粉川哲夫の【シネマノート】 
    
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8月公開作品短評

★★★★★  モールス (元作『ぼくのエリ 200歳の少女』の北欧的な陰りはないが、かなり忠実なリメイク。『ザ・ロード』で少年を演じたコディ・スミット=マクフィもいい。クロエ・モレッツははまりすぎるくらい適役――レイーナ・レアンデションの「危険さ」は劣るが。リチャード・ジェンキンスも好演ながら、スター級なので、こういう最期は気の毒――その分いい味を出している。イライアス・コエヒーズは「分相応」。いずれにしても、キャスティングにそつがない)。
★★★★★  ミラル (パレスチナを舞台にして1940年代、60年代、80年代、90年代の時代を激しく活きた女を描きながら、状況の変化と社会・政治との関わりのスタンスの変化をとらえているが、よくもわるくもジュリアン・シュナーベルらしい。全体が、パレスチナのすべての難問が注ぎ込む親たちの血と記憶を引き継ぐミラルという女性の目でまとめられるが、その彼女はいまや国際ジャーナリスト。40年代に「外」から「内」に入って難民学校をつくった女性ヒンドゥから、「内」から「外」へのミラルに移る。ここがつまらない)。
★★★★  この愛のために撃て (ガンアクションとして秀作。悪の上に悪がおり、素人がまきこまれて苦闘する。根底からの悪の目付きがうまいジェラール・ランバン、ワルなのに哲学的な風貌のロシュディ・ゼム。女捜査官役のミレイユ・ペリエは半ばであっさり殺されお役御免なのは惜しい。いい演技をしているので)。
★★★★★  ヒマラヤ 運命の山 (【ノート】←ヒマラヤ山脈ナンガ・パルバートの初登頂を果たしたラインホルト・メスナー(フォロリアン・シュテッター)が主役だが、この相当アクの強い「不屈」の男が割合さっぱりと描かれているので、遭難から独力で脱出するプロセスも、リーダーのカール・マリア・ヘルリッヒコッファー(カール・マルコヴィクス)との確執も、迫力にかける)。
★★★★  ナッシュビル (アルトマンの「最高傑作」を挙げろといわれればわたしはこの作品を取る。その最終章には「アメリカ」という国家が個別具体的かつ普遍的に描かれている。「スター」の殺害・死にもかかわらず、その混乱が「非スター」によって静まって行く――おそらく彼女はやがて「スター」になるだろう――だが、その回復力、にもかかららずちらりと映る警察官の姿で示唆される警察国家への道、そしてすべてを問いとして残して空へパンされるカメラ・・・かぎりない含蓄)。
★★★★★  ツリー・オブ・ライフ (テレンス・マリックへの期待の大作のはずだったが、いささかがっかり。こんなもってまわった表現の仕方をする必要はあるのか? 911以後のアメリカへの絶望はひしひしと伝わってはくる。が、地球の誕生から人類の誕生、さらにはその終末までをこれでもかこれでもかと描くCG動画は、金がかかっていることはわかるが、意外と教科書的。地球とともに1950年代を絵に描いたようなファミリーが終わるのだが、あえて解釈すれば、50年代の先には「アメリカ」はないと言っているように見えるところが、この映画の最も深いインパクトか? 実際、50年代の「アメリカ」が終ったにもかかわらず、その先を出せないというのがいまのアメリカだ。しかし、その「終末」の先には何も無い=「無」だと言えないところが、キリスト教的。しかし、色々考えさせるという意味では必見)。
★★★★★  未来を生きる君たちへ (短評を『キネマ旬報』に送った直後、ノルウェーの「テロ」事件の報を知った。監督はスウェーデン人だが、映画の舞台はデンマーク。ノルウェーはその隣国だ。最近カンヌで話題になったラース・フォン・トリアーのナチ・ヒトラー「擁護」も含めて、いま北欧には国家への危険な「怨念」がたまっているのだろうか? スサネ・ビア監督は、その根を家庭や学校や街のなかに見出す。いつもよりもスケールを広げすぎている――それだけ「劇的」ではある――ところが惜しい)。
★★★★  ペーパーバード 幸せは翼にのって (フランコ時代のスペインを街の民衆劇場の「芸人」のしたたかでひらめきのある視点と戦略で描く。音トラックがあるから実際には無理だが、フィルムを裏返しに映写機に入れ、フランコの右手挙手を左翼の左手挙手にしてしまうシーンはうっとりする。こういうしたたかさに抵抗の政治がある。必見)。
★★★★  チルノブイリ・ハート (チェルノブイリの15年後を撮り、2004年アカデミー賞短編ドキュメンタリー賞に輝いた作品。5年後、10年後、20年後の「福島」の現実と重なり合って衝撃を受ける。もはや「放射能とともに生きるしかない」日本では、依然高放射能度の地域に残って生きている人々の姿がわずかな救いか)。
★★★★★  ジョン・レノン,ニューヨーク (よくもわるくもヨーコ・オノのジョン・レノンであり、彼女の「ニューヨーク」。が、前半に見える二人の70年代の映像、ニューヨークの街頭風景は、最も刺激的だったニューヨークを思い出させる。それ以前から住まい――ロンドンでのレノンとの出遭いはそのあと――ニューヨークを面白くした張本人の一人だったヨーコ、FLUXUSのヨーコなしには、晩年のレノンはいなかった)。
★★★★★  メカニック (孤独で油断をしないクールな殺し屋アーサー・ビショップ――ジェイソン・ステイサム――が非情に殺しをやっていく。久しぶりにダーナルド・サザーランドが健在ぶりを見せる。しかし、その息子――ベン・フォスター――が、アーサーに殺された父親の仇を取るというくだりがツヤ消しになっている。おしゃれな描き方ではあるが、何かバランスが悪い終り方だ。元作のマイケル・ウィナー版(1972年)――チャールズ・ブロンソン主演――では、もう一段階ひねりがあり、仇を取るなどという発想自体を相殺し、アーサーのクールさを描き通していた。ステイサムだってこうしてほしかっただろう)。
★★★★★  シャンハイ (日本人が悪辣に描かれているという批判もあるが、それは、事実だったのだから仕方がない。が、映画は映画である。悪辣であろうがなかろうが、それが映画的リアリティを発揮すればいい。そうでないから面白くないだけのことである。ダメな脚本と演出のなかでもコン・リーが輝いているのは、彼女が役者として素晴らしいからだ。ヤク中の悲しい女を演じる菊池凛子もチョイ役ながらけっこういい。ジョン・キューザックののっぺりした演技は毎度のことで批評する意味もないが、渡辺謙の毎度「大仰」なキャラクターはすでに限界に達している)。
★★★★★  アザー・ガイズ 俺たち踊るハイパー刑事! (こういう80年代的ヒップホップのり、ウィル・フェレルが体現する「サタデー・ナイト・ライブ」調ナンセンス等々はいまのアメリカでは非常に貴重なものだと思うが、残念ながら、そのことを意識せずにただのエンターテインメントとして描いているために、アクチュアリティが希薄になっている。ある意味では、そういうナンセンスな過激さというものがいま確実に古くなってしまったということでもある)。
★★★★★  リメンバー・ミー (1991年のブルックリンの18th Avenue駅のひと気のないホーム。夜景にWTCのビルが見える。母と娘が強盗に遭う。駆けつける父親を演じるのはクリス・パーカー。この導入部は緊張感にあふれている。が、暗転ののちの「10年後」のシーンからゆるんでくる。富豪の父親に反抗して安アパートに暮らす息子(ロバート・パティンソン)の話になり、それが、成人したあの娘(エミリー・デ・ライヴィン)と出会うくだりがありきたりだ。とはいえ、ラブストーリーとしては悪くはない。問題は、最後だ。なんでここで911を出してくる必要があるのという印象。
★★★★★  ハウスメイド (目線は、明らかに、「メイド」(チョン・ドヨン)の側にあり、絵に描いたような「アッパーミドルクラス」の生活をしている「雇い主」夫婦(ソウ、イ・ジョンジェ)への憎悪がゆらめいている。しかし、ひところの韓国映画にくらべると、そういう憎悪や怨念の奥行きが浅くなった。それは、韓国の「中流化」が急速に進んだためかもしれない。だから、その分、そういう憎悪や怨念をまともに出そうとすると、『悪魔を見た』のように、おどろおどろしくなる。本作は、そうした人工的なおどろおどろしさにもいたらず、もっぱらそういう側面をユン・ヨジョンの老獪な演技にたよりきっている)。
★★★★  ゴーストライター (【ノート】←スキャンダルにまきこまれながら、演出を続けるロマン・ポランスキーの思いが透けて見える傑作。必見である)。
★★★★  ハンナ (シアーシャ・ローナンが演じる一見「普通」の少女が驚くべき能力の持主であるかが判明し、めずらしく悪役エイジェントを演じるケイト・ブランシェットがのけぞるまでのシークエンスがすばらしい。これでブランシェットにもうすこしひねりの役柄があたえられていれば、ハンナの父親役のエリック・バナがもっと活かされた)。
★★★★  ペーパーバード 幸せは翼にのって (映画館でフランコの映るニュースフィルムを裏返しに上映し、彼の右手の挙手を左手にすり替えるような民衆的戦略、さらには会場のアンプを操作してそのナレーションにスクラッチ的なハム音をいれてしまうシーンがある。実際にそんなことが出来たかどうかは別にして、こういう政治的な解放感の積み重ねでしか、権力――ここではフランコのファシスト政権――の空気を幾分でも抜くことは出来ない)。
★★★★★  ミラル (【ノート】←ジュリアン・シュナーベルの映画がいつもそうであるように、歴史を流暢に物語ってくれるが、どこか迫力がないというか、ヤバさに欠ける)。

今月のノート

猿の惑星 創世記 ジェネシス   カウボーイ&エイリアン   フェア・ゲーム   ミッション:8ミニッツ   キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー   ランゴ   風にそよぐ草   アンダー・コントロール   灼熱の魂   幸せパズル  


2011-08-31
★★★★  ●幸せパズル (Puzzle/Rompecabezas/2009/Natalia Smirnoff)(ナタリア・スミルノフ)  

◆広告のポスターには、歳に似に合わぬな笑いを浮かべたおばさんと実直そうな「大学教授」風の男が何かをやっている姿が見える。二人はジグゾーパズルをやっているのだが、そうは見えない。この写真を見て、この映画を「ま、いいか」と敬遠した人が多いかもしれない。ところが、この映画はなかなか奥が深いし、面白いのだ。この印象は、日本だけでのことではないらしく、iMDbでも10点中6.8の評価しか得ていない。とんでもない。わたしは評価「8」を付けた。
◆実のところ、わたしも試写状の写真を見て、観るのを後まわしにしてしまった。『キネマ旬報』の「REVIEW」(通称「星取り」)のシメキリが近づき、あわてて最後の試写に飛び込んだのだった。早く見なかったことを後悔した。
◆「星取り」にはこう書いた→料理がうまく夫と子供につくすちょっと旧タイプ(アルゼンチンだから?)の「主婦」がチェスのパートナーに惹かれていくプロセス、とりわけコンテストで勝利したあとラブ・アフェアーに急傾斜するシーンでマリア・デル・カルメンが素晴らしい演技を見せる。オバサンが「自立」に目覚めるありきたりの物語とはちがい、離婚もロマンティックな不倫劇もない。いろいろ起こるがすべてが容認されるかのよう。どこかわからぬ草原で彼女が一人ピクニックをする最後のシーンはなかなか意味深。
◆別に不幸であるわけではない「主婦」のマリア・デル・カルメン(マリア・オネット)が男と遭うことになったのは、ほんの偶然だった。そもそも彼女がジグゾーに興味をいだいたのも偶然だった。客がたくさん来ている家族パーティのとき、うっかり皿を床に落とし、くだいてしまった。その破片を拾い集めてつなぎあわせながら、ひらめきのようにパズルに興味を持ってしまった。たまたま、さまざまなジグゾーを売る店があったこともあるが、彼女はジグゾーに夢中になり、コンテストのためにパートナーを求める募集メモを見て、その男を訪ねる。二人は気があい、次第に惹かれあうようになる。が、こう書くとこの映画は先が読める「不倫」話かただのロマンティック・コメディにすぎないと思うだろう。だが、ちがうのだ。
◆おそらく、この映画は、観る側の思い次第で性格の変わるようなところがある。そこが面白い。最初のほうのシーンでも、ことさらマリアの家庭内での姿を否定的に受け取れば、彼女は、「専業主婦」に疲れ、ジグゾーに癒しを求め、そして、趣味と関心を共有できる相手に惹かれていくように見えるかもしれない。そういう観方は可能だし、実際、彼女は、特に対立があるわけではないが、子供や夫(ガブリエル・ゴイティ)がもっと自分を受けとめてくれればいいという気持ちをいだいてはいるようだ。しかし、ドラマは、そういう月並みさを越えている。不満だから・・・、さびしいから・・・という「欠乏」と「充足」の心理学の範疇にははいらない。
◆この映画には、ジグゾーを組み立てていくシーンが何度も出てくるが、ジグゾーの醍醐味のようなものを追体験させるような映画ではない。断片が組み合わさって全体を形成するジグゾーが一つのメタファーになっていないわけではないが、そのメタファーは、むしろ、人間の「欲望」(ガタリ/ドゥルーズ以後の)の形態と動態を示唆する。人は、ふと、ジグゾーの破片が欠如したような「欠乏」の経験(虚しさ)を感じ、それを埋めようとする。破片が埋まったとき、ハッピーな気持ちを経験する。が、ジグゾーにさまざまな(ほとんど無限に)セットがあるように、欲望の充足は、かぎりない。一つのセットを組み上げたら、また次のセットに挑戦すればよい。ジグゾーの破片の「欠如」も、いずれは埋めれれるべき「欠如」であって、欠けているのは一時的なものにすぎない。
◆この映画の面白さ、新しさは、マリアがロベルト(アルトゥーロ・ゴッツ)と出逢い、やがて性的な関係を結ぶことになっても、それで夫との関係がダメになるわけではない――という雰囲気を映画として生み出した点だ。
◆もう一度見たら、解釈が変わるはずだが、最後のシーン(ロベルトの家から帰るとき、涙を浮かべている→彼からもらったエア・カナダの航空券を木箱にしまう→野原で一人でピクニックをしている)が意味深長だ。安易な解釈では、彼女は、やはり、夫にもロベルトにも愛想をつかし、男のいない世界に旅立ったかのようにも見える。しかし、これだと、この映画は、「専業主婦」の「自立」の話になってしまう。
◆さまざまな民族楽器が使われた音楽も凝っている。決して多用せず、自然音のはざまでさりげなく使う。ロベルトと会ったあとのシーンでは2度とも口琴の音が聴こえる。一度目はロベルトに初めてあったわくわくした思いを反芻している感じ。2度目は、電車に乗って家に帰るシーンにかぶる。このあと、何も話していない夫と寝室のベッドに横たわり、夫の求めに応じてセックスをするシーンになるから、この口琴のビヨーンという音は彼女の複雑な身体感覚をあらわすと考えられる。
◆マリアは料理がうまいという設定だが、料理や食のシーンがしっかりと撮られている。また、ロベルトの家のシーンで、二人が紅茶を飲むシーンが3度ある。彼の家には、「Twinings」の紅茶や中国茶のの缶がいくつもあり、最初は、メイドが入れるのだが、2度目は、「ラプサン・スーチョン」(正山小種)、3度目は「ダージリング」を飲む。

(ツイン配給)



2011-08-26
★★★★★  ●風にそよぐ草 (Les herbes folles/2009/Alain Resnais)(アラン・レネ)  

◆まず、今年89歳のアラン・レネの作品であることが関心を呼ぶ。2009年の作品だが、1997年の『恋するシャンソン』以来(わたしが)見ていないレネの現状への関心である。次に、サビーヌ・アゼマ(『メロ』)、アンドレ・デュソリュ(『ミックマック』)、アンヌ・コンシニ(『潜水服は蝶の夢を見る』)、エマニュエル・ドゥヴォス(『リード・マイ・リップス』)、マチュー・アマルリック(『さすらいの女神(ディーバ)たち』)といった実力のある出演者たちが気を惹く。実際に彼女や彼らは、みないい演技を見せる。原作は、『ある夜、クラブで』や『さいごの恋』の邦訳があるクリスチャン・ガイイのL’incident。が、見終わった印象はかなりの失望。

◆ひとつには、わざと曖昧にしている仕掛けが、あまり意味がないように思われることだ。そんなことをする意味がないのではないかと思わせるのである。その仕掛けを見過ごすと、脈絡がつかないところがあるので、そのを「シュール」だといって褒(ほ)めたり、逆に「飛躍がありすぎる」と貶(けな)したりすることになるが、そういう行き違いを喜んでいるのは監督だけのように見える。実際、映画は当たらなかった。とはいえ、その曖昧さを明らかにする楽しみは残されている。以下はその試みである。

◆映画は、黒い入口のあるサイロのような建物へのズームからはじまり、割れたアスファルトのあいだから生え出ている雑草をながながと映す(トップクレジット)という展開である。映画の原題は、原作とは異なり「茂った雑草」(les herbes folles)となっている。だからこのシーンは、<雑草はただ生える、なぜ生えるかの意味はない、生えるがゆえに生える>といった意味を想起させた。わたしはアラン・レネをかいかぶり、ハイデッガーがアンゲルース・シレジウスの言葉「バラはなぜなしにある、それは咲くがゆえに咲く」への難解な解釈を十二分に意識した映像かと最初レネをかいかぶったのだった。しかし、そういう期待はやがて潰(つい)える。

◆身なりのいい女→マルグリット(サビーヌ・アゼマ)が、靴屋で自分の好きな店員にサイズを合わせてもらって、靴(→赤色)を買う。紙袋をかかえて満足気に歩きはじめると、ローラースケートをはいた男にバッグ(→黄色)を奪われる。そのまえにバッグがクローズアップになり、彼女はそこからサングラスを取り出すのだが、その大写しは、その色を印象づけ、それが奪われる暗示であった。このあたりまで、クールなナレーションと自己弁護の内的独白とともに、なかなか気を持たせる。

◆ナレーションと内的独白がからみあうスタイルは一応気を引く。普通は、一人の主人公に限定してその内面と外面を構成するが、この映画は、二人の人物の内面と外面を錯綜させる。一人の人物の想像や妄想ならば、それが飛躍しても、追いかけるのはそう難しくはない。が、ここでは、二人の想像と妄想が交互にからみあうので、複雑になる。

◆しかし、ナレーションと内的独白の使用は、映画の決定条件になっているわけではない。ナレーションにも色々あり、登場人物自身も知らないことを知っている「上空飛翔的」な視点のものが普通だが、登場人物と同格に嘘までつくような「物語作者」的(ベンヤミン参照)なものもある。ここではそういうタイプのナレーションも使っているように見える。だから、その寝レーションは、アイロニカルにその対象(登場人物)を描写しているだけではない。しかし、その効果は特に問題にするほどのこともない。

◆靴屋→ひったくり→入浴とマルグリットのシーンの次に、初老の男→ジョルジュ(アンドレ・デュソリエ)が腕時計を見つめているシーンが出る。ここで、わたしは、この映画はダメだと思った。時計の電池が切れて止まったのと、自分の人生の先行きを重ねあわせる独白をするからである。あまりに月並みだ。それから彼は、時計屋にバッテリーの交換をしてもらいに行くが、料金は「15ユーロ」だった。日本では、1000円ぐらいとられるが、フランスではもっと高いのか?

◆電池の交換を待つあいだに、ジョルジュは、「この女は時計の時間をめちゃめちゃにしてしまうだろう」という内的独白をする。これは、映画が以後見せるシーンの時間が「時計時間」ではないことを示唆する。結論を先に言ってしまえば、この映画は以後、最後の、アンヌ・コンシニ(らしい――わざと曖昧に映す)が幼い娘といっしょにいるシーンまで、「時計時間」とは無関係に進むのである。つまり、すべては、ジョルジュやマルグリットの想像や期待や幻想にすぎないのである。

◆誰が見ても、アンヌ・コシニ(1963年生まれ)が演じるスザンヌという女性が、アンドレ・デュソリエ(1946年生まれ)が演じるジョルジュと30年連れ添った妻だとは思えない。むろん、60代と40代の夫婦はいる。現に、レネは、27歳ちがうアゼマ(1949年生まれ)と夫婦関係にある。台詞のなかでは夫婦だと語られ、警察署のシーンでジョルジュは、ベルナールという警官(マチュー・アマルリック)に、自分には孫もいると語る。しかし、スザンヌは、最初からジョルジュの娘のように登場し、その後も娘であって全然不思議ではない。時計の暗示を素直に受け取れば、「現実」には、ジョルジュは妻を亡くし、一人で暮らしている老人であり、娘が時折面倒を見にやってくるのである。彼女には幼い娘がおり、映画のファミリー団欒のシーン(この部分だけメローなジャズが流れる)に登場する娘エロディ(サラ・フォレスティエ)は想像の世界の人格なのだ。このシーンは、ジョルジュの希望的「夢」であり、だから、音楽はメローなジャズなのだ。

◆何カ所かで、ジョルジュに犯罪歴があるかのような暗示がある。警官とすれちがうとき、彼らが自分の前歴を知っていると独白する。「自分には選挙権がない」という独白もある。しかし、それは思わせぶりで終わる。まあ、観客をからかっているのかもしれない。思わせぶりがこの映画のスタイルでもある。

◆最後のほうで、ジョルジュとマルグリトが決裂したかのように見せて、「それでも二人は愛し合ってた」というフロベールの引用を出し、「Fin」マークとともに、20世紀フォックスのテーマ音楽(フランツ・ワックスマン)を流すのも、あまりシャレにはなっていない。非常に子供っぽいダジャレにすぎない。

◆ジョルジュがトイレに行って、ズボンのチャックが引っかかって、前を閉めることができなくなるシーンは、全然面白くもなく、<レネさんやめたほうがいいんじゃない>と言いたくなる。飛行機のシーンも、金がかかったろうが、つまらない。

◆ジョルジュが妻・スザンヌ(アンヌ・コンシニ)を置いたまま、一人で『トコリの橋 』を見に行っていて、それを映画館の向かいのバーでマルグリトが待ち受けているというシーンは、別にどうというわけでもないが、なかなかいいシーンだと思った。彼女は、彼が映画館から出てきたらすぐに出ていくつもりだから、コーヒーを注文し、それがテーブルに届くと、すぐに支払いを済ませる。これは、あとで支払おうとするとけっこう時間のかかってしまうヨーロッパの飲食店では頭のいいやり方だ。「いまの時間にコーヒーかね」とウエイターのささやき声も入っていて、雰囲気が出ている。こういう雰囲気で全体を撮ったほうがよかったのではなかったか?

(東宝東和配給)



2011-08-25_1
★★★★★  ●キャプテン・アメリカ ザ・ファースト・アベンジャー (Captain America: The First Avenger/2011/Joe Johnston)(ジョー・ジョンストン)  

◆「キャプテン・アメリカ」は、『マーヴェル・コミックス』から出た「Captain America Comics #1」 (March 1941)のキャラクターであり、「1941年 ナチスの脅威に対抗するために米国で秘密裏に遂行された超人兵士製造計画 "スーパーソルジャー計画"により誕生「したとされている。明らかにこのキャラクターは、アメリカが第二次世界大戦に参戦するプロセスのなかで戦争プロパガンダの意図のもとに生み出されたものであり、少なくとも、そういう状況のなかで受け、読まれたことは否定できない。そのようなキャラクターをいまの時点で復活させるというのは、2000年代に入って、ハリウッドが「マーヴェル・コミックス」にもとづく映画を続々発表するようになる傾向の一端であるだけでなく、いまの「ホームランド・セキュリティ」下のアメリカの非常に偏った状況と関係がある。映画は面白ければいいとも言えるが、面白いという思いのなかで無意識に洗脳されるのはかなわない。

◆最近、アメリカにますます嫌気をさしている。だから、アメリカの現状に批判的な作品なら受け入れられるが、現状肯定的な姿勢が見える作品には反発を感じてしまう。アメリカ映画は、基本的に闘いが好きで、現状に批判的な作品でも、闘いのなかで批判する。これが少し変わらないと、アメリカはいつまでたっても戦争を仕掛ける側になってしまうと思う。ましてこの作品のように、時代をずらして極めて好戦的な愛国主義を主張し続けるのでは、イラク戦争でこりてもまたどこかで戦争を仕掛けることになるだろう。むろんそんなことは承知のうえだろう。戦争がなくなってはやっていけないという確信のなかでこのような映画がつくられ、観客は懲りずに戦争を肯定してしまうのだ。

◆スーパーマンやバットマンとくらべると、キャプテン・アメリカは、内面的・実存的な悩みを知らない。彼がまだスティーヴ・ロジャースであったときですら、いじめられてもへこたれない。背が低く、徴兵検査をパスする体力や運動神経がないことは気になるが、それが「実存の危機」にまでエスカレートすることはない。これは、<若者よ、悩む必要などないのだよ>という隠れたメッセージを流すのには格好のヒーローである。しかし、ナチズムはまさにこういう性格と姿勢の人間を作ろうとしたのではなかったか?

◆3Dの出来具合は自然である。しかし、特殊メガネをかけなければならないという3Dの流行は何だろう?テクノロジかるには非常に古いのだが、観客は抵抗せずに受け入れている。映画会社は、時流にさからえず、とにかく3Dで撮影しておくことにやっきになる。いずれ破綻をきたすことは目に見えているが、やめようと声を上げる会社はない。知覚的に3Dでなくても、脳内で立体効果は出せるのであり、3Dにするだけ、観客の想像力は枯れてきて、その分、映画はますますジェットコースター的にならざるとえなくなり、映画にとっては損なのだ。

◆以上はマクロな印象だが、ミクロに見れば面白い個所はいくらでもある。最後にクリス・エヴァンスが拘束されていた建物の壁を破って外に飛び出すと、そこはタイムズ・スクウェアで、『マイティ・ソー』でニック・フューリーを演じたサミュエル・L・ジャクソンが立っているというシーンは笑えた。しかし、この映画にはあまり笑えるシーンがなかった。

◆まあ、ナチの「ヒドラ党」を仕切るヨハン・シュミット(ヒューゴ・ウィーヴィング)が、ナチを逸脱して、「ヒドラ党」の独裁に進み、「ハイル・ヒットラー!」ではなく、「ハイル・ヒドラ!」を掛け声にするのだが、ロボット集団のようにいならぶ党員たちが、「ハイル・ヒドラ!」と叫びながら、片手ではなく、両手を挙げるのは笑えた。

◆タイムズ・スクウェアのシーンも含めて、グリーン・スクリーンによるはめ込み撮影ぽさが見え見えなのはまずい。データによると、この映画の250ショット以上がグリーン・スクリーンのまえで撮影されたという。背が低く、身体虚弱で徴兵検査にパスしないスティーブ・ロジャース(クリス・エヴァンス)が、エイブラハム・アースキング博士(スタンリー・トゥッチ)の発明した装置で筋肉隆々で長身の「キャプテン・アメリカ」に変身するのだが、その変身の撮影も代役なしにCG処理で行ったという。はめ込み映像の「安さ」は、3D版では目立たないが、2D版ではけっこうはっきりしてしまう。

◆シュミットが、自分を特権的な位置に置くのを助手のドクター・ゾラ(トビー・ジューンズ)に誇示するシーンが気になった。シュミットは自分の肖像を絵描きに描かせているのだが、音楽は、こういうシーンではよく使われるワーグナーの『神々の黄昏』の「ジークフリートの葬送行進曲」である。演奏はわりとあっさりしているが、フルトヴェングラーの演奏は猛烈粘る響きで、その「デモーニッシュ」さがよく出ていた。もし、1941年というドラマの時限でシュミットが聴いたとしたら、断然フルトヴェングラー指揮のヴァージョンだったろう。

(パラマウント ピクチャーズ ジャパン配給)



2011-08-12
★★★★★  ●猿の惑星 創世記 ジェネシス (Rise of the Planet of the Apes/2011/Rupert Wyatt)(ルパート・ワイアット)  

◆製薬会社の研究所で開発された認知症の新薬実験でチンパンジーが驚異的な知能を発揮する。映画は、テンポよく進み、飽きさせない。そのチンパンジーをそのまま使うのではなく、その二世の話につないでいく。これで話が倍興味深くなる。エンターテインメントの基本が押さえられている。シーザーと名づけられたチンパンジーの赤子を育てるのは、ジェームズ・フランコが演じる研究所員ウィル・ロットマン。彼の父親(ジョン・リスゴー)は認知症で、それがウィルの悩みの種だ。
◆二つのテーマが進行する。一つは、「進化」したチンパンジーの話。もう一つは認知症の父親の話。知能の進化も認知症の親の問題も、どちらもアップデートな関心事だ。この映画が受けないわけはない。ウィルが、まだ動物実験の段階にある新薬を父親に投与したいと思うのは時間の問題だろう。そのとき、なぜ映画は話を二重化するか? というより、二重化することによって、この映画は、単に認知症の父親と息子の物語であることをやめ、サスペンス的なダイナミズムを得る。チンパンジーの動きは人間のそれよりも基本的に速いから、シーザーが壁から壁、木から木へ飛び移るだけでも画面に速度が出る。
◆チンパンジーのシーザーは、俳優のアンディ・サーキスのモーション・キャプチャーのCG処理で作られている。それは、モデリングであり、つまりは「」をとらえることである。そして、この「モデリング」が、シーザーの表情や身ぶりにおいてだけでなく、息子と父親の関係、言葉をしゃべることができない者と「健常者」との関係、見知らぬ集団のなかに放り込まれた「個」の心境と対応、集団のなかからリーダーが生まれるプロセス――さまざまな個人的・社会的な「型」が「モデリング」され、映像化されている。
◆シーザー、ウィル、彼の父親は人間のファミリー以上の親密なファミリーとなる。それが、人間のファミリーよりも心の通うものに映したのち、映画はそれを揺する。ウィルのガールフレンド、カロライン(フリーダ・ピント)も、ウィルを独占したいシーザーにとっては若干の疎外要因になるが、すべての危機はチンパンジーに恐怖を隠さない隣家から生じる。結局、霊長類保護施設に入れられてしまう。こうしたドラマで、シーザーは、顔と見ぶりだけはチンパンジーでも、人間よりも人間らしい表情と態度を感じさせることに成功する。うまいテクニックだ。
◆製作側のテクニックである「モデリング」に対して、観客側が別の「モデリング」を対置してみると面白い。たとえば、ウィルとシーザーの関係を、養子をもらった父と子の関係としてとらえなおしてみる。保護施設に入れられたシーザーの心境は、未知の世界に放り投げられた個人に置き換えてみると、面白い。成長したシーザーが、ウィルの恋人キャロラインに見せる嫉妬は、同性愛的だという指摘があるが、これは考えすぎかもしれない――しかし、それも面白い。

(20世紀フォックス映画配給)



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