粉川哲夫の【シネマノート】
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2003-09-30

●ファインディング・ニモ (Finding Nemo/2003/Andrew Stanton)(アンドリュー・スタントン)


◆今月最後の試写で佳作に出会った。映像とドラマともどもよくできている。非常にひらめきのあるドラマ展開。さすが、この日の試写は満席で、営業さんが、空き席のチェックを小まめにやっていた。アメリカのいまの要素もさりげなく挿入されていて、奥行きもある。全米公開が5月30日で、9月7日までの興業収益3億3千385万ドルを上げたそうだが、わかるような気がする。
◆話は、オーストラリアのグレート・バリアリーフに住む魚カクレクマノミの一家の話。平和な生活を送っているカクレクマノミの夫婦マーリン(声:アルバート・ブルックス)とコーラル(声:エリザベス・パーキンス)は、400個の卵の孵化を楽しみに毎日を送っている。そこへ、巨大なバラクーダが襲ってきて、一瞬のうちに妻コーラと卵が犠牲になる。マーリンは気を失い、生きのびる。絶望にうちひしがれながら、卵のあった場所を眺めていると、1つだけ卵が残っているのを発見する。以後、その卵から生まれた「息子」ネモと「父親」マーリンとの生活がはじまる。
◆こうした設定を知ると、どうしても、9.11のテロで不可避的に切り離された親子のことや、アメリカでは多い父子家庭のことを思い起こす。最近のハリウッド映画では、離婚して去った父親と子供との再会や復権のテーマが多く、1980年代のように、父親なんかいないならいないほうがいいといった論調は薄れている。それだけ、離婚して子供と別居した父親、あるいは妻の方が去り、子供を引き取った父親の人口が一定数あるということを意味するが、同時に、家庭や結婚、とりわけ離婚語の子供の処遇をめぐって変化が出ていることを示唆している。
◆失踪した子供や家族を追う話は、昔からあり、メロドラマの格好のテーマになってきた。しかし、それが父親と息子であるという点が、アメリカのいまを参照しているように思えるのだ。焦点が父親の復権にシフトしてきているなと思いはじめたのは、マイケル・ケイトン=ジョーンズの『容疑者』あたりからだったか?
◆この点、日本は、まだアメリカの1980年代を追っており、離婚は推奨されるものという発想がまだ支配的だ。日本経済新聞のCMではないが、「女は変わった、男は?」というわけで、経済的に自立した女性は、ダメな男など捨てて自力で子供を育てるのがイキ(イケテル)と思われている。しかし、あと10年もすると、そういう形で単親家族(ワン・ペアレント・ファミリー)の経験を余儀なくされた子供たちが育ち、離婚を積極的に推進するトレンドが変化するのではないか?
◆このドラマの舞台がオーストラリアのグレート・バリアリーフとシドニーというのも意味ありげだ。世話を焼きすぎる父親マーリン(代理「ママ」に反抗したネモが、外洋に飛び出し、人間のダイバーに捕まってしまったとき、魚たちがそのダイバーはきっと「アメリカ人」じゃないか、「アメリカ人はいやだね」といった含みの台詞を吐く。これは、いまのブッシュ政権のアメリカに嫌悪する良心的なアメリカ人なら誰でも考えていることだろう。
◆海で捕獲された魚が飼われている歯医者の診療室の水槽のなかが、森と対象された都会のアナロジーになっているようなところがある。大海では、ネモの父親や、さまざまな魚(「魚食」をやめた鮫や大群で海中に文字を描く鰯、何でも知っている長寿の亀、海と地上をつなぐペリカンなど)のネットワークとそのサポートを受けるが、水槽のコミュニティでも、仲間同士の連帯や人間の暴力や理不尽な圧力に対する抵抗がある。ちっぽけな魚の目で世界を見る視点がユニーク。
(ブエナビスタ試写室)



2003-09-26

●コール (Trapped/2002/Luis Mandoki)(ルイス・マンドーキ)


◆自家用のセスナ機を持つ麻酔博士の夫ウィル(スチュアート・タウンゼント)と元看護婦の妻カレン(シャーリズ・セロン)。その娘アビー(ダコタ・ファニング)は喘息でかなり頻繁に発作が起きる。そのすべての設定に意味があり、ドラマに周到にいかされる。『メッセージ・イン・ア・ボトル』のときもそうだったが、細部へのこだわり、親子関係への関心、エンターテインメントなサービス。
◆これまで4回の営利誘拐をくり返し、一度も失敗していないという誘拐グループ。主犯ジョー役は、『激流』や『インビジブル』で臭い悪役を演じたケヴィン・ベーコン。カレンの夫が学会で新しい麻酔技術のプレゼンをするとき会場に来ている濃艶な女シェリル(コートニー・ラヴ)は、あとでジョーの妻であることがわかる。リーダーの言うことを、リーダーの気持ちが変わっても遂行してしまうような一途の「怖い」、しかし、他面で気のいい(それだけ怖さが倍加する)男マーヴィンを演じているのは、最近、サエた脇役で目にすることの多いブルイット・テイラー・ヴィンス。『シモーヌ』では、この映画のフェチ的な面を、『アイデンティティ』では、この映画の「怖い」部分を演じていた。
◆時計のコツコツいう音からはじまり、ドドーンという音に行く最初の画面は、『シティ・オブ・ゴッド』風。
◆ホテルの一室にウィルを閉じ込めることに成功したシェリルが、娘の命が惜しければ言うことを訊けとばかり、彼を拘束したままバスタブにつかっていると、その身体を見て、ウィルが、「子供がいるんだね?」と訊く。どきっとしたように女が、「どうして?」と訊き返すと、「帝王切開の傷があるね」とウィル。専門家は違うねという感じだが、この個所はこの映画の重要な部分。
◆埃を吸うと喘息の発作が起き、すぐに注射をしないと死にいたる6歳の少女を演じるダコタ・ファニングが猛烈うまい。『アイ・アム・サム』とは別のキャラクターを演じている彼女は、1994年生まれだから、もう9歳になる。
◆最初の方のシーンでカメラが家のなかをなめたとき、ちらりと、トイレに吸入器があるのが映る。こういうのに注意すると、それが意味をもってくるという作り方。ヒントをまえもってあたえるのは、作者の「民主主義」か、それともコケットリーか?
◆喘息の発作のとき、薬の代わりにコーヒーが利くらしい。本当か?
◆この映画でも、ケータイがうまくつかわれている。ほかにPDAもうまく使われる。
◆家庭が危機にさらされたのち、最後に一応の解決を見るのが、ハリウッド映画のパターンだが、誘拐されたり、殺されそうになったりした登場人物は、事件の「解決」後までそのトラウマが残る。それは、この映画の場合どうなのだろうか? ご多分にもれず、この映画もそういうことには配慮しない。
(映画美学第2試写室)



2003-09-25

●ジャスト・マリッジ (Just Married/2003/Shawn Levy)(ショーン・レヴィ)


◆全体にお客は多くはないが、なぜか、最前列の席がわたしだけ。引いているのか? 近年の大学生は、前の席に来ない。それと共通する現象? この映画も、広告の写真が軽薄な感じで、敬遠しそうになったが、あえてこの目で試そうと試写に足を運んだ。写真で「引いて」しまった人がけっこういるのではないか? それにタイトル。「ジャスト・マリッド」を「ジャスト・マリッジ」にすればわかりやすいという判断なのかもしれないが、実に安易ではないか。英語で名詞のまえにjustをつけるときは、「ただの」といった意味だが、その場合はjust a marriage(ただの結婚)でしょう。いったいどういう意味に受け取らせたいのだろう? 「マリッジ」(結婚)という意味だけが浮き彫りになれば、それでいいという安易さが読み取れる。それで釣れるのは、昔なら「若い女性」ということだろうが、いまはそうはいかないよ。
◆ポーランド系のトム(アシュトン・カッチャー)と富豪の娘サラ(ブリタニー・マーフィン)が、新婚旅行先のヴェニス空港ですでに険悪な関係にあるシーンから始まり、フラッシュバックして、結婚にいたる経緯を簡潔に紹介、それから大半のシーンを新婚旅行のアリプス、ヴェネチアにさき、も二度と顔も見たくないというところまで2人を引き離しておいて、最後におさだまりの「復縁」に持って行く。
◆喜劇調なのだが、対立シーンは意外とリアル。冒頭、ヴェニス空港でサラがキャリアカーをじゃけんに突き飛ばし、それがトムにあたるとことなど、けっこう痛そう。トムのどじさを描く、新婚の最初のベッドへ彼女を運ぼうと抱いてドアをくぐろうとしたら、彼女の頭が壁にがーんとぶつかってしまうときも、スラプスティック喜劇で転んだり、跳ね飛ばされたりするときとちがって、こちらに痛さが伝わってくるような感じ。
◆場所が大きく変わっても、音の区切りをはっきりさせずにどんどん流れている作りが面白い。ふと気づくとヴェニスからフランスへ飛んでいたりする。あえて音にメリハリをつけないようにしている。
◆最近のハリウッド映画では、フランス人は「悪役」になる傾向がある。シラクがアメリカのイラク侵略を批判したことでその雰囲気がもりあがった。トムとサラが、アルプス山麓の古城を改造したホテルでドジ(アメリカ式の110ボルトのバイブレータを220ボルトのコンセントに無理やり差し込み、ブレーカーを落とす)をやり、追い出されるのだが、そのオーナー(アンリ・マルゴー)をあえて嫌みっぽく描いている。また、ホテルを追い出されたあと、雪の山道で車が立ち往生していて、通りがかった車を停めようとするが、停らず、トムが口汚くのにしると、その車を運転する初老の女性が、もどって来て、2人の車を谷に落としてしまう。「フランス人はいじわる」というステレオタイプを描いているわけだが、おもしろいのは、悪いのは、2人の「アメリカ人」の方じゃないかとも見える点だ。たとえば、城のホテルで、トムは、「何で英語で表示しておかないんだ?」とマネージャーに食ってかかる。しかし、もっと徹底して「醜いアメリカ人」を描けばいいのに、そうはしない。
◆サラの両親は、彼女が、父親の仕事のパートナーであるピーター(クリスチャン・ケイン)と結婚するものと思っていた。彼女も、あとで告白するところでは、ピーターを愛したことがある。その彼が、すでに関係があぶなくなりはじめていたヴェニスに、仕事と称してやってくる。ドジャースの試合が気になってしょうがない(ということは、彼はブルックリン出身?)トムと美術館めぐりがしたいサラとが別行動をとっていたとき、ピーターは、彼女のホテルで待ち伏せる。そして、淋しげに一人でホテルにもどった彼女を「まともな食事」に誘おうとするのだが、このへんが、両義的に読める描き方をしている(あるいは描きそこなった?)のが面白い。たしかにアメリカ的な単純な発想なら、彼は「卑劣」だろう。が、すきな相手がいれば、そのぐらいのことをやるのがあたりまえでもある。そうみると、この男の方が、彼女に気を使っているのであって、トムのようなガキなんか捨てちまえという気がする。
◆明らかに、監督には流階級批判があるのだが、たとえば、サラの母親(ヴェロニカ・カートライト)の名が「プッシー」という名であっても、ただくだらないという感じしかあたえないように、その批判は徹底していない。最後はおさまってしまうのだから、ここで描かれている上流階級批判は本気ではないし、サラの父親のトムへの差別も本気ではないということになる。
◆サラを演じているブリタニー・マーフィンという女優は、『8 Mile』 にも出ていたが、この映画では、横から映すとメグ・ライアンに似ており、アップになる(たとえば、トムの投げたサッカーのボールがサラにあたり、2人が知り会うようになるシーン)と、アンジェリナ・ジョリーに似ている。
◆トムは、(ちょっとしか出てこないが)KNRという交通情報を流すラジオ局で働いている。いま、ネットで検索したら、同名のネットラジオ局がデンマークにあって、ギンギンのポップスを流していた。ふと思ったが、デンマーク語って、ドイツ語のようにけっこう野卑でアグレッシブな響きがあるんだね。
◆この映画は、よくもわるくもいまのアメリカを象徴している。ヨーロッパにあいかわらずコンプレクスをいだいているリッチなアメリカ人がいる。他方で、ヨーロッパ出身だが、プアーな位置に置かれているアメリカ人がいて、彼らは、倍加した「アメリカ人」を演じている。ポピュリズムにとびつくのは後者であるが、いまのアメリカは、知性的な部分だけ後者の方向を追っている。そんな矛盾が、この映画のアンバランスさではないか?
(FOX試写室)



2003-09-19

●キューティ・ブロンド ハッピーMAX (Legally Blonde 2:Red, White & Blonde/2003/Charles Herman-Wurmfeld)(チャールズ・ハーマン=ワームフェルド)


◆この映画は、アメリカでは酷評されている。IMdbのUser Rating には、「5ドルがもったいないからやめた方がいい」と書いている者もいる。最初敬遠していたが、こうなると見たくなるのがひねくれ者のわたし。で、結果は? う~ん。あっけにとられたが、別の意味で面白かった。かなりいまのアメリカの関数ではないかと思った。ある意味では、アメリカの「釣りバカ」のようなところもある。
◆日本の(たぶんいまはちがってきただろう)女子学生的な「きゃー」という感じのノリは、sisterhoodというやつなのだろうが、その親和的流れは、やはり右派のポピュリズムだろう。後半で「デルタ・ヌー」が登場するが、この Delta Nu という大学内に作られてていることの多いシスターフッドのソロリティ(sorority)、ネットで調べるとわかるが、相当の数だ。1972年にペンシルベニアのディッキンソン大学で作られた Delta Nu が最古らしい。映画のなかでは、全米にネットワークを組み、エル・ウッズ(リース・ウィザースプーン)の一声でバスを連ねて集まり、抗議デモを展開する。これは、どう見てもポピュリズムだ。この勢力が、アメリカで反戦に動いたのか、それともブッシュ政権支持に動いたのかは、興味深いところである。この分でいくと、日本の(保守)政治運動も、高校・大学のチアガールの組織あたりから新たに展開されるようになるのだろうか?
◆エル・ウッズは、さながら「動くバービ人形」だが、この人形が象徴する50年代風の「オバカちゃん」(clueless)というよりも、「釣りバカ」のハマちゃんに近い存在。ハマちゃんが、他人おかまいなしの行動をしながら、それでいて妻や友人に繊細なように、エルは、服からパソコンまでホット・ピンクの色に染め上げ、他人がどう思おうと平気だが、自分のペットの親犬が不当な扱い(化粧品工場で動物実験にされている)を受けているのには、断固として闘う。
◆前作でエルは、恋人を追ってハーバード大学のロー・スクール(「法学大学院」と訳すらしい)に挑戦、(とてもあんな「オバカ」には入れないと思われながら)入学する。今回は、ロー・スクールを卒業し、弁護士の資格を得た(ということになっているはずの)エルが、ボストンの法律事務所で働きはじめるところから幕が開く。エル・ウッズという女性は、上昇志向だとも考えられるし、自然に上に上がって行くタイプだともとれるように作られている。はい上がりの物語のようなえげつさやど根性はない。が、それでいて、高価なペットを買い、ヴェルサーチの化粧品を使い、高級エステに通う。弁護士なのだから、エリートであることはまちがいない。つまり、「庶民的」であることを装いながら、その実、「お嬢さん」なのだ。そこには、日本の「お姫様」伝説のパターンのようなものも感じられる。
◆面白いと思うのは、この映画の両義性だ。ポピュリズム的な臭いがありながら、あまり地元への執着がない。エルはロジックを重視する。身近な問題と大政治とをリンクする。自分のペットの「不幸」は、他の犬とその飼い主にとってもそうであり、だから、それは、法律を変えなければ、解決されないと考える。ただし、動物愛護の論理というのは、どこまで普遍性を持っているのだろうかと考えると、エルのロジックは、ファシズムのロジックに反転しかねない。けっこうヤバイところがある。他方、こういうバカ話に託して、いま個々人が「スピーク・アウト」しなければだめだということを「誰にでもわかるディスクールで」(これにも問題があるのだが)訴えているようなところがある。
◆ジョークのつもりが、監督か脚本家の趣味が出てしまったのだろうが、エルの犬は、実は「ゲイ」であることがわかるというエピソードがはさまれている。
◆ブルース・マギルが、最初ギトギトの権力政治の権化のような風貌で出てきて、その実そうではないというキャラクターをたくみに演じていて、印象に残った。学業成績優秀なのに気の弱い女性リーナを演じるマリー・リン・ラスカブもいい。役者はみな水準以上の演技をしている。
◆サリー・フィールドが、ハーバードの先輩役で登場。問題のペットの親犬を実験台にしようという会社を糾弾して、入ったばかりの法律事務所をクビになったエルを雇ってくれる。いつも笑顔をたやさず、こいつはと思っていると、この女性、なかなかのしたたか。そんな屈折をフィールドがたくみに演じているが、なんかもったいない気もする。
◆ダナ・アイヴィが、いかにもの権威主義的な下院議員を演じている。その彼女を美容院で捕まえて、交渉しようとするが、アイヴィは相手にしない。ところが、その胸にNのマークのついた三角のバッジ。目を見張るエル。それは、「デルタ・ヌー」のマークで、そのとたんに2人は、女子学生のように抱きあって、「デルタ・ヌー」の公式身ぶりを披露する。これって、どこかの国の「美女軍団」の交流みたい。
◆フィアンセのエメット(ルーク・ウィルソン)がハーバードのロー・スクール(?)で教えているシーンがある。そこへエルが私的な電話をしてくのだが、そのシーンで多くの学生のテーブルの上にノートパソコンが置かれている。日本のわたしの勤める大学ではまだだが、じきにそういう教室風景になるのだろう。慶應あたりはすでにそうかも。
(FOX試写室)



2003-09-18

●イン・アメリカ (In America/2002/Jim Sheridan)(ジム・シェリダン)


◆障害を持つ長男を事故で失ったアイルランド系の夫婦が、2人の娘を連れてカナダからニューヨークに移る。失業もしているが、それよりも息子の死を忘れたいという思いが彼らをカナダから引き離した。住み着いた先は、「叫ぶ男の家」という別名を持つスラムビル。階上に住む黒人の男がドラッグに狂って叫び声を上げるのでその名がある。幼い子供は彼らだけである。映画は、長女のクリスティ(サラ・ボルジャー)の目とナレーションで描かれる。彼女は、最初からずっと8ミリビデオ(DVではなさそう)をはなさず、たえず撮っており、ときおりその映像という設定の映像が挿入され、全体が彼女の「ビデオ日記」の体裁になっている。
◆トロントからだろうか、ナイアガラからだろうか、家族が国境の検問で入国の理由を訊かれたとき、幼いアリエル(エマ・ボルジャー)が、「パパは失業したのよ」と言ってしまう。やばい。カナダからアメリカへの国境は検問が厳しい。わたしも、ナイアガラからバッファローに入るとき、また、シアトルからヴァンクーヴァーへ入るとき、しつこい質問を受けたことがある。働くために入国するのではないかと疑うのだ。このとき、検問の係官は、「パスポートに子供3人とあるが」と訊き、そのとき、母親のサラ(サマンサ・モートン)が「失ったのよ」とただならぬ声で答えたのに何かを察し、それ以上質問をしないのだった。観光という名目で入れることになったわけだ。
◆サラは、近くのアイスクリーム屋で働き、俳優志望の父・ジョニー(パディ・コンシダイン)は、オーディションを受ける。なかなか受かるところはなく、子供たちが小学校に入学するときは、夜だけタクシーの運転手をする。この映画は、ちょっとでもニューヨークの一昔まえの貧民街で生活をしたことがある者には、実感できる部分が多い。それでも、ケチをつければ、色々ある。暑い夏のある日、すでに身重の妻の苦しそうな姿を見たジョニーは、どこからかウィンド式のクーラーを拾ってくる。それをエレベータの壊れているビルの上の方までかかえ上げ、窓にとりつける。電源を入れようとして、プラグがヨーロッパ式の三叉になっていることに気づく。雑貨屋に買いに行くが、2ドルたらずの現金があと25セント足りない。店の者はがんとしてまけない。このへんのやりとり、貧民街の雰囲気を描くのには必要だったのだろうが、話が見えすいている。そして、新しいプラグを取り付けてクーラが回り出したとたんい、ブレイカーがとび、ビル中から罵声の声があがる。これも見えすいている。もし、あなたが貧民街に暮らすなら、サイズの合わないプラグを見たら、それをひっこ抜き、ケーブルをじかにコンセントに差し込むだろう。このシーンは、最初に表現したいことが決まっていて、あとからプロットを作った結果である。
◆カソリックの祭りに開かれる縁日で、ジョニーが、子供たちのためにボール投げで景品のE.T.人形を取ろうとするシーンがある。5つボールが穴のなかに入れば5ドルで人形がもらえるのだが、それがうまくいかない。子供の夢を壊したくない彼は、どんどん金をつぎ込む。100ドル以上使い、あきらめようとするジョニーに、サラが、アパート代を入れた封筒の金を彼に渡し、「ここでやめてはだめ」と言う。200ドル以上払い、最後に人形を取るのだが、このゲーム、最後に勝てば全額返してくれるのだろうか? それと、こういう感じがアイルランド気質なのだろうか?
◆「叫ぶ男」と子供たちの出会いが面白い。ハロウィーンになると、子供たちは、家々のドアを叩き、「トリック・オア・トリート(trick or treat)」と言う。しかしこのビルでは、「ゲイとジャンキーしかいない」ので、誰もドアを開かない。子供のいる家などないのだ。しかし、そのドアは開いた。出てきたのは、黒人の青年マテオ(ジャイモン・フンスー)。すでに映画では、その青年が絵を描き、それをめちゃめちゃに破壊する姿を映している。子供と偏屈男との出会いはめずらしくないが、ここではかなりいい感じに描かれる。
◆この日から一家とマテオとの交流がはじまる。彼は、どうやらHIVウィルスにおかされているらしい。作品は、なかなかのものに見えるが、売れている様子はない。
『マイノリティ・レポート』で「霊媒」役をやっていたサマンサ・モートンが、大女優の風格をつけてきた。
◆困難をのりこえてサラが、新しい子供が生まれたとき、クリスティが、弟を失って悲しかったのは、パパやママたちだけじゃない。自分たちもそうだったと言い、父親に向かい、「フランキー(弟の名)にサヨナラを言いなさい」と言う。そのときのクリスティ役のサラ・ボルジャーの演技がなかなかすごい。子供特に女の子が、驚くような「大人」を演じるときがあるが、このシーンは、登場人物がそういう役を演じるのと、俳優がそういう人物を演じるのとが一致した稀有な瞬間のように見えた。
(ヤマハホール)



2003-09-17

●最後の恋、初めての恋 (Saigo no Koi, Hajimete no Koi/2003/Toma Hisashi)(当摩寿史)


◆上海の港をバックに、渡部篤郎にシュー・ジンレイが寄りかかり、ドン・ジェがかたわらでほほえんでいる写真が試写状にもチラシにもあり、その印象とタイトルとがあいまって非常にポイントのない作品のように思え、試写に行くのをあとまわしにしてきた。が、見ての感想は、「そう悪くない」。かなりテレビ的だが、恋人が共通の友人と心中してしまうというトラウマをいだいて上海支店に派遣されたエリート社員と、不治の病を負っている中国女性との出会いという、予想のつく絵に描いたような設定ながら、そういうメロドラマとして水準に達しているだろう。
◆渡部篤郎の出る映画は何本か見ているが、彼の印象は、SONYのDVカメラのCMで刷り込まれていて、渡部篤郎=テレビの人というイメージがわたしのなかで出来上がっている。そういうことを意識してか、渡部は、かなり気を入れた演技をしている。
◆役柄は、日本の自動車会社で「エターニティ(永遠)」というブランドの車を開発したエリート社員・早瀬。が、彼は、開発グループの恋人と親友・滝本(松岡俊介)とが心中事件を起こしたことでブレイク・ダウン。彼を買っている上司が彼を上海支店に派遣する。先輩の澤井(筧利夫)や支店長の恩田(石橋凌)は温かい気づかいをするが、早瀬は、すべて投げやり。当座の滞在先となったホテルのチェックインでは、「日本語しゃべれるやつはいないのか?!」などとどなる。
◆ホテルのフロントにシュー・ジンレイの姿がある。これでこの映画の先が読める。さらに、そののち早瀬は部屋で危機的な事件を起こし、ファン・ミン(シュー・ジンレイ)が救う。これで、あとはわかる。
◆会社は、中国語のトレーニングのために大学に依頼して研修プログラムを組んでいる。そのチューターがファン(ドン・ジェ)。不思議なことに、早瀬がいやいや大学に行くと、教わるのは彼だけ。そして、ファンが急速に早瀬に関心を持ちはじめる。ここで予想がつくのは、たぶん彼女は、ファンの妹なのだろうということだ。そして、その結果、早瀬は、2人の姉妹の板ばさみになるだろう。このへんは、ティエン・チャンチュアンの『春の惑い』でも見ることができるパターンである。
◆上海の自動車販売会社の社長を演るウ・ルーチンがうまい。彼は、会議で投げやりなことを言う早瀬を巧みな日本語で批判する。「エタニティーは、走れがいいだけの車をつくっているんじゃない」と早瀬が言うと、李社長は、いまの中国では多くの大衆が安く手に入れられることが重要なのだ、と。その啓蒙的な内容は別として、さすがは「京劇界の女形スーパースター」と言われるウ・ルーチン、迫力がある。
◆早坂からコンサートに誘われたファンは、致命的な病を持つ自分と早坂との未来を考えて、迷う。一旦行くのをあきらめ、自宅に帰った彼女を父親(ニィウ・ベン)は、いま生きることの大切さを説く。そして彼女は、タクシーで上海展覧中心に向かう。このあたり、テレビドラマでよく見るパターンだ。むろん、その源流は、映画だろう。『ローマの休日』もパターンを作った。
◆ぐたぐたと書いてしまったが、メロなラブストーリのなかにも、明らかにいまの日本社会の気分が感じられる。最後のシーンは、上司の恩田のセカンドハウスに住んでいる早坂が、一人、自転車で会社に向かうシーンである。恩田は、悩める早坂を彼の郊外のセカンドハウスに連れて行き、「おれがいなくなったらここを使ってくれていいよ。ただし、マーケットを成功させてからだ」と言った。ということは、早坂は、上司を助けてマーケットを拡大させることに成功したことを意味する。しかし、このシーンには、猛烈社員の姿は全くない。そういう時代は終わったのだ。
◆日本時代のフラッシュバック・シーンで、早瀬が滝本に向かって食べ物をポンと投げると、滝本がすばやく反応してそれを受け取る。この身ぶり、ハリウッド映画ではよく見る型であり、実際にアメリカ人はこの身ぶりで物を渡す。野球がダメなわたしは、いきなり物を投げられても、とっさの反応が出来ないので、物を取り落としてしまうのだった。おそらく、日本でも、この身ぶりが流行りはじめているのだろう。日本の習慣では、他人に物を投げ渡すというのは、粗野な行為だと見なされてきたのですが。
◆社会的身ぶりは時代とともに変わる。最近試写会場で目立つのは、映画の上映中にケータイを見て(そのとき光がもれる)、それからパカッという音を立てて閉める身ぶり。この日も、わたしの横の男性がその身ぶりを何度もくりかえしていた。そして、そのあげく、ケータイを床に取り落としてしまう。
(松竹試写室)



2003-09-16

●MUSA -武士- (Musa/2001/Sung-su Kim)(キム・ソンス)


◆14世紀、高麗は、中国の明に友好使節を送るが、元のスパイではないかという疑をかけられ、使節団の全員が捕獲されてしまう。当時、元の蒙古人勢力は、万里の長城の向こう側まで押しやられていたが、まだ明の完全支配は達成されてはいなかった。そのため、高麗の使節団は、砂漠を越え、別の流刑地に移動させられるとき、今度は、蒙古軍に襲われる。生き残った彼らのまわりには、明の兵士たちの死体がごろごろしていた。これは、やばい。もし、ここに明の人間が来たら、自分たちが明の兵士たちを殺したと疑われかねない。かくして、砂漠を越える脱出行がはじまる。ところが、ようやくたどり着いた難民キャンプのようなところで休みをとっているとそこに、明の姫プヨン(チャン・ツィイー)を拉致して来た、ランブルファー将軍(ユー・ロングァン)率いる蒙古軍の一隊が到着。ふたたび事態は緊迫。
◆山東半島に出て海路高麗に帰還することだけを願った高麗の使節が、明と蒙古との厳しい政治状況のなかにまきこまれる。それをさらに緊迫化させるのが、プヨン姫。彼女をめぐって面白い展開がある。砂漠の逃避行のなかで高齢のため力尽きた老副使は、死ぬまえに、護衛として連れて来た奴隷のヨソル(チョン・ウソン)を解放する。組織の人間(オーガニゼーション・マン)たちのなかでひときわ異色で寡黙なこの人物にプヨンは惹かれる。他方、チェ・ジョン将軍らは、軍略家の常識として、彼女を蒙古軍から救い、明に返し、明の庇護を得ようというの戦略を考える。ただし、彼女を救うことが、やがて至上の使命のようになって行き、そのために多くの命が失われる。拉致した人質を奪われては面子にかかわる蒙古軍の武将たち。
◆多くの場面は、戦闘ばかり。闘いはますます原理化し、観念化している。そいうなかで、それまで人など殺したことのない女や子供までが「敵」を殺すようになる。それは、一面で、人は、弱くても敵を殺さなければならないときがあると言っているようでもあるが、他方、そういうところまで非暴力な人間を追いつめる戦争の非情さを描いているとも取れる。
◆しかし、イラク戦争でさんざん実写の戦闘シーンを見せられた(というより半分は想像のなかで殺し合いが行われたことを意識した)あとでは、こういう「壮絶」な殺し合いが見せ場になっている映画を見ても、面白くないし、それ以上に、何か古いという感じがしてしまう。それが、ゲームのように様式化されているのならば、別だが、いまだに(という感じで)民族の意識をむんむんさせた闘いがまじめに描かれると、よせやいという気になってしまう。
◆かつて(といっても30年もまえの話だが)これと似た気分を味わったことがある。ふとそれを思い出した。それは、ジョン・ウェイン主演・監督・製作の『アラモ』(The Alamo/1960)を見たときだ。
◆いったロジックが基底にある。「サムライ」ものとしては、役者はみなうまい。特に寡黙に敵を弓で次々に倒して行くがうまい。奴隷として副使の奴隷
◆まあ、時代劇としては、いいキャラクターと役者をそろえている。古風なチン・リプ、原理主義のチェ・ジョン将軍、その忠実な副官カナム(パク・チョンハク)、外国の姫プヨン、敵軍のやはり古風な将軍ランブルファ、弁慶のような仏教の僧侶、蒙古の(ジンギスカン刈りの)巨漢兵士等々登場人物の多様さにはことかかない。敵を冷静確実に倒していく弓の名手チン・リプを演じる(アン・ソンギ)、槍がめっぽう強く、奴隷から解放され寡黙な自己主張をするヨソルは、この物語のなかで、一つの救いになっている。この2人のキャラクターだけでも1本作れる。逆にいえば、この2人は、この絶望的な世界のなかのわずかな救いの部分なのだ。
◆劇場試写を逃し、社内試写に出向いたのだが、見に来た人がたったの4人だったのには、驚いた。
(ギャガ試写室)



2003-09-12

●ピニェロ (Piñero/2001/Leon Ichaso)(レオン・イチャソ)


◆知らないで見ると、最初、70年代の記録フィルムからの映像かと思わせる映像が流れる。なかなか70年代的な感じが出ている。ミゲル・”マイキー”・ピニェロの後半生を描いたこの映画、わたしがニューヨークに住んでいた時期とかなりダブるはずだが、わたしは、彼のパフォーマンスも、詩の朗読にも接していない。ただ、監督のイチャソは、彼の監督デビュー作『エル・スーパー』をニューヨークで見たので知っている。プエルト・リコ人のスーパー(マンションビルなどの掃除や機械管理をする「管理人」――なぜかプエルト・リコ人が多い)の話だが、最後の方のシーンで、主人公がなぜボイラーの火をかき立てながら独り笑みを浮かべるのかが分らなかった。犯罪映画ではないのだが、火のなかに死体でもあるんじゃないかなどと想像した。妙な魅力のある映画。
◆本物は、もっと屈折し、病的な感じがしたのだろうが、やや健康的すぎるとしても、ベンジャミン・ブラッドは、かなりノった感じで「マイキー」ことミゲル・ピニェロを熱烈に演じている。その母親をリタ・モノレを演じているのも感動的。最初、この存在感のある女性は一体誰なんだろうと思ったが、クレジットを見て納得。映画ではしばらくこの人の顔を見ていなかった。
◆プエルト・リコで1946年に生まれ、母親に連れられてニューヨークに移住し、ロワー・イーストサイド(ロワサイダ)のゲットーでさんざん悪いことをし、武装強盗犯として逮捕され、シンシン刑務所に収監。そこで書いた『ショート・アイズ』が、1975年にニューヨークのパブリック・シアターで上演され、一躍ピニェロの名が知れ渡る。
◆『ショート・アイズ』が上演されるアストール・プレイスに近いラフィエット・ストリートのパブリック・シアターで、劇場主のジョゼフ・パップ(マンディ・パティンキン)が芝居の始まるまえに挨拶するシーンがある。パップは、もうちょっと細面だったと思うが、90年代の初めにガンで死んでしまった。同じころ、息子のアンソニーがエイズで死に、話題になった。1992年からパブリック・シアターは、「ジョゼフ・パップ・パブリック・シアター」と改名された。
◆この映画でも、一貫してピニェロをサポートする姿が描かれる詩人のミゲル・アルガリン(ジャンカルロ・エスポジート)は、1973年にロワサイダの彼のアパートに「ニューヨリカン・ポエッツ・カフェ」を作り、アート活動を始めた。ピニェロは、その初期の中心人物の一人だった。「ニューヨリカン」という言葉は、この映画にもたびたび出てくるが、それは、「ニューヨーカー」と「プエルトリカン」との合成語。映画で、「おれもHIVウィルスにやられている」と言うシーンがあったが、彼は、いまも健在で、ニュージャージーのラトガーズ大学で教えている。左翼系の非営利放送局WBAIでも長らく番組を持っている。なお、Nuyorican Poets Cafeは、現在は、アヴェニューCとイースト・スリー・ストリートの角にある。
◆わたしが、彼らの活動のことをあまりよく知らないのは、わたしがラント(詩の朗読)に興味を持ったのが、80年代後半になってからだったからだろう。それと、わたしは、ロワサイダをよく歩き回っていたが、わたしの興味がもっぱら、そこでは消えつつあったイーディッシの文化であり、ユダヤ人に代わって住み着いてきたプエルト・リコ人たちの活動に関心が薄かったからだろう。
◆薬と酒とタバコで肝臓がぼろぼろになり、1988年、ピニェロは、41年の生涯を閉じる。最後は、ロワサイダでアルガリンたちが催す葬儀の「パーティ」。このシーンで、アルガリンが、骨壷のなかのピニェロの灰をロワサイドの路上を歩きながら撒き散らし、参列した人たちの頭の上にまで撒くのが、実に感動的だった。わたしは葬式というのは嫌いで、せめて自分の葬式だけはしたくないと思っていたが、散骨だったらやってもいいかなと思うこともあった。しかし、そのとき頭にあった散骨は、海や山や川に灰を撒くものであって、街路で、しかも人の頭の上まで撒くことは想定していなかった。だが、これこそ、都会に生まれ育った者に最も相応しい葬儀の仕方ではないだろうか?
(映画美学校第2試写室)



2003-09-10

●マッチスティック・メン (Matchstick Men/2003/Ridley Scott)(リドリー・スコット)


◆こいつは傑作。批評家泣かせ。書きにくい。ストーリーをなぞれば、バカかと言われるだろう。『スティング』のように、詐欺師を描きながら、詐欺師がだまされ、観客もだまされる話になっているが、それだけではない。相対化しながら、いまのアメリカの世相感覚もしっかりとらえている。だから、また、観客もだまされる。
◆見ていると、何だリドリー・スコットは、詐欺師の話を描きながら、詐欺師の昔別れた妻(そのとき妊娠していた)とのあいだに生まれた子供と再会する話にしているのだなと思う。そういう話としてなかなかよく描かれているからだ。が、後半で衝撃的な事件が起きる。このままいけばいいのに、何でスコットは、こういう――それまでの流れを完全に崩してしまう、無理矢理劇的なことを取り込んだような――方向に持って行ってしまうのかという違和感が生まれる。だが、なぜそうなるのかは、すぐにはっきりし、そうか!と観客は思うのである。 それは、だまされたというより、すがすがしい感じでもある。
◆ロイ(ニコラス・ケイジ)は、用心深い詐欺師(自分では、conmanにひっかけてconartistと密かに自称する→【追記/2003-09-19 参照】)で、あまり大きな山には手を出さない。つまらぬ商品を老人に高額で売りつけるような詐欺をくり返している。相棒のフランク(サム・ロックウェル)は、それには不満だが、忠実につきあい、また、ロイの潔癖症や広場恐怖症も親身に気づかっている。とにかく、ロイは、絨緞に塵一つ落ちているのも我慢がならない。むろん、土足では上がらない。ドアは、「アン・ドゥ・トワ」とか「ワン・ツー・スリー」と言いながら3度開閉しながら開けないと落ち着かない。庭にプールもあるけっこういい家に住んでいるが、窓ガラスが曇ったり、プールに落ち葉が浮いたりしたら大変。『恋愛小説家』でジャック・ニコルソンが演じるメルビンの潔癖症とは若干ちがう。どこか一貫していないところがロイにはある。そんな点を見 抜いている相棒のフランクが精神科の医師に相談してはどうかとすすめる。
【追記/2003-09-19】conartistについて、ニューヨークの刀根康尚さんから、「粉川さんは、ニコラス・ケージの詐欺師が自分をコンマンと呼ばずコンアーティストとよぶと書いていましたが、コン・アーティストはコンマンとおなじ詐欺師をいう普通の言葉です。いまでは、むしろコン・アーティストの方が普通でしょう」という指摘をいただいた。そうかぁ。ニューヨークを離れて大分たつので、ナマってしまいましたねぇ。試写室でもらったプレスに「ダマシのアーティストとしての自負とともに誇りを持って仕事に取り組む」なんて書いてあったので、うっかり書いてしまいました。が、「精神科医」との会話のなかで、artistの部分を強調して言っているような感じもあったんです。
◆ブルース・アルトマン演じるその「精神科医」クラインの風貌が、フェリックス・ガタリに似ているのが面白かった。「結婚していますか?」「別れました」「子供は?」「別れたとき妻は妊娠してましたが、どうせ誰の子がわかりません」といった対話療法をするなかで、医師が「その子のことが潔癖症にわざわいしている」と告げる。「まえの奥さんに会うべきだ」というアドバイスにロイは躊躇し、クラインに電話をしてもらうことにする。「それはわたしの仕事ではない」というクラインに無理に頼み込み、引き受けてもらう。ロイのなかに寛容な医師への信頼が深まって行く。
◆電話をしてくれたクラインの返事では、前妻は会いたくないと言っているが、娘が会いたいと言っているという。娘がいたことに驚きながら、ロイの心が変わって行く。そして、ある日、その娘が母と喧嘩をしたとかで家出してロイを訪ねてくる。『ホワイト・オランダー』でデビューしたアリソン・ローマンが見事に演じるその娘はアンジェラといい、10代の娘にありがちな「困った」側面と愛らしさとを備えている。父親の自覚など全くなかったロイだが、その日から、奇妙な親子関係が生まれる。
◆アンジェラが来てから、不思議なことにロイの「潔癖症」も薄らいでいく。そして、ろくなものを食べていない娘のために手料理まで作るようになる。もっとも、ロイのパスタ料理は、ひどい代物で、最後にはいつものようにピッツァのデリバリーに頼ることになる。このシーンで、ロイが、「パスタは、壁に投げつけてくっつけばゆで上がりだ」といって、スパゲッティの小片を壁に投げる。それが見事に壁に張り付くのだが、これって、日本で言う「アルデンテ」感覚では通用しないだろう。なぜなら、日本で言う「アルデンテ」は、やや固めであるから、壁に張り付きにくいからだ。日本でうるさい「アルデンテ」という基準は、蕎麦のゆで加減から来ているような気がする。
◆ロイとアンジェラとのやりとりを見ながら、アメリカにもそして最近の日本にも、こういう親子関係ってあるよなぁと思う人は多いだろう。詐欺師であろうが何だろうが、あなたが生き別れている子供と再会したら、こうするだろうなと思わせる日常的な出来事がしばらくのあいだ続く。喧嘩をしてしまい、帰って来ないアンジェラをロイがやきもきしながら待つこともあるが、2人の関係の大部分は、そういう子供との再会の話としてはほぼ「理想的」な線で進む。そして、ロイは、アンジェラが、意外に詐欺師としてもスジがいいことを発見する。「さすがはおれの娘だ」。これも、親の本能をくすぐるような話。
◆最近のアメリカ映画では、これから離婚するとかいうような話よりも、もし離婚を問題にするなら、離婚した結果を問題にすることが多い。過去の離婚に対する責任とか、影響とかだ。70~80年代のように暗黙に離婚を推奨するような内容のものは少ない。このへん、90年代から強まった保守的な傾向、レーガンが強調し、そのままブッシュまで引き継がれている家族志向と無関係ではないが、自分でいいと思ったことをやることがファショナブルだった70年代に青年時代を送り、90年代後半に子供を作ったような世代が、いま、別れた子供に対していだいている平均的な感覚やある種の罪責感がハリウッド映画のテーマ的な「売り」になっていることはたしかである。逆に言うと、このへんにいまのアメリカの中年層は弱いということだ。
◆ロイが行くスーパーの、ちょっと若いときのスーザン・ソンタグに似た女性店員キャシー(シェイラ・ケリー)が、ちょっとしか出ないのに、ただものではないなという雰囲気で映る。ロイが彼女を好きなので、そういうふうに映るわけだが、最後にやはりただのちょい役ではなかった役割で登場する。それと、ロイの元の妻が最後の方でちらりと登場するのだが、その顔がこの女性に似ている。クレジットには出ていなかったが、同じ俳優が演ったのだろうか?
◆ロイが、「トロい金持ち」チャック(ブルース・マギル)をだまそうという、相棒のフランクが言い出した「大きな山」に手を出す気になったのも、アンジェラの出現のためだろう。が、そこから思わぬことが起こる。といっても、それは、単に詐欺に失敗するとか、事件に巻き込まれるとかいう展開ではない。おそらく、映画を見なければ、誰も予想の出来ないような展開である。「金融は、字幕のない外国映画のようなものですからね」というのは、ロイが「トロい金持ち」チャックに近づくときの決め台詞。この台詞、映画が終わってから考えると、実に意味深長。
◆最後に、大分時間がたったことがわかる設定でロイとアンジェタとが会うシーンがあるが、これが、『しあわせな孤独』の最後とちょっと似た感じなのが、面白かった。
(ワーナー試写室)



2003-09-09

●しあわせな孤独 (Elsker dig for evigt/Open Hearts/2002/Susanne Bier)(スザンネ・ビエール[スサンネ・ビア])


◆フィルムではなく、ビデオによる映画。アップと画面にディストーションを入れた抽象的なショットが多い。内容との関係でビデオ的なアップの画面は活かされいるが、登場人物が相手を見つめているときにパッと入る超アップのモノクロ的な荒れたショットは、あまり意味があるようには見えなかった。しかし、ソニア・リクターを始めとする出演者は、みな、映画的な(テレビ的ではなく)意味で抜群にうまい。
◆若い男女(セシリ/ソニア・リクターとヨアヒム/ニコライ・リー・カース)がむつまじそうにレストランで食事をしているシーン。ヨアヒムは指輪を出し、彼女にプロポーズする。こういうシーンがトップにあると、そのあとは不幸な事件が起こるというのがパターン。案の定、ヨアヒムは、車から出たとたんに後ろから疾走してきた車に跳ねられ、重体となる。
◆ヨアヒムは、命はとりとめたが全身不随になり、病院生活を始めるが、自分にはもう将来はないとセシリをよせつけなくなる。セシリは、レストランでコックをやり、ヨアヒムは、大学院で地理学の研究をやっていた。ドクター・コースを修了するまじかの事故だった。
◆ヨアヒムを跳ねた車を運転していたマリー(パプリカ・スティーン)の夫ニルス(マッツ・ミケルセン)は、たまたまヨアヒムが入院した病院の医師で、ヨアヒムの事故で人手が足りなくなり、病院に呼び寄せられる。そんなわけで、長時間の手術のあいだ廊下で不安げに待っているセシリになぐさめの言葉をかけることになる。これが二人の出会い。映画の通例として、ここから2人はだんだん接近していくなという予感。
◆ニルスは女好きというよりも、やさしい男なのだろう。彼が、セシリと病院の廊下で初めて会ったちき、彼は、「リンゴ食べます?」と言い、青りんごを彼女に渡し、2人で食べる。「リンゴは血糖値を下げるんです」とニルスが言う。これは、深読みすれが、アダムとイブがリンゴを食べるというのを示唆しているのかもしれないが、そういう月並みなことを考えずに見ると、なかなかいいシーンだ。
◆ニルスとマリーの10代の娘スティーネ(スティーネ・ビュルレガード)は、事故のとき母の車に同乗しており、母親と口論をしていたのを気にとがめている。そのために母がスピードを出しすぎたのではないかと。恋人にふられたばかりということもあり、一家の食卓は非常にナーバスな雰囲気が流れる。そんな家庭に、ある日、セシリからニルスに救いを求める電話がかかる。ヨアヒムがあえて自分を閉ざし、セシリをはねつけ、セシリは心のやり場がなくなったのだった。マリー(事故の加害者でも、それほど深刻にならないのは、責任の所在ははっきりしたのだからそれ以上くよくよしないという制度的なもののためだろうか、それともマリーという女性の性格のせいだろうか?)は、夫に、「是非行ってあげて」という。
◆これ以上は、書かない方がいいだろう。物語のなりゆきは、最初から予想のつく方向で進む。しかし、この映画の面白さは、そういう「ありがち」なパターンでストーリを展開させながら、あきさせず、さまざななことを考えさせるところだ。ストーリーは重要ではない(だから、少しだけ紹介した)。ストーリのあいだで映像的に示される登場人物たちの言葉や仕草のディテールの微妙さ。
◆一例を挙げる。病院で、ヨアヒムの世話をする年配の看護婦ハンネ(ビルテ・ノイマン?)は、セシルが来ると、病人の人権云々ということを言って、彼女を追い出そうとする。そして、彼に食事をさせているとき、非常にしあわせそうである。これは、映画の主題ではないが、こういう仕事をしている女性の心の片隅を見せるような鋭いシーンだ。こういう多義的なショットがたくさんあるところが、この映画の面白さでもある。
◆熱烈な愛の関係とか、愛憎のにえたぎる関係とか、映画が好んで描くドラマティックな関係は、日常生活のなかにもあるが、この映画が最後の方で描く、一見、みんな「孤独」で離れ離れだというようにも受け取れる関係が、実は、最もあたりまえの関係ではないか? 大人の愛がようやく始まる地平に到達したという感じで映画は終わる。その意味で、この映画の邦題『しあわせな孤独』というのは、言いえて妙だ。英語題は、「オープンな心」、原題は、「あなたを永遠に愛している」という意味らしいが、3者のなかでは、邦題が一番いい。最近、配給会社は、邦題に凝るという仕事を放棄してしまった。会社名も小説の題名もカタカナが多いから、原題をカタカナ表記してことたれるとするのがあたりまえとなった。まあ、それでもいいですが、そのとき冠詞を飛ばしたり(『パイレーツ・オブ・カリビアン』)、複数を単数にしたり(『コンフェッション』)、勝手な英語題名(『ビタースウート』→Big Girls Don't Cry)にしたりしないでね。
◆会場となったガスホールは、昔は、試写会場としては、由緒ある場所だった。が、時代には逆らえない。この日、最初のシーンでスクリーンに映る映像の下側が若干切れているのが気になった。スクリーンよりも大きく投射してしまっているのだ。おまけに、映画の途中でケータイのベルが鳴った。その女性は、上映間際に席に着き、紙袋をガサガサと大きな音をたてていじっていた。やばいなとわたしは思った。間際に飛び込んできて、こういうことをする人にかぎって、ケータイのベルを切り忘れたりするのだ。案の定、それから50分ぐらいして、ベルの音。しかし、この女性、ベルを切ると、平然としてメールを読んでいる。一番まえの席でです。下方の切れた画面とケータイの画面から出る光。最低の試写会場。
(銀座ガスホール)



2003-09-04

●フレディ vs ジェイソン (Freddy Vs. Jason/2003/Donny Yu)(ロニー・ユー)


◆待っているあいだグレアム・レヴェルの中途半端にノイズがかったテーマ曲がくり返し流され、うんざり。それでいらだったせいか、最前列からバシバシとシャッターを切っているカメラにも神経が疲れる。しかし、おとなしくルネ・シェレールの『ノマドのヒュートピア』(杉村昌昭訳、松籟社)を読む。彼は書いている。60年代の「『性の解放』の運動のスローガンであった自分の身体を自由に使う権利が、・・・自分の身体を他人の欲望にゆだねることを拒否する権利へと置き換えられてしまった」と。セクハラ意識の過剰な浸透などいい例だ。すでに5年ぐらいまえ、大学で『時計仕掛けのオレンジ』の「無修正版」を見せたら、「先生、あれってセクハラじゃないですか?」と言って来た男子学生がいた。
◆かなり馬鹿にしてかかったが、意外によかった。後半、特にフレディ(ロバート・イングランド)とジェイソン(ケン・カージンガー)との対決のシーンあたりからぐんぐんよくなる。『マトリック』の根底にある「現実」とヴァーチャル世界との「襞」(ひだ/ドゥルーズとガタリの用語でもある)のあいだで描かれた世界といってもよいようなシーンもある。むろん、これは褒めすぎ。
◆どのみち化け物化している『エルム街の悪夢』シリーズのフレディと『13日の金曜日』シリーズのジェイソンなので、どんな出し方も出来る。わたしとしては、スプラッター・ムービー的な惨劇の華麗さと怖さで見せる後者よりも、同じホラーでも、夢のなかに登場するという前者のスタイルが好きだ。「衣装」も、緑と赤の横縞セータに茶色の帽子というサーカス芸人のうような感じがいい。夢と「現実」との境目があいまいになるところが、実際に現実的だと思う。
◆試写会の入口で、試写状を係の人に渡すのではなく、「フレディ」と「ジェイソン」に区別された箱に自分で入れ、あとで集計して人数の多かった方(結果的には「ジェイソン」だったらしい)に入れた人に記念品をくれるとのことだった。わたしは、フレディに入れるつもりだったが、箱の区別がつかないうちに後ろに押され、手前の箱に入れてしまった。
◆最初フレディが若い子たちを震え上がらせる。このへんは、『スクリーム』風。ハイスクール・カルチャー。やがてジェイソンが登場、武器が指に取り付けた刃物という感じのフレディよりも不細工だが強力な剣を持っているジェイソンが暴れまわる。こいつが着けているホッケー・マスクは、「ハニバル」(『羊たちの沈黙』、『ハンニバル』『レッド・ドラゴン』)にも通じる不気味さがあるはずだが、この映画ではただの衣装。なぜ若者を襲うのかがよくわからない。ソンビのように動くものは全部襲ってくるという感じが単純。
◆ローリー(モニカ・キーナ)の父親が妻を殺す殺人現場を見たとかの理由(それもドラマのなかの推理としてぼかされている)で精神病院に4年間も入れられている(のではないか)という2人の青年がおり、問題の父親はその精神病院の医者で、どうやら人体実験もやっているらしいという『カリガリ博士』のようなプロットが出てくるが、つっこみが浅い。『エルム街の悪夢』を抑制するために開発されたらしい「ハイプノール」(Hypnol)という薬の問題も、もっと面白くなるのかと思ったら、それっきりだった。
◆2匹の怪物に追われてローリたちが考えたのが、両者を対決させてしまうという戦略。が、もっぱら夢のなかで襲ってくる怪物(フレディ)をどうやって対決させるのか? 眠りに入り、夢のなかで捕まえ、目覚めてこちら側に連れてくるという発想。これは傑作。とにかく、『エルム街の悪夢』を全編見て、夢のなかで襲う=復讐するという発想を深めてみたくなった。
(丸の内ピカデリー2)



2003-09-03

●ブルース・オールマイティ (Brucve Almighty/2003/Tom Shadyac)(トム・シャドヤック)


◆テーマはいいが、妙に道徳的なところがあって、いただけない。「神様」の話ということになると、アメリカではいたしかたがないのだろうか? アメリカ的プロテスタントの単純さがモロに出てしまう。
◆大味な感じには向いているバッファローが舞台。ニューヨーク州だが、ナイアガラの滝に近いカナダ国境の街だ。わたしも昔、トロントへニューヨークから行き、帰るとき立ち寄ったことがある。冬ということもあり、『バッファロー'66』の冒頭のシーンのように殺伐とした感じだった。主人公のブルース(ジム・キャリー)は、チャンネル7 (WKBW) という実在の放送局のレポーターということになっている。局には、温情派のようでいてしたたかな上司ジャック(フィリップ・ベイカー・ホール――放送局の上役というのははまり役なのだろうか)、競争相手のいかにも陰険なエヴァン(スティーヴン・キャレル)、アンカーをつとめる嫌みなキャリアウーマン風のスーザン(キャサリン・ベル)がいる。
◆ブルースの恋人グレース(ジェニファー・アニストン)は、アメリカでは「古いタイプ」。ペットの犬がいるが、いつも家具におしっこをし、ブルースがいらだつ。しかし、これがくりかえしネタになるので、うんざりしてくる。犬なんかどうでもいいよ。
◆前半は、局でブルースが仕事を評価されず、ライバルのエヴァンにアンカーマンの地位を奪われる話。流れとしては、まず、上昇指向ばかりでエゴイスティックなために、不幸になるというパターンを見せ、その男が、ある事件をきっかけに、次第に他者意識にめざめるという他人を許すということ、他人のために何かをするということに目覚めるという「教養小説」の形式。それだけに教訓じみているとこともある。
◆事件とは、ブルースが神に会ってしまい、しかも、「わたしに不満をいうなら、おまえに神の仕事をまかせるから、やってごらん」と、有無をいわさず神の力を与えられてしまうこと。その「神」をモーガン・フリーマンがリラックスした感じで演じているのはいい。ネクタイからすべて白のスーツ姿がよく似合う。ブルースに「神」の仕事をまかせて自分はバカンスを取るというのも彼が言うと笑える。とにかく、この映画、役者だけはみないい。
◆「神」にできないのは、「自由意志」を左右することだという。しかし、「神」になったブルースが、自分が気にいらない競争相手の声を出なくしてしまうとか、町のヒップホップギャングをやっつけるなどというのは、「自由意志」を侵害しているのではないか? 恋人スーザンの意志を自由に操ることはできないとしても、ギャングだって「自由意志」で悪さをしているのではないか? まあ、そこにキリスト教信仰の勝手なところがある。そういう「悪」の行為は、個人の「自由意志」から出たものではないとするわけだ。だから「神」はそれをただすことはできる。しかし、ブッシュ政権も、イラクのサダム・フセイン政権をまるで「神」のように「悪」と判定し、「審判」を下した。
◆唯一面白いと思ったのは、「神」になったブルースが、どこからともなく、次第に高まり、数を増してくる「祈りの声」が頭のなかでガンガン鳴ってしまい、閉口するくだり。彼は、窮余の一策で、そのデータをパソコンにインプットし、一括処理をしてしまうが、その結果、人々の「祈り」がことごとく実現される代わりに経済や気象が異変をきたす。ここにも、ポピュリズム好みの技術否定主義(いまの技術はそんな単純ではないのに)が見え見えだが、信仰や祈りなどというものは、むしろ、そういう方法で解決した方がいい。かつてカフカは彼の書くという日常作業を「祈りの一形式」と呼んだが、現代人にとってパソコンやケータイは、「祈り」の形式の一つにほかならない。そういう面をカバーできない宗教は、宗教としてもダメなのだろう。
◆何がダメというより、何が反動的かというと、神が、「汗のにおいをさせているものこそ幸せなのだ」と言うように、基調がアメリカン・ポピュリズムなのだ。レーガンからブッシュ・ジュニアに引き継がれたイデオロギー。バッファローという特定の地域に限定し、その町起こし的な要素もあるが、ハリウッド映画で「バッファロー」と言う場合、バッファローは地方都市の象徴的な意味で使われる。ブルースが町のファミリー経営のクッキー屋を訪問インタヴューする最初のシーンから始まるは、最後に町の人々が結集するシーンでしめくくられる。地域万歳というわけだ。しかし、規模の小ささやローカリズムなどとは根本的に矛盾するハリウッド映画がローカリズムを推奨するというのも矛盾している。そして、そういう映画が、「公開3日間で6,795万ドル」を稼ぎ、「公開3日間の興行収入はコメディ映画の歴代1位」というのだから、こういう発想がいまのアメリカでは受ける――いかえれば、現実はそうはなっていないので、「夢」やあこがれとして機能しうるということだ。
◆重要なのは、レーガン時代のポピュリズムの再燃に対して警告を発したイギリスの批評家ダンカン・ウェブスターが言ったように、ポピュリズムのなかにノスタルジアではなく、現在から目をそらさせるために「過去の戦略的な総動員」を洞察することである。もう誰も、「地域」や「土地」や「額に汗する労働」や「核家族」や「キリスト教的神」が有効だとは思ってはいない。すべては(「ネット・バブル」にもかかわらず)グローバルな情報経済で経済や政治が動いているにもかからず、それがあたかもそうではなく、またそうであるべきでもなく、「かつて」ちゃんとした生活やモラルが持続し、人々が「平和」であった時代があったかのごとく言いくるめる、あるいは妄想するポピュリズム。いまのブッシュ政権の発想はこれである。
◆戦争とは、基本的に反地域主義である。現代の戦争は、ますますそうである。だから、イラクで戦争をしているアメリカが地域主義など称揚できる立場にはない。むしろ、グローバルなレベルでの抜本的な決定や変革をいいかげんにするために、一方で地域や「民衆主義」(ポピュリズム)を観念とイメージのレベルでだけあおり、それを実行しないですませるために戦争をする。そういえば、アメリカの戦争は、地域主義でもっている。地域ごとに兵士を出すのだから。
◆ふと思い出したが、同じジム・キャリーが出ている『マジェスティック』を、「ハリウッド・ポピュリズム」の系列に属するものと解釈する者がいる。「ハリウッド・ポピュリズム」の古典たる(と一応言っておくが、いま見直せばそうも言えないかもしれない)フランク・キャプラ(『スミス都へ行く』、『群衆』、『素晴らしき哉、人生!』)に関連づける解釈だ。しかし(と、ここで気になったのでDVDで見直してみた)、それは誤りである。この映画は、アメリカの小都市が戦争でいかに多くの若者を失ったかということも描いているが、それ以上にマッカーシイズム(ちなみに辞書ではMcCarthyismを「マッカーシズム」と表記しているが、発音のまちがい――英語では通じない)批判の映画であり、国家が個々人を一つのことに動員し、拘束してしまうことへの批判である。そして、この映画は、記憶の問題を感動的に描いた映画の一つである。
◆レストランのシーンで、ちらりとトニー・ベネットの姿と歌声に接することができる。
(UIP試写室)



2003-09-02

●女はみんな生きている (Chaos/2001/Coline Serreau)(コリーヌ・セロー)


◆今年見たなかでは5指に入る。映画は、時間のなかでの体験だから、アクションが活きるのは当然としても、時間のなかで人の考えや感覚が変わっていく過程を描くのに向いている。それは、決まった役割がプログラムされた動きをしてスペクタクル的に動きを見せるよりは、何かを体験したという気にさせる。むろん、その変化が納得できず、拒絶反応を起こしてしまう場合もある。この映画の場合、最初のコンセンサスとして、身勝手な忙しさへの批判が提起される。
◆冒頭、いきなりサンジェルマンの「ローズ・ルージュ」が鳴り出したので「おう!」と思った。リュドヴィック・ナヴァールを中心にライブバンドとミックスでかっこいい音楽を聴かせるサンジェルマンのこの曲(BLUNOTE『TOURIST』所収)は、少しまえまで、レコード店ではもとより、いろいろなところでかかっており、あまりにポピュラーなので、この映画との関係を知らなかった。「ローズ・ルージュ」でリミックスされているマレーナ・ショウのボーカルの歌詞が "I want you to get togehter...put your hands together one time"だから、この映画のテーマと無縁ではない。ところで、2枚組のBLUNOTEのこのCDには、別のバージョンの「TOURIST」が3曲入っているが、大したことはない。このバンド、わたしの意見では、そう高くは評価できない。「ローズ・ルージュ」は、もっぱらマレーナのヴォーカル(モントルー・フェスティヴァルのときの)に負うところ大である。
◆パーティか何かに行くらしい中年の男女(ヴァンサン・ランドンが演じるポールとカトリーヌ・フロが演じるエレーヌ)が車を走らせている。路地に入ったとき、アラブ系の娼婦っぽい女が必死で走って来て車をふさいだ。車を停めたが、あわてて窓をロックするポール。女は車のなかに救いを求めるが、追いついたやくざっぽい男たちに殴り倒されてしまう。エレーヌは降りて助けようとするが、ポールが制止する。男たちが去ったあと、降りて介抱しようとするが、ポールは、血がついたフロントグラスを気にし、早く洗車しなければと言う。エレーヌは唖然とするが、車に乗ろうとしないエレーヌを残してポールは車を走らせる。エレーヌは、瀕死の状態の女(ラシダ・ブラクニ)ために救急車を呼び、家族と偽って病院までつきそう。短いしゃきっとしたイントロ。
◆パリの北駅あたりか、列車から一人の老婆が降り立つ。リーヌ・ルノーだ。え!?と思ったのは、彼女は、わたしがシャンソンを聴いていた時代には、イヴ・モンタン、イヴェット・ジロー、ジルベール・ベコーなどとならぶ大物のシャンソン歌手だったからだ。わたしは、もっぱらリッシェンヌ・ドリールが好きだったので、あまりルノーは聴かなかったが、『サ・セ・ラ・シャンソン』というLP (東芝 HV 1037, 1058, 1043)で彼女の「カナダのわたしの小屋」や「パリの空の下」や「フル・フル」なんかを聴いたことがあった。(いま、ひっぱり出して聴き直してみたが、「フル・フル」は悪くない)。
◆ルノーは、それから街のホテルに泊まり、それから息子ポールの住むアパルトマンに出かける。そこでは、ポールとその妻エレーヌが、あわただしく出かける支度をしている。そこへベル。ポールは、エレーヌにいないように言ってくれと合図し、湯浴室に隠れる。都会人によくありがちなパターンだが、性格はよく出ているシーン。母親は、土産の油を置いて淋しく帰るが、階下の出口のところで、ポールが階段から降りてくるのを感付き、さらに淋しげな顔をする。同じパターンをエレーヌがくりかえす。彼女は、夫に合わせながらも、そういう自分勝手で能率主義の生活に疑問をもっているらしい。息子ファブリス(オレリアン・ウィイク)が泊まり込んでいる恋人フロランス(クロエ・ランベール)のところへ訪ねていくが、息子は、父親と同じように居留守を使う。外に出たエレーヌがビルを見あげると、窓に息子の影。そのとき義母を思ったどうかはしらないが、よくあること。
◆こういうのって、どうなんでしょう? 都会人の忙しさとか個々人の不信を非難するよりも、家族とか血縁という関係の問題を考えなおした方がいいのではないだろうか? 人のタチが悪いために不信な行為をするのではなくて、親子だから、恋人同士だから信頼すべきだといった定見を疑ってかかるべきなのでは? そういうのが安定的に持続した時代もあったかもしれないが、もう、そういう関係を自然発生的な信頼すべきものとして前提すること自体が不可能なのでは? まあ、この映画は、そこまでは割り切ってはいないようだが、最後のシーンは、もう異性愛の親子と子供という組み合わせの家庭なんかいらないということを示唆しているようにも見える。
◆老母が街のドトールのようなセルフサービスの店で時間をつぶすシーンがある。終わって食器を片付けたあと、紙ナプキンを捨てずにハンドバッグのなかに入れる。これは、何を意味しているのだろうか? この女性の性格描写? それをあとで使うというような性格の人だということか?
◆翌日からエレーヌと昏睡状態の女との物語が始まる。やがてその女はノエミといい、アルジェリアからやってきて、売春婦をしているのだった。彼女がどうして売春婦になったのか、彼女が育った北アフリカのアラブ系家族の生活・習慣、彼女とヤクザ組織との関係、彼らが女たちを「調教」する手口等々がいささかドラマティックに描かれ観客を飽きさせない。しかし、この方向でつっぱしってしまうと、この映画、ただのエンターテインメントになってしまうが、これだけの物語性をそなえながら、そうならないのは、社会に対するしっかりした批判的目があるからだ。
◆いまでは、やや古い感じの「女性の連帯」路線も根底にある。エレーヌ、息子の2人の恋人フロランスとシャルロット、そしてポールの老母とのあいだに、男たち(女がいないと生活できない)への失望と軽蔑、そして連帯が生まれる。ノエミは、そういう関係にドラマティックな色をそえる。
◆カトリーヌ・フロとラシダ・ブラクニが猛烈うまい。
◆アラブ系家族のマチズモが批判的に描かれている。結納金目当てに娘を嫁にやる親。
◆ポールの書斎にかかっている「福」という文字の書は、明らかに逆さに掛けられている。字も朱印の位置も上下反対だ。海外に行くとこういうのを見ることがあるが、映画は、そういう「ありがち」な風景としてわざと逆さに掛けたのだろうか? それとも、セットのスタッフがわからなかったか?
◆【追記/2003-09-14】この件について、シンガポールの読者の方から親切な以下のようなご教示をいただいた。こういう意見はありがたい。感謝。
いつもたのしくCinemaNotes拝見させていただいています。さて、9/2の『女はみんな生きている』の記述の中で「福」の字が逆さだった、ということが書かれていましたがあれは間違っていたわけではなく、掛詞になっています。逆さになった「福」、つまり「福」が倒れた状態を中国語で「福倒了」といいます。これとまったく同じ発音で「福到了」と書くと「福がやってくる」という意味になります。同音異義の言葉に引っ掛けて福が来ますようにと願をかけているわけです。こちらでも時々みかけます。ちょっとお節介かと思いましたが、ご参考まで。
◆会場は、アスミック・エースの竹内さんが汗をかきながら席を作るほど観客が集まったが、補助席でわたしの横にすわった人が、ノエミがひどい目にあうようなシーンになると、決まって指をポキポキやるのにはまいった。いろんな人がいるねぇ。
(メディアボックス)



2003-09-01

●厳流島 (Ganryujima/2003/Chiba Seiji)(千葉誠治)


◆受付で渡された縦長のプレスの表に縦書きの筆文字で「果たし状」と書かれていた。そうか、こっちに喧嘩を売るのか、と思ったが、映画は腰くだけだった。試写会の常連の姿があったが、みな期待を裏切られたのではなかろうか?
◆解釈に新味を出そうという心がけはいいが、やたらアグレッシブに暴れ回る宮本武蔵(本木雅弘)というのも、飛躍しすぎだ。この映画の一番の仮説は、武蔵は、本当に佐々木小次郎(西村雅彦)と闘ったのかという点。 彼は、『五輪の書』にも一切その闘いについて記述してないという。 その謎へ一つのアプローチを加える。佐々木が、細川藩の陰謀で殺されたという設定は面白いし、ありえるが、武蔵の人物像のとらえ方に難がある。
◆わたしの高校のときの「ライオン」という名の西洋史の教師が、「ナポレオンなんて、偉人と言われるが、親でも平気で殺すような男ですよ」と言ったのがいまでも思い出される。歴史上有名になるような権力者にろくな者はいないというのだ。たしかに、武蔵は殺人機械だった。『五輪の書』なんて、所詮は人殺しの方法とそのうしろめたさをいかに解消するかを説いた本だ。そういう人物が、この映画のなかの武蔵のように、平気で村の娘を強姦したり、それをとがめた娘の兄を撲殺しても不思議ではない。しかし、物語には順序というものがあり、この映画のような描き方だと、歴史像としての宮本武蔵を飛び越えてそれを真正の武蔵だと納得するのが難しい。
◆彼は、厳流島へ船で送った船頭の助蔵(田村淳)に櫂(かい)で打たれ、意識を失い、覚めてみると人柄ががらりと変わる。武蔵が殺人マシーンであったことは事実だとしても、ただ狂った猛犬のように暴れ回る全般のシーンは説得力が薄い。後半、意識を取り戻したあとの武蔵像は、2本の剣を下方に垂らし、ただならぬ目をして描かれている有名な武蔵像に通じるものが感じられるが、全般はダメ。
◆妙に物分かりがよく、紳士的な佐々木小次郎の方が武蔵より面白いのは、小次郎に焦点をあてて描かれることが少ないからだろうか? そういう役を西村雅彦が演っているのがいい。
◆強姦したあげく、武蔵が「飯を持ってこい」と命令すると、女は握り飯を用意するが、そのなかに何かが忍ばせてあったらしく、武蔵は下痢がとまらなくなる。ユーモアのつもりだろうが、こういうのはばかげている。そういうとき、人はあえて我慢をするものであり、それをくりかえし「ブーブー」という音を聞かせ、武蔵をあわてふためかすのは意味がない。そういうレベルの映画かという判断だけが残る。
(東宝試写室)


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