粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-09-27

●マイティ・ハート 愛と絆 (A Mighty Heart/2007/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)

A Mighty Heart
◆開映まえUIPの伊藤氏がくら~い顔で登場、「CICから数えて30年になるUIPは閉鎖になります。この映画がUIP最後の配給となります」と挨拶。わたしがキネマ旬報に映画評を書き始めたころは、担当の植草信和さんが電話をくれて、その指示にしたがって試写室へ行くパターンだった。まだ試写状は届かず、そもそも試写状なるものもいまほどさかんでなかった。みゆき通のリッカー会館の2階にあったCICは、他の試写室にくらべて新参者には冷淡だった。「ウチのはみんな大ものばかりで絶対当たるんだから、つまらない宣伝なんかしてもらわなくてもいいよ」という感じだった。「検問」ではいちいちノートに名前と所属を書かされる。それは、ほかでもやっていたが、CICは特にチェックがきびしく、大手の放送局の肩書を名乗る人なんかでも、たとえば「東京放送」とだけ書くと、「番組名を書いてください」と言われ、びびっている女の子もいた。やがて毎月の試写情報リストや試写状が来るようになったが、情報チェックは徹底しており、UIP配給の作品を悪く書くと、試写状が来なくなるのだった。近年こういうことがなくなったから、UIPも「民主化」したのかと思ったら、その分パワーが落ちたにすぎなかったのかもしれない。この手の「見せてやる」式の配給会社が皆無になるのは、さびしい気もする。
◆UIP最後の作品にふわわしいかどうかはわからないが、それがこのような、必ずしも後味がいいとは言えない「政治的」な作品になったのは、皮肉かもしれない。この映画は、言わずと知れた、実際に起こった事件を描いている。マイケル・ウィンターボトムは、プロデューサーのブラッド・ピットに依頼されて監督したのであって、自分から選んだ脚本ではないわけだが、例によってドキュメンタリー的なきびきびしたタッチで事件の経過を活写する。ただ、『グアンタナモ、僕たちが見た真実』のときもそうだったたが、ウィンターボトムの手にかかると、歴史上の事件が「ドラマ」になってしまうのだ。それは、彼の才能でもあるのだが、歴史を直視する目をきたえてくれるかどうかという点で言うと、「面白い、面白い」で終わってしまい、歴史的現実への目が雲ってしまうようなところがある。
◆映画の原作『マイティ・ハート 新聞記者ダニエル・パールの勇気ある生と死』(潮出版)を書いたマリアンヌ・パールと彼女を演じるアンジェリーナ・ジョリーが話す姿は、PBSの「チャーリー・ローズ・ショウ」で見ることができるが、たしかに、ジョリーは、マリアンヌをうまく模倣している。ジョリーの演技としても、かなりよかった『グッド・シャパード』よりもさらにレベルがあがった。キューバ人とオランダ人の両親を持ち、フランスで育ったマリアンヌは、カリビーンのにおいをただよわせた活動的なインテリ女性。みずからもジャーナリストだが、この映画が描く時期には、妊娠しており、家にいる。もっとも、その家はダニエル(ダン・ファターマン)の事務所になっており、ダニエルのアシスタント役(言葉の面で)の同僚アスラ(アーチー・パンジャビ)もいる。
◆事件が起こった2002年のパキスタンの情勢はよくわかる。911以後、イスラム圏とアメリカとの関係が悪化するなかで、アメリカとの関係を維持しようとするムシャラフは、ウォール・ストリート・ジャーナルの記者誘拐という国の立場をあやうくする事件に、強力な捜査網を敷く。事件が起きると、この事件は、パキスタンと仲の悪いインドが仕組んだという噂が流れる。アスラーはインド系なので疑われたりもする。反対に、インドをおとしめるためにパキスタンが仕組んだというインドよりの情報も流れる。テロ対策組織CIDの「キャプテン」は、この映画では、事態を冷静に見、マリアンヌに同情しながら、ダニエルを拉致した犯人を追いつめようとする。このへんは、サスペンス映画のノリとテンポで観客を引き込む。
◆しかし、全体として、この映画を見終わっても、この事件についてこれまで言われてきた以上のことはわからない。ダニエルを拉致したグループのリーダー、オマール(アリ・カーン)は逮捕されるが、ダニエルの首を切った実行犯は、アルカイダとの関係が暗示される程度で不明のままである。とはいえ、オマールが裁判で自己の正当性を述べる態度のなかには、氷のような冷たさがあり、「人道主義者」とは全然立場が違い、話しても無駄であるという感じがよく出ている。短いシーンであるが、これを演じたアリ・カーンの演技はこの映画のなかで最高に光っていた。
◆映画のなかでマリアンヌが「南無妙法蓮華経」と念仏(【追記/2007-10-23】参照)をとなえるシーンがあるが、彼女は、創価学会インターナショナル (SGI――ただしこれは、SokaGakki Internarionalの略であって、Silicon Graphics=SGIとは関係がない)の熱心な信者である。おそらくその関係で、原作の訳書も、潮出版から出ることになったのだろう。ネットを調べてみたら、「栄光のSGI 滅びゆくNST」というサイトに、こんな文章を発見した。「これは、氏[マリアンヌ・パール]が、ご主人の消息が不明であった時点に於いて、FBIの保護のもと、パキスタンを訪れていた時に、フランスのSGIメンバーに当てて送信したものです」。
◆最近、ミャンマーで日本人ジャーナリストが殺されたが、ジャーナリストが危険地帯に行って殺されたり、拉致されたりするというケースは、本人の覚悟からすると、死んで本望かもしれないし、そういう危険を犯す者がいなければ、「真実」の報道がとだえてしまうというというのが常識的な発想だろう。実際、ミャンマーの軍事政権は、デモが激しくなるにつれて、報道管制を敷き、あげくのはてにはインターネットの海外アクセスを禁止してしまった。しかし、メディア報道というものは、両義的である。報道されたために、事件が大きくなることもある。「テロ」は、マスメディアを通じた「犯行」宣言・予告なしには存在しない。メディアが暴力システムの一翼をになっているわけだ。報道は決して「自由」でも「中立」でもないのであって、情勢が緊迫すれば、おのずからどちらかの立場を取らされる。
◆ダニエル・パールは、ユダヤ人であり、米紙の記者として取材をしている最中に誘拐された。拉致した側は、ダニエルをCIAだとして、身柄の取引を要求した。ただし、このくだりはあまり詳細には描かれない。ユダヤ人であることから、ダニエルは、イスラエルのモサドだとも言われた。こういう場合、どうなんだろう? あなたが、もし、ユダヤ人でイスラエルに忠誠を誓うユダヤ人であるならば、あなたは何らかの形でモサドに貢献しているといえるかもしれない。しかし、ダニエルは、ユダヤ人ではあっても、そういうユダヤ人ではなかった。だが、CIAとの関係はどうか? 大新聞社の記者であるということは、間接的にCIAに貢献することもあるのではないか? あるいは、CIA と同じような機能をすることもあるのではないか?
◆一切の敵を殱滅するという「ジハード」的な立場からすると、間接的であれ、ウォール・ストリート・ジャーナルもCIAも同類になりえる。イスラム原理主義に反対しないアメリカ人も、どのみち「敵」であり、殱滅の対象になりえる。事実はどうあれ、911が「ジハード」の一つだと見なす者にとっては、WTCで死んだアメリカ人は「敵」の戦死者にすぎない。
◆一つの宗教と絶対的な命令を強制されたとき、歴史的には3つの対応が見出せる。(1)戦って相手を圧倒するか、(2)敗北して滅びるか、(3)屈服するかである。圧倒した場合には、いずれ、復讐される可能性が残る。屈服した場合も、いつの日か、「英雄」が出て、いにしえの敵を圧倒することが夢みられたり、実際にそうなったり、あるいは、そのあげくに完全に滅びたりする。つまり、これらのパターンは、もともと解決にはならないのだ。みずから同化してしまい、一切文句を言わないという第4の方法(たとえば、アメリカ人がみなイスラム教に改宗する)もあり、これは面白いと思うが、あまり聞かない。
◆「ジハード」は、「テロ」のような身体的な攻撃にばかり目が行くが、アメリカを中心とするグローバル産業が行なっている意識の均一化的な「攻撃」(情報的ジハード)にくらべれば、その「精神面」での影響力は大きくない。逆にいえば、それが弱いために身体的な攻撃にかたよってしまうということもできる。と同時に、グローバル勢力の圧倒的な「精神」操作の力のまでのあせりがそうした露骨な暴力行使に向わせるという面もある。もし、「テロ」を鎮めたいと思うなら、情報の規模をすぐ世界的にしようとしたり、世界のより多くの人々が同じような考えにそまることを求めるような方向を転換するしかない。
◆この映画は、ダニエルの側を同情すべき被害者、イスラム系の犯人たちを憎むべき非道な人間たちとしてしか描くことをやめようとしてうまくいかなかったといった気配がある。ただし、マリアンヌが、夫の死を確認したときの絶叫(絶望と終焉)と、出産のときの絶叫(希望とはじまり)とが呼応するかのように描かれ、彼女がナレーションのなかで、夫が首を切られたことと、イスラム教の祭りで生贄の首が切断されることとを重ね合わせるとき、彼女は、「情報ジハード」を越える何かを考えていることを示唆するかのようだ。が、それがあまりに弱すぎる。
◆【追記/2007-10-23】『池田大作 行動と軌跡』の著者でもある前原 政之氏から次のような指摘があった――〈“マリアンヌが「南無妙法蓮華経」と念仏をとなえるシーンがあるが"とありますが、南無妙法蓮華経は「念仏」ではなく「題目」かと思います。 〉。非常識をお詫びします。
(UIP試写室/UIP)



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●ヒトラーの贋札 (Die Fälscher/The Counterfeiter/2007/Stefan Ruzowitzky)(ステファン・ルツォヴィッキー)

Die Fälscher
◆今日は1本の予定だったが、『アフター・ウェディング』が不満だったので、東銀座の万年橋までタクシーを飛ばす。開映15分ぐらいまえになってしまったが、まだ席に余裕はあった。ここではいつも後ろに座る。前がずっと空いていたので落ち着いて見れると思ったら、開映寸前に頭のえらく臭いおじさんが前に座り、背伸びしなければ見えなくなった。この人、上映中たびたび頭の位置を動かすので、こちらもそれに合わせて視角を変えなければならない。おそらくわたしの後ろの人もいらいらしたことだろう。
◆開映しても場内が暗くならないので見ると、誘導灯がこうこうとついているのだった。まえに来たときは、もっと暗かったと思う。消すのを忘れたのか、消せないやつが設置されたのかはわからない。が、スクリーンに光が直射する位置にあり、大きさもけっこうある。最近は、上映中や開演中に誘導灯を消す劇場が多いが、消防法的にはダメなのだろうか? とにかく、これでは映画を見る環境ではない。
◆ナチスが強制収容所のユダヤ人に大量の贋札を作らせて、英米経済を撹乱しようとした「ベルンハルト作戦」にもとづく物語だが、描き方は、フィルム・ノワール風のサスペンスである。
◆冒頭は、大戦後、解放されたその収容所から生き残ったユダヤ人、サリー(サロモン・ソロヴィッチ)が、モンテカルロのカジノで、かつて自分が作ったらしい贋金の一部を蕩尽(とうじん)するシーンだ。サロモン・ソロヴィッチが渋くイキな老遊び人風なので、最初から、この映画がフィクションであるかのような印象をあたえる。
◆サリーのような「国際的」な贋札職人や印刷技師やみな贋札作りに役立つ人間をかき集めてきて、特別の待遇をあたえて組織的に贋札を作らせるナチだが、そのナチ親衛隊員の描き方はこれまでよく見せられて来た一面的なものである。命令し、言うことを聞かなければ頭にピストルを向けて殺す。やたらと暴力をふるい、捕らわれた者たちは、怪我がたえない。食事は、一般のユダヤ人とくらべればめぐまれているとしても、相当ひどい。食事に関してはその通りだったのだとしても、ナチ親衛隊員というのは、みなこのように判で押したような奴ばかりだったのだろうか? もうそろそろ、このパターンに飽きて来た。
◆贋札工場のユダヤ人のなかには、ユダヤ系スロバキア人の共産党員のアドルフ・ブルガーのような人間もいる。彼は、ナチへの反抗のためか、あたえられた作業服を着ず、縞模様の「ナチ囚人服」を着つづける。また、ユダヤ系ロシア人で、カンディンスキーやバウハウスに共感しているらしいインテリ美術生のコーリャ(セバスチアン・ウルツェンドフスキー)ような者もいる。しかし、映画の視点は終始サリーに当てられていて、そうした異なる個性がドラマにいかされてはいない。
◆どのみち映画は映画なのだから、こうした贋札工場のユダヤ人たちが、ナチ親衛隊員にいっぱい食わせたというような作りでもよかったような気がする。実際に、1950年代になって、オーストリアの湖からこの作戦のときに作られた贋札や道具がつまった箱9個を見つけたという。ならば、もっと解放的な話にした方がよかった。これだと、ナチはひどい→生き残って少しウサを晴らしたが、それでもつらい記憶だけが残る・・・といったドラマに終わってしまう。
(CINEMAT銀座試写室/クロックワークス)



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●アフター・ウェディング (Efter brylluppet/After the Wedding/2006/Susasnne Bier)(スサンネ・ビア)

After the Wedding ◆『ある愛の風景』のノートでも書いたが、「ありがち」なパターンに観客を引き込んでおいて、それを、意外な出来事で裏切るというのが、スサンネ・ビアのスタイルだが、今回は、それがややパターン化し、その「意外な出来事」(複数ある)を知らされても、「それがどうした?」という気持ちが残り、その「意外な出来事」に衝撃を受ける登場人物たちと共感することはできなかった。むろん、それがねらいならそれでもいいのだが、そうでもないらしいところが問題だ。
◆映画は、一人のデンマーク人の男ヤコブ(マッツ・ミケルセン)がインドで孤児たちの世話をしているシーンから始まる。貧民街の活気はよく出た映像だが、あくまでも「西洋人」の視点が感じられる。映画では、ヤコブは、だらしのない生活をしてきた人間で、女やドラッグに溺れたことがあるという「解説」をするが、映像の視点がいかにもの「チャリティ」の目なのだ。
◆この映画では、もう一人の男が描かれる。もうじき48歳を迎えるヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)は、多国籍の事業に成功し、庭で鹿がたわむれる豪邸に住み、「美しい」妻ヘレネ(シセ・バベット・クヌッセン)と子供たちがおり、長女のアナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)は近々結婚式を迎えようとしている。スサンネ・ビアの映画では、「しあわせ」そうなシーンが続くと、そのあとに必ず「破局」が訪れるのだが、この作品も御多分に漏れない。ストーリーを追うのはやめるが、ヨルゲンは、余命いくばくもない身であり、それを周囲に隠していることがわかる。娘の結婚も意外な結末へ進む。
◆監督・脚本のスサンネ・ビアの目は女のものであり、彼女は、ヤコブもヨルゲンも肯定してはいないと思う。ヨルゲンの死に様は傲慢である。彼は、残される自分の妻と娘の人生にプログラムを設定しようとする。48歳で死を宣告されれば平静ではいられないから、「死にたくない」と泣き叫んでも仕方がないし、そのヨルゲンを演じるロルフ・ラッセゴードの熱演もあいまって、このシーンに共感して涙するような観客も少なくないかもしれないが、監督は、明らかに、この男を醒めた目で見ている。また、一見世俗にうとく、ひょうひょうとしているヤコブは、よく考えてみると、ばかな男である。孤児院に資金援助をするというのでコペンハーゲンに来てみたら、彼の後半生を支配するシナリオが全部ととのえられていたというのだから、おめでたい。
◆俳優たちの演技は見事である。しかし、2007年度の「ベスト外国語映画」部門のオスカーにノミネートされたり、いくつもの賞を獲得しているにもかかわらず、スサンネ・ビアの他の作品にくらべてこの作品が飛び抜けているとは思えない。
(映画美学校第1試写室/シネカノン)



2007-09-21

●ブレイブワン (The Brave One/2007/Neil Jordan)(ニール・ジョーダン)

The Brave One
◆アメリカではけっこう賛否両論の作品。婚約者とセントラルパークに散歩に行って暴漢に襲われるジョディ・フォスターが、チャールズ・ブロンソンの『狼よさらば』(Death Wish/1974/Michael Winner)ばりの「復讐」行為にはまる話。途中でダレるところがあるのと、刑事役のテレンス・ハワードがやや精彩を欠くきらいはあるが、ジョディ・フォスターが抜群の演技を見せる。これにはほれぼれした。
◆警察の捜査がまだるっこいから自分が「私刑執行人」になるというパターンは、アメリカのある種の伝説だが、マイケル・ウィナーの『狼よさらば』は、そういう伝説と「ニューヨークは怖い」という都市伝説を軽いノリでブレンドした映画だった。ちなみにマイケル・ウィナーは、イギリス人であり、マーチン・スコセッシのように、ニューヨークに執着をもっている監督ではない。だから、この映画が封切られたとき、わたしは、(ニューヨークを熱愛していたので)この映画に腹がたった。が、この映画は、1984年になって急に関心を呼んだ。というのは、1984年12月にニューヨークの地下鉄内でヤッピー風のみなりのいい男が、4人の若者に5ドルよこせと脅され、それに対して、「いいよ、みんなに5ドルづつくれてやる」と言って、38口径のリヴォルバーを一人一人にぶっぱなす事件があったからである。このときも賛否両論があったが、体勢は、銃をぶっぱなした男に同情的だった。ちょうどこの前の年にわたしは、マイケル・ウィナーの映画の原作には、1970年代後半に顕著になる「ジェントリフィケーション」を肯定する(ニューヨークは「浄化」されるべし)主張が潜在していることを指摘していた(『シネマ・ポリティカ』、作品社の「ニューヨークの黄昏」所収)ので、この事件への反応は、想定内のことだった。
◆状況は違うが、この『ブレイブワン』がいま肯定的に受け入れられるなら、ニューヨークには、いまふたたび「浄化」指向の動きが起きていると考えてもよいかもしれない。911で荒れたこの街も、そろそろ「落ち着き」が欲しくなっている。優雅なロフトに住むポスト・ヤッピーたちは、「安心して歩ける街」を望んでいる。そういう意図を含んだ映画を作るには、監督のニール・ジョーダンは向いている。アイルランド出身の彼は、「僕はニューヨークを知らない」と公言してはばからない。よく知っていたら、こういう映画は撮れないだろう。が、それでは、『タクシードライバー』で、70年代のワイルドなニューヨークの少女売春婦を演じて脚光を浴びたジョディ・フォスターにとっては、この映画はどういう意味を持ったのだろうか?
◆この映画でジョディが演じているトークラジオ局のホストのエリカは、絵に描いたような「ヤッピー」ないしは「ポスト・ヤッピー」ではない。職業的には、そういう人種に属するかもしれないが、住まいは、スパニッシュ・ハーレムに近いアップタウンで、映画で見るかぎり、エスニック・ミックスの安アパートに住んでいる。いっしょに住んでいる婚約者(ナビーン・アンドリュース)はインド人という設定(ちなみにナビーン・アンドリュースもインド系)で、『狼よさらば』のワスプ至上主義者ではない。テレンス・ハワードが演じる刑事とは、愛の芽生えを感じさせもする。つまり、この映画では、『狼よさらば』にあったような、白人がエスニックパースンをやっつけるというレイシスト的な図式は成り立たないのである。
◆むしろ、エリカの「復讐」は、同じレベルの「市民戦争」に近い。と同時に、これは、エリカの個のなかの闘いでもあり、「市民」であるか、それとも「ストレンジャー」(異邦人、異邦の個)であるかという葛藤でもある。そして、映画は、最終的に「ストレンジャー」であることを肯定する。エリカは、決して「市民」にもどるつもりはない。
◆都市の「優美さ」や「浄化」をとなえる「ジェントリフィケーション」は、程度の差はあれ「確固とした市民」の存在を前提にしていた。「市民」が安心して暮らせるために「浄化」が行なわれるのだり、「天罰」としての「私刑」が行なわれるのである。しかし、エリカには、そういう「高邁」な理念はない。むしろ、内心の欲求に導かれて殺人を犯す。それは、「必殺仕掛け人」的な「天誅」とは関係がない。むしろテロリストの意識に近い。
◆拡大解釈をすれば、この映画は、911以後のニューヨークで、誰しもがその意識と身体のなかに植えつけてしまったテロリズムを描いていると言えないこともない。ここでは、誰も「市民」ではありえない。しかし、ニューヨークは、もっとも活気に輝いたときは、「市民」の街ではなくて、「ストレンジャー」の街だったのではなかったか?
◆映画のなかでジョディが持ち歩くレコーダーは、Sound Devices社のポータブル・デジタル・レコーダーの「702T」という名器である。価格は、2,650ドルだから、日本円で30万円以上。ニール・ジョーダンは、それほど多く出てくるわけではないラジオ局のスタジオシーンのために、わざわざちゃんとしたスタジオをブルックリンに作ったという。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-09-20

●オリオン座からの招待状 (Orion-za karano shotaijo/2007/Saegusa Kenki)(三枝健起)

Orion-za karano shotaijo
◆ノスタルジックでちょっとせつなくもある浅田次郎の世界と拮抗(きっこう)する仕上がりになっていて感心した。エンタテインメントとしていい線をいっている。
◆全体は、現代のカプセルに入っており、現代の登場人物たち(原田芳雄と中原ひとみ、樋口可南子と田口トモロヲ)が過去を回想する形式。原田と中原は、京都で昭和25年(1950年)から続いた映画館「オリオン座」を閉めようとしている。樋口と田口は、幼いとき(昭和30年代)にこの映画館を遊び場にしていた。それぞれにわけありの家庭環境のなかで二人は京都の路地の奥のこの映画館にたどりついたのだった。その後二人は東京に出て、結婚したが、いまは別居中だ。その二人を一通の招待状が結びつける。映画館を閉めるにあたって、原田が昔の知り合いたちに招待状を出したのだ。樋口と田口は、30年も京都に帰っていないというが、そんな彼女と彼の住所をどうやって知ったのだろうか――などというヤボな問いはいまはやめておく。この映画は、心優しい人々の話なのだ。
◆特殊メイクばやりのこの頃のトレンドに従わず、この映画は、時代で役者を替えている。昭和30年代に大津から京都に出て来てオリオン座に上映技師の見習いとして転がり込んだ17歳の留吉を演じるのは加瀬亮で、それから半世紀後の老人・留吉は、原田芳雄が演じている。留吉を雇ってくれる劇場のオーナー・松蔵(宇崎竜童)の妻・トヨの若き日を演じているのは宮沢リエだ。いまでは病院にいる高齢のトヨを演じているのが中原ひとみで、オーナーの死後、二人がいっしょになったのだなということが最初からわかる。そうなることが最初からわかりながら、二人(とりわけ加瀬=留吉)が遠慮しあうところがノスタルジックでせつないわけだ。
◆浅田次郎の小説では、そうした古い師弟関係がノスタルジックに描かれる。その時代のコンテキストでみれば、師弟関係なんて「不合理」の極みだと思われる面も多々あったが、ノスタルジアのなかで見直すと、それが美しく見えてくる。写真家など、いまでは「フォトグラファー」とかっこいい仕事だが、40年も時間を巻き戻せば、弟子は師匠の家の便所掃除までやらされたという話をいまでは高名のある写真家から聞いたことがある。「水洗便所」なんて言葉があった時代のことだから、多くの便所は汲み取り式で、便所掃除というのは、屈辱的な仕事だった。加瀬亮は、1974年生まれだというのに、一時代まえの人間を演じることができる稀有な役者である。彼が、フィルム缶を自転車に乗せて、映画館から映画館を必死で走り回るシーンにも、師弟関係が生きていた時代の雰囲気がただよっている。
◆こういう師弟関係にせよ、その根底には、「金のため」とは別の価値観が動いていた。それは、「義理」や「人情」という言葉であらわすと、単純化のそしりをまぬがれない。金がからまなかったわけではない。金の渡し方やもらい方がちがっていたと言った方がいい。古い関係のなかでも、「心づけ」というものはあったわけだ。さりげなく金を渡す。このなかにいくら入っているよということを明記して渡すのではない。もらう方は、それをなかに何も入っていなくてもかまわないかのような態度で受け取る(その型がいまでも残っているのは、相撲の「賞金」の受け取りかたぐらいか。彼らが、土俵で金額を確認するのを見たことがない――ひょっとするのなかにはスポンサーの名前が羅列さえたかみ切れしか入っていないのかもしれない)。要するに、問題は、気づかいなのだ。それは、別に「日本特有」でも何でもない。
◆宮沢リエという俳優は、不思議な人だ。「うまい」とは言えないのだが、その何とも「自信のない」風情が自然の演技になってしまった。アンドロイドともちがう。「少女」的な要素を残しながら、「永遠の少女」というわけではない。彼女が、この映画で、自転車を奔放に乗り回すシーンがある。ここに宮沢の不思議な要素が全部出ている。夫(宇崎竜童)が死に、ある意味では淋しく、同時に解放されもした時期の一人の女が、夫の弟子(加瀬亮)と散歩に出て見せるしぐさである。
◆この映画には、「うつくしい」絵になるシーンがいくつもある。テレビの登場によって映画館への客が激変するなかで、松蔵死後の留吉とトヨとの関係をせんさくする隣近所の無理解もくわわって、映画館の運営が難しくなる。留吉が自分に責任があるとトヨに言うシーンには、がらんとした映画館の客席が使われる。現実にはありえない姿勢だが、二人は、それぞれカメラの方を向いて、語る。留吉が川辺で蛍を見ている――トヨは、自宅のカヤのなかで、眠れない、淋しげな夜を送っている。その川辺の留吉のまえに突然、無数の蛍が飛び、光を放つ。彼は、それを2匹ほど手のなかにつかまえてトヨのカヤのなかに放つ。いかにも「浅田次郎」的な感触の世界だ。ちなみに、こういう「シーン描写」をすると、映画を見た気になってしまう人がいるが、映画は映画であって、こんな稚拙な描写には尽くせないことを再度強調しておく。最近、「忙しくて、映画館に行けないので、『シネマノート』を読んで、映画を見た気になっています」というメールをくれた人がいた。いや、この「ノート」は、基本的にとりあげている映画を見た人のために書いており、もし、万が一この「ノート」から、その映画を見たかのような印象を得たならば、自分でその作品を見て、反論してほしいのです。
◆時代を明記したチャプターを付けているこの映画には、時代時代にこの映画館が上映した映画という設定のポスターや、映写室や客席からちらりと見える映画のシーンが登場する。老年の留吉(原田)の回想が「昭和32年」(1957年)にバックすると、オリオン座では、『二十四の瞳』(1954年)と『君の名は』(1953年)の二本立をやっている。前者で高峰秀子が子供たちを連れているシーン、後者で佐田啓二が暗~い顔をして岸恵子(このときのマフラーの巻き方が、「真知子巻き」としてはやる)と数寄屋橋(まだ川があった)の欄干のところで逢っていうシーンがそれぞれ映る。どちらも「松竹大船」の製作だから、二本立ては可能だったはずだ。昔は、オリオン座のような場末の小さな映画館では、数年まえの映画を上映するのはあたりまえだった。こういう環境に留吉(加瀬)がやって来る。彼は、戦争で父を失い、その後のひどい時代にすぐに母を失い、「乞食同然」の状態で京都に来た。だから、松蔵は、最初、ただの食いぶちのために弟子入りするのだとうぐらいにたかをくくっていた。
◆フランキー堺主演で石原裕次郎が高杉晋作役で出ている川島雄三の傑作『幕末太陽傳』のシーンがちらりと出たのは、なつかしかった。
◆松蔵の夢は、「戦中に公開されたとき軍部の検閲でずたずたにされながら迫力を失わなかった」『無法松の一生』(1943年)をノーカットで上映することだった。だから、オリオン座には、この映画のポスターが飾ってある。松蔵は死ぬ前にそれを実現し、老年の留吉は、閉館記念にふたたびこの作品を上映する。この映画でちらりと出るシーンだけでも、伊丹万作(伊丹十三の父)監督(→じゃなかった、脚本が伊丹、監督は稲垣浩→【追記】参照)、阪東妻三郎(田村正和の父)主演のこの作品はなかなか迫力がある。
◆【追記/2007-09-22】貴重な訂正とコメントをいただいたので、無断で引用させていただく。なお、「GHQの検閲により失われた映像」を付録に収録したDVDが角川映画から近く出るらしい。
『オリオン座からの招待状』についての記述ですが、『無法松の一生』の監督は伊丹万作ではなく稲垣浩です。伊丹万作は1938年の『巨人傳』(和製レ・ミゼラブル)を最後に監督引退し、『富島松五郎伝』の脚本はもともと稲垣浩のために書いたものです。
あと、『オリオン座からの招待状』は未見なので何とも言えないのですが、『無法松の一生』の検閲局のカットは「ずたずた」ではなかったと思います。松五郎の吉岡夫人への恋慕を描く10分間がカットされたのですが、検閲官は映画の出来の良さにカットの取り下げも検討したところ、公開を急ぐ大映が自らカットしたというのが真相とされています。しかし、1943年版の『無法松』は戦後にも封建的なシーンがGHQ命令でカットされているので、最終的には長期間にわたって「ずたずたにされた」というのが正しいのかも知れませんが、度重なるカットに怒った稲垣浩がリメイクした三船敏郎主演版と見比べると、現在フィルムが散逸している1943年版は、あちこちをカットして「ずたずたにした」と云うよりも、一つのエピソードがきれいに持ち去られたという印象を受けます。
(東映第1試写室/東映)



2007-09-19_1

●サウスバウンド (Southbound/2007/Morita Yoshimitsu)(森田芳光)

Southbound
◆まえの作品が終わらないとかで、ロビーで待つ。けっこう客が集まり、開場したときには、「待ったのに席がないじゃないか」という怒声も聞こえた。これなら、今回はけっこうイケるのかなと思ったが、結果はそうでもなかった。それにしても何か恥ずかしくなっちゃう『カンフーくん』の予告と、気が滅入る「NO MORE 映画泥棒」のキャンペーン映像を本編のまえに見せるのは、逆効果だと思うけどねぇ。
◆森田監督の作品はけっこう見ているが、最近の作品で「これはいい」と思ったことがない。『39・刑法第三十九条』、『模倣犯』、『阿修羅のごとく』、『海猫』、『間宮兄弟』のノートでも、あまりほめていない。そのくせ新作を見てしまうのは、森田が、いつも「いま」のテーマをあつかうからだ。その場合、わたしのなかにはかつての傑作『家族ゲーム』の記憶があって、そのフィルターで見てしまい、点がからくなるのかもしれない。
◆最初、相当数のデモ隊と機動隊とのもみあいのモノクロ映像が映り、その中央に豊川悦司の顔が見える。それは、明らかに「全共闘」風で、時代はせいぜい(遅くても)70年代初めの感じだ。その彼が、「いま」、妻さくら(天海祐希)と3人の子供たち(北川景子、田辺修斗、松本利菜)と西浅草で暮らしている。しかし、彼は、もともと西表島の出身で、島の開発をめぐって、東京の開発業者と闘ったこともあるらしいことがわかる。
◆こういう元活動家の話を描くのなら、めちゃめちゃな時代設定をしないでほしい。豊川演じる上原一郎は、「ナンセンス!」が口癖で、国民健康保険の支払いを求めてくる区役所の職員(吉田日出子――彼女を起用する必要はあったか?)にもこの言葉を発する。これは、せいぜい70年代初めぐらいのころまで集会などで大学側や「体制」の側の代表者の発言を封じるために使われた言葉だが、いつのまにか、「全共闘」っぽい雰囲気を出すためにドラマや映画などで安易に使われるようになった。しかし、元全共闘で、いい歳になってもこんな言葉を使っているやつなどいるだろうか?
◆小学6年の長男・二郎(田辺修斗)が、父親の過去に興味を持って、学校のコンピュータでインターネットにアクセスしてみると、父親が党派に属しており、「行動隊長」だったというようなことが書かれているページが出てくる。ところが、そのページのトップには、「80年代のアナーキストたち」となっている。これって、変じゃない? 「党派」がどうして「アナーキスト」なのか?ひょっとして、そのページを作ったやつがまちがえたという設定なのか? ま、そういう言い訳も出来るが、このいいかげんさは、この映画のいいかげんさとぴったり共振している。
◆上原一郎は、家でも外でも、自分が活動家であったことを自慢にしているようだが、元全共闘の「行動隊長」で、しかもやはり党派だった妻(天海祐希)が傷害で捕まったりもしているような場合、「いま」になっても元全共闘ぶることができるやつは、そうとうおめでたいか、実質とはちがった過去を詐称しているにすぎない。まあ、たまにこういう「困ったちゃん」がいるが、所詮は、相手が弱いとみると(たとえば、腹が立ってもどなり返せない役所の人間なんかに)居丈高に「反権力論」的なへ理屈を振り回しているだけで、いざとなると尻尾を巻いて退散してしまう権威主義者なのだ。
◆上原一郎のような人間がいるかいないかは別として、「団塊世代」は、とかく単純な「権力批判論」をタテにとったへ理屈を言って家族や会社の若者を困らせる――あるいは困らせているのではないかという脅迫観念につきまとわれている。この映画は、そういう意味での「団塊世代」パラノイアの話であって、団塊世代の親を持つ子供のなかには、「うちの親父にもそういう面があるよね」という共感を持つのもいるかもしれない。が、それは、親父が「団塊世代」ぶっているだけであって、「団塊世代」などというものはなかったのだということをとくと知るべきだ。
◆上原一郎は、家でも外でもある種の「主張」を持っている。国民年金を納めろと言って来た区の職員(吉田日出子)に、「文句があるなら国民やめちゃおう」と言う。かつて、わたしなども、「国内亡命」のすすめを提唱したことがあるが、「国籍」を捨てることは出来ないことではない。が、それには、国家を捨てるまえに家庭(制度)を捨てることを覚悟しなければならない。国籍を問題にすれば、国家と家庭・家族との不可分離の関係がわかるだろう。国家がいかに家庭・家族と癒着しながら成立していることがわかるだろう。上原一郎のように、家族主義者が国籍を捨てることなどまあ無理というものだ。
◆この映画は、構造的には、アリバイを用意して、上原一郎の特権的な立場を最初から安全圏に置いている。彼は、沖縄で1500年に王朝に抵抗して乱を起こした八重山の農民指導者、オケヤ・アカハチの子孫だということになっている。つまり、「日本国家」にも、沖縄王朝にも距離を置く人間なのだ。東京の西浅草の生活を捨てて、いきなり西表島に移住すると言い出すのは、浅草で呉服商を営む裕福な母親(加藤治子)を持つ上原さくら、つまり一郎の妻が、それは夫の気持ちを想いはかってのことだった。まあ、「団塊世代」のパターンというのはそういうものなのかもしれないが、この映画で、上原一郎は、終始家族の「長」であって、わたしが知っている「団塊世代」の多くがどちらかというと「恐妻家」で、家事なども共同でやったりするのとは、大分ちがう。そもそもこの映画は、息子の上原二郎の視点とナレーションで描かれており、最初は当惑の対象だった父親を見直し、「立派」だと思う話なのだ。
◆最初、豊川が楽しんでいるようにも見える軽い演技に、こいつは、「団塊世代」のおやじのパロディかと思ったが、それが実は本気だということになって、苦笑してしまった。
◆祖先が「先住民」だということになっているから、その上原一郎が「故郷」にもどるのは、いまはやりの沖縄移住とは意味がちがうことになる。このへんがあざとい感じがする。が、どう見ても、豊川が演じる男には、「先住民」のおもかげも伝統もないから、この映画は、結局、「沖縄はいいねぇ」式の、沖縄移住礼賛映画になってしまう。子供たちが入る学校には、西麻布から越してきたという、登校拒否になった海外帰国子女もいるが、いま、沖縄に「癒し」を求めて移住する人間が増えている。そういうトレンドに載った作品以上にこの映画に何があるだろうか?
◆反抗のすすめのようなせりふやほのめかしが随所にあるが、いまの時代、この映画の不動産屋や地元の議員のようなやり方で「抑圧」することはマレなのだ。見える形で「対立項」がないと元気づかず、自分で文句を言ってそういう「対立項」をパラノイド的に作るところが「団塊世代」にはあるかもしれないが、そういうパターンは、「団塊世代」という幻想といっしょに捨ててもらいんたい。いまの「抑圧」は、沖縄生活を美化するこの映画のように、さりげないやり方で機能する。
◆息子の二郎と級友が学校のたかりグループに「かねを持ってこい」と脅されるエピソードが描かれるが、安易に「解決」してしまう。こちらの方が、沖縄移住などより、解決しにくい問題なのに。風景的に一応出しておくといった出し方。この突っ込みがたりなさは、この映画全体の姿勢でもある。
(角川ヘラルド試写室/角川映画)



2007-09-18_2

●チャプター27 (Chapter 27/J. P. Schaefer)(J・P・シェーファー)

Chapter 27
◆ジョン・レノンの暗殺者マーク・デイヴィッド・チャップマンが実際にどうだったのかはわからないが、演じるジャレッド・レトは、その不安神経症的で、決して「まとも」ではないが、だからといってドラマで描かれるありがちな「狂気」でもない、微妙なキャラクターの不可解さと新鮮さをただよわす。
◆ハワイからやってきて、ケネディ空港からマンハッタンにタクシーで入るときタクシー運転手に話すセントラル・パークのアヒルが冬どこへ行くのかという話は、そのままJ・D・サリンジャーの小説『ライ麦畑でつかまえて』にある。冒頭から、この小説からの引用があり、マークがこの小説にはまっていることが示唆される。実際にマーク・デイヴィッド・チャップマンが、ジョン・レノンを銃撃したとき、この本を持っていたといわれている。引用されるのは、「フォニー」(いかさま)を憎悪する個所なので、マークは、ジョン・レノンの「いかさま」性に敵意をいだいて暗殺に走るという方向に行くのかと思ったら、決してそんな単純な描き方はしないのだった。
◆マークは、まずセントラルパーク沿いの63rd ストリートにあるWest Side YMCAに泊まる。彼が泊まった1980年ごろのニューヨークのYMCAホテルは、どこもひどい状態で、安かろう、悪かろうの典型であった。その分、「底辺」に興味のある者には、それなりの面白さがあったが、この時代にニューヨークにうとい者がいきなり泊まって、「面白いところだ」と思える人間は少なかったと思う。ある意味で、YMCAなどよりもっと「ひどい」安ホテルを転々としていたことがあるわたしは、いろいろな発見をし、その経験を『ニューヨーク街路劇場』におさめられている文章にまとめたが、わたしがニューヨークに住んでいるというので訪ねてきた知り合いは、その「スラム」性に一様に驚くのだった。わたし自身はすっかり神経の状態が変わってしまい、そういう場所が「あたりまえ」に感じられるようになった。しかし、最初のころは、あたしも、ヨーロッパあたりのホテルとくらべてその「安かろう、悪かろう」の度合いの極端さに驚いた。この映画のなかで、マークは、隣室のゲイが一晩中戯れていて、眠れず、翌日は、7th アヴェニューと52ndストリートの角にあったシェラトン・センター・ホテルに移っている。が、ここでも、「カーター大統領が泊まったそうだが、大したことない」と独白している。
◆映画では、マークが最初からダコタ・ハウスでレノンを待ちぶせし、彼を殺そうとしていたという風には描いていない。たまたまそこに行き、おっかけのように見えた(実は取材だった)ジュード(リンゼイ・ローハン)に会い、出たばかりのニューアルバム『ダブル・ファンタジー』をすすめられたり、ダコタ・ハウスのまえで待っていればジョンにあえることを知ったかのようにもとれる描き方をしている。待っているあいだも、殺してやろうという素振りはない。ここで会ったジュードと彼女の友人を食事に誘い、すっぽかされるが、それが彼を暗殺行為に導いたというような単純な描き方もしていない。このへんがなかなかいい。さまざまな推測を生むからだ。監督のシェーファーーは、この映画のスタイルを「ミニマリズム的」と呼んでいる。
◆マークは、『ライ麦畑でつかまえて』を買いたくなり、本屋に飛び込むが、ここでふと思い出したのは、リチャード・ドナーの『陰謀のセオリー』だ。メル・ギブソンが演じる主人公は、かつてCIAの「MKウルトラ」プロジェクトのもとでマンドコントロールを受け、『ライ麦畑でつかまえて』を見つけると買いたくなる。家には、ハードカバーからポケットブックまで多数の『ライ麦畑でつかまえて』がある。『陰謀のセオリー』は、レーガン大統領を狙撃したジョン・ヒンクリーの家にも『ライ麦畑でつかまえて』があったということに注目し、この本が、洗脳された暗殺予備軍の目印になっているという設定だ。
◆ところで、『ライ麦畑でつかまえて』(The Catcher in the Rye/1951) という小説の人気の背景には、何らかの「陰謀」があるのではないかとわたしは思うことがある。この本が1964年に野崎孝の訳で白水社の「新しい世界の文学」の一冊として出たとき(1952年に橋本福夫が『危険な年齢』という題で訳しているらしい)、評判にもなったので早速買った。が、わたしにはそれが世間で言われるほど「奔放な主人公」の話には見えなかったし、「五十年代アメリカのディーン・エージャーの口調を実に的確に捕らえていると推賞され」たといっても、それは日本語訳ではよくわからなかった。翻訳の問題もあるのかもしれないが、同時期に発表されたヘンリー・ミラーのものとか、J・P・ドンレヴィーの『赤毛の男』(小笠原豊樹訳)などとくらべれば、『ライ麦畑でつかまえて』が「禁書」あつかいされた理由がさっぱりわからなかった。ところが、この本への執着は内外でも持続的にあり、近年も、村上春樹が『キャチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルで訳出しなおした。ひょっとすると、この本に執着しているかいないかがある種の合図になるような秘密のネットワークがあるのかもしれない。ちなみに、この映画のタイトルは、最終章が「26」の『ライ麦畑でつかまえて』に対して、「27章」を加えるという意味である。
◆この映画の主人公マークが、洗脳された人間だとすれば、話はすっきりするが、そうとも、そうでないとも取れるように描くのがこの映画の意図のようだ。彼は、拳銃を持ってハワイからニューヨークはやってきた。当時は、預ける荷物に入れておけば、飛行機に拳銃を持ち込んでもわからなかった。なぜ彼は拳銃を持って来たのか? ニューヨークは物騒だからと吹き込まれたのか? 暗殺のために持ってきたのなら、ダコダ・ハウスで待ちぶせしているとき、その素振りに殺意が出たかもしれないが、そうは見えない。が、最初から暗殺が彼の半意識のなかに埋め込まれていたとしたら、それは、マークという人間の「脈絡のなさ」も納得できる。
◆マインド・コントロールを受けた者が暗殺をするというテーマは、映画では非常にポピュラーだ。そして実際にも、このマーク・デイヴィッド・チャップマンや、ロバート・ケネディを暗殺したサーハ・ベシャラ・サーハンの場合のように、そういう疑いを持たれている例がある。J・F・ケネディを暗殺した犯人とされたジョン・オズワルドを記者たちの面前で銃殺したジャック・ルビーは、その後獄中で自殺してしまった。こうしてみると、『PEACE BED アメリカVSジョン・レノン』のノートで、「わたしの推測では、レノンの殺害は、政治組織によるものというより、個人的な怨恨によるものではないかと思う」と書いたが、そうでない可能性は消えたわけではない。
◆映画のなかのシーンとして、幼いショーン(ヨーコとレノンの息子)が乳母の「ヘレン」と歩いていて、2人を知っているジュードがマークに紹介するシーンがある。マークはショーンと握手する。CBSがこのシーンを取り上げて、現在のショーンにインタヴューしているが、ショーンは(「いやですね」)「I don't like it at all」と答えている。目がヨーコによく似てきた。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2007-09-18_1

●君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956 (Szabadság, szerelem/Children of Glory/2006/Krisztina Goda)(クリスティナ・ゴダ)

Children of Glory
◆テンポはよく、サスペンス感もかなりあり、最後まであきさせないが、ふと気づくと、これって、「ハリウッド」+「往年の正統派的社会主義圏映画」だなと気づく。ソ連ブロック内で「雪解け」や「自由化」の動きがあると、ブロックを守るためにワルシャワ条約軍を派遣して弾圧するソ連が有無を言わせない「悪」としてあり、それに対抗する「民族」ブロックは「正」という枠ががっちりある。ハリウッド映画なら、それはエンタテインメントの「きまり」のようなものだが、正統派的社会主義圏映画では、イデオロギー的な正当化がほどこされる。
◆しかし、〈民族・地域〉対〈連邦〉という構図ではもう世界は動かないどころか、それこそが世界を混乱に陥れるということは、『サラエボの花』でもとりあげた 旧ユーゴーの紛争で如実のものとなった。アントニオ・ネグリの「平易化」(「単純化」ほどではないが)によってポピュラーになった「帝国」は、「悪」の象徴ではなくて、もっと構造的なものである。「帝国」といってしまうと、その中心があって、その周辺に諸国を従属していくようなイメージを呼び起こす。が、グローバリズムとしての「帝国」は、スタティックなものではなく、その「中心」は、まるで持ち回りのようにたえず変容可能なものである。
◆この映画は、ポーランドの反ソ「暴動」に呼応してソ連の支配に反抗する学生活動家たちと、その運動に、ハンガリー動乱を契機にして、水球の選手たちが巻き込まれて行く姿を描く。スターリンの死後に始まる「雪解け」で一旦ゆるんだソ連の締めつけ(当然、ソ連の出先機関のような国内の従属者と従属集団が一体となって行なう)が、ふたたびこわばってくる。ソ連の東欧支配の瓦解を恐れるクレムリンは、ブダペストに戦車を入れる。12年後の1968年にソ連がチェコに対してやったのと同じ――しかし、はるかに暴力的な――侵攻だった。
◆こういう状況を描く映画やドラマは、果敢に闘う活動家と軍の残虐な攻撃や傀儡となった政権の官僚たちの卑劣な抑圧とを対照的にイメージ化するが、この映画でもそのパターンを踏んでいる。ジャンヌ・ダルク的な圧倒的存在感で描かれるのは、カタ・ドボーが演じる学生活動家ヴィキ・ファルクである。その彼女に偶然出会って感化されていくのは、水球のオリンピック出場選手カルチ・サボー(イヴァーン・フェニェー)だ。動乱の年の1956年にメルボルンで開かれたオリンピックで、動乱をおして出かけたハンガリーの水球チームが、ソ連チームを倒して優勝したというのは事実である。そのなかの選手と学生活動家とのあいだに映画のようなロマンスがあったかどうかはわからない。なお、フィリップ・ノイス監督の『ニュースフロント』(Newsfront/1978/Phillip Noyce)には、この事件のことが出てくる。
◆この映画の「古さ」を笑うことはできるし、いまどき「民族」を強調することの単純さを問題視することもできる。しかし、この映画が描く連帯や闘争のノウハウは、これからも不要にはならないだろう。たとえば、戦車に対抗するのに、地面にフライパンの柄をもいで並べると、戦車はそれらを地雷と思って、道をよけるシーンがある。そのときに、戦車に火炎瓶を投げて攻撃を仕掛けるわけだが、ここにはDIY (Do It Yourself)戦略の基本がえがかれている。
◆カルチは最初ノンポリだが、彼の祖父はどうやら若いときに活動家であったらしく、「反撃しなければならないときもあるんだよ」と孫に言う。祖父・祖母の世代から孫の世代への継承の重要さも闘争のある意味での基本だ。
◆全体をエンタテインメントにしてしまっているのは、ガンエフェクトとアクションのハデさである。ソ連は、ブダペストに侵攻し、こんなにもいきなり民家を無差別に砲撃したりしたのだろうか、と思わせるくらい、銃撃・砲撃のシーンはサービス過剰である。しかし、歴史的事実は、この映画で、メルボルンでの水球チームの勝利にもかかわらず、それはいっとき、ハンガリーのソ連に屈服させられた人々を喜ばせたものの、ソ連の支配は貫徹され、民主化の象徴となったナジ・イムレ首相は処刑されるのである。
◆アメリカ、オーストラリア、カナダなどには、ハンガリー動乱で国を捨てた親たちの二世や三世がたくさんいる。ルカーチのヘーゲリアン・マルクス主義を引きついで1970年代に活発な発言をしていたアグネス・ヘラーやアンドリュー・アラトーらは、みなそういうバックグラウンドを持っている知識人である。当時は、まだマルクス主義の世界には依然としてソ連を崇高なものとみなす(スターリンは否定しても「共産党」は肯定する)発想があり、マルクス主義者のソ連への態度は不明瞭にならざるをえなかった。そんなとき、ヘラーやアラトーは、明確に反ソの立場を取ったので、「やつらは右翼だ」という非難にさらされた。
◆このへんの問題は、単純ではない。ナチの強制収容所、ミロソヴィッチ政権の「民族浄化」、北朝鮮の「拉致」を肯定することはできない。しかし、その否定・肯定が、少なくとも、現在進行中の出来事に関しては、極めて政治的な関数のなかで動いていることも事実だ。米ソ両陣営が冷戦を闘っている状況のなかで、ソ連を否定してアメリカに距離を置くことはむずかしい。つまり「立場」の選択を迫られるわけだ。ソ連のハンガリー侵攻は、非道である。それは批判の対象になる。が、冷戦は、ソ連がまちがっていて、アメリカや「自由主義」圏が正しかったために起こったのか? 両陣営は、主導権を争ったのであって、その関数のなかでハンガリーやチェコへの侵攻が行なわれ、アメリカは朝鮮半島に兵を送り、さらにヴェトナムに介入した。
◆戦争は「冷戦」終結後にも終わらず、湾岸戦争以後、新しいタイプの戦争(「対テロ戦争」)が生まれた。この状況下で、あなたは、「テロリスト」に反対することはできる。「わたしはテロリストではない」と言うことはできる。しかし、テロリズムの枠をミクロな部分にまで拡大すれば、先進的な技術の国の日本に住んでいるというだけで、他人に「恐怖」(テロ)や「圧迫」をくわえている部分もある。911が陰謀であるかはおくとして、911のディレンマはここにある。WTCは、確実にアメリカとグローバル産業の象徴的拠点であったし、それが崩壊することは、それらのパワーを(あくまで象徴的にではあるが)損なうことだった。だから、テロリストは「アルカイダ」だけではなく、われわれ一人ひとりでもあるかもしれないし、また「アルカイダ」がグローバリズムに、その実体をうやむやにする「フロント」(みせかけのもの/かかし)になっている面もあるわけだ。ここでは、単純に「テロ反対」と言って済ますわけにはいかないし、また「グローバリズム反対」でも済まない。
◆この映画の難点は、いま、「テロリスト」を「アルカイダ」のような特定集団に限定し、それを叩けば、解決へ迎えるといった単純さに通じるパターン、つまりハンガリー動乱の元凶はソ連だったとし、ソ連=ロシアへの警戒をもちつづけること・・・・が見えることだ。水球のスターであるカルチに、そして彼の恋人となったヴィキに最初「柔軟」な態度を見せる秘密警察(AVO)の「フェリおじさん」(ペーテル・ホウマン)は、最後にその本性をむき出しにするが、これでは、単純すぎる。権威主義的な組織のなかで「善良」そうな態度を見せる者は、単に「仮面」をかぶっているにすぎない――というのは単純すぎる。そういう組織のなかの屈折と病理を描かなければならないのだが、そういうレベルをこの映画に期待することはできない。
◆ブダペストの「アメリカ」化は、ベルリンの壁の崩壊後、とめどもないものになったが、昔のハンガリー映画にはもっと屈折があった。ソ連は、ゾンビのように攻撃するだけ、ラディカルな活動家が美人で、それを愛したノンポリの男が政治に参加する、こいつは(メガネの「デイヴィッド」?という学生)は殺されるなと思っているとそうなる・・・といった単純なパターン。そうしたパターン化が最悪だったのは、水球のシーン。これでは、スポーツとしての水球は全然描かれない。
◆最後にハンガリーの詩人サンドラ・マライが1956年によせた詩「天からの天使」(映画では「天使の歌」)の詩文が引用される。ネットにあった英訳を部分的に重訳すると――「なぜ世界は暴発したの? 人々は泣き叫び、そして黙った。でも、いま多くの人々が問う、何が起こったの?どうして彼らは予想通り消えてしまったの? なぜおとなしく運命を受け入れたの?・・・・どうして世界は引き裂かれたの? "もうたくさん"と言ったから。自由に生まれた者には理解できない。自由であることがどんなにすばらしいかがわらない。」
(シネカノン試写室/シネカノン)



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●やわらかい手 (Irina Palm/2007/Sam Garbarski)(サム・ガルバルスキ)

Irina Palm
◆マリアンヌ・フェイスフルの演技が見たくて来た。すばらしい。彼女のような屈折した経験をした者でなければ決して出せないであろうような演技を見せる。いや、それは「演技」というようなものではないかもしれない。映画は、そういう微妙な部分を映し取るところが面白い。
◆マリアンヌ・フェイスフルが、病院にいる「孫」にお土産の縫いぐるみを渡すとき、"lovely"という言葉を発するのだが、その声が、パリのクラブ「ニューモーニング」でのライブ録音で歌っている"Want to buy some illusions"の一節の"lovely"と同じなのに気づいた。その歌は、ビリー・ワイルダーの『異国の出来事』(A Foreign Affair/1948)でマレーネ・ディートリッヒが歌った "take my lovely illusions" なのだが、まあ映画とは関係ない。
◆この映画で郊外の「普通」のリタイアーした「おばさん」マギーを演じているマリアンヌ・フェイスフルは、かつてはアイドル歌手だった。ミック・ジャガーの恋人だったが、ドラッグにはまってボロボロになり、長い沈黙ののち、1979年に『Broken English』でカンバック。このとき、彼女の声がいまのハスキー調になり、みんながびっくりしたという逸話があるが、わたしの印象では、この時代にはまだ若干「アイドル」の声が残っている。それが完全にふっきれ、「したたかな老売春婦」風の声になって録音した傑作が前述の曲が含まれている『20th Century Blues』(1997/BMG-RCA)ではないかと思う。
◆話は、単純。孫のオリー(コリー・バーク)が難病にかかり、4週間以内にオーストラリアで特別の治療を受ければ助かるかもしれないということになったが、裕福ではない息子夫婦のトム(ケヴィン・ビショップ)とサラ(シボーン・ヒューレット)には、旅費が出せない。マギーは、ローンを組もうとするが、不動産も貯金もないので、断られてしまう。失望してロンドンのソーホーを歩いていたとき、ふと目にしたのが、「ホステス募集 高収入」というポスター。そこは、セックスショップなのだが、そのあやしげな店のある地下に入って行く。オーナーのミキ(ミキ・マノロヴィッチ)に面会してわかったのは、この業界じゃ、「ホステス (hostess)」の「ホ (ho)」は、「ho=whore」(発音は同じで意味は売春婦)のことだぜということだった。驚く彼女に、ミキは、「手を見せろ」といって、マスターベーション・ボックスの仕事をすすめる。
◆この映画は、愛する孫のために、いままで考えもしなかった仕事を躊躇しながらはじめ、航空費を稼ぎ出すという「苦労」話の形態をとってはいるが、この映画の面白さは、そんなストーリーやプロットを越えている。登場人物の個々の関係が実に生き生きしている。ロンドンあたりに住んでいれば、肌でじかに感じるような雰囲気がぐいぐいと伝わって来る。特に、マギーとミキとの関係がいい。マノロヴィッチが、『美しき運命の傷跡』のときとは全然ちがったキャラクターを演じている。苦い過去があり、街のダーティな世界で仕事をしているが、繊細でロマンチックな気持ちの持ち主。最初はどぎついビジネスの関係だが、二人のあいだには大人の愛が芽生えそうなところで終わる。
◆こういう映画は、ディテールが楽しい。郊外の閉鎖的な街の雑貨店での会話、夫が生きていたころからのつきあいのある隣近所の女たちとの瑣末なやりとりのなかに、掘り下げていけば奥の深いドラマが隠されている。セックスショップで最初にテクニックを指導してくれるルイーザ(ドルカ・グリルシュ)は、あきらかにバルカンあたりからの移民であることを暗示し、暴力をふるう夫を逃れて一人で子供を育てているということが、マギーとの短い話のなかで効果的に描かれる。そして、マギーのボックスに客が集まり、ルイーザのボックスがさっぱりになり、店をクビになってしまったときの彼女の反応とマギーの痛み。ドラマの本筋ではなく、ほんの短いエピソードとして呈示されるだけだが、見事な脚本と演出だ。
◆この映画に登場するのは、みな、少数民族であったり、貧しかったり、移民者であったり、とにかく、社会の底辺にいる人々だ。ここには、そういう世界への等距離のまなざしがあり、しかもそれを、「おれたちはしいたげられている」といったネガティヴな相においてではなく、逆に――といって「ガンバリズム」でのし上がるのではなく――ちょっとだけしたたかに、しかもユーモラスに生きる相において描かれているところが感動的だ。
◆マスターベーション・ボックスには、いろいろのものがあるが、この映画に出ているのは、日本製だという。ミキは、マギーにそう説明する。壁に穴があり、そこに客がペニスを挿入すると、隣室でマギーがそれをしごいて、アクメに至らせるわけだ。その際、彼女の手が「やわらかく」感触がすばらしいので、客が殺到するようになるのだが、映画では、彼女は、客が替わっても、手を洗わない。あれだと、AIDSなんかが他の客にうつる心配がある。行ったことがないから知らないが、そういうセックスワーカーは、普通、使い捨ての手袋を使うと思う。先日、歯医者で歯科衛生技師の女性に手袋をはめた指を口に入れらたとき、ちょっとゴム臭かったが、妙な感覚が全身に走った。マギーのような「やわらかい手」でなくても、道具次第ではいろいろ出来るようになっているのではないかな?
◆子役のせりふがみな、下手。西表島の学校の校長を演じた人がなかなかいい演技をしていた。
◆映画のなかで、すぐに「パーティ」になってしまう場面(巡査でも「さぼっていけよ」と茶を飲ませる)が何度か描かれていたが、これは、たしかに沖縄らしいものであろうし、「全共闘」文化のいいところだ。実際には、元全共闘も、「猛烈社員」になって忘れてしまったわけだた。
(メディアボックス試写室/クレストインターナショナル)



2007-09-14_1

●PEACE BED アメリカVSジョン・レノン (The U.S. vs. John Lennon/2006/David Leaf/John Scheinfeld)(デイヴィッド・リーフ、ジョン・シャインフェルド)

The U.S. vs. John Lennon
◆ジョン・レノンがヨーコ・オノと出会い、変わっていくところがしっかりと描かれている。この映画に登場するジョン・レノンは、ビートルズのジョン・レノンではなく、ヨーコ・オノのジョン・レノンである。
◆その昔、つまり1960年代末、ジョン・レノンが小野洋子と結婚したというニュースを聞いたとき、ちょっと舌打ちしたいような気持ちをいだいた。有名人大好きの女とアジア系の女性に神秘さを感じたりする西洋人とのはすっぱなく組合わせのように思えたのだ。わたしは、当時、小野洋子の仕事をよく知らなかった。唯一の印象は、1962年、上野の東京文化会館小ホールで、来日したジョン・ケージとともに、ハプニングをやり、グランドピアノのうえに寝そべり、長い髪をたらして、蠱惑的な身ぶりをする一人の日本人の変わった女というものだった。そのかたわらでは、黛敏郎がせんべいかビスケットのたぐいをぽりぽり食っていた。客席の通路からボストンバッグを下げて高橋悠治があらわれると、会場から拍手がわいた。天才青年という噂があり、壇上で彼を迎えて、抱擁するジョン・ケージの姿を見て、そうなんだと思ったりもした。小野洋子は当時、ケージの流れをくむ「前衛」作曲家・一柳慧(いちやなぎとし)――ああ、いつだったか、彼の息子さんから連絡をもらったことがあるな、どうしてるのかな――の夫人で、この「コンサート」のあと、グラビア雑誌や週刊誌でも話題になった。小野洋子はその後、アメリカに帰ったので、それからしばらく日本のマスコミでは話題がとだえた。
◆小野洋子がすごいパフォーマンス・アーティストだということを認識するのは、1970年代になってからだ。50年代末から60年代初めに見たり読んだりした「ハプニング」が、ジョン・ケージを磁力とする「フルクサス」(FLUXUS)という一派(とゆうより、いまで言うネットワーク)なのだということがわかるには、ニューヨーク体験が必要だったのだ。小野洋子は、フルクサスの第一線で活躍していただけでなく、彼女と一柳のアパートが、ニューヨークのフルクサス・アーティストの実験場であり、また、2人が、フルクサスを日本とつなぎ、刀根康尚や小杉武久などをフルクサスのコネクションに引き入れる役割を果たした。
◆そういう目で見ると、ジョン・レノンは、ヨーコ・オノの指導と庇護のもとで反戦や平和への関心を高めていったことがわかる。むろん、彼にそういう素地がなければ、そうはならなかったであろうし、ヨーコと出会わなければ、別の誰かと出会って、もっと過激なアーティストになったかもしれない。が、1966年11月にヨーコがロンドンのIndica Galleryで開いた展覧会での出会いが、彼の後半生を変えた。ヨーコがやってきたことを知れば、レノンがやる社会意識の強いアクションやパフォーマンスはもとより、歌詞のなかにも、ヨーコのコンセプトを発見できる。
◆わたしは、周囲の人間が入れ込むほどビートルズやジョン・レノンに入れ込むことができなかった人間だが、ヨーコ・オノの偉大さを知るにつれ、少なくともジョンに関しては、ヨーコの影が見え、ジョンにまともに向き合う気持ちにはなれなくなった。レノンがいささか「お人よし」というか、裏でカーチャンがばっちり仕切っている店の主人というか、「素直」で「いい人」なんだろうけど、どこか半人前という印象を強くしていった。むろん、あの優美なリズムやメロディーは、レノンのものであろうけど、ビートルズよりもハードなニュージャズに入れ込んでしまったわたしは、レノンをななめにしか見れなかった。
◆だから、1980年の12月の夜、日本のある書評紙の編集者が電話をしてきて、興奮した声で「レノンが撃たれたんですよ!」と言っても、ファンとしてヴァーチャルなレノン個人に同化していたわけではないわたしは、悲しいといった気持ちをいだかなかった。自然、反応が白けてしまい、相手はがっかりし、追悼文のはなしはどこかへ行ってしまった。
◆この映画は、ジョンとヨーコが二人で活動してきたという記録としては感動的だが、ジョンの(あるいは二人の)政治性を強調しすぎている。この映画は、詳しい説明なしに、ジョンがピストルで撃たれることを示して終わる。それまでの描写が、ジョンがいかにベトナム反戦や平和運動に深い関心を持っていたかということを強調した編集になっているので、最後のシーンは、いかにも彼がそうした政治的コミットメントのために、彼の活動を監視しつづけてきたFBIあたりが暗殺に関わったのではないかという印象をあたえる。それは、ありえないことではないが、わたしの推測では、レノンの殺害は、政治組織によるものというより、個人的な怨恨によるものではないかと思う。
◆1970年代の後半から1980年までニューヨークにいたわたしの目からすると、ベトナム戦争終結後のジョン・レノンは、ニューヨークのセレブリティであって、政治的な危険人物ではなかった。というより、彼が政治的に危険であったことなどなかったのだろうと思う。映画では、FBIが電話を盗聴したり、活動を逐一記録していたことを示す文書がたびたび出てくるが、反戦活動が激しかった時期には、誰に対しても諜報の目や耳が向けられていた。それに、1980年にレノンを殺しても、政治的に何の有効性もないのである。
◆1972年にジョンとヨーコは、麻薬所持によるイギリスでのジョンの逮捕歴を理由に国外退去を求められ、その後の裁判闘争で、1975年に勝訴して、アメリカの永住許可を得るわけだが、このグリーンカードの取得の背後に、当時始まりつつあった「アイラブ・ニューヨーク・キャンペーン」があったことについては、この映画は全く触れていない。このキャンペーンが始まったのは、ジョン・V・リンゼイ市長の時代(1966-1974)で、これが、アブラハム・V・ビームの時代 (1974-1978)、さらにエド・I・コッチの時代 (1978-1990)に引き継がれるが、このキャンペーンを一貫して推進してきたのは、リンゼイの片腕でもあったコッチである。彼は、ジョン・レノンが「アイ・ラブ・ニューヨーク・キャンペーン」に有力なセレブになるであろうことを予知し、国外退去を牽制したと言われている。つまり、ジョンの市民権獲得は、この映画が描くような自力の闘いの結果ではなかったのだ。
◆ジョンも、マスコミをうまく使ったと思っていたかもしれないが、ジョンを意識変革やトレンドづくりの道具にしようと画策していた者は無数におり、その方が、FBIの監視などよりも、ある意味で、極めて政治的だったと考えるべきなのだ。
◆この映画を見ていて、ジョン・レノンとヨーコ・オノとの関係が、ある種の息子・母親関係であるという印象を受けた。映画でも、ジョンは、幼いときに父親にも母親にも捨てられたということが語られるが、彼は恋人や妻よりも「母親」を求めていたような気がする。ヨーコはその意味でよき「母親」であり、よき教育者だった。が、母親と息子という関係は、ときとして、その関係が「平静」に見えれば見えるほど、「母親」の強烈なコントロールと、「息子」の側の忍耐や、信じ難い素直さが気になることがある。その意味で、わたしは、この映画のなかで、ときとして、ジョンにせつなさを感じた。
◆ある意味で、ジョンは、色々な人に利用されてきた。その最たる例が、ジェリー・ルービンやアビー・ホフマンへとの関係である。彼らは、1967年に、「The Youth International Party」なる「党」を立ちあげるが、ニューレフトのハードな路線に立つ側からすれば、「ヒッピー」くずれであり、本格派の「ヒッピー」の側からすれば、都会づれしたカッコマンたちであった。が、したたかな彼らは、みずからを「イッピー」と称し、そうした批判をかわした。まあ、フランスのシチュアニスト的な面もあり、その「愉快犯」的な戦略は面白くもあったが、少なくとも、レノンが彼らを「革命家」と考えていたとしたら、それはまちがいである。彼は、映画で引用されているインタヴューで、彼らは、会ってみたら「アーティスト」に近かったし、向こうもぼくのことを「革命家」と思ったと語っているが、レノンは、ルービンらのしたたかなお世辞と懐柔にまんまと引っかかったのである。
◆同じことが、ブラック・パンサー党のボビー・シールとの関係についても言えるが、彼に近づいたことによって、FBIの諜報活動のリストに入ることになった。それは、ジョンにとっては、ある種の「勲章」ではあるが、彼は、どこまでボビー・シールのしたたかさを理解していただろうか?
◆その点では、ジョンの素直さが比較的うまく「体制批判」につながったのは、1971年の「ジョン・シンクレア支援コンサート」で、マリワナ所持で逮捕されたシンクレアの釈放を実現したことだろう。これは、体制批判が解放の祭りに転化する経験をジョンにあたえたし、体制に批判をいだいていた多くの者をつかのま元気づけた。しかし、映画に登場するいまの老シンクレアの顔を見れば、ジョンとは比較にならないしたたか者であることがわかるだろう。
◆この映画に登場する歴史上の多数の有名人のうち、わたしが一番失望したのは、かつてハーバート・マルクーゼの教え子にして、アメリカ共産党員、そしてブラッック・パンサー党にも関わり、「過激派」のシンボルだったアンジェラ・デイヴィスだ。いま彼女は、60歳を越し、カリフォルニア大学サンタクルーズ校の教授であるから、彼女に往年の「過激さ」を求めるのは無理というものだとしても、ジョン・レノンに対して、もうちょっと屈折したコメントがあってもよかった。ちなみに彼女は、現在も反監獄運動の活動をつづけており、別になまってしまったわけではないと思う。
(ショーゲイト試写室/ザナドゥー)



2007-09-10_2

●暗殺・リトビネンコ事件 (Bunt. Delo Litvinenko/2007/Andrei Nekrasov)(アンドレイ・ネクラーソフ)

Bunt. Delo Litvinenko
◆こういう映画を見ると、ロシアもアメリカも、個々人の意識的な陰謀や計画で世界が動いている面が強いのかという印象を深くする。日本の場合、そういう面が見えにくいのは、このドキュメンタリーのような果敢な作家や協力者がいないためなのか、それとも、偶発性で動いている面が強くて、出来事の「主体」を確定することがむずかしいのか?
◆2006年11月、奇妙な事件がマスメディアをにぎわせた。イギリスに亡命中の元FSB(ロシア連邦保安庁)中佐アレクサンドル・"サーシャ"・リトビネンコが、どこにでもあるわけでは決してない放射性物質「ポロニウム210」を何らかの形で摂取させられ、3週間後に死亡したのだ。放射性反応の調査で、彼に「ポロニウム210」を飲ませたと思われる容疑者が特定されたが、ロシア政府は元KGB将校のアレクサンドル・ルゴボイの引き渡しを拒否し、事件は未解決のままになっている。このドキュメンタリーは、リトビネンコが、その死を予想し、「生前は公開しない」約束でアンドレイ・ネクラーソフのインタヴューに答えた5年間にわたる映像をもとにしている。
◆ネクラーソフが、リトビネンコに接近したのは、最初から彼の暗殺を予期したからではなく、エリツィン時代から続くチェチェン戦争や「チェチェン・テロリスト」によるモスクワの劇場占拠事件等の背後にFSBの影をかぎつけたからだった。元KGB将校で、のちにFSBの対テロ対策と組織犯罪対策のプロとして仕事をしてきたリトビネンコは、1998年に公然とFSBを批判し、投獄され、のちにイギリスに政治亡命してしまうわけだが、彼ならば、FSBが歴史の背後でやってきたことを知らないわけはない。事実、このインタヴューで、ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤを含む暗殺や「テロ事件」がFSBのしわざであり、その背後に現大統領のウラジーミル・プーチンがいることが暴かれる。
◆ロシアが諜報国家になったのは、スターリン以後だとう思うが、官僚制は、もともと諜報と情報操作によって出来ている。そして、官僚制に依存しない近代国家はない。ロシア的国家とアメリカ的国家との違いは、その官僚制による諜報や情報操作が、こっそり調べ上げて監視したり、あやつったり、罠にはめたりするという方向へ向うのか、それとも、ある程度の情報公開をして、「民主主義」の体裁を取るかどうかの違いだ。もっとも、最近のアメリカは、若干ロシア的になってきた。
◆この映画が描く、そら恐ろしい「ロシア体質」は、増殖する官僚制度と、それと平行して(それより歴史が長い)主従的な関係を重視する習慣とが強めあって出来上がったと考えられる。スターリン以後の歴史は、国の危機を救えるのは、KGBを動かせる者というパターンになっている。ブレジネフの比較的長い時代のあとの混乱期に書記長になったのは、ユーリ・アンドロポフだが、彼は、元KGB議長だった。エリツェンの「失脚」のにち大統領になったプーチンは、KGBに勤めたのち、その後進のFSBの長官となった人物である。アメリカでも、湾岸戦争をやった、いまのブッシュの父親のジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュは(41代大統領)は、元CIA長官である。
◆諜報戦的な発想からすると、「闇」を暴いた情報も、かならずしも「真」とはいえない。ハイゼンベルクの不確定性原理ではないが、情報にも完全な中立地帯というものはなく、そこに視線を向ければ、対象はそれなりの「歪み」を起こす。ネクラーソフが5年間にわたってリトビネンコの「暴露」を記録していたことは、当然、FSBは知っていただろう。ある意味で、彼らは、それが蓄積されるのを見守っていたわけだ。では、彼らは、なぜもっと早い時期にリトビネンコを殺さなかったのか? 単純にできなかったということなのか、それとも、泳がせる必要があったのか?
◆官僚制は、細胞の自己増殖のように、異物を単純に取り込んだり、殺したりするだけでなく、ときには自己破滅的とも思われる行動をする。そういう形でそれは自己を再活性化しさえする。官僚制は、サディスティックであり、かつマゾヒスティックなのだ。
◆この映画には、多くのめずらしい映像が入っているが、その一つは、プーチンを批判するアンナ・ポリトコフスカヤの姿である。彼女は、2002年の劇場占拠事件では、武装グループからの指名で政府との仲介役を演じたが、彼女に言わせれば、多数の一般人が殺されたのち、武装グループの一人がプーチンの手下になっているという。それを語る彼女の目がすごい。非常に情熱的で魅力的な人であることがわかる。体制にとって、こういう人物を抹殺することは損なはずだが、単純な自己原理で動くようになってしまった官僚システムは、自己保存の法則で動き、その突発的な変化(そのときは、官僚制が別のものに変わってしまうので)を防ぐのだ。
◆なつかしい人物が登場する。アンドレ・グリュックスマンである。彼は、かつて『戦争論』や『革命の戦略』(ともに坂本賢三らの訳で雄渾社から翻訳が出ていた)で知られた哲学者だったが、80年代にソ連批判でマスコミに浮上したベルナール=アンリ・レヴィらの「新哲学派」(ヌーヴォ・フィロゾフ)のラベルを貼られたが、レヴィなどとは毛色の違う思想家だった。ただし、この映画での彼のロシア批判は、かつての「新哲学派」風であり、そのニュアンスはわからないが、彼の激しい口吻には、マルクス主義を掲げながら革命を裏切った国への憎悪のようなものが感じられる。彼によれば、ロシアは、ますます「帝国の時代に逆行している」と言う。
◆殺されたアンナ・ポリトコフスカヤの『プーチニズム 報道されないロシアの真実』(鍛原多恵子訳、NHK出版局)には、いまのロシアの屈折した状況が鋭くとらえられている。「プーチン政権下では、国家は戦争から戻ってきた将校たちの面倒は見ない。国家は、ギャングの世界に、なるべく多くの高度に訓練されたプロの殺し屋が存在するように積極的に仕向けていることになる」。そうなりたくない者にとっては、強制収容所か修道院の方がましである。が、いずれにせよ、このような状況下では、何かに拘束されていないと他人を殺してしまいかねないという脅迫観念が広がっていく。それは、また官僚制にとって好都合であり、そういうワイルドな官僚制がいまのロシアを形づくている。
◆リトビネンコは、妻マリーナの話によると、晩年、イスラム教に改宗したという。これは、なかなか面白い。その意味の多様性を広げてみたい気にさせる。
(映画美学校第2試写室/スローライナー)



2007-09-11

●母べえ (Kaabee/2007/Yamada Yoji)(山田洋次)

Kaabee
◆「完成披露試写」だが、天候のためか、客の入りは半分ぐらい。まさか、同じ時間に近くのサロンパス・ルーブル丸の内で行なわれている『ブレイブワン』の方に流れたわけではないだろう。客層がちがうはずだ。が、おかげで人の頭を気にせずに見ることができた。その代わり、上映まえにこの映画館で近日上映の予告をたっぷり見せられた。試写ですでに見ているものばかりだったので、えらくわずらわしかった。
◆『母べえ』自体は、出演者たちの監督への信頼が伝わってくる作品だった。いまでは人間関係のなかで「美徳」とはみなされなくなった「つつましさ」がしっかりと定着されていて、『ALWAYS 三丁目の夕日』が描こうとして「昭和30年代」などよりは、はるかに「昭和15~16年」という時代を実感できる気分にさせる。
◆この映画は、そのどちらかといえば、「泣かせる」映画である。笑いもあるが、「泣き笑い」か「笑い泣き」といった程度だ。山田洋次はそれでやってきたわけだから、山田に川島雄三の『幕末太陽伝』や岡本喜八の『ジャズ大名』のような「異化」として「笑わせる」映画を求めても無理である。その代わり、今回、山田は、同じ「泣かせ」ながらも、その涙が凍りついてしまうようなせりふを最後に仕掛けた。臨終の「母べえ(かあべえ)」(吉永小百合)は、死んだ夫や義妹や夫の弟子に会えるでしょうと、最後のなぐさめを言う娘に、ほとんど声にならない声で言う。「死んでなんか会いたくない、生きて会いたい」と。これは、「英霊」を最たるものとする死の美化を拒否することであり、この映画の根底に流れる思想である。
◆ブレヒトは、観客に「同化」をうながす演劇を麻薬にたとえ、その流れを組むハリウッド映画も「同化」を本領としていると言った。実際、ロシアでスタニスラフスキー・システムを学んだ演劇人がハリウッドに流れたし、有名なアクターズ・スタジオのリー・ストラスバーグは、そのシステムの信奉者だった。ブレヒトが「同化」に代わるべきものとして出した技法は、「異化」であるが、あえてこの区別を単純化すれば、「泣かせる」か「笑わせる」かということになるかもしれない。この映画は、99%「同化」の方法を採用するが、その1%に「異化」をひそませている。
◆昭和15年(1940年)、東京のある町に独文学者の父・滋(坂東三津五郎)、母・佳代(吉永小百合)、二人の娘、照美(佐藤未来)、初子(志田未来)の一家がある。彼と彼女らは、たがいに愛称で呼び合い、母は「かあべえ」と呼ばれている。ちゃぶ台で食事をするむつまじいシーンからはじまるが、その翌朝には、特高がやってきて、父を手縄にかけて連行する。彼の反戦的な活動(日中戦争を批判する論文を書いた)が治安維持法にひっかかったのだ。日米開戦に向って突き進む情勢のなかで、滋の拘束は解かれるはずもなく、「贅沢は敵」→すべてを軍事へといったキャンペーンが高まるなかで、佳代の一家は生活をしなければならなくなる。
◆まだわたしが子供のころでも、「特高」や憲兵の弾圧の残酷さの話は体験談として聞くことができた。わたしは、渋谷の道玄坂の上の「上通り」に住んでいたが、家のすぐまえにあった税務所の建物は、戦中・戦前には憲兵隊の建物で、そこで大杉栄と伊藤野枝が虐殺されたという話を何度も聞いた。虐殺は1923年のことだから、30年以上もその話がストリートレベルで語り継がれていたわけである。また、わたしがよく聞かされた話では、哲学者の三木清が、1945年に、タカクラテルを自宅にかくまったとして、拘束され、拘置所・刑務所内で疥癬(かいせん)にかかり、全身のかゆみに苦しみながら死んだ――しかも終戦から1カ月以上もたってから獄中でであった――というのもある。三木清の例は、この映画の滋の場合とだぶる。この時代の留置場、拘置所、刑務所の環境はいまでは信じられないほど劣悪だった。戦後のもののない時代、わたしの同級生の父親は、米泥棒をし、捕まって刑務所に入れられたが、1年ほどして出てきたときには、咳ばかりする痩せた身体になり、しばらくして死んでしまった。この映画の滋が、拘置所でどんどん衰弱していくのは、この時代には例外的なことではなかった。
◆しかし、この映画は、単に警察がひどい、時代がひどい、時代に迎合して戦争に突入していく「庶民」がわるい・馬鹿だということを描いているわけではない。一家に親切な隣組の炭屋の「おやじ」が日米開戦を喜んだり、新宿の街頭で「おばさん」が「贅沢は敵」だとして貴金属を兵器製造のために献上することを呼びかけているシーンも出てくるが、基本は、そういうひどい状況のなかで、佳代の一家がどう暮らしたかである。
◆この映画で山田洋次がこだわるのは、「つつましさ」であり、それを浅野忠信と檀れいが見事に演じている。かつて中野孝次は、「飽食」の時代を批判して「清貧」というタームを持ちだし、それがしばらくもてはやされた。しかし、「つつましさ」は、「武士は食わねど高楊枝」的な「清貧」とは根本的にちがう。「つつましさ」は、おそらく日本の社会性の基底に脈々と流れつづけており、いまもなくなってはいないのだろう。もし「日本人」だとか「日本文化」だとか言うのなら、この概念にこだわった方がいいだろう。が、注意しなければならないのは、ニセの、強制された身ぶりとしての「つつましさ」もあるということだ。事後を計算した謙遜や遠慮は、擬制の「つつましさ」である。制度に飼いならされて身についた忠誠心や柔順さは、ここで言う「つつましさ」とは何の関係もない。
◆いまは出版社で働いているという設定の山崎徹(浅野忠信)は、野上滋の教え子であり、師の逮捕を聞いて駆けつけてくる。この時代には、居候(いそうろう)とか書生とか食客とかいう種族がどこのうちにもいた。金がなくても「女中」がいたり、一体家計はどうなっているんだろうというようなおもむきがあった。山崎徹は、以後、なんとなくこの家に居候し、佳代の娘たちの勉強を見たり、壊れたところを直したりする。広島に住んでいる、滋の妹の久子(檀れい)も、見舞いにやってきて、そのままこの家にいる。佳代の叔父の仙吉(笑福亭鶴瓶)も、奈良から突然やってきて、そのまま泊まり込む。戦争が始まろうとしている時代でも、どこかに時間のゆとりがあり、個室があるわけではなくても、何となく共同生活(なんて大げさな言い方をせずに)をしていた。
◆映画でなくても、狭い空間に男と女がいれば、すぐにラブアフェアーが生まれがちだし、映画は、それを主題にしようとするが、この映画の登場人物も、映画のドラマ作りも、「つつましさ」を通す。「つつましさ」は、儒教的なモラルが染みついていて、人々が自分を抑えてそうなるのではなく、自分の「領分」をみんなが知っているというか、ある種の諦めからかもしれないが、自然体でも自分の欲望をむき出しにしたりしない習慣が身についていなければできない。それは、社会の固い禁則を植えつけられた結果としてそうなったのかもしれないが、日本の外ではまだまだある「つつましさ」(modesty)を見ると、いまの日本の社会性は、アメリカ以上に「アメリカン」なのだなという気もする。
◆佳代の叔父の仙吉(笑福亭鶴瓶)は、「金がすべてや」が自説で、一家の顰蹙を買うが、だからといって、彼が「つつましく」ないとはいえない。彼がとなえる「金」は、アメリカ的な「グリーディー」な欲望の象徴ではない。「つつましさ」は、「個人主義」の対局にあるわけではない。佳代の一家や山崎徹のように「つつましく」生きる生き方もあるが、仙吉のような「つましい」生き方もある。少なくとも、仙吉は、強制されてその「つつましさ」を生きたわけではないから、それは、今日でも可能な生き方だろう。ただし、彼は、奈良に帰り、「吉野の山の中で野たれ死にした」という。
◆日本の社会性の複雑なところは、個人性に徹することも、組織性に徹することもなく、両者の中間を浮遊するというところだろう。それは、〈超〉個人性と〈超〉集団性・組織性とを何者かに奪われているからだ。つまり、最初から行き過ぎることができないような「クッション」、あるいは、「行き過ぎ」(〈超〉の部分)を吸収してしまうスポンジのようなものがあるのだ。それが、「天皇制」なのだが、この映画にも、隣組の集まりで、まず「皇居」の方を向いて土下座をするという戦前には実際にあった強制的なしぐさ(東京駅のあたりで帽子を脱ぐとかも)のシーンがある。佳代が代用教員になった学校の教室には、天皇皇后の「御真影」が飾ってある。
◆野上家の表札は、漢字ではなく、ローマ字で「NOGAMI」と書かれている。特高が滋を逮捕に来たあと、この表札が映ったとき、ひょっとするとこのあとこの表札のことが問題になるのかなと思った。反米キャンペーンが激しくなった戦中には、野球の審判が「ストライク」と言うようなことも、英語だからという理由で禁止されたからである。とすると、この表札は特高の目にとまることはなかったのだろうか?
◆獄中から滋は、「西片町」(文京区)に住む自分の「二階堂先生」から"Kritik der Urteilkraft" (判断力批判)を借りてきてほしいという手紙を佳代に出し、彼女がその先生を訪ねる。その教授は、滋の逮捕に苦言を呈し、佳代は本を借りるのを断るが、夫人がとりなす。ここはありえる話だが、一つ気になったには、滋のような人が、自分の師にこのような依頼をしただろうかという点だ。拘置所に入れる本には書き込みがあってはダメで、映画でも、徹たちがせっせと本の書き込みを消しゴムで消す作業をするシーンがある。師弟の上下関係が厳しい時代に、師に対して弟子が本を貸せというのは、ありえないことのように思う。
◆いま、「スロー・フード」や「スロー・ライフ」という言葉がはやりだが、「つつましさ」の能動的な側面はこれらのめざすところと重なり合う。が、西欧的な源流は、個人主義的な欲望を極限まで発揮した末に、その苦い反省として出てきたというような背景をもっている。つまり、それは、「あきらめ」の結果ではなく、サバイバルの知恵なのだ。
◆この映画は、歴史の闇のなかに捨てつつある「つつましさ」を思い出させる作品であるが、その「つつましさ」を体現する者たちがみな死んでしまうという点で、その過去性・もはやないが強調される結果となる。その「つつましさ」をまねてみたいと思わせる人物が一人ぐらいはほしかった。
◆このごろはほとんど見なくなった白いランニングを着た昭和の「虫取り」少年風の子供の姿がある。
(丸の内ピカデリー1/松竹)



2007-09-10_1

●真・女立喰師列伝 (Shin-Onna Tachiguishi Retsuden/2007/Oshii Mamoru) (押井守)

Shin-Onna Tachiguishi Retsuden
◆9月3日に六本木オリベホールで「完成披露試写会」が開かれたが、別の試写があって行けなかった。今日、映画を見終わって、行かなかったのを後悔した。出演している女性たちが輝いており、素顔との比較をしてみたいと思ったからである。もっとも、女優さんというものは、素顔で見ると、しかも遠く離れた舞台にいるわけだから、ほとんど映画とは関係のない「普通の人」に見える。ただし、「普通」に見える俳優ほど、すごいということも事実だから、一見の価値はある。簡単に言うと、すごい俳優ほど「普通」をよそおい、よそおうことができるということらしい。
◆押井守の「立喰」という概念は、先の『立喰師列伝』で一つの包括概念(アンブレラ・コンセプト)になったが、本作では、それがさらにより広範で幅のある歴史・社会概念になった。今回、「立喰師」を女だけに限定したのも、時代を読んでいる。「立喰」が単に「食する」ことではなく、「戦い」であり、戦略であるとすれば、いま、女性が一番その主役にふさわしいからだ。
◆今回、押井守の原作と総監修のもとで、5人の監督が6本の作品をつくっている。オムニバスであるが、テーマは、当然、微妙にからみあっている。
◆【金魚姫 鼈甲飴の有理】(押井守)。下谷稲荷の祭の縁日をのっけから映し、東京の失われつつある下町カルチャーへいざなう。カメラマンの坂崎一(吉祥寺怪人)はタコヤキなどを食って祭りを楽しみながら、鼈甲飴(べっこうあめ)職人から巧みな話術と金魚の刺青を武器に鼈甲飴職人に賭をいどむ「伝説の女立喰師」の話を聞き出し、そのあとを追う。『戦後思想』の編集長・鈴木敏夫に一席をもうけ、その「伝説」を確かめるすっとぼけたシーンもある。すぐさま、新幹線に乗り、伊豆半島だかの豪邸に向うが、その表札に「菱美有理」と書かれているのが笑わせる。問題の女を演じているのが、「ひし美ゆり子」であり、「有理」は「造反有理」を思い出させるからである。金魚の刺青を撮影したいという写真家に、女は、彼女がかつて飴屋に言ったせりふをくりかえす。彼女は、鼈甲飴職人に、金魚の飴を注文し、その出来がよければ、刺青を見せ、出来が悪ければ、店の飴をすべて持ち去るのだった。カメラマンは、おごそかに、風呂敷につつんだ大きな鏡かレンズの付いた装置を見せ、彼女の「賭」をうけあう。彼女が帯を解き、和服をはだけると、背中に見事な金魚の刺青が見え、さらに、乳房の周囲にもう一匹の金魚が見える。
◆この篇でまず面白いのは、カメラマン・坂崎の声を出さないという形式だ。彼の言葉は、モノローグ的なナレーションで出るが、それは「坂崎一の声」として鈴木敏夫が発声している。つまり、「坂崎一」という人物から声を剥奪して、2次元化しているのだ。
◆賭は、その場でリアルタイムに行なわれるが、カメラマン・坂崎と刺青の「女立喰師」とのあいだでなされた賭は、その場では決着がつかない。彼女は、彼が持ち帰ったフィルムが現像され、プリントされたものを見なければならない。最後は、彼が暗室でプリントを定着液に浸け、そこから金魚の映像が浮かびあがり、それが3次元になって印画紙から飛びだす。なかなか耽美的なシーンだ。が、この場に彼女はいない。ということは、この賭は、まだ決着がついていないということでもある。いささか理屈が押井的になってきた。
◆ナレーションでは、刺青の「女立喰師」は、70年安保をさかいに、縁日から消えたという。この時期は、そもそも縁日や祭りがテレビやゲームなどの電子メディアに回収されはじめる時代だった。押井における「立喰師」は、すべて、身体がまだ知覚や価値の「参照点」(referential point) たりえた時代の「活動家」であった。「食う」というよりももっとフィジカルな「喰らう」ことに賭けることを主な「活動」とするアクティヴィストである。このスタンスが、1970年をさかいに変化していったことはたしかだ。このオムニバスでは、「喰らう」が「歌う」(フォークや歌謡曲のシンガーやアイドル歌手が「口」を使うこと)に重点を移すことには触れらてているが、他方で、「喰らう」が「ブロウジョブ」にも移行した側面、つまり女性の性観念と性行動の変化については言及されない。トウモロコシ畑に出没し、掻き氷屋をまどわす「女立喰師」(藤田陽子)が登場する4番目の湯浅弘章の【草間のささやき 氷苺の玖美】にはそういう要素も見出だせるが、明確には「ブロウジョブ」を主な活動にしているわけではない。
◆このオムニバスで押井以外があつかう「女立喰師」は、「立喰」のために身体を張るというよりも、「立喰」は別の活動の余業にすぎないように見える。辻本貴則の【荒野の弐挺拳銃】は、西部のガンウーマンを演じる水野美紀とその相手役(辻本一樹、川本淳市ほか)たちによるブリリアントなガンアクションを見せるが、この「女立喰師」の「喰」は、酒の只飲みということになっているとはいえ、飲むことに賭けている感じはしない。ガンアクションの方に力が入ってしまったということか? しかし、全体として、その意図的な「安さ」がその映像世界を2次元化つまりは「紙メディア」化しており、生身の俳優を使いながら、アニメのような感覚をかもし出す。
◆神山健治の【Dandelion 学食のマブ】の「女立喰師」(安藤麻吹)は、学食で同級生に代金を払わせる習性がある女だが、それに入れ込んでいるわけではない。まあ、「立喰師」には、只食いや只飲みを得意とする者もいるから、社会人になった彼女が、ファミレスで、お変わり自由なコーヒーを只で飲む術にてけているといっても、それは押井的「立喰師」から見れば、趣味の域を出ない。が、その代わり、ファミレス店長を演じる神山健治自身のすっとぼけた演技とフィルムノワール的なドラマと、「フィルムノワール」が日本で演じられるときに特有のわびしいラブロマンスとがからみあって、なかなかいい味の仕上がりになっている。
◆神谷誠の【歌謡の天使 クレープのマミ】は、押井守の「陰謀史観」をデモンストレイトした篇である。原宿にあらわれた「アイドル」志望の少女マミを演じる小倉優子のまさに今様のしゃべりかた(インスタントフードを「喰らい」、顎に負担をかけずに育った今の子は、破裂音を出せない――「おいしい」が「おいひい」になる)によって、押井が言うところのメディアの陰謀は、確実に日本反革命を成功させたという印象をあたえる。この脚本は押井によって書かれているためか、マミは、大いにクレープ屋(池内万作)からクレープを大量にかすめ取る。
◆押井の陰謀史観」によれば、60年代のフォークに恐れをいだいた体制は、「アイドル」という武器を創造して、歌うという活動から連帯性を剥奪し、個々人をばらばらにすることに成功し、時代はたちまち「白けの時代」に突入する。「立喰師」が力を失って行くのも、この時代で、以後、アイドルは、さらにさらに身体性を欠いて行き、まさに小倉優子的なアンドロイド的な身体に到達するのである。
◆最後の篇【ASSAULT GIRL ケンタッキーの日菜子】は、押井の未来観を示唆する。地球は砂漠化し、かつて輝いていたであろう「ケンタッキーフライドチキン」の髭じいさんの銅像は、ベルリンの壁崩壊後のレーニン像にように風化している。ここでは、「立喰師」を危機に追い込んだインスタントフードやジャンクフードも終わっているらしい。サイボーグ的身体の「女立喰師」(佐伯日菜子)は、さて、何を「喰らう」のか?
◆川井憲次が担当している音楽が、なかなかよかった。
(映画美学校第1試写室/デイズ)



2007-09-05

●キングダム (The Kingdom/2007/Peter Berg)(ピーター・バーグ)

The Kingdom
◆ピーター・バーグの監督作品は見たことがないが、製作がマイケル・マンだからつぼははずさないだろうと期待して見た。悪くない。マイケル・マンのスタイルで、ハリウッド映画的なエンタテインメント性を維持しながら、微妙なところで政治性や批判を表現する。
◆FBIがサウジアラビアに行って自爆テロの犯人の捜査をするというのは、奇想天外だと思ったが、映画ではちゃんとロジックが出来ている。要するに、そのテロで仲間を殺されたFBI チームのロナルド(ジェイミー・フォックス)、ジャネット(ジェニファー・ガーナー)、グラント(クリス・クーパー)、アダム(ジェイソン・ベイトマン)が、「復讐心」を燃やし、リーダーのロナルドが「荒技」を使って、サウジ側と国務省側とを動かし、チームでサウジに飛ぶのである。このプロセスは、決して荒唐無稽ではない。ありえる。ということは、これまでにこういうやり方でFBIがサウジやイラクに行った可能性があるということだ。
◆ハリウッド映画だから、当然、ロナルドのチームとテロリスト・グループとの激しい戦闘シーンがあるわけで、それはガンエフェクトとしてもすぐれているが、アメリカの試写では、イスラム系が殺されるたびに場内から歓声が上がったという。これは、アメリカ体質ともいうべきもので、わたしが、1970年代末にニューヨークで『ディア・ハンター』(The Deer Hunter/1978/Michael Cimino) を見たとき、ロシアン・ルーレットでデニーロがさいなまれたあと、逆襲に転じ、「ベトコン」を皆殺しにしたとき、場内から一斉に歓声があがり、アメリカは「恐ろしい」と思ったことがある。ヴェトナムでの敗北が決定し、「ノー・モア・ヴェトナム」が叫ばれていた時代においてもこの調子では、また戦争をやるなという思いがした。しかし、この『キングダム』は、復讐を肯定しているわけではない。逆に、そういう復讐体質がサウジ側にもあり、双方の復讐心が屋上に屋を架し、解決の見通しがたたないという「運命」を描いている。
◆最初の方で、サウジでテロがあり、警察や軍隊が集まった時点で2度目のテロ(1度目は「客寄せ」だった)があり、そこでFBIの同僚の一人が殺されるが、FBIの本部で一番ショックを受けたのは、(彼を愛していた?)ジャネット(ジェニファー・ガーナー)だった。ロナルド(ジェイミー・フォックス)は彼女を抱きしめ、耳元で何かをささやく。何を言ったかは出ない。映画の終盤で、ジャネットが仲間の一人からきかれる。「彼は何て言ったの?」。それは、「やつらを皆殺しにしてやる」だったことがわかるが、このシーンにかぶさって、サウディでテロリストの本部にロナルドたちが突入したとき、一見「温厚」そうなテロリストの首謀者が、ロナルドたちに撃たれたときに孫に言い残した言葉も、「やつらを皆殺しにせよ」だった。復讐と皆殺しの思想は、世代から世代、仲間から仲間、先輩から後輩へと受け継がれ、途絶えることがない。イラクの現状は、まさにこのプロセスの一位相でしかない。どうすれば、この悪循環を絶ちきれるのか? このような状況では、すべての表現は、ギリシャ悲劇のようになる。
◆プレスに寄稿している保坂修司によれば、イスラム社会の常識では、アメリカ人であれ、女性やユダヤ人がテロの頻発する地帯に入るなどということはありえないという。ありえないといえば、ロケット砲まで持ったテロリストの巣窟にたったの5人(一人は、サウディの警察官――アシュラム・バルフム好演)で入り、闘いをいどむのは無理というものである。が、これがハリウッド映画だ。今回、ロマンス臭は薄いが、人種・ジェンダー平等配置の原理で、ジェニファー・ガーナー=女性は最低限一人は必要だったし、ジェイミー・フォックス=アフリカン・アメリカン、ジェイソン・ベイトマン=ユダヤ人(本当にかどうかはわからない)、クリス・クーパー=ワスプでバランスをとっているのである。
◆舞台となる「リヤド」の撮影は、アリゾナ州とアラブ首長国連邦の首都アブダビで行なわれたというが、『魍魎の匣』ほどではないにしても、イスラム系の軍や警察の連中の身ぶりに不自然な「アメリカン」を感じた。言葉がわからないので、もっと細かいズレはわからない。
(UIP試写室/UIP映画)



2007-09-04

●魍魎の匣 (Mouryou no hako/2007/Harada Masato)(原田眞人)

Mouryou no hako
◆夕方以後の試写で、気になるものが重なった。本作と、サム・ガルバルスキの『やわらかい手』と成島出の『ミッドナイトイーグル』だ。『ミッドナイトイーグル』の大きな版の試写状には、出演者の名はずらりと明記されているが、なぜか監督の名がない。こういう作品って、大体ダメなんだな。結局、時間がながいので今日見ておいた方がいい本作にした。が、結論的には、どうも当たりではなかったようだ。
◆まず、原田の作品では多いのだが、役者が台詞を「人ごと」のようにしゃべる、台詞の棒読みをするのが気になる。これは、脚本が悪いのであり、カンバセーションではなく、状況や知識の説明をとうとうと役者にしゃべらせることから来る。京極夏彦の場合、表現が韜晦とこだわりに満ちているので、原作に引っ張られて脚本も長い文章になるのかもしれないが、それでは映画が原作に負けてしまう。
◆役者が長い廊下を歩きながら話をしてくるシーンなどでそういう場合が多いのだが、この映画でもまさにそういうシーンがある。長い廊下は、映像的な必要から使われたのではなく、長たらしい台詞を「人ごと」のようにしゃべらせ、説明情報を流してしまうために要請されたのである。
◆時代は、死体の転がる戦場で阿部寛が宮藤官九郎を助けるシーンからはじまり、やがて1952年の「東京」という特定の時代と場所に移る。ところが、下町の東京として設定されているシーンにいきなり「中国人」の集団があらわれる。衣服は終戦後の東京で見られた人々のかっこうをまねてはおり、看板や貼り紙は日本語だが、ものごしや顔は明らかに「中国人」であり、路地の雰囲気も、また川べりに建つ家々も、「中国」のものなのだ。むろん、これは、「戦前」「戦中」の雰囲気に似た場所が中国や韓国に残っていることを利用したのだろうが、京極夏彦の世界には合わない。もし、中国の風景を使うのなら、そのものずばりでいいではないか。こういうやり方は、一時代まえのハリウッド映画ではよく見られたが、『ラスト・サムライ』や『硫黄島からの手紙』のように、そういういいかげんさは改善された。『ラスト・サムライ』で大村益次郎を演じた原田眞人は、ハリウッドで別のことを学んでしまったのかも。
◆戦前から遺伝子操作のような実験をしていたという設定のマッドサイエンティスト、美馬坂幸四郎(柄本明)の実験室である巨大な発電所跡のような建物は、いかにも国籍不明で悪くない。が、話が集中的にこの場所に移る後半は、ほとんど『007 ドクター・ノー』のような展開になってしまう。今回は、前回はまだ多少原作から継承されていた「怪奇性」や「神秘性」が、久保竣公(宮藤官九郎)の心理的なレベルに「世俗化」されてしまっている。彼は、幼いときに(実験で使われて廃棄されるために)箱(「匣」)につめられた少女の死体を見て、心の傷を負ってしまったということになっている。これでは、「陰陽師」の京極堂(堤真一)の出番はない。実際、彼は、今回、つまらない「探偵」になりさがった。その妹で彼のアシスタント役の中禅寺敦子(田中麗奈)も、安っぽい役柄に甘んじなければならなかった。
◆時代考証に凝っているかのようでいて、黒木瞳が「映画スター」として演じるモノクロ映画が上映されるシーンでは、刀が触れあうとはでにチャリンチャリンと音がし、刀が身体を切るときにも「バッサッ」というほど派手ではないとしても、かなりの音が出る。しかし、そのシーンは、おそらく戦前の映画を上映しているのを刑事の宮迫博之らが1952年に映画館でそのリバイバルを見ているという設定だから、そうだとすると、戦前の映画がそういう音効果を使っていたということになってしまう。言うまでもなく、そういう音効果は、1960年代後半以後になってようやく登場するのであるから、このシーンは、時代考証的にはいいかげんである。
◆この映画の失敗は、原田が京極的な「遊び」に徹底できず、「社会性」とか「時代性」といったものに後ろ髪をひかれたことに最大の理由があるような気がする。宮藤官九郎が演じる一人の青年の生い立ちと幼い時代の「トラウマ」、そして悲惨な戦争体験といったものへの「ヒューマニスト」的なこだわりが、そんなものは「美学」のために捨てることのできる京極夏彦の世界と齟齬をきたしてしまった。
(ショウゲート試写室/ショウゲート)



2007-09-03

●スターダスト (Stardust/2007/Matthew Vaughn)(マシュー・ヴォーン)

Stardust
◆最初、村にベルリンの壁を低くちょん切ったような長い壁があり、その外には出られないという設定は、なかなか想像力をふくらませた。その壁が壊れたところに番人がいて、そこに近づく者を阻止するという設定は、カフカの『審判』に入っている「掟の門」という物語を思いおこさせた。そのほころびを一人の青年が越え、街に行く。そこには、市場と娯楽で活気づいた街らしい街があり、青年は、そこで女を買う。その女は、王家の娘だが、いまは奴隷になっているという。そして、彼が壁のなかに戻ってきたとき、ある日、赤ん坊の入ったカゴが届く。彼は、抵抗もせず、その子を育てる。そして、いかにも物語風に話が飛んで、その子が、青年に生長する。このあたりまでの展開は、そう悪くない。そして、その青年トリスタン(チャーリー・コックス)が、父親がやったのと同じように壁を越えて向こうの街に行く。ただし、この「冒険」にはちゃんとした目的がある。愛を打ち明けたがなかなかなびいてこないヴィクトリア(シエナ・ミラー)に「結婚指輪の代わりに、あの流れ星を壁の向こう側から取ってきてあげる」などと言ってしまったのだ。
◆メールヘンとビルドゥングス・ロマンとをこき混ぜたような出だしで、そこに、王(ピーター・オトゥール)の臨終の席から息子たち(ルパート・エヴェレットほか)が始める醜い跡目争いの話、ミシェル・ファイファーが演じる(魔力のききぐあいで)醜美を行ったり来たりする魔女、船といっても宇宙船のようなファンタジックな動きをする海賊船、その船長キャプテン・シェイクスピア(ロバート・デニーロ)が登場したりして、話は華麗に展開する。しかし、なんかつまらない。映像も、ハデハデだが、テイストは、ハリウッドのアメリカン(一応、英米合作)。まあ子供向きというべきか。ゲーム感覚といったら、ゲイマーにしかれるかも。
◆ただ、ちょっと面白いなと思ったのは、一見、よくアメリカ映画が見せる王室コンプレックスの映画のようでいて、ここに登場する王室は、けっこう皮肉な存在である点だ。王家といっても、7人の息子たちは、継承をめぐって殺しあいをし、全滅する。あとを継ぐのは、奴隷になっていたプリンセスであり、その子である。当然、その父親は「平民」。そして、母親はそばにいなくて、息子は海賊に助けられて立派に育つ。さらに、トリスタンの妻となるイヴェイン(クラ・デインズ)は、星の精で、子供は生めない。そこで、彼女は不死の存在になり、(トリスタンの方もなんかのお守りで不死になるのだと思う)王室は、継承がなくても続くのだという。このあたりは、映画の終わりのころにナレーションで示唆されるだけで、これから見る人は確認してほしいのだが、深読みすると、面白いかもしれない。ちょっとだけ登場し、陰険ないたずらをして消えてしまうかのようなピーター・オートゥールの王様はなかなか面白い。
(UIP試写室/UIP映画)


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