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粉川哲夫の【シネマノート】
今月気になる作品
★★★★ (500)日のサマー (スタイルへのこだわり、いまの時代の人間関係への鋭い意識、脇役たちのしっかりした演技。軽いようで奥がある)。 ★★★★ 鏡の中のマヤ・デレン (実験映画というとマヤ・デレンという時代があった。多くの影響をあたえた作品のクリップと友人たちの回想。若死にした彼女自身の声も聞ける。顔は「神秘的」だったが、しゃべり方は意外と実質的――無声で見ていたから声は知らなかった。彼女は、「実験映画」作家というより、映像パフォーマーだったことがわかる)。 ★★★ かいじゅうたちのいるところ (原作に引っ張られたのか、スパイク・ジョーンズの本領が発揮されていない)。 ★★★★ サロゲート (90年代に生まれたVRや、その後のARなどをちゃんと押さえているので、そうした技術の延長線上で考えられた過剰な「代理主義」と「実生活」との乖離の話として面白いし、しかめつらをしないで「人間とは何か?」を考えさせたりもする)。 ★★ Dr. パルナサスの鏡 (映像と役者に金をかけ、いまの時代を大上段から批判しているつもりの「社会派」テリー・ギリアムだが、基本的にズレている)。 ★★ 手のひらの幸せ (感じのいい笑顔のうしろにはつらい過去や言い出せない事情があるものだが、それを「告白」して泣かせるというのは、どうなんでしょうね?)。 ★★ サヨナライツカ (『私の頭の中の消しゴム』以来のイ・ジェハンにとっても、12年ぶりの中山美穂にとっても、記念碑的な作品にはなっていない)。 ★ パーフェクト・ゲッタウェイ (ひねりがあるので、「新境地」で勝負かと思ったが、またしても「体力に自信がある」ミラ・ジョヴォヴィッチだった。もったいない)。 ★★ラブリーボーン (意外と賛否の分かれる作品だが、変態男に殺された14歳の少女も、こういう風にとらえると、辛い話ではなくなるかもというピーター・ジャクソンの提案かもしれない)。 ★★ ゴールデンスランバー (手を抜かない納富貴久男率いるBig Shotのガンエフェクト・シーンが新鮮だが、あとはゆるい)。
サロゲート ラブリーボーン 恋するベーカリー 抱擁のかけら 17歳の肖像 フィリップ、きみを愛してる! NINE シャーロック・ホームズ
2010-01-29
●シャーロック・ホームズ (Sherlock Holmes/2009/Guy Ritchie)(ガイ・リッチー)
◆ガイ・リッチーは、ミュージック・ビデオやCMを含む短編で注目された人だから、イントロ部分がうまい。先の『ロックンローラ』でも、その腕が如実に発揮されていた。ただし、その反面、「本編」でその密度ががくんと落ちるという傾向がなきにしもあらずだった。だから、今回、2台の馬車が石畳を疾走するのをまず固定位置から映し、すぐにカメラがその馬車を追う移動撮影に移り、シャーロック・ホームズ(ロバート・ダウニー・JR)が登場して、メリハリのきいたナレーションとハイスピード撮影(ガイの定番ではあるが)のシーンが飛び込んできたとき、いいなぁ、実にいいテンポだと思いながらも、はたしてその密度がそのあとまで持続するのかを疑った。が、それはわたしの危惧(きぐ)だった。いいじゃないの!すばらしい!これなら、妻マドンナになめられることはない。『ワンダーラスト』でマドンナは、あたしだってガイぐらいのことはできるわといった素振りを示していなくもなかった。が、今度の作品は、いくら彼女ががんばっても、とても越えることができない域に達している。一つの型を形成することに成功したので、続編(すでに進行中)を何本でも作れそう。
◆エンターテインメントの要素をしっかりとおさえながら、この映画は、時代批判的な要素をさりげなくくわえてもいる。設定された時代は1891年(次の項参照)で、英国が産業革命で蓄積した技術を動員して植民地支配へ向かう時代である。面白いのは、ここで、ホームズとワトソン(ジュード・ロウ)が黒魔術をあやつると信じられているブラックウッド(マーク・ストロング)と対決する点だ。彼は、前近代的な魔術を動因して因習的な血縁関係にもとづく権力関係を維持しようとする。それに対してホームズは、近代科学の技術と合理性でブラックウッドの「犯罪」を推理し、彼を追い詰める。しかも、ここでは、単に「前近代」と「近代」とが対置されるのではなく、ブラックウッドが持っているとされた超能力も、実は、近代科学を駆使したものであって、魔術は韜晦にすぎないことをあばく。これは、ある意味で、強行な権威主義的支配の基本パターンである。先の米国ブッシュ政権でも、テンプル騎士団的な「連帯」やキリスト教原理主義のロジックが歴史の闇のなかから呼び出され、アメリカ国民とその同盟国はまんまとイラク戦争に引きずりこまれることになった。ブラックウッドが大衆と世間を欺くやりかたは、まさにこのロジックなのである。
◆ブラックウッドの手下の大男(ロバート・マイエ)と対決し、造船所をめちゃめちゃにしてしまったホームズとワトソンは逮捕され、警察に留置される。ホームズを請出しに来たレストレード警部(エディー・マーサン)がこれを見ろとタブロイド版の新聞(The NATIONAL POLICE GAZETTE)を見せる。一面に大見出しで「LONDON IN TERROR」とあり、絞首刑で死んだはずのブラックウッドがまだ生きていることを報じている。その見出しの上に、「LONDON, FRIDAY, NOVEMBER 19, 1891」という文字が見える。つまり、時代設定は1891年だというわけである。
◆ローバート・マイエ演じる怪物的な大男が、終始フランス語を話すのも、示唆的であるし、アメリカ大使が陰謀にくわわっているのも示唆的である。19世紀末における英国は、アメリカとフランスを巻き込んで覇権主義を行使していた。ちなみに、ニューヨークにある自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念してフランスからの献金で建立された(1886年)が、この「独立」の象徴は、同時に米国がフランスのリモコンを受ける象徴にもなった。
◆探偵小説という新しいジャンルの登場は、警察や国家組織ではなく民間人のホームズが特権階級の犯罪をあばくという点で、「大衆民主主義」の展開を象徴する。が、ホームズ的な合理的思考と捜査技術は、やがて警察や軍の捜査/植民地支配の技術になって行くという点では、新しい支配と管理の開始を予告するものだった。
◆本作は、ガイ・リッチーの作品としてはR指定にならなかった例外的な作品である。そのせいか、ガイ・リッチーなら強調したかもしれないホームズの薬物依存やワトソンとの同性愛的な側面に関しては、ほとんど言及されない(DVDでも出たら、いずれもう少し細かく精査してみよう)。あやしい役回りのアイリーン・アドラー(レイチェル・マクアダムス)との関係もサラっとしている。その分、登場人物の関係が、映像の動きの動的な関係として提出され、その結果として、見る者に情感をもたらすという仕組みになっている。ここでは、俳優が情感を表象し、それに観客を巻き込む(ブレヒト的に言うならば、「アリストテレス演劇的な〈感情移入〉の方法」)のではなく、まさに身ぶりと動きの「引用」という「叙事詩的」な方法で撮られている。だから、この映画の個々の「意味」は、俳優たちが「代理表象」(represent)し、それに観客が同化するのではなく、映像で示される身ぶりや動きにこちらが勝手に「介入」して「意味」を付与する(創造する)しかない。
◆そういう「創造」の素材をあたえる刺激的なシーンが無数にあるし、エピソード的に挿入されるシーンやショットがさまざまな思いを誘発する。たとえば、ホームズの仕事場。道具や書物がちらばっているうさんくさい部屋。ここに映っている個物を一つ一つ点検してみたい誘惑にかられる。ブラックウッドの実験室のシーンも同様だ。精肉機械に縛り付けられたアイリーン・アドラーに向かって精肉マシーンの刃が迫ってくるシーン。造船所の船や歯車は、産業革命を支えた近代テクノロジーの暴力とオートマティズムをザッハリッヒ(sachlich)に描く。
◆ガイ・リッチーは、シャーロック・ホームズの性格を決して「描写」しない。彼は、ホームズに何かをさせることによってそれをずばり描く。たとえば、ワトソンがホームズの部屋をたずねると、彼はガラス瓶に追い込んだハエの群れにバイオリンの音を聞かせる実験をしている。ホームズによれば、ハエに半音階の音を聞かせても何の反応もないが、無調の音を聞かせるとハエはその音にシンクロして時計と逆の回転をはじめるというのだ。ワトソンはその実験をその目で見るが、ホームズの「画期的発見」を問題にせず、無神経なまでの態度で瓶の蓋を開いて、ハエを逃がしてしまう。ワトソンは、医者であるが、「観念」や「理論化」には関心がないのである。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
2010-01-27
●NINE (Nine/2009/Rob Marshall)(ロブ・マーシャル)
◆非常にメリハリがよく、ドラマのなかでもマザコンのグイド(ダニエル・デイ=ルイス)の補佐役のジュディ・デンチがばっちりにらみをきかせ、クルト・ワイル風の歌まで歌ってびくともしないので、最後まで楽しんだ。照明がとりわけすばらしく、そのスペクタクル性はミュージカルより上という印象を受けた。わたしは、ブロードウェイのヒット・ミュージカル『Nine』の原作戯曲を書いたマリオ・フラッティ(Mario Fratti)と親交があり、ミュージカル版が生まれた経緯をよく知っているので、映画を観ながら、マリオの原作が流れ流れてこの映画ヴァージョンにまでたどりついた長い年月を思い、感慨深かった。
◆マリオ・フラッティは、新しく作品を書くと、彼の新しい劇評のコピーといっしょに分厚いコピーをそのつど送ってくるのを常とした。わたしも、彼についてあちこちに書いたことがある(→インタヴュー/1975年、1977年)。イタリア語なまりの英語を話したが、英語の戯曲を多数書き、ニューヨークのオフオフで上演され、わたしもかなりの数の彼の舞台を見せてもらった。日本でも、いくつかの作品(たとえば岩田治彦訳『橋』、未来社)が翻訳されているが、基本的に、チリの軍事クーデターやニカラグアの革命、フェミニズムからエイズやベルリンの壁の崩壊までの社会政治的な出来事をすばやく戯曲化し、上演するという「政治演劇」の作家だった。「だった」と過去形で書くのは、わたしが長らく彼と会っていないからで、彼自身はいまも80歳を越しながら、元気でニューヨークに住んでいるはずである。ウェブサイトをさがしたら、ちゃんと公式サイトがあった。
◆マリオ・フラッティと『Nine』との関係は、一般的には、「イタリア語の原作」を彼が書き、それをアーサー・コピットが脚色し、モーリー・イェストン(1945~)が作詞・作曲をしたと言われている。しかし、これは、不正確というよりも、ほとんど誤りに近い。これは、英語の世界でもそう理解されているので、わたしがここで指摘するのは、信じがたいかもしれないが、事実を正確に書くと――まず、「イタリア語の原作」は存在しないということである。事実は、まず1977年に出版されたマリオ・フラッティの戯曲『Six Passionate Women』があり、これは、1978年にニューヨークのActor's Studio Thieatreで上演(Carl Weber演出)されている。主人公の名はNinoであるが、明らかにフェリーニとわかる「イタリア人の映画監督」と6人の女たちとのナスシスティックなパロディで、ミュージカルの『Nine』と骨格がほとんど同じである。しかし、ここから最初のミュージカル・ヴァージョン『Nine』へいたる過程が複雑である。
◆1979年にコネチカットのユージン・オニール・センターで初演された『Nine』は、若い作曲家のモーリー・イェストンがマリオと協力しながらその原作『Six Passionate Women』の「18のシーンを18のソングに置き換える」ことによって出来上がった(Carol Sims, Clarion, September 1982)。やがてこのヴァージョンにアーサー・コピットが「アメリカ的言い回しを加えて」書き上げ、トミー・チューンが演出したヴァージョンが、1982年にブロードウェイの46th Street Theatreで初演され、大ヒットするのである。だから、単純に「Original play by Mario Fratti」と書けばよいのだが、それが、ブロードウェイの初演のプレイビルでも「Adaptation from the Italian Mario Fratti」と記されているのには、演劇業界の「政治的」事情というものがある。まず、モーリー・イェストンがなかなかのやり手であったこと、次には、マリオが、商業演劇の「誘惑」に抗せず、権利を売り渡してしまったことがある。マリオは、すでにハンター・カレッジの教授もしており、経済的には何とかやっていけていたが、ラディカルな政治的テーマをあつかう作品を書き続けていた彼は、劇作家としては「不遇」だった。むろん、それは承知のうえのことであり、彼は「政治活動」として演劇を書いていた――それにしては、彼が書きあげるとすぐ、ラ・ママをはじめとする良質の小劇場で公演されるのが常だった。が、そうだとしても、あるいはそれだからこそ、「マイナー」な彼の仕事がブロードウェイで上演されるというのは、魅力である。そういう屈折した事情のなかで取られた妥協的な処置が、「Adaptation from the Italian Mario Fratti」だったのだと思う。しかし、そのために、モーリー・イェストンは、その後、『Nine』がもっぱら自分の作品であるかのような発言をすることが出来るようになり、それが、いまでは定着した――いわく、「十代のときにフェリーニの『8½』を見て、ミュージカルのテーマを思いつきました」云々。
◆この間の屈折については、わたし自身、マリオから聞いており、先述のキャロル・シムズが『Clarion』(September 1982)で書いている記事のコピーをもらっているが、『Nine』が2003年にリバイバルし、再ヒットしたとき、Roberta E. Zlokowerによるマリオ・インタヴュー(2003年5月5日)が、彼女のサイト「Roberta on the Arts」に掲載されているので、その一部を原文のまま引用しておく。
REZ - What is the relationship of Nine to 8½?◆フラッティの原作からブロードウェイ・ミュージカルに移項したときに決定的に変わったのは、原作にあった『8½』のパロディ的要素とフェミニズム運動支持という傾向である。むろんフェリーに自身、『8½』は自分のある側面へのパロディであって、ときどき誤解されるような「自分像」の肯定ではない。あそこにはさまざまなアイロニーや自虐がある。しかし、そういうナルシシズムを逆手に取って商業的にも成功してしまうしたたかさをも含め、母親への依存、女性を「女」としてしか見ない(70年代のフェミニズム的観点からすると「許せない」)男性至上主義的(メールショウビニズム的)傾向を、マリオ・フラッティは、『8½』をダシにして嘲笑した。だが、これが、ミュージカル版ではかなり薄れ、今回の映画ではほとんどわからないくらい薄れ、ステレオタイプ的な「アーティスト」タイプの男(どこに「映画監督」らしさがあるのか?)の「中年の危機」(mid-life crisis)話になってしまった。これは、時代の変化でもある。フェリーニとフェミニズム、フェミニズム自身の変質に関しては、『女の都』について書いたわたしの文章を参照してほしい。1982年に書いたものだが、そうした変化の発端を知るには、役立つと思う。
MF - I met Fellini, and I wrote a play about the life of Fellini. Ed Kleban, the lyricist of Chorus Line, said, "Mario, this play is a musical". I worked on it for 7 years with Maury Yeston, a composer and teacher at Yale. Then, we won the Eugene O'Neill and Richard Rodgers Awards, and it became Nine. In 1981, at the O'Neill Foundation, in Connecticut, Katherine Hepburn came to see the play and loved it. She said, "Mario and Maury wrote a masterpiece". So, Katherine wrote to Fellini and asked him to let us do the play on Broadway.
Yeston asked four Directors in town, and they all said, "Too risky". This play was the life of Mastroianni, the life of Fellini, and the story of Casanova. I read the bio of Tommy Tune, whom I then met at Sardi's, I gave him the script, and in 24 hours he called me and said, "I'll do it". Seven years of suffering, and in 24 hours he said, "Yes". We opened on Broadway in 1982 and played for two years.
REZ - Why is this play suddenly revived now [2003]?
MF - Maury Yeston and I saw the production of Nine directed by David Leveaux in London. It was great. Leveaux found Banderas. The collaboration with Arthur Kopit came at the end, when he added new elements and a new scene. Now, it's a musical by Yeston, Fratti, and Kopit. Music and Lyrics by Yeston, and Adaptation by Mario Fratti. No Italian was involved.
◆いまの時代、嘲笑や皮肉というスタイルは流行らない。また、「怠惰」であることの能動性などという発想はとんでもないと思われる。このため、フェリーニの『8½』ですら、そのスペクタクルな面のみが評価されたりもするのだが、彼の発想としては、ドタキャンをしたり、なにごとにもレイジーであり、「一生懸命」には働かないという要素の能動的な肯定(怠惰のラディカル化)があった。しかし、マリオ・フラッティが、それを『Six Passionate Women』で嘲笑したのは、にもかかわらず、その「怠惰」が女や母親に自分の仕事を押し付けて、自分はのうのうとしており、それは、70年代になって「労働の拒否」とか、「家事労働に賃金を」といったスローガンで出てくる本格的な能動的な「怠惰」(そのアメリカヴァージョンが「スラッカー」主義である)からは程遠く、こと女性に対しては旧態然とした「イタリア男」のままではないかという批判があったからだった。ちなみに、「ナイン/9」というタイトルは、直接的にはモーリー・イエストンのソングに由来するが、マリオは、『Six Passionate Women』のなかで、女を誘惑の相手としか考えない男は、マザコンで、精神年齢が9歳を越えないといったことを登場人物に言わせている。
◆今回、出演者は、みな錚々(そうそう)たるスターたちばかりだが、ペネロペ・クルスやニコール・キッドマンが余裕で演技していたのに対し、マリオン・コティヤールの歌いぶりがなぜか力弱かった。グイドの母親役に引っ張り出されたソリア・ローレンは、なんか「亡霊」のような感じだった。原作にはむろんのこと、ブロードウェイ・ミュージカルにも、もっと男と女のギラギラした欲望や嫉妬がみなぎっており、あざとい駆け引きがスリルを生んでいたが、この映画は、すべてが「美しい」夢物語のようにも感じられた。
(アスミック・エース配給)
2010-01-22
●フィリップ、きみを愛してる! (I Love You Phillip Morris/2009/Glenn Ficarra & John Requa)(グレン・フィカーラ&ジョン・レクア)
◆映画のスタイル自体が「なんちゃって」的。スティーヴン・ラッセルという人物をジム・キャリーが演じていることにも因る。スティーヴンは、最初は、妻と子供のいる平凡な警察官。しかし、実は、<実はわたしはゲイで、ゲイであることは金がかかるので、詐欺師をやってます>と、ナレーションでばらす。ナレーションと内容とが微妙に揺れるスタイルなので、「本当」に警官をやっていたのかどうかもあやしくなるが、一応、詐欺師になるまえに警察官をやっていたと受け取っておけばいい。ナレーターを信用できないというスタイルは、小説では、カフカがすでにその方法を極めている。スティーヴンが警察官になったのも、自分が養子で、母親のことを知らず、それを調べるためだった(という)。だから、母親の所在がわかると、警察官をやめた(ということになっている)。
◆いうなれば、スティーブンという人物は、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のフランク・アバグネイルと『インフォーマント!』のマーク・ウィテカーを合わせたようなキャラクターである。わたしには、この3人は、いずれも「双曲性障害」の傾向があるのではないかと思った。
◆ゲイの映画だが、最初ガス・ヴァン・サントに監督を依頼して断られたということがこの映画の特質を物語る。スティーヴンが捕まって刑務所に入れられたときに出会ったフィリップ・モリス(ユアン・マクレガー)に一目惚れするという一応同性愛的愛が描かれるのだが、その描き方が、ゲイのステレオタイプの総目録みたいなのだ。一見、ゲイを馬鹿にしているとも言えるし、ゲイにも異性愛者にも通じる愛を、ひねった「ロマッティクコメディ」として描いたとも言える。その両極性が面白い。
◆スティーヴンは、妻子を放置して家を出、刑務所に入る。「普通」の妻子から見れば、「勝手な野郎」である。しかし、その無責任さは、彼が「ゲイ」に設定されていることによって緩和される。むろん、その「ゲイ」は、ステレオタイプ的なゲイである。つまり、血のつながりがないのだから、養育責任は軽いという暗黙知である。では、なぜ彼は妻子を放置したのか? もともと「いい加減な奴」だとしても、なぜそうなったのか? スティーヴンのナレーション――だから、当てにはならない?――は、彼が幼いとき養子に出されたことに因るという示唆を与える。3人兄弟で自分だけが見知らぬ家に養子に出された。しかし、成人期の犯罪や精神疾患を幼児期のトラウマといったものに還元するのは単純すぎる。
◆人は、すべて、特異性(シンギュラリティ)を持って生まれ、それを維持しながらも、社会的慣習や法律の枠におし込めながら生きざるをえない。欲望は抑圧される。その抑圧が強まるにつれて、また、その抑圧が偏っていればいるほど、その人は、「ゆがんだ」性格の持」を持ちうる。が、それは、最初からバッテリーの電気のように肉体や脳のなかに蓄積されているわけではない。そうではなくて、与えられたそのつどの場によってあたかも突然の出来事のように発生するのである。欲望は蓄積されていて抑圧されたり、解放されたりするのではない。欲望は、生起するのであり、出来事として生まれるのだ。だから、欲望は場と条件次第である。逆に言えば、どんなに「不自由」に見える環境のなかにも創造的で「特異性」を保った欲望が生まれうる。
◆社会の定める枠や場は、「世間」や「一般」といった均一な傾向を持つ。そこでは、創造的で「特異」な欲望を生起させることがむずかしい。それを思い切り生起させようとすれば、拘束されたり、逮捕されたり、死刑になったりもする。犯罪とは、生起しそこなった欲望の形態である。あるいは、生起しようとして抑え込まれてしまった欲望の生起しそこなったプロセスである。
◆スティーヴンが、妻子を放置しても、詐欺行為をくりかえしても、そして最後に観客までも騙しても、彼を憎めないのは、彼のそうした行為が、単に「蓄積された欲望」の放縦な発散などではなく、人の特異性の生成をはばむ社会のさまざまな条件や場を笑殺し、パロディー化するような行為になっているからだ。
◆スティーヴンは、同名の実在の人物のリアルストーリに基づいているというが、それも当てにはならない。
◆「フィリップ・モリス」というのは、タバコの名前である。だから、原題の「フィリップ・モリス、君を愛している」は、「俺はタバコが好きだ」という意味にもなる。現代のアメリカでは、皮肉な表現であることはまちがいない。だからこの作品は、アメリカでは、その出来栄えのわりに、評価がかたよっているし、レヴューも少なく、上映館の数も少ない。
◆この映画には、リュック・ベッソンのEuropaCorpが金を出しているのだが、金にならないことには金を出さないのがベッソン流ではなかったか?
◆スティーヴンは、フィリップの誕生日(13日の金曜日)に限定して、5年間のあいだに4度脱獄をはかったという。これは、全米の刑務所史上例がないらしい。
(アスミック・エース配給)
2010-01-19
●17歳の肖像 (An Education/2009/Lone Scherfig)(ロネ・シェルフィグ)
◆1961年のロンドン郊外の町トゥイッケナムという設定だから、60年代といっても、まだ「戦後」のイギリスの雰囲気と社会的動向が続いていたと考える必要がある。いま、イギリスは、どこへ行っても、当時とはまったくちがった姿を見せている。この映画のなかで、16歳のジェニー(キャリー・マリガン)がぞっこんフランスにあこがれているのが、印象深い。日本でも、アメリカとともに戦後(1945年以後の時代)が始まったとはいえ、「文化」というと、60年代を通してフランスの圧倒的な影響下にあった。映画にしても、ゴダールが革命を起こす以前から、映画といえばフランス映画だったし、丸善あたりで買ったフランス綴じの、白地に赤字でタイトルがプリントされたガリマール社の「nrf」叢書などを手に持ち、タバコを吸いながらページをぺらぺらめくるといったしぐさがイキとされた。思想的には、まだ「実存主義」がはぶりをきかせていて、カミューやサルトルが読まれていた。ジェニーが好きで、レコードを聴く「パリの空の下」の歌手ジュリエット・グレコは、「実存主義」のメッカ、「サン・ジェルマン=デ=プレの女王」と呼ばれていた。まあ、ヨーロッパでも、ちょっと生意気な若者は、フランスかぶれだったのだ。
◆また、ナチが崩壊し、ユダヤ人に対して特別の憐れみと支持が強くあらわれた時代であり、そのあたりをジェニーが愛するようになるデイヴィッド(ピーター・サースガード)というみずから「ユダヤ人」だと名乗る人物にその時代性があらわされてもいる。ユダヤ人差別はタブーになったが、どこかに差別意識が残っている。デイヴィッドは、不動産業のようなこともやっていて、この時代のロンドンでは決して差別の眼差しなしには生活できなかった黒人一家にアパートを斡旋(あっせん)したりもする。ジェニーは、それを見て、グッと来たりもし、彼に惹かれる度合いが強くなる。黒人一家が街頭でデイヴィッドを待っているシーンに、なつかしいアラジン社の「ブルーフレイム」の石油ストーブが見える。
◆雨がそぼ降るなか、ジェニーがチェロを持って歩いていると、車に乗ったデイヴィッドが彼女に声をかける。映画的になかなかいいシーンである。この男は、あきらかに年上であり、ジェニーはまだ少女の面影が強いから、見ている方としては、「やばいな」という気になる。と同時に、「このヒトけっこう感じいいな」という気持ちにもなる。誘惑者としては、実にいい線をいっているわけだ。それほどイケメンでもなく(とわたしは思うが)メイクしたピーター・サースガードを起用していることでも、このシーンが、ガールハントであるとも、そうでないとも取れる微妙さを表現していて、うまい。しかし、ジェニーも、それを知ってか知らぬか(10代の意識の面白さ)最初は遠慮しているが、彼にどんどん惹かれて行く。ただし、ここがこの映画のいいところだが、デイヴィッドの方も、最初の動機はガールハントだったとしても、次第に彼女を愛するようになっていくプロセスが微妙かつ繊細に描かれていることだ。
◆原題は、「ある教育」となっているように、全体は、勉強が出来て、ちょっと生意気でかわいいジェニーが、35歳の男と知り合い、「大人」の世界を知り、ぞくぞくするような喜びとショッキングな失望とを味わいながら、ちょっぴり大人になる「ビルドゥングスロマン」である。監督は、『幸せになるためのイタリア語講座』のロネ・シェルフィグで、もともとデンマークの人だ。これも、ある種「学び」の話だったが、この作品の国際的な評価で、2002年には、グラスゴウを舞台にした英語の作品『ウィルバーの事情』(Wilbur Wants To Kill Himself)を作っている。
◆原題の「一つの教育(An Education)」は、この映画の奥行きと含蓄の深さからすると、あまりにそっけない。ごくありていには、16歳のジェニーが、中年男のデイヴィッドとつきあい、傷ついて「大人」になるのが「教育」(教訓)だったという意味が浮かぶが、それだけではなく、この映画にはいたるところに「教育」が顔を出す。最初から学校が物語の主要な舞台になるし、「教育」熱心な両親(アルフレッド・モリーナとカーラ・セイモア)、ジェニーと、担任の先生(オリヴィア・ウィリアムズ)や校長(エマ・トンプソン)との関係、彼女が学校か結婚かという選択に直面することなどなどである。まあ、映画自体が多様性に満ちているので、こういうタイトルでよかったのかもしれない。その意味では、「17歳の肖像」という邦題は、あまりにスタティックすぎる。
◆かつてアントニオ・グラムシは、教える者と教えられる者とのあいだには、支配と被支配の関係はないと言った。教える者は教えられ、教えられる者は教える者に教える。その意味では、コミュニケーションと人生は、すべて「教育」であるとも言える。
◆しかし、他方で、わたしは、はたして人間は、経験のなかで「教育」されるのだろうかとも思う。教育は、すでに身体と脳とで「知って」いることしか教えることができないし、教育とは、潜在するものを顕在化すること(開き出すこと)でしかないのではないかということだ。ジェニーは、学校で聡明な少女で、経験に乏しかったが、デイヴィッドに騙されることは予知していた。というよりも、若いということは、騙されることも含み、自分のなかに潜在するものを開き出す年齢であるというにすぎない。生意気な少年少女は言う、「そんなことはわかっているよ」。それは、文字通りに受け取るべきなのだ。「教育」は過程としてはあるが、インプット/アウトプット関係としてはない。
◆デイヴィッドは、ジェニーを騙したかもしれないが、彼女にとっては、すばらしい「イニシエイター」だった。誰にでも、一人ですべてを兼任しなくても、人生の「イニシエイター」はいる。彼や彼女は、あなたに何かを与え、インプットしてくれるのではなく、あなたのなかにもともとあったものを開き出してくれるのだ。そう考えると、この映画には、さまざまな多数の「イニシエイター」がおり、それが、ジェニーという少女の場で「グランドホテル」的なアンサンブルプレイを演じる。そのひとコマひとコマが生き生きとしていて、最後まで新鮮だ。
(ソニー・ピクチャーズ配給)
2010-01-14
●抱擁のかけら (Los abrazos rotos/2009/Pedro Almodóvar)(ペドロ・アルモドバル)
◆アルモドバルの、ジェンダー、セックス、家庭、父子関係、シネマトグラフィーなどなどへのこだわりがもり沢山なうえに、後半は推理ドラマ風の謎解きまであって、サービス満点。盛り込み過ぎという感じもしないでもないが、監督はくり返し見ることをすすめる。なるほど、ディテールが凝っており、入れ込んで見るとキリがない。
◆初老の「ハリー・ケイン」ことマテオ(ルイス・オマール)は盲目であるが、なぜそうなったかが後半で明かされる。最初の方で、彼は、肉感的な女性(歩道を横断するのを助けてくれ、そのまま彼の家に来たらしい)と話をしていて、すぐにソファでセックスをしてしまうので、「普通」の男かと思ったら、(アルモドバルの映画でそういうことはありえないが)彼は「本来は」ゲイで、事実上はバイセクシャルなのだった。ひょっとすると、彼にとって、相手が肉体的に「女」であるか「男」であるかどうかはどうでもいいのかもしれない。しかし、この映画の多くの部分をしめる彼の過去は、レナという女性(ペネロ・クルス)との熱烈な性愛の話で、マテオと他の男との愛のシーンはない。
◆盲目の人間にとって、性感覚が異なることは、想像がつく。聾唖者については、ジョージ・スタイナーが、『私の書かなかった本』(みすず書房)所収の「エロスの舌語」という文章のなかで書いていた。これは、スタイナーの「ヴィタ・セクスアリス」で、あの碩学(せきがく)のスタイナー先生が、かくも経験豊かで、しかもその経験をここまで露出するとは思わなかった。そもそも、興味の向け方が尋常ではない。「聾唖者の性生活はどんなものであろうか。どのような刺激を受け、どのようなリズムに合わせて彼や彼女はマスターベーションをするのか」と書き出すのだからね。スタイナーが半端な「学者」ではないことは、「多言語話者のセックスと性欲はひとつの言語に忠実な単言語話者のものとは異なる」といった言い方でもよくわかる。ちなみにスタイナーは、3ケ国語のなかで育ち、彼自身が「多言語話者」(マルチリンギュアル)であり、「私の特権は、四つの言語を用いて、愛を語り、愛を行うことであった」と言う。
◆アルモドバルは、映画の人だから、音としての言語よりも映像に執着する。だから最初の方で見せるセックスは、ソファーの陰に隠れて体の一部しか見えないとはいえ視覚的であり、その音の方は、ただのあえぎ声だけで、スタイナーが彼の『言語と沈黙』への射程をも含蓄させながら書くレベルには程遠い。
◆しかし、視覚的には、たとえばレナのパトロン的な存在の老実業家エルネスト(ホセ・ルイス・ゴメス)とレナとの関係は、なかなか屈折した描き方がされる。この人物も、(傍注的に示唆されるだけだが)本来はゲイであるが、2度結婚して息子(ルーベン・オカンディアノ)がいる。彼は、レナが(盲目になるまえの1994年、映画監督だった)マテオの映画に出演することになり、急速に関係が深まると、息子に命令して、撮影現場の様子をビデオに撮らせ、それをあとで詳細に分析する。レナはマテオと「不倫」しているのではないか。その執念は尋常ではなく、ビデオ映像には入っていない二人の会話を読み解くために、リップリーダー(ローラ・ドゥエニャ)を雇う。日本では、テレビ局が有名人やヴィップの唇の動きをリップリーディングのプロに読み取らせて、画面に流すというようなことをあまりやらないが、欧米ではこれは、パパラッチとならぶ「専門職」である。
◆「不倫」をあばいたエルネストがレナを階段から突き落とすシーンの屈折も、かなり強度がある。落としておいて、傷ついたペネロペを抱き、「いたわり」、自分で車を運転して病院に運ぶのだが、少なくともエルネストはしあわせそうだ。昔の中国で「愛らしい女」を育てるために女児のうちから足をしばり「纏足」(てんそく)にするというサディズムほどではないにしても。が、あいにく、レナにはマゾ意識が弱かった。彼女は、それを暴力としか受け取らない。別のシーンで、老エルネストに従って、保養地のホテルで激しいセックスをする二人だが(ただし、映像は、二人のうえにすっぽりかけられた白いシーツの動きを映す)、終わってベッドを離れたレナはトイレに走り、吐く。ヴァイアグラじじいとつきあうのはごめんだとばかり。ただ、このへん、もう少し屈折を出してもよかったのでは、と思うが、そういうのは、ゲイのアルモドバルの範疇には入らないのかもしれない。その点、ルイス・ブニュエルは、もっとしたたかだった。
◆わたしのような非ゲイ的ジェンダーの者からすると、ゲイは、既存のジェンダーよりも崇高であってほしいと思う。それは、「男」対「女」というジェンダーを越えるジェンダーであって、「男」や「女」のもだもだを越えていてほしい。また、家庭や家族に関しても、「オイディプス」的パパママ関係で考え、子供の狂気や屈折を「両親コンプレックス」に還元する――のではなく、「アンチ・オイディプス」的に、つまり、欲望の解放の場としてとらえてほしいのだ。しかし、実際にゲイをやっているアルモドバルからすれば、そういう「理想的」状態などありはしないということになるのかもしれない。この映画には、ゲイの親が、ジョン・シュレシンジャーの『2番目に幸せなこと』(The Next Best Thing/2000)的なアキシデントで作ってしまった子供が登場するが、その一人は、深く、オイディプスコンプレックスに悩んでおり、父親が死んだあとでも彼への復讐に執着している。その意味では、父親が誰であるか(むろん、彼がゲイであるかどうかも)知らずに育った息子の方が、オイディプス的家庭から自由であり、パパママ家族主義のなかに閉鎖されていないとも言える。
◆しかし、こうも考えられる。この映画は、オイディプス神話をゲイ的にひねっている、と。オイデプス神話は、自分が知らずに父を殺し、母と交わって子をも作ったことを自責し、おのれの両目をつぶす。父殺しと近親相姦をせざるをえない運命とその罰の物語だが、マテオが盲目になったのは、彼がゲイであるにもかかわらずレナという「女」と交わるという禁を犯したからである。
◆マテオとかつて関係がありながら、ゲイなので愛情関係は切れた(しかし、彼の仕事のマネージメントはしている)というジュディットを演じるブランカ・ポルティージョの存在感。レナがあらわれ、マテオが急速に惹かれて行く姿をはたから見ながら見せる嫉妬ぶかげな目の演技もすばらしい。
◆この映画では、女を愛するとしても、その男はただの「男」ではない。親子関係や家庭も屈折している。だから、終わりの方で、ランザローテのゴルフォ海岸でジュディットとマテオとディエゴとの3人のあいだにただよう「ファミリー」的な雰囲気は、実に逆説的なのだ。ここに、アルモドバルの皮肉を見るか、願望を見るかは、あるいは彼の提言を読むかは、意見の別れるところ。
◆この映画は、映画についての映画でもある。最初、かつてレナと初めて出会うことになるオーディションでのスクリーン・テストの映像が見え、それから眼球のアップシーンになる。その水晶体に顔が映るが、やがて、それが14年後のマテオであることがわかる。が、この眼球に映るマテオの姿を見ることができるのは彼にとっての他者のみであり、観客もその他者の(有力な)一人である。ところで、自分自身を見ることができないということ(リフレクションの不可能性)こそが、視覚の基礎にある。つまり、視覚とは、もともと「錯覚」かもしれないのだ。
◆マテオはかつて《見えた》が、いまは失明して《見えない》。《見えない》彼は、自分を「ハリー・ケーン」と名乗る。すぐに思い出されるのは、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』の「ケーン」であり、『第三の男』のハリー・ライムの「ハリー」である。つまり、マテオは、失明することによって、「純粋」に映画だけの人になったのだ。というよりも、視覚、《見ること》は、映画だけの世界になった。映画とは記憶された視覚であり、妄想された視覚である。
◆映画製作を依頼してマテオをライ・Xと名乗る男(ルーベン・オカンディアノ)が訪ねて来るが、「ライ・X」(Ray X)とは、つまりは「X-ray」エックス線、レントゲン線である。彼は、マテオの過去を「照射」し、彼をさらけ出す。彼は、エルネストの息子であり、父親に頼まれて、マテオとレナの姿をビデオで撮り続けた。そして、その映像が、マテオの現在を変える。
◆盲目になったマテオが、ライ・Xが密かに撮っていたビデオをディエゴといっしょに自宅で見て、そこに映るレナとの最期のキッスのショット(ディエゴがポーズをかけ、止める)をスクリーン上でまさぐる。これは、クロネンバーグの『ビデオドローム』で先取りされてはいるが、アルモドバルがこの映画で描く、電子時代のエロティシズム表現である。
◆《見ること》のさまざまな形とともに、《読むこと》のさまざまな形も描かれる。新聞を読む女――これは普通。新聞を読み上げソフトで読むマテオ――これは、今的。映像に映る唇の動きを読むリップリーダー――これも「普通」ではない。
◆ディエゴがクラブでDJをするときに使う12" LPレコードのラベルには、「Blackwatch Feat: Mykel/I'M HERE」(→Blackwatch Featuring Mykel - I'm Here)の文字が見える。流れるのは、このレコードに入っている、CAN (Communism, Anarchism & Nihilism)による「Vitamin C」だと思う。このとき、彼の知り合いが近づいてきて「Crysatalちょっとやるか?」と言うが、これは、メタンフェタミンつまり日本で言う「覚せい剤」のうちでも「フェニルアミノプロパン(アンフェタミン)」よりも強い「フェニルメチルアミノプロパン」の一種。
◆この坊主頭の男は、とんでもない薬物野郎で、そのおかげでディエゴは、病院に救急車で運ばれることになる(しかも、倒れている彼を抱きかかえながらも、別の仲間に「MDMAをちょっとやるか?」などと言う)が、この男が着ているTシャツが気を引く。なぜなら、そこには、「Wie man dem toten Hasen die Bilder erklaert」と書かれているからだ。これは、ヨーゼフ・ボイスが1965年に初演して有名になったパフォーマンス「死んだうさぎに絵をどう説明するか」(「死んだうさぎに絵を説明する方法」)であり、野うさぎの死骸を使ったやつだ。映画では、この坊主がわざわざ上っ張りを脱ぎ、カメラにその文字が正面から映るようにするから、アルモドバルとしては、こだわりがあるのだろう。
◆海辺のバンガローで見る映画→ロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』(1953)でイングリッド・バーグマンとジョージ・サンダースが、ポンペイの遺跡の発掘現場で寄り添ったまま噴火をあべ凝固した姿をみてバーグマンが泣くシーン。レナもつられて泣く。死骸のカップルの愛にあやかるように、マテオは、Canon製の高級デジカメで、セルフタイマーを使って、レナと「抱擁」しながら写真を撮る。すでにここには、二人のその後の運命が予知されている。
(松竹配給)
2010-01-06
●恋するベーカリー (It's Complicated/2009/Nancy Meyers)(ナンシー・マイヤーズ)
◆アメリカも、いろいろな面で転換期に入って来た。その際、その節目節目にメリル・ストリープという俳優が顔を出すのは面白い。まあ、大物俳優というのは、いつの場合も、時代とともに歩むものだから、それはあたりまえのことなのだが。わたしがこの目で経験したアメリカの大きな転換は、70年代のベトナム戦争の終わりと家族形態の変化からだが、メリル・ストリープは、『ディア・ハンター』(The Deer Hunter/1978/Michael Cimino) で、もはや50年代流の楽天的な田舎生活ができなくなる女の意識を体現していた。また、『クレイマー、クレイマー』(Kramer vs. Kramer/1979/Robert Benton)では、ストリープは、いままさに浮上しつつあった「ワンペアレント・ファミリー」のはしりともいうべき母親(重心はダスティン・ホフマンが演じる父親の方だったが)を演じ、新しいタイプの離婚とそれにともなう家族関係の変化を体現した。その彼女が今回演じているのは、まさに再び大きな変化を見せ始めているアメリカの家族と離婚観の変化を体現する女なのである。
◆この30年ほどのアメリカ社会を傍観してきて、いまでは言えることは、70年代に浮上した「離婚」ブームの一端には、景気の高揚という側面があったことだ。離婚するには金がいる。70年代後半に離婚がブームになったとき、そうはいっても、離婚できるのはある程度の収入がある階級であって、ワンペアレント・ファミリーといっても、低所得者層では、あいかわらず、慰謝料も払えずに夫(子供との関係がどうしても母親より薄い)が蒸発してしまう家庭の数も加算されていた。しかし、折から浮上したサービス社会化によって、あらゆる部分でのアウトソーシングと「代理化」が進み、離婚が増えれば、それだけ住宅や家具の単位が増えるというわけで、消費産業は、陰に陽に離婚とシングルライフをあおった。ポール・マザースキーの『結婚しない女』(An Unmarried Woman/1978/Paul Mazursky)は、映画としても傾向を体現する意味でも象徴的な作品だった。ハリウッド映画も、離婚は「カッコいい」ものという「新しい」文化と価値観を社会に注入し続けた。その影響をまともに受けて、結婚してもあっさり離婚する度合いが高まったし、離婚関連企業がうるおった。しかし、景気後退が深刻になってくると、たとえ資産のある階層の人間でも、そう簡単には離婚ができなくなってきた。この映画をそんなコンテキストで見ると面白い。参考:「クレイマー、クレイマーの男とノーマ・レイの男」、「自立する女たち」(いずれも『シネマ・ポリティカ』所収)。
◆離婚を躊躇する要因の一つとして、子供の問題があることはいうまでもない。子供がいなければ、離婚は容易であり、実際に、夫婦の両方が働いていて自立できる収入がある夫婦の場合は、離婚率はぐんと高くなる。しかし、社会はモラルや心情では動かない。経済的要因の方がより決定的である。わたしは「唯物論者」ではないが、少し歳を食って、そう思うようになった。が、実際問題として、親が離婚した経験のある者は、成人したとき、結婚に対して懐疑心や不安をいだくことも否めない。アメリカのいまの大人で、親が離婚していないというのは、非常に少ないかもしれないが、70年代の「クレーマー」世代の子供は、いま社会の中堅層になっており、映画製作においても、重鎮の位置を占める。だから、彼や彼女の結婚・離婚観が映画の内容や傾向にも反映せざるをえないわけだ。そうしてみると、この10年、つまり彼や彼女らが社会の中堅になり始めて以来のハリウッド映画で、離婚はあきらかに「否定的」に描かれるようになっている。この映画は、そういう流れの一つのサミングアップ(中間決算)である。
◆メリル・ストリープ演じるジェーンは、10年まえに離婚し、ベーカリーを経営しながら3人の子供を育てた。生活に不自由はない。彼女の夫だったジェイク(アレック・ボールドウィン)は、弁護士として成功しており、経済的には問題ない。が、連れ子のいる若い女性アグネス(レイク・ベル)と暮らしている彼は、疲れを感じている。ペドロというポルトガル人っぽいガキも可愛くない。で、たまたまある日ジェーンに再会し、一旦別れた妻なのに、ふたたび恋をしてしまう。ジェーンの方も、一度はしりぞけたものの、ひるまないジェイクのアタックに負けてしまう。これって、「不倫」になるの、と彼女は自問する。たまたまそのころ、彼女は家の改築を計画していて、友人の建築家から設計担当のアダム(スティーヴ・マーティン)を紹介され、設計の相談をしているうちに、ほのかな愛が芽生え始めていた。アダムも離婚経験があるシングルで、だいぶたつのにまだその傷が癒えていない。ジェーンの状況は、いささか「こみいっている」(これが原題)。彼女はどうなるか?
◆メリル・ストリープは、『ジュリー&ジュリア』に引き続いて料理をする女を演じる。ジェイクもアダムも、彼女が作る料理とクロアッサンにうっとりするのだが、男が料理のうまい女に弱いというのは、ある程度は事実である。まして、この映画のように、豪華な厨房を持つ女が、その場で手際よくあなただけのために料理を作ってくれたら、魅惑されないことが不可能だ。男は、セックスのうまい女にも弱いだろうが、セックスよりも料理の方がその効果は長い。料理ができれば、セックスアッピールが弱くなっても、相手を魅了し続けることができる。それに、料理というのはある種のセックスであり、より円熟したセックスである。セックスの最中に発せられることがある「食べちゃいたいわ」というせりふは、まさにその関係を暗示しているが、どうも、こういうせりふを吐く女は、料理が下手であることが多いようだ。
◆離婚した母親が、また元夫つまりは自分たちの父親にもどりそうになるのを見て一番複雑な気持ちになったのは、3人の子供たちだろう。ケイトリン・フィッツジェラルド、ソーイ・カザン、ハンター・パリッシュは、なかなかいい演技をし、ドラマに説得力を増している。長女ローレン(ケイトリン・フィッツジェラルド)の婚約者ハーレイを演じるジョン・クラシンスキーもいい。キャスティングは、全体として絶妙で、ストリープもマーティン(ハッパを吸って踊るとき、彼しかこの役はないと思わせる)もボールドウィン(あの出っ張った腹は本物?アグリーな感じがいまの彼には適役――インタヴューでは、裸体シーンは代役がやっているとのこと――嘘だったりして)も決まっている。
◆この映画を見て、時代の変化を感じるのは、登場する子供たちが、もはや父親を家庭にとって不可欠のものとは考えてはいないことである。ジェイクが母親のもとに帰ってくるのを歓迎する態度のなかには、父親に対する「憐憫の情」が感じられる。そうだ、そうなってしまったのだ。かつて、離婚やシングルマザーがカッコいいと推奨された時代には、まだ、無理やり家父長としての父親を拒否するつっぱった姿勢があった。それは、フェミニズム運動によって元気づけられていたところがないでもなかったが、いまや、完全にシステム自体が父離れしつつある。だから、この映画や最近のアメリカ映画が離婚に対してとる態度は、決して保守主義への回帰などではない。離婚はしなくても、家庭の意味と機能が決定的に変わってきたのである。
◆日本ではあいかわらず厳戒態勢がしかれているが、アメリカでは、薬物に対して、また規制がゆるんできたらしい。映画のなかで、よりをもどそうとするボールドウィンがハッパをどこかから仕入れてきて、ストリープが「27年ぶり」に吸い、ハイになるシーンがある。ただし、面白いのは、彼女の子供世代のハーレイは、あまりマリワナに関心を示さず、すすめられ、なんなら吸ってみようかという程度であることだ。あきらかに、60~70年代に強力だったドラッグカルチャーは後退しているのである。それが、今後復活するかどうかはわからない。いずれにしても、この映画は、日常的な描写のなかでけっこうドギツイことをさりげなくやり、70年代的な空気を感じる。ジェーンが同性の友達(アレクサンドラ・ウェントワースほか)たちとぶちまけ話をするシーンにもけっこうドギツイ言葉が出てくるが、それだけ生き生きとした雰囲気を出している。ちなみに、この映画は「R」指定になっている。
◆ジェーンと子供たちとジェイクがそろってDVDを見るシーンがある。ちらりと出る映像から判断して、それは、ダスティ・ホフマン主演の『卒業』(The Graduate/1967/Mike Nichols)である。最近この映画が引用されることが多い。
(東宝東和配給)
2010-01-05
●ラブリーボーン (The Lovely Bones/2009/Peter Jackson)(ピーター・ジャクソン)
◆この作品の批評は、あまりかんばしくない。ベストセラーになったアリス・シーボルトの2002年の原作と全然違うというのが悪評の理由の一つだが、わたしは、ピーター・ジャクソンがこういう描き方をしたのがわからなくもない。ただし、『ロード・オブ・ザ・リング』で彼の故郷ニュージーランドに「ピーター・ジャクソン現象」(その成功をきっかけにポストプロダクションの会社が多数生まれた)を巻き起こした彼は、関連会社を食わせなければならないこともあって、映画を作るとなるとCG依存が強くなるという型が出来てしまった。この映画でも、不必要なまでにCGが使われており、そのおけげで、この映画のエンドロールは、その関係者・関連会社を表示するために、えらく長いものになっている。だが、そういう下世話の事情を考慮しても、この映画には、ニューヨーク生まれの都会っ子とは違うニュージーランドの田舎生まれのピーター・ジャクソンの空間意識が強く反映されている。
◆映画の舞台は、時間と場所とが限定されている。それは、1973年のペンシルヴァニア州のノリスタウンという郊外である。物語は、(原作が描くところによると)レイプされて殺され、バラバラにされた14歳の少女スージー・サーモンが「天国」から自分の家族を見守り、物語るという形式になっている。映画は、これを継承するが、レイプされたり、バラバラにされたりするシーンは出さない。むしろ、愛らしいシアーシャ・ローナンが、まるでそんな残酷な経験などしなかったかのように「楽しげに」物語るので、彼女が語ることは、少女の空想ではないかと思わせるようなとことがあり、全体としてメールヒェン的である。
◆おそらく、ピーター・ジャクソンは、この原作の二重性を意識したのだろう。一つは、郊外という空間で起こりえる出来事の描写として、もう一つは、夢見がちな14歳の少女の意識の特徴を映像化することである。郊外という空間は、エドガール・モランが『オルレアンのうわさ―女性誘拐のうわさとその神話作用』(みすず書房)という本のなかで書いていたが、都心にくらべて、噂がとびかい、とんでもない話が肥大化することもある。また、そういう空間ではなおさら、少女の空想は飛躍する。小説は、こういう二重性を表現するには適したメディアであるが、映画は、必ずしもそうではない。映画自体がそういう「郊外」空間的な要素があるから、二重性よりも一元化の方が、商業的な成功度は高くなる。ジャクソンは、すでに商業映画的な成功を経験しつくしたので、今回は、若干冒険を試みたのかもしれない。
◆問題は、キャスティングにもある。もし、この映画がそうした二重性を意図したのなら、キャスティングのも二重性を取り入れなければならない。スージーを、およそレイプされて殺された感じのしないローナに演じさせるのなら、殺人犯ミスター・ハーヴィは、スタンリー・トゥッチのような、どこか喜劇性をはらんだ役者でなく、怖さや悪辣さを感じさせる役者を選ぶ必要があった。いかにも殺しそうな雰囲気で、実はそうではなかった、あるいは、その逆・・・という設定である。
◆スージーの母アビゲイルは、ベッドでアルベール・カミューの短編集『追放と王国』 (L'exil et le royaume, 1957) の英訳 "Exile and the Kingdom" を読んでいる。アメリカでこの時代にカミューがふたたび流行った気配はなかったから、それは、アビゲイルの趣味か? 原作に出てくるのかどうかは知らない。あるいは、ピーター・ジャクソンの選択か? カミューの作品とこの原作、映画とはかなり違う世界だから、そのタイトルのデザイン効果だけをねらったのか? 知っている人、教えて。
◆スーザン・サランドンが演じる祖母リンは、1970年代に60代とすると、その青春時代は1930年代で、「あの時代の粋な若者は全員左翼(気取り?)だったとわたしの友人が言っていた。その意味では、サランドンは適役である。ただし、サランドンは、1946年生まれで、その青春時代は、1960年代のヴェトナム反戦運動たけなわの時代だった。
(ウォルトディズニースタジオモーションピクチャージャパン配給)
2010-01-03
●サロゲート (Surrogates/2009/Jonathan Mostow)(ジョナサン・モストウ)
◆作りは、一見、『A.I.』や『マトリックス』のまがいもののように見えるが、意外とディテールの電子機器に手抜きがなく、面白く見た。90年代の前半に「最新」のテクノロジーとして具体化された「ヴァーチャル・リアリティ」(VR)が、近年、「拡張現実」(AR=Augumented Reality)としてとらえなおされ、さまざまなインターフェースやロボティクスに応用されているが、この映画は、そうした技術をちょっとばかりエスカレートさせたときに生じる世界を描く。実際には、絶対に起こりえないことではあるが、それがもし起こったときに全般化する意識はすでにわれわれの周囲に、ミクロな形で現れており、それをマクロ化してみたところが面白いのである。
◆「サロゲイト」(surrogate)とは、「代理人」、「代理物」の意味で、「サロガシー」(surrogacy)といえば、「代理母制」のことを言ったが、いま、人間の「代理」をロボットにやらせる方向が具体化し、加速化するなか(たとえば、「お掃除ロボット」は、すでに実用的な製品になって普及している)で、すべてを機械にやらせてしまう「サロガシー」(代理制)がわれわれの意識のなかにじわじわと広がっている。「サービス社会化」が進むなかで、人間のあいだでの「アウトソーシング」はあたりまえになったが、それは、実は、もっと上位のテクノロジカルな「サロガシー」の一部分だったのだ。
◆この映画の世界では、人間は、自分を好きなタイプ、風貌の「AR」的なロボット――これがこの映画で言う「サロゲイト」――として活動できる。ただし、あなたの「サロゲイト」は、あなたの「拡張現実」(AR)であるから、それが活動しているあいだは、あなたは、まさに『マトリックス』の寝台のようなもののうえに寝て、目に脳と「サロゲイト」とのあいだを結ぶゴーグルのようなインターフェースを装着していなければならない。あなたが、そのインターフェースをはずすとき、あなたの「サロゲイト」は、死んだように氷ついてしまう。このへんのドラマ的設定は面白く、映像として見栄えがする。
◆「サロゲイト」はロボットだから、破壊されても再生がきく。ところが、「サロゲイト」を破壊することでその「本体」である人間をも殺傷する兵器が開発される。これは、それまで「サロゲイト」の存在をささえてきた「サロガシー」そのものをゆさぶるものであり、身体的なハンディキャップをなくし、能力差、人種の壁を撤廃し、「近代」社会につきまとうあらゆる矛盾を解消するという「サロガシー」の理念をうちくだくものだった。
◆人的配備としては、「サロゲイト」システムの創立者のライオネル・キャンター博士(ジェイムズ・クロムウェル)、「サロゲイト」社会のFBI捜査官トム(ブルース・ウィリス)、その妻マギー(ロザムンド・バイク)、反サロゲイト主義者の指導者「預言者」(ヴィング・レイムズ)などが登場する。
◆理念としては、「サロゲイト」が格差をなくすということがあるわけだが、事実上は、それが「サロゲイト」を売る商売理念になっており、創立者のライオネル・キャンターは、若いキャラの「サロゲイト」としてVSIという会社のトップをつとめてもいる。格差を撤廃するというタテマエにもかかわらず、軍は存在し、そのための兵器が作られている。サロゲイトの破壊→本体の殺害を可能にする光線銃は、その過程で生まれた。
◆すでに初老年代のトムと妻マギーとの仲はうまくいってはおらず、二人は同じ家に住んではいても、そこでは、多くの場合、インターフェースを装着して、操作寝台に横たわっている。二人は「家庭内別居」の状態にある。トムもマギーも、それぞれに「若々しい」「拡張現実的」身体(オーギュメンテッド・ボディ)として活動し、トムは、「体」を張って捜査に挺身し、マギーは、「若い男」たちと自由奔放な交際を続けている。しかし、トムは、ときおり、「本体」のマギーへの思いから、インターフェースをはずして「本体」にもどることが多い。このへん、たがいに「サロゲイト」として顔をあわせたり、事件に遭遇したりしながら、そのフィードバックとして、悩んだり、相手への思いをつのらせたりするところの屈折が面白い。
◆イントロで、「サロゲイト」社会の誕生がてきぱきと紹介される。アイデアの具体化は「14年まえ」とされる場面で、「St. Bonaventure University」(SBU)の学者として「Dr. Anne Foerst」という名札の見える女性がインタヴューに答えているが、この人は、実際にSBUでコンピューター・サイエンスを教えている。また、「11年まえ」を紹介するシーンで、「脳神経学者」で「Blue Marble Game」社の所属という肩書きの「Sheryl Flynn P. T.」という人がコメントをくわえているが、この人も、ジョージア州立大学の准教授で、コンピュータゲームをリハリビに利用するということをテーマにした研究をしており、「肩書」にある「Blue Marble Game」という会社は、そのために作られたばかりのベンチャービジネス起業らしい。
◆イントロに出てくる「14年まえ」や「11年まえ」は、意味深のメッセージを含んでいる。というのは、「サロゲイト」のアイデアは、実際には、1980年代の後半に出ていたからだ。1990年代の前半にサンノゼで開かれたVRの会議の席上で、わたしは、「将来」の「VR兵士」による「VR戦争」のシュミレーション映像を何度も見た。この時点ではすでにそういうアイデアは具体化していたのだ。「11年まえ」のシーンには、砂漠で戦争が起こっているのが見えるが、これは、意外に、1991年の湾岸戦争から2003年のイラク戦争の時代を示唆していはしないか?実際に、湾岸戦争は、VRの研究者や開発会社にとっては、絶好の「実験場」を提供し、イラク戦争では「VR」や「AR」の技術はすでに実戦に配備されていた。だから、「7年後」がこの映画の「現在」だとすると、大体、いまの時代がこの映画の「現在」ということになり、この映画は、実は、いまわれわれが生きている現在を描いているのだということがわかる。
◆この映画は、技術を登場させる映画がよくやるように、いい加減な想像で技術を使っているように見えながら、意外とそうではないというひねりがある。だから、「近未来」なら、絶対に使っていないはずのUSBスティックを使っていたりもする。「サロゲイト」を作る技術があれば、既存のあらゆる技術が刷新され、街の相貌自体もいまとは大きく変わるはずだが、この映画では、「サロゲイト」が「人間」ではないと思わなければ、世界はすべていまと「同じ」なのである。
◆イントロでは、「7年まえ」にVSIが「サロゲイト」を大量生産しはじめ、「人間がクリエイター」になったという。これは、「クリエイティヴ」であることを貴重なことだとするいまの時代の風潮とダブらせてみると、笑える。「クリエイティブ」であるということには、「クリエイター」(創造者)つまりは「神」になりたいという願望が隠されており、それは、自分の人格を「サロゲイト」化したいという願望でもある。実際に、いますでに、そういう願望の具体化がはじまっているのである。
◆面白いシーンがたくさんある。「本体」のトムが、負傷して路上を歩いていると、何体もの「サロゲイト」とすれちがうのだが、そのたびにトムの体に当たりながら通り過ぎる。人間は、路上で他人とすれちがうとき、無意識に微妙な位置修正をしているが、「サロゲイト」には、それができない――いや、できるがしない、多少の接触は意に介しない――のである。逆に、こういうテクノロジーの加速とともに、自分が決めた通りにしか動かず、他人にぶつかっても意に介さないという身体カルチャーが浮上してくるかもしらない。そんなことを考えさせるところが面白い。
◆この映画のサブエピソードとして、「反サロゲイト」運動の実態があばかれるというくだりがある。黒人の「預言者」が率いる人間たちは、いくつもの「リザベイション」(20世紀には、アメリカの先住民たちの「リザベイション」が作られた)をつくり、「Humans Only」「No machines allowed」という掲示をかかげている。「サロゲイト」は人間を「抑圧」し、人間なき社会を作ろうとしている、というわけだ。しかし、最近翻訳の出たフランコ・ベラルディの『プレカリアートの詩』(櫻田和也訳、河出書房新社)でもくりかえし指摘されているように、心理療法においても革命運動においても「抑圧」からの解放ということが主題になってきたのだが、それはもはや不毛なのだ。「われわれの時代に支配的な病理は、リビドーの抑圧によって生み出される神経症ではなく、分裂病の方なのである」。それは、「抑圧ではなく、表出への全面的強制の産物」なのであり、まさに、「ビデオ電子的第1世代の示していることが、今日の過剰表出の有する病理的効果の兆候なのだ」。
◆面白いことに、この映画の「支配者」は、最終的に、人間と「サロゲイト」との「玉砕」を計画する。これは、かつての冷戦時代に、アメリカ合衆国にもソ連にもあった、どうせ敗北するのなら、地球自体を破壊してしまえという終末論的な発想の変形であるが、この選択のほかには、人間だけが生き残る、「サロゲイト」だけが生き残る、人間と「サロゲイト」とが(共生的に)生き延びるという3つの選択肢がある。映画は、最後の方で、こられの選択をトムに選ばせる。
◆この映画は、決してもったいをつけることなく、「人間とは何か」という問いをつきつける。ここで思い出すのは、同名の本(壽福眞美訳、法政大学出版局)所収の「人間の後に何が来るのか」という文章で編者の一人でもあるノルベルト・ボルツが書いているくだりである。人間が「機械」であると同時に「機械」では<ない>のは、ボルツによれば、人間は「自らのアルゴリズムを知らない機械」であり、「人間とは、文化によって自分自身を機械として認識しないようにプログラム化された機械である」からだという。そのため、「人間は自分のつくったものだけしか理解しない」から、理解するためには、ものを機械のなかで再現しなければならない。その再現=創造(捏造)は、そのときどきのテクノロジーによって規定される。「自我」とか「意識」とか「精神」とかいうものは、鏡やレンズのテクノロジーとともに仕上げられたが、コンピュータ・テクノロジーとともに、こうした分泌領域は、工学系の人たちが言う「インターフェース」や「ロボット」に移行して行く。この映画は、まさにそうした移行のひとつの行き着いた姿を描いているわけだ。
◆トムが、同僚のアンディ(ボリス・コドジョー)のスキンヘッズの後頭部から小さな基盤を抜くシーンは、『アンドロイド』(Android/1982/Aaron Lipstadt)で、クラウス・キンスキーがアンドロイドの後頭部から同じように基盤を抜くシーンを髣髴とさせる。ちなにみ、この作品は、今日的な意味で人間とアンドロイドとの屈折した関係を描いた初期の作品の一つで、いま見ても面白い。
(ウォルトディズニースタジオモーションピクチャージャパン配給)
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