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 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★★ ザ・バンク 堕ちた巨像    ★★ ストレンジャーズ 戦慄の訪問者   ★★ レッドクリフ Part II "Red Cliff II 赤壁:決戦天下"   ★★★☆ ニセ札   ★★★ ある公爵夫人の生涯   アライブ 生還者   フー・キルド・ナンシー    鴨川ホルモード   ★★★ おっぱいバレー   ★★★ スラムドッグ$ミリオネア   ★★ アンティーク ~西洋骨董洋菓子店~   ★★ ミルク   ★★★☆ レイチェルの結婚   ★★★ パニッシャー:ウォーゾーン   ★★★☆ バーン・アフター・リーディング   ★★☆ レイン・フォール 雨の牙   ★★★★グラン・トリノ  


鈍獣   アルマズ・プロジェクト   それでも恋するバルセロナ    ブッシュ   はりまや橋   ポー川のひかり   劒岳 点の記   マン・オン・ワイヤー   消されたヘッドライン   ボルト   バンコック・デンジャラス  

2009-04-30

●バンコック・デンジャラス (Bangkok Dangerous/2008/Oxide Pang Chun + Danny Pang) (オキサイド・パン+ダニー・パン)  

Bangkok Dangerous/2008/Oxide Pang Chun + Danny Pang ◆ニコラス・ケイジが演じる殺し屋ジョーの主人公自身のナレーションで進行する形式。パターンとして、これは、先を予測させる。「非情」な殺し屋が、「人間的」な情に目覚めるというパターン。バンコックに渡った彼は、傷を負って薬局を訪ね、聾唖の店員フォン(チャーリー・ヤン)とで会う。そのときの身ぶり手振りのコミュニケーション。それまでの「非情」な彼の表情がやわらぐ。おそらく彼は、彼女を愛するようになるだろう。そして、その結末は決してハッピーではない・・・。とはいえ、二人のロマンティックなシーンはいい。そもそも「ロマン」とは、予想の実現から生まれる。ただし、この映画は、その二人の終末に納得の行くシメ方をしていない。そのへんのいいかげんさは、よくも悪くもオキサイド・パン方式なのかもしれない。
◆ジョーの仕事と性格を印象づけるイントロのプラハのシーンは雰囲気がいい。アクションのリズムもいい。このシーンは、バンコックの「アジア」的な雰囲気を浮き立たせるための布石ではあるとしても、オキサイド・パンだからこそ、逆に「西欧」的環境で撮ってほしかった。バンコックのシーンになるととたんにジョン・ウー・スタイルになる。いや、オキサイド・パン・スタイルと言うべきか。
◆仕事に愛想をつかしはじめたジョーが空港で迷子の子供を見て、「声をかけようかな」と(は明示しではいないが)迷う。情けを感じる一瞬。もうこの仕事はやめた。バンコックの街で大きな仕事をしてケリをつけたい、というわけ。助手にするのに街で雇った男コン(シャクリット・ヤムナーム)。模造品を売りながら金を掏る巧みな腕を見て声をかけた。最初は、ジョーの方もあくまで便宜的に使い、コンの方も「このオヤジー」とブーたれているが、次第に師弟関係になっていく。これは、アメリカ映画によくあるパターン。このパターンを「イニシエイション」と呼んだりもする。「秘伝」を授けるのにも通じるからだ。秘伝をさずけるともなれば、授ける側は、ただ教えるだけではなくて、自分の持っているものを相手に与え、継承させたいという期待が生まれる。それは、先がないかもしれないという予期をも含んでいる。ジョーがコンに銃の撃ち方を教えるときにも、彼の意識のなかには、来るべきことに対する漠然とした意識が働いたのかもしれない。というより、そういうことを示唆するために、この「イニシエイション」のシーンを出している。
◆アメリカ映画で「イニシエイション」のシーンがよく使われる。ここには、異民族を支配し、教育して「アメリカ人」にするというアメリカがこれまでやってきたこととどこかでつながっている。イースウッドの『グラン・トリノ』の場合も、その主人公が異民族から学ぶ面よりも、教えることに力点が置かれている。
◆ジョーが引き受けた殺しの相手は、デモクラティックな路線の政治家で、「万人から愛されている」のだった。コンがその人物を敬愛していると知り、ジョーの心は揺らぐ。そのことを知るにつれ、ふだんなら気にしない「非情」な彼の「良心」がうずく。それをどう始末するか。「それ」とはその政治家であり自分の「良心」でもある。
◆アクションは、オキサイド・パンらしくきびきびしていて楽しめるが、ニコラス・ケイジが出る意味があったか? 彼は、今回のように、あとからバツくじを引いてしまた不運な男を演じるよりは、最初からついていない、つまり永遠に不運な男を演じるのがうまい。だから、イントロの、「食事も寝るのもいつも一人。でも、慣れた」というモノローグがケイジらしいのだ。もっとも、このイントロを加味して見れば、やはり、ジョーという男は、結局は思い通りにバンコックの仕事で足を洗えなかったのだから、ケイジには向いている「ついていない男」なのかもしれない。
◆この映画は、2008年に公開されたが、撮影は、2006年9月にタイで起こったクーデターのさなかに行なわれた。そうした政治性は、この映画にはあまり反映されてはいない。ちなみに、この時期、ニコラス・ケイジは、『ワールド・トレード・センター』以後、『ウィカーマン』、『ゴーストライダー』と本意とは思えない作品に出演し、ファンを失望させている。この映画は、そういう時期の彼の作品の系列に入る。



2009-04-26

●ボルト (Bolt/2008/Byron Howard)(バイロン・ハワード)   

Bolt/2008/Byron Howard ◆非常にうまく出来ている。アート作品というより、職人のクラフトワークだ。ディズニーとの初コラボレーションとあって、ピクサーのジョン・ラセター(製作総指揮)は、スキを見せない。だから、映像・構成・ストーリーとどれをとっても完璧な仕上がりだが、その半面、『ウォーリー』のような「文明批判」や「ロボットの知能」といった、観客に新たな問いをなげかける側面は少ない。子供づれの家族で見るには最適。飼い主との再会シーンも泣かせる。
◆この映画でも、ボルト(声:ジョン・トラボルタ)の飼い主ペニー(マイリー・サイラス)の父親は不在。彼女は母親と暮らしている。ひょっとして、ペニーに子犬のボルトをペット屋で買ってくれたのは父親かもしれないが、映画は、最初のペット屋のシーンからすぐに「5年後」に飛ぶ。このへん、「ネタバレ監視人」の糾弾に遭うかもしれないが、アメリカではすでにDVDが出ているので書いてしまう。その後に続くプロットともとれる短いシーンで、ペニーの父親が彼女にケータイをしてくる。「事情があって、パパはちょっと家に帰れなくなった」というのだ。映画の表面的な流れでは、父親は科学者で、彼の特殊技能(犬に超能力を与えることができる)をねらう何者かに誘拐され、その危機を察した父親が娘に電話をしてくるという風に受け取れる。しかし、それは、映画のなかのテレビドラマのなかのプロットであって、「現実」のペニーと父親とのあいだに起こった出来事ではないことがすぐにわかる。要は、ある日突然父親が家を出て行ってしまったということだ。おそらく、そういう経験のある子供にはピンとくるシーンであり、ペニーは父親のいない喪失感を心のどこかにいだいている。
◆「5年後」のシーンで、成長したボルトと、愛らしかったペニーの顔つきが急に悪くなったのに驚く。ちらりと見えるコンピュータ画面は、ボルトがSF的な医学操作でサイボーグになったらしいことを示唆する。が、じきにわかるように、二人は、テレビの連続番組に出演しているのであり、「5年後」の表示のあとしばらく続く(最初の印象とはがらっと違う)シーンは、ドラマのなかの映像なのだった。この5年間に、ボルトとペニーは、テレビに出演するようになり、全米の人気者になっていたのである。
◆ドラマのなかのSF的サスペンスシーンは、「普通」の犬とサイボーグ的な犬(スーパー・ドッグ)との差異に直面するボルトの心理的変化を効果的にするための手段にすぎないあつかいだが、この部分だけでも1編の作品が作れる密度で作られている。ドラマ内ドラマの「撮影シーン」などは、マイクが画面に入ってしまったトラブルとか、けっこう細かくて見ごたえがある。
◆結局のところ、犬のボルトが主人公の話だから仕方ばないが、難をいえば、ボルトが、ディズニーにありがちな擬人化の産物で、動きは犬でも、感情や考え方がきわめて「人間的」な点だろう。その点で(こちらはロボットだが)『ウォーリー』はなかなかいい線を行っていた。『ボルト』の場合は、むしろ、「現実世界」とテレビドラマの世界とが区別できなくなってしまった「人間」の話で、それを犬で表現したにすぎないともいえる。そういう「素朴」な人間が次第にその区別を認識していく話を犬で描いたところが狙いなのだから、「擬人化」などというレベルを問題にすれば、この映画自体が崩れてしまう。
◆テレビの売れっ子の絶頂で、ボルトが、たまたまダンボールのなかに落ち、連邦宅急便でハリウッドからニューヨークまで運ばれてしまい、ダンボールから飛び出したら、タイムズスクウェアとブロードウェイの角の風景が飛び込んでくるあたり、映画的快楽をそそる。
◆ボルトは、自分がテレビドラマのなかの「ボルト」と同じように超能力の持ち主だと思っている。が、それがだんだん崩れてくる。このへんが、「ビルドゥングス・ロマン」的だといえばいえなくもない。自分を知る旅になるからである。その途中で出会う雌ネコのミトンズ(声:スージー・エスマン)は、ニューヨーク育ちらしく、ひねくれていて、タチも悪いが、ボルトに屈従し、ニューヨークからハリウッドへの帰還につきあう。中西部だかで出会うハムスターのライノー(声:マーク・ウィルトン)は、テレビの「ボルト」のファンで、道すがら、ボルトを懸命に助ける。透明の丸いケースに入っているのは、いかにも彼が「ヒキオコモリ」であることを示唆していて面白い。「ヒキコモリ」は、いまや世界的現象だからだ。
◆ボルトの2面性を出す意味で、トラボルタを声優に持って来たのは成功だ。映画ではあまり印象が残っていないスージー・エスマンは、すれっからしの雌ネコ・ミトンズの声を効果的に出し、印象に残る。商売気ギンギンのテレビディレクターの声を演っているのが、『アクターズ・スタジオ・インタビュー』(Inside the Actors Studio)のジェームズ・リプトンだとは気づかなかった。
◆ニューヨークでボルタが出会う三羽のハトは、頼りになるときもあるが、肝心なところでは頼りにならない。正確な記憶がないからだ。ちなみに、英語で「鳥の脳」(birdbrain)というと「馬鹿」の意味。
◆最近犬を出す映画が多い。その場合、犬が人間よりも肯定的な存在になっているのが傾向。『マーリー』は典型だが、日本の「忠犬ハチ公」をモデルにした『HACHI 約束の犬』なんて作品まで作られた。ネコよりも犬を優先する傾向は、何を意味しているのか? 愛猫家の友人によると、犬は何百年も人間に仕えることを植えつけられ、仕えることのできる犬だけが交配され世代交代してきたので、犬た尊ばれる時代は、体制順応の時代なのだそうだ。



2009-04-23

●消されたヘッドライン (State of Play/2009/Kevin Macdonald) (ケヴィン・マクドナルド)  

State of Play/2009/Kevin Macdonald ◆ラッセル・クロウ、ヘレン・ミレン、ベン・アフレック等々ファースト・クラスの演技が楽しめるが、予測のつく結末を何度もひねってじらすので、せっかくの戦争株式会社化、軍事の民営化のテーマが空回り。つまり、『ブッシュ』で示唆されたような、軍事の民営化を進め、戦争を完全なビジネスにしてしまったブッシュ=チェイニー政権で顕在化したアメリカを批判する政治映画として面白いのかなという気を引きながら、それが、結局、一人の「悪人」の「犯罪」に矮小化してしまうのである。
◆ベン・アフレックを見て、ふと、『偶然の恋人』を思い出した。逆にあの(通常は単なるメロロマンと見られている)映画の「深読み」可能性を考えたのだ。あの映画は、自分が好意から渡した切符のために夫を失ってしまった女性(グウィネス・パルトロウ)に責任を感じ、一切を知らないふりをして彼女に近づき、彼女を助け、次第に彼女が彼を愛するようになるという話だった。映画では、彼は、切符を彼女の夫に渡したことに対する罪の意識から彼女に近づいたことになっているし、アフレックはそういう「純」な男を演じるが、彼女は、途中で、彼が意図的に彼女の不幸につけいったと感じ、彼を拒絶する。映画は、それがまたおさまっていくのを描くが、「本当」は、やはり、彼はつけいったのではないか? つまりベン・アフレックは、そういう二重人格を巧みに演じ、われわれをだましたのではないか、と。そうすると、あの映画は、ただのメロドラマではなく、極めて「政治的」な映画となる。この映画とは逆に。
◆この『消されたヘッドライン』では、国家のスキャンダルを糾弾する「ラディカル」派の政治家スティーヴン・コリンズ(ベン・アフレック)が糾弾の矛先としている軍需産業ポイント・コープ社のスキャンダルの鍵を、コリンズの依頼で調査追求していた女性ソニアが地下鉄駅で線路に突き落とされて殺される。たまたま委員会でポイント・コープ社の幹部を追及していたコリンズ議員は、ソニアの死のニュースを聞き、動揺し、涙を流す。その模様はテレビの中継で放映されたため、彼とソニアとの仲が疑われる。ソニアは、ポイント・コープ社の差し向けた殺し屋に殺されたのか? さらには、カメラのまえで動揺するスティーヴの姿を全米に曝させることによって、彼の国会議員としての生命をも絶とうとしたのか?これは、わかりやすいプロットである。が、・・・。
◆自殺にみせかけられたソニアの死に疑いを持つのは、ラッセル・クロウが臭く演じる新聞記者のカル・マカフリー。例によって編集長(ヘレン・ミレン――この人、本当にエリザベス女王に似ている)といつも対立しながら仕事をしている。どうして、新聞記者というとこういうパターンが多いのか? いずれにせよ、マカフリーは、この映画では、正攻法で事件を追って行く。マカフリーは、コリンズと古い友人関係にあり、彼の元の恋人(ロビン・ライト・ペン)がコリンズの元妻という屈折した関係。
◆国会の諮問委員会でポイント・コープ社の幹部が、自分の会社が雇っている人間を「傭兵というが、彼らはみな元米国軍人ですよ」とシラを切ると、コリンズは、「それでは、あなたの会社は(イラクで)国が育てた軍人を殺したのですね」と切替す。このへんの法廷ドラマ風のシーンはなかなか面白いし、事実をよく押えているのだが、それが、最後にはどうでもよくなるところがこの映画のあいまいさ。コリンズが、マカフリーに、「いまアメリカではこんなにヒドいことが進んでいるんだ・・・ホームランド・セキュリティの民営化だよ」と「真相」を明かすくだりは、なかなかいい。しかし、そういうセリフで一杯食わせるのだから、コリンズはいい玉だし、ケヴィン・マクドナルドもやってくれる。
◆冒頭、路上で黒人青年が通行人からバッグか何か(非常にすばやい描写)を奪って逃げるが、その男はすぐにピザの配達人に変装したらしい男に撃たれて死ぬ。マカフリー記者は、この青年の死に疑問をいだき、調査を始めるのだが、われわれ観客はすでに彼が殺されるシーンを見てしまっているのだから、マカフリーの動きは先が読めるし、馬鹿げている。ソニアの死も、地下鉄ホームのシーンは、明らかに他殺という描き方だから、あとで彼女の死をめぐって、自殺か他殺かといわれても、馬鹿馬鹿しいのである。最初に観客には種を明かしておいて、警察が事件の重要性になかなか気づかないといった設定は、よくあるスタイルだが、いかにもテレビ的で効果がない・・・とこう思わせるところがこの映画のトリック。その意味では、なかなかよく出来ているわけだ。
◆ホームランド・セキュリティの民営化批判。最後には、そういうことはどうでもよくなる。腰砕け。ベン・アフレックの個人的なたくらみだという方向にいってしまう。
◆本作は、2003年のイギリスのBBCテレビで放映された『State of Play』にもとづくが、テレビの方がポリティカル・ドラマとしてもっと鋭かったという批評もある。見てないから何ともいえないが。
(配給:東宝東和)



2009-04-22

●マン・オン・ワイヤー (Man on Wire/2008/James Marsh) (ジェイムズ・マーシュ)  

Man on Wire/2008/James Marsh ◆いまはなきワールド・トレイド・センター(WTC)のノース・タワーとサウス・タワーの屋上にロープをかけて綱渡りを披露したフランスの大道芸人フィリップ・プティの偉業は、即興的な賭によるものではなく、周到な計画とグループワークの成果だった。35年後、感動的なドキュメンタリーが生まれた。
◆実は、わたしは、生身のフィリップ・プティを見ている。しかも、彼がこの映画で見せるのと同じ綱渡りをするのを写真に収めている。それは、1976年のことで、彼がWTCを渡った1974年から2年後のことだ。彼は、事件後、当時世界で一番面白かったはずのマンハッタンに住みついたのだった。わたしが写真を撮ったのは偶然だが、期せずして、その同じ日の同じ時間に、ワシントン・スクウェアーの10数メートル離れた別の場所では、デイヴィッド・ピールが自分のレコード・アルバムを掲げながら、観衆をアジっていた。わたしのウェブサイトにはその両方の写真が掲載されている。あの時代のニューヨークは実に刺激的だった。
◆この映画がいま公開されるのは、実に象徴的であり、また皮肉である。この映画では、911で崩壊したWTCの跡地がちらりと映り、その映像が、1960年代のWTCの新築の記録映像につなげられる。跡地の映像は皮肉であるが、同時に、時間を過去に引き戻すことによってWTCを呼び戻しているようなおもむきがある。幼きフィリップ・プティは、そうしたニュース映像をフランスで見ながら、ひそかに「完成のあかつきにはあの塔を登ってやろう」と思っていたらしい。1974年彼と彼のグループは、その「事業」に成功するわけだが、その後も、彼の「偉業」は都市伝説化され、わたしが始めて聞いた彼の噂では、WTCをロッククライミングの道具でよじ登ることに成功し、それが(ひとがやならない)「ユニークな偉業」だとして、市長(当時は、ジョン・リンゼイ)から表彰されたというのだった。どうやら、そういう事実はないようだが、財政が破綻し、何でもありの状態に陥っていた当時のニューヨークならではの都市伝説である。911以後、見知らぬ者が、有名な建物に近づいただけで警報がなり、逮捕されてしまうような総監視社会が生まれたが、あの時代は、まったくそうではなかったということを考えると、時代の変化を思い知らされる。
◆随所に、若き日のプティが綱渡りをし、綱のうえでジャグリングそしたりする(あるいは、逮捕される)モノクロや時代を思い出させる色合いのカラーの映像が挿入されるが、驚くべきは、それらの映像が実に(この作品の完成を準備して撮られていたかのように)美しく撮られ・編集されていることだ。おそらく、今日の技術で処理されたフッテージもあるだろう。が、すべての素材が見事にシームレスに組み合わされている。挿入される音楽もいい感じだ。まあ、彼は、すでに知る人ぞ知る「アドヴェンチュラー」だったから、彼を密着して撮っていたカメラマンもたくさんおり、フッテージには困らなかったはずだ。
◆監視技術が発達した現在では、ニューヨークにかぎらず、監視されていないという状況を想定することができない。すべてが意識化され、計算され、結果がシミュレートされる社会。実につまらない、夢のない社会にわれわれは生きているわけだが、だからといって、今後この傾向が後退する気配は全くない。それどころか、そうした算定技術はますます高度化し、未来予測も進むはずだ。だが、未来予測というものは、未来が計算できるという進行のなかでその可能性を高めていくことも事実なのだ。窓を開けて空を眺めて天気を予測するのではなく、まず天気予報をウェブでチェックする習慣がつけば、天気予報はますます当たるようになる。これは、占いも同様で、占いを信じる人が増えれば増えるほど、それは「当たる」ようになるのである。だから、いつの日か、人は、予測や占いを信じなくなり、そのとき、多くのハプニングの新鮮さを再発見するだろう。
◆アーティストやフィリップ・プティのような「驚かせるのが好きな人」たちは、社会がいかに高度に管理されても、そのほころびをどこかに見出し、「とんでもないこと」をやってくれるだろう。「とんでもない」という点では、一見、フィリップ・プッティのアクションと911とのあいだには共通性があるように見えるが、人を死なせ、管理を強化させ、戦争を呼び起した911と、誰も傷つけずに人の心を解放したプッティのたくらみとのあいだには全く異なる方向性がある。管理は、つねに、行為の方向性をすり替え、すべてを禁止してしまう。それによって、解放の要素がますます失われて行く。
(配給:エスパース・サロウ)


2009-04-16

●ポー川のひかり(Centochiodi/2007/Ermanno Olmi)(エルマンノ・オルミ)  


◆思考させる力を持った美しい映画だ。メロでは全然ないのに、妙に心にしみるエンディング。音楽のせいかもしれない。が、プレスにある監督の言葉によると、(ドキュメンタリーは撮るが)これが「最後の劇映画作品になるはずだ」という。こう言われると、スクリーンに向かう姿勢を正さなければならない気持ちになる(オルミを尊敬しているので)が、逆に、これがそれほどの作品かねぇと言いたくもなってくる。色々と考えさせはするが、21世紀に生きる人間の「実存」そのものに迫る作品としてとりわけすぐれているとは言いがたいからである。
◆簡単に言えば、書物に拘束された学問や権威主義に反発し、書を陵辱し、「普通」の生活に入ろうとする若い大学教授の話。その風貌と髭から、「キリスト」と渾名されるが、キリストの再来とか、キリスト教との関連を深読みしない方がいい。
◆本に釘を打つパフォーマンスがあった。フルクサスの誰かがやったのだと思うが、わたしは、安井献(ささぐ)が演るのを企画し、見た。
◆「世界中の本のすべてをもってしても、友人たちと飲む一杯のコーヒーにはくらべものにはならない」と主人公は言う。
◆インド系の女子学生に、「宗教は決して世界を救いはしない」と言う。
◆ヤスパースの言葉を引用するあたり、この映画は、まだ実存主義的な宗教批判のレベルを低迷している。
◆本、大学、アカデミーを批判し、小グループを愛するという発想は、決して新しくはないが、この映画はそれだけでもなさそう。
(松竹試写室)



2009-04-15

●劒岳 点の記 (Tsurugidake Ten no ki/2009/Kimura Daisaku) (木村大作)  


◆木村大作の「個人映画」。その昔、すでに車に撮影機材を載せて独力で撮影を始めていたのを知っている。そのショットの一部を見せてもらったことがある。だから、あまり厳しい批評を書きたくない。
◆香川照之が、「この映画に入ったこと自体遭難したようなもんだから」と言ったのがおかしかった。
◆「これは撮影ではない、苦行にいくことだ」と木村大作は言ったという。木村らしい「扇動術」。
(東映第1試写室)



2009-04-09

●はりまや橋 (The Harimaya Bridge/2009/Aaron Woolfolk)(アロン・ウルフォーク)  

The Harimaya Bridge/2009/Aaron Woolfolk ◆まず映像の美しさは、特筆すべきだろう。撮影監督は、実相寺監督作品の多くを手がけた中堀正夫。
◆監督はアメリカ人、製作はアメリカの会社で、出演者とロケ地の大半は日本というトランスナショナルな映画だが、日米双方の視点がバランスよくいかされている。監督は、1年間英語教師としてこの映画の舞台となる高知県に滞在したことがあり、現場を熟知しているらしい。だから、前半で、初めて日本を訪れるベン・ギロリのえらく傲慢な態度は、ストーリーの展開を考慮して、あえて「違和感」をあたえるような設定にしたのかもしれないが、このへんの是非に関しては、議論がわかれるところ。
◆サンフランシスコですでに名をなしているらしい写真家という設定のダニエル・ホルダー(ベン・ギロリ)は、息子ミッキー(ヴィクター・グラント)と確執があった。しかも、彼は父の反対を押し切って日本に行ってしまったうえに、バイクを運転していてトラックに衝突し、死んでしまう。ダニエルは、ドラッグや犯罪の誘惑の多い環境のなかで、アフリカン・アメリカンの子供を男で一つで育てることの困難さを語るが、彼と息子との確執はそうした事情も関連している。そのうえ、太平洋戦争で父が日本軍に殺されたダニエルにとっては、日本は憎悪の国だが、息子はその国に行き、しかも車に「殺されて」しまう。だから、葬式にミッキーのガールフレンドの紀子(高岡早紀)が来ても、声もかけようともしない。ミッキーはもともと絵の才能があり、ダニエルは彼に絵描きになってほしかった。色々考えたすえ、彼は、息子が日本で描いた絵を集めるために日本行きを決心する。
◆冒頭、ミッキーがキャンバスに油絵を描いているシーンが映る。そして、何の説明もなく、サンフランシスコでの葬儀のシーンに移る。紀子の姿もある以上、ミッキーの親族と紀子とのあいだに何らかの交流があったはずだ。しかし、葬式のシーンではダニエルは紀子を無視している。これは、日本を嫌うダニエルの意識を強調するためには効果的かもしれないが、日本から葬式にまで来た人への大人の態度としては不自然な印象をあたえる。
◆ダニエルは、息子が描いた絵を「取り戻し」に高知にやってくるのだが、写真家である彼が、著作権のことを知らないはずがないのに、彼は、息子の絵を所有しているであろう家をたずね、それをタダで持ち帰ろうとする。ミッキーが英語を教えていた小学校に飾られている絵を発見すると、壁からそれをはずして滞在先のアパートに持ち帰ってしまう。太平洋戦争後に日本にやってきた「アメリカ人」にはこういう手合もいたが、いまこういうことをするアメリカ人はほとんどいないし、そういうアメリカ人がいたら、日本人も黙ってはいないだろう。ひょっとして、高知県には、まだ50年前の感性が人々のあいだに残っているのだろうか?ダニエルを迎えた県の教員たち――原先生(清水美紗)やその上司(山崎一)――は、まるで50年まえの日本人のように、ダニエルの横暴な態度にほとんど抵抗しない。
◆日本人に偏見のある「アメリカ人」が、日本人に触れて、日本と日本人を理解し、さらには日本に惚れこんでしまうというある種のパターンを描いている。そうした後半のシーンを印象づけるために、ダニエルは、前半で思い切り「感じの悪い」奴を演じている。
◆無愛想なダニエルが、原先生の若い同僚(Misono)の運転で車に同乗しているとき、最初は気まずい雰囲気が流れるが、英語は下手なのに歌詞だけは暗記しているカーティス・メイフィールドの"It's all right."を歌うと、ダニエルが声を合わせ、表情を和らげる――というシーンがあるが、これはよくあるパターン。ダニエルがアフリカン・アメリカンで、R&B の組み合わせというのいかにもの組み合わせ。アフリカン・アメリカンだからといって、みんなR&Bに強いわけではない。誰かが始めると真似をするのがいて、映画表現のパターンになるが、現実には、こういうことはそうはないのである。映画は映画だから、それはそれでいいが、新鮮味はない。
◆最初の方の葬儀のシーンでちらりと顔を出すが、以後消えてしまう高岡早紀が、後半で姿をあらわすとき、わたしには、これまでの高岡とは一段上の存在感と魅力を感じた。英語教師で、ミッキーと知り合い、彼を愛するが、突然の死に直面する女性、ミッキーと父親との確執を知っており、身を隠してしまう女、そんな役を高岡は見事に演じている。
◆清水美紗が演じる原先生は、英語が堪能で、アメリカ人との交流経験も豊富なはずだが、ダニエルを迎え、初めて食事に案内するとき、居酒屋で(笑いながらではあるが)彼に納豆を取る。「外人」が納豆に弱いという「定説」を知らないで「外人」を困らせる「日本人」というパターンの表現か、あるいは、そういうことを知りながら原がイジワルしているようにも取れるこのシーンは、わたしには不可解であった。
◆原先生の上司役を演じる山崎一が英語をしゃべるの見て、かつて「駅前留学」のキャッチフレーズで有名だった英語学校NOVAの有名なCMで彼がアンドロイド的なサラリーマンを演じていたのを思い出した。会社の帰りに同僚に一杯やりに行こうと誘われると、変な発音だが意味は明確な英語を自動発音マシーンのようにしゃべり、自分は用があり、つきあえないということを表現するユーモラスでユニークな印象をあたえたCMだ。このCMに関して、わたしは、「集団主義(「みんな主義」と名付けた)」だった日本のサラリーマンも、「個人主義」志向が出てきて、自分の好き嫌いをはっきりと表明するようになった社会的動向を的確に表現している――と書いたことがある。
◆清水美紗は、『レイン・フォール/雨の牙』でもそうだったが、この映画でも英語の「便利屋」を演じている。かつてのスター清水美紗としては安売りではないか?
◆(アキバシアター/テイ・ジョイ)



2009-04-08_2

●ブッシュ (W./2008/Oliver Stone)(オリバー・ストーン)  

W./2008/Oliver Stone
◆いつもはイデオロギー的なオリバー・ストーンが、あのG・W・ブッシュにフロイト派的なアプローチをあてはめた。事実はこんな単純ではないだろうと思わせもするが、何かにつけ有能な(かどうかはわからぬが、少なくとも兄よりはましで親に心配をかけない)弟ジェブ・ブッシュをひいきする父親ジョージ・H・W・ブッシュへのコンプレックス、大統領になる器ではてんでないG・Wのいいかげんぶり、そういう状況を利用して権力を思いのままにしたディック・チェイニーやカール・ローブ等々、戯画ほど距離をとらずに、時代の災難のように出現したブッシュ政権の異常さを描いている――と一応は言える。が、必ずしもそれだけではないことを以下に書く。
◆アメリカの大統領制は、日本の官僚主義的な体制とちがい、大統領の個性や個人的な好みが大きく反映する。しかし、そうはいっても、体制は体制であり、大統領になる器でない人間が大統領になってしまったブッシュ政権とて、それを構成・支持する人間たちや企業の利害や思惑がその体制を動かしてきた。たしかにG・Wのような「馬鹿殿」をうまく利用したチェイニー(映画ではその悪魔的な特質も含めてリチャード・ドレイファスが力演)やキリスト教右派の利害からG・Wをうまくあやつったカール・ローブ(トビー・ジョーンズ)などの個人的な(悪の)特質は、彼らがいたかいなかったとでは、この政権の性格が全くちがっただろう。とにかく、ブッシュ政権は、彼をとりまく連中が悪かった。この映画では、G・Wは、アル中で、政治より野球の方が好きなどうしようもない野郎としてしかえがかれていないし、また、それをジョシュ・ブローリンは見事に演じ切っているが、実は、最初から馬鹿にできる人物が大統領に君臨し、まさにこの映画を見ているときのように、「あいつ、馬鹿だなあ、どうしようもねぇなぁ」という気持ちを人々に持たせる政治が続いたこと――逆に言えば、そういう政治を案出したこと――が問題なのだ。
◆そういう政治を案出する面では、ディック・チェイニーがマキアベリ的な才能を発揮したはずだ。このへんは、映画のなかでは、ブッシュとチェイニーが昼食を取りながら打ち合わせをするシーンによくあらわされている。ここでブッシュはがつがつ飯を食い、チェイニーは全く食事に手をつけず、ブッシュをたくみに誘導し、彼の思惑通りにホームランド・セキュリティーの諸法案を認めさせる。このシーンは、ドレイファスとブローリンの名演技によって、パロディ的冗談が売りの他のシーンとは異質なリアリティを持っている。
◆オリバー・ストーンは、この映画で、彼の「政治映画」の技法を一歩前進させた。見方によっては、この映画は、ブッシュを個人的な特質やファミリーの側から描き、いつもの彼とはちがった映画の作り方をしているという印象をあたえるかもしれない。が、この映画をよく見ると、実は、この映画をそういう見方で見て、笑い、批判してきたのが、ブッシュ政権の時代のマスメディアであり、多くの個々人であったことに気づくのである。つまり、この映画を見て、G・Wを「馬鹿な野郎だな」と思い、政策会議での彼の態度のいいかげんさに怒りをおぼえ、それを冷笑すればするだけ、ブッシュ時代の空気と気分を呼びもどしているわけだ。その意味で、この映画は、これまでのストーンのように、ある一定の「教訓」や「警告」をあたえるのではなく、観る者が自ら、自分の居場所に気づくことをうながすミクロ・ポリティクス的な技法でつくられている。
◆その意味で、逆説的ながら、この映画を観てゲラゲラ笑っているあいだは、その新バージョンがあらわれ、またしても国民が新たな(今度は「馬鹿」が売り物ではなく「利口」が売り物かもしれない)社会的気分(今度はまえより「ハッピー」な)に浸って、またしても、政治のファミリーとか大統領個人とかを越えたレベルで動いて要る本当の政治を見失うことになるだろう。
◆そもそも、アメリカの大統領制は、ファミリーや個人を象徴記号として国民をあやつる。実際は、大統領のファミリーや大統領個人の性格なんて、作られたもの、操作・演出されたものにすぎないのに、それがあたかも実体としてあるかのように(とりわけマスメディアを通じて)公開され、浸透するのである。
◆以上、オリバー・ストーンの技法をやや過大評価しながら書いてきたが、全体として、この映画には、「馬鹿な息子ほどかわいい」という俗説がそのまま通用するような要素がないでもない。ひょっとして、オリバーは、父ブッシュのように、息子で苦労したことがあるのだろうか? G・Wに対する彼の「同情心」のようなものが感じられるからである。来日したら、訊いてみてはどうか?
◆映画のなかで、コリン・パウエル(ジェフリー・ライト)の苦悩は一応描かれるが、ドナルド・ラムズフェルド(スコット・グレン)の老獪さを見せる持ち場は、グレンのプロフェッショナルな演技にも関わらず、十分にはあたえられていない。ダンディ・ニュートンは、メイキャップ的には見事にコドリー・ライスに似せてはいるが、ライスの役はこの映画のなかではほとんどつけたりである。これらは、「ファミリー」という側面に焦点をあてるためにせざるを得なかった省略処置かもしれないし、逆に、彼や彼女らの実際の政治的役割を、マスメディアを通じてブッシュ政権に触れてきた大衆は、ほとんど歯牙にもかけなかったということを暗黙に示唆しているのかもしれない。
◆(角川試写室/角川映画)



2009-04-08_1

●それでも恋するバルセロナ (Vicky Cristina Barcelona/2008/Woody Allen) (ウッディ・アレン)  

Vicky Cristina Barcelona/2008/Woody Allen
◆マンネリの二番煎じが続いたウッディ・アレンも、本作では本来の「ウッディ・アレン節」を取り戻している。歯切れのいいナレーション(クリストファー・イヴァン・ウェルチ)、登場人物たちの会話にアレン流の皮肉の効いたユーモアがあふれ、久しぶりに会話で笑った。
◆最初の方でヴィッキー(レベッカ・ホール)とクリスティーナ(スカーレット・ヨハンセン)を紹介するナレーションで、ナレーションがすでに二人を馬鹿にしている(というのが言いすぎなら、軽く揶揄している)。二人はいっしょにバルセロナに旅行をしに来たのだが、その動機の説明の部分で、「ヴィッキーはカタロニアの文化(的アイデンティティ)についての修士論文を完成しつつある」といいながら、次に、カタロニアの文化的アイデンティティについては、「ガウディの建築への大いなる愛好を通じて興味を持った」という関係詞文を付加える。「マスター論文を完成」というから「すごい!」と思わせて、「ガウディの建築を・・」と月並みなところへ落とす。バルセロナ=ガウディというたぐいの「女の子」は多く、彼女はまさにそうした典型を行っているわけだ。クリスティーナの場合も、「この6ヶ月を脚本、監督、出演に過ごした」と来るから、「ほお!?」と一瞬思わせて、それがたったの「12分のフィルム」だと落とす。むろん、12分の偉大な作品はいくらでもあるが、彼女の撮ったのは、そういうシロモノではない。どちらも、ちょっとインテリやアーティストをきどった鼻持ちならない(が、かわいさはある)女なのである。
◆セリフの面白さはいたるとことろにあるが、二人に近づいて来る(男はみな女好きなのが、アレン映画ではおなじみのパターン。ここでは男をスペイン人にして、そのパターンをさらに強化する)画家だという男ハン・アントニオ(ハビエル・バルデム)は、レストランで二人を見かけると近づいてきて、週末に彼の別荘に来ないかと誘う。行って何するのという二人の疑問に、「うまいものを食い、おいしいワインを飲んで」となまりのある英語で答え、「セックスしたり」と結ぶ。これを初対面の女に言うところが笑える。しかも、彼は二人のとまどい(ヴィッキーはすぐに面白がるが)を無視し、「人生は短く、退屈で苦痛に満ちている」んだから、「特別のことをするにはいいチャンスじゃない」と無表情で言い放つ。
◆アントニオが去ってから、すでに行くことを決意してしまったクリスティーナと、最初から「まさか」「何この男」と思っているヴィッキーとのあいだで話がもめる。そのやり取りのなかで、二人の「女の子」性がよく出る。このへんも、ウディ・アレンはうまいと思う。この映画、ウディ・アレンが脚本を書き、演出し、出演はしていない。それがよかった。あの、入歯をガクガク言わせながらの演技は、面白くもなんともなく、むしろ、俳優としても全盛だった時代を思うと憐れさを感じさせた。今回は、そういうことがなくていい。
◆二人は、結局、アントニオの誘いを受け、飛行機でバルセロナから1時間のオヴィエドへ行く。ヴィッキーの疑念は晴れないが、調子もののクリスティーナはすでにアントニオにべったり。が、ウディ・アレンの映画では、必ず予想外の逆転が起きる。持てそうな奴が持てるとはかぎらないし、「かわいい子」がすんなりありがちな枠におさまるとはかぎらない。滑稽なアキシデントもまま起こる。男なら、肝心なときのぎっくり腰なんかもアレンらしいが、この映画では、笑われるのは「持てそうな女」だから、役どころはヨハンセンが演じるクリスティーナである。彼女は、せっかくのキスの最中に、そのまえに食べた魚料理のために、吐き気をもよおしてしまう。そうなると、これまたアレンの得意とする「不倫」と「浮気」のパターンで、婚約者(ガグ:クリス・メッシーナ)がいるヴィッキーとアントニオの関係に焦点が当たらざるをえない。
◆オヴィエドのシティ・センターのまえには、ウディ・アレンの等身大のブロンズ像がある。
◆出来てしまって、まえの恋人や妻や夫にあれやこれや取り繕うおかしさは、ウディ・アレンの得意技だが、この映画でもそのテクニックは衰えを見せない。レベッカ・ホールは、そういう役柄を見事にこなしている。アレンの映画では、どの女優がやっても、アレン映画に共通の特徴を示すことになるのだが、この映画では、レベッカ・ホールがすっかりアレン映画の女優になっている。アレンさん、ひょっとして手を出していないでしょうね?
◆この映画に登場する女で抜群に面白いのは、ペネロペ・クルスが演じるマリアというアントニオの元妻だ。かなり蓮っ葉で、しかもエキセントリック。こういう役をやらせるとクルスは実にうまい。この役で彼女は、2009年のアカデミー助演女優賞に輝いたが、十分それに値する演技だ。彼女が突然電話してきて、(ヴィッキーの方は、婚約者が来て、元のサヤにもどっったので、アントニオとクリスティーナがいい仲になっている)3人の生活が始まるのだが、そのとたん、アントニオの生彩が急速に衰えていく。スペイン語をべらべらしゃべるマリアに、アントニオが苛立って「英語でしゃべれよ」と繰り返しマリアに注文をつけるシーンがある。すると今度はスペイン語なまりのべらんめいみたいな英語。実におかしい。アントニオがマリアのまえで冴えなくなるのは、この男のインチキさが暴露されるからだ。彼の絵は「天才のマリア」から盗んだものだからだと彼女は言う。映画のなかに、マリアがロールを使って絵をふてくされた調子で荒っぽく(アクションペインティング風に)制作するシーンがあるが、これも笑える。激情し、しゃべりが止まらなくなるマリア。これも笑いが止まらない。愛すべきペネロペ・クルス。



2009-04-03

●鈍獣(Donju/2009/Hosono Hideaki)(細野ひで晃)  

Donju/2009/Hosono Hideaki
◆脚本(宮藤官九郎)も映像もハッとさせる新鮮さを持っているが、俳優たちの演技がそれについていっていない。
(角川試写室)


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