粉川哲夫の【シネマノート】
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★今月あたりに公開の気になる作品:
★★★歓喜の歌     ★★★★牡牛座 レーニンの肖像     ★★★★潜水服は蝶の夢を見る     ★★★★かつて、ノルマンディーで     ★★★エリザベス ゴールデン・エイジ     ★★★★ファーストフード・ネイション    

Sweet Rain 死神の精度   丘を越えて   裸足のギボン   悲しみが乾くまで   ゼア・ウィル・ビー・ブラッド   ミスト   チャーリー・ウィルソンズ・ウォー   王妃の紋章  


2008-02-25

●王妃の紋章 (Man cheng jin dai huang jin jia/Curse of the Golden Flower/2006/Yimou Zhang)(チャン・イーモウ)

Curse of the Golden Flower/2006
◆AV Festival 08の準備が出来ていないが、仕事場にいても何か出来るというわけでもなさそうなので、とにかく外へ出た。アカデミー賞の発表をWOWWOWでやっているためか、試写室は閑散としていた。おかげで、スクリーンをまえの人の頭でさえぎられることなく見ることができた。
◆中国経済が飛躍的に発展するのと反比例して、日本では、反中感情が強くなっている。餃子パックに農薬成分が入っていたことも、中国食品の買い控えの動きを加速させた。中国国内の「公害」のニュースも反中意識をエスカレートさせる。そのために北京オリンピック参加の中止のを表明した者もいる。黄砂が日本に飛来し、花粉症の症状をあおっているという説もある。が、事実はどうなのか?
◆中国は恐ろしいのか? それは、国家だから、恐ろしい。どの国家も、巨大化していいことはない。チャン・イーモーは、「現代化」以前の時代を知っている人であり、いまより表現活動の困難なときに、映画を作ってきた監督である。イデオロギー的な主張をせずに、「色」で主張し、国家の検閲をかわしてきた。この映画には、彼の警告が読み取れる。チャン・イーモウは、中国の未来に暗雲を見ているような気がする。
◆唐王朝の末期をモデルにして、架空の王と王妃をめぐる「退廃」の様相をどぎつく描く。浪費の大規模動員。「大きいことはいいことだ」主義。チョウ・ユンファは、笑顔のなかに残忍さをやどした権力者を劇画のようなどぎつさで演じ、コン・リーは、死をもって抵抗するしかない運命にただただ翻弄される王妃を演じる。チョウ・ユンファーの人を食った「貫録」と、コン・リーの悲しげな目が活かされている。顔に焼印を押されて捨てられ、憎悪を内に含んだ女を演じるリー・マンもすごい。
◆ヴィスコンティも好んで描いたが、時代と権力の終末が退廃とともにあるのは、本当だろうか? 王と王妃の関係は、形式的であるどころか、王は王妃の緩慢な死を画策している。妃はそれを知りながら、抵抗しない。その代わりであるかのように、王が別の女に産ませた皇太子(リュ・イエ)と不倫関係を続ける。「忠義」を守るのは、武術を磨いて帰ってきた第2皇子だけ。
◆王妃は、自分の死を自覚しながら、ひたすら菊の刺繍を編む。露骨な陰謀と隠微な陰謀。重陽の節句がこの映画の象徴記号であり、この映画に隠された暗号でもある。
◆命令一下ばばば~っと数千から万単位の人間が動くのは、中国の歴史のなかでくりかえされてきた闘いの様相だが、(万単位ではないにしても)映画の撮影においても似たような動員の仕方が行なわれる。それを思うと二重に中国が怖い。
◆空から忍者のような黒ずくめの兵士があとからあとから現われ、ロープ伝いに地上に降りてくるシーンもすごい。ただし、これは、おそらく、ボンドが日本に来るという設定の『007は二度死ぬ』(You Only Live Twice/1966)(丹波哲郎、若林映子が出演している)のシーンからヒントを得たのではないかと思う。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2008-02-19

●チャーリー・ウィルソンズ・ウォー (Charlie Wilson's War/ 2007/Mike Nichols)(マイク・ニコルズ)


◆試写の常連のYさんに会った。開場とともに彼もわたしも、それが当然というようようにどんどん前に進む。「よみうりは、けっこうスクリーンが遠いんですよね」とわたしが言い、最前列に座ると、「風が来るんですよ」と彼は言い、最前列を避けた。なるほど、たしかに上から冷たい風が来る。さすが。
◆癖の強いギリシャ系アメリカ人のCIA要員を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンが抜群の演技をする。ある個性に成りきるという意味では、『カポーティ』よりはるかに上のレベルに達している。ところで、半畳を入れるのが常のこのノートらしく、注を入れる。かつて結城孫三郎を名乗っていた田中純によると、古い日本の演技の思想は、「役に成りきる」のではなく、「役を真似る」であった(「傀儡の戯言」、『attention 2』)。ブレヒトも、役に成りきる「アリストテレス的演劇」に対して、「叙事詩的演劇」を提唱した。それは、それで面白いのだが、「役に成りきる」ことをタテマエとする演技も、あるレベルに達すると、それなりにすごい。
◆パキスタンとアフガニスタンの国境地帯の当時の難民キャンプの映像は、モロッコで撮影されたそうだが、粗末なテントが無数に見えるそのシーンは、映画的に見事。ただし、「ムジャヒディン」(原義的には「イスラム聖戦士、しばしば「アフガンゲリラ」と解される)とソ連軍との戦闘シーンなどは、わざとレゾルーションを荒らしたように見えるが、それで時代色が出たわけでもなく、また、テレビ映像だという設定もなく、なんかバランスが悪い。
◆トム・ハンクスは、基本的に「悪人」を演じることができない役者である。その彼が、女と金に汚い議員を演じる。しかし、実在のチャーリー・ウィルソンは、CSPANで放映されたイラクへの姿勢を表明する演説などを聞くと、ハンクスなどとは質のちがう、脂ぎった確信犯のつらがまえをしている。とても、アフガニスタンの貧しい人々を救うために反ソの支援をして、最後には、難民の子供たちの学校を作ることまで本気で考えたとは思えない。
◆この映画の「わかりやすさ」がひっかかる。これで行くと、なぜ911が起こったかが、謎解きされる。この10年間にエスカレートしたアメリカの諸悪の根源までわかるような気がする。が、納得の話は気をつけた方がいい。この映画の現実把握は、さしずめ元NHK解説委員池上彰の「そうだったのか」式の歴史解説のたぐいで、その「目から鱗(うろこ)」的明快さによって、事実を目眩(くら)ましてしまう効果がある。
◆実在の下院議員チャーリー・ウィルソンは、映画によると、アフガニスタンからソ連を追い出し、ソ連の崩壊、ひいてはベルリンの壁の崩壊、つまりは「冷戦の終焉」をもたらしたとして表彰されたことになっているが、彼の「功績」はデマだという証言もある。たとえば、ドキュメンタリー作家のメリッサ・ロディ(Melissa Roddy)は、
AlterNetでこの映画が描く「事実」をくつがえし、別の証言を映像にしている。これは、YouTubeで見れる
◆映画は、チャーリー・ウィルソンの主張、あるいは、この映画の原作となっているジョージ・クライルの同名の書(邦訳、『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』上下、ハヤカワ文庫)の主張をいささかも疑っていない。すなわち、アフガニスタンからソ連を追い出したまではよかったが、その後の対策をおこたったために、911が起きたというのである。チャーリー・ウィルソン自身は、「解放」されたアフガニスタンが世界のテロ教習場になってしまう危険を察知し、「解放」後ただちに学校を作り、「民主化」教育にアメリカが金をつぎ込むべきだと考えていたという。しかし、政府は「何もしなかった」。ウィルソンは、それが不満だった。だから、彼の「功績」をたたえる式を映したこの映画の最初のシーンで、チャーリー・ウィルソンは、うかぬ顔をしている、というのである。
◆議会ではもちろんのこと、CIAの内部でも極秘に進められたアフガニスタンのムジャヒディンへの資金援助(1982年に年間500万ドルだったのを10億ドルまで引き上げた)と武器供給は、秘密であるという点で、公的証拠がない。ということは、チャーリー・ウィルソンのような自己顕示欲の強い人間ならば、「全部俺らがやったんだ」と名乗り出ることも可能である。むろん、その逆も可能で、この話は、水かけ論になってしまいかねない。
◆しかし、メリッサ・ロディらの批判によると、たしかに、この映画(と原作)は、アフガニスタンの「ゲリラ」や「アラブ・ボランティア」の力をあまりに軽視している。ウィルソンは、パキスタンの要請を受け、イスラエル、サウジアラビア、エジプトなど、通常では「敵対」しているはずの国々のあいだに秘密のパイプをつくり、ソ連に兵器を納めているイスラエル(!)から密かに「ソ連」の兵器を調達して、アフガニスタンのゲリラたちに渡した。彼らがソ連に勝ったのは、この映画では、そうしたウィルソンらの秘密の外部支援がもっぱら効果を発揮したということになっているが、政治や戦争はそんな単純には進まないし、「ゲリラ」をなめているのではないかというのが、ロディらの批判である。これでは、まるで、すべてをアメリカの秘密組織が動かしているかのようにみえる。アフガンに進駐したソ連を追い出しただけでなく、ソ連の崩壊からベルリンの壁の崩壊までをアメリカがやったかのような解釈。これは、思い上がりである。
◆この映画では、パキスタンのムハマッド・ジアウル・ハック大統領(オム・プリ)があたかも、パキスタンへのアフガニスタンからの難民、アフガニスタンでソ連兵から虐待されるイスラム系の人々に同情していたかのように描いている。しかし、実際には、ハックが一番恐れていたのは、パキスタンとアフガニスタンにまたがる「Durand Line」に住む人々(ちょうどパレスチナのように)が独立することだった。ちなみに、先日暗殺されたベナズィール・ブットーの父親ズルフィカール・ブットーは、ハック(陸軍参謀長)のクーデターによって首相の座から引きずり下ろされ、その後、強引に処刑された。パキスタンとタリバーンとの対立は、「Durand Line」の抑止に役立つわけであり、「和解」があってはならないのである。
◆マクロな政治力学から考えると、アフガニスタンへのソ連の介入は、アフガニスタンにおけるイスラム系や少数民族が自律することを牽制することであって、それは、パレスチナを抑え込んでおきたいアメリカとは、利害の合う出来事だった。しかし、ニクソン政権は、冷戦の「2極化」戦略から「多極化」戦略に転じ、その流れのなかで、世界の「飛び地」(アンクレイブ)で、ある種の自律の動きが強まるのである。
◆しかし、そうした「多極化」戦略は、システムを瓦解させる危険をはらんでいるので、それを「2極化」にもどした方がよいと考える派と摩擦を起こす。ニクソンが「ウォータゲート」で退けられ、その後「多極化」の面ではニクソンよりも進歩的なカーターが大統領になったにもかかわらず、たちまちその外交政策がイランでつまずくのも、「2極化」への揺りもどしの状況を考えれば、当然である。しかし、外見上「 2極化」に熱心であるかに見えたレーガンが、基本的にゴルバチョフの「多極化」に同調するのは、世界がもはや「2極化」ではやっていけないほど「多様化」しはじめたからである。
◆「多極化」は「多様化」とはちがう。ミクロなレベルの「差異」をシームレスに認める「多様化」に対して、「多極化」は、一見、多様化を認めるかのようなサンプルを限定的にばらまいて、「多様」をよそおう戦略。「G7」や「G8」(先進8カ国蔵相中央銀行総裁会議)に見られるような「7」つとか「8」つとかの「先進国」を柱にしても、「多様」はおろか「多極」はまやかしで、たったの8つぐらいの「極」で世界を代表するのは無理である。
◆テクノロジーの変化を見れば誰でもが漠然とであれ感じる世界の「多様化」をある程度以上に進まないように抑えることでは、アメリカもソ連も利害が一致していたし、いまでも、世界の「先進国」のあいだでは一致している。いや、一致を画策するために「G8」などがあるわけだ。「多様」をみせかけの「多極」におさえることは、世界のさまざな場所でアメリカをはじめとする「先進国」が、「自律」の動きを抑止するための盾としての軍事政権や権威主義的な政権をつくり、指示する動きと一体をなしている。問題は、ミクロな部分の自律を阻止することなのだ。
◆ジョージ・H・W・ブッシュ(いまのジョージ・W・ブッシュの父)以後、アメリカは「多極化」戦略に失敗する。湾岸戦争もイラク戦争も、「多極化」戦略すらうまくいかなくなった、あるいはうまくいかせる努力をおしんだ結果である。しかし、あとからあとから台頭する自律勢力のまえでは、「先進国」は、「2極化」戦略で行くしかない。
◆こう考えると、少しこの映画の奥と「たくらみ」が見えてくるだろう。チャーリー・ウィルソンの言うように、議会を通さない規模の武器と金がアフガニスタンにわたったとすれば、それは、少数者はもとより、ムジャヒディンを支援するよりも、ソ連を支援するためだったかもしれないという仮説も成り立つ。にもかかわらず、ソ連が敗退してしまったのは、ムジャヒディンをはじめとする被抑圧民たちが自律のために闘ったからであるにすぎない――と率直に考えてもいい。チャーリー・ウィルソンの主張は、無数で多様な抵抗者たちの力をカモフラージュし、アメリカがソ連のアフガニスタン侵略を密かに支援したということを歴史から抹消するためという推理も成り立つ。
◆チャーリー・ウィルソンは、アフガニスタンの現地レポートをする「CBS Evening News」のダン・ラザーのライブテレビを見て、「アフガニスタンの現状」を知ったということになっている。ダン・ラザーは、ワルター・クロンカイトのあとを継いでこのニュース番組のアンカーになった。リベラルなリポーターとして定評があったが、2004年にメディア界から引退した。そのきっかけは、1999年の『60 Minutes II』でブッシュの軍歴詐称を批判したのが「やらせ」だという嫌疑を受けたことだった。この時代には、すっかり髪も白くなり、この映画のテレビクリップで見るようなはつらつさはなくなっていたが、ブッシュ政権が、ダン・ラザー程度の「リベラルさ」も許せない硬直した体制であることをまざまざと感じさせる事件だった。しかし、この映画は、「リベラル」な報道の逆説を表現していなくもない。なぜなら、(ウィルソンの言う通りならば)ラザーの報道は、アフガニスタンの「人民」よりも、冷戦復活の「アメリカ帝国」の支配者に役だったからである。
◆キリスト教原理主義の富豪ジョアン・ヘンリング(ジュリア・ロバーツ)とテキサス(ブッシュとアメリカ石油資本の拠点)の権力とCIAとの三者のが密かな関係が、1980年代以後のアメリカを大きく動かしてきたことは、よくわかる。でも、ロバート・アルトマン(『ゼア・ウィルビー・ブラッド』は、彼に捧げられている)だったら、このジョアン・ヘリングという女性の「恐さ」女を描いただろう。ジュリア・ロバーツのジョアンは、あっけらかんとした女だ。もっとも、本当に恐いのは、こういう女かもしれない。
(よみうりホール/東宝東和)


2008-02-15

●ミスト (The Mist/2007/Frank Darabont)(フランク・ダラボン)

The Mist/2007
◆早く行ったので外の階段にならんだ。かなりの人。最終的に満席か。映画は、スティーヴン・キングの原作だから、ホラー的要素が強い。最近、なぜか、映画鑑賞中に後ろの人から椅子の背を蹴られることが少なくなったのだが、今夜は、何度も蹴られた。そのタイミングが、「怖い」シーンが登場するのと合っていた(興奮して足をバタつかせるのか?)ので、おそらく、この映画、ホラーとしては成功と言えるだろう。わたしは、久しぶりのダラボン演出作なので、もっと重厚な作品を期待したが、それほどではなかった。が、単なるホラーではなく、アメリカ合衆国の現状への疑問をしのばせている面もあるし、終わり方のそこはかとない「悲劇」性がいい。
◆最近のハリウッド映画は、まえにも書いたが、アメリカン・ニューシネマが登場した頃に似て、アメリカ(というより、アメリカ合衆国)の現状をトータルに(つまり文明論的・文明史的に)描く傾向がある。昨日見た『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』もそうだったし、どんなに「各論」的なことを描いても、それがアメリカ全般の状況を前提にしているような感じになっている。これは、「ネオ・クリティカル・シネマ」とでも言うべき現象で、面白い。
◆原題には、the がついており、「ミスト」(霧)でもただの霧ではなく、ある特有の霧だ。英語的には、「霧」は、映画のタイトルとしては、「fog」が使われることが多かった。「霧」としては、mistは、fogより薄い霧のことらしい。だから、訳としては、「霧」よりも「霞(かすみ)の方がいいかもしれない。また、mistには、「神のベール」というような意味もあるが、英語を母語としないわたしなどは、ついつい、語源の違う「miss」や「mistake」を思いうかべ、アメリカをおおう「ミスト」は、ブッシュを大統領に選んでしまった「ミクテイク」の結果ではないかなどという連想をしてしまう。
◆ある日、アメリカのある田舎(メイン州という設定――撮影はルイジアナ)で雷の夜があけると、あたりに霧がたちこめ、しかもその霧が人を襲う。霧のなかに何かがいるらしいが、最初その正体はわからない。家に妻を残して、息子(ネイサン・ギャンブル)とスーパー(アメリカ的な言い方では「grocery store」)に車で買い物に出たデイヴィッド(トーマス・ジェーン)は、そのスーパーでとんでもない経験をすることになる。ドラマの大半は、スーパーマーケットの内部である。
◆ここでは、霧の正体については書かないが、この世の終わりのようなパニックが起こったとき、集団がどう動くかが、実によく描かれている。しかも、この20年あまりのアメリカで起こったことを頭においてこの集団の動きを見ると、なおさら面白い。ここに登場するスーパーマーケットは、まさにアメリカ合衆国の縮図だ。
◆これまでの常識で理解できないパニックが起こったとき、集団の反応は、幾種類かに分かれる。(1) それを信じようとせず、現在の法的処置で解決しようとする者。弁護士でディヴィッドと土地の境界線問題で折り合いの悪いブレント(アンドレ・ブラウアー)がその代表だ。起こっている事実よりも、論理的な整合性ですべてを解決しようとする。これは、実は、「訴訟社会」化したアメリカを代表する人間だ。(2) ただただパニックって、もうこの世は終わりだと絶望して、全面放棄したり自殺してしまう人間。(3) 手もとにある条件を最大限に活用し、解決策を実行しようとする人間。デイヴィッドのその代表だが、スーパーマーケットの副店長のオリー(トビー・ジョーンズ)、教師でデイヴィッドの息子のめんどうを見るアマンダ(ローリー・ホールデン)、薬品にも強い気丈な老婆イレーヌ(フランセス・シュターンハーゲン)などである。
◆だが、この映画でその「怪物」以上に恐怖させるのは、第 (4) の人間たち、つまり恐怖におののく者たちが扇動者によって洗脳状態におちいるときである。この映画では、狂信的なキリスト教信者のミセス・カーモディ(マーシャ・ゲイ・ハーデン)がその扇動者になる。マーシャ・ゲイ・ハーデンは、独特の目つきの、力のある女優だが、彼女の才能のすべてがこの映画では活かされている。カーモディは、最初から、これは神に背いたことをやった人間への罰だと言う。すべては、すでに『新約聖書』の「ヨハネの黙示録」第15章に書かれている通りだとして、神の「赦し」を得るために「生贄」をささげるべきだなどということを言い出す。人々は、最初、そんなことに関心を示さないが、パニックが深まるにつれて、一人、二人・・・と狂信者が増えていく。スーパーのエンジニアをやっているジム(ウィリアム・サドラー)は、最初、「霧」の怖さを信ぜず、デイヴィッドの理性的判断にさからい、つかみあいの喧嘩をしてしまったが、基本的に、エリートや自分より上の階級の者にルサンチマンをいだいている典型だ。だから、一旦はデイヴィッドに従うようになったが、最後にはミセス・カーモディの「親衛隊」になってしまう。ナチズムも、彼のような社会への不満をつのらせている者たちのルサンチマンをたくみに利用して権力を得た。まさにそのパターンが描かれるが、実は、アメリカで「ネオコン」や「キリスト教原理主義」が台頭したときも、そのようなパターンを踏襲していた。
◆通常、この手のドラマでは、最後になにがしかのハッピーエンドが用意されることが多いが、この映画は、まさに「ギリシャ悲劇」を思わせる深い絶望感のなかで終わる。最近の『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』、『告発のとき』、『ノー・カントリー』などが、どれもハッピーエンドでは終わらなかった以上にこの映画の終末は「悲劇的」である。そこがなかなか印象的だった。
◆この「霧」は、天災ではなく国家がからむ「人災」であるらしいことが暗示されるが、G・W・ブッシュ以来のアメリカは、人災から生まれた「霧」につつまれ、それが濃くなるばかりだ。バラック・オバマが掲げる「変革」(change)でその「霧」は晴れるのか?
◆ところで、オープニングシーンは、ディヴィッドが平和そうな家庭の仕事場で、クリント・イーストウッドの『荒野の用心棒』(Per un pugno di dollari/Sergio Leone) のポスターを描いているところ。映画のなかで、デイヴィッドは、ニューヨークの会社から頼まれたというようなことをちらりと言う。この映画がアメリカで封切られたのは、1967年だから、このドラマはその時代ということなのだろうか? しかし、ケータイも登場するので、時代は現代である。とすると、最初のシーンの示唆するところは何か?この絵が、雷とともに発生した突風で家が壊れ、それとともに絵がめちゃめちゃになる。それは、「荒野のガンマン」=助っ人はもういないという暗示のように。
◆【追記/2008-05-24】上述の絵について、IMDbの「Trivia」に説明があり、わたしの記述は誤りであることがわかったが、訂正する暇がないまま放置しているうちに、いつもよくこのノートを読んでくれている人の一人から、メールをもらった。絵についてだけでなく、面白い指摘があるので、その部分を無断で掲載しておく。
◆「ファーストシーンでデイヴィッドの描いている絵のことですが、あれは『荒野の用心棒』ではなく、スティーブン・キングのファンタジー小説『ダーク・タワー』の表紙絵のようです。デイヴィッドが第何巻の表紙を描いているのかはわかりませんが、あのイラストと同じ挿絵を『ダーク・タワー』の中で見た記憶があったので調べてみたら、ダラボン監督がそうコメントしているものを見つけましたので。ちなみに原書のイラストはこれ↓のトップにあるようなものです。※劇中でデイヴィッドが描いているものではありません。ダーク・タワーの最終巻が発表されたのが2004年なので、舞台設定はひょっとすると、その頃なのかも知れません。既に出来上がった絵の中に『遊星からの物体X』(ジョン・カーペンター版)らしきものもありましたが、これもひょっとしたらキングの小説『IT』の表紙かも知れませんし、たぶんニューヨークのクライアントというのはキングの小説の出版社なのかも知れません。『荒野の用心棒』以外に『物体X』もあったら、監督のメッセージを最初に読み取れるようなものだったかも知れませんが」。
IMDbTriviaの記載―「In the opening shot of the film, David is painting in his room. The picture he's drawing is a design from Stephen King's Dark Tower series of the gunslinger Roland. Another design in the room is that of the poster of John Carpenter's The Thing (1982). John Carpenter also wrote and directed The Fog (1980), which shares obvious themes with the Mist.
◆それで思い出したが、1982年に日本で『遊星からの物体X』が公開されたとき、当時まだ小川徹氏が編集していた『映画芸術』に「不信の時代」というタイトルの文章を書いていた。その後、単行本の『シネマ・ポリティカ』(作品社)に入れたが、その部分を再読し、当時のアメリカの状況と今との関係を考えた。状況の把握は、いまから見ても、そうまちがってはいない。
(スペースFS汐留試写室/ブロ-ドメディア・スタジオ)



2008-02-14

●ゼア・ウィル・ビー・ブラッド (There Will Be Blood/2007/Paul Thomas Anderson)(ポール・トーマス・アンダーソン)

There Will Be Blood/2007
◆昨日は例によって朝まで仕事をし(といっても実に不毛だった)、今日の昼間はタクシー(車は嫌いなのに)を何度も乗り継ぐような雑用に追われ、ちょっと無理かなと思ったが、開場後に駆け込んだら、意外とすいていたので驚いた。この時期、ゴールデングローブ賞を取ったような作品には客が殺到する。この作品、アカデミー賞有力という予想もあって、相当混雑すると思ったのだ。昼間の回もあったので、混雑が緩和されたのかもしれない。
◆力作である。原題の由来は不明だが、「血」に「石油」がかけられていることは確かだ。わたしがあえて「超訳」すれば、「(アメリカがこのまま石油依存と独占的グローバル主義の資本主義の道を進むなら)血をみるだろう」と言う含みもあるか? 19世紀から1960年代初めまだ一貫して社会批判的な作品を書き続けた左翼作家アプトン・シンクレアの『石油』にインスパイアーされた作品だというが、この映画は、「アメリカ合衆国」という国を作ってきた人間の根底にあるパターンを描き、同時にいまのアメリカを間接的に批判する。
◆ダニエル・デイ=ルイスは、演技の仕方としては、『ギャング・オブ・ニューヨーク』のときと非常に似ているが、アメリカの石油王をモデルにした独善的なキャラクター、ダニエル・フレインヴューを迫力ある演技で表現している。「息子」(括弧がついている意味は映画を見ればわかる)役の映画初出演のディロン・フレイジャーがいい。純真ぶっているがダニエルのやっていることを「精神」の領土でやっているにすぎない若い牧師を演じるポール・ダノは、悪くはないが、このキャラクターの内的矛盾を十分には表現していない。わたしは、むしろ、途中で「腹違いの弟」だと名のってダニエルのまえに姿をあらわす男を実に情けなく演じるケヴィン・J・オコーナーの演技にほれた。この人は、かつてのフィリップ・シーモア・ホフマンのように、いずれ有名になる。
◆1898年に金の採掘をやっている初めのシーンですでに、ダニエル・プレインヴューという男の性格がよく出ている。つまり、人に頼らない、他人を信じない、発展・拡大・開拓へのあくなき欲望をいだき、金の亡者である。これらは、すでにエーリッヒ・フォン・ショトロハイムが、『グリード』(Greed/1924/Erich von Stroheim) で先駆的に描いたものだが、まさにこの映画は、「グリーディ」(貪欲)な人物の半生を描く。ただし、greed/greedyという言葉は、「ひもじい」というギリシャ語から生まれたというから、「グリーディ」のまえには、ひもじさと、人をひもじくさせる政治や経済があるのだ。
◆ダニエルは、岩に含まれる金を採掘していて穴に落ちる。誰かといっしょにやればそういうこともないと思うが、他人を信じない彼はそうしない。基本的に、「アメリカ人」は、自力を好む。それは、「自立心」とか「独立独歩」といえば聞こえがいいが、それが独占欲や他人への不信にもとづいていることもも指摘しなければならない。
◆そういう人間が、自分の次に信じるのが肉親やファミリーだ。ダニエルは、「息子」を商売にうまく使った。が、そうはいっても、幼いときから男手で育てたわけだから、屈折した愛情がある。事業が大きくなれば、当然スタッフが必要で、キャラハン・ハインズが渋く演じるフレッチャーは重要な片腕だが、重要なことは彼にも話さない。
◆ダニエルが石油事業を展開する地域にある教会は、「第三啓示教会」(the third revelation charch)(→バプティスト派?)と呼ばれるが、教会と教区民との関係は、アメリカでよく見られるキリスト教教会のパターンの一つをあらわしている。「啓示」を受けて、メンバーになれば、「ブラザー」として仲間に入れるということは、逆に言うと、信仰を拒否するば仲間はずれだということである。この映画では、教会も石油にまみれていることを、いわゆる「社会告発もの」とは全く違う描き方で描き、暗黙に批判している。ちなみに、他の部分においても、批判しているように見せて肯定し、肯定しているように見せて否定するのが、この映画のユニークなところだ。
◆映画の終盤部分での「息子」との決別は、見方次第で色々な解釈が可能だ。1つの解釈は、所詮「息子」も道具にすぎず、成人して自分の石油会社を作るということになると、商敵としてしか見えないという解釈。もう1つは、ダニエルの「おれは終わりだ(I am finished)」というせりふで終わるこの映画の破滅的な最後から判断して、ダニエルは、「親子関係」も、キリスト教 も否定している――映画のタイトルとの関係で言いなおせば、アメリカがファミリーと原理主義的なキリスト教に依存しているかぎり、「血」を見て、「終わり」になる――という解釈。
◆アメリカは、石油という「黒い血」にまみれている。それをぬぐおうとすると「赤い血」が流れる。これは、19世紀から変わっていないのだ。
◆この映画には通常の意味でのセックス・シーンは全くないが、石油を掘るドリルは、巨大なペニスのイメージである。「掘る」と「強姦する」はセットになっている。石油屋は「土地」を地上げし、教会は、精神の土地を地上げする。
◆この映画で起用されたレディオ・ヘッドのジョニー・グリーンウッドの「音楽」は、リズムをおさえ、不安げな響きの持続的なサウンドを低いレベルから最大(でもないか)レベルまであげるスタイルで、わたしは好きだが、賛否両論らしい。思うに、もうそろそろ、ディスコやヒップホップ以来続いてきたビート/リズム依存の音楽は終わるはずである。ノイズの「通俗化」がはじまるかもしれない。すでに「ノイズ」自体が「美しく」なりはじめている。
◆アンダーソンの他の作品については、公開時に(前二者に関してはまことに不十分ながら)論評した→『ブギーナイツ』、『マグノリア』、『パンチドランク・ラブ』。
(スペースFS汐留試写室/ウォルト ディズニー スタジオ モーション ピクチャーズ ジャパン)



2008-02-13

●悲しみが乾くまで (Things We Lost in the Fire/2007/Susanne Bier)(スサンネ・ビア)

Things We Lost in the Fire/2007
◆六本木一丁目の郵便局で友人に送るDVDのパックを投函し、タクシーに飛び乗る。15分まえぐらいだったが、なんとか席を見つける。出るまえにメール連絡など色々あって、逃げるように外へ出た。
◆スサンネ・ビアは、『しあわせな孤独』でも『ある愛の風景』でも『アフター・ウェディング』でも、最初、「絵に描いたようなしあわせ」のシーンを出しておいて、突然悲報や訃報を投入するというやり方をしてきたが、今回は、それを少し「複雑」にし、フラッシュバック的な断片を繋げて行くやりかたをしている。また、サム・メンデス、サム・マーサー、ピッパ・ハリスといったハリウッドのプロデューサーのもとでの仕事なので、終わり方も、いつもよりは「ハッピー」な未来を推測させながら終わる。これは、ビアにとってプラスだったかどうかは、見る者の判断だろう。
◆ブライアン(デイヴィッド・ドゥカヴニー)とオードリー(ハル・ベイリー)と2人の子供のむつまじい家庭。場所の設定はシアトル。が、夫ブライアンの突然の死で暗転する。夫がアイスクリームを買いに行ったが、なかなか帰らない。ケータイも通じない。そして、外も暗くなってから家の外にパトカーが停り、2人の警官が戸口をたたけば、その先は予想がつく。夫が、妻に乱暴している男を止め、逆恨みされて銃で撃たれた。このへんの事故設定は、「ありがち」な出来事を逆用するスサンネ・ビア得意の手法。だから、映画のメインは、これ以後にある。夫を失った妻と子供たちがどう生きていくか、夫の親友ジェリー(ベニチオ・デル・トロ)との微妙で屈折した関係。
◆ブライアンが妻には言わないことまで話せた幼友達のジェリーは、弁護士として成功したが、ドラッグに染まり、貧民窟でジャンキー生活を送っている。そのために、彼とオードリーには相当の迷惑もかけたらしく、しばらく絶縁状態になっていた模様。だから、オードリーは、葬式の当日まで彼を呼ぶことを忘れていた。ふと彼のことを思い出し、弟のニール(オマー・ベンソン・ミラー)が彼を迎えに行く。かたわらのベッドに女がいぎたなく寝ている狭い部屋でジェリーはうつろな目でニールに応対するが、式には背広を着てやってくる。ヘッドフォンでガンガン音楽を鳴らしならが、たえずシガレットを吸う。中毒症の人によくありがちなパターン。耳には予備のシガレットをはさんでいる。
◆誰かを助けるようになって、中毒者や犯罪者が「更正」してくるというのは、よくあるドラマのパターンで、オードリーに再会し、彼女を助けるようになってドラッグをやめるジェリーの変化は、一見そんな方向に行きそうに見える。だが、スサンネ・ビアは、決してありがちなパターンで2人を描かない。このへんになると、ベニチオ・デル・トロならではの演技のすばらしさを目の当たりにする。
◆ハル・ベリーは、性はちがってもデンゼル・ワシントンと似たところがある。顔が端正すぎるのと、演技が出来上がりすぎているのだ。破綻がない。しかし、今回、「破綻」まで演技に取り込んでしまうような破天荒なスケールの大きいデル・トロと組むことによって、今回のベリーはかなりいい演技をしている。それと、夫が突然殺され、失意のどん底に陥った女を演じるのだから、内向きの強い(内側に固まっている)雰囲気のハル・ベリーが向いている。
◆わたしが好きなシーンがあった。淋しさもあり、また貧民窟でその日の生活に困るような生活をしているジェリーへの憐憫もあり、オードリーは、彼に自分の家の一部屋を提供する。そうなれば、通常のハリウッドものなら先は読めるわけだが、そうでもないところがビアの映画。あるとき、彼女が、「眠りたいの」とジェリーに言う。原語でどう言ったかは聴き逃した。「I want to sleep with you」とは言わなかったと思う。そう言えば、「セックスしたい」と言うのと同じだが、とにかく、ジェリーは、ごく自然に「シュアー(もちろん)」と言い、彼女について寝室に行く。彼女はベッドに横たわり、「足をこう組んで」と、ジェリーと自分の足をからませる。彼はそれに素直に従う。彼女の唇や股のあたりにジェリーの目が行ったことを示唆するショットもちらりと入るが、彼は何もしない。そして、彼女は安らかに彼の腕のなかで眠るのだ。すばらしい。夫を急に失った女が男に抱かれれば・・・というのがパターンだ。しかし、現実には、女(ひとにもよるだろうが)はいつもセックスしたいわけではない。むしろ、(ある程度経験を積んでしまえば)セックスも、こういう「平安さ」への欲求の手続きにすぎなくなる。・・かどうかはわからないが、スサンネ・ビアはオードリーという女の感覚をそんな風に表現した。
◆場所はシアトルに設定されているが、ヴァンクーヴァーで撮影されている。デル・トロがヘロインを打ってぶっ倒れている建物のある路地には、ジャンキーたちが路上に倒れたり、うずくまったりしている。それは、ヴァンクーヴァーのチャイナタウンの近くのヘイスティング・ストリート(ただし、わたしが見たのは10年ぐらいまえ)に似ている。
◆しばしば、「心が傷つく」とか「心の病」とかいうが、この映画に登場するひとたちは、みな、身体 が「傷つき」、身体 が病んでいる。オードーリーは、とりたてて身体の不調をうったえるわけではない。不眠に悩まされるぐらいに見えるかもしれない。しかし、普通「心」の問題といわれるものは、実は、身体の問題であり、「心」などを一旦括弧に入れて、身体の問題としてとらえなおしたほうがいい。その意味でこの映画は、登場するひとたちが、それぞれに身体を「ととのえなお」していくプロセスを描いている。この映画では「食べる」ということにはほとんど焦点が置かれてはいないが、「レストラン」の源義は、「なおすこと」「修復すること」だった。
(アスミック・エース試写室/角川映画 角川エンターテインメント)



2008-02-12_1

●丘を越えて (Oka wo koete/2008/Takahashi Banmei)(高橋伴明)

Oka wo koete/2008
◆わたしは、基本的に、試写を見るまえに予備知識をつけない。試写状の説明もろくすっぽ見ないで会場に飛び込むこともある。ネットや知り合いから自然に情報が入ってしまって、出演者や反響を知っている場合もむろんよくあるが、今日は、正直、会場でもらったプレスを読むまで何の映画かわからなかった。だから、プレスで「菊地寛」を西田敏行が演ると知り、彼が一体どんな感じで菊地寛を演じるのか大いに興味をひかれた。結果は、大いに笑った。悪くない。いい感じを出している。
◆タイトルの「丘を越えて」は、藤山一郎のヒットソングで、わたしも子供のころにラジオで聴いたことがある。作曲は古賀政男で、1931年にレコード(むろんSP)で発表され大ヒットしたが、それがわたしの子供時代までラジオでやっていたのだから、すごい。そんなわけで、この映画では、この歌が発売された1930年代を表象させるためにタイトル、冒頭、シメの音楽として使われているわけだが、わたしは、戦後の時代を思い出してしまった。
◆しかし、すぐに映る映像は、戦前の服装の人物たちであり、色町で別れを惜しむ軍服の男と着物の女郎の姿であり、わたしの意識は、わたしの知らない戦前に羽ばたいた。ただし、知らないといっても本や写真で知る戦前は、こんなには「輝いて」はいなかったろうし、まして色町の路地はもっと「うさんくさかった」と思う。また、商売女が客の腕に手をからませるやり方が、いささか今風すぎるような気もした。
◆とはいえ、そういう小うるさい目は、出演者たちのたしかな演技でじきに気にならなくなる。エンターテインメントとしてなかなかの出来であり、楽しみながら原作者・猪瀬直樹の「教育サービス」のおまけをもらうといった作品だ。
◆猪瀬の原作『こころの王国』(2004)は、菊地の最初の戯曲集『心の王国』(1919) というタイトルを意識しており、また、本書の猪瀬の解釈では、菊地の『心の王国』の「心」は、夏目漱石の『こころ』を暗示し、暗黙に批判しているという。映画のなかで、その話がせりふとして出てくる個所があるが、要するに漱石の主人公たちは、みな働かなくても食える「高等遊民」であるが、菊地は「生活者」を主人公にしたというのだ。
◆それは、正しいといえるし、その批判は、「現代の漱石」村上春樹にもあてはまることだと思うが、しかし、菊地寛という作家は、西田敏行が演じればぴったりだと外見上想定できるような「生活者」支持者ではなかったような気がする。現に、この映画の菊池は、運転手(猪野学)付きの外車パッカードに乗り、豪邸に住んでいる。社主を務める出版社「文藝春秋社」は火の車だと言い、部長役の「佐々木茂索」(嶋田久作)は猛反対するが、ポケットマネーで細川葉子(池脇千鶴)を秘書に雇う。そんなことは「生活者」にはできない。
◆話が飛びそうだが、もし「心/こころ」という視点で夏目漱石と菊地寛との違いを論じるのなら、「先生」と弟子との関係に関する観念の違いの方が重要ではないかと思う。漱石は、菊地寛より「先輩」にあたるわけだが、彼の『こころ』の「先生」と「私」とのあいだには、同性愛的な側面も読み取れるが、菊地寛は、徹底して異性愛の作家だと思う。
◆ちゃんと調べないでナンだが、手もとにある漱石の晩年のエッセー集『硝子戸の中』には、「私が大学で教わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別を贈ろうと思って・・・」という文章がある。これは、漱石らしい淡々とし書き方だが、そこには「先生」という意識はない。そもそも『こころ』でも、「私はその人を常に先生と呼んでいた」と書き、漱石のなかには、「教わった者」や「先生」を恩師と見なす習慣はとぼしい。これが、菊地寛の場合には、全くちがう。
◆岩波文庫で出ている菊地寛の『半自叙伝・無名作家の日記』には、「上田敏先生の事」と「晩年の上田敏博士」という恩師への「礼節」をつくした思い出が入っている。いずれも有名な文章だが、漱石は決してこういう文章を書かなかったし、頼まれても書かなかっただろう。それは、どちらがいいわるいという問題ではなく、二人がまったく異質の人間だということだ。
◆だからといって、菊地寛は、単なる「人情の人」だったわけではない。彼は、映画にもあるように、多くの人を援助した。映画のなかの菊地は、あちこちに愛人を住まわせているが、それも、彼の面倒見のよさから出ている面もあったと映画は描く。このへんは、両義的で、漱石的な人間から見ると、菊地のような人間は、本質的に「ずるい」のだということになる。涙や笑いの顔の背後に天性的な打算があるのだと。まあ、でも、そういう人間がいなければ、文藝春秋社は生まれなかったし、猪瀬直樹も世に出られなかったかもしれない。
◆猪瀬直樹は、いまでは政治家として有名であるが、もともとは彼は物書きであり、しかも、物書きとしては「進んで」いた。1980年代からすでに「事務所」を構え、そのつど売れた「著書」を組織的に作り上げていた。リサーチャーを何人も使い、データを調べさせ、それを使って猪瀬が書き上げるのである。そして、その「工房」からも何人ものライターが育っていった。当然、書評の寝回しもしっかりしている。わたしも、彼の事務所の人から書評の依頼を受けたことがあった。猪瀬は、政治的に本を作る戦略と戦術を心得ており、いま彼が政治家であるのは偶然ではないのである。
◆こんなことを書くのは、この映画のなかで西田演じる菊地寛が、秘書としてやとった細川葉子に映画や芝居を見させ、彼女の「スケッチ」(感想やメモ)をたよりにあとで評を書くというくだりがあったからだ。菊地寛は作家としてデヴューしたが、基本的に「事業家」だった。ちなみに、わたしは「事業家」ではないので、この「シネマノート」も、そのレイアウトまで全部自分でやる。
◆西田としては、抑えた演技で、彼の演じる「菊地寛」が反知性的だとは思わないが、菊地には、漱石や芥川龍之介にくらべると、(反「高等遊民」的言辞もあり)知的ではないという印象がある。しかし、彼は、英語が出来、ドイツ後も読めた。そういう意味では、学生時代の菊地は、その時代でも傑出していたし、いまの学生のエリートと比較しても、はるかに「高等」だった。
◆この映画では、反「高等遊民」批判がせりふとしては出るが、ちゃんと、「高等遊民」を登場させ、その言い分を言わせている。葉子が、菊地の出版社で知りあうことになる朝鮮人・馬海松(西島秀俊)である。彼は、朝鮮の貴族の末裔で、菊地にかわいがられて、「なんとなく」その出版社にいた。やがて菊地は、彼に新刊雑誌『モダン日本』の編集長をまかせる。時代は、急速に軍部独裁と大陸侵略へ向い、日本人ではない彼は次第に居場所がなくなっていく。そのへん、この人物は、個人的かつ社会歴史的なキャラクターとしてうまい設定になっている。
◆葉子は、浅草近辺に元水商売風の雰囲気をただよわせる母親(余貴美子)と暮らしている。小沢信男が書いていたが、下町というのは、新しいトレンドに敏感なところで、浅草なんぞには、「ハクライ」の品々がけっこう早く入って来たという。そういえば、ブラジルからサンバガールを呼びサンバ祭を区の祭りとして始めたのは台東区だった(それがいまだに続いている)。葉子は、そんな下町っ子のひとりで、菊地の面接を受けるとき、とびきりファショナブルなかっこうで出かける。
◆これも、この映画で展開される猪瀬の「教え」だが、明治の文明開化は、当時の貧しい日本人に夢をあたえたという。「事業家」はみな、「個人」のことよりも、「日本」や「日本人」のことを考える。「高等遊民」は、心と身体、それらの内部が内部分裂していて、自分がどこの「国」に属しているのかとか、自分が一個の人間として誰なのかに悩むが、「生活者」はそんなことをしている余裕はないのだ。しかし、文明開化があたえた「夢」のなかには、「建国」や「開拓」や「征服」の夢も含まれていたことも忘れることはできない。
◆池脇千鶴はとてもいい演技をしているが、やっぱり「今の子」だなと思ったのは、下町の家で朝、起きてきて、母親に言うせりふだ。彼女は、「おはよう」(語尾が上がる発音)と言う。いまの子が、学校などで友達と会うとこのせりふを池脇と全く同じイントネーションで言うが、どんなに遠慮のない家庭でも、戦前の昭和時代に、子供が親に「おはよう」は言わなかったと思う。言うのなら、「おはようございます」だ。語尾を上げた発音で「おはよう」なんて言ったら、「おまえ、親を何だと思っているんだい!」と怒鳴られただろう。時代をせりふの面でも身ぶりの面でも、形態模写したような時代映画が出来てもよさそうな気がするが、まだお目にかからない。
◆時代の形態模写という点では、この映画にちらりと出てくる文壇バーのはしり的存在の銀座の「Lupin ルパン」のシーンで、つつましく一歩身を引いた感じ(これが客商売で難しいところ)でサービスをしている女性が「戦前」の雰囲気を出していた。これを演じているのは、本作の監督・高橋伴明夫人の高橋恵子(関根恵子)だ。映画の出方もつましいが、さすがである。彼女は、1955年生まれだから、戦前は知らないわけだが、「知っている」からといってわかっているわけではない。時代の想像力というものがある。関根はそれを駆使した。
◆気にいったシーン。菊地と葉子が話をしているのを、西田に関しては、終始鏡越しに写すシーン。ここで彼は、「本当の自分」については誰にも一生語らないという意味のことを葉子に言う。この映画も、所詮はある特定の「鏡」に映った「菊地寛」にすぎない。
◆高橋伴明の映画は、前作の『火火』以来であり、そのまえに見たのは2001年の『光の雨』だから、久々である。今回は、前2作ほどの「社会性」はやや薄いが、エンタテインメントのなかで考えさせるインデックスがあちこちに仕掛けられてはいる。ただ、最後のシーンは、草原ではなく、たとえば葉子の住む下町でやってもらいたかった。「明るさ」はいいが、「自然回帰」は、菊池寛らしくない。
( 東映第2試写室/ゼアリズエンタープレイズ)



2008-02-01

●Sweet Rain 死神の精度 (Sweet Rain Shinigami no seido/2007/Kakei Masaya)(筧昌也)

Sweet Rain  Shinigami no seido/2007
◆最近の金城武はどうなんだろうという思いもあって見た。悲惨だった。金城は、監督次第でどうにでもなる俳優である。脚本も演出もよくないのだ。その意味では、こういう不幸な条件のなかでこれだけの演技ができる小西真奈美と富司純子はすごい。光石研も、まあまあがんばっている方か。これも監督次第の村上淳などは、脚本のまずさのおかげでセリフは棒読み。2028年という近未来にロボット(アンドロイド)の役をする奥田恵梨華なぞは、何のためにキャスティングされたのかわからない。気の毒。
◆金城のセリフが「・・・だ」、「・・・か?」の殿様調なのも、台本がダメだからだ。世間を知らない「死神」だからといっても、言葉をしゃべるのだから、小西が、「わたしはみにくい(醜い)ですから」というのに対して、「ちゃんとみえてますよ」はないだろう。台本は、それが洒落のつもりなのかもしれないが、オヤジギャグよりひどくて、笑うに笑えない。いきなり近づいてきた金城に、小西が、「ナンパですか?」と訊くと、「ここは船じゃない」と金城が答えるにいたっては、こちらが恥ずかしくなってしまう。
◆「7日後に不慮の死が予定されている人間を観察し、"実行/死"か、"見送り/生かす"かを判定する」のが死神の仕事で、設定は面白い。その彼が、1985年に小西に会い、2007年にその息子で、いまはヤクザの「使い走り」をやっている石田卓也に近づき、20028年には、小西の晩年と見られる富司純子の前に現われるという形式自体は、非常に面白い。それらを全然活かしていないところが問題なのだ。
◆2028年の環境は、あえて1950年代風にし、一点だけ奥田恵梨華が演じるアンドロイドを置いて、近未来を描いているつもりになる。しかし、そのアンドロイドが、マッサージ椅子のようなものに座って充電をするなんていうのは、あまりに想像力が貧しすぎる。人間そっくりにし、しかもアンドロイドなのならば、そっくりにもかかわらず生身の人間とどこかでズレているところを示さなければ表現にならない。いっそ、アンドロイドなど出さずに、日常品の非常に微妙な部分で今とは違うということを示唆する程度にした方がよかった。
◆CGが、最近の日本映画ではめずらしいくらいお粗末なのにも驚いた。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)




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