粉川哲夫の【シネマノート】
  HOME      リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)


2003-03-28

●少女の髪どめ (Baran/2001/Majid Majidi)(マジッド・マジディ)


◆はじめに「神の御名のもとに」という字幕が出るところが、ふだんとはちがう。そいう世界に住んでいれば、どうということもないのだろうか?
◆すべてが17歳の青年ラティフ(ホセイン・アベディニ)の目から描かれる。彼は、この現場の親方メマール(モハマド・アミル・ナジ)が親の友達で、ここに預けられ、雑用に従事している。舞台はテヘランの工事現場。多数のアフガン人が不法労働者として働いている。映画は、その一人が高所から落ち、病院に運ばれるところから始まる。みな金はないし、親方も施主から圧力をかけられているから、楽しい世界ではないが、不思議な連帯と仲間意識がある。役人が来ると、アフガン人を隠す。何かが始まり、完成するという世界ではない。苦痛の多い毎日が同じように続くが、そのディテールのなかにさまざまなドラマがある。日常性とはそんなものだが、この映画のように、日常性そのものが語っているような作り方はそう簡単にはできない。
◆音楽の効果を意識した作りをしない。雪が降るシーン、砂嵐のシーンがあるが、わたしにはそれらが示唆する季節感がわらない。だから、わたしには、この映画は、非常に主観的な――つまりラディフの意識世界(願望や想像がうずまく)を映像化しているように見えるのだった。時間と距離の感覚が普通見慣れている映画のものとは異なる。
◆怪我をしたアフガン人の友人が彼の子供をつれてくる。帽子をかぶり、スカーフをかぶっているが、その子は誰が見ても女だ。しかし、現場ではそのことに気づく者はいないという設定で話が進む。むろん、ラティフも気づかない。こういうのはどうなのだろう? 観客も気づかないように作らなければならないというのは、ブレヒトに言わせれば、俳優が役になりきることをよしとしする「叙情的」な「アリストテレス的演劇」のやり方になるだろう。その意味では、この映画は、観客、役者、キャラクターそして現実という4つのファクターの位相の違いをありのままに描こうとしているのかもしれない。
◆だからこそ、その「少年」が帽子を取って歌を口ずさんでいる(ふだんは一言もしゃべらない――アフガン人だからそれでも通るわけ)のをラティフが目撃してしまうシーンが一つのドラマとして生きてくる。彼は、最初、この「少年」が自分の仕事を奪った(力仕事がダメとわかって、親方はそれまでラティフがやっていたお茶汲みなどの雑用をやらせる)というわけで、意地悪をしていた。こうして、2人のあいだにほのかな愛情のようなものが芽生えるのだが、だからといって2人が見つめ合ったり、話したりする機会はない。こういう設定になると、非常に微妙なことが重要な意味をもってくる。
◆少女が去ったあと、ラティフが無理矢理休暇をもらい、彼女の仮住まいを訪ねるシーンがある。しかし、ラティフが相当の距離を旅したと思われるのに、映画の描写は、そういう距離感は出さない。これは意図的なのか、あるいは、わかっている者にしかわからないような描き方がこの監督のスタイルなのか?
◆ラティフが、くつろいでいる労働者たちのところへチャイを持って部屋に入るシーンで、彼は一段高い場所に入るとき靴を脱ぐ。こういう場合靴を脱ぐには、日本では(いつからかは知らない)普通だが、イランでもそうなのか? 靴を脱ぐエリアと土足で歩くエリアとを分ける習慣は、「ハレ」と「ゲガレ」を区別することだから、社会的な価値観を規定する。
◆この映画の出演者たちは、みな存在感のあるいい顔をしている。靴直しのじいさんも、「孤独な男の隣には神さまがおられる」などと哲学的なことをふっと言う。
◆「バーミヤンは全滅した」という台詞があるが、これは、タリバンのためか、アメリカのためか?
◆ラティフが街に出て、彼女を助けるためにパスポートを売るのは、ラジオ屋のような店。
◆女性たちが川で石を運搬する作業をしているとき声を合わせるが、それは、エフェクターをかけたような音に聞こえる。
(ヘラルド試写室)



2003-03-27

●スパイ・ゾルゲ (Spy Sorge/2003/Shinoda Masahiro)(篠田正浩)


◆期待を持たせるイントロだ。文京区や新宿区には昔はよくあった坂道の途中の家。路地から特高警察の一団がやってくる。家のなかでは本木雅弘が仕事をしている。土足でなだれ込む特高たち。一方、路地の奥の和風の家から大柄な外国人の女が出ていく。それを待っていたかのように特高がドアに近づき、戸をたたく。時は、「昭和16年」(1941年)。日本が真珠湾攻撃をする2カ月ほどまえのことだ。
◆端役で佐藤慶が出ていたり、特高がただの狂犬のような存在ではなく、けっこうインテリだったり、上海やモスクワの描写、外国人のあつかいなどが嘘っぽくない等々、この手のトランスナショナルな素材をあつかう映画としては、丁寧に作っている。それは、時代背景が重なる『T.R.Y.』とくらべてみれば一目瞭然である。ただ、非情に教養的(歴史を教えてくれる)のだが、何かが弱い感じがする。ゾルゲと尾崎が、当時の状況のなかで戦争を必至でくい止めようとしたという基本線はわかるが、逆に、話はそんなに単純ではなかっただろうという気もする。
◆映画は、逮捕され、拷問される2人の証言と回想のスタイルで展開される。尾崎(本木雅弘)のゾルゲ(イアン・グレン)との出会い。ベルリンで少年時代を送り、やがて第1次世界大戦に巻き込まれたゾルゲの回想。さまざまな出会い。ゾルゲの人物像へのアプローチにくらべると、尾崎の個としての描写は弱い。主人公がゾルゲなのだから、しかたがない。が、もっとしたたかであったであろう「尾崎秀実(ほつみ)」の人物像が、本木雅弘という俳優の性格もあって、弱くなってしまった。1920年代末の上海でかっこよく振る舞う新聞記者としては本木でいいとしても、これでは、行きがかりで国際スパイ組織の片棒をかついでしまったように見える。
◆いつの時代にも、世界の第一線の人々と対等に話ができる人間がいる。それだけのインターナショナルな視野と常識をもっている人間だ。尾崎はそんな人間の一人だったが、日本は、とりわけ政治の世界では、国家主義の昂進とともに、明治の初めにはまだあったインターネショナルな目と感覚を失って行った。きまじめに植民地主義を後追いし、したたかな列強の先行者(欧米)の罠にはまる。
◆ゾルゲは、当時の古典的な「共産主義活動家」であり、党を信じ、「共産主義革命」に夢をいだいていた人物だと思う。その点で、組織のためには自分を犠牲にすることをいとわなかったが、同時に他人を一つの機能と考えるようなところもあったはずだ。映画では、滞在する先々ですぐに女と親しくなるのだが、彼が、自分の素姓を本当に明かしたのは、アグネス・スメドレーぐらいに対してだけだったのではないか? 彼女は本格的な活動家であったのだから、それが出来たわけだが、目的のためには二重生活を辞さないという生き方は、権力のやりかたに通じている。 というより、こういう生き方の社会化として、国家があり、党があり、機械的に動く組織が存在する。
◆ゾルゲの夢は、スターリニズムの進行とともに次第に崩れていく。すでにモスクワからの送金がとだえていた1941年6月、ゾルゲは、ドイツが、1939年8月に結ばれた「独ソ不可侵条約」を破ってソ連に侵攻する情報をドイツ大使館から入手し、すぐにモスクワに無線で知らせるが、無視された。ソ連は、もはや日本のゾルゲからの情報を重視していなかったし、そのような情報は敵の撹乱情報だと思ったからである。が、その正しさが判明したとき、ゾルゲに再び連絡が入るようになる。もし、これがそうでなかったら、どうだったろうか? 彼はソ連にもっと失望すべきだった。むろん、当時としては、そんなことは無理だったが。
◆尾崎秀実は、「スパイ」ではなかったが、彼も、ゾルゲと同じような「古さ」を持っていた。それは、政治的な操作で国を動かせるという信念である。ゾルゲは、国と歴史を動かすのは党だと信じていたが、同様に、尾崎も、国と歴史を動かせるのは、市民のひとり一人ではなく、国の諸組織の中枢にいる人物たちだという考えがあったはずだ。それは実際にそうだし、だから現に、アメリカはブッシュ政権の出現によって世界を動かし、この30年間にはなかったほどの悪しき状態に世界を持っていっている。が、重要なのは、ブッシュ政権のやり方の問題ではない。問題は、過度の権力と富が集中するアメリカの大統領システムとその国家であり、その中枢を支配すれば何でも可能だという観念である。アメリカには、国家を縮小するか、侵略戦争をするかしか選択肢がなく、当面、国を縮小する可能性がないとすれば、ブッシュでなくても同じことをやったかもしれない。というよりも、ブッシュ政権そのものが、アメリカの国家的危機を回避するために入念に仕組まれた「クーデター」なのだ。
◆政治の中枢にいる人間は、ある意味でみな「尾崎秀実」であり、彼がやった以上に情報を「盗み」、「横流し」している。だから、彼が逮捕され、処刑されたのは、権力と権力との闘争の結果にすぎず、彼がやったことが、「革命的」であったわけでも、「新しかった」わけでもない。ただ、彼の路線――第1次近衛内閣のブレーンとしてある種天皇制的「社会民主主義」のようなことをめざした――が具体化した場合、日本はどうだったかということは興味深い。それは、軍備の増強をひたすら進め、中国・朝鮮を侵略するという路線とは別のものであるが、そういう路線が出されるのが遅過ぎたし、またそういう環境にはなかった。軍拡路線は、すでに尾崎が生まれた時点(1901年)以前(たとえば1894年の日清戦争)ですでに定まっていた。
◆この映画で、昭和天皇の「戦争責任」がさりげなく示唆されているのは興味深い。裕仁は「人形」だったという説とはうらはらに、内政外政に深く関わっており、「御前会議」での彼の決定は「いいかげんなもの」ではなかったことがわかっている。その意味で、裕仁は、確実に日本の侵略戦争に責任があるわけだし、210万とも310万とも言われる軍・民間人の戦死者に対して責任がある。
◆エンディング・ミュージックは、ジョン・レノンの「イマジン」で、歌なしで歌詞が文字で流れる。「想像してごらん、この世に国家なんか存在しないと・・・」。ということは、篠田正浩は、本当に国家否定の立場に立っているのだろうか? たしかに国家がなければ、ゾルゲや尾崎の「悲劇」はなかった。テクノロジー的には、もうとうの昔に国家なしでわれわれが生きて行ける条件がととのっている。が、それにもかかわらず国家が存在し、いま、また国家と国家とのあいだのボーダーが強化されようとしている。問題は、国家ではなくて、国家のようなボーダーを作る「権力への意志」であり、それに対しては、国家の愚かさや欺瞞をいくら語っても無駄なのだ。国家の壁を強化させる潜在的なボーダーはいたるところにある。差別、競争、敵対、禁止、独占、秘密化・・・が組織的な形をなしたものが国家だかである。
◆ゾルゲの最後の愛人だった三宅華子(葉月里緒菜)は、ゾルゲの死後、カストリ雑誌に載った記事でゾルゲの「本性」を知り、墓を探しに行く。彼女が1989年に、ベルリンの壁が崩壊するテレビを見ながら、「ゾルゲはわたしの恋人なんかであるよりももっと偉大な存在だった」と語る。こおういうのって、悲惨だと思うのだが。わたしに言わせれば、「恋人であるよりも偉大な存在」などというものを認めることが、とりもなおさず、国家を呼び寄せることになるからだ。
(東宝試写室)



2003-03-25

●NARC ナーク (Narc/2002/Joe Carnahan)(ジョー・カーナハン)


◆見るからに低予算という感じだが、レイ・リオッタの出演にもある種の入れ込みが感じられるように、どうしても撮っておきたかったという必然性を感じさせる映画だ。音は(低予算のためか)ワンポイントの収音で単調なところもあるが、映像には、色々の工夫が見られる。冒頭の手持ちカメラの撮影など、「学生映画」風の画面もある。捜査におもむく2人の刑事があちこちに聴き込みをする場面で4画面分割を使ったのは、あまり意味がないが、何か新しい実験をしたいという意欲だけは強く感じられる。カーナハンは大器かもしれない。
◆犯人逮捕で市民を撃ってしまった麻薬捜査官ニック(ジェイソン・パトリック)が、定職処分ののち、マイク・カルベス麻薬課刑事殺人事件の協力をせまられる。もう現場から離れようと決心していたニックは迷う。が、この事件の調書を読むうちに、殺されたマイクにも、ニックと同じような子供がいたこと、マイクの上司ヘンリー(レイ・リオッタ)が何かを知っているのではないかと思い、引き込まれて行く。
◆ようやく安心できると思った妻オードリー(クリスタ・ブリッジス)は怒り、喧嘩になるが、そのとき、妻が抱いていた幼児がわーわー泣く。顔を見ると本当に泣いている。このことが、この映画の撮り方の姿勢を示唆する。最近のハリウッド映画では、子供に恐怖感を与えたり、トラウマを残さないため、こいう場合は、泣き声のすりかえをやる。しかし、この映画では、子供は本当に驚いて泣いている。そうしたからといって表現に真実実が出るわけでもないが、なるべくリアルに行こうという路線なのである。
◆警察内では「信念の人」としてやっかりがられているヘンリーにニックが興味を持ったのをもっけのさいわいとばかり、警部は2人が協力して事件を再捜査することを命じる。ここから始まる2人の関係は、経験のある年上の刑事と若い刑事とのコンビという典型的なパターンとして描かれ、そのなかに『トレーニングデイ』『インソムニア』で見られるような「懐疑」が挿入され、大詰めに向かう。
◆冒頭、市民を誤射して、妊婦が倒れ、血溜りができるシーンもどぎついが、売人たちのかわす言葉もどぎつい。一番面白いのは、ニックとヘンリーが飛び込んだ売人の家で、男がすでに手錠をかけられているが、下半身は裸で、しきりに、情婦のことをののしっているシーン。女が売春婦で性病を持ってきたので、おれにチンポが腐っちまった・・・・とわめく。その言葉の汚さは最高。
◆最も美しいのは、生活感覚を欠如した感じでニックに接してきたヘンリーが、あるとき、車のなかで16年前に妻を癌でなくしたことを語るシーン。車のガラスがある種のフィルターのような効果を出している。
◆殺されたマイク・カルベスの妻の家に単独で出かけたニックは、やがて、ヘンリーが彼女の家族であるかのような親しさとやさしさで外から入ってくるのに遭遇する。彼と彼女とは出来ていたのか? 彼女の過去は? マイクの死との関係は? 彼は、潜入捜査をしていたが、そこで何があったのか? ここまで書いたことで想像される筋書きとは全く違う結末がある。これは、見てみなければわからない。
(UIP試写室)



2003-03-24

●ハンテッド (The Hunted/2003/William Friedkin)(ウィリアム・フリードキン)


◆IMDb(インターネット・ミュービー・データーベース)の評価が予想外に悪いので躊躇したが、フリードキンが嫌いでなけえれば見がいのある作品だと思った。殺人機械を製造する軍隊、命を軽んじる傾向、銃への執着等々、アメリカの現状への批判がはっきりと出ているが、それほど鋭いわけではない。しかし、批判のこぶしを振り上げるのはフリードキン流のやりかたではない。ある種西部劇や日本の時代劇のような様式を楽しませるところもある。
◆かつて軍でサバイバルと人殺しの方法を教えた教師L.T.(トミー・リー・ジョーンズ)とその忠実な生徒アーロン(ベニチオ・デル・トロ)の――古典劇的な意味での――「悲劇」といった作り。軍隊で特殊工作員として訓練を受けた男の話は、古くはスタローンのランボー・シリーズ、最近ではマット・デイモン主演の『ボーン・アイデンティティ』でも描かれた。しかし、アーロンの場合、そのトラウマは深く、暴走をおさえることができない、というより、発作的に自分を守ることが殺人につながってしまう。そういうように訓練されたからだ。その「責任」を負うのが彼の父親的な存在のL.T.だ。ここには、アメリカにおける父親と息子のあいだの問題も重ね合わせられている。
◆が、それよりももっと直接的なテーマは、殺人である。アメリカでは年間12000人以上の人間が銃で殺される。この動きは、いま、解決策が見えるどろか今度のイラク侵略でより強まったことになる。『エクソシスト』で子供の家庭内暴力と悪霊というキリスト教的・形而上学的とをからめたように、この映画でも、いまのアメリカの殺人の問題をキリスト教の始まりまでさかのぼって問い直すことを提起していると考えるのは買いかぶりか?
◆冒頭と最後に、ボブ・ディランの「追憶のハイウェイ61」 (Highway 61 Revisited/1965) の歌詞と歌――「アブラハムは言った、なんじの息子を殺せと」が出てくる。もとの出典は、言うまでもなく、『創世記』に出てくるアブラハムと息子イサクの話である。神はあるとき、「なんじの子、愛する一人子イサクを連れてミリヤの地に行き、われが示す山でその子を燔祭として捧げなさい」と言う。アブラハムがそれにしたがって、刃物をとってその子を殺そうとしたとき、主の使いが天から彼を呼んで言う、「わらべに手をかけてはならない・・・なんじの一人子をさえ我のために惜しまないのだから、なんじが神を恐れる者であることがわかった」(第22章)。この部分には色々な解釈がある。神がアブラハムの神への忠誠を試すためというのも一つ、アブラハムの聞き違いという解釈も可能だろう。しかし、ボブ・ディランの歌では、神がアブラハムに「わたしのために息子を殺しなさい」(Kill me a son)と言ったというようになっている。おそらく、ディランは、ベトナムで北爆がエスカレートし、人を殺すことがルーチンになっていく状況を意識しながら、この歌を作ったのだろう。つまり、問題は、『創世記』からあり、さらには、キリスト教的な神自身が方向づけたことなのだ。
◆冒頭は、1999年のコソボで起こされるセルビア人による非道なホロコースト的殺害。その指揮官を暗殺する使命をおびて潜入し、功労を得るアーロン。しかし、その後、彼は、そのときの悪夢、数々の殺人の記憶にさいなまれるようになる。彼には、妻(レスリー・ステファンソン)と子供がいるが、仕事で長期間謎の失踪をする彼に妻は愛想をつかしている。深まる心理的危機を彼は昔の師匠L.T.にうちあけようとしたらしい。が、L.T.は、すでに引退し、ヴァンクーヴァーの山奥で野生動物を保護する財団の仕事をしている。それが彼にとって、戦争=殺人という世界から逃げ出す方法だったのだ。が、アーロンには、そういう方法がない。
◆アーロンが、オレゴン州の山の中に入ったのはなぜかわからないが、そこで彼はライフルを持ったハンターを見つけ、惨殺する。「おまえたちは、ハンターではなくて暗殺者だ」と。彼は、「今年全米で殺された鶏の数を知ってるか? 60億羽だぞ」とも言う。そうした殺害をやめさせるために殺害者を殺害しなければならないという悪循環。この問題は、『ライフ・オブ・デビド・ゲイル』が問題にしている死刑の問題とも深くつながっている。しかし、フィリードキンは、その問題を社会的・政治的なレベルにおいてよりも、形而上学的な問題の方に投げかける。もっとも、『ライフ・オブ・デビド・ゲイル』においても、死刑や殺人の問題は、人間の存在そのものへの問いにまで投げかけられている。
◆この事件の解決のためにL.T.のところに旧友が訪れ、協力を依頼するのは、よくあるパターン。『レッド・ドラゴン』もそうだったが、現場で女性の捜査官(コニー・ニールセン)に出会うのも、『インソムニア』に似ている。
◆アーロンを捕まえようとして、FBIの捜査官が2人殺されたとき、チーフの女性捜査官は、復讐の念を燃やすシーンがある。ここを肥大化させるとバランスが悪くなるので、非常に短いのだが、9・11以後にブッシュがアフガン、イラクへとエスカレートしていくアメリカ的レベンジのパターンがちらりと見える。
◆L.T.とアーロンは、決して銃を使わない。殺す道具はナイフか手製の刃物である。石を割り、とがらせて武器を作るワークショップのシーンがある。銃を使わないということには、アメリカの銃志向への批判、ナイフ/刃物への執着には、『創世記』のアブラハムの挿話への暗示がある。
◆「父」は「息子」を殺さなければならないのだろうか? 「試す」神もいなければ、「慈悲深い」神もいない。アブラハムは、息子を殺すふりをしただけだったのか? キリスト教史的には、神に命じられればいつでも人を殺すように調教されているのがキリスト者である。
(ヘラルド試写室)



2003-03-20

●エデンより彼方に (Far From Heaven/2002/Todd Haynes)(トッド・ヘインズ)


◆たしかにジュリアン・ムーアはうまい。その演技は感動的。心の振幅、心情のゆれを生き生きと表現できるいま最ものっているアメリカ女優であることを立証する。しかし、映画自体は、トッド・ヘインズの作品にしては奥行きがない。50年代ったこんなだったんだよと教えるテレビ映画という感じ。エルマー・バースティンの音楽にはいいものがあるが、音楽の付け方もテレビ的なのである。50年代のアメリカ映画のスタイルとトーンをまねていることはたしかだが、それにしては安普請。
◆1957年のコネチカット州(「コネチカット」という言い方はどのように定着したのだろうか?英語では「ケネディカット」というように聞こえる)のハートフォードでは、まだ白人の黒人差別が残っていた。映画で黒人を平気で「ニガー」と呼んでいるのでもわかる。これは、東部の話だから、同時代のアメリカ全土と比較したらよいほうだ。そういう町にジュリアン・ムーア、デニス・クエイドが演じる夫婦キャシーとフランクがいる。冒頭、地方紙の取材があり、彼女が「家庭を大切に守る」「妻の鑑(かがみ)」のようなあつかいで新聞の一面を飾るエピソードが出てくる。絵に描いたような50年代の「アメリカ」の地方都市/郊外の雰囲気。女が「美しく」、家におり、家事を勤め、夫は外で忙しく働く。子供は、親の言いつけを守る・・・。ホモセクシャルは「病気」と見なされた。
◆それが、次第にくずれてくるわけだが、考えて見ればあたりまえである。人間は矛盾のかたまりであり、50年代のアメリカ映画が描くようなきれいごとで済むわけはない。「理想的」に見える家庭に解決不能の問題が潜んでいた。それは、ある意味では夫の「浮気」なのだが、ひとひねりある。
◆アメリカ人は、日本人などにくらべると、素朴で(バカ)正直な感じがする。キリスト教信仰が支配的であり、1対1の「愛」が理想化され、浮気は罪だという観念が強い。実際には色々な人がいるから、正確には、映画や小説で表現されるときにはそういうパターンが好まれる――と言っておこう。 だから、浮気をすると自分を責めるし、妻を性的に満たせない夫は自分の夫としての資格を疑う。
◆キャシー/フランク夫妻の家には、黒人のメイド(ヴァイオラ・デイヴィス)がおり、庭師が定期的にやったきて庭の手入れをする。古くからいた庭師が死んで、その代わりにやってきたのは息子のレイモンド(デニス・ヘイスバート)だが、彼は妻をなくして、小学生の娘と二人で暮らしている。知的な男であり、人種的な偏見からも自由な意識を持っている。ただ、このへんは、ドラマの設定から要請された感じで、なぜ彼が例外的にそういう男なのかがあまりわからない。また、キャシーは、次第に彼に惹かれていくのだが、そのプロセスがあまり説得力を持たない。このプロセスは、ただただジュリアン・ムーアの演技力で説得されてしまうだけなのである。デニス・ヘイスバートも、後半から(ムーアに引き出されたのか)ぐんぐんよくなる。最後のシーンでは立派な存在感を見せる。
◆落ち込んでいるキャシーをレイモンドがドライブにさそい、話しているとき、彼女が、黒人を差別する白人への疑問を提起すると、彼は、彼女を行きつけの黒人バーに案内する。そこでは、レイモンドが、白人しかいないギャラリーに行ったときと同じように、今度は黒人の白人に対する偏見の目があるのを発見する。ここで、キャシーが踊ってと言って2人で踊るシーンはなかなかいい。
◆これからキャシーとレイモンドはどうなるのかという余韻を残して終わるのだが、それが余韻というより、唐突な知り切れとんぼな感じを残す。が、よいとすれば、こういう終わり方か?
(ヤマハホール)



2003-03-18

●パンチドランク・ラブ (Punch-Drunk Love/2002/Paul Thomas Anderson)(ポール・トーマス・アンダーソン)

『ブギーナイツ』(Boogi Nights/1997)や『マグノリア』 (Magnolia/1999)のアンダーソンの新作なので期待したが、かなりがっかりした。シークエンスごとに虹のような縦縞の絵柄の画面を入れるとか、音と音楽をやや実験的なスタイルで使うとかおしゃれなスタイルはある。場面の展開も普通のハリウッド映画とはちがう。ある種の強いアクセントがある。しかし、終わっったとき、「それがどうした?!」と言いたくなるようなところがある。
◆アダム・サンドラーは、ワンパターンのキャラクターを演じさせられることが多く、損をしていると思う。この映画では、その傾向若干薄れているが、いつもは生まれつき短絡的な役をさせられるのに対して、今回は、ふだんは「普通」でキレて単細胞になるという違いがあるぐらいで、どのみちサンドラーらしい(彼の名をきいて想像できる)役柄。
◆うるさい3人の姉妹がいて、バリー(アダム・サンドラー)はうんざりしている。そのしつこさにキレ、ガラスを割ったりする。誰も来ていない早朝に背広とネクタイで出社し、がらんとしたスペースで机に向かっているとか、最初からファニーなキャラクターで登場する。彼をとりまく環境もファニー。道路でいきなり車が横転し――このシーンは新鮮(特に音がすごい)――、それが転がってきて、彼の立っているところにハーモニウム(オルガンのような楽器)を下ろし、去っていく。だから、彼が、細かなことに関心をもち、マイレージがつくおまけ付きの食品の広告のミスを発見したとしょうして、スーパーで大量にプリンを買い込んでも驚かない。
◆姉が差し向けたパートナー候補なのに、偶然バリーのところに立ち寄ったかのように姿を現わす女リナ(エミリー・ワトソン)もファニー。バリーが、テレフォンセックスでクレジットカード番号からソーシャルセキュリティ番号まで教えてしまうのもファニーだが、つまらぬアッピールをして、すぐに「もう手を使ってる?」と訊く女もファニー。そいつが、しつこくアダムに電話してきて、それがすべてチャージされると脅すのもファニー。無視するアダムに対して、女の彼氏のディーン(フィーリップ・シーモア・ホフマン)が手下をユタ州から派遣してアダムを痛めつけようとするのもファニー。切れると強いバリーがやつらをたちまちやっつけてしまうのもファニー。逆襲を思い立ったバリーがユタ州に赴き、ディーンを探し出すと、ディーンがあっさり降参してしまうのもファニー(このシーンは、ホフマンの演技で積極的な意味でのファニーさが出ていた)。
◆ハワイでランデブーしたバリーとリナがベッドで、「きみの頭をつぶしてぐちゃぐちゃにしたい」、「あなたの目玉を吸いたいわ」というのもステレオパターン。
◆姉のパーティに行き、その夫に、「ぼくは時々自分がいやになるんだ」と告白し、「あなたは医者だろう? 相談に乗ってくれる?」と言うと、夫が「わたしは歯医者なんですが」と答えるのもファニーだが、ウディ・アレンのまね。
◆問題は何なのだといった感じの映画。終わり方も唐突。わざとらしいファニーさの再生産。そのファニーさには、『マグノリア』のような、「考えてみたくさせる」要素は薄い。
◆プレスには、バリーが、プリンを3000ドル以上購入し、125万マイルのマイレージを獲得したかのように書いたいるが、そういう男が実在し、バリーはそのモデルになっているということらしい。映画では、プリンを大量に購入するところは描かれるが、マイレージを獲得したかどうかは描かれていない。
(ヘラルド試写室)



2003-03-13

●トーク・トゥー・ハー (Hable con ella/Talk to Her/2002/Pedro Almodovar)(ペドロ・アルモドヴァル)

◆映画がはじまるまえ、配給会社のひととお客との会話が近くから聞こえてきた。「このまえの(『オール・アバウト・マイ・マザー』)はちょっとねぇ。ホモはダメなんだよ。今度はだいじょうぶ?」「ばっちりです、ホモはありません」。顔を見なかったので、ライターかテレビのひとか、あるいは劇場のひとかわからなかったが、配給のひとがそんなに言い切ってしまっていいのかなという思いで部屋の暗くなるのを待った。アルモドヴァルが「ホモ」をはずすはずがないではないか。問題は、ホモセクシュアリティというものをどうあつかうかだ。わたしの買いかぶりでは、アルモドヴァルは、ホモセクシュアリティを既存のセクシャリティの単なる逆転(「transvestiteトランスヴェスタイト」は「性的倒錯者」と訳される)ではなく、それよりも上位のあるいは質的に別のセクシャリティと考えている。これは、1970年代に浮上したゲイ・ラディカリズムでは常識だった。
◆わたしの予想は裏切られなかった。登場する2人の男は、それぞれ通常の意味での「ゲイ」性をもっている。ベニグノ(ハビエル・カマラ)は、15年間母親の介護をし、性的経験がない。窓から向かいの建物のバレー・スタジオのなかをながめ、練習する一人の女性アリシア(レオノール・ワトリング)を好きになる。しかし、その愛は「ストーカー」的な愛であって、距離をおいてのみ愛することができるような関係だ。旅行ライターのマルコ(ダリオ・グランディネッティ)が結婚したのは、相手の麻薬中毒を直すためだった。彼女は、やがて別の男と去った。新たに知り合った女性闘牛士リディア(ロサリオ・フローレス)への愛は、結局、すれちがいだったように見える。どちらも尽くす男であり、心の奥に孤独を秘めている。
◆映画は、ピナ・バウシュが劇場で踊る『カフェ・ミュラー』のシーンからはじまり、その後の展開を示唆するが、もらったプレスで絶賛されているほど「すごい」とは思えなかった。だいたいピナ・バウシュは礼賛されすぎる。彼女がやっていることは、とっくに大野一雄(この舞踏家への無批判な礼賛も困りものだ)でもやっている。生と死、意識と無意識、男と女、野と舞台、有機的なものと無機的なもの、などなどのあらゆる境界線(ボーダー)を越えるプロセス。この映画は、ピナのダンスよりもはるかにこうしたプロセスを見せてくれる。
◆フラッシュバックが多用され、ベニグノは、交通事故で昏睡状態に陥ったアリシアの介護を4年もしていることがわかる。彼女を直接愛することはなかったが、自分から買って出たこの仕事が彼女への愛なのだった。闘牛で失敗し、やはり昏睡状態に陥ったリディアは同じ病院に収容された。マルコはつき添っているが、ベニグノのような、髪を洗い、マッサージし、たえず話かけるというような介護はできない。ほとんど途方にくれている。このへん、アルモドヴァルは、ひとが「植物人間」になったときどうするかという問題をも提起している。同じ病院だから、2人が顔を会わせることになるのは必至だった(映画だから)。最初の場面は、まだ二人が知り合うまえのことだが、これも映画らしいセッティングである。この映画は、映画らしくありながら、「現実」との接点を失っていない。
◆アリシアもリディアも気管支切開をしており、のどにプラグがあるが、人工呼吸器はつけていない。
◆パーティでカエターノ・ヴェローゾが歌うシーンがある。このシーンへ入るまえにプールで泳ぐ男を上から撮った映像が映るが、その踊り方がなかなかセクシーだった。ヴェローゾの歌を聴いて、マルコが涙を流す。彼はよく涙を流す。
◆スペインにはマチズムの伝統があるから、女性の闘牛士は男の闘牛士とはりあう。どこか「男」的な要素を見せるリディア。彼女が牛に突かれる場面で、わたしには、それが事故のようには見えなかった。彼女は、キリスト教の信仰があつく、闘牛のスタッフから、神父が村の娘を片端から犯し、その後は「エイズが怖いので」尼僧を犯しているという話を聞いてショックを受ける。
◆アリシアのバレー教師の役でジェラルディン・チャップリンが出ているが、近年の彼女の痩せ方は異常。ほとんど骸骨のよう。この映画では、バレーというより舞踏のダンサー的な役柄を演じるので、その体躯がかえってぴったりだった。
◆ベニグノは、アリシアのために映画を見る。彼女に話すためだ。生前、ストーカーのような感じで彼女と話をするチャンスがあったとき、彼女はサイレント映画が好きだと言う。それを意識して、ベニグノは、サイレント映画を見る。それは、アルモドヴァルが、作ったフェイク「サイレント・ムーヴィ」で、『縮みゆく恋人』と題されている。人間を縮小させる薬を発明した女性科学者の恋人が実験台になってその薬を飲む。日に日に縮んでいく自分を恥じて、身を隠してしまった彼をようやく発見した彼女は、バッグに入れて連れ帰る。彼女が眠ったあと、彼は、彼女の体の上を「探険」する。そして、最後の彼女のなかに入ってしまう。これをサイレントで「リアル」に表現するのだが、とてももの悲しく、ユーモラス。
◆ベニグノは、確実にアリシアを愛している。こういう形での愛もあるということだ。彼が彼女の体をマッサージするのもある種の愛の形だとみなせる。その体は通常の意味での「女」ではないし、だから、2人の関係は単なる「男女」関係ではない。しかし、それは、「世間の常識」からすると、ストーカー、痴漢、さらには屍姦的な態度ととられるかもしれない。そうしたさまざななボーダー・ラインを移動しながら示される性と愛。
◆終末近く、ある事件によって、ベニグノとマルコは、切っても切れない関係になるが、2人のあいだには、物理的な壁が立ちはだかっている。この映画の登場人物たちは、みな、さまざまな意味での壁をはさんでコミュニケートする。そして、そうした距離をおいた関係のなかでの愛の一つの形を示している。
◆セゴビアの刑務所の受付の女性が、「囚人」という言葉を使ったマルコに、「ここでは『囚人』ではなく『インテルノス』〈内のひと?〉と呼びます」と語る。
◆最後のシーンが゚ュ落ている。ジャズが使われている。
(ギャガ試写室)



2003-03-12

●母と娘 (ANAK/2000/Rory B. Quintos)(ロリー・B・キントス)


◆冒頭、ホンコンのショット。ヴィルマ・サントスの内的独白的なナレーションで、彼女が演じるジョシーが、家政婦としてフィリピンからホンコンに出稼ぎにきていることが告げられる。一見ホンコンの街頭の雑踏に見えるが、あとでわかるように、最初のシーンに出てくる大勢の女たちは、みなフィリピンから来た出稼ぎ労働者であり、休日になるとこういう形で路上ミーティングをやるらしい。
◆このシーンのあと、バーンと中国風のドラが鳴ってメインタイトル。彼女は、ようやく故国に帰れるのだ。この映画は、エンドタイトルに "To all oversea workers" という文字が見えるように、フィリピンの出稼ぎ労働者の1つのパターンに注目をうながす。日本では、セックス産業で働くフィリピーナがよく知られているが、家政婦ももう一つの労働形態なのであり、台湾やホンコンが日本に次ぐ労働現場なのである。
◆出稼ぎしなければ家族を養えない。しかし、親の長期の不在は、親子関係に深い傷を残す。ジョシーが6年ぶりでマニラに帰ってきたとき、空港に出迎えた息子は一物ある表情、幼いときに別れた娘は相手が誰であるかわからない、そして長女の姿はなかった。
◆ジョシーがいっしょに帰ってきた友達との親密なやりとり(しゃべりかたやはしゃぎかた)がいかにもフィリピン人の女性らしい。ジョシーは空港のキャリングカーに山ほどおみやげを積んでいる。テレビのダンボール箱には "Sharp" の文字が見える。家についてみやげを次々に出す母親に子供たちは当惑気味。6年間に父親は死に、そのあいだジョシーの友人が子供たちの世話をしていた。
◆一番深い溝ができてしまったのは、長女のカーラ(クラウディン・バレットが好演)で、彼女は、母親がホンコンで勝手なことをしたいたと思い込んでおり、父親が交通事故で死んだときにも帰ってこなかったと言って母親を責める。映画の大半は、この娘の反抗と、それに苦しむ母親のドラマである。
◆映画の作りからして、どんなに反抗する娘でも、最後にはもとの鞘に納まるのだろうという安心感ないしは予定調和がある。しかし、子供が親に「置き去りにされた」という傷(トラウマ)を持つ問題は、このドラマの時間を越えて残るだろうということを考えると、この映画は、単なるメロドラマではない。
◆この映画のいくつかの場所に、出稼ぎしなければ「まともな」生活ができないフィリピンの現実が語られている。この映画は、似たような環境に生きる女性や子供たちを励ますという「社会派」的な目的意識で作られている。主演のヴィルマ・サントスは、マニラ近郊のリパ市の市長をしている人だ。しかし、わたしには、そういう「偉さ」が、彼女の表情にあらわれていて、とうてい、これを「庶民」の話とは受け取れないのだった。娘にタンカを切るシーンなどなかなか「感動的」だが、一方では自信にみちた名優による実に演劇的に見える。
◆わたしがこの映画で一番魅力を感じたのは、ジョシーがホンコンから帰ってきて、昔の女仲間3人でコンテストのようなものに出演し、「アナック」を歌うシーンと、彼女が仲間とタクシー会社をやろうとするプロットだった。どちらもフィリピン的な奔放さと能動的「いいかげんさ」が出ていてよかった。女文化の特性もよく出ていた。
◆ジョシーは、だらしのない夫の悪口を一度も言わない――だから娘が、事情を理解せず、彼女を恨むことになったのだが、夫のことを悪く言わないというのはフィリピンの女性文化なのだろうか? 自問するように、「父親が外国で稼いで家族に衣食住をあたえ、子供を学校にやると、なんていい父親だとみんなは言う。でも、母親がすべてを家族に捧げても、離れて暮らさないかぎり、いい母親とは言われない」と言うが、これは、直接自分の夫を非難するものではなく、フィリピン文化のある種の特徴を言っているにすぎないような感じだ。
◆ジョシーが夫の死に帰国できなかったのは、彼女の雇い主(若い中国人一家)がそれを許さず、パスポートを取り上げ、マンションの外鍵をかけ、電話も切ったまま彼女を1週間以上軟禁状態にしたからだったが、このシーンには、明らかに中国人への反感が感じられる。死んだ夫は、遊び人なのだが、彼は、台湾に出稼ぎにいったものの仕事のつらさに逃げ帰った。フィリピンと中国との関係は、あまり映画では問題にされない。
(映画美学校試写室)



2003-03-07_2

●ぼくの妻はシャルロット・ゲンズブルー (Ma Femme est une Actrice/2001/Yvan Attal)(イヴァン・アタル)


◆セルジュ・ゲーンズブールの娘シャルロットとかのテレンス・スタンプが出るので、期待したが、見事はずれた。シャルロットには父親の面影はなかったし、『私家版』(Tire a part/Limited Edition/1997)や『イギリスから来た男』(The Limey/1999)で見事な「復活」を見せたテレンス・スタンプが、ただの老人をやっているのを見せられた。唯一いいのは、音楽にジャズを選んだセンスぐらい。冒頭でエラ・フィッツジェラルドの「バードランドの子守歌」を流し、その後は、ブラッド・メルドー率いるトリオの演奏を使っている。
◆女優を妻に持つスポーツ記者のイヴァン(イヴァン・アタル)は、有名人の夫であることにうんざりし、同時に、妻がハンサムな男とラブシーンを演じたりするのが気になってくる。しかし、この映画で彼が気にする相手の男優が「プレイボーイ」で知られるジョン(テレンス・スタンプ)ということで、イヴァンがやきもきするのは、ジョンにアウラが感じられない――わざとか?――かぎりで、全然ドラマとしての説得力がない。
◆ディテールは悪くない。ジャズもその一つ。ロンドンに撮影のために飛んだシャルロットをジョンが案内する場所がテイト・モダン。「ここは、もと発電所で・・・」という説明は、いまロンドンで一番面白いイーストエンド地区の宣伝をしているよう。わたしは、先日、このあたりに滞在し、テイトでパフォーマンスをやったので、そのさりげないシーンが面白かった。ディテールということでは、この映画の楽しみ方は、映画のなかの役柄と実像(シャルロットとイヴァンは実際の夫婦)とのあいだをあれこれ想像することか?
◆イヴァンは、気になるとパリからユーロスターでロンドンに駆けつける。パリとロンドンの距離は実に近くなった。
◆ここでも、前提としてユダヤ人性が出されている。イヴァンはユダヤ人で、その姉(ノエル・ルヴォウスキー)はユダヤ性にこだわるので、非ユダヤ人の夫(ローラン・バトー)とコミカルないさかいがたえない。彼女は生まれてくる子供に割礼をほどこしたいと思っている。まあ、イヴァンの心配症も、ウディ・アレン的な意味で「ユダヤ的」と言えないこともない。というより、イヴァンは、ウディ・アレンのスタイルを真似してこの映画を作っているようなところがある。
(ヤマハホール)



2003-03-07_1

●スパイダー (Spider/2002/David Cronenberg)(ダイヴィッド・クロネンバーグ)


◆クロネンバーグは、身体とマシン/エレクトロニクスとの関係というテーマに執着してきたと思うが、そういう見方は粗雑すぎるのだろう。たしかに、『スキャナーズ』(Scanners/1981)や『ビデオドローム』(Videodrome/1983)は、そういう観点で見ることが出来た。『ザ・フライ』(The Fly/1986)も、『クラッシュ』(Crash/1996)も、『イグジイステンズ』(eXistenZ/1999)も、テクノロジーによって侵略された身体というテーマをはっきりと持ってはいた。しかし、映画はテーマで作るわけではない。『スパイダー』を見て感じるのは、クロネンバーグは、テクノロジーであれ、狂気であれ、何かによってその身体/精神をい抜かれてしまったパーソナリティに関心があるのではないかということである。
◆列車でロンドンの(おそらく)イーストサイドのある町に到着した男デニス(ラルフ・ファインズ)は、明らかに精神の病を負っている。オーバーの下にシャツを4枚も重ね着し、たえず独り言を言っている。彼がメモを頼りに到着したのは、ルーミング・ハウスで、家主(?)のウィルキンソン夫人(リン・レッドグレイブ)に迎えられる。その家は、(わたしは、『ニューヨーク街路劇場』に書いたように、1970年代に似たようなルーミング・ハウスに偶然住み着くことになったのでよくわかるが)「軽度」の、あるいは「通院でさしつかえない」と認められた患者が宿泊する場所で、リビングルームには、(最初誰もいないように見えるのだが)カメラが引くと、2人の老人がいる。どちらも「普通」ではないが、デニスがどう見ても最も重症である。
◆フラッシュ・バックがひんぱんに使われ、デニスの幼年時代(ヴラッドリー・ホール)が映されるが、妄想と幻想が重なる。彼は、紐を結んでくもの巣を作って遊ぶのが好きな(自分が蜘蛛だと思っていたかもしれない)少年だった。だから、「スパイダー」というあだ名がある。母(ミランダ・リチャードソン)と父(ガブリエル・バーン)の関係も多重に妄想化される。
◆デニスの父親は、最初、勤勉そうに見えるが、やがて浮気で飲んだくれな男として姿をあらわす。こういうことは、よくあることだ。しかし、妄想は、一人の人間の変化やさまざまな局面を別々のさまざなな人格として分裂的に見る。母が娼婦になるのではなく、母と娼婦がいる。ミランダ・リチャードソンは、一瞬、見間違えるほど巧みな演技でその異なるキャラクターを演じわけている。この映画で父は、同じ父のままで「善人」と「悪人」とのあいだを揺れ動いているようにデニスの目に映るのは、エディプス・コンプレスが、そうした分裂症的認識を引き止めるのだろうか?
◆今回クロネンバーグが選んだ場所はロンドン。しかも、工業化の雰囲気が残る地帯。宿泊先の建物の向い側にガスタンクがある。2月にロンドンに行って、わたしは、いつもとは違うウエスト・エンドで10日間をすごした。そこには、まだ歴然と工業化の痕跡が残っており、それが、歴史を感じさせるのだった。もともとは、「近代」の産物だった鉄道や工場の痕跡が歴史を感じさせるということは、いまの時代が近代からはるか遠くに来ていることを物語るが、さもなければ、われわれは歴史をつかむことができないのだ。日本の都市には、もうどこにも工業化の時代の痕跡はない。だから、われわれは歴史喪失に陥っている。それで、思うが、デニスは、過去という「スパイダー」の「ウェブ」にがんじがらめになっている男なのだ。ちびた鉛筆でノートに他人には判読不能の文字で記し、絨緞の下に隠すのも、この記憶強迫症のあらわれだろう。
◆デニスも、ルーミング・ハウスの住人たちも、みな、大切なものを靴下に入れ、ズボンのなか(ポケットではなく)にしまう。ポケットよりも奥の収納ボックスなのか?
(ベナビスタ試写室)



2003-03-06_2

●マイ・ビッグファット・ウェディング (My Big Fat Greek Wedding/2002/Joel Zwick)(ジョエル・ズウィック)


◆喜劇を作る最も簡単な方法は、エスニックな差異を利用することだろう。アメリカの大衆的なジョークの多くが、差別的ないしは差別すれすれのエスニック・ジョークを使うのもそのためだ。いまどきエスニックのちがいでもないのだが、たまたまそういうことにこだわるファミリーがいたという設定にすればよい。この映画はそんな前提でできている。そういう前提を疑えば全体が崩れてしまが、そういうこともありなんと思って見れば、楽しめる。
◆トゥーラ(ニア・ヴァルダロス)は、30をすぎても、恋人がいない。何でもギリシャが一番と思っている父(マイケル・コンスタンティン)が、カレッジに行くことも、外に働きに行くことも禁じているからだ。仕事は、ファミリー・ビジネスのレストランでウエイトレスをしている。母(レイニー・カザン)は、父よりはさばけ、何かと父を批判するが、所詮は「ギリシャ」の女、父の言い出したことを覆すことはできない。
◆そんなトゥーラが、化粧をし、ださいメガネをコンタクトに替えて、カレッジのコンピュータと観光ビジネスのコースを受ける決意をしたのはなぜだろう? そのへんはよくわからないが、その変身ぶりは、ニア・ヴァルダロスのおおざっぱな演技とともにすがすがしい。体であれ心であれ、変身/心は、映画やドラマに不可欠の要素だが、この映画はそういうポイントをつかんでいる。
◆この映画は、人生なんてそう簡単じゃないだろうとしかつめらしい顔をする者を全く相手にしないあっけらかんとしたノリがよい。話はハッピーエンドなのだが、しかし、こちらが気恥ずかしくなるような感じもない。
◆トゥーラが恋するようになるイアン(ジョン・コーベット)は、大学の教師だが、子供を大人にしたような屈折のない青年。ヴェジタリアンで肉が食えないのも、「ギリシャ人」には不評だ。しかし、彼は、トゥーラとの結婚に反対する彼女の父親を、彼が「ギリシャ人」になることによって回避する。「じゃあ、ギリシャ人になるよ」。このシーンで面白いのは、あんなにエスニシティへの執着を見せた頑固な父親が、イアンのそうした決意を受け入れる点だ。「そんなに簡単にギリシャ人にはならないぞ」とは言わなかった。つまり、ギリシャ人であるかどうかは、彼らの場合、宗教の問題なのである。だから、イアンは、ギリシャ正教に改宗し、見事トゥーラを妻にするのだ。
◆このへん、日本の場合は難しいだろう。日本では、日本人とは土着概念であって、日本人の家系の者だけが日本人だと思っているところがある。日本には、「日本人」になる明確な方法がない。ちなみに、「アメリカ人」になる(ブッシュのアメリカでは誰もお断りだろうが)には、国籍を取ればよい。日本では、日本国籍を取っても、「外人」は「外人」だ。
◆なお、映画にトゥーラのお婆さんが出てくる。彼女は、老いてちょっと来ているところがあるのだが、その口癖は、息子がトルコ人の父親の血を引いていることである。つまり、彼女には「純粋ギリシャ人」の観念があるらしい。
◆その昔、大ヒットしたマイケル・カコヤニスの映画『その男ゾルバ』(Zorba the Greek/1964)で、アラン・ベイツが演じる若いイギリス人がギリシャに旅してゾルバという猛烈な男(これをアメリカ俳優のアンソニー・クイーンが演じた)に会う。イアンがトゥーラの家族に会い、驚きながらなじんでいくプロセスは、この映画とそっくりだ。
◆トゥーラの方は多産で多数の親戚、イアンは一人息子で両親(フィオナ・ライドとブルース・グレイ)は、宗教にはこだわらない。だから、両親の引き合わせのとき、イアンの両親は、あまりみやげに凝らないアングロサクソン系の人間らしく、簡素なバント・ケーキを持ってくる。トゥーラの親は、真ん中に穴が開いているそのケーキをけげんな顔で見て、あとで、そこに花を差して持ってくる。
◆いま、ギリシャ正教は、キリスト教のなかでは勢いがいい。ソ連の崩壊で東欧の旧ギリシャ正教国でギリシャ正教の寺院が公認され、東欧の多数の正教徒がギリシャの「聖地」詣でするという。このへん、面白いと思うのは、ギリシャ正教のビザンチン帝国がやったことと、十字軍気取りのブッシュが目下目指している「アメリカ帝国」との落差である。ビザンチン帝国は、最後はオスマントルコに滅ぼされるのだが、ぎりぎりまで戦争をしないその巧みな外交は、ブッシュにはひとかけらもない。
(丸の内プラゼール)



2003-03-06_1

●ライフ・オブ・デビッド・ゲイル (The Life of David Gale/2003/Alan Parker)(アラン・パーカー)


◆1年以上もまえにテキサスのオースティンの知り合いからこの映画のロケ(デモ・シーン)が大学の近くで行なわれたという話を聞いていたので、見るのを楽しみにしていた。その期待はうらぎられなかったどころか、アラン・パーカーのしたたかな演出に舌をまいた。とにかく、この映画ほど批評を禁じる作品はない。批評にも色々あり、「ストーリー」紹介というのは最も安易な批評(正しくは「評論」)だが、全然ストーリに触れないでは批評は書けない。が、この映画は、そのストーリを書いてしまったら、「お前は馬鹿か」と言われて当然のような構造になっているのである。
◆最低限暴露するのを許されるストーリーは、死刑を宣告された元大学教授の男デイヴィッド・ゲイル(ケヴィン・スペイシー)が、死刑の4日まえになって50万ドルでニューヨークの雑誌にインタヴューを許すということ。そのインタヴュアーに抜擢されたのが、生意気を顔に描いたような女性記者ビッツィー(ケイト・ウィンスレット)。彼女は、上司の命令でつけられた助手ザック(ガブリエル・マン)とともにオースティンに向かう。デイヴィッドは、死刑廃止の運動に関わっていたが、運動の同志コンスタンス(ローラ・リニー)を暴行し、殺害した容疑で逮捕され、死刑を宣告されたのだった。それには、彼の強度のアルコール依存症や、教え子の女子学生バーリン(ロナ・ミトラ)の強姦容疑という「前歴」も影響していた。しかし、どこかに冤罪の臭いもする。彼は、テレビで死刑問題をめぐって市長を徹底的にやりこめたこともある。
◆冤罪が、ジャーナリストによって暴かれて行くドラマは数かぎりなくある。が、この映画は、そんな単純ではない。すべてが予感通りに終わるハリウッド映画の定石では、このような映画は最後に冤罪がはれるか、逆に、冤罪以上に悪いことをしていることが明らかになるといったパターンで終わる。しかし、この映画はそのどちらでもない。
◆この映画が問うている重要な問題の一つは、権力はつねに嘘をつくが、それに対抗する反権力は、いつも「誠実」であるべきなのかということである。実際のところ、いま世界で起こっている反米デモも、自然発生したものではなく、十分に動員されたものである。日本でアメリカのイラク攻撃反対のデモが貧弱なのは、いまの日本には、何万という反対者を動員する組織やパーソナリティがないからである。が、そのことを持って、デモなんて所詮は組織されたものであり、1980年代の反核デモは、ソ連の画策したものだとか(吉本隆明はそう公言した)、いまの反米デモはイラクが裏で糸を引いているとかいうのはまちがっている。だが、そうだとしても、逆に、権力がどんなにまちがっているときでも、あらゆる方便がゆるされるわけではない。では、そのボーダーラインとは何なのか?
◆現代の歴史は、権力の陰謀も、反権力の(つかのまの)「快挙」も、マスメディアを通じて人の知るところとなる(たとえばベルリンの壁の解放のマスメディアティックな「告知」)。だとすれば、マスメディアが報道しなかった、あるいは出来なかった側面というものがあるだろう。それがあきらかになれば、これまでの歴史上の「最悪」の事件も、「最善」の事件も、これまで考えれれてきたのと全く異なる解釈を得るかもしれない。あるアメリカ史家によれば、ジョン・ケネディが生きていたら、ベトナム戦争はもっと悲惨な事態に陥ったかもしれないという。それを予感した闇のグループが彼を葬ったのだとしたら、どうだろう? こういう「イフ・ストーリー」は、歴史の陰謀理論とともに、意味がないし、現実から目そさらせる機能を持つのだが、そういうこともないわけではない。が、そうだとすれば、人は、何を基準にして権力との闘いを進めればよいのか?
◆この映画は、とにかく見てもらうしかないし、無前提で見てみる価値があるだろう。大詰めで、追いつめられた者が後世のために何かやりたいという強い意志と、すさまじい連帯の形があらわになるが、同時に考えなければならないのは、そうした意志と連帯は、馴化されてではなく、完全に自覚して行なう自爆テロの実行者たちの「意志」と「連帯」にも通じるものがあるということ、そして、それも、死刑制度と同様に許し難いものであることだ。しかし、このディレンマはわれわれを深い考察と反省にいざなうはずだ。
(UIP試写室)

リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート