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2004-11-30_2
●アレキサンダー (Alexander/2004/Oliver Stone)(オリバー・ストーン)
◆オリバー・ストーンがアレキサンダー大王の生涯を映画化するとすれば、イラク戦争がつづいている現在の状況を意識してのことだろうと思って期待したが、全然そうではなかった。というよりも、彼は意識しただろうが、うまくいっていない。総製作費200億円はほとんど浪費である。古代の都市バビロンを映像にしたシーンをのぞけば、あまり見るべきところはない。このシーンは、さすが金をかけただけのことはある。一瞬、わたしは、ヴィスコンティの『ルートヴィヒ 神々の黄昏』を思いだした。しかし、ストーンは、ヴィスコンティのように耽美のなかでもののあわれを描く(そのほうがよほど政治的だと思うが)ような芸術家ではなく、もっと実質的な政治活動家の気質をもった映画人だから、その絢爛さは、すぐさま、アメリカの攻撃で廃墟化したバクダットの「輝ける過去」を思い出させるような方向に意識が向けられ、ただ破壊との対照的なオブジェとしての意味しかもたない。遊び心がとぼしいのだ。
◆破竹の勢いでペルシャを倒し、各地にアレクサンドリアを構築し、さらに東方遠征をくわだてるなかで、「世界統一」という原理主義に陥り、部下からも孤立していくアレキサンダーー(コリン・ファレル)は、ローマがくりかえしたことであり、いまブッシュ政権のアメリカがもっと非ロマンチックなやりかたでくりかえしていることである。しかし、ストーンのこの映画からは、そうした権力の歴史のパターンは読めても、それ以上のものは見えてこない。これなら、まだ『グラディエータ』のほうが面白いし、政治的含みもある『トロイ』のほうがましだ。
◆ストーンが、この映画を自分の仕事の一つの集大成にしようとしていることはよくわかる。インドのジャングルのなかで象に乗った「敵」に襲われるシーンは、ベトナム戦争を描いたストーンの『プラトーン』のシーンを思い出させる。アレキサンダーーのかつての盟友でのちのエジプト王の老プトレマイオス(アンソニー・ホプキンス)は、「アレキサンダーーのやるがままにまかせていたら、共倒れになってしまうので、われわれが殺したのだ」と述懐するが、これは、『JFK』にも潜在的にあったテーマである。当時の権力者(インターナショナル・ルーリング・クラス)たちのあいだには、ケネディの「理想主義」はアメリカを破滅へ導くだとうという判断があった。
◆プトレマイオスは、この映画のナレーション役でもあり、この映画が描く物語は、プトレマイオスの視点で見られ、語られている。彼は、やがてヘリニズム時代に重要な文化の要所となる「アレキサンドリア図書館」の一室(壁に巻いたパピルス紙の資料が膨大にある)にどっかり座り、過去を回想している。オリバー・ストーンには、「陰謀理論」への嗜好があるが、このプトレマイオスは、「アレキサンドリア図書館」に陣取り、世界から集まる情報を分析し、歴史を操作していた。しかし、そうなると、彼は、CIA長官のようなイメージになり、何か時代が浅薄な感じに見えてくる。
◆アレキサンダーと状況との関係で思い出すのは、テル・アンゲロプロスが1980年に映画化した『アレクサンダー大王』である。これは、19世紀が終わる大晦日に、「アレクサンダー大王」と呼ばれる「旅団」の首領が、刑務所を脱獄し、イギリス大使館員を人質にとり、農民の解放を要求してたてこもるという設定になっている。すでに『シネマ・ポリティカ』で言及したように、この作品は、歴史上の「アレキサンダー大王」を意識しながら、1970年代後半にイタリアから吹き出た新しい左翼運動「アウトノミア運動」と、平行して対等するテロリズムとのヨーロッパの状況を重ねあわせた、アンゲロプロスの状況認識を示すアクチュアルな作品だった。そこでは、当初、「革命」をめざしたリーダーが、次第に単なる「盗賊」か「テロリスト」になっていく泥沼が、ねちっこく描かれていた。
◆オリバー・ストーン版の『アレキサンダー』にもそういう要素がないでもないが、アンゲロプロスの世界とくらべると、非常に単純なのだ。まあ、単純といえば、アレキサンダーの性格形成において母親オリンピアス(アンジェリーナ・ジョリー)の影響が過剰に強調されている。母親は、夫でアレキサンダーの父であるマケドニア王フィリッポス(ヴァル・キルマー)を軽蔑している。息子は、蛇に変身した神ゼウスとのあいだに出来た子だと公言している。たしかに、フィリッポスは、粗暴で浮気で酒乱の男である。こういう夫をもつ妻が息子を溺愛し、その父親を悪者にするのはよくある話だ。そういう両親のあいだで育つ息子は、成長しても陰に陽にコントロールしつづける母親を憎みながらも、どこかで彼女に支配されることを求める。簡単にいえば、マザコンだが、そういう息子はゲイになりやすいという俗説を踏襲するかのように、アレキサンダーの同性愛的傾向が示唆される。しかし、これは、非常にモダニストのとらえかたであって、歴史上のアレキサンダーとはかなり距離があるような気がする。アナールの歴史家フィリップ・アリエスが、中世の死に関する考え方が近代とは相当ことなることを指摘しているが、紀元前の時代には、近代とは全くことなる家族観やセックス観が支配していたはずで、それは、「マザコン」とか「同性愛」の通俗的な観念を越えた新しい視点ではとらえられない。まあ、ストーンは、紀元前の時代を描くつもりはなく、紀元前の出来事にたくしていまを描こうとしているのだとしても、それならば、いまをもっと斬新にたちわらなければ、過去を利用する意味がない。
(丸の内ピカデリー1)
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●セルラー (Cellular/2004/David R. Elis)(デヴィッド・R・エリス)
◆定石を踏んだ犯罪スリラーだが、けっこう楽しめる。ガイ・リッチー『ロック、ストック&トゥー・スモーキング・パレルズ』と『スナッチ』で目を引き、『ミニミニ大作戦』でブレイクしたジェイソン・ステイサムが、こういう奴に捕まったら命の保証はないなと思わせるようなワルをコンヴィンシングに演じている。
◆出だしはタルい。高校で科学を教える母親ジェシカ(キム・ベイシンガー)が通学する息子リッキー(アダム・デイラー・ゴードン)を通学バスまで見送る。家に帰ると、ジェイソン・ステイサムらが演じる屈強な男たちがやってきてジェシカを連れ去る。このへんから急に緊張感が出てくるが、ふたたび、しばらくのあいだ何でこんなやつらが出てくるのかと思わせるプロットが続く。軽薄な感じのオ男ライアン(クルス・エバンス)が女ともだちと歯の浮くような話をしている。こういう「どうでもいい」ような感じのプロットが必要であることはやがてわかる。誘拐されて監禁されたジェシカがたまたま現場にあった電話で外へダイヤルしたときに偶然つながったのが、ライアンのケータイだったというわけ。一方に必死の女がおり、他方にいいかげんな男がいて、そのあいだで深刻な情報がやりとりされなければならないという設定がけっこう綿密に仕組まれている。
◆電話機にせよコンピュータにせよ、そういう機械を映画に登場する場合、大半の映画が機械の機能をストーリーのために歪曲する。しかし、この映画は、かなりの程度テクノロジーの現実をおさえている。たたきつけれれてくだけてしまった電話機でジェシカは、こっそりと電話をするわけだが、それは技術的に可能である。電話機は、受話器を置くところを1回押せば「1」、5回連続的に押せば「5」の信号が出て、電話番号を送信することができる。手回しよく科学の教師という設定になっているジェシカなら、そのぐらいのことは知っていてもおかしくない。しかし、電話機の壊れかたがひどかったので、特定の回数切るというような操作ができなかったのだろう。そのため、受話器を直し、かちゃかちゃ操作しているうちに、ジェシカの知らない番号が送信され、ライアンのケータイにつながったというわけである。
◆ライアンの持っているケータイは、NOKIAの最新型で、ビデオ動画も撮れるやつ。これが、あとで重要な役割を果たす。
◆いつも「卑怯」な役をやるが、今回は善良で骨のある刑事を演るウィリアム・H・メイシー、善良そうで実はワルの役を演るノア・エメリッヒ、観客の第1印象をちょっぴり裏切りながら、後半はいいテンポでサスペンスが進む。
◆この映画、見知らぬ女から「助けて」という電話がかかるという設定だが、日本ではこういう電話をもらった者は、十中八九「俺俺サギ」だと思い、相手にしないだろう。つまり、こういうドラマは成り立たないということだ。が、それにもかかわらず、依然として「俺俺サギ」にひっかかる者があとをたたないのも現実であるから、事実は小説より奇なりで、この映画のようなことも起こりえる。入念に仕組まれたサスペンスドラマだが、現実との接点はないわけではない。
(ヘラルド試写室)
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●THE JUON/呪怨 (The Grudge/2004/Takshi Shimizu)(清水崇)
◆時間が少しあったので、新宿三越の7・8階にできたジュンク堂書店をのぞく。おそらくいま都内で一番品揃えがよく、スペース的にくつろげる書店ではないかという印象。醜悪なカラオケ屋になってしまった歌舞伎町の「王城」を右に見ながらミラノ座のまえへ。新宿東急の地下への階段にはすでに列が出来ている。みなプロばかり。その右に「関係者」の列。こちらは、製作に本当に「関係」した人の列。あ、あのひとも、あ、あのひともという感じ。
◆清水監督が挨拶。「サクセス・ストーリーだよねぇ」という声がうしろから聞えたが、ハリウッドでやりたいことをやった満足さがあらわれた清水の表情はすがすがしい。向こうのプロデューサーと張り合った話で、「あっちは、怖いお化けというのは攻撃してくるもんだと思っているんだけど、それじゃ人間じゃん」と言う。このセンスと根性が、彼に成功をもたらしたのだ。「フォト・セッション」はあったが「ツーショット」はなく、会場からインタヴューさせたのはよかった。日本で2月ごろ上映されるのは、向こうではR指定になってしまうので切ったショットをもどし、さらに追加映像をくわえた「ディレクターズ・カット」だという。この試写は、「インターナショナル」版。
◆最初の説明にあるように、誰かが怨みをいだいて死ぬと、その場所に怨みが凝集し、そこを訪れる者にとりつく――という基本設定があるが、これは、必ずしも日本特有のフォークロアではない。アメリカ映画の場合、この映画で描かれる「恐怖」は、誰かの「狂気」や「妄想」というかたちで「主観化」ないしは「心理化」されることが多い。清水がアメリカで新鮮さをあたえるのは、それを「主観」の外部へ、ものや家や場所に外化してしまったところだ。しかし、それも、「ゾンビ」や「ポルターガイスト」のようなものもあるから、「日本独特」というわけでもない。決め手は、錯覚と幻覚とが紙一重の瞬間視覚と音だろう。
◆この作品では、音と短いショットで「恐怖」をあおる。映像の編集のレベルが高いので、全体として非常にスマートに仕上がっている。ただ、日本では、あっさりしすぎるかもしれない。日本語版『呪怨』ではもっと気持ちが悪く見える女の髪の毛が、本作ではさほど「怖く」ない。文化のちがいもあるだろう。時間を頻繁に前後させるテクニックは、少しスタティックなので、その動きが渦をなしていって、恐怖が伝染していくような効果を出すにはいたらなかった。
◆ビル・プルマン、ケイディ・ストリックランド、ジェイソン・ベア、グレイス・ザブリスキー、サラ・ミッシェル・ゲラー、ブル・プルマン、ウィリアム・マポーザーなど、脇役としてはけっこう知られている俳優を使っているが、刑事役の石橋凌がなかなかいい。こういうタイプは、ハリウッドでは重宝される。
(新宿東急)
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●ビフォア・サンセット (Before Sunset/2004/Richard Linklater)(リチャード・リンクレイター)
◆神経のせいで一旦腰を下ろした席を変える。後ろからなにかエネルギーが伝わってくるような気がしてたまらなかった。が、1列さがってら、隣の2人連れが文字通り「ヒソヒソ」というしゃべりかたをして話をしているのが気になって、本(ダンカン・ワッツ『スモールワールド・ネットワーク』)が読めない。偶然、「一方で個人はいつも現在の友人を通じて新しい友人をつくるが、他方では、決してそうではないやりかた、つまりランダムに友人をつくる」という一節が飛び込んできた。
◆『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(Before Sunrise/1995) を受けて、9年前にウィーンで偶然会い、愛しあったが、別れわかれになってしまったジェシー(イーサン・ホーク)とセリーヌ(ジュリー・デルビー)が、パリで再会し、ジェシーがニューヨークへ飛行機でたつ残りの85分間、パリの街を移動しながら会話する。映画の長さと作中の出来事がシンクロされており、観客は2人の会話に居合わせることになる。が、話すということの意味がちがう日本文化にどっぷりつかっている者には、この85分間は、ジュリー・デルビー優位で延々とつづくしゃべりに疲れるかもしれない。
◆デルビーがちょっとダイアン・キートンに似ていることもあって、わたしは、ウディ・アレンの『アニー・ホール』を思い出した。相手がイーサン・ホーク(意外とアドリブ的なセンスオブユーモアに乏しい)だから、爆笑的なシーンはないが、どこまでがアドリブかわからないジュリー・デルビーの演技が惹きつける。
◆小説家として成功したジェシーが、新作のプロモーションで、レクチャーとサイン会をやるのは、パリの「シェイクスピア・アンド・カンパニー」。この英語本の書店は、1924年にこの書店を開いたアメリカ人、シルヴィア・ビーチの『シェイクスピア・アンド・カンパニイ書店』(中山末喜訳、河出書房新社)に詳しいが、ジョイス、ジィド、ヴァレリー、フィッツジェラルド、ガルトルード・スタイン等々、鎗々(そうそう)たる人物が訪れた。この映画で、ジェシーが10人たらずの客と談話する狭い室内のテーブルの上には、シェリーグラスが5、6個ならんでいる。こういう感じは、アメリカでもヨーロッパでもよくある。ちょっとした集まりのあと、チーズとワインぐらいで談笑し、くつるぐのだ。東京駅の八重洲ブックセンターに行くと、よくサイン会をやっているが、ワインなんかがテーブルの上にならぶことはないようだ。
◆ジェシーとセリーヌは、もう一度ウィーンで逢うはずだった。2人はそれを後悔するが、2人が話すその後の出来事は、話だから、必ずしも「真実」である必要はない。この映画にクソリアリズムを導入する必要なないのであり、言葉が主役である映画として見ると、面白い。ありがちなセンチメンタリズムはなく、2人の会話の背景となるパリも、観光向けの図柄には仕上げていない。その意味で、配給さんは、試写に来た女性編集者やとにかく「女性」の面々に名刺を渡したりしてアタックしていたが、必ずしも「女性向き」の映画とはいえないのではないか?
◆話のあいまあいまに、セリーヌという女性が、「左翼」のアクティヴィスト的な素質を持った女性であることがわかる。愛猫の名は「チェ」つまりチェ・ゲバラの「チェ」だ。おそらく、ジェシーもある時期までは彼女と政治的意識を共有できた。が、9年間に、ジェシーは、エスタブリッシュメントになり、セリーヌは、依然、昔の意識を持続させながらパリにいる。書店での公開トークのとき、質問に答えて、ジェシーは、「人生は夢をかなえることであって、所有することではない」と語る。が、これを現在、彼とセリーヌとのどちらが実践しているかというと、どうやら、彼女の方であることが、だんだんわかってくる。
◆あと10分だけという感じで、空港へのリムジンタクシーを待たせておいて、ジェシーがセリーヌのアパルトマンに行く。コジーな中庭で、その建物の住人たちがパーティをやっている。ジェシーは、そのアットホームな雰囲気に目を輝かせる。このアパルトマン自体が、非常にコミューナルで、みな「共有」の意識が強いのだ。
◆空港に行かなければならないが、彼女の部屋をちょっとだけのぞきに行くジェシーは、彼女がソングを書いているということを知って、彼女の弾き語りをせがむ。そのタイトルは、"Let me sing a waltz"。それは、彼とのことを歌ったものだ。ティをいれにジェシーが立ったあと、彼が台の上から取り上げたCDをプレイヤーに入れると、ニーナ・シモンのライブが聴こえる。その曲は、"Just in Time"。「いま・ここ」の時間の充実や輝きは、時間のただの流れとは決定的にちがうことをあらためて印象づける。映画は、この曲とともに画面は暗くなるが、はたして、ジェシーは飛行機に間に合ったのだろうか?
(ワーナー試写室)
2004-11-24
●ネバーランド (Finding Neverland/2004/Marc Forster)(マーク・フォスター)
◆なぜかアメリカに行って帰ってくると、生活時間と感覚が狂ってしまう。たったの10日ほどの滞在でもそうなるのはなぜだろう? アメリカの時間帯がわたしの自律神経に居座り、それまでの時間帯を拒否する感じだ。アメリカに親しい友人がいるわたしは、ブッシュのアメリカ国家は憎悪するが、国のなかに入ってしまうと、「アットホーム」な感じになるのを否定できない。国家と社会はちがう。国家はどこも嫌いだが、社会としてのアメリカにはまだ多様な選択肢がある。おかげで、短期の滞在でもアメリカから日本に帰ってくると、日本社会の細部に神経質すぎ、妙に神経をさかなでする「慣習」に疲れてしまう。この数週間そんな状態が続き、試写のペースも崩れがち。
◆ジョニー・デップという俳優は、アメリカ社会では他人(ひと)を疲れさせ、自分でも消耗する(というより、自分の消耗をすぐにあらわにする)タイプだろう。その彼が、この映画では他人を疲れさせるよりも、やすらぎをあたえるキャラクターを演じている。この調子では、どこで切れるのか、どこで開きなおるのかと思っていたら、一貫してそういう「善意」の人物を演じているのが意外だった。デップは、そんな役もできるんだ。
◆ジェイムズ・M・バリーの戯曲『ピーター・パン』(1904)の誕生の前後の実話にもとづく映画。バリーをデップ、偶然公園で出会うピータ・パンのモデルとなる少年ピーターを『トゥー・ブラザーズ』でも「天才的」な演技をしたフレディ・ハイモア。その母シルヴィアをケイト・ウィンスレット(気丈だが病弱の身を演じるはずだが、基本的に体に自信のある彼女にはちょっと無理。ちょっとミスキャストと言えないこともない。演技自体はいいんだが)。シルビアの母、ピーターの気位の高い祖母をジュリー・クリスティが手堅く演じる。他に、劇場のマネージャーをダスティン・ホフマンが難なく。バリーのすれちがいの妻メアリーを『マイ・ボディガード』でもあまりぱっとしない(が、まあ手堅いんでしょうね)演技をしていたラダ・ミッチル。
◆舞台『ピーター・パン』の初演は、映画でも見ることができるように、役者をロープ で宙釣りにして、舞台の上を大胆に上下移動させる――要するに「ワイヤー」の――技法の斬新さで観客を魅了した。この効果にくらべると、「永遠の子供」というテーマは二義的だったのが、時代の風潮で「子供」という概念が重視されるにつれて、そちらにどんどん重心移動してきた。むろん、戯曲自体には「子供らしい子供」というテーマが濃厚にあることはたしかだが、それだけでは、舞台としては成功しなかっただろう。
◆ピーター・パンというのは、「ピーターパン症候群」のように、大人になれない大人の意味でとらえられることが多いが、この映画では、「ピーター・パン」がバリー自身と少年ピーター・ルウェリン・デイヴィスとの複合的な要素の産物であるように描かれている。
◆たしかに、バリーは、大人になっても少年の心を失わない男だ。彼は、妻メアリーとの生活よりも、シルヴィアの子供たちといっしょに遊ぶほうが楽しい。それは、シルヴィアが好きで、その子供たちにも好意をよせるといった、よくあるパターンをこえている。しかし、アートや創作に関わる者には、このぐらいの「少年性」ないしは「幼児性」は誰にでもある。映画の例で言えば、『ライフ・イズ・コメディ!』のピーター・セラーズ(奇しくも「ピーター」だが)なんかは、この映画で描かれるバリー以上に「幼児的」だった。
◆しかし、この映画で面白いのは、バリーが「ピーター・パン」のモデルにしたピーターは、少年なのに「少年」らしくない。それは、幼いときに父親を病気で失ったことも影響しているのだが、一人前の大人以上に現実をクールに見、「夢」なんか持つことはばかげていると思っている。この感じは、『34丁目の奇跡』に登場するサンタクロースを信じない少女に似ている。そして、バリーが『ピーター・パン』を書いた動機は、このピーターに夢を持たせるということもあったのだった。つまり、大人がいつまでも少年の心を失わないということを肯定するよりも、少年が、「子供らしい」心を失わないようにというバリーの願いがこの作品の基本的なモティーフになっている。
◆映画にも出てくるように、バリーは、『ピーター・パン』の初演に25人の子供たちを招待する。彼には、もともと、ビクトリア朝時代のチャリティ精神があったように思う。彼が、シルヴィアの死後、彼女の子供たちの後見人になったのも、彼らや彼女への愛からだけでなく、そうした精神からでもある。『ピーター・パン』からの著作権料は、バリーの遺言で、イギリスの「グレイト・オーマンド小児病院」に寄附されたのも、彼のチャリティ精神からである。幼いころにスケート事故で兄を失っているバリーは、悲しむ母のために兄の衣装を着たり、身ぶりをまねて母をなぐさめようとしたというエピソードがあるという。これは、ピーターとは大違いである。
◆だが、最近ニュープリントで再公開されている『エレファント・マン』の時代は、バリーが精神形成した時代とかさなる。この時代の「チャリティ」(慈善)が、単なる「心優しさ」や「人道主義」(というよりも、「人道主義」自体がこの時代の支配システムの産物である)の機能について、『エレファント・マン』についての再論で書いたことがある。チャリティを浮上させる時代というものがあり、それを必要とする支配機構がある。また、チャリティが浮上する時代は、「自由」な空気よりも、強権的な支配があらわになる時代でもある。ブッシュの時代にはチャリティ精神が浮上するのかもしれない。
◆この映画が肯定する『ピーター・パン』は、「子供らしさ」を賛美している。しかし、「子供らしさ」というものは、時代の産物である。アナール学派の重鎮フィリップ・アリエスは、『〈教育〉の誕生』(中内敏夫・森田伸子編訳、新評論)のなかで、「17世紀には無視され、18世紀に発見された子供は、19世紀には専制君主となる」と言い、「子供が社会生活の前面に現れてくるのは、習俗がいっそう都市化して、都市が農村をしのぐようになり、ブルジョワジーがより強力な階級となって、特権階級と民衆との両方に対して自らの地位をはっきりと際立たせるようになったときなのである。子供の歴史は、ブルジョアジーの歴史と結びついている」と言っている。
◆年令的に低い者としての子供を描くにしても、「ワルガキ」としての子供が新鮮だっ た時代もあった。これが、いま、一つの曲がり角に来ているのかもしれない。そうだと すると、それは、かつての「ブルジョワジー」(ポスト・プルジョワジーも含め)に代 わる新しい別の階級(それはまだ「普遍的」な名がない)のはじまりを予徴している。 ただし、「純真な子供」の時代が再来するわけではない。ニール・ポストマンも言った ように『子供はもういない』(小柴一訳、新樹社)し、フレディ・ハイモアやダコタ・ ファイニングのような年令的には幼くても、精神年令は「大人」である「子役」(舌が こんがらかる?)の存在と増殖自体が、子供の消滅を実証している。
◆ふと思ったのだが、『ハリー・ポッター』シリーズのなかの「子供」と日本で狂った 流行を展開しつつある「ヨン様」の笑顔のなかに見えるのもある種の「子供」が、「ワ ルガキ」と「純真な子供」に代わる新たな「子供」性なのかもしれない。
(メディアボックス試写室)
2004-11-18
●タッチ・オブ・スパイス (Politiki kouzina/A Touch of Spice/2003/Tassos Boulmetis)(タソス・ブルメティス)
◆国分寺から四谷に出て、地下鉄南北線で六本木1丁目へ。雨が降りしきる歩道を小走りに会場へ。雨のためか、夜8時という時間のためか、お客は古つわの数人だけ。が、独特の感動をよびさます作品だった。「ガストロノミー(gastornomy=美食学)にはアストロノミー(astoronomy=天文学)が潜んでいる」というせりふはすばらしい。Cucina Tokionese Cozimaの貴公子、宮木さん、ぜひ見てね。
◆最初、赤ん坊が乳首をくわえている乳房のアップではっとさせ、次のシーンでは惑星が浮遊する宇宙に赤いパラソルが小さく浮かぶ。見終わってからわかるが、この数分の冒頭シーンにこの映画のすべてが凝縮されている。一人の人物の誕生と成長。その果てにある宇宙。が、その宇宙は、物理的な対象としての冷たい空間ではなく、女性のものである赤いパラソルが浮く空想的な空間でもある。パラソルは人を覆い、カバーする。パラソルの下には愛があり、政治がある。
◆この映画の面白さは、その多角的な要素にある。香辛料や食材を商う個性的な人物(タソス・バンディス)を祖父に持ったファニス(少年時代をマルコス・オッセ、青年以後をジョージ・コラフェイスが演じる)の「ビルドゥングス・ロマン」であり、料理文化論であり、ファミリーの物語であり、イスタンブールに住んでいたために、ギリシャ人からは「トルコ人」とみなされ、トルコ人からは「ギリシャ人」とみなされた「境界人」の政治的な物語でもある。
◆この映画が描く時代は、1950年代から現代にまたがる。アジアとヨーロッパの分岐点とされるコンスタンチノーブルは、第2次世界大戦以前にイスタンブールと改称されていたが、そこには、ギリシャ系の人々も多数住んでいた。しかし、キプロスで大統領のマカリオス大司教が1963年に憲法を改正し、トルコ系住民の権利を縮小したことから、紛争が激化し、そのあおりで、トルコ系が多数派をしめるイスタンブールのギリシャ系住民への圧力が増す。そのあおりを食って、ファニスの一家は、ギリシャのアテネへの「移住」かイスラム教への改宗をせまられる。
◆ファニスの祖父は、イスタンブールという文化の混在・交錯する要所でスパイスを商ってきた。彼は、スパイスの哲人であり、スパイスを通じてすべてを考えてきた。孫のファニスにも、スパイスをかがせ、その実をならべならが、星座を教え、地理を教える。「ガストロノミーにはアストロノミーが潜んでいる」とは、彼の言葉だ。彼は、まさに、コンスタンチノーブル=イスタンブールの申し子のような存在だ。彼は、ギリシャ系でも、年令のせいか、移住か改宗かの選択からまぬがれる。フィニスの両親は、移住を望むが、彼は、イスタンブールにとどまる。彼にとって、この地だけが、「故郷」なのだった。
◆すでに中年となったファニス(ジョージ・コラフェイス)は、天文学の教授として学生たちの信望を得ていた(期末の授業が終わったとき、学生たちが拍手で彼をたたえるシーンがある)。彼は、料理の天才でもあり、何度か来るといいながら一度もアテネに来たことのない祖父が、今度こそやってくるというので、料理の準備にかかる。彼の脳裏に、子供時代の思い出がフラッシュバックし、舞台は、アテネからイスタンブールに移る。
◆少年時代の幼友達サイメ。祖父の店の二階の記憶。女たちが集まって盛大に行う料理パフォーマンス。母(レニア・ルイジドゥ)が用意しておいた肉ダンゴの材料を、徹夜で調理して、母以上の味に仕上げてしまった少年時代の思い出。移住を迫られた両親の逡巡。祖父や、すでに恋心をいだいていたサイメとの別れ。彼女は、いっしょに遊んだ料理のおままごとのセットをくれる。
◆場所や時代の運命と深く結びついた記憶がしっかりと描かれている。こういう映画は、物語を楽しむだけでなく、その記憶の再生が、見る者の過去や未来への思いとからみあって、さまざまな感慨にみちびく。
◆赤狩旋風をのがれてギリシャに居を移したジュールズ・ダッシンが、メリナ・メルクーリを使って作った傑作『日曜はダメよ』(Never on Sunday/1960)や、アンソニー・クイーンに新しい境地を開いたマイケル・カコヤニスの『その男ゾルバ』(Alexis Zorbas/Zorba the Greek/1964)は、封切り当時、世界的なヒットを飛ばし、ギリシャへの関心を高めるのに役立ったが、『タッチ・オブ・スパイス』は、こういう映画からはもれてしまったギリシャの境界部分に照明を当てる。ファイニスの一家がアテネで新生活をはじめるのは、1964年という設定になっている。
◆料理には、個人と社会、味覚とすべての知覚、現在と過去、「ここ」とはてしない「かなた」(いまここだけで生まれた料理などは存在しない)、天才的な思いつきと集団的な継承、観念と身体、生のものから「腐ったもの」(チーズやしょっつるのようなものを含む)、水から固形、「イタリア料理」とか「ギリシャ料理」とかいうが、一国の文化などには解消できない「複数多数性」があり、まさに、料理は宇宙だ。しかも、「宇宙」というとえらく観念的(わたしは、「地球を救え」などという規模の大きなことを言う人間を信じない)だが、料理の宇宙は、あなたやわたしの舌のうえに広がるミクロな宇宙だ。
◆世界を変えるのは、政治的な大事件ではなく、われわれの身近のあるミクロな世界の知覚や身体性の変化と出来事だ。だから、料理=宇宙というミクロな宇宙が少しでも変われば、世界は変わるかもしれない。その意味では、世界を変えるのは、革命政治家ではなく、料理人であり、料理で人を喜ばせることができる人である。だとすれば、ものの食べかたの変化は、世界が(よくも、わるくも)変わる予徴である。では、日本に関して、味覚や食べかたはどう変わっただろうか? テレビでの料理ブームはあったが、一過的で型通りの「グルメ」を生んだだけだった。むしろ、「グルメ」の流行で、日常の「食風」は、まずしくなっているような気がする。ある意味で、食事が、「戦場」の食べ物、「軍人食」になっている。これについては、稿をあらためよう。
◆すぐれた映画は、映画が終わって「やれやれ」と完結した気分をもたらすよりも、それまで展開したドラマが、では、この映画の幕切れのあと、どう展開していくのだろうかと考えさせるような終わりかたをする。この映画も、まさにそういう映画だ。あなたは、この映画の幕切れの続きを自分流に幾本もの「映画」にすることができるだろう。
(ギャガ試写室)
2004-11-17
●ゴジラ ファイナル・ウォーズ (Godzila Final Wars/2004/Kitamura Ryuhei)(北村龍平)
◆30分まえに行ったら、階段に列ができていた。東宝の社内試写でこういうことはあまりない。「内覧」は別にして、公式試写の初回なのでみな期待してきたのか、あるいは、業界内ですでに問題作といううわさが流れていたのか、あるいは、業界にゴジラファンが多いのか、とにかく、怖そうなプロっぽい感じの人たちが1階下のフロアまで列を作っている。やがて開場したが、かなり大きい試写室もすぐに一杯になり、通路に補助席が並ぶ。
◆しかし、オープニングからなにやら落ち着かないシーンが展開する。画面もビデオ的で奥行きがない。リズムはあきらかにゲームソフト的で、やたら隙間なくドンパチ、ドシャン、ガシャンとそうぞうしい。東宝の音響設備はあまりよくないので、キンキンした音が不快に響く。30分ぐらいで退場した女性がいた。この人は、古くから試写に来ているプロ。賢明だ。わたしも出ようかと思ったが、見届けないで批評することはできないので、がまんして座りなおす。
◆「シリーズ50年の集大成」とのことだが、これでは「シリーズ」に失礼ではないか? ほとんどゴジラはつけたりで、世界中に怪獣が出没し、都市を破壊し、そのあげく、宇宙船に乗った異星人がやってきて、地球上の人間を「家畜」にしようとする。それと闘う分子生物学者・音無美雪(菊川怜)、地球防衛軍のミュータント・尾崎真一(松岡昌宏)、同じく風間勝範(ケイン・コスギ)、少佐(國村隼)、そして映画初出演のドン・フライ演じる大佐。国連事務総長は、宝田明(ヒゲのせいか、なんかやつれている)、X星人司令官を伊武雅刀(なんでいつも同じ演技なんだ)。泉谷しげるが、ゴジラの子供かなんかを見つけるわけのわからない役で出てきたり、水野真紀がテレビのコメンテイターのような役で出てきたり、異星人が(最初は平和的な態度で)来訪し、テレビのトークショーで、大槻義彦「教授」や松尾貴史や篠原ともえらがパネルディスカッションするシーンなんかもある。
◆グローバルに場面を移すのはいいが、海外のシーンがどれも安手すぎる。みんなこじんまりしたスタジオとCGIでごまかした感じ。これでは、場所を大規模に移動させる意味がない。モスラ、妖星ゴラス、ラドンなど有名怪獣も姿をあらわすが、その出しかたが、ただの「引用」に終わっている。これもゲーム的かもしれない。
◆この作品が、はからずもあらわにしたのは、「ゴジラ」は、日本との関係を重視しないとダメだということだ。これまでのシリーズでは、日本の危機管理の状況の一端がほの見えたり、同時代の日本社会の(たいがいは反動的な)とらえかたが見えたりした。「ゴジラ」シリーズは、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』をさかいにダメになり、『ゴジラ X モスラXメカゴジラ 東京SOS』は「最悪」とわたしは酷評したが、これよりはましだったのは、日本との関連を立ち切ってはいなかったからだ。北村は、そういう要素をはずしたかったのだろう。しかし、「ゴジラ」のそうしたコンテキストをはずすと失敗するのは、アメリカ版の「ゴジラ」つまり『GODZILLA』で証明済みではなかったか?
◆監督の北村龍平は、『あずみ』では、時代劇に新風を吹き込んだ。が、この作品では、「ゴジラ」の基本をはずしてしまったので、新風を吹き込むどころか、ゴジラをつけたりにしてしまう結果となった。ただ、生身の役者が演じる部分と、CGIによる映像との乖離が、どこか『CASSHERN』(これも失敗作)と共通しているところがあり、北村が1969年、紀里谷和明が1968年の生まれというから、どこか、この世代特有の共通性のようなものがあるのかもしれない。おそらく、どちらの作品も、ケータイまでいかなくても、映画のスクリーンよりももっと小さな画面で見れば、けっこう面白いかもしれない。テレビ屋が映画を作って失敗することがあるが、これは、ゲーム屋あるいはミュージック・ビデオ屋が映画を作って失敗したような感じ。その失敗は、いずれ成功に転じるかもしれない。見る者の感性が変われば、評価は変わるから。しかし、わたしには、カップリングできなかった。
(東宝試写室)
2004-11-16_2
●きみに読む物語 (The Notebook/2004/Nick Cassavetes)(ニック・カサベテス)
◆マスコミ関係者のほかに女性をターゲットに試写状をばらまいたらしい試写会。毎度のことながら、宣伝でわざわざ来日する俳優や監督は大変だと思う。今日のゲストは、初来日というライアン・ゴズリング。顔ににあわず名前を呼ぶときに格闘技のリング司会者のようなデシベルが急上昇した声を出す女性司会者もさることながら、その演出の拙劣さには驚いた。「ツーショット」とかで花束を持って登場した小倉優子が、すでに見ているというこの映画の感想をきかれ、「映画はいつも半分ぐらいで見るのをやめツァウんだけど、この映画は全部みれまスタ」だって。そして、彼女からの「特別プレゼント」を披露したが、それが、チンケなケーキ。客席からは見えないが、そのトップに「You and Ryan」と描いてあるという。優子とライアンがどちらも11月生まれだというので、いっしょにバースデーを祝うケーキだというのだが、子供じみたな演出ではないか。せっかく舞台にのぼっても、しゃれた大人の会話の機会もあたえない。いや、そういうことが出来ない相手をえらんで、新聞とテレビのための絵柄だけを作る。しかし、ひるがえってみると、こういう「儀式」で迎えられたライアンの側からすると、あまりに馬鹿げた意外性に富んでいてかえって新鮮だったかもしれない。
◆わたしがずっと見てきた監督ジョン・カサベテスと女優ジーナ・ローランズの息子とあって、ニック・カサベテスの仕事には、友人の息子の仕事を見るような気持ちがはたらかないでもない。が、その彼も45歳になり、本作では堂々とした風格のある演出ぶりを見せている。ボーイ・ミーツ・ガールのラブストーリーとして見ることもできるし、たがいに老いた2人が、老後施設で回想しあう(が、一方はアルツハイマーにかかり、記憶がとぎれる)物語としれも、また、実は、そんな物語は実話ではないが、老後施設で知り逢った老人男女が男の物語る青春の愛のストーリを媒介にして交流しあう話としても、あるいは、もっと別の視点からも見れる・・・といった多様性を内包しているところが見事だ。
◆2つの領域にまたがっているので、幅広い観客を動員できる。事実、アメリカでは今年の夏の興業収益で1995年に『マディソン郡の橋』が達成した7千百マンドルを越えた。若者の話がメインでありながら、老いゆく者の話としても、しっかりしている。「回想」部分は、南部の田舎、老後施設はモダンな都会的な装いを持ち、田舎派にも都会派にも受ける。アッパーミドルの娘とワーキングクラスの青年との出会いという両階級にまたがるところも憎い。
◆愛し合う2人の名は、ノア・カルフーン(ライアン・ゴズリング)とアリー・ハミルトン(レイチェル・マクアダムズ)。戦争と両親の干渉で引き裂かれ、そこに登場し、すぐに婚約してしまうアリーの相手がロン・ハモンド(ジャームズ・マーズデン)。老後施設にいるアルツハイマーの女性がアリー・カルフーン(ジーナ・ローランズ)。彼女に「ノートブック」(これが原題)を読んできかせる老人がデューク(姓は明かされない)(ジェームズ・ガーナー)。ここからすると、ジーナが演じている老人は、一応、マクアダムズが演じる若い女性の老後のすがただと考えられる。そして、ちらりと見える文字から、その「ノート」の筆者がアリーであることもたしかだ。そして、「アリー・カルフーン」という名からして、彼女が、ノア・カルフーンと結婚したこともたしかだ。しかし、それでは、「デューク」とは誰なのか? 記憶がつかのまよみがえったアリー・カルフーンが、彼を「ノア」と呼び、それにデュークのほうもあわせるシーンがある。
◆デュークとアリー・カルフーンが施設の庭でくつろいでいるところへ、デュークの子供と孫たちがやってくる。そのときのシーンは、アリー・カルフーンが彼や彼女らの子供や孫であるようには描かれない。あるいは、彼女が記憶を喪失しているためにわざとそうしているようにも見える。しかし、そのとき、子供の一人が、デュークに「お母さんの痴呆が進んでいるから帰ってきて」と言う。すると、デュークは、「まだ帰れない。(アリー・カルフーンは)ぼくの一番大切な人だからね」と答える。これは、何を意味するのか? また、アリーの部屋で、写真のアルバムを開いて見ているシーンで、そこに若きアリーといっしょに映っているのは、ロンばかりなのだ。このへんの「あいまいさ」が、面白い。映画というのは、こういうのがいいと思う。
◆ジーナ・ローランズは歳相応だと思う(しかし、『微笑みに出逢う街角』のソフィア・ローレンもそうだったが、どんなに老いても脚だけは尋常でなく美しいところが普通の人と女優の違うところ)が、サム・シェパードは、そういう役だとしても、ずいぶん老いた。わたしより年下だというのに(え、おまえはもっと老けてるって?!)。
◆アリーが、ノアとの仲を裂いた母(ジョン・アレン)を責めるシーンで、彼女は、娘を町はずれの製材場へつれて行き、車の遠くに見える老人を指し、言う。自分は昔あの人が好きだった。しかし、結婚しなかった。それは、よかったと思う。結婚しなかったからいまの(豊かな)生活がある。だからお前も・・・と言って、言葉をつまらせ、目から涙が流れる。こういうように、登場人物をただの「悪役」にせず、それぞれの心の屈折を描くところが、ニック・カサベテスの成長ぶりを示す。
◆この映画をただのラブストーリーとして見る観客にとっても、(かつて『カサブランカ』の観客たちがやったように)暗記してくちずさみたくなるような「決まっている」せりふが何か所もある。
◆「アイル・ビー・シーイング・ユー」が効果的に使われる。最初は、ビリー・ホリデー、後は、ジリー・デュラントが歌っている。ジミー・デュラントは、"Jimmy Durante's Way of Life"(1965)に入っている。ビリーのはよくつかわれるが、デュラントのを選んだのは、渋い趣味。
(丸の内ピカデリー2)
2004-11-16_1
●微笑みに出逢う街角 (Between Strangers/2002/Edoardo Ponti)(エドアルド・ポンティ)
◆TCCは、星の数ほどある試写室のうちで、たぶん一番狭い(特に椅子と椅子とのあいだが)試写室かもしれない。上を高速道路が走るビルの地下にあり、機械室なんかがある廊下の一角に異質な雰囲気をただよわせていた。歴史は古く、重要な試写がかなりあった。フランソワ・ロゼーに似た「マダム」(が、若い者にもいばらない)が仕切っていて、独特のスペースだった。久しぶりに行ったら、これまで3個所ぐらいあった外から地下への入口が、工事中で一か所になっていた。この日、スクリーンを見あげるような最前列をみたら、パンフレットが何枚も置いてあって、予約席になっていた。しばらくして、けたたましい声とともにあのO氏が入場。少しおとなしくなったと思ったら、本性は変えられないらしく、後ろの女性と仕事のスケジュールから、その「死にそうな忙しさ」、手にはめているアクセサリーについて露悪症的パフォーマンス。狭い場内なので、みんな静聴するしかないのだった。しかし、映画は、気分をすぐに一新。最後のシーンは、予想できるありがちなパターンを裏切り、持ち帰って反芻したい感動を残してくれた。
◆出演者を見て、一体こんな大物をそろえてどう使うんだよ!?という思いが走る。ソフィア・ローレン、ジェラール・ドパルデュー、マルコム・マクダウエル、そして『メフィスト』や『ハヌッセン』のクラウス・マリア・ブラウンダウアー。はじまってみると、ドパルデューは友情出演的な感じだが、それぞれに適材適所の配役。プレスの写真では、白髪が増え、えらく老けて、サエない感じに見えたマルコム・マクダウェルも、その設定がわかると、なるほどと思う。ブラウンダウアーも、かつて報道カメラマンとして名をはせたという前歴を前提とすると、何をやっても別格あつかいの役柄をやってきた彼なら、適役だ。ピート・ポスルスウェイトは、「大物」とはいえないが、かつてオリンピックの選手でもあったが、事故のために車椅子の生活に突き落とされ、運命をのろい、気難しくなっている人物を見事に演じ、『シッピング・ニュース』で見せた「変人」役を越えた。
◆3人の女性は、いずれも、夫ないしは父親との確執をいだいている。自分の不幸を呪っている夫ジョン(ピート・ポスルスウェイト)とその妻オリビア(ソフィア・ローレン)、有名なフォトグラファーの父アレグザンダー(クラウス・マリア・ブラウンダウアー)を持つ売り出し中のフォトグラファー、ナタリア(ミラ・ソルヴィーノ)、妻を殺したが、刑期を終えて出獄する父アラン(マルコム・マクダウェル)とチェリストの娘キャサリン(デボラ・カーラ・アンガー)。3人の女性が、同じ街トロントでそれぞれのドラマをくりひろげる。こういう場合、『ラブ・アクチュアリー』のように、途中で、たがいに知らないまますれちがったり、間接的なつながりをもったり、何段階かの「じらし」を重ねたのち、最後に一堂に会させるというのがこの手の映画の定石だ。しかし、この映画はちょっとちがう。それは、見てのお楽しみ。
◆もう一つの共通項として娘/少女の存在がある。3人の女性は、いずれも娘/少女のことを意識している。オリビアは、初恋の人とのあいだに出来たが、強引に引き離され、その消息を知らない娘を。ナタリアの頭から、アンゴラで撮った少女の顔が離れない。撮っていたので彼女の命を救うことができなかった。キャサリンは、別居した夫のもとにいる娘のことを。彼女をしたって頻繁に電話してくるが、彼女は出ない。娘/少女を意識する者は、年格好の似た少女を見かけると、普通の意識ではいられない。3人の女性たちは、それぞれことなる思いで、若い娘を見る。異なる意識が並行的に描かれ、しかも、ドラマのなかではなくて、むしろ観客の意識のなかで混じりあうようにつくられているところが、この映画の面白さだ。
◆オリビアの場合、本当の父は、恋人の子供を宿した娘を断罪し、彼女は、フィレンツェを捨てて、最終的にトロントに住んでいる。色々あったろうが、いまは、車椅子生活のジョンと暮らしている。彼につくす姿は、年令的には変わらないとしても、自分の父を介護しているかのようだ。オリビアにとって、ジョンは、ある種の「父」なのだ。ジョンは、やけにじゃけんにオリビアをあつかうが、彼女はそれに甘んじているように見える。しかし、やがて、ジョンは、「美人のおまえがおれなんかといっしょにいるのは慈善なんだろう」と心の屈折を爆発させる。
◆戦場でシャッターを切るのと、そこで倒れている人間を救うのとどちらが重要か、というよく問われる問い(わたしは、この問いは、基本がまちがっていると思う)で悩んでいるナタリアは、ビッグメディアで報道することの意義を少しも疑わない(これも、単純すぎる定義だ)父親に疑問を感じる。ソルヴィーノもブラウンダウアーもしっかり演じているが、そういう「人道主義的」な意見の相違にもとづく対立よりも、フォトグラファーとしての「先輩」への嫉妬とか、同業の親と娘同士の競争意識とかもくわえるべきだった。その点で、ナタリアと父との関係はかなり皮相で、だから、オリビアと夫、キャサリンと父との関係のように、相手を否定しながらも、自分が思っていたのとは違う考えを相手が持っていたことに気づくというような側面はない。
◆ナタリアが着ているTシャツには、漢字の「愛」という文字が大きくプリントされている。彼女がオフィスで使っているコンピュータはMac。彼女が父親と日本料理レストランで食事するシーンで、やるなと思ったら、「板前」が平ら貝にあびせかけた酒(焼酎か?)を大げさな身ぶりで燃やすのだった。海外に行くと、こういう「パフォーマンス日本料理」があり、辟易する。
◆酒乱で妻に暴力をふるい、ついには彼女を死なせてしまった父を許すことができないキャサリンだが、父親はモンスターではなく、深い自責の念にかられている。22年の刑期は終えたが、その余生を自分の罪のあがないのためにささげてしまっもいいという思いが顔にあらわれている。だから、彼は、その風体(『時計じかけのオレンジ』のマルコムが歳をとったらこうなるのではないかと思わせるような)からすれば、一撃のもとにやっけてしまえそうな街のチンピラに暴力をふるわれても、無抵抗に耐えている。
◆この映画では、親はみな因果である。自分の親に対して。そして、親として自分の子供に対して。ナタリアには子供はいないが、アンゴラの戦場で自分の目のまえで死んだ少女は、自分の娘を失った喪失感にひってきするかのようだ。離婚や死や意見の不一致による決別の悲しみとそこからの脱出。生きて入ればあたりまえのことだが、それをたんたんと描いた映画は少ない。この作品はそのことに成功している。
(TCC試写室)
2004-11-15
●レイ (Ray/2004/Taylor Hackford)(テイラー・ハックフォード)
◆そっけないタイトルではもうわからない人もいるかもしれないが、言わずと知れたレイ・チャールズの伝記的な映画。『コラテラル』でコンヴィンシングな演技を見せたジェイミー・フォックスが゚モ身の演技でダブルでアカデミーノミネートではないかといわれる作品。たしかに、レイ・チャールズを知っていても、「そっくり」という印象を受ける。いつも黒メガネをかけ、身ぶりが独特なので、比較的役になりきりやすいとしても、ジェイミーの入れ込みかたはすごい。この映画を見て、帰りにCDを買ってレイ・チャールズを聴いてみようという観客は少なからず出るはずだ。
◆よく出来ているし、「感動的」だから、ここでやめておけばいいのだが、「素朴リアリズム」には一線を置くわたしとしては、こういう「そっくり」ものには、ひとこと言うのをおさえることが難しい。映画には、「教育」の機能があるし、それはそれで必要な機能だと思うが、「そっくり」であることへの情熱と、とりあげる人物へのアプローチの情熱とは、必ずしも同じではない。「そっくり」を目指したことですっ飛ばされてしまうこともある。特にこの映画のように、レイ・チャールズを賛美するような場合には。
◆盲目の若者が、自力で生きていくには、運とともに、相当なしたたかさがなければ無理だし、ましてビッグスターになるには、あくどさも必要だ。実際のレイ・チャールズがしたたかな人物であったことはよく知られている。しかし、この映画では、レイのしたたかさや金へのうるささは、たかだか、『ブルース・ブラザース』でレイが演じていた楽器屋のオヤジが見せた程度(つまりレイが映画のなかで演じた程度)にしか描かれていない。つまり、この人物の「悪」の部分、ダーティな部分が全くえがかれていない。ヘロインにはまり、それを自力で乗り越えるくだりはあるが、それもいかにものパターンで描かれる。
◆弟が洗濯桶にはまってしまっをのをレイは驚きのあまり呆然と立ちすくんだままでいて、彼が溺死してしまうという事件が起こる。この9ケ月後にレイは失明したことになっており、彼にとってこのことが一生「トラウマ」になるというように描かれる。弟が溺れるシーンがフラッシュバックでくりかえしよみがえる。が、映画としては描きやすいし、ついつい納得してしまいそうな話ではあるが、こういう話は、気をつけたほうがいい。この事件には、もっと陰惨な事実があるかもしれないし、レイは、「トラウマ」なんかもたなかったもしれない。
◆母親(シャロン・ウォレン)は、失明したレイに対して、他人に依存しないで歩くことを教える。彼は、反射音や周囲の音を感じとって、杖なしで歩く「耳で見る」方法をあみだす。彼の「独特」の身ぶりはこのことと関係がある。このへん、映画ドラマとしては「感動的」なのだが、レイ・チャールズ本人は、実は、かなり「見えている」という説もある。
◆表現したり、創造的に思考するには、さまざまな制約はあるにせよ、その条件のなかで「自分勝手」に徹しなければならない。生活のため、家庭のためとか言ってはいられない。レイ・チャールズの人生は、そういう「自分勝手」を通した生活だった。魅力ある女というより「美人」(手首を触るとすぐにわかるという)に目がなく(?)、正式に結婚したゴスペル・シンガーのデラ・ビー・ロビンソン(ケリー・ワシントン)との家庭生活のほかに、この映画に描かれるだけでも、バック・ボーカルのメアリー・アン・フィッシャー(アーンジャニー・エリス)や、ボーカルのマージー・ヘンドリックス(レジーナ・キング)と関係がつづいた。ヘロインを覚えたのは、1950年ごろらしいが、結婚後、デラに見つかり、糾弾されたが、やめなかった。1965年に彼は、カナダのモントリオールからの帰り、ボストンのローガン空港で、麻薬の所持で逮捕された。有罪になったが、クリニックに入って中毒を克服した・・・ということになっている。有名な話だし、ミュージシャンではよくある話である。
◆問題は、家庭持ちが愛人をつくり、ドラッグをやり、しかも逮捕までされると、「普通」の人間なら、社会から追放されてしまうが、レイの場合は、そうではなかったし、あとから映画でドラマにできる程度のエピソードになっているという点だ。才能があっても、些細な「法律違反」で社会的生命を絶たれてしまった「有名人」はいくらでもいる。どうしてそう差が出来るのかにわたしは興味をもつ。レイの場合、十分社会的に貢献したからというのは、理由にならない。浮気もドラッグも、結局は、共同体や国家の都合と利害で「悪」と決められているにすぎないのだが、そういう共同体や国家の枠の外で生きてしまう「マレ人」の存在がなぜ可能になるのか、人はいかにすれば「マレ人」になれるのか、どうすれば、多くの人が「マレ人」になることができるのか・・・・といった問いである。
◆レイの場合は、やはり、それだけしたたかだったのだとわたしは思う。そういうしたたかさは、1948年に単身バス(当時はまだ黒人席は白人と別になっていた)に乗ってシアトルに行き、ナイトクラブでピアノの弾き語りの職を見つけたときの、ギャラの受け取り方のシーンぐらいにしかはっきりとは描かれてはいない。この程度では、いかに「マレ人」になるかという上の問いの参考にもならない。
(UIP試写室)
2004-11-10
●戦争のはじめかた (Buffalo Soldiers/2001/Gregor Jordan)(グレゴール・ジョーダン)
◆すでにアメリカ版のDVDを見ているので、少し躊躇したが、渋谷の街に出かける。軍隊や軍人を皮肉り、パロディ化しているのは笑えるし、その手並みはまずまずのものである。しかし、その技法は、ロバート・アルトマンの『M★A★S★H』やマイク・ニコルズの『キャッチ22』の延長線上のもので、彼らの1970年代とはちがい、いまの時代(この映画はベルリンの壁が崩壊する寸前の1989年10月のシュツッツガルトの米軍基地という設定)には、ただの「気晴らし」になってしまうように思う。もう、皮肉やパロディでは、状況にトゲを刺すことはできないのだ。このことは、マイケル・ムーアの『華氏911』にも言える。
◆ホアキン・フェニックスは、組織を逆手にとってぬくぬくと生き延びていく、『釣り馬鹿』のハマちゃんを陰険にしたような人物をまあまあうまく演じている。一見「まとも」そうで、次第にサディスティックな病的性格を暴露していく曹長を演じるスコット・グレンは、はまり役だ。いいかげんな大佐役のエド・ハリスは、かならずしも彼でなくてもいい。
◆「軍人には最高の馬鹿と最低の馬鹿とがいる」というせりふは、この映画の姿勢を示している。つまり、全部「馬鹿」ばかりの世界だという上空飛翔的視点がまずあるということ。しかし、実は、そう言っているのが、一番「馬鹿」つまり「超絶的」馬鹿かもしれない。
(シネカノン試写室)
2004-11-09
●ボーン・スプレマシー (The Bourne Supremacy/2004/Paul Greengrass)(ポール・グリーングラス)
◆久しぶりにイイノホール。かつて大人のスペースだったイイノビルも、通路に安いランチの臭気がたちこめる古ビルになったしまった。が、1階の文誠堂という文具屋には、めずらしい輸入文具などがあり、まだえがたい存在。こちらの身体の状態のせいか、上映まえのアナウンスがえらく神経にさわった。化粧室のこと、ケータイのこと、貴重品の管理のこと、観客を子供あつかいしている。この映画は、他人は何も教えてはくれないし、頼りにはならないという「哲学」が根底にある映画だから、あえて、そういうアナウンスをやったのかな?
◆マット・デイモンは、うまいシリーズものに「就職」してしまったという印象。今回も楽しめる。ちょっと気晴らしに映画を見たいというのには、もってこいのサスペンスだ。しかし、前作『ボーン・アイデンティティ』にくらべて、「反権力的」要素が薄くなった。前回は、デイモン演じるCIAエイジェントを抹殺しようとするCIAには、「善人」は一人もいなかったが、今回は、CIAのなかにも色々いるという路線に転換した。
◆前回におとらず、殺し屋の個性には気を配っていて、「ロシア」の殺し屋を演じるカール・アーバンはなかなかいい演技をしている。「危険な男」をいう雰囲気をただよわせる。
◆ふと思ったが、マット・デイモンは、どこかイチローに似ている。
◆このシリーズの製作的うまさは、ハリウッドがユーロマネーで映画を作れることにある。典型的なグローバル商品。フランス映画が登場人物に英語でしゃべらせるというようなことをよくやるようになったが、この映画は、適度に(イタリア人が英語をしゃべっているのは無理があるように感じることもあるが)ヨーロッパの各地の「絵ハガキ」的ローカリティをブレンドしながら、インドのゴアから出発して、カメラをロンドン、ベルリン、ナポリ、モスクラ、ニューヨークへシャープな切り口で移動し、インスタントな「国際旅行」を味わわせるのがうまい。
(イイノホール)
2004-11-08
●ライフ・イズ・コメディ! (The Life and Death of Peter Sellers/2004/Stephen Hopkins)(スティーヴイン・ホプキンス)
◆ピーター・セラーズ が好きなら、見逃せない作品。わたしは、1979年にニューヨークで『チャンス』を見るまで、ピーター・セラーズというのは、多芸なだけの、しかしどちらかというとエンターテイメント系の職人芸的な俳優だと思っていた。『ロリータ』や『別れの街角』のようなマジメな役も見ていたが、『博士の異常な愛情』以後の『007/カジノロワイヤル』や『ピンク・パンサー』のイメージが強かった。だから、『チャンス』を見たときには驚いたし、彼が本当にやりたかったのは、こういうキャラクターだったのかと思った。
◆『ライフ・イズ・コメディ』は、多芸俳優から、(近代西欧的)自我を喪失した(あるいはそれを越えた)「チャンス」という人格に自分を見い出す過程が、よくえがかれている。この映画では、ピーター・セラーズ自身がジャージー・コジンスキーの『Being There』に惚れ込み、映画化に持ち込んだようになっている。そうだったのかもしれないが、故ハル・アシュビーの選択やジャージー・コジンスキーの働きかけもあったはずだ。が、ここでは、彼らのことは全く触れられない。
◆ピーター・セラーズの役なんて誰にもできないから、ジャフリー・ラッシュは、かなりいい線をいっていると思う。とにかく、さまざまな出演作品の名場面を再現し、ピーターの言い回しと身ぶりを不自然な感じを与えずになぞっているいる。その点で、ソフィア・ローレン(ソニア・アキノ)はお粗末だった。『求むハズ』(The Millionariress/1960)で共演したピーターは、彼女に惚れ込み、接近したが、あっさりいなされる。が、この映画の時期のソフィア・ローレンといえば、濃艶で気位の高い独特のアウラを放つ女優であり、とてもソニア・アキノでは演じるのが無理だ。
◆4度の結婚と離婚のなかで、別れても何かと心の支えになっていたのは、最初の妻アン(エミリー・ワトソン)。基本的にピーター・セラーズは、マザコン息子で、母親のペグ(ミリアム・マーゴリーズ)をつねに意識していたし、彼女のほうも、「ジューイッシュママ」特有のパワフルでナルシスティックな「愛情」でピータを支配しつづけた。
◆ピーターがまだBBCのラジオ番組『グーン・ショウ』で有名だったころのシーンが再現されているが、擬音の出しかたや、ほとんどパフォーマンス・ショウであった当時のラジオの面白さがヴィヴィッドに描かれている。いま、テレビの公開録画や公開放送というのはあるが、ラジオのはほとんどないだろう。あっても、小さなサテライトのガラス越しになかの放送風景を覗く程度だ。ラジオは、まず、局に集まった観客にとってのパフォーマンス・ショウであり、その第2次的な成果として電波を通じて受け取られる番組があった。
◆ピーターは、家でムービーを回していたらしい。彼が撮ったフィルムが6時間ほど残っており、それがこの映画の製作に大いに役立ったという。1950~60年代だから、まだ16ミリだろう。わたしが高校で生物を教わった吉川涼先生は、遠足などに行くと、いつも「エルモ」のムービーカメラを回していた。まわりでは誰もそういうのを持っている人がいなかったので、えらく高級なことをやっているように見えた。
◆子供みたいな気質を捨てなかったピーターは、つまらぬことで自分の息子にあたり、そのオモチャを壊してしまうが、翌日、代わりのプレゼントを用意して彼を驚かせる。それが何と子馬なのだ。こういうのは、金持ちや成金のやるパターンで、バルコニーにあらかじめバンドを待機させ、カーテンを開けると演奏が始まって、愛する相手が驚くとか、映画でも何度も見た。しかし、最近は、日本でもこういうことを自分の家でやるような手合いがいるらしい。
◆あまり乗り気でなかったピーターを何度も「ピンク・パンサー」の企画に乗せたブレイク・エドワーズ(ジョン・リスゴー)との関係は、エドワーズがやり手で、ピーターがお人好しだったというのは当たっていない。ふたりには、たがいに持ちつ持たれつのところがあり、ピーターにとってエドワーズは、ある種セラピスト的な役割をしていたのではないかと思う。
◆21歳でピーターと結婚することになるスエーデン出身の女優ブリット・エクランドをシャリーズ・セロンが演じている。例によって、この小娘女優になりきり、『モンスター』とは対極の役柄を演じ切っているが、セロンでなくてもよかった気もする。
(映画美学校第2試写室)
2004-11-03
●Mr.インクレディブル (The Incredibles/2004/Brad Bird)(ブラッド・バード)
◆発表を約束していたゼミの学生がドタキャンしたので、ゼミが普段より早く終わった。有楽町までギリギリに着けそうなので、ダメモトで駅に急いだ。特快に乗れて、上映の20分まえに到着。しかし、案の定、すでに満席で、立ち見も満杯だという。そういうときは、あきらめないでしばらく、たちどまり、名案を練る。それがうまくいって、入るには入れた。先日の長旅で腰を痛め、腰を下ろすと立つのが苦痛なので、ゼミの時間も立っていた。電車のなかも立ち通し。映画は2時間。う~ん、ちょっとこたえたが、人間は立つ動物である。
◆映像のエロティックなまでのなめらかさ、Mr.インクレディブルことボブ・パール(声:クレイグ・T・ネルソン)とその妻エラスティガール(体が自在に延びる超能力の女性)ことヘレン・パール(ホリー・ハンター)の体質をきわめて「合理的」に(しかも飛躍的なひらめきをもって、つまり「有機的」に)展開させる創造性。映像技術の可能性とキャラクター、空間設定、ストーリー、エピソードが整合的につくられている。
◆スーパーマン的な人助けの時代が終わり、超能力を持つ者が自粛しなければならない時代になり、かつて数々の英雄的な功績をあげたMr.インクレディブルも、「普通」の人になって、ひっそりと暮らしている。さもないと、人を助けるためにそのスーパーパワーで家を壊したとか、おびただしい訴訟に巻き込まれるのだった。彼は、英雄的な時代に知りあったヘレンと結婚し、3人の子供がいる。子供たち、長男ダシール・'ダッシュ'(声:スペンサー・フォックス)、長女ヴァイオレット(声:サラ・ヴォーウェル)、まだ赤ちゃんの弟ジャック・ジャックは、いずれも、両親のDNAを受け継ぎ、それぞれ特異な能力を身につけている。
◆そんな彼のところへ、ある日、「いよいよ出番だ」と彼を説得する招聘が舞い込む。妻に黙ってその誘いにのった彼は、わなにはまってしまう。ストーリーは、そのMr.インクレディブルを救うために妻と子供たちが結束し、さらに、世界を滅ぼそうとしている黒幕シンドロム(声:ジェイソン・リー)との一家をあげての闘いがはじまる。
◆シンドロムことバディ・パインは、かつては、スーパーヒーローオタクだったが、Mr.インクレディブルにすげなくなれたのをさか怨みし、持ち前のスーパーパワーではなく、テクノロジーによる後天的な力によってスーパーヒーローに対抗しようとする。ここには、「天性派」と「後天性派」との違いが設定されているわけだが、これを思いきり拡大して、いまのアメリカ社会にあてはめてみると面白いかもしれない。
◆「天性派」は、手持ちの生身の体だけで勝負する。「後天性派」は、闘うために先端技術に頼る。これは、軍事志向を強めるいまのブッシュ政権のやり口と重なる。映画のなかでも、シンドロムは、数々の先端兵器を作り、売買している。しかし、「天性派」は、自分らの血族やDNAへの信仰があり、基本的に特権階級である。自分らの能力は、もともと自分たちにそなわったものであり、余人に許されたものではないことを知っている。他方、「後天性派」は、才能とは応用の才であり、その意味では、誰にでも開かれていることを暗黙のうちに認めている。信仰があるとすれば、自分自身に対してではなくて、テクノロジー信仰である。
◆こう考えると、どちらも、いまのアメリカを困難に追い込んでいる要因であり、どちらか一方がよいとは言えない。この違いは、民主党対共和党的と言えないこともない。
ということになる。
◆世界を救うのは、超能力かそれともテクノロジーかという問いは、基本的にまちがっている。世界を危機に陥れるのは、超能力者とテクノロジーであり、超能力がすべての人々に平等に配分されるような社会が生まれれば、危機は起こらない。危機を起こすテクノロジーは、テクノロジーのかたよった使い方から起こる。イヴァン・イリイチ流に言えば、そのようなテクノロジーは、「コンヴィヴィアリティのためのツール」として使われていないのだ。
(丸の内ピカデリー2)
2004-11-02
●ポーラー・エクスプレス (The Polar Express/2004/Robert Zemeckis)(ロバート・ゼメキス)
◆アメリカから帰って最初の試写。大分まえに試写予定の情報といっしょにクリス・ヴァン・オールズバーグの大判の絵本(『急行「北極号」』、あすなろ書店)が送られてきたので、驚いたが、そういう念入りなキャンペーンをしてきただけあって、立ち見の出る盛況。映画の出来は悪くないが、ゼミキスの作品のなかでは中ぐらいか。原作(村上春樹の訳だが、あるいはそれだからか、 えらくそっけない訳文)では、「サンタなんて、どこにもいないんだよ」と友達に言われたが、そんなことは信じなかったと言うのだが、映画の主人公は、半信半疑。そこへ北極行きの列車が到着する。全然疑っていなかったのなら、列車が到着する意外性がなくなってしまうから、村上の訳は誤訳ではないだろうか?
◆この物語の基調は、『34丁目の奇跡』(ウィリアム・パールバーグの1947年版と、レス・メイフィールドの1994年版とがある)とスピルバーグのなかなか味のある短編『ゴースト・トレイン』(『世にも不思議なアメージング・ストーリー2』所収)とを混ぜたような感じがある。たまたま、わたしが見ていた作品を思い出しただけかもそれないが。映像は、わくわくするほど見事である。
◆すぐトム・ハンクスとわかる声が、ナレーション(大人になった少年の回想)、父、車掌、最後のテーマソングとやたら登場し、車掌のかけ声やソングでトム・ハンクスらしくないかけ声をあげるので、彼のこの作品への入れ込みはわかるが、なんか「みっともない」という感じがしてしまった。プレスによると、この映画では、「パフォーマンス・キャプチャー」の技法(「モーション・キャプチャー」よりも進んだ技法)が採用されており、トムをはじめとし、生身の俳優からその身ぶりや表情をサンプリングしたという。たしかに、車掌の表情などは、トム・ハンクスに骨格がよく似ている。
◆サンタクロースの存在を信じられない少年、クリスマスにいいことなど一度もなかったので、北極行きの列車に乗ろうとしない少年、陽気にサンタを信じる黒人の少女・・・いくつかの異なるキャラクターの子供たちが、助けあいながら、北極に着き、サンタとおびただしい数の小人の妖精「エルフ」に会う。何かを信じ、夢をいだくことの重要さを教えるという点では、ハートウォーミングなのだが、問題は、キリスト教である。折しも、アメリカの選挙が始まろうとしている。キリスト教の信者たちは、ブッシュ支持の主力である。気のせいか、最近のハリウッド映画には、キリスト教を肯定する作品が多い。そのため、わたしは、「メリー・クリスマス!」とか「信じることが大切だ」というようなせりふを耳にするたびに、ブッシュへの投票をすすめる声のように思えてしまうのだった。
◆アメリカで会ったひとたちは、誰もブッシュを支持してはいなかったが、タクシーの老運転手は、断固ブッシュ支持で、「おれは、ベトナムで怪我をして病院に入ったけど、ケリーは、危険に身をさらさずに英雄になったんだ。ああいう奴は嫌いだ」と言った。ミドルクラスの住宅地には、ケリー支持のボードが地面にさしてある家が多く、ブッシュのボードはなかったが、「ロワークラス」の住宅地に行くと、ブッシュの名のプレートと星条旗があった。「ディープ・サウス」と言われる州に行けば、ブッシュ支持は圧倒的である(「フーバー以来の失業率低下を招いた」と言われるブッシュだが、軍に行くことが唯一生き延びる道であるというところまで追いつめられた低所得者層は、ブッシュを支持するしかないからだ)。恐怖はすべてブッシュにプラスになるから、「いい」(よすぎる)タイミングで出されたビン・ラディンの声明もブッシュを後押しするだろう。だから、もし、選挙結果でケリーが五分五分の票を獲得すれば、その意味するとことは実に大きい。
(丸の内プラゼール7階)
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