粉川哲夫の【シネマノート】
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9月公開作品短評
★★★★★ カウントダウンZERO/Cowntdown to Zero/2010 (これまで「核」の危険のイメージは、核爆弾が炸裂し、人間が一瞬に死滅するピカドン的な恐怖だったが、福島原発の事故以来、放射性物質に汚染され、ガンや肉腫に冒されるという長期の不安と恐怖に変わった。この映画は、テロリストが核兵器を仕掛け、世界を破滅に陥れる可能性があることをカーターやゴルバチョフのような著名人の証言もまじえて示すのだが、特に新しい指摘はない。そういう危険を回避する決定的な解決法も示されないので、結局は、アメリカが核の管理を徹底化すればよいといった結論になってしまう。が、ソ連崩壊以後の「核」状況を常識的に知るには便利かもしれない)。 (9/1公開)
★★★★★ パレルモ・シューティング/Palermo Shooting/2008 (いまだにこんなことで悩み、それを物語にして恥ずかしくないのかと思うような60年代風「実存論」が語られるが、ベンダースがつねに関心をいだいてきたメディア論だと考えれば、けっこう面白い。が、撮るということ、アナログとデジタル、生身とヴァーチャルの問題意識はやや古い。ベンダースが信頼した亡きデニス・ホッパーの登場させ方には、ベンダースの義理堅さが出ている)。 (9/3公開)
★★★★★ ゲット・ラウド ジ・エッジ、ジミー・ペイジ、ジャック・ホワイト×ライフ×ギター/It Might Get Loud/2008 (冒頭、ザ・ホワイト・ストライプス解散前のジャック・ホワイトが手製のエレクトリック弦を作るシーンからして惹きつける。かっこいい。以後、ジミー・ペイジ、ザ・エッジの音作りの現場をずばり、しかもこれ見よがしにではなく映すシーンが続く。被写体も映像も半端じゃなくすばらしい)。(9/9公開)
★★★★★ アジョシ /Ajeossi/2010 (【詳細】よくもわるくも、韓国映画の現在を示唆する)。 (9/17公開)
★★★★★ スリーデイズ/The Next Three Days/2010 (『すべて彼女のために』[Pour elle]のノリメイク。好き好きだが、わたしは、ワイルドさをただよわせるラッセル・クロウよりも元作のヴァンサン・ランドン、エリザベス・バンクスよりも不安な目の表情がうまいダイアン・クルーガーを評価する。元作の最後のシーンは、権力の追求を見事にかわす清々しさが抜群だったが、このリメイクは中途半端)。 (9/23公開)
★★★★★ カンパニー・メン /The Company Men/2010 (アメリカ映画が3Dの「お子様」志向を強める一方で、社会的現実を反映して、「暗い結末」の作品を排出しはじめたのいい。しかし、まだまだ吹っ切れたいないアメリカは、結末でお為ごかしのハッピーエンドを用意する。それがなかたら、星一つ追加)。 (9/23公開)
★★★★★ 4デイズ /Unthinkable/2010 (【詳細】福島原発事故でお蔵になりそうになったが、公開が決まり、喜ばしい。偏見かもしれないが、今年公開の作品のベスト3に入れたい)。 (9/23公開)
★★★★★ プリースト [Priest] (「敵はまだいる、戦いを続けろ」というのは、キリスト教右派のイデオロギーで、それは失敗したはずなのに、まだそんなことを言っているのかいと思う。が、アメリカはそう自分を言い聞かせながら戦争を続けなければ国家として成り立たない。3Dのメガネをときどき外して観ると、意外に安手であることがわかる)。(9/23公開)
★★★★★ 親愛なるきみへ [Dear John] (アメリカで出たDVDでは最終シーンの別バージョンがあるように、監督ラッセ・ハルストレムとしては、思い通りの形では劇場公開できなかった内部事情をうかがわせる。批評家の悪評にもかからわらず大ヒットしたところが、いまのアメリカを考えさせる)。(9/23公開)
★★★★★ さすらいの女神たち /Tournée/2010 (近年出演作に接することが多いが、本作のマチュー・アマルリックが一番いい。わがままで気まぐれな「ストリップ嬢」に振りまわされ、また癒されもするマネージャーのせつない感じがぴったり。自分で脚本を書き、監督もしているだけのことはある)。 (9/24公開)
今月のノート
永遠の僕たち カンパニー・メン 僕たちのバイシクル・ロード ラビット・ホール プリースト in 3D 孔子の教え 地球にやさしい生活 リミットレス ラブ・アゲイン サルトルとボーヴォワール ブリッツ マネーボール モンスター上司 無言歌 50/50 フィフティ・フィフティ サラの鍵
2011-09-22
★★★★★ ●サラの鍵 (Elle s'appelait Sarah/2010/Gilles Paquet-Brenner)(ジル・パケ=ブレネール)
◆すこしまえに封切られた『黄色い星の子供たち』(La Rafle/The Round Up/2010/Rose Bosch)と内容と時代背景がダブル。しかし、『黄色い星の子供たち』が、冒頭のサブタイトルで、「この映画のなかの出来事は、その最も極端な事例すらすべて1942年の夏に本当に起こったことである」と宣言するにもかかわらず、ありがちなお涙頂戴の感傷主義を突っ走り、映画をみているあいだは、催淫剤でも飲まされたかのように落涙しても、スクリーンを離れたとたんにその深刻さを忘れてしまう感じなのに対して、『サラの鍵』は、タチアナ・ド・ロネのフィクションにもとづく映画化であるにもかかわらず、映画が終わっても深い余韻を残す作品になっている。クリスティン・スコット・トーマスの覚めた大人の演技の力も大きい。
◆1942年にフランスの親ナチ政権が、ユダヤ人狩りを実行し、1万3千人のユダヤ人を逮捕し、「子供のいない5千人をドランシー収容所へ、家族8千人がヴェル・ディブ(冬季競輪場)に送られた」「ヴェル・ディヴ」事件は、やっと1995年になってジャック・シラク大統領がその事実を公式に認め、犠牲者に謝罪したことで一般にも知られるようになった。しかし、この事実ははるかに以前から知られており、映画では、1976年にジョセフ・ロージーがアラン・ドロン主演の『パリの灯は遠く』(Monsieur Klein/Mr. Klein/1976/Joseph Losey)であつかっていた。これは、非ユダヤ人の美術古物商のロベール・クラインが、同姓同名のユダヤ人とまちがわれ、絶滅収容所行きの列車に乗せられてしまう話だった。映画が公開された1976年当時はまだリアリティがあった「カフカ的な不条理物語」の雰囲気で作られてはいるが、1942年に起こったフランスでのユダヤ人狩りを題材にしている。わたしは、1977年に日本でこの映画を見ていたので、この事件が1995年になって公式に認められたことにむしろ驚いたのをおぼえている。
◆『黄色い星の子供たち』が、ユダヤ人の側から、これでもかこれでもかと非ユダヤのフランス人を責めるプロパガンダ臭の強い映画だとすれば、『サラの鍵』は、非ユダヤ人が自分の責任を内省する映画である。これは、冒頭のシャンソンの使い方によくあらわれている。前者は、エディット・ピアフの「パリ」でいかにもの雰囲気をつくる(ちなみに最後はドビッシーの「月の光」である)。ただし、ピアフがこの曲を歌うのは、たしか1949年で、映画が設定した1942年以後である。それはともかく、『サラの鍵』のほうは、フェレールのシャンソン「La java bleue」がラジオからさりげなく流れるという出し方で時代を暗示する。なお、この曲は、1939年にヒットしたらしいが、それが1942年のラジオから流れても、不思議ではない。全体の音楽は、日本公開が待たれる『Die Fremde (2010) 』(Feo Aladag/2010)や『Perfect Sense』(David Mackenzie/2011)の音楽を担当しているマックス・リヒターである。
◆歴史的ないまわしい出来事に対して、自分の祖先が無関係な傍観者ではありえなかったことを知ったとき、あなたはどうするか? クリスティン・スコット・トーマスが演じる雑誌記者ジュリア・ジャーモンドは、自分たちが改造して住もうとしているアパートメントが実は1942年の事件で犠牲になった家族の元住居であり、しかもそれを自分の夫ベルトラン・テザック(フレデリック・ピエロ)の祖父母が正当ではないやりかたで手に入れたものだったという事実を発見する。それは、雑誌のための取材をするなかで偶然わかってくるのだが、彼女が謎を追い、パリから生まれ故郷のブルックリン、さらにはフィレンツェまで動くのは、一見「探偵ドラマ」風だが、それは、交互に描かれる古い時代のシーンとのたくみなバランスのなかで単なるエンターテインメントに堕すことをまぬがれる。収容所からからくも逃れ、生き延びたサラという少女(メリュジーヌ・マヤンス)の悲痛なドラマは、そのままならお涙頂戴のドラマになりかねないが、交互に挿入されるジュリアンの「現在」(2009年とそれ以後)によって「異化」され、内省的な静溢さをもたらしている。
◆国家が犯した非情な罪に対して「人道的」憤りをあらわにするだけでは、その「国家犯罪」と同質の非道をくりかえすだけである。この映画は、ちょうどコスタ=ガヴラスが『ミュージックボックス』(Music Box/1989/Costa-Gavras)と似たような示唆をする。『ミュージックボックス』は、アメリカで弁護士として活躍している女性(ジェシカ・ラング)が偶然、自分の父親(アーミン・ミューラー=スタール)がアメリカへの移民以前のハンガリーでユダヤ人虐殺に加担していたことを発見する物語である。二転三転して無罪を信じた彼女のまえにあらわれてつらい真実のまえで、彼女は、自分の幼い息子のその真実を伝え、歴史を継承しようとすることを示唆しながら終わった。『サラの鍵』も、最後のシーンでジュリアが思っていることはそういうことではないかと思う。おそらく、それしかないのだろうから。パケ=ブレネールはコスタ=ガブラスをどこまで意識したかどうかはわからないが、トーマスのジュリアとジェシカ・ラングのアンとのあいだには非常に似た雰囲気がある。
◆後半、原作の引きづられたかのか、現場性が希薄に感じられるところがある。特にサラの息子と会うフィレンツェのシーンは、存在感がない。
◆少女のサラが、仲間と二人で強制収容所を脱出してたどりつく農家の老主人を演じるのは、ニエル・アレストリュプ。彼は、日本では、フランス映画祭2010で上映されただけでまだ一般公開されていない『アンプロフェット』(Un prophète/2009/Jacques Audiard) で老獪な「牢名主」を見事に演じた。ニエル・アレストリュプは、1970年代から活躍する名優だが、日本では、『フェアウェル さらば、哀しみのスパイ』 (2009)、『潜水服は蝶の夢を見る』 (2007)、『真夜中のピアニスト』 (2005)の個性的演技で知られている程度であるのは残念。
(ギャガ配給)
2011-09-15
★★★★★ ●無言歌 (Jiabiangou/The Ditch/2010/Bing Wang)(ワン・ビン)
◆1950~60年代の中国では、「下放」と言って、毛沢東思想からはずれる者を「再教育」するプログラムが稼働した。しかし、実際には、「再教育」にはならず、過酷な強制収容所の様相を呈した。 中国の外では、日本でもヨーロッパでも「文革」は、斬新な革命とみなされたから、すでに社会的に一定の「評価」を受けた知識人や芸術家が、それまでやったこともない農業に従事し、身に染まった特権意識を洗い流す――というのは、むしろ新しいやり方だと受け取られた。だが、現実には、そういう「再教育」を十分に行う施設が整っていたわけでもなく、ただの拷問になってしまうのだった。
◆「下放」とは、理念的には、拷問や罰を越えるものであるはずだった。思想が個々人の身体的・社会的「身ぶり」つまり個々人の身体性や慣習、パブリックなスペースでの行動仕方によって規定されておおり、思想を「頭のなかだけで」変えるのではなく、身体的・スペース的な要素のほうから変革しようとするという考えは、まちがってはいなかった。だが、そういうことをするはずだった「文革」は、個々人の身体のミクロな部分から、都市や農村のコミューナルなスペースのすみずみまでを有機的かつネットワーク的にたがいに織り込まれたものとしてとらえ、変革するというほどの徹底性を発揮することはできなかった。
◆「矯正」などということは嘘っぱちである。人間は「矯正」などできない。すれば、その分のゆがみやひずみが肥大する。もし犯罪者や社会的離脱者を「矯正」したいのなら、彼や彼女の「特異性」(サンギュラリテ/シンギュラリティ)を活かすしかない。その場合、「矯正」のやり方はその「特異性」の数だけある。ちなみに、「特異性」は(量概念ではないが、あえて量でたとえれば)「個性」の数の百倍、千倍以上あるだろう。だから、「特異性」を活かすのは、「自己に忠実である」などということとは全く違うし、また、「自己に目覚める」などということでも全くない。言い換えれば、「特異性」はつねにすでに抑え込まれ、ゆがめられる。それは、持続のなかにおいでではなく、奇跡的な瞬間のなかで自由になる。そんな途方もないポテンシャルをまえにして「矯正」などを問題にするのは、傲慢である。「矯正」はすべて、国家や組織が「よし」とする枠にはめ直すこと以下でしかないないからだ。
◆「下放」の現場でも、もうすこし「まし」な場所もあったはずだが、この映画が描くゴビ砂漠の「夾辺溝」は、「収容所」の呈をなしていない。政治犯たちは、洞窟のようなところ(文字通り「溝」)に住まわされている。当時の中国では、「大躍進」政策の失敗で数千万人規模の餓死者が出たといわれている。そういう状況下での政治犯に豊かな食事があたえられるはずがない。映画では、「夾辺溝」の人々は、あっても水っぽい粥のようなものしかあたえられず、体力が衰え、起きられない。監督する側も、(実際に農作物もないから)そのままにしている。ときおり、規律を正しに見まわるが、歩くことがやっとの者が大半だから、規律もへったくれもない。気温も猛烈低く、暖房などない。ボロのような寝具にくるまって眠っている者が、動かないので近づいてみると、死んでいるといったことが毎日起こる。
◆飢餓の描写で、食物に当たったのか、男が嘔吐すると、地面に吐かれた嘔吐物のなかから、かたまりのあるものをつかみ取って口に入れる者がいる。ほとんど地獄絵だが、それが淡々と描かれる。目をそむけたくなるというよりも、深い絶望感に投げ込まれる。そこまで追い込まれた人間の哀れさすら感じない。この不思議な即物性がこの映画の一貫したスタイルである。
◆この映画のユニークなところは、お涙頂戴の感傷主義に陥らないことだ。訪ねて来てみたら、すでに死んで砂漠に(投棄されたような状態で)埋められていることを知る妻が、泣き叫んで悲しむシーンでも、それにつられて泣くようには出来ていない。こういう状態に直面すれば、誰でもが絶望と悲しみのどん底に突き落とされるだろう。それが凄ければ凄いほど、はたで見ている者(つまりわれわれ観客)は、途方に暮れるしかない。この映画は、観客を途方に暮れさせる。それは、「ひどいな、ひどいな」と怒りに誘うのとは本質的に違っている。
(ムヴィオラ配給)
2011-09-09_2
★★★★★ ●ブリッツ (Blitz/2011/Elliott Lester)(エリオット・レスター)
◆もし映画に「路線」というものがあるとすれば、この映画の「路線」ははっきりしている。はっきりしすぎるほどはっきりしている。警察もマスメディアも頼りにならない。街には善良な者を襲い、ものを奪い、勝手なことをする奴がいる。警官を趣味で殺す者までいる。それを正当な法律的な手続きで裁くことは不可能だ。だから、俺は自分の判断で制裁を加える。ここで言う「俺」とは、ジェイソン・ステイサムが演じる刑事ブラントである。
◆こういう発想は、近代「市民社会」のルールに反するが、現実には、どの「近代」社会にも存在し、また実際に私刑や敵討ちはなくならない。それを前近代の「遺制」と切り捨てても、「近代人」の意識のなかにそういう欲求があり、だからこそ、こういう映画が「面白く」感じるのだ。ある意味で、この種の映画は、「民主主義」社会では許されないことをスクリーンのなかでだけつかのま溜飲を下げさせる機能を果たしているとも言える。空を飛べないからこそ、空を飛ぶファンタジーが有効であるように。
◆映画ではすべてが許される。問題になるのは、そのファンタジックな強度だけである。この映画は、その点で、利口な作り方をしている。イントロで、ブラントは、路上で車を盗もうとしている若者を見つけ、ホッキースティックでさんざん殴りつける。新聞は、「無実の青年たちがホッケーマニアに襲われる」という記事でブラントを批判し、警察でも問題になり、一線からはずされる。が、折しも、女性警官を惨殺する事件が起こり、また一線に返り咲く。彼がやった「ひどいこと」は帳消しになる。
◆警官殺しの捜査を一緒に担当するのが、転属してきたばかりのゲイの刑事ポーター・ナッシュ(パティ・コンシダイン)で、ブラントは、差別意識むき出しの対応をする。ポーターも、いかにも「ゲイ」っぽい喋り方と見ぶり(これ見よがしではないが)をする。最初の対立が、ロマンティック・コメディにもあるジラシにすぎないことは予想がつく。最初避けるようなことを言っていても、やがて二人はいい相棒になるだろう。二人の「対立」がかえってその後のドラマを活気づけるだろう・・・。このへんの「型」を楽しめない人は、こういう映画を見ても仕方がない。
◆ブラントのホッケースティックは、この人物の「仲間思い」の性格を示唆する。彼は、最近妻を失った主任刑事ロバーツ(マーク・ライランス)とは深い信頼で結ばれている。この布石があるために、彼が殺人鬼に殺されることによって、ブラントの復讐が正当化される。二人がビールを飲むシーンには、古典的な「メイトシップ」がよく出ている。若い女性警官エリザベス・フォールズの相談にのるシーンもブラントの「人情味」のある性格が出ている。これと対比的なのが、警察の上司への態度や、「正義」を傘に着て彼を非難する記事を書く新聞記者(デイヴィッド・モリッシー)への仕打ちである。
◆観る側の期待で動くこのような映画は、期待に反する描き方に関してのみ、批判が出来る。それは何か? 殺人鬼「ブリッツ」ことバリー・ワイスを演じるアイダン・ギレンの中途半端さである。彼が演技するバリー・ワイスは、ブラントがメイトシップを感じる仲間の世界からも、エリートたちの世界からも外れている。だが、彼の演技では、その孤立した独特の「特異性」ははっきりしない。このタイプの映画で「殺してもあきたらない」タイプの憎たらしさがないのなら、ある種の「狂気」が必要――この手の映画のロジックとして――だが、その表現に奥行きがない。彼の演技から推察できるのは、この殺人者を演じるには向かないということである。あるいは、脚本がこの殺人者の「特異性」を描ききっていなかった、あるいはまた、演出がそこまでカバーできなかったということである。
◆映画は、あの新聞記者への子供っぽい「復讐」のエピローグを付ける。ここでこの映画は、それまで何とか「型」を観る楽しみでもってきたのを一挙にぶちこわしてしまう。ブラントをコケにした新聞記者なんかどうでもいいじゃないか。ゴシップ記事の記者なんて、こんなものである。この記者も、ブラントが目の敵にしているほどには憎たらしくはない。このエピローグを付けるのなら、彼は、もっと悪辣なことをやるべきだった。
(ショウゲート配給)
2011-09-09_1
★★★★★ ●サルトルとボーヴォワール (Les amants du Flore/2006/Ilan Duran Cohen)(イラン・デュラン=コーエン)
◆ジャン=ポール・サルトルやシモーヌ・ドゥ・ボーヴォワールをあまり知らない人が見て、思想史的な「ゴシップ」を身につけるには役立つかもしれない。思想を理解しようとする場合、まずはゴシップから入るというのは、勢いがつくものだ。しかし、すこしでもサルトルやボーヴォワールのことを知っていると「う~ん」と考え込んでしまう作りである。もともとテレビ用の映像で、この日の試写も、アスペクト比4:3のビデオ映像によるものだった。
◆ボーヴォワールを中心に、彼女の『娘時代―ある女の回想』や『女ざかり―ある女の回想』で知られるふたりの自伝的な出来事をかなり表層的に追っているにすぎない。サルトルのはもとより、ボーヴォワールの思想へのアプローチは軽薄であり、その点では、この映画を見ても、サルトル/ボーヴォワールの思想史的な「一般常識」(サルトルの「現象学」やマオイズムから西欧マルクス主義への加担など)は身につかない。
◆映画として見た場合、モデルがいた以上、その「雰囲気」は模写しなければならないのだが、サルトル(ロラン・ドイチェ)もボーボワール(アナ・ムツラリス)も、雰囲気を全然出していない。後半でちょっと登場するアルベール・カミュー(Robert Plagnol)にいたっては、全くの別人の雰囲気である。アナ・ムツラリスは、ギリシャ系の女優で、キツイ目がつり上がっている。ボーヴォワールとは大分違う。サルトルは、非常に背が低く、目が斜視で、かなり個性的な風貌だったが、ドイチェのサルトルは、恐ろしく個性を剥奪したキャラクターになっている。
◆ボーヴォワールが、両親や、就職した学校のの保守的な姿勢に反抗し、『第2の性』で論じられるようなフェミニズム的意識を深めていくことがありきたりに描かれている。彼女がエコール・ノルマル・シュペリエール校の教授資格試験でサルトルの次に優秀な得点を獲得したことを知った父は、「おまえの脳は男なみだ」と賞賛と皮肉をこめて言う。両親は、彼女にあたりまえの結婚をしてほしいとおもう。
◆映画は、ボーヴォワールが、教師として最初につとめたマルセイユの高校で出会った女子生徒との同性愛からはじまって、作家として有名になりアメリカに招待されたときに出会った作家ネルソン・オルグレンとの異性愛にことさら焦点を当てる。そのため、彼女の思想的な変化や発展は全く描かれない。彼女は、1947年1月から4ヶ月すごしたアメリカ体験を『アメリカその日その日』(二宮フサ訳)に記しているが、その随所に鋭い観察が発見できる。
◆映画は、彼女がこのアメリカ旅行で初めてヘテロセクシャリティに目覚めたといった単純きわまりない描写をするが、この旅行記を読めば、それがいかに皮相な見方であるかがわかるだろう。ちなみに本書のニューヨークの記述は特筆すべきで、1940年代のみならず、ニューヨークという都市がもつ本質を鋭くとらえている。ボーヴォワールは書く――「私はニューヨークを地区ずつ片はしから探検する。・・・私はゆっくりと歩く。私はこの街の灯を自分の頚にまきつけ、もてあそび、食べてしまいたいと思っている」。彼女の次の「憤慨」は、30年後、アメリカン・ニュー・シネマによって徐々に表現されるようになる――「アメリカ映画を観たあとでニューヨークの街を散歩すると、この町のこんなに思いがけない興趣、詩情、悲劇がかつて一度も映画に表現されたことがないのに憤慨してしまう」。
◆ボーヴォワールがアメリカへの旅で大きな刺激を受けたことは事実である。それをオルグレンとの関係だけで表現してしまうのは単純すぎる。彼女は、1963年に発表された『或る戦後』(朝吹登水子・二宮フサ・訳)のなかで、『アメリカその日その日』よりももうすこし突き放したアメリカ批判をしている――「私は仰天した。ほとんどすべての知識人の中に、左翼だと自称する人びとの中にさえ、わたしの父の排外主義(ショーヴィニズム)に匹敵する米国中心主義(アメリカニズム)が猛威をふるっていたのだ」。「女権拡張の意欲がヒステリックになって、アメリカ女性を雄を喰い殺す《カマキリ》みたいにしたのは事実だとしても、やはり彼女らは従属し他に依存する存在なのだ。アメリカは男性の世界である」。
◆映画の字幕で、ボーヴォワールのニックネーム「カストール」を「ビーバー」と訳していたが、語学的には正しい訳が、サルトルやボーヴォワールがブームであった時代に読んだ者には、違和感がある。むろん、「カストール」では何のことかわからないかもしれない。映画のなかで、サルトルが、ボーヴォーワルのことを「カストール」と呼ぶようになる理由がさらりと説明されている。彼女がビーバー(フランス語では castor)のようにいつも活動しているというのだ。しかし、日本でも、ボーヴォワール=カストールということがあたりまえであった時代があり、たとえば、いま京橋にあるフランス料理店「カストール」は、オーナーシェフの藤野賢治氏が渋谷区上原で最初の店を開店したとき、そのことを意識して命名したとのこと(ただし、お店のマークは「ラッコ」loutre de mer/sea otterの絵になっている)。
◆描かれる時代が30年代から60年代で、音楽にはジャズがよく使われている。が、うるさいことを言うと、そのスタイルが60年代以後のジャズのスタイルなのだ。それは、60年代後半のシーンならば、それでもいい。が、それ以前のシーンで60年代後半以後の(若干「ニュージャズ」――いまは「フリージャズ」という→この言い方にも異議がある→こう言ってしまうとオーネット・コールマンの同名のレーベルの意味がなくなってしまう――の響きをもたたえる)ジャズが聴こえると、え?!と思ってしまう。
◆そういえば、アナ・ムグリスの声は、サルトルやボーヴォワールの仲間でもあったシャンソン歌手で「サンジェルマンデプレの女王」と言われたジュリエット・グレコの声に少し似ている。ボーヴォワールの声は、むしろ甲高く、ムグリスのようにハスキーがかってはいなかったし、こんなに野太くはなかった。サルトルの声は、その風貌に似合わず「艶」とサビのある声で、会話で相手を惹き込んでいく魅力があった。すこし老年のものだが、YouTubeに映像がある。
◆サルトルとボーヴォワールについては、いくつものビデオドキュメントがあり、YouTubeでもその一部を見ることができるが、ボーヴォワールのサルトル像の最終的なものは、サルトルの死後彼を回想した『別れの儀式』(朝吹三吉・ニ宮フサ・海老坂武・訳)がすぐれているし、感動的な書である。
(スターサンズ配給)
2011-09-08_1
★★★★★ ●リミットレス (Limitless/2011/Neil Burger)(ニール・バーガー)
◆ナレーションのオープニングは、この映画が「回想」であることを示唆する。「あきらかに、わたしは2、3ミスった」という声は、ブラッドリー・クーパーで、最初から、彼がこれまで演じてきた――とりわけ『 ハングオーバー!! 史上最悪の二日酔い、国境を越える』と『ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い』の――新しい「ダメ男」をオも出させて期待がふくらむ。ここで言う「ダメ男」とは、「ルーザー」とは違う。実力も責任感もないわけではないが、ひょんなことでファック・アップしてしまう運の悪い男、にもかかわらずハッピーな顔をしている「アンチヒーロー」とも違った、言うなれば「トランスヒーロー」である。
◆ニューヨークのマンハッタンを使い、現場感覚も手抜きしていないが、それを自在にデフォルメする手並みは、『幻影師アイゼンハイム』のニール・バーガーならではのもの。『インセプション』(1億6千万ドル)にくらべたら、はるかに「低予算」(2千700万ドル)だが、記憶や想像の意識のシームレスな境界線をたくみに描いている。
◆多用される技法は、VRやARのウォークスルーだが、これが、小気味いいくらいに使いこなされている。古い感覚で観ると、この映画は、(一応、ストーリー上は)色々と行き詰っているエディー・モーラ(ブラッドリー・クーパー)が、街で久しぶりにあった、元妻の弟ヴァーノン(ジョニー・ホイットワース)からもらった特別の錠剤を飲み、「超能力」を得る、ないしは、そういう幻覚をいだくという流れで進む。また、このドラマ全体が、彼の想像力の産物であるという解釈も可能だが、ニール・バーガーの演出は、「これで決まり」的な解釈を許さない多義性を創造することに成功している。背後でずっと流れ続けている音楽も、多様な解釈の鍵となる。
◆バー(ごくあたりまえの街の)で、「自分は本当は凄いんだ」的な売り込みをするが誰も信じてくれないシーンとか、ガールフレンドのリンディ(アビー・コーニッツ)にふられるシーンのような日常どこにでもあるようなシーンの演出・演技・描写もしっかりしている。だから、錠剤を飲んでからの「飛躍」も、シームレスに観る側の意識に流れ込んでしまう。
◆「Clinton-Washing Avenues」駅のホームで街のチンピラにいちゃもんをつけられ、闘うとき、エディのあたまにブルース・リーの映画のシーンや、カシアス・クレイ(?)のリングシーンなどが浮かび、その通りに体を動かして連中をやっつける。この愉快なシーンで思ったのは、これは、「拡張現実」(AR)の世界に通じるということだ。VR/ARのシステムでは、さまざまなデータを呼び出すことによって、自分の身体運動を「拡張」することが出来る。いまの技術レベルでもある程度は「超人」つまりはスーパーマンになれるのだ。
◆こう考えると、エディがヴァーノンから手に入れた錠剤「NZT-48」は、その手渡し方やその後のすったもんだを含めて、一見、LSDや覚醒剤的なドラッグを思わせるのだが、それは、映画上の(話をわかりやすくする)手続きで、VR/ARのリアリティをそっくり使っていることがわかる。すでに『マトリックス』や『サロゲート』では、実際のVR/AR装置を真似た電子装置が登場した。そういう表現をくりかえしても面白くない。そこで、電子装置は一切出さずに、そういう装置が生み出すリアリティだけをいただいて、外観は、ドラッグカルチャー風にしてしまう。これが、この映画の美学的なミソだ。ちなみに、VR/ARシステムが生み出す新しいリアリティにくらべれば、『マトリックス』のそれは、既存のドラッグレベルである。
◆ふと思いだしたが、ウィリアム・S・バロウズの面白さは、彼が、「伝統的」なドラッグから入りながら、今日の(バロウズの時代にはなかった)VR/ARシステムの効果を包含するリアリティを洞察していたという点だろう。もっとも、バロウズが尊敬したロバート・モンロー(Robert Monrae)は、一時代まえの電子装置を使ってある種の「電子ドラッグ」の装置を作り出していた。
◆「NZT-48」を服用したあとエディの部屋のなかで彼の身体が5つも6つもになって働き、たちまちのうちに散らかった部屋をきれいにしてしまうシーンは、ある種のロバート・モンロー的な「体外への旅」だということも出来る。モンローは、「体外への旅」「体外離脱」をドラッグによってではなく、ステレオサウンド装置で可能にした(という)。
◆エディの「超能力」に目をつける投資家(ロバート・デニーロ)との出会いと株取引のからみは、あまり面白くはない。それよりも、クーパーと、アンドリュー・ハワードやトーマス・アラナとのサスペンス的なシーン、「ロシアマフィア」風の2人組との闘いシーンのほうが面白い。トーマス・アラナに追われるアビー・コーニッツがスケート場で反撃するシーンもいい。コーニッツは、どの出演場面でも魅了的だった。
(プレシディオ配給)
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