粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-02-27_2

●ツォツィ (Tsotsi/2005/Gavin Hood)(ギャヴィン・フッド)

Tsotsi
◆試写状に使われている写真(上半身裸の黒人青年が赤ん坊をたかだかと抱き上げている)を見て、何か田園風の「健康」すぎる印象をいだき、すぐには試写に行かなかった。が、見てみたら、全然印象がちがった。ハードな都市映画である。舞台は都市であり、しかもうさんくさいスラムのある街である。登場する俳優たちも、ハリウッドの俳優とくらべると、全然質のちがうワイルドさと「ヤバさ」を持っている。特に主役のプレスリー・チュエニヤハエがいい。音楽もクール。ちょっと、シャーリー・クラークの『クール・ワールド』を見たときのような新鮮さがあった。
◆映画は、アソル・フガードの同名の小説(金原瑞人・中田香訳)にもとづいており、設定をそのまま踏襲しているシーンが多いが、映画は、時代設定を1960年代から現代に移し、よりアクチュアリティを高めている。
◆「ツォツィ」とは、ヨハネスブルグのスラングで"thug" (悪党・暴漢)を意味するらしいが、それが渾名になっている19歳の若者(プレスリー・チュエニヤハエ)とその仲間たち全体を指してもいる。演じる役者たちは、みな演劇や音楽のキャリアをもっている者たちだが、喧嘩やかっぱらいを日常茶飯事としている街っ子をそっくり連れて来て好きに演らせているかのような(そんなことをしてもうまくはいかないだろうが)街の躍動感をみなぎらせている。
◆電車のなかでスリをやるが、殺しもいとわない。その凶器は、原作では「スポーク」となっているが、研いで鋭利にしたその長い凶器は、千枚通しよりも怖い。それを持ち歩くブッチャー(ゼンゾ・ンゴーベ)は、ねらった相手を電車のなかまでつけていって、すきを見て、それを胸から心臓部に深く突き刺す。彼らは、足の不自由な物乞いの老人まで襲う。本当に歩けないのに、歩いてみろと脅し、金を奪う。底辺で追いつめられた人間にはそれしきゃねぇだろうといった不敵さとニヒリズムがただよう。
◆仲間とそんなことをくり返しているツォツィ(プレスリー・チュエニヤハエ)が、なかに赤ん坊がいるのを知らずに車を盗んだ。それまでの雰囲気だとポイと捨ててしまいそうなツォツィだが、それがそうではなくなるというのがこの映画のドラマの中心。自分が子供のときの記憶がその赤ん坊と重なる。これは、ちょっと月並みな設定だが、そういう形で、彼の現在を支配しているものが説明される。街はずれには大きな土管が積み上げられているとことがあるが、そこは、ホームレス・チャイルドの住処であり、ツォツィは、そこで育ったのだった。
◆ツォツィは、赤ん坊を紙袋に入れて持ち歩くが、撮影時にはすりかえていることがわかっていても、えらく気になるシーンである。それだけ、リアルに撮られているわけだが、おいおい大丈夫かねぇという気がするくらいリアルだ。そういうシーンがこの映画にはたくさんある。
◆乳を飲ませたいと思ったツォツィが、家に押し入る形で確保する女性ミリアム(テリー・ペート)とのシーンもユニークだ。暴力的に授乳を強制された彼女とツォツィとのあいでに生まれる不思議な共通感覚も、他の映画ではあまり描かれたことのないものだ。テリー・ペートの演技もすばらしい。
(メディアボックス試写室/日活)



2007-02-27_1

●ブリッジ (The Bridge/2006/Eric Steel)(エリック・スティール)

The Bridge
◆「ブリッジ」とは、サンフランシスコのゴールデン・ゲイト・ブリッジのことだが、ここが自殺の名所とはしらなかった。1937年に建設されて数カ月後にはじまり、128本あるポールのほとんど全部の場所から人が飛び込んでおり、このドキュメンタリーが撮られた時点で1300名を越す自殺者がいるという。
◆映画は、7人の自殺者(救出された者も含む)とその家族・近親者をとりあげるが、わたしには、評判ほどのインパクトを感じなかった。コメントも特にインスパイアされるものではなかった。
◆それにしても2004年の一年間にわたってザ・ブリッジで自殺する者を2つの場所から撮るためにカメラをかまえて待機するというのは、どういうことなのだろうか? 撮影中に通報をするということもあったとしても、そうした自殺を観察し、撮影するということそれ自身への考えは、この映画では主題になってはいない。
◆別に「傍観・静観主義」が悪いとは言わない。が、ドキュメンタリーで、対象へのカメラの向け方、向けることの意味という点で観客を刺激しないドキュメンタリーは、フィクション映画と何ら変わりなく、フィクション映画の出来不出来の基準で評価されてしまうだろう。「フィクション」映画としては、この作品は、ゆるみがありすぎる。
(スペースFS汐留/トルネード・フィルム)



2007-02-23

●俺は、君のためにこそ死にいく (Orewa, kimi no tamenikoso sininiiku/2007/Shinjo Taku)(新城卓)

Orewa, kimi no tamenikoso sininiiku
◆今日は同じスペースで3回試写をやるというので、一番客の少なそうな4時開映を選んだ。確かに少なかったが、「関係者」という紙を置いた席ががら空きで、開映まえに紙を撤去していた。「製作総指揮・脚本」石原慎太郎ということだから、もう少し入ってもよいような気がしたが、東京都都知事の特権をふりまわすのはやめたのだろうか? いずれにせよ、この映画は、自民党の推薦を蹴って都知事の再選に臨む石原にとって、自民党の推薦なんぞよりよほど効果的な宣伝となるだろう。
◆試写に先だって、DVDの予告編が送られてきたので見たが、民族右翼的なタイトルにもかかわらず、映画としてうまく出来上がっているように思えた。戦争や個々人の死ということに一見識を持っている岸恵子のメンツも立て、「第三国人」発言などでも露呈した石原の排他主義も、朝鮮人の特攻隊員を登場させてバランスを取り、露骨なプロパガンダ映画になることを避けている。
◆都知事選を意識してか、あるいは石井宏『ホタル帰る』で描かれている鳥濱トメの伝記的事実をあまり曲げることができなかたためだろうか、石原にしては「右派」路線がやや後退している。むしろ、戦争に対する姿勢が、イーストウッドの『父親たちの星条旗』や『硫黄島からの手紙』のそれに近い。つまり特攻隊員たちが命令に従って命を捨てたのは、単なる盲目的な国家愛のようなものではなく、「君」つまり家族や恋人たちを救いたいという気持ちからだったのだと。
◆しかし、国家はむろんのこと、「君」すら救うことなどできないことがわかる者にはわかっていたわけだから、「俺は、君のためにこそ死ににいく」などということは、無謀であり、何の意味もないことだった。それをあえて意味があったかのように言うことは、韜晦(とうかい)であり、やばいことは、それを解決するよりも十把一絡げで「祭り上げて」しまう「御霊信仰」的な伝統である。
◆ここで描かれているのは、みな「国体の護持」や「天皇のため」というタテマエで特攻を暗黙に「強制」された哀れな若者たちの姿である。彼らの死を「犬死に」と言わせないためにこの映画を作ったと石原は言うであろうが、皮肉なことに、この映画は、彼らの死がやはり犬死にであることを証明するものだ。
◆特攻隊員は、鹿児島県川辺郡知覧町の基地に集められ、そこから「玉砕」の旅に旅立った。岸恵子が演じる鳥濱トメは、この地で食堂を経営していたが、若い特攻隊員を商売ぬきで世話し、相談にものった。彼女と彼らとのあいだには、独特の信頼と愛情の関係が続いた。これは実話らしいが、この関係を、特攻隊員が彼女を「母親のように慕った」と言ってしまうのは月並みだ。というのは、息子は必ずしも母親を慕うわけではないからであり、そういう形で何十人もの特攻隊員の気持ちを一人の「母」に集約してしまうと、彼らは、彼女を中心にした「兄弟」であるかのようなイメージが出来上がるが、それは、まやかしにすぎないからである。
◆「母」は、「母なる大地」というような月並みな形容で、全体を包むものというイメージがある。が、現実の母が包括できるのは、せいぜい3、4人までであって、3、4人の子供であれ、それぞれへの対応は「あまねく平等」のものではない。それに、包括したという自己満足をおぼえやすい一人っ子の場合には、その包括はかならずしもよい結果を招かない。鳥濱トメは、母でないからこそ、多数の若者に愛情を注ぐことができたのであり、それは、月並みに言う「包容」などではなかった。
◆石原慎太郎は、プレスによせた文章で、彼らを「過酷な時代を生きた、美しい日本人」と書くが、この映画にもはからずも出て来るように、韓国人でありながら特攻隊員になった者もいた。個々の特殊性を無視し、「日本人」というような大きすぎ、均質なカテゴリーでくくってしまうのが、日本の習慣かもしれないが、これも、現実から目をそらせるために役立つ。「国体」も「靖国」もみなそのような操作概念である。
◆あの戦争は、地震による災害とはちがう。計画を立て、それを押し進めた人間がいる。にもかかわらず、そうした個人の責任の追求へは問題が収斂(しゅうれん)せず、具体的な個人をこえた全体概念に進み、最後は何やらわけがわからなくなるのが日本の韜晦(とうかい)文化である。
◆映画のなかで、特攻隊の若者たちは、「靖国神社で待ってるぞ」と言って最期の別れをする。「有楽町」(フランク永井の「有楽町で会いましょう」)じゃあるまいし、靖国で会うことなどできないにもかかわらず、そういう言い方で自分たちが直面させられている理不尽を「合理化」していることの非情さと悲しさが、ここから、そういうことを強制した国家への怒りや疑問にまで進むならば、そういうプロットは意味がある。しかし、映画では、むしろ、それが戦友としての「美しさ」のようなものとしてあがめられている。そんなものは、哀れ以外の何ものでもなく、美しくも、友情や連帯の証でも何でもない。
(スペースFS汐留/東映)



2007-02-22_2

●ひいろ (Hiiro/2007/Tokue Nagamasa)(徳江長政)

Hiiro
◆京橋から東銀座まで街を歩きたかったが、開映時間が切迫していたので、タクシーに乗る。今日はいいタイミングで裏道をまわって歌舞伎座の横から万年橋交差点へ。
◆先ほど見てきた『あかね空』にくらべればはるかに低予算の作品だが、なかなかいい。いまの時代の中国人の娘・彩陽(ツアイヤン)を演じる小崎さよが抜群にうまい。久しぶりに見る南田洋子の貫禄。ドラマのなかに登場するテレビ屋(ルー大柴らが演じる)をからかいながらも、シニカルに突き離さないゆとりもある。日本人の父親を持ちながら、それをほとんど知らなかった彩陽が、両国にまたがる歴史を追体験する。単なるルーツ探しではなく、むしろ異文化コミュニケーションのドラマ。
◆彩陽の父は、戦前、陶器を商う日本人の両親に中国で育てられたが、中国国境にソ連軍が攻め込んできたとき、切迫した状況のなかで両親は幼い息子を、親しくしていた窯元の中国人夫婦に預けた。そして、その間に父親はソ連軍に殺され、母親は、日本に帰った。その後、彼女は、中国に預けた息子をとりもどそうとしたらしいが、子供のいなかった中国人の夫婦は、その子を手放さなかった。「中国残留孤児」となったその子も、いまでは、中国人の育ての親の窯を継いでいる。が、娘の彩陽には自分の過去を何も語らない。そんなある日、病床の祖母が彩陽に父の秘密を語る。日本におまえのおばあちゃんがいる、と。
◆行動力のある彩陽が、日本にやってきて、日本語学校に通いながら祖母(南田洋子)をさがす過程は、途中から、テレビの人探し番組風になる。彩陽は、アルバイト先のマダムやテレビ屋のおかげで祖母を探すことができるのだが、これだと、探す過程で彼女が体験する異文化日本や、そこで彼女が変って行く過程は上面しか描かれない。最後は、祖母に会えたメロドラマチックな喜びと涙、そして、「日本人はみんな親切」といった単純な印象しか残らないようなところがないでもない。つまり、せっかくただのルーツ探しの旅というパターンをはずしながら、異文化コミュニケーションの突っ込みが弱いのだ。 ◆中国を舞台に中国語で始まり、小崎さよが流暢に中国語を話し、その彼女が日本に来て、たどたどしい日本語を話す――そのあいだにフラッシュバックで実の祖母たちの日本語と中国語が聞こえる――この多言語的な描写が、きめ細かくつくられた「国際映画」のように、破綻がない。
◆南田洋子を映画で見るのは久しぶりだが、本当に足腰がつらくなってきているのだろうか? 着物をしゃきっと着ながら、畳を立つときには、加齢ゆえの不自由さが出て、ちょっとつらいといった身ぶりを見せる。南田のありのままを撮ったのであれ、南田の絶妙な演技が撮られたのであれ、演出のきめの細かい目がなければ、こういうシーンは映らない。
(シネマート銀座試写室/スターキャット・エンタープライズ)



2007-02-22_1

●あかね空 (Akanezora/2006/Hamamoto Masaki)(浜本正機)

Akanezora
◆この2日間試写を見ていないので、今日は3本見るつもりで外へ。角川ヘラルドの試写室の椅子は隣との間隔がゆったり取ってあり、クッションも皮張りのぜいたくなもの。しかし、映画はあまり「ぜいたく」ではなかった。
◆永代橋で結ばれた江戸の風景が出るが、そのCG映像が、どうもほかの映画の「流用」の感じ。単なる印象だが、安い感じなのだ。
◆人でごったがえす永代橋の上を石橋蓮司と岩下志摩が幼い子供を連れているので、孫かと思ったら、実子の設定だった。そこでその子が行方不明になり、それから十数年たったあとのシーンにも登場しなければならないので、若づくりにして登場したわけだが、ちょっと無理ではなかろうか?
◆中谷美紀が、やけに子供っぽいきゃあきゃあした感じで登場するので、どうしちゃったのかと思ったら、やはりスパンの長い役を一人で演じなければならないので、若い方の役のときに、思いきり「軽く」演じ、中谷と同年齢ないしはそれより上の年齢を演じるときにバランスが取れるようにしているのだった。これも、なんか「あさはか」という感じ。俳優に気の毒。
◆苦労して何とかうまくいくと思っていると、隙間風が入ってくる「家庭」や親子関係というパターンは、山本一力の原作を踏襲しているが、全体にテレビのりなのだ。
◆わたしが唯一、いいと思ったのは、京都から江戸に出てきて、深川の三軒長屋の路地にいい水の出る井戸を見つけ、そこで豆腐屋を始める内野聖陽が、「学習」のため、石橋蓮司の老舗の豆腐屋で大きな豆腐を買い、家に帰って試食するシーン。豆腐もあれぐらい大きいのを食べたらおいしいだろうなという気にさせられた。
◆石橋・岩下の行方不明になった息子が、誰かに育てられて「永吉」になったのか、それとも、後半で出て来るヤクザの「傳蔵」が本当の息子なのか、あるいはそれは、いずれも見る者の願望や想像なのか、どちらとも取れるつくりは悪くない。内野聖陽がその二人の人物を演じているのは、そういう面と、人間の二面性のようなものを示唆しているが、これも、山本一力流の「自足」した人間観のようなものが感じられて、わたしとしては、抵抗があった。
◆それにしても、中谷美紀に、もうちょっといい役をあたえる監督はいないものか?
(角川ヘラルド試写室/角川ヘラルド映画)


2007-02-19

●神童 (Shindo/2006/Hagiuda Koji)(萩生田宏治)

Shindo
◆昨年の12月11日に「完成披露試写会」があり、その後も何度も試写状を目にしたが、「神童」という恐ろしげな書体で印刷された2文字を見ると、なぜか腰が引け、試写を後回しにしてきた。そろそろ潮時だと思い、足を運んだ。が、「神童」は登場しなかった。
◆「神童」と「天才」とどうちがうのか、厳密には知らないが、「神童」の方が「天才」より上なのでははいか? 不幸にして、「神童モーツアルト」というような言葉には出会ったが、生の「神童」にはお目にかかったことがない。「天才」にはずいぶん疲れさせられたので、「神童」の漠然としたイメージは想像がつくが、わたしのなかでは、「神童」はもう少し神がかっているような気がする。しかし、この映画の「神童」成瀬うた(成海璃子)には、あまり神がかり的なところはない。わたしのイメージするところでは、ある種の「天才」であるかもしれないが、「神童」ではない。もっとも「神童」は「童」(わらわ)なのだから、おそらく、彼女が子供のときに「神童」だったということなのだろう。・・・なんてことをぐたぐた書いていてもきりがない。
◆成海璃子も松山ケンイチもいい。わきもみんな悪くない。普通のドラマだったら申し分ない構成だ。しかし、「神童」と音楽ということになると、スキがありすぎる。試写室の設備の問題かもしれないが、音と音楽をテーマにしている映画にしては、音が悪い。音採りが悪いような気がする。高音が歪むのだ。「神童」だからかもしれないが、成海が、粗野な叫び声をあげるとき、高音が歪む。ピアノの演奏は、本当の「神童」和久井冬麦が演っているらしいが、成海は、手のアップに耐える演技をしている。松山の場合も破綻はない。代役問題でみっともないのは、菊名和音(松山ケンイチ)が音楽大学に入ってから知りあう加茂川香音(貫地谷しほり)が和音のピアノに合わせて歌うシーン。全然口パクが合っていない。音楽映画でこういうのは、ほんの短いシーンながら致命傷になる。その点、成瀬うたがこの大学の階段ルームに置いてあった古ピアノを発見し、衝動的に弾くシーンはなかなかいい。が、それも「神童」にふさわしいスリリングな感動というよりも、あくまでもホームドラマ的な感動ではあるけれど。
◆映画の最初、ボートの上に寝そべる菊名和音が、成瀬うたから何をやっているのと訊かれて、「音を聴いているんだ」というのに接し、わたしは、菊名が「サウンドスケープ」の方向へ進み、楽音の「神童」成瀬うたとは対照的な立場に立つのかと思った。しかし、この「サウンドスケープ」への菊名の関心はそのままになってしまう。
◆マンガには、小説や映画より強度の「飛躍」がある。ストーリの飛躍であり、絵柄の飛躍であり、登場人物の、「常識」からの飛躍である。原作が、さそうあきらのマンガであるからには、映画化は、そういう「飛躍」を必然的に(たとえ形式的にであれ)継承することになる。ちなみに、マンガの映画化は最近非常に多いが、そういう「飛躍」を創造的に継承した例は多くない。この映画のクライマックスとなるシーン――超有名ピアニストという設定のリヒテンシュタイン(モーガン・フィッシャー)がドタキャンして、会ったばかりの成瀬うたに代役をさせると――は、まさにコミック/マンガ的な「飛躍」であるが、映画はそれをどれだけ意識しただろうか? ただ普通のリアリズムに置き換えただけではないか? また、たとえば、成瀬うたはひんぱんに菊名和音の部屋にいるが、成瀬の母親は全然心配しない。若い娘なら、たとえ兄弟の部屋にいても、夜までいれば、心配するだろう。それは、マンガのシチュエーションでは納得がいくが、普通のリアリズムで撮られた映画のなかの少女(あまり「神童」には見えない)の現実としては不可解である。
◆マンガでは、アメリカ映画の身ぶりがひんぱんに引用される。女が抗議の意志を持って相手に立ちはだかるとき、両手を腰に当てて立ちはだかる。これは、(最近はマンガや映画の影響で日常的にも浸透しはじめているのかもしれないが)日常的にはまだ一般的ではない。この映画では、ピアノのレッスンをさぼり、ラジカセをピアノの上に置いてごまかそうとした(これも稚拙だ。音楽のプロをこんなことでごまかせるはずがない)成瀬うたに、母親がその身ぶりで怒る。また、和音の家に来た成瀬うたに、八百屋の父親(柄本明)がリンゴをぽーんと投げあたえる。彼女が帰るときに和音も、成瀬うたにもう一個リンゴを投げあたえる。些細なことだが、こういう身ぶりは実にアメリカンで、日本ではまだ普通ではない。投げあたえるというのは、アメリカ映画ではよく目にする身ぶりで、実際に、アメリカでは日常的に行なわれる。わたしなどは、いきなりぽーんとものを投げあたえられ、受け止めそこねて笑われたことがよくあった。慣れていなかったのである。いや、だから、映画でそういう要素を取り入れるのはいいが、マンガがアメリカ映画の身ぶりのコピーを意識的にやっているほどには、この映画ではその由来が意識されていないような気がするのだ。かなり余計なことだが。
◆余計なことをもう1つ。串田和美を映画で見るのは久しぶりだ。ここでは、和音が入った音楽大の教授を演っており、その同僚教授を、串田の演劇時代の同志・吉田日出子が演んじている。どちらも、音楽の教授というより、絵か演劇の教授という雰囲気。串田を最初に見たのは、材木町の「自由劇場」でだった。わたしの恩師・渡辺秀先生が、串田孫一氏(和美の父)と友人で、「串田さんの息子さんが劇団を始めたから行ってみましょうか?」と誘った。それから、串田和美と吉田日出子は『上海バンスキング』(1979年)で時の人になったが、わたしはニューヨークにうつつをぬかしていて、その過程は知らなかった。



2007-02-14

●ゴーストライダー (Ghost Rider/2007/Mark Steven Johnson)(マーク・スティーヴン・ジョンソン)

Gohst Rider
◆連載コミックにもとづくというが、それよりも、マーローやゲーテの「ファウスト」伝説を下敷きにしたドラマになっているのは予想しなかった。コミック自体がそうなのか、それとも映画で取り入れられたのか? 若きジョニー(マット・ロング)は、肺ガンで余命いくばくもないことがわかった父親を救うために悪魔メフィストと魂の契約をする。「メフィスト」というのは、日本ではその名の雑誌もあるが、本来は、「メフィストフェレス」の略で、著名な「悪魔」の一人である。ゲーテの『ファウスト』でもメフィストはいきなり一方的にあらわれるが、この映画のメフィストもいきなりジョニーのまえに姿をあらわし、魂と引き換えに父親の命を救ってやろうと言う。が、映画のメフィストは、セコい奴で、肺ガンからは救ったが、そのあとすぐにバイク事故で命を奪う。彼は、スタント・ショーの名手であり、ジョニーもそれをついでいた。
◆コミックの伝説とファウスト伝説をミックスしている面白さは別にして、この映画が、いまのアメリカらしく、父親と息子の関係を描いているのも面白かった。まえにも書いたが、いま、映画では、母親よりも圧倒的に父親と子供との関係がテーマになる。この映画では、面白いことに、悪魔メフィストも親子問題に悩まされている。彼の息子ブラックハート(ウェス・ベントリー)は、父親に反逆し、地獄をわがものにしようとしているからだ。メフィストがジョニーに近づいたのは、この息子とその一味をジョニーの手で抹殺させるためだった。魂と引き換えに得た超能力で超人的なスタントショーを見せ、いまでは有名人になっている成人ジョニー(ニコラス・ケイジ)のまえにふたたび姿をあらわすメフィストは、ジョニーにさらなる超能力(炎で焼きつくす能力)をあたえる。「ゴーストライダー」の登場である。
◆アメリカ映画における父子関係ということで言うと、1970~1980年代には、母と子の関係が美化され、父親はダメ男か子供にとって軽蔑か憎しみの対象であるというパターンが見られた。まさに、この映画のメフィストは、そういう時代の父子関係を象徴しているわけだ。それに対して、2000年をすぎるころから、かつては無視/軽蔑/嫌悪された父親を再評価し、あらためて尊敬する視点が出てきた。ジョニーはそんなタイプに属する。
◆ジョニーは、父親を助けなかったメフィストを憎み、復讐の念をいだいている。炎の力をコントロールし、自由にあやつることができるようになれば、メフィストに対抗できる。映画は、続編を示唆しながら終わる。映画のなかで、(マーロウのか、ゲーテのかは不明だが)ちらりと古い装丁の『ファウスト』が出てくる。ジョニーは、勝手に押しつけられた超能力を自己コントロールするためにさまざまな本を読みあさり、その一冊が『ファウスト』なのだが、そのあるページを「こいつは参考になる」とばかりに、バリットむしる。津野海太郎とちがって、本のページをむしることができないわたしは、このシーンで一瞬胸がピリリと痛んだ。
◆かつてゲーテ研究の碩学・木村直司氏と話をしたとき、ゲーテの『ファウスト』の「契約」という観念は日本の伝説のなかには発見できないということを言っておられた。そうかもしれない。俗説では、日本人には「契約」の観念がないから、西欧人ともめごとが起きるとかいう。しかし、制度的には、この10年、日本も契約社会になってきた。ところで、その場合、「契約」には、この映画にも出てくるように必ず「契約書」への署名ということがともなう。ちなみに、ゲーテの『ファウスト』(手塚富雄訳)では、メフィストは言う、「ただ一つお願いしたい。万が一にも間違いのないように、ひと筆書いていただきたいのですが」。これに対して、ファウストは、「男どうし、男の一言ということを知らないのか」と不満を呈し、「一枚の羊皮紙に字を書いて印を押すと、世間は、化けもののようにそれをこわがる。言葉は、筆とともに死んでしまう。とたんにのさばりだすのが用紙や封蝋だ。だが、おい、悪霊。きみはどんな証文がほしいのだ。青銅か、大理石か、羊皮紙か、紙か・鑿で彫れというのか、ペンで書くのか、鉄筆か。なんなりと注文するといい」と「大演説」をぶつ。これをいなしてメフィストは言う、
「どうしたあなたはそうすぐむきになって大演説をはじめるのです。どんな紙きれでも結構です。ただちょっと血を一滴たらして、そいつで署名してください。
映画のなかでは、ジョニーはつべこべ言わないが、有無を言わさずに血判を押させるある仕掛けがある。これは、なかなか映画的だ。
◆映像に革命的な新しさではないが、『ビューティフル・マインド』や『ビッグ・フィッシュ』の視覚効果スーパーヴァイザー、ケヴィン・スコット・マックが関わり、既存のCG技術をソフィスティケイトして使っているので、エンタテインメントとしてはよくできている。
◆青年時代のジョニーが愛するロクサーヌを演じているのは、映画では新人のラクエル・アレッシィだが、ジョニーがのちに再会する熟女としてのロクサーヌ(テレビのキャスターになっている)は、エヴァ・メンデスが演じている。俳優がちがうといえ、熟女のロクサーヌの感じが、若いときのにくらべて毒々しいのは、10年(?)もたてば「乙女」もこんなになるということなのだろうか? まあ、やり手のキャスターの役だから、それでいのかもしれない。でも、どのみちドラマなのだから、もうちょいかわいくてもいいのでは?
◆ジョニーの父親がしょっちゅうタバコを吸っているシーンがあるなと思っていると、案の定、肺ガンになってしまうのは、いまのアメリカ映画の「禁酒法」的モラリズムを感じさせて、愉快ではない。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)



2007-02-13_2

●主人公は僕だった (Stranger Than Fiction/2006/Marc Foster)(マーク・フォスター)

Stranger Than  Fiction
◆東宝を出たら、すでに3時半をすぎていたので、晴海通でタクシーを拾う。さいわい赤信号にさまたげられずに一気に鬨橋のたもとまで直進。こういうことはめずらしい。が、会場はそれほど混んではいなかった。その代わり、猛烈な香水のにおいがただよっていて、世界をまちがえたかのようだった。それらしき人はいなかったから、まえの試写の客が置いて言った残り香だろう。
◆冗談を言いながらけっこう深いことをあつかっているといったスタイルの斬新な作品。それまで進行してきたドラマにいきなり「作家」の想像(執筆中の小説のアイデア)が挿入され、カレン・アイフィル(エマ・トンプン)が高層ビルから飛び降りるシーンが映ったりする飛躍のタッチとある種の意外性は、スパイク・ジョーンズの『マルコヴィッチの穴』にも似ている。
◆文芸学の教授(ダスティン・ホフマン)が「三人称の語り手の全能性」というようなことを論じるシーンがあるが、ウィル・フェレルが演じる人物ハロルドが、実は、映画のなかで小説家(エマ・トンプソン)が書いている小説の主人公で、小説の内と外の世界が入り組みあうというこの映画のひねった展開は、「ナラトロジー」(ナラティヴやナラティヴィティの研究)への目配りもある。
◆教授が言う「三人称の語り手の全能性」とは、小説家が「彼はほどんど知らないのだが」(little did he know)という言い方で、主人公の「秘密」を語るときの「全能性」である。しかし、はたして作者というものは、登場人物にたいして本当に「全能」で 「little did he know」と言える立場にあるのか、というのがこの映画の設問である。映画では、実際、「彼はほとんど知らないのだが、この単純で一見無害な行為が彼の切迫した死を招く」というナレーションを聞いてしまったハロルドがパニックに陥り、その後のドラマが展開する。
◆映画で展開される物語が、そのなかに登場する「作家」の産物であるといった仕掛けは、めずらしくはない。その「作家」の生み出した主人公や登場人物が「作家」にさからったりするのもこの映画の独創ではない。が、「普通」の映画のナレーションのようにスタートし、いきなり、そのナレーションが、主人公の「幻聴」のような展開をするやりかたは、なかなかユニークだ。最初は、通常のナレーションかと思って聞くことになる。
◆そのとき思ったのだが、日本の映画の持つ「無声映画」としての特性が、ここでちょっと破綻をきたす。小説的なディスクールで語られるナレーション、それを反復するウィル・フェレルの発声、その翻訳としての字幕――の3つが齟齬を起こすのだ。これにはやや説明がいるだろう。ジル・ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』(法政大学出版局)で鋭く指摘しているように、字幕というのは、「視覚的イメージとは別の要素」であり、サイレント映画は、「見られるイメージと読まれる字幕(眼の第二の機能)から構成されている」。これが、トーキーの出現によって「言葉が耳に聞こえるようになり」、「言葉は何か新しいものを見させ、非自然化された可視的イメージのほうは、可視的ないし視覚的なものとして可読的となり始める」。しかし、日本の「洋画」の面白さは、字幕の存在だ。字幕は、サイレント映画ほどには文字のフォントやイラストに凝るわけではないが、とはいえ、「洋画」を見る者は、映像としてのイメージと、文字と映像との二様の「可読的イメージ」との全三重の関係のなかにいるわけだ。この場合、字幕はあとから付けられるが、サイレント映画が文字を意識したほどには意識せずに機械的に付ける。その結果、「可読的イメージ」を逆手に取ったこのようなシーンでは、字幕の存在が邪魔になるのである。
◆はっきり言って、そんなに深みのある映画ではないのだが、この映画を見ながら、作者、ナレイター(語り手)、登場人物の関係を考えた。カフカは小説のなかでナレイターは、決して「客観的」な説明をするわけではなく、ときには「嘘」もつくことを示した。また、登場人物も、作者の自由になるものではなく、読者の解釈次第でその行為の意味が変わることを小説として実演した。だから、カフカ論者のフリードリッヒ・バイスナーは、『物語作者フランツ・カフカ』(その昔わたしはこの本を訳して、せりか書房で出した)のなかで、「カフカは、正しくつかむなら、カフカ自身のみならず読者をも主要人物に変ずるのだ」と書いた。カフカが説明なしにさりげなく実践したこうした飛躍にくらべれば、この映画で試みられているナラティビティの実験は、きわめて平板である。しかし、ゴダールやストルーブ夫妻よりも「わかりやすく」ナラティヴィティの屈折をかいまみさせてくれる。
◆マギー・ギレンホールという役者は、社会意識がある程度強くてセクシーな元気少女的なおもかげがあり、好きなタイプの女優の一人だが、この映画では、まさにそんなキャラクターを演じている。「世界をよくしたい」と思ってハーバードの大学院に入ったアナ・パスカル(マギー・ギレンホール)は、寮で友達たちのためにクッキーを焼いていて、学問よりも、こういうおいしいものを人に食べさせることで「世界をよくする」方がよいと考え、ドロップアウトし、クッキー屋(屋号は「暴動」(The Uprising)を開いた。この映画の主人公ハロルド・クリック(ウィル・フェレル)は、国税庁の会計監査員で、税金の未払いのことでパスカルの店を訪れる。彼女は、税金が福祉や公共施設の改善に使われるのではなく、軍事費に使われているのは許せないと税金を意図的に払わないという。このやや「アナーキスト」的な女性と、電算機のようなハロルドとの出会いが面白い。
◆数字と規則に従属している男が、味覚による世界の変革(「分子革命」?)を信じている女性と出会い、変わって行く。他方、数字とはちがったある種の一貫性(それは「喜劇」と「悲劇」との2つのパターンに分かれると「教授」なら言うだろう)で世界を構成しようとする小説家がいる。「合理性」と「感覚」と「構想力」とのからみあいを考えさせもする。
(ソニー試写室/ソノイー・ピクチャーズエンタテインメント)



2007-02-13_1

●バッテリー (Battery/2007/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)

Battery
◆あさのあつこの原作を知らず、野球に興味のないわたしがこのタイトルからまず思い浮かべたのは、ピッチャーとキャッチャーの組み合わせのことではなくて、電池や蓄電池のバッテーリーだった。しかし、語源的には、 battery は、「打つこと」、「砲撃」等の意味が先で、そこから「砲台」のようなエネルギー源→「電池」という意味が出来たらしい。まあ、そんなことはどうでもいいや。
◆物語は、天才的なピッチャー、原田巧(林遣都)を中心に進むが、そこからじわじわと学校制度への批判的な目も出てくる。『お受験』を撮った滝田監督らしく、極度の管理化されている学校制度への批判的な目である。しかし、「風紀委員」が校門で登校する生徒の服装・持ち物検査をしているのは、少し時代がズレてはいないか? ちなみに、わたしが高校時代には、正門のところで体育の主任教師がそういうことをやっていた。わたしは、帽子をあみだにかぶり、ダスターコートの襟を立てていて、首根っこをつかまれた。この「安楽」という名物教師は、学校から遠く離れた渋谷界隈にも出没し、「臨検」をやっていた。わたしの知りあいなどは、タバコを吸っているところをこの先生に見つかり、あわてて火のついたタバコをポケットに入れてしまい、叱られているあいだにポケットから煙が出てきた。こういうことは、わたし自身この目で見たことなのだが、それはン十年もまえのことである。この映画に登場する「風紀委員」を見て、わたしはまるでデジャヴュを見たかのような気がした。いまの中学高校の現状を知らないので言うだが、映画が多少誇張して描いているのか、それともいま時代がバックしてこんなことをやっているのか?
◆ただ、この映画で面白いと思ったのは、野球部のような集団主義のスポーツサークルのなかにもさまざまなゆらぎがあり、そこでは個がどろっとした集団のなかで塊(まさに「団塊」)になっているわけではないらしいということだった。それは、一人の「天才」ピッチャーが主人公なのでそういう展開にならざるをえないわけだが、逆に、どんなに平均化を強制する構造になっている集団や組織でも、飛び抜けた者がいて、集団の拘束につぶされないときには、集団自体が「団塊」でない創造的な機能を発揮するということだ。ただし、日本の場合は、これに特殊な伝統要因がついてくる。
◆巧が転校した学校は、野球部のキャプテンでもある戸村(萩原聖人)が独裁制を敷いており、あの「風紀委員」も戸村の支配下にある。巧は、最初から戸村と対立するが、戸村が巧の言うことをきかざるをえなくなる。野球部には、決まったキャッチャーがいたが、巧の球を取れず、キャチャーを永倉豪(山田健太)にしてほしいという巧の要求を受け入れざるをえないのだ。永倉は、マスコミ報道で巧の天才的なピッチングを知っていて、引っ越してきたこの町でばったり会ったときから、無愛想な巧に敬意を示し、友達になったのだった。
◆しかし、このへんは、全体の構造がわかってくると、力のある者が因習を打破するといった「リーズナブル」ななりゆきではないことがわかる。巧が広島にやってきたのは、弟(鎗田晟裕)が病弱で、父親が空気のよい郷里を希望して転勤したからだが、この故郷にいる巧の祖父、井岡洋三(菅原文太)は、この土地では元甲子園の常連監督として有名だったという設定。しかも、戸村は、この井岡に学んだ者なのだ。つまり、巧は、いきなり見知らぬ野球小世界に入ったのではなく、最初からエリートとして入ったのであり、戸村などに屈従する必要のない条件がととのっていたのだ。つまり、巧は、「マレビト」なのである。
◆閑話休題。菅原文太が広島弁をしゃべり、その名が「井岡」ということになると、「仁義なき闘い」シリーズの「田岡」=山口組組長の名とフェイドアップして、野球とやくざが重なりあう。家族と飯を食っていても、いきなり「おめぇらは!」と言い出すのではないかという気がしてくるのでああう。
◆日本の組織というのは、デモクラティックイな方法や誰にでも納得のできる「リーズナブル」な手続きで変わることはない。日本の組織を変える最も効率的で非暴力的な方法は、「マレビト」による君主制的な変革なのだ。これは、わたしの主張ではなくて、歴史的現実にすぎない。わたしは、民主的な変革が可能であれば、それにこしたことはないと考える者だが、残念ながら、歴史は、その蓄積のなかでしか動かない。実際、巧を「マレビト」だとすると、彼を尊敬し、最大の理解者である永倉豪は、「侍従長」である。他方、「マレビト」には、必ず病弱や流浪のもう一人の貴人が影のようにつきまとう。折口信夫の「貴人流離譚」である。説教節で有名な蝉丸は、延喜帝の第4皇子であったが、盲人であり、流浪の旅人である。昭和天皇には結核で早世した秩父宮がその役を演じ、いま、浩宮と秋篠宮とのあいだで、どちらが「貴人流離」を演じるかが問われている。余分なことを書いたが、この映画では、まさに、巧の弟、青波がまさにその位置にいる。
◆映画のなかで巧に排除された元キャッチャー(役者名はわからないが、いい面構えだ)とその仲間は、上級生という立場もコケにされたこともあり、巧をリンチにかける。このあたり、イジメの構造にも通じていて、面白い。つまり、日本のイジメは、「マレビト」への嫉妬と屈辱感の代償としてある。映画ではいっとき巧がリンチに遭うが、実際には、「メレビト」そのものをイジめることはなく、そのミニチュアないしは影をイジめる。「流離」する「貴人」は、イジめられ専門となる。つまり、日本のイジメには、「マレビト」と影の「マレビト」とが全体をなしており、「マレビト」がいるかぎり、誰かがイジめられるのだ。
◆イジめが暴露したとき、放逐された元キャッチャーは泣きながら言う。野球部で一生懸命やってきたのも、野球が好きだからじゃない。スポーツ推薦が欲しいからいやいややってきたのだった。それなのに、外からやってきた奴がいきなりトップに立つ。実は、これ、日本の階級構造そのままではないか? 一億総「中流」化の体裁を取りながら、「中流」に変えることが出来る部分はほとんどなく、いつも外から来た「マレビト」たいきなり変える。「上流/下流」というパラダイムが流行り、日本でも、西欧並の階級格差が出来つつあるというが、事実は、「超上流」(「マレビト」階級)と「超下流」とがおり、大部分は、依然としてわけのわからない「中流」のままなのだ。
◆そうなると、この映画は、「マレビト」の生長記録であり、鼻もちならない感じで登場した巧が、「侍従」ともめごとを起こしながら、「立派な指導者」となることを予測させながら終わるわけだ。そうなの? 滝田さん。これって、天皇制肯定論なの?
(東宝試写室/東宝)



2007-02-09

●バベル (Babel/2006/Alejandro González Iñ&225;rritu)(アルハンドレ・ゴンザレス・イニャリトゥ)

Babel
◆「雑日記」で書いたように、この試写は、「めぐりあわせ」であった。1月26日に満席で入れず、『ブラック・ダイヤモンド』を見に行ったのだったが、人が集まりすぎる試写は、この作品のように本年度アカデミー賞6部門ノミネートといった話題もさることながら、メル・ギブソンの『パッション』のときもそうだったが、映画そのものよりも他の原因(『パッション』のときは、キリスト教関係の招待客がマスコミ関係者を圧倒した)によることが多く、ある時期からわたしは、やたらと満員になる作品はパスすることにしたのである。
◆このまえせつと一般的な評判からするとすごい大作という印象だが、それほどでもない。見終わった感想は、「日本映画のようだった」といったところ。3組の家族が平行描写されるが、役所広司と菊地凛子の親子の部分が一番印象に残るからだ。いずれも、ハリウッド映画風の「解決」はないのだが、他の家族の話は、事件的でドラマティックなだけ、終わってしまうと印象が薄いのだ。とはいえ、いずれの家族も未解決のものを残し、観客の心に問いを託す。
◆いままたアメリカ人はアグリーに見られるようになっているが、メキシコ人の監督は、アメリカ人をステレオタイプ化はしていないが、相当厳しい目で見る。アメリカ人の夫婦を演じるブラッド・ピットとケイト・ブランシェトは、典型的なアメリカ人を演じる俳優ではない。ピットはアメリカ生まれのアメリカ育ちであるとはいえ、アメリカにいつも若干の距離を置いてきた。ブランシェットは、オーストラリア生まれであり、映画デヴューはオーストラリアであり、彼女を有名にした『エリザベス』は、イギリスの製作だった。しかし、この映画では、ブランシェットは、モロッコまで来て、「アメリカ的」な生活感覚を通そうとする。「屋台」の休憩所で水が心配なのでダイエットコーラーを注文するが、普通のコーラーしかないのに苛々する。そういう彼女が西洋人ばかりの乗った観光バスで荒涼とした人気のない山岳地帯を移動中に、流れ弾(と言っておこう)に当たって怪我をする。そのとき、彼女と夫が示す態度は、(そういう事態に直面すれば誰でも平静ではいれないのがあたりまえだとしても)「アメリカ人」の尊大さと傲慢さを露骨に出したものだった。そして、イスラム過激派のテロにちがいないという思い込みがパラノイアックにふくらんで行く。
◆怪我をしても病院はなく、バスを通訳の村に急遽移動し、応急処置をするが、やって来たのが獣医というのは、アメリカ人への痛烈な仕打ちのようなところもある。当然パニくる彼女だが、選択の余地はない。が、痛みと不安の彼女に、村の老婆(実に枯れた顔をしている)が薬煙(阿片の一種か?)を差し出す。しぶしぶそれを吸って気持ちが落ち着くのだが、なかなかいいシーンである。このあたり、60年代のヒッピーカルチャーのなかでアメリカ人が学んだことをいまのアメリカ人はもう一度学びなおさなければならないのではないかという思いをいだいた。
◆この映画では、アメリカ人は、さらに厳しい目で見られることになる。ブランシェットとピットは、アメリカに2人の子供(エル・ファニングとネイサン・ギャンブルが達者に演じる)を残してモロッコの旅にやってきた。2人のあいだには危機がある。それを癒しにやってきたらしい。子供たちの面倒をみるのは、メキシコ人の家政婦(アドリアナ・バラッザ)。彼女は、息子の結婚式でメキシコに帰らることになっていたが、夫婦が事故にあい、帰りが遅れた。家にいてくれというピットの電話だったが、バラッザは、当日迎えにきた甥(ガエル・ガルシア・ブルナル)のメキシコ人的ノリも手伝って、ままよとばかり、2人の子供をメキシコに連れていくことにする。
◆メキシコといっても、おそらく、ティワナの近くであろう。ブランシェットとピットの一家はサンディエゴのあたりに住んでいるという設定と思われる。わたしも行ったことがあるが、車で1時間も行けば、いきなり「アメリカ」が消え、メキシコとヴァイタリティのある街ティワナに入る。アメリカ側から(そして、あなたがアメリカ人や海外からの観光客ならばなおさら)ティワナに入るのはたやすい。しかし、行きはよいよい、帰りは怖い。これは、アメリカとカナダとの国境でも同じである。メキシコで結婚式に出て、子供たちもアメリカでは経験できない底抜けに陽気でくったくのない時間を過ごしたあと、ブルナルの運転でアメリカにもどろうとしたとき、検問でひっかかる。テロ恐怖のいまのアメリカならさもありなんという国境警備の警官の典型的な態度が映される。ブルナルが飲酒運転であること、ブルナルが子供を両親の「委任状」なしに連れ出していること、さらには、彼女が不法就労であることが問題になる。メキシコからの不法就労者へのアメリカの対応は厳しい。そうしなければ、国としてやっていけなくなるというのが表向きの理由だが、その実、アメリカの産業は、不法就労者の低賃金労働をあてにしてなりたっている。
◆モロッコの山岳地帯に住み、ヤギを牧畜している父親と兄弟の一家の描写は、エピソードの域を出ないように見える。頭のいい弟にプレッシャーを感じている兄。ヤギを襲う狼を追い払うために父親から渡されたライフルで弟が遠くを走る観光バスめがけてライフルを発射する。俺の方が腕がいいということを見せるためだけのはずが、大事(おおごと)になる。遠くから見れば極めて抽象的な対象でしかない「バス」。が、そのなかには血の通う肉体をかかえた人間がたくさん乗っている。そのまえに、父親が兄より弟の方をかわいがるシーンがあるが、これも、モロッコの家族でなくても、よくあることである。子供たちも父親もみないい演技をしているが、他の2組の家族が観客に問いかけるような問題は、この家族の描写からはえられない。
◆三組の家族は、ライフルでつながっている。問題のライフルは、役所広司がモロッコに狩猟に来たとき、ガイドに進呈したものであることがわかる。実は、このライフルは、役所の妻が自殺に使ったものであり、そのことが彼と娘(菊地凛子)とのあいだにわだかまりができている。二人とも母・妻の死のショックから立ち直れないでいる。その不幸のライフルが、モロッコ人の家族を不幸に追い込み、さらにアメリカ人の家族に試練をあたえる。ライフル=武器を拡大解釈すれば、ここに、武器と戦争の暗喩を見いだすことも可能である。武器はいまや、日本から「無責任」な形で出て行き、イスラム圏を「加害者」にし、アメリカを被害妄想的な「被害者」にする。
◆イスラム系の家族が加害者で、被害者がアメリカ人、仲介役に日本人がかかわっているという構図は、たしかにいまの時代には示唆的ではある。実際、映画のなかでも、モロッコ政府とアメリカ大使館は、「それ、テロが起こった」といったヒステリックな反応をする。しかし、むしろ、この映画は、テロでもなんでもないのに、なんでもテロと騒ぎすぎる「アメリカ人」をはじめとする西欧人の反応を描くためにこういう設定をしたにすぎないような印象をおぼえる。最初の方で事件が起こって、テレビがテロさわぎをはじめるとき、この映画は、少年たちの意図的でない行為が世界的な大事件に発展する話を描くのかという予感をいだいた。しかし、そういうハリウッド映画的なクリシェに陥らないところがこの映画の面白さであり、そういう期待をはずすところがこの映画のたくみな演出でもある。
◆ここに登場する3つの家族(結婚式のシーンだけではあるが、メキシコ人の家族のシーンもあるが)のうち、役所と菊地の親子と、菊地が街で友人たちと過ごすシーン、ライフルの所持で事情聴取に来る刑事(二階堂智)との関係、つまりは日本のシーンが特に印象に残る。 アメリカ・メキシコの部分は、他の映画でも見たことがあるような世界だが、日本の部分は、いまの日本に独特の切り込みをあたえている。菊地は聾唖者として設定されているのも、メタファーとしても面白い。日本の親子関係は、手話でかわした方がうまく行くような根本的なコミュニケーション問題をかかえている。その意味で、役所と菊地との父娘関係は、「一般」の平均的な親子関係よりも親密なのである。
◆しかし、菊地の方は、いつも持って行きようのない感情をいだいて生きている。この映画で、菊地は、他人に股間を見せたり、全裸になったりする(高校生の設定の少女の裸体を1981年生まれの菊地が演じるので、少し無理な感じもしないではない)が、映画としては悪くない。しかし、手話と筆談の一方に露出が対置されるような単純さもあって、このへんの評価は微妙である。
◆カンピオンの『ピアノ・レッスン』にも似たような構図があった。ニュージーランドの島に娘とスコットランドからやって来たホリー・ハンターと、原住民の血を引く男(ハーヴェイ・カイテル)との物語だが、ハンターは聾唖者という設定で、あるとき、カイテルは、自分をさらけ出すためであるかのように全裸になる(日本版では、この重要なシーンに「精巧」なデジタル処理のぼかしが入っている)。ハンターが裸になるわけではないが、聾唖と全裸という関係で思い出した。
◆聾唖の菊地は、街で暗黙の差別を受ける。しかし、この映画は、そんなことを批判的に描くわけではない。当然あるだろう差別を淡々と描き、彼女の方も、それなりの対応をする。それよりも、彼女は、母親の死に向き合うことができずにいる。孤独と不安とせつなさを俳優菊地凛子は、見事に見せる。二階堂との出会いは、極めて映画的な出会いではあるが、二人のみせるせつなさが、この映画の白眉であった。
◆タイトルになっている「バベル」は、バベルの塔のバベルなのだろうが、この映画がなぜ「バベル」というタイトルになっているのかがすぐにはわからない。わたし自身は、『バベルの混乱』という本を出していて、「バベル」にはこだわりがある。わたしは、メディアには「バベル」が陥ったような「混乱」が必要だし、それを肯定し、増幅していくことがメディアを活かすことになるという主旨でこの言葉を使った。しかし、この映画では、「バベル」はどちらかというと否定的なメタファーとして使われているような気がする。
◆この映画のなかで「バベル」にふさわしいのは、アメリカである。アメリカの歴史は、「バベル」の肯定と否定のあいだを揺れ動いている。60年代から70年代のアメリカは、多元化と多様化をよしとする方向を進んだ。いまは、そういう要素をできるだけ排除しようとする方向に進んでいる。少なくともブッシュ政権とキリスト教原理主義の連中はそうだ。クリス・ヘッジは、「AlterNet」へ「クリスチャン・ファシズムの台頭とアメリカン・デモクラシーへのその脅威」という文章を寄稿している。「ファシズム」は、「狂気」ではなく、「一次元化」への不自然な加速である。バベルを否定的に描く時代と肯定的に描く時代とがある。
◆この映画は、ある意味で、「バベル」を肯定する「いいじゃないか」主義、多元性や「混乱」を「自然」なものとみなすメキシコ的(というと語弊があるか?)」「いいかげんさ」が萎縮するところに起こる不幸を描く。モロッコの家族は、ヤギを襲う狼を効率的に駆除しようという考えを持たなければライフルを買うことはなかった。映画では明示されないが、ブランシェットが負った傷は、致命的なものではないように思える。あれほど騒がなくても、対処する方法はあったように見える。ティワナの国境警備がもっとゆるやかであれば、家政婦が16年も暮らしたアメリカへ入国することができなくなるようなことはなかったろう。ガエル・ガルシア・ベルナルは、ある意味で、「バベルの混乱」を肯定する人間として描かれている。彼は、嫌疑を受けたとき、叔母の未来のことなど考えずに車を急発進させ、どこかへ逃げてしまうのである。ティワナ付近でのこの一連の出来事のなかで、「バベルの混乱」から一番インパクトを受けたのは、ピットたちの2人の子供であろう。メキシコの結婚式での「カオス」の洗礼を受けたあと、国境での試練、そして置き去りにされた砂漠での孤立感を経験する2人は、今後、多元性をよしとする人間になるのだろうか、それとも、固いモラルや規則に忠実であることをよしとするような大人になるのだろうか?
◆菊地凛子が登場する世界では、渋谷の都市的イメージが「バベル」を象徴している。渋谷で育ったわたしの目から見ると、いまの渋谷がわたしの言う「バベルの混乱」に満ちた多元性の街とは思えないが、アルハンドラ・ゴンザレス・イニャリトゥにとっては、そう思えているふしがある。それは、東京を撮る視線から十分感じられる。彼は、決して東京を否定的には撮っていない。それはそれでいいだろうし、その視線のポスチャーは(東京という都市に対して「甘いな」と思いながらも)一応納得できる。わたしが、この映画を見ながら、日本の映画を見ているような気がしたのは、そんなところから来たのだと思う。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2007-02-06_2

●東京タワー オカンとボクと、時々、オトン (Tokyo Tower Okan to bokuto, tokidoki, oton/2007/Matsuoka Joji)(松岡錠司)

Tokyo Tower
◆1月30日の「完成披露試写」は避けたのは、出演者の舞台挨拶というのが、いつも時間の浪費だと思うことが多いからだった。あれは、会場の客に対してよりも、カメラを持って集まるマスコミ向けのイヴェントであって、会場の客は雰囲気の盛り立て役をやらされるにすぎない。
◆時間がないので、京橋から東劇までタクシーに乗った。が、運ちゃんは東劇を知らなかった。そこで、「京橋郵便局のすぐそばです」と言うと、京橋から「京橋郵便局」へということになるためか、いずれにしても京橋郵便局も知らないらしく、かえって当惑をもたらした。結局、晴海通りに出て、歌舞伎座を左に見て・・・と自分で運転するような知的労働を課せられてしまった。ナビゲータもついているのに、どういうことなんだろう。
◆ついでに試写室のことに触れておく。なぜか、となりの人が、別に映画に愛想をつかしているわけではなさそうなのに、ひんぱんにため息をつく。そのうえ、鼻をほじり、鼻糞を床に落とす。そのたびに手がわたしの肘にあたる。しじゅうガムをかんでいるのは、タバコの禁断症状を回避するためか? 服からはえらくタバコのにおいがただよってきた。おかげで、映画を見る意識が意地悪になりそう。
◆まあ、作りは「エンタテインメント大作」。リリー・フランキーのベストセラー自伝小説を松尾スズキが脚色し、樹木希林、オダギリジョーらが主役を演じ、樹木希林と内田裕也とのあいだの娘、内田也哉子が映画初出演で樹木希林の若い時代を演じる(たしかにそっくり)という気を引き、小林薫、松たか子、渡辺美佐子、結城美栄子、寺島進などが脇をかため、ほんのちょい役でも、小泉今日子、柄本明、田口トモロウなどが顔を出す。
◆「自伝」小説だからリリー・フランキーの半生とダブるのだろうが、「小説」だから、どこまでが「事実」で、どこまでが「フィクション」かはわからない。が、「ボク」が、1960~1970年代に筑豊の炭鉱地帯と小倉の製鉄所地帯に住んでいたこと、1982、3年ごろ武蔵野美術大学に入学したこと、1年留年して卒業し、「平成」になってから次第にマスコミで活躍するようになったこと――これらは、映画の前提になっている。これは、たとえ「事実」でないとしても、観客が映画的「事実」として経験できなければ、この映画にリアリティを感じることができないというような「事実」である。
◆完成披露試写を敬遠したもう1つの理由に、樹木希林の出演があった。彼女の演技にはパターンがあり、そのうえ、アウラの強い彼女が出ると、全体の色がそまってしまい、感性的に共鳴できなくなることがあるからだ。が、今回は、達者な役者(祖母役の渡辺美佐は抜群)が多数出ており、樹木希林も抑え気味の演技をしているので、そういうことは感じなかった。彼女がガンと闘うシーンがかなり長いのだが、このへんはさすがの演技。死に方も、三國連太郎の次ぐらいにうまいのではないかと思った。久方ぶりの結城美栄子は、最初誰かわからなかった。ボクのゲイっぽい友人を演じる勝地涼は、『幸福な食卓』のときよりよくなった。
◆構造的に、わたしのような「故郷」を持たない人間からすると、ボクには、ちゃんと「故郷」があり、それが「母親」と切り離しがたくむすびついているということを痛感する。筑豊の炭鉱も、小倉の製鉄所も、産業構造の変化とともに、すたれ、ボクは、そういう時代の流れに押されるように東京に出てくるわけだが、故郷は故郷である。そして、どんなに田舎や街がすたれても、そこに母親や(家を出て行ってしまったといえ)父親が住んでいるとなると、故郷としての重みは変わらない。
◆だから、母親が、最終的に東京のボクのもとに移ってくるということは、「故郷」を東京に呼び寄せるということなのだ。わたしは、あるとき気付いたのだが、東京にある飲み屋の多くは、たいてい、それぞれの「故郷」を背後に持っており、秋田なら秋田、小倉なら小倉出身の客がそれぞれの故郷を売り物にしている店にやって来る。つまり、そういう飲み屋や郷土料理の店は、故郷の出前なのである。
◆地方から出て来た者が、ある程度生活が安定すると、故郷の母(や父)を東京に呼び寄せる。それは、故郷を恒久的に東京に持ってくることを意味する。とりわけ母の故郷的意味は強く、故郷から母が出て来ていっしょに住んでくれれば、息子(や娘)は、故郷なしで済むかのようだ。
◆母親は、息子や娘にとって「故郷」である。その際、息子の方が母親への執着を強く持つ傾向があるということが事実だとすれば、彼は、故郷意識もそれだけ強いのだろうか?
◆父親の影が薄い家庭というのは、日本ではいくつかのヴァージョンがある。猛烈社員で家庭にいる時間が少ない高度経済成長期の家庭、離婚率が高くなって、シングルマザーが増えたいまの時代の家庭。これは、一方では、ママ・パパ・ボク/アタシ的な家庭が形骸化しつつある状況(産業構造の変化やメディア環境の変化とも関係がある)と深くつながっているのだが、そういう状況を調整する現象として、母親と子供との関係が強まることによって、「故郷」意識た高まるということがあるように思う。むろん、それは、擬制の「故郷」である。
◆「故郷喪失」という概念を世界的に流行らせたのは、マルチン・ハイデッガーだが、「故郷」を「喪失」できるということは、すでに「故郷」があったからだ。最初から流れ者で故郷のない者は、故郷を失いようにも、失うことができない。カフカは、絶対に「故郷」などということを言わなかった。カフカにくらべれば、ハイデッガーは「田舎者」である。その点で、この映画は、やはり「田舎者」のための映画なのではないだろうか?
(松竹試写室/松竹)



2007-02-06_1

●松ヶ根乱射事件 (Matsugane ransha jiken/2006/Yamashita Atsuhiro)(山下敦弘)

Matsugane ransha jiken
◆ある特定の場所を選び、その町なり村なりのファニーな人物像を描くというのは、映画の一つのパターンでもある。古くは山田洋次の『馬鹿が戦車でやって来る』が思い浮かぶ。この作品は、そんな系列に入る。映像の視覚自体がさりげなくオフビートなところも、笑いを誘う。冒頭、「これから始まるのは90年代も半ばにさしかかろうとする頃のお話」と断ってから、「事実にもとづくが、職業上の悪い癖で脚色しているかも」というとぼけたキャプションを入れるところなど、これから展開されるドラマと映像のすべてを示唆する。
◆今日的な意味での「家庭」はとっくに崩壊していながら、町(「いのしし伝説の町」という掲示板がある)全体としてはファミリーの形態をなしている。そして、たがいにつながっているのは、血よりも性と身勝手さのようなものであるところが面白い。鈴木家の父親(三浦友和)は家を出て美容室を営む泉(鳥丸せつこ)とくらしているが、その娘の春子と性関係がある。双子の「弟」の光太郎(新井浩文)は、警察官だが、春子と性関係がある。祖父(榎木兵衛)も、春子の陰部を覗くのが趣味。双子の「兄」の光(山中崇)は、交通事故を起こし、みゆき(川越美和)という女を失神させたので、その恋人の佑二(木村祐一)は光を脅し、光の祖父が昔使っていたはなれに住み込む。性と、相手に致命傷をあたえるほどのものではないハラスメントとが、奇妙な「ファミリー」を形成させている。
◆オフビートで笑わせるのは、最初からで、氷が張った池のうえで倒れているみゆきを見つけた子供がまずやったことは、股間と胸をさわることだった。「死体」とみなされ、警察に運ばれたみゆきは、検死台の裸で乗せられるが、その股間にこんもりとした黒いヘアーが露出している。「検死」に立ちあうのでやってきた泉が、そのとき、ティッシュをちぎってみゆきの鼻に持っていくと、それが揺れる。この意外さが、何ともおかしい。
◆ボケ老人の祖父もなかなかいい味だが、この映画で一番クレイジーかつおかしみのあるキャラクターをつくりあげたのは、光役の山中崇だ。このキャラクター、どこかで会ったことがあるという気がして考えたら、知りあいの音楽家にしてデザイナーの針谷周作さんに似ていることを思い出した。才能があるのだが、妙な暴走をする。変な奴につけこまれて、痛い目に遇うのだが、にもかかわらず、それに苦しみながら、快感としても受け入れられる。
◆90年代中頃という設定は、逆に、時代をどうでもよくする方法のような気がする。時代をあえて限定することによって、描かれる世界が時代を越えて偏在することを示すのだ。「家族の崩壊」とか、「新しい家族」とかいうが、そんな現象は、日本では、いつも社会の表層的な現象であって、もっと複雑にからみあった関係のなかでがんじがらめになっているのが、日本人の現実だ。そういう生活の鬱積を光太郎は、交番の天井にいて、なかなか鼠取りにかからない鼠へのパラノイアの亢進という形で表現する。こういう社会で生きていると、たまにピストルを乱射したくなる。
◆こんなに面白い作品なのに、開映5分にして、隣に座ったジイさんは、居眠りをはじめ、あまつさえ、鼾(いびき)までかきはじめた。その音がかなりの音量になったので、わたしは、意を決して肘鉄を加えた。が、上映中、わたしは2度にわたって同じ身ぶりをくりかえさなければならないのだった。この映画もユニークだったが、こういう環境で映画を見るのもめずらしいことだった。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)



2007-02-02

●こわれゆく世界のなかで (Breaking and Entering/2006/Aanthony Minghella)(アンソニー・ミンゲラ)

Breaking and Entering
◆かなりの盛況。30分まえに行ったが、ほとんど埋まっている最前列には今野雄二さんと川本三郎さんの姿があった。今野さんは形式の面から、川本さんは内容の面からアプローチするだろうから、わたしは、形式・内容を包括した「モジュール」的構造の側からアプローチしてみよう。なんて、もってまわったことを言っても、宣言倒れに終わるかもしれない。
◆このところ3年ぐらいのスパンで作品を発表しているアンソニー・ミンゲラ監督。気のあった俳優をくりかえし使うのもこの監督の特徴。主役のジュード・ロウは、『リプリー』でも、また『コールドマウンテン』でも使っている。ロウが出会い、屈折した愛情関係をもつことになるボスニア難民役のジュリエット・ビノシュは、『イングリッシュ・ペイシェント』でおなじみ。
◆脇役がいい。得体の知れない刑事を演じるレイ・ウィンストン。なぜかカフカ全集を持っているロウの同僚役のマーティン・フリーマン。「信じられるのはコンドームだけ」といった警句を吐く、いそうでいない売春婦を演じるヴァラ・ファミーガ。彼や彼女らは、年期が入っているが、ロビン・ライト・ペンのセラピスト(ローズマリー)としてちょい役だが印象深い演技をするジュリエット・スティーヴンスン。掃除婦で最後に監視装置をかける役のために疑われたが、フリーマンが惚れているエリカという女性を演じるカロライン・チケンズィ。ビノシュの息子役のラフィ・カヴァロンは、『アルティメット』なみの身のこなしでビルからビルを跳び歩く。問題ありの娘を演じるポピー・ロジャースが見せるアクロバットじゃなかった、体操は、本作のために習得したものだという。
◆プレスや広告では、ウィル(ジュード・ロウ)と複数の女性たちとの「愛」が描かれているかのように取れるコピーが踊るが、この映画は、2つの家族の物語でありロウは、その二つの家族のあいだを浮遊する。彼は、どのタイプの家族の核心に入り込むことができない。それをはばむのは、母親と子供との絆の強さだ。ウィルは、先夫との娘ビー(ポピー・ロジャース)を連れ子しているスウェーデン女性リヴ(ロビン・ライト・ペン)と3人で暮らしている。眠らず、情緒不安定なビーにウィルは怒らず、優しく尾、忍耐強く対応している。しかし、映画の終わりのほうで、自分はずっとビーと母親の輪のなかにいたが、その輪は「檻」でもあったと言う。ここは、わたしの聞きちがいかもしれないが、普通は、父親が、母親と子供(それが実子であるかどうは別にして)がつくる「輪」のなかには入れないという言い方がよくされる。が、彼はその「輪」のなかに入ることが出来たという。しかし、それは「檻」なのだ。
◆ボスニア難民のアミラ(ジュリエット・ビノシュ)と息子ミロ(ラフィ・ガヴロン)とが作る「輪」も強い。身軽な運動神経を買われて窃盗グループに入っているミロが逮捕されると、彼女は必死で息子を救出しようとする。しかし、これもあたりまえの話だ。アミラとミロのケースが突出しているわけではない。あなたもわたしも、母親であれば、そうするだろう。アミラを愛そうと思ったら、その「輪」に入る必要がある。しかし、そこには娘もいる。でもこんなことはあたりまえではないか。
◆しかし、この映画にこういうアプローチをしてもつまらない。母親と子供との強いきずなのまえで、それを肯定するために自分が耐える男の話というのでは、ありきたりすぎる。大詰めの裁判シーンでウィルは、ミロを救出するために「嘘」を言う。それは、母親と子供の「輪」を肯定するわけだが、その態度は、同時に、アミラとミロが難民であるという点で、「上流」の人間が「下流」の人間を助ける「チャリティ」のような印象もあたえ、なんか後味悪い。
◆とはいえ、にもかかわらず、この映画が楽しめるのは、映画はテーマの束で出来ているわけではないからでもあるが、この映画の会話や台詞がみなひらめきに富んでいるからだ。それは、この映画の最初の方で、ウィルとリヴが車を走らせていると、道路をキツネが横切り、それが、彼と彼女のフラットの外を彷徨していたりするさりげないシーンの印象と似ている。一種の「異化」効果なのだが、それがこの映画のトーンでもある。
◆ウィルの引っ越したばかりのオフィスに窃盗が入り、コンピュータ類をごっそり盗まれたとき、清掃係のエリカ(カロライン・チケンズィ)が最初に疑われる。彼女が警報装置をセットして最後に出た人間だったからだ。その彼女が、ウィルの同僚のサンディ(マーティン・フリーマン)に不満をぶっつけて言う、「まるでカフカよ」。ということは、彼女は、パートタイムの掃除婦をしてはいるが、カフカを引き合いに出すような「教養」の持ち主であることを示唆する。
◆ウィルが、窃盗団の再来を監視しているとき、オフィスのそばで知りあった売春婦オアーナ(ヴェラ・ファミーガ)と車のなかで話をしていて、別に彼女と抱き合ったわけではないが、彼女の香水のにおいが服にしみ込み、帰ってからリヴにとがめられる。そのときの彼が、それについて一切釈明をせず、「記憶にない」と全否定してしまうところが面白い。つべこべ言うより、これが一番いいやり方なのかもしれない。そして、別の日、またオアーナと車のなかで話をすることになったとき、彼は、香水を出し、これを使ってくれと言う。それは、リヴが使っているのと同じ香水なのだった。
◆途中から消えてしまう役なのだが、オアーナの役に力のある俳優ヴァレ・ファミーガを持ってきただけあって、彼女のシーンはみな印象に残る。あるとき、ウィルが彼女にきついことを言う。すると、いまのはわたしへの侮辱だから、金を払うべきだと彼女が主張しはじめる。つまり、商売のメニューのなかに、サド・マゾ・ゲームもあり、いまあんたのやったことは、わたしの商売のメニューに入ってしまうというわけだ。でも、それなら、話をするだけのために女を買う者もいるから、すべてが彼女の商売の範疇にはいってしまうのではないか?
◆ビノシェが、息子といっしょにいるとき笑いを見せるシーンがあるが、その笑いが、『ポンヌフの恋人』で、クラウス=ミッシェル・グリューバーと酒を飲んでポンヌフ橋のうえでゲラゲラ笑いあうときの彼女の笑いと重なるときがある。
◆アミラが言う、「ボスニアでは言葉は政治のためであって、女のためにあるのではないの」。要するに、ボスニアの男は、言葉で女をくどかないということ。
◆アミラと彼女の友人のフラットでベッドをともにし、うとうとして目を覚ますと、そこにその友人タニア(ブランカ・カティック)もいて、「ベッドに男がいるのはいいわね。それが伝染するといいわ」と言う。
◆ビーを自分の担当している建築現場に連れて行き、怪我をさせてしまったとき、あぶないところに勝手に登ったのはビーの方なのだが、ウィルは、しきりにあやまる。そのとき、彼が、「I 'm sorriest. 」と言っているのが、面白かった。「I'm sorry.」は知っているが、その最上級を使う表現を耳にするのは初めてだった。
◆ウィルは、ロンドンのジェントリフィケーションに関わっている。ロンドンでジェントリフィケーションが始まったのは、1970年代で、ニューヨークよりも早かった。スラムが取り壊され、お洒落な店やレストランが出来るという動きである。それから20年以上たち、ジェントリフィケーションは、当時のような抵抗を受けずに遂行できる都市計画として制度化したようである。しかし、監督のアンソニー・ミンゲラの世代にとっては、それをあたりまえのこととは見過ごせないようだ。そういうニュアンスが、売春婦のオアーナや、ボスニア難民のアミラのウィルに対する距離感として描かれている。しかし、ボスニアもジェントリフィケイションも、所詮は、その上っ面をなぞった程度(ウィルがプレゼン用に作ったという設定のキングス・クロス改造計画の3次元映像はなかなかいい)にしかとらえらてはいないので、見る者の関心は、台詞のディテールやキャスティングのあんばいなどに向わざるをえないのである。
◆この映画には、新オフィスへのMacの搬入シーンやMacを絶賛するシーン、さらにはそれがごっそり盗まれて再搬入されるシーンなど、Appleにとってはおいしいいシーンがたくさんある。これらは、すべてAppleとのタイアップかと思ったら、Appleからは金は出ておらず、それよりもミンゲラ監督がマックファンであるために、Macが登場することになったのだという。
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタインターナショナル)



2007-02-01_2

●ブラックブック (Zwartboek/Black Book/Paul Verhoeven)(ポール・バーホーベン)

Zwartboek
◆オランダを脱出してハリウッドのヒットメイカーになったバーホーベンが、「故郷」とヨーロッパのスタッフを使って撮った。そのため、ハリウッド映画より若干緻密さのある画面になったが、基本は、「ナチス・ドイツ占領下のオランダの暗部を暴く」(プレス)というよりも、ナチを素材にしたアクション・サスペンス。
◆この映画には、事実に「触発された」(inspired)ストーリーという但書きが出るが、最近は、「基づく」(based on)よりも「inspired」が好んで使われるようになってきたようだ。が、どのみち、事実とストーリーとの関係に関して何らかの但書きがある作品は、それだけで、ストーリーの事実性を問題にするのはあきらめた方が賢明だ。要するに、こういう但書きは、みな、「本作は事実とは無関係である」と言っているのである。
◆むしろ、この映画でとりあげられているナチ関連の出来事は、これまでナチものの映画でさんざん取り上げられたエピソードを再引用しているという点で見た方がいい。それらがどこまで料理されているかだ。
◆主役のユダヤ人女性ラヘル・シュタイン、(ユダヤ人であることを隠すための)別名エリス・デ・フリースを演じるカリス・ファン・ハウテンは、『ネコのミヌース』で注目された女優だ。この映画で、確実にひとまわりスケールの大きな国際女優に生長した彼女を見ることができる。
◆ヨーロッパの都市が次々とナチに占領されて、亡命していたユダヤ人が追いつめられる話は、一つのパターンになっている。オランダというと、『アンネの日記』以来、ユダヤ人の隠れ家というパターンがある。国外に安全に脱出させるというエイジェントが登場し、実はそれが罠だったというのも、よく描かれた。ナチのユダヤ人狩りの網にひっかかる場合もあるし、また、ユダヤ人の弱みにつけこんだ悪人のしわざであることもある。レジスタンスの活動が描かれ、そのなかにスパイがいるというのも、かなり見せられた。ユダヤ人が非ユダヤ人になりすますというのは、ナチものには必ず出て来る話。
◆この映画では、ラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)が非ユダヤ人の歌手としてナチの高官(セバスチャン・コッホ)に近づき、レジスタンスのためにスパイ活動をする。が、次第に2人は愛しあうようになり、コッホの方も反ヒトラー路線に傾いて行くところがひねり。この映画のドラマは、1944年9月以降に設定されているが、このころになると、ナチの高官内部でも状況認識が違ってきて、ドイツの敗北を確実に予見し、ヒトラーに愛想をつかす高官も増えて来る。
◆バーホーベン監督らしい、どぎつい身体描写がある。またしてもボカしが入ってしまったが、強欲なナチの将校(ワルデマー・コブス)が、女を連れ込んでセックスをし、そのあと陰部を露出したまま歩いて来て、トイレでじゃあじゃあと音を立てながら小便をする。これは、この男のえげつなくて強欲な性格を描写するために必要などぎつさだった。しかし、ナチ党員を「善玉」と「悪玉」とに分けるこうした描き方は、やはり、事実を単純化し、エンターテインメントの方にかぎりなく近づいて行かざるをえない。
◆全体は、ナチ帝国崩壊後10数年たった「1956年10月」、イスラエルキブツを開いているラヘル・シュタイン(カリス・ファン・ハウテン)が、観光旅行に来た昔の知りあいに遭い、過去を思い出すといくスタイルになっている。「1956年10月」という時間設定は、このとき、イスラエルがエジプトに侵入し、「スエズ動乱」が起こり、イスラエルは、もはやユダヤ人の避難所ではなくなるからだろう。ちなみに、イスラエル建設前後のキブツは、国家という観念を越えた、「コミューン」や「評議会」(ソビエト)と共通項をもった自治的・自律的な共有場として作られた。国家に裏切られ続けたラヘル・シュタインがキブツに自分の場を求めたのはうなずけるが、それも、ふたたび、歴史に翻弄されることが示唆される。
◆バーホーベン的な(ストーリー作りのうまい)サスペンスのなかで逆に目立たなくされてしまっているが、この映画の見どころは、支配者が替わったときの「民衆」の手の平を返したような反応である。ナチの崩壊後、反ナチのために働いたはずのラヘル・シュタインは、ナチの高官の愛人だったという理由で収容所に入れられる。まるで魔女狩のように憎悪の嵐にさらされるラヘル。
◆個々人をとってみれば、みな違う人間が、何かのきっかけで一体(団塊)となる。「民衆」という言葉を「人々」という意味にとれば、それは、必ずしもそういう「団塊」ではない。「マルチチュード」という言葉に近くもなる。が、映画も革命論も、これまで、「団塊」としての「民衆」を肯定的に、あるいは否定的にか描いてきた。この映画の終盤でラヘル・シュタインに憎悪の声をあげる「民衆」は、「団塊」としての民衆だが、40~50年代の反ナチ映画にせよ、「革命」映画にせよ、こうした「民衆」的高揚がプラス価値だった。たとえば、ロジャー・スポティスウッドがニカラグア革命の前後を描いた『アンダー・ファイア』にしても、最近の『V フォー・ヴァンデッタ』にしても、最後は、そういう「団塊」としての「民衆」の蜂起という形態でのもりあがりをシメにしていた。しかし、このような「民衆」のまえでは、ラヘル・シュタイン的な屈折や事情のディテールは無視されてしまう。バホーベンは、大ざっぱであれ、この映画で、そういう「民衆」のグロテスクさを異化することに成功している。
◆もう、血やイデオロギーや同じ言語や習慣などで「憑依的」に連帯感をいだく「民衆」などという概念は願い下げにした方がいいだろう。孤立はない、連帯こそ意義があるというのなら、「わたし」としての「民衆」で十分ではないか。「わたし」のなかには何億の個がいると考えること。その個は、反乱や闘争やいがみあいをくりかえしている。どうすれば、そこに「連帯」をたもてるのか? 国や民族などという大きすぎるスケールでは漏れてしまう個とその現実が問題だ。そうしたミクロなレベルが最優先されるような制度や装置がいま求められている。とすれば、映画は、さしあたり、集団などよりも個人を問題にしなければならないし、その個人も、「アイデンティティ」などというあまりに大ざっぱな概念によって「団塊」化されたものではなくて、無数のミクロな個が内部でうずまいているような「矛盾」と「カオス」にみちた個人である。
(東芝エンタテインメント試写室/ハピネット)



2007-02-01_1

●アルゼンチンババア (Arzenchin Babaa/Argentine Hag/2006/Nagao Naoki)(長尾直樹)

Arzenchin Babaa
◆役所広司という俳優に最近厭きが来てしまった。明らかに内容をちゃんと理解していないことを「わかっているような」表情と身ぶりと台詞で平気でこなすのが見るに耐えない。「ガイアの夜明け」というテレビのシリーズのホスト役などその最たるものだ。いつも内部が醒めていて、じゃあ、それが皮肉やサチールの味に活かされるのかと思うと、たかだか『笑いの大学』の程度(ちなみに、ここでは、役所より稲垣吾郎の方が面白かった)で、わざとらしさが気になるのである。ある時代には光ったが、いまそれが急速に古くなってしまったという感じもある。ひょっとすると、ペテン師なんかが似合うのかも。ニコラス・ケイジも、何でも演る役者だが、わたしが英語を母語としていないせいか、役所ほどアラを見つけられない。もっとも、ケイジも『マッチスティック・メン』でペテン師を演じていたな。
◆そんなわけで、この『アルゼンチンババア』も少し引いた感じで見に行った。役所が演じる石職人・涌井悟は、入院している妻の臨終に立ち会うのをあえて避け、娘・みつこ(掘北真希)を残したまま姿を消してしまう。やがて、彼は、この町はずれにぽつんと建っている西洋館で、アルゼンチンから来て長らく住んでいる名物女で通称「アルゼンチンババア」と呼ばれているユリ(鈴木京香)と暮らしていることがわかる。その意味では、ある種のドロップアウトをした「無責任男」というこの映画のキャラクターは役所に合っているとも言える。本来彼はそういう「無責任」男の役が合うのに、不幸にも、あたかも内部にどろどろした怨念や深遠な思想がつまっているかのようなキャラクターをやらされるために、彼の演技は、つまらないものになっているのだ。
◆この映画でも、役所は、彼の本領を発揮するほど徹底した無責任男を演じる枠をあたえられているわけではない。そこそこにモラリッシュであり、その相手のユリという女性も、その「変人的」な生き方には、それなりの理由があったといった説明がくわわって、話が普通になってしまう。いいじゃないか、変な女がいて、気まぐれにドロップアウトする男がいて、2人が、毎日屋上でアルゼンチンタンゴを踊ったり、無国籍料理(たまにはぽ~んと真ん中に丸のままのゆで卵がのっているラーメンなんかもある)を食ったりして、真正のヒッピー生活をするといので。しかし、話は、そういう雰囲気をただよわせながら、そうはいかないのだ。
◆涌井悟は、噂のアルゼンチンババアのところへ直行したのではなく、町はずれの草むらをあてどもなく歩いていると、穴に落ち、動きがとれなくなっているところを彼女に助けられたのだという。「穴に落ちる」というのは、女のとりこになるということとアナロジカルで月並みだ。安部公房の『砂の女』では、男は砂の穴に落ちる。これも、あまり独創的ではない。いずれの場合も、どうせ女に取り込まれるのなら、ストレートでいいはずなのに、あいだに泥の穴だの、砂の穴だのを媒介し、もってまわった設定にするからだ。
◆作者の私的経験と作品世界を重ね合わせる趣味は持たないのだが、ついつい原作者よしもとばななと彼女の父・吉本隆明とのことが浮かんで来る。といって、わたしは吉本隆明の私生活をよく知っているわけではない。編集者やファンや書かれたものから刷り込まれた知識にすぎない。が、吉本氏は、病弱な妻の代わりに家事をやり、2人の娘の面倒を見たという。観念的な文章とはうらはらに(だからこそ)氏は生活人なのである。吉本夫人が存命かどうかは知らないし、吉本氏がこの映画の涌井のような体験をしたかどうかは知らない。が、そうであれば、そしてそうでなければなおさら、創作家の娘としては、もし、吉本氏が妻の臨終にドロップアウトするというような、家庭人の吉本氏なら決してしないだろうことを書いてみたいという気になるのではないか?
◆吉本隆明は、「家庭人」を演じてはいたが、思想家として、「ムク」の「家庭人」でいつづけることはできなかったはずであり、「父親」になりきれないところもあったはずだ。いつもさまざまな既存の境界を異犯し、逸脱しているのが思想家だからだ。よしもとばななにとって、「涌井悟」のモデルはいくらでも身近にあったと思う。
◆ユリは、キリスト教に帰依しているらしい。涌井は、仏教に深入りし、ユリの家の屋上で石に曼陀羅を掘っている。ここで言及される仏教とキリスト教との関係も、冗談のようでいて、冗談ではない。吉本隆明にも、似たようなアプローチがあったような気がする。
◆鈴木京香は、どこか(日本の)田舎臭いところがあって、この映画のように「外国帰り」らしい服装をすればするほど、この「アルゼンチンババア」の外国体験がただよってこない。彼女が自然体になればなるほど、アルゼンチンなどより「東北」のにおいがただよって来る。
◆この映画には、「手仕事」が示唆的に描かれる。涌井悟は、石を刻む。娘のみつこは、パンを捏(こ)ねるのがうまく、指圧やマッサージにも興味を持ち、田中直樹が演じるマッサージ師と親しくなる。が、田中直樹の登場する部分がどこか余計な印象をあたえるように、この「手仕事」のテーマは、この映画では十分には展開されていない。
◆パンもそうだが、ラーメン(曼陀羅などを論じる役所は「ガイアの夜明け」のホストのときのようにウソっぽいが、ラーメンの食いぷりはいい)、竹輪など、庶民的な食い物をうまそうに描く気づかいはあり、この映画の一つの姿勢が読める。
(東芝エンタテインメント試写室/松竹/キネティック)


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