粉川哲夫の【シネマノート】
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4月公開作品短評
★★★★★ 悲しみのミルク (ネオ・スロームービー風の展開だが、思わせぶりな印象をあたえないのは、舞台になるペルーのリマ郊外、パチャカマの風物と風俗の存在感である)。
★★★★★ SOMEWHERE/サムウェア (【ノート】←『ロスト・イン・トランスレーション』との照応関係が、マンネリを感じさせるよりも、共鳴効果を発揮している。ソフィア・コッポラ自身の経験と、いま深まりつつあるアンニュイな空虚感がいい。ナルシシズム文化はとうに終わったのにという批判もあるが、ソフィアはこれで行けばいい)。
★★★★★ ザ・ライト エクソシストの真実 (【ノート】←バチカンのカリキュラムにエクソシスト養成というのがあるのかと信じさせる面白さ。半身で見たので楽しめた)。
★★★★★ ナンネル・モーツァルト 哀しみの旅路 (天才の弟アメデウスと子供を稼がせる親のあいだで歴史に埋もれてしまった姉の存在は知らなかった。ここで描かれるモーツアルト家は、天才少年のいる家族というより、生活のために出稼ぎの家なき旅ガラス)。
★★★★★ ガリバー旅行記 (自分に目覚めていくプロセスはジャック・ブラック向きかもしれないが、ガリバーはこんなやつではなかったという偏見と先入観が邪魔をして、心穏に見ることが出来ない)。
★★★★★ エンジェル ウォーズ (映像も演技もちょっと「安い」のだが、じきにカルトムービーになるかもしれない魅力がある)。
★★★★★ 戦火のナージャ (「巨匠」ニキータ・ミハルコフへのこだわりか、けっこう批判た強いので驚いたが、スターリンを愚弄する最初のほうのシーン、死にゆく若い兵士のためにナージャ・ミハルコワが胸を見せるシーンとか、さすが映画の原点を押さえているのではないかな)。
★★★★★ キラー・インサイド・ミー (ケイシー・アフレックが『ゴーン・ベイビー・ゴーン』とも『ジェシー・ジェームズの暗殺』ともちがったキャラを演じているのを見る楽しみはあるが、「偏執」的な殺人者の描き方としては特にユニークではない。ジェシカ・アルバを出すなら、もうひとヒネリ欲しかった)。
★★★★★ 木洩れ日の家で (【ノート】←社会主義時代のポーランドに生きた女性がいま何を感じているかを、そういう面はいささかも出さずに、些末な日常の出来事を通じて描くところがユニークだ)。
★★★★★ 抱きたいカンケイ (ナタリー・ポートマンとアシュトン・カッチャーが演じるキャラクターがユダヤ系であることを意識するなら、『(500)日のサマー』と似たテーマをあつかいながら、なんか時代がズレている理由がわかるはず。主役より、ケヴィン・クラインが演じる70年代流ナルシシズムの抜けない親父、レイク・ベルが演じる大柄の風貌に似合わずドジで一途な女など笑える脇役が多数いる)。
★★★★★ 少年マイロの火星冒険記3D (欠乏した「母性」を地球から調達する火星が「悪」なのは、「母性」などにこだわる必要がないのに、火星を仕切るババア総督がそういう地球的しがらみを切り離せないからだ――という解釈をすれば、この話は面白いが、全体としてはお定まりの宇宙冒険譚。監督がH・G・ウェルズの曾孫というのは面白いが)。
★★★★★ ブルーバレンタイン (【ノート】←短文で言い尽くせないせつなさがこの映画の魅力。アカデミー賞でもっと光が当たってしかるべきだった)。
★★★★★ メアリー&マックス (【ノート】←ヒキコモリにとって必要なのは、普通の意味での「愛」や「思いやり」などではなく、ある種の「距離」なのだということを知りつくしているこのアニメの監督アダム・エリオット。コメント)。
★★★★★ キッズ・オールライト (【ノート】←レズの親、人工授精で生まれた子供、レズなのに男にもよろめいてしまうドジな親――ジュリアン・ムーアが絶妙の演技、「理性的」なインテリであるはずのもう一人の親もパートナーの浮気で見せる可愛げな動揺。基本は喜劇だが、せつなさも。でも、親子関係というのは、ゲイファミリーでも変わらないと決め込んでいるような気もする)。
★★★★★ マーラー 君に捧げるアダージョ (『バグダッド・カフェ』や『ロザリー・ゴーズ・ショッピング』のパーシー・アドロン監督の新作だが、事実にもとづく話は意外に底が浅い作りになっている。アルマ・マーラーはこれだとただの男好きの女にすぎない。マーラーのあと、ヴァルター・グロピウス、フランツ・ヴェルフェルと再婚をくり返すが、3人のあいだにある一貫性には気づいていない)。
★★★★★ ミスター・ノーバディ (身をまかせるしかない人生も時間も、映画ならば、時間を先に進めたりもどしたりできる。それが映画の感動であり、スリルだ。この映画は、映画の時間操作と死・別れ・出会い・再会といった誰でもが自分の記憶に刻みつけている経験とをたくみに照応させる)。
★★★★★ 四つのいのち (【ノート】←セリフなしの「自然音」だけの展開。たまたま起こった出来事をそのまま撮っているようにみえて、相当な演出がある。それをどう取るか。詳細はノートを参照)。
今月のノート
エンジェル ウォーズ 水曜日のエミリア プッチーニの愛人 愛の勝利を ムッソリーニを愛した女 マイ・バック・ページ テンペスト 黄色い星の子供たち アジャストメント 人生、ここにあり! 未来を生きる君たちへ 光のほうへ ミラル クロエ バビロンの陽光
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★★★★★ ●クロエ (Chloe/2009/Atom Egoyan)(アトム・エゴヤン)
◆クロエ(本当は「クロイ」と発音する)のナレーションつまり彼女の視点で始まる非常にいいスタートなのに、やがてそれが崩れる。終盤のシーンは全く納得がいかない。おそらく、製作サイドからの営業的な注文でそうしたのだろう。ディレクターズ・カット版を見たいと思わせる作品だ。
◆よせばいいのに「悪女」にちょっかいを入れたために「平和な家庭」がガタガタになるという話はよくある。が、この映画はそう見せかけながら、それにとどまらない。たしかに、産婦人科医のキャサリン(ジュリアン・ムーア)は、夫デイヴィド(リーアム・ニーソン)が浮気をしていると思い、探りと牽制をかけるために、娼婦のクロエ(アマンダ・セイフライド)を「雇う」。クロエは、キャサリンとの「契約」をどんどん逸脱し、息子のマイケル(マックス・シェリオット)にまで手を出す・・・というのは、上っ面の要約である。が、クロエは、「悪女」のようで「純真」であり、「純真」のようで「したたか」である。その感じをアマンダ・セイフライドは見事に演じている。
◆よせばいいのにの女を演じるジュリアン・ムーアは、『キッズ・オールライト』でも見せたが、そういう途方に暮れながら懲りないという表情がうまい。
◆クロエのやることは、わたしには逐一納得できたので、その結末には大いに失望した。これだと、<やれやれ疫病神も消えてくれた>という印象で映画が終わることになる。クロエとキャサリンとのレズ的屈折はどうでもよくなる。「悪女」や「魔性の女」なんて枠にはまらない極めて両義的な役を見事にこなしているアマンダ・セイフライドの演技は素晴らしいのに、それは最後のシーンでぶち壊しになった。こういう女性が座敷童子(ざしきわらし)のようにいて、家族のそれぞれと「交流」を持っているという状態は面白いはずなのだ。
◆タイトルが「クロエ」となっているから、クロエに焦点を当てて描くのかと思うと、そうでもない。一応最初のシーンはクロエが下着を付けているシーンを映し、彼女の「娼婦哲学」をモノローグするナレーションがかぶる。ところが、その後の展開は、いわば「視点の混乱」続きとなる。いつも女性の性器を点検し、不感症の相談を受けたりしながら、夫との関係は不満がないわけでもないキャサリンが、トロントの「ヨークヴィル・アヴェニュー」界隈で見かける娼婦クロエに興味を持つくだりはいい。夫が教え子と浮気をしているのではないかという疑心暗鬼になるくだりも悪くない。クロエとの出会いも映画として面白い。が、未成年の息子が彼女を家に連れ込み、母親として苛立つシーンあたりから、「余分」なものが入ったという気配になる。
◆この映画は、既存のイメージでとらえたらた「家庭」(母・父・子)というような場の境界線が、実はシームレスであることをうまく描きかけながら、失敗した記録である。
◆夫も息子もスカイプにはまっていて、話もできないキャサリンの当惑のシーンがあり、いまを活写している。
◆クロエがキャサリンに語ったことは「嘘」だった。デイヴィッドとはやっていない――とクロエは言う。このへん、語る=騙るの現象学が描かれる。
◆デイヴィッドはユダヤ人なのか? 彼の書斎に「Meanchem Begin」の大判の本がある。
◆英語俗語辞典によると、「Chloe」は、女性名である(ちなみにクロエ・モレッツも同じ綴りだ)が、他方、Chloeには、「A friendly girl with a nice ass who is loved by everyone! She is a hot person, no girls have any problems with her and all the guys want to have hot, mad, steamy sex with her.」という意味があるという。要するにセクシーで誰とでもやる女。
(ブロードメディア・スタジオ/ポニーキャニオン配給)
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★★★★★ ●ミラル (Miral/2010/Julian Schnabel)(ジュリアン・シュナーベル)
◆1947年、イスラエルの建国の年の少しまえ、難民の子供たちを収容し、教育する施設を作るヒンドゥ・ホセイニ(ヒアム・アッバス)、バスのなかでユダヤ人女性の差別的態度に腹を立て喧嘩をし、逮捕されるナディアという若い女性(ヤスミーン・アル=マスリー)、彼女が獄中で出会うファティーマ(ルバ・ビラール)――看護師だった彼女は、1967年の六日戦争(第三次中東戦争)で負傷したアラブ兵士をイスラエル兵から隠そうとして失業、やがて反イスラエル活動に参加し、逮捕されて無期懲役を言い渡された(そういう受刑者と刑の軽いナディアが一緒の獄にいるというのも不思議)、ファティーマの兄ジャマール(アレクサンダー・シディグ)――もともと、ヒンドゥと親交のあるイスラムの導師だったが、妹に面会するなかでナディアと知り合い、彼女の出所後、結婚する――の娘ミラル(フリーダ・ピント/幼少期はYolanda El Karam)、というように、どこかでつながりあっている4人の女性を通してパレスチナの歴史を追う。が、ジュリアン・シュナーベルが描く歴史がいつもそうであるように、どこかものたりない。
◆高齢で死んだヒンドウーの葬儀のシーンから時間を逆にたどる「ヒンドゥ」編では、六日戦争のあと国連軍の米国陸軍大佐役でウィレム・デフォーがちらりと出てくるが、ヒンドウとの愛をわずかににおわせたまますぐに姿を消す。孤児たちへの愛に生きるヒンドゥからすれば仕方がないことなのかもしれないが、「劇映画」のスタイルでこういう「大物」役者を出して、この結末だと、何か気が抜けた感じになる。こっちが月並みなドラマを見すぎているのかもしれない。
◆「大物」といえば、ヒンドゥが大佐に出会うパーティのシーンで、アメリカン・コロニー・ホテルの女主人(?)ベルタ・スパフォード役でヴァネッサ・レッドグレーヴが出てくる。これが、えらくクサい役で、レッドグレーヴにはおあつらえ向きかもしれない。彼女が音頭をとって「メリー・クリスマス」を唱えるのだが、わたしは、複雑な気持ちでこのシーンを見た。このシーンは、パレスチナ問題に対するジュリアン・シュナーベルの姿勢をまさに示唆しているように思えてならなかった。
◆映画の構成は、「国際ジャーナリスト」志望のミラルが、年老いたヒンドゥを養老院に訪ねるという円環構造になっている。ヒンドゥは彼女に未来を託し、イタリア留学を薦める。彼女はこのシーンで「教育」の重要さを強調する。教育が、パレスチナの状況を救うというわけだ。しかし、その教育はどのような教育だろうか? 教育と教化・洗脳は髪一重である。洗脳であれ文化教育であれ、教育という概念自体がすでに行き詰ってはいないか?
◆映画と原作(ルーラ・ジブール)と登場人物との超越論的違犯をあえて行なえば、この映画は、ヒンドゥの遺志を継いだミラルがジャーナリストになり、この本の原作を書いたことによって出来上がった「教育装置」である。この映画は、しかし、ヒンドゥが開いた「ダール・エッティフル」というフィジカルな学校にひってきする機能を発揮できるだろうか? 映画が描く衰弱した高齢のヒンドゥが伝えようとした遺志はミラルに単純化して継承されたのではないか?
◆ミラルは、ヒンドゥの未来の夢を託され、それを実現するかのように見えるのだが、彼女が継承したのは単なる「啓蒙主義」である。われわれがこの映画でたどってきたパレスチナの歴史は、彼女の「ジャーナリスティック」視点で構成されたものであったことが最後にわかる。わたしが、シュナーベルらしいというのは、この点だ。歴史は、決して「ジャーナリスティック」にはとらえられない。一見、歴史を生きた人物が描かれているように見えながら、ジェーナリストが描く歴史は、彼女や彼らを、自分が記述する「歴史」のリアリティの証人にしがちなのである。
◆『キネマ旬報』(8月下旬号)の短文レヴューで、わたしは、<ローリー・アンダーソンやトム・ウエイツの音楽のせいもあって、わたしにはNYあたりの比較的「良心的」なアーティストの政治感覚の域を出ない感じがする。「平和が可能だと依然信じる両側のすべての人に捧げる」とエンドタイトルにあるように、パレスチナ問題をあつかいながら、中庸すぎる。シュナーベルが描く歴史は人物の歴史の表層にとどまる傾向があるが、今回はあつかう人物の数が多いだけに表層度が高くなってしまった。>と書いた。シュナーベルは、『バスキア』でもトム・ウェイツを使ったが、この映画には向いていないような気がする。
(ユーロスペース配給)
2011-04-22
★★★★★ ●光のほうへ (Submarino/2010/Thomas Vinterberg)(トマス・ヴィンターベア)
◆最初、赤ん坊の小さな手を握る指が映るのだが、その指のツメがえらく汚れているのが気になった。それなりの生活をしているという表現であることがすぐわかる。が、アップで映るその若者の表情が女性っぽいので、この赤ん坊の未成年母なのかと思う。タバコを吸いながら、赤ん坊をあやすのも、そんな想像を補充する。しかし、それは誤解であることがわかる。その子は少年で、赤ん坊の兄なのだ。少し下の弟もいる。母親がアル中で頼りにならないので、兄弟二人で育てているのだ。
◆冒頭に出てくる三男マーティンを死なしてしまったというトラウマが大人になっても兄弟の心のなかに傷を残す。長男が結婚せず、売春婦(パトリシア・シューマン)のもとに通い、家庭を持たないのも、そのためだろう。次男が、自分の息子を「マーティン」と名づけているのも、そのためだ。彼が、薬物依存に陥り、さらには薬物の売買にまで手を出して追い詰められて行き、「俺には息子しかいない」と言うくだりは、実に切ない。ヘロインでどんなりラリっても、息子の世話だけはしようと思っていた彼が、薬物売買で逮捕され、息子と切り離される。その絶望は想像できる。自分が息子にとって余計な存在だと悟ったとき、すべてが終わる。
◆洗われていない食器がある台所にはさまざまなアルコールの瓶が林立している。場面が変わると、その年上の少年ニック(セバスチャン・ブル・サーニング)と弟(マッス・ブロー)はスーパーで万引きをしている。それも、自分たちの遊びの品ではなくて、粉ミルクである。つまり、母親が面倒をみないから、二人が粉ミルクを溶いて飲ませたりしているのである。
◆母親がすぐに前後不覚になるくらい酔っ払って家に帰って来る。わけもわからずニックを殴りつけ、そのまま床に昏倒して尿までもらしてしまう。するとニックは、電気コンロをバラし、電気のつながったニクロム線を尿の上に置く。彼らは笑っているが、母親は感電して飛び上がる。一見して最悪の家庭環境だ。
◆冒頭に出てくる三男マーティンを死なしてしまったというトラウマが大人になっても兄弟の心のなかに傷を残す。長男が結婚せず、売春婦(パトリシア・シューマン)のもとに通い、家庭を持たないのも、そのためだろう。次男が、自分の息子を「マーティン」と名づけているのも、そのためだ。彼が、薬物依存に陥り、さらには薬物の売買にまで手を出して追い詰められて行き、「俺には息子しかいない」と言うくだりは、実に切ない。ヘロインでどんなりラリっても、息子の世話だけはしようと思っていた彼が、薬物売買で逮捕され、息子と切り離される。その絶望は想像できる。自分が息子にとって余計な存在だと悟ったとき、すべてが終わる。
◆さらに悪い事態が彼らを襲う。が、ある日、彼らが、パンクロックをガンガンかけ、母親の酒(イタリアのベルモットの「CINZANO」)をラッパ飲みして騒ぎ、眠りこけているあいだにこの赤ん坊が死んでしまう。こんなに簡単に死ぬかと思うが、赤ん坊だからわからない。
◆10分ぐらいのこうしたイントロから、兄弟の屈折した生活描写に移る。最初はしばらくのあいだ中年のニック(ヤコブ・セーダーグレン)を映し、大分たってから弟(クレジットは「マーティンの父親」)(ペーター・プラウボー)に移る。二人は長い間会っていないらしい。というのも、ニックはアルコール依存であり、弟は薬物依存で、たがいに施設や刑務所の世話になったらしい。
◆ニックが住んでいるのは、生活保護を受けている者たちが住む「シェルター」だ。いつもラジオをガンガンかけて、ニックに殴られる初老の男やニックがときどき通ってフェラをしてもらう売春婦ソフィー(パトリシア・シューマン)などが住んでいる。わたしは、たまたまニューヨークでこういう「ルーミング・ハウス」に住んだことがあったが、住人たちはみな個性的だった。
◆ヤコブ・セーダーグレンは、知的な目をし、髭がハンサムなのでそうは見えないがほとんど生活保護で暮らしているらしい。ジムで身体を鍛えているが、その帰りにはグローサリーでビールを両手に一杯買い込んで帰り、飲み続け、ベッドのうえでマッタリとしている。アルコール依存の人が、危機を抜けはしたが、ビール程度の軽度のアルコールで中間過程をしのいでいる状態だ。
◆全体として、もはや労働が価値ではなくなった社会で行き場を失ってしまった人々の描写として非常にリアリティがある。わたしは、こういう傾向のはじまりを1970年代のニューヨークで見た。その一部はその後日本にも「移植」されたが、西欧社会の多くがそのパターンをコピーしたのと同じような展開は日本では見られない。国家的な規制の多くがそうなるのを抑えているのかもしれない。逆に、そうならないで中途半端であることが日本の問題なのかもしれない。
◆労働の価値の喪失、アルコール中毒薬物中毒の問題、依存症、売春(デンマークの売春は日本とは大分違う――これは、脱労働社会化しているオランダ、オーストラリアやニュージーランドにも共通している)、ここで描かれていることは、1970年代以後の西欧・北欧社会および、1990年代以後の東欧社会でもひとしく見られることだ。労働が価値ではなくなれば、生活の質が重視されるようになる。しかし、そのためには、ある種の「教養」や「文化」的蓄積が要求される。結局、ここで階級的振り分けが行われ、底辺にいる者は払い落とされることが多い。この映画の登場人物たちも、そうした「生活の質」を求める脱労働社会に対応できなかった人間たちだ。
◆脱労働社会というのは、基本的に、「才能のない奴は働かないでおとなしくしていろ」という差別社会である。ある程度の社会保障をするからおとなしくしていろというのだが、実際には、そうはいかず、アルコールや薬物への依存を高める者が増える。高ストレス社会だから、それを「創造的な仕事」とやらに活かせなければ、神経の高まり、モダモダを何かで癒さなければならなくなる。その場合にも、「創造的な仕事」とやらに従事している者は、アルコールや薬物を「上手く」使い、そうでない者は金銭的にもどんどん追い込まれて身を滅ぼすことになる。
◆冒頭に出てくる三男マーティンを死なしてしまったというトラウマが大人になっても兄弟の心のなかに傷を残す。長男が結婚せず、売春婦(パトリシア・シューマン)のもとに通い、家庭を持たないのも、そのためだろう。次男が、自分の息子を「マーティン」と名づけているのも、そのためだ。彼が、薬物依存に陥り、さらには薬物の売買にまで手を出して追い詰められて行き、「俺には息子しかいない」と言うくだりは、実に切ない。ヘロインでどんなりラリっても、息子の世話だけはしようと思っていた彼が、薬物売買で逮捕され、息子と切り離される。その絶望は想像できる。自分が息子にとって余計な存在だと悟ったとき、すべてが終わる。
◆しかし、映画の最終シーンは、マーティンは、決して放擲されはしないということを示唆する。ここには、不思議なファミリー形態が見える。血のつながりはあるが、親子関係でない「親子」、既存の家族を脱構築した家族。たぶん、脱労働社会には、そういう助け合いがよりどころの一つとなるのだろう。
(ビターズ・エンド配給)
2011-04-21
★★★★★ ●未来を生きる君たちへ (Hævnen/In a Better World/2010/Susanne Bier)(スサンネ・ビア)
◆最初、アフリカから始まったと思ったら、デンマークに飛び、あっちへ飛んだりこっちへ飛んだりして煩雑の感じがするが、そうしながら状況を印象づけていく手並みは見事。
◆二組の親子関係を描きながら、民族紛争、戦争の根本をも照射する。ただ、「民族紛争」にせよ「戦争」にせよ、それらは、個々人、集団間の不和やいがみあいがエスカレートして生まれるのではなく、それを利用した形で生まれるのだとわたしは思う。まず国家や制度の存在があり、対立や殺し合いを必要とし、その手っ取り早い手段としてそうした対立が利用されるのである。だから、「戦争がなければ平和だ」といった単純な論理は最初からまちがっている。
◆二組の親子のひとつは、スウェーデン人の父クラウス(ウルリッヒ・トムセン)と息子のクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)である。彼らは、デンマークでは「外人」であるという点で、被差別条件を持っている。もうひと組子は、母マリアン(トリーネ・ディアホルム)と息子エリアス(マークス・リーゴード)、その弟モーテン(Toke Lars Bjarke)の親子である。父親アントン(ミカエル・パーシュブラント)は、別居している。彼の浮気が原因らしい。もう一度いっしょに生活したいと思っているが、マリアンが許さない。だから、エリアスたちの心は屈折する。学校では、歯列矯正の器具をつけているのを「ネズミ」とからかわれ、いつもいじめられている。
◆クリスチャンは父が母を殺したと思っている。孤独で過激な意識を秘めた少年で、理系にも強い。転校生として入ってきたクリスチャンはエリアスをかばう。二人はすぐに友達になるが、比較的ありがちな関係である。そして、エリアスは、クリスチャンの過激な試みに巻き込まれていく。
◆デンマーク語の原題「Hævnen」は、「復讐」という意味の語である。なるほど、いくつかの復讐可能性が描かれる。学校でクリスチャンはいじめられているエリアスのために復讐をする。彼の復讐はエスカレートする。街の遊び場でエリアスの弟モーテンが年長の子供にいじめられているのを見つけた父親のアントンが、その子をさとしていると、その子の父親が血相を変えて飛んでくる。その男はえらく暴力的で、アントンを殴る。が、アントンは反逆しない。その一部始終を見ていたクリスチャンは、復讐を決める。
◆アントンは、クリスチャンとエリアスから「なぜやり返さなかったのか」と問われるが、紛争や戦争というものは、こういういがみあいからエスカレートしていくのだとさとす。しかし、クリスチャンの復讐心はおさまらない。
◆アントンは、医師としてアフリカの難民キャンプで救援活動をしている。デンマークとアフリカとのあいだを行ったり来たりしているらしい。彼はキャンプで、暴力的な女性差別と殺人的な虐待を見、それで死にかけた現地人を助けている。このあたりは、全体のトーンにくらべてドラマチックすぎて、すわりが悪い。戯画的ですらある。が、アントンが差別と復讐の修羅場を見ている人間だという注釈になっている。これほどドラマチックに描かなくても、アントンのバックグラウンドを説明することはできただろう。
◆子供は、親の意志や親が用意する環境とは無関係な「異星人」のようになってしまうことがある。クリスチャンはその典型である。彼の父親は温和な人で、裕福だが、クリスチャンはどんどん自分の世界に引き込もる。ここでは出てこないが、こういうある種の「異星人」化は、薬物などへの依存症にはまる場合も同じである。こういう息子を持ってしまった親の苦悩は、クラウスの寡黙なしぐさで表現されている。ただし、自分が「どうしようもない」「異星人/異邦人」だと悟ったときに息子が示す葛藤の表現はわりあい月並みである。
◆この映画は、あきらかに、テロ→復讐→テロ→復讐と終のない様相を呈しているいまの戦争状況を問題にしている。しかし、もし、「テロ」が実は「テロ」と呼ぶには非常に組織的なものであり、「テロ撲滅の復讐戦争」も、実は復讐などが問題ではなく、戦争をすること自体が問題であるとしたら、どうだろう? テロや復讐は、戦争を永続させるための手段、人々にこの戦争を納得させるための「レジティマシー」の装置にすぎないとしたら、どうだろう? 戦争株式会社にとって、人々が復讐心を持ってくれれば戦争を起しやすいが、そうでなくても、戦争は起こさなければらなないのである。戦争は、もっと国家や組織の本質から生ずるのであって、この映画に登場するアフリカの邪悪な集団から直接派生するわけではない。こういう観点から考えると、この映画は、状況認識が非常に甘いのである。
(ロングライド配給)
2011-04-15
★★★★★ ●アジャストメント (The Adjustment Bureau/2011/George Nolfi)(ジョージ・ノルフィ)
――原作はフィリップ・K・ディックだよね。
――そうなんだけど、原作では主人公のパラノイアとして描かれる。
――ただのロマンティック・コメディにしてしまったのもディックからすれば、単純化だ。
――「アジャストメント・ビューロー」は、走り始めたマット・デイモンの動きを停めてしまうほどの「超能力」を持っているのに、最初から意味ありげに出てくるアンソニー・マッキーが、デイモンを追いかけるとき、時間をまちがえて、見逃してしまう。そんなうかつなビューローなんだろうか? 動画の見える本とか、頭をスキャンして洗脳するとか、時代設定はいまだよ。ジョークにもならない。
――まあ、レベルがあるんだね。下っ端じゃうまくいかなくて、だんだん上がっていく。最後は、テレンス・スタンプの登場だ。彼は、あいかわらずかっこいいね。
――しかし、スタンプの才能は活かされていない。その意味では、デイモンももったいない。エミリー・ブラントには向いていたかも。
――トイレでデイモンと偶然めかして出遭うシーンはなかなかよかったし、生意気で色気のある女役をうまく演じていた。しかし、『プラダを着た悪魔』のときとくらべると、燃焼できなかったんじゃないかな。才能ある役者ですよ。『ヴィクトリア女王 世紀の愛』の彼女は買わないけど。なんであんなおどおどした目付きなのかなという疑問が残った。
――あれが地なんだよ。今回は、あの目が活きた。それぐらいかな。
――要するにロマンティック・コメディなのに、SF的要素を入れて裏目に出た。SF的要素を活かせなかった。
――最初、デイモンが政治家としてうまくいかなくなるが、開き直って「本音」を語り、まきかえすという導入部分は、そのごどこかへ行ってしまう。
――ビューローのジョン・スラテリーとアンソニー・ルイヴィヴァール(Anthony Ruivivar) がデイモンを追いかけるシーンで、通りに面したビルのドアを開けると、向こう側が庭だったり、ルイス・ブニュエルの『アンダルシアの犬』のようなアイデアが使われているだが、ちらっと見せるだけで、なぜそういう設定をするのかがわからない。ただのデザインとして使っている。これで、この世界がシュールな世界なんだということにはならない。アイデア止まりだ。
――ドアは、使い方ではいくらでも面白くなるね。小説ではすでにカフカがやっているけど、さすがソダーバーグ、『カフカ』でちゃんとそういうところを押さえてドアを使っていた。
――またカフカか、でも、カフカ的な話に持っていったほうが、面白くなっただろうね。
(東宝東和配給)
2011-04-13 ★★★★★ ●黄色い星の子供たち (La rafle/2010/Rose Bosch)(ローズ・ボッシュ)
◆メラニー・ロランの熱演だが、ナチズム(ここではフランスの親ナチのペタン政権)批判は、「こんな酷いことをやって、許せない」という残酷さと怒りの表現だけでは、先に進めない。長いレヴューを書こうとしているうちに、『キネマ旬報』(8月上旬号)に短評を書くことになり、さらに時間がたって、同じ時代と出来事を描いた『サラの鍵』を観た。
◆最近「ナチズム」の意味を全く知らない複数の学生に出会って衝撃を受けた。忘却という支配様式にかくも見事にからみ取られた彼らにとっては、ナチスに追従して仏ペタン政権が犯したユダヤ人弾圧の「模写」的なメロ描写でも必見なのかもしれない。が、この種の映画が観客に求める涙の共感という技法は、実は、ナチズムが極めようとしたメディア技法であり、その「未熟さ」が暴力で安易に埋め合わされたのだ。その技法は、やがてより効果的な形でハリウッド映画とテレビにに引き継がれた。(『キネマ旬報』8月上旬号より)。
(アルバトロス・フィルム配給)
2011-04-12
★★★★★ ●テンペスト (The Tempest/2010/Julie Taymor)(ジュリー・テイモア)
◆シェイクスピアの『ザ・テンペスト』(通称「テンペスト)――なんで定冠詞を取るんだ?)をジュリー・テイモアが大胆にアレンジした。筋は原作を追っているが、元ミラノ大公のプロスペローを「プロスペラ」という名の女性にしている点だ。それをヘレン・ミレンが演じる。弟アントーニオの陰謀で大公を追われ、娘とともに追放されたたプロスペローが復讐を果たそうとするが、最後は赦し(ゆるし)に至るというドラマ自体は変わらないが、恨みの主体が父娘から母娘に替わることによって、変わってしまうものはある。また、復讐は、魔術を習得することによってなされるわけだが、男が魔術をあつかうのと女がそうするのとでは大きな違いがある。男なら「魔法使い」だが、女だと「魔女」の雰囲気になるからだ。むろん、ジュリー・テイモアはそのことを十分意識している。
◆ジュリー・テイモアは、すでに『タイタス』、『フリーダ』、『アクロス・ザ・ユニバース』等の映画作品を撮っているが、彼女を有名にしたのは、ブロードウェイのミュージカル(『ライオンキング』など)の演出家としてである。だから、彼女の映画には、どうしても舞台的な要素が入ってくる。本作では、シェイクスピアの韻を踏む有名な台詞をおさえているので、ますます舞台的な要素が強くなるのだが、魔術という面を描くとき、その空想的で大胆なイメージが強く出れば出るほど、自然(ハワイでロケしているという)や生身の姿が、舞台装置や舞台衣装のように見えてくるのである。それは、ミュージカルの舞台でならば効果的かもしれないが、そこまで舞台的に演出するのなら、いっそのこと、極端に人工的ないしは(ピーター・ブルック的な意味で)「何もない空間」にしてしまったほうが面白かったのではないかと思った。
◆魔法と妖精エアリエル(ベン・ウィショウ)を使って大嵐を起し、ミラノ大公アントーニオ(クリス・クーパー)とナポリ大公アロンゾー(デイヴィッド・ストラザーン)、顧問官ゴンザーロー(トム・コンティ)、アロンゾの息子・王子ファーディナンド(リーヴ・カーニー)らが乗った船を転覆させるのだが、舞台においてなら、そのハデハデの演出は生きただろう。が、映画の観客にとっては、そういう「超現実」的なイメージはあきあきするほどあたりまえだから、この映画のシーンは、えらく嘘っぽくみえてしまうのだ。「嘘」はそれなりに演出すればそれなりのリアリティを持つのだが、ここでは、あまり新味がないということである。
◆この映画のキャスティングは、いかにも舞台演出家らしい。ほとんどが最初からある種のアウラをもっている俳優ばかりだ。そのアウラをそのままいただこうとしている。映画の場合は、撮り方次第で俳優はどうにでもなるといった傲慢とも思える発想がないでもないが、舞台では、撮り方で「素人」でも様になるということは稀にしか起きえないから、舞台人が映画を撮る場合には慎重になる。ベン・ウィショウ→あの『パフューム ある人殺しの物語』で「超人間」を演じたから、妖精エアリエルの役は「まっとう」だ。クリス・クーパー→「陰険」な役柄にこの役者を持ってくるのはありきたり。デイヴィッド・ストラザーン→舞台の野心家はこの役者には「まがったこと」はさせない。アルフレッド・モリナ→たまたま太りすぎたのか、太らせたのかわからないが、執事ステファニーの役としては面白い。が、これをあるフレット・モリナにやらせなくてもよかったのではないかと思うが、そこがハデ好みの野心演出家の趣味。
♦出演者は、いずれも相当パワーが入っていて、それを見るのは楽しい。「怪物」キャリバンをジェイモン・フンスーにやらせたり、「道化師」トリンキュローをラッセル・ブランドにやらせたのは、ジュリー・テイモアならではだろう。ただし、「道化」が道化になっておらず、また、「怪物」が人間になってしまったのは、テイモアの演出と解釈であり、わたしはそこが全然面白くなかったのである。
(東北新社配給)
2011-04-07_2
★★★★★ ●愛の勝利を ムッソリーニを愛した女 (Vincere/2009/Marco Bellocchio)(マルコ・ベロッキオ)
◆「愛」の因縁を描きながら、ファシズムと「大衆的ヒーロー像」とのエロティックな関係を奥行きのあるやり方で異化している。
◆「ムッソリーニを愛した女」というのは、邦題の副題だ。「愛した」といっても、一方的な愛、思い込みの愛、パラノイアの愛もある。それは、邦題にある愛とはちがうかもしれない。
◆その女を演じるジョヴァンナ・メッゾジョルノが圧倒的な演技を見せる。すばらしい。
◆イーダが愛した男ベニートは、本当の「ムッソリーニ」であったという保証はない。最初の出会いは、政治集会。そこで「神に5分間あたえる、5分後わたしが生きていれば、神は存在しない」という証明パフォーマンスをする男は、たしかに「ムッソリーニ」だったとする。観客席でそのレクチャー・パフォーマンスを見ている彼女は彼に惚れる。そういうことはよくある。その「愛」は彼女のなかでどんどん膨れ上がる。こういうとき、その後出会った相手が、たとえ「ムッソリーニ」ではなくても、そう思い込んでしまうことはある。映画のなかで彼女と「ムッソリーニ」とのファイス・トゥ・フェイスの出会いは、街頭でムッソリーニが警官隊に追われる現場。路地に逃げてきた男が彼女と逢引をしているかのように装って警官をかわす。が、彼女にとって、この男が本当のムッソリーニであるかどうかはわからない。それは、たまたまそういう状況のなかで知り合うことになった男にイーダが勝手に投射したパラノイアだったかもしれない。
◆映画はいつも観客の勝手な想像と自己解釈を許す。そして、そういう解釈の度合いが広ければ広いほど、その作品の奥行きは増す。わたしの解釈は、マルコ・ベロッキオに対するわたしの「買いかぶり」かもしれないが、ファシズムに精通しているはずの彼が、ただの「実話」を映画化するはずがない。
◆途中で、実在のムッソリーニの写真や動画が出る。イーダは、その顔を見て、昔とは変わったとつぶやく。が、これは、変わったのではなくて、もともとちがうかもしれないのだ。
◆小「ムッソリーニ」はあの時代、無数にいただろう。そして「ムッソリーニ」に惚れる女も無数にいたはずだ。だから、デモで警官から追われて路地に飛び込んで来た男を「ムッソリーニ」と思い込む女がいてもふしぎではない。
◆未来派とムッソリーニとの関係。戦争賛美。ムッソリーニも、もともとは「アーティスト」だった。ヒトラーが画家だったことを思うと、「アーティスト」出身の政治家は気をつけたほうがいいのかもしれない。
◆「ベニート・ムッソリーニ」を愛し、その子を生んだと信じる母親は、自分の息子に「ベニート」という名を付けている。その子が成長し、母親から吹きこまれた「おまえはムッソリーニの息子」という言葉を信じ、だんだん「ムッソリーニ」そっくになる。が、その「ムッソリーニ」は、ニュース映画や演説会場での外向けの「ムッソリーニ」である。映画では、若き「ベニート・ムッソリーニ」を演じたフィリッポ・ティーミに演じさせ、この間の複雑な関係を示唆する。
◆映画的魔術と孤独な意識とのカプリング。ファシズムとは、fascismo>fascio[羊の群れ]から来ているという→「みんなで渡れば怖くない」→「一条の矢は折るべし、十条の矢は折り難し」(毛利元就)、イソップにも「In union there is strength」があるという。
◆映画館で、無声映画がかかっており、場内では政治をめぐって客同士の罵り合いと乱闘があるが、そのかたわらで憑かれたようにひたすらピアノを弾くピアニスト(Antonino Riolo )が面白かった。これは誰がモデルか? 誰の音楽か? 未来派との関係ではルイジ・ルッソロ(Luigi Russolo)が思い浮かぶが、音的には違う。映像、音、パフォーマンスがカップリングを起こしながら進むこのシーンは映画としても秀逸。
◆チャプリンの『キッド』を見ながら、手元から引き離されたわが息子を思って泣くイーダのシーンでも、映画内映画の使い方がうまかった。映画、大衆心理、政治、パラノイアの絡み合い。
(エスピーオー配給)
2011-04-08
★★★★★ ●マイ・バック・ページ (My Back Page/2011/Yamashita Atsuhiro)(山下敦弘)
◆最後に近い居酒屋のカウンターのシーンで、一人泣き出してしまう主人公・沢田雅巳(妻夫木聡)の姿にこの映画のすべてが集約されている。これは、原作(川本三郎『マイ・バック・ページ』)のすべてでもある。むろん、泣いてどうなるものでもない。が、原作をこのシーンに集約させたということによって、この映画は原作を批判してもいる。原作は、川本三郎が経験したドキュメントではなく、「私小説」である――とわたしは言いたい。いずれにせよ、およそ川本とは体質の異なる妻夫木が「川本」の感じを見事に出しているのに、この俳優のすばらしさを知った。
◆ある意味では、非常に屈折した映画である。原作は、著者・川本三郎の実体験を描いている。原作では、実名と「N記者」「K」といった略称とがいりまじるが、主人公は川本三郎であり、事情を知っている者には、その「N記者」や「K」が誰であるかがわかるように書かれている。が、にもかかわらず「私小説」とわたしが言うのは、いかなる実体験であれ、それを文章化すると、それなりの演出や解釈が加わり、「現実」との距離が出てくるからである。映画は、実名や略称をやめ、川本→沢田雅巳(妻夫木聡)、K→梅山(松山ケンイチ)といったように、再命名をしている。これによって、わたしが言う「私小説」的側面は薄れ、現実との距離が広がった。これは、よしわるしである。
◆原作は、60年代のある事件というような一般化ができない非常に時代と切り離せない側面を持っていた。いや、いまでも原作は、その時代の「気分」(この語のこういう用法を最初に使い出したのは川本三郎である)を照射する史料としての貴重さを持つ。学生運動が真摯に体制を批判・攻撃する面とともに、当時の若者がそれなりに若い個人的願望を満たす場になっていた側面。「赤衛軍」(映画では「赤邦軍」)なる党派としてはほとんど実体のないものをぶち上げて、とにかく政治的実践めいたことをせざるをえなかったK(映画では梅本)のあせり。そうさせた当時の状況。朝日新聞がまだ権力批判的要素を持っていて、記者のなかには、新聞で糾弾することによって権力を倒せるかもしれないと思っていた「半活動家」的な者もいた(いまでは想像もできないだろう)状況。そして、徐々に新聞社も、上向く経済とともに、アメリカ型の企業体に変質していく時代的経緯。
◆川本三郎は、そんな過渡期に居合わせ、自分では必ずしも欲したわけでもない混乱に巻き込まれた。むろん、彼自身が認めているように、大新聞社の記者というおごりもあった。「過激」な集会にほとんど活動家の意識で参加しても、大新聞の記者は活動家にはなれない。そういう記者をわたしは何人も知っていたが、集会に参加したあと、近くにこっそり停めてあった運転手付のハイヤー(社旗付)が待っていて、集会の帰りはそのバックシートにゆったり座って帰るのだ。集会に出るときは菜っ葉ズボンを履いてきても、これでは「体制の犬」と言われても仕方がない。が、そういう記者は、そうした矛盾に全く気づいていないかのように、本気で運動を支援していたりもした。このへんが、いまでは理解しにくいだろう。
◆原作に忠実なのと、原作が描く時代との関係に注意を払ってもらうために、ここでは、原作の記述を重視する。映画→原作→解釈という流れを取りたい。映画は、「週刊東都」→「週刊朝日」、「東都ジャーナル」→「朝日ジャーナル」と読み替えると、朝日新聞社の両週刊誌の位置、両者の屈折した関係、そして社会部記者と「活動家記者」との関係は、かなりよく描かれている。外部からふらりと編集部を訪ねたりすることが可能だったのも、この時代の雰囲気をよくあらわしている。
◆映画や原作を粗雑に見ると、60年代には「連帯」があり、いまは「孤立」や「エゴ」しかないといった図式が提起されたりする。が、それはまちがいだ。川本の原作は、優等生の「おぼっちゃん」のまま麻布→東大→朝日新聞へと進み、たまたまその職場で盛り上がっていた反体制の空気にそまり、いわば「左翼」意識に目覚めた25歳の週刊誌記者「ヨーゼフ・K」の物語である。
◆カフカの『審判』の主人公Kは、ある朝「何も悪いことをしないのに」逮捕される。が、彼の「罪」は、自分が属している組織(銀行)と社会(後期官僚システムが芽生えたプラハ)に対する無知であった。川本は、みずから書いているように、反体制運動にコミットしたいという意識とともに、週刊誌記者として一発当ててやりたいという山気もあった。1960年代末から1970年代のかけての時代、朝日新聞社の記者であるということは相当の特権だった。朝日にかぎらず、大新聞の人間は、自分が社会を動かしているのだという意識が強かった。そしてそのことが、観点を変えれば権力に奉仕しているのだということには無知だった。
◆とはいえ、いまの時代にくらべれば、国家や組織の内部であるセクターと別のセクターとが対立し、その対立によって全体が変わるという面がないこともなかった。ある種の「正義」を通すことが出来るような気がした。日米安保条約や大学の自治のために闘った学生は、たんなる自己満足やカッコづけのためにそうしたわけではなかった。闘いに命をかける者もいた。ある意味では「ナルシシズム」であったとしても、自己意識としては「本気」だった。映画のなかの高倉健が刀や銃を握るのを銀幕のこちらの世界で本気で真似る者もいた。それは、風呂敷を首に巻いて屋根から飛び降りて怪我をした子供みたいだが、実際につかのま「高倉健」になれたりもしたのだ。とにかく社会の「気分」はそんな感じだった。
◆原作、雑誌『SWITCH』に連載されたものが一冊にまとめられたのだった。当時、わたしもこの雑誌に雑文を書いていたので1988年に本になるまえから川本が有名な事件のことを書き始めたことを知っていた。『マイ・バック・ページ』の「あとがき」で川本が書いているが、この連載は、『SWITCH』の編集者の新井敏記と角田明子のすすめて始まった。わたしもよく知っているが、二人は素晴らしい編集者だった。当時のすぐれた編集者というのは、筆者が書くべきことを「知って」おり、最初の読者として的確な意見を言えるのが普通だった。だから、この二人のような編集者を相手にするときは、逆に彼らの予見をいかに裏切り、かつ感心させるかがもの書きの賭けだった。
◆川本三郎は、当時、映画評論家として一家をなしつつあった。文芸評論にも手を染め、村上春樹の早い時期のコメンテイターで、川本を通さないと村上の所在がわからないといった風説があった。村上はいまほどの権威ではなかったが、文壇に距離を置く独特のスタイルを実践しつつあった。川本は、記者のときも映画評を書いていたが、本格的に書き始めたのは、朝日新聞社を事件で追われてからである。映画の最後のほうで、キネマ旬報社の編集者らしい感じの女性が原稿依頼をしているシーンが出てくるのが、それを示唆している。
◆新井と角田が川本に、この事件のことを書かせたのは、画期的なことだったが、事件に関係した面々やその延長線上にある諸党派、またかつて活動家として一家言を持っていた連中は、この連載と川本のことをせせら笑った。川本は警察のスパイだという奴までいた。この映画にも出てくるが、新聞社のなかでも社会部記者が警察との関係では微妙な位置にいたように、また、活動家のなかにも文字通のスパイがいたように、反体制運動が後退すればするほど、不信な人間関係が広がっていった。その意味で、川本のように、政治とメディアと権力が醜い生き残りのぶざまな様をさらしたこの事件を川本個人の視点で描くということは勇気のいることだった。
◆とはいえ、『マイ・バック・ページ』は告発の書ではないし、告白の書でもない。むしろ、川本にとっては、一つの文学作品だったのではないか? ある意味では「私小説」だが、ある種道化やトリックスター的な人物を主人公にし、しかもアメリカのペーパーバック小説とはちょっぴり違う。演歌もビートルズもボブ・ディラン(本書のタイトルは彼の曲から取ったという)もザ・バンドも影響しているが、それらはすべて居酒屋の暖簾のフィルターでマイルドにされている。
◆さて、原作への言及が多くなり、映画のことが少なくなった。70年代の記憶が残っている者が70年代を映画化したものを見ると、登場人物の身ぶりや喋り方や態度に違和感を持ってしまうのが常だが、この映画ではあまり違和感を感じなかった。作品の内在性のなかで一つの完結性を出すことに成功したからだろう。でも、当時の気分は、もうちょと「暗く」て、ワイルドだったかもしれない。
(アスミック・エース配給)
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