粉川哲夫の【シネマノート】
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カーズ カポーティ ユナイテッド 蟻の兵隊 太陽 M:i:III 弓 日本沈没 40歳の童貞男 サイレントヒル イルマーレ
2006-06-29
●イルマーレ (The Lake House/2006/Alejandro Agresti)(アレハンドロ・アグレスティ)
◆講義が定時におわり、今日はさほど仕掛けを複雑にしなかった(全部DVDに仕組んであった)ので、ひょっとしたら銀座まで1時間で行けるかなと思いながら通りに出たら、タクシーが来た。すぐに飛び乗り、駅へ直行。開場直後にまにあった。席は最前列以外はほとんど埋まっており、あとの空席には上着などが横に2席、3席にわたってかけられ、「予約」されていたが、やっと最後列に空席を見つけた。
◆異なる空間、異なる時間(時代)とのあいだのスリップ/トラベルをテーマにした話は、わたしをいつも妙に魅惑する。移動ということに関心があるからかもしれない。タイムトラベルものは、どんなに安い作りでも、けっこう楽しんでしまう。この作品は、場所を一定に設定し、異なる時間とのあいだのタイムトラベルをテーマにしている。そんなことが可能かどうかはどうでもいい。
◆場所を移動するトラベルは誰でもしている。ことなる時間へのトラベルも、夢や想像で誰でもがしょちゅうしていると言えば言える。が、この映画のように、同じ場所でのタイム・スリップの経験は、あまりないかもしれない。ただし、たとえば、多くの人が使った椅子などに座っていて、ふと、まえにそこに座っていただろう人の存在を感じることがある。新築でない家やアパートメントに入居して、先住者のライフスタイルやその存在を実感することもある。こういう感覚・実感をちょっとドラマティックに拡大すれば、この映画の基本構造がはっきりする。
◆映画では、かつてキアヌ・リーブスが住んでいた家(原題の「ザ・レイク・ハウス」湖の家)をサンドラ・ブロックが購入して住み、2人は、同じ場所にある郵便ポストに手紙を入れ合って2004年と2006年というタイムスパンで交信をすることを始めるが、これは、ちょっと滑稽な感じもある。非常にSFチックになってしまうからである。が、逆に、ある種のサスペンス劇の要素は高まり、映画としては悪くない。基本は、ラブストーリであり、すれちがいが効果的だからだ。
◆しかし、もうすこしこの映画のタイムトラベルのことを考えてみると、たとえば、「わたし」という存在、これは、ある意味では同じ場所(身体)でのタイムトラベルをくりかえしている。昨日の「わたし」と今日の「わたし」はちがう。おそらく、「わたし」のアイデンティティは、身体のリダンダンシー(冗長性/ある一定時間記憶する冗長な特性)と関係があり、その長さは、『メメント』などがドラマにした「前向性健忘」の時間(数分)に対応している。つまり数分間のあいだに「わたし」は、過去の「わたし」とのあいだの交信をくりかえすことによって「わたし」としてのアイデンティティを保っている。その際、キアヌとサンドラとが使った「郵便ポスト」にあたるものが、「わたし」の身体(→プラトンの「コーラ」)であり、またその延長として、ふだん「わたし」が使っている持ち物であったり、日常環境なのである。こう見ると、映画の「郵便ポスト」もそれほど滑稽な存在ではなくなる。
◆ラブストーリーにおける「恋愛」は、ある種の自己愛であり、自分の願望の投影を鏡で映し合っているにすぎない。他方、逆に、「自己愛」もいろいろで、そういう自己愛もあれば、自律した「わたし」同士の創造的な関係にもなりえる。そうすると、「孤独」な「わたし」が、キアヌ/サンドラ関係的な「恋愛」を体験するような「わたし/わたし」関係を持つことだってありえる。たとえば、小説を書くということには、そんなプロセスが含まれているし、また、ブログや日記を書くことのなかにもそういう要素がないとはいえない。
◆ところで、アイデンティティというのは、数分の持続のなかで「妄想」されるにすぎず、自我は同一性よりも差異性のなかで同一性を求める。同一性は、差異性の痙攣だ。だから、「わたし」は、もう一人の「わたし」には、「永遠」に会えない。サンドラとキアヌは、たがいにそれぞれの存在を感じあうが、単純に「会って」しまわないところがよい。単純なようで、けっこういろいろなことを考えさせてくれる映画だった。
◆この映画をもう一度見たくなる人は、ラブストーリーが好きというよりも、自己愛の強い人だ。おまえは? むろん、もう一度見たくなるね。
(丸の内プラゼール/ワーナー・ブラザース映画)
2006-06-28_1
●40歳の童貞男 (The 40 Year Old Virgin/2005/Judd Apatow)(ジャド・アパトウ)
◆意識的にセックスを抑制する「セリバシー」という生き方があるが、この映画はそういうレベルを問題にしているわけではない。40になるまで、ヴィンテージもののフィギャーの収集やテレビゲームにはまるオタク的生活を送ってきた男アンディ(スティーヴ・カレル)は、ただひたすら「童貞」であったわけではなく、学生時代に女友達とセックス直前まで行く機会はあったが、ドジなことをして失敗し、以後、何となくセックスを避けてきた。これは、物語の設定としては容認できるが、リアリティとしては非常に「非現実的」だ。こういう、ドタバタのための「省略」や「こじつけ」は、いたるとこにある。そもそも、冒頭、朝立ちのアンディがトイレで小便をし、とんでもない方向へ放水してしまうシーンがあるが、これなど「現実」には無理な話で、ただのドタバタのためのドタバタにすぎない。
◆ドタバタ喜劇としては3流だが、わたしは、アンディをからかう同僚たちの "boy boy" した「結束」のしかたに興味をもった。"boy boy" を、「ガキっぽい」と訳してしまうと、その独特のニュアンスが飛んでしまうように思うが、いずれにせよ、いい大人が集団でわいわいやったり、子供っぽい反応を見せるときに、この言葉が使われる。「体育会系のノリ」とか、一気飲みの雰囲気とかもこの表現がカバーしている。
◆日本人は、一般に "boy boy" した結束をしやすいように思う。あるいは、 "boy boy" した結束をポジティヴ(よきもの)に解釈する傾向がある。テレビのバラエティ番組などを見ても、「つまらぬ」ことをとりたててゲラゲラ笑い、口をとがらせて怒って見せるような軽い「イジメ」がユーモアになったりする。アメリカ人にもそういう要素はあるし、場合によってはその過激さは日本人の比ではないように思うが、他面、そういう"boy boy" の集団性を子供じみているとして、軽蔑し、馬鹿にする傾向もある。
◆以前、カナダでメディアアートの集まりがあったとき、ドイツ人のグループ(明かせば、Van Gogh TVの連中)が、まさに"boy boy" の態度でわいわいやりだしたら、あのディーディー・ハレックが、急に怒り出し、"Out!" と怒鳴って、連中を部屋から追い出してしまった。彼女のすごい剣幕にみなびっくりしたが、彼女は、そこにある種「ナチ」的なものを感じとったのかもしれない。ちなみに、彼女はユダヤ人で、イスラエルは嫌いだが、それ以上にナチスを憎んでいる。また、フェミニストである彼女は、男で固まっている彼らのなかにある種のマチズムを見たのかもしれない。
◆この映画では、アンディの3人の同僚、デイヴィッド(ポール・ラッド)、ジェイ(ロマニー・マルコ)、キャル(セス・ローゲン)が "boy boy"の結束をどんどんエスカレートさせ、仲間でつるむよりも一人でいることが好きなアンディをからかうが、そんななかで彼は、店の近くで「eBay」を使ってオークション引き受け業のようなことをしている中年女性トリシュ(キャサリン・キーナー)と知りあう。 "boy boy" な男を軽くいなせる度胸と経験のある「熟女」(マチュアーな女)である。彼女の"We Sell Your Stuff on eBay" という店は、客が持ちこんだ品物をeBayのオークションにかけ、いい値で売ってやるという商売である。ちなもに、この店や実在するらしい。
◆ある意味で、アンディは「子供」のまま大人になってしまったような男なのだが、ディヴィッド、ジェイ、キャルの3人組も「子供」なのだ。「子供」をうまくコントロールするのが「母親」だとすれば、トリシェは「母親」である。また、販売会社の女マネージャーも、ある意味では「母親」である。こうして見ると、この映画は、ある意味で「マザコン」の「息子」たちの物語である。ちなみに、3人組は、それぞれにエスニック・バックグラウンドがちがい、おそらく、ユダヤ系は一人もいないが、アンディは、確実にユダヤ系である。ユダヤ系のファミリーでは、母親(「ジューイッシュママ」)の力が強いから、息子はマザコンになりやすい。
◆母親的な女性を恋人にするということは、近親相姦的な関係を持つということでもある。アンディの無意識を分析するならば、彼がこれまで童貞できてしまった意識の底には、そういう意味での「近親相姦」を拒否する意向が潜在的に隠されている。
(UIP試写室/UIP)
2006-06-20
●日本沈没 (Nihonchinbotsu/2006/Higuchi Shinji)(樋口真嗣)
◆2時間15分だかの映画なので、ハシゴが出来ないのを覚悟で来た。今日は、この1本でうちどめ。が、その割りにスケールの大きさを感じさせない作品だった。防衛庁・陸海空自衛隊・東京消防庁が協力しているのに、ゴジラシリーズなどと比べると、小じんまりしている。レスキュー隊員として柴咲コウが「活躍」するが、彼女のアウラのためか、目立つように撮っているせいか、おおげさな言い方をすると、レスキュー隊は彼女しかいないのではないかと思える感じ。柴咲ファンは喜ぶでしょうが。
◆見ていて、ふと思ったが、小松左京の原作『日本沈没』の基本の発想が、第二次大戦の空襲と疎開をモデルとしているのではないかということ。阪神大震災を経験したいまでは、今日の災害が、そういうものと決定的に違うということがわかっているので、空襲と疎開をモデルにされたドラマと絵柄を見せられと、非常に嘘っぽい印象を持ってしまう。そんな感じがまずした。
◆終戦とともに、おびただしい数の日本人が大陸から引き上げて来た。その混乱とこの映画の「海外疎開」とがイメージ的に重なる。しかし、大地震から日本列島水没という大異変が起こった場合、その混乱や政治的対応は、「疎開」とは全然ちがったものになるのではないか? そのへんの想像力が非常に平板な印象をおぼえた。その点では、まだ、米軍の敗北が色濃くなったとき、サイゴンから引き上げるアメリカ人のシーンが出て来るベトナム戦争映画とか、『ディープ・インパクト』のようなアルマゲドンものの方が、より説得性があるように思う。
◆政治のレベルが、お人好しの総理(石坂浩二)と陰険な内閣官房長官(國村隼)とのあいだで理性派の女性危機管理担当大臣(大地真央)が筋を通す形になるが、女性を前面に出すのが依然(アメリカではすたれはじめた)社会的趨勢だとしても、なんか奥行きがない。この映画の最大の弱点は、組織の描写にパワーと奥行きがないことだ。
◆柴咲コウは俳優としてはわたしの好きな部類に属するが、これまでの映画でどこまで彼女の才能がいかされたかは疑問。その点、この映画の役は、かなり彼女にあっているかもしれない。彼女が演じる阿部玲子は、阪神大震災で両親を失い、東京下町でもんじゃ焼き屋をいとなむ叔母(吉田日出子)に育てられ、実際には鳶でもなんでもない祖父(丹波哲郎――写真のみ)を「鳶の棟梁」だと思いこむことによって心の支えにして成長した。ただ、ちょっと、今回の演技の型が中谷美紀と重なるような気がしたのは、気のせいか?
◆この映画で「平均的な日本人像」となっているのは、吉田日出子やその店の常連たち(六平直政、大倉孝二など)だ。彼女や彼らは、政府の指示で避難をするが、人数制限された国外脱出が困難になるという事態に直面すると、「あきらめ」の境地に陥る。どの国でもこういうあきらめの発想はあるだろうが、日本には、たしかに「あとは野となれ山となれ」といった諦念思想が存在する。それは、意外とプラスに転化するかもしれないが、この映画では、それが、「下町」の「もんじゃ」の人々に集約されているところが、短絡すぎる。
◆主役の小野寺俊夫役の草 剛や、日本沈没を回避する方法について孤軍奮闘する科学者役の豊川悦史とか、演技的には水準以上の演技を披露している。この映画にも、国家のために犠牲になるというファクターがあるが、それを小野寺が一人で身に背負うところが、いかにも2006年版『日本沈没』らしい。草 剛のさっぱりしたキャラのために、彼が犠牲になっても、アンドロイドの消滅に似て、深刻さを感じさせない。これは、わたしとしては、高く評価するところだ。彼は、国家のために身を犠牲にしたのではなく、科学的なチャレンジを自らの手で実行に移すことに最大の関心があったのだから。
(東宝試写室/東宝)
2006-06-14_2
●弓 (Hwal/2005/Kim Ki-duk)(キム・ギドク)
◆東銀座からタクシーで京橋へ。毎度ながら、銀座のタクシーは、「読売中公ビル」を知らない。金鳳堂の角から走る。こんなこといくつまで続ける気?
◆キム・ギトクの12作目の作品だという表示がトップに出る。キム・ギトクがいよいよ「巨匠」としての風格を見せた作品である。が、その分、ああ「キム・ギトクだ」と思わせるパターンが各所にあらわれるようになった。それは、少し早すぎるような気がする。老人(チョン・ソンファン)が、赤ん坊のときから育て上げた少女(ハン・ヨルム)がもういじき17歳になり、そのときには結婚しようと思っているというテーマは、キム・ギトク的には、少女ではなく少年になるべきではなかったか? 父親が自分の娘や他人の小娘に性愛や偏愛を感じるのは、ごく普通のことだからである。
◆このジイさん、めっぽう弓がうまく、おまけに、弓を武器として使うだけでなく、その糸に矢(弦を張ってある)をあてて演奏をし、また、占いの道具にもする。例によって、この老人は、海に浮かべた船に少女といっしょに住んでいる。魚が取れる場所で、陸から船でやってくる客がこの船で釣りをする。一種の「釣り堀」のような機能を果たしている。当然、客のなかには、この少女をからかったり、誘惑してみようと思うものもいる。そのときには、ジイさんの弓が威力を発揮する。
◆占いは、船の舷側にしつらえられたブランコに少女が乗り、別の小舟から老人が舷側に向けて矢を放つ。舷側には、仏の姿が描かれており、そのどの個所に弓がささったかで占いをするらしい。ブランコの少女は、その絵の前を行ったり来たりするわけだから、まかりまちがえば、矢があたる危険もある。つまり、この占いは、少女の身体がかかっているわけだ。ギトクらしく、仏の光背の部分が緑に描かれ、少女は緑のセータを着てそのそばをブランコで往復する。その他、衣服だけでなく、色へのこだわりに出会うが、その組み合わせの意味がみな単純すぎるような気がしないでもない。
◆キム・ギトクの作品にはつねにある種のフェティシズムへの執着があるが、老人といずれは妻にしようとする少女という組み合わせが、フェティシズム的に単純であると同様に、このドラマの展開しかたとおわりかたも予測しやすい。案の定、若い男が登場する。そしてその結末は、言わずもがなである。少女は「仏」なのか「夜叉」なのか?
◆見終わったあとまで続く疑問は、なぜ老人と少女は、声を出さないのかという点だ。彼と彼女は、若きリュック・ベッソンの傑作『最後の戦い』の登場人物たちのように声帯に障害があるのではなさそうだ。もっと形而上学的な意味で声が出ない、あるいは出さないように見える。このへんを考えると、全体が急に多次元的なシニフィアンとなって、上述のわたしの批判を解消するかのような勢いを持つ。まあ、あなたも一度見て、考えをきかせてくださいな。
(メディアボックス試写室/ナイネンタテインメント)
2006-06-14_1
●M:i:III (Mission: Impossible III/2006/J.J. Abrams)(J.J.・エイブラムス)
◆「補助席ですいません」などという声が聞こえたので、さぞ満席なのかと思ったら、「いい」席がずらりと空いていた。が、見ると、席にはプレスとか週刊誌とかが置かれている。その状態はかなり続き、しばらくして、会社の人がうやうやしい態度で案内して来た人が座る。タレントのP氏もその一人。宣伝の世界も厳しいから、役にたつ人優先であることは言うまでもない。が、ホスピタリティの洗練度としては、そういう「上客」は、「内覧」かなんかでまとめて見せ、一般の試写会は、「機会均等」にした方がいい。そのほうが、かえって、宣伝担当が予想しない協力や効果があらわれることがある。
◆結論を先に言うと、非常に職人的に作られた「ジェット・コースター・ムービー」。楽しめるが、すぐ忘れる。難を言えば、(この試写にかぎってかもしれないが、映像がきれいではない)。悪役を演じるフィリップ・シーモア・ホフマンは、『カポーティ』よりはるかにいい。この俳優は、どこかに弱さを隠したキャラクターを演じるのがうまいのだが、ここでは、強気一点張りの悪役を演じる。「ミッション・インポッシブル」のチームの紅一点ゼーンを演じるマギー・Qもいい。ハワイ生まれのベトナム系アメリカ人だというが、香港でモデルをし、テレビドラマに出演しているあいだにジャッキー・チェンに見いだされたという。今後が楽しみな女優。
◆言うまでもなく、「ミッション・インポッシブル」シリーズは、主人公への指令のやり方に凝るのがパターン。今回は、7 Eleven に吊してある使い捨てカメラがその装置となる。パターンである変装も、時代とともに高度化し、今回は、デジカメで撮ったオーウェン・ディヴィアン(フィリップ・シーモア・ホフマン)の顔をコンピュータに飲みこませ、そこからモデラーに出力された信号が自動的に立体の面を作成する。
◆今回と前の『M:I-2』(Mission: Impossible II/2000/John Woo)との大きな違いは、「ボーイ・ミーツ・ガール」方式をやめたことだろう。前回は、トム・クルーズとタンディ・ニューロンを出会わせ、ほとんど「007」シリーズのノリでストーリーが展開したが、今回は、イーサン・ハント(トム・クルーズ)とジュリア(ミッシェル・モンハン)とは結婚し、彼女が危機にさらされるという『24』などでもお馴染みの手法が使われる。思うに、昔だと、この手の「妻」は、使い捨てで、それによってシリーズごとにラブ・ロマンス的要素を盛り込んだのだが、近年は、必ずしもそうはならない。これはなぜだろう? 夫婦であることが大変な時代には、かえってこの方がうけるためか?
◆かつての007シリーズにおとらず、確実にシリーズ化の路線に乗った「ミッション・インポッシブル」は、今回もドハデに世界の各地を披露する。ローマ、バチカン公国(ナポリ郊外でのヴァーチャル撮影)のシーンのほかに、上海のシーンに力が入っている。このシーンを見ると、かつて日本が高度成長をとげて世界に「雄飛」したとき、リドリー・スコットが『ブレード・ランナー』に「日本」のイメージを使ったのと似たような姿勢が感じられる。いや、あのときは、「東京」の一部のイメージを使ったにすぎなかったが、今回は、中国観光の効果をも煽るような撮り方をしている。この雰囲気からは、今後の10年が確実に中国の世紀になることを予測させる。ロケに対する上海市や現地の映画会社のサポートの強さを感じさせもし、今後、ハリウッド映画でひんぱんに中国の都市が使われるようになることはまちがいない。東京は、もう過去のものとなったかのようだ。
◆オーウェン・デヴィアンの「非情」さは、エアガンのような装置で、人質の鼻から脳に微小ながら確実に死を招きうるリモコン式の時限爆弾を埋め込ませることにあらわれている。やられた相手は、鼻からたらりと鼻血を少し流す程度だが(そんなので済むのか?)、見ている者の恐怖感を煽る。
◆イーサンが敵のアジトへ向うとき、彼が発する電波を受信したナヴィゲイターが彼の位置をコンピュータ・スクリーン上でチェックしながら、行き先を指示し、イーサンは、全く自分では自分の居場所を知らないまま目的地に到達する。これは、これからの都市の「歩き方」を示唆している。すでにわれわれは、人に会うとき、ケータイで連絡しながら移動し、最終的に面会するということをやっている。こういう習慣が一般化するとき、都市の構造や外観自体も大きく変わっていくはずだ。特に日本の都市のように、情勢の変化でくるくるその相貌を変える都市は、その傾向がストレートにあらわれるだろう。
◆アメリカのCBSネットワークのテレビ番組「ミッション・インポッシブル」は、1966年から1973年まで続いたが、この時期は、米国内では、黒人の公民権運動やヴェトナム反戦運動が高まりを見せ、ウォーターゲイト事件(1972年)で政府批判が高まり、1974年にはニクソンが辞任に追い込まれる「反体制」がある意味で「あたりまえ」だった時期であるが、海外では、(ヴェトナムで米軍が追い込まれてはいたが)、中東では第3次中東戦争(1967年)が起こされたり、アメリカ政府の工作によってチリでクーデター(1973年)が起こされ、アジェンデ政権が壊滅させられたりと、CIAや西側の秘密警察組織による陰謀工作がさかんな時期だった。やや遅れて日本で放映されたシリーズを見ながら、わたしは、このシリーズにCIAの秘密工作に代表されるアメリカの海外での陰謀工作に対する「揶揄」を感じ、魅惑された。が、同時に、このシリーズは、いつの場合にも、MIの工作が成功してしまうかぎりで、米政府の利害にかなっているのであり、こうした番組の形で、暗に、この種の対外工作に視聴者を「馴化」させる機能をもっているのではないかとも思ったのだった。
◆しかし、1996年からはじまった映画版の「ミッション・インポッシブル」シリーズには、そうした機能は感じられない。それでは、映画版の社会的な機能(考えられうる可能性)は何だろうか? 今度の『M:i:III』では、オーウェンがつながりを持つ「悪」の象徴として「イラン」と「北朝鮮」の名があがる。が、いまの世界では、「西側諸国」と「ソ連圏」とががっぷりと対峙するような構図はえがけない。アメリカが「悪」の象徴あつかいしている「北朝鮮」や「イラク」は、内部の「敵」を牽制したり、敵が内部にいることをカモフラージュする戦略にすぎない。実際、今回のドラマでも、敵は内部にいることになる。1993年に発表されたエンツェンスベルガーの『冷戦から内戦へ』(野村修訳、晶文社)のなかですでに言っているように、内戦はウィルスのように外から持ちこまれるものではなく、「その過程は内因性」のものである。内戦は、「分子的」なのだ。他方、この内因性の過程に対して「あらゆるメディアのうちでもっとも腐敗したTVが、ぼくらを道徳的に裁く機関に成りあがる」、とエンツェンスベルガーは鋭い指摘をする。
◆日々、バラエティ番組では、「ひどいですねぇ」、「何とかしなければ」といった嘆息と怒りの身ぶりに出会う。視聴者がみずから「発見」したかのようなトリックを使って「悪」(の映像やドラマ)に直面させ、視聴者を焦らせのはテレビや新聞なのだ。その結果、視聴者は、「何かしなければ」というモラリッシュな焦りをどこかで感じるが、だからといって、自分もその一環であるその「内因的」な過程を変革することなどできるわけではない。が、テレビは、出来ないことを「何とかしなければ」と扇動するのをやめない。そうした扇動は、扇動しぱなしでは済まないから、ときおり、国家は、「国策捜査」をやり、目立つ「役者」を吊し上げる。堀江も村上もそうした人身御供の役割を演じさせられた。むろん、そんなことで「内戦」が終わるわけではなく、逆により陰湿な「内戦」を激化させる。アメリカのイラクへの侵略は、そういう「内戦」のプロセスのなかで起こされた。とすると、日本は、「北朝鮮」のテポドンに先制攻撃を加えることになるのか?
(UIP試写室/UIP)
2006-06-13
●太陽 (Solntse/2005/Aleksandr Sokurov)(アレクサンドル・ソクーロフ)
◆この会場へは、映画美学校からは歩いて5分ほど。少し時間があったので、中公のまえを通って左にまがったところのコーヒー店へ。腰を降ろすと、色々インスピレーションがわいてきて、メモにくだらぬことを書き連ねるので、エスプレッソをさっと飲んで会場へ。おかげで、一番乗りになってしまった。期待した問題作なので、すぐ満席になるのかと思ったら、そうでもなかった。
◆結論を先にいえば、なかなか面白かった。日本をへたに知っている監督ではこういう作品は撮れないだろう。戦時下とはいえ、天皇ヒロヒト(イッセー尾形)が避難している研究所も、御前会議の開かれる地下壕も、またGHQも、この映画で描かれるよりももっと大きく、人もたくさんいたと思われるが、天皇の周囲には、多くの場合、一人の侍従長(佐野史郎)と「老僕」(つじしんめい)しかいないというシーンがつづいても、あまり違和感がない。基本的に閉鎖的なこの人物には、カメラの視角を絞り込んだような閉空間がにあっているし、その視角の外は気にならないのである。
◆実在の昭和天皇は、テレビで見るかぎり、公人としては信じられないほどシャイだった。こんな「口べた」でいいのかと、若いわたしはいつも怒っていたが、いまは、「シャイ」という言葉のなかにくくってもいいと思うようになった。ヒロヒトが天皇責任を果たしたとは思えないし、いくら閉鎖的な日本の制度のなかでも、もうちょっと反抗できただろうという思いは消えないが、他方で、何十年、いやルイス・フロイスが見たころ(『ヨーロッパ文化と日本文化』岩波文庫)のころとくらべてもあまり変わったとは思えない、おそろしく凝り固まった日本という国の性格をながらく見て来て、そういうところに(戦前は)「神」や(戦後は)「国家の象徴」として閉じ込められてきた人間がさぞかし特殊な人格を身につけるであろうということが理解できたのだ。
◆1975年10月31日に日本記者クラブで最初にして最後のテレビ生出演で見るかぎり、口下手で、驚くほど緊張性の強い(身体を震わせていた)人だった。ロンドンタイムズの記者・中村浩二氏が、当時としては大胆にも、「天皇の戦争責任」をただしたとき、天皇は、それまでの緊張をさらに高めながら、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学的方面はあまり研究していないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答え出来かねます」(1975年11月1日付『朝日新聞』)と答えた。「戦争責任」を「文学的アヤ」と切り捨てた発言は、少なくとも反体制的なコミュニティのなかでは、批判の的になり、アングラ劇でもしばしば嘲笑的に使われた。当時、このテレビ中継を見ていたわたしは、「国家の象徴」の位置にある人間がこんなお粗末な発言をするのかと耳を疑ったが、いまにして思えば、閉ざされた社会のなかで育ち、生活してきた人間が、いきなりテレビのまえに座らさえれたときの、パニック的な反応だったのだろうと思えるようになった。内輪ではちゃんとしゃべれても、公式の場ではえらくあがってしまう人間だったのだ。このことは、決して、天皇制の肯定にはつながらない。わたしは、天皇制には反対だ。国家が天皇=人間を「象徴」としつづけることは、人格を持った人間=天皇に対する人権を無視することでもある。そういう制度があるかぎり、人々がこの国に違和感(君が代や国旗をすんなり肯定できない意識はここから来る)を持たずにくらすことはできないだろうし、また、天皇が、他者性にあふれた社会性のゆたかな人格であることはむずかしいだろう。
◆この映画では、天皇をそうした特異な性格と社会性を身につけてしまった人間として描いている。そこには、その人格をからかったり、カリカチュライズする姿勢は全く見られない。イッセイー尾形は、その一見「こっけい」に見えるキャラクターを、むしろ、孤独で、哀れみを感じさせるような人格として表現することに成功した。映画のなかの天皇は、ハリウッド映画のブロマイドを収集し、チャプリンを敬愛している。天皇に会見したマッカーサーは、彼が誰かに似ていることに気づいたが、思い出せない。そんなことが実際にあったかどうかはわからない(回想記に書いているのかもしれない)が、その「誰か」とは、チャップリンのことだ。しかし、自分の喜劇性を意識しない「喜劇役者」は、チャップリンとは無縁の存在だから、この設定はあいまいに表現されれちょうどよかった。
◆この映画で描かれた天皇ヒロヒトは、「チャップリン」よりも、ハル・アシュビーの映画『チャンス』の主人公に似ている。ピーター・セラーズが天才的な演技で演じたこの主人公は、ヒロヒトと同じように閉ざされたスペースのなかで育った。彼が「外界」を認識する主要な「参照点」(レフェレンス)は、テレビで見た事象であったが、ヒロヒトにとっては、まずラジオであり、生物研究の顕微鏡や書物を通じて獲得した形象や知識だった。
◆ハル・アシュビーは、ジャージー・コジンスキーの原作を継承し、このような「閉鎖的」なスペースで育った人間は、むしろ「平和的」であることを示唆している。これは、ソクーロフのヒロヒト解釈ともつながるかもしれない。「閉鎖的」なスペースは、つねにではないが、ミクロコスモスに転換することがある。狭いということによって、逆に偏狭さよりも広大な思考や感覚を身につけることができることもある。はたして、ヒロヒトはどうだったのか?
◆この映画の面白さを壊す個所が1つある。それは、桃井かおりが演じる皇后の登場するシーンだ。実際の皇后は、ヒロヒトとは異なる、ヒロヒトよりも「普通」の身体的な要素のある人物であったことはたしかだ。だから、その対照性が強くてもかまわない。しかし、桃井かおりには、ヒロヒト=イッセー尾形のヴァーチャルなキャラクターに拮抗するリアリティはない。それは、あまりに「世俗的」で、この瞬間から、イッセー尾形の演技は、桃井との対照のなかで、安っぽい三文喜劇役者のそれに落ちこんでしまう。
◆イッセー尾形は、口を神経質にパクパクさせる身ぶりのほかに、ヒロヒトの有名な口癖であった「アッ、ソー」をまねる。が、彼のアクセントは、「アッ」の方にあり、ヒロヒト自身は、「ソー」が上がる発音をしていた。この口癖に関しては、晩年は「親しみ」の象徴のようにとられたが、この言葉が一般に知られるようになったのは、戦後、「人間」となった彼が「巡幸」と称して全国各地をまわったときからだった。食うものにも困っていた路上の民衆の誰かに向って、「家はあるのか?」などと尋ね、質問された者が緊張して、「なんとかやっております」などと答えると、必ず決まってヒロヒトは、「アッソウ」と言うのだった。当時、それまで「神」だった天皇が間近に出現したことに感動する者もいたが、「こういう状況のなかで『アッソゥ』はないだろう」という反応の方が強かった。わたしは、そういう光景を映画館のニュース映画(かつては、映画のまえに――「感動が盗まれている・・」というようなくだらないクリップではなく――力の入ったニュース映画が必ず上映された)で見た。そのとき、場内にはシニカルな笑い声がこだました。戦後のある時期まで、大衆の多くは、天皇をななめに見ていた。このへんは、やがて「経済復興」とともに忘れられていった。
(メディアボックス試写室/スローラーナー)
2006-06-13_1
●蟻の兵隊 (Ari no heitai/2005/Ikeya Kaoru)(池谷薫)
◆普段とはちがうおもむきの観客で満員。かなり年配の人も多いのは、この映画が普通のエンタテインメント作品とは異なるコンテキストを持ち、その流れで、戦争や日本軍の問題に関心のある人たちが来ているからだろう。『ゆきゆきて、神軍』で荒削りにとりあげられ、やがて『リーベンクイズ』 であらわにされた路線をひきついでいる。開映まえに監督・池谷薫氏のあいさつがあった。
◆1945年、第2次大戦が終わっても、中国共産党と国民党との内戦にまきこまれて中国山西省にとどまらざるをえなかった日本兵が2600人もいたという。彼らは、「上官の命令によって」「中国国民党系の軍閥」に合流し、1949年まで中国共産党の軍と戦うことになり、それによって、550人が戦士、700名以上が捕虜となったという。が、戦後帰国した残留兵たちには、「中共帰り」というレッテルが貼られ、「自らの意志で残留し、勝手に戦争を続けた」という理由で「軍人恩給」の支給は拒絶された。この「日本軍山西省残留問題」は、2001年、このドキュメンタリーの「主役」奥村和一氏を含む13人の元「残留兵」が東京地裁に軍人恩給の支給を求めて提訴し、ようやく社会的な関心を呼ぶようになった。2004年の敗訴ののち、2005年に5人の原告(13人のうちの4人は高齢のため死去)が最高裁に上告し、現在係争中である。
◆奥村和一氏は、80歳の高齢にもかかわらず精力的に「日本軍山西省残留問題」の真相を明らかにする活動に挺身している。このドキュメンタリーは、彼が日本だけでなく、中国にまで赴いて調査を続ける様を追っている。彼が中国から故郷の新潟に帰国できたのは、1954年(昭和29年)であったが、すでに軍籍は抹消され、おまけに「中共帰り」というレッテルを貼られて、公安につけまわされる始末だった。1956年に上京し、やがて日中友好教会の活動に関わるが、1989年、胃ガンで胃の全摘手術を受けたのを期に退職、「日本軍山西省残留問題」に専念することになった。
◆映画は、奥村が、終戦記念日の靖国神社で行きすがりの若者たちに戦争と靖国について語るといった場面からはじまる。このあたりは、ドキュメンタリーに流れを作るためのわざとらしい作りになっている。彼や彼女らは、「戦争なんかしらないよ」といった態度で屋台の焼きそばなどを食いながら奥村に対応する。戦争を追想するというよりも、物見見物にやってきた風情である。こういう若者は、実際に多数いるとしても、「若者」などというものは、ある条件(この映画のカメラが向けられることもその一つ)が設定されると、彼や彼女らがいわば「本能的」に演じてしまう社会的身ぶりであって、かならずしも「本音」であるわけではない。だから、問題は、そういう社会的身ぶりを演じさせてしまう側にある。「若者」や「日本人」を作るのはシステムであって、本人自身ではない。が、その「演技」の延長線上で戦争をやり、人を殺してしまうというようなことも起こりえる。徴兵され、戦地で命令されて中国人を殺戮した兵士たちも、その意味では「本音」ではなく、「演技」を貫徹させられた。
◆ドキュメンタリーに演出がないわけではない。ドキュメンタリーが何でも「ありのまま」に撮っていると思ったら大間違いである。しかし、ドキュメンタリーのドキュメンタリーであるゆえんは、どんな演出がおこなわれても、ある瞬間に、その被写体が自然発生的に表出するものをあらわにすることだ。この映画でそうした場面に直面するのは、とりわけ、奥村が真相をただすために訪ねたかつての「支那派遣総軍作戦主任」宮崎舜市(97歳)が、脳梗塞でほとんど口がきけない病床で、宮崎の推理を肯定するシーンだろう。うつろな目をしていた宮崎が奥村の質問にいきなり「わー」というような声で叫び、涙を流すこのシーンはすごい。
◆この映画で、奥村は、自分たちが民間の中国人を殺したことをはっきりと認めたうえで、その責任が国家にあったことへと問題を深めようとする。
◆うしろの方で、あの小野田寛郎元陸軍少尉・情報将校が靖国で演説しており、そこに姿をあらわした奥村が小野田からなじられるシーンがある。小野田のような確信犯からすれば、山西省に残留した兵士たちは単なる「敗残兵」にすぎない。小野田は、戦後も、1974年にフィリピンのルバング島で探険家の鈴木紀夫に発見されるまで、「満州に亡命した日本国」と「天皇陛下」のために戦っていたと主張した。わたしは、小野田が発見されたあと、テレビに出演したのを見たが、その後、彼が同僚を殺害していたのではないかとか、本当に終戦を知らず、日米戦争が続いていたと信じていたのかどうかといった疑惑が浮上するにつれて、彼が取り調べのなかで精神の不調をきたしたためにそれ以上の取り調べはしないといったニュースが流れるようになり、やがて、マスコミは、小野田への立ち入った取材をやめてしまった。明らかに、そこでは、国のコントロールが作動した。国家の闇を国家があばくことはまれにしかない。
(映画美学校第2試写室/蓮ユニバース)
2006-06-07
●ユナイテッド93 (United 93/2006/Paul Greengrass)(ポール・グリーングラス)
◆40分以上まえに来て正解だった。すでに待っている人がおり、あっという間に長い列が出来、わたしがもらった整理券は「7」番だった。開場のとき、最初の方に来た人が人混みで出遅れ、あとから来た人が先に入場したらしく、自分の方が先ですみたいな抑えた(しかし爆発寸前の)怒りを係の人にぶっつけていた。この試写の観客は、殺気だっている。
◆それだけのことはある出来の作品だった。2001年9月11日、アメリカン航空11便とユナイテッド航空175便がWTCに、そしてアメリカン航空77便がペンタゴンに突撃する「同時多発テロ」のさなかに、もう一機が国会議事堂かホワイトハウスに突撃を試みようとしていた。ニュージャージーのニューアーク空港を飛び立ったユナイテッド航空93便である。サンフランシスコ行きのこのボーイング757-222 機は、他の3機と異なり、ペンシルヴェニアに墜落し、37人の乗客と5人の乗務員、2人のパイロットが死亡した。
◆映画は、ニューアークのとおぼしきホテルの一室で、細縁のメガネをかけたリーダー格の男がベッドにあぐらをかいて祈りをささげているところから始まる。ほかにもハンディなコーランと思われるものをむさぼるように読んでいる若者もいる。明らかに彼らはイスラム系だ。それから彼らは、ニューアーク空港に向い、UA-FL93便に乗り込むわけだが、これまでの映画が描いてきたような、「犯罪」を犯すまえの「犯人」たちの緊張や真剣さとは、質のちがう情感がビリビリと伝わってくる。飛行機を乗っ取らなければならない、そしてそれを(映画では明確にはされないが、国会議事堂かホワイトハウスに)激突させなければならないという決意があらわれている。それを「狂気」と受け取る者もいるだろう。が、それならば、「狂気」の表現としてこのシーンはすぐれていると言ってもいい。
◆この映画は、運命のドラマである。見終わるまではサスペンスとして見ることもできる。飛行機をハイジャックし、それでカミカゼ攻撃をしようとする4人のイスラム系の男たち。それを阻止しようとする乗客たち。しかし、そのどちらの「努力」も虚しい結果となる。「テロリスト」=悪党/それと闘った乗客・乗務員=英雄といった構図は、成り立たない。どちらも自分たちが信じることを行なったが、それは、どちらの「信」も無意味にする死だけが残った。これは、ギリシャ悲劇のような映画である。
◆この演出が見事だと思うのは、この映画は、実際の事件に関する嫌疑、つまり、成功はしなかったが、乗客たちが連帯して「テロリスト」たちと闘ったという「英雄譚」はでっちあげではないかという疑惑、UA-FL93は、軍のミサイルで撃ち落とされたという仮説・・・をすべてカッコに入れて見ることもできるからである。むろん、これは、映像というものを観客が勝手に解釈するという自由性を前提にしてのことである。
◆ありていに見れば、この映画は、しきりに連邦航空局(FAA)と 軍の対応の遅さを示唆するような描き方もしている。これは、誇大に解釈すれば、「軍は何もやっていない」→だから「撃墜」したという「陰謀説」は根拠がない――というアリバイ作りのようにも見える。実際に、この事件に陰謀がからんでいるという説は、厖大な数が発表されている(「9/11 conspiracy theories 」参照。なお、これが載っている「WikipediA」には、このハイジャックの詳細も記されている)。
(UIP試写室/UIP)
2006-06-06
●カポーティ (Capote/2005/Bennett Miller)(ベネット・ミラー)
◆30分まえだったが、最初に試写室に入ったのはわたしだった。冷房がかかっていなくてえらく暑い。そのうち人が入ってきたが、ドアーが閉まっているので、入るたびにバタンバタンという音がする。たまりかねて、ドアのストッパーをセットしに行く。こんなこと会社の人がやるもんでしょう。プレスも、内覧のときのような英語データを素訳してコピーしたもの。何か本気で宣伝する気がないみたい。ある配給会社のベテランが言っていたが、プレスは、「オバカな "女性ライター" でもそれを見れば原稿を書けるぐらいのものにしておかなければダメ」だという。主役のフィリップ・シーモア・ホフマンがアカデミー主演男優賞に輝くなど、話題には事欠かないから、ロードショウではそこそこに人が集まるだろうが、大衆受けする作品ではないから、油断は禁物だよ。
◆中期のトルーマン・カポーティを演じて絶賛されたフィリップ・シーモア・ホフマンだが、わたしには、ホフマンのカポーティは、これまで実在のカポーティにいだいてきたわたしのどのイメージにも似ていなかった。実在の彼は、『名探偵登場』(Murder by Death/1976/Robert Moore)でライオネル・トゥワインという億万長者を演じる俳優として登場し、ゴールデン・グローブ賞にノミネイトされている。ウディ・アレンの『アニー・ホール』にも、ちらりと登場している(この映画には、マーシャル・マクルーハンも出ている)。わたしのなかで近年、カポーティらしいイメージを喚起してくれたのは、『54』(Mark Christopher/1998)で、ニューヨークのディスコ・クラブ "54" のパトロン/常連として登場する、 Louis Negin が演じるカポーティだ。ハデハデの衣装を着て、本気でバカをやっている老人だが、何となくわたしのなかの「カポーティ」に合っていた。
◆ホフマンは、カポーティの声としゃべりかたをまね、それが「そっくりだ」と評価されているわけだが、表面上は似ているとしても、根底が違うような気がする。そのしゃべり方は、わたしには、カポーティよりもアンディ・ウォーホルを思い出させた。ウォーホルもゲイであり、カポーティの同時代人だが、彼の方が、「肉体」を欠いたしゃべり方で、彼の作品には似合っていた。が、カポーティは、もっと「肉体」志向の人であり、だから(というのも飛躍かもしれないが)、やがて死因になるアルコールの過剰摂取へ向かうことになったのだ。
◆ホフマンのカポーティに一番欠けているのは、彼の持つ「ダーク」な側面、狡猾さや悪の深みである。ホフマンは、わたしの好きな俳優であり、『ブロードキャスト・ニュース』(1987)で端役ながら、ボールペンを落とし、さっとウィリアム・ハートが演じるカッコマンに代わりのペンを差し出されて、なんとも、卑屈といくか、困ったというか、非常に複雑な表情の演技をしているのを見て以来、注目して来た俳優である。しかし、カポーティは、彼向きではなかったような気がする。彼の演じる「カポーティ」は、まるで、『冷血』の取材のために会った犯人のペリー・スミス(クリフトン・コリンズ)に弁護士を探してやるといってしなかった等々の「空約束」をしたことや、作品を完結させるためにスミスが早く処刑されることを望んだことなどを、悔いて、深い傷を負ったかのように描いている。むろん、そういうような面もなかったわけではないとしても、カポーテぐらいになれば、心のなかは怪物であり、もっと確信犯的な決意があったはずなのだ。そういう、奥の闇がホフマンの演技からは感じられない。この調子だと、最初は打算的で嫌味な奴として登場しながら、カポーティも、結局は「普通の人」だったんだなという印象に導かれてしまうのだ。こういう要素は、実在の人間をあつかった映画(たとえば『アリ』モハメド・アリ、『レイ』レイ・チャールズ、『ライフ・イズ・コメディ!』のピーター・セラーズなどの場合にはよくあることではあるが。
◆実在のカポーティには、ペリー・スミスに対してホモセクシュアルな情愛がはたらいていたはずである。文壇とニューヨークの社交界でちやほやされていたカポーティが初めて体験したちょっぴり「危険」な関係。やせがまんして一歩踏み出したが、だんだんヤバイと感じて逃げ腰になった。そういう面がこの映画に出ていなくもないが、ペリーへのホモセクシャル的意識の表現は、意図的と思われるほど抑えられている。その点で、ペリー・スミスを演じるクリフトン・コリンズは、一見単純に「ニューヨークの大先生」を信じて減刑されることだけを願っているかのように描かれながらも、自分の犯した罪をそれほど悪いこととは思っていないようなふてぶてしさを見せるときがあり、この人物の心の奥底をさりげなく表現しているように見えた。
◆映像はしっとりとした色調と絵画や写真を意識したカメラワークが「古典的」なトーンをよしとする者には安心感をあたえるだろう。などというと、わたしが半分評価していないように受け取られるかもしれないが、そんなことはない。ひと気のない広大な風景のなかに白い家が一軒だけ建っている冒頭のシーン、樹木をモノクロ写真のようなトーンで映すシーンなど、実に美しい。
◆日本では、これまで「カポーテ」という表記が使われててきた。「カポーティ」は、たしかに「原音」に近づいた。それは、歓迎すべきことだが、このへん、つまらぬことにこだわる日本人のコうるささが出ていると言えないこともない。おそらく、外国人の名前や外来語の発音が、日本ほど変化する国はめずらしいだろう。誰かが「ハイデッガー」と表記すると、次の人が「ハイデガー」と表記する。本郷のぺりかん書房の100歳を越える店主・品川 力(つとむ)氏が書いたエッセー「二十九人のゴッホ・四十五人のゲーテ」(『古書巡礼』、青英舎)によると、氏は、逐一原典にあたりながら、かの「Goethe」が、「ゲーテ」に落ち着くまでに、「ゴエテ」、「ギョーテ」、「ギョテーイ」等々に表記されてきたことを紹介している。ここには、英語で「バッハ」を「バック」と発音してはばからないアメリカ人の「おおらかさ」はない。が、こういう現象は、オーラルなカルチャーを基礎にしている社会では往々にして見られるものだ。文字表記はつねに仮なのである。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)
2006-06-05
●カーズ (Cars/2006/John Lasseter)(ジョン・ラセター)
◆のっけから、久しぶりに例の「映画が盗まれている、感動も盗まれている」という「海賊版撲滅キャンペーン」映像を見せられる。そのあいだずっと下を向いて、いささかでも目の疲れを軽減しようと思ったが、これって、一体誰を対象に上映するのだろう? やっても意味がないと思うのだ。しかし、そのあとがよかった。本年度のアカデミー賞で短編アニメーション部門にノミネートされた『ワン・マン・バンド』(One Man Band/2005/Mark Andrew, Andrew Jimenez)が上映されたのだ。このたった4分ほどの短編には、非常にユニークで風変わりな特異性がつめこまれている。
◆最近のアメリカ社会は非常にモラリッシュになっているような気がする。もともとアメリカ映画には非常に「教育的」な性格と機能があり、その時代時代で、人々をある一定の方向へひっぱって行く「使命感」のようなものをただよわせている。それがときどきうざったく感じるときもある。ひどくなれば、赤狩りの時代のように、どうしようもなく「傾向的」な映画ばかりが現われることにももなる。しかし、わたしがアメリカ映画に関心をもつのは、そういう性格と機能があるからでもある。アメリカ映画を見ていると、いまのアメリカがどういう方向へ向おうとしているかが何となく読めるのだ。
◆カー(車)が主人公のアニメというから、こいつはちょっと好みじゃないなと思った。しかし、ジョン・ラセターが車を選んだ理由がすぐにわかった。車は、アメリカ社会の最も代表的な象徴の一つである。そこには、アメリカ社会、とりわけレーガン以後いまのブッシュでピークに達する「競争」至上主義とスピード第一主義が集約されている。それをラセターは、どう料理したか? 結論的に言えば、彼はそういう車を「脱構築」し、車を登場「人物」にしながら、逆に本来あるべき「人間」を、人間の登場人物を出す以上に効果的に浮き彫りにしたのである。
◆「おれはスピードだ」と胸を張るライトニング・マックィーン(声:オーウェン・ウィルソン)は、レイシングカー。自己陶酔的な自信にみちあふれ、新人(車)ながら、スピードレース「ダイナコ400」でベテランの「レイシングカー」、ザ・キング(声:リチャード・ペティ)とチック・ヒックス(マイケル・キートン)を引き離す。しかし、ピットインを無視し、タイヤがパンクする。にもかかわらず、最終的にがんばって、結果は3者互角に追いつく。決勝は1週間後にカリフォルニアで開かれる予定のレースに持ちこまれる。そこで、マックィーンは、トレーラーのマック(声:ジョン・ラツェンベルガー)に乗せられて、移動の旅に出る。ところが、走行中のハイウェイで、「暴走族」車に意地悪されたマックは、車体を大きく揺らせ、後ろのドアが開き、そこからマックィーンが車道に滑り落ちたのも知らず、そのまま走り去ってしまう。
◆取り残されたマックィーンがたどりついたラジエター・スプリングスという田舎町は、アメリカ的標準からすると「ルーザー」や「おちこぼれ」の吹きだまりだった。「こんなとこにいられっかよぅ」、とマックィーンは思う。カリフォルニアのレースのことが気になる彼は、猛スピードだ町を走り、シェリフ(マイケル・ワリス)に追跡され、道路をめちゃめちゃに壊したあげく捕まってしまう。医者でもある老裁判官ドッック・ハドソン(声:ポール・ニューマン)は、この町からの追放を求めたが、弁護士でモテルのオーナー(小さな町なので、みんなが公的な仕事を兼業している)であるポルシェのサリー・カレーラ(声:ボニー・ハント)は、破壊した道路を自力で直すことを提案し、それが判決となる。
◆もともと自己中心的で、自分が好きなことしかしたことがなく、カリフォルニアのレースに間に合うこと(時間とスピード)しか考えていないマックィーンは、いいかげんなやっつけ仕事で終わりにしようとする。しかし、小さな町の住人たちはそれを許さない。ここからマックィーンの新しい「人生の旅」が始まる。
◆サリーは、かつて大都会の弁護士事務所でバリバリの弁護士だった。が、あるとき、すべての生活に疲れ、気の向くままに走りつづけてたどり着いたのがラジエター・スプリングスだった。彼女はここに住みつき、大都会での生活とは質の異なる生活を始めた。この町には愛すべき「人物」(車)が何人(車)もいる。全身錆びだらけのメータ(声:ラリー・ザ・ケーブル・ガイ)は、レース(競争)とは無縁の、のんびりしたマイペースの生活をしている。ドック・ハドソンは、実は、かつての伝説的なレーシングカーだったこともわかる。こうして、マックィーンの生き方が変わってくる。
◆この映画は、大ざっぱに見れば、アメリカで周期的に浮上する「地域主義」のドラマである。「連邦的」なアメリカ、グローバルな「アメリカ」、先進的なテクノロジーに反対し、規模の小さい政府や「自然」と「身体」重視の生活単位をよしとする。ノーマン・ロックウェルの描いたアメリカにあこがれるローカリズムとも共通のものだ。しかし、この映画は、それはうわべだけであることが、最後のシーンによく出ている。もし、これが、単なるローカリズムのドラマであるのなら、マックィーンは、たとえばサリーといっしょになり、この町にとどまり、ささやかな家庭をつくり・・・といったあんばいになるだろう。しかし、全米が競うレースへの参加をちゃんと最後に据え、しかもそこに予想をうらぎる重要なハプニングを挿入することによって、グローバリズム VS ローカリズムとはもう一つ異なる次元を提起する。教育的・道徳的ではあるが、なかなか面白い。むろん、CGの見事さも楽しめる。
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタインターナショナル)
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