リンク・転載・引用・剽窃は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete. 

 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★ スペル (サム・ライミだからもうちょっとあるのかと思ったら、ただのスリラーだったという印象。ただしローナ・レイヴァー演じる婆さんは凄い)。   ★★★★ 副王家の一族 (体制は変わり、家族も変わっても、基本は何も変わらないじゃないかという皮肉)。   ★★  ゼロの焦点 (松本清張-社会性=スリラー)。   ★ 笑う警官 (製作の意気込みがすごかったので期待したが、いいシーンは春樹先生がみずから出るところだけだった)。   ★★★★☆ 脳内ニューヨーク" (凝った時間構成のため、見るたびに全体の意味が変わってくる )。   ★★★ ピリペンコさんの手づくり潜水艦 (『庭から上ったロケット雲』の潜水艦版で実話というところか?)。   ★★ イングロリアス・バスターズ (ナチを馬鹿にしたり笑っても全然ナチズムを越ええることにはならないとキマジメに考えるわたしには、ブラッド・ピットの入れ込みにもかかわらず、商売人タランティーノの露悪趣味が鼻につく)。   ★★★ 2012 (見せ場はトレイラーで見せているから、本当に見せたいところに自信があると考えないと)。   ★★★ 理想の彼氏 (ロマンティック・コメディのパターンを踏みながら、ちょっと予想をはずすひねりがきいていて楽しめる)。   ★★★★☆ 戦場でワルツを (戦争の不条理と悪夢をドキュメンタリーとアニメの斬新な融合であばく)。  


花のあと   カールじいさんの空飛ぶ家   キャピタリズム マネーは踊る   銀色の雨   手のひらの幸せ   ニューヨーク、アイ ラブ ユー   ゴールデンスランバー  


2009-11-19
●ニューヨーク、アイ ラブ ユー (New York, I Love You/2009/Fatih Akin and etc)(ファティ・アキンほか)  
New York, I Love You/2009/Fatih Akin and etc ◆ニューヨークを描くとすれば、地域、民族・俗(エスニシティ)、階級、ジェンダー等の何に焦点を置くかで、全く違う映画が可能だ。この映画で描かれないのは、地域ではスラムのある場所とビジネス街である。エスニシティでは、イスラム系は出てこない。階級では、最下層と最上層は除かれている。ジェンダーに関しては、男と女との愛が前提で、ゲイ・レズの愛は問題にされない。ニューヨークは、ある意味でゲイの街でもあるから、ゲイの愛が出てこないことに不満を鳴らす現地人もいる。言うまでもなく『パリ、ジュテーム』(Paris Je t'aime/2006) を意識しているが、こちらには、もっと「政治的」な要素が感じられた。『ニューヨーク、アイ ラブ ユー』には「政治」はない。とはいえ、個々の作品がそれぞれに破綻のない面白さを持ち、それらをつなぐ(ビデオアーティストによる映像という設定の)映像(ランディ・バルスマイヤー監督)がうまいつなぎになっていて、全体が一つの作品にもなっている。以下に各パートの感じを順番にメモしておく。
◆イントロ的にブラッドリー・クーパーとジャズティン・バルタ(つなぎに出てくる)がタクシーではちあわせし、相乗りをしようというコメディタッチーのシーケンスが出る。が、わたしの印象では、こういう感じは、二人の「ボーイボーイ」的なやりとりも含めて、全然「ニューヨーク」的ではない。冒頭のシーンとしては、つや消しである。それは、すぐに挽回されはするが。
◆(1) チャン・ウェン監督/トライベッカの街頭でヘイデン・クルステンセンがレイチェル・ビルソンのケータイを掏り、バー「Walker」に入ったビルソンに近づく。そこへ、彼女が待ち合わせていたアンディ・ガルシアがあらわれて、ちょっとした言語プレイになる。「口喧嘩」でははく言語プレイである。若い女をあいだにした若者と中年のせめぎあいが小洒落た感じで描かれる。
◆(2) ミ-ラー・ナーイル監督/フィフス・アヴェニューとシクス・アヴェニューにはさまれた47ストリートのダイヤモンド街。ダイヤモンド商を営むイルファン・カーンの店にナタリー・ポートマンが来る。彼女は、ブルックリンのウィリアムズ・バーク地区に住むハシディック(正統派のユダヤ人)で、結婚をまじかにひかえ、頭を剃っている。正統派の伝統にかなったやり方。その頭を見た初老のカーンは、彼女に愛情をいだく。彼女の頭へのキスの瞬間、不思議なエロティシズムがただようが、それ以上は起こらない。彼の妻は、故郷に帰り、僧院に入ったとか。ポートマンがつけているカツラの髪は妻のものかもしれないと言う。ちなみに、ダイヤモンド街は、ハシディックが仕切っており、インド人のダイヤモンド商はマイノリティである。
◆(3)岩井俊二監督/アッパー・ウエスト・サイドのアパートで作曲をしているオーランド・ブルーム。咳き込み、テンションが下がっている。クリスーティーナ・リッチと路上、室内でのケータイの会話シーンが続き、その「リモートラブ」がフィジカルなラブに変わるまでを描く。ブルームがケータイを耳にあてたまま、ドアの覗き穴を見ると、リッチがドアの外にいて、覗き穴に見えるようにドストエフスキーの『罪と罰』をかざしている。先が読めるドラマだが、なんか安心する。
◆(つなぎ映像)ランディ・バルスマイヤーのつなぎ映像:結婚したポートマンが夫とイースト・リバー沿いの遊歩道をあるいているなどなど・・・。
◆(4) イヴァン・アタル監督/ソーホーのバーの外でタバコを吸っているイーサン・ホークに火を借りるマギー・Q。彼は、「こういうのって親密な特別の関係だよね」、といいながら、タバコの持ち方が悪いと注文をつけ、「もっと上の方で持たないと、ヴァギナが閉まってしまう・・・」。そして、これから二人のあいだに起こることを細かな描写で物語る。「あんた何の仕事してるの?」と聞かれると、「a kind of writer」(作家の一種)と答える。じゃあ、君は?と聞かれた女が「フッカーよ」というのがオチ。ホークのまくしたてるくどきが笑える。
◆(5) ブレット・ラトナー監督/プロムのパーティに娘を連れて行ってくれないかとドラッグ・ストアーの老主人(ジェームズ・カーン)に頼まれたアントン・イェルチンは、しぶしぶ引き受ける。カーンのアパートに行くと美しいオリヴィア・サールビーが出てくるが、車椅子に乗っている。プロムの帰り、セントラル・パークの木にベルトを吊るし、それにぶらさがったオリヴィアがパンティを脱がして、と言う。身体障害者との不思議な愛と思いきや・・・。
◆(つなぎ映像)ヴィレッジに近いシクス・アヴェニュー(トライベッカ)のプレイグランド。バスケットボールをしているヘイデン・クルステンセン。
◆(6) アレン・ヒューズ監督/ブラッドリー・クーパーがシクス・アヴェニュー(?)のバーで投げやりにウイスキーをあおっている。ドレア・ド・マッテオは地下鉄に乗り、彼を思い出している。ジャイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』のモリー夫人的な内的独白。愛し合っていたときのフラッシュバック。彼のところへむかっているのか? タクシーのなかで抱き合う二人。これも、リモートラブからフィジカルラブへのプロセスで見せる。
◆(つなぎ映像)イーサン・ホークの姿・・・ワインをテーブルで飲む、レストランの歩道沿いの窓にビデオカメラを向けている女(エミナー・オハナ)・・・彼女が席をたったとき、ホークは外に出て、カメラに手書きの絵をかざし、映し込む。
◆(7) シェーカル・カプール監督/アッパー・イースト・サイドのホテル/オペラ歌手として有名だったジュリー・クリスティがかつて愛用していたホテルに泊まる。足の悪いシャイア・ラブーフが対応するが、二人のあいだに不思議な愛が生まれるが、彼女は、このホテルに死にに来た。白い衣装を着て、窓を開ける。そのとき、ラブーフがシャンペンを運んで来て、父が昔の彼女のパリ公演を見たという話をする。あまりに淋しそうな目をした彼に彼女は惹かれる。死を忘れたかのような時間がしばし流れ、ラブーフが、開いている窓に気づき、閉めに行く。老眼の彼女にはカーテンがはためくぼやけた映像しか見えない。次の瞬間、ラブーフの姿が消える。窓に駆け寄ると、歩道に彼が倒れている。事故か自殺かわかならい。が、それは、どうやら彼女の妄想だったらしい。マネージャー(?)のジョン・ハートが現れ、あいさつをする。この映画のなかで、一番「洗練度」の高い一篇。かつて栄光を経験した者には身につまされるであろう作品。
◆(つなぎ)勝新太郎に似たウグル・ユーセルがタクシーに乗る。おしゃべりな運転手(最初の方にも出てきた?)が彼に職業を聞く。絵描きだというが、不機嫌。体が悪いらしい。手に絵の具がついているからそうですよね、と運転手。
◆(8) ナタリ-・ポートマン監督/セントラル・パークのなかを白人の女の子(テイラー・ギア)とカラードの男(カルロス・アコスタ)が歩いている。二人が、母親たちのたむろする噴水のあたりにいると、その一人が、「あなたいいマニーね」という。え?と男。「マニー、男のベビーシッターでしょう?」。ええ、まあとあいまいな反応をする彼。それから、彼女が「マミー」と呼ぶ女(ジャシンダ・バレット)に渡す場面になって、アコスタが去る。その女のかたわらには白人の男がいる。場面は飛び、アコスタが舞台で筋肉質の肉体をあらわにしたダンスパフォーマンスをしている。終わったとき、拍手する客のなかにジャシンダ・バレットがいて、「パパー」と叫ぶ。なるほど、彼女は、彼の娘だったのだ。いまは別れ、ステップファーザーと暮らしてるのか?イスラエル出身のポートマンらしい作品。養子もいるし、インターレイシャルな結婚もあるから、色だけでは誰が「実父」だかはわからない。
◆(9) ファティ・アキン監督/つなぎでちらりと出た「画家」のウグル・ユーセルがチャイナタウンで漢方薬か何かを買う。そのあと中華レストランで一人、食事しながら、紙ナプキンにいきなり醤油をかけ、そこに醤油で顔を描きはじめる。その顔は、さきほど店で対応した中国人の女性(スー・チー)の顔だ。アパートにもどり、大きな紙に彼女の顔を描く。ジャック・ダニエルズをあおり、創作をつづけるが、絵の上に倒れてしまう。体の調子が悪いらしい。意識がもどると、思いつめたように、先ほどの店い行き、スー・チーに絵のモデルになってくれないかと誘う。彼女は当惑し、断るが、住所のメモ書きを受け取る。(それから何日かしてか?)きつい仕事にうんざりした彼女は、主人が居眠りしているのをみはからって、彼のロフトを訪ねる。階段に自分の顔の絵がある。が、部屋のなかにいた男から、彼が死んだことを知らされる。
◆(10) イヴァン・アタル監督/レストラン?バー?の外でクリス・クーパーがタバコを吸いながらケータイしている。そこへ、マギー・Qが火を借りに来て、彼を誘う。クーパーは躊躇する。中に夫がいるが、わたしのことなど気にかけていない・・・。しかし(このへん、わたしの記憶があいまい)最後は、クーパーとロビン・ライト・ペンが何もなかったかのようにレストランの席で談笑している。
◆(つなぎ)カーンのドラッグストアにマギー・Qが来る。ちょっとした質問に彼女は怒る。
◆(11) ジョシュア・マーストン監督/いかにもの「ユダヤ人」風の高齢夫婦。場所はブルックリンのコニー・アイランド。奥さんの方が元気で、歩くのがやっとの夫を馬鹿にする。けんかをしながらブライトン・ビーチの浜まで来て、ベンチに座る。おそらく、古い思い出が湧き出してきたのか、寄り添う。
◆(つなぎ)レストランでビデオを撮っていた女性の作品が、テントのインスタレーションのなかで上映されている。これまで出てきた人物の顔がそこにある。
◆ここに書いていない「つなぎ」がもっとあり、「本編」と有機的につながりあっているが、それらは見てのお楽しみ。このメモ書きを「ネタバレ」とわめくやからは、「シネマノート」を読むべからず。映画は「ネタ」で出来ているわけではないし、シークエンスを文字でなぞったところで、映像はビクともしない。そんなことを言うのなら、映画を見るのはやめた方がいい。
(映画美学校試写室)



2009-11-18
●手のひらの幸せ (Tenohira no shiawase/2009/Kato Yudai)(加藤雄大)  
Tenohira no shiawase/2009/Kato Yudai ◆原作は、布施明の『この手のひらほどの倖せ』(文藝春秋社)。布施は、この作品の朗読と歌のライブを実演しており、YouTubeで見ることができる。それは、この映画よりもうまい演出で、観客を泣かせる力を持っている。実際は知らないが、テレビで見るかぎりでは、いい感じで歳をとった布施の、歳をとったら社会のために何かしようみたいなアメリカ的な良心のようなものを感じさせる作品とパフォーマンスだ。
◆映画の場合、母親は死に、父親は出稼ぎに行ったまま帰って来ないので施設に入れられる6歳と4歳の子供という設定の子役が目の前に登場するわけだから、わたしなんかは、斜めにかまえてしまう。高橋悠治(『音の静寂 静寂の音』、平凡社)によると、子供に「純真」さを求めたりするのは、「19世紀ドイツ・ロマン主義的幻想」だそうだが、そういう幻想を刷り込まれているわれわれは、映画に子供が出て来て、素朴なことを口にしたり、短絡的な行為を見せたりすると、「哀れ」さや「痛々しさ」を感じてしまう。どうせ映画を見るのなら、子供の恐いところや凄いところを描いたものを見たいと思うが、おそらく、そういうわたしのような感性は、「国を滅ぼす」とみなされるのでしょうね。
◆施設に入った兄弟は、あるとき、そこを脱出し、すでに死んでいるおじいちゃんの家へ行こうとして、腹をすかせ、兄は、途中で一軒の家の庭にびっしりなっている柿に石を投げる。弟に食べさせたいと思ったのだ。そこへ家主(西田敏行)が出てきて、縁側に二人を招き、柿と握り飯をあたえる。片手に握り飯、もう一方の手に柿を持った二人は、歩きながら、思う。「幸せは片方の手に乗るぐらいが丁度いいねえ」と。布施のライブでは、ここで「この手の平ほどの幸せをありがとうと君に伝えたい」、「この手の平ほどの幸をいつの日か君に伝えたい」と歌う。「手のひらの幸」(布施は、「幸」ではなく「倖」という字を使う)というタイトルはここから来ている。
◆ということは、両手に柿と握り飯を持ってしまったときはどうなのか? それは、過剰な幸なのか?むろん、このくだりは、そういうひねくれたことではなくて、両手にもらってしまった「幸」を、片手でも幸なのだから、両手だったら自分だけで享受するには多すぎると思う「つつましさ」を示しているわけで、だから、両手にもらった幸せは、自分だけで独占しないでひとにわけてあげようといった含みが出てくるわけである。
◆まあ、おそらく1日以上歩き回って、川で大根を洗って食べるシーン以外、ものを食べた形跡がないまま柿の木のシーンに進むのだから、ここで柿と握り飯1つだけもらったぐらいでは、とても、空腹は満たされず、普通のガキならば、「幸せは片方の手に乗るぐらいが丁度いいねえ」などとは思わないはずだが、そういう詮索はやめよう。それでは、「いい話」が台無しだ。
◆成長した弟(浅利陽介)が白面の高校生として初めて画面に姿をあらわしたとき、兄(河合龍之介)との印象のギャップに違和感を感じたが、見ていくうちに納得した。弟は、施設に入ってすぐ同じ地方で印刷業を営む夫婦(村田雄浩+生稲晃子)の養子になり、不自由のない生活をして成長したことがわかる。兄の方は、(たぶん施設から中学に通い、卒業してから)都心の工務店に勤め大工の棟梁(永島敏行)の見習いになり、社会に出る。自分にできなかったことを弟にかなえてやりたいという思いをいっぱいに、禁欲的に生きる彼。音楽が好きな弟になけなしの金をはたいてフルートを買い、「大学合格の前祝」として渡す。二人が会えるのは、兄が休みを取れるお盆の時期だけ。メロドラマの定石を踏むこの映画は、これでもかこれでもかとメロのプロットを投入し、最後には兄を事故死させる。孤児として離れ離れながら力を合わせて生きてきた二人にこれはないよという過酷さだが、映画は、どんなに過酷な運命にも強く生きよと言いたいらしい。
(シネマート銀座試写室)


2009-11-11
●銀色の雨 (Giniro no ame/2009/Suzui Takayuki)(鈴井貴之)  
Giniro no ame/2009/Suzui Takayuki ◆小説の映画化というのは難しい。原作を無視して作るのが一番いいと思うが、その場合はタイトルを変えなければならない。しかし、原作を再版してその帯に映画化のニュースを刷り込んだりしてタイアップする関係などもあって、タイトルの変更ができないこともある。いずれにしても、特定の原作にもとづくということを明示してしまうと、見る側には、基準のようなものがあたえられるから、どうしても評価がきつくなる。
◆むろん、小説と映画は違うメディアだから、映画にはそれなりの「文法」がある。原作を参照する気など起こさせないほど自律していれば、文句の言いようがない。しかし、この映画の場合、映画としても甘いのだ。どこか話として「うますぎる」という感じがする。原作を知らなくても、明らかにテレビ的な安易な筋合わせが見える。まして、本作の場合、原作者・浅田次郎の名が明示され、プレスには、浅田の紹介まで載っているから、こうなると、原作を無視することが絶対にできなくなるし、こんな話を浅田が書くだろうかという疑問までわいてきてしまう。それに、浅田次郎の小説は、意外に映画的に書かれているので、映画化しやすいようで、そうでもないのだ。
◆わたしは、原作(浅田次郎『月のしずく』)を知っているので、この映画を見て、かなり失望した。浅田次郎の小説には、多くの場合、親(とりわけ父親)への自責の念を持った人間が登場する。浅田自身、そうだったと自伝的な文章で書いている。しかし、そう何度も繰り返されると、あなたが親不孝したとしても、もういい年になったのだから、いいかげん忘れろよ、親不孝を売り物にするなよ、と言いたくなる。親なんて、親不孝するためにいるんじゃないのか、とも思う。いずれにしても、浅田次郎の小説を映画化する場合には、その点をおさえなければ意味がない。しかし、この映画の「親不孝」は、浅田の域に達していない。
◆時代を現在に移したとしても、原作にある暗さは、いまでも存在しうるものだ。しかし、それをやけに明るくしてしまったので、全体が、「ボーイ・ミーツ・ガール」的な物語になってしまった。テレビならば受け入れられるだろうが、映画としては軽すぎる。なぜそうなったのかは、原作にあるポイントをわざとかはずしたからだ。この映画でボクサーということになっている岩井章次(中村獅童)は、原作ではヤクザであり、しかも殺人を犯して大阪に逃げてきた。映画でも、岩井は人を死なせた過去を持つが、それは事故であって、拳銃で人を撃ったわけではない。全国指名手配されて逃げてきたヤクザと、ボクサーがながく不義理をおかしてきた母親に会いにくるのとでは、全く状況が違う。そもそも、原作は大阪のミナミを舞台にしているが、映画は、鳥取県の米子を舞台にしている。これでは、全然比較のしようがない。
◆原作でも映画でも、主人公は、平井和也という高校生で、映画では賀来賢人が演じている。原作の場合、平井と親との確執は、浅田次郎小説の定型である。彼には、父親がいるが、大分まえに家を出た。中学まで母親と暮らしたが、母親に男が出来、家を飛び出し、新聞配達をして自活しはじめる。が、集金の金が足りなかったことで配達所の主人と喧嘩して店を飛び出した。東京の親父のところへでも行こうと思って、駅に行ったとき、母親が娘のようにめんどうを見ていた飲み屋の女の子、菊枝(映画では前田亜季が「明るく」演じる)とばったり会い、彼女のアパートに転がり込むことになる。このあたりのプロセスは、一見あっさり書かれているように見えながらも、女は水商売の女であり、平井と菊枝との関係は、映画のように、セックスレス的(映画でも関係はできることにはなっている)な弱々しい関係ではない。それに、この時点で、菊枝は岩井の情婦のような関係にあるのだ。平井にしても、菊枝の紹介で岩井に会ったのち、彼の子分のようになるのである。
◆原作は、単に親不孝を描いているのではなく、親子関係では満たされないある種の「家父長的なもの」への願望が描かれる。平井は言う、「たしかに交わした言葉は少なかったが、父や母や学校の先生よりも、この人は多くのことを自分に教えてくれた」。「章次さんは、俺を大人にしてくらはりました」。親や先生といったカタギの人間が子供を大人にすることができず、極道の人間がその役割を担うというのは、屈折した状況である。それは、フィクションのなかでしか許されない。だから、この小説は、岩井章次の逮捕による、まさに小説のなかで「映画のスクリーンに歩みこむよう」な別れで終わるのである。しかし、この映画では、すべてが終わったとき、平井和也のなかで起こるのは、たかだか、つっかえが取れたといった程度の変化にすぎない。
◆映画は、岩井章次の過去に入り込みすぎた。本来、和也にとっての「父親」的機能を果たすべき章次は、その過去が闇につつまれていてこそ、その権威的な機能を果たせるのだが、ここまで描いてしまうと、ただの男にすぎなくなってしまう。そういう水平構造は浅田次郎的ではない。だから、この映画の終わりは、原作のような――撮影の人工の雨に照明の強い光が当たったときのような――雨が銀色になるような時間の飛躍は起こらない。浅田が「銀色の雨」というタイトルに込めた意味は、この映画では、冒頭に出てくる「しばらく気色悪いが、じきに春が来る」といった心理的な意味にしか解釈されていない。映画狂の浅田をなめてはいけない。
(シネマート銀座試写室)



2009-11-05
●キャピタリズム マネーは踊る (Capitalism: A Love Story/2009/Michael Moore)(マイケル・ムーア)  
Capitalism: A Love Story/2009/Michael Moore ◆早い時期の試写をパスしていた。マイケル・ムーアの「体制批判」パターンに少し飽きていたからでもある。しかし、毎度のことながら、ただ撮るだけでなく、必ず何かを仕掛ける要素を加える彼の「アクティヴィスム」的ドキュメンタリー、いや「ドキュメンタリー的アクティヴィズム」は、単純ではあっても見終わってスカッとした気分を生む。アメリカという国は、こういう行為(アクト)をたえず繰る返すことによって再生してきたし、そういう部分があるところがいい。ときには、いつも闘っていなければならないことに飽きが来たり、疲れたりもするが、それがアメリカなのだと思わなければ、アメリカには住めない。
◆映画は、銀行強盗を監視カメラが撮ったような映像から始まり、家賃やローンを払えなくなった人々が強制立ち退きを迫られる映像へ、そして、会社が従業員に自分のところを受取人にする生命保険を掛けている現実を糾弾するといった方向に進む。少年院の民営化(PAチャイルドケア)もいい着眼だ(ただし、いまアメリカで進みつつある刑務所の民営化はもっとすごい)。最初のシーンは、銀行が弱い者から巧妙に金を搾り取っているのだから、それを奪い返すのはあたりまえだというメッセージであり、ムーアは、最後の方で、ウォールストリートの金融機関に行って、金を返せデモを試みる。しかし、資本主義というのは、「人」を人とみなさないシステムであるから、金が払えない人間を排除するのは「あたりまえ」であり、ライプニッツが発明したという保険システムは、人を資本と見なすわけだから、従業員を資本として保険をかけるのは「合法」なのである。刑務所が「工場」になるのも資本主義の論理の必然ではある。しかしながら、ヨーロッパや日本の巧妙なやり方とはちがって、アメリカは、そのやり方がワイルドであり、「下手」なふりをする。同じことをやっても「敵」の顔が見えてしまうふりをする。そこで、ムーアのような「攻撃」がしやすくなるわけである。しかし、それは、「敵」の顔が見えるふりをしているだけなのだ。そういう形で挑発をして、自分を組み替えているのである。
◆この映画で言う「キャピタリズム」(資本主義)は、資本主義そのものではなく、アメリカ特有のキャピタリズムである。この映画では、911とイラク戦争、リーマンショック以来、そのアメリカ的資本主義が終わりつつあるかのようである。しかし、アメリカ的資本主義は、これまで何度も交代をくりかえしてきた。カーター政権やの時代には、この映画が告発する「危機」は見えにくかった。レーガン政権になってそれが変わり、クリントン政権がその動向をもとにもどし、G・W・ブッシュ政権がまたレーガン路線を引き継いだ。しかし、アメリカは資本主義から逸脱したことは一度もなかった。何が違うかといえば、それは、システムの運営の仕方である。
◆資本主義は、16世紀ごろのヨーロッパで誕生し、今日にいたっている経済・文化・政治システムであるが、その本質は「キャピタル」(資本、頭)にすべてを代表させるシステムと方式だ。具体的な「人間」に代わって金銭や情報が代理し、その論理で動く。その論理をすべての内部にまで掘り込むので、「金」といっても手に持てる貨幣や紙幣から、ただの抽象的な数字に置きかえることをかぎりなく進める。しかし、アメリカン・キャピタリズムは、その「キャピタル」に人間の顔を残す。実際には抽象的な金や情報、さらにはデータとしての数字が主導しているのに、そのかたわらに権力者の顔を残すという技法を使う。ゲオルグ・グロッスの風刺画が描くように、資本家イコール腹が出て脂ぎったボスといったイメージをいまだに使うわけだ。しかし、資本主義が実際に機能するなかでは、そういう「人間」的要素は、資本主義に反対する者にとってのみ意味があるにすぎなかった。資本主義は、「資本家」をも資本化する。だから、レーガンやブッシュがどんなに資本主義の「悪者」に見えるとしても、それは所詮は「悪」の仮面にすぎない。
◆この映画で「悪者」あつかいされている人物がたくさんいるが、レーガン政権の財務長官でのちに大統領補佐官になったドナルド・リーガン、ゴールドマン・サックスのCEOからブッシュ政権の財務長官になったヘンリー・ポールソンらは、確信犯だとしても、ムーアが「善玉」(つまりアメリカン・キャピタリズムを民主主義の方に軌道修正する、あるいはキャピタリズムを超えようとする人)とみなすオバマ大統領のもとで財務長官をつとめているティモシー・ガイトナーはブッシュ政権のニューヨーク連邦準備銀行総裁だった。
◆アメリカン・キャピタリズムは、「敵」が見えやすい。しかし、資本主義は、国別の分かれているわけではなく(国別に分かれているように見えた19世紀から20世紀にかけての時代においてすら)もともとグローバルであったから、そういう「敵」は、ただのダミーにすぎないのだ。その意味で、マイケル・ムーアが攻撃する「敵」たちは、いくら攻撃されても痛まないのであり、資本主義の打倒にはつながらない。いや、逆にそういう攻撃すらも、一つの活力として取り込んでしたたかになっていくのが資本主義の本性である。わたしが思うに、資本主義は長期的には終わりはあるとしても、それは、ムーア的な攻撃や批判によってではなく、エネルギーの変化やテクノロジーの重心移動や自然条件の突然変異などによって効果的に変わるのであり、そういうことがなければ、当面は終わらないはずだ。
◆マイケル・ムーアは、資本主義の「敵」の顔をあばくことを一つのスタイルとしているから、それを越える「味方」の顔にも注意を向ける。大統領選でオバマが勝利するシーンの見せ方にもそれが出ている。フランクリン・ルーズヴェルトも、ムーアの評価は高い。もし彼が死ななかったら、アメリカはいまのようにはなっていなかったとすら考える。ムーアは、1945年にルーズヴェルト大統領が「われわれがこの戦争に勝利したのちには」健康・教育・就業・居住を含む国民の基本的な権利の平等を保障するようにするという宣言をしたラジオ放送のときに記録されたフィルム映像を見せる。そして、これらの権利はアメリカではいまにいたるまで保証されることはなかったが、この「ルーズベルトの政策が海を越え」、イタリア、ドイツ、日本の憲法を変えたと指摘する。日本の場合、「全労働者が組合を組織する権利を憲法で保証される」ようになった、というのだが、それは、たしかに表面上はそうである。しかし、こういう言い方がマイケル・ムーアの映画の単純なところであり、また面白い点でもある。
◆ここで屈折した言い方をしなければならないのは、憲法に対するアメリカと日本との考え方の違いである。日本では、憲法は、状況が変われば変更可能な「施行規則」と同等のものと考えられやすい。アメリカでは、憲法は、理念をうたうものであり、理念に誤りがなければ、そう簡単には変更がきかないものと考えられる。理念が変わるのが革命だとすれば、憲法は革命なしには変更がきかない。そして、憲法が理念体系であるという点で、憲法に対する批判は、それが理念を満たしていないという批判であって、「現状」にあっていないかどうかではない。これは、逆に言うと、恐い場合もある。その理念が狂信的なものであれば、中世の宗教裁判のような残酷な刑罰も憲法にしたがうと考えられることもありえるからだ。この点、日本の場合は、憲法が戦争をしないという「理念」をうたっていても、「現実」に侵略などの脅威があるから憲法を変えて、攻撃ができる体制をつくらなければならないといった発想が論じられたりもする。ここでは、憲法は全く理念の体系とはみなされてはいないのだ。その意味で、日本では、理念をうたってしまっても、それを実現する必要はないが、アメリカの場合は、一旦理念を打ち出してしまうと、それを盾にとられるから、なるべく「あぶない」理念は提起しないようにするという方向がとられることになる。
◆ただし、「理念の国」アメリカが、第二次大戦後、その「理念」に従って「民主化」という新しい植民地化と侵略を進めたように、理念主義はみな裏目に出ている。「理念」がなかったら、ベトナム戦争も911も、その「報復」としてのイラク戦争も起こらなかった。前述のルーズヴェルトの演説で、彼が、「われわれがこの戦争に勝利したのちには」と言っていることが重要である。対ナチの戦争は、一見、「悪の帝国」を倒す当然の戦争のように見えるかもしれないが、その戦争でアメリカは肥え太り、ベトナム戦争へと進むのである。アメリカの理念主義は、グローバルな資本主義の一形態であり、「アメリカン・キャピタリズム」よりはより普遍性を持っているとしても、資本主義の亜種であることには変わりない。結局、亜種が幅をきかせている状態では、資本主義は終わらないだろう。資本主義がそのもととして全面展開し、失速するときこそが、資本主義が本当に終わるときである。それに代わるものを何と呼ぶかはまだわからない。それは、すでに始まっているはずだが、その姿はまださだかではない。
◆映画のなかで、ムーアが、キリスト教の神父や牧師にアメリカン・キャピタリズムが聖書に忠実であるかどうかをただし、彼らがみな否を言うシーンがある。いわばアメリカの「右翼」から見てもアメリカの資本主義がまちがっているということを言わせてしまうムーアの得意とする手法であるが、同時に、アメリカ的資本主義が、「右翼」にも顰蹙を買うほど後退してしまったということでもある。また、ムーアは、ワシントンのナショナル・アルカイヴズを訪ね、アメリカの憲法が「キャピタリズム」の自由貿易とか自由競争とかいう観念を明記しているかどうかを確かめる。むろん、それはない。このへんは、既存の「保守」的なもののなかにラディカルなものを再発見していくムーア的な手口で面白い。が、現システムが末期症状を呈しているときには、「保守的」なものがラディカルに見えるのは、歴史の常である。
◆マイケル・ムーアは、「社会主義者」と見なされることもある。また、自分でもそれを気取っているようなところもある。映画のなかで肯定的に紹介されている「Isthmus Engineering & Manufacturing」は、「Worker Owned Cooperative」(労働者自主協同組合)で、ここではすべての労働者が同時に「経営者」で、一人一票の表決権をもちながら、すべての決定をデモクラシーでやっていくという。以前から「自主管理組合」とか「工場評議会」とかさまざまな民主主義的組織があった。しかし、こういう組織は、規模が小さいうちはうまくいくが、だんだん大きくなるとタテマエだけになる。どのみち、「結束」や「連帯」や「団結」や「友情」を意識的に維持しようとする努力が必要で、資本主義という大きな「海」のなかの「礁」か「小島」として細々とやっていくしかない。むしろ、すでにコンピュータのソフトウェアなどの分野で広がりつつあるオープン・ソースコードの運動やSNSやブログのレベルでの幾分「自然発生的」な「連帯」の方がポストキャピタリズム的な潜勢力を持っているのではないか?
◆現役でボビー・ダーリン、トニー・ベネット、フランク・シナトラをまぜたようなノスタルジックな声で歌うトニー・バビノを起用して「ザ・インターナショナル」を歌わせている。これをもって、マイケル・ムーアを「共産主義者」だと批判する論評もあるが、これは、ムーアの半分本気のジョークと受け取るべきだ。このバビノという歌手、50年代を再現したような歌い方で人気があるらしいが、それだけではなく、ニューヨークの街頭でゲリラ的なコンサートをやったりもする。そんなところが、マイケル・ムーアの関心を呼んだのだろう。
(ショーゲート試写室)



2009-11-04
●カールじいさんの空飛ぶ家 (Up/2009/Pete Docter)(ピーター・ドクター)  
Up/2009/Pete Docter ◆最初、冒険家のニュース映像を見ている少年(声:ジェレミー・レアリー)が映り、その子がアルプスの少女ハイジをオタクっぽくしたような女の子(声:エリー・ドクター)に出会い、お似合いのカップルになりとくるので、どういう展開になるのかと思っていると、たちまち歳を取り(そのあいだに、子供を流産したらしい悲しみのシーンがちらりとあったりしながら)あっという間に、カールは妻に先立たれた高齢の「カールじいさん」(声:エドワード・アスナー)になってしまう。かなり気難しくて頑固らしく、まわりの家がみんな地上げされ、彼の家も建築会社にねらわれているが、絶対に移転はしない。そんな頑固じじいの家のドアをノックする少年がいる。アジア系の顔をしたラッセルである。彼は、「シニア自然探検隊」に入るために年寄りのめんどうをみるボランティアをしてもう一つバッジをもらおうというのでカールじいさんの家を訪ねた。このへんの出会いの感じが、どこか、『グラン・トリノ』に似ている。
◆この映画には、カールじいさんとは対照的な老人が登場する。天才的な探検家のチャールズ・マンツ(クリストファー・プラナー)である。皮肉なことに、マンツは、少年カールの憧れの人であったのに、最後には対決の相手となる。マンツは、南米のヴェズエラから採集してきた巨大な珍鳥の首の骨がニセモノだと疑われ、探検家としての生命を奪われ、行方をくらます。老カールが、妻の夢をかなえるためにヴェネズエラに行き(その生き方が最高に愉快)、いまや怪物と化してしまったマンツに再会する。カールの冒険は妻への愛のためだが、マンツの冒険は、世間が彼を抹殺したことを恨み、いまだにあの珍鳥を生け捕りにして名声を挽回しようという欲望と怨念である。カールもマンツも、偏屈な老人だが、マンツの方は、骨の髄まで欲に支配されている。
◆マンツの「研究所」に近づくと、凶暴な顔の犬たちに襲われる。カールの補聴器がハウリングを起こしたとき、その高い周波数の音に犬がひるむシーンがある。この特性を利用し、カールは犬と補聴器で戦うのかと思ったら、それはそれっきりだった。
◆カールの妻と彼との共通の夢は、南米の秘境にあるという滝を見ること。古い家を壊し、地上げする不動産屋に怒り心頭に達した老カールは、地上げをしつこくせがむ業者に怪我をさせてしまい、留置され、養護施設に送られることになる。が、彼は、その当日、ある奇計をくわだてる。家を空中に浮上させ、南米までそのまま行ってしまうのだ。
◆この映画には、老いへのいつくしみのようなものがある。それは、脚本・監督のピーター・ドクターのものだろうか? わたしは、むしろ、製作総指揮のジョン・ラセターの影を感じた。彼は、『ファインディング・ニモ』、『Mr.インクレディブル』、『レミーのおいしいレストラン』、『ウォーリー』、『ボルト』といった傑作アニメを総括指揮しており、そこには一貫した家族間や親子観がある。
◆原題の"Up"には、カールの家が空に上昇するUpとともに、cheer up (元気づける)のupが込められているように思う。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーションピクチャーズ・ジャパン試写室)


2009-11-02
●花のあと (Hana no ato/2009/Nakanishi Kenji)(中西健二)  
Hana no ato/2009/Nakanishi Kenji ◆最初、「少女マンガ」の頑張り娘のような目で登場する北川景子のへたなせりふに、どうなるのかなという不安をいだいた。不安をいだかせるたのは、北川の可愛さのせいで、人徳である。ああ、こりゃダメだと斬り捨てられないものがあったのだ。案の定、だんだんよくなり(こっちも慣らされて)せりふの下手さも気にならなくなる。これまたちょっとあぶなっかしい感じ(しかし、藩随一の剣の使い手という設定)の宮尾俊太郎とのぎごちない出会いのあと、彼女が宮尾と見せるシナイの勝負は、殺陣として、けっこう頑張っているように見えた。そして、大詰めで、市川亀治郎との決闘シーンで見せる殺陣では、歌舞伎でならした(とはいえ女形が専業)の市川と互角に渡り合う。そこには、女性が感情を爆発させて切り込むときの一途さと切なさのようなものがよく出ていて、感動すら呼ぶのだった。
◆全体は、老境にたっした以登(藤村志保)が、孫たちに50年まえの話を聞かせるというスタイルをとっている。娘時代から、片桐才助(甲本雅裕)の妻になるまでを北川景子が演じる。以登は花見の庭園で江口孫四郎(宮尾俊太郎)に一目ぼれをする。江口は、女ながら剣のなみなみならぬ使い手であると知られる以登に関心があった。彼女も、藩随一の剣士のことを知っていた。ちなみに、なぜ彼女が剣術にたけているかというと、彼女の父(國村隼)は剣の名手で息子に自分の術を授けたかったが、娘しかいなかったので、彼女を幼いときから鍛えたのだった。江口にほれた以登だが、彼女には江戸に留学中の許婚者・片桐がおり、二人は別の道を歩む。江口は、部屋住みの記録係から抜擢され、両家の娘を妻にし、江戸幕府に利根川の治水工事の負担削減の交渉に派遣されるところまで出世する。だが、彼は、藤井勘解由(市川亀次郎)の陰謀にはまり、自害してしまう。このへんから、映画は推理小説のようになり、藤井の陰謀を知った以登が復讐を遂げるという筋書き。このへん、市川の悪役ぶりがいかにもの「型」を決めているのと、「捜査」を買って出る許婚者の片桐を演じる甲本のとぼけた演技で、楽しめる。
◆北川景子がふすまを開けたてするとき、いかにも作法の先生に習ったとおりにやっている感じなのだが、それがなかなかいじらしくてよかった。映画経験のないバレーダンサーの宮尾俊太郎を使うとか、最初から「異文化」を持ち込んで作った作品だから、「時代劇」の結構などが気にならないのだが、相築あきこのバタ臭い演技(というよりその存在)がちょっと異様だった。
(東映試写室)

リンク・転載・引用・剽窃自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート