粉川哲夫の【シネマノート】
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2008-10-31

●ホルテンさんのはじめての冒険(O' Horten/2007/Bent Hamer)(ベント・ハーメル)  

O' Horten/2007
◆そこはかとなくおかしいのは、『キッチン・ストーリー』に共通する。ちがうのは、体制や組織への皮肉や批判は背景にしりぞき、67歳の定年まじかの老人の内的な意識を描写しているところか。全体が、老人のややボケた(ここがミソ)モノローグのような映像と展開である。オッド・ホルテン(ボード・オーヴェ)は、ノルウェイのオスロとベルゲン間の長距離列車の運転手を40年間勤めてきた。オスロの線路端の宿舎で朝早く起き、弁当を作って出かける。ベルゲンに着くと、決まった民宿に泊まる。その宿の女主人スヴェア(ヘンニー・モーアン)も歳をとった。彼はどうやら彼女が好きらしい。彼は、宿舎で一人暮らしをしている。老人ホームにいる認知症の母を訪ねるシーンがある。二人のあいだに何かがありそうだが、それは想像するしかない。
◆ホルテンには、母に負い目がある。自分がしたように、息子にもスキージャンプをしてもらいたいという母親の願望を満たせず、スキージャンプを恐がってしなかった自分に罪の意識を感じているらしい。父親は彼がもの心ついたことには家を出て行き、母親に育てられた。そういう母親の期待にこたえられなかったことがホルテンの負い目になっている。
◆しかし、この映画は、そんなことをうじうじと描くわけではない。全体は、この人物の表情のようにのほほんとしており、にもかかわらず、存在の奥深くに食い込むようなユーモアがある。ホルテンの最後の勤めの前夜、上司と同僚がレストランに集まり、送別会をしてくれる。しかし、同僚のアパートで2次会をすることになり、入口の入り方を教わってタバコを買いに行き、もどって入口の暗証番号をインプットするがドアが開かない。仕方なく、たまたま工事中でかかって いた建築工事用の足場に伝わって窓から階上に入り込む。しかし、その見知らぬ家のアパートで子供に見つかってしまい、目的のアパートへは行けない。闖入者を恐れない子供。夢のなかから現れた老人のような感覚。この感覚は、ホルテンの感覚でもあり、またこの映画のとぼけた雰囲気でもある。
◆行きつけのレストランで「今日は寒くなる」という話題が出たあと、外に出ると、通行人がスケートをしているかのように路上を滑って通過する。こういうシュールな描写が突然混じりこむのが、この作品のスタイルだ。それは、シュールなのだが、見る者の多様な解釈を可能にする。
◆ホルテンは、定年後の生活を悲観的には考えてはいないように見えるが、必ずしみそうではない。悲しみや淋しさもあるだろうが、映画は、それらをユーモラスなエピソードのなかで観客が自由に思い描く形で示唆するだけだ。表面的に見ると、この老人はそのときどきの出来事の流れに身をまかせて愉快な時間を過ごしているようにも見える。が、同時に、見方を替えると、北欧の冬の厳しい気候のなかに一人取り残されたまま浮遊しているかのような孤独がただよってくる。
◆極寒の路上に酔っ払って寝ている老人シッセネール(エスペン・ションバルグ)との出会いもおかしく、かつ悲しい。ホルテンがこの老人を起こし、家に連れて行き、そのまま泊まることをすすめられる。翌朝彼は、ドライブに誘われるが、「発明家」だと称するこの老人は、車を目隠ししたままでも運転できると称して、ホルテンをドライブにさそう。その結末は、老人にはこういう生き方もあるんだなともとれるし、老人たちはみな自分流に生(と死)を演出しているのだなとも取れる。もっとほかの解釈もあるだろう。ユーモラスなエピソードを散りばめながら、この映画は、けっこう奥が深い。
◆最後の方のシーンで、ホルテンがジャンプ台がから跳ぶのをどう解釈するかは見る者によって異なる。彼は、(おそらく半世紀もたって)母親の期待にこたえるかのようにジャンプ台に立つのだが、この年令の老人が(おそらく)はじめてそんなことをしたらどうなるかを考えると、彼は、自分の余生に決着をつけたのかなとも思う。しかし、映画は、あの下宿の女性スヴェアと新生活を始めたらしいシーンで終わる。が、それは、ジャンプ台から離陸した限られた時間のなかでホルテンが見た「夢」かもしれないし、無事ジャンプを終えたあとのことかもしれないのである。
(シネマート銀座試写室/ロングライド)



2008-10-30

●1408号室(1408/2007/Mikael Håfström)(ミカエル・ハフストローム)  

1408/2007
◆映画は、重苦しい音楽と雨のシーンから始まる。異常現象の起こるホテルを取材し、本を書いている作家マイク・エンズリン(ジョーン・キューザック)が、ニューヨークにあるドルフィンというホテルの1408号室で経験する恐怖のスリラー。原作はご存知スティーヴン・キング。キングの原作の映画化は、奥行きのあるものとただのホラーにすぎないもとのがあるが、本作はどちらかというと後者。ただし、ディテールがけっこう凝っていて細かいところに注意すると別の楽しみがある。最初の方に、すべてが、マイクがサーフィンをしていて溺れて気を失っていたときの夢だったかのように受け取れもする布石もある。砂浜に倒れている彼の目に、上空を飛んでいる飛行機の広告の吹流しに「自動車保険1・LOW・FEE・1408」(後出の「ドルフィン・ホテル」の部屋の番号)という文字も見える。ある意味ですべてが思わせぶりなつくりである。
◆スタイルとしては、「夢/幻想/脅迫観念」と「現実」とのあいだをこれでもか、これでもかと切り替えて話を込み入らせるが、そこから不可解さが極度に高まっていくという感じはない。「夢/幻想/脅迫観念」と「現実」との向こう側にあるものをかいま見させるわけでもない。
◆最初の方で、マイクがどういう人物かを紹介するショットが短いカットで映る。その一つは、彼が招待された書店での「著者が語る」イヴェント。近年、日本でも流行りだが、マイクを招いた書店の準備はいいかげん。『10 Haunted Hotels』(幽霊ホテル10)という新刊が出て書店まわりをしているらしいが、この書店では、彼が到着してから店内放送をして客をあつめる。したがって集まった客はたったの4人。そのうちの一人は、彼の処女作の初版本を持っているといった喜びはあるが、なんとも淋しいイヴェントだ。
◆マイクが「ドルフィン・ホテル」の1408号室のことを知ったのは、「入るな」とだけ手書きで書かれたそのホテルの絵葉書を受け取ったからだった。ネタになると直感した彼は、早速予約の電話を入れるがそっけなく断られる。そうなると、彼としては、是が非でも泊まってやろうということになる。何度も断られたあげく、現地におもむき、マネージャー(サミュエル・L・ジャクソン)に直談判することになる。意味ありげな目つきのあのジャクソンだから、魂胆ありげなマネージャー役にはうってつけだ。1408号室で起こった数々の悲惨で怪奇な出来事(これまでに56人が死んだ)を聞かされ、かえって元気づくマイクだが、宿泊をしぶしぶ受け入れたマネージャーは、「ではお手並み拝見」といった表情とともに、「ならいっちょうもんでやろうか」といった挑発的な素振りも感じさせる。実際、それからマイクにふりかかることは、超常現象とも、それともマネージャー一味の陰謀/悪ふざけなのかわからない感じで展開する。
◆最後のシーンを見るかぎりでは、マイクは、57人目の「1408号室」の犠牲者になるように見える。しかし、その代わり、彼は、死んだ娘と再会する。映画では暗示されるだけだが、病気の娘を助けることができなかったというマイクの罪責感があり、それが妻(メアリー・マコーマック)との断絶の原因にもなったらしい。また、実父のめんどうを見れなかったという負い目もある(養老院の父を訪ねるシーン)。そうした罪責感が生んだオブセッションというわけだが、もっと効果的な描き方があったと思わせる作品。
◆最近のハリウッド映画にしてはシガレットを吸うシーンが多い。ただし、喫煙するマイクは、ポジティヴな存在ではない。
(ショウゲート試写室/ムービーアイ)



2008-10-29_2
●ロルナの祈り(Silence de Lorna/2008/Jean-Pierre Dardenne/Luc Dardenne)(ジャン=ピエール&リュック・ダンデルヌ)  

Silence de Lorna/2008/Jean-Pierre Dardenne/Luc Dardenne
◆『スポーツ報知』で書いているコラムでわたしは、次のように書いた――闇で横行する永住ビザ取得のための偽装結婚ビジネスの描写は甘いが、屈折したラブストーリとしてはユニーク。が、女が所詮は不可解な存在として描かれているのは監督が男2人だからか?
◆すぐに死ぬ可能性のあるような者と結婚させ、次々に偽装結婚を転がしていく偽装結婚ビジネスの世界が描かれるが、そういう社会批判的なことがこの映画のメインではない。そういう環境のなかで生まれた屈折したラブストーリとして見た方がすっきりする。
◆偽装結婚は、この映画の文脈では、市民権や永住ビザを必要としている者が、それをあつかう闇の業者に金を払い、相手を紹介してもらって、「結婚」をするというパターンを踏む。その場合、両方とも目的が一致している場合もあるが、この映画が描くロルナ(アルタ・ドブロシ)が「結婚」する相手のクローディ(ジェレミー・レニエ)は、麻薬中毒患者であり、いずれ病院入りになるか、あるいは死ぬかすることが想定されている。中毒がひどくなれば、家内暴力がひどくなったとかいう理由で「離婚」を正当化させ、離婚する。が、「結婚」によって得られた永住権は奪われない。この映画では、偽装結婚斡旋業者のファビオ(フィリップリツィオ・ロンゾーネ)は、商売だから、もっとしたたかなことを考えている。もし、ロルナの「離婚」が成立したら、今度は別の客と「結婚」させ、マージンを取ろうというわけだ。「客」がいつ使い捨てにされるかもしれないこういう商売の非情なやり口をエスカレートさせたら、面白い作品になるだろうが、この映画は、そういう方向には進まない。こういう状況のなかで追いつめられたクローディとロルナの関係が描かれる。
◆ロルナは、最初、ファビオの手口を承知でこのビジネスを利用したはずだが、クローディが彼女を頼りはじめると、彼を捨てられなくなる。この映画は、そういうじらしをだらだらと描く。しかし、ロルナを見る目は、男性監督の目で、「女とはこういうものだ」という先入観で見ているような気がする。それは、決して過剰ではないが、女の側から見ると、ロルナがそれまでの抑制と距離をあっさり脱ぎ捨てて、クローディと寝てしまうのは、いかにも「男」が見た「女」の性にすぎないような気がする。ロルナが離れると、一旦やめた薬をまたはじめようとするクローディを止めるためにそうしたという設定なのだろうが、何か「女って、単純だね」という気がしないでもない。
◆ロルナが「妊娠」したのか、それとも想像妊娠なのかをあいまいにした終り方は、クローディへの彼女の負い目の屈折にはふさわしいかもしれないが、別にそういうひねりを加えなくてもよかったような気がする。「・・・気がする」を多様したが、どこかすっきりしないところが不満を残す作品なのである。
(京橋テアトル試写室/ビターズ・エンド)



2008-10-9_1
●その男 ヴァン・ダム (JCVD/2008/Mabrouk El Mechri)(マルブク・メクリ)  


◆これは、洒脱。うまい。楽しめる。主役のジャン=クロード・ヴァン・ダム本人の「イメージ」(あくまでも世間に知られている)を楽屋落ち風にうまく織り込みながら、彼の十八番(おはこ)のアクションを披露し、かつ、お定まりの家庭トラブルにまつわる娘への呵責といった「人間ドラマ」も加味する。しかも、ちゃんとマスメディアとそれに踊らされる「大衆」をやんわり揶揄し、そのなかを泳いでいる彼自身へも自嘲の距離を取る。なんか、ヴァン・ダムが、「俺は体張ってるだけの役者じゃないよ」と表明するために作らせたプロモーション映画の感じもあるが、実際にそうであることを証明する。
◆J.C.V.D.は「ジャン=クロード・ヴァン・ダム」の略であることは言うまでもないが、それを登場人物の名にし、タイトルは点なしの「JCVD」にしている。
◆ジョン・ウーやスティーヴン・セガールへの揶揄もあり、笑わせる。
◆冒頭に、「俳優」J.C.V.D.が映画のなかの「映画」でアクションシーンを見せるシーンがあるが、このシーンは、一番最後に撮影されたという。危険がともなうので、もし怪我をしたら、撮影のスケジュールが狂うからだ。
◆脚本はあるが、ヴァン・ダムのアドリブが全体の30%程度入っているという。最初の方のタクシーの運転手との会話はすべてアドリブだという。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2008-10-23

●寝取られ男のラブ・バカンス (Forgetting Sarah Marshall/2008/Nicholas Stoller)(ニコラス・ストーラー)  

Forgetting Sarah Marshall/2008
◆『無ケーカクの命中男』と二本立てで上映されるが、1本だけ見ても悪くない。ミュージシャンのピーター(ジェイソン・シーゲル)は、テレビ女優のサラ・マーシャル(クリスティン・ベル)とマスコミでも話題になったラブラブの関係だが、捨てられてしまう。傷心をいやすため、ハワイにやってくると、サラが新しい恋人のロック歌手、アルダス(ラッセル・ブランド)と同じホテルに泊まっている。かえって落ち込むピーターだが、ホテルのフロント係のレイチェル(ミラ・クニス)のスィートさに惹かれて行く。当然そこにいくつかの障害が置き、二人は引き離され、他方レイチェルも元のサヤに納まろうとする顛末などもあって、ロマンティック・コメディの常道パターン(非常に常道的なので、ロマンティック・コメディのパターンを研究するのには役立つくらい)が展開する。他愛がないことはたしかだが、3枚目を演じるジェイソン・シーゲルのほろ苦いおかしさと、ミラ・クニスがただよわせる謎めいた魅力で、見終わって損した感じはしない。
◆オバマの登場から、ハワイを舞台にした映画が増えつつあるのではないか? 原題は、「サラを忘れて」ないしは「サラなんか忘れること」といった意味だが、サラという女性は上昇志向の典型的な「アメリカ女」で、いま、こういうタイプに対して、レイチェルのようなタイプへ世の中の動向が移り始めている。
◆シーゲルの下半身が、象徴的に使われているのはおかしい。1度目は、シャワーを浴びてバスタオルを巻いたままの彼のまえにクリスティン・ベルが姿をあらわし、彼との関係の終わりを告げる。ショックでおさえていたタオルが床にずり落ちる。2度目は、もうダメになったと思っていた彼が、楽屋で服を脱ぎ替えようとスッ裸になる(よく裸になる)と、そこへ、ミラ・クニスが入ってくる。2度ある露出の意味を変えているのが笑わせる。
◆「典型」で作っていることはたしかで、たとえば、シーゲルがMacBookでビデオフォンをやるとき、その画面が映画と同じレゾルーションの鮮明さ(つまりその絵ははめ込みだということ)とか、ホテルのレストランで「日本人」を想定したカップルが写真を撮っているのをことさらに映したりするシーンがある。その程度の映画だと思って見れば気にはならない。
(東宝東和試写室/東宝東和)



2008-10-22

●少年メリケンサック (Shonen Merikensack/2008/Kudo Kankuro)(宮藤官九郎)タイトル  

Shonen Merikensack/2008
◆宮藤官九郎の脚本・監督による期待の最新作。パンクバンドをとりあげたのはいいセンス。いままた雰囲気はパンクになりつつあるのか? まあ、それは無理だろうが、「癒し系」なんか死んじまえという感じには共感する。宮崎あおいが猛烈いい。佐藤浩市がパンクのなれの果てをぶっ飛んで演じている。田口トモロウも、ふだんの彼の深刻めいたキャラクターを完全にぶち壊して痛快。
◆最初の方でわが遠藤ミチロウがちらりと顔を出し、パンクとは何かについてコメントしていたので、これはいけるかなと思った。ドラマのなかでも、居酒屋の従業員を演っていた。この映画、遠藤ミチロウの「ザ・スターリン」や仲野茂らの「アナーキー」のエピソードをけっこう使っている。
◆どのみちいま会社で上の方にいる人は、若いときにどこかでパンクに惹かれたか入れ込んだ経歴を持つ。レコード会社の取締役社長・時田(ユースケ・サンタマリア)も例外ではない。彼の下で働く栗田かんな(宮崎あおい)は、「新人」を発掘しろという命令で、ネットを探しまくったすえ、「少年メリケンサック」というバンドの名と写真に行き当たる。そこには「1983」という文字があったのだが、彼女は、それを写真に写っているリードボーカルのアキオの生まれ年だと思い込んだ。が、実は、それは1983年のライブの写真だった。
◆高円寺の飲み屋の2階で飲みつぶれている元パンカロッカーのアキオを佐藤浩市が演じる。このひと、『ザ・マジックアワー』、『闇の子供たち』、『釣りバカ日誌19』、『誰も守ってくれない』と最近出づぱりだが、本作はなかでも気を入れている役柄で、ギターもマスターしたという。この「人でなし」の兄と確執がある弟を演じる木村祐一は、矛盾をウっと胸に飲み込んでしまう人物を演じ、はじめて彼に合った役柄を演じたという感じ。こういうやや「暗め」の役の方が木村にはいいのではないかと、わたしはかねがね思っていた。演奏中の事故で口がきけなくなったという神話のジミーを演じる田口トモロウも、ふだんの嫌味な「教師」タイプが似合うのとは全くちがう顔を見せる。栗田かんなの恋人役で、「癒し系」の男を演じ、ぐたぐたもったいぶってないで早くぶっ壊れた方がいいんじゃないの、と思っていたら、最後に頭をモヒカン刈りにしてめでたくパンク入り。
◆1970年生まれの宮藤官九郎は、「ザ・スターリン」や「アナーキー」をリアルタイムで見ていたはずだ。わたしが、1989年に遠藤ミチロウと期末試験をパロディ化する「コンサート」を和光大学で仕掛けたとき、高校生のミチロウファンも来ていた。そのころ彼のマネージャーをやっていたミーナは、中学生の時代からミチロウのおっかけをやっていた。いつの時代にも、あとから見直すと、「もうああいう時代はない」と思われるような面白いことがあるのだから、別に70年代や80年代を特別視する必要はないわけだが、少なくとも、あの時代にはあっていまの時代にはないと言えることは確実にある。この映画から、そういう喪失や欠如を読み取ることは可能だ。
◆その一つに「メジャーとマイナー」というのがある。パンクバンドにかぎらず、70~80年代には、「マイナー」に固執し、「メジャー」を拒否するという文化があった。この映画のアキオからすれば、サンタマリアは、「メジャー」なレコード会社の社長であり、その看板歌手TELYA(田辺誠一)は、「マイナー」を裏切って「メジャー」になった野郎である。「ふざけんじゃねぇ、そんなメジャーなことできっかよ」という意識は、ごく普通だった。しかし、それは、90年代には変わる。わたしは、1995年ごろか、大学でゲストを呼ぶ話を学生としていて、学生の一人から「その人、メジャーですか?」と聞かれた。80年代の感覚では、「マイナー」がプラス価値であり、「メジャー」は転向者だから、「その人、メジャーですか?」という問いは、そんな「裏切者」を呼ぶんですかという意味のはずだが、この質問は、そうではなく、「ちゃんとマスコミでも売れてる人ですか?」という意味だった。いまやマスコミもプラス価値になってしまった。このへんの変化はしっかりとおさえておく必要がある。
◆この映画で、栗田かんな(宮崎あおい)が、「新人」を発掘するのにインターネットを探すというのは、象徴的だ。インターネットのなかでは、「メジャー」と「マイナー」の区別はないに等しいからだ。ウェブのデザイン、ライブストリーミングやしゃれたデータ処理といった点で金のかかっているサイトとそうでないサイトとの差は出るが、だからといって、機能的な差はそれに比例するわけではない。インディペンデントに立ち上げたサイトが法外な金をかけたグラビア雑誌より影響力も持つこともある。いまの時代、「メジャー」な会社の仕事をしたからといって、「マイナー」無視ということにはならないこともたしかだ。また、「マイナー」だ「マイナー」だといいながら、実質的に「メジャー」なことをしていることもある。「栗太かんな」にとっては、「メジャー」と「マイナー」の区別は消滅している。だから、この映画は、「メジャーなことはごめんだ」と「メジャー」を拒否してきたかつての「マイナー」志向人間が、「メジャー」も「マイナー」もどうでもいいじゃんと思っている栗田かんな(宮崎あおい)という新世代に出会い、「メジャー」の世界に入ってくる話でもある。
◆しかし、どこかにまだ資本化されていない「リゾース」があり、それがやがて資本の回路に導き入れられるというロジック自体はいささかも変わっていない。だから、いまの状況は、かつてはその「リゾース」が、「マイナー」という形で(ある程度)独立できたのに対して、いまは、それができなくなったということなのだ。すべてが「リゾース」にされてしまう、「リゾース」と「商品」しかないという状況なのである。
◆かつての「マイナー」志向のなかには、「商品」にならないといことがあった。もし、いま「マイナー」の復活ということがあるとすれば、それは、この面にしかないだろう。が、いまの時代に「商品化」を拒否する、避けるとはどういうことか? ただし、大急ぎで確認しておかなければならないが、「商品化」とは、いまの時代(情報資本主義の時代)には、単に「儲かる」かどうかの問題ではない。むしろ、いまの時代の「商品化」とは、より多くの人間を巻き込むことを目指すかどうかのこと、つまりグローバルなパラノイアを目指すかどうかにかかる。それぞれに納得のいく関係にこだわるならば、つまりパラノイアで幻想的に意気投合するのを極力さけるならば、コミュニケーションや物の共有の関係はかぎられている。そのサイズは大きくはならない。それは、やはり「マイナー」なのだ。
◆それなら、インターネットのような「グローバル」なメディアは、そういうサイズを維持することはできないだろう――という意見になるかもしれないが、そうではないのだ。トランスローカルとは、そのためにわたしが作った言葉だが、ネットを単に情報拡大と「翻弄」(パラノイアに引き込む)のメディアにしない方法がある。
(東映試写室/東映)



2008-10-16_2

●チェチェンへ アレクサンドラの旅 (Aleksandra/2007/Aleksandr Sokurov)(アレクサンドル・ソクーロフ)  

Aleksandra/2007
◆映画が終わって、すぐに地下鉄に乗る気がせず、東銀座から数寄屋橋まで歩いた。そんな気にさせる映画。それは、悪いことではない。浮ついて、楽しいことばかり志向している日々にはこんな瞬間があってもいい。いや、なければならない。そのくらいこの映画は、見る者を厳しく、つらい「現実」に直面させる。
◆戦闘シーンを全く出さずに、これほど戦争の重苦しさと(庶民にとっての)戦争のはた迷惑さを鋭く描いた作品はまれだ。ソクーロフは、プレス資料に載っているインタヴューのなかで言っている。「作り物の映像で派手な攻撃や映画らしい爆発シーン、スローモーションで倒れる人々などを見てもすべてが"野蛮"で"偽物"だと思えてしまう。戦争は詩的でもなければ美しくもない。詩のように撮るべきでもない」。これは、その通りである。しかし、戦争映画(とりわけハリウッド流の)は、最初から、「"野蛮"で"偽物"だと思える」ものを作ろうとしている。その結果、戦争を批判している体裁の映画が、暗黙に戦争を鼓舞(こぶ)し、戦争をかっこよいものにみせかける機能を果たしてしまう。
◆アレクサンドラという80歳の老人役のガリーナ・ヴィシネフスカヤの圧倒的な演技。駐屯地にいる職業軍人の孫デニス(ヴァシリー・シェフツォフ Vasily Shevtsov)のことが気になって彼を訪ねる老婆を演じる。その老け役は見事だが、目や頬のあたりが色っぽい。「おばあちゃんは美人だ」と孫は言うが、それは、自然なセリフではない。彼女は、ソプラノ歌手として、チェリストのムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ夫人として、そして、反ソのレッテルを貼られた夫とともに米国に亡命したアーティストとして有名である。
◆ヴィシネフスカヤは、自分と同年令(80歳)の庶民になりきっているが、それが瞬間はずれるときがある。それは、孫のデニスが、アレクサンドラを抱き上げて歩く瞬間、彼女が見せる、演じている年令の老婆よりも若くて元気な女としての側面だ。オペラで鍛えた彼女は実年令より若々しい。
◆実際の孫と祖母との関係がどうであれ、この映画のなかでアレクサンドラとデニスは、単なる祖母・孫関係ではない。アレクサンドラの髪をデニスがポニーテールに編むシーン。ときどき女と男のエロティック(日本語の「エロ」ではない)な関係が湧き出る。それは、いつ死ぬかもしれない(デニスは戦場で、アレクサンドラは高齢のため)という限界状況のなかで突然吹き出た、タナトスとすれすれのエロスである。
◆登場する兵隊が実に若い。こんな若者が人を殺すことを強いられ、また自らも死んで行く戦争の悲劇。戦争は、攻められる側だけでなく、攻める側をも不幸にする。実際に、アフガンでもチェチェンでも、少年のような若い兵士がたくさんいたらしい。アレクサンドラが青年兵たちを見る目はその悲しさで潤む。青年兵たちも、彼女のなかに自分の母や祖母を見ている。
◆この映画は、最初、ヴィシネフスカヤの背中を映し、それから車を降りる彼女の足を映す。戦争を批判する映画ではなぜか足を映すことが多いような気がする。田坂具隆の『土と兵隊』(1939)は、行軍する兵士の足ばかり映していた。
◆アレクサンドラが駐屯地の外に出て行き、マーケットでチェチェン人に会い、彼女のアパートへ行くあたりのシーンは、戦争をしていても、日常レベルでは、「敵」「味方」の明確な関係などないということを示唆する。それは、人工的に構築されるのであり、いっしょに暮らせるはずの人々が「敵」と「味方」に区分されてしまうのが戦争なのだ。アレクサンドラは、マーケットで孫と若い兵士たちのためにタバコなどのお土産を買ってくる。その帰り、彼女に道案内したチェチェン人の青年は、足が疲れた彼女を気づかう。ここでも、足のテーマが暗黙に出ている。戦争で、人は、みな歩かされる。青年は、戦争の耐え難さを語り、「もう解放してください」と誰にともなく言う。
◆アレクサンドラは、戦闘地域に出かけていく孫に別れ、もとの貨車の乗る。映画は、彼女がふと見せるため息で終る。戦闘シーンは出てこないが、兵士と戦闘車両のあわただしい動きから見て、出て行く兵士がみな無事にもどってきそうにはない。デニスも還って来ないかもしれない。深い絶望とあきらめの重さがこもったため息だ。
◆途中で鏡が出てくるシーンかどこかで、突然画面の色が変わる。わざとなのかと思ったら、(配給の中野理恵さんの話では)プリントのミスにすぎないのだという。
(松竹試写室/パンドラ)



2008-10-16_1

●大丈夫であるように―Cocco 終わらない旅― (Daijoubudearuyouni--Cocco Owaranai tabi--/2008/Koreeda Hirokazu)(是枝裕和)  

Daijoubudearuyouni--Cocco Owaranai tabi--/2008
◆Coccoは「ローカル」であること、「自然」であることを演じているが、その内側は葛藤で壊れそうになっていることが次第に露呈される。彼女は「スター」だが、この映画は、むしろ、その「スター」的な外面の下にあるものを露出させる。
◆彼女は、歌、話し方、ライフスタイルなどのあらゆる面で「ローカル」(沖縄)的なものに固執するが、最初、わたしは、それが、ナルシシズムにいなおったしたたかな演技に見えた。この手の人を何人も見てきたからだ。彼や彼女らは、ひそかにリハーサルまでやって、いまどき保持するのがむずかしい「ローカル」なものを再生しつづけようとする。観客は、その演技にだまされ、その演技者が心底から「自然」を生きているかのように錯覚する。しかし、この映画は、Coccoが一見そういうことをやっているように見えながら、実は、それがいかに重い代償のもとで生み出されているかを見せてくれる。
◆彼女は、やっと観客と自分との関係を維持している。最初、それは、彼女のナルシシズム的な「演技」の産物のように見えるが、次第に、彼女のか細い神経のあやうさが見えてくる。
◆「ナイーヴさ」、「感じのよさ」、「教祖的な感じ」、「気さくさ」といったものが、非常に人工的なものであり、相当の内的代償のなかで生み出されるということ。
◆Coccoは、声量も音域もそれほどあるわけではなく、むしろ、語りが一番人を惹きつける。彼女の歌が好きな人は、彼女の語りに惚れた人だろう。
◆Coccoが連発する「・・ないばよ」、「そんでよ」、「・・けどよ」、「(雪降ってる)かよ」、「自分たちもよ」といった一連の「よ」言葉には、韓国語の「・・ヨ」とのつながりを感じる。日本語で「・・よ」はくだけた感じをあたえるが、韓国語の「・・ヨ」は、「・・ダ」や「・・スミダ」と同様に、丁寧さをあらわす。
◆いまの音楽は、ヘッドフォンで聴くときに最高に「感動的」であるように作られる。ヘッドフォンであって、スピーカではない。だから、スピーカーで聴くと、空虚に聞こえる。そういう音楽は、ライブ向きではない。Coccoは、反対に、ライブでなければその真価がわかりにくい歌手である。ライブでの語りがベースにあり、その感動を歌につないでいく。
◆この映画は、彼女の矛盾をあらわにする。沖縄が日本の米軍基地の70%を押し付けられているのと同じように、六ヶ所村に日本中の核廃棄物が集められていることを知り、青森に行く。六ヶ所村のことを教えてくれたのは、少女からの一通のファンレターだというが、ホントかなという感じがしないでもない。なにか、「純真さ」とか「無知」を逆手に取ってリアリティにしているような気がする。
◆砂浜に穴を掘り、ファンレターを全部燃やし、自分の髪の一部を切って、いっしょに火のなかにくべる。なにか、このシーンは、偽善を感じた。
◆しかし、こういう感じがするのは、わたしがCoccoのファンではないからだろう。彼女は、むしろ、わたしがいま書いたような「反感」を全身に感じて、傷つく。
◆宮崎駿の『もののけ姫』を批判するくだりがあり、共感したが、それを自分でくつがえしてしまうのにはがっかりした。それは、彼女の「円熟」でなない。
(映画美学校第2試写室/クロックワークス)



2008-10-09-2

●ワールド・オブ・ライズ (Body of Lies/2008/Ridley Scott)(リドリー・スコット)  

Body of Lies/2008
◆原題は、「Body of Lies」つまり「(さまざまな)嘘の本体」であるが、邦題は、「(さまざまな)嘘の世界」という意味になり、そんなのあたりまえだろうという感じにさせられる。邦題は、いまや、ただの符丁になってしまった。意味はどうでもいいのだ。しかし、それならば、「ボディ・オブ・ライズ」でもよかったのではないか?
◆舞台はヨルダンを中心にイラク、シリア、米国、英国、オランダなど広範囲にわたる。CIAの「イスラム・テロリスト」作戦を描いている。エド(ラッセル・クロウ)は、米国内におり、監視装置の情報を駆使してヨルダン内のロジャー(レオナルド・ディカプリオ)に指令を発する。ロジャーは、これまで拷問にあったり修羅場をくぐりぬけてきた。アラビア語を話し、アンマンの街を知り抜いている。現地への愛着も生まれており、その屈折が、負傷した彼を治療した看護婦アイシャ(ゴルシフテ・ファラハニ)との関係によくあらわされている。そんな彼にエドは、「中東に住めるとことなんかないよ」とこともなげに言う。これは、いまの「アメリカ的」常識を代表している。それに対して、ロジャーは、「そういう考え方が問題だ」と反発するが、エドとの縁は切れない。
◆エドは、いつも何か食ったり飲んだりしている。その投げやりな態度がそのスタンスを象徴している。その一方で、家庭サービスも欠かさない。典型的な官僚のように見えながら、いざとなると飛行機で現場に急行する臨機応変さがある。ただし、ロジャーにあるロマンティシズムは、彼には微塵もない。冷徹なリアリスト。「テロリスト」は、連絡にケータイやEメールのようなテクノロジーを一切使わないことによって、いまのテクノロジーに頼っている諜報機関の先を行っていると認識している。だから、彼は非情な方法も辞さない。ただし、それを実行するのはディカプリオである。
◆リドリー・スコットは、CIA要員の2つのタイプを描きながら、いわば「道具的理性」(ホルクハイマー)を体現しているエドと、土地に愛着をいだくロジャーとのモラルの違いを浮き彫りにする。ロジャーは、エドの指令で、自爆テロの元締めをさぐるためにヨルダンの諜報機関のトップ、ハニ・サラーム(マーク・ストロング)に近づく。サラームは、アラブ人的名誉を重んじる男で、そのことを知っているロジャーは、恭順な態度で接することによって、サラームの信頼を得る。しかし、映画は、冷徹で非情にも見えるこの男がどこまでロジャーを信じているのかどうかというところでスリリングな場面を用意する。エドのようなタイプとは土台ソリが合わないのはわかっているが、はたしてロジャーを信頼するのだろうか? サラームは、ロジャーに、初対面で「おれにはウソはつくなよ」と釘を刺した。ウソをつくのが普通のエド。あいだで悩むロジャー。この映画は、ある種のモラル・スリラー。
◆しかし、このモラルというものは、「人間性」といった普遍概念(そんなものは本来ない)に根ざすものではなく、その時代、その土地で生ずる政治力学のなかで決まる価値観にすぎない。歴史的には、かつて、「普遍概念」という価値観が支配した時代と場所があった。それも実は歴史・場所的なものだったのだが、その名残がいまでも残っていて、ときどき思い違いが起きる。エド的なモラルは、しかし、次第に終焉するのではなかろうか? サラームのモラルのなかに演歌的な人情や義理を見るのは誤りだ。その「新しさ」がおそらく今後強まるのではないか?
◆ラッセル・クロウは役柄上キザな演技をしているが、ディカプリオは、これまでになく「自然」な演技でキャラクターの(映画内的)リアリティを高めることに成功した。イスラム系ではないマーク・ストロングが演じる「イスラム的」キャラクターがどの程度イスラム的なのかは、わたしにはわからないが、威厳や名誉を重視するパッションと同時に非情な冷徹さを合わせ持ったキャラクターを見事に演じている。
◆『イーグル・アイ』にも出てきたが、無人の小型グライダーを飛ばし、それに搭載したカメラで GoogleEarth のような俯瞰図を映し、標的を監視する技術は、映画で描かれるほど安定した状態では機能しないだろうが、その類似装置が米軍で使われているらしい。
◆スリリングな画面展開と入り組んだプロットで楽しめるが、米国の対テロ政治や「テロリスト」の対米政治の方は、あまり浮き彫りにはならない。あえていえば、ラッセル・クローが演じるCIAフロントマンとマーク・ストロング演じる諜報機関長官とたがいに異なる「狡知」(こうち)のズレと抗争のなかでいまの政治が動いているというところか。
(丸の内ピカデリー/ワーナー・ブラザース映画)



2008-10-09_1

●私は貝になりたい (Watashi wa kaininaritai/2008/Fukuzawa Katsuo)(福澤克雄)  

Watashi wa kaininaritai/2008
◆この映画が描こうとしている戦中から戦後の時代を知らない者にとって、この映画がどう映るかはわからない。ある時代を「知っている」ということは、必ずしもその時代に生きていたということであるとはかぎらない。また、リメイクということは、元の作品の社会的ないしは文化的機能をリメイクすることであるとはかぎらない。極めて政治的な機能をもっていた作品が、ただのエンタテインメントとしてリメイクされることもある。それは、いいも悪いもない。が、この映画は、極めて政治的な時代や対象(元一平卒としての主人公、米軍等)が限定されているため、それらとの関係を無視して見ることができない。それは、その時代を実際に生きていたわけではない人にとっても同じだろう。その点で、今回の映画は、いろいろと難点があり、何のためにリメイクしたのかが不明である。「ひどい時代だった」、「戦争は恐い」ということだけだったら、もっと別の描き方があっただろう。オリジナルのテレビ版(東京放送)と同じ脚本(橋本忍)なのだから、演出に問題ありとせざるをえない。
◆1958年のテレビ版は、日本で「反米」という意識が一般的にも強かった時代に放映された。だから、それは、「別に悪いことをしたわけではないのに逮捕されてしまう」主人公への単に感傷的な同情からだけ見られたのではなく、近づきつつあった日米安保条約改定のなかで高まっていた反米意識のなかで見られたのだ。少なくとも、脚本の橋本忍と、とりわけ演出の岡本愛彦には、確実にアメリカの日本支配に対する批判があった。
◆岡本愛彦といえば、「社会派」の演出家としてバリバリだった。岡本には、この世代の「社会派」知識人の一つのパターンとして、戦中に軍国少年であったことの自己批判とその要因である天皇制への批判が根底にあった。NHKの報道から出発し、東京放送(『私は貝になりたい』はこの時代の代表作)をへてフリーになり、テレビ演出にとどまらず、その発言は注目を集め、森光子との結婚(たしか1年ぐらいで解消)でも話題になった。当時、テレビは、まだ始まったばかりだったが、一方でアメリカ型の娯楽性を追及しながら、同時に、日米安保条約改定が近づき、その是非をめぐる議論がたかまる動きのなかで、いまにくらべればストレートな形での政治性が強まっていた。『私は貝になりたい』は、当時のテレビのそんな政治志向の口火を切る事件でもあった。
◆1958年の『私は貝になりたい』を有名にしたもう一つの要因として、主演のフランキー堺をあげなければならない。このテレビドラマの主演を演じる以前の彼は、ジャズドラマーであり、喜劇役者であり、芸人であったが、その名の「アンバランス」(当時として)が示唆するように、どこか一本通らない「タレント」だった。しかし、川島雄三は、この才能に注目し、『幕末太陽伝』(1957年)のトリックスター的人物にフランキーを起用した。川島がいなければ、フランキーの俳優的才能が飛躍する機会は遅れたかもしれないし、フランキーがいなければ、この映画の面白さは半減しただろう。そして、『幕末太陽伝』でフランキーが成功しなければ、『私は貝になりたい』の出演もなかったかもしれないのである。『幕末太陽伝』を見ていなかった者(当時のわたしもそうだった)にとって、フランキー堺が『私は貝になりたい』であれほどの演技をしたことは驚きであったが、フランキーが出演することによって、ふだんはテレビのなかでおちゃらけていた人物だけに、その悲劇性が屈折した形で強まった。
◆1958年版の時代には、日本にはまだ「貧しさ」というより「生活苦」という感覚が普遍的にあった。金を持っている人間でもその感覚は共有できた。しかし、いまは違う。そうしたコンテキストのなかで、中居が、自分の死を間近にして、「つまらねぇ一生だった」「お金持ちになりたい」と言っても、リアリティがない。そもそも、中居には、成功したタレントというイメージがつきまとっている。その点、あの時代のフランキー堺はちがっていた。彼は良家の息子だが、テレビのなかのイメージは「成功者」ではなかったし、誰もが「貧しさ」の感覚を共有できたからである。
◆今回の『私は貝になりたい』には、こうした込み入ったコンテキストはない。主役の中居正広は、SMAPのなかでも一番「普通」を感じさせるタレントである。だが、その「普通」は、フランキーが演じたような町の片隅で目立たない人間の見せる「普通」ではない。彼が、田舎の床屋を演じ、軍服を着たりすると、NHKの朝ドラのステレオタイプ的・教科書的な「歴史」イメージしか出せない。その点は、妻を演じた仲間幸由紀恵についてもいえる。これで徴兵された軍隊で鬼上等兵を演じるのが、六平直政、音楽も久石譲だということになると、その奥行きはたかが知れる。
◆映画の見せる「時代性」は、どの道ヴァーチャルなものである。ここで言う「ヴァーチャル」とはニセモノとかマヤカシという意味ではない。実質的にその時代を示唆できれば、その手段はどうでもいいという意味でのヴァーチャルである。だから、ちょっとした身ぶりや小道具はしっかりとしてもらわないと困るのだ。中居や仲間の表情が「昭和20~30年代」風ではないと言うのは酷かもしれないが、せめてその身ぶりやしぐさは変えられたと思う。
◆赤紙(召集令状)が来て、出征するとき、家族・友人・地域の者たちが万歳をして送り出すというのは、映画や演劇の「出征シーン」のパターンである。しかし、この映画のそれほど「明るい」出征シーンは見たことがない。それは、のちの(中居が軍隊で米軍捕虜を殺すことを強制される)シーンを際立たせるための布石かもしれないが、あまりに歴史性に欠ける。それを中居が演るわけだから、その嘘臭さは倍加する。
◆息子役の加藤翼は、この映画のなかで最も天才的な演技を見せる役者だ。目ですべてを語る彼の演技はすばらしい。だから、逮捕され、ジープに乗せられて搬送される中居を追って加藤が走るシーンは、彼の演技力からすると、あまりに月並みで、気の毒な感じがする。連れ去られる親を追う子供というパターンは、泣かせのシーンの定番で、どの子が演じても一定程度の効果を出せるからである。加藤翼ならば、やらせればもっと高度な演技が出来ただろう。すでにテレビやCMで活躍しているが、今後が楽しみだ。
◆細かいことを言うと、床屋をやる中居のところに召集令状が届くシーンで、それを受け取った仲居は、無造作に封を切る。それは、いまでは「あたりまえ」であるかもしれないが、「昭和33年」という時代のコンテキストのなかでは「異常」である。というのは、当時の人々は、決して、人前で封筒の封をバリッと破いて切るようなことはしなかったからである。切るとすれば律儀にキレイに切った。封筒をそんなやり方で破く習慣は、(誕生日の贈り物のキレイな包装を渡した当人のまえでバリバリと破くのも含めて)アメリカ映画によって1960年代以後に浸透したものであり、1950年代の日本では例外的だった。(だから、わたしなんかは、アメリカ映画のまねをして、そんなことをやってカッコづけをすることができたのだった)。
◆一方、今回の映画版『私は貝になりたい』には、反米意識が強かった時代とは異なるいまの時代でしか描けなかったであろう面がないわけではない。1958年版は、ある意味で反米プロパガンダの映画、あるいは反米意識を利用したメロドラマだった。あの番組を見た者は、フランキーが可愛そうと思うと同時に、「米軍は冷酷だ」という、なにがしかの反米意識をいだいた。そこからは、今度のヴァージョンが描くような、巣鴨プリズンのシーンに登場する面々とりわけ矢野中将・軍司令官(石坂浩二)が裁判で主張する問題はほとんど伝わらなかった。つまり、『明日への遺言』で海軍司令官・岡田資(たすく)(藤田まこと)が主張した問題である。今回の『私は貝になりたい』の矢野と『明日への遺言』の岡田は、同じコンテキストで描かれている。しかし、この問題を中心にすえた『明日への遺言』とはちがい、それはあくまでもエピソードの位置におかれているにすぎないので、石塚のいつにない力のこもった演技が印象に残るだけに終る。
◆中居が巣鴨プリズンに搬送されて房に入ると、なかに(くさなぎたけし)がいる。どちらもマジな演技をしているのだが、わたしは一瞬笑いそうになった。
(東宝第1試写室/東宝)



2008-10-08

●ハッピー・フライト (Happy Flight/2008/Shinobu Yaguchi)(矢口史靖)  

Happy Flight/2008
◆試写のあと人に会う打ち合わせを電話でしていたときに時間をチェックするのでこの映画の試写状を出し、そのまま机の上に置き忘れた。現場に着いて気づき、受付で事情を話す。何せ、ここの試写状には「複製防止のための処理」がしてあるのだ。
◆なかなかいい出来。出演者も適材適所。飛行機に乗っていてかねがね感じていたこと、興味を持っていたこと、なぜそうなるのかわからなかったことを面白おかしくわからせてくれる。伊丹十三のエッセイがそうだったが、ある種の好奇心的「学習」の欲求をエンタテインメントに流し込む才が見事に展開。
◆旅客機の発着に関わる人と部署が描かれる。メインは、キャビンアテンダントとパイロット。それに、機体整備員、管制塔関係者、グランドスタッフ(発券や接客全般を担当する人)などもドラマの部分をしめる。
◆その昔、「スチュワーデス」(いまは、「フライトアテンダント」や「キャビンアテンダント」と言う)が輝かしく見えた時代があったが、それでも、飛行機に乗るにつれ、「スチュワーデス」なんてやるもんじゃないなと思うようになった。大体、食事や飲み物のサービスをする肉体労働は、とてもあのスキニーな身体には向かないではないか。だから、ソ連時代のアエロフロートに乗り、そこにずんぐりした大柄の女性アテンダントたちを発見したとき、これが当然だなと思い、かつその荒っぽいサービスに直面して、コリャなんだと思ったものだ。つまり、旅客機というものは、最初から無理を前提とした乗り物だったのである。
◆全日空が実名で使われ、登場人物が全日空の人間という設定は、全日空がよく認めたものである。この映画は、決して全日空にいしょする宣伝映画ではない。むしろ、サービス内部のヤバイ部分をけっこう皮肉に描いている。ひょっとしたら、この映画を見て、全日空って、内情はヤバイのだなと思う者もいるかもしれない。実際には、全日空だけでなく、ほとんどすべての飛行機会社が似たような状況で毎日旅客機を飛ばしているのであり、そもそも、大量に人間を長時間一つの空間に詰め込み、運搬するということ自体が普通ではないのである。この映画は、その「異常」さをあらわにしてくれた。
◆ソツがないようでドジもする副操縦士の田辺誠一、終始冷静で非情にも見える機長の時任三郎、経験豊かだがどこかずうずうしい(じゃなけりゃこんな仕事できるか)グラウンド・スタッフの田畑智子、もうこういうタイプはいないが仕事に青春をささげた感じのベテランチーフ・パーサーの寺島しのぶ、中堅アテンダントの吹石一恵等々役者たちは、みな適材適所にキャストされているが、とりわけいいのは、綾瀬はるかだ。10ヶ月の国内線は経験しているが、国際線での勤務が初めてという設定の彼女が見せるドジぶりが実に愛らしく、おかしい。
◆この映画は続編が可能だ。ここでは、まだ、同じ会社の従業員がある種の「愛社精神」(のなごり)のなかで(つかのまであれ)団結しているようなところがあるが、いま、そのような団結は完全にくずれている。とくに、不況のなかで、大型機の席を埋められないために導入された「共同運行」の場合、異なる会社のフライトアテンダントがサービスを行うために、チームワークに乱れが出ているのを目撃することがある。また、ある種「傭兵」的なテンポラリー集団が投入されたのではないかと思われるような、ガラの悪いチームに出会うこともある。そういう場合には、いくらでもドラマが生まれうる。
◆今回は、非日本人客とのトラブルややりとりの場面が主題になることはなかったが、これも続編のプロットになりえる。先日わたしは、エールフランス(日航との共同運航であることをあとで知らされる)でリスボンからパリ・ドゴール空港経由で帰ってきたが、そのとき、「ヴェジタリアンメニュー」を注文しておいたのに、出てきたものが肉メニューだったのでクレームをつけたら、フランス語をしゃべるフライトアテンダントが、「スペシャルメニューはありません」とシャーシャーとしているので、「それなら、なぜネットで切符を購入するときにさまざまなメニューの選択肢をならべているのか?」と訊いた。すると、「知らない」とぶっきらぼう言い、「それは何かのアキシデントだ。もし、文句があるのなら、ここ(座席のバッグに入れてある雑誌)にフォームがあるから、書いて出してくれ」と逃げようとした。わたしは、さらに頭にきて、「知らないとはどういうことなのか?」と言うと、「だって、わたしが調理したんじゃないから」と来た。「何でわたしがそんな労働をしなければならないの? それに、わたしが言っているのは、パーソナルな個人としての<あなた>ではなくて、会社の一つの顔としての<あなた>ですよ。あなたが知らないでは済まないでしょう?」とわたし。結局、彼は、汚い字でメモ書きした原稿を持ってきて、これを会社に伝えると言ったが、驚いたのは、その間に、わたしのテーブルに食事がないのを見つけたアジア系の女性アテンダントが、いきなり、先ほどと同じものを載せようとした。簡単に事情を説明すると、彼女は英語で、「フランスでは、朝、バゲットとジャムとハムなんかを食べます。ですから、これは、フランスの標準的なメニューです」と、「大フランス」の講義してくれるではないか。えぇ、わたしにもフランスに友人が何人もいるが、8割がヴェジタリアンで、ハムはおろか肉系のスープも敬遠するのもいる。肉にしても、日本なんかより、フランスの方がよほど牛か豚か羊かの区別には神経質だ。おそらく、わたしの「アキシデント」は、日本人の客ならこのへんでいいというたかをくくった判断から生まれた雑なビジネスの結果ではないか?
◆ただし、この映画で、ファーストクラスの客のためのデザートをこがしてしまって、窮余の一策、料理に自信のある綾瀬がその場でデザートを作り、それまでのドジの不名誉を解消するくだりがある。乗客のしらないところでそんなアキシデントが起こることもあり、わたしの「アキシデント」も、そんな例の一つかもしれない。その場合は、わたしは、菅原大吉が演じる「困った乗客」の一人とみなされ、所詮は、機内ドラマの典型的な登場人物の一人として消耗されたにすぎなかったのかもしれない。
(東宝試写室/東宝)



2008-10-02_3

●ティンカー・ベル (Tinker Bell/2008/Bradley Raymond)(ブラッドリー・レイモンド)  

Tinker Bell/2008
◆今月は海外に行く予定はないが、大学もはじまり、ゲストを呼ぶ講座もスタートしたので、試写を見ておける日に見ておかないと、また8、9月の二の舞になると思い、今日は3本はしごをした。時間があったので、渋谷からバスで六本木へ。車窓からイタリア料理店「ANTONIO'S」が見えた。顕在なのだなと思う。むかしはよく行った。
◆メール予約したが、席は予約できないので、早めに来る。が、上映まえまでに埋まったのは半数ほど。それよりも、メインタイトルが出てから、下側に人の頭が映る。遅れて入って来た人の頭だ。こういうのって、最低。
◆「ティンカー・ベル」ないしは「ティンカー」は、もともと、ジェームズ・M・バリの原作(戯曲と小説)のなかでは、脇役にすぎなかったが、これを世界のマスコットにしたのは、1953年のディズニー・アニメ『ピーター・パン』以後のことである。いまではティンカーは、ディズニーランドのワイヤー・パフォーマンスの有名キャラクターにまでなっている。ウォル・ディズニーがみづから登場するテレビ番組『ディズニーランド』の第1回番組で、彼がテレビ番組の開始とディズニーランドの構想を語るオープニングシーンで空を飛ぶ妖精は、たぶんティンカーであろう。その後も、ディズニー映画の頭でこのパターンが使われる。
◆面白いことに、テインカーは道化役としてはたびたび登場しても、声を出すキャラクターとして登場するのは、『Peter Pan and the Pirates』(1990)以後らしい。2003年の『ピーター・パン』では、リュディヴィーヌ・サニエが声を担当していた。今回は、そのティンカー・ベルを主役にもってきたわけだ。が、わたしには、脇役で見るティンカーの方がよかったような気がするのは、なぜだろう。
◆日本のプレスには「製作総指揮 ジョン・ラセター」となっているが、全体としてはあまりラセターっぽくはない。わたしが「ラセターっぽい」と思うのは、『レミーのおいしいレストラン』や『ウォーリー』である。今回の場合、キャラクターの映像もテーマも、すべて子供向きで、大人も楽しめ、考えさせられるという奥行きがない。
◆ただ、廃物を回収して新しいものを創り出すという発想は、悪くない。それは、ワルター・ベンヤミンがいち早く示唆したように、20世紀アートの重要部分であったし、いままた復活してきているDIY (Do It Yourself)カルチャーとつながるものをもっている。はたしてこの映画が、そのへんへの目配りしているかどうかは疑わしいが、もともと、アメリカには、「修繕」の文化が生活の底流のなかにあり、これが、いま流行りの「地球環境」を大切にするという発想と結びついて、工作や手作業への見直しが進んでいることは、十分意識しているように思う。ハリウッド映画がつねに意識する「教育機能」である。
◆わたしは、基本的に「天使」や「妖精」の出る作品が好きではない。とりわけアニメのは苦手である。妖精が出てくる過去の作品では、『ピーター・パン』や『スパイダーウィックの謎 』は許容できたが、この映画のように、絵にかいたようなメールヘェン的な妖精ものは、敬遠しがちだ。が、ではなぜ見る気になったかというと、それは、IMDbがめったにない8.5をつけていたからだ。IMDbの評価は、最近とみに信用ができなくなったが、この「8.5」というのは、ファンの操作ではないか?
(ウォルト・ディズニー試写室/ウォルト・ディズニースタジオ モーションピクチャーズジャパン)



2008-10-02_2

●ワンダーラスト (Filth and Wisdom/2008/Madonna)(マドンナ)  

Filth and Wisdom/2008
◆東銀座から地下鉄で渋谷へ。マドンナの監督第1作という。配給の人が誰かに、「マドンナが映画を作れるなんて誰も思いませんから」と言っているのが聞こえたが、おいおい、マドンナを甘くみちゃいけない。彼女は、70年代のニューヨークのラディカルな文化の洗礼を受けたアーティストであり、その後の成功と多くの経験のなかでますます知性的に円熟しつづけている。フェミニズムやゲイアクティヴィズムにもコミットし、まだまだ彼女は新しいことをやり続けるだろうと思っている。監督なんぞで驚いてはいけない。
◆今回の作品は、マドンナの実力とコネクションからすると、かなりリラックスして撮っている感じ。ロンドンで「ボヘミアン」的な共同生活をしている男AK(ユージン・ハッツ)、女2人ホリー(ホリー・ウェストン)とジュリエット(ヴィッキー・マクルア)の3人は、性愛的な関係よりも「友情」で結ばれている。マドンナのジェンダー意識は、ヘテロセックス的な関係から、ホモセクシャル的な関係、さらにはそれを越えた関係へと成熟してきた。依然としてゲイ的な関係を支持するが、彼女のジェンダー意識の成熟がもっともよく出ている映画は、ジョン・シュレシンジャー監督の『2番目に幸せなこと』だった。当然今回は、それから8年もたっており、マドンナはさらに人生と世界の屈折を経験している。が、この3人の関係には、マドンナが登場人物と同世代だったころ、つまりニューヨークの70年代の人間関係も投入されている。3人は、それぞれ、マドンナの分身でもある。
◆ユージン・ハッツを抜擢したのはさすがである。マドンナは、音楽コネクションで彼の活動を知っていたはずだが、彼女は、『僕の大事なコレクション』でのハッツの「怪演」を意識して抜擢したにちがいない。冒頭から、ハッツはスクリーンのこちら側にいる観客に向かって語りかける(アサイド)臭い演技をする。最後には、ミュージッシャンの側面を全面展開し、ノリノリの演技を見せつけ、爽快に終わる。
◆マドンナは、70年代のニューヨークで当時湧き上がった思想やトレンドや文化を吸収して「成長」したので、当時、同じ街に住んでいたわたしは、彼女の「成長」が手に取るようにわかる。この映画の3人の生活は、「ボヘミアン」(オペラ『ラ・ボエーム』以来聞き飽きた言葉だが、いまだにインパクトがあるのはなぜか?)的で、70年代のニューヨークは、まさにそういう生活を可能にした。それは、ニューヨークに「ヤッピー」たちが住み込み、「ジェントリフィケーション」が進んで、金のないアーティストたちがブルックリンなどに追い出されるまで続いた。
◆マドンナが初来日したとき、わたしは当時まだ「ファッショナブルな思想雑誌」であった『朝日ジャーナル』の編集者の中町広志さんからたのまれて、マドンナ論を書いた(『廃墟への映像』所収)。そのとき気づいたのだが、当時の日本では、マドンナを「マリリン・モンローの再来」とみなす意見があった。これは、70年代のニューヨークを知っていれば、全くのまちがいであることがわかる。彼女は、むしろマリリンを「異化」し、パロディー化することに熱心だった。だから、当時最もつっぱっていたテレビショウ『サタデーナイト・ライブ』では、ケネディ3兄弟に殺される「マリリン」の役をコミカルに演じていた。彼女が、「マリリン」を気取たったとしても、それは、あくまでジョークでしかなかった。
◆マドンナには、独特の身体観がある。それは、「対他的」な身体(他者にとっての身体――だから、自分が自分の身体を意識する場合の身体も同じ)は、サド・マゾ的になるというものだ。AKがサド・マゾプレイで金を稼いでいるのもそれと関係がある。マドンナは、1987年に初来日したときから、自分の肉体を挑発的に曝すパフォーマンスをした。しかし、当時、多くの人が誤解したように、彼女は、「女」の肉体を「蟲惑的」に曝すためにそういうパフォーマンスをしたのではなかった。それは、同時代のニューヨークで台頭していたラディカル・フェミニズムの発想に裏付けられたものだった。つまり、「男」が「女」を性的欲望の対象として見る視線を「異化」することを意図した挑発だったのである。マドンナのこの姿勢は、映画では、『BODY ボディ』(1992)によくあらわれている。
◆ウディ・アレンは、マドンナの姿勢をよく理解していたので、彼の『ウディ・アレンの影と霧』(1992)で、彼女を使い、ジョン・マルコヴィッチを誘惑する役をさせている。そうそう、そういう彼女の「対他的」身体への姿勢がずばり出ているのは、ウェイン・ワンの『ブルー・イン・ザ・フェイス』(1995)で、ハーヴェイ・カイテルのところへ突然あらわれる「電報配達」のシーンだろう。マドンナは、「歌う電報配達」という役であらわれ、「電報文」を歌いながら、カイテルに対してエロティックな身ぶりをする。まるで、「男なんて、どいつも、こういうのが好きなのよね」とでも言わんばかりに。
◆バレーダンサーになりたいホリー(ホリー・ウェストン)は、夢かなわず、ストリッパーの仕事につくが、彼女も、「男」たちによって、「男のための女」としか見られない。アフリカの難民救済に関心のあるジュリエット(ヴィッキー・マクルア)は、薬局に勤めているが、インド人の店主(インダー・マノチャ)も、彼女を性的対象としてしか見ない。このあたりには、70年代流のフェミニズム的な男性批判が感じられる。
◆マドンナは、ユダヤ文化に関心を持っている。ユダヤといっても、イスラエルのではない。AKを演じるユージン・ハッツは、ロマ(ジプシー)系だというが、この映画では、彼はユダヤ系のウクライナ人という設定のようだ。原題の「Filth and Wisdom」の「wisdom」は「知恵」というよりも「金言」ないしは「箴言」であり、だからAKは、しきりに、「ナイフでジャムを舐める者は舌を切る」といった、ユダヤ的箴言のスタイルの文言を口にする。
◆マドンナについては、わたしの関心はまだ続いており、毎年持つ大学の「映画文化論」では必ずマドンナのために1回をあてる。近年のわたしのマドンナ観は、『ユリイカ』のマドンナ特集に寄稿した『コンフェッション」の時代へ』のなかに書いた。
◆ところで、この映画に対する欧米の批評はいったいに厳しい。とりわけ、マドンナが住むロンドンの新聞『ザ・ガーディアン』のピーター・ブラッドショウの映画評は、悪意に満ちている。いわく、「マドンナは、多くの多くの映画でテリブルな俳優をやってきたが、今度は――これまでにもましておそろしい野望をいだいて――テリブルな監督であることに昇進した。彼女があまりに信じがたいほどひどい映画を作ったので、ベルリン映画祭の観客たちは、昨日[2月13日]、呆然とし、心的なショックを受けて真っ青になって、虐待された子猫のように泣きわめいた」、と。有名人はつらいね。
(ショーゲイト試写室/ヘキサゴン・ピクチャーズ)



2008-10-02_1

●釣りバカ日誌19 ようこそ!鈴木建設御一行様 (Tsuribakaisshi 19/2008/Asahara Yuzo)(朝原雄三)  

Tsuribakaisshi 19/2008
◆このシリーズは、「日本文化/状況論」としても面白いので、毎回見ているが、今回、海外での仕事があって、早い時期に見ることができなかった。最終回に近くなったので、午前10時からの開映だが、早起きして(というよりあまり寝ないで)東銀座に急行した。毎度のことだが、このシリーズの試写には、映画評とはあまり関係がないのではないのかと思われる人たちがやって来る。この日も、映画館で見かける「シニアー」の夫婦とか、試写状を回しあって見にきたOL嬢らしき人たちの姿があった。それは、別にいいんですが。
◆今回、試写の回数が少ないように見受けたが、あまり自信作ではなかったからか? いつものような「いま日本で起きていること」への視点が甘い。それと、一番問題に思えたのは、映像が眠いことだった。焦点深度が浅く、手前の人物に焦点が合っていると、すぐ先にいる人物がボケるのである。むろん、そういう撮り方はあるが、そのピントが奥に合ったり手前に合ったりする変化が、あまり意味があるようには見えなかった。そもそも、冒頭のシーン(夜明けまえの海で西田敏行と中本賢が船の上で釣りをしているシーン)のレゾルーションがえらく荒い。暗い場所を撮っているのだから、映像が暗くなるのは当然だとしても、ここで映像を荒らす意味は全くない。常盤貴子と山本太郎との結婚式で式場が暗くなっていて、そこにスポットライトが当たるシーンでも、同じような「わびしい」映像が異様だった。
◆「いまの日本の傾向」を盛り込もうとした部分は、オフィースのドアに仕掛けられたセキュリティシステムと、社員の格差の問題である。後者は、厚生課でけなげな仕事ぶりを見せる常盤貴子が、実は契約社員であることがわかり、他方、中途採用された山本太郎が大企業の御曹司であるといった構図のなかで描かれる。が、これは、これまでのこのシリーズのアップ・ツー・デイトさにくらべると、「遅れている」。会社は、もうとっくに契約社員だらけであり、問題は契約社員にもなれない人間たちの激増だ。契約社員になれれば御の字であって、格差のことを問題にするのならば、もっと下の階級に目を向けなければならない。
◆ドアの出入りにいちいちIDカードを当てなければドアが開かないというのも、最近はじまったことではないが、西田がそれを無視するドタバタ劇は、このシリーズのプロットとしては悪くない。大きな事業所で社員やスタッフが首からIDカードを下げるという方式自体は大分まえから導入されている。わたしの大学でもそういうカードが配られたが、わたしは一度もかけたことがない。この映画に登場するカードは最新型で、カードにID情報がインプットされており、それをドアのそばのセンサー部分に近づけないと、入出ができない。わたしの大学のカードはそれほど「高度」のものではないので、所持しなくても不自由はない。西田は、「そんな犬みたいなもんできるかよ」と言ってカードを持ち歩かない。そのため、ドアを誰かに開けてもらわなければ、入出ができない。このへんはなかなか面白い。会長(三國連太郎)は、秘書(中村梅雀)に開けさせるが、開けるのにもたつくと、腹を立てて、その場を立ち去る。
◆自動機械が導入されるときは、いつも同じようなことが起こる。反対や批判の仕方も同様だ。駅の自動改札もそうだった。コンピュータ自体、一般化したては反発が起こった。問題は、そういう技術ではなくて、未熟な技術を強制する体制であり、強制される側としては、その技術が柔軟なものになるまでは使うのをやめればよいのだ。その技術そのものがまちがっているという全面否定はどこかでみっともない転向を余儀なくされる。その昔、コンピュータの使用を頭から否定してきた人たちが、いま、ケータイの奴隷になっているのを目の当たりにすると、かつての「技術否定」をちゃんと「自己批判」しろよと言いたくなる。
◆今回、明らかにこの映画はある種の「予防線」を張っている。つまり、三國連太郎が出演できなくなるときのために布石を打っているのだ。というよりも、もうあと1回ぐらいで終わりにしようというような雰囲気すら感じられる。いや、ひょっとすると、西田が継続をいやがっているのかもしれない。なにせ、今回は、どちらが出演できなくなっても体裁がととのえられるようなお膳立てをしているように見える設定なのである。
◆西田は、今回、健康診断でチェックが入り、胃カメラを飲まなければならないはめになる。そういうことをしてこなかった西田が大慌てをし、周囲がなだめて検査に持ち込むというくだりが笑わせる。ここには、社員個人の健康のためというよりも、社員の健康維持が会社組織を円滑に機能させるために必要であるというある種の「危機管理」(「健康管理」という名の)になっていることが茶化されてもいるが、それ以上に、この映画シリーズにとっての予備的措置という側面も感じられる。つまり、このプロットは、今後、西田が出られなくなったとき(そうなれば、このシリーズはおしまいだが)「あのときはわからなかったが、腫瘍があったらしく・・・」といった展開が可能であるような布石にもなるからである。
◆三國の場合は、俳優三國連太郎自身が1923年生まれだから、いつ出演できなくなっても不思議ではない。映画のなかでは、たえず身体の衰えを示唆している。今回、最後の方で、西田が予定していた結婚式でのスピーチをそっくりそのまま先取りしてしまう部長がおり、西田が慌てふためくのも笑わせるわけだが、そのあと、三國が、もう会長職にもつかれた、引退したいというようなことをいい、「あのスピーチをした・・・なんか次期社長にいいんじゃないか」といったセリフを吐く。その部長をやっているのが佐藤浩市で、それがシャレのつもりのようだが、駄洒落にもなっていない。それよりも、三國が引いて、佐藤浩市がこのシリーズに連続出演するようなことがあるのかねぇなどと思ってしまうのだった。全体に安手になっており、浅田美代子のセリフもますます他人事めいたアクセントになり、もう、このへんで閉めにしてもいいのではないかというのが、本作の印象だった。
(松竹試写室/松竹)



2008-10-01_2

●そして、私たちは愛に帰る (Auf der anderen Seite/The Edge of Heaven/2007/Fatih Akin)(ファティ・アキン)  

Auf der anderen Seite/2007
◆ドイツとトルコとの関係のなかで生まれる「悲劇」(と一応は呼べる)の3話。「悲劇」ではあるが、その犠牲によって何かポジティヴな可能性が生まれそうな予感をにおわせる。
◆ドイツ(かつての西ドイツ)には、以前からトルコからの移民が多く、すでに第3世代ぐらいがいる。壁が崩壊するまえ、ベルリンに行ったことがあるが、西側からベルリンへ向かう列車のなかでトルコから帰って来た移民労働者と会った。タバコをすすめられ、トルコから持ってきたというりんごをくれた。西ベルリンの壁に近いエリアのクロイツベルクにはトルコ人のコミュニティがあり、クスクスの料理やそいだ肉をパンにはさんだドネルケバブを売る店、安い雑貨屋などがたくさんあった。トルコから来たクルド人のコミュニティもあり、トルコのクルド人圧迫に反対するビラを配っていたのをもらったのが縁で、その事務所でチャイ(茶)をふるまわれたこともあった。
◆第1章「イェテルの死」は、ドイツのブレーメンが舞台となる。老齢のトルコ人アリ(トゥンジェル・クルティズ)と娼婦のジェッシーことイエテル(ヌルセル・ケーゼ)のドラマだが、ここで描かれるドイツ/トルコ的な屈折とは何か? アリの息子ジャネット(バーキ・ダヴラク)はハンブルグで大学教授をしている。1世は貧しさから身を起こし、息子を大学にあげるという移民者の成功例。が、二人のあいだはしっくりしない。親は子をどこか異星人のように感じ、子は親をどこかで軽蔑している。妻はすでに亡く、アリは、娼婦のジェッシーのもとに通い、孤独をまぎらす。やがて彼は、ジェッシーと生活をともにするようになる。彼女は、娘を大学に通わせるために娼婦になったのだったが、いまでは、その娘アイテン(ヌルギュル・イェシェルチャイ)の行方がわからない。ドイツ/トルコ的な屈折の末、アリとイェテルとにふりかかるのは、彼が彼女を殺してしまうという事件だった。それは、故意の殺人ではなく、ふとアリのなかに、ドイツでは克服したはずの家父長的・男性至上主義的な作面が突然あらわれ、彼女を殴りつけたことなのだが、彼女は死んでしまう。娘の消息もわからないままの死。老いて刑務所に入るトルコ移民。
◆第2章「ロッテの死」は、イェテルの娘アイテンと、たまたま知り合った女子学生ロッテ(パトリシア・ジオクロースカ)との物語りである。場所はハンブルク。アイテンは、トルクのイスタンブールで活動家になっていた。警官にマークされ、ニセパスポートでハンブルクにやって来る。トルコ警察から逃れるためだけでなく、母を捜すという目的もあった。そんななかでドイツ人の学生のロッテと知り合う。彼女は、レズで、アイテンを自宅に誘い、二人で暮らし始める。家には、ロッテの母親スザンナ(ハンナ・シグラ)がいる。彼女は、二人の関係をよくは思わない。トルコ人のアイテンに対する人種的偏見もある。ロッテは、父親が不在の家庭の子の一つの典型を代表している。アイテンは、そんな彼女のゆらぐ心を満たす「過激さ」をもっていた。しかし、アイテンは、不法滞在がバレ、トルコに強制送還され、「テロリスト」とみなされ、収監されてしまう。
◆ここから、ロッテがアイテンに会うためにイスタンブールに行くことになるのだが、映画は、彼女を中心にはすえない。「第1章」でイェテル(けっこう存在感をもって登場させたのに)をあっさり死なしてしまったように、ロッテの登場も、すぐに終る。イスタンブールに渡ったロッテは、裏町でもの盗りの少年に射殺されてしまうのだ。これは、非常に偶然(というより不運)を強調した描き方だ。彼女は、面会したアイテンから頼みごとをされる。かつて彼女がデモの最中に警官から盗んだ銃をビルの屋上に隠したのだったが、それを知っていた過激派グループは、アイテンの恋人ロッテを使って手に入れようとしたのだった。脅されたアイテンは、仕方なく、面会に来たロッテに隠し場所を知らせ、その銃を派の連中に渡してくれるように頼む。アイテンを愛するロッテとしては断れない。が、ロッテが殺されたのは、派の連中によってではなかった。銃をバッグに隠して歩いているときに、いきなり少年の一団にバッグをひったくられ、追いかけて行ったとき、バッグのなかに銃を見つけた少年が深い考えもなく撃ってきたのだ。ロッテの死は、現実にはありえることだとしても、映画としては唐突な印象をあたえる。しかし、監督の狙いは、その死が周囲の者つまりは、アイテンと母スザンナにあたえる影響を描くことである。アイテンは、彼女の死を深く受け止め、派との関係を絶つ。このへんはさだかではないのだが、テロリストの嫌疑をかけられて15~20年は刑務所を出られないと思われた彼女が、すぐに出て来てしまったところを見ると、彼女は、警察と取引をしたのだろうか?
◆第3章「天国のほとりで」は、母スザンナがイスタンブールを訪れるところから始まる。かつて優艶な役を得意としていたハンナ・シグラが、老いた母親役をやっているのを見るのは隔世の感がする。空港から着いたホテルで、冷蔵庫からミニチュアのウィスキーボトルを取り出して飲み、さめざねと泣く姿が痛ましい(そういう役をやるシグラを見るのも同時に)。彼女は、ロッテが下宿していたアパートに行き、ルームメイトから遺品を受け取る。
◆最後は、やはり大女優ハンナ・シグラでしめた。彼女は、獄中のアイテンに面会し、ロッテの死を許す。アイテンはそれを深く、鎮痛に受け取り、派と決別することを決断する。シグラは、それから、偶然、アリの息子のネジャットと会う。彼は、大学教授であることに疑問をいだき、故郷に帰ってトルコに住みドイツ語を読むだろうトルコ人のための書店を開いたのだった。ドイツとトルコとのかけはしになろうという意識がめばえたわけだ。ネジャットは、やがて、父がトルコに帰ってきていることを知る。アイテンは、スザンナに鎮痛な
◆こうして、イスラム的なものに敵意すらいだいていた「古い」ドイツ人女性スザンナと、イスラム的なものを避け、西欧的モダニズムに同化し、そこからの反省のなかで逃れがたい「ルーツ」を見出したトルコ系ドイツ人のネジャットとのあいだに交流が生まれる。それは、ドイツとトルコとの中間地帯の発見であり、自らの文化を否定して異文化に「同化」する転移でも、一点収斂型の「ルーツ」への回帰でもない。ある種トランスローカルな発見である。独語原題は、「Auf der anderen Seite」(別の側へ)だが、それぞれが別の側から接近し、クロスする意味をこめている。
◆ネジャットは、大学でゲーテを教えていた。彼が大学をやめたきっかけの一つに、ゲーテの影響があったかもしれない。ゲーテは、イスラムへの(当時の西欧人としては)最大限の共感をもった知識人だった。ゲーテの言葉の引用があったが、それは『西東詩集』からだったか? 詳細を聞き漏らした。



2008-10-01_1

●まぼろしの邪馬台国 (Maboroshi no Yamataikoku/2008/Tsutsumi Yukihiko)(堤幸彦)  

Maboroshi no Yamataikoku/2008
◆吉永小百合のナレーションで始まるこの作品は、要するに、一人の「勝手な男」の「猛烈」な人生を描いている。ま、「猛烈」といっても、NHKの連続ドラマにありがちなタイプの「猛烈」さであって、わたしなんかが実際に知っている猛烈な奴にくらべれば、ステレオタイプ的である。その意味で、その人物・宮崎康平を竹中直人が演じるのは、グッド・キャスティングである。竹中にありがちなわざとらしさが、ここではうまく活かされている。「名優」吉永小百合も、最近やや鼻につく「名優」ぶった感じが消え、宮崎康平と出会う若い時代のシーンでは、ふと1960年代の彼女のおもかげをただよわせる。バスガール役で映画デビューする柳原可奈子がお笑い芸人を脱皮した演技を見せる。宮崎康平の伝記的な物語映画というよりも、一つのラブストーリーとして見れば、面白い。
◆堤幸彦は、『溺れる魚』や『トリック―劇場版―』の時代が好きで、『明日の記憶』で見切りをつけてしまった。しかし、そういうある種「大型テレビ番組」を作る方に転向したのだと思えば、見方を変えなければならない。この映画は、その点で、『明日の記憶』の系列に属する。それは、音楽に大島ミチル、テーマ曲にセリーヌ・ディオンを採用していることからもうかがわれる。
◆学会の権威主義的な壁というのがあり、民間の研究者が斬新な研究や調査をしても、一顧だにされないことはよくある。特に宮崎康平が島原の遺跡調査をしはじめたころはそういう傾向が強かった。彼は、九州の島原鉄道の社長として成功をおさめ、バスを使った観光というアイデアをいち早く導入したアイデアメイカーでもあったが、彼が世に認められるまでには長い苦節の時代があった。似たような話は、古くは「日本の植物学の父」といまでは称される牧野富太郎の例がある。牧野の学歴は小学校中退だった。宮崎康平の場合、大学卒(早稲田)の経歴があったが、学会というところは、そんなことでは相手に敬意を表することはない。まあ、博士号でも取っていれば、少しはちがうかもしれないが、基本は権威のお墨付きが必要だ。宮崎は、独立独歩の人だったから、自己の欲求と直感で事を進めるのが好きだった。学会は、とりわけそういう手合いを敬遠する。
◆面白いのは、宮崎の経歴だ。彼は、早稲田大学時代に森繁久彌と演劇活動をし、卒業後、東宝に入社している。ということは、彼は、もともと「演出」の才能があったということであり、彼の「生き方」にもそれなりの演出があったということだ。
◆島原に邪馬台国があったという宮崎の仮説が正しいかどうははわからない。が、それを探求する物語として『まぼろしの邪馬台国』(講談社)は多くの読者を惹きつけた。この作品は、康平が口述し、妻の和子(吉永小百合)が文字化し、編集するという共同作業の成果だが、その作業だけでも、人は感動する。むろん、そこには、意識的・無意識的な「演出」と「宣伝」があったわけで、それは、宮崎が身に着けていたものであった。
◆口述するのにテープレコーダーを買ってこいと康平が言うので、和子が、NHK時代の昔の上司(大杉漣)に頼んでプロ用の録音機をもらってくるシーンがある。康平は重役たちの画策で社長を解任され、蓄えも底をついてきたので、和子は得策を講じたのだ。録音機は、民生用でも当時は高価だった。ところで、それを持って帰るシーンがちょっと不可解だった。和子は、苦もなくその録音機を両手にかかえて歩いているのだが、当時の録音機(とりわけプロ用)は、猛烈な重さがあり、持ち上げるだけでも大変だったからだ。
(東映第1試写室/東映)



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