粉川哲夫の【シネマノート】
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    ●アカデミー賞予測→「専用ページ開設

今月気になる作品

★2.8/5  ウォール・ストリート (先が読めない情報資本主義経済への批判的アプローチとしてよりも、その世界を突っ走って来て、収監までされたが、獄中で本を書き再び証券界に影響力を持つしたたかな親父と、彼を軽蔑して来たが、所詮はデジタル経済の子である娘とのファミリードラマとして見たほうが面白い。オリバー・ストーンは政治的にナマッたわけではないと思う)。
★4/5  ザ・タウン (ベン・アフレックが監督としてタダモノではないことを示す。アブナイ男を演じるジェレミー・レナーも見もの)。
★3.8/5  再会の食卓 (個別特殊なことを描きながら、ふと気づくと妙にシュールな世界にまぎれ込んでいるような気分になる不思議な映画)。
★2.9/5  洋菓子店コアンドル (加賀まりこがこういう役を演じる時代になってしまったのかと思ったが、これは極めて個人的な印象。蒼井優に冷たく接する江口のりこがうまい)。
★3/5  パラノーマル・アクティビティ2 (くだらないが面白い。見直すたびに何かが見つかる。前作より「プロ」っぽくなってしまったが、監視カメラ的映像の活用がこの映画をシリーズとして延々と撮りつづけることが出来る可能性を示した)。
★3.5/5  ヒア アフター (←「殺す人」だったクリント・イーストウッドが、最近は、「死ぬ人」になったり、死後に興味を持ったりするのは、歳のせいか。が、ふと、この映画は世界的な「ひきこもり」現象へのイーストウッドの提案でもあるなと最近思い、評価を変えた)。
★4/5  トスカーナの贋作 (←ノートでしっかり書いた)。
★3/5  ゴンゾー ならず者ジャーナリスト、ハンター・S・トンプソンのすべて (言いたい放題、やりたい放題をして死んでしまったH・S・Tのような生き方は、いまでは「何なの?!」ぐらいのインパクトしかあたえないかもしれない。例の帽子とサングラス姿で、"That's It." (「それだけが人生さ」と聞こえる)と言い、原っぱをカメラから遠ざかっていくラストとともにいまの――「造反無理」の――時代が始まった)。
★3.8/5  ありあまるごちそう (批判や教訓めいたことを言わずにずばっとモノを見せることの強さ。観終わって、酷い時代だと思う)。
★2/5  戦火の中へ (すぐれた撮影のために、朝鮮戦争で絶望的な死闘に巻き込まれた71人の少年兵たちの限界状況よりも、戦争アクションとしてのスリルのほうが印象に残る。アメリカはずるく、「北」は憎たらしいパターンになっているのも、その印象を強める)。
★2.8/5  サラエボ,希望の街角 (ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の傷が癒えたかにみえるセルビア。「非宗教」(セキュラー)の生活をしているカップルのあいだにイスラム原理主義が割り込む。飛行機のアテンダントをする女と、失職し、心のよりどころにも迷う男。別に「テロリスト」になるわけではない。もっと生活に密着した「原理主義」セクトの問題がラブストーリー的屈折のなかで描かれる)。
★4.2/5  悪魔を見た (← これも、物や者が「モノ」化してしまったいまの時代にわれわれの身体の奥底から出現する魔的なものをあらわにする)。
★4/5  英国王のスピーチ (英国王室も大変だったんだという同情を呼び覚ます意味でジョージ6世を演じたコリン・ファースに賞状が贈られそう。いや、エリザベス女王――ジョージ6世の娘ですな――がこの映画を観て泣いたとか)。
★3.5/5  アンチクライスト (ヘンデルの「リナルド」とともに、ヴィレム・デフォーさん、いつくになっても頑張るねぇと言いたいようなイントロなのだが、馬鹿にしてはいけない。『愛のコリーダ』にも似たラース・フォン・トリアの渾身の一作である。肉の存在がますます軽くなる時代に)。
★4/5  シリアスマン (コーエン兄弟のルーツ――ユダヤ性――がかなり直裁に描かれている。東欧のイーディッシュ文化という点ではウディ・アレンとルーツを同じくしながら、ニューヨークではなく、中西部で育ったことでユダヤ性がより東欧的な形で展開するところが面白かった)。

今月のノート

木洩れ日の家で   キッズ・オールライト   恋とニュースのつくり方   ゲンスブールと女たち   英国王のスピーチ   ザ・ファイター   四つのいのち   SOMEWHERE/サムウェア   ブルーバレンタイン   4デイズ   抱きたいカンケイ   127時間  


2011-02-24_2
★3/5 ●127時間 (127 Hours/2010/Danny Boyle)(ダニー・ボイル)  

◆ジェームズ・フランコ演じるロッククライマーのアーロンが、慣れているはずの岩の深い裂け目を移動していて、うっかり不安定な岩につかまったため、落下する。そして次の瞬間、彼は、その裂け目に宙ぶらりんとなる。何と、右腕が大石と岩盤とのあいだにはさまれ、裂け目の壁に止めつけられたような状態になったのだ。手がはさまれるのだから、痛いだろう。痛くて何もできないだろう。ところが、この男は、それほど痛がらない。むしろ、一体自分はどうしたんだといった顔をしている。神経が麻痺してしまったのか? やがて、男は、アーミーナイフで岩を削ったりして脱出を試みる。そして、以後「127時間」の彼のあがく様がさまざまなショット、フラッシュバック、すぐれた音・音楽効果とともに展開する。
◆一言にしていえば、ダニー・ボイルらしさがほぼ全部投入された映画だ。彼の作品に共通する、「主題」を出しながら、微妙にずれているのも彼らしい。誤解のないように敷衍しておくと――作品自身は、岩に腕をはさまれ、自分でそれを切り離すまで「127時間」「不屈の闘い」をした実在の人物のリアルストーリーを描いているという体裁を取っている。しかし、にもかかわらず、そのスタイルは映像も音もオシャレであり、その極めて「深刻」な状況を描いているにもかかわらず、笑ってしまいたくなるようなユーモアを含んでいるのである。わたしは、そのシュールな切れ味のいい映像と音を評価したいが、アカデミー賞ではどこを評価されるのだろうか、あるいはどこがハンデになるのだろうか?
◆ダニー・ボイルは、ある面では、人間の極限状態に興味を持ってきた。それは、『ザ・ビーチ』、『サンシャイン2057』、『28日後・・・』によくあらわれている。今回の『127時間』も、そういう面が強い。しかし、同時に、ボイルの映画には、『ミリオンズ』で子供たちがダンボールでつくった家のようなヴァーチャルなユートピア空間への興味も強い。つまり、「極限的」空間・関係は、即、「ユートピア」的空間に一変しうるのであり、その逆も可という設定である。この『127時間』では、最初のほうで、アーロンが、道に迷った二人の女性に道を教え、秘境のような空間で水遊びをするシーンが、ある種の「ユートピア」的空間である。それが、一瞬にして「恐怖」の空間に転じるところも、いかにもボイル的である。
◆苦痛に顔を歪めるシーンもあるし、最後には、どうしてもはずれない腕を切り落としてしまうのだから、身体的には大変なことのはずだが、(少なくともわたしには)ほとんど痛みというものが伝わってこなかった。それは、まるで、「不条理演劇」でよく描かれたような、本来は悲惨な出来事なのだが、全体としては「哲学的」で、見ている方は逆に笑ってしまうようなところがある。分割画面やハイスピード撮影などをおしゃれに駆使した映像は、そういう効果を最初からねらっているかのような感じさえする。しかし、最後は実話の映画化であることを再確認するかのように、実在のアーロン・ラルストンの姿も映し出す。この「矛盾」がダニー・ボイルのスタイルなのだが、なじめない人もいるだろう。
◆ダニー・ボイル流に見れば、ここには、「身体の解放」の問題も描かれている。文字通り、自分の身体からその一部(とりわけ最も重要な腕)を切り離すのだから、それは、解放でなくはない。ボイルのすべての作品を通じて、個人が社会とどうつながっていくかという問題が根底にある。『ビーチ』では、60年代のコミューンのような空間が登場し、そのユートピア的な人間関係が全然そうはならないことが描かれた。『127時間』のアーロンは、岩にはさまれているあいだに色々な反省をする。恋人とのこと、家族とのこと。岩場に来ることを誰にも告づに来たのは、自分勝手(セルフィッシュ)だったからだ。全部自分で出来ると過信したからだ。実際には、アーロン程度のことは誰でもやっており、彼が特に自分勝手だとは思えない。しかし、彼は彼なりにそう思う。少なくとも、腕を切り離して生還したあとの彼は、まえより「社会的」に解放された人間になったことは確かなのだ。事件が報道され、社会的な「ヒーロー」になったことも事実である。が、そんなことよりも、彼は、自分の腕を切り離すことによって、自己中心の自分を捨てたこともたしかである。しかし、全体としては、ポイントのはっきりしない映画であることも否めない。
◆はさまれているあいだ、アーロンは、デジカメとDVカメラで自分の姿を映し、「遺言」を記録しようとする。これは、実在のアーロン・ラルソトンが行ったことであり、撮影にあたってジェームズ・フランコはその映像(公開はせず銀行の金庫に預けてあるという)を見せてもらったという。撮影で使われたDVカメラは、そのときのカメラだという。が、いずれにせよ、映画のなかで、水もなくなり、意識が朦朧としてきたアーロンが、幻覚を見て、「正常」な意識を取り戻さなければならないと思って、その幻想の見える方をデジカメで撮り、その映像を確認して、それが幻想にすぎなかったことを確認する――というシーンがある。これは、メディア機器の使い方としてはなかなか面白い。つまり、カメラが「正常な意識」になるからである。逆に言えば、アーロンは、このカメラでやっと「正常な意識」を保つのだ。これは、映画が意識しているかどうかは別として、監視カメラが社会の「公共」度の尺度になるようないまの時代の本質をちらりと示唆していて、面白い。
(20世紀フォックス+ギャガ配給)



2011-02-22
★4/5 ●4デイズ (Unthinkable/2010/Gregor Jordan)(グレゴール・ジョーダン)  

◆911,「対テロ戦争」、「ホームランド・セキュリティ」(Homeland Security/祖国安全防衛)以後、アメリカが直面している――おそらく――最も深刻かつ危機的な問題がずばり提示されている。それは、一見、『ソウ』シリーズのような「ホラー」的スリラー映画に見えることもあるが、見ているうちに、これこそがブッシュ以後のアメリカで事実上公然と行われていることなのだということがわかってくる。アメリカがいかにとんでもない状況に陥っているかを考えるのに役立つ。監督は、米軍の馬鹿さかげんをあざわらった『戦争のはじめかた』を2001年9月9日にトロント・フィルム・フェスティヴァルで初公開したが、2日後に起こった「911」のために、アメリカでの公開は、2003年のサンダンス・フィルム・フェスティヴァル以後もほとんどチャンスを失うという経験をしている。
◆むろん、映画は映画だから、この映画を「現実」に直結させるのは観念的すぎるが、われわれがアメリカの空港や街頭で漠然と感じている強権的な空気がこの映画では具体的な像と形として提示されており、漠然と感じているものとリアリティのカプリングを起こすのだ。
◆映画は、スティーブン・アーサー・ヤンガーと名乗る「アメリカ市民」の男(マイケル・シーン)が、えらく緊張の面持ちでビデオカメラを調節しながらメッセージを録画しているシーンから始まる。何度かカメラを止め、撮り直すうちに、この男が「とんでもない」要求を企てていることがわかる。が、そのシーンは中途で暗転し、タイトルが出る。雑踏を歩く女性は、キャリー=アン・モスだ。その歩き方と目付きが暗示するのは、タダモノつまり「普通」の市民ではない。『マトリックス』の印象もあるが、冒頭の緊張を引き継いだ緊迫感を感じさせるキャスティングで、期待をかきたてる。
◆やがて、彼女がヘレン・ブロディと言う名で、ロサンゼルスのFBI「対テロユニット」の捜査官であることがわかる。到着したオフィスではテロ疑惑のさまざまな情報が飛び交っている。壁には何人もの顔写真が見える。関係を表示した図もある。へえ、こんな感じでいまアメリカに住む人間は監視されているんだという印象。実際は、FBIだけではなく、さまざまな諜報機関がケータイ電話の通信まで録音しているという。
◆ヘレンは、スタッフにクールな指令を発する。若い部下(ジョシュア・ハルト)が、「イスラム教徒なのにモスクに行かない女がいます、怪しいのでは?」といった報告をすると、彼女は、すかさず、「イスラム教徒の女性はモスクに行かなくてもいいのよ」とたしなめる。冷静で芯の強いキャラクターは、キャリー=アン・モスにぴったりの役だ。上司を演じるマーティン・ドノヴァン、同僚のヴィンセント役のギル・ビロウズも役になりきっている。
◆FBIオフィスから画面が替わって、サミエル・L・ジャクソンが登場する。家事をしている妻らしい女(ローラ・コヨヴィッチ)がいる。夫婦か?恋人か?年齢差が大きいではないか? 「誰かしら」と彼女が言い、監視カメラのモニターを見る。4分割のモニター。4つのカメラで自宅のまわりを監視しているわけだ。この家は何なのか? ごく平凡な家庭風景に見えるが、気がかりな感じを残して、画面がすばやくまたFBIのテロユニット・オフィスに移る。
◆オフィスのテレビ画面に最初の男・ヤンガーの姿が映っている(そういえば、ジャクソンの家のテレビにも彼の顔が映っていた)。ヘレンは、なぜテレビのほうが先にその情報を押さえているのかと怒る。あの男がビデオをテレビ局に送ったのだ。「4日」のあいだに自分の要求が容れられなければ、アメリカの3つの場所で核爆弾が破裂するという脅迫のビデオである。この段階では、「要求」の詳細はわからないが、アメリカのイスラム支配に反対するものであることは予測にかたくない。
◆この映画のユニークなところは、だからといって、この脅迫者と爆弾を探すサスペンスに重心を置かないところだ。シーンの大半は、ヤングに自白を強いる「尋問」に終始する。彼は、ビデオが放送されるかされないうちに逮捕されていたのだ。しかも、その逮捕は、警察によってでも、FBIのテロ特捜部によってでもなく、DIAによってであるというところが、怖いところであり、いまのアメリカを「参照」させるのである。
DIAについて、この映画はほとんど解説をしない。それは、アメリカに住んでいる者にとっては、少なくとも911以後は、常識中の常識だからである。しかし、このことを知らないとこの映画の面白いところが抜けてしまう。アメリカでは、911以後、いわばCIAからDIAへの移行とでも言うべき事態が生まれた。DIAとは、Deffense Inteligence Agencyのことである。その誕生はケネディ政権の時代にまでさかのぼるが、要するに軍の情報機関である。
◆CIAが大統領や議会に対して海外の諜報データを提供するのを仕事とするのに対し、DIAは、軍に直結する情報を軍自身のために収集・管理する。CIA情報は、大統領を通じて軍にもたらされるが、DIA情報は、大統領が知らないまま軍が利用することも理論的には可能である。むろん、CIAが大統領や議会に知らせないまま「工作」をすることもあったし、映画に格好の題材をあたえてきたが、CIAは、基本的に「提言」機関であるから、その「工作」は秘密裏に行われる。つまり「冷戦」である。1940年代から始まった「冷戦」は、「提言」機関が大ぴらに実行できないことを――その意味では「不法」に――したがって秘密裏に行った一連の「工作」によって成り立っているのであり、だからこそ、「熱」戦ではなく「冷」戦なのである。
◆DIAは、提言機関ではなく実行機関であるが、外国の諜報活動という点ではCIAと重複する場合があり、両者はたがいに競争しあってもいる。イラクの大量破壊兵器 (DMW) をめぐって責任のなすりあいがあったのもこのためだ。DIAは、軍の戦略上、大量破壊兵器の存在の可能性を記録に残さざるをえなかったと言い、CIAは、その可能性はないと提言したではないかというわけだ。この食い違いは、両者の機能上の違いから来るが、時代の趨勢は、DIAの全盛へ移行しつつある。
◆映画のなかで、ベテラン俳優のスティーヴン・ルートが巧に演じる「怪しい人物」チャールズ・トムソンは、すぐにわかるように、DIAのエイジェントである。そして、「H」ことヘンリー・ヘラルド・ハンフリー(サミュエル・L・ジャクソン)もその同僚で、危険人物を落とす尋問のプロなのだが、何か(それがアフガンでのことらしいことが暗示されている)があって、CIAとのつばぜり合いをし、CIAににらまれて、CIAからFBIにいやがらせの情報を流されたらしい。そのために、FBIが、彼を「危険人物」とみなし、自宅へ彼の逮捕に向かうのだ。しかし、この深刻な事件が起こり、ヤンガーの尋問にプロとして引き出される。
◆民間人が核兵器を作り、それを仕掛けたというような事件になると、いまでは、真っ先にDIAが動く。そのため、スティーヴン・アーサー・ヤンガーは、あっさりととらわれ、監禁される。このことが事後的にFBIに伝えられる。その際、恐ろしいのは、核兵器のようなことになると、「超法規的」処置が取られ、尋問で何でもできるように、逮捕された人物のアメリカ市民権を剥奪させてしまうようなことも出来るということだ。ヤングは、そうされ、およそ「考えられない」(これが映画の原題)拷問の取り調べを受けるのである。これは、たまたま2004年に明るみに出た例のアブグレイブ収容所でイラク人拘留者に対して行った不法な拷問と符号する。言い換えれば、この映画で描かれる拷問は、いまのアメリカでは常時起こりえることなのだ。
◆Hがこの映画で見せる行為は、演じるサミュエル・L・ジャクソンのあの目付きもあいまって、実に恐ろしい。軍の要請で協力を求められたヘレン・ブロディは、ショックを受け、Hと敵対関係になる。このへんは、「残酷」なシーンを和らげるためにその残酷なことをやる人物を非難する人物を置くというハリウッド映画の常道のようにも見えるが、やがて、ヘレン・ブロディ自身も加害者にならざるを得なくなる。このへんがこの映画の実にすぐれた手抜きのないところである。
◆この映画には、「悪人」も「善人」もいない。映画が両者の闘い、そして最終的には「悪人」の滅亡という形をとりがちなのに対して、この映画は、決してその常識的な轍(わだち)にははまらない。むしろ、すべての問題は権力が自ら産み、招いたことであり、そのなかで、Hのような権力の代理人ですら、途方に暮れてしまうことが描かれる。
◆本作は、2010年に発表されたアメリカ映画のなかで最も政治的問いかけをする作品だと思うが、こういう作品は、決してアカデミー賞の候補にはならず、騒がれることもなく闇にほうむられかねない。多くの人が見ることを願いたい。
◆拷問が行われるDIAの秘密基地にいる迷彩服の司令官ポールソン(ホームズ・オズボーン)の歩き方は、いかにも軍人くさくて、笑える。
(ショウゲート配給)



2011-02-21_2
★3.9/5 ●ブルーバレンタイン (Blue Valentine/2010/Derek Cianfrance)(デレク・シアンフランス)  

◆ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズが演じる夫婦、ディーンとシンディは、最初、うまくいっているようにみえる。夫は仕事をしていない風情で、妻は(その表情から見て)かならずしも生活に満足している感じではないが、全体としてはどこにでもいる夫婦の雰囲気だ。が、娘(Faith Wladyka フェイス・ラディカ)の愛犬が失踪したあたりから、おかしな雰囲気になってくる。
◆しかし、この映画がすばらしいのは、ありがちなドラマのように、何か明確な原因があって、関係が悪くなっていくといった描き方をしないところだ。病院に勤めているシンディが、道端で死んでいる愛犬を見つける。その知らせをきいたディーンは、「出口を閉めておけって、何度も言ったじゃないか、え?」と言ってしまう。この言い方は、たしかに引き金になった。が、それ以前から、シンディは生活に疲れている気配がある。仕事と育児。生活を支えているのは彼女らしい。
◆映画の「現在」は、ながい時間ではない。ディーンが気にしてシンディを慰労するためにホテルをとって休みを取ろうとする1日程度だ。そのあいだ娘をシンディの父親(ジョン・ドーマン)の家にあずける。この「現在」に、「過去」のショットがフラッシュバック的に映し出される。「現在」は固定カメラ、「過去」はほとんど Super 16mm の手持ちカメラで撮られているという技法上の区別はあるが、「過去」の時間は、ディーンとシンディが初めて出会った5,6年まえであっても、二人の風貌には極端な変化を加えてはいないので、見ているうちに「現在」と「過去」がシームレスに入り混じる。
◆フラッシュバックが多いということは、二人は、「現在」よりも「過去」を愛し、「過去」に生きているということでもある。「現在」はやっかいなことばかりだ。ディーンが努力して探したにもかかわらず、空いていたのはラブホテルのようなところで、二人はあまり快適なセックスもできず、スーパーで買い込んだアルコールに酔いしれるのがせいざいなのだった。
◆美しいフラッシュバックはいくつもある。ディーンが先にシンディに惹かれるのだが、気のなさそうな彼女をうっとりさせるシーンが印象的。それは、店のショウウィンドウのくぼみのスペースで、ディーンがウクレレを片手に "You Always Hurt the One" を歌うシーンだ。ここで彼はひと昔まえの歌手の歌い方をパロディー化する。ライアン・ゴズリングにこういう芸があったとは知らなかったが、マスメディアでも話題になり、ゴズリングは、Jimmy Kimmel Liveでキメルに強制され、しぶしぶ歌ってみせている。
◆ディーンがシンディに一目惚れするのは、彼が引越しの運送屋でバイトをしているときだった。彼は、ホームに入る高齢の老人の持ち物の引越しを手伝う。このシーンには、彼の優しさがよく出ている。ワルターという老人のために、彼は、移動した持ち物をただ運ぶだけではなく、ホームの狭い部屋に飾り付けてやる。車椅子であとからやってきた老人は、衰弱した身体で精一杯「サンキュウ」を言う。
◆このいかにも死にそうな感じの老人が、うまいというよりも真に迫っているので、調べてみると、これを演じているのは、Melvin Jurdemとクレジットされている俳優で、過去にはMel Jurdemの名でジョージ・バーンズ、アート・カーニー、リー・ストラスバーグのような錚々たる人物が出演している喜劇『お達者コメディ/シルバー・ギャング』(Going in style/1979/Martin Brest)に出ているのだった。
◆さらに「Melvin Jurdem」で検索をかけてみると、2004年の「LIFE」のウェブページに彼がインフルエンザのワクチンを打たれている写真が載っていた。「85歳のメルヴィン・ジャーデム」と書かれているが、これは、一般市民のことを書く場合にアメリカのメディアがよくやるスタイルだ。しかし、この注射シーンは、共和党の医療政策を批判して民主党の「ヒラリー・クリントン、インフルエンザ・ワクチンの不足について講演」という見出しの記事の写真であり、メルディンがここに映っているのは、やらせだったかもしれない。
◆ディーンは優しい人間で、シンディを愛しているが、シンディのほうは、屈折がある。二人は、愛しあって結婚したのだが、実は訳ありの結婚であった。訳ありではなくても結婚したかもしれないが、シンディにはそのことがトラウマになっているらしい。
◆シンディは、子供のころから、ゆがんだ夫婦関係を見て育った。父親は横暴で、母親が作った料理に「こんなものが食えるか」と文句をつける。それは、たしかにまずそうではあるが、シンディは、親のいがみあいをいつも見ていた。しかし、一時代まえのワーキングクラスの夫婦である彼らは、そう簡単には離婚せず、それだけ、家庭には、仕事の苦痛や夫婦・親子の確執がいつも渦巻いていたようだ。
◆どなり散らしながら、といって別れてしまうわけでもない夫婦。それは、いまのアメリカの標準的な感覚からしたら異常かもしれない。しかし、ミドルクラスより下の層をみれば、そういう夫婦はいまでもいる。男はちゃんとした慰謝料など払えないし、女は飛び出しても自立できるわけでもないということになれば、地獄でも現状に耐えるしかない。
◆この映画の面白いところは、そうした階級関係の現実で二人を見ることもできるだけでなく、不和→調停→離婚→調停条件にもとづく養育・慰謝・・・といった、ハリウッド映画がこれまで好んで描いてきたパターンにおさまらない部分を描いている点だろう。ミドルクラス的尺度からすれば、ディーンは、「ルーザー」であり、シンディの側からすれば、離婚要因になりえる。が、彼には、どこか「労働」というものは、しないで済めばしないほうがいいという発想があるし、シンディに寄性しているわけでもない。シンディだって、それを承知で結婚したはずだ。が、それがどこかでうまくいかなくなってしまった。
◆人間関係は、ちょっとしたことで崩れる。結婚していても、いや結婚していればなおさらその危険度は増す。まして訳ありの結婚であったりしたら、崩れるのは早い。それが原因ではなくても、すべての些細なことが「原因」になり、別居や離婚に進む。しかし、「もうダメ、これ以上いっしょにはやっていけない」という思いが別居や離婚にまっしぐらというロジックは、必ずしも昔からのものではない。アメリカの場合、一般的には、1970年代ごろから少しづつ広まった「結婚観」ではないかと思う。 それがいま、一回転してまた少しづつ変わりはじめている。そんなことを感じさせる作品だ。
◆監督のデレク・シアンフランスは、プレスシートにあるインタヴューによると、子供のとき恐れていたのは「核戦争と両親の離婚」だったという。つまりどちらもいつ起こるかわからないからだ。
◆離婚のテーマは、映画がくりかえし描いてきたテーマだが、『結婚しない女』(1978年)や『クレイマー、クレイマー』(1979年)のヒットとともに広まった離婚観は、(少なくとも映画のなかでは)離婚しても子供はなんとかやっていけるというミドルクラス的な手前勝手を大なり小なり前提していた。なるほど、離婚後子供が親とどういう付き合い方をするかといったことを離婚時に詳細に取り決める制度が(たかだかミドルクラス以上の層でだとしても)浸透し、はっきりしない条件が原因で夫婦がいがみあいをして子供を悲しませるようなことを軽減する諸制度はある程度定着した。また、親が再婚して出来る「ステップ・マザー」や「ステップ・ファーザー」と子供とのつきあい方もだんだん型が出来、子供もそういう制度にすんなりと順応するかのような雰囲気が強まっていった。しかし、現実は、そうではなかったらしいのだ。
◆新しい離婚の習慣を遺伝子に組み込むわけにはいかないから、生まれて来た子供は、最初は一緒にいた親が別れ別れになったときのショックや淋しさをそのつど新たに経験しなければならない。変化があるとすれば、新しい制度や環境のために、そういう衝撃を受ける度合いが短くて済むといった程度の違いだけだ。子供が親の離婚でショックを受けないようにする新しい方法は、とうとう見つからなかったようである。
◆しかし、これは、ファミリーというものに対する考え方がまだ根底からは変わっていない以上、仕方がない。ファミリーの形態は同じままにしておいて、子供の方だけ意識を変えてくれと言われても無理である。離婚で子供がショックを受けないようにしたければ、結婚しても最初から夫婦が一緒に住まなければいいのである。「通い婚」という形式もある。しかし、ファミリーは同じ家の住むべしという形式の方は一切変えずに、離婚もありえますというのは、子供の側からすれば身勝手な話である。
◆ファミリーは、愛がどうのこうのという以前に、国家の基本要素であることを考える必要がある。国家は、ファミリーを単位として経済の持続性と意識のレジティマシー(合法性・正統性)を維持している。「家督を継ぐ」という言葉があるが、国家の経済は家族単位でその継続性を得るのであり、ファミリーの文化の平均化をうながすことによって国家のイメージを維持するのである。さまざまな個々人がいてもかまわないが、家族の様式はある一定のパターン内にとどめなければならないというのが国家のロジックである。
◆国家の維持とファミリーの形態の維持とはシンクロしているのであり、あるファミリーが、国家の推奨する形態から外れると見ると、そのファミリーメンバーへの介入を試みる。個々人の問題を「家族病」としてとらえる精神分析と精神病理学、犯罪者を家族ぐるみで拘束する処罰や刑務所の制度、くりかえしマスメディアを通じて、「変則的」なファミリーでなない「幸せなファミリー」のイメージのファミリードラマを浸透させる意識操作、これらは、すべて国家の利害とどこかでつながっている。
余分なことを書きすぎた。監督のデレク・シアンフランスは、この映画のスクリプトを10年以上かけて仕上げたという。しかし、最終的に撮影では、ライアン・ゴズリングとミシェル・ウィリアムズにアドリブを加えることを求め、多くのシーンに二人のアドリブが入っているという。実際に、二人の演技は息が合っているし、とりわけミシェル・ウィリアムズの表情の微妙さは、何度見ても惹きつけられる。
(クロックワークス配給)



2011-02-21_1
★3/5 ●SOMEWHERE/サムウェア (Somewhere/2010/Sofia Coppola)(ソフィア・コッポラ)  

◆ソフィア・コッポラは、一つのスタイルを確立した。それは、すでに『ロスト・イン・トランスレーション』で世に認められ、今後も同じスタイルの作品をつくり続けることができそうだ。そのスタイルは、当面はマンネリには感じられないが、あまり何度もやると飽きられる。
◆『ロスト・イン・トランスレーション』と似たところは、カメラマンの勝手な注文に辟易しながらの写真撮影のシーンとか、こちらは、俳優として表彰されるイヴェントでイタリア人がいかにも「田舎臭い」(古い性差別丸出しの「美女」による)歓迎のシーンに典型的にあらわれている。
◆共通するのは、主人公がセレブでナルシストであること、経済的な理由よりも、いわば「実存的」な(したがって贅沢な)悩みをかかえていることだ。映画は、スティーヴン・ドーフ演じる映画俳優ジョニー・マルコが、全くひと気のない荒野の循環する道路を黒のフェラーリで走る神経症的なシーンからはじまる。車を降りた彼は、何かを悩んでいるような素振りであたりを見回す。が、それは、神経症的に悩んでいるというよりも、哲学的な「実存的」悩みに身をひたして、しばし哲学的なナルシシズムを楽しんでいるようでもある。
◆こういうスタイルは、いま台頭しつつある「スロームーヴィー」を意識していると言えなくもない。スロームーヴィとは、かつてミケランジェロ・アントオーニが確立したスタイル(そこでは倦怠やミニマリズムが持続的に映される)の21世紀ヴァージョンと言えなくもないが、表層的に見れば、登場する本人が意識するかどうかは別としてどこか「哲学的」な装いや気取り(プレテンション)に見えるかもしれない。いずれんしても、時代的にサルトルの『嘔吐』(そういえば、主人公はヒキコモリだ)が受けるのかもしれない。日本でも60年代のベストセラー(大江健三郎なんかも大いに影響を受けた)になったこの小説は、すこしまえ、鈴木道彦によって新訳された。以前は、白井浩司の独占だった。
◆ソフィア・コッポラは、リッチなセレブが大好きに見えるが、それよりも、ここには、彼女自身が父親フランシス・コッポラといっしょにちやほやされた経験が生きていて、むしろ、こういう関係下の状態が「普通」というか親しみがあるというか、あるいは描きやすいというか、そんなところがあるのだろう。
◆焦点を二重にするというのも、ソフィア・コッポラが確立したスタイルだ。『ロスト・イン・トランスレーション』では、ビル・マーレイとスカーレット・ヨハンソンだったが、この映画では、スティーヴン・ドーフとエレン・ファニングである。エレン・ファニングは、11歳に設定されたクレオを演じる。この少女には、多分にソフォア・コッポラ自身(の同年齢時代の記憶だけでなく、いまの彼女自身のも)が投影されている。
◆クレオは、自分で材料を注文して取り寄せ、しゃれた朝飯を作る。パンのうえに卵とモッツァレラチーズをのせ、ソースをかけたホットサンドウィッチである。クレオを演じるエル・ファニングは、ちやほやされる環境に育ったクレオというキャクターをなかなかうまく演じていると思うが、ソフォア・コッポラは、最初、エレン・ファニングが、典型的な「ハリウッド子役」の感じがするというので、抜擢するのに消極的だったとのこと。そうだとすると、ソフィア・コッポラからすると、ちやほやされる環境にありながら、もっとナイーブな性格の人物としてクレオを描きたかったのか?
ポールダンスのシーンが面白い。階段から落ちて腕を折ったジョニー・マルコが、エロティシズムを楽しむわけでも、というよりそもそも楽しさなど求めているようには見えないある種のニヒリスティクな面持ちでポールダンサーの(こちらもあまりやる気がなさそうな)ダンスを眺める。このポールダンス、もとは、怪しげなストリッパー・クラブのお家芸だったが、いま一般にも大流行だ。ワールドチャンピオンシップもある。映画のなかでも見ることができるが、折りたたみ式のポータブル・ポールは、Amazonなどでも100ドル程度から売っている
(東北新社配給)



2011-02-15
★2.8/5 ●四つのいのち (Le quattro volte/2010/Michelangelo Frammartino)(ミケランジェロ・フランマルティーノ)  

◆もう少しあとで見るはずだったが、予定した試写が満席で急遽タクシーで京橋に駆けつけた。予定したほうは「娯楽」ものだったが、こちらはもっと「高尚」なイメージをいだいていた。原題を見て最初に思い出したのは、マルチン・ハイデッガーの「ゲフィアート」(Geviert、四つなるもの)だった。彼は、『講演論文集』所収の「建てる・住まう・思惟する」(Bauen Wohnen Denken)という文章のなかで、「大地と天、神々しき物と死すべきものの四者は、ある根源的な統一から一者に帰属している」(Aus einer ursprünglichen Einheit gehören die Vier: Erde und Himmel, die Göttlichen und die Sterblichen in eins.)と称して、ここから彼の「後期の思想」を展開したのだった。試写室に10分まえぐらいに着き、もらったプレスシートを開いたら、中沢新一が「シンメトリーの精神」なるエッセイを寄せていた。悪い予感だ。中沢新一が介入すると何事もうさんくさくなる。
◆しかし、映画は、そんな先入観を雲散霧消させてくれた。これは、存在論や宇宙論の映画でも、人間と動物と自然とが一体であるといったお目出度い「スロー・ムービー」でもなかった。むしろ、すべてのものは、カメラという近代のテクノロジーのまえで驚くべきドラマ(出来事)を(ついでにハイデッガー的な言い方を借りれば)「出来(しゅつらい)する」(ereigen) ようにさせるということを示す映画なのだった。
◆たしかに、この映画は、南イタリアの山岳地帯カラブリアの炭焼き、山羊飼いの老人、犬、そこで生まれた山羊の行く末、素朴なイースターの行列、樹木の伐採と祭り、その樹木が木炭になるという「自然の循環」を淡々とカメラに収めているようにみえる。だが、この「自然の循環」というものが、周到な計画や修練の産物であることは言うまでもないし、「自然」に放置したままですべてが「循環」するものではないことはすでに周知のことだ。「自然」であるかのように見えさせるのはカメラの目であり、われわれの知覚なのである。カメラは、「自然」をありのままに撮るのではなく、われわれが観念のなかに持っている「自然」をわれわれの期待に応えるかのように呼び寄せるのである。
◆この映画には、ある意味で確信犯的な仕掛けが随所にある。まず、最初から登場する老人の咳。えらく意味ありげだ。咳は死を暗示する。カメラは、別に彼の咳を撮らなくてもいいのに、執拗にそれを撮り、その音を録音する。この老人は、寝るまえに、粗末な紙(雑誌か新聞の切れ端)で包んだ「粉」を水に混ぜて飲む。最初は薬かと思うが、やがて、それは、この村の教会の老女が床を履いて集めた塵であることがわかる。監督とクルーは、この光景を撮るが、彼らは、この老人の咳を緩和する方法を知っていただろう。なぜ薬を与えないのか? 龍角散だっていい。あとでわかるように、この老人はやがて死ぬ(あるいは死んだことになる)。薬を与えようとしたが、老人が断ったのか? あるいは、あとで与えたのか? あるいは、この咳自身が演技だったのか? 映像がこれだけの疑問を提起するだけでも凄いことだ。
◆犬の動きが「不自然」である。この犬は、山羊を追う犬ということになっているが、ロングショットの映像でわかるように、山羊を追ってはいない。老人が咳き込んで、道路に座り込んでしまったときも、変な動き方をする。プレスにある監督のコメントでは、この犬は、撮影用に連れてきた犬であり、なかなかフレームに入らないので、ミラノからわざわざトレーナーを呼び、調教したのだと言う。つまり、この映画では、「自然」を装った演技が多数使われているのである。
◆山羊が親山羊の股の間からいきなり飛び出し、ながらくもがいた末、両足で歩き出すシーンでも、人間が周囲にいるはずなのに、誰もその出産を助けない。ちなみに、このシーンはワンショットではなく、子山羊が歩き出すあいだにショットが入れ替わる。ここでも、山羊が勝手に生まれるように描かれるが、むしろ、画面から見えてくるのは、さまざまな処置であり、その画面には隠されたものを見なければ、この映画を見たことにはならない。
◆ある意味でこの映画ほど人工的で、カメラの存在が感じられる映画はない。多分出産で見たのと同じ子山羊が、少し成長して他の山羊の群れに加わり、森に移動するシーンがある。途中で、この子山羊は溝に落ち、それをとうとう越えられなくて、迷い山羊になる。しきりにメイメイ鳴くが、親山羊も山羊飼いも来ない。しかし、貴重な資源である子山羊をこの村の人がこんなやり方で放置するはずがないし、カメラマンがその所在を知っているのに、迷子になった末、疲労困憊して、死んでしまう(そういう暗示で終わる)などということはありえない。
◆やはり問題の犬が関わるシーンだが、老人の家の近くに停まっていた車が、どうやら犬がタイヤにはさんであった楔(くさび)をはずしてしまったのか、惰行して、山羊を囲っているフェンスを壊してしまう。これは、「スロー・ムービー」的なこの映画のなかでは一番「ドラマティック」なのだが、これは、果たして「自然」のハプニングだろうか? 楔を取り去る訓練を犬にほどこさなかったか? 別に作為が悪いと言いたいのではない。あたかも「自然」に満ちた空気のなかで極めて人為的な出来事が仕掛けられたことが面白いと思うのだ。
◆十字架を担いだ男をはさんだイースターの行列に遅れて、少年(?)が一人やってくると、例の犬とはちあわせになる。しかし、このような小さな村では住民と犬は顔見知りであるはずで、こういうことは起こりえないのではないか? ならば、なぜこういうシーンを作ったのだろうか?
◆咳の老人は、鍋にカタツムリらしきものを入れている。食料なのだと思うが、それを料理するシーンは見えない。最初石で重しをしているが、外から帰ってみると、カタツムリが鍋の外に飛び出してしまっているので、今度は鍋を紐で結ぶ。が、この一人暮らしの老人は、何十年と料理をしてきたはずだし、そのカタツムリも昨日や今日初めて取れたわけではないだろう。それなのに、なぜ彼は、カタツムリが鍋の外に出てしまうようなへまをやるのか?
◆車が惰行して、ヘンスが壊れると、そのなかの山羊が何頭も外に出て、老人の部屋にまで上がってくる。このとき、老人はすでに瀕死の状態でベッドにいるのだが、監督は、このシーンによって、人間の世界から動物の世界への移動を意図したという。ということは、監督は、ヘンスの破壊→山羊の脱出→老人の部屋への侵入というプロットを考え、実現したのであり、このシーンは、きわめてドラマティックに構成されているということである。もっとハプニングにまかせる映画はいくらでもあるから、その意味では、この映画は、きわめて近代主義的な技法で作られているということでもある。
◆音も、確信犯的な採り方だ。生採りのように思えるが、すべてがそうではないし、そもそも音採りというものは、「自然」に採れるものではないのだ。どうマイクを向けるか、どう編集するかで全然ちがった印象をあたえる。犬や山羊の声、風の音、炭作りの男が山になった炭の上を叩く音・・・。人の声も聞えるが、台詞としてよりもサウンドアート的な音として使われている。
◆ここでは、存在論や象徴論の含蓄的な側面は無視したが、この映画が示唆することは実に豊かである。監督がインタヴューで言っているように、山羊を追う牧夫というものがそもそも「動物と近い」関係にあるために「村人の疑惑の対象になりやすい」とか、彼が教会の床のチリを飲んでいたとか、キリスト教の伝統からは「異端」と見なされる要素がこの映画では描かれている。そもそも山羊は悪魔の化身ではなかったか? さらに、「牧人」とか「牧夫」という言葉は、ハイデッガーが言った「人間は存在の牧人である」という言葉を思い出させる。
◆作品は、作者の意図を越えて見られ、読まれ、解釈されるべきだとすれば、この映画は、こうした「矛盾」に多数出会えることが最高に面白い。
(ザジフィルムズ配給)



2011-02-10
★4/5 ●ザ・ファイター (The Fighter/2010/David O. Russell)(デイヴィッド・O・ラッセル)  

◆最初のシーンから、登場人物に乗り移ったかのようなクリスチャン・ベールの演技が凄い。これで彼がアカデミーの助演男優賞を取れなければ、アカデミーの選考はインチキだ。そう言えるほど彼の演技はすばらしい。マサチューセッツ州ローウェル(映画『ザ・タウン 』の舞台となるチャールズ・タウンまでここから車では40分ほど)の実在のボクサー兄弟、ディッキー・エクラント(クリスチャン・ベール)とミッキー・ウォード(マーク・ウォーバーグ)、そして彼らのファミリーの物語だが、ベールの素晴らしい演技は、決して他の俳優たちの演技を食うことなく、すべてが相互に感応しあって、説得力のあるリアリティを生んでいる。
◆兄弟の姓が違うのは、父親が違うためだろう。二人の母親アリス(メリッサ・レオ)はアクの強い女。新進のボクサーであるミッキーのマネージャー役をやっている。夫のジョージ・ウォード(ジャック・マギー)は、いつも彼女に一歩引いている。このファミリーには、映画にはっきり出てくるエクラント姓の娘が6人いる。ディッキーは伝説のボクサーだが、いまはクラック中毒に陥っており、街で軽犯罪をくりかえし、何度も逮捕されている。子供がいるが、預けている。ミッキーがボクサーとしての才能をのばすには、問題だらけのファミリーである。
◆ミッキーがボクサーとしての才能を発揮していく物語であると同時に、問題をかかえたファミリーが変わっていく物語であり、また、ディッキーが麻薬中毒から脱出する物語でもあるという重層的な構造をなしながら、それらが相互に深く関連しあっている描き方は脚本としても、演出としても見事であり、この映画の感動の源泉をなしている。
◆映画で見るかぎり、このローウェルという街のドラッグ問題は、それほど深刻には見えない。あるいは、深刻ぶっては描かれない。ディッキーは、近所の集会所に行くような気軽さで、人々がたまってクラックを吸っている場所へ足を向ける。ミッキーのトレイナーをするミッキー・オキーフは、警官になるまえ、ドラッグにはまっていたということがちらりと出てくる。が、道徳的ないしは法律的見地からは否定されないものの、この映画は暗黙にドラッグ中毒者の甘えと自己満足を批判している。最初のシーンでディッキーがカメラにむかって上機嫌だったのは、彼がテレビの取材を受けていたからだった。彼は、自分が「伝説のボクサー」としてテレビでとりあげられるのだと思っていた。が、やがてわかるのは、それが、「伝説のボクサー」がいかにドラッグで人生をダメにしたかというドラック中毒をあつかうドキュメンタリーだった。彼は、この放映で多いに傷つく。が、その現実は、彼がもっと早く直面すべき現実だということだった。
◆薬物の問題は、日本でもマスメディアで頻繁に取り上げられるようになった。最近は、小向美奈子が、覚醒剤所持の疑惑での逮捕を逃れてフィリッピンに行ったというニュースが流れている。一般に、彼女や彼らは、薬物のためにその才能や名声を台なしにしたと考えられる。たしかにそうではある。が、もし薬物が国法的に不法ではなければ、彼女らがそうならない可能性はある。それは、ハリウッド俳優の幾多の例でも言えることである。ただし、ドラッグにはまる者は、依存以前に心身的な問題をかかえており、もし彼や彼女らがドラッグで問題を起こさないとしても、アルコールや他の依存症で破滅することもある。そして、依存症には先天的・後天的なさまざまな要因が重層的に介在しており、その解決は簡単ではない。中島らもの『今夜、すべてのバーで』(講談社)は、アル中をどんなに自己意識化しても治らないという事例に挙げられることが多いが、この本(一応フィクションだが)を読み、かつ中島の短い人生を思うと、アル中にせよ薬中にせよ、映画で描かれる中毒からの脱出のシークエンスは、みな嘘っぽいなと思わざるをえない。この映画で、ディッキーは(美人局[つつもたせ]をやって捕まった)獄中でクラックの常習を中断され、禁断症状に苦しみながら、出獄のときには依存を克服するのだが、弟のトレイナーをやろうと意気込んでいたのを断られ、ふたたびあの「集会場」に行きそうになる。彼は、行かないのだが、このへんは微妙である。しかし、それをグチャグチャ描いていては、主題がすっ飛んでしまう。すべては丸く治まり、われわれ観客は、解放感を胸に満たしてスクリーンを離れることになる。それはそれでいい。
◆エイミー・アダムスは、アカデミーの助演女優賞にノミネートされているが、ミッキーを愛し、彼の母親とは異なるタイプの女シャリーンを自然体で演じている。ディッキーの逮捕のこともあり、二人の関係は山あり谷ありだが、最悪の関係のとき、ニッキーが彼女に、俺はひとかどのことをしているが、お前は、大学へは行ったことがあっても、いまは「MTV Girl」(字幕では「アバズレ」と訳されていた)じゃないかというような悪態をたれる。このへんに、程度の差はあれ「スター」意識を経験したことのある人間の鬱積がよく出ていると同時に、エイミー・アダムスがそのとき見せる悲しげな目は、同時に「普通」になれない男を哀れんでいるようでもあり、面白かった。
(ギャガ配給)



2011-02-08
★2.6/5 ●ゲンスブールと女たち (Gainsbourg (Vie héroïque)/2010/Joann Sfar)(ジョアン・スファール)  

◆セルジュ・ゲンスブールは、わたしにとっては青春の歌手だった。いまも手元にあるが、タイトルに惹かれて買った『黒いシャンソン手帖』(面白いことに、ジャケットには「手」とあるが、盤面には「手」と記されている)というLP(日本ビクター SFL-7089)に針を落とし、最初のグルーブにある「黒いトロンボーン」を聴いてしびれた。シャンソンでありながら、ジャズのリズムとフレイバーをただよわす新しさ。(当時は)「セルジュ・ゲインスブール」と表記されていたこの歌手は、日本では全く未知の歌手だった。その後、その名はどんどん有名になり、今日の名声が確立した。が、ゲンスブールは、ただのシャンソン歌手ではなかった。それは、一生続いた。
◆日本で最初に出た上述のレコードの解説で永田文夫は、ゲンスブールの歌が「神秘的で、・・アイロニーに満ち、・・悪魔的」であり、「その歌同様、ゲインスブールその人も、実に個性的な容貌の持ち主です。クチバシのような鼻と、無理にまぶたを押し上げたような瞳を持っている・・・」と実に的確に書いていた。映画で、ライブで、ドキュメントでさんざん見てしまったいま、ゲンスブールその人を登場させる映画を作るのは至難のわざだ。が、その意味では、この映画はかなりいい線を行っている。とにかく、主演のエリック・エルモスニーノは、ゲンスブールの「クチバシのような鼻と、無理にまぶたを押し上げたような瞳」を実にうまく模し、ゲンスブルーらしさを演じている。また、レティア・カスタが演じるブリジット・バルドーが実によく似ていて、感心した。似させるという点では、アナ・ムグラリスが演じるジュリエット・グレコも、少なくともその声はかなりよく模倣されている。
◆だが、この映画の「らしさ」のパワーは、ブリジット・バルドーぐらいまでで尽き、ルーシー・ゴードンが演じるジェーン・バーキンあたりになると密度がぐっと落ちる。まあ、遊び人のゲンスブールからすると、娘のシャルロットには悪いが、ジェーン・バーキンと多少なりとも「普通」の結婚生活を送ったのは、かなり妥協であり、ゲンスブールらしくなかったのだから、その温度差を考えると、この映画の後半のダレは、むしろ自然なことなのかもしれない。
◆映画では、セルジュ(本名は、ルシアン・ギンズブルグ――あのアラン・ギンズバーグと祖先がつながっているのか? あるいはイタリアの歴史家カルロ・ギンズブルクとも?)は、ロシア系のユダヤ人のルーツ持つ。映画は、最初から、ユダヤ人として差別を受けていたことを示唆するシーンから始まり、ゲンスブールが、幼いときから、ファシズムに対して反発していたことが描かれる。ヴィシー政権の時代にフランスでもユダヤ人は、役所に出向き、ダビデの星のマークのついたバッジを着けさせられた。映画のなかでゲーンスブールは、大人しか行かない役所に出向き、ダビデの星のバッジを受け取る。
◆ユダヤ人差別への意識は、ゲンスブールが、(強制収容所で親を失った孤児たちの)施設で音楽の慈善教師をするシーンにもあらわれている。彼は、最初、ギターでポロッとユダヤの民族音楽のリズムを爪弾く。すると、子供たちがそれぞれの楽器で呼応する。そして、やがて、全員の演奏にたかまっていく。なかなか感動的なシーンであり、このシーンには、ある意味で、「クレズマー」が生まれる発生期のプロセスを再現しているような感じでもある。実際に、セルジュ・ゲンスブールは、20世紀のクレズマー・ルネッサンスに貢献した部分があったと思う。
◆ゲンスブールの個性に従うならば、この映画の前半のユダヤ性をもっと推し進めたほうがよかっただろう。ここから、晩年の彼が、フランスの国歌をパロディー化して右翼から轟々たる非難を浴びたときの対応にもつながるわけだが、ユダヤ性の問題が立ち消えになるので、このシーンが生きない。戦争の終わりについても一つの「句読点」を入れてほしかった。
◆先のLPが評判になってすぐに2番目のLP(「詩のあるパリの風景/セルジュ・ゲーンスブール」 SFL-7292)が出た。むろん、わたしは早速買ったが、AB両面に入っているゲンスブールのシャンソンは、前の盤(ゲンスブールはA面だけで、B面はカトリーヌ・ソヴァージュとピア・コロンボの歌が入っていた)にくらべると、やや艶にとぼしかった。ジャケットの解説で蘆原英了は、「彼自身、自分はむずかしいシャンソンしか興味がないといっている。彼は何時も進歩的な唄ばかり書いているので、大衆を獲得することが出来ない」と書いていた。映画でもこれが特にという描きかたはしていなかったが、ゲンスブールがフランスで有名になるのは、「1965年3月、ナポリでおこなわれたユーロビジォンのシャンソン・コンクール・・・で、リュクサンブールを代表して、自作詩・作曲の”夢みるシャンソン人形”を提供」してからだという。1965年は、彼にとって転機だった。バルドーと親しくなるのも、その勢いに乗ったあとの1967年であり、ジェーン・バーキンと出会い、関係が深まるのも1968年からだった。
◆映画は、(ある意味ではゲンスブールらしいのかもしれないが)彼の内面の思い、空想、幻想、パラノイアをそのまま体現する彼の「分身」(「クチバシのような鼻」の人形)を画面に登場させる。それは、まあまあうまく「実」の場面になじんではいるのだが、シュールな面がないので、感じとしては、かなり「演劇的」な感じになる。つまり、この映画は、演劇の記録を見ているような感じがするのである。知的に決して半端ではなかったゲンスブールの映画としては、もう少しレベルを上げてほしかった。ユダヤ的・シュールレアリズム的飛躍とある種のグロテスクさがもっと強調されてよかったのだ。エリック・エルモスニーノならば、こんな子どもっぽい「分身」を出さなくても、その演技でゲンスブールの二重性を表現できただろう。
◆ゲンスブールの部屋でジャンゴ・ラインハルトばりのギターを弾く男からギターのレッスンを受けるシーンがあるが、この男は、実在の偉大なるギタリスト アンジェロ・ドゥバール (Angelo Debarre)である。
◆意外なところでヨランダ・モローに出会った。まだ子供時代のゲンスブール(Kacey Mottet Klein) が、ヌードモデル (Ophélia Kolb) とキャフェにいると、モローが演じるマダム・フレールが入ってくる。シャンソン歌手のフレール (Fréhel) である。モローを選んだのは慧眼だ。少年ゲンスブールは、すでの彼女の唄を知っていると言う。彼女が喜び、大ヒットして有名な「La java bleue」と歌い始めると、彼は、「そうじゃないよ、コカイン・・」と言ったので、すっかり盛り上がり合唱を始める。それは、「La Coco」のことだ。
(クロックワークス配給)



2011-02-04
★3.5/5 ●恋とニュースのつくり方 (Morning Glory/2010/Roger Michell)(ロジャー・ミッシェル)  

◆いまテレビは、新聞ほどではないにしても危機である。個人単位のデジタルメディアの急速な浸透がその危機を加速させている。この映画に登場する「デイブレイク」という番組は、そのなかでも「超低視聴率」の危機にある。そんな番組「デイブレイク」のプロデューサーを引き受けてしまったのが、レイチェル・マクアダムスが演じるベッキーだ。彼女は、他のテレビ局をクビになったばかりだったので、面接で即決になったのを喜んだ。が、そのひどさは予想をこえていた。彼女が就職できたのも、どうせこの番組はつぶれるという投げやりな決定からだった。
◆テレビ屋の世界をちゃらかしているようにみえながら、後半まで見てくると、決してそうではないことがわかり、必死でその業界を活気づけようとするベッキーにシンパシーを感じさせられたりする。メロドラマとしてもなかなかうまい。実際、この映画が描くテレビの世界はほぼ現実であり、わたしたちは日々こういうものを見せられているので、その舞台裏がひどいことは予想がつく。そして、そのひどさがひどければひどいほど、それを何とか維持しようと努力するベッキーの「けなげさ」がひしひしと伝わってくるという仕掛けになっている。この映画は、単なる娯楽にみえて、なかなか奥行きがある。
◆テレビや新聞をダメにしているのは、この映画ではジェフ・ゴールドブラムが演じる管理者ジェリーのような連中である。彼らは、視聴率つまりは経営効率をあげることしか考えていない。番組の質や方向性はどうでもいいのだ。自分では下にプレッシャーをかけるだけで大胆な変革(それが必要なのに)は何もやらない。
◆ハリソン・フォードが演じるニュース・キャスター、マイクは、自分が昔うちたてた名声に寝そべり、「いまのテレビはダメだ」と文句を言いながら、生活のために業界に惰性的に居座っている。俺はピュリツァー賞やエミー賞に輝くビッグネイムだと言っても、いまはロクな仕事をしていない。番組が「くだらない」のなら、辞めればいいのに、一度味わったリッチライフの味は捨てられない。いつも苦虫を噛み潰したようなプライドたかき男――周囲は「世界で3番目に最悪な奴」と言っている――をハリソン・フォードが貫禄で演じる。ちなみに、この映画で言う世界で1番目に「最悪」(worst) なのは、キム・ジョンイルであり、2番目は、アンジェラ・ランズベリーである。なぜアンジェラなのかは、おそらく、彼女が主演してトニー賞を取ったミュージカル「Worst Pies in London」をギャグっているのだろう。
◆映画・演劇・コンサートがあるかぎり、テレビは、エンターテインメントとしては二流の位置に甘んじざるとえない。とすれば、深刻な権威・権力批判や教養番組よりも、疲れを癒すために流し見するオバカな番組がメインになる。ただし、こういう傾向が顕著になるのは、アメリカでも日本でも1980年代からである。それ以前には、まだ(権力が、テレビを新聞よりは軽視していたこともあって)権威や権力を批判して、その即時性で力を発揮することがあった。新聞が暴けなかった権威の悪を、同時性と即時性のメディアの特性を活用して、異化することがあった。アメリカでは、テレビのそういう特性が公に認められたのは、ニクソンとケネディが行なった大統領選のディベイトの実況からであった。
◆CBSの「60 Minutes」などは、テレビの権力批判的な機能を最も有力に発揮した例であり、その方向で一番よいときを代表した番組だったが、この映画には、CBS系のかつての面々がカメオで出演している。ドタキャン的に消えてしまったマイク(ハリソン・フォード)を探してベッキーが行き当たるバーで身だしなみのいい老人たちとマイクがおしゃべりをしている。そこには、モーリー・セイファー (Morley Safer) ボブ・シーファー (Bob Schieffer) の姿が見える。ベッキーが近づくと、セイファーが「あれまあこんな若い子を」というようなことを言う。
◆マイクがベッキーと街を歩いているとき、通行人のオバサンからサインを求められる。嬉しいのだが表面は面倒臭そうにサインをするマイク。が、サインをもらったそのオバサンが、別れ際に「ああ、ダン・ラザーにあえてよかったぁ!」というような意味のことを言う。ガックリ来るマイク。ダン・ラザーは、CBSの顔であり、「60 Minutes」を仕切っていた。マイクは、ダン・ラザーをモデルにしている面がかなりある。アメリカのニュース・キャスターは、日本のようにおちゃらけたりしないでも済むが、ダンは、マイクのように、いつもシリアスな顔で、プライドも高かった。2006年にCBSを去ってからのダンは、まさにこの映画のマイクの心境なのではないか?
◆「デイブレイク」の本番シーンで、番組の演出をする初老の男の姿がある。キューの出し方などが堂に入っておりタダモノではない雰囲気だ。それもそのはず、これは、「サタデー・ナイト・ライブ」などで有名なドン・レイ・キング (Don Roy King) である。なお、彼のアシスタント・ディレクターをやるのも、実際の仲間のロバート・カミニッティ (Robert Caminiti) だ。
◆いまの時代、時代がシリアスである分、マスメディアでは「シリアス」は受けない。しかし、この映画が描くテレビの「くだらなさ」は、新聞ではイエロー・ペイパーや日本で言う「スポーツ紙」に対応するものであり、別に驚くべきことではない。新聞が、(日本ではまだ不在の)クォリティ・ペイパーとスポーツ紙とに分岐するように、テレビも、パブリックテレビと「くだらない」バラエティ番組志向のものとに分岐する。しかし、問題は、テレビも新聞も、劇場メディアにくらべると、本当の「オバカ」に徹することはできないメディア特性を持っている点だ。だから、テレビと新聞の先行きは決して明るくない。ならば、逆にシリアスな方向に加速してしまえばいいのだが、それもできない優柔不断が命取りになる。
◆「デイブレイク」が活気をとりもどすのは、ベッキーが、レギュラーたちに「オバカ」なこと(お天気係の男に絶叫マシーン体験をさせるとか、セカンド・キャスターのダイアン・キートンにヌイグルミを着せて相撲の力士と闘わせるといった)をさせたからではあるが、内容が「オバカ」な番組はとうの昔からあった。テレビが「オバカ」を主要な路線にするのは、いまに始まったわけではない。ベッキーの功績は、むしろ、ライブ性の回復である。しかし、いまの時代、そのライブ性が「オバカ」なことでしか得られないというところに深刻な問題がある。
◆マイクは、自分がやりたい「質の高い」報道番組ができないとして放送中に投げやりな態度をとり、さらに視聴率を下げてしまう。が、機転のきくベッキーは、それを挽回するために、積極的に「オバカ」番組を作ることに転換し、危機を切り抜ける。その功績で、NBCの「Today's Show」のキャスターのオッファーを受けるが「デイブレイク」でかたちづくられたファミリーを捨てられなくて、逡巡(しゅんじゅん)する。これは、アメリカの標準からすると、ありえないことだ。いいオッファーがあれば、どんどん受け、上に登っていくことは社会的に裏切りではない。にもかかわらず、彼女が逡巡するのは、彼女の生い立ちが関与している。彼女は、28歳だが、依然母親と住んでいる。だから、まともな恋人はいない。おそらく、父親との問題があり、彼女には親とは別のファミリーへの強いあこがれがあるにちがいない。マイクのような(学生時代のあこがれだったとはいうが)賞味期限の過ぎたパーソナリティを抜擢したのも、彼には、どこか「父親」的なものがあったからだろう。クライマックスでマイクは、予想外のパフォーマンスでそういう彼女に応える。
◆アメリカの場合、プロデューサーとなると、たとえベッキーのように若くても、全体をコントロールできる実権があたえられる。だから、彼は、ロクな仕事をせず、「変態」趣味にふけるキャスターのクビを切る。しかし、いくら実権があたえられたとしても、全体を動かす実力がなければ、誰もついてこない。最初の会議の席で、スタッフたちが早口で勝手な要求を出したとき、ベッキーは、発言者の名前と言い分をすべて記憶し、全員がしゃべり終わったあと、それぞれに的確な答えを出す。実際には、こんなにうまくはいかないものだが、とりわけ名前を記憶するということは、管理者にとって必至の能力である。そのシーンは、映画だとはいえ、アメリカ的リーダーのあるべき姿を活写している。
◆「デイブレイク」では先輩格のキャスターで、マイクとつばぜりあいをかわすコリーンを演じるのは、オバサンづくりのダイアン・キートン。キートン自身は「無神論者」(Atheist) とのことだが、これもウディ・アレンとの昔のつきあいにひっかけているのか(あるいは本当にそうなのかどうかはわからないが)彼女が演じるこのコリーンは「ユダヤ系」という設定で、番組が始まるまえに十字を切ったのを見たスタッフが、すかさず「ユダヤ系なのに十字を切ってる」と意地悪をささやく。こういうところも、この映画の面白いところ。
◆あまり恋などせずに勉強と仕事に専念してきたベッキーだが、パトリック・ウィルソンが演じるアダムとのあいだに恋がめばえる。が、仕事中毒はおさまらず、二人の関係は慌ただしいものになる。最後のほうで、マイクが、ベッキーへの忠告として、自分が仕事に集中するあまり家庭をなげやりにしてきたけれど、こういうテレビ屋生活の最後の残るものは、「無」だけだと語るシーンがある。このシーンは、この映画のハッピーなエンディングのために忘れられそうだが、その通りだろう。音楽を含めて、細かく見ていくと非常にディテールに含蓄のある作品である。



2011-02-09
★3.8/5 ●英国王のスピーチ (The King's Speech/2010/Tom Hooper)(トム・フーパー)  

◆いまのエリザベス女王の父ジョージ6世が吃音に苦しんだという実話に注目した脚本のユニークさ、6世を演じるコリン・ファースの微妙な屈折をとらえて演技、吃音の矯正に力を貸すジェフリー・ラッシュと皇后を演じるヘレナ・ボナム=カーターの見事なサポート、トム・フーバーのウェルメイドな演出、念入りなセットデコレーション、いずれも往年の「英国製品」を思い出させるような仕上がりで文句ない。
◆アカデミー賞受賞の呼び声が高く、すでに多くのことが語られているので、付け加えることはあまりない。脚本を書いたデイヴィッド・サンドラーは、第2次世界大戦の時代に子供ながら、この映画のクライマックスとなるジョージ6世のどもるスピーチをラジオで聞いていたという。そのことがあって、のちに、皇太后(未亡人)に6世の吃音の話を脚本に書いてよいかを手紙で尋ねたところ、彼女は、「それはとても辛い思い出なので、自分が生きているあいだは書かないでほしい」という返事をくれたという。彼女は2002年に亡くなった。ということは、この映画の脚本には相当の年期が入っているということだ。
◆この映画にも娘時代の姿が描かれている現英国女王のエリザベスには、昨年のクリスマスのまえにこの映画のフィルムが届けられ、彼女はプライベートな試写を見たという。その感想もいろいろと報じられているが、本人が語ったのを聞いたわけではないから、真相はわからない。いずれにしても、2012年に即位60周年になるという彼女にとっても、また英国王室にとっても、この映画は、非常に効果的な「レジティマシー」の装置になることはまちがいない。米英オーストラリアの合作であるこの映画に王室が金を出したという話は出ていないが、ジョージ6世の弱点を描きながらも、それをむしろ愛すべきものに変えてしまう巧なマジックがこの映画にはある。
◆だが、コリン・ファースの感動的な名演技に惹きこまれ、ジョージ6世に同情するあまり、気づかずに終わってしまいかねないとしても、この映画には、なかなか辛辣な事実も表現されている。それは、王であれ大統領であれ、指導者の演説やパフォーマンスによって「国民」が統合されるとき、その舞台裏では、もしその事実をリアルタイムに知っていたらとても「統合」の合唱になど加わることはできなかったであろうようなドタバタややりくりが行われていいるということである。この映画は、そのことを上空の高見からせせ笑ったり、冷笑的に批判せずにさりげなく描く。こういう表現は、しばらくして見ると、よりその批判的な面をあらわにするだろう。
◆とはいえ、この映画が、結局は、「国民統合」を「正当化」(レジティマイズ)する装置であると言わざるを得ないのは、そうした「統合」劇の舞台裏を一人の個人的な努力と逡巡(しゅんじゅん)のドラマにしている点である。むろん、彼の妻(皇后)と、ライオネル・ローグ(ジェフリー・ラッシュ)の献身的な協力がなければ、ジョージ6世が国民を失望させない重要なスピーチを何とかこなすということも出来なかったろう。それは十分えがかれている。だが、それだけだっただろうか? 映画では、妻の決断と本人の(最初はしぶしぶの)意志によって矯正的トレーニングが進んだかのように描かれる。しかし、いかに英国王室といえども、王個人の決断や意志だけでは何も事は進まない。時は20世紀である。映画のなかでも、いささかわざと作ったような「したたかさ」を臭わせるウインストン・チャーチル(ディモシー・スポール)の姿が何度か見える。こういう人物たちが王室をも動かしていたのだから、この映画が描く「英国王のスピーチ」という一連の「プロジェクト」は、もっと組織的に行われたはずなのだ。このへんは、映画では全く描かれていない。つまり、この映画は、その「プロジェクト」の政治的背景を抜いているのである。
◆この映画のなかで、オーストラリアからやってきたライオネル・ローグが開いている吃音矯正の「クリニック」(そう呼ぶには怪しすぎるが)にジョージ6世とその妻がやってきて、初めて矯正のトレーニングを受けるシーンがある。そのとき、ローグは、「蓄音機」でモーツアルトの「フィガロの結婚序曲」をかけ、同時にジョージ6世にマイクを持たせ、マイクに向かって朗読をさせるというシーンがある。アメリカの「シルバーストーン」(Silverstone) の最新のものだとローグが言うその録音装置は、SP盤を刻めるもので、エジソンの「フォノグラフ」 (Phonograph) からははるかに進化したものだが、依然、針と溝という技術形式を引き継いでいる。ジョージ6世は、そんなやり方で吃音が治るはずがないと途中でマイクとヘッドフォンを使うのをやめてしまうのだが、帰りにローグが、「記念に」と無理矢理渡したディスクをしばらくして聴くにいたり、不思議なことに、自分が音楽を聞きながら録音をするのだと、文章をよどみなく朗読できていることに気づくのである。
◆このシーンに見るかぎり、ローグは、メディア装置というものの本質を鋭くとらえていたと考えられる。人間の身体性とメディア装置との関係を熟知し、最新の装置を使ってコミュニケーションを活気づけることが出来るということを知っていたのだ。この映画では、彼が吃音矯正以外の面でジョージ6世の政務にどう関わったかは語られていないが、こういう人物がこの時代にいたということは、イギリスの当時のメディア戦略とりわけナチスとの闘いにおいてラジオのようなメディアがどう使われるべきかというメディア意識があなどりがたいものであったことが推察できるのだ。ローグ自身、そうしたアドバイザー的役割を果たしていたのかもしれない。
(ギャガ配給)



2011-02-02
★3.5/5 ●キッズ・オールライト (The Kids Are All Right/2010/Lisa Cholodenko)(リサ・チョロデンコ)  

◆レズビアン・ファミリーというマイナーな場に設定しながら、ファミリーの全般に通じる面を活写している。ただし、ファミリーといっても、あくまでアメリカのであり、アメリカのミドルクラスのファミリーである。日本のファミリーにもつながる面がないわけではないが、ファミリーの構造が基本的に違うので、似ているとしてもうわべだけだ。
◆決定的にちがうのは、ファミリーの面々が、それぞれ個を前面に出し、自分の気持ちや考えを文字通りの言葉にする点だ。そして、言葉にすることが、素直に受け入れられ、逆に言葉にしなければ無視される。別にそれがいいわけでも、文明的、コミュニケーション的に優れているというわけでもないが、これがアメリカ社会の基本であるということを認識する必要がある。日本的習慣からすれば、それは、うるさいと思われるかもしれないし、しつこいと感じられるかもしれない。しかし、基本がもはや多民族的・マルチエスニック・マルチカルチャラルな環境であることを前提とせざるをえない場所では、言葉が共通地盤であり、それを無視すれば、混乱と紛争しかないのである。
◆早い話、ニック(アネット・ベニング)とジュールス(ジュリアン・ムーア)のレスビアン・ファミリーには、精子バンクを使って生んだジョニ(ミワ・ワシコウスカ)とレイザー(ジョシュ・ハッチャーソン)の二人の子供がいるが、その精子ドナー(とあとでわかる)のポール(マーク・ラファロ)は、アルゼンチン系である。系で区別すれば、「アメリカ人」は無数の系からなっている。たとえ、彼や彼女らが、初歩的な語彙や表現の問題を越えて同じ「アメリカ語」をしゃべるとしても、基本に別々の言語・文化体系があるという前提が、すべてを言葉にするという姿勢を促進させるのだ。
◆ニックは医者であり、インテリなので、表現が精密である。さらに、ゲイ(レズを含む)の人は一般にストレートよりも表現が繊細なので、表現のひとつひとつが豊か(逆に言えばうるさい)ものになりがちだ。そういうあいだがらでさえ、その表現に含みが出てくると、「なんか subtext があるみたいな感じする」というような言い方が出てくる。これは、レイザーの態度がおかしいということについてニックとジュールスとが話をしていて、ニックが彼を突放したような言い方をしたときにジュールズが言うせりふである。subtextという言葉にわたしが初めて触れたのは言語論の文章を読んでいるときだったが、「本文」(テキスト)の「下」(サブ)にあるもの→含み、言外の意味、ほのめかし・・・絵空事・・・と進んで、アナルセックスの意味にまでなる。ここでは、「あなたの言い方はなにか含みがあるみたいね」ぐらいの意味か?
◆日本語は、そういう意味なら、すべて「曖昧」で、彼女らの基準からすれば、許しがたい表現形式である。むろん、曖昧表現の妙というものがあり、こりゃ絶対に「アメリカ人」(アメリカ文化と言語で育った人)にはわからねぇだろうなと思うことがある。その代わり、日本語の世界では、どんなに論理が明晰でもそれだけでは(つまり曖昧表現の妙が発揮されないと)感動を呼ばない。この映画のクライマックスで、ストレートの男性と浮気をしてしまったジュールスがファミリーの面々のまえで自分の非(?)を改める「演説」(日本語環境からすれば)をするシーンがよい例だ。こんな論理的な反省をとうとうと述べても、日本語環境では誰も感動しないだろう。が、ここで、ニックはほろっとし、彼女を許すのである。
◆ジュリアン・ムーアは、ストレイトであるが、この映画では、ゲイとストレートとのあいだを揺れるキャラクターをユーモラスかつリアルに演じている。アネット・ベニングもストレイトだが、割合ありがちなレズカップルの片割れを演じている。つまり、どこか「男」的要素があり、ジュールスに対して「強い」のだ。実際、わたしが知っている何組かのレズカップルも、社会的な身ぶりをするときには、どこか片方が「男」、他方が「女」っぽいという印象をまぬがれない。わたしは、ゲイというのは、ヘテロセクシャリティを越えるジェンダーであるべきだと思っているので、せっかくゲイをやっているのに残念だと思ってしまうのだが、そういう社会的身ぶりを取ることを社会が要求するのだろう。まあ、日本にくらべれば、アメリカは、だんだんそういう「男/女」の固いジェンダーを意識せずにいられる環境になってはいるのだが。
◆この映画は、アメリカにはこういうファミリーもありますよというドキュメントではないが、実際に、血に依存しないファミリーが増えている。それは、物や不変的な持続性への信仰にもとづく金銭経済が終わり、情報資本主義があたりまえになるなかで一般化した。ファミリーとは、経済的には、資産の継承システムである。遺産を親から子へ伝承する際、これまで血統でやってきたのが、選択度の高い情報でやるというのが今様なのだ。ゲイカップルに公式的な結婚を許すかどうかは、アメリカでも州によって違うが、それを許すということは、同性愛に対する偏見があるないというようなこと以前に、経済システムを古典的な金銭経済ととるか、それとも情報経済ととるかの違いである。
◆この映画には、ウエストコーストのミドルクラスの典型的な傾向がよくあらわされている。画面に出る食べ物やワイン、オーガニック志向、ガーデニング、そして子供たちの姿勢や思考は、ミドルクラス・ファミリーの平均的なパターンだ。その意味で、ズキッと来るものは弱いが、多少の波風はあっても最後にはおさまるわけだから、この映画をアメリカのミドルクラスのひとたちが見れが、このファミリーは「幸せ」の部類に入るという安心感をあたえるのではないか?
◆しかし、この映画、よく見ると、親のほうは、一応おさまりがつくが、果たして子供たちのほうはどうかと考えると、心残りな印象を受ける。映画は、ジョニが、親がしまっておいた書類で自分たちの出生の秘密(?)を知り、精子バンクに連絡をとって、精子のドナー(古典的には「実父」)に会うところから始まり、その「実父」にも会い、それにともなう親たちのドラマがあったのち、初めて家を出てカレッジの寮にはいるというところで終わる。この間、彼女と彼の弟はいろいろな経験をしたわけだが、といって、二人は特別の認識を体験したわけでもない。むしろ、二人は、親の勝手な行動にふりまわされた感じである。どこかに不満をいだいているようなレイザーの表情は、最後まだ変わらない。つまり、原題が意味する「子供たちは大丈夫」(The Kids are All Right」)などでは全然なさそうなのである。むろん、その含みがこの映画のタイトルの意味するところである。
(ショウゲート配給)



2011-02-01
★4/5 ●木洩れ日の家で (Pora umierac/2007/Dorota Kedzierzawska)(ドロタ・ケンジェジャフスカ)  

◆ドロタ・ケンジェジャフスカ(監督)というと、『僕がいない場所』の強烈な印象がまだ残っているので、期待して試写に出かけた。素晴らしい作品だった。撮影は、前作同様、夫のアルトゥル・ラインハルト。前作とはうってかわったモノクロの明暗を極めた映像。
◆冒頭、ダヌタ・シャフラルスカが演じる主人公アニェラの個性をずばり印象づける。クリニックを訪ねた高齢の女性が、無愛想な女医(旧社会主義時代の官僚制を彷彿とさせる)に「脱いで、横になって」と面倒くさそうに言われ、「クソくらえ」という台詞を残してそこを立ち去るのだ。彼女がドアをバタンと閉めたとき、そこに止めつけられている十字架が揺れる。政権が替わっても、基本は同じといっているかのように。80歳ぐらいに見えるその美しい老女が見せるその気骨と反抗心は、彼女が、官僚制やキリスト教に対して一線を引いていることをうかがわせる。ちなみに、この老人を演じているダヌタ・シャフラルスカは、1915年生まれだから、この映画の公開時点で92歳である。
◆ドロタ・ケンジェジャフスカは、通常のファミリーから逸脱したアウトサイダー的な個人に興味を持っているらしい。『僕がいない場所』の少年もそうだった。アニェラには、息子がおり、孫もいるが、彼らに親しみをもっていない。息子も孫も「デブ」であることを軽蔑している。「そんな太っていたら、お嫁にいけないわよ」と、まだ小学生ぐらいの孫娘に言い、泣かせてしまう。たしかに、この子のほうも、全然可愛さがない。体調に自信のなくなったアニェラが、いっしょに住まないかと言っても、全然のってこない。「ババ、ババ」と言って慕うような孫ではないし、祖母のほうも「孫バカ」にはなれない。
◆老人になれば、誰でも死ぬ瞬間のことや死後のことを考える。アニェラの場合、彼女が犬といっしょに住んでいるかなり広い家をどうするかという問題がある。息子は、遺産としてもらえると思っている。隣の家の夫婦は、買い取ろうとして不動産屋に相談をかけている。あるいは、不動産屋がその物件に注目し、隣家の夫婦に声をかけたのかもしれない。アニェラは、そういうことを意識して、絶対に譲るまいと考えている。売らないし、息子にも渡さない。で、どうするのか? 彼女は、社会主義の時代のポーランドで育った。内的独白(この映画の基本的技法になっている――モノローグとちがい、彼女の内面の声である)で、娘時代にいつもパーティを楽しんだという。ということは、彼女の両親は、社会主義政権のもとである程度のポストにいたのだろうか? ポーランドは、社会主義政権のなかでは、ハンガリーとともに一番「自由化」が進んだ国だった。だから、映画でもアンジェイ・ワイダのような監督が生まれたのであり、活動できたのだ。いずれにせよ、アニェラは、社会主義時代の「よき」側面を経験していたはずだ。ポーランドが資本主義化したいま、自由な面とまえよりひどい面とが極端な形であらわれることになった。彼女は、社会主義政権にもどればいいとは考えないだろうが、いまのままでいいとも考えない。それに、老年になれば、人はだれしも、昔をなつかしがる。
◆アニェラが、最終的に選択したのは、隣に住む若い夫婦(中年のもう一組の隣人はいかにもアメリカナイズされた生活をしている)に家を寄付することだった。彼らは、子供たち(おそらく『僕がいない場所』の主人公のような恵まれない子供たち)を集めて、バンド演奏をしたりしている。ある種の「社会派」である。彼女は、遺産を残さないことを決意したわけだが、遺産とはまさに資本主義システムを支えている基軸である。資本主義システムを存続させるためには、金が末代まで継承されなければならない。ファミリーは、ここでは、単に愛情や親しみをいつくしむための場であるよりも、遺産が継承されるための場となる。が、アニェラは、それを拒否する。思想が一本通った作品だ。



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