粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-05-31

●電車男 (Denshaotoko/2005/Murakami Masanori)(村上正典)

Denshaotoko
◆社内試写はあと1回なので、すぐに満員。単行本がベストセラーになったのは去年の後半だから、非常に早いペースの製作。
◆アキバが、日本映画のなかでははじめて、「魅力的」な場所としてとりあげられた。 しかし、アキバが最高に面白かった時期は終わり、いまや、その「ジェントリフィケーション」が進行しつつある。
◆「電車男」は、オタクとはいえない。他人と会っても、目をそらし、決してマジに対面することをさけるんだと「電車男」(山田孝之)はモノローグしたが、これは、オタクというよりも、羞恥の人であり、日本人の社会的性格をちょっと誇張した性格にすぎない。日本人は、基本的に、シャイであり、相手が嫌いなわけでも、また他人に興味がないわけでもないのに、最初から知らない人とフレンドリーにはつきあわない。
◆「電車男」は、オタクである以前に極度にシャイである。オタクは、必ずしもシャイであるとはかぎらない。「普通」の人が恥ずかしいと思うことを恥ずかしいとは思わないことが多く、この映画の「電車男」のように単なる「対人恐怖」とはちがう。
◆わたしは、実際のサイトのやりとりを見ておらず、新潮社の単行本が出てから知ったのだが、オタクは、決してこの話のようなことを実際にはやらない。ひとつの「仮想的」な事件を立ちあげて、それをあたかも本当であるかのように(つまりヴァーチャル=実質的に)「本気」で「プレイ」するのがオタクである。
◆ひょっとすると、「電車男」は、オタクをよそおった非オタクによるネット→出版→ 映画を想定したビジネスであったかもしれない。ネットのチャットサイトで「電車男」 を「捏造」する。「サクラ」を動員してもいい。「サクラ」とだまされた参加者がとも どもに「創る」物語。だから、この小説や映画を見て、「いまの若者は・・・」とか「 オタクって・・・」とか言うほど滑稽なことはないかもしれない。
◆チャットの縁でつきあいはじめたり、結婚までしてしまった人をわたしは何人も知っている。彼や彼女らは、オタクではない。この映画では、このへんがごちゃになっている。
◆オタクを神聖化する必要はないが、オタクのオタクたるところは、一つの可能性と「理念形」としておさえておく必要があるだろう。でなければ、オタクという言葉を使う意味がない。オタクとは、「距離の人」であって、どんなに親しくなっても、その関係のなかに「距離」をはさまざるをえない。
◆オタクがネットという「オタクメディア」で「オタク行動」をとり、そのあげく、オタクを卒業か転向してしまったというのでは、面白くない。
◆山田と中谷の関係には、息子と母親の関係が影を射す。ただし、母親とちがい、中谷は、山田をしかることはない。それは、聖母であり、母なるものを求める者にとっては理想的な「母」である。日本の天皇制は、天皇が男であるか女であるかにかかわりなく、母性的な性格をもっていると言われる。信仰する人々をやさしく包み込み、甘やかす。それは、人々を「幼児」にしてくれる。山田は、たしかに、よく泣く。最後のほうのシーンで、山田は、中谷のまえでおいおい泣き、中谷もそれにつられて少し涙ぐむ。「泣かされちゃった」と微笑むが、しかし、彼女は決して大泣きしはしない。泣くのは、山田のほうなのだ。
◆オタク的に見ると、チャットをやっているのに木村多江と国仲涼子のパソコンにLANケーブルがつながっていなかったりする。ただし、木村の夫も別室でネットをやっているから、無線LANをつかっているのかもしれない。国仲は病院内だから無線LANの可能性もあるが、後半は、LANケーブルがつながっているのが見える。
◆中谷がパソコンを買おうと思うと言うと、山田が、アキバに行ってパソコンのカタログを集め、それにびっしりポストイットのメモをつけて中谷に渡す。それを見て、中谷は感動するが、こういうことに感動できる者とできない者、逆に嫌悪する者もいる。「馬鹿じゃない?!」「気味悪い」と拒絶的な反応をする相手もいるだろう。中谷は、感動できたから、山田を愛せたのだ。わたし? 感動しますね、こういうのには。
(東宝試写室/東宝)



2005-05-26
●バットマン ビギンズ (Batman Begins/2005/Christopher Nolan)(クリストファー・ノーラン)

Batman Begins
◆かなり早いペースで列が出来たが、結果的には、席が多少あまった。席に着いてからも、かなり時間があったので、本を読んでいたら、肘に強烈な痛みをおぼえ、見あげると、バイク女性(宅配の人とはちがう)が宇宙遊泳でかぶるような大きなヘルメットをガンと席に置いたのだった。バイクのヘルメットって、そんなに固いものとは知らなかった。「イテェ」と声を出してしまったが、彼女は気づかない。
◆クリストファー・ノーランは、1970年7月生まれだというから、まだ34歳。『メメント』と『インソムニア』の2作は評判がよかった(1998年の『Following』もいいらしい)が、これだけのキャリアで「大作」を作らせるところがいかにもハリウッド。スピルバーグもそうだったが、基本的に、ハリウッドだけでなく、アメリカにはそういうところがある。
◆若い才能がチャンスをあたえられたときにありがちなパターンがかなり濃厚な作品。そんなに凝らなくてもいいのではないかというような編集。一体いつになったら「バットマン」が出てくるのかと思わせるようなしつこさ(それはそれで面白い――ただし「バットマン」というタイトルがなければ)で、バットマンになるブルース・ウェイン(クリスチャン・ベール)の「出自」を描く。その部分が長いので、いざバットマン登場というときにも、そのことが「華」にはならない。音楽(ハンス・ジマー)が大音量とハイテンポで鳴りっぱなしで、その「洗脳」効果で映像が弱まる(というより、映像をいいかげんに見てしまう)。
◆ノーランらしい「論理性」(『メメント』でドラマのプロセスを律儀に逆にしたように)で、ブルース・ウェインが、超能力なんかでバットマンになったのではなく、ある意味で、先端技術を動員すれば誰でもがバットマンになれるというロジックを正当化しようとしているかのよう。もともとが「大衆的想像力」というか、あるいは「集合的無意識」というか、何かそういうものの産物である「バットマン」について語る場合にそういうアーギュメンテイションが必要であったかどうかはわからない。それをひどく退屈だと思う向きもあるだろう。
◆毎度現在の状況に引き寄せてしまって恐縮だが、この映画も、いまのアメリカの状況なしには生まれなかったような部分をもっている。それは、「復讐」から「正義」へという方向転換だ。この場合、「正義」とは、ブッシュが「正義」の名のもとに行っている「復讐」ではなくて、文字通りの「正義」である。ただし、ブッシュの場合も、「復讐」を利用して権力を増強しようとしているだけで、その根は「クール」な計算によって仕組まれている。ひねった言い方をすれば、ノーランのこの映画が最も「バットマン」的なのは、そういうしたたかなポリティクスには深入りせず、「純粋」な正義があるかのように物語を進めている点だ。
◆ブルース・ウェインは、単純な意味で「正義」の人間であるわけではない。武器も製造している会社の社長の息子であり、やがてはそのトップになるわけだから、子供っぽい「正義」だけでは通らないだろう。それを埋めあわせるかのように「正義の人バットマン」を演っているようなところもある。両者は、ジキルとハイドのように使い分けられ、その二つの「顔」の矛盾で悩むことはなさそうだ。『スパイダーマン』では、そういう面がかなり描かれるが、この映画ではそうではない。
◆映画でも小説でも、フィクションのなかで「執事」や「後見人」と主人公との関係が「美しく」、肯定的に描かれることは多い。そういう流れがある。もちろん、それは、貴族や上流階級の習慣に対応しているわけだが、それを映画やドラマに取り入れるということは、それなりの願望や理想化があることを示唆する。ブルースとアルフレッド(マイケル・ケイン)との関係がそうなのだが、親子関係よりも、こちらは、家族→国家に向かうのとは違うベクトルのなかで動くように見える。
◆日本の「家老」や「爺や」の文化にも似たようなところがある。それらは、「家族」に距離を挿入し、家族への没入を回避させるようなところもある。むろん、それは、「わがまま」な「主人」であることを可能にする要素ではあるのだが、こうした「リテイナー」たちは、親の感情的な庇護と支配とは異なる「理念的」なサポートによって、既存の家族や国家の論理をこえる方向へ「主人」を導く可能性を持っている。アルフレッドは、ブルースが「放蕩息子」であることを容認し、かつ、「闇のヒーロ」バットマンであることを助ける。
◆この映画には、4月25日にJR福知山線で起こった事故を先取りしたかのようなシーンがある。それは、コンピュータによって作られた映像だが、それが、現実に起こった出来事とそっくりなのは、コンピュータによるシミュレーション技術が発達したからであると同時に、現実の都市や建築が、あらかじめコンピュータのなかでシミュレートされたのちに建造されるという、コンピュータ以前の時代とは異なる認識論と存在論のなかに置かれているがゆえに、そこでのアキシデントも、「すでにつねに」起こった通りに起こるのだ。
(丸の内ピカデリー1)



2005-05-25_2

●dear フランキー (Dear Frankie/2004/Shona Auerbach)(ショーナ・オーバック)

Dear Frankie
◆夫の暴力を恐れて住み処を転々としているマリー(シャロン・スモール)とその息子フランキー(ジャック・マケルホーン)。彼は、可愛く、聡明だが、幼いときに父の暴力で「聾唖」状態になっている。マリーの太っ腹の母ネル(メアリー・リガンズ――ちょっと歳をとらせた富山加津江さんに似ている?)もいっしょに生活している。夫(カル・マカニンク)の姉(アン・マリー・ティモニー)は、弟の病気を知らせるために「尋ね人」の広告を新聞に載せるが、ネルはそれを隠す。あまりに悪すぎる思い出があるのだ。マリーも、息子には、父親の真実は明かさず、彼は船乗りなので、家に帰れないのだと伝えている。そして、彼女は、父親に代わって手紙を書きつづける。フランキーも「返事」を書く。が、ある日、フランキーの父親が乗っていることになっていた船が近くの港に着くことになる。どうする?! 母親は、そこで、親切な隣人に、フランキーの父親代わりになってくれる男ストレンジャーを紹介してくれとたのむ。(ここまで書くと、「ネタバレ」だと騒ぐ御仁がいるかもしれないが、たとえば、「ネタバレ」spoilにうるさいIMDbですら、Plot Outlineでここまで書いてしまっているので、ご容赦あれ)。とにかく、そんなことでスポイルされる映画ではない。見るたびに発見のあるような作品だ。
◆俳優たちは、みな魅力的な演技を見せるが、とりわけ、その男を演じるジェラルド・バトラーがいい。イギリスの地方都市などには必ずいる、シャイだが気のいい男を演じていて、惹きつけられる。2人の出会いが感動的なのは、彼がフランキーの父親のふりをし、フランキーが「無心」に喜んでいるからではない。子供はそんなには単純ではないことをこの映画の監督は承知している。おそらく、人間同士がうまくやっていくということ、「しあわせ」な時間をすごすということは、「ほんと」か「うそ」かの問題ではないのだろう。そういうレベルで言えば、すぐに怒り出して手がつけられなくなる実父の方が、つねに「真実」を表明しているのかもしれない。が、それでは人は他人と共存できない。
◆この映画は、物語の先が読める。が、だからそ、単に筋書きを追うのではなく、もっと瑣末な部分に興味を持たされることになる。ストレンジャーとフランキーはうまくいくだろう。が、それではどのようにしてか? たとえば、ストレンジャーは、彼に水面すれすれに石を飛ばす方法を教える。それは、キャッチボールでもいいだろうが、このシーンでは絶対に石投げでなければならない――と思わせる力がそのシーンから伝わってくる。
◆この映画は、見る者のそれぞれの胸のなかに独自の「続編」を生まれるのを感じさせられるような作品だ。フランキーの母マリーは、ストレンジャーを愛するようになるのだろうか? 彼らは、新しい家庭を作るのだろうか? フランキーにとって、実父はどうでもよいとは描いていない。それは、彼にとって、母にとってとは別の意味を持っている。そういう微妙さをこの映画は切り落とさない。家族を描いた映画だが、アメリカ/ハリウッド映画のように、家族を至上のものであるかのように前提して描かないところが大人。逆に、だから、あなたは、この映画を見ると、ちょっぴり家族のことを考えるようになるだろう。
(東芝エンタテインメント試写室)



2005-05-25_1

●マイ・ファーザー (My Father, Rua Alguem 5555/2003/Egidio Eronico)(エジヂオ・エローニコ)

My Father, Rua Alguem 5555
◆大分まえから見ようと思っていたが、タイミング悪くほとんど最終試写を見ることになってしまった。今年は、ゲスト企画などで忙しい。というより、昼間の時間がかぎられているので、短い昼間に大汗をかくことになる。深夜の試写というのはないのだろうか?
◆一言にしてすぐれた作品だと思う。ナチスのもとでさまざまな人体実験や遺伝子操作の研究を行なったヨゼフ・メンゲレとその息子の格闘を描く。メンゲレは、い、アウシュビッツのガス室を企画した最高責任者でもあり、「死の天使」と呼ばれた。ヨゼフ・メンゲレ役を、あのチャールトン・ヘストンが演じている。「全米ライフル協会会長」だった彼は、『ボウリング・フォー・コロンバイン』でマイケル・ムーアに銃社会の責任を追求され、かつての大スターとしてはいささかぶざまな「老醜」をさらしてしまったが、この映画では、ナチの人体実験への責任を実の息子ヘルマン(トーマス・クレッチマン)から追求されるという、スケールこそちがうが、あのときのヘストンの複雑な思いをみずから、より強度に反復するかのような役柄を演じている。彼は、アルツハイマーのため、『Genghis Khan』(2004)を最後に引退するらしいが、いずれにしても、この作品が、彼の出演作のなかで非常に高い位置に置かれることはたしかだろう。
◆映画では、ヨゼフ・メンゲレは、フランクリン・J・シャフナーの『ブラジルから来た少年』(The Boys from Brazil/1979)で描かれており、またジョン・フランケンハイマーの『D.N.A. ドクター・モローの島』で、時代的にはメンゲレより古い、H・G・ウェルズの原作にもとづきながらも、モロー博士はあきらかにメンゲレを思い起こさせるように描かれていた。しかし、これらの作品は、あくまでもメンゲレを「マッド・サイエンティスト」として描いているにすぎず、彼の本当の姿はわからない。
◆ヨゼフ・メンゲレは、1911年に生まれ、24歳で博士号を取得している。1937年にナチに入党し、フランクフルト大学内の「第三帝国研究所」の助手として研究活動に入った。この研究所は、アーリア民族の「遺伝形質」と「純潔性」を「データ」化するなど、ナチのユダヤ人絶滅計画に理論的・方法論的な基礎をあたえた。1938年にはSS(親衛隊)にくわわったことをみても、彼のナチ荷担は、半端なものではなく、当初から確信犯であったことはあきらかだ。アウシュビッツでの実験と絶滅計画の遂行は、1943年からだといわれている。1944年に息子のロルフ(映画では「ヘルマン」)が生まれている。ナチス崩壊後、戦犯になるが、1949年、SSのかつての部下たちの支援をうけてアルゼンチンに逃亡した。1959年パラガイに移ったが、やがてブラジルに移り、1979年に海水浴中に死亡した。
◆この映画は、息子ヘルマンのいくつかの時間を錯綜させながら、「父の罪は千年消えない」と考える息子が、成人してから、ブラジルに潜む父を訪ね(原題の「Rua Alguem 5555」はその住所)、父親と「対決」するという屈折した父子関係を描く。それは、戦犯を親に持つ者すべてのみならず、戦争遂行国の国民一人ひとりの戦争責任、国家の犯した罪への責任の問題を考えさせないではおかない。
◆二人の「対決」のなかで明らかになるのは、息子ヘルマンが「善人」で、父が「悪人」という構図ではない。父親は、息子の来訪を「心から」喜んでいる。彼が近く結婚することを知って喜ぶ。しかし、そうした「普通」の父親の身体と心に染みついた慣習と文化(考え方と感じ方)が、ヘルマンとは根本的に異なり、そして、それがナチズムの本質をそのまま引きづっていることがあばかれる。息子は、父が連れて行ってくれた森のなかで、父への殺意をいだく。しかし、たとえ彼を殺しても、何の解決にならないことをさとるし、父親自身も、(おそらく)自分のやったことの「罪」を自覚しており、そのために息子に殺されてもいいと思ったかもしれないが、しかし、それが自分や息子にとって意味があることだとは思わない。このへんの、その語の本来の意味での「ニヒリズム」がリアルに描かれる。
◆ニヒリズムとは、根源限的な「忘却」だろう。ナチズムを、自らの荷担への「反省」をも含めて「技術的に組織された人間の宇宙的帝国主義」(『世界像の時代』)と呼んだのはマルチン・ハイデッガーだが、テクノロジーの「発達」は、過去を忘却できる「技術的に組織された人間」によって達成される。「過去」にとらわれる人間には、テクノロジーの「進歩」は向かない。外科医が、患者の肉体を「とりあえず」「物体」としてとらえることなしには、手術ができないように、先端テクノロジーとつきあうとき、わたしたちは、「過去」を忘れる。」「宇宙的規模」のテクノロジーに依存し、「グローバル」な「世界」(帝国)に生きる現代人は、どのみち深い「ニヒリズム」と全般化された「ナチズム」のかなで生きている。
◆戦争や殺人の罪を、その実行者を非難し、相手を罰することで当座は解決がつくように思えるが、その過程、その根深い理由を追求して行くにつれ、そうした非難や罰によっては、何も解決されないことを知ること――それは、一つの成熟ではあるが、つらい経験である。が、そうした経験を通過することなしには、復讐と報復の繰り返しを脱することができない。この映画では、そうした「正論」的な批判の立場を、F・マーレイ・エイブラハムが演じる弁護士ポール・ミンスキーにあたえ、ヘルマンとの対話のなかで描き出す。
◆この映画が他の「メンゲレもの」とちがうのは、メンゲレを単なる「悪」の権化とは描いていない点だ。おそらく、メンゲレは、システムの内部では抜群に「優秀」な官僚、抜群に「優秀」な医者だったのだろう。システムの内部ですべてがうまくいってしまうと、その外部、そのシステムが世界全体のなかでどのような意味をもっているかがわからなくなってしまう。わたしは、メンゲレに会ったことはないが、薬害エイズ問題で捕まった安部英、元帝京大学副学長(今年4月に88歳で死去)の姿をテレビで見るたびに、システムの外が見えないことによって「悪」を無反省に敢行してしまうメンゲレ的キャラクターの典型を見る思いがした。
◆ヘルマンは、15歳まで、母親から、父は死んだと教えられてきた。15歳になって、母親と叔母は、それまで南米から手紙をくれていた「叔父」は、実はヨゼフ・メンゲレであり、それが父だということを知らされる。彼は、学校では、元ナチの息子だということでいじめられ、担任の教師からは、出席を取るとき、名前を呼ばれないというつらい幼少時代を送ってきた。が、母親と叔母は、彼にメンゲレの存在を教えたとき、父親への尊敬の念を隠さない。つまり、彼女らは、ナチズムへの反省はない。そうした環境のなかで、ヘルマンがどういう教育と自己経験をつんで、父への批判をつちかったのかは、この映画ではわからない。
◆映画は、いくつかの時代を交互に、錯綜させながら進む。その「現在」を映すシーンが、南米で撮ったためであろうか、確かな撮影技術のためだろうか、実に存在感のある色と奥行きを持っているのに新鮮さを感じる。撮影は、『ハンガリー狂詩曲』や『鯨の中のジョナ』などのヤーノシュ・ケンデ。
(TCC試写室/アルシネテラン)



2005-05-24_2

●亡国のイージス (AEGIS/Bokoku no Aegis/2005/Junji Sakamoto)(阪本順治)

Bokoku no Aegis
◆監督、原作者、出演者の挨拶があった。寺尾は、東京にいないとかでビデオ出演。そのあと、中井貴一が挨拶したとき、冒頭、「ちょっと気持ち悪くなっちゃって・・・こんな近くで映像を見たことがなかったので」と口ごもる。これは、ちょっと、寺尾だけがビデオで大写しされ、長々と話(非常に気を使って謙遜したしゃべりだったが)をしていたことへの皮肉にもとれた。
◆映画の前半30分ぐらい、隣の女性が、せんべいをぱりぱり、喉をゴクリゴクリといわせながらお茶をがぶ飲みするので落ち着かない。日本の夜の試写会は、夕食の時間と重なるので、みな腹をすかせる。が、せんべいとお茶を弁当代わりにするのは、身体にも周囲にもよくないのではないかな。とにかく困るよ。
◆プレスといっしょに『産経新聞』の本日の朝刊が配られる。1面には「中国副首相異例の会談中止『外交ルール無視』」の文字が踊る。が、産経が製作に加わっているから宣伝かと思ったら、必ずしもそうではないようだった。見せたいのは、1面よりも、4面にある「亡国のイージス」特集であるらしかった。
◆阪本順治が防衛庁や自衛隊の援助を受けるとは思わなかったが、海上自衛隊の「全面的協力」を得て作られたという。しかし、そのわりに、戦艦を実写した映像が全然よくない。おそらく、戦艦が出る場合には、コンピュータで大幅に処理した映像になれきっているために、そう見えるのかもしれない。あるいは、ひょとして、「実写だぁ→コンピュータには負けないぞ」といった自信でコンピュータ処理が手薄になり、結果的にこんなものになったのかもしれない。(あるいは、自衛隊をカッコよく見せないための操作?)
◆「亡国」とは、「平和ボケ」に陥っていて、自衛官が命を代償にして「守るに値しないこの国」(「この国はおれたちもろとも一度滅んだほうがいいんだ」)ということなのだが、この映画のタイトルから受ける想像的印象や新聞・テレビの広告のメッセージとは、かなり違うのが意外だった。そこが阪本順治の努力だったのか?
◆わたしは、日本が「亡国」だとは思っていないが、この映画の製作側の主な流れのなかには、日本を「亡国」だと思わせたいという願望がある。が、そう主張したいのなら、この映画は矛盾している。朝鮮人の特殊工作員のヨンファ(中井貴一)は、日本が「本当の戦争」を知らない「やわな」「亡国」であることを再三口にする。それに同調している日本人の登場人物もいる。イージス艦「いそかぜ」の艦長(寺尾聡)もそういう主旨で「クーデター」を起こした。しかし、最後は、「戦後民主主義」なのだ。真田が演じる「いそかぜ」の伍長は、「どんなにみっともなくてもいいから、とにかく生きろ」とまさに「戦後民主主義」のテーゼを叫ぶ。
◆誤解のないようにあらかじめわたしの政治的姿勢をはっきりさせておくと、わたしは、「戦後民主主義」肯定であり、現在進行中の「憲法改正」には反対である。憲法と法律とはレベルがちがうのであって、憲法を改正できるのは、国家体制が根本から変わる(変える)ときだけだが、いま進行中の「改正」は、国家の方はそのままにしておいて、まず憲法を変えてから、それを旗印に国家を(反動的な方向へ)変えようとしている。もし、本当にそういう意図がなく、法制度的なすりあわせをしたいのなら、アメリカのように「修正条項」を加えればよい。
◆憲法改正論者は、第9条と自衛隊の存在の矛盾を言うが、自衛隊は第9条「にもかかわらず」存在するのであって、それが憲法の矛盾にはならない。「理念」と「現実」を混同してはならないのであって、憲法より「低次」の法律でも似たようなことはいつも起きている。一体誰が、道路交通法を順守した歩行や運転をしているのか? 40キロの規定なのに60キロで走っている車が多いからといって、その道路の速度規定を60キロに変えるのか? 法にも理念的なものと実用的なものとがあるが、法自体、つねに現実の上に存在する。
◆だから、問題は憲法改正にはないのであって、選択肢は、戦争を堂々と出来る国家にするか、「にもかかわらず」戦争をすることもある国家にとどまるかである。戦争商売の側からいえば、前者こそが理想である。環境問題に関しても、インスタントマネーという観点からすれば、「京都議定書」など守らないほうがはるかに有利であることはあたりまえである。しかし、じゃあ、第2次世界大戦から何を学んだんだということになる。50年代以後飛躍的に進んだ環境研究は無意味だというのか? ゴミは捨て放題でよかった結果、環境がどうなったか?
◆この映画のタイトルになっている「亡国」という概念が(挑発的に使われているにしても)基本的にまちがっているのは、いまは、あらゆる「国」が「亡国」であることを無視している点だ。ここで言う「国」や「国家」とは「国民国家」のことだが、そんなものは、もはや存在しない。国家はネットワーク化され、国家権力はグローバル化されている。国家は、いわば「ノード」(結節点)であって、ある「国」の経済危機も、そこで起こされる戦争や紛争も、「脳腫瘍」のようなもので、その部分の問題だけではすまない。アントニオ・ネグリが言う「帝国」とはそういう意味のネットワーク化された国家のことであって、一国が肥大して他国を支配する19世紀流の「帝国」ではない。
◆おそらく、阪本順治は、こうした現実を知らないわけではないだろう。彼は、『この世の外へ』でも『KT』でも、あきらかに「戦後民主主義」を肯定していたが、この映画では、彼の政治姿勢が屈折した出し方になっている(させられている)。そして、『新・仁義なき戦い』で「迷い」の見えた、朝鮮人に対する姿勢がこの映画では、「北」を切るという形になり、その結果として、やや大げさに言うと、阪本らしからぬ「人種差別的」な方向に向いてしまっている。そのため、日本を徹底的に批判し、軽蔑するヨンファの路線も、ただの「悪党」の脅しになってしまい、結果的にうやむやにされてしまうのだ。
◆日本は「亡国」なのだが、その体制のなかの個人ががんばることによってそうではなくなるという路線も見える。試写会の挨拶のなかで真田が、「わたしの役は普通のオジサンですが、そういう人がちょっとがんばることによって・・・」と言っていたのは、そういう文脈のなかで理解できる。伍長(真田)は、副長(寺尾)の「クーデター」からははずされ、何も事情を知らないところから、最後には「日本」を救う「ヒーロー」になる。これを見ると、そして防衛庁と自衛隊が協力しているところをあわせて考えると、防衛庁や自衛隊は、決して「クーデター」なんかしませんよという姿勢をアッピールしたいように見えるが、わたしの見解では、グローバル化された「帝国」のネットワークのなかでは、「クーデター」は不可能なのである。そんなことを心配する必要はない。それよりも、深刻なのは、アメリカのイラク侵略のように、「この手術をしないと命があぶない」といったような口実で大胆な「手術」をし、その結果、「身体」全体を手のつけられない状態、世界を「半病人」にしておくという人工的な戦争支配である。
◆同じ挨拶のなかで、防衛庁情報局の部長を演じる佐藤浩市は、「この映画は男臭い映画ですが、そういう男たちの背中を女性たちがちょっと押してやると男たち(この映画のなかのように)が元気になれるようなところのある映画だと思います」というようなことを言っていた。しかし、これだと、「銃後の妻」じゃないのか? この映画には、工作員の役を演じるチェ・ミンソも出ているが、この役の意味が非常に不明瞭。
◆副艦長の家庭問題、父子問題がからめれれたりもしているが、彼が起こした「クーデター」がそういう身辺問題から発しているらしいところもあるという設定は、つまらない。もっとプロらしくしろよと言いたくなる。現実問題として、国家システムというものは、私情を持ち込もうとしても持ち込めないところが「システム」なのであって、だからこそ、日本から会社役員や政府機関の人間は自殺したりするのだ。それがせめてもの「反抗」の表明だからである。そういう国家や組織の「壁」の熱さは、この映画からはあまり感じられない。
◆【追記/2005-10-22】新着の『インパクション』(149)に天野恵一が原作との比較を含む力のある『亡国のイージス』批判を書いている。彼は、「日本人の平和ボケ」なるクリシェに対し、「しかし、侵略地に駆り出され、原爆まで投下されても生き延びた『日本人』の多くは戦争がどういうものであったかを、よく体で理解せざるを得ない戦後の時間を生きたはずである」と書く。同感だ。ただし、安っぽい戦争主義者の背後には、彼らのイメージする戦争が「プラモデル戦争」であることを十分承知のうえで、本格的な戦争(善悪の彼岸をこえた戦争株式会社的戦争)を画策し、そのために彼らをおだてるヤカラや組織があることを忘れてはならない。
(丸の内ピカデリー1/日本ヘラルド/松竹)



2005-05-24_1

●チーム★アメリカ/ワールドポリス (Team America: World Police/2004/Trey Parker)(トレイ・パーカー)

Team America: World Police
◆早く行ったが、前の試写が押していて、10分前にようやく開場。渡されたプレスに順番が書いたポストイットが付いていた。その番号順に入室したわけだが、この方式は、それほど多くなければ列を作るよりも、またいちいち名前をひかえておいて大声で呼んだりするよりもうまいやり方だと思った。
◆ 久しぶりに見る「痛快」な映画。「アメリカ人は洗脳されている」とブッシュのアメリカを批判するヨーロッパ人や「亡命」アメリカ人がいるが、むろん、そんなことはない。逆に「ブッシュのおかげで」体制批判が活気づいた面もある。ただし、いつの時代にも言えることだが、「批判」とりわけこの映画のエートス(基本的な気分・情念)になっている皮肉やアイロニーは、そういう形である種の「ガス抜き」効果を発揮し、結果的に、現状を批判するよりも、それを肯定する「安全弁」になってしまう場合がある。簡単に言えば、悪口をさんざん言って、怒りを解消し、怒りが向けられるべき対象からはそれてしまうというやつだ。
◆しかし、状況が絶望的な(そう簡単に変革できそうにない)ときだからこそ、この映画の皮肉やアイロニーが出てくるのであり、それがエンターテインメントにもなる。それがなければ、いまのアメリカは息苦しくてしかたがない。崩壊まえのソ連でも、この映画に出てくるようなパペットによる政治風刺がさかんに行われていた。
◆操り人形によるパペット劇が政治風刺に向いているのは、それが「あやつられている」からだ。この映画では、操り人形が操り人形をあやつっているという二重のあやつり状態が見えるシーンがある。このへんで、監督・製作・人形クリエイター・声優の4役をこなしたトレイ・パーカーは、この映画も、政治の「あやつり」(操作)から決して自由ではないことを十分承知している。
◆風刺の多くがそうであるように、 状況認識は単純である。笑いを取るために意図的に単純化されている。あるいは、製作の発想自体が単純なのか。とにかく、アメリカは「世界の警察官」であり、そのために組織されたのが「チーム・アメリカ」だ。それは、「テロの危機」があれば、どこへでも出かけて行き、銃火器を乱射する。パリでは、オサマ・ビン・ラディンに似たアラブ人が拘束される。話は単純化されているから、相手もたしかに「テロリスト」(反米活動家はみな「テロリスト」)らしく反応し、すぐに銃で反撃してくるが、「チーム・アメリカ」は、通行人を犠牲にすることをいとわず、相手を掃討する。
◆このままブッシュのそっくり人形でも出すのかと思ったら、コケになる主役は、突然キム・ジョンイル(金正日)になる。彼は、「孤独な独裁者」で、誰の目にも「将軍さま」とわかる人形が、ブロードウェイ・ミュージカル風に「アイム・ソー・ロンリー」と歌い、パロディ化される。金のせりふの多くは、中国語のような発音に「・・・ダ」を付けただけのインチキ「朝鮮語」なのが、歌のところは、比較的明快な英語になるので、その歌は、アーヴィン・バーリンの『ルイジアナ・パーチェス』 の「You're Lonely And I'm lonely」をもじっているのかと思ったら、それをもじりながら、かつ「ローンリー」を「Ronely」にし、"l" が "r" の発音になってしまうのをついでにからかっているのだった。が、日本語では、この現象が起こり、日本人をからかうときに、LondonをRondonなどと発音するのだが、朝鮮語もそういう混交が起きるのだろうか? いずれにしても、金正日の表現のなかに人種差別的なものを感じとった批判がアメリカのなかでも出ている。
◆金正日への批判は、やがてハリウッドの「リベラル派」への批判とリンクする。彼らは、金正日のしたたかな計略にひっかかって、「9・11の1000倍」ものテロに荷担しそうになる。そして、それを救うのが「チーム・アメリカ」だということになるのだから、「チーム・アメリカ」は、否定されているのか、それとも肯定されているのかがあいまいになってくるのだが、そういうことも含めて、権力とテロ過敏症が根こそぎ批判されているととれば、とれないこともない。
◆見方によっては、彼や彼女らは、ブッシュ政権の「ガス抜き」の役割を果たしたと言えないこともないが、それでは、攻撃まえにイラクに行き、攻撃反対を唱えたり、アカデミーのスピーチのなかに、「大量破壊兵器はなかった」というコメントを持ち込んだりしたショーン・ペンが、かくも安ぽい俳優としてこきおろされているのに反発する向きはあるだろう。あのマイケル・ムーアもさんざんなのだから、それも当然かもしれない。その一方、ハリウッドのなかの「左派」(たとえばロバート・レッドフォードやウォーレン・ベイティへの言及は全くない。モーガン・フリーマンは茶化されるが、クリント・イーストウッドは出てこない。
◆しかし、この映画の批判が、戦争と映画との接点のなかで行われている点は面白い。主人公ゲイリーは、ブロードウェイのミュージカル俳優だが、オルグされて「チーム・アメリカ」に入り、整形で変装してカイロのテロリストの巣窟へ向かう。批判される金正日も映画好きという前提である。トレイ・パーカーは、テレビの『ザ・トゥナイト・ショウ』で、「金正日は魅力的な男だよ。とにかく、彼は、自分の映画の監督をさせるために韓国の有名な監督を拉致したんだからねぇ」と言っている。これは、シン・サンオク(申相玉)のことで、事実である。アレック・ボールドウィンは、「フィルム・アクターズ・ギルド」(実在するScreen Actors Guild 全米俳優協会のもじり)の会長で、知らずに、その世界大会に金正日を招いてしまう。
◆かつてスピルバーグは、『1941』のなかで、日米戦争を「映画戦争」という観点からとらえる視点を提起した。山形国際ドキュメンタリー映画祭 '91でも明らかにされた(そのカタログの単行本化『日米映画戦』青弓社を参照)ように、「日米映画戦」では、すでに真珠湾攻撃以前にアメリカが日本に勝利していた。カーターからレーガンへ政権が移行した1980年から湾岸戦争にいたる10年間のハリウッド映画は、一方で家族の危機を、他方でCG志向強めるが、前者は、保守反動主義者に国家への危機意識を扇動し、後者は、実際に湾岸戦争で使われることになるハイテク技術と不可分の関係にあり、この時代のハリウッド映画をジークフリード・クラカウアウの『カリガリからヒットラーへ』(せりか書房)の感覚で検証するならば、その随所に、その後、アメリカで常態化していく戦争肯定の社会的気分を読み取ることが可能だろう。
◆そうした地盤のうえに、9・11は、もともと根強くアメリカにあった「復讐」の伝統を動物的なまでの野獣性丸出しの形で一気によみがえらせた。『チーム・アメリカ』でも、最初のほうでは、この復讐の伝統が批判されている。しかし、だんだん映画が進みにつれて、幾分、ハリウッドにほされたマイナーな映画人がメイジャー(メジャー)なそれにうっぷんを晴らすような、ある種「復讐」的なにおいを放ちはじめる。
◆誰かを「敵」にしなければ批判が機能しない批判は、本当にラディカルな批判ではなく、批判すべき相手を最終的に肯定する役割を果たす。テーマソングは、「America, Fuck Yeah!」とアメリカを全面否定するが、「全面」否定は、ときには全面「肯定」に転化する。ある意味で、いまイラクでアメリカとその連合軍がやっていることは、「冗談、冗談」「ゲームにすぎない」と苦笑いしながら生身の人間を殺していることである。すべてをおどけた「ゲーム」にしてしまった点でこの映画は、卓越しているが、その機能は、意外にいまの状況の関数であるかもしれない。
◆この映画を見ながら思いだしたのは、チャプリンが1940年に発表した『独裁者』である。この映画を見たヒトラーは激怒したらしいが、この映画に批判はまちがっていなかった。そこでは、世界制覇への権力への意志が、ナンセンスな身ぶりで茶化されていた。『チーム・アメリカ』の身ぶりは、人形の身ぶりとすべてがセックスに結びつけられることによって単純化され、「幼稚」化されているが、それは、いまの時代が、幼児の口唇期に逆行していることを示唆しもする。いろいろ考えさせる点で、高く評価できる映画だと思う。
(UIP試写室/UIP)



2005-05-18_2

●四日間の奇蹟 (Yokkakan no Kiseki/2005/Sasabe Kiyoshi)(佐々部清)

Yokkakan no Kiseki
◆かなりの盛況で、補助席が出る。となりの女性がずっと涙。
◆吉岡秀隆という人はしあわせな俳優である。何をやらせても「北の国から」と全く変わらない身ぶりとディスクールでやれてしまう。今回も、(途中から怪我で弾けなくなるという設定であれ)およそピアニストの身ぶりにおいて破綻していても、吉岡だと「まあいいか」と許してしまえる。
◆ドラマの前提はよくわからない。ロンドンで、新進ピアニストの吉岡が、ピストルで撃たれそうになった少女を救う。なぜ、彼女が撃たれたのかはあまりよくわからない。暴漢が通りがかりに彼女の一家を襲ったらしいが、なにか納得できない。とにかく、その事件で少女は両親を失い、吉岡は、指の神経を切断し、ピアニストとしての生命を失う。少女もこの事件がきっかけで(プレスでは、もともと「サヴァン症候群」という脳の病気をもっていたらしい)口がきけなくなる。そして、そのあとどういう経過があったのかはわからぬまま、吉岡がこの少女にピアノを教え、彼女は、脳に障害をもちながら、普通以上のピアノ演奏ができるようになる。
◆障害を演じる場合、尾高程度の演技だと、見ていて、「差別」になってしまうのではないかという不安を感じる。が、基本的にこの映画は、障害がテーマではない。この映画の見どころは、一人の人格が他の人の人格と入れ替わるという点(これが4日間つづくから「四日間の奇跡」)にあるので、むしろ、そうした人格の転移が映画的・ドラマ的に説得力をもたせるために少女に障害をあたえたと言えないこともない。ただし、この映画は、浅倉卓弥による同名の小説にもとづいており、映画のために少女が障害を割り当てられたわけではない。ただ、いずれにしても、とってつけたようなところがあるということだ。
◆映画やドラマの手法として、どんなに安いやり方でも、わたしは、タイムトラベルにおとらず人格の転移に興味を持つ。それは、わたしのなかに、多重人格こそ「あたりまえ」だという考えが強くあり、また、人格の転移への願望があるからうだろか? この映画でそれが起こるのは、非常に予見しやすく、その成行きも予測できるのだが、にもかかわらず、人格転移のところは見ていてあきなかった。
◆ドラマの舞台は、山口県の角島(つのしま)で、ここに設定された医療センターに吉岡と尾高が招かれてやってくる。ここには、それぞれに死を迎え入れるはずの人々が「家族」のような共同生活をしている。医師(西田敏行)の妻(松坂慶子)も、昏睡状態で眠りつづけている。
◆「奇跡」という概念は、キリスト教的な意味で使われている。この医療施設は、プロテスタント教会に属し、どうやら人々はキリスト教に帰依しているらしい。このへんも、非キリスト教者のわたしなどからすると、とってつけたような印象をあたえはするが、気にしないで見ようとすることもできなくはない。
◆古い旅館の世継ぎを生めないというので離縁させられた石田ゆり子が、この施設の献身的なメンバーになっているというのも、なんかありがちだが、それもいいだろう。彼女は、高校時代に、吉岡が天才的なピアノの才を見せるのを目のあたりにし、密かに恋心をいだいていた。吉岡と尾高をセンターに招いたのも、彼女の根回しであり、彼女の吉岡への遠い思慕がはたらいていた。(むかし気になっていた人に再会してみたいという願望は誰にでもありますね。この映画は、われわれのそういう平均的な願望を刺激しながら展開する「メロドラマ」の定石にしたがっている)。
◆「善意の愛」のようなことが基調にあるが、その方向は、わたしなどには、どうも、「おせっかい」の愛にすぎないような気がする。ようするに「日本的」な「おかあさん」の「愛」なのだ。瀕死の床の石田が見せる「愛」は、まわりの人々の先々を「思いやり」、彼や彼女らが「しあわせ」になることをあれこれ気づかうというものだが、これは、西欧的キリスト教の発想とは大分ちがうような気がする。こちらは、もうちょっと各人まかせというか、個々人に自由意志にまかせる要素が多いのだ。「キリスト教」がとってつけて見えるというのも、そんなところと関係がある。
(東映試写室/東映)



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●アルフィー (Alfie/2004/Charles Shyer)(チャールズ・シャイア)

Alfie
◆すぐに満席になり、補助椅子が出る。うしろから『ハッカビーズ』の話がストレートに聞こえる。「あれは、要するにいくつものカップルの話なのよ」。なるほど。わたしは、「実存」という言葉にやけにこだわったが、このヒトは、そういうことは全然問題にしない。それが賢明かもしれない。
◆『アルフィー』というと、ルイス・ギルバートが監督し、マイケル・ケインが主演した1966年の「オリジナル」を思い出す。当時わたしは、音楽をソニー・ロリンズが担当したことに興味をもち、この映画に関心を持った。Impulse!から出たLPを買い、何度も聴いた。映画の記憶は薄れても、ロリンズの演奏は耳に染みついている。ただ、ロリンズ・ファンとして言うと、この盤は、50年代末の沈黙から復帰してから彼がやったさまざなの試みの一つという印象が強く(また、録音エンジニアがわたしの嫌いなルディー・ヴァン・ゲルダーということもあって)当時のわたしは、impulse!ではこんな「商業的」な仕事ばかりさせられ、彼の本領は発揮できないのではないかと思った。そうした懸念は、この盤の次に出た east broadway run downで吹き飛んだ。実は、いまこの文章を書きながら、LP盤のALFIEを聴いているのだが、ロリンズのものとしてはスタティックな感じがする。とはいえ、演奏に加わっているメンツがすごい。オリバー・ネルソンの指揮だが、J・J・ジョンソン、フィル・ウッズ、フランキー・ダンロップ、ケニー・バレル・・・・。
◆この新しい『アルフィー』は、旧作のスタイルを踏襲している。冒頭から、ジュード・ロウが、こちら(観客)のほう向いて、話しかけたり、目くばせしたりするが、これは「アサイド」という舞台技法である。旧作自体は、ロンドンとブロードウェイでヒットした同名の舞台の映画化であったので、舞台の技法を継承し、そして新作もそれにならっている。皮肉や愚痴をあらわすときなど、うまく使うと効果的だ。ジュード・ロウは、もともとそんなに嫌みな感じしない役者だから、彼が「アサイド」を演ると、皮肉というよりも、ちょっとカワイイという感じがしてしまう。ふと思い出したが、ボブ・フォッシーの『キャバレー』でジョエル・グレイが演った「アサイド」は、実に毒のある皮肉とアイロニーと悪意が満ちていた。この映画でも、もうちょっとそういう要素があってもよかったのではないか?
◆アルフィー(ジュード・ロウ)は、リムジンの運転手(ロンドンではワーキング・クラスに属する)だが、「女」には階級をこえてモテるという自信をいだいている。起きて、出かかる支度のときには、あそこに香水をつける。かつて花田清輝は、ドンファンは、女を愛すのではなく、女に愛させるのだと言ったが、アルフィーも、あれこれ手数をするとしても、それは、愛するためではなく、愛させるためだ。こういう手合いは、「利己主義者」というのだろうが、ただ、(1966年の旧作のときはいざしらず)いまの時代には、利己主義のレベルが格段に上がってしまったので、アルフィーが、車のなかで夫と「6カ月もごぶさた」のドリー(ジェーン・クラコウスキー)にブロウジョブをさせてながら、画面のほうを見ながら(アサイドで)「これがケネディの好きな体位だよね、腰痛にはいい」と皮肉を言っても、見ているほうは、「なんてヒドいやつなんだ」という気にはならない。もっとヒドいヒトデナシがいくらでもいる時代になってしまったからである。
◆1966年版の舞台はロンドンだが、この映画の舞台はニューヨーク。ケータイが出てくるところを見ると、時代が現代に設定されていると判断できるが、そのような設定のなかでは、アルフィーは、「普通」である。しかし、いまのアメリカというコンテキストのなかでこの映画を見ると、(『ハッカビーズ』なども含めて)いまアメリカでは、「人生論」への関心が再燃したのかという気がする。自分は、「女」にはモテるつもりでいたが、必ずしもそうではないことに気づくアルフィー。その場のノリで親友(オマー・エップス)の彼女(ニア・ロング)と寝てしまい、子供ができてしまったが、数年後、その彼女に会ったら、彼女はその親友といっしょにアルフィーの子を育てており、アルフィーが介入する余地はない。一体自分は何だったのかという問いを突きつけられるアルフィー。
◆いまのアメリカは、G・W・ブッシュの出現によって、相当時代が後退してしまったから、アルフィーのような男がいるかもしれないが、一般的には、フェミニズム的意識やメールショービニズム(男性至上主義)への批判は無意識にであれ浸透しているから、そういう状況のなかではアルフィは、全然「新し」くはない、つまり、いまのアメリカというコンテキストのなかでは、この映画は、「現実」との関連においてよりも、現代の「寓話」として受け取られる可能性が高い。
◆アルフィーが、病院のトイレで出会う老人が、自分は、旅行に行こうとせがむ妻の希望を先延ばしにしているうちに、妻がある日突然台所で倒れ、そのまま帰らぬ人になってしまい、それ以来、「毎日が最後」だという気持ちで生きることにした、というような話をする。最後に、「持ち駒」の女からすべて見放されたアルフィーが、この老人を訪ねると、彼は、散歩でもしようと彼を改変に誘い、「問題は、君のこれからの人生をどう生きるかだね」と言う。このへんの感じが、「人生論」への関心の再燃とわたしが言うゆえんである。
◆音楽にジョン・パウエル、ミック・ジャガー、デイヴ・ステュアートが参加しただけあって、音楽の使い方が実にいい感じ。DJミックスとしても相当のレベルで、CDを買いたくなった。
◆アルフィーが知り会った女性のなかでは超リッチなのが、スーザン・サランドンが演じるリズ。60年代に少女時代を送っていまは「ブルジョア」にナオっている典型。だから、マリワナが好き。アルフィが家を訪ねると、カナッペを用意し、アブサンを飲まない?と言う。アブサンをグラスに入れて、その上で粉をあぶり、流し込み、上からソーダーか何かを加える独特のカクテル。アブサンは、アメリカでは輸入禁止だけど薬品だとごまかして持ち込んだと言う。アブサンは、ボードレールが愛用した緑色の「退廃」の酒。
◆ニッキー(シエナ・ミラー)はハイテンションの女で、急に考えが変わる。いままで遊び大好き女(パーティガール)だったのに、アルフィーと家庭を持とうとする。こうなると、アルフィーはめんどうくさくなる。彼女は普段やらない壁塗りなどをはじめる。二人が住んでいるアパートの壁にチェット・ベイカーのドキュメンタリー『Let's Get Lost』(1988)のポスターがある。ニッキーがベイカーを好きだという設定なのだろうか? 彼女もドラッグに深入りしている。それを「更生」してアルフィーと新たな生活をしたいと思う。「美しいと思って近づいてみるとキズもの」とアルフィは彼女を形容する。このへんのせりふは、見る者にグサっとくるはずのものだが、ジュード・ロウが言うとあまりきつく感じない。
◆『ガン・ホー』で初めて知ったゲディ・ワタナベが、アルフィが勤めているリムジン会社の中国人社長役で出ている。『エドtv』にも出ていたし、端役でかなり出演しているようだが、久しぶりに見たので、ふけたなぁという印象。自分は棚上げにして。
(UIP試写室)



2005-05-17

●ターネーション (Tarnation/2003/Jonathan Cauette)(ジョナサン・カウエット)

Tarnation
◆今日は運のわるい日。地下鉄のなかで隣に座った女子中学生が座席に忘れものをしたのに気づき、ガラになく「忘れ物!」と声をあげたが、タイミング悪く、伝わらなかった。会場では、映写機の調子が悪いとかで、1巻ずつフィルムをかけ替えながらの上映となる。ヘラルドの試写室というと、昔は3指に入る高級映写室だった。
◆最初、フィルムが映写機を走るカタカタという音がするが、これは、サウンドトラックの効果音。全編ビデオで制作され、マッキントッシュのiMovieで編集され、フィルムに焼き直されているのだが、そういうのにかぎって、この手の演出をする。ビデオならビデオらしくしたほうがいい。この種の「自前映画」のよさは、映像に、被写体との触覚的な近さや被写体の息づかいのようなものを、「大型」映画よりも直接的に感じさせるところだ。そういう面が本格的に活かされているようには見えない。それと、この映画は、スチル写真、8ミリフィルム、スライドなどをインポートし、効果をくわえてビデオにまぜるという、マックオタクがiMovieでよくやる(ごくあたりまえの)やりかたをしている。つまり、iMovieを使った新しさは感じられない。
◆エクゼクティブ・プロデューサーのガス・ヴァン・サントは激賞するが、先日、鈴木志郎康さんの作品が上映されたイメージフォーラム・フェスティバルなどではよく見る、いわゆる「インディ」タイプの作りで、わたし自身は見飽きているスタイル。これを、ガス・ヴァン・サントは、新しい映画の出現のように言うが、そうか? いま、映画は、作ろうと思えば、iMovieでもVideoStudio (Ulead)でも出来る。映像編集ツールの低廉化と性能の飛躍的な向上は驚くべきだ。わたしなんかも、昔はSGIのマシーンでふうふう言いながらやっていたことを、いまはパソコンで簡単に済ませ、VJまがいの「講義」で使っている。だから、こういう時代になると、iMovieで作ったかどうかといった技術の違いではなく、映画の出来が問題になる。iMovieで作りました、低予算ですなどということは、問題ではない。それと、この映画は、ナレーションやサブタイトルで示されることと、映像として提示されることとのあいだに差がありすぎる。映像よりも前者のほうが強いのだ。
◆しかし、最初のほうはなかなかいいと思った。この映画の監督でもあるジョナサン・カウエットが、テキサスにいる母レニーと電話で話しながら泣いている。そのかたわらで、彼をなぐさめるように抱く男。ジョナサンが悲しんでいるのは、母親の調子が悪いからだが、彼女は、やがて見ることのできるシーンでは、明らかに精神を病んでいる。ただ、この映像の質は続かない。iMovieで遊びすぎている感じもある。
◆母への深い愛情が描かれていることはわかる。1951年、幼いレーニーは、里親のアドルフとローズマリーに育てられるが、1960年代には、ヒッピー生活をしたらしい。このへんは非常に重要だと思うが、この映画ではちょっと言及されるだけ。その後、写真のモデルになり、世の中で知られるようになる。1972年、セールスマンの男と結婚する。ジョナサンは、2人のあいだの息子だ。父親はすぐに出て行き、ジョナサンは、レーニーの里親、いまでは「祖父母」にあたるアドルフとローズマリーに育てられる。そしてこの間にレーニーの精神疾患があらわれ、精神病院に入る。
◆全体が、ある意味ではだらだらと、ビデオ日記風に、感傷的なテンポで進むのだが、ところどころ、明らかに、自分では撮っていない(ちゃんとした「クルー」――というほどではないにしても――がいる)映像がまじる。母親レニーが留守番電話にSOSを入れてきて、ジョナサンがテキサスに急行すると、里親のアドルフ(相当老いている)と彼女が住んでいる家のなかは荒れ放題。彼女は、電話でアドルフが虐待をすると言っていた。彼女が幼いときにもそういう目にあったことを聞いているジョナサンは、アドルフをせめる。その光景がビデオに映されるが、それは、ちょっと「キャディッド・キャメラ」(ドッキリカメラ)のよう。しかし、カメラのまえですべてを否定するアドルフの表情や身ぶりからは、彼が虐待をしたという確信はあたえられない。このへんは、(唐突な例で恐縮だが)戦中に中国人を虐待し、殺し、しかもその肉を食ったりした日本の兵士からその仮面をはいでしまう『リーベンクイズ』のようなリアリティはない。
◆スタイルとして、面白いなと思ったのは、自分を語っているようで、その自分のまえに「ガラス」を立てていることだ。精神病のレニーに焦点を当て、そういう彼女を撮る自分(ジョナサン)も、相当屈折した人生を歩んできたはずだし、苦労しているはずだが、そういう側面を赤裸々に語ることはない。ゲイであること、映画や音楽への関心、アンダーグラウンド・カルチャーへのコミットメント、母親からの「脱出」としてのニューヨーク――それらは、語られはするが、「声高」に表明されるわけではない。ジョナサンにとっては、母と自分を撮ることが、ある種ナスシシズム的な癒し(セラピー)になっている。カメラは鏡であり、同時に自分を愛撫してくれる何かだ。



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●マラソン (Marathon/2005/Chung Yoon-chul)(チョン・ユンチョル)

Marathon
◆20歳だが「5歳児の知能」しかないという青年チョウォン(チェ・スンウ)と母(キム・ミスク)の物語。幼児のときから「自閉症」で孤立しているチョウォンを母親が、幼い彼を雨の降る外に連れ出し、雨を手で触らせて「雨」を教えるシーンから始まるこの映画は、監督によると、「一種の育児日記」だという。が、映画は、すぐにチョウォンが20歳に成長した時代へ飛ぶ。彼女が実際にどのような育児をしたかはわからない。家には下の息子がおり、夫は、家をあけがちのようだ。20歳になっても、ろくに話ができないが、シマウマとチョコパイとジャージャーメンが大好きで、好き嫌いの感情ははっきりしている。あるとき母親は、彼がマラソンに特別の興味を示すことを発見し、マラソンのトレーニングをさせる。その結果、この男が猛烈な成績をおさめ、マラソン大会で優勝するというのなら、ありがちなドラマだが、この映画はそういう方向には陥らない。それよりも、2人のコミュニケーションが見る者を惹きつける。
◆ある意味では、この母親は、「教育ママ」である。が、ただ子供に詰め込み教育を強い、競争に勝ち抜くことを期待する「教育ママ」ではない。それよりも、彼女の姿勢は、相手が自分の子供であれ、学校の教え子であれ、相手の子の才能や能力や興味を引き出してやるすぐれた「教師」のそれだ。ある面では、「天才バイオリニスト」を育てあげる母親なんかと似ているが、彼女が求めるのは勝つことではなく、その子が輝くこと、一人の人間として自律してくれること、興味をみずから発展させるような人間になることだ。
◆母親が、息子のためにマラソン・コーチのソン・チョンウク(イ・ギヨン)と談判するシーンが面白い。ソンは、かつてボストンマラソンの優勝者だが、飲酒運転で捕まり、その罰で、チョウォンの通う学校の一教員として赴任してくる(韓国にはそういう制度がある?らしい)。彼は、ほとんど人生を投げていて、てんで教える気がないし、チョウォンを馬鹿にしている。母親の強引な交渉に折れ、しぶしぶコーチを引き受けたが、チョウォンに勝手に走らせ、自分はベンチに寝そべっているといったいいかげんなコーチをする。が、彼は、次第にこの青年に興味をもちはじめる。このあたりがなかなかいい。ソン・チョンウクの演技もいい。
◆この映画は、チョウォンという一人の「自閉症」の青年が、何かを打ち立てたとか、乗り越えたとか、達成したということを描くわけではない。それよりも、一つのことに格別の興味を持たせること、本人が持つことのすばらしさが、この映画から伝わってくる。むろん、それは、容易なことではない。キム・ミスク演じる母親が払った代償(夫との不和、下の息子の軽視)は少なくない。が、映画は、そういう面をじくじく描くことはない。
◆最後に、韓国には、「自閉症」の子供が3万人(だったと思う)いるというが、現代は、(文字通りの自閉症の子供を抱えている親たちには失礼だが)ある意味で「自閉症」の時代である。わたしが学校で出会う学生たちは、ある意味で「自閉症」的で、他者とのコミュニケーションを積極的にはしたがらない。それは、自分とのコミュニケーションにおいてもそうで、「自分が何に興味を持っているのかわからない」という悩みをよくきかされる。興味が持てない人に「何かに熱中しなさい」といっても無理な話だが、「関心」というのは、人間が生きていることのあかしでもあるから、何にも関心が持てないという意識は、眠りたいが眠れないという症状と同じように苦しいのである。が、そういう学生に接したとき、教師としてのわたしが、この映画の母親のように、とことん相手の関心を引き出すことにエネルギーを傾注できるかといわれれば、むろん、できない。
◆昔住んでいた街に、ここで「自閉症」と呼ばれている症状と似た症状の男が住んでいた。いつも家のそばに腰を下ろし、おだやかな顔をして何時間でも外を眺めていた。わたしがそこに10数年住んでいるあいだに、彼は外面的には歳をとらなかったが、彼の世話をしていた彼の祖母は、高齢に達し、やがて亡くなった。そのあとも、彼は、同じ場所でよく外を眺めていた。その祖母は、おそらく、自分の年令を意識し、彼が自分のあとに生き残ることを懸念したにちがいない。彼を残して死んで行った祖母の心中はいかなるものであっただろうか? この映画を見ながら、名も知らないその男のことを思いだした。
◆試写が終わって出る時、配給の人からロッテの「チョコパイ」をもらった。そうか、やはりロッテか。
(シネカノン試写室/シネカノン/松竹)



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●ロボッツ (Robots/2005/Chris Wedge)(クリス・ウェッジ)

ROBOTS
◆3時半開映で「よみうりホール」はどうかなと思ったが、やはりお客は3分の1程度だった。日本語版としての出来もよかったので、ちょっともったいない感じ。いずれ吹き替えの役者たちを集めて大きな試写をやるのだろうが、最近、「よみうりホール」でがらがらの試写会というのがよくあるのはなぜだろう。それと、客が少ないと、この会場、えらく寒いのだ。なんとかして。
◆ロボットだけが住む社会を描いている寓意的な構成だが、それがオフザケにならず、かえってそのドラマとエピソードが、いまの人間社会をさりげなく批判していて面白い。基本にあるのは、効率をあげるためにロボット社会の「勝ち組」と「負け組」を「デバイド」する問題。もともとは、発明家のビッグウェルド博士(声:西田敏行)によってつくらて、上からみると輝けるこの「ロボットシティ」にも、その地下には、「中古」の部品だけで作られた「負け犬」ロボットが住む「労働者」街や「ホームレス」街がある。「負け犬」ロボットを解体する処理場もある。「アップロード」できない/しない「負け組」は解体されるか、この街のホームレス・エリアに隠れるかしかない。ビッグウェルド博士を隠居させ、この街を牛耳っているのは、ラチェットとその「母親」マダム・ガスケットで、彼と彼女は、この分割・差別政策を強引に推進しようとしている。
◆ビッグウェルド博士のような「偉大な発明家」になりたいという(昔流に言うと)「青雲の志」をいだいて郊外の親もとを離れてこのロボットシティにやってきたロドニー・コパーボトム(声:草剛)は、ホームレスエリアの住人ロボット、フェンダー(声:山寺宏一)と知り合い、この街の現実を知る。
◆現代のテクノロジー、とりわけ情報テクノロジーの世界では、「パーツ」(部品)が組み合わさって全体をなすという発想は、時代遅れになっている。それは、機械テクノロジーが優勢だった近代の発想であって、ミクロな単位自身が独立していて、それらが自己組織化しながら、たがいに連動しあってネットワーク的なシステムを作る(したがって、「部品」だけでも独立できる)のが今日の状況だ。だから、たとえば、アメリカの軍隊でも、かつては上官の命令なしには行動できなかったのを、個々の兵士の判断で動ける要素を増やすとか、いうような形で、部品・全体観は、終わりつつある。しかしながら、現状では、人間を「部品」の集合と考える発想、グループや社会を「部品」が「役割」分担して構成される全体とみる「分業」的考え方が依然として通用している。
◆そのくせ、現実には、「部品」は全然尊重などされていない。たとえば、家電製品が壊れた場合、個々の「部品」を交換すれば直る場合でも、基盤全体とか、モジュール全体とか、ある「部品」の集合をそっくり交換するか、あるいは、「もう寿命ですね」ということで、全体を廃棄し、新しいモデルを購入させられる。コンピュータの場合は、その最たる例で、古いものを使い続けようとすると、かえってコストがかかってしまう。この「部品」交換ではなく、「全体」廃棄の発想があたりまえになろうとしている。この映画は、そうした発想に対して、「発明」のアイデアと意志をもって「部品」交換しながら同じものを長く使い続けるという発想を肯定しようとする。
◆いまの時代は、大人も子供も、機械を分解する(パーツ単位に分解する)ことをあまりしない。これは、非常に損なことだと思う。たしかに、テクノロジーは、機械(マシーン)テクノロジーからエレクトロニック・テクノロジー、さらにはバイオ・テクノロジーへと重心がシフトしてきている。が、新しいテクノロジーを知るには、古いテクノロジーの特性を知らなければならない。機械テクノロジーならば、機械を分解してみなければ、その特性はわからないから、分解と組立が機械テクノロジーとのつき合い方の基本になる。この映画は、エロクトロ・バイオ・テクノロジーの感覚と技術を通して機械テクノロジーを見ているところがユニークだ。
◆日本語版の吹き替えは想像以上によかったが、英語版の声優はなかなかすごい。ロドニーの声をユアン・マクレガー、フェンダーのをロビン・ウィリアムズ、ビッグウェルト博士のをメル・ブルックスがそれぞれ担当している。「キャリア・ロボット」になっているが、「労働者階級」出身の気性を失っておらず、ロドニーと出会って愛しあうようになるキャピーを、英語版ではハル・ベリー、日本語版では矢田亜希子。英語版で見たい気がするが、日本では公開しないのかも。
(よみうりホール/20世紀フォックス)



2005-05-10_2

●星になった少年 (Hoshini-natta Shonen/Shining Boys & Little Randy/Shunsaku Kawake)(河毛俊作)

Hoshini-natta Shonen
◆東宝のビルのエレベータのなかでいっしょになった男性が、カバンのなかをもじょもじょやって何かを取り出した。首に下げる名札だった。何階かのオフィースに入るとき必要なのだろう。その昔、アメリカのちょっと大きな会社に行くと、首からネームカードをぶら下げた人がいて、かっこいいなと思ったが、そのうち、日本の会社でも流行りはじめた。が、最近は、セキュリティ上、義務化され、わたしの行っている学校でも下げているのがかなりの数いる。わたしの名前が印字されたものをもらった記憶があるが、むろん、わたしはやらない。
◆実在の人物を追悼・回顧する映画であるが、同時に、(時代設定は1980年代後半から1990年代初頭までだが)いまの日本で、ちょっとオフな家庭・家族と、そのなかで自分の生き方をまっとうした少年の物語にもなっている。日本の学校なんかに行くよりも、タイの象使い養成所にでも行ったほうがよほどよいのかもしれない。
◆動物好きの佐緒里(常磐貴子)は、前夫の子供・哲夢(柳楽優弥)をつれて千葉県の東金で、動物学を専攻した新しい夫・小川耕介(高橋克実)と動物プロダクションを経営している。耕介とのあいだにも3人の子供がいるが、家族生活はうまくいっている。(後半、成長した哲夢が象の調教のやりかたをめぐって耕介の言うこときかなかったとき、「てめらを拾ってやったのは俺だろう」というせるふをはくシーンはあるが、継父としてはベストの部類に属する)。
◆それほど露骨には出てはこない(そのくらいは「普通」だから)が、哲夢は、学校で「動物臭い」と差別される。しかし、彼はそれでめげることはない。授業で教科書を棒読みする教師が出てくる。退屈な哲夢が、夢想の動物園の絵を描いていると、それを見つけたその教師は窓から捨ててしまう。学校には夢がないが、といって、この映画は、それを批判的には描かない。同様に、哲夢が日本からはるばる単身でおとずれたタイの生活も、(日本と対比して神秘的に描いたりするやりかたがあるが)非常に「自然」に描く。これが、監督・河毛の作風なのだろう。
◆柳楽優弥は、すべてを「自然」に見せてしまう才能がある。彼の演技を見ていると、常磐貴子の演技が、いかにもテレビ学校的(俳優養成学校的)で、せりふとしてはこなしていても、他人ごとのように言う例のスタイルが鼻につく。このへんは、祖母役の倍賞美津子(千恵子に似て来た)は、常磐とはちがう。習った演技の系統がちがうからか、年期が入っているからか?
◆「自然」という言葉を使ったが、淡々としているところがこの映画のいいとこ。タイで最初、哲夢が、トカゲかなにかの丸焼き料理を食べられなくて、日本から持ってきたらしいカップヌードルを食べるシーンがあるが、当然、猛烈な葛藤や同化の苦労があったはずだが、そのへんをさらりと描く。学校で、最初意地悪をする同世代のタイ人も、すぐに哲夢を受け入れる。全体として、この映画は、「善良」な人ばかり出てくる。だから、哲夢が日本に帰って来て、動物プロダクションの仕事をしはじめるシーンで、テレビ局が動物を使ったドラマの撮影にやってきて、哲夢とやりとりするところでは、テレビ屋やそのドラマの主演俳優(武田鉄矢)が登場すると、やけに生臭い感じがするのだった。
◆哲夢が、象使いになろうと決心したのは、母親が象を買うことを決心し、夫の反対(というほどはっきり意思を表明しないのだが)を押しきって、「中古」の象を買ったことに端を発する。が、彼には、独特の感覚があって、すぐに象の「言葉」がわかるのだった。象は、仲間同士の「言葉」をもっているという。幼いときから動物に囲まれて育った子供は、そういう感覚を身につけるのかもしれない。
◆映画では特には強調されないが、哲夢のにとって、母親の影響は強い。こう思ったら、実行に映す佐緒里のような母親の子供は、そのパワーにおしつぶされるか、あるいは、彼のようにユニークな才能と性格を延ばすように見える。動物プロダクションを運営するためには、それなりの計算とドライな運営能力ができないし、佐緒里が象を買おうと決意したのも、ただ象を飼いたいという夢を具体化しただけでなく、同時に、プロダクションとしてのブレイクスルーを意図していたはずである。しかし、この映画は、そういう部分には目を向けない。だから、話としては、「普通」でない家庭があり、そこから「王子」のような子が育ち、脂ぎった現実には常に距離を置きながら、淡々と生き、突然姿を消してしまう、という印象をあたえる。
(東宝試写室/東宝)



2005-05-10_1

●ハッカビーズ (I Heart Huckabees/2004/David O. Russell)(デイヴィッド・O・ラッセル)


◆少し早すぎたかなと思ったが、会場についたらもう半分ちかい席がうまっていた。アメリカでの評価が高いのでみな期待して来たもよう。最前列には永六輔氏。補助席を置かないこの会場はじきに満席となり、宣伝の人があやまる声がきこえる。今日は6時半からももう一回試写があるが、それまで待つのはつらいねぇ。
◆字幕は戸田奈津子だが、はたして、「哲学的」なこの映画の奥行きを訳し出せるだろうか? 戸田奈津子の字幕は、職人芸に域に達しているとしても、「こう訳してしまうと観客には理解できないだろう」といった「思いやり」のある操作が目立つ。彼女は、「C-SPAN」が日本では「一般的」でないと判断すると、それを「CNN」と(誤)訳してはばからない。しかし、そういうやり方はもう古いのではないか?
◆この作品には、"existential detective" とか "existential issue"という言葉が出てくる。この"existential"はキーワードなので、さすがの戸田氏も、意図的な「誤訳」的操作はできなかったらしく、前者を「実存主義的探偵」、後者を「実存主義」という役でお茶をにごしている。しかし、これでは、この映画の意味が伝わらない。ここで使われている"existential"は、1940~50年代(日本では1960年代前半まで)に流行った「実存主義」(ジャン=ポール・サルトルが主役だった)とは関係がない。たしかに「実存主義」が問題にした「実存」(existence) とは関係がある。が、それならば、「実存の」とか「実存的」と訳すべきである。まして、"existential issue" は「実存主義」ではなくて、「実存的問題」、簡単にいえば、「生きるか死ぬか」の問題である。ハムレットの「生きるか、死ぬか、それが問題だ」の生死が「実存」なのであり、個々の人間の現実的存在を哲学的に表現している。
◆リリー・トムリンがパートナーのダスティン・ホフマンと「経営」(収入のほどは不明)している探偵社の名が、"Existential Detective" (実存的探偵)。彼女と彼があつかうのは、「実存問題」である。ホフマンは、白い毛布を取り出し、両手のうえにかけ、手を動かしてラクダの背中のような形をつくりながら、「毛布のなかですべてがつながる、われわれは一体だ」と言う。彼らは「探偵」というよりも「検出」(detect)する人であり、そのやり方は、探偵よりも精神分析医的である。
◆ジェイソン・シュワルツマンは、「自分」探しのために「実存探偵」社を訪れる。彼は、背の高いアフリカ人と1日に3度もも出あった偶然の謎につきまとわれる。あれは誰だったのか? ホフマンは、依頼者を、ちょうど「フロイト派」のセラピストが患者を長椅子に寝かせるように)寝袋のなかに寝かせ、チャックを閉める。寝袋のなかで、シュワルツマンは、シュールな「幻想」を経験する。ここでは、「検出」すべきものは、「犯人」といった「他人」ではなくて、「自分」、自分のなかの「他人」なのだ。映画のなかに、"how am I not myself?"という問いが何度かでてくるが、まさに、「どうしてわたしはわたし自身ではないのか?」、「どの程度わたしは他人なのか?」を「探偵」する。
◆シュワルツマンは、環境主義者で、コミュニティの連中と「コアリッション」(目的を共有して一時的に連帯すること・そういうグループ)を組んでいる。何でも売ってしまおうという「ハッカビーズ」社の開発に反対するのがその目的だが、この「コアリッション」には、「ハッカビーズ」社のやり手社員であるジュード・ロウも入っている。彼がこれに加わっているのは、懐柔策らしいが、「コアリッション」のメンバーは、疑ってはいないようだ。というより、従来の枠組みでは「敵」と「味方」に分裂してしまうような面々が一時的に「連帯」するのが「コアリッション」であり、地域の「自然保護」というような場合には、こういう組み合わせも不思議ではない。
◆彼らに対抗するかのように、別の「哲学」をのたまうのが、イザベル・ユペール。彼女は、『If not Now』という本を書いて売れている。消防士のマーク・ウォ-ルバーグは、彼女の本の「信者」で、石油文明に反発をつのらせ、自動車を拒否し、火事が起きても消防車に乗るのを拒否し、自転車で火事場に急ぐ。皮肉なことに、消防車は渋滞で現場に着くのが遅れ、彼の方が先に着き、人を助ける。彼は、子供が履いているスニーカーに「made in Indonesia」と書かれているのを指さし、みろ、インドネシアでは労働者が低賃金で働かされ、搾取されている――こんなもの履くなと言い、子供と女房はあきれて家を出ていく。
◆ウォ-ルバーグは、「もしジミー・カーターの政権が倒れなければ、いまごろは電気自動車が走っていた」といい、「ファシストの独裁者に牛耳られているアメリカ」を呪う。この映画も、ハリウッドで作られながら、G・W・ブッシュに異を唱えている。
◆シュワルツマンがアンティク・ショップのような店であの背の高いアフリカ人に会ったとき、このアフリカ人が持っていたポスターかジャケットには、ジム・キャリーが緑の顔に深々と帽子をかぶっている『マスク』(The Mask/1994/Chuck Russel)のポスターの絵が映っていた。
◆試写で配られたプレスシートには、"i ♥ huckbees"という表記があり、アメリカでも"I Love Huckbees"というタイトルが使われている。しかし、原題の"heart"は、「肝に銘じる」という古い用法で、直訳すれば、「われハッカビーを忘れじ」といった感じになるらしい。要するに「ハッカビーたちに気をつけろ」ということだ。
◆「ハッカビーズ」とは、なんでももうけの対象にしてしまうという最もアメリカ的で今様な会社だ。その会社でジュード・ロウは、最も口の立つ出世街道ましぐらの社員。実際には、「コアリッション」の会員になりすまし、その活動を懐柔しようというセコイ奴。「ハッカビーズ」はCMも作っているが、その売れっ子モデルがナオミ・ナッツ。彼女はロウの恋人であるが、ひょんなことでウォールバーグを愛するようになる。つまり、脱ハッカビーズするわけだ。
◆トムリンとホフマン「探偵」が、ロウの家の外のごみ箱をあさると、なかから「カフカ」という名の見える本が出てくる。いま「カフカ」というと村上春樹で、こっちはフランツ・カフカとは何の関係もないが、この映画の「カフカ」はれっきとしたフランツ・カフカである。ホフマンが、「ああ、カフカだ」と、「やはり」という声をあげるところをみると、この映画で使われている「実存的」は、実存主義と全く無関係ではなさそうだ。しかし、「実存主義」そのものは、まさに個々人の生き方を問題にしたのであって、単なる哲学の系列ではなかった。日本に入ってくると、それは、単なる思想上だけの流派になってしまった。それは、「あなたの実存」なんて言葉は、普通の日本語では使わないから仕方のないことだが。
◆ちなみに、「実存」という言葉を作ったのは、九鬼周造である。いまでも十分に読みごたえのある『人間と實存』(岩波書店、1939年)のなかで、ハイデッガーにおけるExistenzが、従来ただ「存在」と訳されていたが、それでは不十分で、「現実存在」と訳さなければならないと主張した。その「実」と「存」とつないで「実存」という言葉を作ったのだった。なお、フランスで「実存主義」のイデオローグになったジャン=ポール・サルトルは、九鬼周造がパリに住んでいたとき、彼にフランス語を教え、他方、九鬼はサルトルにハイデッガーを教えたと言われている。
◆いまのアメリカで、マイナーな環境主義者(アルバート=ジェイソン・シュワルツマン)をメインにして、「実存」つまりは「いかに生きるか」をテーマにするというのは、なかなか批判的。アメリカで当たった理由はそこにあるが、日本では、そのからくりとひねりが通じず、あまり当たらないかもしれない。
(ヘラルド試写室/日本ヘラルド)



2005-05-06

●極私的遂に古稀 (Kyokushiteki Tsuini Koki/2005/Suzuki Shiroyasu)(鈴木志郎康)

Kyokushiteki Tsuini Koki
◆鈴木志郎康さんは、わたしが敬愛する詩人であり映像作家でありパフォーマーであり思想家であり人である。イメージフォーラム・フェスティバルで発表される鈴木さんの作品は以前からずっと見てきたが、昨年だけは見に行けなかった。だいたいいつも5月の連休中にフェスティバルがあるのだが、連休はわたしにとって魔の一週間となる。「勤め」から解放されるので、寝起きの時間が極度に不定となり、「カタギ」の生活とは無縁の時間帯に放り出されるからだ。今年も、4月29日にあった第1回目の上映を見過ごしてしまった。今日を逃すと見れないので、前日から「カタギ」の生活をし、この日にそなえた。
◆この作品以外には、公募部門奨励賞の水本博之『2つの旅とコーヒー』(17分)、招待作品として、ビジュアル・ブレインズのビデオ『Dé-Sign 16 』(10分)、野川仁のビデオ『迷図』(5分)、水野勝規のビデオ『Tone』(10分)、太田曜の16ミリ『Speed Trap』(6分)、田名網敬一+相原信洋のビデオ『Trip』(8分)が上映された。
◆鈴木さんの作品が一番面白いと感じたのは、他の作品が、フィルムやビデオのパッケージのなかで完結している印象をあたえるのに対して、鈴木さんの映像は、鈴木さんの肉体といういわばベルクソン的「持続」と「運動」との関連のなかで、生きている存在(つまりは「実存」)の(ベルクソンを出したから彼の言葉を借りれば)「奥底にある生命の絶えざる耳鳴り」(「変化の知覚」)を「聴かせ」てくれるからだ。
◆しばらく鈴木さんには会っていないので、初めの方で、彼のむくんだ顔が見えたときはびっくりした。声もおかしい。が、それは、インフルエンザにかかったときの映像で、息もたえだえになりながら自分を鏡に映し、それをビデオに撮っているのだった。「極私的」な映像日記だからそれも撮らなければならない。
◆10年前、60歳のときの作品で、鈴木さんは、いきなりカメラのまえで「これが還暦のわたしの身体です」と言って、パンツ一丁になったが、5月に70歳の古稀をむかえる鈴木さんは、この作品でもパンツ一丁になる。肉体の衰えを感じた氏は、ストレッチ体操をはじめる。最初は、ほとんど手が床につかないが、3ケ月後にはその効果がはっきりとあらわれてくる。これも驚き。
◆この作品は、鈴木さんが身体をはった日常パフォーマンスの記録でもあるわけだが、衰弱していた身体が、ストレッチ体操をするということによってだけでなく、撮るということによっても次第に回復してくるのを見せるという循環構造が面白い。
◆鈴木さんのパートナーである「麻理さん」がちらりと映り、「日記」と称しながら、いずれイメージフォーラム・フェスティバルの作品に使うんでしょう、そういうのって・・・と、鈴木さんの制作態度への批判的コメントをするシーンがある。むろん、自分の身体と生活をさらすこうした「パフォーマンス」は、ライブではないのだから(いや、ライブであっても)どこかに「演出」が入る。効果をねらった演出ではないとしても、最低限の選択ははいる。しかし、そうした演出や選択は、日常、わたしたちが鏡を見るという些細な行為のなかにもある。意識するということがそもそも演出であり選択なのだ。そうした「演出」(麻理さんのコメントも含め)の自然さが、鈴木さんの映像にユーモラスな要素を加える。
◆しかし、鈴木さんの場合、「極私的」日記として自分の生活を撮るということは、記録するのとはちがうのだと思う。この作品のなかに、7月5日に二子玉川園駅の階段ですべり、鼻血を出して顔に傷をするという報告をする鈴木さんの姿がある。それは、絆創膏をはった顔のアップだが、カメラの視角はインフルエンザのときと同じで、傷をアップするとか、現場のショットを見せるといったことはしない。つまり、これは、まさに自分の肉体に起こったことを物語る姿を撮っていることを見せる映像パフォーマンスなのであり、記録というならば、そうした出来事を1日以内の時間の枠のなかで回想する意識を記録するのである。そしてその「自然」さが、不思議なおかしさをかもし出す。
◆ヘルシンキに住むエルキ・クレニエミ(Erkki Kurenniemi)は、フィンランドの電子音楽のパイオニアとしても、またさまざまな電子的なインターフェースの発明者としてもしられている天才的な人物だが、彼は、60をすぎたころから、毎日、自分の見たもの、会った人・・・視覚にうつったものはなんでもデジカメに撮り、家に帰ってコンピュータにセイブするという生活を送っている。彼は、そうすることによって自分の「記憶」をシステム化し、自分が死んだあとも、自分の「人格」を生き残らせることできるかもしれないという期待をいだいている。『ビデオドローム』のオブリビアン博士になろうとしているわけだが、鈴木志郎康さんが彼の日常生活を撮るのは、そういう目的ではないと思う。クレニエミの発想は、いかにも「西欧」的な「記憶」=蓄積の形而上学と結びついているが、鈴木さんの場合は、「はかなさ」に身をまかせるというか、もっと「東洋的」な感じがする。
◆この「日記」には、庭のベランダに植えられたさまざなな花や植物の姿も映る。鈴木さんは、シャクヤクの蕾が開くのを待つのは、「わくわくする」と語る。わたしは、花や植物の季節感と無縁の人間なので、アジサイが映ったシーンで、ピクチャー・イン・ピクチャーの形で「マリさん」の姿がちらっと映ったように見えたとか、庭が映る別のシーンで、テレビのニュースの映像が出てきたというようなところに注意が向いてしまうのだが、この作品のなかで草花は、重要な「季語」であり、また、身体をクレニエミのように「情報のシステム」と考えるのではなく、いずれは、草木と一体になる存在と考えていることを示唆しているように見える。「咲く」ことの喜びと「枯れる」ことの淋しさとあきらめ。
(パークタワーホール/イメージフォーラム)



2005-05-02

●交渉人 真下正義 (Negotiator Mashita Masayoshi/2005/Motohiro Katsuyuki)(本広克行)  ★★★3/5

Negotiator Mashita Masayoshi/
◆連休中で試写は、おそらく東宝だけ。行きの車中は、家族連れや旅行客だらけ。左隣の女は、ハンバーガーでも食うみたいな音をたててガムをかんでいるが、右隣に座ったおじさんは校正に赤字を入れている。そのうち、大学は本当に休みなのだろうかという思いにかられ、有楽町から電話を入れてみる。守衛の人が出て、「全学、休みですが」といぶかしげな声。ときどき、「基本」が基本と思えなくなるわたしの病気。これも「ノマド」の特性か? ノマドといえば、ノマド・アーティストのシューリー・チェン、ラディオ・クォリアのアダム・ハイドとオナー・ハージャーと先週あいついで飯を食った。マルコ・ペリハンは、アダムといっしょに来るとメールしてきたのに、来なかった。彼は、世界中を飛び歩いているが、ノマドというよりも、ビジネス・エリートという感じ。「商売」で忙しかったのかも。まあ、当日、カールステン・ニコライとICCでパネルがあったので、捕まって動けなかったのかも。しかし、連絡ぐらいしてもいいだろう。
◆テレビの『踊る大捜査線』シリーズと、より直接的には『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』を前提にしてこのドラマがはじまる。「警視庁初のネゴシエーター=交渉人」真下正義を演じたユースケ・サンタマリアが本作では主役。テレビで見せる「バラエティ芸人」としてではなく、ここでは、彼がバラエティで見せる困った苦笑の顔が有効利用され、彼としてはかなりいい部類の演技。ただ、とちゅう、声がかすれるのは、録音のせいか? あるいは、バラエティで騒ぎすぎて、声をつぶしたのか? それとも喉に変調をきたしているのか?
◆地下鉄を乗っ取ったハイテクオタクから挑戦を挑まれたうえに、警視庁内では、警視正・室井慎次(柳葉敏郎)以外には、同僚からも軽視されている真下。それが、仕事の鬼で、いつもニコリともしない地下鉄のコントロール・ルームの面々から邪魔がられるのだから、ユースケの困惑顔はますます活きてくる。テンポは軽快で、ストーリもあきさせない。ただし、続編をねらっているらしく、最後があいまいにぼかされ、何か「詐欺」にあったような気持ちで劇場を出ることになる。損した感じがするのだ。犯人が捕まらないのはいい。が、『24』などでは気にならないのが、本作ではフラストレイションを起こさせるのは、ただはしょっているからだ。
◆例によって、俳優たちのしゃべりが、新劇調というか、いや、いまでは「テレビ学校」調というべきか、たとえば室井慎次が、自分の判断で捜査を真下にまかせたため、会議で攻められるシーンで、
一人づつ順番に、人ごとのように台詞をこなしていくパターンが目立つ。演出がダメなのか、俳優たちが学校でそういうパターンを身につけてしまったのか、よく知らないが、このパターンをこえなければ、日本の映画は新しくなれない。
◆台詞といえば、この映画で唯一「自然」なのは、「ヤサグレ」刑事を演じる寺島進。いつも「ばかやろう」、「ざけんじゃねぇ」と言っているのと、人の言っているのを聞かずに口をはさんだり、さえぎったりするのがそのキャラクターだから、他が画面に映っている順に台詞を吐き出して行くようなパターンから逃れることが出来た。映画は、日常言語を模倣する必要はないが、そこで作られた形式が古びてしまうと、その形式を楽しめない。そういえば、高杉亘が演じるSATのいかめしい顔をした中隊長は、猛烈な勢いで走っているのに、場面場面で歌舞伎の「見え切り」のような静止ポーズをする。そのほうが絵柄からして好都合なのだろうが、おいおいそんなところで止まらないでよと言いたくなる。
◆映画自体がはっきりさせていないからわたしの解釈を書くが、無人の地下鉄をコントロールしているのは、おそらく「カエル宅急便」というマークのついたワゴン車だろう。その車が通ると、ビルのジャンボスクリーンの映像が乱れたりする。カラスが騒がしく飛ぶのは、単に「凶」を示唆するためか、それとも、カラスが電磁波に敏感だということを承知のうえの演出か? しかし、画面を揺らせるほど強力な電波を使っているのなら、電波探知できないはずはないが、この映画には、ケイタイの探知の話は出て来ても、他の無線の探知の話は出て来ない。
◆東京の地下鉄に「隠し線」がある話は、よく言われている。軍事目的や、皇室の避難の「隠し線」がたくさんあるというのだ。その話が、この映画にも出てくるが、最後にはあいまいな話になる。そういうことを知り尽くした「臨時ダイヤ組み職人」線引屋こと熊沢鉄次(金田龍之介)は、その図面まで出してくるが、そういう振りは、最後にはどうでもよくなる。ところで、ここには出て来ないが、半蔵門線が紫なのは、皇居と密かに直結しているからだという都市伝説がある。
◆実際は知らないが、この映画に出てくる地下鉄のコントロール・ルームは、NASAの宇宙ステーション並だ。ロンドンの地下鉄が、すでにやっていることだが、駅のホームで不審な動作をする人間をチェックする監視カメラがある。おそらく、東京でもやっているはずだ。このコントロール・ルームを仕切るのが、國村隼が演じる、いつも火のつかないタバコをくわえている片岡文彦。タバコばなれができないのは、いまではアホに見られるらしいが、この男は、えらいマザコンで、「おかあさま」と呼ぶ母親と二人ぐらし。その母親役を八千草薫が演じているのはなかなかはまっていた。マザコンといえば、タバコ志向は、口唇期コンプレックスと関係があるとか。
◆ドラマは、2004年12月24日に起こり、この日、真下正義は、恋人の柏木雪乃(水野美紀)とデートの約束をしている。彼女は、新宿の音楽ホールでまちぼうけを食う。クリスマスの演奏会があるのだが、その指揮をするのが、西村雅彦。しかし、その指揮ぶりは、全く曲と合っていない。出てきたときから、西村が指揮者をやるのは、おふざけなのかと思ったら、そうでもなく、「本気」の役だったので、これはまずかったのではないだろうか。彼が指揮しているあいだ笑いがこみあげてくるからだ。そのうち、にんまり笑って「ガウター10!」なんて言い出すかのような気がして。
◆柳葉の指令で地下鉄のコントロール・センターに乗り込んだサンタマリアのIT捜査ユニット「CIC」のグループで係長を演じるのは、小泉孝太郎。別にどうということもない演技だったが、そのさりげなさが特技といえないこともない。彼らは、機材を一式持って地下鉄のコントロームに乗り込み、邪魔がられながら捜査を進めるのだが、2度ほど警視庁から宅配便がとどく。捜査線上に浮かんだ犯人をしらみつぶしに調べるためのコンピュータデータだが、ダンボール箱を開けた彼らが言う、「JAZZドライブまであるじゃないか! バックアップとっておけよ」。「JAZZドライブ」とは、言わずと知れた、MOなどと同時期に出現したディスクのことだが、「バックアップとっておけよ」はどういう意味か? それが「バックアップ」ではなかったのか? しかし、当時、警視庁のようなところがJAZZドライブにデータを記録していたというのは、ありえない。たいていは、DATだ。
◆この映画を見るまえ、たまたま、わたしは、古いJAZZディスクを出してきて、かつてSGIのIndyでつくった映像をいまの「普通」のマシンで見れるようにデータ移行をした。そのJAZZディスクは、一枚で1G(といってもずいぶん1万円ぐらいした)の容量しかないから、いまではコピーは簡単なはずだが、フォーマットがSGI式なので、それを古いマシーン(Octaneを使った)で転換し、それを普通のマシーンに移してDVDに焼くといういうようなめんどうなことをしなければならなかった。そうか、小泉孝太郎たちが、「バックアップとっておけよ」と言ったのは、いま一般的なマシーンでも読めるようにしておけよということか。そりゃそうだが、昔は出来なかったんだって。
◆犯人は、真下に対して次々に洋画の題名を出したくる。『ジャガーノート』、『オデッサ・ファイル』、『白い恋人たち』、『愛と哀しみのボレロ』などなど。その際、真下は、これらの映画のタイトルが出されると、すぐに(スタッフが?)検索し、パソコン画面に作品の簡単なデータを出し、それを見ながら返答をする。これは、まるで、学生にわたしが「最近面白のありますか?」などと訊かれたときに、かたわらのパソコンでこの「シネマノート」を出し、それを見ながら答えるのに似ている。しかし、おそらくわたしの学生も、そんなやりかたで返事をしてもらうよりも、生前の淀川長治さんのように、題名、監督・出演者名はむろんのこと、細かいデータを暗記していて立て板に水のように答えてくれたほうが、訊いてよかったと思うだろう。この犯人は、安心するために訊いているわけではないが、「交渉」のプロがこれでいいのだろうか? それとも、このほうがかえって効果的なのだろうか? (東宝第1試写室)


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