96時間 リベンジ ★★★★★
■Taken 2/2012/Olivier Megaton(オリヴィエ・メガトン
◆サスペンスとしては、前作の『96時間』におとらずスリリングで、飽きさせない。リーアム・ニーソンは、ひとつの〝安定した〟(つまり一定の身体感と雰囲気を醸し出す)キャラクターを演じている。いまは別れてはいるが大人のつきあいを保っている妻(ファムケ・ヤンセン)と娘(マギー・グレイス)の組み合わせも同じ。
◆殺人や拷問も辞さない元CIA工作員のブライアン(リーアム・ニーソン)は、絶対に殺されることはないという安心感を観客にあたえるが、こういう一見安易に見える前提を納得させるのは決して容易ではないから、仕掛けが必要になる。SF的なスーパーマンではないのだから、それなりのリアリティと説得力を個々の場面で用意しなければならない。それをクリアーしたのは、「コロンビアーナ」でも見せたオリヴィエ・メガトン(演出)とロマン・ラクールバ(カメラ)のコンビである。カーチェイスや銃火器のエフェクト処理も地についている。
◆原題には〝リベンジ〟の文字はないが、復讐がテーマであることには変わりない。前作でブライアンに殺されたアルバニアの〝悪党〟たちが復讐を誓い、彼を襲う。ブライアンは決して倒されることはないとわかっていながら、ハラハラさせるところがエンターテインメントの技術。しかし、捕まったブライアンが、天井のパイプに両腕を縛られるという設定は、前回と似すぎている。
◆家族を侵害する者は殺してでも排除するブライアンのやり方は露骨だが、考えようによっては、こういうやり方でこの映画は、復讐というものを否定しているとも言える。つまりこれは、家族を守るという(西欧的個人主義の)〝家長〟の当然の義務であって、決して復讐ではないというロジックが成り立たないでもないからだ。ここには、組織や徒党のような強制的な関係よりも、みずから培った〝愛〟を軸とする関係を重視する西欧的個人主義の轟然たる誇示がある。
◆『96時間』の評でも書いたが、〝映画外〟の常識からすれば、何度も死にそうな目に遭い、目のまえでひとが殺されるのを目撃する娘は、果たして普通の生活を送れるだろうか、という疑問が、映画が終わってしばらくしてこみあげた。
ロンドンゾンビ紀行 ★★★★★
■Cockneys vs Zombies/2012/Matthias Hoene(マティアス・ハーネー)
◆ノースロンドンの工事現場で〝チャールズ二世国王の命により封印 1666〟という表示のある祠の入口らしいものが見つかる。現場の職人がなかにはいってみると、そこは墓場で、シャレコウベがずらりとならんでいる。若い職人がその一つを手にして玩んでいるうちに、いつのまにか骨に肉がつき、ゾンビとなって襲ってきた。これが、イントロだが、シンボリックな意味では、このゾンビの出現は、かつてイスラム系のスラムだったノースロンドンにもジェントリフィケーションと再開発の波がおしよせているという時代の流れとクロスする。だから、ゾンビの増殖のシーンと並行して、街っ子のアンディ(ハリー・トリーダウェイ)とテリー(ラスモス・ハーディカー)の祖父のレイ(アラン・フォード)が入っている老人ホームが閉鎖されつつあるという事態が映される。
◆みえみえの形では決して出してはいないが、ゾンビの出現とその群れは、ロンドンの貧しいひとたちが住む地域が開発のためにジェントリファイされることと重ねあわされており、アンディやその祖父レイたちの反逆は、そうした動向への鬱憤(うっぷん)晴らしでもある。その意味では、とりわけアラン・フォードのつっぱった演技のおかげで、解放感をあたえる。この俳優は、1935年生まれだというから、この映画の出演時に77歳ちかくになっていたわけである。
◆エドガー・ライトの『ショーン・オブ・ザ・デッド』(Shaun of the Dead/2004/Edgar Wright)へのオマージュだという言説があるが、このゾンビ喜劇とはトーンが大分ちがうと思う。
フリーランサー NY捜査線 ★★★★★
■Freelancers/2012/Jessy Terrero(ジェシー・テレロ)
◆先が読める話ではあるが、要所要所が面白い。それぞれに意識も利害も異なる刑事同士が、街のチンピラの逮捕をめぐって撃ちあいになりそうになるシーンなど、見どころはある。
◆デ・ニーロはともかく、フォレスト・ウィテカーが凄い演技を見せる。彼が、コカインを吸うシーンとか、悪徳刑事専門の売春宿でご乱行にふけっているシーン、それらが仇になって殺されるが、ありったけの反抗を見せながら昇天するシーンとか、迫真の演技である。
◆芸達者な俳優のなかでので、素人のカーティス・50セント・ジャクソンのにえきらない迫力のなさが目立ってしまう。が、彼はこの映画のプロデュースもやっており、入れ込み方は尋常ではない。彼としては、司法と麻薬売買の組織との不可避的な癒着、さらには、それがほぼ運命的に逃れがたいものであることを強調したかったのかもしれないが、それにしては、冴えのない演技だった。
テッド ★★★★★
■Ted/2012/Seth MacFarlane(セス・マクファーレン)
◆『ザ・マペッツ』でもそうだったが、ジョン(マーク・ウォーバーグ)は、いい歳になってもテッドベアのペットを手放せない。そのシュールな表現として、人間の言葉をしゃべり、人間と同じ行動をするテッド(声:セス・マクファーレン)が設定されている。ただし、今度のぬいぐるみベアは、ちゃんと歳をとる。
◆ペットを手放せないというシンドロームは、〝正常〟を基準にして否定的に論じられることが多かったが、『ザ・マペッツ』もこの映画も、むしろ独立した一つの対社会的姿勢として描く。これを性関係から見れば、異性愛でも同性愛でもない。ジョンとテッドの関係を同性愛と見るのは無理である。二人はセックスをするわけではないが、同性同士のただの友情関係でもない。むしろ、セックスはしないでもある種の性的関係を持っているような関係と見たほうがいい。テッドのほうは、ジョンとは関係なく女に興味を持ち、(性器はないのに)形だけはセックスの身ぶりをする。ジョンが相手にしてくれないときには、淋しさをいやすかのように、売春婦を何人も呼んでパーティを開いたりもする。
◆テッドの存在は、人間の相手としてだけでなく、テッドのような考えや感じ方の人間をモデル化してもいる。『ザ・マペット』でも見たように、80~90年代のアメリカで子供時代を送った世代には、縫いぐるみをペットにすることをこえて、縫いぐるみ自身になりたい、自分は縫いぐるみなのだと思い込む傾向がある。彼や彼女らが、既存のジェンダー(異性愛、同性愛)と折り合いがわるくてもしかたがない。テッドは、ロリー(ミラ・クニス)が3人関係を嫌いはじめるまでは自分が身を引くことなど考えもしなかった。そもそもそういう観念がないからだ。ジョンのほうも、最初は同様で、同じベッドで3人が川の字になって寝たりもしていた。しかし、ロリーに言わせると、愛しているのだから、彼女とジョンが独占的な関係に入るのがあたりまえだということになる。
◆テッドは、マリュワナ狂いで、ボング(bong)を離さず、コーヒーでも飲むような気軽さでマリファナを吸うが、ここには、肉体を危険にさらすことも辞さない旧世代の依存症的な陰惨さも陶酔もない。基本的に、彼には肉体の負荷がない。彼は肉体性を欠いている(布製の上皮の下には白い綿しかない)のであり、彼が娼婦を好むのは、彼女らは肉体に対して〝普通〟とは異なる観念を身に着けているからだ。ジョンと別れてから、スーパーで働くようになったテッドが、スーパーのレジ係のタミ=リン(ジェシカ・バース)と親しくなるのも、彼女が〝普通〟の女の子ではないからだ。性器のない彼と性交もどきをして満足するのだから。ちなみに、テッドには肉体がなく、。
◆テッドの肉体にリアリティをあたえるのは、わずかに言葉だけである。彼には、言葉が肉体である。だから、彼の言葉は、貧相な外面にくらべて生々しく、どぎつい。彼の声を担当した監督のセス・マクファーレンは、天才的に冴えたアドリブでテッドに〝肉体〟をあたえることに成功している。
◆エピローグは、ジョンがロリーと結婚し、テッドもテミ=リンと恋人関係になるかのように終わるが、どのみち、ジョンもテッドも普通のジェンダーの人ではないので、この関係がそのまま続くかどうかはわからない。この映画は、本当は、こんなつまらないエピローグで終わるべきではなかった。
◆『フラッシュ・ゴードン』(1980)とその主役サム・J・ジョーンズが登場し、青春時代のジョンとテッドが入れ込んだものを示唆しながら、大いにハメをはずして、笑いを誘うが、老いたサム・ジョーンズを見るのはやや耐え難かった。
で、ジョンと別れたテッドは、タミ=リンとの愛を深めるという説明があるが、この〝女性〟はタダモノではないから、テッドのジェンダーは当面維持できそうである。
アルバート氏の人生 ★★★★★
■Albert Nobbs/2011/Rodrigo García(ロドリゴ・ガルシア)
◆この映画にかけた主演のグレン・クローズの情熱はどこから来るのだろうか? 彼女は、オフ・ブロードウェイの舞台で戯曲版(原作小説:ジョージ・ムーア、演出:ロドリゴ・ガルシア)の主役を演じ、30年後に映画化を実現した。今回、主演だけでなく、共同脚本、製作もやっている。おそらく、それは、グレン・クローズが主導している〝Bring Change 2 Mind〟と無関係ではないだろう。この団体は、〝精神病の傷痕と差別をなくするためにともに活動すること〟(前述ウェブページ)を使命とする。
◆時代設定は19世紀はじめのダブリン。人々は貧困と飢餓に苦しんでいた。アルバート・ノッブス(グレン・クローズ)は、そういう時代を生きぬくために男装をしてホテルのウエイターをしている。ケチで陰険な女主人(ポーリーン・コリンズ)も従業員も常客のホロラン医師(ブレンダン・グリーソン)も〝彼〟が女であることを知らない。この時代のダブリンでは、生活のために男装をして男になる女性もけっこういたらしい。貧富の差別や性差別が厳然と存在する条件のなかで〝持たざる者〟が生きていくための悲しい知恵である。
◆ひとの目を恐れながらウェイターの仕事を黙々と続けるアルバートのささやかな夢は、客からもらったチップを貯め、いずれは店を買ってタバコショップを開くことだった。しかしその夢はあっけなく潰(つい)える。ある意味、このひとほどついていないひとはいないだろう。正直者は損をするの典型だ。これだけだと、救いようのない話で、世の不条理(アプサーディティ)を目の当たりにするだけで終わってしまうが、ここには救いがないわけでもない。
◆ある日、ホテルの女主人が、ペンキ職人ヒューバート(ジャネット・マクティア)を泊めるにに、経費節減のためにこの職人をアルバートの部屋に同室させる。男同士なら同じベッドでもいいだろうという女主人の身勝手な判断なのだが、アルバートはこころ穏やかではない。彼は、仕事が終わると、床板の下にチップを隠し、それから乳を思い切り抑えている衣装を脱ぐ毎日だが、他人がいてはそれも出来ない。びくびくしている彼に対して、ヒューバートは、まったく屈託がない。が、そうされればされるほど、アルバートは身を硬くしてしまう。
◆このヒューバートを演じるのがジャネット・マクティアだとわかれば、この〝男〟も男装をしていることがすぐにわかるだろう。しかし、そのメイキャップとマクティアの演技のすばらしさのために、この二人の出会いのクライマックスまで、〝彼〟が男であることに気づかない人もいるだろう。ここは、映画を見てのお楽しみである。
◆貧困、飢餓のうえに、この街をチフスが襲う。ヒューバートは、〝男〟になりきり、愛する女性キャスリーン(ブロナー・ギャラガン)と暮らしているが、その彼女が犠牲になり、夢を失う。同室での出来事で人生初めて心を明かせる友に出会ったアルバートが、急をきいてかけつけてみると、〝男まさり〟の〝大男〟(ジャネット・マクティアは背が高いが、ここでは屈強の大男に見える)が憔悴しきっている。
◆この映画は、トランスジェンダー的なテーマを追っているが、同時に、〝正常〟とみなされるジェンダー(男性と女性)の不幸とともに、ジェンダーを越える(まさにその語の本来の意味のトランスジェンダー)のしあわせのようなものも表現される。ホテルの若いメイド、ヘレン(ミア・ワシコウスカ)は、男に捨てられ、独り身で幼子を残され、途方に暮れている。アルバートの急死によって〝彼〟の床下の〝貯金〟をせしめたホテルの女主人は、余裕が出て、ホテルの室内の衣装直しをヒューバートに依頼する。〝彼〟はヘレンに会い、二人のあいだに愛がめばえるのではないかという期待を残して映画は終わる。ヘレンは〝彼〟が女であることは知らないはずだ。はたして、ヘレンは、ブロナー・ギャラガンが非常に奥行深く演じた女性キャスリーンと同じような相手になれるだろうか? 二人は、〝普通〟のジェンダーを越えてトランスジェンダー的な関係をもてるだろうか? それとも、ヘレンは、〝彼〟が女であることに気づいて、身を退くのだろうか?
東京家族 ★★★★★
■Toukyo Kazoku/Tokyo Family/2013/Yoji Yamada(山田洋次)
◆言わずもがな、小津安二郎の『東京物語』の現代版をめざしている。〝山田洋次 監督50周年記念〟ということもあり、力が入っているのだが、小津作品の姿勢とは大分ちがっている。小津は、<ローカル>にこだわることによって、<世界>に通底したが、山田は、<日本>にこだわることによって、<ローカル>性を軽視し、<世界>に通底することができなかった。
◆小津は、戦争の影をしっかりととらえたが、戦争のセの字も映画のなかでは論じなかった。原節子が戦争未亡人であること、息子の遺影等々で暗示するだけだった。これに対して、山田は、311に触れ、「どっかでまちがえてしまったのだ、この国は」とマスコミで聞き飽きた〝憂国〟の言葉を橋爪に言わせる。
◆『東京物語』が公開された1950年には、たとえば杉村春子が発する功利的な言葉や態度は、きわめてどぎつく映った。当時流行の言葉で言えば、彼女は〝アプレ〟であった。田舎から両親がせっかく出てきたのに、この態度はないだろうという共通感覚で批判的に見られたはずだ。しかし、『東京家族』で杉村の役を意識しながら(その意味では見事に)演じた中嶋朋子が発する言葉や態度は、いまの時代では、全然どぎついとは思えない。むしろ、逆に、どぎつそうに言いながら、どこかで後ろめたい意識を持っているらしいところが、意外に古い感じをあたえる。
◆とにかく、意識が変わってしまった。たとえば、いまでも引っ越しの通知で〝お近くにおいでの折は、どうぞお立ち寄りください〟と書くが、いまの時代に、〝近所まで来たので〟といっていきなり訪問したら、それが友人の家でも、親戚の家でも、えらく迷惑がられたり、すんなりとは受け入れられないだろう。しかし、1950年代には、突然の訪問は特別ではなかった。だからこそ、『東京物語』で、はるばる、しかも突然ではなく、久しぶりに訪ねてきた両親に対して心からのホスピタリティを示したのが、実の子供たちではなくて、亡き息子(戦死)の嫁(原節子)だったというところに小津安二郎は、時代の変化と憤りと哀れさを描いたのだった。
◆小津は、決して月並みなパターンを映画に取り込むことはしなかったが、『東京家族』には、そういう要素が横溢している。原節子に代わる役者はいないから、それを不在にして妻夫木聡と蒼井優の新しい登場人物をつくったのだが、彼と彼女が演じる登場人物が知り合うきっかけは、311で破壊された東北へのボランティア活動の現場でだったという。あまりに月並みではないか。
◆ボランティアの問題に触れるのなら、このボランティア活動への参加の意識の屈折にも若干は触れてほしい。この映画では、二人ともある種の〝社会意識〟を持つ若者であるというステレオタイプ的な認識が見えるが、ボランティアに参加する若者の意識はもっと屈折している。社会のためになにかしたいということが強迫観念になっている一面と、震災→手助け→ボランティア募集という外からあたえられた参加方法に身をゆだねることによって自分を安心させようとするという甘えなど、さまざまな因子がからんでいる。〝ボランティアに行ってきました〟という若者で心の問題をかかえていない者は少ない。だから、311の場合は、逆にボランティアに参加したことによって、〝ボランティア〟などという生易しいことでは被災者を助けることになどならないことを痛感して、かえって滅入ってしまうような若者も出てきた。それは、あたりまえである。
◆妻夫木聡と蒼井優は、小津の作品にはいない人物なので、自由に演技している。図表まで作られているので触れる必要はないかもしれないが、『東京物語』の主要な俳優たちの演技を意識し、言葉つきまで真似ようとしている個所も多々あるが、東京の言葉自体変化してしまっているから、あまり効果がない。橋爪巧→笠智衆、吉行和子→東山千榮子の関係が見えれば見えるほど、滑稽な感じがする。
◆妻夫木や蒼井が演じる若者は、たしかに〝いい若者〟たちである。しかし、映画では、昌次(妻夫木聡)が、生業に就かず演劇の舞台装置のバイト的な仕事をしていることが、世間的には半端だと設定され、それを最終的に親が認めてくれたらしいのを称賛するかのようなとらえかたをしている。ばかな話である。こんな単純な構図でいまの時代の仕事の状況をとらえてほしくない。
アルマジロ ★★★★★
■Armadillo/2010/Janus Metz Pedersen(ヤヌス・メッツ・ペデルセン)
◆デンマークの若者4人が、アフガニスタン駐留の国際治安支援部隊 (ISAF)に参加するために、家族と別れアフガニスタンに向かい、通称〝アルマジロ〟と呼ばれる前進作戦基地に向かい、もどるまでの7か月間を動向取材のカメラが追う。
◆無礼講のお別れパーティ、家族との別れ、軍用機での移動、日常生活、故郷の家族や恋人との無線電話での通信、監視とタリバンの探索・・・。タリバンとは距離を置く民衆、しかしよそ者である部隊には敵の疑いがないでもない。無人監視グライダーを飛ばせての監視。キャンプでの生活。突然、砂漠の向こうの茂みのなかから銃撃が始まる。銃声が聞こえ、カメラは大きく揺れ、映像が回転する。映画でよく出てくる銃撃のシーンと決定的に違うのは、弾の音が乾いていること、連続的に撃ちあう銃の音が、あたかも音楽のように聞こえること・・・。それは、目立たない形で音楽効果を加えている――これはないほうがいい――ためでもあるが、これは、ある意味で耽溺する経験だ。一度くいう銃撃体験をすると、その経験を何度もしたくなるのではないか? 撃ちたいとか敵を倒したというのではなく、極度に濃縮された時間が突如吹き上がり、気づくと、敵や味方が倒れているが、それはつけたしなのだ。
◆この映画では、ハリウッド映画の銃撃戦のシーンような色あざやかで〝迫力〟に満ちたシーンはない。だが、ポスターやチラシで使われている写真の一つに、やけに目をぎょろっとさせた兵士のすがたがあるが、これは、デンマークの若い兵士の一人がタリバンの銃撃で負傷した直後のシーンだ。映画では、銃で撃たれるシーンがかぎりなくあるが、こういう演技はまったくなかった。撃たれると、痛さに七転八倒するよりも、このように(意識がありながら)放心したような状態になることがあるらしいのだ。
◆イスラム圏に〝平和〟をもたらすという大義で西欧諸国の軍が侵入すること自体の無理と矛盾を感じさせる105分。
カラカラ ★★★★★
■Karakara/2012/Claude Gagnon(クロード・ガニオン)
◆カナダで大学の教授をしていたが、自分の求めることが教職ではなかったと感じならが、〝自然と一体になった生活〟を沖縄にあこがれてやってきた60代のピエール(ガブリエル・アルカン)と、海外経年のある沖縄生まれの女性純子(工藤夕貴)とが出会う。行先を地図で探しているピエールに純子が声をかけ、親しくなるとか、純子が夫とうまくいっていないとか、そもそも沖縄をエコロジーの秘境と思って来ている外人といった設定から、先が読めてしまうところがあるわけだが、工藤夕貴の太っ腹な演技で全編あまり飽きなかった。
◆ガブリエル・アルカンが演じる男は、役柄通りぱっとしないのだが、夫の暴力をのがれて彼のホテルにいきなりやってきた純子をやさしく迎える。予想通り、彼は彼女にキスをし、セックスをすることになるのだが、カメラが退いて、部屋の外が映るときに聞こえる純子のとほうもなく大きな性の音声がほほえましい。
◆ピエールが、憧れる芭蕉織の名匠・平良敏子に面会し、弟子入りを頼むシーンとか、海辺でその自然を堪能するシーンとか、よく外国人がイメージするオリエンタリズムのパターンが見られが、それとバランスを取るのが純子の存在だろう。日本社会にどっぷり漬かった者には(たとえ、純子であれ、日本人の夫とはうまくいないように)こういう環境でピエールのように単純に心の平安を感じるわけにはいかない。異質なルーツの持ち主が出会い、異質なものをまぜあわすときにしか、〝日本〟のとか〝沖縄〟のといった固有性を尊重することはできないのではないか?
◆飲み屋のシーンで、ピエールは、次々に歌いだす客になじめず、早く自分の部屋に帰りたいと思う。すすめられた肉料理も、自分はヴェジタリアンだということで食べない。純子は、これをたしなめる。料理には作った人たちの心がこもっているから、食べないのは失礼だと。たしかにそうなのかもしれない。西欧文化の習慣では、<自分>が嫌うことを抑える必要がない。が、それも限界が見えてきた。他方、いやいや集団の慣習に雷同し、耐える日本の<集団主義>も限界に達している。強制すれば、暴力として訴えられたりもする。この映画で、エピソード的に出てくる純子の夫の存在は、もっと時間を割いて描くべきだった。
◆最後のほうのシーンで、肉を食べないピエールが、純子につきあって、黒豚を食べ、〝残念なっがら美味いね、豚が苦しまずに死んだことを祈るよ〟と言う。菜食主義も原理主義はいけない。美味いと思うのなら、何でも食べたほうがいいだろう。が、日本の社会の流れは、ますます原理主義にむかっているように見える。
ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日 ★★★★★
■Life of Pi/2012/Ang Lee(アン・リー)
◆映画の体裁は、数奇な体験をしたというインド人のパイ・パテル(イルファン・カーン)をカナダ人のライター(レイフ・スポール)がモントリオールの自宅を訪ね、話を聞くという形になっている。その話は、パイが5歳のとき(ゴータム・ベルール)から11~12歳のとき(アーユッシュ・タンドン)、そしてトラと同じボートで生活をする青年のパイ(スラージ・シャルマ)にまでおよぶ。物語形式だから、その話の信憑性は話し手の気分次第であり、誇張や誤解や法螺が含まれても不思議ではない。そこが、ほら吹き男爵ことミュンヒハウゼン男爵の物語でもよく知られた<物語形式>の面白いところだが、この映画では、その描写があまりに生々しいので、そうした物語性は、どこかに吹き飛んでしまう。だから、聞き手のライターが中年のパテルに話を聞く場面に行ったり来たりするところは、かえって無駄に見えてくる。イルファン・カーンという俳優は、どこか胡散臭いところがあるので、
これって本当かね>という思いをいだかせるところもあり、その点でこの映画の<物語性>を補わないでもないのだが、すでに述べたように、映像の凄さがそれを相殺してしまう。
◆パイがまだ幼い時代に、彼の父親がトラの野生の凄さを教えるシーンで、トラが猛烈な勢いで生肉に飛びつくシーンは、ホンモノのトラを使って撮ったのかと思ったら、CGだった。この映画のCGに質の高さは相当なもの。
◆インドで動物園をやっていたパイの親が、経済的に立ち行かなくなり、動物を船に乗せて、海外移住を決断し、出帆するが、途中で嵐に遭い、パイを除いて、行方不明になる。まだ嵐が来るまえ、船中で差別意識丸出しのコックがいるが、それを演っているのが、ジェラール・ドパルデューで、意外だった。ジョークのようなシーンである。
◆救命ボートに乗って目が覚めたら、動物たちが乗っているのにパイが気づくのだが、シマウマがいて癒になるかと思ったら、ハイエナもいて、これに食われてしまう。ハイエナがシマウマを襲うやり方がリアルで、これもCGなのかなと思った。
◆動物を出しながら、動物を擬人化せず、野生のまま描いているのがいい。
◆映像が凄すぎると言ったが、やっと島が見え、上陸して一晩明けると、その島がびっしりミーアキャットだらけで、夜になると一帯がコバルト色に光っているのでなにかと思うと、それは、おびただしい数の肉食生物だというシーンは、実に美しく、幻想的で、歴史に残る映像である。
塀の中のジュリアス・シーザー ★★★★★
■Cesare deve morire/Caesar Must Die/2012/Paolo Taviani & Vittorio Taviani(パオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ)
◆劇場公開のパンフレットに文章を書いたので、そちらを読んでほしいが、ローマ近郊にある重刑の受刑者用刑務所レビッビアのなかで、囚人たちがシャイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を演じるプロセスを記録するという形をとりながら、実際には、撮影のための演技(演技をする演技)までさせてしまう。さすがタヴィアーニ兄弟の作品だ。映画を実践的に使っている。つまり、描写や記録としてだけでなく、場を変える装置として映画を能動化する。要するに、ふだんは禁じられていることを受刑者たちにやらせてしまうということだ。限られた場所しか動けない受刑者に刑務所内の多くの場所を使わせ、ふだんは絶対にできない〝内密の謀議〟、〝殺し〟、〝蜂起〟を映画のための演技であれ、とにかくやらせてしまった。
◆殺人や麻薬密売などで当面外に出る見込みのない受刑者につかのまの自由を味あわせるという意味で、したたかなプロジェクトを考えたものだ。刑務所を見れば、その国家が国民に対して何をさせたがらないかがわかる。国家が安心する支配の方法とは何かがわかる。この映画で受刑者たちは、一見、自由に演技しているように見える。が、演技が終わって自分たちの監房にもどり、刑吏がドアの二重の鍵を開けるのを待つときの姿に注意されたい。そのうつむきかげんになった姿勢は、いままでの自由さとうってかわった被支配者のものだ。彼らは、依然として囚人なのである。
◆このレビッビア刑務所は、アントニオ・ネグリが赤い旅団(映画『首相暗殺』、『イヤー・オブ・ザ・ガン』、『夜よ、こんにちは』などを参照)の理論的黒幕という嫌疑をかけられ、収監された場所。彼が、したたかにも、ここから国会議員に獄中立候補したとき、わたしは、支援の手紙を出した。彼の弟子のマリア・ローザ・ダッラコスタ(『家事労働に賃金を』などの著者)が仲立ちしてくれたのである。すぐぐに返事が来て、それを法政大学の学館ホールで行われた集会で読んだ(詳細→・)。ところが、意外にも、彼は当選してしまった。しかも、当選して議員特権で獄を出ると、ドゥルーズやガタリやフーコーの支援をたよりに、急遽、フランスに亡命してしまった。以後1997年までの14年間、パリに住み、数々の著作を発表する。ところが、14年後、彼は、イタリアへ帰ることを決断する。数々の起訴事項は未解決であったから、当然イタリアに戻れば逮捕される。実際に彼は、またレビッビア刑務所に入ることになった。その間のことは、YouTubeにも載っているインタヴューや、『未来への帰還』(杉村昌昭訳、インパクト出版会)に詳しい。そんなわけで、この映画は、ネグりも収監されたレビッビア刑務所の内部を見ることもでき、興味深かった。
明日の空の向こうに ★★★★★
■Jutro bedzie lepiej/Tomorrow Will Be Better/2011/Dorota Kedzierzawska(ドロタ・ケンジャフスカ)
◆ドロタ・ケンジャフスカの前作の『木洩れ日の家』(2007)では高齢の老婆の目から、社会主義時代からひきついだ官僚的な空気と新たに増殖した〝アメリカン〟な欲望追求の空気とのあいだで生きる旧世代の居心地の悪さと、それを達観したような静逸さとが不思議な魅力をたたえていた。本作では、ロシア側からポーランドを見る。
◆2005年の『僕がいない場所』に関して、わたしは、<この映画は、むしろ、子供は親などいなくても生きていけるし、ましてダメな親などいらないということを描いているのであり、親が庇護する「家庭」などなくても生きていけるし、子供は子供の世界を創造できるのに、それをダメにしてしまうのがむしろ親が統括する家庭というやつなのだ、と>と書いた。この映画は、このことを別の角度から追う。子供自身にはそういうポテンシャルがあっても、国家がそれを展開させないという国家批判は、この映画でも一貫している。
◆あきらかに、ロシアの国に依然として残る官僚制や貧しさが強調されている。だから、3人の子どもたちは国境を越えようとする。彼らは、親のない浮浪者であり、駅に〝不法〟に住みこんでいる。
◆国境を越えてポーランドの村に入ると、雰囲気ががらりと変わる。ポーランド側の子どもの集団が3人を見て、「しるしは何? からっぽのおなか」とロシア人の貧しさを嘲笑するが、それ以上陰険な行為には出ない。
◆警察署の署長は、彼らを受け入れたいが、自ら「亡命したい」という意思表示をしないかぎり、強制送還するしかない。これは、ある意味、この映画の実用的メッセージである。子どもたちも、国境を超えるときには、「亡命します」という言い方を覚えていることと。
◆強制送還せざるをえなくなり、連絡を取ると、軍の護送車がすぐ来る。署長が、「もう来たのか」と言う。ここには、こういうときだけ効率的なロシアの軍への揶揄がある。
◆ペチャという3人のうち最年少の子どもを演じるオレグ・ルイバの演技は、どこまでが演技でどこまでが自然のふるまいなのかがわからぬくらい自然だ。子どもの思いつきの行動、笑うととまらなくなってしまう素朴さがこんなに横溢している映像はあまり見ない。
人生、ブラボー! ★★★★★
■Starbuck/2011/Ken Scott(ケン・スコット)
◆最初に、青年が病院の一室で、ポルノの雑誌を看護婦から与えられて、マスターベーションをするシーンがある。どうやら、そこは、精液を買う病院らしい。すぐに画面は、オープニングタイトルになり、パッパッパッと映る画面には、なぜか栽培した大麻の葉が意味ありげに映る。クレジットが終わると、寝起きまえのベッドで2人のヤクザっぽい男に襲われて「わかった、わかった」と叫ぶヒゲ面の中年男(パトリック・ユアール)の姿がある。何のことかわからない。あとでわかるが、このダヴィッド(フランス語読み)は、借金がかさんでその返済を迫られているらしいのだ。その額も、8万ドルだという。いったいどうしてそんな借金をしたのかという疑問をふくめ、さまざまな謎をちらつかせながら映画は始まる。
◆詳細は映画を見てもらうとして、この男の謎のひとつにして最大のものは、彼が、20代のときに両親にイタリア旅行をさせるために693回にわたりクリニックに通って精子を売り、総額2万4千255ドルもの大金を稼いだことがあるということだった。そして、そのクリニックは彼の精子を有効利用し、結果として、ダヴィッドは、533人の父親になってしまうのだ。
◆面白いのは、533人の息子や娘たちが、団結し、親探しを始め、一人の父親と再会するのである。これだけで喜劇として十分だが、含みとして、親子関係に対する既存の観念を再考させるところがあるのが面白い。一般に、500人もの子供を持つ親はいない。が、現代の医学はそれを可能にし、実際にありえることにしてしまった。その結果は、既存の親子関係、つまりエディプス・コンプレックスや自分を捨てた父親というような傷や屈折に彩られた親子関係が、完全に異化されてしまう。533対1では、とてもエディプスやエレクトーラのコンプレックスを抱くことはできないし、独占もできない。そして、実は、これこそ、テクノロジーが支配する社会における来たるべき親子関係なのだ。この映画は、そうしたことを明確に意識して作られてはいないが、そういう含蓄を読みながら見ることはできる。
陰謀のスプレマシー ★★★★★
■The Expatriate/2012/Philipp Stölzl(フィリップ・シュテルツェル)
◆原題は、〝海外在住者〟の意味。
◆元CIAエイジェンとのベン・ローガンを演じるアーロン・エックハートは、最初テクノロジーのエキスパートの感じで出てくるときは、わるくなかったが、段々体を張って闘ったりするようになると、ちょっとミスキャストかなという思いにかられた。しかし、見かけとは裏腹に殺しのプロなのだが、娘のエイミー(リアナ・リベラト)に対し自分の職業や長い不在に罪責感を抱いている〝心優しい〟人物という面もあるので、エックハートでよかったのかもしれない。しかし、彼の演技で見事といえる場面はほとんどなかった。
◆この映画で一番目立つのは、オルガ・キュリレンコだが、彼女の演技力からすると、出し切っていないという感じ。
◆人が大量に撃たれたりするが、ベルギーのブリュッセルやアントワープのような街でこんなに死者が出たら、街が戒厳令状態になるのではないか?
東ベルリンから来た女 ★★★★★
■Barbara/2012/Christian Petzold(クリスティアン・ペッツォルト)
◆時代は1980年、場所は東ドイツ(撮影はベルリンから50キロほど離れたブランデンブルクで行われた)。ベルリンの壁崩壊まえだから、社会主義政権下の時代である。医師のバルバラが東ベルリンの病院から左遷されて来た辺鄙な土地の病院での日々が描かれる。〝不適切〟な人物というレッテルを貼られている彼女は、予測外のときにシュタージ(秘密警察)の〝臨検〟を受け、家宅捜索だけでなく、(幸い)女性係官から性器の検査(何かを隠しているというのか?)まで受ける。当然こういう環境では、人々はたがいに相手を信じない生活をすることになる。バルバラ役のニーナ・ホスは、終始なじめない表情でこの役を演じる。
◆こういう映画を見ると、東ドイツ時代の社会はいかに硬直していて、人々はたがいに不信感をいだきながら暮らしていたのだと思わされるのだが、それは事実としても、そういう体制が終わってしまったいま、ひとつの教訓(二度と繰り返さないための)としては有効だとしても、そうした批判的映像をくりかえしていても仕方がないという気がする。この映画では、不当(ここではすべてが不当である)に拘束されている少女(ヤスナ・フリッツィー・バウアー)をバルト海沿岸から北欧に脱国させるプロットまであるので、ある種のスパイ映画的サスペンスとしては面白いが、それで?という疑問が残らざるをえない。
◆どんなにひどい体制にもプラスの面があり、それを含めて描かなければ、非常に偏った傾向的な映画になってしまう。この映画では、バルバラが左遷された病院の上司アンドレ(ロナルト・ツェアフェルト)が、体制にもかかわらずの良心的な姿勢をつらぬく人物に配置されている。バルバラは、最初、彼を信じないが、次第に親しみを感じるようになる。彼は、どこにでもいそうな好人物だが、わたしなどは、こういう人物こそある種の緩衝材(クッション)として機能し、硬直した体制の生き延びを許すのだという思いもあるが、映画はそこまでは深入りせず、バルバラとのあいだに愛情のようなものが生まれることを暗示しながら終わる。
ザ・フューチャー ★★★★★
■The Future/2011/Miranda July(ミランダ・ジュライ)
◆監督のミランダ・ジュライは、もともとはパフォーマンス・アーティストだった。わたしも、同じフェスティヴァルでいっしょになったことがある。サウンド・アーティストを列記したサイトでは、わたしと彼女とが隣り合わせにリストされている。わたしは、ラジオアーティストであって、サウンドアーティストではないのだが。
◆この映画も、だから、前作の『君とボクの虹色の世界』(2005年)と同様、パフォーマンス・アートの組み合わせであるが、そのつなぎ方は前作よりもはるかにシームレスになっている。治療中のネコの内的独白のように提示されるヴォイスチェインジャーを通した声は、ジュライが得意とするサウンドアートの転用である。彼女が伸縮性のある布袋にすっぽりと体を包み、軟体動物的な動きを見せるのも、ヨーゼフ・ボイスなどのパクリである。彼女がUSBカメラのまえで試みるダンスは、手や足の動かし方からして舞踏(Butho)の流れをくむ。
◆ソフィー(ミランダ・ジュライ)は、一度顔をあわせただけの画家(デヴィッド・ウォーショフスキー)の家をいきなり訪ね、以後、全く〝劇的ではない〟成り行きで性関係を結ぶ。そんなある日、彼女は、自分の家にいて、急に彼に声をかけたくなり、窓から体を乗り出して大声を出す。このシーンは、うっかり見過ごせば、ちょっと変わった子が思いつきでやった身ぶりにすぎないかのように見えるが、あきらかにこれは、イヴ・クラインの『空虚への飛躍』(Le Saut dans le vide)を意識している。このとき、彼女は、彼に生の声を聴かせるために叫ぶのだが、彼の家が声の届く距離にあるかどうかは考えない。ほとんど発作的に、そうしたいと思ってするのだが、ケータイで予告するところのコンセプチャリティはメディアアート的である。
◆ジュライが演じるソフィーとその恋人のジェイソン(ハミッシュ・リンクレイター)との関係は、次第に鬱っぽくなる。彼女が〝不倫〟をすることによって二人の仲は決定的になるが、ある意味、この映画は、カップルが、演技的な関係とパフォーマンス的な関係とのあいだをゆらぐ話でもある。最初のほうのシーンは、気取り(プリテンション)が強く感じられるかもしれないが、これはたがいに役を演じている演劇的な関係だ。他方、ソフィーは、自分の日常を発作と自発性に生きる、パフォーマティヴなものにしたいと思っている。全体としてみると、二人は、たばいにその関係を創造的な即興性にみちたパフォーマティヴものにすることに失敗する。
みなさん、さようなら ★★★★★
■Minasan, sayounara/2012/Yoshihiro Nakamura(中村義洋)
◆この映画の宣伝文には、<「一生、団地の中だけで生きていく。」そう決めた少年の、20年間の物語>とあり、世界中どこへでも行き、どこへでも住んでやろうというグローバリズムとは裏腹に、狭い世界、ローカルな世界に執着する人物の話なら面白いではないかと思って、試写におもむいた。いまの時代、グローバリズム的な冒険が推奨される一方で、ヒキコモリや鎖国志向のような自閉的な現象があらわになっている。ならば、徹底的に引きこもってしまったらどうか、アドルノが言った〝越冬の戦略〟の日本的応用である。映画は、決してそういうことを考えて作られたわけではなかったが、ヒキコモリを単に乗り越えられべきものとはとらえない考えが背後にあることはたしかだと思った。久保寺健彦の同名の小説を比較的忠実に映像化している。
◆主人公の少年・渡会悟を演じる濱田岳、看護婦をしながら彼を育てる母役の大塚寧々、団地の隣室に住む松島有理役の波琉、悟が恋する同級生早紀役の倉科カナなどなどみなそれぞれに自然な演技を見せていて、違和感がない。新劇調の他人事のような発声法がなくてよかった。
◆時代設定は、1981年から1998年まで。場所は郊外の団地。冒頭で流れる団地紹介の映像は、この団地がまだモダンで〝進歩的〟な雰囲気でもてはやされる時代があったことを思い出させる。たしかにそういう時代があった。そのころ団地に対比されたのが〝木賃アパート〟つまり木造賃貸アパートで、〝マンション〟には手がとどかないが、それなりの〝近代〟生活を送れる集合住宅として脚光を浴びた。それば、高度経済成長からバブル経済の時代になし、さらに〝国際化〟の時代になって、とりわけ郊外の団地は、出稼ぎ外国人の難民住宅のようになり、団地は否定的なイメージでとらえられるようになっていく。映画は、このプロセスを追う。
◆悟は、オタク世代とも重なっており、マニュアルで自己学習する能力がある。テレビで見た大山倍達を敬愛していて、彼の極真空手をマスターした。その技は、やがて、出稼ぎ外国人の娘をヤクザグループから救うときに役立つ。大山倍達はたしかに、80年代の少年にはヒーローだった。
◆悟に性体験をイニシエイトしてくれる隣の同級生・波瑠がぽろっと言う言葉――〝悟ちゃん、ブリーフはやめたほうがいいよ〟も時代を感じさせる。白のパンツしかなかった時代からブリーフの時代になり、それがダサいと思われる時代が来た。
◆〝ネタバレ禁止委員会〟がうるさいので書けないことが多いが、悟は、最後には団地を出ることになる。しかし、わたしは、あえて原作を無視して彼が絶対に団地の外には出ないという方向でドラマを作ったほうがよかったと思う。彼は、団地をすべての知り合いたちが出ていき、そこが廃墟となったあともそこに留まり、ユートピア的スペースをつくって、離れていった知り合いたちを呼びもどすというのがいい。団地を壊して新しいコミュニティ住宅が建つということになり、立ち退かない悟は、機動隊と闘う・・・。そこまで描けたら、もっと面白かった。
■粉川哲夫のシネマノート