粉川哲夫の【シネマノート】
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マトリックス レボルーションズ   この世の外へ   グッバイ、レーニン!   シービスケット   キル・ビル   25時   真実のマレーネ・ディートリッヒ   ジョゼと虎と魚たち   アイデン&ティティ  

2003-10-30

●マトリックス レボルーションズ (The Matrix Revolutions/2003/Andy Wachowski, Larry Wachowski)(ウォシャウスキー兄弟)


◆ヨハン・グリモンプレの『ダイアル ヒ・ス・ト・リ・ー』の上映で解説役を引き受け、大阪に行ったりしていたので、しばらく試写に行けなかった。そのうえ、来月からブリュッセルのRadiophon'ic 2003に招かれて行くので、今月の見おさめは、この作品だけになりそうだ。明日イ・チャンドンの『オアシス』の試写があるが、たぶん行けないだろう。
◆劇場の外に長い列が出来たが、キャパの大きい新宿ミラノ座は満杯にはならなかった。これは、宣伝の割りに意外だった。上映まえに後ろを見まわしたら、まだ席が空いていた。前や左右の袖の席はかなり空いている。入場のとき、密かな撮影や録音の用具を隠していないかと持ち物チエックがあったが、こういうのも裏目に出る。撮られたっていいじゃないか。段取りが悪いらしく、プレスに書かれた字幕訳者名が「菊地浩二」ではなく、林完治であるという訂正のアナウンスがあった。さらに、『ザ・ラースト・サムライ』などの予告編のあとカーテンが降りてしまい、SONYの劇場音響システムの宣伝的映像が出るときは、カーテンの上に映像が映され、本編が始まってあわてて上げられた。だから、最初の緑の画面(文字がにじんでいる)の頭の方はまだ銀幕が出ていなかった。
『マトリックス リローデッド』よりもヴァーチャリティと肉体的現実との関係についての描き方がすっきりしている。そのとらえ方も奥行きがある。ただし、ネオ(キアヌ・リーブス)とエイジェント・スミス(ヒューゴー・ウィービング)との格闘シーンには前2作とは異なる新味が若干あるとしても、見せ場にしていると思われるザイオンへのセンティネルズの包囲攻撃とザイオン側のAPU(武装人民軍)による反撃のシーンは、月並みだ。このシーンになると、ただの「戦争」シーンになってしまう。肉体的現実とマシーンの世界があり、両者はプログラムの世界(マトリックス/メイトリックス)の世界で共有関係を持っているが、マシーンのなかからマシーンをも肉体をも越える存在(エイジェント・スミス)が生まれ、すべてを統合しようとするというテーマは、ガタリとドゥルーズが「マシーン」と「機械なき身体」という言葉で言おうとしていることに迫る深さがある。にもかかわらず、そういう深さは、「戦争」シーンでどこかに吹き飛んでします。が、さもないと観客が動員できないのかもしれない。ガタリとドゥルーズは「戦争機械」という言葉を使うが、それは、こういう戦争のことを指しているわけではない。
◆ネオがエイジェント・スミスによって閉じ込められてしまったマトリックス(プログラムされた世界)と肉体世界との中間地帯(そういうのがあるという設定も面白い)は、地下鉄の駅のような雰囲気。駅名は、「Mobile Av.」つまり「ケータイ通り」。そこに、マトリックス界から地下鉄が来る。こういう設定を見ると、この映画を何度も見たくなる。それだけの示唆力があるということだ。
◆肉体界(「ディス・イズ・リアル」)は、センティネルズの包囲攻撃を受けて存亡の危機にあるザイオーンと、反乱軍がたてこもる船のなかとがある。この船のなかでネオはマトリックス界にジャックインされ、ベッドに「意識」を失ったようなかっこうで寝ている。しかし、メトリックスにジャックインされているはずなのに、コンピュータ上では、彼の姿が見つからない。そこでモーフィス(ローレンス・フィッシュバーン)とトリーニティ(キャリー=アン・モス)らは、ジャックインして、マトリックス界に彼を探しに行く。そこで地下鉄に乗ると、ホームレス的な男トレインマン(ブルース・スペンス)がおり、モーフィアスたちは追いかける。しかし、男は地下鉄の非常レバーを引き、急 停車させ、逃げてしまう。ホームで格闘するうちに、近づいて来た地下鉄の前を寸前のところでホームの向こう側に飛び移り、逃げてしまう。そして、次の瞬間、このベーンは、あの中間地帯の「ケータイ通り」に降り立ち、ネオの前に立つ。
◆19世紀的な工業機械の環境、マシーン・シティのギーガー的/『エイリアン』的な世界のこれ見よがしな描き方(それだけ金がかかっている)に比して、マトリクスの世界は、もっぱらエイジェント・スミスとネオとの闘いのシュールさにのみ比重が置かれていて、あまり新味がない。
◆とはいえ、さまざな位相のちがったテリトリーというよりネットワーク的な飛び地を移り行く肉体と脱肉体の「舞踏」と「旅」。この《ノマド》的なところがたまらない。ところで、ドゥルーズは、「ノマド的思考」という文章のなかで、「ノマドとは必ずしも動き回る人のことではない」と言っている。結局、ネオたちは、肉体的にはそんなに動き回ったわけではない。
(新宿ミラノ座)

◆[追記/2003-11-21]本欄の読者で、『マトリックス』の専門サイトを作っておられる dreamy 氏から以下のご指摘をいただいた。誤りは早速訂正し、氏に感謝します。
小さい間違いですが、指摘させてもらいます: 翻訳者名の「林寛治」→正しくは林完治。 《そこで地下鉄に乗ると、ホームレス的な男ベーン(イアン・ブリス)がおり、モーフィアスたちは追いかける。しかし、男は地下鉄の非常レバーを引き、急 停車させ、逃げてしまう。》→ベインはリアルワールドの船の中で昏睡状態から醒める男ですので、ここは正しくはトレインマン(ブルース・スペンス)です。



2003-10-17

●この世の外へ (Konoyo no sotoe/2003/Sakamoto Junji)(阪本順治)


◆予想以上にお客が多い。何とイメージフォーラムの富山・かわなか夫妻までいるではないか。富山さんからは、早速、ヨハン・グリモンプレのイヴェントでしゃべるのたのますよと念を押された。かわなかさんは、「批評が衰退してるね、同世代で元気なのは足立(正生)ぐらいですよ。えらい元気でね。刑務所へ入っていて酒飲まなかったから」と笑う。たしかに、うらやましいほど酒が強かった知り合いの多くは若くしてみな死んだ。しかしねぇ、長生きすればいいってもんじゃないし、生物学的年令と「若さ」とは比例しないから、体の問題じゃないような気がする。
◆戦後の1947年から朝鮮戦争の1950年までの米軍キャンプのとあるジャズクラブの話。最後のクレジットの片側に、松本英彦、原信夫、ジョージ川口、そしてボーカルのマーサ三宅(ちなみに彼女は大橋巨泉の夫人だった)やベギー葉山といった日本のジャズの第1世代がまさにその生物学的年令を越えた若さで演奏するのが映されるが、彼らの大半は、この映画に時代に米軍のキャンプで働き、同時代のジャズの先端を吸収した。日本のジャズは、米軍キャンプから始まったと言っても過言ではない。
◆そうしたジャズの創世記の雰囲気とともに、いまでは強制的に「養老院行き」された「戦後民主主義」の気分のようなものが描かれている。1945年から憲法発布の1946年までのラディカルな時期は終わっていたとはいえ、この映画が描く1947年から1950年までの3年間は、すでにアメリカの「反共」政策が着々と進められていたにもかかわらず、日本社会には、街頭にも職場にも旧弊を否定するアナーキーな意識と雰囲気が横溢していた。ここでは、戦勝国で敵だったアメリカが政治的・文化的な「解放軍」としての役割を果たす一面もあった。
◆冒頭でフラッシュバックする戦場の死体と飢餓の悲惨な記憶をかかえて、かつて軍楽隊でテナーサックスを吹いていた広岡(萩原聖人)が、「二世」気取りのサングラスの男(哀川翔)から得た情報で、昔の仲間とバンド「ラッキーストライカーズ」を組んで基地のクラブで働くことになる。メンバーは、「ジョー」ことベーシストの平山(松岡俊介)、ピアニストの大野(村上淳)、神戸でジャズに染まったトランペッターの浅川(MITCH)、そして、本当はジャズなどできないのに飛び込んできた池島(オダギリジョー)。
◆当然、ジャズといってもまがいだから、クラブでは最初顰蹙を買う。サックス奏者としてキャリアのある米兵ラッセル(シェー・ウィガム)からすれば、話にならない。少しまえまで「敵」だった日本人になじめないこともあって、広岡らの演奏に文句をつける。そこをとりなすのが、クラブを仕切るマネージャーの軍曹ジム(ピーター・ムラン)。ラッセル/「ラッキーストライカーズ」/ジムの関係は、日米関係の縮図として描かれているが、ややステレオタイプの感もある。ダニーという息子を事故で失ったので、クラブでは「ダニー・ボーイ」の演奏はタブーだということがけっこう重要なプロットになっているが、バカげている。ダジャレの域を出ないような語呂合わせにすぎないのに、「ラッキーストライカーズ」が実際に「ダニー・ボーイ」を演奏してしまうと、ジムが本当に深刻な顔をするのには、大笑い。
◆時代を表象させる装置は、かなり力を入れてそろえている。戦争の終結を知らせるビラがB29からばらまかれるシーン、「カムカム・エブリボディ」の音楽(「英会話」というものを浸透させるうえで強い影響があったNHKの英会話の時間のテーマソング)、女性の車掌のいるバス(この時代は木炭バスもあったが、映画のはそうではない)、そして基地に行くとあふれていた(いまならあたりまえの)飲み物や食べ物、使い捨てのクリネックスなどさまざまな「物資」(という言葉の意味も独特だった)。
◆ひそかにトイレでヒロポンを打っていて、最後は便器の横に倒れてあの世に行ってしまうトランペッター浅川を演じる MITCHは、抜群にいい。そのニヒルな感じは、1940年代と拮抗できる。バンドの連中が着ている背広は、あの時代のあの人間にしては、仕立てがよすぎないだろうか? そしてその分、(さすが萩原聖人はちがうが)松岡俊介あたりになると、しゃべる日本語が今様で時代感覚が希薄だ。
◆面白いことに、わたしが最も1940年代的な雰囲気をあらわしていると思ったのは、兄(村上淳)と生き別れて浮浪児になり、やがて浮浪児をオルグして街路に生きて行く大野太郎を演じている一ノ瀬蘭丸とその浮浪児仲間を演じている子供たちだった。
◆萩原聖人がはじめてコカコーラを飲むシーンがあるが、わたしも、初めて飲んだときは、何て「薬臭い」飲み物だと思った。近所に同級生の姉さんが、米軍兵士の「オンリー」(特定の相手と言った意味だが、専用の娼婦といった含みもある)をやっていて、そのコネで彼のうちにときどきコーラーがダース単位で入るのを1本もらったのだった。コーラーを街で買えるようになるのは、大分あとのことである。
◆力(リキ)の入った作品だと思うし、時代がどんどん右傾化していく状況を示唆してもいるが、描かれているアメリカ(ジョーやラッセルに象徴される)は、やはり、極度に日本化されているように思えた。むしろ、結果的にあらわになるのは、日本人にとってアメリカというのは、いつもこういうものなのだなということである。政治経済の日米関係も、こういうスタイルで続けられているかぎり、イラク戦争で日本がアメリカに対して示した「忠誠」の態度はあらためられることはない。日本人が思い描くアメリカは、こちらが勝手に妄想し、小さく善良にまとめてしまった架空のアメリカにすぎないのである。
(松竹試写室)



2003-10-16

●グッバイ、レーニン! (Good Bye, Lenin!/2003/Wolfgang Becker)(ヴォルフガング・ベッカー)


◆開場が1時なら、普通の試写会ではその30分ぐらい前に行ったほうが安全というのが常識だが、この日、15分ぐらい前に行ったら、まだ、受付のテーブルの設置などでバタバタしていた。ロビーに入っても誰もこちらを見ない。早く来た人もいないらしい。普通は、階段に列をなす。仕方がないので、階下の特殊楽器売り場で時間をつぶす。ここには、ときどき、パフォーマンスに役立つ面白い楽器がある。で、1時に行って、やっと席につけた。しかし、客が少ない。この映画は、海外ではかなり話題になった。どうしたんだろう? おそらく、1時半の開始という設定がわざわいしたのだろう。これだと、終わりが3時半を過ぎてしまうので、別の試写をハシゴをしようとする客は、敬遠するからだ。開場を12時半にするべきであった。このへんに、この映画の興業の仕方の弱腰を感じ、封切後のゆくすえが案じられる。
◆全体の3分の2ぐらいまで、東ドイツ風というか、やや固いドタバタコメディ風に進むのだが、最後近くなって、なるほどと膝をうたせるようなところがある。東ドイツは、西側に取り込まれ、攻略されたというのが普通の認識だが、本当は、東が西を取り込んだのかもしれないなと思わせる。歴史の斬新な解釈をも含んだ快作。
◆東ベルリンのある一家。母クリスティアーネ(カトリーン・ザース)、息子アレックス(ダニエル・ブリュール)、娘アリアス(マリア・シモン)。父ロベルト(ブルガルト・クラウスナー)は、子供たちが小さいときに、「西ベルリンの女のところへ逃げた」と母は子供たちに教えている。
◆飾り気がない、居間で杓子定規な東独のテレビ番組(目玉は宇宙飛行の映像だけ)を見る子供時代、党員として「模範的」な生活をする母の描写があって、すぐに時代は1989年になる。少年隊の制服を来て党ご推薦の歌を合唱していたアレクスも、反政府のデモにも参加する青年に育っている。が、母親は、不満があれば、正式の陳情書を書いて(書きながら、「・・・プンクト(点)・・・点」と言うのがくせ(それだけ几帳面だということ)訴える。その訴えは、数カ月から数年しないと反応が返ってこない(東の官僚体制ではあたりまえだった)。
◆東ドイツ建国40周年の10月7日、街頭でデモをしていたアレクスたちの隊列に、警官が猛烈な勢いで攻め込んできた。たまたまその近くを通りかかった母クリスティアーネも、警官の暴力に驚き、抗議の声を叫んだ。そのとき、デモ隊のなかに自分の息子の姿を発見。そのショックで彼女は、心臓発作を起こし、道路に昏倒してしまう。警官に引き立てられながら、アレクスは、母が倒れている姿を見るのだった。
◆8カ月後、母は昏睡から覚めたが、今度ショックを受けると、致命的だと医師から言われたアレックスは、気が気ではなかった。というのも、そのあいだに、ベルリンの壁は崩壊(11月9日)、すべてが激変しはじめた。どっと西の消費経済が入り込み、姉のアリアスは、バーガーキングで働きはじめ、西側の男性とも親しくなった。
◆ここから、当分のあいだ、母にショックを与えないためにアレックスが仕組むドタバタ喜劇が続くのだが、彼のやり方は、ちょっと「寅さんシリーズ」なら出てきそうな「気配り」なのが面白い。そんなに西洋人が気を使うのかとも思うが、そういう人もいるのだろう。わたしの経験では、東ドイツの人は、西の人にくらべて「純朴」だ。学生なんかも、「内気」で、授業中の発言も日本人学生に似て、少ない。アレックスがデモで知り会い、母の病院で再会し、愛しあうようになるロシア人のララ(チェルバン・ハマートヴァ)も、「西洋人」とは一味ちがったキャラクターだ。
◆クライマックスは、自宅で療養しはじめた母が、あるとき、外の様子の変化を感じ、ふらふらする足取りで街路に出るシーンである。すでに東西の壁ははずれ、東西ドイツの交流がほぼ自由になっていた。安い家賃の家を求めて、西側から引っ越してくる者も増えはじめた。スーパーが出来、西側の物資も入りはじめた。彼女が呆然と街路を歩いていくと、ヘリコプターの轟音がし、巨大なレーニン像の上半身が釣り下げられ、移動していく。似たようなシーンは、テロ・アンゲロプロスの作品(こちらは船でレーニン像が運ばれる)にもあったが、完全に外部と遮断されていた「党員」がいきなり「神聖」なはずのレーニン像の解体された姿を目撃する衝撃の大きさが鋭く表現されているシーンだった。
◆感動的なのは、もう母親にホーネッカー政権の終焉やベルリンの壁の崩壊を隠しておくことはできないと観念した息子が、友人のビデオオタク(すでに彼に頼んですでに崩壊した「東独」のニュースを捏造して母親に見せていた)その1年間の変化を編集しなおしたものを見せるシーンだろう。たしかに壁は崩壊したのだが、それは、東側で「ペレストロイカ」が加速し、「民主化」が加速した結果そうなったという解釈で再編集される。
◆ソ連と東ブロックの「崩壊」は、ペレストロイカの昂進なしには実現しなかった。それは、ある意味では、東側自身の選択だと言えないこともない。そう見ると、歴史は別様に見えてくるし、いま東ブロックで起こっていることも、ポジティブな意味あいを帯びてくるだろう。この映画は、そういう歴史解釈の転換をも示唆している。
◆母は、東西ドイツの統合の日の3日後に穏やかな死を迎えるが、メタファー的に見ると、彼女は、東ドイツの旧文化に属する人間として「尊厳死」したことになる。彼女は、教条的な古い「共産主義」の党信仰にかたまった人間であった。その彼女が死ぬ、しかも納得と安寧のなかで死ぬということは、そういう傾向に縛られた旧文化が「尊厳死」したということを意味する。
(ヤマハホール)



2003-10-15_2

●シービスケット (Seabiscuit/2003/Gary Ross)(ゲイリー・ロス)


◆タイトルは、馬の名前だ。映画の最初の方には出てこない。サンフランシスコ、アメリカ中西部、カナダのアルバータ州に無関係にいる3人に男たちが、運命に引き寄せられるように合流する――ある意味ではスタイリッシュなドラマだが、実話にもとづいている。大きなきっかけは、産業構造の変化と1929年の大恐慌。
◆最初自転車を売っていたチャールズ・ハワード(ジェフ・ブリッジス)は、時代の流れとともに自動車の販売に乗り換え、サンフランシスコで富を築く。が、息子の不慮の死がきっかけで、妻が去り、そして、大恐慌で手痛い打撃を受ける。
◆幼いときから乗馬が得意で、賞金を稼いだりしていたアイルランド系の貧しいカナダ移民の子ジョニー・”レッド”・ポラード(トビー・マグワイア)は、大恐慌で両親が無一文になったのをきっかけに、競馬界に入る。が、いまいち成績をあげられず、やがて所属する競馬場を飛び出す。
◆カーボーイとして草原を疾走し、馬とともに生きていたトム・スミス(クリス・クーパー)は、自動車の普及によって仕事を失い、「ワイルド・ワイルド・ショー」の馬の調教師として各地を点々とするようになる。
◆3人が出会うのは、1933年、メキシコのティワナである。この時代、人々の心は暗く、誰でもが酒でも飲みたい気分だったはずだが、禁酒法はそれを禁じていた。それを解消できるのが、サンディアゴからすぐのティワナだった。ここには、快楽のためのすべてがあった。憂さ晴らしにやってきた失意のチャールズは、ここで美しく快活なマーセラ(エリザベス・バンクス)と出会う。脚の骨を折った馬を治している男トムに偶然会うのもここでだった。乗馬な好きなマーセラのために、やがて馬を持つことになり、このとき会ったトムを雇う。
◆以後、シービスケットの登場とその騎手としてジョニーが雇われるという出来すぎたような――しかし、それだけ心を踊らせる――ドラマが展開する。3人がそろった段階では、映画の流れは、1頭の小柄な馬と3人のチームがいかにレースを勝ち抜くかというスリリングなサスペンスドラマになっていく。それは、十分成功しているし、なかなか感動的である。
◆「大恐慌から人々を救ったのは、連邦プロジェクトではなく、シービスケットだ」という言葉があるらしいが、この馬が連戦連勝し、そして東部の三冠馬に数えられる「ウォーアドミラル」をも打ち破った話は、1930年代のアメリカでは有名な話だったらしい。映画では、ウィリアム・H・メイシーが演じるNBCのスポーツアナウンサー、”ティクトック”マクグローリンが、早くからシービスケットに注目し、熱狂的に実況中継するシーンが映される。面白いのは、当時のニュースや実況が、ある種のパフォーマンスだったということだ。彼は、”ティクトック”というあだ名の通り、話の合間にシロフォンやカスタネットやトライアングルのような小道具で音を出す。
◆ウォーアドミラルとシービスケットとの対決は、全米の44万人がそのラジオ実況を聞いたという。それでふと思ったが、日本でいま松井だイチローだとか、阪神の優勝だとか言っている背後には、ソフト化された「大不況」がある。その実相が、スポーツへの熱狂で覆い隠されている。
◆チャールズに雇われてからのジョニーは、チャールズとマーサラの家でいっしょに食事をするが、そのシーンは、あたかも2人の息子のような感じ。実際、息子を失ったチャールズにとっては、ジョニーはそんな存在であったはずだ。
◆エリザベス・バンクスは、1930年代の女性の感じを実によく出している(といっても、わたしはその時代の女性を見たわけではないから、映画的な現実性の観点からそう言っているのである。少なくとも、いまの時代の女性との違いを意識した表現をしているように見えた。)
(よみうりホール)



2003-10-15_1
●キル・ビル (Kill Bill: Vol. 1/2003/Quentin Trantino)(クエンティン・タランティーノ)

◆昨日公式的には最初の試写があったが、大学の授業で行けなかった。ほとんど3時間ぶっつけの講義。コンピュータとビデオを使い、グラフィティとスクウォッターの話。10年もまえからグラフィティとスクウォッターのすすめを話してきたので、手慣れた感じがするのか、反応がいまいち。日本ではようやくグラフィティが流行ってきたのに、わたしの大学の学生たちはさっぱり。こっちは、グラフィティとスクウォッターの現場を知ってるんだから、もっと質問してくれよ。話が横道にそれた。試写は、公式的には、今日同じ場所で3回やる以外はやらないという。が、その割りには客が少ない。
◆この映画を面白いと思わないおひとは、映画が好きではないのだろう。最高に楽しんだ。映画の「外」に対するへんなスケベ心を出さないのがいい。が、その方がかえって、「現実」に鋭く拮抗することにももなる。「現実」はすでに映像の現実を参照するようになっていいるからだ。主演のユマ・サーマンは、最近の作品よりも、なぜか『カウガール・ブルース』の彼女を思い起こさせた。非「現実」のキャラクターをえんじているからだろうか?
◆彼女のようなコケイジアン(白人)が刀を持つと、滑稽な感じしか出ないことが多いのだが、まあまあがんばっている。沖縄で飲み屋(そのくせカウターの下でごそごそやっていると、けっこうかっこうのいいにぎりのスシが出る)をやっている千葉真一(実は「服部半蔵」――これって忍者だったろう?!――とうところがいい)を訪ねた彼女が、彼に(もう刀鍛治はやめたというのを無理矢理)刀を打ってもらい、白装束を着て、受け渡しの儀式をするシーンなぞ、笑いが込み上げるが、同時に不思議な感動がおぼえてくる。
◆全編、仇討ちの話。敵討ちというのは、いまの「現実」にはそうありはしないのだが、映画では最もポピュラーなテーマだ。そして、映画が逆に「現実」を照射して、人は仇を討ったりする。
◆深作欣二に捧げられている。
◆刀で切り落とされる首はおそまつ。
◆腕や首を切られると、『椿三十郎』を思わせるやり方で血がシュ~っと吹き出る。これも笑える。
◆障子がバ~っと開くと、一面雪景色の日本庭園というのも実にオシャレ。ユマとルーシーが奇妙な日本語をやりとりするのも笑える。
◆日本人と中国人ともう一つ何人だかとの混血で日本のヤクザを仕切る女という設定のオーレン・イシイを演じるのが、『チャーリーズ・エンジェルズ 』と『チャーリーズ・エンジェルズ フルスロットル』のルーシー・リュー。ユマ・サーマンとの真剣勝負がみもの。
◆リューの生い立ちを描くチャプターでは全編劇画コミック風のアニメを使う。これによって、リューがいかに冷酷な人間になったかが、ポルノコミッック的な要素も加味しながら、効果的に描かれる。
◆ユマが4年間意識を失い、病院のベッドに眠っていたとき、病院の雑務係のようなことをやっている男が、20分75ドルでユマの身体を外の男に抱かせるアルバイトをしているというエピソードがある。こういう「ふとどき」な奴は、映画的に徹底的にやっつけられるために用意されたカモである。世の中には悪い奴がいるが、タランティーノも「悪い奴」を作る。
◆ビートたけしは、こういう映画を作るべきだった。彼は、海外の国際映画祭をねらい、日本の時代劇を「洋風」にし、どっちつかずの作品を作った。タランティーノは、ハリウッド映画を「日本映画」風にし、それによって、全く新しい映画スタイルを創造した。実は、「日本的なもの」とは、この映画が創造した現実性のなかを動いているのだ。
◆(以下、もっと書くのでご期待)
(ヤマハホール)



2003-10-10

●25時 (25th hour/2002/Spike Lee)(スパイク・リー)


◆出がけに流し読みしたメールに気になる表現があり、急いでコメントを送ったりしていたので、京橋の地下鉄駅を降りたら、12時15分になっていた。今日の試写は、2時間16分の上映を考慮してか、1時ではなく12時半に開始することになっている。やばい。急ぎ足で金鳳堂の角をまがってアサコ京橋ビルへ。すでに会場の席はかなり埋まっていたが、最前列が1つ空いていた。そこへちゃっかり着席。足を組んでいる隣のおじさんがじろりと見る。怖いねぇ。
◆冒頭で、製作会社のロゴが出ている段階で犬の必死の悲鳴が聞こえる。そのあと、車が不自然にエンジンを加速させる音。そして、車が姿をあらわし、停る。2人の足が見え、その一人がエドワート・ノートンであることがわかる。しかし、このイントロの意味がよくわからない。どうやら、その犬は車に轢かれ、路上に横たわっているところをモンティ(エドワード・ノートン)とその仲間のコースチャ(トニー・シラグサ)に発見されたらしいのだが、もっといわくありげに見えるのだ。モンティは、瀕死でも彼らに吠えつくこの犬が「見どころがある」と思い、オーバーでくるんで車のトランクに突っ込む。そのとき、犬に首をかまれた。以後、この犬がモンティの愛犬として登場する。
◆タイトルは、麻薬取り引きで逮捕されたモンティが、あと25時間で収監されるまでのドラマということを示唆している。そうしたリアルタイムの時間軸を基礎にして、彼の過去がフラッシュバックする。アイルランド系の家に生まれ、父親(ブライアン・コックス)は消防士(いまはバーを経営している)だったが、母親が死に、飲んだくれる父親に代わってドラッグのディーラーになり、家計をささえるようになった。やがてプエルトリコ系の女性ナチュレル(ロザリオ・ドースン)と知り合い、イーストリバー沿いのブルックリンのしゃれたアパートに住んでいる。しかし、その生活は長くは続かなかったわけだ。
◆モンティには、2人の幼友達がいる。一人は、ウォール・ストリートでトレーダーをやっているフランク(バリー・ペッパー)。彼は、グラウンド・ゼロを見下ろせる高級アパートに住み、職場では、上司の警告を無視して、きわどいバクチのような取り引きをし、莫大な金をかせいでいる。もう一人は、ハイスクールで文学を教えている内気でオタク的雰囲気のジェイコブ(フィリップ・シーモア・ホフマン)。彼は、教え子のメアリー(アンナ・パキン)の成績目当ての誘惑に戦々恐々としている。アメリカでは、17歳以下の子に手を出すとやばいのだ(そういえば、ロマン・ポランスキーもそれで国外追放になった)。
◆この映画は、7年の刑を宣告されて収監まじかの男と、恋人、友人、父親、ドラッグの元締めのロシアマフィアとのドラマだが、9.11以後のニューヨーカーの思いを込めたレクイエム的な意味があるように思う。イントロのあと、イーストリバー側からマンハッタンが映るが、そこには、天に延びる青い2本の光線が見える。言わずと知れたグラウンド・ゼロに設置されたライトの照明である。フランクのアパートの窓からグラウンド・ゼロを映すときも、カメラをアップして、現場で跡片付けをする労働者やブルドーザーを映す。そして、それ以上に、モンティが、父と最後の(?)食事に行ったレストランのトイレで鏡に「ファック・ユー」という落書を見て、一人、ニューヨークについて呪詛の言葉を吐く。その多くは、パキスタン人、ユダヤ人、ロシア人、イタリア人、韓国人、そしてオサマ・ビン・ラディの原理主義への極めて人種差別的な言葉だが、最後に、「ファック・ユーなのは俺だ」と叫ぶ。ここからは、ニューヨーカの持って行きどころのない気持ちが伝わってくる。
◆モンティ=ニューヨーカーをメタフォリックに受け取れば、ニューヨーカーの社会的意識/無意識は、監獄=閉じられた空間に囚われる寸前の状態にあり、できることならそこから逃げ出したいという気持ちなのではなかろうか? 最後のシーンで、収監される刑務所へ車で送る父親は、このまま車をまっすぐ走らせ、モンティが逃亡することを勧める。その先には、「平和」な家庭と家族の姿が見えるが、それは所詮ファンタジーにすぎない。ここは、ニューヨークであって、アメリカの小都市ではない。逃げ道はない。
◆ハリウッド映画で収監の話が出ると、しばしば、「お前みたいな奴が刑務所に入ったら、毎日強姦されてケツが腫れ上がるぞ」といったことが言われる。この映画でもモンティは、その恐怖におののいており、そのあげく、フランクを挑発して自分の顔をめちゃめちに傷つけようとする。しかし、このシーンには、友人と殺しあいをしたくないのに、せざるをえない混成民族社会の宿命へのスパイク・リーの思いが込められているように見える。見ていて非常にツラいシーンの一つだ。
◆この映画の俳優たちはみなすばらしい。ノートンは、『ファイト・クラブ』『アメリカン・ヒストリーX』よりも、『スコア』に通じるようなクールだが自分勝手な人物を演じ、『プライベート・ライアン』の狙撃兵を思い出させるバリー・ペッパーも、モンティ同様にセコいが、変にマジメなところがあるキャラクターを演じる。フィリップ・シーモア・ホフマンにわたしが初めて注目したのは、『ブロードキャスト』(1987)で放送スタジオのスタッフの役で出ているのを見たときだった。彼は、現場の緊張した空気にのまれポロっとボールペンを床に落とし、すかさずウィリアム・ハートに自分のペンを渡されて、ちょっと情けない顔をする。その微妙な演技が絶妙だった。その後も多くの脇役をつとめながら、確実に独特の位置を築いた。この作品でも、内向的で屈折したキャラクターを演じる。
◆モンティがナチュレル、フランク、ジェイコブと最後の夜を楽しもうと合流するクラブで「DJ ダスク」のプレイにファンが熱狂するシーンがあるが、DJ Cipha Soundsが代演している。
(メディアボックス)



2003-10-08

●真実のマレーネ・ディートリッヒ (Marlene Dietrich:Her Own Song/2001/David Riva)


◆渋谷育ちだが、最近は、タワーレコードとこの試写室に来るぐらいしか、あまり渋谷には来ない。が、その帰りにちょっと街を歩くと、極度に変わったとはいえ、身体に記憶されている渋谷の街のリズムとリアルタイムの街のリズムとがシンクロし、いい気分になって歩き回ってしまう。
◆ディートリッヒの孫のライヴァが集めた記録フィルム、ニューズリール、関係者へのインタヴューで構成したドキュメンタリー。わたしが妙に感動した3つの個所がある。1つは、ディートリッヒの娘のマリア・ライヴァが、ナチ台頭のドイツから母につれられて初めてカリフォルニアに行ったとき、「街中がオレンジの匂いがした」と話しているシーン、もう1つは、陥落直後のベルリンで、戦中もドイツにとどまったディートリッヒの老母とディートリッヒとがやっと電話で話すことができるようになるが、連合軍の指令で2人が英語だけで話すシーン、最後は、戦後、ディートリッヒのコンサート・ツアーに参加したバート・バカラックが実になつかしそうに彼女について語るシーン。
◆最初から政治的であったわけではないディートリヒが、敢然とナチに反抗し、過大な条件を提示したゲッベルスの執拗な勧誘もきっぱり拒否してアメリカに亡命し、連合軍を鼓舞するために1年間慰問旅行(1944年)をしたのは、使命感とか平和への願いとかいうようなものに突き動かされたというよりも、平板化した現状に満足できない反骨の精神がまずあり、それを忠実に生きるなかで、偶然に後押しされながら、自然にそうなったのではないだろうか? ディートリッヒは、嫌いなことは一切やらない「自由」に生きる女なので、その反骨は何かの使命感から出てきたというよりも、人間が自由に生きるとき、そのなかから自然に出てきたものという感じがする。その意味では、彼女の反骨は、人間のなかにおのずから存在する要素としての反骨・批判の意志である。
◆早くに父親を失ったマルレーンは、『日記』のなかで、「それでもすばらしい日々だった」と彼女の1910~20年代のベルリンについて書いている。カバレット、ジャズ、新しい文化とライフスタイルの波。その記憶が、ベルリンを蹂躙し、「田舎」にしてしまったナチへの解消しがたい反発になっている。彼女の母親は、ベルリンが解放されたとき、「ヒトラーより長生きしたから、もういつ死んでもいい」と言ったという。そういうドイツ人もいたのだ。
◆ディートリッヒが戦地への慰問を行ったきっかけは、1939年にゲッベルスの勧誘を蹴った一方、ハリウッドではロクなオッファーがなく、何かをやらなければならなかった(それも彼女の好きなハデハデな環境で)という事情があった。戦後、すぐれた『異国の出来事』(本邦未公開)(A Foreign Affair/1948/Billy Wilder) とヒッチコックの『舞台恐怖症』(Stage Fright/1950/Alfred Hitchcock)はあったものの、他に仕事がなかったとき、彼女は、「これも慰問するのと同じよ」と言って、ラスベガスでのステージに立った。むろん経済的な理由からだ。
◆いまのハリウッド俳優とはちがい、彼女は、彼女をスータにした『嘆きの天使』(Der Blaue Engel/1930/Josef von Sternberg)の監督スタンバーグ、あのジャン・ギャバンとおおぴらに恋をしながら、1924年に結婚した夫ルドルフ・ジーバーを終生愛し、彼が1976年に死去したときは、失意のどん底に落ちた(彼女の親友ローズマリー・クルーニー――ずいぶん太っておばさん風に映っている――の証言)。彼女は、ナチが次第に権力を握っていく時代のドイツで、すでに国外にいたディートッリヒに、決してドイツには近づくなという「指令」を発していた。彼女にとって彼は、つねによきアドバイザーだった。ドイツ時代の友人ヒルデガルト・クネフは、「2人は兄弟のようだった」と証言している。
◆冒頭、晩年のディートリッヒが「リリー・マルレーン」を歌うシーンがあるが、ファスビンダー監督の『リリー・マルレーン』(Lili Marleen/1981/Rainer Werner Fassbinder)では、ハンナ・シグラがディートリッヒの役を演じていた。ファスビンダーにしては「普通」の「感動」をあてにした映画で、やや意外な印象をもったのを記憶している。
◆バート・バカラックが、とりわ熱を込めて語るエピソードは、彼女がイスラエルを訪問したときのことだ。イスラエルでは、ドイツ語の歌は禁止されていた。それを知ったディートリッヒは、「じゃあドイツ語で歌うわ」と言い、英語でも歌う持ち歌を9曲もドイツ語で歌ったという。このときのものと思われるステージの記録映像のなかで、彼女は、「いつになったら学ぶの?なぜ戦争がくりかえされるの?」と歌っている。この映像を見て、ふとマドンナを思いだした。マドンナは、ディートリッヒを意識しているのではないだろうか? そういえば、戦地で空軍の(?)帽子をかぶり、戦闘服を着たマレーネの姿と、『アメリカン・ライフ』のプロモーション・ビデオで自ら演じている女性兵士はどこかでダブる。
◆マレーネの葬儀(すでにドイツに帰っていた1992年)のとき、ハリウッドからは誰も参列者がいなかったという。シェーネベルグの花市と重なったので、「たくさんの」市民が花を買って、彼女の葬儀の車に投げこんだと映画では説明があったが、映像に映っている棺の上に載っている花束の数はそう多くはなかった。
◆「リリー・マルレーン」をナチス・ドイツの兵隊に聞かせる狙いは、「メランコリー効果」だったという。つまり、それを聴いて「憂鬱」にさせること。この映画には、OSS(CIAの前身)の諜報部員だったエリザベス・マッキントッシュという人物も登場する。ディートリッヒは、戦時中、「諜報部員」としての役割も果たしたのだ。
◆『異国の出来事』には、ディートリッヒが実に20年代のベルリンぽい感じで「Want to by some illusions」を歌うシーンがある。この映画がなぜ日本で上映されなかったかについては、小林信彦が書いているらしい。なお、この歌は、マリア・フェイスフルが、「20th Century Bluses」というすばらしいCDのなかでも歌っている。
(アミューズピクチャーズ・スクリーニング・ルーム)



2003-10-06

●ジョゼと虎と魚たち (Joze to Tora to Sakana-tachi.2003/Inudo Isshin)(犬童一心)


『金髪の草原』で「老人」へ実にユニークなアプローチをした犬童一心の:w 新作なので、期待して見た。田辺聖子の原作というしばりがあるが、渡辺あやの脚本は新鮮。妻夫木聡がわたしなんかが大学でいつも接している今風の若者の感じを出していて、すがすがしかった。下半身が麻痺している女性を演じる池脇千鶴が、台所に特別に作った台に乗って野菜をきざんだりしたあと、いきなり板の間にどーんと飛び降りるのは、訓練したんだろうが、思わず「イテー」と感じてしまうのだった。
◆麻雀屋でアルバイトをする恒夫(妻夫木聡)が、早朝の帰宅途中に、バイト先でうわさになっていた老婆に出会う。彼女は、毎朝乳母車をひいてあるいているが、そのなかに入っているものが謎だという。死体ではないか、いや麻薬が入っていて、彼女は売人をやっているんだといった噂をジャン荘でしたばかり。その乳母車が、老婆の手を離れて坂道を転げ下りてくる。このシーン、当然のことながら、『戦艦ポチョムキン』の階段のシーンを思い起こさせる。
◆乳母車に入っていたのは、小柄な女性だった。身体が不自由な彼女を老婆(新屋英子)は「おまえは壊れ物やさかい、世間には見せられん」と言って、ひと気のない早朝に彼女を乳母車に乗せて散歩しているのだった。存在感のない、他人に敵意を感じさせない恒夫を、老婆は、朝食に招く。といっても、恒夫とは逆に存在感のありすぎるごうつくばりババアが誘うのだから、無愛想このうえないが、恒夫は素直についていく。
◆最初の方、みんな演技がぎごちないが、だんだんなじんでいく。この映画は、ドラマの進行する順に撮ったのだろう。
◆その女性は、家につくとてきぱきと朝食を作った。それを一口たべた恒夫が感動する。うまい。たしかに、作っているシーンからして、うまそう。たきたてのご飯とリキを入れて作ったみそ汁。四角のフライパンに卵をいくつも落とし、だし巻き卵も作る。いまは少なくなった「古典的」な朝食。
◆恒夫には、良家のお嬢さんぽい彼女がいる。大学の同級生の香苗(上野樹里)だ。彼は、同級生のノリコ(江口徳子)に誘われるとすぐに寝てしまう軽い男だが、親の目が光っている香苗とは、そうはいかない。このへんの素直さというか、いいかげんさというか、「主体性」のなさというか、今の若者の感じがよく出ている。
◆恒夫が名前をきくと、その女は、「ジョゼ」と名乗った。その名は、祖母が拾ってきてくれる本や雑誌のなかにあったフランソワーズ・サガンの小説『一年ののち』(朝吹登水子訳)の主人公からとったという。学校には行かせてもらえなかったので、勉強は、すべて老婆が拾ってきた本でしたという。いきなり極道の雑誌(?)なんかをだして、「トカレフ」について聞いてきたりする。このへんの感じは、田辺聖子式のわざとらしさがある。
◆それから、話はどんどん進み、恒夫とジョゼがいっしょに暮らすところまでいき、こういう感じだハッピーエンドで終わってもいいじゃないかと思わせながら、2人は別れてしまう。そもそも、この映画は、恒夫の「過去形」のナレーションではじまるので、ロマンティックには終わらないことが予期できる。ただし、その別れ方に少しも悲劇的な要素が感じられないのがいい。どうして別れたかという理由を、恒夫は、「逃げた」と素直に語る。このへんが、今の若者のプラス面であり、またマイナス面なのだろう。(わたしは、プラスだと思うが)。
◆ジョゼは、身体の不自由な女性が、「健常者」の恋人を持ったときに見せるありがちな、勝ち誇ったような、わがままな態度を示すシーンもちょっとある。タイトルの「虎」は、ジョゼが、最愛の人を見つけたら、見ることに決めていたという。恒夫は、彼女をおぶって動物園に連れていく。「魚」を見るために海にも行かされる。たがいに束縛しあうのは、相手にとっぴな注文を出されると喜ぶのが恋人同士なのだろうが、ちょっとパターンかなとも思う。
◆『金髪の草原』のときも「老齢化社会」の問題に対して、紋切り型ではない独特の視点を見せた犬童だったが、ここでは、「介護」や「ボランティア」に関する肩ひじはらない視点が見える。恒夫は、世間の風潮に従うように、抵抗なく「ボランティア」活動もするが、結局、そこに深入りすることはできない。それが「普通」なのだが、それを批判的に見るのでも、肯定的に見るのでもない犬童の視点がユニークだ。
◆最後は、電動の車椅子を走らせて買い物から帰り、一人台所で料理する彼女の姿が見えるが、そこには、さっぱりした空気がただよっていて、それはそれでいいんじゃないかなという印象で映画館を出ることになるだろう。胸に痛みを感じて映画館を出るよりも、散々興奮したが、エンド・クレジットが出たとたんにその記憶がどんどんさめていくよりも、この映画のように、満足というのでもないが、不満というのでもない、フツーの気持ちで映画館を出られる映画というのもそう多くはないのではなかろうか。
(映画美学校)



2003-10-03

●アイデン&ティティ (Iden & Tity/2003/Taguchi Tomoro)(田口トモロヲ)


◆みうらじゅんの原作だから、どこかすっとぼけた可笑しさがあふれているはずだと思ったら、監督第一作なのに田口トモロヲがけっこう味を出しているので驚いた。
◆道化回しのような役で、深々と帽子をかぶり、マフラーとサングラスで顔を隠した「ボブ・ディラン」が出てくる。「台詞」はなく、彼がハーモニカで有名なフレーズを吹くと、字幕に言葉が出てくるというあんばい。笑わせる。こいう出し方は、脚本・主演がウィディ・アレン(監督はハーバート・ロス)の『ボギー! 俺も男だ』(Play It Again, Sam/1972/Herbert Ross)でジェリー・レイシーがトレンチコートを着て登場した役柄によく似ている。ただし、こちらは、声も顔も似せて、リアルな感じで登場して、アレン演じる気弱なサムを元気づけるのだが、この映画のボブは、なんかうらぶれていて、座敷乞食風のもの悲しささえただよわせる。そこがいいとも言える。
◆冒頭で、1980年代のロックシーンで活躍したそうそうたる面々がインタヴューに応えて登場する。その一人遠藤ミチロウは、5月にわたしの授業時間に歌ってもらったときは、昨年やった胃潰瘍のやつれがまだ残っていたが、このインタヴューでは、元気そうな感じで、安心した。かつてミチロウも住んでいた高円寺は、ロックミュージッシャンのメッカであり、この映画も、高円寺を舞台にしている。
◆ロックバンド「スピード・ウェイ」は、ギターの中島(峯田和伸)、ボーカルのジョニー(中村獅童――ケータイのCMはこの役に2次利用)、ベースのトシ(大森南朋)、ドラムの豆蔵(マギー)で構成される。彼らは、街のスタジオでおぼつかない練習をしているが、バンドブームに乗って、というより、バンドとくれば、なんでもマスコミに乗せて売り込んでしまおうとする時代の波に乗って、一応事務所に属している。自分も元は売れっ子だったというのが自慢の社長を演じるのは、岸部:w 四郎。
◆どうしてこの程度の演奏でコンサートなんか開けるのかと思わせるところもあるが、彼らには、とにかく、ファンや追っかけもいる。映画は、ギターの中島に焦点を当ててて進むが、彼が目指すのは、「本当のロック」だ。彼には、そのロックへの「純粋な」夢を理解してくれる「彼女」(麻生久美子)がいるが、ついつい追っかけの女の子とインスタントに寝てしまったりする。ある種80年代的な「出口なさ」を背負い込んでいるような中島。すぐに自己嫌悪と自己批判に陥るのも、80年代的といえないこともない。そんか彼のまえに「ボブ」が姿をあらわす。
◆小道具では80年代を再現しようと努力しているが、70年代生まれの役者たちには80年代のしゃべり方ができないので、想像力を発揮しないと80年代を知っているわたしのような観客にはあまり80年代は感じられない。たとえば、(これは何度も書いた)70年代生まれの世代には、「むずかしい」が「むずかセィ」、「自分」が「ズィブン」、「あたし」が「あたスィ」、「なっちゃった」が「なツィァった」になってしまう。歌舞伎の名門の出である中村獅童ですら、そうなのだ。ただ、だからといって、ボイストレーニングをして、「80年代アクセント」をマスターしてもしかたがないだろう。歴史表現とは、再現ではない。
◆「本当のロック」を求めるということは、ロックの「アイデンティティ」を求めるということである。そんなものがあるのかどうか、いまならアイデンティティより「マルチテュード」だというだろうが、80年代は、たしかにみんな「アイデンティティ」を求めるのがはやりだった。「こんなの本当のロックじゃない」と中島はいつも自己批判する。批判は、80年代のベイシック・トレンドだった。(だからわたしも、『批判の回路』という本を書いた)この映画では、その「アイデンティティ」は、「アイデン」と「ティティ」になる。つまり、彼と「彼女」との関係、愛である。このへんは、みうらじゅん的ひらめきというべきで、うんと拡大解釈すれば、80年代には、「アイデンティティ」をたこ壺的な出口のない「アイデンティティ」に自閉していく方向(これは、「オタク」→「ひきこもり」とますます自閉していく)と、それを「アイデン&ティティ」でも「アイ&デン&ティ&ティ」でもなんでもいいのだが、とにかく「多数多様性」(マルティテュード)の方向に多元化していく萌芽があったと受け取れないこともない。
◆麻生久美子は、『RED SHADOW 赤影』では「お姫様」、『魔界転成』では、天草四郎とともに恨みをのんで魔界を徘徊する妖女を演じていたが、両者に共通するのは、一途な精神の持ち主ということではないか? この映画の「彼女」も、一見「広末涼子」風だが、もっと論理的で、シンの強い女性である。最初見たときは、70年代にもいた、男友達を「クン」呼びし、一段高いところから意見を言う[『ジョゼと虎と魚たち』の「ノリコ」(江口徳子)にもその一面がある]タイプにすぎないのかと思ったら、後半に向かい、麻生の演技がだんだんよくなり、存在感が出てきた。
◆麻雀屋の客として一癖ある役者たちや出たがり屋の蛭子能収の顔があるが、高円寺の飲み屋の親父を演るのは三上寛だ。キャバクラのシーンで、浅野忠信がウエイターの役ですーと出て来たときは笑った。
◆コタニキンヤは、最初カッコつけて、「てめえら、ホントのロックやってんのかよぉ」と言った感じで他人に恫喝をかけるタイプのロッカーを演じる。そのくせ、テレビで売れてくると、司会などをそつなくこなすようになり、外面だけ「過激さ」を保つのにやっきになる。ここには、すぐ何人かのモデルが浮かぶ。そのカッコマンが司会するテレビのライブ番組で、中島らが、「過激」な行動に出るのが、この映画の大詰めだ。そのシーンは、遠藤ミチロウとわたしが1989年に仕掛けた「和光大学スターリン抜き打ちコンサート事件」にくらべれば、全然「過激」ではないが、いまでは映画のなかで中島たちがやるこの程度の「造反」もできない状態になっている。というより、そもそも「造反」という概念自体が、80年代を最後にもう終わってしまったのだ。
(アミューズピクチャーズ・スクリーニング・ルーム)


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