粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-03-31

●大いなる休暇 (La Grande Séduction/2003/Jean-François Pouliot)(ジャン=フアンソワ・プリオ)★★★3/5

La Grande Séduction
◆カナダのケベック州のどこかにあるかもしれない架空の「サントマリ島」の話。かつて漁村として栄え、人々は、労働の(あとの)喜び(冒頭でのその描写が笑える)を知っていた。しかし、いまは、主要産業がなく、人々は年金で生活している。そこへ、工場の誘致の話が来る。が、そのためには、島に医者がいることが基本条件。そこで、人々は、町長のかけ声で医者の招聘作戦を開始する。半分「だまされて」来島する若い医者(ただし整形外科医)と町民とのやりとりが可笑しい。そして、それが単なるどたばた喜劇に終わらず、コミュニケーションや信頼や友情や愛の問題への射程を含んでいるところがこの映画の見どころ。
◆異邦人が来てみたら・・・という話は、いろいろあると思うが、わたしが真っ先に思い出したのは、なぜか、ジャック・フェデーの傑作『女だけの都』(La Kermesse héroïque/1935/Jacques Feyder) だった。これは、17世紀のフランドル地方のある小都市(「都市」といっても、同時は都市ごとに城壁をもち自律していた)にスペイン軍(当時のスペインはいまのアメリカみたいなもの)が一時滞在するということになり、そうなると「暴虐」で鳴るスペイン軍に町が蹂躙されるかもしれないというので、町の男たちが全員隠れ、女たちだけでスペイン軍を迎え、「平和」裏にことを運ぼうという戦略を立てる。フランソワ・ロゼーが市長夫人を演じていたが、喜劇でもあり政治的寓意劇でもあるなかなかの作品。
◆もう一つ思い出すのは、『トゥルーマン・ショー』だ。招かれた医者クリストファー(デイヴィッド・ブータン)は、自分が招かれたことにどんな魂胆があるのかを知らないし、彼の行動がすべて「監視」されていることも最後のほうまで知らない。ある種「トゥルーマン」状態に置かれるところがこのドラマの核心になっている。が、トゥルーマンとちがって、クリストファーは、島を脱出しない。ここは、抑圧の島ではない。人々がどうやって共生していくか、働く喜びをどうしてとりもどすかが問題なのだ。
◆『トゥルーマン・ショー』は、監視社会、なんでも商売にしてしまうシステム、個人の生涯までもコントロールしようとする動向を批判的に描いていたが、その代案は描かれていなかった。その「島」を脱出したトゥルーマンに果たしてその世界をこえた自由や解放があるかどうかの保証はない。が、「サントマリ島」は、人が働く意義を見失い、エリート以外は働かないでじっとしていてほしい(できれば早く死んでほしい)といういまの「デバイド」社会に対する代案が示唆されてもいる。
◆工場の誘致は、それほど成功するわけではない(その意味で、この映画は工場の誘致→産業の発展→島民の生活向上→万万歳といった路線では全くない)することようだが、そのかわり、それまでいやいやこの島に住み、関係もぎくしゃくしていた島民は、一人の「マレビト」を招くことによって結束し、相互の交流をとりもどす。そういう方法もある。しかし、これって、日本でも、外国人教師や「異国の花嫁」を迎えることによってやってきたことではないか?
◆町長を演じるレイモン・ブシャール、銀行から派遣された「小役人」(「ATM」とばかにされている)のブノワ・ブリエール、「謎」の美女を演じるリシー・ロリエ・・・それぞれ個性的なキャラクターとそれにふさわしい役者を適材適所に配置。楽しめる。
(メディアボックス試写室)



2005-03-30

●やさしくキスをして (Ae Fond Kiss...,/2004/Ken Loach)(ケン・ローチ)★★★★4/5

Ae Fond Kiss...,
◆ケン・ローチは、イギリスの特定の社会的・政治的コンテキストに深く根ざしながら、手ごたえのある作品を作りつづけている。本作も、グラスゴーにロケーションを設定し、親の代にイギリスに移民したパキスタン人の二世の青年と、アイルランド系の女性との出会いを描く。「世俗化」されたイギリス人女性ロシーン(エヴァ・バーシッスル)にとって、イスラム教と伝統的な風習にしばられた家族と深いつながりをもつ青年カシム(アッタ・ヤクブ)は、知れば知るほど納得のいかないことだらけ。結婚は「見合い」が当然だと考えるカシムの両親。それを隠しながらロシーンとつきあうカシム。やがてその矛盾は露呈する。しかし、それだけの話ならいくらでもあるし、メロドラマの格好の素材だ。ローチは、そんなレベルにとどまらない。一見、「自由」で「個人」が自律しているかに見えるイギリスでも、一枚皮をはがすと、そこにはさまざまな(とりわけ宗教にもどづく)旧弊が生きている。
◆移民二世の苦悩と苦労がよく出ている。家では両親の「伝統的」慣習につきあい、外では、(何せカシムは、クラブDJなのだ。ある意味でファッショナブルな世界にいて、家では慣習にしばられざるをえない。そういうとき、人はどうするか? 嘘も方便が常習になる。が、西欧人が恋人関係になると、(日本では想像できないくらい)嘘が悪なのだ。その意味では、西欧人は「純粋」で「素直」である。とりわけ、西欧を純粋培養したようなアメリカ人は、そう言っちゃ失礼かもしれなが、おどろくほど「純粋」だ。だから、ちょっと浮気したからといって、別居だ離婚だとなる。しかし、西欧社会に住むエスニック・ピープルはそうはいかない。
◆ケン・ローチのすばらしいところは、イギリスに移民した人々の苦労と屈折を十分理解していることだ。だから、彼は、カシムの両親のかたくななまでの慣習への執着を批判しない。パキスタン出身の彼らが、西欧権力によるインド/パキスタン分割政策がいかに残酷なものであったかにも言及する。「カシム」はカシミールと関係があるのだろうが、インドとパキスタンの権力が重なりあうカシミールの紛争(1947年)は、今日のイラクを先取りしていた。カシムの父は、カシミール紛争で双子の兄弟を失っている。そういう苦渋をなめたすえ、イギリスに移民したのだ。それだけに、故郷の慣習には深い執着を見せるし、同郷人どうしの結束もかたい。
◆キリスト教圏では、「教区」というのは依然として存在する。プロテスタントでも、結婚とかになると、教区の牧師の存在を無視することはできない。それは、日本の寺の檀家とか宗派の問題以上に強烈だ。とりわけ、それがカソリックになるとなおさらで、ロシーンは、最初は気づかなかったのだが、そのことを強烈に思い知らされる。日本では、公立の学校でも、昇進や就職のときに檀家の証明を必要とするなどということはないが、イギリスのカソリック校では、1918年に制定された法律があって、正教員になるためには、教区の司祭が、その人物の信仰度を証明するサインがいるという。ロシーンが、イスラム教徒のカシムとつきあっていたことを把握している(そのへんが怖いところ)教区の司祭は、このことを突いてくる。「もしサインがほしいのなら、あの男とつきあうのをやめるか、プロテスタントになるかどちらかだ」と司祭が言うシーンはすごい。
◆こういう映画を見ると、宗教に関しては、日本は「自由」だという気がするかもしれない。しかし、日本の本当の「宗教」問題は、仏教やキリスト教などではなくて、天皇制だということを考える必要がある。あなたが強烈な反天皇主義者であったとしたら、職場や結婚やその他さまざな場面で猛烈な困難に直面するだろう。こういう本当の現実を、この映画のように、一見どこにでもあるラブストーリーのよそおいをまぶしながらドラマ化した日本映画はまだないと思う。『新しい神様』や『PEEP "TV" SHOW』の土屋豊は、そういう可能性を持った監督だと思うが、そういう映画を作らせる会社は日本には皆無だろう。
◆反天皇制のことになると、勢いが出てしまうので、もう少し書くと、反天皇制はかならずしも反天皇「家」というわけではない。「家」は勝手にすればいい。問題は憲法にまで書き込まれてしまっている天皇「制度」だ。生きた人間が(「国民統合」の)「象徴」になっている国って、おかしくない? それに、「国民統合」というけれど、国家として「統合」される以前から、「国民」がいるというのもおかしい。「国民」以前に「人々」(人民)がいないんだよ、日本には。このへんに興味のある人は、わたしの『電子国家と天皇制』(河出書房新社)を読んでほしい。これもデジタルで読めるが、スキャンしたままで校正していないので誤植が目立つ。
(シネカノン試写室)



2005-03-29

●樹の海 (Jukai The Sea of Trees Behaind Mt. Fuji/2004/Takimoto Tomoyuki)(瀧本智行)★★★3/5

Jukai The Sea of Trees Behaind Mt. Fuji
◆エピソードを重ねるやりかた。個々のエピソードを独立したドラマとして見ることもできるが、エピソード間にちらりと出てくるすれちがい程度の相互関係が、この映画が考えている状況をたくみに暗示する。
◆オープニングに「JUKAI」と出てきながら、なぜ「樹の海」なのかはわからないが、言わずと知れた「富士の樹海」(青木が原樹海_を舞台とする話。そして、「富士の樹海」とくれば、当然自殺がテーマである。しかし、冒頭に出てくるエピソードの主人公(萩原聖人)が、全体の基調視点になっている。彼は、自殺するためにここに来たのではなく、ある事情で連れてこられたのだった。だから、彼の存在は、他の登場人物とは違う。
◆今日、死にはさまざまな形がある。ヤクザに脅されて公金を横領し、口封じに殺されゴミのように捨てられる死。金や病気に追いつめられる自死と病死。「わたし、どうしたらいいの?」という果てのニヒリスティックな死。失恋しての自殺。そして、自殺に失敗する者と目的を果たす者。しかし、かつてアドルノが『プリズメン』(ちくま学芸文庫[題名は「さまざなプリズム」という意味]のなかでカフカにたくして言ったように、「アウシュヴィッツ」以後の現代人は、本当には死ねない存在になりはてた。
◆「ファシズムの強制収容所においては生と死のあいだの境界線が取り払われた。そこでは生きている骸骨と腐りつつあるものの中間状態、自殺に失敗した犠牲者、死の根絶への希望を嘲笑(あざわら)うサタンの哄笑などが産みだされた。カフカの倒錯した叙事詩におけるように、そこでは、その最後まで生き切られた生というものは滅びたのだ」(同上、436ページ)。
◆あくどいサラ金の取り立て役のヤクザを演じる池内博之の出るエピソードは、最初わざとらしい感じがしたが、話が進むにつれて、ケータイを巧みに使ってなかなか泣かせる話になっている。樹海などに来るつもりがなかったヤクザが、取り立てのために樹海までやってくる。相手の女性は、樹海にいてケータイで彼と結ばれている。
◆妻のある男を愛し、結果的にストーカーの罪に問われた女性(井川遥)が、すべてに不信感をいだき、おそらくはキャリアウーマンであったはずなのに、いまでは郊外の駅のキオスクで働いている。金の授受に際しても、手袋をし、トレイごしにしか客と交わらない彼女。潔癖症という名の人嫌いと世界への絶望。その彼を救うのが、ちょい役ながら大杉漣演じる心やさしいサラリーマン。ちょっとした気づかいが人を救う。
◆津田寛治と塩見三省が登場し、自殺した女性を回顧する章に、ワールドカップのときはよかった、万博のころは、国中の者が連帯感を持てたというせりふがあるが、これは、けっこうこの映画の長所にも弱点にもなっている基礎部分。「遅れて来た」全共闘・瀧本智行(1966年生まれ)のこだわり。万博のころ世にスネていたわたしとしては、とてもそんな楽観論には賛成できないし、じゃあ、なんで「万博」への参加をめぐって美術界に激論があったのかということが全く忘れられている。が、そんなことを問題にすると、この映画のいいところが飛んでしまうのでやめる。この映画がこのことで言いたいのは、いまの時代の孤立感であり、それへの代案を示唆することなのだから。
(シネカノン試写室/ビターズ・エンド)



2005-03-28_3

●オペレッタ 狸御殿 (Tanukigoten operetta/2005/Suzuki Seijun)(鈴木清順)  ★1/5


◆【追記/2005-06-04】「ハードでルーズな生活の日々」氏が、この「酷評」を読んでくださり、「期待しないで」観に行かれたら、「案に相違して楽しかった」とのこと。そうでしょう。批評は、単に一つの(しかもその批評者のある時点での)感想にすぎません。ここでいかに「酷評」されていても、またその逆にいかに褒めちぎられていても、その通りとはがぎりません。とにかく自分の目で見てみないことには。「硬派」の雑誌や新聞(最近は非常に少なくなりましたが)の映画評や書評は、「大きい作品」に対しては、基本的に「悪口」で、それによって、「この作品は見なくてもいいか」と思わせるのがねらいのような傾向があります。「シネマノート」は、そういう路線とは違います。この日はノレなかったというだけ。もう一度見る機会があったら、ちがう意見を書くでしょう。ネットとはそういうもの。
◆【雑感】ハシゴをするので京橋から銀座まで地下鉄に乗る。昨年から「・・・もさることながら、・・・も捨てたものではない」というパターンのポスター広告が目につく。言うなれば「手近で済ませるジャパネスク」。かつての「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンも、その時代の空気とリンクしていたが、なんか、「ナショナリズム」へ行くにはいやおうなしの「国際化」を意識せざるをえず、といって本格的な「国際化」も居心地悪いといったいまの時代のふんぎりの悪さがでている。
◆【寸評】高齢の「巨匠」のぜいたくな遊びにつきあわされたという印象。その「ぜいたく」も本当にぜいたくなら、ふだん体験できないことをしたという稀少感は残るが、そうでもないので、なんか「もったいない」という気持ちだけが残る。
◆「オペレッタ」と銘打っておきながら、ソングがおそまつ。どれ一つとして、心に残るソングがない。プロダクション・デザイン(木村威夫)も、凝っているようでいて「安手」な印象をあたえてしまう。そういうなかで薬師丸ひろ子は凛(りん)とした演技をしていた。鈴木清順だからこんな作品でも出たにちがいない(そうでもないか)チャン・ツィイーが、この映画ほど、「シアワセ」そうな顔をしているのを見たことがない。適当に遊んでいるのだが、でも、足の動きなんかは、この女優の凄みをちらつかせる。しかし、それを映画がいかしているわけではない。
◆笑えるはずのシーンが、笑えないというのは、俳優もそれだけのびのびとは演っていないということであり、演出の「オペレッタ」感覚がボケているということだ。
◆チャン・ツィイー、薬師丸、由紀さおり、市川実和子は、いかされなかったとしても、転んでもただでは起きないしたたかさを見せたが、山本太郎もパパイヤ鈴木も、全然本領を発揮できなかった。パパイヤは、踊りのプロなんだから、踊りのシーンであのていたらくはない。結局、全体としては、平幹二朗がこれまで舞台で演ってきたトーンなのだ。
(ヘラルド試写室/日本ヘラルド)



2005-03-28_2

●Little Birds リトルバーズ (Little Birds/2005/Watai Takeharu)(綿井健陽)  ★★★3/5

Little Birds
◆【寸評】イラク戦争勃発直前の2003年3月から、アメリカ軍の侵入と「連合軍」の占領が進む2004年4月までのイラクの民衆の姿を映す。断片的にテレビで放映された部分もあるので、その記憶をよみがえらせながらこの映画(むろん元はビデオ)を見ると、日本のテレビが、いかにアメリカ/戦争批判の部分をマイルドにして放映しているかがわかる。が、他方、アメリカのイラク侵入と占領への批判が一般メディアでも強まっている現在の時点でこの映画を見ると、「悲惨さ」を見せるだけではなく、この状況を(乗り越えることはできなくても)せめて「異化」するようなパートがほしかった。観客は、この映画からアメリカ軍へのいきどおりや戦争の不条理を感じるだろうが、これでは、かつてブレヒトが言った意味での「メロ」にとどまってしまい、観客をアクションに駆り立てるところまではいかない。
◆しかし、各所に出てくるクラスター爆弾の不発弾や残骸の映像は、アメリカがイラク戦争でいかに多くのクラスター爆弾を使用したかを暴いている。
◆ドキュメンタリーの一つの方法なのだろうが、最初非常に多様なショットでイラクを活写しながら、後半、イラク戦争で3人の子供を失った父親、いずれも民家への攻撃で片目の損傷した少女、への密着映像が中心になり、見る側は、批判よりも同情の意識へ傾いていく。「同情」→「支援」というアクティヴズムの方向もあるが、映画のなかでかきたてられる「同情」は、不条理へのあきらめに自閉化する傾向がある。「ビデオジャーナリズム」から「ビデオアクティヴィズム」への飛躍を!
◆さまざまな目的、注文にしたがって撮られたビデオ映像をかき集めたという感じがあるが、むしろ、そうした「かき集め」(ブリコラージュ)に徹し、「ドラマ」を作らないほうがよかったのではないか?
(映画美学校第2試写室/バイオタイド)



2005-03-28_1

●花と蛇2 パリ/静子 (Hana to hebi 2/2005/Ishii Takashi)(石井隆)  ★★2/5

Hana to hebi 2
◆【近況】ニュージーランドのオークランドへ行っていて、試写会通いを2週間も空けてしまった。「re:mote」というイヴェントによばれ、例によって話とワークショップとパフォーマンスを演ってきた。この国は、2003年6月に「売春改革法案」が議会で可決され、オランダについで(オーストラリアは2州)売春を合法化し、ポストサービス化の先端を走ることになった。あいにくその実情を調べる暇はなかったが、この動向と連動するかのように、ラジオ放送が猛烈活気づいていた。こちらも規制緩和が超進み、国籍を問わず、オークションで放送免許が買えるのと、0.5ワット以下ならば、何の申請もなしに電波を出せる。だから、ラジオは、いま、イタリアの70年代後半の雰囲気。帰国してあいかわらずライブドアー/フジテレビ問題が過熱しているのを見たが、この特殊性の背景には、日本では、50年以上も放送電波が決まった会社に独占され、新規参入の余地があたえられていないという特殊な実態がある。このことに触れると、各社もみずからの首をしめることになるので、全く触れないが、堀江氏の意図がマネーゲームだけではなく、「ネットと放送の融合」にあるのだとしたら、免許を取って新たに放送局を立ち上げてしまったほうが簡単だ。しかし、それができないのが、日本なのである。変な国。
◆【寸評】2004年に杉本彩を決定的に印象づけた『花と蛇』の「杉本彩・石井隆・団鬼六」組プロジェクトの第2弾。もともと団鬼六の世界は、「口実」で、杉本彩の肢体と体当たり演技を見せるパフォーマティヴな映画だが、今回は、その杉本依存がさらに加速し、プロットもドラマの背景も、杉本の裸体を露出させ、センシュアルなパフォーマンスを演らせるための「ジラシ」にすぎないというポルノ映画などによくあるパターンに陥っている。杉本は、あいかわらず「熱演」だが、こんな中間的な作品に出るなら、ハードコア・ポルノと「芸術」作品との両方をこなせるという、ユニークな女優のポジションをつくったほうがいいのではないか?
◆緊縛の手順を見せたりもするが、みな頼りない。画壇の巨匠ににらまれてパリに移り住んだという画家(遠藤憲一)と杉本とのからみが見せ場になっているが、遠藤が杉本の裸体を撮るニコンの(けっこう高級な)デジカメの使い方がめちくちゃ。あんなやりかたでは手振れで絵にならないし、レンズの口径からして、そんな接近距離ではボケボケになってしまうような構えがあまりに多い。カメラもまた単なる小道具にすぎないわけだ。
◆杉本は、親子ほどの年令差のある美術評論家(宍戸錠)の妻を演じるが、「お夕食めしあがりました?」とかいう杉本の敬語の使い方が実にうまい。これは、台本のせいというより、杉本の感性と素養の問題だろう。宍戸は、彼でなければできない演技は全く見せていないが、杉本は、尊敬し、愛しながら、他の男との愛や猟奇的な愛への欲望を隠さない(が、それが妙に「自然」に共存してしまう)「大人」の中年女を演じ、余人をよせつけない。
◆絵の真贋の問題が出てくるが、絵に描かれた性器と「本物」の性器とをくらべてその真贋を判定するといったばかげたシーンがある。これでは、絵はすべて「クソリアリズム」で描かれていることになってしまうが、それよりも、そういうシーンで、肝心の性器がすべてぼかされた形でしか観客には見えないのだから、実にばかげていると思うのだ。そういう意味では、ポルノ映画をばかにした作品でもある。
(東映試写室/東映ビデオ)



2005-03-14

●真夜中の弥次さん喜多さん (Mayonaka no Yajisan Kitasan/2005/Kudo Kankuro)(宮藤官九郎)  ★★★★4/5

Mayonaka no Yajisan Kitasan
◆十分余裕をみて来たが、六本木1丁目から歩き出したら、「ニコラス」が50周年だというので、ちょっとのぞいたりしていて、現場に到着したのは、20分まえだった。が、今日は開映時にも席が空いていた。この試写室に来ると、わたしは、毎回、変な方向に歩きだし、会社の人をあわてさせる。先週、『プライド』を見たあと、銀座から六本木まで足の延ばし、この作品を見に来たが、40分あったので、ABCで本を見て、20分まえに行ったら、満席になっていた。「満席」が続いたので「追加試写」をやるというFAXをもらっていたのだが、半分冗談だと思い、油断したのだ。おかげで時間が空いてしまったので、しばらくごぶさたしている「新北海園」に行き、おいしい料理を食べさせてもらった。それはそれで悪くなかった。
◆宮藤官九郎の才能とひらめきが開花した作品。少なくとも中盤までは、天才的なテンポで進む。が、なぜか、場内はそれほど沸いていない。しりあがり寿の原作がなければ出来なかった作品であろうが、原作の波長が倍音的にレゾネイトし、クレイジーで「軽薄」でキャンピー(campy)な独特のレゾナンスを生み出した。これでもか、これでもかと打ち出される映像的・プロット的なシュールな飛躍も、しっかりした認識論にうらづけされており、脳と肝を同時にくすぐる。脚本・監督の宮藤官九郎は、松尾スズキの「門下」だが、先日わたしがコキ下ろした『イン・ザ・プール』で松尾が出したかったのも、こういうタッチではなかったろうか?
◆今回、アスミック・エースの宣伝部から「!ネタバレ注意!」なる詳細な注意書きを渡され、ディテールには触れられない。このサイトは、宣伝部に義理立てする必要はないのだが、邪魔をする気もないので、それに従うことにする。まえにも書いたが、文章と映像とはメディアがちがうのだから、体験も異なるわけで、文字で書いたから映像を見たときつまらないというような映画はダメな映画だと思う。ただし、この映画は、「注意書き」に書かれている「ネタ」をばらしたとしても、それで面白さが半減するようなヤワな作品ではない。
◆「ネタバレ」を恐れるのは、実際には、作る方ではなくて、見る方の自己規制である場合が多い。露出が多いからいかがなものかとか、教育上これは・・・といった感性と似たようなものだ。よく、映画の話をしていて、「ああ、もう言わないで、見るときの楽しみがなくなるから」とか言う人がいる。それなら、最初から映画の話なんかに加わらなければいいと思う。そういう場合は、こっちの話がノっていて、相手を見たような気持ちにさせているときなのだが、何もこちらと同じ目で見る必要はないのであり、「あんたがそう見ているのなら、わたしは、別の見方をしてやろう」と、自分の目で見ることにかえって奮起してもいいはずだ。
◆そういえば、例のIMDb (インターネット・ムービー・データベース)にも、近年、"This comment may contain spoilers"とかいう表記が多くなっている。「データベース」なのだから、スポイルも糞もないはずだが、ここで何が「スポイル」されるのかというと、たいていの場合は、ストーリーなのだ。表現上の批判という点では、とてもその映画を見る気がしなくなるほど痛烈な文章もあるが、そういうところには、この表記はない。つまり、この表記は、「あなたが映画にストーリを追うことを主に見る人ならが、ここはあなたの期待を損なう可能性がありますよ」ということだ。が、これが、提言を越えてかぎりなく「禁止」に近づくおそれがある。特に日本では。
◆話がどんどん脱線しているから、書くが、ライブドア/フジテレビ/ニッポン放送の問題は、80年代に騒がれた「国際化」というのが何だったのかということをあらためて考えさせる事件である。当時、わたしは、「国際化」なるものの底の浅さを批判して、『国際化のゆらぎのなかで』(岩波書店)を出したが、そこで批判したことはいまもほとんど変わっていない。むろん、そうは言っても、経済や物理的環境は、大きく変わっており、ライブドア=堀江貴文が顕在化させた路線は、今後の「スタンダード」になるだろう。しかし、わたしが危惧し、そして同時に文化観察者として面白いと思うのは、いくら物理的環境が変わろうとも、またそれに従う「進取の気象に富む」経営者や個々人が出ても、日本の文化的下部構造は、あまり変わらないという点だ。ちょうど、表層はがらっと変わっても、「て」「に」「を」「は」のあいだにはさまれる語が漢語であったり英語であったりフランス語であったりするだけで、基底が少しもかわらぬ日本語のように。
◆【総夢省のアッソウ大臣は、記者会見で、ライブドア vs フジテレビの問題を顧慮し、『シャル・ウィ・ダンス?』や『THE JUON/呪怨』のようなハリウッドおよび外資による日本映画のリメイクを回避するため、今後日本映画の製作に際しては、他の言語に翻訳しやすい内容・表現、外国人俳優が容易にリメイク出来る身ぶりやプロットを20%以上持つ映画の製作および上映を禁ずる法案を近く議会に提出する見通しであることを明らかにした。かねがね、毛狸(もり)自眠党幹事長は、「魂の純粋性と和をたっとぶ日本人の文化が、金もうけのことしか考えないハリウッドによって安易に複製されるのはまことに遺憾である」とし、近々公開予定の『SAYURI』に対しても、「京都のような日本人の魂のふるさとを舞台に、非日本人が日本の美しい伝統を代表する舞子を演じるなどということは許しがたい」といういきどおりの発言をくりかえしていた。こうした動きに対して、映画業界からは、この法案は、ようやく道が開けてきた日本映画の「国際化」を根底から損なうものだという批判がまきおこっている。】
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2005-03-11

●プライド 栄光への絆 (Friday Night Lights/2004/Peter Berg)(ピーター・バーグ)  ★★★3/5

Friday Night Lights
◆久しぶりの雨。しばらく(雪は降っても)雨が降るのに接する機会がなかったので、映画で雨のシーンを見ると、雨を浴びたいなと思っていた。しかし、そういう気にさせる映画のなかの「雨」と、自分の身体で体験する「雨」とは同じにはならないのであり、同じになるためには、こちらが相当自分の感覚を「映画化」しているのでなければならない。それと、映画の「雨」は、プロットから要請される場合、ロケのときにたまたま降ってしまった、CGで細部をごまかすために「雨」を降らせる等々、諸事情があり、そういうさまざまなズレとこちらの体験的ズレとがたまたまダブったときに、身体で体験する「雨」と映画のなかの「雨」とが接点を持つにすぎない。
◆スポーツは嫌いだし、とりわけテレビでの観戦が嫌いだが、「スポーツ」映画でそれほど抵抗を感じたことはない。マーティン・スコセッシが言っていたが、彼は、子供のとき病弱で、スポーツの現場に行ったことがなく(だから両親は映画館へ彼を連れていったという)、『レイジング・ブル』を撮るまで生でボクシングを見たことがなかった。そして、初めて生の試合を見に行ったら、どの試合も同じように見えてしまうのだったと。ひょっとすると、スポーツを背景にしたドラマを撮る監督は、意外とスポーツに弱く、そのことが新鮮な目を生むのかもしれない。スポーツが好きであれば、生でも見ているだろうし、またより多くテレビで観戦しているはずだから、テレビの決まった撮り方と、馴染みだけで盛り上がっている飲み屋のような、閉鎖的でありきたりのディスコースがしみついてしまう。
◆そういう直感からすると、ピーター・バーグは、半分ぐらいはスポーツ好きで、スコセッシとはちがうような気がする。そして、その分だけ、映像も「まとも」で、特に驚きはない。おそらくフットボールに詳しい観客ならこの映画の試合にもデテールの楽しさがあるのかもしれない。が、素人のわたしには、中年のコーチ、ゲインズ(ビリー・ボブ・ソートン)が率いるハイスクールのフットボールチームの生徒たちが、対戦校の選手たちと音をたててくりかえしくりかえし「同じように」ぶつかりあうシーンが「同じように」続いているように見える。たしかにぶつかりかたはちがうが、アメリカン・フットボールというのは、アメリカの戦争とおなじで、わかりきったことで怪我をしたり、人生をさもなければ続けられたかもしれないことを捨てざるをえなくなったりすることのように見える。
◆その点では、この映画は、いかにも力づくの競争が社会価値になっている「アメリカ」(ブッシュ=テキサスに代表されるいまのアメリカ)の気分を実によくあらわしているようにも見える。この生徒たちは、なぜ戦わなければならないのか、なぜ敗北はただちに「脱落」を意味してしまうのか、なぜコミュニティは、こうしたスポーツ・ヒーローやアイコンを必要とするのか、17歳の若者になぜそういうプレッシャー志向の人生を送らせなければならないのか、なぜ、「戦う者」と「観戦する者」とが別れるのか、等々の問いをこの映画は引き起こす。実話にもとづくこの映画の最後に、登場した選手たちが、その後どうなったかが、簡潔の紹介される。おもしろいのは、たった1人をのぞいて、だれ一人として、プロの選手になった者はいないことだ。こういう選手経験は、戦争に志願するようなことだったのだろうか?
◆アメリカ批判をストレートに(たとえばアイロニカルなやり方で)批判するのでもなく、また、フットボールというスポーツそのものを描くのでもなく、また、1988年のテキサスで実際にあったことをドキュメンタリー的にたどるのでもない、ある種中間的なスタイルが、この映画の特徴だが、それだけに、示唆しかされず、もっとつっこみがほしい部分は多い。クォーターバックをやっているマイク(ルーカス・ブラック)は病弱の母と暮らしている。ドン(ギャレット・ヘドランド)は、かつてフットボールの栄光を勝ち得たことのある――どうも、いまはその一時の栄光に押しつぶされ、息子の栄光だけを夢みるアル中男――父親(ディム・マッグロウ)のプレッシャーに悩んでいる。ブービー(デレク・ルーク)は、自己顕示欲のつよい才能ある選手だが、なぜか叔父と暮らし、その叔父が彼のトレーナー/マネージャー的役割を果たしている。おどける彼のポーズの裏に隠されているものがある。こうした側面のつっこみがたりない気がするが、そこを観客に考えさせるところが、逆にこの映画の奥行きかもしれない。
(UIP試写室/UIP)



2005-03-09

●ライフ・イズ・ミラクル (Zivot je cudo/Life is a Miracle/2004/Emir Kusturica)(エミール・クストリッツア)  ★★★★4/5

Life is a Miracle
◆花粉の飛散度が急に高くなったとかで、花粉症にはかかっていないつもりのわたしでも、歩いていると鼻がむずむずする。電車のなかではくしゃみがとまらないひとに出あう。なぜか、そういうひとは、立ったまま。その前側のひとは席を離れてしまうが、くしゃみさんは座らない。ときには、ひどいくしゃみをしながら、ケータイをいじっていたりする。そういうひとに恐怖感をいだき、マスクをしているひともいるらしい。最近のマスクは形も大きく、色はあいかわらずの「病院」色の白なので、威嚇感がある。いっそ、色とりどりで形も楽しい「デザイナーズブランド」でも作って売り出したらどうか?
◆全編、ノースモーキング・オーケストラによる「じんた」のような音楽がかなりの音量とアップテンポで鳴り続ける。チャプリンやキートンのスラップスティック・ムービーをもっと「自然」にしたようなギャグの連続。知り合いの家の扉を開けると熊が何頭もいて、主人は殺され、熊が風呂あびしている。映像だけなら、「陰惨」なシーンになるが、それを見た郵便配達のジイさんが、「クロアチアからの難民熊」だとわめき、とたんにその映像は、停戦したばかりの隣国のクロアチアの状況の複雑さや、やがて戦争に突入するこの映画の舞台ブスニアとの微妙な関係を示唆する瞬間芸となる。見事。
◆ロバが象徴的な役割を果たすが、ひんぱんに出てくる猫と犬が、ハリウッド映画のように動物調教師によって仕組まれたやりかたではなく、実にタイミングよく、テーブルの上を荒らしたり、取っ組み合いの喧嘩をしたりする。
◆鉄道の線路が、意味ありげに使われる。列車よりも、その上を、(名前を知らないのだが)手押しのハンドルがついていて人力で移動できるトロッコや、自動車の車輪の部分が線路用に改造された車などが登場する。シュールなイメージであると同時に、あきらかにそういう装置を動かせて撮っているので、存在感もある。大食らいでスケベな市長が「鉄道自動車」でやってくるシーンなど、ブニュエル的な皮肉に満ちている。
◆時代設定は、ボスニア戦争が始まる1992年春。この戦争が、「一体どうして?」と思わせるしかたではじまった雰囲気がよくでている。戦争の勃発というものは、いつもそういうものではないだろうか? それが、この映画の鉄道技師ルカ(スラブコ・スティマチ)のように、自分の息子ミロシュ(ブク・コスティッチ)が召集されたりするにつれて、実感となる。そして、気づいたときは、自分の家の周辺に爆弾が落ちてきたりする。しかし、この映画は、戦争を「戦い」の側からは描かないし、戦争の勝敗を問題にはしない。そういう非日常のなかでおこる「まれな出来事」(「ミラクル」)を描く。
◆監督のクストリッツァは、1954年、サラエボの生まれ。サラエボは、戦争が起こるまでは、カトリックのクロアチア人も正教会キリスト教徒のセルビア人もイスラム教徒ともに「人種」を意識せずに暮らせるまさに「モザイク国家」の都市。この映画でも、市長がやってくるのは、村のコンサート会場。そこに「楽士」がいならぶが、そこに集まっている人々は、人種的にミックスの感じで、やがてセルビア人がイスラム教徒を虐殺し、「浄化」政策の方向に向かって行く気配はない。それが、そうではなくなることを示唆するシーンは何か所かあるが、戦争を「民族」の違いによる対立という構図よりももっと深いところに見ているクストリッツァは、そういう点は、示唆するにとどめる。
◆このことは、サラエボ人のクストリッツァが、「セルビア人」のルカと、戦争が始まってセルビア側の捕虜になって、ルカがあずかることになる「ムスリム人」の若い女性サバーハ(ナターシャ・ソラック)との愛を描いていることを見てもわかる。
◆鉄道技師の夫とオペラ歌手の妻ヤドランカ(ヴェスナ・トリヴァリッチ)という組み合わせも面白いが、息子ミロシュとの友達のような親子関係(ルカの趣味は鉄道模型を動かすこと)、妻の突然の出奔(「しゅっぽん」と発音する――「逐電」とも言う、ともに古い表現だが、男女が恋人と姿をくらます表現としてなかなか味があるでしょう?)、そこへまぎれ込んできたサバーハ(とても「捕虜」を軟禁するという雰囲気ではないところがいい)、妻の突然の帰還、ルカとサバーハとの「道行き」・・・すべてがブレヒト的ならびにバフチーン的なカーニバル的ドタバタ(単なるスラプスティックのようにドタバタする動きだけで勝負するのではないドタバタ)で観客をひっぱっておいて、最後にものすごく「深かぁ~い」感動的な山場に持って行く。このシーンは、書かないが、それぞれの思いが、ずれてしまうのが現実だし、そうさせてしまうのが政治でありマスコミであり、権力なのだなという思いをいだかされる――これは、単にわたしの印象。もっと別の見方もできる。そこが「深かぁ~い」。
◆クストリッツァは、1973年にプラハ映画学校に入学したというから、1960年代後半の「プラハの春」には間に合わなかった世代。しかし、プラハの映画学校にいたのなら、西側の記号学や構造主義の展開に大きな影響のあったヤン・ムカジョフスキーを知らなかったはずはないだろう。クストリッツァの映画のなかに流れる、カーニバル的な要素は、フェリーニとは大分ちがう。むしろ、ミハイール・バフチーンが論じているようなカーニバルの概念に近い。ちなみに、ムカジョフスキーは、フッサールの現象学やロシアのフォルマリズムとの接点ももっており、晩年の彼の周辺には、哲学、演劇、映画の論客が集まっていたが、ソ連が「プラハの春」を弾圧した1968年のチェコ事件でこういう人たちは、逮捕されたり、国外に脱出した。
(スペースFS汐留)



2005-03-08

●ダニー・ザ・ドッグ (Unleashed/2005/Louis Leterrier)(ルイ・レテリエ)★★★3/5

Unleashed
◆新宿でアポイントメントがあり、そのあとちょっと三越7・8階のジュンク堂書店により、銀座へ。「個人情報保護法」がどうのこうのと言い、わたしの身辺でも無関係ではいられない感じなので、通りがかりの本屋でそれを特集している週刊誌を買う。会場に行ったら、20分まえなのに、数階下の階段まで列ができていた。会社の人が「一般のかたぁ、ファンクラブのかたぁ」と叫んでいたので、今日はミックスの試写会らしい。試写のまえにジェット・リーの挨拶があった。司会はクロちゃんだったが、彼女の質問に、リーは、全く彼女のほうを見ず、通訳に向かってしゃべるのだった。なぜだろう? クロちゃんの「格闘技レフリー」調のディスクールはあいかわらずだった。なお、エンドクレジットのあとの拍手は最前列に陣取ったファンの若い女性だけ。これは、シャイな人の多い日本では、必ずしも、他の観客が楽しまなかったということを意味しない。
◆ストーリーは単純。設定にも無理がある。しかし、妙に見せてしまう。情にもろい人は泣くだろう。脚本を書き、(明らかに)さまざまなニラミをきかせた商売人リュック・ベッソンのしたたかさ。彼が監督しないで、本作が監督としては初めての若手ルイ・レテリエを起用したのがよかった。マッシヴ・アッタックが全編担当した音楽は、映画以上にいい。
◆舞台は、イギリスのグラスゴウ。絵に描いたような「悪徳高利貸」バート(ボブ・ホプキンス)に、幼児のとき母親を殺され、誘拐されて「人間殺人兵器」に育てあげられたダニー(ジェット・リー)。首にはめられた金属の首輪をはずす(原題は、「鎖を解かれた」という意味)と、たちまち殺人マシーンとなり、ばったばったとバートの「敵」(取り立てに応じない奴)を痛い目にあわせる。その彼が、偶然、盲目のピアノ調律師サム(モーガン・フリーマン)と出あうことによって、10歳以前のかすかな記憶と「人間らしさ」をとりもどす。この過程で、サムの義娘ヴィクトリア(ケリー・コンドン)がからんでダニーが、自分のいまの境遇をさとり、変わって行く。
◆「無理な設定」というのは、「悪徳」ではあれ、「高利貸」がこんなにあっさりと借主に致命的な仕打ちをあたえたり、あげくのはては、スコット・アドキンスがなかなかニヒルに演じるあやしい男と組んで「デスマッチ」を立ち上げ、死人続出したり、町なかで機関銃をぶっぱなし、車が大破するような事故をおこしたりもするのに、警察が全く動かない点が一つ。ケリー・コンドンが演じる学生は、設定とはうらはらにフケている点がもう一つ。彼女は歯の矯正器具をつけているが、これは、もっと低年令の人がやるもの(ただし、子供のときは親にその余裕がなく、歳が行ってからやる人もいないわけではないが)。
◆最大の「無理」は、リーが精神年齢的に10歳以上は成長していないという設定と、記憶をとりもどす過程。リーのアクションはすばらしいし、モーガン・フリーマンのプロフェッショナルな演技に助けられて、情感の表現も豊かだが、とはいえ、「10歳」にしては、目つきが利口すぎるのを隠せなかった。だから、速いテンポのシーンに引きけられながらも、ふと、こいつただ「未成熟」のフリをしているだけではないのかと思ってしまう。しかし、こういう点は、この映画をある種のSFとして見れば忘れられる。それと、ダニーの症状は、自閉症やひきこもりの症状に似ていなくもない。そうした症状と暴力の関係を考えてみるといいかもしれない。
◆ピアノが重要な小道具になっているのだが、モーガン・フリーマンが家でセロニアス・モンクを下手にしたようなピアノソロを弾くシーンがある。あれは、おそらく彼自身が弾いたのだろう。
(丸の内プラゼール)



2005-03-05

●輝ける青春 (La Meglio gioventù/Marco Tullio Giordana)(マルコ・トゥリオ・ジョルダーナ)★★★3/5

La Meglio gioventù
◆午前中は「存在しない」わたしには、11時上映の試写に行くのは、苦行。今後も試写はあることを知っていたが、土曜はほかの試写がないので6時間のこの映画を見るのには最適と思い、久しぶりのフィルムセンターへ。いまは、東京都の施設なので、他の都の施設と似た雰囲気がただよう。これってすごい(批判的な意味で)ことだと思う。
◆長いが、飽きない。「感動」できる。そう、「泣く」こともできる。ローマの中流階級カラーティ家の1966年から2003年までの「大河ドラマ」だが、誰もがどこかで作中人物に「同化」することができる。折々の「テレビニュース」的な事件をまじえながら、時代を追う。出演者もみな存在感があり、とりわけ女優たちはみな魅力的だ。つまり、この作品は、「ソープオペラ」の定型をまもった「秀作」である。が、これは、必ずしもほめ言葉ではない。そういう作品を求めるひとには、満足のいく作品だということだ。逆に言えば、それ以上のものを求めるひとには、(海外の評判が高いだけに)期待ほどではないだろう。
◆わたしが劇場で見た最長の映画は、ニューヨークで見た7時間近い『Our Hitler』(Hans-Jürgen Syberberg/1978)のプレビューだったが、このとき、半分ぐらいで3分の2ぐらいの客が去り、すべてが終わって会場が明るくなったとき前を見たら、山口昌男氏がいた。「なんだ、君も来てたのか」と言われ、当時は映画も芝居もパフォーマンスも、毎日のように見ていたわたしは、氏の「君も」が気になった。「君」なら絶対みるはずの映画で、まえまえから券を予約して見に来たからだ。が、そういう反発をするだけ、わたしも若かった。ちなみに、山口氏は、わたしの高校時代の日本史の「先生」で、その後、久保覚が1968年に始めた「現象学研究会」で同席した「山口」というひとが、どこかで見おぼえのある人だと思ったら、いまや新進の文化人類学者になっておられた山口昌男氏だったという再会のしかたをした。岩波の学術誌に道化論などを書いている「山口昌男」という名は目にしていたが、それがあの「山口先生」だとは思いもしなかったのだ。
◆プレスによると、ジョルダーナ監督が、このドラマを「誰でもが知っている68年」ではなく、1966年から始めたのには、理由があるという。それは、1966年のフィレンツェの大洪水を出発点にしたかったからだ。あまり知られていないが、「フィレンツェを救うために」「政治的わけへだてなく右翼も左翼も、カトリック信者も若い共産党員も」ボランティアとしてやってきて、図書館や美術館を埋めた泥を掻き出したりしたという。
◆わたしが、この映画に若干の抵抗を感じるのは、おそらく、この「操作」のためだろう。たしかに、アナール学派的な歴史観からすれば、1968年に世界で起こったことは、それ以前から潜在的・散発的に起こっていたことの最初の「完成」にすぎない。60年代後半から次第に高まっていったある種の「連帯」の文化がミラクル的に合流し、奔出したのがパリの「五月革命」に代表される出来事だ。そして、実のところ、この時代と時点の重要さは、「五月革命」にだけ代表させるわけにはいかない。
◆しかし、それならば、この映画は日常的な出来事に徹底すべきであって、70年代の大きな出来事を、長男ニコラ(ルイジ・ロ・カーショ)の恋人ジュリア(ソニア・ベルガマスコ)が「赤い旅団」に加わるという形で象徴させるべきではなかった。「赤い旅団」は明確すぎる党派であって、最初に「無党派」ではじめながら、これを全面に出すのは、ドラマトゥルギー上の効果をねらっているとしか思えない。ニコラの友人としてくりかえし登場するフィアットの工場労働者で、のちに解雇されるヴィターレ(クラウディオ・ジョエ)の政治的立場がきわめてあいまいにしか描かれていないのは、このことと関係がある。
◆『メディアの牢獄』におさめた「イタリアの熱い日々」でも書いたが、1960~70年代のイタリアは、政治的な激動の時代だった。とりわけフィアットの工場労働者は、新しい労働運動を創始し、のちに「アウトノミア」運動と呼ばれるものの先駆けとなった。だから、フィアットの工場で働き、解雇までされるヴィターレが、友人ニコラのパートナーが「赤い旅団」(これは、もともと、フィアットの労働者が警察の弾圧に対抗するなかで生まれた武装組織が肥大化したものである)に荷担しているのを知りながら、そういう運動のことには全く触れないのは不思議である。わたしは、この映画が、「赤い旅団」をかなりとりあげながら、それが単なる萎縮物にすぎないところの本体をなす「アウトノミア」運動にこれっぽちも触れないのが不思議でならなかった。この時代のイタリアを描くのに、このことを避けることはよほどの意図がないと出来ないことだからである。
◆しかし、よく考えてみると、それは納得できるような気もする。イタリアの場合、日本とちがって(日本では、少なくとも以前は、「左翼」の親を持つ子はたいていは「左翼」にはならなかった)左翼文化が継承されるイタリアで、次男のマッテオ(アレッシオ・ボーニ)が、色々あったとしても、あの60年代に軍を志願し、その後警察に勤めてしまうのは、それなりの土壌があると見なければなるまい。ニコラとマッテオの姉リディアも、やがて検事になるところみると、カラーティ家というのは、保守的な家庭であって、ニコラが「反精神医学」(60年代、イギリスのロナルド・レインはその中心人物だった)に惹かれ、のちに、ジャン・ウリが始め、ガタリも最後まで関わった「ラボルド」病院(杉村昌昭他編訳『精神の管理社会をどう超えるか?』松籟社参照)に似た病院を開設することになるのは、むしろ、例外なのだと考えるべきなのかもしれない。
◆ニコラは、同時代のイタリアでではなく、ノルウェイに旅行をしてそこにアメリカなどから集まっていたヒッピーと出会い、自由な精神に触れる。フィレンツェの大洪水のボランティアに行ったのも、その影響を無視できないが、ここで出会い、愛しあい、サラという娘をもうける恋人ジュリアが、彼を愛していながら、「赤い旅団」に行ってしまうのは、70年代をストレートに受け入れたいた彼女にとってニコラは、「穏健」すぎたのかもしれない。
◆いまは、「テロリズム」への過剰な反発の時代だから、「アウトノミア」運動も「赤い旅団」もいっしょくたにされてしまう。この映画がウケるのも、こうした状況と無関係ではない。この映画は、家族というものへのゆるぎない信頼にみちた保守的な登場人物の物語なのであり、その撮り方もきわめて保守的であるがゆえに、誰でもが「安心して」見ることができる。保守的な発想にとって、革新的なものは「危険」に見える。だから、このドラマでは、革新派は、「赤い旅団」になり、それ以外は、ニコラの友人でフィアットの労働者だったヴィターレも、最後は建築会社で成功するし、もう一人の友人で、妹のフランチェスカ(ヴァレンティーナ・カルネルッティ)の夫になるカルロ(ファブリツィーオ・ジフーニ)は、何と、イタリア銀行の幹部に昇進する。
◆しかし、こう言うと、保守的なことを描く映画はダメと前提しているかのように聞こえるかもしれない。わたしの好みとしては、そういう点もないではないが、にもかかわらず、この映画は、保守的な家族の「病巣」に若干ながら触れている。それは、マッテオの存在だ。彼は、必ずしも心から欲して軍隊や警察に入るわけではない。彼は、どこへ行っても同化できない。妥協ができないやっかい者として追いやられたパレルモで出あったチャーミングな女性ミレッラ(マヤ・サンサ)とうまく行っていたはずなのに、彼女を残して永久(とわ)の旅にでてしまう。
◆心配な息子マッテオを持った父アンジェロ(アドレア・ディドーナ)と母アドリアーナ(アドリアーナ・アスティ)は、いつもちょっとしたことで言い合いをする。これは、イタリアのワーキング・クラスの文化だが、ちょっとパターンすぎる。母がその生涯の最後に出会う出来事は、いい話だが、出来すぎているといえば言える。マッテオがなぜ、ねじれた人生を送らなければならなかったかは、十分には描かれない。
◆若き日のニコラとマッテオが出会い、最初は2人とも、やがては、マッテオがとりわけ執心する精神病の女性ジョルジア(ソニア・ベルガマスコ)は、最後まで折りにふれて登場する。ベルガマスコの魅力的な容姿と彼女の演技とがあいまって、なかなかユニークなキャラクターを出してはいるが、彼女が見せる挙動は、精神病理学的にやや納得度にかける。また、この女性との出会いに対するニコラとマッテオの対応の違いが、彼らののちの人生を分けたかのような描き方も若干こじつけの印象をおぼえる。人生は、伝記ではよくそう書かれるとしても、たった一つの事件が決定的になるというのは嘘だ。そういう描き方は、ドラマのために現実を歪曲している感じがする。が、映画的には、彼女をめぐる部分は感動的でドラマティックだ。
(フィルムセンター小ホール/東京テアトル)



2005-03-04

●ライフ・アクアティック (The Life Aquatic with Steve Zissou/2004/Wes Anderson)(ウェス・アンダーソン)★★★3/5

The Life Aquatic with Steve Zissou/2004
◆カリフォルニアの友人ダニエル・デル・ソラールが、インドからの帰途、大阪のremoで講演をし、急にまたわたしに会いに来たので、けっこうきびしいスケジュールになった。六本木の地下鉄駅でうっかり六本木ヒルズのほうに歩いてしまったので、外苑東通を渡れず、引き返す。15分まえになってしまったが、さいわい、試写室は混んでいない。試写に先だって、「映画が盗まれている」というクリップが上映された。なんだ?と思ったら、「海賊版」を買うなというキャンペーンだった。でも、あと4、5年もしたら、メガネのフレームに埋め込んだカメラが市販されるようになるから、海賊版を作るのを阻止することはできなくなるだろう。
◆最初何の映画かわからない感じでダラダラと進むが、オーウェン・ウィルソンの登場あたりから、はっきりしてくる。海洋学者というよりは、海洋探険の映画制作で名声を博したが、いまは、落ち目の「冒険家」(ムツゴロウ動物王国の畑正憲をもっとスノビッシュでアグレッシブにしたような?)スティーブ・ズィスー(ビル・マーレイ)が、52歳の「人生のたそがれどき」に経験するドラマ。彼は、軍から払い下げた探査船「ベラフォンテ号」で、巨費を投じた映画制作のために海洋の冒険をし、フィリッピン人の海賊と闘ったりもするが、ドラマの基本は、その冒険やサスペンスではない。「あなたの息子です」と突然彼のまえに姿をあらわしたネッド(オーウェン・ウィルソン)と、簡単に(というふうに見える仕方で)それを受け入れてしまうスティーブとの「父子」関係こそが、この映画の基本だ。それは、結局、一回解体されてしまったファミリーについて再考するドラマだ。
◆50歳をすぎたあなたが、感じのいい若者から、「ぼくはXXX(かつての恋人)の息子です」と言われたら、どういう反応をするだろうか? ひょっとして、自分がその子の父親であるという気持ちをいだくのではないか? そして、その子が、タカリなどではなく、ちゃんとあなたの仕事を理解しており、尊敬すらしていたら? あなたが、「人生のたそがれどき」にあり、子供もおらず、仕事も先が見えた感じで、いまいっしょにいる同伴者(スティーブの場合は、アンジェリカ・ヒューストンが演じる大金持ちのエレノア)ともしっくりいっていないとしたら? スティーブという人物は、人生のそんな時期にいる者の心にちょっぴり訴えるところがあるはず。わたしも、そんな「息子」が登場したら、DNA鑑定なんてヤボなことなどせずに受け入れるね。
◆ファミリー関係のこうした微妙な部分や、父と息子との関係に焦点を当て、しかもそれをひねった形でやるのは、ウェス・アンダーソンの前作『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』と似ている。アンダーソンは、一度「家庭」や「父親」を否定し、憎み、自分も「父親」であることを嫌っていたことのある「息子」が、ある年令に達し、自分の「母親」を「父親」が捨てたことを許す気持ちになるということを知っている。
◆スティーブの船「ベラフォンテ号」は、ある意味で「理想の家」を象徴している。スティーブが率いるチームが集団で生活し、映像制作も出来る「職住一体」のスペースだ。それとは別に、エレノアが所有する島もある。「難民」だとうそぶくオセアリー(マイケル・ガンボン)にまかせている映画制作の資金ぐりには苦労しているが、妻のエレノアの別荘もあるし、彼女は、元夫の富豪・海洋学者(なんで海洋学者が富豪なのか? 富豪が海洋学者になるのか?)(ジェフ・ゴールドブラム)と切れてはいなさそうだし、登場するのはスーパー・エリートばかり。そういうなかで、ウィレム・デフォーが3枚目の役をやっていて、この人って、何でも演るんだなと思う。
◆島の警備をかいくぐって潜入してくるジャーナリスト、ジェーンをケイト・ブランシェットが演じている。嫌いな男を見ると、あいつはゲイだと言うのが口癖のようなスティーブは、ジェーンに会ったとたん、「君は妊娠しているね」と言い当てる。なぜ、彼女が妊娠していなければならないのかは、あまりさだかではないが、最後のシーンでちょっとわかるような気がする。おなかのなかの子の父親には妻がおり、ジェーンは、シングルマザーになろうとしている。これも、ウェス・アンダーソン流のファミリー観と関係している。
◆ジェーンは、「ベラフォンテ号」の船室を与えられて、スティーブの密着取材をすることになるが、彼女は、船室で、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の英訳全6巻本の一冊を大声で読んでいる。それを聞きつけたネッドが、けげんな顔をすると、「おなかの子に聞かせているの」と言う。そうか、そういう胎教もあるのか。しかし、プルーストじゃ、生まれて来る子はどういう子になるのか? 男だったらゲイに決まっているとスティーブなら言うだろう。スティーブは、ネッドが彼女に近づくと、「あの子はレズだよ」と牽制する。
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタ・インターナショナル)



2005-03-03

●埋もれ木 (Umoregi/2005/Oguri Kohei)(小栗康平)★★★3/5

Umoregi
◆仕事が立て込んでいるうえに、大雪が降るという予報に足踏みする。百円硬貨を投げ、表が出たら行こうと思い、試みたら、表。テレビでは、堤義明逮捕のニュース。日本の資本主義システムをアメリカ的「水準」に近づけようといういまの時代の流れ、システムの時宜性からすると、堤義明的な流れは、絶ちたい――そのプロパガンダのためにも堤はつぶさなければならないというのが小泉・竹中流の判断。とすると、株と企業のオープンな競争性をデモンストレイトしたライブドアの堀江貴文のやり方は、小泉・竹中的路線とははずれないはず。
◆小栗監督主演の夏蓮が舞台に上がり、挨拶。背が監督より高い1990年生まれの夏蓮。段を上がるときからやさしく気づかっていた監督は、「こういうのは初めてだろうから」と「インタヴュー」役になる。率直に自分の作品の主旨や意図を語ったが、この映画のなかで魚屋のおやじの役を演った坂田明が前方の座席にいるので、彼にも気配りをし、舞台に呼ぶ。とてもいい雰囲気の挨拶だった。
◆こういう試写会は、「偉い人」ばかりになるので、通常は敬遠する。顔を合わすのが嫌なのではなく、「偉い人」は、試写会なんかにはあまり来ないので、「一般の人」がまじった試写会よりも、映画を見る条件が悪くなることが多いからである。今回も、映画の最中に、わたしのすぐとなりで「カッコー、カッコー」という「鳥の声」があがった。「カッコー」だぜぇ。が、隣の「風格」ある老紳士は、バッグからケータイを取り出し、悠然と液晶パネルを光らせながら、メールをチェックしている。これには、こちらの感覚が、10分以上ブラックアウトしてしまった。
◆小栗は、ある時期から、映画を一定時間の「共生体験」の記録ないしは、次の「共生体験」への「資料」(ドキュメント)と考えるようになったのではないか? この作品は、鈴鹿市にあるNTT西日本の研修所跡地で3カ月にわたって行われた「合宿」との関係を無視することができない。現場を知らなければこの映画を理解することが出来ないということではない。そうではなくて、映画のなかだけで「完結」することをめざす映画とはちがい、この映画は、「外部」をもっており、「外部」にむかって「未完結」の状態で(映画としては完結しているわけだが)提出されているということだ。
◆形式的には、夏蓮らが演じる3人の高校生が、かわるがわる想像力に満ちた「おはなし」を作りあったりして交流しているという流れ、彼女らが住んでいる町の日常の描写という流れ、両者がまじりあい、彼女らの「おはなし」とその町の祭りとが重なりあって、ファンタジックな世界が生まれるという、ある種「弁証法」的・ナラティヴ的な構造になっている。
◆しかし、映画のショットやシーケンスは、観るほうが、勝手にリンクしなおして自分で味つけして観ることもできるようなしなやかさにあふれている。せりふも、普通の映画よりも、ゆったりとしたテンポで進む。
◆雨で露出した想定3800年まえの古木の一部は、題名にあるように、象徴的な意味をもっており、監督自身、インタヴューのなかで、9・11以後の状況を示唆するような発言をしている。樹を活かせるのは、その周辺に住んでいる者つまり人間である。まわりが愚鈍なら、大樹木は、「うどの大木」になり、倒れ、ひからびた根をさらす。いまの時代は、監督にとっては、そんな時代なのだろう。
◆坂田が魚屋をやっている町は、「過疎」というよりも、近年、都市論の世界で「シュリンキング・シティ」と呼ばれる状態だ。「過疎」というのは、もともと過疎のところも含まれるが、この町は、かつては栄えていて、それがだんだん「しぼんできた(シュリンク)」のである。しかし、こういう町には、浅野忠信や大久保鷹が味わい深く演じるような人物がかならずいるものだ。
◆全体は、ファンタジックなのだが、一見、無関係のような形で、いきなり、フィリピンかヴェネゼラかの出稼ぎ女性たちが、入管の職員にいっせいに拘束されるシーンがちらりと出てくる。ただ、坂本スミ子が演じる老婆が、老人ホームに行くのをいやがって「ハンスト」まがいのことをするとか、「時評性」を入れた分、監督がめざした「ファンタジック」な側面は薄れる。「ファンタジー」だ「ファンタジー」だと言いながら、フェリーニほど徹底できない感じもある。
◆ベットに横たわり、友達と電話している夏蓮を撮ったショットの妙な艶めかしさは何か? 監督の彼女への愛? 撮影は、暗いところでもライトなしで撮れる「NHK技術研究所が開発したスーパー・ハーブ・カメラ」を使ったそうだから、これは、ただの撮影テストかも。そうしておきましょう、小栗さん。
(シネマライズ/ファイトム・フィルム)



2005-03-03

●KARAOKE ―人生紙一重― (Karaoke--Jinsei kami hitoe/2005/Tsuji Hiroyuki)(辻裕之)★★2/5

KARAOKE
◆出がけにメールを書いたりしていて、うっかり試写状をテーブルの上に置きっぱなしにする。現場に着いて気づき、「記帳」する。自分用のメモ以外には手書きということをあまりしなくなっているので、他人が読める字を書くのに苦労する。ところで、「個人情報保護法」が施行され、解釈次第では、こういう「記帳」も法にふれる可能性が出てくるらしい。情報というのは公開が基本なのに、変なことになってきた。「公共性」はすべて「プライベート性」のなかに繰り込まれて行く。
◆カラオケのプロトタイプを発明した井上大佑の話というので、大いに興味をひかれた。が、オープニングで、ドキュメンタリーもの風のナレーションで、日本には自殺者が多いとか、気落ちしている多数の「オトーサン」たちを励まそうなどというメッセージが出てきて、?!と思う。それが、冗談のようでそうでもないところが可笑しい。このオフビートというか、妙なバランスというか、ちょっと風変わりな作りがずっと続く。その後の主なナレーションが、ドラマの途中で登場する捨て犬の視点になっていたり、主人公・井上大佑(押尾学)を中心に映されていたショットが、別の登場人物の意識から見られたショットになったり、「視点の混乱」が激しいように見えるが、それが、あまり気にならない。不思議な形式。
◆親父(宇崎竜童)の親友・遠藤(高田純次)が部長をしている会社に入った井上大佑は、会社をドロップアウトして、ロカビリーのバンドに入ってしまう。親父と母親(室井滋)には、音楽で身を立てると宣言したが、仕事はビアホールのハワイアン演奏ぐらいしかない。そんななか、彼らのバンドにボーカル志望で金持ちの弁護士の娘・洋子(吉岡美穂)があらわれ、井上は一目惚れし、紆余曲折ののち、結婚する。生計をたてるために、アルバイトでクラブのオルガン弾きはじめた井上が音痴の町工場の社長・佐倉(小沢仁志)に出あうのが、運のつきはじめになる。
◆この時代は、プロ(というふれこみ)のプレイヤーの演奏に合わせて客が歌うというぜいたくがあったが、ド音痴の佐倉は、プレイヤーにとっては、迷惑このうえない存在。そのくせ、町の名士で、ことわるわけにはいかない。そんなとき、たまたま井上が、相手になる。洋子の特訓でオルガン演奏をおぼえたばかりの彼は、佐倉のテンポに合わせたほうがうまく弾けるのである。こうして、彼は、佐倉のお気にいりになり、宴会には欠かせない存在になる。しかし、ある日、彼がどうして宴会の同席できなくなり、窮余の一策を思いつく。それは、テープレコーダーに伴奏を吹き込むというだけのことだが、これが、カラオケの発端になる(という設定)。
◆わたしは、ここから、カラオケのプロトタイプである「8 JUKE」を発明するにいたるもっと技術的な苦心の過程を見たかったが、このへんは、8トラックのカー・テーププレイヤーとアンプを組み合わせるといった話と短いショットであっさり省略される。結局、この映画は、人に命令されて、その果てには、首を切られてホームレスになってしまう遠藤(高田純次)と対比的に、自由勝手人生の「凡例」を見せることにウェイトが置かれている。
◆井上大佑の実人生は知らないのだが、もし、彼の妻となった人の父親(蟹江敬三)が本当に弁護士で資産家だとしたら、カラオケの生産販売に際して、何らかの援助を受けたはずである。映画には、それを示唆するシーンがちらりと出てくるが、そうして経済的な側面の描写は希薄であり、ホイホイと進んでしまったかのように描かれる。このへんが、冒頭で、「がんばれオヤジ」とリストラされた現代のサラリーマンとシンクロすることを目指しているようなジェスチャーをとりながら、腰くだけな印象をあたえる所以ではなかろうか?
◆この映画では、当然、カラオケが非常にポジティヴなメディアとみなされているが、それが、自閉症やひきこもりを「救済」する力を持っている面があるとしても、世界中にある種のナルシシズム文化を氾濫させた功罪もある。ただし、井上は、特許を取らなかったために、いま世界を席巻しているカラオケマシーンは、彼が作ったものではない。
(映画美学校第1試写室/エクセレントフィルム、リベロ)



2005-03-01

●おわらない物語 アビバの場合 (Palindromes/2004/Tod Solondz)(トッド・ソロンズ)  ★★★★4/5

Palindromes
◆混んだ地下鉄のなかで隣の女性が、「翻訳より安いから買っちゃった。1000円だもん」。いっしょの男の人が、「でも、トム・ハンクスで映画化されるというのは、ちょっとちがうんじゃないかって・・・」。これでわかったが、2人は、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』の話をしているのだ。非常に興味深いのは、この女性も、この本を原書で読んでいるが、わたしは、電車や試写会場で翻訳ではなく原書で読んでいる人を何人も見た。この本は、原書のほうが読みやすいのだろうか? それとも、英語の読解力のある人が急に増えたのだろうか? わたしも原書を買ってみよう。入口で試写の「常連」が何人も出てくるのに会う。『ヴェラ・ドレイク』が終わったところだった。
◆スタイルが実にユニークだ。気にいった。同じ人物を、その成長過程で、似たような顔の役者に演じさせるのはごくあたりまえのやり方だが、この映画は、同じ人物アビバを、肌色も体型も大幅に異なる8人の俳優が演じる。両親や従兄弟は、時間の変化を通じて同じ俳優が演じているので、こうした8人の配置替えの効果がはっきりする。それと、こうしたスタイルは、人間の「人格」というものが、「三つ子の魂百までも」といった一貫した同一性(アンデンティティ)によって保証されているものではなく、多様な「自我」というよりも、多様な「リビドー」や可能性や能力や、そう言ってよければ「運命」と偶然性の「交流点」であるという事実に対応する。
◆冒頭、葬儀のシーンが見える。死者の名は「ドーン」。ダビデの星のマークとヘブライ語の祈り、会葬者が頭につけている帽子からこの葬儀がユダヤ教のものであることがわかる。荒れた画面に?!と思っていると、画面の右肩に「REC 01:22:40」といったホームビデオの録画経過時間を示すインジケーターの表示が見え、この映像が、「ドーン」の葬儀を家族の誰かがビデオで撮ったものという設定であることがわかる。「ドーン」とは、ソロンズの旧作『ウェエカム・ドールハウス』でいじめにあう子。死んでしまったこの子のことを思い出し、母親(エレン・バーキン)が泣く。黒人の幼い娘アビバば、「お姉ちゃんみたいに不幸にならない(ように生きたい)」と言って泣くので、この母親は、黒人の子を養子にしたのかなと思うが、やがて、そういうことはどうでもよいことがわかる。
◆『ハピネス』でもそうだったが、ソロンズは、「ファミリー」(家庭・家族)をハリウッド映画的に「ハッピー」な場としては描かない。ドーンの葬儀でも示唆されるように、トッド・ソロンズは、ユダヤ系で、映画に関わるまえは、「ラバイ」(日本では「ラビ」と言うが、要するにユダヤの「坊さん」)になるつもりだったという。これは、スコセッシが、カソリックの神父になろうとしたのと似ている。ソロンズの場合、「革新的」なユダヤ系の知識人のパターンとして、ユダヤ的ファミリーのみならず、ファミリー一般に批判的であり、また、すべての現実に対してシニカルな目を持つ。
◆映画や小説でファミリーがくりかえしとりあげられ、ファミリーの「重要さ」が強調されるのは、それが、選択のできない要素をもち、人格形成や価値観の定着に重要なファクターとなるからだ。精神分析の多くは、精神の病をファミリーの問題に還元し、「国民」を操縦する国家政治は、「健全」なファミリーをくりかえし強調する。しかし、ファミリーがハリウッド映画のように「楽しく」「明るい」「かけがいのない」場であることは多くはなく、なければないほうがいいと思っている人は少なくない。
◆他方で、この20年間に、特にアメリカでは、ファミリーをそういう「宿命的」なものとしてではなく、自分の意思で選択できるものとしてとらえようという傾向が強まった。その結果、「単親家族」が増え、養子の存在、共生的な集合家族、インターレイシャルなファミリー等々、アメリカのファミリー形態は多様化した。その意味では、こういう傾向を「多様化」とは取れない頑迷な保守主義者が、マスメディアを使ってしきりに絵に描いた「ファミリー」を強調し、「家族の解体」を嘆くわけである。
◆ユダヤ系やイタリア系のルーツを持つ映画作家が、ファミリーを否定的に描くのは、エスニックの家庭では、ファミリーを勝手に選ぶ選択肢が少ないからである。そこで否定され、皮肉られているのは、「古典的」(といっても「起源」はそう古いわけではない)にすぎないが、だからといって「新しい」ファミリーに色目を使うわけにもいかないというディレンマが、ソロンズの映画の基底にある。と同時に、ここには、はたしていま進行中の新しい「ファミリー」が、これまでのファミリーの不自由さや拘束を解消するのだろうかという疑問も提起されている。
◆たしかに、いま、結婚しないカップル、子供をつくらない夫婦、離婚を繰り返す男女、ゲイのファミリー等々、相対的には、いつでも解消しやすい要素を持ったファミリーは増えている。その果てには、人間みな孤独、人は孤独に生きるしかないという発想がかいま見えるが、そうははっきり言わない。
◆孤独であるということと、孤立しているということとは同じではない。この映画が面白いのは、「アビバ」という前から読んでも後ろから読んでも同じ発音(これが原題の「パリンドロウム」の意味)の子が、8人の「孤独」な人格によって演じられていること、つまり、「アビバ」のなかには8つの孤独が共生しているのであり、彼女は、たった一人であっても、その内部に「ファミリー」を持っているということである。その「ファミリー」は、自分が選んだものではなく、自分ではどうしようもない。つまり、「孤独」だとか言っても、人は、その内部にたくさんのファミリー・メンバーをかかえているのであり、決して単一にはなれず、一人でいても、ファミリーが経験するのと同じ悩みやトラブルにみまわれるのである。その場合、一人のほうが、そういう困難から逃れるのが比較的楽だという程度にすぎない。
◆ファミリー問題というのは、多様性(マルチプリシティ)の問題であって、だから、ガタリとドゥルーズがくりかえし言ったように、そのトラブルを「家族」などに還元しても、解決には程遠いのだ。この映画には、いかにも「アメリカ的」な「ママ・サンシャイン」と「パパ・サンシャイン」とが運営するホームが出てくる。そこに収容されている子供たちがそれぞれ多様なのだが、このホームは、彼や彼女らの多様性を発展させるわけではない。サンシャイン夫妻は、強硬な中絶反対論者であり、中絶を肯定する医師に対しクークラックスクランまがいの罰をくわえる活動をしている。彼らは、当然のようにプロテスタントである。
◆アビバが幼児から中年まえぐらいの時代までの生活を描くこの映画で、13歳のアビバが、母に連れられて行った母の友人の家の息子と自然ななりゆき(というようにわたしには見えた)でセックスし、妊娠してしまったことが尾を引く。アビバは、子供を生みたいと思うのだが、とんでもないことだと怒る両親の決意で、中絶を受けるが、この医者は、彼女の子宮まで摘出してしまう。これが、彼女のトラウマになる。この物語を引き継いで、なげやりな生活をする第3のアビバ(通称「ヘンリー」)は、売春婦になっており、ぼろぼろになって、「サンシャイン」のホームに収容される。
◆子供を生めないということは、「ファミリー」を持つという点では「欠陥」だというのが、通念になっている。アビバも、そのことで、あの中絶医を憎み、パパ・サンシャインの中絶医絶滅計画に荷担する。彼女(あるいはもう一人のアビバ)は、復讐主義者ではないが、子供を生むということはどういうことなのだろうか? 生んだことがないのでわからないが、それは、自分の分身を持ったような気持ちを持つことは避けられないだろう。ということは、子供の生める女性は、誰でもが内的に多様な自我を内包し、自我=ファミリー存在であるだけでなく、それにくわえて、外的な自我、他者としての自我を仲間/敵にできるという点で、より「ファミリー」的だと言えないこともない。
◆「パリンドローム」という言葉は、AVIVAやBOBやOTTOのような言葉、"Madam, I'm Adam"というような「回文」を指すが、同時に、俗語用法では、バイセクシャルのことも意味する。原題は、"palindromes"と複数になっており、「パリンドロームたち」だから、複数の「アビバ」のほかに、オタクっぽくて、幼児性愛のマーク(マシュー・ファイバー)も含まれるだろう。
◆羊皮紙に書いた文字を消して、その上からもう一度新たに書くことを「パリン(プ)セスト」(palimpsest)といい、思想的にもアート表現的にもわたしが偏愛する言葉の一つだが、「パリン」はもともと「ふたたび」という意味で、「ドローム」は、「走る場」という意味である(だから『ビデオドローム』はビデオの場、ビデオスペース)。
◆ソロンズは、このタイトルによって、人生は、「くりかえし」であり、前から読んでも、後ろから読んでも、つまり人生を未来から見ても、過去から見直しても、変わりがないのであり、そういう「反復」あるいはニーチェ的な「永劫回帰」をくりかえしたいるということを示唆してもいる。
(映画美学校第1試写室/アルバトロス・フィルム)


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