粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-12-26_2

●しあわせの法則 (Laurel Canyon/2002/Lisa Cholodenko)(リサ・チョロデンコ)


◆今月は、ベルリンのRadioriffというイベントに呼ばれ(ベルリンは最高!)、7日ぐらいしか試写会通いが出来ず、見落とした作品が多かった。おまけに、これでしめくくろうと思っていた『ケイナ』が後味の悪いものだったので、この『しあわせの法則』が凡作だと困るなあと思って上映にのぞんだ。結果は、『ケイナ』よりはマシだったが、今年のしめくくりにふさわしい作品ではなかった。これでは来年に期待するしかあるまい。
◆もはや遠くなりにけりの60~70年代カルチャーとは無縁の生活をしてきた若者が、その生き残りに触れ、心境の変化をきたすお話。といって、さしてショッキングな体験をするわけではない。また、変わるといっても、人生観が変わってしまうほどの変化を起こすわけでもない。まあ、こんなこともあるかなといった程度のお話。
◆サム(クリスチャン・ベール)とアレックス(ケイト・ベッキンセール)は、ハーバードで同級の優等生的なカップル。卒業を機に2人でロスのローレル・キャニオンにあるサムの母親の家で新生活をはじめようということになる。彼は近くの精神病院に勤め、彼女は家で博士論文を書く予定だった。ところが、家についてみると、別に住むはずの母親ジェーン(フランシス・マクドーマンド)と彼女の仲間たちがおり、スタジオでは毎日、彼女がプロデュースするレコードのための演奏練習の音ががんがんしているのだった。
◆ジェーンは、自分で「好きな男とやりまくってきた」というように、60~70年代カルチャーの申し子で、いまは16歳年下の歌手イアン(アレッサンドラ・ノヴォラ)を恋人にしている。サムは、彼女を理解しているが、自分とは違う人間だと割り切っている。彼は、アレックスをおいて新しい職場に通う。が、アレックスの方は、自分がこれまでつきあってこなかった連中が出入りし、毎日音を奏でている環境に耐え難くなる。博士論文どころではない。
◆しかし、次第にアレクスは、ジェーンたちのやることに興味を持ちはじめ、スタジオに顔を出すようになる。最初は拒否していたマリワナも抵抗なく吸うようになる。プールでジェーンとイアンが泳ぎたわむれているなかに入って、3Pをしそうにもなる。彼女の意見でイアンは、それまでやらなかったバラードを歌うようにもなる。
◆一方、サムの方は、病院でイスラエル人の同僚サラ(ナターシャ・マケルホーン)と親しくなる。積極的なサラに押されて、サムは彼女にどんどん接近していくが、サムはかたくなに一線を守る。要するに、60~70年代カルチャーに免疫のない2人がそれぞれに「やばい」方向に進みはじめるのである。
◆とはいえ、この映画は、そういう動きの果てにありがちな破局を用意するようなことはしない。60~70年代カルチャーも否定されないし、80~90年代カルチャーも否定されない。少なくともアレックスは、ジェーンやその仲間たちと知り合うことによって、それまでワスプ的な壁にはばまれて経験することのなかった自由な性関係やくったくのなさに目が開かれたはずだ。しかし、それが具体的にどうだったのかはよくわからない。
◆わたしが興味をもつのは、アレックスよりのサムの方である。彼は、幼いことから自分の母親の行動や言動を通じて60~70年代カルチャーに触れてきたはずである。その彼が、母親と一線を画して、別の生活を選んだわけだが、自分の恋人/婚約者が、母親の世界に近づいたとき、何を感じたかである。この映画では、はっきりとは表現されてはいないが、彼は、母親の生き方を拒絶することはない。むしろ、いずれは自分もそこへ帰るのではないかといったあきらめのような表情が読み取れる。
◆アレックスが研究論文を書くために使っているコンピュータは、DELLである。いっとき映画に出てくるノートパソコンはどれもMACだったが、それがDELLになった。
◆ジェーンは、「AC/DC」のTシャツを着ている。同じシャツをイアンが着ているときもある。それが、後半でアレックスが着てジョギングをしていたりしていて、あれっ!と思わせる。なお、スタジオでミクシングを担当している男は、「Tom's Men」のTシャツを着ている。
◆サムが勤める精神病院の患者のユーモラスなエピソードとか、ジェーンにラジオの仕事を世話しようとしつこく電話してくる黒人の女性ラジオプロデューサとか、気になるシーンが出てくるが、それらが全然活かされていないのは不思議。
(映画美学校第2試写室)



2003-12-26_1

●ケイナ (Kaena:La prophetie/2003/Chris Delaporte)(クリス・デラポート)


◆少し早めに来てしまったので、近くの「カフェ 哲 -AKIRA-」でエチオピアコーヒーを飲む。なかなないい味。上映20分まえぐらいにギャガのいつもの試写室へ。が、誰も来ない。しばらくして常連のS氏の姿。「変ですねぇ」などと声をかわしているうちに、上映5分ぐらいまえになり、S氏が、「4階って書いてありますよ」と言う。試写状をよく見ると、たしかにそうだ。あわてて移動。会場はすでに一杯の人。やばい。S氏が気づかなかったら、今年はこれで打ち留めにしようと思っていたので、後味の悪いことになる。S氏に感謝。
◆しかし、じきに始まったこのオールCG作品は、期待はずれ。だいたいわたしはアニメがそう好きではない。アニメなら『シュレック』とか『モンスターズ・インク』とかの比較的映像がハデで鮮明なのがいい。最近のものでは、『ファインディング・ニモ』がよかった。ところが、この作品は、色がネムいうえに、キャラクターの顔や肉体がマネキンっぽい。そういえばわたしが昔「エレクトロボディ」というパフォーマンスで使ったマネキンの顔そっくりだ。唯一のとりえは、下半身の動きがセクシーなことぐらいか。こんなのなら『アイス・エイジ』なんかの方がよかったし、かなりこきおろした『アトランティス 失われた帝国』だってまだマシかもしれない。
◆例によって根底にある形而上学は、人間的な環境が破壊され、人間的生命が危機に瀕しているというもの。それを救うのがケイナという少女なのだが、それがアンドロイドなのか特別の生命なのか、それとも人間なのかは最初はわからない。超人的な動きからからすれば、人間ではないのだろう。渡された分厚いプレス資料によるとこのアニメの世界は厳密に構築されている。わたしは、ゲームも嫌いなのだが、それは、その世界の基本枠を最初に理解することを求められるからだ。都市でも、最初にその機軸を理解しないと全然歩けないようなのはたまらない。勝手に歩いて行くうちに自然とその仕組みと構造がわかってくる、あるいはわたし自身の体に合った柔軟なロジックが出来て行くような都市がいい。『スター・ウォーズ』や『ロード・オブ・ザ・リング』もそうだが、『ケイナ』の世界も、最初から厳密に構造づけられており、観客はそれを「解釈」させられる。
◆王とかクイーン(英語吹き替えはアンジェリカ・ヒューストンなんかが起用されている)とか「総司教」とかいう役柄、そういうのがうごめく世界にそもそも拒否反応を起こしてしまうので、わたしはこの作品については論評を加えるのをさしひかえた方がよさそうだ。
(ギャガ・ビデオルーム)



2003-12-25_2

●ギャンブル・プレイ (The Good Thief/2003/Neil Jordan)(ニール・ジョーダン)


◆試写室に来るのは、物書きとかタレントとかみな「まとも」からは少しはずれた人たちなのだろうが、あの「にいちゃん/とうちゃん」風のヒト、いきなり立ってわたしの足の上に重い大きな紙袋を倒したままどこかへ行ってしまうようなことはやめてほしいな。動かしてもナンだから、そのヒトが戻ってくるまでそのままにしておいたけれど、もどって来た彼は、それを無言で持ちあげただけでした。わたしの足は透明だったのだろうか?
◆ジェン=ピエール・メルヴィルの『賭博師ボブ』(Bob le flambeur/1955/Jean-Pierre Melville)をベースにしているからといって、場所だけフランス・ロケ、主役はアメリカ俳優、会話はほとんど英語というわけのわからないセッティングをする必要はなかったのではないか? いや、結果がよければそういう言い方は出来なかっただろう。とにかく出来がダメなのだ。
◆ニック・ノルティは、ベテランだから、今回も渋い演技を見せる。しかし、『レオン』のナタリー・ポートマンと『ニキータ』のアンヌ・パリローを混ぜ合わせたような感じのキャラクター(ボスニア出身の女という設定)を演じているナッサ・クヒアニチェが全然よくない。好みの問題かもしれないが、鼻と喉にかかった声(それは、地声というよりもったいつけたしゃべり方から来るのだろう)がわずらわしい。
◆舞台はニースからモナコのモンテカルロの一帯。ニースのバーのトイレでヘロインを打っているボブ・モンタナ(ニック・ノルティ)はギャンブラー。パラシュートで落下した米軍兵士と恋に落ちたフランス女とのあいだに生まれたのだと冗談めかして言うシーンがあるが、ほとんどフランス臭のしないギャンブラー。刑事のロジェ(チェッキー・カリョ)と友達だが、なぜこの刑事がいつもボブの行動を監視しているのかがよくわからない。やがて、ボブは、仲間のラウル(ジェラール・ダルモン)らと大規模な窃盗を計画するが、その情報が漏れる以前から、始終ロジェは、ボブを監視している。ホモ関係でもないし、そのことがあとで十分に活かされるというわけでもない。この映画には、そういうもったいぶって、結局はなんのことはないという思わせぶりな設定がたくさんある。
◆計画される窃盗は、若干日本と関係がある。主要な舞台となる「カジノ リヴィエラ」は、日本資本が入っており、80年代のバブルのときに買い込んだ世界の「名画」を壁に飾っているという設定。しかし、その絵は、複製で、本物は別の地下倉庫に厳重なセキュリティ・システムで守られたしまわれている。そこで、ボブが考えたのは、「カジノ」の絵を盗むと見せかけておいて、中止し、安心させたうえで、翌朝に本物を盗むという二重計画。それには、内部からリークする者(「ユダ」)を選ぶ必要がある。ここまで書いてしまうと、「反則」だぁと騒ぐ人がいるかもしれないが、ご安心。結末は、このどちらでもない。それは、見てのお楽しみ。
◆しかし、問題は、だからといって、窃盗の技術的プロセスをいいかげんにしてもいいというわけはないのに、それが、やはり手抜きなのだ。空間のなかで1ミリの物体が動いてもそれを感知するというシステムを設計し、設置したウラジミール(エミール・クストリッツァ)をめぐる描写は、最初はなかなか面白い。彼は、自分のラボにそれとそっくり同じ装置を仕掛けていて、それで、マルチメディア・パフォーマンスのようなことを演って楽しんでいる。しかし、せっかくそういう装置の講釈をしながら、たとえば。フランク・オズの『スコア』のようなスリルがない。そもそもこの映画には、スリルを感じさせるとことが全くない。
◆最近出たルイ・ノゲイラ著・井上真希訳『サムライ ジャン=ピエール・メルヴィルの映画人生』(晶文社)には『賭博師ボブ』についてメルヴィルが語っている章があるが、彼は、この映画を「『マンハッタンの二人の男』がニューヨークへのラブ・レターである」のと同様に、この作品は、「パリへのラブ・レター」だと行っている。つまり都市のディテールへの執着(ちなみに彼は、「映画界のフランシス・ポンジュ」という゚モ名をしりぞけない)ぬきにはこの作品を語ることができないのであり、メルヴィルにオマージュをささげたいのなら、この基本線を守るべきだ。
◆モンマルトルを「最後の隠れ家」にしているボブという50を過ぎた男がもう一度ドラマティックな時をつかのま生きる――ニック・ノルティは、十分にそういう男を演じられる役者だし、チェッキー・カリョもジェラール・ダルモンもそのバックをかためられる俳優だ。しかし、せっかくレイフ・ファインズを起用しながら、ほとんど彼の本領を発揮させていないのを見れば、演出の限界がわかるだろう。
(メディアボックス)



2003-12-25_1

●わが故郷の歌 (Gomshodei dar Araq/Marooned in Iraq/2002/Bahman Ghobadi)(バフマン・ゴバディ)


◆岩波系の試写は、受付がなんかおごそかで、敷居が高く、ついつい敬遠してしまいがちになる。この映画の試写状も早くからもらっていたが、あと数回を残すまであとまわしにしていた。いや、これは、あくまでわたしの問題にすぎない。そうそう、東劇のまえの横断歩道を急ぎ足で渡っていたら、わたしの名を呼ぶ声がした。見ると、元劇作家にして今フリーライターの渡辺裕之さんだった。しばらく会っていないので話したかったが、残念ながら今回はセイ・ハローのみ。
◆しっかり作っているシーリアスな(しかしユーモアにあふれる)映画だと思うが、終始どなるようにしゃべり続ける登場人物の声が耐え難かった。遠くから大声でしゃべり、相手を圧してしゃべるのがスタイルなのだろうが、そういう習慣のないわたしには違和感が強く、疲れる。しかし、クルド人が長らく置かれてきたああいう環境では、そうでもなければ生き抜けないのだろうということもわからないでもない。
◆話は、緑の縁のついた防塵メガネをかけた(どこかマルチェロ・マストロイアンニに似ている)中年男がドイツ製のサイドカー付オートバイを走らせて父親の家にたどりつくところからはじまる。彼バラート(ファエグ・モハマディ)はクルド民族音楽の歌手。父ミルザ(シャハブ・エブラヒミ)はかつての大歌手でいまは弟子たちに音楽を教えている。バラードは、父のかつての妻で、バンド仲間の一人のサイードとイラク領クルディスタンに駆け落ちしたハナレ(イラン・ゴバルディ)が、父にあいたがっているということを知り、告げに来たのだった。その結果、父は、バラードともう一人の息子アウダ(アッラモラド・ラシュティアン)をともなってバラードのオートバイに乗ってイラン領のクルディスタンからイラク領までの旅を始める。
◆まず前提として理解しておかなければならないのは、バラードもハナレも、このクルド人社会では「有名人」であるということ。でなければ、ドイツ製のオートバイなどには乗れないだろう。だから、彼らは、どこへ行っても、彼らのことを知っている人間がいるし、ハナレが駆け落ちしたこともゴシップになっている。しかし、よくわからないのは、相手が会いたいと言っているからといって、すぐにミルザが、イラン・イラク戦争のさなかに危険を犯して会いに行くことを決心したのかという点だ。最後に、彼女の相手のサイードは、イラクが用いた化学兵器のために死亡し、彼女も喉をやられ、ミルザは、彼らの一人娘を預かってイランにもどるのだが、映画では、そういう事態をあらかじめ知らされて、ミルザがイラク領に出向いたという説明はない。観客の方は、だんだんそういうことがわかってくるのだ。
◆物語のなかでは、なぜハナレが会いたいと言っているかを説明すると思われる彼女の手紙を渡すはずの人物たちのことが出て来る。最初は、サイードの母。が、彼女は、国境を越えるときに手紙をなくしてしまったという。次は、彼女の親戚の導士ガデル。が、彼が仕切る結婚のトラブルに巻き込まれ、ミルザたちは、彼から手紙を受け取ることができない。このいいかげんさというか、あいまいなことをたよりに行動するということがわたしにはよくわからない。ついつい、わたしは、こういうやりかたを映画のジラセの技法と見てしまう。しかし、それは、わたしが彼らの文化にうといからにすぎないからだろう。
◆イランからイラクに近づくにつれて、環境が厳しくなることは、非常にはっきりと描かれている。少なくとも、上述のような「あいまいさ」のおかげで、そういう変化やその間に挿入されるエピソードが浮き彫りになる。トゥシェの難民キャンプでアウダは、「美しい声」の女に一目惚れする。影と後ろ姿だけ映しておいて、最後に横顔をちらりと見せる撮り方がなかなか効果的。キャンプを出て夜道を走っていて3人は警官を装った男たちにオートバイはもとより、バラートの入れ歯まで奪われる。
◆イラク国内に入ったところにある難民キャンプ的な場所にはちらりと衛星放送のアンテナが見える。近くにあるバラック風の「寄りあい場」に入ると、テレビがあり、CNNらしき映像が映っている。皿の上のコップにつがれたチャイ。ヨーグルトは、コーヒーカップのような容器で出される。
◆暖をとるために燃やされるのは、ダンボールの箱。黄色い地に赤い枠の入ったダンボール箱には、「AL-ENM Brand」とか書かれていた。何が入っていたのだろうか?
◆「よろず屋」のような男がいて、エイズの薬まであつかっている。ラバもエイズにかかるので、この薬でエイズを直せとか言っていたのは、ジョークだろうか?
◆雪の降りしきる峠を越えたとき、そこで「野外学習」をしている教師と子供たちの一団に出会う。その教師(サイード・マハマディ)は、子供たちに飛行機を見せるためにやって来たと言う。彼は、イラクの空軍機が鋭い音を立てて飛ぶのを指さし、飛行機は、人や物を運ぶ機能とともに、爆弾で家を壊す機能があることを説明する。そして、爆音を、「これも歌だ、ただしイラクのね」と言う。最後に、子供たちに紙ヒコーキを作らせ、それを高台からいっせいに飛ばさせる。このシーンはなかなかいい。この教師役をしているサイード・マハマディは、サミラ・マフマルバフの『ブラックボード――背負う人――』でも教師の役をやっていた。戦時下だからこういう形の教育があるのではなく、教育とはもともとこうあるべきものではないか? 日本でも「ワークショップ」(体験教育)とかが流行りはじめているが、先日、ベルリンの地下鉄駅の通路にプロジェクターを持ち込んで、「授業」をやっている教師がいた。この精神は、この映画の野外授業に通底する。
◆アウダには、7人も妻がいるが、子供は11人ともみな女なので、男の子を生ませるためにもう一人妻を持ちたいと思っている。戦争で親をなくした孤児たちばかりのキャンプに到着したアウダたちは、そこでボランティアをしている知的な女性に結婚をせまる。すると、彼女は、「また一人の女を不幸にする気?」とか軽くいなし、そんなことなら、孤児を養子にしてはどうかとすすめる。このとき面白いのは、「こいつはいい考えだ」とアウダがそのアイデアに飛びつき、2人の男の子を養子にすることを決める。クルド社会には、血縁への執着はないのだろうか? これだと、まるでアメリカと同じではないか? それとも、これも、監督のジョークか?
◆ミルザ/バラート/アウダの一行がたどり着く先々に難民のキャンプがあり、それが段々悲惨さを強める。子供と女しかいないキャンプのつぎは、まだあたりに遺体が散乱しているイラク領のクルディスタンのキャンプ。そこでは、サダム・フセインの命令で化学兵器が使われたことが明らかになっているが、フセインが逮捕された今日も、難民キャンプがなくなる気配はない。
◆降りしきる雪のなかを老ミルザが、ハナレの娘を毛布にくるんで背負い、歩いて行く最後のシーンが脳裏に焼きつく。2人のあいだには血のつながりはない。自分が愛したかつての妻と演奏仲間との子供。「ヒューマニズム」とか「人道支援」とかではなく、身近な具体的・不可避的な関係のなかでやれることをやる。戦争は、そういう関係をすべて抽象関係にすりかえる。
(松竹試写室)



2003-12-24_2

●パピヨンの贈りもの (Le Papillon/2002/Philippe Muyl)(フィリップ・ミュイル)

◆看護婦助手をやっている上に、どうやら母親意識を欠いているらしい母親の8歳の娘エルザ(クレール・ブアニッシュ)。躁鬱病から自殺し、その後遺症で28歳で早世した息子がいた老人ジュリアン(ミッシェル・セロー)、妻は11年まえに死んでいる。時計職人を引退し、いまでは蝶の収集を趣味にしている。エルザとジュリアンとの接点は、同じアパート・ビルの上と下に住んでいるという点。が、ある日、日々の習慣でジュリアンが、カフェでペリエのようなもの(銘柄はわからない)を飲みながらくつろいでいると、歩道のベンチにエルザがおり、母親の帰宅を待っている様子。気になったジュリアンは、彼女を自分のアパートに連れて行く。蝶のコレクションを見せられて、新鮮な驚きをおぼえるエリザ。
◆ジュリアンは、かつて息子が、彼にプレゼントした写真集(おそらく、最初の方のシーンでジュリアンが意味深げに眺めている『イザベルの神秘』という大判の本だろう)にある幻の蝶「イザベル」を見たいと言ったのが頭を離れない。ある日、ジュリアンは、蝶のコレクションをプレゼントした友人から、フランス南部のヴェルコール山にイザベルがあらわれるという情報を得、収集の旅を計画する。が、ジュリアンが気づくと、車の後部座席にエリザが潜んでいた。仕方なく、彼女を山に連れていく。以後、気難しいジュリアンとやんちゃでおませな(孤児院の生活経験もある)エリザとの奇妙な道中がはじまる。
◆孤独な老人と親の愛情に恵まれない子供との出会いや旅という構図は、映画や小説ではよく使われる。最初気難しい老人が、次第に軟化していくというパターン。そこに、2人の関係を危なくする事件が起きるのもパターン。この映画では、娘がいないのに気づいた母親が警察に届け、ジュリアンがエリザを誘拐したという嫌疑の捜査が進行する。しかし、そういうパターンをおさえながら、この映画は、ミッシェル・セローの渋い演技と映画初出演のクレール・ブアニッシュのほとんど地で行っているかのような自然な演技によって、年令を越えたコミュニケーションの感動的な現場へ観客を連れて行く。
◆エルザは、母親を待っているときも、森のなかでもゲーム機を離さない。しかし、森のなかで水に落ち、ゲーム機が動かなくなってしまう。彼女の意識のなかには、ヴァーチャルな現実性がしみついており、美しい景色を見ると、「すてき! 絵はがきみたい!」と言ってしまう。だから、ジュリアンとの旅の経験は、そうした現実性とは異質の身体的リアリティに目を開かせる。
◆高原を歩いていると、いま飛び立とうとするハンググライダーに男と女がぶら下がり、女が、「いっしょに飛ぶのは怖い」ともがきながら、飛び立っていくのに出会う。これを見たジュリアンは、「あの2人の愛はもろい。愛に証を求めているからだ。愛は信じることだ」というようなことを言う。
◆途中の山小屋で他の客たちといっしょに食事をするシーンで、アメリカ人が、かかってきたケータイを持って外に飛び出し、株の取り引きの露骨な会話をする。このあたり「アメリカ人」へのフランス人の批判が込められている。
◆最後のシーンで、エルザの母親が、ジュリアンに、娘との距離を不安がる。すると、彼は、「愛しているという一言を言ってあげなさい」と言う、「わたしもそれを息子に言ってやれなかった」と。日本でも「愛している」という言葉は誰でも使うようになったが、それは、「ジュ・テーム」とか「アイ・ラブ・ユー」とは根本的にちがう。それと、言葉にしなければ何も表現したことにならないという西欧的な慣習の問題もある。それは、マルチン・ハイデッガーが「無/ニヒツ」を、ジョン・ケージが「サイレンス」を説いたあとでもあまり変わりがない。ただし、「ジュ・テーム」や「アイ・ラブ・ユー」は、紙に書いてもしゃべっても同じ強度で受け取れられる日本とちがって、これらの言葉は、目の見開き方や身ぶりの大きな変化をともなって言表されることを考えると、日本で必要なのは、「愛している」という言葉よりも、抱き締めるとかこぼれるような笑いとかより身体的な強度の強い表現ではないかと思う。
(メディアボックス)



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●気まぐれな唇 (Turinig Gate/Saenghwalui balgyeon2002/Hong Song-soo)(ホン・サンス)

◆先週にひきづついて韓国映画を見る。5月にキム・ヒョンジュの『二重スパイ』 (2003)を見たとき、韓国映画もハリウッド映画化しつつあるのかなと思ったが、そんなことはないようだ。ただし、先週の『オアシス』も本作もともに2002年の作品だ。
◆評判は高いが、『オアシス』よりはわたしの評価は低い。全体を6章に分け、そのつど、たとえば「ギョンスがソンウから電話をもらう」といったように、文章による章立てが出る。各章は、瑣末な日常をはさみながら一つの流れを作っているのだが、ヌーヴェルバーグ風な「自然」をよそおいながらその人工性が感じられる。それが意図的ならそれでいいのだが、「自然」体を意図しながらその技巧が目立つのだから、その人工性は本位ではないはずだ。
◆こうした分裂は、セックス描写と他のシーンとのギャップにもあらわれている。演劇と映画の役者であるギョンス(キム・サンギョ)は、初めて出会った女と簡単にセックスする。劇作家のソンウ(キム・サンキュン)に紹介されたミョンスク(イエ・ジウォン)(本当はソンウが愛している)とも、列車のなかで出会ったソニョン(チェ・サンミ)(ギョンスは忘れているが、あとで、うんと昔に会っていることがわかる)とも熱烈なセックスをする。というより、その体位、音、女の顔のほてり方からして実際にやっていると思えるリアルさで表現されている。しかし、登場人物同士がしゃべるときは、いかにも演技をしているという感じなのだ。そういう演出を意図的にしたとも考えられるが、どうもそうではなさそう。その結果、ひどく分裂した世界が現出する。
◆韓国映画の性表現は、近年、しばりがはずれ、ほぼ監督の自由に描写できるようになった。それはいい。しかし、奔放な表現があると、その結末は、ほとんど決まってよくないのには、ある種の孔子道徳を感じる。性の奔放さがそのまま肯定されないのだ。描写のわりに「道徳的」な面は、何か所かで出て来る「教訓」じみたテーゼや物語が暗示している。友人のソンウは言う、「人として生きるのは難しいが、怪物になってはだめだ」。この台詞は、2度使われる。また、ソンウは、「人に人以上の要求をするな」とも言う。
◆ソンウは、この映画では中庸を代表している。彼は、ギョンスに中国の唐の話をする。これが、この映画の終末までつながっている。美しい姫につきまとった男を王は殺してしまうが、その男はへびになってつきまとい、姫のからだに巻きついて離れなかった。道士の教えで、姫は朝鮮のチョンピン寺(清平寺)に行く。そして、 そこで、「ご飯をもらってくるからここで待っていて」とへびに告げ、そのまま門のなかから出てこない。へびは、追いかけようとするが、そのとき、稲妻が走り、夕立が降り初め、へびはなかに入るのをあきらめる。最後のシーンでも、稲妻が走り、夕立が降り、ギョンスは、ソニョンの家の門から去る。
◆基本的に家庭や定職に興味のない「自由人」のギョンスは、ソニョンに惚れるが、彼女は既婚で、夫は、著名な大学教授。2人が彼女の家の近くで見つけた占いの家(戸口に赤い卍の印がある)で運勢を見てもらうと、彼女は、夫とともに順風満帆の人生だと言われる。が、ギョンスの方は全然よくない。そして、それがきっかけのように2人は分かれてしまう。ソニョンは、彼よりも、家庭と社会的貢献や地位(彼女の夫は科学者として社会的に重要な仕事をしていると彼女が語るくだりがある)の方を選ぶのだ。
◆結局、映画のなかの韓国社会の現在時点におけるアウトサイダーなのだろうか? 彼は、スコット・ニアリングの『自叙伝』を携帯し、愛読しているらしいシーンがある。 スコット・ニアリング (Scott Nearing)とは、1983年から1983年までの100歳の長命のなかで反戦の活動家・思想家として知られたアメリカ人だ。こういう人物の著書を愛読しているということは、ギョンスが少なくとも意識的に「自由奔放」な生活をしていることを示唆する。
◆この映画で一番いいのは、最初と最後にある雨のシーンかもしれない。
◆韓国映画を見ていて面白いと思うのは、挨拶のしかただ。日本と同じような礼のしぐさがあるが、それと同時に握手もかなり浸透している。むろん、その握手は欧米式とは違う。
◆この映画でもケータイは非常にひんぱんに使われ、重要な役割をする。
(メディアボックス)



2003-12-22

●オアシス (Oasis/2002/Chang-dong Lee)(イ・チャンドン)

◆身障者と健常者との愛という映画ですぐ思いだすのは、犬童一心の『ジョゼと虎と魚たち』だが、こちらは、もっとすごい。池脇千鶴は下半身が麻痺した身障者を演じていたが、こちらは、脳性小児麻痺で言葉の発声もままならない身障者を健常者のムン・ソリが迫真の演技で演じる。そして、その大詰めの過激なシーンは、映画史のなかに記録されるべき感動的な場面だろう。
◆前科がある上に、清掃夫を交通事故で死なせてしまった罪で懲役刑を受けて出てきたばかりのホン・ジョンドゥ(ソル・ギョング)は、オフビートな楽天的・道化的な人物で、刑務所に入ったのも、実は、兄の罪を、兄貴には会社もあるし、自分は刑務所慣れしてるからと言って進んで引き受けた結果だった。彼が、身障者のハン・コンジュ(ムン・ソリ)と会ったのは、被害者の遺族である息子夫婦のところへ謝りに行ったときだった。そのとき邪険にあつかわれたのだが、彼は、息子夫婦の留守中に彼女のところへ行き、愛を告白し、相手の返事も待たずにセックスしようとする。このへん、本当に彼女が好きでそうしたのか、「猟奇的」な趣味でそうしたのかわからない感じで話が展開するが、その後の流れは、彼が、本気で彼女のことが好きになったのだということをわからせる。彼は、ある意味で新しい愛の形の体現者なのである。
◆周りはみな冬支度なのに一人だけ半袖シャツ一枚で身を震わせながら鼻をすするジョンドゥ。バス停のそばの路上でセータを買ったので自分で着るのかと思ったら、そのまま歩き出し、一軒の見せで豆腐を買う。しかし、金がたりない。すると、店の人は、お金はいらないと言い、「これでも飲みながらゆっくり食べな」と言って紙パックの飲みもの(ミルクか豆乳?)を渡す。解説によると、韓国には、刑期を終えた受刑者が最初に食べる食物が豆腐という慣習があるらしい。だから、店の人は、金を取ろうとはしなかったのだ。それから、ジョンドゥがセータを買ったのは、自分のためではなく、母親へのお土産であることが次のシーンでわかる。
◆韓国でも「ヤッピー」的な新人類は増えているらしいことが映画のシーンからもうかがえる。コンジュの姉夫婦は、身障者のいる家庭に供給される特別マンションに住んでいるが、コンジュを昔のみすぼらしいアパートに住まわせ、検査のときだけ彼女を連れてくる。自己中で、車を持ち、そこそこの「モダン」ライフを楽しむ。夫がタバコを吸うと、「外で吸って」と妻が言う。ところで、コンジュのいるアパートの入口についているベルのボタンは、ニューヨークの古いアパートのドアについているのと同じ方式のもの。ボタンが引っ込むと、「ポロン」という音がする。
◆ジョンドゥの家はクリスチャンらしい。ジョンドゥが母親といっしょのとき、牧師と出会う。そのとき、牧師は自然に手を差し延べ握手する。頭を下げながら握手を受けるジョンドゥたち。儒教的身ぶりとキリスト教的身ぶりとの混在。これに似た現象は日本でも見る。しかし、日本の場合はキリスト教との接点が弱いのではないか? 整備工場をしている兄が客からあずかった車を持ち出し、コンジュを乗せてデートしたジョンドゥを、兄は、臀を棒でたたいて罰をあたえる。これは、まさしく「西欧」的だ。わたしは、ここに韓国と日本との違いを見る。
◆韓国映画を見ていて、よく親愛の情から他人の頭をたたくシーンがある。これは、日本でもある習慣だし、テレビの漫才的なシーンではよく見るが、源流は朝鮮半島なのだろうか? ジョンドゥの連絡でようやく車でやってきたオ弟は、頭髪に一部を染めている。ジョンドゥはその頭をぽんぽんたたく。車椅子に乗せて外にコンジュを連れ出し、電車に乗ると、向かいの席で女の子が恋人の頭をペットボトルでたたいている。
◆「オアシス」というタイトルは、コンジュの部屋にかかっているタペストリに縫いこまれている文字から来ている。その絵には、象、頭に容器をのせたインドの女性、黒人の子供、椰子の木が刺繍されている。この映像が最初しばらく映る。コンジュは、窓の外に植わっている街路樹がそのタペストリーに落としている影を見ている。この絵のなかの人物や象(小さな子象なのが笑える)が部屋のなかにあわられるシーンがあるが、他所でもコンジュが健常者になるとか、とか、ある種「夢」や「空想」の世界が境目なく突然姿をあらわす。
◆全編、映画的な音楽はない。音楽は、すべて登場人物が歌うという形式で使われる。「わたしがもし詩人だったら、あなたのために歌いたい」という一節のあるキム・ボムスの歌は、何度も効果的に使われる。強引にコンジュをカラオケに連れて行き、合唱しようとするのもこの歌。
◆電話が重要な役をする。
◆文章で書いてしまったからといって、その映像の強度をいささかも弱めることはないと思うので、書くが、そのクライマックスがすばらしい。たがいに愛しあっていたのに、それを、ジョンドゥがコンジュをもてあそんでいたかのように受け取られ、警察に連行されたジョンドゥは、すきをついて警察署を飛び出す。そして、彼は、コンジュの部屋の外のキに登り、ノコギリで枝をはらう。木が不安定に揺れるのもスリリング。部屋のなかにいたコンジュは、タペストリーの影が不自然に揺れるのに気づき、窓に(やっとのことで)にじり寄る。また1本また1本と枝を切るジョンドゥ。それになんとか応えようとするコンジュは、ラジカセを窓辺に運び、ボリュームを一杯に上げる。すごいシーンである。
(シネカノン試写室)



2003-12-10

●半落ち (Hanochi/2003/Sasabe Kiyoshi)(佐々部清)

◆ベストセラーになった高名な原作を読んでいないのだが、映画を見終わって、こいつは、小説を買わずにはいられなくする企みを埋め込んでいるのではないかという思いにかられた。よくわからないところが多すぎ、また、そのわからなさが、必ずしも映画の作りのまずさから来ているわけでもなさそうな気がするのだ。わたしが外国に住んでいて、日本のことを諸メディアを通じてだけ知っている人間なら、おそらく、この映画は日本社会にある「曖昧さ」といったものをよく描いていると書くかもしれない。そんなところに抵触していなくもない、わからなさなのだ。ちなみに「半落ち」とは、自白しているが、すべてを自供していない状態をさす警察用語。
◆「梶」の表札のある家から重い表情で寺尾聰が出てくるシーンが映って、すぐに柴田恭兵が張り込み、踏み込んだ家で犯人らしき男が緑色の液体(やがて農薬であることがわかる)を飲んで倒れるやけに生々しいシーンが展開する。一方の静、他方の動というわけか。寺尾が警察に出頭し、周囲をあわてさせる。というのも、彼は、その署では誰も知らぬ者のいない敏腕警部であったが、アルツハイマーに冒された妻を介護するために一線を退いた。その男が「妻を殺した」と自首したのだから、本部長の嶋田久作と刑事部長の石橋蓮司はあわてる。彼らがまず考えたのは、寺尾自身のことよりも、警察のメンツのことだった。
◆寺尾を調べるなかで、彼が妻を殺した後の2日間があいまいであることが判明する。コートのポケットに新宿歌舞伎町あたりで配られたと思われるティッシュペイパーが見つかり、疑惑がもちあがる。自白では、妻が「殺して」と半狂乱だったというが、ひょっとして寺尾に女がいて、殺人は、故意のものではないのか? しかし、本部長らは、寺尾が呆然自失の状態であたりをうろついていたとして片づけようとする。正義感の強い柴田は、それに抵抗するが、県警に勤める職員の生活がかかっていると嶋田から言われて、妥協する。しかし、地検にまわった調書に検事の伊原剛志が疑いをいだき、クレームをつける。県警の柴田らは、その2日間の空白の調査に追われる。一方、この空白について東洋新聞社の鶴田真由も疑いをいだき、独自の調査をはじめる。
◆寺尾は、13歳の息子を急性骨髄性白血病で失っている。ドナーが非常にかぎられており、とうとうドナーがみつからなかったのだった。そのことから、彼はドナー登録し、そのために一人の青年の命を救われた。犯行後の2日間がそのことと関係がある。しかし、よくわからないのは、たとえ犯罪者はドナーになれないという決まりがあるとしても、犯行前に行ったドナーが、彼の犯罪とどういう関係があるのだろうかということだ。
◆ドナーとドナーをあたえられた者とは、通常、明かし合わないことになっているらしい。寺尾が、その相手を知っているということが公になった場合、誰からそのことを訊いたかが問題になる。しかし、寺尾がそれを知ったのは、医師奈良岡朋子から若干ヒントを与えられたとはいえ、ほとんど独力であり、奈良岡には迷惑はかからないはずだ。しかし、寺尾は口を閉ざす。なぜ? これは、映画を見て、自分で考えるしかない。
◆地検の検事正として西田敏行が出ている。つとめて『釣り馬鹿』の感じを出さないようにしているのがおかしかった。寺尾の弁護を買って出る國村隼、その妻高島礼子、かつて名判事だったが、いまはアルツハイマーでぶざまな毎日を送っている井川比佐志、寺尾の妻の原田美枝子、その姉を樹木希林等々、役者はつぶぞろい。
◆理想家肌の伊原が、ジャックダニエルズをがぶがぶ飲みながら、鶴田に鬱積を告白するシーンで、彼は、いきなり「あなたは何のために生きているんですか?」と問う。鶴田が、即座に「自分のためです」と応えるのはいかにも今風。それがやがて多少崩れてくるような描写もあり、この映画が単なるミステリーに終わらせようとはしていないところが感じられる。ただし、それが余分な感じがなくもないが。
◆鶴田がキーボードにむかって仕事をしているシーンで、彼女のリターン・キーのタッチがやけに強いのが気になった。わたしもそうだから。
◆法廷のシーンで、原作者の横山秀夫の姿が見える。
◆【追記/2004-02-01】すでに多くの人が見たので、もうずばり書いてもいいだろう。この映画に対するわたしの異議は、おおげさな言い方をすれば、その「血族主義」にある。梶が新宿に行ったこと(「空白の2日間」)を自白しなかったのは、ドナーになった自分が殺人者/犯罪者となったことが、ドナーの相手に「申し訳ない」という道徳的な理由からだったが、そういう発想の背景には、血や身体に道徳的なものがついてまわるという僣越な観念、輸血や骨髄移植は単なる身体組織の組み替えではなく、ある種精神文化的な「インターコース」をともなうものだという考えがある。そういう考えに陥いっている主人公に対して、最後のシーンは、離れたところから、柴田恭兵にともなわれた池上一志が、自分の方はそんなことを全く気にしていないからという意味で「生きてください」と叫ぶ(その声は聞こえないが唇の動きからそう判断できる)ことによって、それを否定する。まあ、その意味では、この映画は、結論的にそうした「血族主義」を否定していることになる。しかし、この映画は、梶がそういう発想に陥ること自体に関しては肯定的だ。そういう発想自体がまちがっており、また僣越であり、実際に、「万世一系」、「単一民族」、「八紘一宇」などのイデオロギーは、すべてこの曖昧さのうえに構築され、いまもって日本の人種差別的・排外的な空気の基礎をなしてきたことには一貫しては無批判である。むしろ、その曖昧さをたくみに利用しながら作られているのがこの映画のメロドラマ的な部分なのであり、それが多くの観客を動員しているのである。
(東映試写室)



2003-12-05

●マスター・アンド・コマンダー (Master and Commander: The Far Side of the World/2003/Peter Weir)(ピーター・ウィアー)

◆ピーター・ウィアーは、アクチュアリティ(状況へのリアリティ)を重視する監督である。『グリーン・カード』のようなラブストーリを撮っても、そこには、アメリカにおける市民権の問題への批判が加味されていた。この映画は、戦争の非情さと虚しさを忘れてはいないにしても、有能な艦長ジャック・オーブリー(ラッセル・クロウ)が、イギリス海軍戦艦「サプライズ号」を率いて多くの少年兵から成る船員を指揮しながら、ナポレオンのフランス海軍を迎撃する「スペクタクル・ロマン」の形態をとっている。これまでのウィアーからすると、状況への批判的姿勢は弱い。ハリウッド的な一方的なジェットコースター的流れに乗って無批判に見ていると、アメリカにもこういう「コマンダー」(指揮者→大統領)がいれば、イラク戦争をしてももっとマシな結果になったのにといった話にとれないこともないからだ。
◆しかし、この物語の時代は、1806年にナポレオンが「大陸封鎖令」を出し、その後の10数年にわたってヨーロッパの各国がナポレオンの野望に右往左往する時代である。これは、ナポレオンには失礼だとしても、ブッシュのアメリカを重ねてみると、イギリスが現在置かれている境遇とかつてのイギリスとがどこかで重ならないこともない。ウィアーは、オーストラリア出身で、イギリスに対しては素直に肯定できない部分があるはずだ。しかし、その彼がこういう映画を作るということは、彼が、いまの状況を、ブッシュのアメリカという戦争機械に各国が不可避的に巻き込まれる出口のない時代だととらえているのかもしれない。
◆映画では、船はしばしば国家のような巨大組織のメタファーになることが多い。船というものが持つ特質が、おのずから国家を想像させ、そのなかでのすべての出来事が国家のそれにリンクされるのかもしれない。最後の方で "This ship is England"という台詞が出てくるが、いずれにしても、サプライズ号とイギリスとを重ねあわせて考えることはまちがいではない。
◆艦医スティーヴン・マチェリン(ポール・ベタニー)の存在が、ひとつの救いになっていることはたしかだ。医師として抜群の知識と能力を持っているが、本当は戦争に加担したくない、本当は生物学の研究に没頭したいと思っている繊細な人物。ジャックとは、任務の枠を越えた友情で結ばれており、しばしばジャックのバイオリンとチェロの合奏をする。この映画で彼は、一つの「理性」を代表しており、ひ弱そうに見える外見とは裏腹に、甲板で兵士がうかつに発射した銃に当たって重症を負ったとき、彼は、鏡をたよりに自分で手術をし、弾の破片を摘出する。
◆たしかに、スティーヴンの言動と態度は、少年まで動員しなければやっていけないような救いのない戦時下にあっても保持すべき最低の人間性のあかしのようにも見える。南米のガラパゴス諸島に着いたときに彼が見せる喜び。知への情熱と好奇心だけが、人間を戦争機械からわずかにひきはなす。
◆この映画では、スティーヴンは、ガラパゴス諸島からかなりの動物や植物の標本を持ち帰ったことが示唆される。ということは、彼は、この時代にはまだ赤ん坊だったチャールズ・ダーウィンの先を行っていたということになる。
◆しかし、戦争もまた、「理性」の産物である。人がむざむざと死ぬのを非情に直視できる「理性」がなければ、戦争の命令など下せない。人の死、肉体の痛み、近親者や恋人・友人の苦しみを完全に無視できる神経がなければ、戦争の命令を下すことなどできないのだ。だけら、一見「立派」に見えるスティーヴンのこうした自律的な態度も、極めて軍人的なのである。
◆船がとある島に着き、沢山の荷を積み込むシーンで、黒い皮膚の美しい女の目とジャックの目とが合うシーンがある。これは、その前夜に彼女と彼とがその島で寝たことを示唆するが、そういうシーンは出てこない。この船は一つの社会であるが、性的なものがすぱっと消去されているのが、不可思議である。ということは、それだけ抽象があるということだ。
(ブエナビスタ試写室)



2003-12- 03_2

●ぼくは怖くない (Io non ho paura/2003/Gabriele Salvatores)(ガブリエーレ・サルヴァトーレス)

◆幼児から思春期の中間世代の少年が見た「白昼夢」と「現実」の中間的な物語。一見平凡で素朴な村の隠れた部分で村の貧しい生活と大人たちの欲望の屈折がうごめいている。どんなに「のどかな」世界でも競争や階級や抑圧がある。命令するやつと従属させられる者。そんなことを思わせる冒頭のシーン。
◆冒頭の子供たちが畑を走るシーンで、この試写室の音響装置から出るハム音が聴こえ、つや消し。音楽がガンガン鳴っていればわからないかもしれないが、早く直してほしい。
◆この映画は、大人の目で語ってしまえば、味気ない話で終わる。要するに、少年ミケーレ(ジョゼッペ・クリステアーノ)が、ある日、5軒しか家のない寒村の廃屋の近くの野原で穴を見つけ、その蓋を開けると、死体のようなものが見える。そして次の瞬間それが動く。怖いが気になってしかたがない彼は、またそこに行く。わかったことは、そこにいるのは、育ちのよさそうな同年配の少年(マッティーア・ディ・ペエッロ)で、彼は、町から誘拐され、そこに隠されているのだった。
◆ふだんは家にいないが帰ってくるとおみやげをもってきてくれるやさしい父(ディーノ・アッブレーシャ)。そこにあやしい男(ディエゴ・アバタンタントゥオーノ)とその仲間が泊まりにくる。次第にわかってくるのは、やさしい母(アイタナ・サンチェス=ギヨン)も含めて、村人そうぐるみで少年の誘拐を計画したいたらしいということ。実際に、映画の終わりは、警察のヘリコプターが飛来するような「リアル」なシーンになるので、その通りなのだろうが、これでは面白くない。貧しい村人のはかない願望、おろかな犯罪を少年がかいま見たような話になってしまうからだ。むしろ、そうであったかもしれないし、そうでなかったかもしれないという曖昧さ、この年頃の子供がよく夢見がちに考える曖昧さのなかで描いた方がよかった。それでこそタイトル(原題通り)が活きるというもの。
(メディアボックス)



2003-12-03_1

●炎の戦線エル・アラメイン (El Alamein - La linea del fuoco/2002/Enzo Monteleone)(エンツォ・モンテレオーネ)

◆メディアボックスの映写装置は、近年、よくトラブったが、今日は、スカーピーから終始ハム(ブーンという音)が聴こえた。基本的にもうガタが来ているのかもしれない。
◆ノルマンディと同様に第2次世界大戦の戦況を決定したエジプトの砂漠地帯エル・アラメインの戦いをイタリア軍の側から描き、戦争の虚しさ、抽象性を実感させる傑作。文学と哲学を専攻していた学生スパーニャ(ルチアーノ・スカルバ)が、戦争の実体を知らず、国家を信じて兵士になることを志願するが、その熾烈な現場でその無意味さを知って行くというのは、最初から先が読める構造のように見えるが、きめ細かく撮った一つ一つのショットが、そういう言い方を許さない。その戦争の無意味さを知りつくしている2人のベテラン兵士を演じるピエルフランチェスコ・ファヴィーノとエミリオ・ソルフリッツィがうまい。
◆通常戦争は、「勝つ」側の目で描かれる。その結果、観客は、最後には「勝利」の快感を味わうことになる。しかし、この映画は、「負ける」側の目で描かれる。負け方にも色々ある。イギリス軍の猛烈な空襲に、ヒラの兵士を危険にさらしながら自分らだけ建物のなかにひそむ大佐や上級軍人たち。「ベルリン=ローマ枢軸」などどこへやら、助けを求めるイタリア軍の兵士に、「イタ公なんかくたばっちまえ」と罵声を浴びせながらトラックで逃げ去るドイツ兵士たち。そんな機におよんでも、ムッソリーニが「ピカピカした靴を履いて」凱旋行進するための馬と靴クリームを山ほど積んだトラックが到着したりする。
◆セピアっぽい画面が、砂漠の前線の感じをうまく出している導入シーン。バイクに乗ってスパーニャが到着すると、前線の兵士たちは、彼が持っている水筒の水を次々に横取りするようにして飲む。ロクな水を飲んでいないので、外地から運ばれた水はうまい。誰もが、この前線に「何のためにいるのかわからない」。イギリス軍の斥候を撃ち、持ちものを奪う。まだ生きていて「助けてくれ」と言うが、その余裕はない。「生きているのが奇跡」であるようなところなのだ。そんなところへラクダが迷い込み、スパーニャが見つけて仕留め、みんなで久しぶりのステーキを食べるが、それは、前線の存在を探るためにイギリス軍が放したおとりだった。すぐに始まる猛烈な攻撃に、ステーキを楽しんだ仲間たちがどんどん殺されて行く。しかし、迫撃砲と戦車の攻撃のまえにはなすべきことがない。「死が美しいなんて嘘だ」という台詞が重く響く。
◆水の供給だというので取りに行くと、その水は油くさくて飲めたものではない。運んできた男もそのことは知っている。しかし、どうしようもない。が、ここでイタリア人らしいなと思ったのは、トラックの男が、別れぎわに、これでも飲んで忘れるんだなといった雰囲気で、グラッパの瓶をポーンとスパーニャたちにわたすシーン。
◆最後に映る現在のイタリアにある集団納骨堂。おびただしい数のネームプレートには、「IGNATO」(無名戦士)という表示が一様にならぶ。日本ならさしずめ「英霊」というのだろうが、どんな名前をつけられても、戦死はすべて犬死にである。
◆自衛隊のイラク派遣を思いながらこの映画を見て、ふと、与謝野晶子の有名な詩を思いだした。
「君死にたまふことなかれ/すめらみことは、戦いに/おほみづからは出でまさね、/互いに人の血を流し、/獣の道に死ねよとは、/死ぬるを人の誉れとは、/おほみこころの深ければ/もとより如何で思されむ。」
◆配給会社の人が、最初のあいさつのとき、この映画のある部分に対し映倫から修正の要求が出ており、それを不当として、署名運動をしているという話があった。それがどの場所かは説明がなかったのだが、最後まで、わたしは、一体どこがひっかかったのかわからなかった。あとで確かめたところ、スパーニャたちがたまたま見つけた海辺に狂喜し、服を脱ぎ捨てて水に飛び込むシーンで、彼らのペニスが映るところが問題らしい。戦争がいかに意味がないものか、組織の拘束がなければ兵士など存在しないことを実感させるこのシーンに傷をつけろという映倫。アホな! 「映倫」などという名前からしてもう意味がないのだが、彼らには修正を要求する権利はない。実際にそういう権利はなく、出来るのは、ある種の「勧告」であり、配給会社は、それを守らなくても上映はできる。しかし、それを強行した場合、マスコミを通じて非難されたり、警察が踏み込む可能性があるということなのだ。それを恐れて配給会社は映倫の言いなりになり、自粛してしまう。しかし、この愚かな慣例は、配給会社が、映倫の「勧告」を拒否して行くところからしか決して改められることはないだろう。
(メディアボックス)


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