ではとらえられない要素を内包している。また、この映画でザッカーバーグは、女友達エリカ(ルーニー・マーラ)にふられた腹いせに彼女の中傷をネットにばらまき、その反響からFacebookの原案が生まれたかのように描いているが、そういう心理主義的なとらえかたでは、ハッカーの心情にせまることはできない。ザッカーバーグを演じるジェシー・アイゼンバーグは、なかなかいい演技をしているが、映画がねらっているのは、「自閉症」や「アスペルガー障害」のステレオタイプ的なキャラクターである。しかし、もし、Facebookで起こっていることを理解しようとするならば、こうした精神病理的現象を単なる「病気」やネガティブな傾向としてではなく、むしろ大なり小なり現代人が内に秘めている心的・社会的要素とみなさなければ、現在起こっていることは理解できないだろう。
◆とはいえ、どんなに単純化しても、そのなかに「真実」があらわれてしまうことは避けられない。Facebookを会社化したときの仲間エドゥアルド・サベリン(アンドリュー・ガーフィールド)が、広告収入を得ようとするとき、ザッカーバーグは反対する。「広告なんか興味がない」と。それは、本当だろう。実在のザッカーバーグは、閉ざすものをこじ開けること、オープンであることに至上の価値を見出し、そのために情熱をかけた。ハッキングとオープン・ソース・コードが彼の基本的な価値観である。映画では、それは、単に「鱒(ます)14匹より1匹のメカジキ」(とショーンが言う)の論理でそうしたかのように描かれるが、このへんはそう単純ではない。無償のプロジェクトであったFacebookは、現在250億ドルの評価額を持つといわれるが、最初から儲けることをねらってもそうはならないのが「ビット経済」なのである。映画のなかで、ショーンが、「起業家? じゃあ、失業者ね」と言うのは正しい。90年代から2000年にかけて、どいつもこいつもが一儲けしようと「フリー」を装った「商売」を試みたが、その大半は失敗した。失敗したという意味は、営利的に失敗したという意味ではなくて、持続しなかったということだ。問題は、持続し、社会や人々のライフスタイルや価値観を変えたかどうかだ。その意味では、映画のなかでショーンが、Napstarは結局は大企業に奪われ、儲けにはならなかったと言われたとき、「いや、CDは売れなくなったじゃないか」―つまり音楽文化を変えた―と言うのは、この間の真実を言い表している。
◆この映画では、ザッカーバーグがたちあげたサイトへのアクセスが激増したこと、嘲笑的に描かれる双子の兄弟(アーミー・ホーマーの二役+コンピュータ処理)のサイトへのアクセスを上回り、最後には2大大陸にまでユーザーが増えることが強調されるが、ザッカーバーグにとって、またFacebookというネットワークにとって重要なのは数ではない。むしろ、問題はグローバルな規模で<いまここ>をリアルタイムで実現すること―これをわたしはtranslocal と呼んだ―である。
◆映画のなかでは主題ではないが、ザッカーバーグがパーティに関心がなく、いつも働いているのも、新しいカルチャーだ。そこでは、「働くこと」(労働=苦労)と「仕事」と「遊び」の差異はない。彼は、映画の冒頭でエリカとコミュニケーションがうまくいかないが、それでエリカと切れたとすれば、それは運がなかったのである。彼のような「自閉症」的人間は、一方的にしゃべるのがあたりまえである。そして、今日のコミュニケーション理論も、コミュニケーションは、「キャッチボール」や「伝達」ではなく、もともと個々人が持っているものを開き出すことにすぎず、言語や身ぶりやもろもろのコミュニケーション行為は、そういう開示を刺激し、その「共鳴」(レゾナンス)ないしは「共振」的な震えを起こさせる手続きにすぎないことがわかっている。
◆ザッカーバーグのような人間が今後あたりまえになれば、「グループ」や社会の意味は変わってくる。人々は、肉体を触れ合うかたちでの「連帯」や協力よりも、リモートな関係を好むようになるだろう。インターネットのソーシャル・ネットワークは、そのまだ素朴で荒い形態にすぎない。すでに教育も、オンライン・エデュケーションに見られるように、学生を教室に集めるのではなく、それぞればらばらに、世界中どこにいても、「学校」教育を受け、卒業まで出来るようになりつつある。ショッピングは、すでにネットショッピングが店舗販売を侵略しつつある。むろん、だからといって、身体的な場やものがなくなるわけではない。その棲み分けが厳しくなるのである。すくなくとも、この映画は、こういう今日的な事態はとらえそこなっている。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)


2010-10-13
●わたしを離さないで (Never Let me Go/2010/Mark Romanek)(マーク・ロマネク)  

◆映画には、1950年代から90年代までのちゃんとした時代設定がある。が、これは、カズオ・イシグロ(原作)/アレックス・ガーランド(脚本)の「計略的」なスタイルである。このスタイリッシュでフィクショナルな設定によって、ここで語られる「SF」的なドラマは、ひょっとしたら事実ではないかという批判的な問いを惹起する。たとえば、ヒトラーに時代には一見「SF」的」な人体実験が行われていたことがのちにわかる。ならば、50~90年代にもっと徹底した人体操作がおこなわれても別に不思議ではない。
◆まだ規律がやかましい時代の学校風景を映しているかのようでいて、この学校に集められている生徒は、クローン技術で生まれた子供で、しかも、ある年齢に達すると臓器移植のドナーになることを運命づけている。そのことに誰も疑問をもたず、ボールがフェンスを飛び越えてもそれを越えてボールを取りに行こうとはしない。彼や彼女らは、逃げるということを知らない。そういう風に設計されているのである。映画は、このへんを最初から明確に描くわけではない。うっかり見ていれが、そういうこともありえるのかと思ってしまうかもしれない。マーク・ロマネクは、このミニマルな設定を見事に映像化している。
◆キャシー(イズィ・マイクル=スモール/キャリー・マリガン)、ルース(エラ・パーネル/キーラ・ナイトレイ)、トミー(チャーリー・ロウ/アンドユー・ガーフィールド)の3人の幼少時から壮年期までにが描かれる。クローンであることはさりげなく示唆されるだけなので、途中までこういう組合せがたまにいるなと思いながら見てしまうこともありえる。あるいは、ルースが3度目のドナーになり、トミーが最初のドナーになるときになっても、そういうこともありえるかと思いながら見る可能性もある。が、どこか変だという気持ちはつねにあり、それがだんだん大きくなり、最後にはそういうことかと思うことになる。ディテールに恐るべき事実を隠すやり方はカズオ・イシグロのスタイルである。
◆彼らは、決して逃げようとせず、定められた通りに内臓を提供し、何度目かの摘出手術で死んで行く。その場合、誰もはっきりとは命令せず、強制もせず、彼らも闘わない。しかし、だからといって、葛藤をもたないわけではない。ある意味では彼らは闘うが、それははっきりと「敵」が見える闘いではない。決められた運命の枠のなかで、生き延びる方法を探す。その方法は、結局は「噂」や「伝説」にすぎず、彼らが臓器提供の運命から逃れる方法はない。
◆人間は誰しも運命に動かされているようなところがある。このドラマでは、3人の運命は、少なくとも最初は誰かによって人工的に定められたはずだが、誰がそうしたのかは最後まであいまいである。その誰かにしても、単に動機付けをしただけで、その運命は、人間の存在そのものから生じるのであって、だからこそ運命なのであり、誰にもコントロールできないのである。
◆本当に愛しあっていることが証明できればドナーになることから解放されるという「伝説」を聞いて、3人は、マダム(ナタリー・リチャード)の家を訪ねる。そのとき、同じ家にかつての寄宿学校で校長をしていたミス・エミリー(シャーロット・ランブリング)が姿をあらわすシーンは、カフカの『審判』で弁護士の家を訪ねると、途中で奥から裁判官が出てくるシュールで不条理なシーンを思い出させた。
◆キャシーが手に入れるカセットテープの歌手は、「ジュディ・ブリッジウォーター」(Judy Bridgewater)となっているが、この歌手は実在しない。「ディーディー・ブリッジウォーター」にかけているのだろうか?
ポスターにもなっている美しい桟橋は、サマーセットのClevedon Pierだ。
(20世紀フォックス映画配給)


2010-10-12
●黒く濁る村 (Moss/2010/Woo-Suk Kang)(カン・ウソク)  

◆この映画には、韓国の現在を形作っているいくつかの代表的な要素が描かれている。まずは、今日主流のキリスト教とは別の宗教的流れ(祈祷院)、次は賄賂やコネが幅をきかせる旧時代的人間関係、そして最後はビジネスや「合理性」で動く現在進行形の人間関係である。ユ・モッキョン(ホ・ジュノ)がはじめ加わるサムドク祈祷院はキリスト教の浸透以前からある信仰の場である。ユ・モッキョンには、キリスト教的犠牲と奉仕の精神がみなぎるが、同時に韓国の古いシャーマン的な、人を呪縛する力がある。ユを逮捕するチョン・ヨンドク(チョン・ジュエン)は、韓国のパク・チョンヒ(朴正熙)/チョン・ドゥファン(全斗煥)政権時代の権力の特性を代表するパーソナリティである。他方、ユの息子だが、父親と疎遠のユ・ヘグク(パク・ヘイル)と彼の友人で検事のパク・ミヌク(ユ・ジュンサン)は、「民主化」とビジネス合理主義の申し子的存在だ。これらの登場人物のあいだに、力の強い者の手先のように動く、チョンの手下キム・ドクチョン(ユ・ヘジン)とチョン・ソンマン(キム・サンホ)がいる。唯一のヒロイン、イ・ヨンジ(ユ・ソン)は、シャーマン(巫女)的女であり、オモニ(パワフルな韓国的母親)的要素を潜めている―彼女には、今日の韓国の女性が持つ要素は希薄である。
◆チョン・ヨンドクを演じるチョン・ジェヨンは、1970年生まれだが、特殊メイクで中年から老人までを演じる。が、それと対照的に「現代人」を演じるパク・ヘイルとユ・ジュンサンは、はっきりとその差を浮き彫りにしなければならないが、ユ・ジュンサンはとりわけ、「現代人」を生き生きと演じている。また、幼いときから祈祷院に入り、青春を奪われた形で成人した女を演じるユ・ソンは、その時代から引き離され屈折したキャラクターを演じ、最後のシーンではそういう屈折の果てにある凄みのようなものを表現する。
◆ユ・ヘグクはたしかに「現代人」ではあるが、村へ来て、チョン・ヨンドクに酒をすすめられたとき、一旦は断るが、「俺の酒がのめねぇのか?!」と脅され、杯を受ける。そのとき、彼が横を向いて杯を空ける。これは、目上の者に対してとる「伝統的」なスタイルで、タバコを吸うときにもこういう身ぶりをする。つまり、ユ・ヘグクは、「伝統」を全然知らないわけではないのである。
◆チョンの命令のままに人も殺すキム・ドクチョンを演じるユ・ヘジンは、限界状況に直面して、チョンの機能として生きてきた自分の苦悩と苦しみをあらわにする。その演技は、往年の川谷拓三にも似て、迫力がある。
◆こうした人物配置のもとで起こる出来事は、いずれも韓国の近・現代史を象徴している。物語が1978年から始まるのは非常に示唆的である。韓国にとって1978年は、文字通り時代を画する転換の年であった。この年、大韓航空機銃撃事件が起きるが、1979年には、パク・チョンヒ大統領がKCIAの部長にピストルで暗殺されるという事件が起きる。彼の権力を後継するチョン・ドゥハンは、12月にクーデターを起こし、全土を掌握する。体制に反対・抵抗する学生・市民の運動が高まり、1980年5月には光州事件が起きる。このあたりは、『殺人の追憶』や『光州5・18』にも描かれている。ただし、この映画ではそういうことは一切語られない。そこが実に意味深なのだ。
◆チョン・ヨンドク刑事が、ユ・モッキョンを逮捕したのち、彼を奉(たてま)って”救済”村を作るのは、必ずしも彼がユの教祖的人格と能力に屈したからではない。彼には、魂胆があった。むしろ、この出来事は、ある種の「クーデター」と考えたほうがよい。チョンが警察権力の人間であることを思うと、チョン・ドゥハンのクーデターがダブる。大げさなことを言うなと言われるかもしれないが、この映画は、マクロなことをミクロに描くのが特徴なのだ。
◆それから30年つまり現在に時代設定が移る。父親の死を伝えられたユ・ヘグクは、敬遠されながらも、村の秘密を次第に知っていく。父ユ・モキュンを崇(あが)め、彼の唱える「センシク(生食)」―ベトナムでの罪を清めるために熱を加えない徹底した菜食主義―の生活を続けていると思われたチョン・ドクはを長とする村人は、きわめて現実的に生きていた。そのどろどろとした「濁った」姿が次第にあばかれて行く。このへんは、ミステリーとサスペンスの展開である。
◆信仰や観念を信奉する原理主義と現実生活との乖離は、韓国にかぎらず歴史のなかでくりかえされてきた。祈祷院で起った(ということがあとでわかる)信者たちの集団死は、1978年にガイアナで集団自殺を行った(とされる)人民寺院(Peoples Temple)の事件を思い出させる。わたしは、この事件をニューヨークで知った。すぐにこれが「CIAの陰謀」という噂が流れたが、事実はわからなかった。いずれにしても、極端な原理主義は、多くの場合、破壊的な事態で終末をむかえる。さもなければ、原理主義はよそおいのなかでのみ維持される。ユ・モキュンを奉り、事実上チョン・ドクが仕切る村は、超監視社会であり、チョンの家から村の全体が眺望できるようになっていた。チョン・ドクの家からは、秘密の地下道を通じてユ・モキュンの家に行けるようにもなっていた。いわば、KCIAが仕切る一時期の韓国のミクロ・モデルである。
◆ユ・ヘイグは、「いまどき(部屋)でネットが使えないのか」と不満をいだく。やっと町まで行ってコンピュータを借りる。用心深い彼は、アクセスの経歴を消すが、チョン・ヨンドクは、ハードディスクを解析してアクセス先をさぐる。このへんも、コンピュータの知識のレベルの高い韓国の現実を描いていて面白い。
◆ユ・ヘグクは、屈折した関係の友人で検事のパク・ミヌクの助けを借りながら、チョン・ドクとその一味を追い詰める。そのやり方は、いかにも「民主化」の時代の合法的なやり方である。チョンが土壇場で言う台詞が意味深長である。要するに、ユ・ヘグクらが自分の追求を続けるなら、「元大統領」にまで罪が及ぶだろうというのだ。これは、まさに、1997年に有罪が確定した「元大統領」ノ・テウ(盧泰愚)を思い出させる。
◆しかし、この映画は、「民主化」の将来を楽天的に支持しているわけではない。わずかに最終場面でアップになったユ・ヘグクの表情のなかで示唆されるだけであるが、このシーンは実に面白い。彼は、チョン・ドクの家を仰ぎ見ながら、そのテラスに立つイ・ヨンジを見ている。彼女は、さんざん村人にもてあそばれた女だ。チョンが征伐されたことは、彼女にとっては解放である。ここには、韓国の女性の解放(男性至上主義からの)とリンクすると同時に、それは、必ずしも「民主化」の推進ではないことも示唆する。彼女はどういう女だったのか? 彼女にはオモニ的/シャーマン的な要素があったのではないか? 彼女は、父の忠実な信者だったのか? 父がもたらしたことを憎み、父への復讐の念に燃えていたのではないか? 日本の権力が、危機に瀕するとき、天皇を呼びもどしたように(あるいは危機のワイルドカードとしてつねに天皇を保持してきたように)、韓国には、オモニの文化というものがあり、いわばそれを表面から隠す(そういう形で温存する)ために男が虚勢を張るという伝統があるのではないか? その意味では、オモニが表面に出てくるとき、歴史的には最もソフトな支配が始まるわけである。
(C J Entertainment Japan 配給)


2010-10-07
●デイブレイカー (Daybreakers/2009/Michael Spierig+Peter Spierig)(マイケル・スピエリッグ+ピーター・スペエイリッグ)  

◆なかなか効果的なイントロから始まる。少女がマニュキアした長めの爪の指でぎごちなくボールペンを握って紙に字を書いている。それから彼女は、家の外に出る。地面に座り、日が昇るのを待つ。大写しになる彼女の眼が光っている。ヴァンパイアの眼である。やがて日が彼女の上に射し込んできて、彼女の体は消滅する。本当はもっとリアルだが、この表現にとどめておく。そのオシャレな映像をスクリーンで確かめてほしい。ヴァンパイアは日光に弱いという論理を効果的に描いている。彼女は、遺書を残し、この世におさらばしたのだ。
◆この映画の世界では、ヴァンパイアの比率が人間の人口を上回っている。ヴァンパイアの世界にも、人間の血にめぐまれたヴァンパイアと、血に飢えているヴァンパイアとの階級差が生まれている。その底辺には、血が欠乏してゾンビ状態になった「サブサイダー」の群れもいる。人間は捕らえられ、家畜のように工場で飼育されて、生血を供給している。
◆チャールズ・ブロムリー(サム・ニール)が率いるブロムリー製薬会社は、エドワード・ダルトン博士の指揮のもと、合成した生血の開発にやっきになっている。社長室で、チャールズがワイングラスで飲んでいるのは、人間の生血である。権力者はそういう贅沢ができるが、だんだん人間の血液が不足して、世界が危機状態になっている。それを報道するテレビのニュースキャスターの目もあやしい金色に光る。
◆ヴァンパイアにも、人間を家畜化することにためらいを感じている者がいる。エドワードはその一人で、生血を合成する技術を開発することで人間との共存をはかろうと考えているが、エドワードには、それで大儲けをすることしか頭にない。冒頭に出てくる少女は、彼の娘であったことがやがてわかる。娘を死なせてしまったことに対する自責の念はあるのだが、それを打ち消すためであるかのように人間の隷属に専心している気配もある。エドワードのほうにも「家族の悩み」がある。彼の弟フランキー(マイケル・ドーマン)は、人間狩の前衛である軍に入り、人間を追い回している。それが、兄エドワードには苦痛の種になっている。
◆こういう設定のもとで、ヴァンパイアに襲われる人間を保護する活動グループが登場するのはいかにもありがちなパターンに思われるが、この映画の基本は支配と被支配の「定石」を押さえながら物語を展開するところにある。それは、かなり成功していると思う。オーストラリアの作品だが、企業や軍のイメージはきわめてアメリカ的である。いまの時代、あまり楽天的な現実観はリアリティがない。この映画は、その点で、かなり甘みを抑えている。
◆この映画は、メタファー的な変換の楽しみが随所にあるところを評価すべきだろう。たとえば、人間の血をめぐって支配と被支配の闘争がくりひろげられる。「血を吸う」というのは、収奪の最も可視的なイメージだ。が、力のある者がその生血を奪い取っている段階では、古典的な収奪である。それが、産業的に合成されるという段階になって初めて、人間の生命や労働が情報/金銭として収奪されるという近代経済の収奪になる。だから、この映画で、ブロムリー製薬会社が人間を生血提供の「家畜」として拘束するのではなく、工業的な方法で生血を製造する方向に向かうのは、近代から脱近代(ポストモダン)への必然的な展開なのだ。それが成功すれば、ヴァンパイヤの生存の危機は逃れられる。生血信仰は、合成血液の技術が進むにつれて、薄らいでいくだろう。人間はヴァンパイアに収奪されなくなるだろうが、逆に今度は人間がヴァンパイアになりたいという欲望をいだくようになるだろう。
◆ライオネル・コーマック(ウィレム・デフォー)は、一度ヴァンパイアになってしまったが、奇跡的に人間にもどることができた例外的な人間である。彼と出会ったエドワード・ダルトンは、そのことを知り、その方法をシステマティックに再現しようとする。それは一部成功するが、それが今後発展し、ヴァンパイアが人間にもどるようになる気配は薄い。すでに膨大な数のヴァンパイアがおり、救いようのない「サブサイダー」の数も増えている。クローディア・カーヴァンが演じる活動家オードリーは、ライオネルと協力して、人間たちを避難所に隠す活動をしているが、それはあまり成功しない。せっかく避難させても、軍に襲われ、全滅してしまう。ヴァンパイア化の力は圧倒的である。人間にもどろうとしてももどれないジレンマは、この映画では前提である。だから、この映画の終わりは、決して単純なハッピーエンドではない。
◆終盤は、エドワードとオードリーのラブストーリー的要素もくわえながら、ブロムリー製薬会社の合成血液の生産を阻止するサスペンスに向かう。ヴァンパイアにとって、血液は、食料と麻薬と金をいっしょにしたような存在であるが、それはもともと人間から生まれたものだ。それがいま自家中毒を起こす。この矛盾に直面して、人間はヴァンパイアになりつづけるか、それともヴァンパイアであることをやめるかの選択を迫られる。冒頭の少女は、ヴァンパイアになった(させられた)のち、後者を選んだ。しかし、ヴァンパイア化は、不可避的な事態である。誰も、ヴァンパイアになるのを避けることができないというのがいま進んでいる動向だ。この映画は、にもかかわらず人間ならそういう動向と戦わなければならないといった古典的モラルでドラマを進めているように見えながら、その一方で、ヴァンパイア化がもはや押しとどめることができないということを否定してはいない。
(ブロードメディア・スタジオ配給)


2010-10-05_1
●わたしの可愛い人―シェリ (Chéri/2009/Stephen Frears)(スティーヴン・フリアーズ)  

◆大分まえにDVDで見ていたが書かなかった。DVDとフィルムとはちがうと思っているので、DVDしか見ていない作品についてはここでは書かないことにしている。しかし、『キネマ旬報』の「星取り」コラムでこの作品について書く必要があり、試写の最終に飛び込んだ。DVDで見たわたしの印象は、あまりかんばしくなかったが、フィルムで見ればちがうかもしれないという期待があったからである。ただし、わたしは、フィルム至上主義者ではない。フィルムとDVDとの違いは、前者は(原則として)中途で止めたり、早送りしたりして見ないのに対して、後者はそういう「流し見」ができるという点である、とわたしは思う。だから、DVDでも、ちゃんとしたスクリーンで最初から最後までおとなしく見れば、フィルムで見たのと変わりがないとも言える。どのみち、試写を現在のような試写室でやることは少なくなるだろう。
◆ビデオ(テープ、DVD、オンデマンドを含む)は、映画の見方を変えた。止めたり、戻したりして見れば、見方が「分析的」になるのは当然だ。それはそれでいい。批評に分析は欠かせない。が、止めて確かめたいと思いながら、「何だろう?」という思いを残したまま、最後まで通しで見る(これまで「あたりまえ」だった)見方の功徳(くどく)というものもある。「誤解」や「妄想」による「創造的」な映画解釈である。ビデオでは、こういう見方は単なる「見間違え」や「深読み」だと一蹴されてしまうが、誤解や妄想は映画批評の面白さの源泉でもあった。
◆さて、フィルムで見た『わたしの可愛い人―シェリ』は、サビの利いた声によるナレーションが一番印象的だった。スティーヴン・フリアーズ自身が担当しているらしいが、冒頭で19世紀のベル・エッポック時代のパリの娼婦の「社会史」と王室との関係を皮肉たっぷりに紹介し、最後には、この映画の主人公シェリ(ルパート・フレンド)の行く末を10語に足りない言葉で片付ける。ベル・エポックが第1次世界大戦とともに終わり、レアとシェリは別離のまま、シェリが拳銃で頭を撃つというのだ。そのナレーションに対応するかのように、やや老いた風情のレアが放心したような表情をし、ほとんどそのストップモーションのようなシーンで終わる。
◆この映画は、非常に「確信犯」的に作られている。かつてスティーヴン・フリアーズは、この映画の脚本を書いているクリストファー・ハンプトンと『危険な関係』(Dangerous Liaisons/1988)を撮っている。それは、クリストファー・ハンプトンがコデルロス・ド・ラクロの小説を脚色し、ロンドンやニューヨークで大ヒットした舞台にもとづいている。が、ジョン・マルコヴィッチ、グレン・クローズ、ミシェル・ファイファーといったハリウッド俳優が英語で演じる18世紀フランスの貴族を見るのは奇妙な経験であった。わたしはそれを忌避したが、映画の一般的評価は高かった。わたしにはわからなかったが、それは、スティーヴン・フリアーズとクリストファー・ハンプトンによる「新しい」試みだったようだ。そのことに気づいたのは、今回この『わたしの可愛い人―シェリ』を見てからである。つまり、彼らは、フランスを題材にしながら、英語による舞台劇の映画化を画策したのだ。いわば、日本の「新劇」のシェイクスピアのように、「元」は関係ない新ジャンルの創造である。
◆そう考えると、この映画で、マダム・プルーという元娼婦でいまでは財産家の女をキャシー・ベイツが演じ、およそ「娼婦」らしいしたたかさなどなく、むしろ脂ぎった「事業家」的風情を呈するとしても、それもありなのだ。普通、「フランス」が舞台だということになると、英語を「フランス語訛り」で発音させるような演出をするが、この映画ではそんな小細工はしない。ファイファーらは、舞台英語をしゃべり、それにナレーションのブリティッシュが全体を相対化する。しかし、その「相対化」は、原作のシドニー=ガブリエル・コレットとは全然方向がちがう。フリアーズ/ハンプトンには、どこか「社会派」的な「煩悩」がある。コレットは、むしろ、老娼婦と青年との「痴話」に徹する。「痴話」を「文学」にしてしまったとkろがコレットのユニークな才能なのだが、痴話は痴話である。しかし、映画は、「痴話」に距離を置こうとする。しかし、「痴話」に距離を置いて娼婦を語れるだろうか?
◆終盤の別れのシーンでミシェル・ファイファーの抜群の演技を見ることができるが、老・元・高級娼婦という設定にしてはファイファーは「美し」すぎ、また、まるで「母親」のように優しすぎる。25歳の年齢差があるという設定にもかかわらず、この感じならば、レアの側もシェリの側も、別にあせる必要はないんじゃないのと思われなくもない。年齢差の恋が問題ならば、ファイファーにもう少し「疲れ」がほしい。原作では、シェリに同性愛的な要素のにおいもあるが、この映画では、その面は(シェリがボクシングをしているシーン以外)全くない。
◆原作とは関係ないと思って見ないとこの映画は見続けることが難しい。しかし、原作は存在するのだから、それに触れないわけにはいかない。この映画がつまらないのは、原作が、コレットの全盛期の1920年代(「レ・ザネ・フォル」=Les Années Folles=「狂乱の時代」)を舞台にしているのに、映画は、それよりまえの「ベル・エポック」に時代をずらせている点である。なぜその必要があるのか? 「バブル」のあとに戦争をもってきたかったからかもしれないが、といってこの映画の世界はそれほど「バブル」っぽくもない。
◆最期まで「何なんだ?」という疑問が消えないのは、原作では、レアの老いへのあせりや不安がひしひしと伝わってくるのに、この映画ではそれが全く感じられないからである。ちなみに、原作にはこんなくだりがある。
あの婆さんと同じに、あたしはもうおしまいなの・・・・さ、ほら、急いであんたの若さをさがしにゆきなさい。あんたの若さは、年増女たちにほんのちょっとすり減らされただけなんだわ。まだいっぱいのこっている。・・・それにしてもあたしはなんでこんなことをしているの、こんなお説教をしたり、心が寛いところを見せようとしたり? わたしがあんたたちふたりについてなにを知っているっていうの?
◆コレットの原作では、輝いているのはシェリであり、年上の女のレアは、それをまぶしく見るのだ。原作には、上のくだりの少しあとに、「彼は彼女の目のまえに仁王立ちになり、胸をむきだしにして、髪をざんばらに乱したままじっと聞き入っていた」とあり、続けて、「あまりに欲情をそそるその姿をまえにして、彼女は両手をよじり合わせ、今にも彼にしがみつきそうになる自分の手をがんじがらめにしているのだった」とある。つまり、レアは、老いた自分を哀れみながら、若き恋人に抑えることのできない「欲情」を感じるのである。このシーンに該当すると思われる映画のシーンでファイファーはたしかに熱演を見せるが、そういう「欲情」は表現しなかった。自分の年齢的限界を感じながら、にもかかわらず/それだからこそ高揚する「欲情」――映画は、そういう次元をすっとばしている。
(セテラ・インターナショナル配給)


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