ライク・サムワン・イン・ラブ

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ライク・サムワン・イン・ラブ評点:★★★★  4/5ケータイカフェバーJazzデリヘル嬢元大学教授車街高梨臨奥野匡加瀬亮アッバス・キアロスタミHOME: 粉川哲夫のシネマノート
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ライク・サムワン・イン・ラブ

■原題:Like Someone in Love/2012/Abbas Kiarostami

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評点:★★★★  4/5

●すばらしい。出演者たちの話によると、撮影当日のセリフは前日になって渡され、台本を全部まえもって見ることはできなかったという。演技も、ワンカットづつ撮るのではなく、長回しで撮り、納得がいくまで撮り直すというスタイル。だから、「自然」な演技ができたという。実際、この映画の演技とせりふは、最近見た日本のいかなる映画よりも「自然」だった。日本映画はどうしてこういうセリフまわしができないのだろう、と思った。旧い「新劇」の諸劇団のスタイル――しかし所詮は「舞芸」(舞台芸術学院)あたりが教育したセリフまわしと発声法――の亡霊のようなワンパターンのスタイル(その特徴は、うそぶくような、モノローグ風のしゃべり)がいまだにはびこっている。映画は、俳優もスタッフも監督次第であることを見せつけた。

●学生だがデリヘルのバイトをしている女性(高梨臨)、その客になる老元教授(奥野匡)、その女性の恋人で自動車修理工の青年(加瀬亮)という、異なる社会的位相のなかで生きるこの3人のキャラクターは、ある意味で、いまの日本人の基本的なキャラを言い尽くしているかもしれない。学生とデリヘルを使いわけながら、ドライに割り切るほどプラグマティックではない弱さを持つ若い女性。けっこうの年端を重ね、そこそこの教養と財産を持ちながら、悠々自適というわけでもない老年。戦前型の実直さとワイルドさを(自分で好んだわけではないとしても)継承しているが、(いや、だからこそ)理不尽なイマの現実に直面して苛立っている若い男。

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ケータイ

●アッバス・キアロスタミは、日本のイマをとらえるにはこれしかないというほど日本のイマを規定しているケータイに注目した。彼は、過去の映画でケータイや電話に嫌悪を表現したことがある。

●この映画は、ケータイでしゃべっている女の声からはじまる。最近の日本の映画には、会話のメインがケータイでの会話シーンというのがよくある。ある意味、それは安上がりの方法ではある。しかし、キアロスタミがこの方法を取ったのは、日本映画の真似をしたのではないだろう。ケータイに日本のコミュニケーションを見たのである。日本に来て、カンのいい外国人なら、ケータイの過剰な使われ方に興味を惹かれるはずだから。

●女がナーバスにしゃべる声がし、画面にはカフェーバーの室内が映っているが、最初は誰がしゃべっているのかわからない。話は、かなりもつれた男女関係のようで、女が男のしつこさに手をやいている感じである。みじんも揺れない、つまり固定されたカメラが引くと、ケータイで話しているのは高梨臨であり、周囲の経過からその役が<明子>であることがわかる。しかし、相手の男と何があったのかはよくわからない。

●でんでんの姿が見え、彼が演じる男が、<明子>の状態を気遣っているようだが、にもかかわらず、何かの仕事を無理強いする。何の仕事か?   彼女は、「今日は行きたくない」と言い、上京した<おばあちゃん>が何度も電話してきているので会わなければならないと言う。そして、最後にこの男の静止を振りきって、外に出る。

●このあいだ、<明子>のうしろに映る入口のガラスのドアーに、出入りする客の姿が見えるが、ひょっとして<明子>が先程話していた男がどなり込んでくるのではないかという懸念がよぎる。

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カフェバー
Connector

●このカフェバーはどこにあるのだろうか? というよりも、この映画は、この場所をどこに設定しているのだろうか?  セットとしてどこを使ったかというより、暗黙のうちで、日本のどういう都市のどういう場所であることを想定したのかである。<明子>が外に出たとき、<Bar rizzo>という看板が見えた。同じ名前の店が横浜にあるが、他の景観は明らかに新宿だ。

●客のなかに、茶髪の女がいて、<明子>とも親しいらしい。でんでんがメガネを出して見にくそうな顔をすると、「あたしがやる」とか言って、自分のテーブルに持って行き、磨いて渡す。この二人の関係は何なのか?  親分と情婦?そんな疑問がふっと起きる。さりげないシーンが多くを語る。

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デリヘル嬢

●<明子>が飛び出すようにカフェバーを出て路上に立ったとき、でんでんが追いかけてきて、タクシーを停め、運転手に金とメモを渡す。カフェバーのなかでも、「1時間ぐらいかかるけど、睡眠は車のなかでとればいいんだから」と言っていたが、同じことを再び言って、<明子>を無理矢理タクシーに乗せる。

●ここまで来て、<明子>がデリヘルなのだなということがわかる。タクシーが走るシーンがしばらく続きたあと、彼女が後部座席で完全に横になって寝ている姿は、妙に色っぽく、彼女がデリヘル嬢である確信がさらに強まる。

●<明子>は、デリヘル嬢をやってはいるが、プロ根性はない。あるように設定してしまうと、この映画が成り立たなくなる。<たかし>が最初に希望した対応からズレていくところに意外性が生まれる。

●デリヘルの基本テクニックとして、<誰かに似ている>という話のもっていきかたがあるらしい。<明子>が<たかし>との話をはずませるきっかけは、「わたしってこの絵の人に似ているって言われるんです」だった。この絵とは、<たかし>の部屋にかざってある(彼の説明によると)矢崎千代ニの「教鵡」(1900)である。横をむいている女に<明子>が似ているというのだが、本当に似ているかどうかはどうでもいい。老年の客のパターンとして、デリヘル嬢に自分の亡き妻のおもかげを求めるというのがある。あるいは、中年が、わかれた恋人のおもかげを求めるというのもある。だから、パターンとしては、デリヘル嬢がコミュニケーションの緒として、<似ている>云々を問題にするのは利口である。

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奥野匡

●<明子>が差し向けられた客を演じる奥野匡が自分の仕事場兼住まいで姿を見せる(ちらりとは、焼き鳥屋で登場する)とき、わたしは、どこかで見た俳優だとは思いながらも、最後までその名を思い出せなかった。どこか久米明にも似ているが、久米は、もう90歳ちかい歳だから、ちがうと思った。あとで知ったが、この奥野匡は、84歳だという。

●奥野が演じる<たかし>は、<明子>が来ると、テーブルに用意したグラスにスパークリングワインをつぎ、キャンドルに火をつけ、オーディオアンプのボリュームを上げる。あらかじめセットしてあった「Lioke Someone in Love」のジャズ・ヴォーカルが流れる。よくわからなかったが、エラ・フィッツジェラルドのヴォーカルだったかもしれない。これは、一見、<たかし>という人物のロマンティックな正確を表現するようにみえるが、わたしの印象では、この人物は欧米での生活経験があり、それがこういう形で自然に出てきたのだと解釈したい。キザなところがなく、<明子>から肩透かしを食わされても、失望をあらわすわけでもない。

●<明子>は、外見はモダンでも、所詮は日本の若者で、こういうときにデリヘル嬢としてのプロ意識を出すことがない。「眠い」と言って、早くベッドの仕事を済ませようとする。ただし、この老人と若い娘とがベッドのうえでどうしたかなどということは、キアロスタミは全然描かない。ありきたりのパターンで想像するもよし、何も起こらず、<明子>は眠ってしまい、老人はソファで一人寝したのかもしれない。だからこの映画は、どんなに文字で描写しても、しきれない部分がたくさん残り、決して<ネタバレ>の心配はないのである。

●<たかし>が心優しい人物であることはたしかである。彼は、<明子>の出身地(静岡県袋井市)を知っており、その名産のエビでスープを作ってあった。しかし、<明子>は、エビは<食べれない>という。しかし、<たかし>には、孫ほどの歳の娘が何を言おうと、腹がたつわけではない。まあ、歳の差の功徳ということもある。

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加瀬亮

●加瀬亮も、普段とはちがう演技をこの映画で示している。今回の<のりあき>の演技は、ガス・ヴァン・サントの『永遠の僕たち』のときより全然いい。<のりあき>は、高卒で自動車修理工になった。つまりワーキングクラスの青年である。<明子>の顔写真が風俗のチラシに載っていたと同僚に言われ、殴り倒したという。そのことをたしかめようと<明子>に迫ったりもしているらしい。気はいいが、激情的で荒れやすい。ある意味で、イマの若者のなかでは少数派だ。イマの若者は、言いたいことを言ったり、はっきりと怒りを示さないので、キレるときは致命的な暴力をふるったりする。<のりあき>もキレやすいタイプだが、その理由はわかりやすい。

●<のりあき>と<たかし>の出会いのシーンは、この映画で唯一、不自然さを感じさせる。泊まった<明子>を車に乗せて<たかし>が彼女の大学まで送ってやると、<のりあき>が彼女を待ち伏せていて彼女を脅す。彼女は逃げ、構内に消える。それを遠くから見た<たかし>は、心配で、車をパークしたままそこにとどまる。すると、<のりあき>が近づいてきて、タバコの火を借りるのである。この部分だけが、いかにもでいただけない。しかし、<のりあき>と<たかし>が話をはじめると、じきに不自然さは消える。

●音に繊細なキアロスタミらしく、<たかし>の車のベルトが鳴っており、じきに動けなくなると言う。彼は、自分の修理所に連れて行き、ベルトを交換する。そのシーンも、非常にリアリティがある。<のりあき>は、ベルトn不要を確認すると、修理所に電話する。そして、在庫がないとわかると「すぐに取り寄せろ」と命令する。車で彼の修理工場に着くと、しばらくしてバイク便が来て、ベルトをとどけてくる。すべてが迅速で「親切」な日本がしっかりと描かれている。ただし、キアロスタミは、こういう「親切さ」と「効率」のコストについては(あえて)えぐりだすことはしない。