粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-02-25

●心の羽根 (Des Plumes dans la tete/2003/Thomas de Thier) (トマ・ドゥティエール)

Des Plumes dans la tete
◆夫婦でかわいがっていた5歳の子供が失踪し、悲嘆にくれる母親を中心とした話として提示されているが、(たぶん監督の意図にさからって)別の見方もできる多くの「余白」を持った作品。出がけに電話がかかってきたり、かけたりで混乱。場所だけ覚えて飛び込んだら、ハガキを持ってこなかったことに気づく。単館上映予定のせいか、上質の映画なのに、客が少ない。
◆発端は、ブランシュ(ソフィー・ミュズール)と夫のジャン=ピエール(フランシス・ルノー)が、昼間、愛し合うとき、部屋のドアをかけていたので、息子のアルチュール(ユリッス・ドゥ・スワーフ)が、部屋に入れなかったことだった。しかしアルチュールは、気にした風もなく外へ出て行き、沼地の方に歩いて行く。失踪後の父母の悲しみ、葬式と通夜のシーン、2人の関係がだんだん悪化して行くプロセス、息子が遊んでいたおもちゃがそのままになっている部屋――すべてがリアルに描かれるその一方で、この映画には、そのリアルさを上回る「夢想的」ないしは「幻想的」なシーンが出て来る。しかし、それらは、決して「夢」や「幻想」のシーンとしては描かれない。「現実」と「夢」とがシームレスにつながっているところが面白い。
◆最初の場面から出てきて、終始描かれるさまざまな水の形態。水への執着。その水は、美しくもあり、また同時に怪しげでもある。冒頭は、鳥(「カワセミ」だという)が水面に急降下してくるシーン。このときはよくわからないが、中盤でくりかえされ、これが水中の魚を加える降下であることがわかる。生と死。印象に残る太いパイプも両義的。初めの方で猫が歩いて行くパイプの上を、しばらくしてアルチュールが同じように歩いて行き、そのまま姿を消す。このパイプは、美しくもあるがどこか気味悪くもある沼地へ通じている。そして、そのなかには工場からの排水が流れているが、沼地に流れ込んだ排水は豊かな自然のなかに吸い込まれてしまう。母ブランシュも、息子を探しに、そしてやがて知り合う青年フランソワ(アレクシス・デン・ドンケル)に逢いにこのパイプの上を歩く。このパイプは、ある種の「生々しい現実」と「異郷」とを結ぶ伝送管。
◆途中で「フランシス」という名前であることが示されるが、林のなかでバード・ウォチングをやり、ノートを取り、ときには顔に泥を塗り、インデアンごっこを一人でしたり、ポルノ雑誌を片手に草むらに横たわり、マスターベーションをする(若いときのショーン・ペンに似た顔の)謎の青年。彼は、たまたま草むらでセックスしている男女を双眼鏡で覗いてしまい、見つかって攻撃される。彼の双眼鏡の映像として、アルチュールが遊んでいたゴジラのおもちゃが沼地に落ちているのが映る。ということは、彼がアルチュールの持ち物を発見し、警察に通報し、捜索が始まったのかもしれないが、捜索のシーンは出て来るものの、彼がどのような役割を果たしたのかは全く描かれない。そのために、彼の存在がますます迷めいてくる。
◆素朴なリアリズムからすると、フランシスのような青年は、このような事件が起こった場合に真っ先に取り調べを受ける。ときには冤罪をくらう。が、この映画では、彼は、最後まで同じペースでバードウォチングをしている。あたかもその沼地と林の「精」であるかのように。
◆その意味で、絶望的な意識で息子を探し回わるブランシュが、フランシスと出会うのは、ある種の「聖なる」出会いであり、彼とのアヴァンチュールは、土地の「精」との交歓ともとれる。
◆グリーンの沼地、木々、鳥の撮り方がシュールで美しい。監督のトマ・ドゥティエールは、短編とドキュメンタリーのフィルムメイカーとして出発した。本作は、彼の長編第1作。
(松竹試写室)



2004-02-24_2

●列車に乗った男 (L'Homme du Train/Patrice LeConte)(パトルス・ルコント)

L'Homme du Train
◆ルコント独特のリアルであり、かつシュールなおかしさ。出演のジョニー・アリディとジャン・ロシュフォールの渋い味。見終ってから、自然に別の見方が出て来るのが、ハリウッド映画にない楽しみと深さ。試写のハシゴのあいだに用事を入れたので、数寄屋橋からあわててタクシーを飛ばす。この作品も、評判の割りに入りはよくない。ご常連の姿も少ない。今日は特に同時刻に大物の試写はないはずなのだが、どうしたのだろう?
◆「普通」に見ると、列車のなかで(たぶん)慢性の頭痛の昂進をおぼえたジョニー・アリディが、とある駅を出て、ドラッグストアに入り、たまたまそこにいたジャン・ロシュフォールに出会い、偶然のなりゆきで彼の家に泊まることになるというように受け取れる。つまり2人は未知のあいだがらだったわけだが、どうもそうではなさそうな見方もできるところが面白い。アリディは、ミランという名の前科のある強盗のプロ、ロシュフォールは、退職した教師マネスキエという「普通」の意味では対極的な位置にいるキャラクターとして提示される。しかし、もし、それぞれのキャラクターが、他方の想像的な産物――つまり「ミラン」はマネスキエの、「マネスキエ」はミランの――だとしたらどうだろう?
◆店や通りや電車のなかで偶然目と目が合うことがある。そのとき、相手が自分に興味のあるタイプであれば、その男/女はこれからどこへ行くのか、そこでどんなしゃべり方をするのか、その人と偶然話をする機会があって、いっしょに食事をして・・・・というような想像がわきおこるのは、別にめずらしいことではない。しかし、この映画の面白さは、それをたまたま相手の方もやっていて、それが偶然からみあってしまう、あるいは、双方の想像をたがいの視点を変換しながら見せているところだ。むろん、こんなひねくれた見方をする必要はない。素直に見ても面白いのだから。
◆「素直な」流れでは、ミランとマネスキエとが話をしたきっかけは、ミランがドラッグストアでアスピリンを注文したのに、店の男が胸やけ止めの泡沫錠をわたしたことだった。退職して暇そうなマネスキエが、自分の家で一杯やらないかと誘い、彼がやってくる。それから、彼は、ホテルを探しに別れを告げるが、やがて戻って来る。ホテルが、「秋季休暇中」で泊まれなかったのだ。
◆2人が双方で「人格交換的願望」をもっているのを示唆するシーンがある。一つは、ミランが外出中にマネスキエが、彼を泊めた客室(ちゃんとシンクもある)に入り、ミランの時代物の皮ジャンを来て、カーボーイのしぐさをするシーン。もう一つは、マネスキエがいつもやっている個人教授をミランが、マネスキエには無断で代理するシーン。マネスキエが皮ジャンを着るのと、ミランがマネスキエのテーブルに座るのと、が人格交換の「儀式」になっている。
◆もっと別な見方もできる。映画は、列車の車輪がレールを走るコットンコットンいう音をアレンジしたノイズ調の音楽をバックに、アリディのあご髭のクローズアップから始まる。つまり、彼がこの映画の基底だということだ。そうすると、「マネスキエ」という人物は、ドラッグストアで彼と目が合った老人からアリディがつむぎ出したヴァーチャルな人格だという風にも考えられる。自分には、ああいう老人になる可能性もあった。そうだとしたら自分はどんな人生を生き、そして死ぬのだろうか・・・・? そういった想像の映像化としてこの映画を見ているのもいい。
◆エピソードのように、マネスキエが医者の診断を受けるシーンがある。どこが悪いのかは説明されないまま、入院し、「オンボード」(手術の失敗などで手術台の上で死ぬこと)になる。が、生き返るシーンもある。ミランのもとには、銀行強盗のプロたちが集まって来る。ミランの銀行強盗のプロセスとマネスキエの入院・手術のプロセスとが平行して描かれる。しかし、この両者の「ドラマティック」な部分のリアリティには、薄い皮膜がかかっているような気がする。
◆バーで次々に客たちにいやがらせをする若者がいるが、誰も静止しようとしない。それを見守っていたマネスキエが、勇気をふるったかのように注意の言葉を発する。「なんだ!このやろ、おれに文句あるってのか?」と向かって来た相手が、急におとなしくなり、「先生じゃないですか!」と親しげな態度になる。その若者は教え子だったのだ。これは、マネスキエの過去と人柄を描いていると取ることもできるし、また、その意外性にポイントがあるのだとして、その意外性を楽しむだけにすることもできる。
◆理髪店にマネスキエが行き、「モデルネ(今風)にしてくれ」と言って、短い髪にするとか、ミランがジタン(フランスの「労働者タバコ」として有名だった)をくずしてパイプにつめて吸うとか、ミランがマネスキエに「スリッパというものを履かせてみてくれないか」と頼むとか、ディテールが意味ありげで実に面白い。
(スペースFS汐留)



2004-02-24_1

●コールドマウンテン (Cold Mountain/2003/Anthony Minghella)(アンソニー・ミンゲラ)

Cold Mountain
◆混むなという気がして、開場の30分まえについてしまったら、まだ10人ぐらいの列が出来ているだけだった。上映開始になっても、隣の席に荷物を置ける状態。「東京国際フォーラム」は、大きいだけで上映条件はよくない(この日も1回途中で画面が切れた)ので、敬遠されたのだろうか? 封切は昨年だが、イギリスではまだ興業成績で11位にランクされている。アカデミーでもジュード・ロウが主演男優賞に、レニー・ゼルウィガーが助演女優賞にノミネートされている。【後記】レニー・ゼルウィガーは、ゴールデン・グローブ賞に続いて、アカデミーの助演女優賞を獲得した。
◆スタイル的にはまっとうな作りだが、明らかに9・11以後のアメリカの状況を意識している。いい役者をそろえ、端役も印象に残る演技をしている。もう、映画が反戦に役立つわけではないが、ミクロな部分では影響があるとすれば、この作品などは、シュワルツネガーのカリフォルニア州知事就任に若干の「異議」を提起したのと同じようなハリウッドの「良心」というものが出ていると思う。それと、9・11を、歴史をさかのぼって考えさせるきっかけをあたえる。
◆ノースカロライナ州のコールド・マウンテンの開拓村。モンロー牧師(ドナルド・サザーランド)と娘のエイダ(ニコール・キッドマン)は、突然沸き起こる「いざ戦争だ」の村の男たちの声に恐怖をおぼえる。1860年12月20日、サウスカロライナ州議会は、 連邦から脱退することを決め、やがて他の10州に続いて最後にノースカロライナ州議会も、脱退を表明し、戦争の準備が整う。映画では、このニュースが伝わってくると、モンロー一家が住んでいる地域一帯の地主だったがいまは落ち目の家の中年息子テーグ(レイ・ウィンストン)は、早速「義勇軍」を組織し、勢いづくシーンがある。彼は、「自警団」の役目も果たし、参戦に反対する若者に目を光らせる。戦争が起きてからは、脱走兵の逮捕と「私刑」に熱を燃やす。いままさにアメリカは(表向きはもっとソフトなやり方でではあるが)そんな状況ののだが、こうなると、若者は、参戦の要請に従うしかない。そんな若者の一人がジュード・ロウ演じるインマンである。彼は、妻を失い、健康を害したモンロー牧師が自然の環境を求めて3年前に町からここに移り住んで来たとき、教会件住居を建てる手伝いをした。そしてひそかにエイダに恋していた。エイダもそのことを意識している。
◆出征のわかれのとき、2人は初めてキスをかわす。そして、エイダは、インマンに自分の銅版写真と(わたしの観察にまちがいがなければ)ウィリアム・バートラムの『TRAVELS』というタイトルの本を渡す。この本は、William Bartram (1739-1823): Travels through North and South Carolina, Georgia, East and West Florida, the Cherokee Country, . . . . . (1794) で、奴隷制が存在した時代にアメリカ先住民に等しく観察の目を向けた民俗学的な先駆的研究であり、本当に評価されたのは1950年代以降であった。当時としては、決して「ポピュラー」ではなかったこの本をエイダが選んだというところが一つのサインである。インマンは、この本と彼女の写真を肌身離さず持ち続ける。
◆リンカーン大統領の就任演説があって1月たらずのあいだに連邦から脱退した11州と「北軍」(ヤンキー)とのあいだに1861年4月12日、「南北戦争」が勃発する。南軍は敗北し、1865年4月には戦争が終るのだが、1964んには、まだ熾烈な戦いがつづいていた。映画の冒頭のシーンは、1964年夏、ヴァージニア州のピーターズバーグに駐屯する南軍の要塞にたてこもるインマンたちを映す。この夜、北軍は、この要塞の地下に穴を掘り、大量の爆薬を仕掛ける。しかし、この戦略は、南軍に致命的な打撃を与えるよりも、爆破で開いた穴に向かって突入した北軍の兵士が袋小路に陥り、そこを南軍が襲いかかり、4000名以上の北軍兵士が殺されるという結果を招いたという。どちらにとっても「何のために戦っているのか?」という疑問と、虚しさと残酷さだけがのこる戦争の雰囲気をこのイントロシーンはヴィヴィッドに伝えている。
◆この映画が、たとえば『マスター・オブ・コマンダー』などよりも明確にいまのアメリカの状況に反対しているのは、インマンの脱走を肯定し、支持している点だろう。戦争反対を「現代もの」でやらずに時代をすらしてやるのはハリウッドの常套であるが、ないよりはいい。重傷を負い、同郷の若い仲間を失ったインマンは、脱走――というよりも、コールド・マウンテンのエイダのもとに帰ること――を決意する。以後、ヴァージニア州からノースカロライナ州までの彼の500キロにおよぶ逃避行がはじまる。画面は、同時期のコールド・マウンテンのエイダとモンロー父娘のまわりに起こる出来事、彼と彼女とインマンとが顔を会わせていた数年まえの過去、まだ傷が完治しないインマンの脱走のさなかでのさまざな出会いが交互に映される。
◆レニー・ゼルヴィガーが演じるルビーという女性は、いわば、この映画のなかの「フェミニズム的」要素だ。エイダは、そういうふうに育ててしまったことを父自身がなげくように日常的なことがだめなのだが、それを見かねた隣人のサリー(キャシー・ベイカー)が、ルビーを彼女のもとに送り込む。このへん、ちょっと不自然な感じもあるが、とにかく、彼女はやってきて、次々に「改革」を実行する。エイダは、鶏にもなめられ、追い払おうとしてくちばしでつつかれ、「この鶏は悪魔よ」などというが、その話を聞くと、サリーはいきなりその鶏の首をつかみ、絞めてしまう。この時代には、浅田農産のようなものはなかったから、鶏を絞めるなどということは、女にとって(いや女にとってこそ)日常の生活技術だった。
◆父の急死、隣人夫婦のサリーとその夫(ジェームズ・ギャモン)が脱走兵をかくまった嫌疑をかけられてティーグとその手下のポジー(チャーリー・ハナム)にサリーは虐待され、夫は殺され、インマンは帰ってこないという絶望的な状況のなかで、エイダとルビーの関係がますます密になって行く。もうインマンは帰ってこないのではないかという気持ちのなかで、エイダは、ルビーと将来、牧場を経営しようと約束する。このあたり、ちょっとレズっぽい雰囲気がある。ここでインマンが帰えってこなければ、ある種「フェミニズム的」連帯ということになる。しかし、(ハリウッド映画だからインマンは帰ってくるのだが、最後のシーンは、やはり極めていまの時代にふさわしいファミリーを見ることができる。やはり、強い「男」やかっこいい「男」は、もうファミリーにはいらないのである。飛躍した言い方をすれば、『永遠の語らい』のなかで、猛烈な女性のあいだで「司会」役のようなことをやっていたジョン・マルコヴィッチの感じがいまの時代の男の鑑なのだ。最後のシーンがどういうものであるかは、ここでは書かないが、その意味でも、この映画はきわめて「現代的」なのである。
◆インマンが脱走のなかで出会う人々は、みな短いながらもリキのある役者の演技と神経の行き届いた演出に支えられて、それだけでも1篇の作品が作れそうだ。彼の傷を直し、かくまってくれる、言うなれば100年後の「ヒッピー」を思わせる「自力更生」のエコロジストおばさん(アイリーン・アトキンス)、黒人の娘に子供をはらませ、殺そうとするいいかげんな牧師(フィリップ・シーモナ・ホフマン)、2人で逃げる手引きをしてくれる渡し舟の女(ジェナ・マローン)――なかなか存在感があるので、もっと長く画面に出るのかと思ったがあっさり義勇軍・自警団に殺されてしまう――、食べ物をもとめてたどりついた家にいる戦争未亡人セーラ(ナタリー・ポートマン)等々。
◆幼児と2人で淋しい生活をしているセーラに、「寝てほしい」と言われて、インマンが、自分には愛している人がいるからと言って、彼女のかたわらで一晩ただ横たわっていてあげるシーンがいい。といって、それは、彼が倫理的な「純潔」を守ったからではない。一つの愛の形(セリバシーの愛)として新鮮さを感じさせるのだ。セリバシーの関係というのもあるのだから。このシーンは、もっと前のほうの――逃げ込んだ農家でその家の女に誘惑される(半分、脱走兵狩りの「罠」だった)シーンと対照的な関係をなす。この農家では、いっしょに酒を飲んだ女がいきなり裸の尻を出して、テーブルにうつぶせになり、インマンに、「さあ、やって」と言う。
◆『めぐりあう時間たち』では右利きを演じていたキッドマンは、この映画では左でペンを取る。エイダという女性のモデルは左利きだったのだろうか?
(東京国際フォーラムC)



2004-02-23

●永遠の語らい (Un film parle/2003/Manoel de Olivera)(マノエル・デ・オリヴィエラ)

Un film parle
◆狭い試写室に入ったら生井英考がいた。いま大学教師の彼は、その昔、朝日の編集者で、増子信一といっしょにわたしを朝日ジャーナルの書評委員会に引き込んだ。ゲストとしてうら若き浅田彰がやって来たり、まだ朝日の人だった筑紫哲也が酩酊ぎみで遊びに来たり(のちに彼は編集長になり傾いていたこの週刊誌を建て直した)、いいかげんで面白い会だった。
◆今年95歳になるマノエル・ド・オリヴィェイラの監督作品であるというだけでも見て見たい気にさせる。出演者もすごい。イレーネ・パパスも見てみたかった。『コレリ大尉のマンドリン』では才能を浪費していたので、今度はという気がしたわけだ。結果は、まあ大人(たいじん)の余裕というか、そういうものを感じさせる映画だった。95年も生きれば、ちょっと昔話をしても、おのずから猛烈な奥行きが出る。しかし、最後のシーンは、フィルム切れで無理に終らせたようなあっけなさを感じさせた。
◆スタイルとしては、2001年のある日、船の甲板でリスビン大学の歴史学の教授の母親ローザ=マリア(レオノール・シルヴィエラ)が、岸を眺めながら幼い娘マリア=ジョアナ(フィリッパ・ド・アルメイダ)に「文明」の歴史を語る→海を走る船のへさき→停泊地の歴史的名所を2人がつかのま訪れる――というパターンをくりかえす。彼女が、ボンベイまでの船旅を選んだのは、娘に歴史の教育をほどこしながら、パイロットをしている夫とボンベイで落ちあうため。
◆船は、ポルトガルのポルト→フランスのマルセイユ→イタリアのナポリ→ギリシャのアテネ→トルコのイスタンブール→スエズ運河の入口のポート・サイド→アラビア半島のアデンというコースを進む。その間に、ポルトガルの全盛期を象徴する「ヘレンの塔」、マルセイユの魚市場の庶民的活気(ここで、魚屋が船に愛犬の引き縄をつないでおり、船が揺れるたびに犬が岸壁から落ちそうになるのを必死でこらえる姿が映るが、カワユイ)、ナポリ湾に臨むポンペイ遺跡(ヴェスヴィオ火山の噴火で滅びた)、トルコによって征服されたビザンティン建築の聖ソフィア大聖堂、エジプトのピラミッド、アデンのバザールと路地などが順ぐりに映される。
◆これらすべての遺跡は、マノエル・ド・オリヴィェイラ監督にとっては、9・11で滅んだWTCを想定して描かれているように見える。アメリカにとってWTCは、ある種の「神殿」だった。アテネのパルテノン神殿もいまでは廃墟であるように、文明は栄えるが、やがて滅びる。そして、いまアメリカは滅びつつあるという想い。9・11以後のアメリカの動きを見ていると、たしかに、没落への道をまっしぐらに進んでいるように見える。
◆その代案、9・11とは反対に、別の鉱脈からあらわれ出した救いのある動きとはなんだろうか? マノエル・ド・オリヴィェイラは、おそらくポルトガル/地中海コネクションのなかで熟知しているはずの「マルティテュード」(「複数多数性」などと訳されるときもある)という概念を意識しているかのように、その具体的イメージを船内のディナー・ルームに設定する。ローザ=マリアとマリア=ジョアナ母子が甲板で見ていると、マルセイユで実業家のデルフィンヌ(カトリーヌ・ドヌーブ)が、ナポリから元有名モデルのフランチェスカ(ステファニア・サンドレリ)が、そしてアテネから舞台女優で歌手のヘレナ(イレーネ・パパス)がそれぞれ乗船して来る。彼女らは、セレブリティなので、船長(ジョン・マルコヴィッチ)が同じテーブルに招待し、いっしょにディナーを食べる。その席では、彼女らと船長は、それぞれ自国語(フランス語、イタリア語、ギリシャ語、英語)で話をし、それでコミュニケーションが成り立ってしまうという設定になっている。つまり、異なるバックグラウンドを持った〈複数〉の人々が、それぞれの文化と言語を維持したままたがいに交流し、〈共生〉できるという設定である。
◆やがて一般客のローザ=マリアとマリア=ジョアナ母子も、この席に招かれることになる。彼女らがしゃべるポルトガル語は、船長が聞き取れる程度で、他は誰も理解できないので、では英語でしゃべろうということになる。このへんは、複数言語のかぎりない共生を理念とする「マルティテュード」と、統合と平均化を避けることができない英語とのあいだのギャップと、それにもかかわらず目下ヨーロッパで進行中の現実(英語を共通語とする動き)とを考えさせる。英語が共通語だといっても、非英語圏ではまだある種「特権階級」のものだが、複数の言語に堪能な人々というと、もっと特権的な層にかぎられる。
◆しかし、「マルティテュード」は、決して単なる理念ではなく、現実でもある。民族や文化が錯綜する社会では、これまでも、複数の言語がしゃべられ、多数の言語が共存したまま一つの地域や国を形勢してきた。それを一国一言語に限定するのは、国民国家的な政治であり、むしろ、この方が人工的なのである。(歴史の「表街道」は人工的なものにすぎない)。だから、この船のセレブリティの女性たちがやっていると特権的に見えるが、「マルティテュード」は、実は、集団が生きてきた歴史のありのままの姿だったのであり、それが「自然」なのだ。
◆歴史上「文明」と呼ばれるもの――それらを誇るさまざまな象徴がこの映画で「遺跡」として映される――は、「マルティテュード」を統合し、均一化し、殺すことによってつかのもの栄華を築いてきた。もし、9・11が、アメリカ帝国の滅亡の始まりを象徴するのだとすれば、これは、同時に、これまでアメリカ的なものによって抑え込まれてきた「マルティテュード」が、たとえまだわずかであれ、鎖を解かれてそのダイナミックな姿を見せる時代であるかもしれない。
◆すべて女性ばかりの招待席で招待者の船長(マルコヴィッチ)が、デクノボーに見えるのは、監督の意図のはずだ。ここでは、戦争をやってきたのは男たちで、女が社会の中心になれば、時代はよくなるという話が出て来るように、「最良」の男は、この船長のように、サービス役をつとめるしかないのである。
(TCC)



2004-02-21

●21グラム (21 Grams/2003/Alejandro Gonzalez Inarritu)(アルハンドレ・ゴンザレス・イニャリトゥ)

21 Grams
◆途中で隣の女性が妙な動きをするので見たら、靴を脱ぎ、立て膝をして見ていた。これは、いい兆候ではないか?
◆手持ちカメラで撮ったらしい映像をノンリニアーに編集し、ドラマの「現在」と「過去」が、「フラッシュバック」とはちがった――もっとランダムなやり方で錯綜する。しかし、見て行くにつれて、意識のなかに確実に一つの時間の流れが作られ、複数の登場人物たちの「生きざま」が浮かび上がってくる。わたしは「生きざま」という言葉を単に「生き方」の意味で使うのには抵抗があるが、この映画は登場人物たちのうわべの生き方ではなく、ぎりぎりの、きれい事ではない、追いつめられた「生」を描いている点で、この言葉がふさわしい。最初の方に、たくさんの鳥が空を飛ぶシルエットのような映像が出てくるが、このショットは、この映画の構造と性格をしさしたいる。
◆ジャック・ジョーダン(ベニチオ・デル・トロ)は、その入れ墨が示唆するように、若いときはヤクザな生活を送り、前科があるが、いまでは、熱烈にキリスト教に帰依し、自分の不幸をも神の試練だと考えるほどだ。2人の子供と妻(メリッサ・レオ)がおり、クジで当たった車も、神からの授かり物だと言っている。
◆ポール・リヴァース(ショーン・ペン)は、心臓移植しか生きのびる道がない。ドナーを待ち、酸素ボンベをかかえてやっとトイレに行くような生活をしている。妻メアリー(シャルロット・ゲンズブール)とはうまくいっていない。彼女は、故郷のロンドンに帰ろうとしているが、夫が死ぬまえにその子供を作りたいとも思っている。屈折した夫婦。
◆クリスティーナ・ベック(ナオミ・ワッツ)は、ドラッグに埋没した過去があるが、いまは夫マイケル(ダニー・ヒューストン)と2人の子供と「平和」な家庭生活を送っている。
◆こうした3人の「過去」「現在」をノンリニアーのショットで並行的に描くだけでも映画になると思うが、それでは「ハリウッド」映画にはならない。かくして事件が起きる。が、その事件は、ドラマの時間のある時点で起こり、それを映画は先取りして見せたり、それが起こるまえのプロセスを見せたり、時間を前後しながら進む。
◆事件というのは、ジャックが、父親と子供2人を乗せた車に自分の車をぶっつけてしまい、彼らを殺して(父親は病院で死亡)しまったのだ。前科のある彼は、そのまま逃げて家に帰ってきてしまう。が、妻は不可抗力だったのにとさとすが、「これも神のさだめだ」と自首する。しかし、加害者の妻が訴えなかったので、釈放されてしまう。
◆クリスティーナは、電話で夫と子供が交通事故で死んだことを知らされる。病院で彼女は、夫の心臓を臓器提供することを医師から頼まれる。それを受けたかどうかは映画は描かない。孤独に突き落とされた彼女は、クラブに昔の仲間を訪ねる。ふたたびドラッグ漬けの生活がはじまる。
◆心臓移植手術を受けたポールは、ある日、クラブでラリっている女を助ける。実は、彼は、探偵に自分に移植された心臓のドナーが誰であるかを調べさせていた。その女は、ドナーの未亡人で、ポールは、メアリーとの関係がどんどん離れて行く一方で、この女性にストーカーのように近づく。
◆クリスティーナは、夫を殺した車を運転したいた男に復讐心をいだいていた。そして、知り会った男にその相手を殺してほしいと言う。その男は、大学で数学を教える学者で腕に自信はないのだが、彼女に惹かれて行くにつれて、その望みを達成してやろうとして、前から関係のある探偵から銃を手に入れる。
◆これ以上書いても映画をスポイルすることにはならないと思うが、映画の鋭いノンリニアーなタッチからどんどん離れていくので、これでやめる。この映画では、誰も「悪く」ないのだが、ちょっとしたはずみで「不幸」に陥って行く。人生なんてそんなもんだとも言えるし、また、池に浮かぶ3人別様の人生の水面に、ポーンと石を投げこんで波動を作り、不可避的にその波動に3人の人生を巻き込んでしまう実験をしているようなところもある。デル・トロの演技はすばらしく、ナオミ・ワッツとメレッサ・レオもいい。
(銀座ガスホール)



2004-02-19_2

●オーシャン・オブ・ファイヤー (Hidalgo/2004/Jow Johnston)(ジョー・ジョンストン)

Hidalgo
◆途中で前の席の女性が熟睡してしまい、ガクンと後ろに倒れた頭から垂れる長い茶髪が、組んだわたしの脚の上を覆った。いま、配給会社にとって女性は、当たるか当たらないかの最も重要なバロメータだというから、これはまずいではないか。作品は、時代を19世紀に設定しながらも、いまのアラブ情勢を思わせるところがあって、その点では面白いのだが。問題は、主役のヴィゴ・モーテンセンには、少し荷が勝ちすぎたことと、登場する「アラブ人」たちが、一時代まえの「植民地主義的」な模造品で、リアリティがないことである。「名優」オマー・シャリフが、久々の登場だが、いまや完璧に「ヨーロッパ人」の彼の「優雅」さが、かえってその傾向をあおる結果になっている。
◆フランク・ホプキンス(ヴィゴ・モーテンセン)は、軍人ではなく、カーボーイだが、1890年のある日、スー族を監視する第7騎兵隊の野営地に手紙を届けることを頼まれる。彼は、愛馬に乗り、クロス・カントリー・レースで無敗の記録を保持していた。愛馬は「ヒダルゴ」という名のムスタング(小型の野生馬)。が、彼が届けた手紙は、スー族を武装解除せよという命令で、それに勢いづいた騎兵隊は、小競り合いをきっかけに350人のスー族を全滅させてしまう。この事件は、フランクに深い心の傷を負わせた。
◆『ラスト・サムライ』のネイサン・オールグレン(トム・クルーズ)もそうだったが、フランクも、先住民の虐殺に加担したというトラウマをいだきながら、酒びたりのひどく投げやりな気分でウェスタン・ショウの芸人をやっている。ある日、ショウを見物していた、アラブの族長シーク・リヤド(オマー・シャリフ)の副官というアジズ(アダム・アレクシ=メール[「アラブ人」には見えない])から、フランクは、シーク・リヤドが主宰するレースに出るように要請される。謝礼はスペイン銀貨1000枚。このレースは、紅海の入口、現在のイエーメンのアデンから出発して、オーマンに入り、アラビア半島の東側をアラブ首長国連邦、サウジアラビア、クウェイト、イラクを通って、最終地点、シリアのダマスカスまで行くという3000マイルのレース。面白いことに、このコースは、現在国際政治でアブナいエリアがすべてカバーしている。
◆フランクが、現地に着いてわかるのは、このレースには、部族の利害と一人の女の運命がからんでいることだった。このレースで優勝確実なのはアルリー王子(サイード・タグマウイ)が乗るアラブ馬アルハッタルだが、もしシーク・リヤドがパトロネージュする馬がこれに負けると、彼の娘ジャジーラ(ズレイカ・ロビンソン)は、アルリー王子の妻にならなければならない。ジャジーラは、西欧的な意味での「自由」にめざめた女で、アラブ社会での女の「差別」を不当だと思っている。アラブであれアフリカであれ、人権が無視され、それを奪還するために西欧が介入するというパターンは、これまでくりかえされてきたが、それが正当であるかどうかは、どの文化を評価するか次第である。西欧的ロジックが普遍的だとする見地から「人権無視」と見えることがらのなかにも、向こう側のロジックから見れば、それ相当の理由と必然性がある。その意味で、この映画は、アラブの側から見れば、相当「偏向」している。ズレイカ・ロビンソンは、いい演技をしてはいるが、その時代設定を考えれば、ほとんど英米からの「海外帰国子女」という感じがする。
◆フランクにはスー族の血が流れているという設定によって、単なる「アメリカ」が「アラブ」に進出するのではないという設定になってはいる。しかし、アメリカがこれまでやってきた侵略はつねにこういう詐術を用いてなされた。彼がこのレースへの参加を依頼された背景には、イギリス人のあやしい貴婦人アン・ダヴェボート(ルイス・ロンバート)の「計略」もある。彼女は、アラブの諸勢力をたがいに闘わせることによって、最終的には漁夫之利を占める体の「植民地」支配的魂胆もにおわせる。このへん、すべて今回の英米共同のイラク進出と構造が似ている。
◆映画のタイトルは、馬の名前からとられている(ただし邦題はレースの名)ところをみると、この映画の主役はヴィゴ・モーテンセンではなく、ムスタングの「ヒダルゴ」だということになる。実際、この馬は、最後の方のシーンで、一旦厳しい条件の砂漠で倒れ、鼻から血を流し、再起不能に見えながら、急に元気を取り戻し、ライバルを追い込んで行くところなどは、ほとんど超「馬」的なマシーンである。こうなると、ますます、フランクの素姓や彼をめぐるラブ・ロマンスなどつけたりで、はるばるアラブに乗り込んだアメリカ馬がアラブの名馬を打ち破るという、「アメリカ製(の戦闘機)はスゴい」という話にもなりかねない。
(新宿ミラノ座)



2004-02-19_1

●スイミング・プール(Swimming Pool/2003/François Ozon)(フランソワ・オゾン)

Swimming Pool
◆隣の女性の香水がけっこうきつくて、デパートの(たいてい)1階にある香水売り場を思い出したが、映画とは必ずしも齟齬をきたすことはなかった。映画によっては困ることが多いが、この映画は、ある意味で香水のにおいのようなところがあり、その世界への導入役を果たした。
◆画面の色が、モノクロに近いところから鮮やかなカラーまで微妙に変化する。これは、この映画の構造を示唆している。主人公サラ(シャーロット・ランプリング)は売れているミステリー作家。冒頭、ロンドンの地下鉄のなかで、向かいの客が彼女の小説を読んでおり、目の前にその作者がいるのに気づき、ミーハー的におあいそしてくると、「お人ちがいです」と言って席を離れてしまう。これは、彼女の気難しさを示唆すると同時に、彼女のこの時点で陥っている意識状態をあらわしている。こういう「神経症ぎりぎり」の感じを出すのが、ランプリングはうまい。画面の色の変化から彼女の意識の揺れを感じとってもいいし、また、映画で展開されている出来事のリアリティの相対的変化を感じとってもいい。
◆スランプに悩んでいるサラに、愛人関係にある(あった?)らしい編集長・社長ジョン(チャールズ・ダンス)は、フランスにある彼の別荘で静養することをするめる。ロンドンからユーロスターに乗ってパリに行き、タクシーで郊外の別荘に着いて、彼女がまずやったことは、ベッドの上の壁にかかっている十字架をはずすことと、それからカバンからノートパソコンとキャノンのポータブル・プリンター、各電源アダプターとケーブル(ぐしゃぐしゃに入れているのが彼女の性格を示唆する)を引っ張り出すことだった。以後、このパソコンに向かう彼女の姿がくり返し映る。ということは、この映画で起こるドラマと彼女の小説世界とのあいだに境目がないということでもある。音楽の使い方がやや『 めぐりあう時間たち』に似ている。
◆プール付別荘を一人で占有できるはずだったが、着いた日の夜中に物音で飛び起きて見ると、まだ10代の女がわがもの顔で入り込んでいる。彼女は、編集長と「フランス人の愛人」とのあいだに生まれた娘ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)で、バイト先で喧嘩して、飛び出してきたのだという。以後、2人のあいだに神経戦がくりひろげられる。
◆ジュリーは、夜中にすっ裸でプールで泳いだりする。男を連れ込み、おおぴらにセックスするので、サラは耳栓をして眠ろうとする。しかし、そのうち、サラは、ジュリーが連れ込んだ男と3人でマリュワナを吸ったり、踊ったりするようにもなる。「けっこうやるじゃん」とジュリーが驚くと、「スウィンギング・ロンドンの時代に育ったんだから」と言う。これは笑えた。シャーロット・ランプリングというと、『地獄に堕ちた勇者ども』(La Caduta degli dei/1969/Luchino Visconti)や『愛の嵐』(Il Portiere de notte/1974/Liliana Cavani) などで、同年配の「小娘」には出せない「退廃」の匂いを感じさせる女を演じていた。歳をとっても、独特のあの(あやしい)目は変わらない。あの目では、いくら「おばさん」風の身づくろいをしていても、その地は隠せない。まさに、その意味で、この台詞は、「なめるんじゃないよ」という響きをもっていて、笑えたのだ。
◆昔のランプリングを知っていると、パリについた彼女の服装も雰囲気もあまりに「おばさん」風であり、また、パソコンのそばにはルーペがあり、なんか痛ましい感じがする。きっと、これは、後半で逆転されるのだろうと思っていると、必ずしもそうではなく、一度、プールでジュリーに対してこれみよがしに裸体を見せたりはするが、(たしかに1945年生まれの女優にしては「若い」かもしれないが)そんなに「見事」というわけでもない。つまり、この映画は、そういう世代間の張り合いが問題ではないということだ。
◆それにしても、サラは、料理はダメで、トマトにヨーグルトをかけたので夕食を済ませたりする。他方、ジュリーは、まだ小娘だが、フランス人らしく、買ってきて冷蔵庫に入れる食品もきめが細かい。サラは、冷蔵庫のなかのうまそうなパテやチーズに嫉妬して、近所のレストランでやけ食いする。優雅さが本来のランプリングが演るだけに、このシーンも笑える。
◆最後に、最初のシーンがくりかえされる。そのとき、出版社のオフィスでジョンと別れて外に出るとき、受付の女性が、ジョンに「お嬢さんがいらっしゃいました」と告げているのが聞こえる。その娘は、10代の髪の長い少女だが、ジュリーとは大分雰囲気がちがう。フランス人ではなく、ロンドンの良家の娘という感じ。小説家というものは、モデルをデフォルメする。説明的な論理では、この瞬間がサラにインスピレーションをあたえ、「ジュリー」という女が生まれたにちがいない。ここまで書くと、「ネタ明かし」だと怒る読者がいるかもしれないが、この映画のスタイリシュな味は、見なければわからないし、そのしたたかでオシャレな構成は、何度見ても楽しいはずで、文章によるこんな記述で傷がつくとは思えないのでごかんべん。
(スペースFS汐留)



2004-02-17

●クイール (Quill/2004/Sai Yoichi)(崔洋一)

Quill
◆東劇側のエスカレータで登ると、ロビーに列が出来ていた。こういうことはめったにない。その列には、ふだん見ない、オールド・セレブリティの姿もある。あまりいい予感がしない。崔洋一の映画って、そういうのではなかったと思うので。
◆東京のミドルクラスの家のどこか押しつけがましい感じの「主婦」といった役柄の名取裕子が、生まれた5匹のラブラドール・レトリーバー犬を、父犬と同じように盲導犬にしたいと思い、知り合いの盲導犬訓練士(椎名拮平)のところに執拗に電話するシーンからこの映画は始まる。椎名は渋々電話でアドバイズをあたえ、1匹を選ばせる。その犬は、他の犬とはちがって、付和雷同しない。盲導犬は、物音などですぐ反応してはだめなのだという。で、その子犬は、飛行機で京都の香川照之・寺島しのぶ夫妻のもとに送られる。2人は、盲導犬予備軍の子犬を育てる「パピーウォーカー」をボランティアでしている。脇腹にあるブチ模様から「クイール」(鳥の羽)となづけられた子犬は、1歳まで育てられ、椎名のところに送られる。それから、盲導犬になる訓練をし、気難しい視覚障害者の小林薫の介助犬となり、12歳で死ぬまでの「犬の一生」が描かれる。
◆ねらいとしては、一応、クイールの一生の話のようだが、小林薫が主役のように見えるところもあり、「ある犬の生涯」物語としては弱い。それと、CG効果やアニメの動物を見慣れてしまった目には、「一生」を5匹の犬を使って撮影しているからくりが見えてしまったり、明らかに犬の表情や身ぶりが、意図する映像とは異なるものであることがわかるシーンが多かったり(これは、『ネコのミヌース』についても触れた)して、いまいち引き込まれないのだ。
◆視覚障害者のボランティア事務所を主宰している小林薫は、おそらく糖尿病から視覚障害に至ったようで、失明したことで世間や自分以外の世界を呪っているふしがある。その屈折を小林はかなりうまく演じている。だから、盲導犬を嫌っていた彼が、その「真摯」さに触れて気持ちが変わって行くプロセスも、わざとらしく、どこか無理がある。「泣かせ」ようとしていても、とても泣けるものではない。ナレーションが何度か替わるのも落ち着かない。
◆わたしが面白いと思った数少ない個所は、小林が、ラジカセを使って「音の壁新聞」というのを作るくだり。家では、レコードをかけ、DJのようなことをやるのだが、ミクサーを使わずに、マイクを音源のスピーカーに近づけるというやりかたをする。これは、その昔、始まったばかりの自由ラジオ局「ラジオホームラン」のお得意のテクニックだった。機材の乏しい環境をそういうやりかたで逆手に取っていた。また、「音のタウンマップ」と称して、外を歩きながら小林が通りの音、家々へのコメントを録音するシーンもある。これは、「サウンドスケープ」であって、いまサウンドアートの世界で、リバイバルしている技法だ。サウンドスケープは、1970年代にカナダのR・マリー・シェーファー(ちなみに男)によって「体系化」された(主著『世界の調律』、鳥越けい子他訳、平凡社)が、いま非「音楽」のすべてのサウンドを含む音をカバーする概念に拡大されつつある。
◆まだ「クイール」という名のつかない幼犬が飛行機で送られるシーンで、飛行機がブーンと急旋回するような姿を見せたのには驚いた。便は全日航だったが、貨物便だろうか? なんかこのシーンだけ異常。
◆眠たそうな犬のアップになり、そこに、この犬が幼いときに遊んだ子熊のヌイグルミが踊る映像が入る。犬の「夢」の心内風景を見せているつもりなのだが、ここだけ「擬人化」するのはアンバランス。
◆12歳になった晩年のクイールをふたたび引き取った香川照之と寺島しのぶ。看病する香川のスボンの尻ポケットのボタンが取れて、糸が下がっているのがなかなかよかった。香川照之は、役者としてぐんぐんよくなっている。
◆香取慎吾のような笑顔をたたえた「善良」な盲導犬訓練士を演じきった椎名拮平は、いつもは「陰険」か「暗い」役柄が多いので、どこかでキレるとか、怖い顔をするとかというふうになるのかと思ったが、そうはならないのだった。

(松竹試写室)



2004-02-16

●ディボース・ショウ (Intolerable Cruelty/2003/Joel Coen & Ethan Coen)

Intolerable Cruelty
◆結婚や離婚で財産を得たり失ったりすることに縁のないわたしには、全くもってバカげたドタバタとしか映らなかった。でも、後半で見せるキャサリン・ゼタ=ジョーンズとジョージ・クルーニーのキスシーンは、なかなか見事だった。ハリウッド映画のキスシーンに見飽きていてもとてもゴージャスな感じ。あとは印象にのこるシーンはない。わたしは、この2俳優が嫌いではない。クルーニーは、往年のゲイリー・クーパーやケーリー・グラントのにおいを感じさせる「ハンサム」俳優として、また、ゼタ=ジョーンはイモいところがいい女優として。だから、ゼタ=ジョーンズは、『トラフィック』のときのようなクサい役のほうが活きる。 むろん、この映画の役も、クサくなくはないのだが、どちらかというとただ利に小ざといだけの女を演じていて、これならたとえばジュリア・ロバーツだっていいじゃないかという気がしてくる。
◆要になっているのは、「婚前契約」(プリナプティアル・アグリーメント)。これは、プレスの解説によると、離婚や死別の際に財産分与をどうするかを結婚前に契約すること。それ自体は、極めてマテリアリスティックなものだが、そういう契約をしておいて、結婚後、それを破棄すると、相手が自分を金目当てで選んだのではないという強力な意思表示にもなる。この映画では、「婚前契約書」を結婚相手の面前で破いて見せるシーンが何度か出てくる。こういう契約をしたことがない者でも、この反復を見せられているうちに、この書類がサスペンスの装置となってきて、ドラマの先を気にしたりする。この部分は面白いし、「婚前契約書」を交わした経験のあるアメリカ人にはリアリティがあるのだろう。
◆コーエン兄弟の作品なら、もうちょっとファニーな部分があってよいところだが、探さなくては見つからない。一番コーエン兄弟らしいファニーさが出ているのは、マリリン(ゼタ=ジョーンズ)と石油王(ビリー・ボブ・ソートン)の「結婚式」を仕切る牧師スコットを演じるコリン・リンデンだろう。彼がギターを弾きながら姿をあらわした瞬間、なぜか笑ってしまう。このときだけ、場内の2、3個所から笑いが漏れた。
◆冒頭、大金持ちだったはずのTVプロデューサ(ジェフリー・ラッシュ)が妻の不倫現場を発見し、激怒して不倫男と妻にピストルを向けるが、妻にトロフィー(映画賞の)でしたたか殴られる。そのとき、妻の台詞が、「オーストラリアのエロ野郎!」。ちなみにジェフリー・ラッシュは、オーストラリア出身。それから、マリリンに財産を巻き上げられる不動産王(エドワード・ハーマン)は、はすっぱな女あるいは女たちと裸になって「汽車ぽっぽ」遊びをするのが趣味。その現場を記録に撮られ、離婚訴訟で敗訴するのだが、その遊びのシーンはややコーエン風ではある。
◆辣腕弁護士のマイルズ(ジョージ・クルーニー)の片腕リグレー(ポール・アデルスタイン)は、涙もろく、2人の関係は、ホモとも違うが、妙である。
◆マリリンの過去を裁判で証言するクラウス・フォン・エスピー男爵も、ちょっとファニー。しかし、それは、わざとらしいフランス語なまりだけかもしれない。個別的にはファニーでも、それが活かされていない。
◆クルーニーが、並みいる観客のまえで、自分の地位を捨てることも辞さない告白をし、一瞬唖然とした観客が次の瞬間スタンディング・オベイションをするというありがちなパターンの「大演説」シーンがあり、これも、ちゃんと異化(二重化)されていることがやがてわかるのだが、しかし、その異化効果が活きていない。この「演説」でクルーニーは、シニシズムを批判し、愛(ラブ)の大切さを説く。そして、それがやがてひっくりかえされ、論理的には(映画として)シニジズムが肯定されるわけだが、それが全然肯定になっていない。つまり、コーエン兄弟は、シニシズムが好きなポーズをとりながら、月並みな「ラブ」を肯定している感じになっている。これは、コーエン兄弟の作品としては失敗ではないか?
◆マイルスは、歯が気になる男として描かれる。口臭を気にしているという設定なのか? 冒頭でも、歯医者で歯石をとってもらうためか、口を機械で固定させられているシーンが出てきた。これは非常にグロい。まさに原題の「耐えられない残酷さ」だ。クルーニーさん、よくやるねぇという感じ。しかし、この感じは維持されない。
(UIP試写室)



2004-02-13

●ホテル・ビーナス (The Hotel Venus/2004/Takahata Hideta)(タカハタ秀太)

The Hotel Venus ◆映画の実験としてはユニーク。日本と韓国の俳優を使い、彼や彼女らにすべて朝鮮語(この映画の字幕では「韓国語」と表記されるが、わたしはここでは もっと広い枠組みとして「朝鮮語」を使おうと思う)をしゃべらせ、ウラジオストックで撮影する。物語で設定されている時代や場所は未規定。朝鮮語がわからない観客は、日本語字幕で物語を追うことになるが、基本的に日本語字幕を読ませるということを前提に作られている。その意味では、「日本映画」なのだ。
◆知り合いのMの話だと、草剛の朝鮮語は、流暢ではあっても、「明らかに女性から教わった朝鮮語」で、朝鮮語がよくわかる人が聴くと、「女言葉」だという。こういうことは、日本語の場合も起きるのだが、このレベルを問題にすれば、パク・ジョンウ、チョ・ウンジ、コ・ドヒ、イ・ジョンギのような韓国人俳優の朝鮮語に対して、草剛はもとより、中谷美紀、香川照之、市村正親の朝鮮語が相当「人工的」なのは、素人耳にもわかる。しかし、これは、この映画の欠陥とはならない。韓国で上映するときは、ハングルの字幕を付け、あえてそうした「人工性」を強調すればいいからだ。
◆日本人が朝鮮語をしゃべるということのなかには、単に「外国語」をしゃべるということ以上の意味がある。それは、日本人が英語をしゃべるのとは異なる。日本人にとっての朝鮮語は、そのなかに異化と同化を含んでいる。日本人は、かつて朝鮮語を抹殺し、それを日本語に同化しようとした。だから、日本人が朝鮮語しかしゃべれないということのなかには、皮肉な逆説がある。しかし、アジア人をひとくくりにしか見れない観客が、たとえば、英語字幕でこの映画を見た場合には、この映画は、韓国映画の系列のなかでとらえられてしまい、その「人工性」や二重性は理解されないかもしれない。
◆最後の方のシーンで、香取慎吾が旅行者風のかっこうでホテル・ビーナスを探しにウラジオストックにやってきて、通りがかった黒人の男(ピート)にその所在を英語で尋ねる。答えは朝鮮語で返ってきて、「この町では韓国語しか通じない」。しかし、このシーンは、もっと深読みできる。つまり、この場所では、朝鮮語は、いまや、かつて日本人に課していたトラムマを拭い去り、英語と同じような単なる「異化」機能を持つ言語になってしまったのかもしれない。
◆日本人にとって英語は、ある種のアクセントであったり、表現にちょっと気取った「距離」を忍び込ませるために使われる。横文字の会社名、放送番組でのイントロ(この使い方もそうか? たしかに「導入部」よりはカッコいい)で使われる英語もそうだ。それらは、その意味で、本来の英語ではなく、「日本語」の一種なのだ。しかし、日本人も、だんだん海外帰国子女だとか、英語のできる社員とかが増え、英語が単なるアクセサリーではなくなってきたいま、英語のそういう機能は衰えてきた。使えば、英語の意味表示機能が作動してしまい、それまで有力だった「距離挿入機能」がうまく働いてくれないからだ。だから、日本は、いま、言語的にひとつの危機のなかにいると言える。日本語は、外からの何かで「距離」を挿入しないとしっくりしない言語だからである。
◆日本語は、これまで、ずっと外部から異文化の言語を導入することによって生きながらえてきた。中国語は、長きにわたって日本語に対してその機能を発揮してきた。この性格は、単にに日本語の問題ではなく、文化や社会の問題だ。この映画のなかに登場する人物たちは、みな、心のなかに「距離」や「空虚さ」や「淋しさ」を隠している。そういう距離や空虚さが、「アンクレイブ」(飛び地/番外)としての「ホテル・ビーナス」という場と朝鮮語を呼び寄せたとも言える。
◆草剛は、恋人がジャンキーの運転する車に轢き殺されたことをその娘の父親(伊武雅刀)に責められ、責任と罪の意識を抱いている。香川照之は、外科手術に失敗したことで自分を責め、酒に身を持ち崩している。看護婦だった中谷美紀は、売春をしながらその彼をいまも支えている。パク・ジョンウは、病気の妻の願いで愛する彼女を殺し、彼女の娘(コ・ドヒ)を連れて逃げている。幼いときに母に捨てられたイ・ジュンギは、殺し屋になることを夢にして日夜ピストルの手さばきをみがいている。花屋で働き、一見晴れやかな感じのチョ・ウンジは、花屋の店長(松尾貴史)に利用され、自分を追い込んでいく。片足が不自由なホテルのオーナー(市村正親)は、ゲイである。
◆彼や彼女らが告白する、あるいは提示する心のなかの「距離」や「空虚さ」は、みな非常にナルシシスティックで、国籍不明の舞台設定にもかかわらず、いまの日本を思い浮かばせる。日本は、いまある意味で「ホテル・ビーナス状態」だと言えないこともない。
◆面白いと思うのは、話される言語は朝鮮語なのだが、くりかえし流れるのは、ジャズのスタンダードナンバー、Someone to watch over me と Everybody needs somebody なのだ。そして、最初と最後に草剛の心象風景のように出てくるのが、岡の上にそびえる大きな十字架。それは、死んだ彼の恋人の墓なのだが、そのこと以前に、キリスト教のシンボルがどばっと出ることの意味は無視できない。つまり、さきほどわたしは、「英語が単なるアクセサリーではなくなってきた」と書いたが、にもかかわらず、現状では、依然として英語文化は、何らかの内部距離なくしては機能できない日本文化と日本社会の有力な要素でありつづけているわけである。
(松竹試写室)



2004-02-12

●ロスト・イン・トランスレーション (Lost in Translation/2003/Sofia Coppola)(ソフィア・コッポラ)

Lost in Translation
◆ゴールデン・グローブ賞を取り、いままたアカデミー賞にノミネートされているとあって、長い列が出来た。開場まえになって、定員オーバーがあやぶまれたのか、「本人名義の試写状とお名刺をご用意ください」と会社の人がかん高い声を上げ、ビビる客が何人かいる。声にビビったのではなくて、ケータイで呼びあって途中からどんどん割り込んだ人のなかには「本人名義」でない人がいたようだ。
◆『真珠の耳飾りの少女』でも大ブレークのスカーレット・ヨハンソンがすばらしいし、ビル・マーレイが渋い演技をしているのも注目だが、東京人から見ると、東京や「日本人」へのアプローチにはかなりステレオタイプ的なものがある。生け花とか、京都とか、渋谷のクラブとかをちょっぴり出すのもあざとい感じ。しかし、そういのは、日本を初めて訪れたアメリカ人の目に映るであろう印象の典型をパノラマ化しているのであって、そういうステレオタイプを連ねて日本を揶揄したり批判しているわけではないともとれるところがこの映画の微妙さ。ソフィア・コッポラとしては、むしろ、「初心者」が驚くのを面白がって描いている感じ。そして、「あなたたちもそのうちこのファニーな東京にハマるわよ」と言っているようにも見える。
◆アメリカ人が東京に来て、その都市に惹かれる映画としてこの映画とちょっと似ているものとしては、フラン・ルーベル・クズイの『トーキョー・ポップ』 (Tokyo Pop/1988/Fran Rubel Kuzui)があった。あまり評判にはならなかったが、異文化としての日本にアメリカ人が初めて接して新鮮な驚きを見出す物語としては、かなりいい線を行っていた。
◆アメリカ人が日本に来て、「文化人類学」的(「カルチャラル・スタディ」的とは言うまい)な関心をもって日本人と交わっていくという形式の映画が、今後流行りそうである。その封を切ったのは、『ラスト・サムライ』である。日本側とのコラボレーション次第では、1970~80年代にアメリカで続々あらわれた「ニューヨーク映画」のように、日本の都市と映画との密着企画が続々登場するかもしれない。石原都政も東京を舞台にした映画に関心をもっているらしい。
◆ポスターなどにもなっているが、映画はベッドに横になったスカーレット・ヨハンセンの肩から下(ふくらはぎまで)のアップで始まる。あたりまえのパンティがかえって「これってなに?」という印象を残す。これは、何をあらわしているのだろうか? 尻や胴という肉体の部分は、「孤独」をあらわすよりももっと複雑な感情をあらわすはずだ。ホテルは、西新宿のパークハイアット東京。先日、『日経産業新聞』のこの映画の撮影についての記事があった。
◆カメラマンの夫ジョン(ジョバンニ・リビシ)について東京に初めて来たシャーロット。彼が多忙で一人でいることが多い。新婚の2人は、どこかサメている。彼女が大学で専攻したのは「哲学」だという。夫のジョンは、ちょっといいかげんな感じ。知り合いらしい映画女優ケリー(アンナ・ファリス)が宣伝のために来日し、同じホテルに泊まっていて、たまたま出会い、「一度ゆっくり」みたいな誘いを受けると、(超いそがしぶっていたのに)あっさり受けてしまい、シャーロットが「いっしょに行く」と言うと、ちょっと困った顔をする。ダメになる兆候が見え見えの夫婦。
◆胴とヒップのアップシーンのあと、テーマソングとタイトルが出て、成田空港のアナウンスの声がかぶってくる。タクシーを拾うビル・マーレイの顔が映り、すぐに外の景色が新宿の華麗なネオンになる。彼が演じるボブ・ハリスもパークハイアット東京に泊まり、シャーロットと出会うだろう。そして、愛がはじまるのだろう――こういう予想をうながすようなつくり。それを裏切らないところがこの映画の面白いところ。ただし、ハリウッドに典型的な「ロマンス」はない。そういうありがちな部分をそぎ落として描く。ときどき挿入される故郷の妻からのFAXや電話のやりとりは、ボブが妻に(特に理由はないが)飽きていることを示す。彼は、結婚して25年になる。
◆ボブは、サントリーのCMの撮影のために来日したという設定だが、おそらく、この映画は、サントリーとタイアップしているのだろう。映画のなかではすでにボブがサントリーのウイスキーを飲むシーンの大スチルが新宿の街頭に姿をあらわす(短期の滞在期間中に出来るはずがない)が、おそらく、映画の公開時には実際にボブ・ハリスことビル・マーレイがサントリー・ウイスキーの広告としてテレビや巷にあふれるのだろう。映画は金がかかるから、リコウな方法と言うべきだが、ちょっとリコウすぎる感じ。
◆サントリーのCMの撮影シーンが2度(ビデオとスチル)出てくるが、そのどちらも、変な英語をしゃべり、けっこう態度が大きい日本人のカメラマンが出てくる。LとRの発音がでたらめで、コミュニケーションできないとか、月並みな茶化しに見えるが、やはりここでも、「売れてるようなテレビ屋やカメラマンは、勝手な〈英語〉をまくしたてて仕事をしてるんだろうな」という差別的な意識で見ることができると同時に、「けっこうこういうでたらめさがイケてるじゃない」という意味で提示されているようにも見える。
◆シャーロットが退屈してホテル内を歩いていると、コンフェランス・ルームのようなところで「ケリー・ストロング/ミッドナイト・ヴェロシティ・記者会見」というのをやっているのが見える。この手の「記者会見」では、低俗な質問のあと、花束贈呈とかスナップ撮影とかの馬鹿げた儀式がつづき、初めて来日したスターたちはびっくりすることが多いらしいが、ここでは、そういうところは描いてはいない。ただケリーが質問に答えているシーンだけで終る。オリコウなソフィア・コッポラは、映画業界を怒らせるような「危ない」批判はしない。
◆日本に外国から人を呼ぶと、招聘先の人がぴったりくっつき、行動スケジュールもばっちり組まれ、自由行動がとれないことが多い。ボブもその被害者の一人。CMの撮影だけで終りにしたかったボブは、テレビ出演を要請され、「エイジェントに言ってくれ」と逃れようとする。しばらくしてアメリカのエージェントから入った電話で、「日本のジョニー・カースンらしいから出た方がいい」と言われ、出演を受ける。が、行ってみると相手は、「マシュー南」(藤井隆)で、その超ナンセンスさにうんざりしてしまう。が、このへん面白いと思うのは、ソフィア・コッポラは、一面で、初来日のアメリカ人の多くが感じるであろう「当惑」や「軽蔑」をそのまま描きながら、同時に、彼や彼女らの反応に必ずしも賛同してはいない点だ。その意味では、藤井はホントに「日本のジョニー・カースン」になるかもしれない。
◆シャーロットとボブが、シャブシャブの店で食事するシーンがある。愛想のない女が肉と野菜の皿を持って来る。テーブルにはツユの沸き立つ鍋がある。食べるシーンはなく、終って出て来て、ボブが、「ひどい昼食だったね」と言う。「自分でつくらなけりゃならなかったんだから」。これは、普通の人には、シャブシャブを知らない「外人」の感想に聞こえるだろうが、シャブシャブとか手巻き寿司とか、とにかく自分で「調理」する要素を加えてそれを売りにしている料理が嫌いなわたしは2人の印象に賛同する。作るのなら全部自分で作りたい。
◆シャーロットもボブ・ハリスもバーでよくタバコを吸う。彼女の夫のジョンはタバコを嫌う。このへん、監督のソフィア・コッポラとしては、アメリカへの嫌みを込めてこういうシーンを撮ったにちがいない。アメリカでは、バーでもタバコが吸えなくなった。
◆文化に対して「原理主義」は通用しない。流行るものを肯定しなければならない。わたしは、シャーロットやボブが東京に感じる「違和感」に賛同するが、ソフィア・コッポラは、そういうものに文化の「新しさ」を感じており、またそういう「外国人」が増えている。わたしはいまでもカラオケは嫌いだが、それは世界に広まってしまった。わたしが嫌いであろうがなかろうが、日本の文化になってしまった。日本のポップ・カルチャーや都市文化を論じる者なら、カラオケを無視することはできなだろう。シャーロットとボブも渋谷かどこかでカラオケをやり、すっかり気に入ってしまうシーンがある。
(スペースFS汐留)



2004-02-10

●ピーター・パン (Peter Pan/2003/P.J. Hogan)(P. J. ホーガン)

Peter Pan
◆わたしは運命論者だ。会場まで10分ぐらい早く行っただけだったのに、1人しか来ていなかった。しばらくして10人ほどになったが、そのトップの女性がいきなり「うそ!」と叫んだ。ケータイで話している。どうやら場所をまちがえたらしいのだ。すぐにどこかへ去り、わたしがトップになってしまった。わたしは、基本的に一番乗りは嫌いである。が、そうなってしまったのには何か理由がある。今日はいいことがない。案の定、それは、上映寸前に起こった。隣は空いているし、ゆったり見れるなと思っていた矢先、左の隣の席に移動してきたひとがいる。見ると、それは、あの「右傾」氏ではないか。やばい。この人は試写ではフルツワモノの一人なのだが、なぜか上映中に体を右に傾けてくるのだ。結局、わたしは、2時間近く体を右に30度以上傾けるはめになった。
◆映画に没入できなかったのは、「右傾」氏のためだけではなく、この作品自体、わたしの感覚に合わないところがあったためだと思う。基本的にわたしは、「妖精」とか「天使」が出てくるものとか、「メールヘン」ものは嫌いだ。それと、「はいこれが英国風ですよ」といったこれみよがしのステレオタイプ的国柄誇示も嫌だ。オーストラリアの監督がアメリカの資本で作ったイギリスの物語(原作は言うまでもなく、ジェイムズ・マシュー・バリの戯曲・小説)。こういう場合、オーストラリアとアメリカの二重の思い入れが加わって「イギリス」性が強まる。だからかもしれないが、イギリスでは、現在、興業収益ベスト7位である。当たっているわけだ。ホーガンは、嫌いな監督ではない。『ベスト・フレンズ・ウェディング 』は面白かった。が、この映画はぜんぜんノレなかった。ただし、テクスチャーというか感覚が似ているので、『ロード・オブ・ザ・リング』が好きなひとにはいいかもしれない。
◆とはいえ、(これは、以下のノートを相当書いてからわかったのだが)ホーガンのピーター・パンのとらえかたはなかなか面白い。そして、ホーガンの「結婚」へのこだわりがこの映画にもひそかに挿入されていることに気づいた。これは、「ピータ・パン」論ではなく、女性論なのだ。
◆『ピーター・パン』のように色々な形で上映・上演・メタファー化されてきた物語をあえてふたたび取り上げるには、それなりの演出や切り口がいる。ホーガンの場合、それは、家庭と親子関係のようだ。また、ILMの技術を好きに使って『ピーター・パン』という物語の空想的な部分を思いきりありのまま映像化してみようということもあっただろう。映像的にはあまり新しさは感じられなかったが、既存の技術を存分に使ったという意味では「見事」な部類に属すると言えるだろう。
◆13歳の少女ウェンディ(レイチェル・ハード=ウッド)は、銀行員の父(ジェイソン・アイザックス)、母(オリビア・ウィリアムズ)、2人の弟、愛犬と暮らしている。両親は、ウェンディに大人になることをせがむ。ウェンディは、それには納得がいかない。それは、必ずしも、大人になりたくないからではない。このへん、ホーガンのユニークな解釈だと思うが、ウェンディには、彼女なりの「母性」があり、「恋人」であり「息子」であるような「男の子」を夢見ている。そして、それがピーター・パンという名で自分の「影」であり、「妖精」でもあるティンカー・ベル(リュディヴィーヌ・サニエ)をともなって姿をあらわす。ウェンディは、彼の案内で空を飛び、「ネバーランド」に行き、そこで出会う子供たちに「母」として慕われる。
◆この物語では、女はすべて「母性」を持った者としてとらえられている。娘の両親への反抗(「ネバーランド」への旅)は、自分のすでにある「母性」を認めてくれないことへの反抗でもある。母性をめぐる入れ子構造を表現するために、ホーガンは、母親役のオリビア・ウィリアムズのナレーションをベースに物語を進め、ある意味では、全体がこの母親の「夢」であるともとれる描き方をする。同時に、全体は、娘ウェンディの「夢」であり、また実際の「旅」でもあるともとれるように描く。
◆『ピーター・パン』は、「ピーター・パン症候群」でも有名になったように、永遠に大人になれない/ならない人物の話としてとらえられてきた。それが、肯定的にとられるときと、「ピーター・パン症候群」のように、困った現象として否定的にとらえられることもあった。が、この映画では、「永遠の少年」を求めるのは母性を持った女であり、そのことが主要なテーマになっている。
◆ホーガンは、『ミュリエルの結婚』(Muriel's Wedding/1994)でも『ベスト・フレンズ・ウェディング』でも、「結婚」にこだわった。女はどうして結婚するのか? 女の「母性」とは何か? こうして見ると、ピーター・パンという存在は、「母」を得ることが出来ない存在だとホーガンがとらえているらしいことが判明する。だから、「ネバーランド」からやってきた子供たちは、ウェンディの家で「母」を見つけ、幸せになる。おそらく、わたしがこの映画にノレなかったのは、映画の作りだけでなく、この――母性としての女の肯定という観点――だったのだろうと思う。娘に対する親の心配→娘がなかなか「母」になろうとしないこと(結婚する大人にならないこと)――しかし娘は、「わたしはちゃんと母としての資格を持ってますよ」ということを示し、親もそれを納得し、安心する。やはり、これは、わたしの趣味ではない。と同時に、母になれない女性が増えてくるはずのいまの時代に、こんな安心の仕方でいいのだろうかと思う とはいえ、こういうことを考えるきっかけを作ったのはこの映画だから、それは評価しなければならない。
(ヤマハホール)



2004-02-09

●ネコのミヌース (Minoes/2001/Vincent Bal)(フィンセント・バル)

Minoes
◆出発が遅れ、ぎりぎりの時間に会場に着いた。まだ前の席が空いていた。おそるおそる2列目にすべり込む。が、上手がいて、映画は始まってから、3人の女性がスクリーンに堂々と影をつくりながら最前列に座った。上映はビデオプロジェクターによるもの。字幕や輪郭ににじみが出る。映像も眠い。あとで配給会社の人に訊いたら、「ビデオじゃないですよ、フィルムです」という答えが返って来たが、それじゃ、天井で光っていたプロジェクターはなんだったのだろう? 元がビデオかとわたしが訊いたと思ったのかもしれない。むろん、元は、公開時非常に評判になり、いくつもの賞に輝くビスタサイズのフィルムである。
◆人間に突然変異してしまったネコという着想は原作のものだが、映画はこの着想を十二分に活かした。ネコ=人間ミヌース役のカリス・ファン・ハウテンがなかなかいい。犬に出会うと、とっさに木に登ってしまうのだが、この美しい細身の女性が木に登ったり、建物の屋根や窓のへりを渡り歩いたり、好物のイワシ(オランダの名物でもある)をむしゃむしゃ食べる姿が可笑しく、かつ愛らしい。ときにはセクシーだ。いつも着ているライム色のコートも似合っている。
◆ストーリーは単純。木に登っているミヌースと出会った新聞記者のティベ(テオ・マーセン)が、やがて彼女を助手に雇い、彼女のネコ・ネットワークを駆使して特ダネを次々に書く。大詰めは、消臭材で財をなした経営者エレメートの陰謀をあばくくだり。自分の工場を建てる認可を得るために、市長(シャーク・ヴィンテルセ)を買収しようとするが、その陰謀があばかれる。「動物愛護の会会長」も名ばかりであることがわかる。
◆わたしはネコを飼ってはいないが、ネコの表情が映り、そのネコがオランダ語(吹き替え版ではミヌース役を室井滋が吹き替えているという)をしゃべるとき、どうも、表情と言っていることとが合っていない気がする。むろん、ネコがこの映画で出てくるようなことを考えたり、ネコ語でしゃべるはずもないのだが、アニメなどとくらべると、その合わせ方が全く恣意的であるように見えた。
◆オランダ語には、喉チンコを使った独特の強烈な発音がある。メディア批評家のGeert Lovinkは、日本では「ヘアート・ロヴィンク」と表記されているが、本当の発音は「ヘ」ではなく、痰を吐き出すような「ハ/へ」である。映画のなかで細く美しいカリス・ファン・ハウテンが、この「ge」を強烈に発音するのを聴くと、オランダという国は非常に「どぎつい」文化の国なのだなと思ってしまう。実際、マリワナ、売春、安楽死の合法化は、「ge」の強烈な発音と無関係ではないだろう。
◆オランダには、ある種の「いいかげんさ」をたっとぶ文化もある。テイベはそれを体現している。
(映画美学校第2試写室)



2004-02-06

●スクール・オブ・ロック (The School of Rock/2003/Richard Linklater)(リチャード・リンクレイター)

The School of Rock
◆30分まえに行ったが、ロン・ハワードの『ミッシング』の上映がまだ終らず、20分ほど待たされる。そのあいだにロビーに立錐の余地がないほど人が集まる。この映画はけっこう前評判が高いみたい。ノイズの世界では超有名なジム・オルークが音楽コンサルタントになっているのも気になる。
◆期待をかきたてられすぎたので、見終った評価は、全体としては、中の上というところ。たしかに、主役のジャック・ブラックのほとんど地で行った演技はアカデミー賞ものであり、一見に値する。しかし、ここでも、最近のアメリカ映画に特徴的なモラリズムと「啓蒙」色が感じられるのだ。これがなく、『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』のノリだったら申し分なかった。
◆それにしても、ジャック・ブラックはすごい。彼の演技では、ジョン・キューザックと共演した『ハイ・フィディリティ』のオタクなレコード店員役とグウィネス・パルトロウと共演した『愛しのローズマリー』のファニーに愛すべきキャラクターがすばらしかったが、今回は、それらとも違ったキャラクターを演じている。
◆ミドルクラス以上の家の子供が通うエレメンタリー・スクールでデューン(ジャック・ブラック)が「教える」ことになったのは、全くの偶然だった。自分で作ったバンドを追い出され、同居している友人ネッド(マイク・ホワイト)とパティ(サラ・シルヴァーマン)に借金がたまっているデューンは、マイクがかつて非常勤をしていた小学校から呼び出しの電話がかかったとき、彼になりすまして出講してしまう。週650ドルという謝礼だけが目当てだった。教室で時間つぶしだけをしていたある日、生徒たちが楽器を演奏しているのを見て、急遽ふるいたつ。ロックを教えよう!
◆親の目を気にして安全路線ばかりを選ぶ学校(日本もそうなってきた)。親と教育理念とのあいだで引き裂かれ、鬱積している校長役を演じるジョーン・キューザックがうまい。そういう学校では、好きなことをやれば罰せられるから、クラス委員のサマー(ミランダ・コスグローヴ)のようにただオリコウぶるか、ザック(ジョーイ・ゲイドス・ジュニア)のように斜めに構えるか、中国系のおとなしいローレンス(ロバート・ツァイ)や黒人のトミカ(マリアム・ハッサン)のように、実力はあるのに自分を試すチャンスをあたえられないために自分に自信をもてない子のままでいるか、いつもMacをはなさないゴードン(ザッカリー・インファント)のように自分の世界にこもるしかない。
◆デューンが、こうした生徒たちにロックを教えようと思い立ったのには、彼や彼女を使って新しいバンドを組み、自分を追い出した連中を見返してやろうという魂胆もあった。しかし、彼のなかに生粋の教師根性のようなものがなかったら、こういうことはしなかっただろう。彼は、生徒たちがロックに興味を持つと知るや、家からギター、キーボード、音響機材一式をバンに積み込んで登校し、学生に貸しあたえる。宿題と称して生徒の一人一人に彼や彼女の学ぶべきCDを1枚づつ渡すが、これらもみなデューンの自前だ。このへんは、紙の1枚まで何でも学校から提供してもらおうとして自腹を切らないいまの教員たちが反省すべきところだろう。わたしも大学で変なことばかり「教えて」いるが、機材も時間も場所も大学にはあまり期待しないことにしている。
◆バンドリーダーだけあって、デューンの「人事」は堂に行っている。オリコウなサマーをマネージャーにし、ピアノが弾けるローレンスにはキーボード、パンク的素質のあるザックにはギターをそれぞれあたえる。残りはセキュリティと雑用係。それらの重要性を説得するのも巧み。そうするなかで、コンピュータに強いゴードンは、ロックばかりやっている自分らの教室が校長に見つからないように廊下にUワイヤレスの監視カメラを付け、それをMacにつなぐ。クライマックスの学外コンサートでは、そのMacでVJをやり、照明も担当する。最初は、セキュリティや裏方をやることになっていた生徒のなかから意外な才能があらわれたりもする。トミカは、ブルース感覚のあるすごい歌い手だった。内気でそれを見せなかっただけだ。彼女が自信を失うと、デューンは、「きみは、マヘリア・ジャクソンじゃないか」と力づける。
◆ロックやパンクをあがめる割りに「健康」すぎるきらいはあるが、組織に埋もれかかっている生徒、「女」を捨てていた校長、そして「良識」を疑わなかった親たちの心をつかのまであれ解放させるトリックスター的な人物を目のあたりにするのは悪くない。こちらもいっとき解放された気になる。また、この映画は、「泣き」よりも笑いを引き起こすという点でも、最近のハリウッドもののなかでは異色だと言える。
◆エンド・クレジットが工夫しており、ここで出演者が紹介されながらその演奏が聴ける。演奏としは、クライックスの演奏よりはるかにいい。おまけにしてはもったいない。
(UIP試写室)



2004-02-05

●ハッピー・フライト (View from the Top/2003/Bruno Barreto)(ブルーノ・バレット)

View from the Top
◆あまりお客は多くない。いやな予感。カフェ・アキラでコーヒーを飲んでから来てもよかったと後悔する。
◆ハリウッド映画の「啓蒙」臭のつよい作品。ハリウッドには、悩みを持った主人公の変化と成長を描いた「ビルドゥングス・ロマン」(このドイツ語は通常「教養小説」と訳されるが、「ビルドゥング」とは形成・成長という意味だ)の系列がある。それが、ある種の「人生相談」的役割をしたり、ソフトなプロパガンダになったりもする。この映画も、ド田舎で生まれ、育ち、貧しい故郷に住むことに何の魅力も感じていない女性ドナ(グウィネス・パルトロウ)が、テレビで見たサリー・ウェストンという有名人(キャンディス・バーゲン)にあこがれ、スチワーデスになろうと決心し、サリーの自伝『My Life in the Sky』をバイブルにしてに夢を実現していく話。その過程にさまざな出会い、愛、悩み、決心等々があり、観客は彼女に同化して、自分の人生を照らしてうなずいたり、そうかと思ったりするといったあんばい。もし、最初から(たとえば)パルトロウが嫌いだとか、スチュワーデスなんかに興味がないと思う人は、その同化ができないから、全然面白くも可笑しくもないかもしれない。
◆こういう映画を見ると、アメリカ人というのは単純だなと思いがちだが、それは、日本のテレビを見て、日本人というのはいつもゲラゲラ笑い、ものを食べるのが好きな国民だと思うのと同様、間違いである。人間は、内側から見れば、みな複雑で「特異性」に満ちているはずだが、ただ、こういうことは言えるだろう――アメリカ人は、わかりやすくて単純なキャラクターの出るドラマを好むと。それをもってアメリカ人が単純だと速断するのは短絡で、超複雑だからこそ、単純なものを好むかもしれない。事実、日本人はテレビでは笑っていても、街頭や電車のなかでは苦虫をかみつぶしたような顔をしているではないか。
◆俳優はぜいたくだ。キャンディス・バーゲンは、スチュワーデスから身を起こし、国際線で勤務中に富豪にみそめられ、いまでは豪邸で悠々自適な生活をしながら、航空界に隠然たる力を持つスーパーウーマンを演じる。航空会社のスチュワーデス指導官ジョン役でマイク・マイヤーズが出て来たときは目を疑った。ジョンは、スチュワードの試験で首席だったが、目が斜視のために飛行機に乗れなかったという過去を持つ。マイク・マイヤーズらしいギャグが見れるが、なんか場違いという感じ。心が高ぶったとき、耳元で鐘を鳴らすと落ち着くというギャグはいただけない。
◆最近のアメリカ映画は、モラリズムの傾向がある。『卒業の朝』もそうだった。この映画でも、スチュワーデスの試験で、最優秀だったはずのドナの答案をすり替えて国際線勤務になったクリスティーン(クリスティナ・アップルゲイト)が手痛い仕打ちを受ける。彼女は、機内でサービスされるミニボトルなどをくすねる趣味もあった。そういうことが面白おかしく描かれるのは、もはやダメなのだ。通勤列車的な国内線勤務に配置され、どうもおかしいと思ったドナが、サリーに「直訴」して、再調査が行われ、クリスティーンの一件が明るみに出る。このあたり、しっかりした人脈をつかむと事の運びが速いというアメリカ事情はなかなかよく描かれている。
◆急遽、ニューヨーク→←パリ間の国際線ファースト・クラス勤務になったドナは、ヤッたぁ!という喜びと裏腹に、淋しさが訪れる(この日本語おかしいかな?)。彼女は、国内線勤務のとき、クリーブランドで弁護士の卵のテッド(マーク・ラファロ)を愛するようになる。彼の家のクリスマス・パーティに招かれ、「喧嘩してどなりあいばかりしている(彼女の家庭はそうだった)のでない家庭がある」ということを実感する。彼女は、国際線のファーストクラスのスチュワーデスというステイタスのためにテッドと別れた。しかし、往復のあいまに訪れるニューヨークやパリは、リッチな気分を味わせてくれるが、クリスマスの時期たった一人で過ごすニューヨークやパリは、淋しさをつのらせる。この時期には、人々は、家族や親しい友人・恋人たちと過ごすのが普通だからだ。ちなみに、この時期の人恋しさをテーマにした゚ュ脱な作品が、『ラブ・アクチュアリー』である。
◆そういうときどうするか? 友達に相談するという手もあるが、上昇指向で進んできた彼女にはそういう友はいない。そうなると、相談するのは、いるとすれば、先輩しかいない。サリーのご登場である。このあたりに、いまのアメリカの傾向が若干出ているかもしれない。競争主義で友は少なく、助けてくれる人がいるとすれば、親か先輩しかいないのだ。しかし、映画でタイミングよく先輩が助けてくれるということは、現実にはそういうことがマレだということかもしれない。ハリウッド映画は夢を描くから。
◆どのようにしてスチュワーデスになるかということを描いた映画はあまり多くないと思う。わたしは初めて見た。しかし、スチュワーデスの仕事は、この映画で描かれているほど楽ではない。わたし自身、飛行機に乗って、飲み物や食事を配り、片づける彼女らを見るにつけ、自分が女だったら、絶対にあんな職業は選ばないだろうし、まず体力がもたないと思うのがつねだ。
(ギャガ試写室)



2004-02-04

●アフガン零年 OSAMA (Osama/2003/Siddiq Barmak)(セディク・バルマク)

Osama
◆連日同じ会場に来ていることになるが、映画が始まってから、最前列に座っていた女性が、軽い「悲鳴」を上げて、後ろの席に移った。この会場は、部屋の広さの割りにスクリーンが大きく、最前列だと遠視のメガネでもかけないと見れない。スクリーンから直接はねかえる光の粒を浴びるのが好きなわたしでも第2列に座る。
◆トップに「NHK」という文字が出てきたのでヤバイと思ってしまう。むろん偏見である。「Paramount」だって「BBC」だって同じなのだが、「NHK」といういうと、「安全弁」がかまされているのではないかという先入観をいだいてしまうのだ。わたしの悪い癖。ちなみに、この映画の制作にNHKが金を出している。
◆映画は、アメリカとイギリスによる攻撃でタリバン政権が崩壊した後に作られた。そのせいか、行動を起こさせる批判であるよりも、「ひどいなぁ」と感傷的になるだけの「メロドラマ」的な印象を与えるにとどまっているような気がする。出演者が抜群にうまいのも、そういう効果を倍加している。これは皮肉だ。タリバン政権下の状況の緊迫感が、サスペンス的(劇映画的)で、たとえば、アフガンのことも関わってくる『ブラックボード――背負う人』、『少女の髪どめ』、『わが故郷の歌』などにはある荒削りな緊迫感がない。
◆最初の部分は、西側のジャーナリストがDVカメラで撮り、タリバン兵に逮捕されたという設定の撮り方をしている(そのジャーナリストが処刑されるシーンが後半にある)。カブールの街角で香屋(香の煙の立つ容器を持ち、お客がいればそれを振り回して匂いをつけ、謝礼をもらう)の少年(モハマド・アリフ・ヘラーティ)が生き生きと描かれている。仕事を要求する女性たちのデモのシーンもいい。しかし、カメラが兵士によって地面にたたきつけられたらしいシーンのあと、「客観描写」に変わる。以後、カメラは、タリバンの目を逃れるために男装した一人の少女(マリナ・ゴルバハーリ)の運命を追う。
◆戦争で男手をすべて失った家族。老いた祖母、母はまだ少女の働きに頼るしかない。母(ゾベイダ・サハール)は、泣く泣く娘の髪を切り、男装をさせ、ミルク屋で働いてもらう。謝礼はパン1枚といったところ。タリバン政権下では、身内の男性の同伴なしに女性が外出することができなかった。見つかるのをおびえながら、街を歩く少女の姿が痛々しい。
◆それから(どういう時間的経緯なのかわからないのだが)娘は、街の「マドラサ」(宗教学校)に入れられる。タリバンの下では、強制的に男は兵士にされ、「由緒のあやしい」女は牢に入れられたらしい。男の子は「マドラサ」でイスラム原理主義を叩き込まれる。男であることがバレそうになる彼女をかばう香屋の少年との切ないドラマが泣かせる。が、結局は、女性であることが知れ、牢に入れられる。
◆宗教裁判のいいかげんさが描かれるが、観客としては、その真偽を判断する手だてがない。石打ちの刑に遭う者もいる。彼女は、あぶないところで金持ち(と思われる)老人に助けられる。彼が、娘との結婚を「老師」から許してもらうという形で彼女を買い取ったのだ。が、彼は大きな家に何人も女たちを囲っている。それは、非常にグロテスクな形で描かれる。しかし、これは、西側の視点かもしれない。一夫多妻制そのものがグロテスクなわけではないからだ。それが、女性の人権を無視しているという視点に立てば、そこでどんな関係がもたれようと、その姿は「グロテスク」に映る。
◆監督のバルマクは、抵抗や活動の映画人ではなく、アメリカ的な「自由主義者」なのではなかろうか? 彼は、1962年にアフガニスタン北部で生まれたが、1981年に優秀な5人の留学生の一人に選ばれ、ソ連のモスクワに6年間留学した。アフガニスタンは、1979年以後ソ連の支配を受けるが、彼は、その支配的な流れには反抗しなかったわけだ。しかし、1987年に帰国後、アフガニスタンではすでにアメリカの軍事援助のもとで反ソのムジャヒディンが台頭しつつあったが、バルマクは、ムジャヒディン支持に傾く。そして、1989年にソ連軍が撤退するが、その間に、バルマクは、「アフガン・フィルム」の代表者になる。しかし、1991年にアメリカがムジャヒディンへの軍事援助を停止すると、内部抗争が激化して、そのなかからタリバンが台頭してくる。1996年のタリバンによってカブールが陥落すると、バルマクは、パキスタンに亡命する。むろん、もっと複雑で屈折した経歴があるはずだが、一見して、彼は、アメリカに生まれていればよかったような監督であるように見える。 いずれはアメリカで映画を撮るようになるかもしれない。
(松竹試写室)



2004-02-02

●純愛中毒 (Addicted/Jungdok/2002/Young-hoon Park)(パク・ヨンフン)
Addicted
◆あっというまに2月になった。今月は先月よりも若干多く試写を見れるはずだが、2月は「小物」が多い。他方、このページへのアクセスが増えつづけているので、この機会にサーバーの整備をしようと思う。ウエブサーバーの場合、ハードディスクを速いものにしてやると、その変化が体感できるくらい速くなる。このサーバーは、開設時の1995年には、5,400rpmのハードディスク (SCSI) を使っていた。それを7,200rpmにしたのが1996年。たったの2GBの容量のものが10万円以上もしたが、苦労して交換しただけのことはあった。しかし、今度交換しようと思っているやつは、15,000rpmである。しかも、容量18GBで2万円ちょっと。これにしない手はないだろう。乞うご期待。
◆おしゃれな西欧風の住宅、西欧風のライフスタイルを身につけた、いわば「コリアン・ヤッピー」の兄弟とその兄の妻の3人のドラマ。韓国の経済発展を考えれば、「ヤッピー」が登場する映画が作られても不思議ではない。『殺人の追憶』でも、80年代以後の生活の変化を読み取ることができるし、『4人の食卓』の主人公は、事実上「ヤッピー」である。が、「現代」を描いている『4人の食卓』では、そのすきますきまに「前近代」がかいま見えた。それが、この『純愛中毒』では、全くない(あっても最後に否定される!)のが面白い。
◆ホジン(イ・オル)とテジン(イ・ビョンホン)は仲のよい兄弟のように見える。彼らは、ホジンの妻ウンス(イ・ミヨン)と郊外の西洋風の家にいっしょに暮らしている。ホジンは、「家具アーティスト」、テジンは、レーサー、ウンスは、コンサート・プランナーだ。ウンスの部屋にある化粧品は クリスチャン・ディオールのFahrenheit。モダンな西洋式のバスルーム。食事は(見たところ)韓国料理ではなく、エコロジカルなオーガニック・フードのよう。renomaのブランドの入ったエプロンを着たホジンがみずから、オープンキッチンのテーブルで野菜をきざむ。食後は、庭の東屋的空間でくつろぎ、ビールを飲む。銘柄はバドワイザー。近々開かれる個展についてインタヴューされたホジンは、「マルセル・デュシャンのように日常見慣れたものを使います」と答える。ホジンとウンスがアトリエで発作的に愛し合うやりかたは、まさにハリウッド映画を地でいったよう。都心にあるウンスのオフィスは、パーティッションで仕切られ、テーブルの上にはパソコンと家族の写真が飾られている。これも完璧にアメリカン。
◆すべてうまくいっているように見えた3人のあいだに激変が起きる。テジンのレースの日、それを見に会場に急ぐホジンのタクシーがトラックに激突する。奇しくも、同じ時刻に、テジンは他のレーシングカーと致命的な衝突事故を起こす。
◆ホジンの乗ったタクシーの運転手が、急ぐというので、いきなりアクセルを踏むシーンが面白い。ちょい役だが、光る存在だった。なお、もう一つ面白いと思ったのは、行き先を訊くとき、この運転手がばっちり後ろを向き、相手の目を見て受け答えをするところ。これは、西欧ではあたりまえだが、日本ではマレ。相手の目を見ないのが日本の習慣だからだ。韓国は違うのだろう。あるいは、ここも「西洋」式に演出されているのか?
◆1年近く昏睡状態を続けたテジンは、ある日、『キル・ビル』のユマ・サーマンのようにベットからむっくり起き出す。ウンスのもとに帰ってきた彼は、それから奇妙な行動に出る。彼は、自分がホジンだと言い、実際にホジンがやっていたことをそのまま踏襲したかのように行動する。ホジンは、いつも、バスルームで、ウンスの歯ブラシに歯磨きペーストをつけておいてくれるのだが、テジンも同じことをする。雨の日、ホジンは地下鉄駅に傘を持って迎えに来てくれたが、ある雨の日、駅で傘を持ったテジンを発見してウンスの心は揺れる。
◆この原因について、医者は、「憑依」(ひょうい)という概念で説明する。詳しい話は出ないが、この言葉は、たしかに韓国文化と深い関係がある。話は飛ぶが、夭折した演劇研究者の小刈米けん(「日」偏に「見」――表記不可)の主著に『憑依と仮面』(せりか書房)があったが、彼は、朝鮮の伝統演劇における仮面と、朝鮮半島の霊能者の研究に触発されてこの演劇論を書いた。『殺人の追憶』にも『4人の食卓』にも、「霊媒師」が出てくるが、「巫女」はもともと「憑依者」であり、日本の「卑弥呼」も、そういう朝鮮半島の伝統と関係があると考えられる。
◆しかし、映画は必ずしもこの流れでは終らないところが面白い。結末は明かせないのだが、監督は、意図的に「現代」の韓国人、しかもヤッピー的なミドルクラスに焦点を当てたかったのだろう。韓国にももう「前近代」はない? (松竹試写室)


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