リンク・転載・引用・剽窃は自由です (コピーライトはもう古い) The idea of copyright is obsolete. 

 粉川哲夫の【シネマノート】

今月気になる作品

★★★★ コロンブス 永遠の海 (別にそこに行っていなくても、自然に「望郷」を感じさせるのはなぜ? 監督の婦人マリア・イザベル・ド・オリヴェイラに魅惑される――『ぴあ』と『キネ旬』にレヴューを書いた)。   ★★ 運命のボタン (リンク参照)。   ★★★ 9<ナイン> 9番目の奇妙な人形 (リンク参照)。   ★★ グリーン・ゾーン (リンク参照)。   ★★★★ パリより愛をこめて (リンク参照)。   ★★ ザ・エッグ ロマノフの秘宝を狙え (リンク参照)。   ★★★★+♥ ビルマVJ 消された革命 (カムコーダーとネットとケータイを駆使したヴィデオ・アクティヴィズムの最新の活動が描かれる。僧侶すら殺した軍事政権の強引な暴力には負けたが、この記録で個人と少数グループを単位とするトランスローカルな運動の有効性は余すところなく示された)。   ★★★★ 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を (リンク参照)。   ★★ エンター・ザ・ボイド (リンク参照)。   ★★★ ローラーガールズ・ダイアリー (リンク参照)。   ★ 処刑人 II (前作では新味のあった「アンサンブル」ガンアクションが、今回はマンネリ。役者としてわずかに見栄えがするのはジュリー・ベンツ)。   プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂 (未見)。   ★ 座頭市 THE LAST (リンク参照)。   ★★★ RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語 (リンク参照)。   ★★ ヒーローショー (リンク参照)。  


華麗なるアリバイ   マイ・ブラザー   アイアンマン2   ザ・ロード   セラフィーヌの庭   小さな命が呼ぶとき   ペルシャ猫を誰も知らない   ぼくのエリ 200歳の少女   ヤギと男と男と壁   トイレット  


2010-05-26
●トイレット (Toiretto/Toilet/Naoko Ogigami)(荻上直子)  
Toiretto/Toilet/Naoko Ogigami ◆日本人の母親から生まれた3人の日系アメリカ人の子供たち(みな成人)と日本人の祖母が登場するが、舞台はアメリカ(カナダ? 撮影はトロント)で、全篇会話は英語。字幕が付いているから、洋画のようにも見えるが、キャラクターの一人ひとりにくっきりとした味付けをし、それぞれの素材をいかしながら、全体としてバランスよく仕上げた美味い「無国籍料理」の感じ。これなら、言語を越えた観客の口に合うだろう。
◆「今日ママが死んだ」と、アルベール・カミュの小説『異邦人』の書出しのようなナレーションをするのは、次男のレイ(アレックス・ハウス)で、ヴィンテージもののプラモデルを収集している。仕事は、化学実験室のようなところで、友達にはなりきれないインド人の同僚アグニ(ガブリエル・グレイ)がいる。が、自分のアパートが火事になり、大切なプラモデルをかかえて、実家に戻ってくる。そこには、「パニック障害」(Panic Disorder)のためにヒキコモっている長男のモーリー(デイヴィッド・レンドル)と、口数が多くて仕切り屋のリサ(タチアナ・マズラニー)、そして、死んだ母の部屋からほとんど出てこない「ばーちゃん」(もたいまさこ)がいる。彼女は、愛猫のセンセー以外には心を開かないかのよう。すべてちょっとずつ「変」で、レイは、いつも同じ服装(同じシャツを7枚持っているという)をし、同じ周期で日常生活を送っている。
◆荻上作品ではおなじみのもたいまさこの起用は、非常に微妙である。この映画のなかで、彼女が演じる「ばーちゃん」はたった1度しか声を出さない。なぜ彼女が黙っているのかは、子供たちにも、観客にも最後までわからない。表面上は、英語がしゃべれず、無口で、子供たちにはなじめず、おまけに娘(子供たちの母親――俳優としては出てはこない)の死で失意に陥っている・・・という設定である。その態度自体はだんだんほぐれてきて、わずかにほほえんだりもするが、その沈黙は最後まで謎。子供たちは、それぞれに納得したかのようだが、本当に(ドラマのロジックのなかで)そうなのかどうかはわからない。というのも、もたいまさこは、終始、あの意味ありげな目つきを変えないし、どこかでとんでもないことをするのではないかというアブナサを捨ててはいないからである。
◆それが荻上の「隠し味」なのだとすると、その効果は何だろうか? 「ばーちゃん」との意思疎通が一応、前進と展開を見せる。モーリーは、あるとき、母親がまえに使っていた古い、足踏み式のシンガーのミシンを見つけ出し(あるいはその存在に思いついて)、触ってみる。興味が沸き、何かを縫ってみようとするが、使い方がわからないので、「ばーちゃん」に尋ねる。英語と身ぶりで必死で説明(母親が日本人なのに全く英語を解さないというのもミステリーだが、そういうところがこの映画の特異性ないしはイデオシンクラシーでもある)すると、彼女は、巧みにミシンを動かして見せてくれる。このとき、終始無言であるもたいの表情と目つきの尋常ではないところはあまり変わらない。この婆さん、本当は英語がわかるのではないか、わかっていて口をつぐんでいるのではないかという思いがしてしまうのだ。
◆「ばーちゃん」が宇宙人的存在であって、そのまわりにいる「普通」の人間たちが、彼女の存在によって、自分を見出したり、変わったりしていくという形がないでもない。なぜかわからぬが、彼女は、財布に100ドル紙片をどさっと入れており、孫たちに惜しげもなくあたえる。モーリーは、ミシンを教えてもらったことがきっかけでスカートを縫い、愛用するようになり、ここから、彼は、しばらく遠ざかっていたピアノを弾くようになる。彼は、天才的なピアノの才能がある。リサは、エア・ギアに専念するようになり、ヘルシンキで開かれるエア・ギターの大会に出ようと決心するようになる・・・。
◆「ばーちゃん」の態度に一番疑問をいだくのはレイであり、彼女が使ったヘアブラッシの毛を盗み取り、自分の毛と比較するDNA鑑定までするくらいだが、彼が同僚のアグニのいかにも「インド人らしい」明晰なロジックの助けを借りて最終的に到達する結論は、彼女は、日本式(といってもウォッシュレットの)トイレが恋しいらしいということなのだ。彼女は、母親が手を尽くして探しあて、死の直前に呼び寄せたのだという。まあ、このへん、この家族にもさまざまな隠された事情があることが何となく暗示され、登場する人物たちが、みな、一見するほど単純な生活を送ってきたわけではないことが想像できもする。そして、このウォッシュレットも、レイの勝手な解釈だったかもしれないということを思わせるシーンがある。「ばーちゃん」は最後まで謎めいているが、ファミリーという存在そのものが、そもそも謎なのだろう。
◆荻上監督の作品らしく、ちらりと登場する食べ物がみな、魅力的に撮れている。今回は、ギョーザを作り、食べるシーンが2度出て来るが、ギョーザにしたところがなかなかの妙だと思う。この映画でギョーザが出て来るのは、母親がよく作ってくれたという設定で、それを「ばーちゃん」が主になって作るのだが、海外に長く住んだ日本人は一体にギョーザが好きだ。伊川東吾が出演しているフランス映画『Le hérisson』(2009/Mona Achache) には、彼が演じる比較的裕福な日本人が、孤独で本と猫を愛する管理人の老女(ジョジアーヌ・バラスコ)を食事に誘い、みずからラーメンとギョーザを作る。このシーンが決して不自然には見えないところに、在欧経験の長い伊川東吾のアドバイスが生きていると思う。話が横飛びしてしまったが、『Le hérisson』にも、ウォッシュレットのトイレが一つの重要な小道具として登場していたので、思い出したのである。
(ショウゲート+スールキートス配給)


2010-05-25
●ヤギと男と男と壁 (The Men Who Stare at Goats/2009/Grant Heslov)(グラント・ヘスロヴ)  

◆すっとぼけた感じが実にいい。ただ、こういうアイロニーやユーモアは、いま風ではないのかもしれない。IMDbの評価が意外と低かった。でも、わたしは、こういうのが好きだ。主役にちかいジョージ・クルーニーは、この種の政治がらみのアイロニーが好きなのだと思う。『ピースメーカー』はちょっとかっこよすぎたが、『シン・レッド・ライン』では、批判されるべき側の軍部の高官を演じ、『』では、この映画と似たアイロニーを共有、みずから総指揮をした『シリアナ』はまさに政治的アイロニーの映画、みずから監督を見事につとめた『グッドナイト&グッドラック』、『さらば、ベルリン』も『フィクサー』も『バーン・アフター・リーディング』も、政治的アイロニーが色濃く、『マイレージ、マイライフ』は、きわめて自虐的な人物を演じた。
◆すぐれていると思うのは、この映画でとりあげられるほとんどすべてのことのなかにアイロニカルな「距離」を挿入している点だ。それは、キャスティングにまで及んでいる。ベトナム戦争で、攻撃しても全然弾が当らないベトナム人の兵士を見て、非暴力こそ最大の戦力だという「啓示」を受けたビル・ジャンゴという男は、最初姿をあらわしたとき、ジェフ・ブリジスとはわからないような小太りの親父を演じているが、米国に帰って、その「啓示」を実践していくにつれて(時代の影響もあり)どんどんヒッピーっぽくなっていき、なんだジェフ・ブリッジスだったのかといいう感じをあたえるように作っている。『ビッグ・リボウスキ』や最近の『クレイジー・ハート』で、ヒッピー・カルチャーの影響が抜けない男を演じていまや彼の右に出る者がいないという映画的記憶(先入見/ドクサ)をうまく利用している。
◆ビルがリーダーになって米軍内に秘密裏に進められたのが「ジェダイ・プロジェクト」で、かねがね軍のなかで超能力を発揮していたリン・キャシャディ(ジョージ・クルーニー)(彼がコンピュータのそばを通ると、画面が崩れてしまう)がオルグされるのだが、彼にインタヴューを試みて、その結果、ビルとイラクまで行ってしまうのがユアン・マクレガー演じるボブ・ウィルトンというジャーナリスト。周知のように、ユアン・マクレガーは、『スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス』、『スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃』、『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』の3作で、「ジュダイ」の一人を演じていた。そのため、これは、フザケすぎではないかという意見もある。
◆スプーン曲げの超能力があり、「ジェダイ・プロジェクト」のリーダー、ホスグッド将軍に取り入り、めきめきと頭角をあらわす嫌な奴ラリー・コーパーを演じるのが、ケヴィン・スペイシー。この人は、何をやらせても猛烈うまいから、この山気たっぷりの男を見事に演じるが、『ライフ・オブ・デビッド・ゲイル』で演じた屈折した人格を思い出し、憎いキャスティングだなと思った。こいつが、ビルをプロジェクトから追い出すことになるが、イラク戦争の時代になって、ビブとリンが再会したときには、ビルを雇って心理操作作戦(ラジオ局もある)の戦争株式会社のトップにおさまっているというのもアイロニー。いまや、戦争は、民間委託であり、イラクでもアフガンでも、民間戦争会社に雇われた新「傭兵」が「お国のために」戦っている。
◆この映画のなかで、「ジェダイ・プロジェクト」というのは、米軍が偽装プロパガンダとして似たようなプロジェクトを立ち上げたことをソ連に向けて(単なるプロパガンダとして)宣伝したところが、ソ連がそれを本気にし、サイキックな戦術の本格的な研究と実験をはじめ、逆に米軍は驚いて、あわてて自分のほうでもその方向でのプロジェクトを開始したという話が出てくる。これは、ある点まで本当らしい。たとえば、ラリーが関わったというCIAの「MK-UL TRAプロジェクト」(Project MK-UL TRA)というのがあり、リンが見せる「遠視」(リモート・ヴュー)や「念波」のような実験とか、実際にこの映画の話のようにヤギを殺すトレーニングを受けた兵士などもいたらしい。ちなみに、キリスト教的「常識」では、ヤギは、「悪魔」つまり反キリストのシンボルである。
◆CIAや米軍の秘密戦略に関しては、膨大な資料があるが、日本語の文献でも、大分まえに翻訳されたマーティン・A・リーとブルース・シュレインの『アシッド・ドリームズ――CIA,LSD,ヒッピー革命』(越智道雄訳、第三書館、1992)は、主として薬物の面でのアプローチではあるが、サイキックな意識操作(感覚破壊、睡眠学習、ESP、潜在意識に訴える映像投射、エレクトロニクスによる頭脳刺激、人為的とわからない形で心臓発作やガンを引き起こす化学薬品の開発、磁場、超音波振動、光線エネルギー等による頭脳操作・・)の雰囲気の一部をつかむうえでなかなかいい本だ。その「プロローグ」で次のように言われているが、これは、時代が変わっても続く権力の皮肉であうる。
マリファナ、コカイン、ヘロイン、PCP,硝酸アミル、茸、DMT、バルビツール、笑気ガス、スピードその他のいろいろの、1960年代に闇市にでまわったドラッグのほぼすべてが、実はすでにCIAや陸軍の科学者の手で詳細に研究され、そのいくつかは実際に精製までされていたことがわかった。
LSDの中心的な皮肉は、それが武器と恩寵、精神を支配するドラッグと精神を拡大するドラッグという、それぞれ正反対の道具として使われたことだろう。ふたつの可能性は、ともにそれぞれにユニークな歴史を生み出した。いっぽうでは、CIAと軍の幻覚剤実験に根ざした秘密の歴史、他方では、1960年代に爆発的に台頭したドラッグ・カウンターカルチャーの草の根的な歴史である。
◆ジョークだらけで、たとえば、ビルの秘密部隊で、パナマの独裁者だったマヌエル・ノリエガの存在を一人の超能力兵士の「遠視」でさぐるシーンがあり、そこでその兵士は、「アンジェラ・ランズベリーに訊け」と答える。実際に尋ねた結果、ランズベリーは「知らない」と答えたという落ちがある。ノリエガは、当時、CIAの捜査の目をかいくぐって、スラムに逃げ、手をやいたアメリカは、実際にこの映画のような「遠視」まで用いて調査をしたらしい。スラムに人が住んでいるにもかかわらず、ノリエガが隠れていると推定されるスラムに爆弾を落としたりもした。この個所は、ジョン・ロンソンの同名の原作では、「クリスティ・マックニコルに訊け」となっているのを映画では「アンジェラ・ランズベリー」に変更したという。クリスティ・マックニコルとアンジェラ・ランズベリの接点は、1984年から1996年まで続いたテレビドラマ「Murder, She Wrote」(殺せと彼女は書いた)の1988年シリーズの「Showdown in Saskatchewan」ぐらいしかないように見えるが、ノリエガ捜査の時点でアメリカでクリスティ・マックニコルがどのように受け止められていたのかをわたしは知らないので、なんともいえない。ちなみに、クリスティ・マックニコルは、「双極性障害」で現在あまり仕事が出来ないらしく、ある種の超能力があるという伝聞があったのかもしれない。なお、アンジェラ・ランズベリーならば、彼女は、上述のシリーズで作家として事件捜査の役割をし、また、朝鮮戦争時代に中国の捕虜になった米兵への洗脳操作のドラマ(冷戦時代の反共意識丸出しの)『影なき狙撃者』(The Manchurian Candidate/1962/John Frankenheimer)(ローレンス・ハーヴェイといういい俳優が出ていた)で陰謀の黒幕としての母親役を演じており、洗脳の歴史ともつながるのである。
◆ボブが無意識にメモにいたずら書きをしていて出来上がるピラミッドのなかに目がある絵(pyramid eye symbol)は、米ドルのなかにもプリントされているが、これは、フリーメイソンのシンボルだといわれてきたが、同時に、映画では、国際的な、そして長い伝統を持つ秘密組織のシンボルだという映画的記憶がある。したがって、この映画のなかで、ボブのメモのなかにこの絵を発見して、はっとするリンは、ボブとの深いつながりを感じるという設定である。ボブは、胸にこのシンボルを刺青している。
(日活 映画営業グループ配給)


2010-05-19
●ぼくのエリ 200歳の少女 (Låt den rätte komma in/Let the Right One In/2008/Tomas Alfredson)(トーマス・アルフレレッドソン)  

◆退屈な印象で始まるが、すぐに「異様」なシーンがさりげなく登場する。が、今度は「ボーイ・ミーツ・ガール」的な方向に転調し、学校でイジメを受けている少年オスカー(カーレ・ヘーデブラント)と、最近越してきたばかりの異邦人的な雰囲気の「少女」エリ(レイーナ・レアンデション)との淡(あわ)いラブストーリ的な展開になる。しかし、その流れは、彼女の驚くべき行動で凍りつく。何だ、この子は吸血鬼だったのか?!と思うわけだが、しかし、この想いも、やがて変わらざるをえなくなる。これは、単なる「吸血鬼もの」ではないことがわかるからだ。さんざん手を換え品を換えて引き出されたヴァンパイアーでも、なるほどこういう使い方があったのかぁと思わせると同時に、新しい「愛」の形に接して、感動を覚えるのである。
◆ヴァンパイアーは、男でも女でもよいのだが、この映画のエリの外観は「女」である。しかし、なかごろのとても美しいシーンで、彼女は自分で、「オスカー、あたしが女の子じゃなくても、愛してる?」と尋ねる。が、だからといって彼女は、「男」であるわけでもない。要するに、「人間」ではないから、「男」でも「女」でもないわけだが、より発展的な解釈を加えると、エリは、既存のジェンダー(「男」と「女」)、年令、場所といった境界線を越える存在なのである。そういう存在としてヴァンパイアーをとらえている点でも、この映画の潜在性は深い。ここで言う「潜在性」とは、映画の作り手たちが考えている以上の意味を作品から引き出せる幅と奥行きのことである。
◆エリが既存のジェンダーを越えている存在であるという意味では、試写で見たプリントで、エリがオスカーの家に行き、バスルームで服を着替えるとき、ドアを少し開けて盗み見るオスカーの目に、エリの裸体が見えるシーンにスクラッチの検閲的修正が入っていたのは、致命的だ。なぜなら、ここで一瞬映るエリの股間には、「男性」性器が「去勢」されたかのようなわずかの疵が見え、いかなる性器も否定されているからである。これは、全然「検閲」の対象にはならないはずで、このスクラッチは、理解に苦しむ。
◆エリを演じるリーナ・レアンデションは、映画出演はこれが初めてらしく、「1995年9月27日」生まれのスウェーデン人であることぐらいしかわからない。イスラム系の血を引いているという説もあるが、アップのショットでびくともしない貴族的な個性と存在感をたたえており、将来が楽しみな俳優である。なお、エリの性別・年令不詳という感じを出すために、この映画では、リーナの声(の一部?)が、中性的な声質を持つElif Ceylanという女優(1995~)によって吹き替えられているそうだ。
◆原題は、脚本も書いたヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストの原作小説にもとづいているが、"Let the Right One In" は、モリッシイのヒットソング "Let the Right One Slip In" へのオマージュだという。オスカーの両親は別居し、孤独な生活を送っている。学校でもイジメを受けている。エリは、ヴァンパイアーとして、人間界では孤立している。そういう二人の孤立者(ローナー)が、たがいに相手を自分の世界に引き入れるのだ。

    Let the right one in
    Let the old dreams die
    Let the wrong ones go
    They cannot
    They cannot
    They cannot do what you want them to do
    Oh ...

◆吸血鬼の血生臭い行為と流れる血がかえって「暖かさ」(血の?)を感じさせるのは、雪の深い時期のスウェーデンの郊外の雰囲気と、のんびりしているようで陰惨なイジメ、狭いコミュニティーでもどこか陰険な住人、会ったときには優しくしてくれる父親だが、同性愛的な友人がいて、オスカーには入り込めないところがある・・・といった孤立的環境とが、生々しい肉と血の温度でバランスを保たれるからだ。なお、このドラマの時代設定は、映画にちらりとソ連のブレジネフ書記長(スターリニズムの最後の継承者)の写真が映るように、1981年、スウェーデン南部の港カールスクローナ近くの軍事立ち入り禁止区域にソ連の原子力潜水艦が座礁事故を起こし、西側に属するスウェーデンと東ブロックとのあいだに緊張が走った時代だ。当然、人々の気分も、いまの時代ほど解放されてはいなかった。
◆エリに噛まれた女が、猫に敵視され、集団でからまれるシーンや、窓から射し込む光で「昇天」してしまうシーンは、決して「高価」な映像を使っているわけではないのに、妙にインパクトがある。それは、最後の方のプールでオスカルがイジメられる、エリに「救出」されるシーンについてもいえる。「安い」のだけれど、感動的なのだ。
◆オスカーは、隣のアパートメントに越してきたエリと知り合い、モールス信号を教える。無線を使うわけではなく、壁を叩いてモールス信号で意思を伝えるなんて、実に孤独な話である。が、二人が得たこの通信方法が、最後のシーンで実に効果的に使われる。列車のコンパートメントの座席に座っているオスカー。「トントン」という音がして、そのあと何かをこする「スー」という音、それからまた「トントントン」という音が二度聞こえる。すでにわれわれは、モールス信号が「トントン」という音と「延ばす」音できているのだとオスカーがエリに教えるシーンを見ている。わたしは、昔、モールス信号を少し習ったので、わかるが、最後のシーンで最初に聴こえるのは、モールス信号の記号に換えて記述すると、「・・―― ・・・ ・・・」で、アルファベットの「USS」を意味する。この音に応えてオスカーが出すのは、「・―― ―― ・ ・・―― ・・・ ・・・」つまり「PUSS」で、これは、スウエーデン語の「kiss」の意味である。このやりとりで、二人がどうなったのかがすべてわかる仕掛けになっている。見事なエンディングだ。
(ショウゲート配給)


2010-05-18_2
●ペルシャ猫を誰も知らない (Kasi az gorbehaye irani khabar nadareh/No One Knows Persian Cats/2009/Bahman Ghobadi)(バフマン・ゴバディ)  

◆映画のなかに「ペルシャ猫」は出てこない。タイトルは、世界で一番高価な部類に属するペットなのに、ペルシャ(イラン)では「誰も知らない」ペルシャ猫に寓意して、欧米の音楽シーンを凌駕してもいるイランの現在進行中の音楽活動、さらにはイランの街の人々全般の現状のことを指す。ミュージック・ビデオとして見ることもできるし、バンド公演を実現しようと虚しく奔走する若い男女のドラマとしても、現在のイランの社会文化状況を垣間見させるドキュメンタリーとしても見ることができる、多重的な作品。
◆『亀も空を飛ぶ』で、制約の多いイランにもまだ「自由」ないしはポジティヴな生き方の可能性があるということを示したバフマン・ゴバディ監督は、次作の『Half Moon』が政府の検閲を受け、以後映画製作の道を絶たれてしまった。あれだけの柔軟性を示したのにという思いがある彼は、イランを捨て、国外に出た。
◆アッバス・キアロスタミのもとで『風が吹くまま』の助監督をしたことがあるゴバルディが今回採用した技法は、キアロスタミが、『桜桃の味』で行なった技法である。すなわち、「主人公とともに移動するカメラがドラマを作りながら、同時にイランの日常的現在を見せてしまう」というやり方である。まあ、ある種の「隠し撮り」だが、すでに彼らは、そうした技法を「伝統」にしているわけである。そのやり方は、冒険的な「盗撮」一辺倒ではなく、適度にドラマ的な撮影方法をバランスする。たてえば、車を走らせていると警官に停止を命じられ、乗せていたペットの犬(イランでは禁止だという)を奪われるシーンでは、警官の姿は写さない。明らかにそれまでのシーンを撮っていたカメラは、警官を写せるはずだが、それをしないのは、警官を写すことができないからではなく、そうすることによって、かえって警官の抑圧性が倍加するからである。ドキュメンタリー的要素とフィクションとの要素がシームレスにつながりあう見事な(音楽的な)スタイルが確立されている。
◆イランの多彩なインディ音楽シーン(ノイズはなかったが)をたっぷり堪能できるだけでなく、車窓から見える街の風景のなかから引き出せる(スパイなら多くの情報を読み取るであろう)さまざまな記号、ネガル・シャガキとアシュカン・クーシャンネジャードの二人が計画している(嘘か本当かはわかなない)ロンドンでの公演を実現させるために奔走し、街を移動する「ドラマ」のなかでちらりと出て来るさまざまな物=記号。たとえば、ネガルが、自分のアパートメントで読んでいる本の表紙には、フランツ・カフカの肖像写真が見える。アラビア文字がわからないので確実なことは言えないが、おそらく『変身』だろう。ページにカブト虫の絵が見え、それを彼女が写したらしいノートの紙切れも見える。カフカとは、非常に示唆的である。細部をもっとチェックしたい映画だ。
(ムヴィオラ配給)


2010-05-18_1
●小さな命が呼ぶとき (Extraordinary Measures/2010/Tom Vaughan)(トム・ヴォーン)  

◆「ポンペ病」という生命に関わる「奇病」の一つにかかっているわが子二人を救うために、父親(ブレンダン・フレイザー)が、その分野で傑出した理論を提出している学者(ハリソン・フォード)を発見し、助けを求める。気難しい男であるストーンヒル博士は、「わたしは研究者であって、医者ではない」と言い、依頼をはねつけるが、提示した金額に興味を示し、常識では想定外の計画を持ち出す。それは、ポンペ病の治療薬の会社を立ち上げてしまおうというもの。フレイザーとその妻(ケリー・ラッセル)はそれをのみ、治療薬の開発にまでこぎつけるのだが、映画としては、その会社の立ち上げの過程、フォードの偏屈さでこじれる関係、巨大製薬会社との合併(身売り)、そこから生じる親会社の官僚的な幹部(これも博士)(ジャレッド・ハリスが嫌味な感じをたくみに出す)との小競り合いといった、企業ドラマとして見たほうが面白い。最初は、家族を思う父親(ブレンダン・ブレイザー)の努力のプロセスがよく描かれるが、途中から、ヴェンチャービジネスとのやりとりの話になり、一方はパーソナルな話、他方が政治的な駆け引きの話なので、トーンが分裂してしまう。ここがこの映画の問題。
◆ある意味では、「感動的」このうえない物語なのだが、どこかに違和感が残るのは、この映画の話が、わが子への親の「自己中心的」な愛(親というものはみなそうなのかもしれないが)と、自分の研究を達成したいという研究者の「私欲」(強欲にも見える)がモチベイションになっているからだ。自己中心主義も、極まれば、万人を助けるのかもしれないし、家族はそういう「愛」によってしか維持できないのかもしれないし、大事業を達成するには、どのみちそうした私的モチヴェイションなしには不可能なのだとしても、それをあたかも「美談」であるかのように描かれると、うんざりする。
◆フレイザーは、自分の会社を作るために、それまで勤めていた大企業を辞める。その意志を聞いた妻は、保険が得られなくなることを恐れ、反対する。アメリカで企業などの組織への帰属を失うと健康保険の保証がなくなる。だから、会社を辞めるということは、家族の健康を危機にさらすことになる。国民健康保険がある国とはちがう。だから、この映画も、そういう文脈のなかで観なければならないのだが、それでも、原題の「extraordinary」という言葉が含む両義性(「普通」を越える/「とてつもない」←→常識はずれの、異常な)の後者の意味を強く感じてしまうのは、出演者のイメージによるところも大きいし、演出の仕方にも原因がある。
◆ポンペ病にかかりながら、車椅子で積極的に生きる娘役のメレディス・ドローガーは、なかなかの熱演で、10年まえのダコタ・ファニングの才能を思い出させるような面がなくもないが、それが、映画の根底にある「利己主義」的傾向のために、「小生意気な娘」にしか見えない。最初から、ビジネスの話として描き、そこから家族の救済、ポンペ病の治療薬の開発による社会貢献といった側面をつつましく浮かびあがらせるようにしたほうがよかった。
(ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給)


2010-05-13
●セラフィーヌの庭 (Séraphine/2008/Martin Provost)(マルタン・プロヴォスト)  

◆この映画は、セラフィーヌ・ルイという実在の人物を比較的事実に忠実に描いているといわれるが、事実は知らなくても、ヨランド・モローのまさに入魂の演技によって、一人の天才的人物がどのように魂を突き動かされて絵を描き、そしてこちらも凡百ではないアート・コレクター、ヴィルヘルム・ウーデ(ウルリッヒ・ドゥクール)に出会い、世に知られるようになり、さらに時代の波にもまれながら、晩年を送っていくかが、観る者の心をゆさぶる。その際、何といっても、ヨランド・モローの演技に負うところは大きい。彼女が出演しているはずの作品(『最後通告にも出ているという)はほとんど観ているのだが、最近見た『ミックマック』(Micmacs à tire-larigot/2010/Jean-Pierre Jeunet)でブレヒトの「肝っ玉おっ母」風の役を演じていたが印象に残ったぐらいで、鮮烈な記憶には残らなかった。こんなに凄い女優だとは思わなかったのである。
◆ヨランド・モローが演じる「セラフィーヌ」が実物と似ているかどうかよりも、彼女が初めて表情を見せる教会でのシーンから、最後の(宣伝チラシのイラストにもなっている)大木に歩いていくまえのシーンにいたるまで、終始その目が、ある意味で「来てしまっている」人の目なのである。普通、俳優はそれなりの「学」があるわけだから、126分ものながい時間、表情をさらしていると、少なくとも目のなかにちらりと登場人物とは異質の「知的」な要素とか、あるいは逆に登場人物にはあっても、その俳優にはないものが露見したりするのだが、ヨランダ・モローの目は、最初から最後まで、この映画で設定されている人物の世界をはずれることがない。これは、驚くべき演技である。
◆アーティストにとって、その才能に関心を持ち、その才能を見出し、支援してくれる人ほど重要なものはない。ユニークなものを表現し、それを何らかの形で公開していれば、誰かが関心を持ってくれる可能性はある。しかし、その関心が創造的な形で持続し、広がるかどうかはわからないし、そういう方向で関心を持ち続けてくれるような支援者はめったにいない。また、同じ才能の持ち主でも、そういう人に出会うかどうかでその人生も変わる。セラフィーヌにとってウーデは、まさにそういう人物だった。ブラックやピカソと交流があり、アンリ・ルソーの発見者の一人であった彼に見出されたことは、幸運だった。その出会いは、極めて偶然的であったと映画は描く。ウーデがたまたまパリの北方50キロに位置するサンリスで「隠遁生活」を送り、セラフィーヌの絵を目にすることがなかったら、彼女の名が美術史に残ることはなかっただろう。映画では、邸宅の持ち主のデュフォ夫人(ジェヌヴィエーヴ・ムニシュ)が、ウーデを著名な「画商」と知り、地域の画家たちを集めてディナーパーティをしたとき、たまたま夫人がセラフィーヌの絵(板に手製の絵の具で描いたもの)を部屋の片隅に置いておき、ウーデがそれを偶然目にするという風になっている。この「劇的」な発見のシーンは、(映画ではありがちなパターンだとしても)なかなか「感動的」である。
◆どんなにすぐれた理解者や支持者に出遭っても、世に出たい、人に知られたいという意志がなければ、有名にはならない。本人にその気があるから、支持者のサポートを得て、飛躍できるのだ。その意味で、セラフィーヌには、そうしたある種の「野心」はあった。ただ、それが、彼女のキリスト教的「執心」(ある種の妄想)と一体になっており、ウーデが彼女の個展の開催を約束したときのまいあがり様は、いわば神の光を浴びたかのようになるわけだ。だから、個展の当日、世界中の天使が天から降りて来ると信じ、真っ白な花嫁衣裳のようなものを特注したりもする。
◆何かを達成するためには、何らかの「妄想」がなければ不可能だ。ある意味で、誰でもがその内に「妄想」をかかえている。それは、ときに「信仰」と呼ばれることも、「執着」や「欲望」と呼ばれることもある。しかし、「妄想」なしに創造できたり、愛のあるコミュニケーションを達成できるのにこしたことはない。「達成」とは、基本的に無理をすることだ。セラフィーヌは、「妄想」のなかで描きつづけ、描きあがった絵のかたわらで気絶したかのように眠りこける。ドアの外には、「仕事中につき誰にも会えません」というカードが下げてあり、夜を徹して絵に没頭するのだ。没頭は、天才の一つの条件である。が、当然、その代償は生まれる。
◆第一次世界大戦の勃発で高まったフランス国内でのドイツ人憎悪の波を逃れて、ウーデ兄妹はサンリスを脱出する。セラフィーヌとの出会いは短期間のものになってしまった。その別れのシーンもとても感動的に描かれている。が、偶然の女神は再度微笑む。基本的にドイツが嫌いなウーデは、1920年代にまたパリに居を構え、コレクターとしての活動を始める。彼は、妹のアンヌ・マリー(アンヌ・ベネント)とドイツ人の若い画家のヘルムート・フォン・ヒューゲル・コーレ(ニコ・ログナー)と3人で広大な屋敷に住んでいる。コーレは彼の同性愛的恋人であった。そういう生活のなかで、兄がかつてセラフィーヌを高く評価したことを覚えていたアンヌ・マリーが、サンリスでローカルな画家たちの展覧会が開かれるニュースを新聞で見て、兄に告げる。ヴィルヘルムは、しかし、「彼女はもう死んでいる」と最初はとりあわないが、結局は自家用車を走らせてサンリスにおもむく。そして、またしても劇的な再会が起こる。このあたり、メロドラマ的に描けば白々しくなるが、抑えた大人の描き方で納得させる。
◆その間に歳もとり、掃除婦としての仕事が出来なくなったセラフィーヌは、食べるのにも困る生活をしながら、絵を描き続けていた。いまや、ヴィルヘルムの全面的なパトロネージュを得て、セラフィーヌは、おそらく彼女の人生で最も幸せな時期を迎える。が、それは長くは続かない。1929年の世界大恐慌のあおりを受けて財産を失ったウーデは、約束した個展を開けなくなる。失意のなかでセラフィーヌがもともと持っていた精神の病をエスカレートさせていくプロセスを表現するヨランダ・モローは、文字通り「入ってしまっている」感じだ。
◆ヴィルヘルム・ウーデがセラフィーヌを最期まで世話をしたかどうかについては異論がある。が、映画は、彼が彼女の病に対して最高の癒しをあたえたという風に描かれる。彼がアレンジした個室に移されたセラフィーヌ(ヨランダ・モリーによるその目つきの演技を見よ)が放心したようにドアーの外に出ると、椅子がある。それは、かつて、ヴィルヘルムが彼女にその才能を納得させたときに座らせたのと同じ椅子である。彼女はそれを下げて広大な土地の庭を歩いて行く。向こうには巨大な大木が見える。圧倒するシーンである。おそらく、彼女が背負っていたような精神の病は、「矯正」するやり方では直ることはむろんのこと、癒されることすらないだろう。この映画が見せる精神病院は、刑務所と同じ雰囲気である。それは、閉じ込め、型を強制する施設にすぎない。が、その人間がもともと慣れ親しんだ場所やものたちのもとにもどすことは、いくばくかの癒し効果があるかもしれない。セラフィーヌにとって、最も慣れ親しんでいたのは、木々が生い茂る場所であり、大木と戯れることだった。
(アルシネテラン配給)


2010-05-12
●ザ・ロード (The Road/2009/John Hillcoat)(ジョン・ヒルコート)  

◆『9 ナイン ~9番目の奇妙な人形~』、『ザ・ウォーカー』とたてつづけにポストアポカリプスものが封切られることになったが、「地球温暖化」の「危機」がマスメディアで浸透するなか、アジアではスマトラ島沖地震 (2004年)、アメリカでは「ハリケーン・カトリーナ」(2005年)、ヨーロッパでは「アイスランドの火山噴火」(2010年)とアポカリプス・ムードがいやましに高まり、「文明」後の「荒廃した地球環境」を映像にすることが売りになっている。しかし、わたしの考えでは、破滅が来るとしても、それは、(そのときには「破滅」へ向かうとは認識されないほど)非常に緩慢に、何百年、何千年もかけて来るのだと思う。何百年、何千年もかけて進む「終末」のなかで、現在の家族や都市や国家の形態が徐々に消えて行くから、最後の「終末」の瞬間は、それがあたかもあたりまえのように感じられ、誰もそれに気づかないだろう。ある種の自然な衰弱萎縮である。が、それではドラマにはならないから、映画も小説も、劇的な「終末」が来てしまったところから始まる。
◆冒頭、郊外か田舎の家には花が咲きほこり、馬もいる。男(ヴィゴ・モーティセン)は妻(シャリーズ・セロン)と平穏な生活を送っていたらしい。が、ある日、目を覚ました男は、窓外の異様な事態に気づく。カーテンの隙間から火が見え、人の騒ぎ声がする。そして、映画は、すでに破滅の危機に瀕している「現在」に移る。最初のシーンは、荒地に息子(コディ・スミット=マクフィ――おもかげがセロンによく似ている)と横たわる男の記憶のフラッシュバックだった。のちに何度も夢やフラッシュバックの形で示唆されるように、すでに終末が訪れはじめている状況で、妻は子供を生みたがらなかったが、男が強く望み、その子が生まれたこと、のちに妻はいずこかに去り、父子が二人だけで逃亡の旅に出たことがわかる。この映画は、コーマック・マッカーシーの原作(黒原敏行訳、早川書房)にもとづいているが、原作でも、なぜアポカリプスが訪れたかについては明記していない。自然破壊によるのか、地球環境全体を破壊するような強力な核爆発事故や戦争によってなのか? モーティセン親子が出会い、一夜をいっしょに明かす老人(ローバート・デュヴァル)は、「こういうことが起こる警告があった」と言う。しかし、彼も誰も、その厄災への準備はできなかったし、しなかったのだ、と。
◆なぜ、母と息子ではなくて、父と息子なのかは、時代の係数がからんでいると思う。いまの時代、アメリカでは、母親の力は以前より弱くなっている。逆に家庭内での父親の存在意味が以前より見直されている。父子のシングルファミリーも増えた。この映画では、母親(シャリーズ・セロン)は、これ以上、生き延びることに希望を持たなくなり、絶望的な死を選んだように見える。少なくとも、家にいれば、人間狩りに狂った者たちの犠牲にあう可能性が高いので、家を出なければならないわけだから、家を単身出るということは自殺行為なのである。が、彼女がどう考えたかは、あまりはっきりとは描かれない。この映画は、基本的に父子の映画である。
◆自然環境が悪化し、食料が底をついたとき、人は人間を殺して食うようになるだろうか? 自分を襲おうとする者を殺さざるをえなくなるだろうか? 親は子供を守れるだろうか? 子供を守るために相手を殺したとすれば、その現場を見た子供はどういう感情・観念を持つだろうか? 世の終末と人々が殺しあう修羅場を見てしまった子供はどういう人生観を持つだろうか? 映画は、こうした問いを、教育的な意識を感じさせずに問い、それらの答えは保留する。モーティセンが演じる父親は、肉体的にも決して強靭な男ではない。そうした弱さとあいまいさが、この映画のいいところであり、弱いところでもある。
◆逃げることがメインのこの二人にも、いくつかの息抜きのシーンがある。一つは、放置された自動販売機に残っていたコカコーラを1本手に入れ、飲むシーン。アメリカ人はこのシーンを見て泣くだろう。もう一つは、防空壕のようなものを見つけ、入ってみると、さまざまな缶詰や保存食品があるというシーン。しかし、全体としては、親が子にしてやれることは少なく、他人を信じないこと、自分だけを信じること、襲われたときに自殺する方法を教えることぐらいしかない。
◆夜の草むらで父親が息子に読んで聞かせる本は、"If you flicked your tongue like a chameleon" というフレーズから判断するに、David Schwartz著、James Warhol Aのイラストレイションによる『If You Hopped Like A Frog』だと思う。
◆ニック・ケイブが音楽を担当していることをエンドロールで知ったが、エンドロールの一番最後に流れる、人声を使ったサウンドスケープ的な音が新鮮だった。これもニック・ケイブの制作か?
(ブロードメディア・スタジオ配給)


2010-05-06_2
●マイ・ブラザー (Brothers/2009/Jim Sheridan)(ジム・シェリダン)  

◆この作品は、2007年にデンマークのスサンネ・ビアが監督した『ある愛の風景』のリメイクである。前作では、アフガニスタンに派遣され、「死亡」する兄の不幸は、突如やってくる形で描かれた。美しい妻と子供二人の家庭は、銀行強盗をやって刑務所から出てきたばかりの弟トミーの問題はあるものの、なんとかやっていけそうな雰囲気で始まり、突如、不幸が始まり、エスカレートして行くのだった。が、本作では、兄のサム(トビー・マグワイア)は、最初から「遺書」を書いている。アフガニスタンから生きて戻れるかどうかはわからないという雰囲気である。これは、2年まえのデンマークではまだしも、「対テロ戦争」なるものの虚しさと悲惨さとを身をもって知ることになったアメリカでは、ごく自然の現実だからである。だから、出征の前日、妻のグレース(ナタリー・ポートマン)の笑顔もわざとらしいし、彼の下の娘イザベル(ベイリー・マディソン)は落ち込んでベッドにもぐり込んでいる。
◆前作は、「不幸」な出来事によって翻弄される家庭、兄弟と夫婦関係が、その危機からどのように(一応の)平静を保つにいたるか見せたが、本作の最後は、むしろ、彼らは果たしてこの先うまくやっていけるのだろうか、という不安を残して終わる。それは、サムの戦地での恐怖の体験が、彼をまるで別人のようにしてしまい、その後遺症がかぎりなく深いからである。彼は、もともとプロの軍人であるから、人を殺すことを学び、それに習熟しているはずである。が、そうした能力を極限的に発揮せざるを得ない限界状況に追い込まれたとき、人間はどうなるのか? 友情はむろんのこと、夫婦やや兄弟との関係は、意味を持つのか? 出演者たちの演技やディテールの描写においてスサンネ・ビアの前作はなかなかのものではあったが、そこでは、家族という存在に対し、まだ幾分かの期待が残っていた。それに対して、ジム・シェリダンの本作は、むしろ、家族という存在がぎりぎりのところに立たされ、もうその先には、孤立した人間を幾分かでも救い、癒す場としての力が残ってはいないのではないかという不安を感じさせる。
◆ある意味で「狂って」行くサムという人物をトビー・マグワイアは、鬼気せまる演技で演じている。それは、へたをするとスリラーになってしまうぎりぎりの演技であるが、その「過剰」さが独走してしまうのを、弟役のジェイク・ギレンホール、妻を演じるナタリー・ポートマン、父親役のサム・シェパードらが防いでいる。
◆ナタリー・ポートマンが演じるグレースは、16歳のときからサムとつきあっていて、そのまま結婚し、軍人の妻として「破綻のない」生活を送ってきた女性である。義弟が犯罪者となったときは、「破綻のない」とは言えない経験をしたかもしれないが、いずれにしても、夫のことで追い詰められるような経験はなかったはずだ。若いときは色々あったかもしれないが、結婚後は一筋に生きてきたような女性である。そういう役をナタリー・ポートマンが演じるのは、いささか「完全犯罪」の趣もあるが、夫の「死」が伝えられ、トミーが次第に心の支えになって行ったある日、彼にマリワナを薦められ、一瞬躊躇しながら、「わたしだってむかしは・・・チアガールやってたし・・」というようなせりふを言うときのさりげない変貌の演技は、ポートマンならではのものである。ポートマンは、「軍人の妻」のリサーチ入念にやったらしい。「破綻なく」生きてきた女性が、予想外の事態に直面し、追い詰められる女の演技は、なかなかのものであった。
◆前作を一部分踏襲してはいるが、長女のマギー(テイラー・ギア)の誕生パーティーでサムがキレるシーンは、前作とは比較にならないほどテンションが高い。マディソン家の人々が集まり、トミーが連れてきた女性(キャリー・マリガン)が加わって、食事をしていると、次女のイザベルが、風船を手でギシギシ言わせはじめる。母親は注意をするが、彼女はきかない。すでに「普通」ではない表情のサムの表情がみるみるけわしくなっていく。前作では、個々の人物を個々のショットで描いていた。本作では、個々の出演者が同時にそれぞれの演技をしながら、その場がある種の「破局」に向かって行くアンサンブル・プレイとして描かれる。これは、はるかに凝った演出だ。ここでは、イザベル役のベイリー・マディソンが猛烈な演技を見せるが、彼女だけでなく、すべての出演者が最高の演技を見せている。
(ギャガ配給)


2010-05-06_1
●華麗なるアリバイ (Le grand alibi/2008/Pascal Bonitzer)(パスカル・ボニゼール)  

◆不遜にも、わたしは、アガサ・クリスティの小説を面白いと思ったことはあまりない。それは、彼女の原作にもとづく映画がつまらなかったからかもしれない。いや、こういう言い方も映画のアガサ・クリスティ・ファンには不遜であろう。全部原作を読み、映画を見たわけではないのだから。が、映画に登場する探偵エルキュール・ポアロで映画的に傑出した印象を残した例はあっただろうか? どいつもこいつも、みな作りものめいていなかっただろうか? いや、これも、その一部しか見ないで結論を出す不遜な意見だろう。
◆この映画は、クリスティの「ホロー荘の殺人」にもとづくらしいが、原作には登場する探偵ポワルは出てこない。それは、わたしには救いだった。が、それにもかかわらず、この映画からは、アガサ・クリスティ臭がぷんぷんして、結局、楽しめなかった。おそらく、わたしがアガサ・クリスティが好きになれないのは、その登場人物のあつかい方やとらえ方に「フロイト主義」的なところがあるからではないかと思う。この映画で主要な登場人物を演じるピエール・コリエ(ランベール・ウィルソン)が精神科医であるのは、偶然ではない。精神科医といっても、フロイト主義者ばかりではないが、この人物は、最初から、ソファー(フロイト主義的医師が使う寝椅子)に寝そべってケータイをかけている姿で登場することからもわかるように、映画は、この人物をフロイト主義の精神科医として描いているわけである。
◆最近は、アガサ・クリスティから「ポワロ」や「ミス・マープル」を取り除くのが流行りだそうで、映画では、パスカル・トーマスが「Mon petit doigt m'a dit...」(2005) と「L'heure ze'ro」(2007) でそういう解釈を試みているという。
◆とはいえ、自分が女にもてるという自信ないしはパラノイアと一体になっている胸糞悪いこの精神科医をランベール・ウィルソンがなかなか嫌味たっぷりに演じ、そのあげく、何者かに殺されてしまうのだから、この映画は、フロイト主義者を肯定しているのではなくて、むしろ否定しているととることもできる。起こった殺人事件の犯人が探偵によって解き明かされるというのは、いかにもフロイト主義的精神分析の手口であり、その殺人は、最初から「あるべからざること」として前提されている。が、この映画では、殺人は、必ずしも否定されない。あいつなら、殺されても仕方がないかといった趣きで描かれる。これは、なるほど、クリスティの解釈としては新しい。
◆しかし、にもかかわらず、アガサ・クリスティはアガサ・クリスティである。この映画は、フロイト主義は否定しながらも、ネオ・フロイト主義、つまりはラカン主義でアガサ・クリスティをとらえなおしている。わたしがここで言う「ラカン主義」とは、かのジャック・ラカンを深くとらえた末でのラカン思想ではなくて、一般に流布した「ラカン思想」である。それを要約している本があるので、引用しておこう。ディラン・エヴァンスは、『ラカンは間違っている』(桜井直文監訳、冨岡伸一郎訳、学樹書院)のなかで、ラカンの基本思想には「鏡像段階」と「象徴秩序」と「知っていると想定された主体」との3つがあると言い、最後のものに関し、こう言う――「精神分析医は《自身》を、患者の言葉の隠された意味を暴くことができるエキスパートと考えてはいけないが、《患者》は、「精神分析医はそれができる」と考えるべきであると、ラカンは考えていた。つまり、精神分析医は全知全能でも、秘密の知識を持っているわけでもなく、患者によってそうした知識を持っていると単に「想定され」ているに過ぎない。治療を続けるうちに、患者はそれがただの思い込みであったに過ぎないと気付き、つまり、「想定を解 de-suppose」き、精神分析を信頼しなくなる。このプロセスこそが、精神分析による治療のすべてなのである」(p.10-11)。
◆フロイト主義もラカン主義も、問題なのは、どんなに錯綜した複雑な問題も、「そうだったのか!」と「納得」してしまうようなある種の単純化を行うからだ。それらは、決して、複雑さをより複雑なものに導くようなことはしないし、複雑さをそのままにもしない。それらは、基本的にある種の「マインドコントロール」なのである。映画をフロイト主義的に論じた文章は数かぎりなくあるが、最近日本でも公開された『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』(The Pervert's Guide to Cinema/2006/Sophie Fiennes)は、「ラカン主義者」と公言する主演のジジェク自身による「ラカン主義」的映画分析の好例である。が、これは、文章ではなく、映画講義であるという点で、文章によるフロイト主義やラカン主義の映画分析の陥穽をまぬがれている。ラカン自身、座談の名手であったように、ジジェクは、高邁な知的法螺話/はったりの名手であり、その見事な「法螺」演技が150分もの長きにわたって披露されるは、一つの快楽である。
◆この映画に登場する女性たちは、みな、かつては精神分析医ピエール・コリエを「信頼」し、「愛し」た、ある種の「患者」であり、自分がもてると自尊しているピエールは、彼女らを自由にあやつっていると妄想してきたが、この映画のプロセスは、それが「de-suppose」していくことを描く。彼が精神分析医でありえたのは、むしろ、強烈なイタリア系女優のレア(カテリーナ・ムリーノ)やアーティストのエステル(ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ)であり、謎めいた82歳の記憶障害の老女ジュヌヴィエーヴ(エマニュエル・リヴァ)であり、銃の収集マニアで政治家のアンリ(ピエール・アルディティ)の妻エリアーヌ(ミュー=ミュー)によってなのである。銃のコレクターというのも「病気」であるが、ナルシストでアル中の作家フィリップ(マチュー・ドゥミ)などは、典型的な「フロイト主義的な症例」を絵に描いたような「患者」である。
◆ディラン・エヴァンスによると、ラカンの「患者は、辛い幻滅のプロセスを経験することができ、それによって、人生の鍵を握るのは他の誰でもない自分であるということに気付く」のだというが、この映画の登場人物たちに何が起こるかといえば、たかだかそういうことなのではないか? まあ、その意味では、これまでのアガサ・クリスティものにくらべて、登場人物の一人ひとりに奥行きがあり、その人数分の映画ができることを思わせる一方、どの登場人物もみな中途半端にしか描かれていないという印象を残しもするのである。
(アルバトロス・フィルム配給)


リンク・転載・引用・剽窃自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート