粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-08-31
●ヘアスプレー (Hairspray/2007/Adam Shankman)(アダム・シャンクマン)
Hairspray/2007
◆大分まえから試写が行なわれたいたが、場所(東京ミッドタウンの34階)を敬遠し、あとまわしにしてきた。アメリカやイギリスでも現在トップ9のヒットを続けているのも知っていた。とにかく、地下鉄でもタクシーでも、この新試写室へ行くのはやっかいなのだ。ここは、そのビルで働いている人間にしか便利ではない。
◆しかし、映画の出来は想像以上だった。ジャンルを無視して選べば、この半年のあいだに見た映画のなかで一番面白かったと言ってもいい。ある種の「催眠術」というか、全116分のあいだ、とりわけニッキー・ブロンスキーの演技というより、その天性のようなフィーリングに引き込まれてしまう。
◆言わずと知れたジョン・ウォーターズの映画『ヘアスプレー』(1988)のリメイクであり、スタイルは、2002年にニューヨークのブロードウェイで公開されたミュージカルをまねている。英米の批評のなかには、映画や舞台と比較し、まずオリジナルの映画を高く評価したうえで、「ブロードウェイでソフトになり、今度はそれに砂糖のコーティングが加えられた」といった酷評もある。しかし、この映画は、元の映画ともブロードウェイ・ミュージカルとも違ったリズムとエモーションを創造している。そこを見なければ意味がない。
◆たしかに、ウォーターズの映画にあった毒(白人至上主義者の黒人差別、ロワークラスへの偏見、キリスト教的モラルへの憎悪と皮肉)はほとんどない。テレビ局の差別への抗議デモのシーンも、おざなりではある。しかし、いまはもう対立が露骨に見える時代ではない。G・W・ブッシュは、対立を好むようだが、政治の実相は別のところで動いている。ブッシュに怒り、抗議しても、労力の浪費だ。そんな時代だからこそ、この映画のようなスタンスが必要なのであり、この映画は、ただのオバカムービーではない。『釣り馬鹿』シリーズが政治的である以上に、この映画も政治的であり、1980年代の初めに『ブルース・ブラザース』が元気づけてくれた程度には、この映画も、時代の先に行く活力を与えてくれる。
◆それにしても、1000人のオーディションから選ばれた新人、ニッキー・ブロンスキーは面白い。この映画では、ウォーターズの映画のリッキー・レイクよりもはるかにはまった役を演じているが、それがあまりにはまりすぎなので、(その天才的な演技と歌唱力にもかかわらず)今後彼女にどんな役があるのかが皆目見当がつかない。ぼーっと立っていれば、柳原可奈子のような感じなのだが、身体を一つ動かすと、驚くべきオーラがただよう。
◆映画は、ボルチモアの俯瞰シーンからはじまり、この街のワーキングクラス・エリアに住むトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)の目覚め→登校へ移る。彼女が、"Good Morning Baltimore"を歌いながら街(トロントを使ったという)を踊るように歩いていくと、トレンチコートを着た(明らかに露出狂――英語では"flasher"という――のかっこうの)ジョン・ウォータズとすれちがう。
◆ウォーターズの映画にくらべれば、恐ろしく「明るい」仕上がりになっている。それを批判する向きもあるだろうが、いまは、「明るさ」がニヒリズムの顔になっているような時代である。この「明るさ」をつくっているニヒリズムを見ることができなければ、いまの時代の政治力学はわからない。その点でこの映画は、けっこういい線を行っていると思うのだ。
◆かつてデヴァインが演ったトレーシーの母親の役をジョン・トラボルタが演るが、これは、ちょっとマペット・ムービーのような感じだ。つまり、デヴァインのロワーでハレンチな毒(「暗いニヒリズム」)をアニメやコミックスの「明るいニヒリズム」へ移したのである。(ちなみに、わたしは、アニメやコミックスがすべてそうだと言っているわけではない。アニメやコミックスにも旧時代的な美学にこだわっているものもあるが、その先端部は、「明るいニヒリズム」を表現するのに向いていると思うのだ)。
◆ニッキー・ブロンスキーはすでにカリスマ的なオーラを持っているが、この映画は、だからといって彼女だけに焦点を当てているわけではない。ジョン・トラヴォルタ、ミシェル・ファイファー、クリストファー・ウォーケンといった大物を使いながら、その能力を押さえた使い方をする。ファイファーは、幾分出突っ張りの感じもあるが、遊び感覚で演じている。他方、クイーン・ラテイファのような実力者には、たっぷりとその才能を展開させる。この映画では、彼女は、『ブルース・ブラザース』のアレサ・フランクリンのような貫禄を見せる。ローカル局の番組司会者コーニー・コリンズ役のジェームズ・マースデンもうまい。トレーシーの親友のベニーを演じるアマンダ・バインズもいい。歌もなかなかのもの。
◆トレーシーの父親役でクリストファー・ウォーケンをこの映画に引っ張ったのはジョン・トラヴォルタだそうだが、ウォーケンがトラヴォルタと踊る(現在と夢のいりまじった演出の)シーンはすばらしい。ウォーケンのダンスには定評があり、わたしは、その昔『ローズランド』(Roseland/1977/Jamese Ivory)の彼の踊りを見て魅了された。初老を迎えた彼のヴァーサタイルな踊りぶりは、スパイク・ジョーンズがファットボーイ・スリムの"Weapon of choice" のために作った映像(『スパイク・ジョーンズ BEST COLLECTION』/2003/DVD)で見ることができる。ところで、去年だったか、NHKのおちゃらけ番組で宝田明が、このウォーケンの踊りをそっくりパクっているのを見た。そりゃないぜと思った。
◆この映画は、ボルチモアがまだ白人至上主義だった時代から変わり始める転形期(1962年)をドラマの背景にしている。この映画には、ウォーターズの映画のアクチャリティはないとしても、形だけは(それが重要)黒人差別やワスプの偏見をずばりあらわす表現や身ぶりを出している。その重要なキーになるのが、"Negro Day" という言葉で、この日だけ、ふだんは排除されている黒人がローカルテレビ局のライブ番組「コーニー・コリンズ・ショウ」に出られるのだ。言うまでもなく、いま "negro" という言葉はプライムタイムのテレビでは使えない。黒人/アフリカン・アメリカンのまえで「ニグロ」と言ったら、殴られるかもしれない。しかし、白人がしゃあしゃあと黒人のことを差別的に「ニグロ」と言っていた時代があったのだ。この映画は、それを(形だけとはいえ)描いている。だとすれば、字幕も、たとえば「黒ん坊の日」とか、せめて「ニグロ・デイ」と訳すべきだろう。ところが、戸田奈津子の字幕は、これを「ブラック・デイ」としている。戸田の字幕には、この種の「配慮」や操作が多いのだが、今回は、そういう「配慮」が致命的だ。「ブラック・デイ」を逆に邦訳すれば「黒人の日」となり、"Negro Day"が持っている差別的な要素は消えてしまう。
◆「ヘアスプレイ」というタイトルにも時代の含みがある。直接的には、この番組のスポンサーがヘアスプレーの会社なのだが、そのCMの台詞に、「ヘアスプレーで(ちりちりの)髪を延ばそう」というような意味の表現がある。つまり、「白人」の縮れていない髪が「標準」だという価値観があり、ヘアスプレーは黒人にとっては、「白人」の髪に近づく道具とみなされている。少しまえ、NBCの名物ホストのドン・アイムスが黒人のバスケットチームの選手を「ちりちりの髪のねえちゃん」といった表現をしたことで、長年続いた番組を下ろされた。時代は変わったのである。
◆時代は変わったが、いまの時代は、(そのへん日本とも共通するが)言葉の表層、社会の表層では体裁をとり、その下や背後では差別が続いている。黒人か白人か、男か女かといった長持続の差別ではなく、情報や金で選びなおせる「格差」という名の差別は、ますます強くなっている。そういう差別に敏感になり、それに反抗するために必要なのは、死に物狂いの、ねっとりした反抗心ではなくて、この映画のような、「愉快犯」的(というともう古いか?)な悪戯(いたずら)心だろう。この映画は、そういう悪戯心をそそる。
◆この映画の今日的なところをあえて強調すると、トレーシーが、ローカル局のショウに出ることにエネルギーをかけるが、だからといって、そこからニューヨークへ出て、全米のスター/成功者になろうという素振りを少しも見せないところだ。つまり、彼女は、「アメリカン・ドリーム」の主人公は演じていないのである。彼女の「夢」は、ローカルがグローバルになるトランスローカルな時代の夢であり、そこがこの映画を〈いま〉に接続する。
(GAGA新試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2007-08-30

●タロットカード殺人事件 (Scoop/2006/Woody Allen)(ウディ・アレン)

Scoop
◆昔からウディ・アレンを見て来た者には、アレンは「斜陽」に見えるが、21世紀になってアレンを見るようになった人は、最近のアレンが面白く感じるらしい。しかし、この試写会がけっこう混んでいたのは、そういう理由のためではないだろう。かなりの歳の人もいたし、映画が終わっても、感動のあまりか、あるいは深い眠りのためか、席から立てない初老の人もいた。Tさんのような映画史のベテランの姿もあり、ひょっとすると、今度こそアレンが「復帰」してくれるのではないかという期待で来た人が意外に多かったのかもしれない。かく言うわたしも、その口で、開映を待つあいだ、一方では再起の期待をいだきながら、他方で、プレスにあるスカーレット・ヨハンソンのアレン絶賛の言葉を読み、ひょっとすると今回はアレンの見方自体を変えなければならないのかなとも思うのだった。
◆しかし、やっぱり二番煎じのパターンが目立つ。痙攣するような笑いに誘導するシーンがほとんどない。作家は、新しいスタイルと世界を創造し続けなければならないわけではないし、ある種のくり返しを楽しませてくれる作家もいる。最盛期のアレンだって、「くりかえし」と言えば言えないこともない要素はあった。それは、創造的なくりかえしであり、ブレヒト流に言えば、「引用」である。しかし、近年のウディ・アレンは、前に使った形式をそのままはめ込むやり方で使うのだ。昔のアレンなら、それがくりかえしであることがわかる観客に対して、あえてくりかえしをして見せた。いまは、それがくりかえしであることがわからないだろうということを前提にしてくりかえしをしているように見える。アレンの最盛期にまだ生まれてもいなかったヨハンセンのような世代にとっては、それは仕方がないともいえるが、映画はつねにある種の歴史的記憶を要求するのだから、ましてヨハンセンのようなプロでアレンの映画に再度出演するということになれば、彼の映画は見尽つくさなければならないし、もし見つくした末にあのような讚辞を弄しているのだとすれば、それは職業的なリップサービスとしか思えない。
◆とはいえ、今回のヨハンセンは、なかなか面白い。映画のなかで、手品師役のウディ・アレンが、ジャーナリスト志望の学生役の彼女に向って、「言わないで、言わないで、当てるから」といって、彼女の「出身」をアラバマと言うシーンがある。彼女は、すぐ「ブルックリンよ」と応えるのだが、これは、アレンが、彼女(役柄としての)がブルックリン出身の「正統派」ユダヤ人だということを承知のうえで言ったジョークである。アラバマはアメリカのド田舎だが、正統派ユダヤ人の住むブルックリンのウィリアムズバーク地区(ブルックリン・ブッリジの下のエリア)はニューヨークでも特殊な場所だからだ。ヨハンセンは、ニューヨーク生まれであり、父はデンマーク人、母はポーランド人だと言われているが、ユダヤ系であるかどうかはわかない。しかし、今回、彼女は、ブルックリンの「正統派」のユダヤ人(長い髭をはやし、黒づくめ)の家庭に育ったことをむき出しにしたような英語をしゃべる。アレン自身は、正統派ではないが、ブルックリン・ジュー(ユダヤ人)で、彼のせき込むようなしゃべりは、そういう系統の人によくある響きを持っているが、今回のヨハンセンは、まさにそういうディスクールを完全にマスターし、アレンの「エディプス・コンプレックス」(『ニューヨーク・ストーリー』所収)に登場するジュリー・カヴナーのようなくさ~い感じの「ブルックリン・ジュー」のしゃべりを聴かせる。本作が、ときおり二番煎じを越えるようなシーンを見せるのは、ひとえにヨハンセンのこのユダヤ人演技のおかげである。
◆オープニングシーンで、ジャーナリストのジョー・ストロンベル(イアン・マクシェーン)の葬儀があり、そのあと「通夜」のパーティで、友人たちが酒を飲みながら、故人の回顧話にふけるシーンがある。これは、『ブロードウェイのダニー・ローズ』の初めの方のシーンとそっくりである。ウディ・アレンが演じる手品師/マジシャンのスプレンディーニことシド・ウォーターマンが客席のサンドラ・プランスキー(スカーレット・ヨハンソン)を呼び入れる「チャイニーズ・ボックス」のシーンは、「エディプス・コンプレックス」と同じパターンである。ちがうのは、「エディプス・コンプレックス」では客で、彼の母親がボックスに入るのに対して、ここでは、マジシャンをアレンが演っていることだ。そして、まえの作品ではボックスに入った母親がそのまま消えてしまうのがドラマの核心になるのに対して、ここでは、ボックスに入ったサンドラの隣に、死んだはずのジョー・ストロンベルが(あの世から)あらわれ、ロンドンを震撼させている連続殺人事件(死体のそばにタロットカードが置いてある)の秘密を告げ、消える。
◆作家は、ある年令に達すると、自分の画期的な試みや創意が世間であまりに認識されていないことに不満をいだき、再認識化の努力をするようになる。それをしないで、どんどん新しいことを続けられるかどうかが、その作家の奥行きとスケールを決めることになるのだが、ウディ・アレンは、どうやら、自作の再認識化に力をそそいでいるようだ。これは、ただの二番煎じとはちがうが、本当は、人にまかせればいいことだ。黙っていても、いい仕事を続けていれば、そのマネをする者が出てくる。
◆二番煎じでも、自作の再認識化でもなく、何かデジャヴを見たような快感をあたえるシーンもいくつかある。たとえば、殺人犯ではないとサンドラが信じ切っていたピーター・ライモン(ヒュー・ジャックマン)が、しばらくロンドンを空けると言っていたにもかからず、その姿をサンドラが見つけるシーン(道の向こうがわをすーと歩いていくだけのシーン)は、『ハンナとその姉妹』や『夫たち、妻たち』を、二番煎じとも再認識化ともちがった意味で思い出させる。こういうさりげない「引用」がいちばん面白い。
◆冒頭、「三途の河」(さんずのかわ)を渡る船が出てくるが、この船のなかもすぐパーティ的な会話のスペースになってしまうところが、いかにもニューヨーカーのウディ・アレン的で面白い。三日前の死んだばかりのジョー・ストローンベルは、船のなかで、青年貴族のピーター・ライモン(ヒュー・ジャックマン)の秘書から、自分が彼の秘密を知ったために殺されたという話を聞く。根っからのジャーナリストのジョーは、この「スクープ」をこの世に伝えようと、河に飛び込む。こうして彼は、つかのまあの「チャイニーズ・ボックス」に姿をあらわすことになるのだが、次元の違う世界を行ったり来たりするテーマも、アレンは、すでに多くの作品で使っている。夢と幻想と現実とのあいだの話は無数にある。『カイロの紫のバラ』では映像スクリーンの中と外をテーマにした。今度の映画に出てくる「三途の河」には霧がたちこめていたが、それは、『ウディ・アレンの影と霧』を思い出させる。『スターダスト・メモリー』と似たシーンがあったなと、いま古いビデオを出して見始めた。面白い。今夜はこれを見よう。もう『タロットカード殺人事件』については書く気がしなくなった。やっぱり、ウディは昔の方がいい。
◆いまかたわらのモニターに移っている『スターダスト・メモリー』のなかで、アレンが、「ナルシスト」であるかどうかについて質問されるシーンがある。『タロットカード殺人事件』のなかでシド・ウォーターマンは、「むかしユダヤ主義者だったが、いまはナルシストです」と言う。ジョークなのだが、半分は本気かもしれない。アレンは、歳を取ることが下手な老人である。でも、明らかにしゃべり方が入れ歯の発音になっている現在、「ナルシスト」であり続けることは無理というもの。その意味では、今回、サンドラが、ピーターと初対面のとき、連れのシドを「父です」と紹介し、彼が心おだやかでない表情をするシーンがある。この映画では、アレンは、たしかにその「消え方」を心得ていた。
(アスミック・エース試写室/ワイズポリシー)



2007-08-29

●ONCE(ワンス)ダブリンの街角で (Once/2006/John Carney)(ジョン・カーニー)

Once
◆監督自身が、「歌を歌う友だちをビデオで撮影し合っていた16歳の頃に戻ったようだった」と語っているとプレスにあるが、まさにそういう新鮮さと素朴さとがいりまじった魅力をもった「つましい」(モデストな)小品。大作を期待するとうらぎられるが、こういうつつましさは、作ろうとしてもなかなかつくれないもの。
◆プレスで松山晋也さん(お久しぶり、元気のようでなによりです)があますところなく指摘しているが、ポストサービス化社会になったダブリン(当然、移民も増え、都市の相貌が変わってくる)を舞台に、ワーキングクラス出身でプロのミュージシャンを夢みながらストリートアーティスト(バスカー)をしているちょっと歳の行った「青年」グレン・ハンサードが、チェコから来て、花売りと家政婦をしている若い女性マルケタ・イルグロヴァとの出会いをさわやかに描く。
◆実名で登場するグレン・ハンサード(1970~)とマルケタ・イルグロヴァ(1988~)との実話が映画に織り込まれているが、2人ともこの映画のなかの人物ほどはロワーの暮らしをしていたわけではない。映画は、二人が出会ったあと、いっしょに最初のアルバムをつくり、それを持ってハンサードがロンドンに渡る(成功するであろう予感を感じさせながら)ところで終わるが、実際のハンサードとイルグロヴァは、もっとまえからその才能を認められていたし、そういう彼と彼女が、このような「下流」にすり寄るのはどうかなとも思う。
◆ボーイ・ミーツ・ガールのドラマとしては新鮮さがある。ハンサードが街頭でギターを弾きながら歌っていると、イルグロヴァがしつこくというより、奇妙なノリでいろいろと質問してくるシーンや、ハンサードの父親が掃除機(HOOVER)の修理店だと知ると、壊れた自分の掃除機を直してくれと約束をとりつけ、他日、掃除機を持ってやってきて、それを歩道の上をひっぱりながら、2人で歩いて行くシーンなど、ファニーで新鮮だ。これは、ハンサードよりもイルグロヴァの天才的な演技性格によるものだと思う。彼女がさりげなく弾くピアノがすばらしい。
◆無理をしてやっと貸スタジオで録音をするシーンがいい。最初、スタジオ付のエンジニアは、慣れていないハンサードたちを見下す。スタジオやライブハウスの技術屋がアーティストを脅したり、いばったりするのは、よくあること。が、ハンサードとイルグロヴァ、街から集めて来たミュージシャンらによる急ごしらえのバンドが、演奏をはじめると、エンジニアはその曲に引き込まれ、本気でミクシングをし、徹夜で作業につきあい、最後には、自分の車にみんなを乗せ、「カーテスト」(CDを車のなかで聴く者が多いことを想定して、音をセットアップするのが、いまの音楽ビジネスの常識らしい)までやってくれる。
◆録音をするバンドを組むのでハンサードとイルグロヴァが洋服屋へ行くシーンで、通りの向こう側に「KAFKA」という看板の店が見える。これは、何の店だろうか? サーチエンジンで調べてみると、ダブリンの236 Lower Rathmines Roadにその名のレストランがあるが、ここではなさそう。ところで、東京のミッドタウンに「カフカ/可不可」というレストランがあるが、酒も飲まず、菜食主義者だったフタンツ・カフカとはうらはらに、酒を飲ませ、肉を食わせる店だ。きっと、フランツ・カフカの「カフカ」ではなくて、村上春樹の「カフカ」なのだろう。
◆ハンサードが、仕事一途の父親(ビル・ホドネット)に録音したばかりの曲を聴かせるシーン、彼が、ロンドンに行くハンサードに選別をあたえるシーンが、なかなか味わいがある。
◆最後に告白するが、わたしは、「フォークソング」が嫌いだ。特に男がうわずった声で歌うフォークは嫌い。そのナルシスティックな「泣き節」が嫌なのだ。だから、わたしはこの映画を正しく評価する資格がない。
(ショウゲート試写室/ショウゲート)



2007-08-27_2

●サラエボの花 (Grabavica/2006/Jasmila Zbanic)(ヤスミラ・ジャバニッチ)

Grabavica
◆ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争以後のサラエボを舞台にした物語。映画は、実際に起こったことを物語の参照点にしているから、1987年に旧ユーゴーでスロボダン・ミロシェヴィッチが政権を握ってから何が起きたかを知っていることがこの映画のリアリティを厚くする。「民族浄化」の悲痛な過去を持つ30~40代の女性エスマを演じるミリャ・カラノヴィッチとその娘サラ役のルナ・ミョヴィッチのエイアリティのある演技がひきつけ、サラエボへの重苦しい想いを追体験させ、最後にちょっとばかり未来的な希望を示唆する。原題 Grabavicaは、サラエボの地名だが、サラエボの方言では「せむしの女」という意味だという。
◆映画は映画であり、どんなに「現実」をなまなましく描いているように見えても、それは所詮は「邯鄲の夢」(かんたんのゆめ)にすぎないが、夢には、針のような穴があって、そこが「生ける現実」とつながっている。だから、映画で「生ける現実」を語ることも、不当ではないのだ。というわけで、この映画は、たびたび、現実に起こったことにわたしの意識を向わせる。なぜ、あのような「民族浄化」が起こったのか? チトーのもとで社会主義政権を形成していたユーゴスラヴィア社会主義共和国は、1980年のチトーの死後、ソ連が崩壊に向う動きと連動しながら、分離独立へ向う。1987年にミロシェヴィッチが大統領になってから民族主義的傾向が激化する。彼がセルビア民族主義の人間だったからでもあるが、汎民族主義から民族主義への移行は、民族というものが基本的な単位だからではない。それが、きわめて「わかりやすい」アイデンティティだからであり、そもそもアイデンティティを求めなければならないという状況、「わかりやすさ」へ社会の意識が収斂していく動向、これらこそが危機なのだが、そういう時点で一番安易に動員されるのが民族という単位なのである。本当のところ、純粋の民族などいないにもかかわらず。
◆統一されていた旧ユーゴーは、ソ連ブロックとは一線を画した「自主管理」路線を実行してきたが、それも東欧の政治経済体制の変化とともにゆらいでくる。そして、イデオロギー的心理的に旧ユーゴーをささえてきたチトーが死ぬ。チトーがあと10年長生きしたら、状況はちがっていたかもしれないし、また、ルーマニアのように「独裁者」として粛正されていたかもしれない。いずれにしても危機がおとずれた。そして、1991年、スロベニアとクロアチアが独立を宣言する。ミロシェヴィッチは、それに軍事的な弾圧でむくいるが、もはや社会主義共和国の分裂をおさえることはできない。1992年には、この映画の舞台になるサラエボを首都とするボスニア・ヘルツェゴビナが共和国として独立を宣言。しかし、事態をさらに混乱させたのは、これらの独立共和国が、民族的に複雑で、特にセルビア人、クロアチア人、ムスリム人が多数派で、そのなかでセルビア人は東方正教、クロアチア人は、カソリック、ムスリム人はイスラム教と宗教が違い、キリスト教同士でつるむことも可能なセルビア人とクロアチア人との関係と両者と相容れないムスリム人といった構成だった。
◆しかし、「民族浄化政策」がエスカレートするなかで、ただ相手を殺すだけでなく、セルビア軍がムスリムの女性を強姦し、セルビア人の子供を生ませるというやり方が具体的な戦術として実行されたのはなぜだろうか? かつてセルビア人とクロアチア人とムスリム人が共存していたサラエボは、セルビア人とクロアチア人との血みどろな闘いの場となり、そのなかで非キリスト教徒のムスリム人が虐殺され、さらにこのいまわしい戦術が実行されたのだ。
◆映画では、かつて共存していた者同士が殺し合いをする悲劇まではくりかえし描かれている。テオ・アンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』はほとんど絶望的なまでの状況を描き、マイケル・ウィンターボトムの『ウェルカム・トゥ・サラエボ』は、いささかジャーナリスティックに状況をスケッチした。ややひねったアプローチとしては、ミルチョ・マンチェフスキーの『ダスト』も面白かった。だが、「民族浄化」の、いまなお続く問題をこの映画のように内側からあつかったものは、少なくともわたしは見ていなかった。エスマを含む多数の女性たちが集まっている最初の方のシーンは、それが集団セラピーらしいことはすぐわかるが、彼女らがどういう集団なのかはわからない。しかし、彼女らが、みな「民族浄化」の犠牲者たちであることがわかったとき、この映画の重さが倍加される。
(映画美学校第2試写室/アルバトロス・フィルム/ツイン)



2007-08-27_1

●呉清源 (Wu Qingyuan/The Go Master/Goseigen/2006/Zhuangzhuang Tian)(田壮壮 ティエン・チュアンチュアン)

Wu  Qingyuan/The Go Master/Goseigen
◆30分以上まえに行ったが、すでに列があり、開場後すぐ満員になった。が、会場の客は普通の試写会とは違う。老年の夫婦連れが多い。動員された客だろうか? わたしの隣の上品な老婦人は、映画の最中、頻繁に手をバックのなかで動かし、落ち着かなかった。試写に慣れていない感じ。
◆映画は、一言で言えば、がっかりした。宣伝では、囲碁の天才「呉清源」を描いていることになっていた。が、映画は、一人の繊細な青年が、日支事変から第2次世界大戦にいたる戦争の時代に翻弄される物語だった。呉清源を演じたチャン・チェンはすばらしい。妻となる中原和子役の伊藤歩は、実にいい目の演技を見せる。西園寺公毅を演じる米倉斉加年を見るのは、久しぶり。が、映画のなかでは、すぐ死んでしまい、やや力みすぎの演技だけが記憶に残った。みな、それらしい演技で新鮮さはなかったが、柄本明、仁科貴、松坂慶子、大森南朋、南果歩など、著名な役者たちが登場する。
◆呉清源の囲碁がいかに天才的なものであったかは、この映画では全く表現されない(アメリカ映画的に効果のあるシーンはない)。が、戦乱の時代に、呉清源が、まず中国で1935年に「紅卍会」に入信し(ただし、映画は、すぐに日本に場面が移り、この会での活動がどうなったのかはわからない)、戦後は、アマテラスオオミノカミのアラヒトガミだと称する教祖・璽光尊(南果歩)が率いる「璽宇教」に入れ込み、教団とともに夫婦で「放浪」生活までしていたことは詳細にえがかれる。わたしが子供のころ、天才的な横綱といわれた「双葉山」も、この会に入信し、警察の手入れで大暴れした話を聞いた。この教団の動きを不穏に思った警察が、1947年、「食糧管理法違反」の名目で、教祖と双葉山定次、そして呉清源らを金沢で逮捕したときのじょとだ。しかし、映画では、建物に警察が入るシーンはあるが、呉清源が逮捕されるシーンはない。この時代は、戦後の激動期で、なんでもありのアナーキーな時代だった。不幸な天才とまいあがる天才とがいた。
◆冒頭に実在の呉清源とその婦人が姿を見せる。彼は、中国語なまりの強い日本語をしゃべる。飄々としたその風貌、婦人の優雅さがなかなかいい。しかし、このシーンの期待は、次ぎのシーンから崩れる。
◆呉清源と宗教の問題は、もっと別の視点から深められるべきだろう。非常に面白い人物であることは、この映画でも十分わかる。
◆1936年、呉清源と木谷実(仁科貴)は、日本囲碁界の最強者を決める決戦をするが、この闘いは、「日中戦争」にたとえられた。読売新聞(正力松太郎は、囲碁のプロモータでもあった)は、特にそうした宣伝を強調したらしい。しかし、結果は、「中国」=呉清源が勝つわけだから、日本人は、歴史の未来をこの勝負から想像すべきだった。正力松太郎は、どちらの勝を見越していたのだろうか? 呉清源の勝を予測し、それによって「中国」畏れるべしという雰囲気を作ろうとしたのだろうか? それとも、正力は(その外見とはらはらに)ある種の「反戦」を示唆しようとしたのだろうか? この点に関しても、映画は、深入りはしない。
◆呉清源は、戦争がひどくなる環境のなかで、囲碁の世界と新興宗教の世界に閉じこもった。ある意味では、呉清源とその関係者は、囲碁によって戦争に異義をとなえていたと言えないこともない。呉清源の才能を見出し、来日を実現した瀬越憲作(柄本明)が、広島で、原爆投下のその瞬間にも本因坊の試合に立ちあっている(彼の息子は原爆で死んだ)シーンがある。なお、瀬越は、戦後、日本棋院理事長になったが、1972年、「もう囲碁が打てなくなった」と遺書に書き残し、自殺した。
◆日本人に「帰化」した呉清源が、徴兵をまぬがれたのは、徴兵のための身体検査で、前にわずらった結核の後遺症のために「徴兵免除」を受けたためである。そのシーンで、医者は、「呉清源だな?」と名前を確認した末に「徴兵免除」を下す。このシーンは面白い。実際、この種の「免除」があったことはわたしも聞いている。将来があると見なせる者を(理由がなければどうしようもないが)免除したのである。ただし、呉清源が「徴兵免除」を受けたのは、映画では1944年ということになっている。この時代には、戦闘員が足りなくなっていたわけだから、こういう余地があったかどうかはわからない。それと、もし虚弱体質で徴兵をなまぬがれたとしても、「徴兵免除」という言い方はしなかっただろう。「不合格」は、この時代、不名誉なことだとされた。大日本帝国を信じていた者は、不合格を泣いたという。呉清源は中国人だから、戦争に行きたいなどとは思わなかったはずだが、「徴兵免除」という言葉は、彼の側からの言葉で、軍医がそういう言葉を言ったとは思えない。それから、身体検査のシーンで、みなフンドシを着けていたが、写真資料に見るかぎりでは、全裸のはずだ。徴兵の身体検査は過酷なものだった。仮病を使う者は、厳しく拷問された。
(CINEMAT銀座試写室/エスピーオー)



2007-08-24

●FUCK (ファック)(Fuck/2005/Steve Andersson)(スティーヴ・アンダーソン)

Fuck
◆映画のなかで"fack"や"fucking"がおおっぴらに使われるようになったのは、1970年代になってからで、当時ニューヨークに住んでいたわたしは、その急激な変化に触発され、「制度としての"ファックキング"」(『ニューヨーク街路劇場』所収)という一文を書いた。だから、この映画は興味深く見た。が、当時は、"fucking"がある種「解禁」になったことに積極的なものを感じることができたのに対して、いまは、そういう傾向が後退しつつあり、この映画は、それに注意をうながす。これを製作・監督したスティーヴ・アンダーソンは、明らかにそういう動向に危機を感じている。おそらく、この傾向は、レーガン時代の「political correctness」あたりから始まった。もともとが、日本語の罵詈雑言とはちがい、キリスト教的神への冒涜の含みを持つfuck/fuckingの使用は、「信仰篤い」G・W・ブッシュの登場とともに後退した。といっても、ハリウッド映画で急にその使用が自主規制されたという感じはしない。これらの語を連発したいと人々が思う状況は70年代以上に強まっており、実際に日常生活のなかで使う人の数は減ってはいないし、大統領だって使っている(?!)わけだが、「いかがなものか」と表向きの異議をとなえるやからがふえたことはたしかなのだ。
◆アンダーソンは、fuck/fuckingについて、これらの語が「模範的」に使われる映画のクリップを引用しながら、この語の使用に対する賛否両論をとりあげる。片や、インタヴューのなかで力強く"fuck"を連発してみせるコメディアンのビリー・コリノから、そんな言葉はとんでもございませんと言う「ミスお作法」のジュディス・マーティンまで、30余人のコメントが、ときには編集的操作でたがいに議論しあっているかのような配置でつぎつぎに紹介される。
◆ラジオのトークショーのベテラン、デニス・ブレガーのバランス感覚のいい(?)意見、コメディアン、ビル・メイハーが語る「検閲」強化の傾向、『世界で一番パパが好き』の監督ケヴィン・スミスや「ヒルサイド・ブルース」の脚本家の「愉快犯」的な経験談(いかに「検閲」的介入をかわしたか)、別格的な風格のハンター・S・トンプソンやラッパーとしての(俳優でもあるが)アイス・Tらの現場感覚、fuckの代わりにわたしは自分の名「ブーン」を言いますと、「おいおいじいさん!」という感じの老パット・ブーンの無理なキリスト教的護教主義・・・色々あって、面白い。
◆ハンター・S・トンプソンは、この映画が公開されるころには、拳銃で頭を撃ち抜いて自殺してしまったので、このドキュメンターリーへの出演は、彼の最晩年のポートレートになっている。彼は、ゲリー・トゥリュドゥーのシリーズ・コミック「ドゥーンズバリー」の「デューク」のモデルだといわれているが、この映画で彼は「ゾンカー」(同じコミックの登場人物)と同じようなツバ付帽をかぶっているのが、何か淋しさをただよわせる。嘘とまことをこきまぜて「俺は・・・」と書くレポート・スタイル――「ゴンゾー・ジャーナリズム」(Gonzo journalism)――の創始者とされる彼のライフスタイルやファッキングな「挙動」は、『ラスベガスをやっつけろ』でジョニー・デップが演じているところだが、その原作『ラスベガス★71』(山形浩生訳、ロッキング・オン)を読むと、トンプソンはもっと屈折していて、もっと繊細で、もっと「ビューキ」(日本語で言えば、「ネオ無頼派」的とでも言うか)な人物であることが(その「ゴンゾー」スタイルのあいだから)想像できる。よくも悪くも「70年代」のカルチャーを体現していた。
◆最近たしかにアメリカは、日本に似てきた。今年の4月、NBC系の"shock jock" ドン・アイムス(「ダン・アイマス」の方がDon Imusの原音に近いか?)が、プロデューサーのバーナード・マックガーク(Bernard McGuirk)と、アフリカン・アメリカンの女性バスケット選手の試合の映像を見ながらおしゃべりをするなかで、「tha't some nappy-headed hos there」という言葉を使い、それが「人種差別」だと非難され、番組を下ろされるという事件があった。以後、この問題をめぐって、賛否両論がかわされており、近く、アイムスは番組に復帰するのではないかという意見もある。わたしが、「日本と似てきた」と思うのは、他の文脈を無視し、切り取った語(ここでは、nappy-headed hos[縮れ毛のねぇちゃん])が批判の対象になったことと、マスメディアでバプティスト教会系の宗教活動家アル・シャープトンをはじめとする批判が高まるなかで、NBCがアイムスを切るという形になったからである。つまり、70年代後半からある時点まではまだ憲法で保証されている「言論の自由」の名のもとにこういう処置はしにくかったが、アフリカン・アメリカン・コミュニティの側からの連鎖的な批判が高まると、論点をつめることなく、とりあえず臭いものに蓋をする的なやり方で問題を解決しようとした点が日本と似ていると思うのだ。
◆アイムスは、自分の番組にシャープトンを招き、釈明(YouTubeにその記録がある)をしたが、話はすれちがいのままだった。アイムスは、自分は、誰に対しても「悪口」を言ってきたのであり、それがあの番組のスタイルであって、あれは個人を攻撃したものではない・・・。しかし、こういう釈明は、差別発言という非難に対してはほとんど役に立たない。結局、アイムスは、公式の釈明放送(→YouTubeをするが、それではすまなくなるわけである。
◆久間章生・前防衛大臣の「原爆発言」のように、いまの時代には、公的な場での発言が全体の文脈から切り離されて誇示されることを覚悟しなければならない。アイムスの発言は、その音声と映像、そこからのトランススクリプションがインターネット上にも公開されているが、久間章生の発言は、「広島・長崎の原爆はしょうがなかった」と言ったという省略形の言表しか一般には知られていない。彼自身、自分の録音とそのサブスクリプションを公示して反論をしてもいない。いまの時代には、発言が勝手にモンタージュされる可能性があると同時に、「ありのまま」のデータを公開する技術的な可能性もまたあるのにもかかわらずである。
◆アイムスのケースは、色々のことを考えさせる。彼は、巨大なマスメディアの声なのだから、彼の暴言が個人をおとしめる可能性はある。そういう行為こそ、憲法が保証するはずの基本的人権に触れるはずであり、そのかぎりで罰を受けるだろう。しかし、彼は、白人の立場で「黒人選手」をあざけったわけではない。その試合は、「黒人」同士の試合だった。アイムスはたしかに白人である。もし、アイムスが「黒人」であったら、どうだったのかという意見はある。ラッパーたちは、もっとどぎつい言葉を使っているではないかという意見もある。「黒人」が「差別語」を使えばOKで、白人が使うとNOというのはおかしい――いや、それが、ながらく黒人を支配してきた白人の「劫」なのだ――という意見もある。
◆たしかに、下からのfuck/fuckingは許され、上からのそれは許されないという慣習はある。社会で「下」とみなされている者が、「上」に対して投げつける罵詈雑言は、「差別語」とはみなされない。この映画でも、レニー・ブルースの有名な言葉「"fuck"を言う権利を奪われたら、"fuck the govenrment"(政府よくたばれ)と言う権利も奪われる」(Take away the right to say 'fuck' and you take away the right to say 'fuck the government')が引用されるが、"fuck"は、どういう立場の人が言うかが問題である。ドン・アイムスは、「庶民」の代表的な機能を発揮していられる(所詮は視聴者の錯覚だとしても)あいだは、「汚い言葉」を発することができた。実際、彼は、幾多の政治家にどぎつい言葉とつきつけ、そのときはなんとかやり抜いてきた(訴訟を起こされたこともあるが)。
(映画美学校第1試写室/ムヴィオラ)



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●ナンバー23 (The Number 23/2007/Joel Schumacher)(ジョエル・シューマッカー)

The Number 23
◆期待ほどではなかった。なぜかを書くと、見ていない人が「ネタバレ」とさわぐので書けない。ストーリー指向の映画評を書かせない構成になっているところはうまい。
◆ひねった形で自分の過去の罪への責任の問題を追求している。過去であるだけでなく、そのことをある事情で忘れてしまうが、やがて、それを思い出したとき、どうするか? 「明日の自分は今日の他人」という発想への反論。
◆プレスでは、「それは一冊の本からはじまった」とあり、今後、宣伝のコピーとしてこのフレーズが使われるであろうが、これは、正確には「本」でははなく、仮綴じのタイプ原稿であり、それを最初から認識することでこの映画のプロットがわかりやすくなる。まあ、一昔まえに原稿を書いていた者には、その区別は容易だが。
◆最初、「23」という数字の不可解な出来事を肯定するオカルト的なドラマであるかのように進んで行って、途中から妄想や夢想をあつかう心理主義的なドラマに転向し、さらにそれらが錯綜した形になる。
◆ジョエル・シューマッカーの作品は、わりあい好きだ。イデオシンクラティックな主人公がおり、なぜそうなったかが解き明かされるというパターンがある。この映画もそうだし、『オペラ座の怪人』、『フォーン・ブース』、『ヴェロニカ・ゲリン』、『8mm』、『9デイズ』『バットマン』シリーズ2作が、いずれもそうだ。そのうえで、原作や脚本の社会性の関数をくわえ、味を出す。この映画は、社会性という点では、他の作品よりも弱く、むしろ「ゲーム」性が強くなっている。
◆1970~80年代には脇役、特に根の暗い悪役で味のある演技を見せたエド・ロータ(Ed Lauter)が神父役で出ている。依然、脇役ではかなり出ているらしいが、最近は目に触れなかった。
(スペース汐留FS試写室/角川映画)



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●クワイエットルームにようこそ (Kuwaietto-rumu ni youkoso/Welcome to the Quiet Room/2007/Matsuo Suzuki)(松尾スズキ)

Welcome to the Quiet Room
◆松尾の作品のなかで一番「映画的」な作品。松尾もやっと「演劇」を脱皮した、と言ったら松尾の熱烈なファンには怒られるだろう。役者としてだが、『イン・ザ・プール』の彼はまだ「演劇」のなかにとどまっていた。『姑獲鳥の夏』から『同じ月を見ている』にいたって、大分映画慣れしてきた。『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』の脚色で水準をこなし、今回の監督第2作を作った。この線で行けばいいんじゃないの。
◆松尾スズキが、蒼井優を(彼女自身も言っている)「新境地」に連れ出したのは、この映画の一番の見どころだ。内田有紀とりょうは、プロとして、しゃきっとした演技をしている。宮藤官九郎はあいかわらず「天才的」な才能をちらちらと見せる。妻夫木聰は、別人になったかのような演技をし、遊び心を見せる。
◆主役の内田有紀が演じるのは佐倉明日香というライター。放送作家の鉄雄(宮藤官九郎)と住んでいるらしい。仕事に追われているとか、ある種いいかげんな鉄雄との関係とか、すべてが夢のなかなのかどうかといったことはどうでもいい。それよりも、彼女が入れられてしまった精神病院で出会う患者たち(蒼井優、大竹しのぶ、中村優子、高橋真唯、馬渕英俚可、筒井真理子などなど)のさまざまな特異性のスケッチが「今」を感じさせる。拒食症や過食症の理由づけは型通りだが、この映画は病理学のガイドではないから、そんなことはどうでもいい。要するに、みんな「内部」の「多様性」(マルチプリシテ)の「反乱」と「氾濫」をもてあましている。
◆佐倉明日香は、狂ったように忙しい「外界」から精神病院へ入り、最後にそこを出るが、いまわれわれの周囲は、精神病院の「外部」はない。「外界」と精神病院の内部とは切れめなくつながっている。その意味でわたしには、彼女がいる病院が非常に「自然」だった。
(アスミック・エース試写室)



2007-08-22

●めがね (Megane/2007/Ogigami Naoko)(荻上直子)

Megane
◆もたいが飛行機で降り立つが、その飛行機は、黄色と紺のデザインで、明らかにJAC(日本エアコミュータ)のもの。映画は、尾翼にあるはずの「JAC」の文字を見せない。その空港は、与論島の与論空港だが、「空港」という文字のところだけを映し、どこであるかを明示しないようにしている。これは、ある意味で、「どこにでもあり、どこにもない」場所を映画の世界に設定しようとしているともとれる。
◆ユートピアは、ウ・トピアで、原義は「どこにもない場所」という意味だが、この映画も、場所を明示しないことによって、ある種の「ユートピア」を描いている。忙しさがなく、ケータイが通じず、自然がゆたかで、食事もうまい場所。
◆荻上直子の前作『かもめ食堂』でもそうだったが、料理のシーンでいんちきをしていない。本作では、フードスタイリストの飯島奈美を起用して、小林が泊まる旅館で光石研が出す朝食やバーベキュー、さりげなく調理する野菜などをしっかりと撮っている。もたいが期間限定で開くかき氷屋のあずきも、ちゃんと煮るところを見せる。
◆しかし、全体として前作ほどの奥行きは感じられない。こういう場所を設定し、「ケータイの使えないところに来たかった」という意識の登場人物を配置すると、すでに「スロー」指向の流れがはやっているので、新鮮な感じがしないのだ。「スロー」に生活している人がいる。それを可能にする場所がある。そして、そういう環境にうといが、それに疲れている都会の女性がいて、そこにやってきて、サムシング・ニューを感じる。これでは、ちょっとものたりない。光石の旅館では、「個室」という発想がないので、最初それにとまどった小林が、もう一つあるという宿泊施設に行くと、そこは、経営者の薬師丸ひろ子の指導のもと、宿泊客がみな菜園などの「労働」が義務づけられているある種の「コミューン」で、小林があわてるというエピソードが出てくるが、薬師丸のような「大物」を出しながら、それきりで終わるので、見る者には、あれは何だったんだろうといった思いが残る。
◆あまり期待していなかった料理が、食べてみると意外とうまいことを表現する小林が、口に含んで「!」という感じで目を少し見開く表情は単一。
(映画美学校第1試写室)



2007-08-21

●てれすこ (Teresuko/2007/Hirayama Hideyuki)(平山秀行)

Teresuko
◆冒頭の淡路恵子と笑福亭松之助の寸劇(老舗の女将と老番頭との心中?)はなかなかいい感じで、このイントロに三味線まじりの「ラプソディ・イン・ブルー」がかぶってオープンクレジットになるのが、その後の期待をかきたてる。それは裏切られず、ちょっと岡本喜八の『ジャズ大名』を思わせるような調子で進む。こりゃいい、とわくわくしながら見る。しかし、子狸が出て来て、それを料理して食おうという弥次郎兵衞(中村勘三郎)の夢想と語りをCGで見せるあたりまでは、これもありかと思ったが、賭博のシーンで、ツボのなかを拡大描写するあたりになって、ダレて来る。基本的に、「てれすこ」を初めとする「古典落語」をコラージュしたつくりになっているので、断片的に楽しめばそれでいいのかもしれないが、ならば、プレヒトの「中断」の技法でも使って、各エピソードを分けて並べた方がよかったような気がする。一応一つのドラマとして全体の流れが作られたうえでこの終わり方をされると、お粗末と言う印象が残るのである。
◆『ミス・ポター』でも、絵本のなかの動物が動き出すような遊びが見られるが、それは、「節度」を保っていた。ここでは、やりすぎて全体のリズムを壊している。
◆江戸品川宿の女郎お喜乃(小泉今日子)のところへ通いつめる弥次郎兵衞は、新粉細工の職人。2人がよく会う理由は双方で違う。弥次郎兵衞は、得意の新粉細工の腕を利用してお喜乃のために「小指」を作り、届ける。彼女は、それを本物の小指に見せかけて、常連客に渡し、大金をせしめている。「切り指」は、情愛の深さの証だから、客は感動して金を出す。ちなみに、「切り指」は、すでにこの物語の時代には、本物の指ではなく、それに似せた模型になっていたはず。が、この映画の設定は、弥次郎兵衞の新粉細工の腕が抜群で、ちょっと見には、本物と区別がつかないという設定なのだ。このへんは面白いし、映画にちらりと出てくる物売りや街頭の風俗が、雰囲気的に時代の感じを押さえていて、楽しめる。
◆柄本明が演じる歌舞伎役者の喜多八は、『忠臣蔵』の松の廊下のシーンで、吉良上野介の眉間切りつけるつもりが、脇腹を刺す演技をしてしまい、舞台の収拾がつかなくなり、役者生命を失う。これじゃ生きてはいられないと、遊廓の庭で首を吊るが、失敗したところを弥次郎兵衞とお喜乃に見つかる。弥次郎兵衞とはよく知った仲。で、よくわからないお喜乃の事情もあって、3人で旅に出ることになる。ちなみに、女郎は勝手に遊廓を出られないから、彼女は地回りに追われることになる。その追手役が松重豊と山本浩司というなかなかいいキャスティング。
◆古典落語のエピソードは楽しめるのだが、落語にはある「落ち」が映画として効果的には描かれていないので、途中からダラけてくる。エピソード毎にメリハリをつければよかった。話が進むにつれて、お喜乃は、弥次郎兵衞の死んだ女房とうり二つだったというような話が加わって、メロぽくなるが、中村勘三郎と小泉今日子では、メロにはならない。といって、大爆笑のドラマにもならない。
◆一番笑えるのは、喜多八が、実は酒乱で、そいつが、最初は羊羮なんかを食っているうちに、酒をすすめられて、やがてとんでもないことになるシーン。見る方は、だいたいどうなるかすべて予測がつくわけだが、そこが柄本明の演技力で笑わせるのだ。
◆個々の役者はみないい感じを出しているが、藤山直美のような大物を出しておいて、あれだけというのはひどすぎる。淡路恵子は、短いながらさすがのオーラを発していたが、あれきりで終わりかねぇという印象はあとまで残った。
◆小泉今日子はいい俳優だが、この作には、ちょっと向かないような気がした。ちょい役で出ていた鈴木蘭々の方がよかったかもしれない。小泉だと、世界が「健康」になってしまうのだ。むろん、『空中庭園』のような逆説的な使い方もあるが、一応、売れっ子の花魁という設定だから、もうちょっと「意地悪」で「セクシー」な要素がないとね。せめて中谷美紀ぐらいの。
◆日本の時代劇を見ていつも思うが、とりわけ「瓦版売り」などが出ているシーンで、みんなしゃべりが「うわっつら」(つまりしつこい、ねばるしゃべりはすべてやめる)のテンポの早い会話なのだが、実際にはどうだったのだろうか? ルイス・フロイス(1532 - 97)が日本に35年滞在してから書いた『ヨーロッパ文化と日本文化』(岩波文庫)を読むと、何百年たっても基本で変わっていないことが非常にたくさんあるのに驚かさせる。みのもんたなんかは、江戸の「瓦版売り」そのままだし、テレビのバラエティやニュースショウは江戸の「瓦版」なのだ。こういう環境で「メディアリテラシー」なんて言っても無駄だよ。
◆「てれすこ」は落語の有名な作品だが、これをわたしは、ラジオで3代目の三遊亭金馬の公演で聴いた。3代目の金馬は、釣りが好きで、釣りの帰りに線路を渡り、列車にはねられて、足が不自由になった。これもっわたしはラジオのニュースと新聞で知った。金馬は、たしか「金歯」にひっかけたかのように前歯が金歯だったような気がする。ただし、当時は、金歯の人はたくさんいたから、あえて金歯にしたわけではなかった。歯が悪くなれば、金歯になったのである(プラチナというのもあったが)。
◆「てれすこ」は、この映画にもあるように、正体不明の魚が採れ、役所がその名を問う懸賞金付の「触書」を出す。すると、それは「てれすこ」だと名乗る者(この映画の冒頭に出てくる笑福亭松之助が演じる番頭)がおり、懸賞金を受け取るが、それを怪しんだ奉行(映画では間寛平が演じる)が、それを干物にして再度懸賞募集をする。すると、また同じ人物が、それは、「すてれんきょう」だと言って来た。これで先の「てれすこ」のでたらめがバレ、死罪を言い渡されるが、残される妻子への遺言として、「いいか、この子が大きくなってもイカを干したものを決してスルメと言わせるな」と言い、それを聴いた奉行が、死罪をゆるすという落ちがつく。映画でもほぼそのままの話が(あいだに別のエピソードが入りながら)出てくるが、この絶妙の落ちが活かされてはいない。落語なら、ストーンとこなければならないところが、全然そうではないのだ。
◆最近、落語への関心が高まっているのだろうか? 平山秀幸は、前作の『しゃべれども しゃべれども』でも落語の世界を取り上げた。落語への関心が高まるのは喜ばしい。『凶気の桜』が公開されたころ(2002年)、そのなかに、窪塚洋介が演じるウルトラナショナリストがテープで落語を聞いているシーンがあったので、大学のゼミで落語の話をしたら、ほとんどの学生が「落語」という言葉を知らなかった。まあ、わたしの行っている大学の水準が低いのだろうが、監督の薗田賢次がそういうシーンを入れたのは、時代を読んでいたのだと思う。すでに古今亭志ん生のCDが売れたり、寄席→ラジオ→テレビ→寄席と変転する落語ブーム(まではいかないか)が始まりつつあった。この映画は、そういう動きをグンと突いてくれるだろう。
(松竹試写室/松竹)



2007-08-16

●グッド・シェパード (The Good Shepherd/2006/Robert De Niro)(ロバート・デニーロ)

The Good Shepherd
◆暑い。試写室はえらく寒い。ほぼ満席なので冷房をきかせたかのか? 東和を創設した川喜多長政ファミリーを記念する建物はそう古いものではなく、冷暖房の装置もいいはず。
◆1961年4月17日にカストロの新キューバ政権打倒の侵攻作戦(ピッグス湾侵攻)が失敗したが、この事件を軸にし、それを指揮したCIAのエドワード・ウィルソン(マット・デイモン)の半生がフラッシュバック的に描かれ、同時にこの事件の謎があばかれて行く。1925年生まれのウィルソンが、父の自殺を隣室で経験した幼年時代、イエール大学でフレデリック教授(マイケル・ガンボン)のもとでドイツ文学を学び、また、恋人となるローラ(タミー・ブランチャード)と知りあう1940年代、ローズベルト大統領によって作られた戦略情報局OSSのメンバーとなってベルリンにおもむく第二次世界大戦勃発期、トルーマン大統領によってCIGが作られ、それがCIAになる1947年から1950年代へと複雑にフラッシュバックする。
◆この映画は、時代をひんぱんに日付入りで前後させるだけでなく、政治的事件とウィルソンのパーソナルな問題とを入れ子にして描き、そのまさにパブリックとプライベートの領域のからみあったところに(ウィルソンとその息子との関係)ピッグス湾侵攻の失敗を位置づける。なかなかスタイリッシュである。
◆ウィルソンがCIAを支える人物になる発端は、イエール大学内のワスプ(WASP)のエリートで結成された秘密結社「スカル&ボーンズ」に入会したことだろう。これと前後して、FBI捜査官サム・ミュラッハ(アレック・ボールドウィン)にオルグされ親ナチ派のフレデリック教授のスパイをし、教授を失墜させるというエピソードがあるが、ミュラッハも、「スカル&ボーンズ」と無関係ではない。ひょっとして、ミュラッハは、「スカル&ボーンズ」の支持でウィルソンに接近したのかもしれない。いずれにせよ、フレデリック教授との関係でウィルソンが果たした「業績」は、彼のその後のキャリアを保証することになる。ウィルソンをOSS(CIAの前身)を組織したサリヴァン将軍(ロバート・デニーロ)に紹介するのが、のちにCIA長官となるフィリップ・アレン(ウィリアム・ハート)で、二人とも「スカル&ボーンズ」のOBである。
◆秘密結社と情報・諜報機関との関係は、映画でも物語でもおなじみのテーマであるが、事実はどうなのだろうか? その昔、わたしは、小説家のソル・ユーリックにこの関係の歴史的事実をさんざん聞かされた。彼によれば、日本の情報・諜報機関も、「黒龍会」のような秘密結社と深い関係があるとのことだ。まあ、蛇の道はヘビで、裏情報を握っているからこそ秘密結社なのだから、あたりまえと言えばあたりまえである。
◆ただし、秘密結社というものは、その語の示唆するように、その実体はわからないわけだから、秘密結社→情報・諜報組織という系図と、情報・諜報組織による政治操作・政権支配という構図は、歴史を「陰謀理論」的な単純化へ矮小かしかねない。が、いくら「陰謀」をくわだて、シナリオを組んでも、その通りに行かないのが歴史である。その意味で、この映画は、情報・諜報組織による政治支配が結局は失敗することを描く。そして、その際、そうして計画的な陰謀をくつがえすのが、家庭や愛情関係のなかの偶然性なのである。殺人や戦争や政治操作はある程度まで計算づくで進めることができても、家庭や愛情は、些細なことで予想のつかない結果を生む。映画は、ピッグス湾侵攻の失敗が、戦略や戦術の失敗によるものではなく、予測不能のパーソナルな偶発事から生じたことを描く。
◆自分を殺して組織に忠実だったウィルソンにも、恋人のローラとの蜜月時代に、「スカル&ボーンズ」の先輩のラッセル上院議員の娘クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)と一時的な性交渉を持ち、彼女が妊娠してしまうとは考えなかった。ウィルソンは、クローバーの兄に命令され、彼女と結婚する。時代は1940年代前後だから、女が妊娠したら結婚するというのは割合「普通」のことだった。しかし、映画が明示してはいないが、2人の出会いは、「スカル&ボーンズ」の陰謀であったと考えることは可能である。が、しかしながら、どんなに聡明な陰謀家や陰謀組織でも、生まれてくる子供がどういう子供になるかまではプログラムできない。つまり、「陰謀史観」は、成り立たないのである。
◆マット・デイモンが学生時代から50代ぐらいまでの年令を演じるが、「息子」(エディ・レッドメイン→なかなかいい)といっしょにいるときなどは若すぎる感じ。
◆他人を誰も信じられない/信じてはいけない諜報組織と家庭の家族関係とが対照的にえがかれる。ここでは、当面、家庭が前者の犠牲になるが、最後にその関係が逆転する。たった一人の人間が他人を信じてしまったために、米軍の「ピッグス湾襲撃」は失敗した。
◆アンジェリーナ・ジョリーが、久しぶりに「普通」の女を演じた。組織の仕事で何年も家に帰らず、父を知らないで育った息子のことで彼女演じる妻が「あなたは子供のことを何もしなかった」と夫のウィルソンを責めると、彼は、「息子のために結婚したじゃないか」と言い、彼女は深く傷つき、2人の関係は修復不能に陥る。「理知的」であるはずのウィルソンも、家庭を操作するのはむずかしい。
◆2時間47分という長さはいらなかったような気もするが、子供が生まれ、成人する時間を感じさせる意味では、必要な時間だった。しかし、この時間の長さ、場所の多様さにもかかわらず、頻繁に変わる時代と場所のために、長ったらしい感じはしない。
◆CIAや秘密機関も「ファミリー」であるが、「結社」としてのファミリーと家庭としてのファミリーはちがうということをこの映画は描く。結社としてのファミリーは、通常のファミリーとは両立しない。
◆恋人はみなアフリカン・アメリカンというデニーロらしく、ウィルソンの息子の恋人は、ドミニカ共和国(?)のカラードの女性に設定してあるのだった。
◆ヴァレンティン・ミノロフと名のるソ連からの亡命者が出てきたため、すでにCIAの協力者になっている同姓同名の元KGB士官とどちらが本物なのかがわからなくなるという事態が発生し、ウィルソンが、その亡命者の尋問に立ちあう。ジョン・タトゥーロが演じる暴力的な部下が、亡命者を拷問するシーンがリアルだ。
( 東宝東和3番町試写室/東宝東和)



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●カフカ 田舎医者 (Kafka Inakaisha/2007/Koji Yamamura)(山村浩二)

Kafka  Inakaisha
◆21分の作品。前2作にくらべると、こなれていない感じ。カフカの短編「田舎医者」(「村医者」とも訳される)に興味を持つ人は多いが、あまり成功しない。山村は、前作の『頭山』を見るかぎり、この短編の特徴と合った感性の持ち主であるように見えるが、あのユーモアとシュールレアルなところが出ていないのはなぜだろう?
◆原作のシュールレアルな要素は、さりげなく描かれる。急患のために吹雪のなかを10マイル先の村までかけつけなければならない(と思っている)医者。が、馬はひどい寒さのために昨夜死んでしまった。馬車はあるが馬がない。メイドの女性が馬を借りようと村中をかけまわっている――原作では、このへんの描写も淡々としているが、そのなかに非常にダイナミックな動きがある。ある意味でスラップスティック的なダイナミズムだ。この物語は一見何と変哲もないかに見えるデテールのなかに凄いダイナミズムが隠されている。
◆淡々と、あるいは便々と描写が進むように見えて、「放心し、困り果てたわたしは、もう何年も使っていない豚小屋の、こわれた扉を、足で蹴った」(吉田仙太郎訳、高科書店)というアクションの描写が来る。すると、その「豚小屋」――「馬小屋」ではな――馬丁と2頭の馬が飛びだしてくるのである。この意外性とシュールなダイナミズムが、この映画では出ていない。
◆このいかにも目が粗野に輝いているような馬丁は、医者のメイドを見るなり、欲望を爆発させ、いきなり彼女の頬に唇を押しつけてくる。「娘は叫び声をあげて、わたしのところへ逃げて来る。二本の歯並びが赤い押し型となって、頬に残っている」。強烈なシーンであるが、映画は、もっと淡泊だ。
◆この物語は、「わたし」体で書かれている。ということは、ここで描写されることは、いささかも「客観性」を持たないということだ。「わたし」の夢想や幻想が全文改行なしの文字として物体化されたような物語。だから、時間は決して同じような流れでは進まず、いきなり飛んだりもする。馬車に乗った医者は、次ぎの瞬間に患者の家に着いている。
◆この物語を映画化するとすれば、こうした飛躍の時間を映像化するだけでも面白い。が、この映画は、物語の筋を追っているだけだ。リズムが違う。それと、カフカの物語では、描写されるシーンの背後でもう一つ(あるいはもっと)の出来事が起こっていることに注意する必要がある。医者は馬車に乗り、馬丁を連れて行くつもりだったが、馬丁が馬を走らせ、馬丁はメイドを追う。彼女は家に走り、ドアを閉めたが、医者には、「わが家のドアが馬丁の襲撃にあって、砕け、避ける音が聞こえた」。馬丁は女を襲うのか、それから彼女はどうなるのか? このことは、語られないままに話が進む。しかし、映画では、この気になるサブストーリーには触れない。
◆物語の最後は、「謀られた! 謀られた! 夜の玄関の惑わしの呼鈴を信じたら最後、――決して、取り返しがつかないのだ」で終わり、映画もこのフレーズを「騙された、騙された! 私はいつもこうなんだ。一度でも、真夜中の嘘の呼び出しに応じてみろ。もう、取り返しのつかないことのなるのだ」というナレーションが聞こえる。だが、映画では、漠然と物語を読んだときのように、なぜ「取り返しのつかないことになる」のか、「騙された」といっても誰に騙されたのかがさっぱりわからない。たしかに「形而上学的な陰謀/騙し」の物語ではあるが、それを「形而下」に持って来るのが映画ではないか?
◆カフカの物語においては、「ドア」と「ベル」がキーワードになってとてつもないことが起きる。医者は、急患の知らせをドアのベルで知らされる。「豚小屋」のドアを蹴ると不思議なことが起きる。馬丁はメイドを追ってドアを押し開ける。そして、そのときから、医者はもう家に帰りつくことができない。たとえ家のまえまでもどってきても、なかへは入れない。「現実」と「夢」との中間地帯を浮遊せざるをえなくなった医者。ここから、老いを意識した医者、それまでの医者としての地位を奪われた医者、田舎医者としての仕事への疲れと任務放棄等々を観念的に抽出するのも自由である。が、いずれにしても、このポリフォニックな原作には、この映画は近づいていない。
◆本作では、狂言の芝山千作(田舎医者)、芝山茂(医者・心の声1)、芝山童司(医者・心の声2)、芝山七五三(馬子――原作の「馬丁」)、芝山逸平(少年――原作では患者の青年)が声を担当し、メイドのローザの声を芥川賞作家の金原ひとみが担当している。挿入される音のために、電波楽器のオンド・マルトノが使われているというのも面白い。
(松竹試写室/シネカノン)



2007-08-15_2

●年をとった鰐 (The Old Crocodile/2005/Koji Yamamura)(山村浩二)

The Old Crocodile
◆『カフカ 田舎医者』と併映。13分。ナレーションがピーター・バラカンが担当。その「物語」性がよく出ている。『頭山』よりはシンプルな図柄と構成だが、ファミリーから国家までの不条理がアイロニカルに異化されている。
◆最初に鰐の大ファミリーがある。場所はナイル河のほとり。そこで主人公の鰐は、仲間の一匹を食べてしまったために、ファミリーを追放される。海をさまよっていると、メスのタコに出会い、親しくなり、無人島でいっしょに暮らすようになる。タコは鰐に食べ物を運んでくり。ある種のカップル的関係が生まれる。が、鰐はすぐ腹がへり、タコの脚を食べてしまう。タコは数の観念がなく、脚がなくなっても気にしない。そして、だんだん12本の脚を食べてしまう。脚を失ったタコは、鰐のために食事を運べないのを気にし、そのときだけ鰐は自分で魚を採って来る。が、すぐに腹が減る鰐はタコの胴体も食べてしまう。相手を失った鰐は泣き、淋しくなり、ナイルの仲間のところへ帰ることにする。ところが、エジプトで鰐は、人間たちに崇めたてまつられ、毎日、人間の娘を生贄として与えられるようになる。鰐には、なぜ自分がこうなったのかがさっぱりわからない。
◆なかなか皮肉なアニメーションである。神格化された鰐は、黒色から赤色になるが、これは何を意味するのか? タコとの関係には、性的な暗示がある。そもそも「食べる」こととセックスとのあいだには密接な関係がある。愛撫の形式と食事の身ぶりとのあいだには共通性がある。愛するとは、食べることであるとすれば、鰐はタコを愛していたのだ。そして、そういう「愛」をあきらめたとき(そこから引き離されたとき)鰐は、「神」になる。
◆食事にも、食いあわせや禁忌がある。慣れれば食べられるもの、肉体的に決して慣れることがないもの(毒類など)がある。セックスにも、近親相姦、同性愛、獣姦など文化・社会体系による禁忌がある。細かく見れば、食べ方にもセックスの仕方にも禁忌がある。逆に言えば、ある種の禁忌や禁止条項によってファミリーやカップルや組織や国家が出来上がる。禁止がなければ、インスティトゥーショナルなもの、制度的なもの、組織的なものはなりたたない。
◆このアニメの鰐は、こうした禁止や禁忌から自由な存在である。鰐としても平均的ではない。言うなれば「マレビト」ならぬ「マレ鰐」である。マレビトは、自由に食べ、自由にセックスし、そのままいつのまにか「神」になってしまう。なかなか深い作品である。
(松竹試写室/シネカノン)



2007-08-15_1

●頭山 (Atama-yama/2002/Koji Yamamura)(山村浩二)

Atama-yama
◆『カフカ 田舎医者』と併映。10分。ちょっと変なところもある英語字幕付。2003年度アカデミー賞短編アニメーション部門にノミネートされた。2003年度アネシー国際アニメーションフィルム・フェスティヴァルのベスト・アニメーションフィルム部門グランプリ受賞。
◆落語の「あたま山」を下敷きに、国本武春の三味線と語りが効果的に使われている傑作。これを見てしまうと、これから併映される『カフカ 田舎医者』の出来への期待が高まると同時に、よほど凄いことをしないとこの作品を越えるのはむずかしいと感じさせる。併映は、賢明ではない。
◆頭に芽が生えてきて、切っても切っても生えるので放置したら、それが桜の大木になり(といっても頭の上であることが可笑しい)、花見客がおしよせる。この「不条理」演劇的なシュールレアリスムさが面白い。男の頭に芽が生えたのは、サクランボの種を食べたかららしいが、サクランボ(チェリー)が花見の桜(ヤマザクラやソメイヨシノなど)から採れることはない。
◆しかし、ここを強引に結びつけてしまったところが実にユニークだ。わたしは桜が嫌いだが、サクランボは好きだ。だから、もし、花見の桜からサクランボが採れるのなら、わたしは桜を嫌いにはならなかっただろう。
◆頭に桜の樹が生え、花見客が殺到するのが頭に来た男は、その樹を引っこ抜いてしまう。この怒りは、どいつもこいつも「みんな」が集まるところに来て戯れるという日本的な社会性への嫌悪のようにも見える。少なくとも、樹が生えて桜が咲いてからの人の集まり方は、いかにも「日本的」に見える。
◆大樹が引き抜かれた跡に、穴が開き、水がたまる。今度は、そこに出来た「池」に人が集まってくる。男は、もうすっかりうんざりして、その「池」に飛び込んで溺れてしまう。入れ子状の破壊とは、なかなか強烈だ。「みんな主義」への痛烈な皮肉。
(松竹試写室/シネカノン)



2007-08-14_2

●ディスタービア (Disturbia/2007/D.J. Caruso)(D・J・カルーソ)

Disturbia
◆京橋から六本木まで足をのばしたが、見終わって、ちょっと後悔した。今日はほかにも色々選択しがある日だった。最初は父親と息子がむつまじく釣りをしている穏やかなシーン(最近はそうなのかもしれないが、映画のなかではこういう父子の仲良さはお目にかかれない)から始まり、それが突然悲惨な衝突事故のシーンに進むので、こいつはなかなかかなと思ったが、要するにこの映画は突然驚かせるのが好きなある種の「スリラー」なのだった。とはいえ、せっかく見たのだから、もう少し深読みをしてみよう。
◆自分の運転で父親を死なせたことを悔いている17歳の息子ケール(シャイア・ラブーフ)は、学校でスペイン語の時間に教師に父親のことを言われ、かっとなって暴力をふるい、「自宅拘禁」(house arrest) の刑を受ける。なかに無線のセンサーが付いた「足枷」をつけれら、家から30メートルのエリアを越えると、警察が飛んでくる。テストケースでアメリカのある州がこういう装置 ("ankle monitor"[足首モニター]と言われる)を使い始めたという話を聞いたのはずいぶんまえのことだったが、いまではかなり普及しているらしい。この使用には、アメリカの刑務所問題や、電子管理の問題がからんでくるが、この映画では、この装置は単に、ケールがこの装置の射程距離の30メートルとどう使うかに終始するだけである。
◆30メートル以上外に出られないからでもあるが、ケータイはむろんのこと、けっこうビデオカメラやガレージセンサーのようなリモート・メディアがドラマの重要な小道具になる。その点で、リモート・メディアを通して亢進するパラノイアと、「身体的現実」とのギャップがドラマにうまく活かされるのかと思ったら、ありきたりの「身体的現実」が前面にのし出て来るのだった。リモート・メディアになじんでいる「若者」の習性を活かしているように見えて、全然そうではないところがつまらない。ラブーフも、学校友達役のアーロン・ヨーも、キュートでセクシーなサラ・ローマーも、リモート・メディア世代の感覚を表現できる俳優たちなのに、もったいない。「悪役」を演じるデイヴィッド・モースなどは、かなり複雑な屈折を演じることの出来る名優であり、母親役のキャリー=アン・モスもそうなのに、モースは、ただのフランケンシュタイン的な猟奇オヤジを演じさせられてしまった。
◆川に足までつかって親子で釣りをしている冒頭のシーンで、「物書き」という設定の父親が、息子に釣りのコツを教えながら、「釣りは働くやり楽だろう?」と言い、「オヤジだって物書きなんだから、普通より楽だろ」と息子が言う。このへんで、わたしは、上の世代から見ると、家でぼけっとしている時間が多いはずのこの息子世代の「スラッカー」性のことがプロットのなかに入ってくるのかと思ったら、それっきりだった。「ハウス・アレスト」は、ある意味では、強制的な「引きこもり」である。だから、それは、「引きこもり」世代にとっては苦ではない。愛する父親が突然死に、「引きこもり」になる息子のエモーションを「ハウス・アレスト」という形に転換して表現している面が出たら、この映画はただのスリラーではなくなった。
(アスミック・エース試写室/角川映画/角川エンタテインメント)



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●ある愛の風景 (Brothers/2004/Susanne Bier)(スサンネ・ビア)

Brothers
◆早く行ったが列が出来ていたのでびくっとしたが、それは、試写状が『アフター・ウェディング』といっしょになっているので、まだそれを見ていない人に試写状を返すためにいちいち名前を筆記する作業で列が渋滞しているだけだった。が、けっこうの入り。補助席(クッションを階段に敷く)も出た。それに値する力作。
◆ビア(『しあわせな孤独』のときは「ビーア」と表記された)は、前作同様に、「ありがち」なパターンを予想させるようなシーンを見せ、それを裏切る。といっても、その「裏切り方」は、劇的なこけおどしではなく、心にグサっとくるような、人間の生の本質にせまるような転換だ。
◆この映画では、デンマーク人のミカエル(ウルリッヒ・トムセン)が「人道支援」でアフガンに出向くことが大きなプロットになっているが、日本では、「イラク復興特別措置法」(イラク特措法)で「人道復興支援」のために自衛隊を送ったことだけが前面に出て、アフガンにも「人道復興支援」が行なわれていることはあまり話題にならない。ちなみに、「2004-06-18現在」の資料によると、日本はアフタニスタン政府へ人も支援の金もデンマークよりもはるかに多く出している。デンマーク→550人(地雷・不発弾処理)、日本→480人(人道支援)。
◆原題は、デンマーク語の「兄弟」で、ミカエルと彼の弟ヤニック(ニコライ・リー・コス)との関係が主題になっている。二人は対象的で、兄はスポーツも万能の兵士であるが、弟は、職が定まらず、銀行強盗をやって刑務所に入ったこともある。銀行で怪我をさせた行員にあやまりに行くような優しさを持った男だが、いわば「スラッカー」的な性癖の持ち主で、バーで酒を飲みすぎ、金が払えなくなって兄嫁のサラ(コニー・ニールセン)に助けを求める電話をしてきたりする。兄弟の両親は、兄のミカエルが自慢の息子で、ヤニックは不肖の息子である。兄弟仲は悪くないが、ヤニックと親との関係はよくない。
◆そういう前提が食卓のシーンなどで描かれたすえ、ミカエルがアフガンに出かける。そして、予想されるように失踪。映画は、彼が乗ったヘリコプターがアフガンのアルカイダに撃墜されるシーンを映す。サラのところに使者が来て、夫の死亡を伝える。父親は、「おれは、息子を失ったただの老人だ」と嘆き悲しむ。他方、ヤニックは、兄の「葬儀」後、同情と愛情の入り交じった態度でサラに接し、人が変わったように、仕事まではじめる。彼女のために台所の改造までやってのける。サラの二人の娘もヤニックになつき、この分だと(ハリウッド映画を見慣れた目からすると)弟が義理の姉と「なおる」話に展開するのかと思う。夫を「失った」淋しい彼女が、ヤニックに示す微妙な気持ちを、コニー・ニールセンが見事に演じる。しかし、そういう予想を裏切るのが、スサンネ・ビアのうまいところ。
◆映画は、兄が、あれほどの爆破シーンにもかかわらず、ミカエルが生き延び、アルカイダの捕虜収容所にいれられるという方向に進む。そこで彼は、失踪が伝えられていたデンマーク軍の無線通信技師ニルス・ペーター(パウ・ヒリクセン)に出会う。ランボー映画に出てくるような非人間的な捕虜のあつかいがくり返され、ある日ミカエルはその人格が変わってしまうような酷いことを経験する。結果的に、彼は救出され、妻と家族のもとに戻るが、そのとき受けた心の傷は容易に癒えることはない。このへん、戦争に対するスサンネ・ビアの鋭い戦争批判がある。
◆ミカエルが家庭に復帰してからの一連のシーンは、スサンネ・ビアならではの、深い屈折と痛みをともなうドラマを描く。アフガンであったことを誰にも告白することができないという脅迫観念が、ミカエルを追い込み、サラとの関係も、子供たちとの関係も崩れて行く。弟のヤニックがミカエルに助けの手をさしのべようとすればするほど、ミカエルは弟と妻との関係を疑い、暴力的になっていく。彼は兵士であるから、身体には自信があり、その素振りは殺気をおびて行く。子供たちも次第に父親を恐怖するようになる。
◆ここから彼や彼女らはどうなるのか? 「兄弟」という原題からすると、弟が鍵になるように思えるが、最終的には妻が彼を救う。が、彼は本当に救われるのかはわからない。戦争の残酷さの印象は、映画が終わってからも消えない。
◆感動的な映画だが、この映画でも、救いという概念が「言表」とセットになっていることに気づく。しかし、言葉にすれば人は救われるのだろうか? 武田泰淳は、出征で中国に渡り、中国人の虐殺に荷担したらしいが、そのことは生涯口にしなかった。死後それがいくつかの資料によって立証されたようだが、彼は、その痛みをいだいたままその一端を作品のなかに書いた。彼は、ある意味ではずるかったのかもしれないが、告白によってその傷が癒えるとは思っていなかったにちがいない。
◆言表によって人は救われないとしても、罪を心の闇のなかに包んだまま死んでしまう(それを「武士」の生き方だと言うやつもいる――石原慎太郎は、阿部政権の農水大臣松岡利勝が自殺したとき、そう言った)という生き方をするかぎり、民主主義的な人間関係は成り立たないことだけはたしかである。どのみち、民主主義は、すべてが言表できるとういうこと、言表することは隠すことよりよいことだということをタテマエとして成り立つ便宜的な思想であり、価値観である。それは、むろん、絶対ではないが、人間が共同で生きていくには、当面、これを維持するしかないのではないか?
(映画美学校第2試写室/シネカノン)



2007-08-13

●釣りバカ日誌18 ハマちゃんスーさん瀬戸の約束(Tsuribakanisshi 18/Asahara Yuzo)(朝原雄三)

Tsuribakanisshi 18
◆ニューヨークでは秋並の気候だというが、こちらはあいかわらず猛暑である。ヨーローッパやアメリカ東海岸の気候の変化は、数日すると日本にうつることがあるが、今回はどうだろうか? 夏の暑さは嫌いではないので、それほど暑さが気になるわけではないが、冷房との格差には悩まされている。
◆いま天皇制の話をすると、きょとんとした顔をする人が多い。そんなものもう終わっちゃってると思う人が増えているようだ。しかし、政治としての天皇制は見えにくいが、ミクロポリティクスのレベルの天皇制、文化と政治とがせめぎあうレベルの天皇制は立派に存続している。何度も書いたが、それを目の当たりにしたければ、『釣りバカ日誌』シリーズを見ればよい。これは、天皇制が「うまく」機能しているドラマのモデルである。
◆この映画で「浜ちゃん」が言うように、会社はタテ社会であって、今回、社長から会長になった鈴木一之助(三國連太郎)と浜ちゃん(西田敏行)とが「友達」だなんてことが知れたら大変だ。年令差、上役と平との格差を越えて、「俺」と「お前」の関係であるというのが実際であっても、タテマエはタテ関係にある。これが映画になり、観客を喜ばすのは、その「実際」が現実ではなく、映画のなかの「現実」にすぎないからである。つまり、この映画は、最高度のタテ関係としての庶民と天皇の関係がこうであればよいという願望のなかで描かれているドラマなのだ。
◆これだけだと牽強付会だと言われるので、もっとエクスプリシットな意味で天皇制的な例を挙げよう。まずは、そのまえに全体の枠組を紹介する。毎回「時評」的なテーマを盛り込むのがこのシリーズのパターンだが、今回は、「エコ」がテーマになっている。岡山県の瀬戸内海の大野浜に広大なリゾート開発の計画が進んでいる。その建設を請け負うのが鈴木建設。そして御多分に漏れず地元の若者たちによる反対運動が起こっている。その主要な活動家の一人が高嶋政伸が演じる高原昌平で、その恋人で寺の娘の木山珠恵(檀れい)も支援している。こういう場合、一昔まえなら、反対運動は負けるのがパターンだが、この映画では勝ってしまう。といって、この映画は、メディア・アクティヴィズムの映画ではない。その描写も、ちゃんと会社側との団交のシーンも、暴力団が座り込みを壊しに来るシーンもある。まるで一昔まえの「社会派」(このまま自動翻訳にかけると"socialist"と訳されるおそれがあるが、「社会派」と「社会主義者」とはちがう。社会的意識の強いといった意味である)の映画のようなノリだ。しかし、いま進んだ会社は、「エコ」では闘わない。むしろ、ここまで「エコ」派の地元活動家と対立してしまう会社はいまではダメな、遅れた会社なのだ。
◆日本では、下からの変革つまり「革命」はめったに起こらない。変革は上から起こる。が、その「上」は組織の上層部ではなくて、「超」上層部からでないとむずかしい。つまり「天皇」による変革である。そもそもいまの企業の「エコ」指向も、内部から起こったものではない。多くは、海の外つまりは欧米の企業からはじまったのであり、「欧米ではエコが重視されている」といささか脅迫的・権威的に強調し、外圧を利用した連中によって変わったのである。つまり、「海外企業」を天皇的な超越論的主体として利用することによって可能になったのである。日本では、論理的な推論から変革が進むことはない。
◆この映画のリゾート計画は、中止になるが、それは、「会長」と岡山県の財界の黒幕・渋谷(小沢昭一)とのあいだで決まる。この場合、鈴木一之助が「社長」であったら、こういうことはできなかった。なぜなら、「社長」は「超」ではないからだ。また、渋谷が「黒幕」ではなくて、表の政財界人であったら、無理だった。日本の変革は「超」と「楽屋裏」とのあいだで決まるからだ。このへん、この映画は実に日本の現実をついている。だから、リゾート反対運動を展開してきた連中自身が、こ「唖然」とするわけだが、日本で反対が通ってしまったときには、その裏に何かあると考えた方がよいだろう。それは、かならず、体制に利するものがあったのである。
◆企業もある、企業への反対運動もある、上下関係もある、しかし「みんな」丸くおさまれば「いいじゃないか」というのが、この映画の基本線であり、これが日本のあいも変わらぬきわめて基本的な流れなのである――ということを笑いながら知るには実に面白い映画である。ただし、その笑いは、映画館を出たころから、急にせつなさに変わってくるかもしれない。
◆例によって三國の老人演技は見事だ。今回、認知症が始まったかもしれないという恐怖にかられるところが話の始まりになっているが、会長就任の挨拶をしようとした瞬間に、ある種の「認知症」的記憶喪失に襲われるところを演じる三國の姿を細かく見ていると、実にそれになりきっているのがわかる。通常、こういうシーンで汗のかき方がいいかげんなのだが、それが実に真にせまっている。入れ歯の人特有の茶の飲み方など、凝っている。ただし、すべて完璧に見える三國の演技がわずかに狂った瞬間があるとすれば、それは、岡山で壇れいの運転する車を下りるシーンで、はからずも自分で車を運転している人特有のドアーの閉め方の身ぶりが出たときぐらいだろう。映画では、いつも前原運転手(笹野高史)が運転する車に乗っているが、三國自身はまだスポーツカーを自分で乗り回しているはずだから。
◆天皇制のもとでは、たとえ「天皇」が認知症になっても、誰からがその代理をしてくれる。鈴木会長の場合もそうだった。むしろ、「天皇」は「沈黙が金」なのであるが、それは、その「沈黙」がいかようにも解釈可能であるからだ。天皇も会長も、その「超越論的機能」だけがあればよい。 (松竹試写室/松竹)



2007-08-10

●HERO (Hero/2007/Suzuki Masayuki)(鈴木雅之)

Hero/2007
◆ますます暑くなってきた。冷房嫌いのわたしも、「弱冷房車」を避けるくらい。比較的新しいビルの11階にある東宝の試写室の冷房は快適で、あえて「防寒」の上着を着る必要はなかった。
◆フジテレビ系で放映されたシリーズの映画化だというが、わたしはそのシリーズを見ていないので、タイトルまでのかなり長いイントロのしゃれ(?)がよくわからなかった。こういう「テレビ」ノリの映画を見せられるのはかなわないなという気持ちがつのる。場内の反応も、全く笑いなしで、わたしだけがズレているのではなさそうだなという印象をいだく。しかし、ドラマが展開するにつれて、まあけっこう面白く出来ているんじゃないの、という気持ちになる。
◆婚約者(同情を買う目をした松本めぐみ)のいる男が、落としたタバコを踏んだと「金髪」の若者に因縁をつけられて殴られ、転倒して死ぬ。容疑者(波岡一喜)はすぐ逮捕され、自白をしたが、一転して否認。男は、歯科医のあるビルの通用口で管理アルバイトをしていたが、この歯科は大物政治家御用達の医者。つまりアリバイ工作にも利用される場所。他方、政治家の花岡(タモリが久しぶりに本名の森田一義で出演)は収賄容疑でおいつめられているが、法相の指揮権発動でその危機をのがれようとしている。彼にはアリバイが必要だった。
◆くだんの殺人事件の取り調べを担当したのが検事の芝山(阿部寛)と事務官の遠藤(八嶋智人)。が、芝山は家庭内の問題があり、裁判を久利生公平(木村拓哉)にまかせる。久利生は、事務官の雨宮(松たか子)と裏付捜査を始める。このへんは、推理ドラマの展開で進み、まあ楽しめる。久利生と雨宮とのあいだには、6年ごしのすれちがいがあり、いかにも「日本的」シャイ・カルチャーの見本にもなる遠慮と(恥ずかしさを隠す)乱暴なものいいがとりかわされる。こういう感覚は、わたしにはよくわからないのだが、一般の劇場などでこういうシーンを見ると、うれしそうに笑う中高年の観客に出会う。試写会場では、寂(せき)として笑いは聞こえなかった。
◆しかし、わたしが、この映画で面白いと思ったのは、久利生の市民性へのこだわりだ。特捜部の黛(香川照之がきりっとした演技)は、花岡代議士を追いつめるため、そのアリバイ工作の鍵を握っているとにらんだ例の容疑者の一件で、久利生にプッシュしてくる。しかし、彼は、毅然として、自分は不当な殺され方をした一市民のために仕事をしているのであって、大物代議士の逮捕が問題なのではない、と。このあたりは、演出の鈴木雅之の好みであり、彼の作品はみなこの路線で抜かれているような気がする(全部みているわけではないから)。が、この線は、拡大解釈すると非常に重要な点だ。検察や警察は、大義のために小義を犠牲にする。市民の不当な死よりも、大物の逮捕を優先する。しかし、何のための検察か? 何のための国家機関か? 国や体制や権威を守れば、一市民はどうでもいいのか? このへんの問題が、一面的に、市民か国家か、久利生公平か黛雄作かではなく、両方がからみあう形で描かれているところが悪くない。
◆花岡代議士とその秘書(いかにもの石橋蓮司)に雇われた辣腕の弁護士役で松本幸四郎が出ている。言わずと知れた松たか子の親父である。外見は気になるほどは似ていないが、「卒がない」感じがよく似ている。わたしは、「幸四郎」を襲名して大分たつのに、はるかにアウラのあった八代目の幸四郎と、そのかたわらで歌舞伎と新劇とのあいだをうろうろしていた「染五郎」のイメージが忘れられず、いまの幸四郎を見ると、歌舞伎俳優という感じがしないのだ。関係ない人にも調子よく話を合わせたりするしね。
◆サービスのつもりか、キムタクを韓国まで派遣し、実銃を映画に使える韓国の条件をいかして、特に必要でもない警官による包囲シーンを入れ、さらにあちらの検事役でイ・ビョンホンまで登場させる。インスタントな韓国下町観光ガイドもある。こういうところが、鈴木雅之の「テレビ屋」を抜けきれないところ。
◆いま、若い世代は「ぼく/僕」とは言わず、もっぱら「オレ/俺」である。おそらく、こういう風潮を定着させたタレントの一人としてキムタクがいるように思う。「ぼく」で育った世代からすると、「オレ、オレ」と言ういまの「若者」は傲慢な感じがするが、実際にはそうではない。でも、キムタクよりもまえの世代、たとえば松田優作が『太陽にほえろ』などで「オレ」と言っていたころ、その印象は、いばった傲慢な感じだった。それをねらって使われていた。評論などでも、「わたし」や「ぼく」ではなく、「俺」で書くのもいて、たとえば平岡正明は、なかなか効果的に使っていた。
(東宝試写室/東宝)



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●4分間のピアニスト (Vier Minuten/2006/Chris Kraus)(クリス・クラウス)

Vier Minuten
◆新橋を少し散歩して会場へ。すでに階段のところに列ができている。暑い。さいわいすぐに開場。列は出来ていたが、入りはそこそこ。6月の「ドイツ映画祭2007」ですでに上映された。わたしは、時間がなく、見過ごした。そのチラシには、「あまりに衝撃的な〈音楽映画〉」とあった。
◆10歳で国際的な舞台に立ってピアノを演奏していたという天才児ジェニーが、どこかで道をまちがった。殺人の罪を問われ、刑務所にいる。えらく反抗的なうえに、かっとなると暴れ狂う。そんな彼女(ハンナー・ヘルツシュプルング)が、ピアノの老教師トラウデ(モニカ・ブライブトロイ)に出会い、レッスンを受けることになる。トラウデは、あのフルトベングラーの弟子だったという設定。第二次世界大戦末期には看護婦をしていた。映画では、彼女の半生の描写が短いフラッシュバックで挿入される。視点は、トラウデの側に置かれている。だから、映画は、彼女が、グランドピアノを運ばせながら、刑務所にやってくるところからはじまり、彼女がジェニーを見出すところへ進む。
◆いろいろ言いたいことがありすぎて、ちょっと「無理」と思えるシーンがたくさんある。まず、刑務所でトラウデがパイプオルガンを弾いていると、観客のなかにジェニーがいて、テーブルのうえでしきりに手を運指の身ぶりで動かしている。「300人」ものたくさんいる受刑者のなかで、相当高齢の女性が、ズームレンズを向けたかのように一人の受刑者に注目するというのは、かなり非現実的だ。彼女が強く主張してジェニーに刑務所内でピアノの個人レッスンをするところにこぎつけるが、ジェニーにいじわるをした看守を猛烈に殴り(それほど強いという設定)重傷を負わせる。が、それにもかかわらず、レッスンは続く。ドイツの刑務所事情がちがうとしても、これは無理ではないか? 最後の山場となる「脱出」劇は、もう全然無理というもの。しかも、「ドイッチェ・オペラ」(劇場)でジェニーが演奏をする「4分間」、警官がじっと見守り、演奏が終わり、スタンディング・オベイションと同時に警官が彼女を拘束するというのは、あまりに「劇」的すぎる。
◆「歌舞伎」的映画があって悪いことはないが、なら、くりかえしナチ時代に設定された映像を挿入したりするのはやめた方がいい。トラウデがレズであることはすぐにわかるし、彼女がジェニーの才能だけに惹かれているわけではないこともわかりすぎるほどわかるが、なら、そういう面を深く描いた方がいい。もってまわっている。とりわけ、ジェニーがこんなに才能があるということを映すときがひどい。刑務所内でジェニーの手錠をはずさない看守のまえで、手錠をはめたままの後ろ手であざやかに弾いてしまうのは、映画ではよくある仕掛けだが、あまり効果的ではない。一つには、この映画、音があまりよくないのだ。これは、プリントのせいかもしれないが、音が昔の光学録音のように割れるのだ。ダイナミック・レンジが狭いのだ。これでは、「音楽映画」は生きない。
◆トラウデの意識のなかで、若いときの彼女が愛したユダヤ人のコミュニスト活動家の女性(映画で見るととても「活動家」には見えない)が、ナチに捕まり、拷問のすえ、残酷なやり方で殺されるシーンがよみがえる。彼女にとって、刑務所とナチとがダブるわけだが、こういうのは、月並みすぎないか? いまナチを出すのなら、もうちょっと奥行きのあるアプローチをしないと意味がないだろう。
◆ジェニーは、同じ房にいた女性受刑者が首を吊って死んでいるのを気づかずに目を覚ます。吊りさがった死体にも驚かず、死体のポケットからタバコを取り出して、吸う。彼女がこういう風な人間になってしまった理由は、またしても育ての親の陵辱によるトラウマだと示唆されるが、暗に、その冷えた感性がナチのそれと重ね合わされる。なんでもナチに参照点を持っていくのはむかしからよく使われる手だが、もうそういうやり方では、いまの問題は全然異化されないだろう。
◆とはいえ、老レズビアン役のモニカ・ブライブトロイは、見事な演技を見せる。ジェニー役のハンナー・ヘルツシュプルングは、1200人のオーディションから選ばれた新人だそうだが、ちょっとドリュー・バリモアに似ている女性で、パンク的ななげやりさと、瞬発力のある暴力性を斬新に演じられる。
(スペース汐留FS/ギャガ・コミュニケーションズ)



2007-08-08_1

●ミルコのひかり (Rosso come il cielo/2006/Crisiano Bortone)(クリスティアーノ・ボルトーネ)

Rosso come il cielo
◆映画美学校の試写室は2つあり、地下にある第2は、大分狭い。なぜか、部屋に入るといつもスエた食べ物の臭いがし、床のジュウタンに飲み物をこぼした跡があったりもする。ここは、本来、同名の映画学校のための施設で、映画の授業で使っているはずだから、学生がここでものを食べたりしているのだろうか? わたしは、大学で学生(生徒)が授業中に飲食するのを許している。許すも許さないも、もうそういうことが「自然」になっており、止めようがない。周囲にただよう臭い(匂いであればいいが)、残骸や食べこぼしの問題は、自分で考えてもらうしかない。しかし、映画美学校は、外部の試写に貸しているわけだから、臭いや食べこぼしの問題はクリアーしてほしいな。
◆映画がはじまると、そんなことは忘れてしまう。映画の世界は嗅覚を遮断し、すべての匂い・臭いは、脳のなかの情報的・視覚的な「匂い・臭い」になる。映画は、匂う(臭う)ように見せなければならないし、俳優は匂う(臭う)ように演じなければならない。映画を見ていると、五感というのは、5つ別々にある器官が分業的に作動するのではなくて、一つの感覚が他の感覚をシュミレートしたりもすることがわかる。
◆この映画の主人公ミルコは、小さいころから手先が器用で、おもちゃを分解したり、道具を直したりするのが好きだったが、父親の銃に触っているときに暴発し、砕けた瀬戸物の破片が目に入り、失明する。1970年代当時のイタリアでは、盲人は専門の学校(というより施設)に入らなければならなかった。生まれたときから全盲の生徒がいる学校でミルコは、異質な存在にならざるをえなかったが、規律ばかりを重んじる校長に反発するジュリオ神父(パオロ・サッサネリ)のおかげで、その「独異性」(シンギュラリティ/サンギュラリテ)を発揮する。
◆ミルコは、寮のクローセットのなかにリール式(むかしはみなそうだった)のテープレコーダーを見つけ、いろいろな音を録音して遊び、やがてそれに自分で作った物語のナレーションを吹き込む。それは、たちまち校長にとりあげられてしまうのだが、ジュリオ神父は、こっそりと別のレコーダーを貸し与える。それがきっかけになって、ミルコと他の生徒たちが協力して「放送劇」のような作品を作る。一人の「独異性」が他の複数の「独異性」を巻き込み、集団創造が生まれたわけだ。このあたりのシーンとシークエンスはすばらしい。
◆盲人に規律を教えることによって、社会に順応できるようになる――と信じる規則墨守の校長には、ミルコたちのこうしたコラボレイションは理解出来ず、彼を退学処分にする。面白いのは、ここで、政治デモがからんでくるところだ。ミルコが、盲学校の管理人の娘フランチェスカ(フランチェスカ・マチュランツァ)と仲良くなり、彼女の助けでこっそりとジェノヴァの街に出かけると、そこで、鉄鋼所の労働者がデモをやっており、その活動家の青年エットレ(マルコ・コッチ)と知り会う。彼が、やがて、ミルコの退学に反対するデモを組織するという話になるのだが、このへんの状況は、映画で見ると、いかにも「うますぎる話」に思えるかもしれないが、1970年代の前半のこの時期のイタリアではごく自然の成り行きだった。
◆この時期、イタリアでは、ユーロコミュニズムが「保守」、党に依存しないアウトノミア(自律的権力)が「革新」というとにかく「赤」が主流のラディカルな状況が生じていた。ミルコの退学に反対する運動が導火線になって、1975年にイタリアで盲学校が廃止された――というテロップが映画の最後に流れるが、実際、イタリアでは、さまざまな分野でラディカルな変革が進んだ。電波は、市民の公有地だという最高裁決定がなされてイタリア全土に「自由ラジオ」の嵐が吹き荒れるのも、1976年だったり、強制される「労働」を拒否する運動が工場、学校(学校は「刑務所」だという主張も出る)、家庭(「家事労働に賃金を」という運動も生まれた)、ミクロ領域(ガタリとドゥルーズの「スキゾ分析」はイタリアの状況に触発された)を横断したのも、この時代だった。「アニマチオーネ」(「アニマ」の原義は「動く」ということで、ここでは活性化というような意味)という教育の新しいスタイルも生まれた。
◆この時代のデモは、エットレ・スコーラの『あんなに愛しあったのに』やジョン・フランケンハイマーの(文字通り「アウトノミア」運動の一面を描いた)『イヤー・オブ・ザ・ガン』(Year of the Gun/1991)などでも描かれているが、こうした映画とくらべても、この映画に出てくるデモシーンは、イタリア映画にしては、ちょっとお粗末すぎる。ジェノヴァと場所が特定されているのだから、プラカードの文字も、もっと歴史に則したものに出来たはずだが、「Lotta」(闘争)といった文字ばかりが目立つだけの無意味なものだった。これも、時代は遠くなりにけりというものか?
◆原題は、「空のような赤」で、盲目になったミルコの目に見える色と、「左翼」や「革命」の「赤」がかけられていて面白い。むろん、この「赤」は、「空」のように開かれた、解放への「赤」である。
(映画美学校第2試写室/シネカノン)



2007-08-07

●ミス・ポター (Miss Potter/2006/Chris Noonan)(クリス・ヌーナン)

Miss Potter
◆猛烈暑い路面とこの試写室との温度差がすごい。上着を用意しているが、夏物では身体が冷えきってしまうほどの冷たさ。一時代まえのビルなので、冷房の微調整がきかないのだ。映画のなかは冬ではなさそうだが、イングランドだから暑いよりは寒いほうがいいかも。
◆『ピーターラビット』の絵本で有名なビアトリクス・ポターの半生を描いたドラマ。この映画は、彼女が都会よりも動植物との田園生活を愛し、自然保護の活動もしたことを強調し、タイムリーなテーマに合わせている。「エコ」が企業のスローガンにもなってきたいま、彼女はうってつけのキャラクターである。
◆レニ・ゼルウィガーは、アメリカ人ながら、イギリス人の発音を完璧にこなす女優の一人だが、実在のビアトリクス・ポターの写真が出回っているので、それを見てしまうとイメージが大分ちがう。ゼルウィガーには、どこか田舎くさい感じがある。「高貴」という感じからは程遠い。しかし、映画のなかで、商人を見下す母親(バーバラ・フリン)に対し、娘のビアトリクス(レニ・ゼルウィガー)が、「内だって、お祖父さんは商人だったじゃない、成り上がりでしょう」と批判をするシーンがある。素姓はそんなに貴族的なわけではないとすれば、ゼルウィガーのような感じでもいいのかなとも思う。ちなみに、彼女の「小意地の悪い、がま口のような唇をした、しもぶくれの顔」(her squinty-eyed, purse-lipped, puffy face)にうんざりした」という感想をネットで見た。
◆しかし、ゼルウィガーの演技は力強い。ヴィクトリア朝時代の男女格差、階級性、タテマエの多さ、それにともなう「シャイ」の文化の強さ――そうした環境のなかで、ひとあじ「普通」とはちがう女性を演じる。この時代、性のモラルは厳しく、ビアトリクスのような娘だと、男と一緒とときは、つねに監視役の「婆や」がついてくる。このへんの描写は、NHKの大河ドラマのように、百科辞典で「勉強」して作ったような感じがしないでもないが、まあ、不毛な文化論の教科書を読むよりはためになる。この時代には、けっこう「お辞儀」をし、ストレートにものを言わず、求愛も控えめだったのがよくわかる。ユアン・マクレガーが演じる青年ノーマン・ウォーンは、ビアトリス・ポターの最初の絵本の担当編集者となるわけだが、彼が彼女の才能を直感したというよりも、彼女にまず惚れたという感じ、そういう2人がたがいに遠慮しながら近づいて行く「純愛」風の描写もその線で描く。
◆ビクトリア朝の人々は、セックスの話を声高にしないのと同様に、金銭の話も控えめにした。ただし、実在のポターは、けっこう理財にたけており、だからこそ、広大な土地を取得し、さらに彼女の死後、その広大な土地がザ・ナショナル・トラストによって管理されるように手配しておいた。が、そうならばなおさら、この時代の彼女は、「お金のことなんか知りません」という顔をしていたはずだ。その感じが、ゼルウィガーのポッターには、やや欠けている、そのところだけ「アメリカン」になってしまっているかもしれない。
◆いま、「エコ」がビジネスになる時代になってしまったが、「エコ」を本当にビジネスにする気があるのなら、当面、インスタント・マネーの予測の立たないビジネスに投資しなければならないし、そのかぎりで、「金、金、金」の表情を表に出すわけにはいかない。つまり、いま、これまで(とりわけアメリカ的ビジネスでは)「あたりまえ」だった金=価値が、ビジネスの尺度ではなくなり、まず、「社会的満足度」のようなものを目指すことがビジネスの指標になりつつある。ここでは、近代のアメリカン・ビジネスが乗り越えたはずの「シャイ」さとか「控えめな」(モデスト)態度が、一つの社会的身ぶりになるかもしれない。この映画が、受けるとすれば、そういう空気がこの映画にもあるからだ。
◆この映画も、19世紀の才女を描くときに必ず参照点(レフェレンス)になりがちなジェーン・オースティンがどこかにある。少しまえに封切られた『プライドと偏見』もこの映画と似たところがある。
(角川ヘラルド試写室/角川映画)



2007-08-06

●ゾンビーノ (Fido/2006/Andrew Currie)(アンドリュー・カリー)

Fido
◆いよいよ夏らしくなった日。少し早く行きすぎて、KEYでエフェクターなどを見て(何もめぼしいものなし)、試写室のとなりのマンガ屋をのぞく(ここも買いたいものなし)。誰もいない試写室で本を読んでいたら、薩長の官軍のような赤毛の人がとなりに座った。
◆オープニングからアメリカの50年代をパロっていることがわかる。女性はスーツを着て、化粧をし、それなりに「美しく」、男は背広にネクタイ、画面も明るく、登場人物たちはみなキレイごとばかり言っている。しかし、この「平和」な風景は、箱庭のような人工的な操作で維持されていることがすぐわかる。アメリカ(とは明記されないが、ゾンビ戦争とくれば、アメリカが本場だから)は、ゾンビとの長い闘いの末、いまようやくゾンビを有効利用する方法を見つけた。首輪の形をした電子的なコントロール装置をゾンビの首に装着することによって、ゾンビが人を襲わず、新しい「奴隷」として働かせることに成功した。ゾンビになって殺された(殺すには頭を撃つ)親や親戚でも、新しく奴隷として使える。しかし、ゾンビは、人工的な囲いの外にはいくらでもおり、きゃつらに噛まれてゾンビになる人間もいる。依然としてゾンビの襲撃と人間のゾンビ化は起こっており、市民は、家に銃を備え、子供も銃撃の練習をしている。何人ゾンビを殺したかが武勇の基準になっている。
◆『シッコ』でも、カナダの側から見ると、アメリカのいまの状況が馬鹿げたものに見えたが、この映画の監督アンドリュー・カリーはカナダ人であり、製作もすべてカナダ人による。アメリカは、いよいよ、1950後半以後の時代のように、世界の嘲笑と軽蔑のかっこうの対象になってしまった。この映画では、50年代に最もポピュラーなグラビア雑誌だった『LIFE』に対して、『DEATH』が読まれている。
◆こういう設定でゾンビが「奴隷」になるとすれば、当然、人間よりもゾンビの方が好意的に描かれるのは、推察できる。この映画が焦点を当てるのは、ロビンソン一家である。ビルは、大体「卑劣」な役を演じることが多いディラン・ベイカーが演じているように、セコい夫であり、父親である。周囲の家がみなゾムコン社の「首輪」付ロボットを購入するのに、彼がそうしなかったのは、ソンビにならないで「人間」として埋葬される墓のローンに金がかかるという理由だった。が、夫人のヘレン(キャリー=アン・モス)は、周囲の暗黙の威圧に押されて、首輪付ゾンビのファイド(ビリー・コノリー)を買う。
◆ゾンビは、「心」を持たないことになっているが、ファイドは、息子のティミー(クサン・レイ)と心を通わせるようになる。どうしてそんなことが可能になったのかはわからないが、まあ、そういう設定なのだ。ここから、さまざまな異変が発生する。
◆父親がケチなためであれ、どうあれ、「みんな主義」をではない家庭にはユニークな子が育つ。ティミーは、学校では差別されるが、その分ユニークな少年だ。そんな少年と「奴隷」、ロボット、怪物、E.T.のようなエーリアン等々との「心暖まる」ドラマは、映画ではなじみのものだ。この映画も、過去の同系統の作品を思い出させる。
◆ここでは、ロビンソン家がどうなるかは書くまい。それは、アメリカの50年代的核家族であるから、当然、崩壊に向う。歴史上ではそうだった。が、いま50年代よりも50年代的であるとも言えるいまのアメリカは、今後どういう方向へ向うのだろうか? 50年代がやがて回避したような方向へ向うのだろうか? それとも、50年代に一部の賢者たちが警告したような方向へ向うのだろうか? この映画の結末は、ゾンビとの共存であるから、この映画はアメリカの未来にわずかの救いを残している。
◆タイトルにご丁寧にローマ字で表記された"Zonbino"は、原題ではない。原題の"Fido"(ファイドー)は、アメリカでは犬によくつけられる名であり、辞書には、イタリア語で「忠実な」を意味する"fido"から来たのではないかとある。英語でも、"fidelity"は、「忠実さ」や「忠実度」といった意味である。
(ショウゲート試写室/ショウゲート)



2007-08-02

●シッコ (Sicko/2007/Michael Moore)(マイケル・ムーア)

Sicko
◆高層ビルの33階までエレベータ(『オーシャンズ13』でXXがかいくぐるエレベータピットを思い出させるスピード)で行き、それから内階段を一つ登る。すごい見張らしではあるが、ここまで来ることはないような気もする。映画は地上に這いつくばって見るものではないのか?
◆あたりまえが通用しないアメリカのこっけいさ。アメリカは、ますます「格差社会」化を通り越して弱肉強食の国になってしまった。ヒドイ話が次々に紹介される。電動ノコを使っていて指を2本落としてしまった大工が、薬指は1万2千ドル、中指は6万ドルかかると病院で言われて、そんなに出せないので、安い方の薬指だけにしたとか、ホームレスを救済するシェルターが、病気の老いた女性収容者を公立病院のまえに捨てて行く(そこなら治療してくれるだろうというわけ)とか、国民皆保険制度のないアメリカの状況があばかれ、国民皆保険制度がしっかりしていて、病気になっても金がかからないカナダとフランスの例が、マイケル・ムーア自身のインタヴューで対照的に紹介される。
◆アメリカは、他のいかなる「先進産業国」よりも格差が強烈な国である。中流か上流の生活レベルを見れば、日本よりはるかに「豊かな」条件のなかで生活している人々がいる。しかし、低所得者の目で見れば、ムーアがここで見せる諸事実もまだなまぬるいような現実が見えてくる。その点で、ムーアの仕事は、インディ・メディアやペーパー・ターガー・TV(PTV)がやっているメディア・アクティヴィズムに近い。
◆この映画にはフェアーでないところがある。それは、アメリカに関しては「底辺」に照準を置くのに、比較対象のカナダやフランスの場合には「中流」の人々にインタヴューしている。カナダやフランスにはまるで「底辺」がないかのようである。そのために、批判しようとすれば、この映画は「アジプロ」スタイルで作られていると言われかねない。
◆それと、メディアにおいてはその「内容」とその「サイズ」とは別々ではない。この「内容」がいかにアメリカを批判していても、その「サイズ」がPTVなどの制作費とはくらべものにならない大きな制作費と配給規模を持っているこの映画は、メディアの機能と「意味」がちがってくる。
◆一つにはこの映画は、「批判」を楽しむエンタテインメント作品である。「アメリカの状況はひどいなぁ」と言いながら、アメリカを笑い、劇場を出ると、それをさっぱり忘れるのである。それは、アメリカの「現状」に対する批判意識を高めるよりも、現状を肯定するために役立つ。ある種の「ガス抜き」機能である。
◆もう一つは、この種の映画には、アメリカの主流をなす動向が問題に陥ったときに、その状態を軌道修正する「反省装置」としても機能を持つことがある。外部や下側からの変革ではなく、体制自身による修正である。つまり、いまのアメリカの保険制度は偏りすぎているから、それをもう少し国民皆保険の方へずらすべきだという動きが体制内部にあり、それに呼応した形でこのような映画が外面化するという場合だ。実際に、クリントン政権下でヒラリー・クリントンは、「国民皆保険」のために活動した。映画によると、彼女はその後「転向」したとのことだが、今度の大統領選挙で民主党から大統領が出れば、多少の変化は出てくる。そういう動きの一環としてこの映画の出現を考えることもできる。
◆しかし、歴史の大きな流れからすると、どうも、この映画が批判している動向は、世界に広まって行きそうである。すべてが資本の論理で動くのが資本主義の基本だが、いまそれは電子テクノロジーをはじめとする先端技術とによってますます加速の度と高めている。医療とて、もはや「仁」とは無関係で、「商売」のロジックで動く。この現象は、「国民皆保険」が充実していると思われている日本も例外ではなく、この映画でアメリカとは反対の例として挙げれたフランスやイギリスの場合も同じである。
◆ただし、この点に関しては異論があるだろう。それは、資本主義の段階に関する認識の違いに関わってくる。もし、西ヨーロッパの資本主義が、アメリカよりも「進んだ」あるいは「修正された」段階にあり、そこでは、再定義された「公共性」が起動しはじめているという見方もある。
◆この映画ではからずも「国民皆保険」のベストモデルとして挙げられたキューバの医療制度をどう見るかも、意見が分かれるだろう。キューバ社会主義を、かつてのソ連・東欧のそれと同列に見るならば、それは、「社会主義」という形での「近代化」=資本主義化にすぎず、いずれは、情報資本主義の高度化とともに、ある種の「アメリカ化」がはじまるだろうという見方がなりたつ。だが、そうではなく、キューバは、(むろんすべてではなく、カストロへの「個人崇拝」のような前近代的な要素もあるわけだが)資本主義をこえる新しさを具体化しているという見方も成り立つ。ただ、こうれは、いつの場合もそうで、ソ連にだって、革命の初期には、資本主義をこえるさまざまな要素があったわけで、それらが次第に潰され、後退していったということも事実なのだ。
◆ムーアは、『ボウリング・フォー・コロンバイン』で、「全米ライフル協会会長」のチャールトン・ヘストンの仮面をはがし、コロンバイン校で銃撃されて半身不随になった生徒を、銃弾を売っているスーパーに連れて行き、弾の販売を中止させる。『華氏911』でも、かつて息子をイラク戦争に送ることを誇りに思った一人の母親がこの映画に協力するなかでブッシュ批判に変わって行くところを撮っていた。つまり、ムーアーの映画は、彼の映画への参加者を変えるのだ。だが、問題は、彼の映画の観客に関してはどうかだ。
◆どんな映画でも、製作プロセスのなかで出演者(俳優)は、程度の違いはあれ、その意識を(場合によってはその身体や命も)変える。この映画では、俳優ではなく、「普通」の人々が出演しているわけだが、彼や彼女らの意識と身体の変化を映すことによりウエイトが置かれている。その点では、この映画は、「ムーブメント」映画であり、ある種の「アクティヴィズム」に加担している。が、映画のなかの出演者がどんなに変わっても、観客の意識や身体がその分だけ変わるとはかぎらない。「メディア・アクティヴィズム」の映画は、劇場にいるときだけいっとき意識や身体(泣いたり、怒ったり)を変えるというのではなく、そのあとにも尾を引くようなインパクトを持つもののことを言う。では、この映画は、どうか? そういう可能性を持つ映画ではあるが、その「面白さ」と「サイズ」のために、一過性のエンタテインメントに終わる要素が多いとわたしは思うのだ。
◆とはいえ、あいかわらず、マイケル・ムーア自身が見せる奇抜なアイデアとサービスぶりはすがすがしい。たとえば、アメリカで十分な治療を受けられない患者たちをキューバに連れて行って、現地の病院で無料に近い治療を受けさせるなどいうアイデアは胸がすく。彼や彼女らは、911のときに瓦礫のなかで救出活動に参加し、そこで吸い込んだ粉塵やガスのために病気になったのだったが、米国は治療費を出さないのだ。たとえ、この映画に「アジプロ」的な操作があるとしても、こういう胸をスカッとさせるところは、やはり、権力の支配の隙間にはまだまだいろいろやれることがあるという気持ちにさせるだろう。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ/博報堂DYメディアパートナーズ)



2007-08-01

●僕がいない場所 (Jestem/2005/Dorota Kedzierzawska)(ドロタ・ケンジェルジャフスカ)

Jestem
◆月初めに見る映画は、その月に見る映画の質を占わせるようなところがある。この作品が今月見る第一作であったことは、とても幸先がいい。ただ、この「ノート」は、新しいものが上に加わっていくので、月初めにすぐれた作品を見たということがなかなか表に現われにくい。
◆おそらくこの映画は、多くの場合、子供と親、子供には家庭環境が重要だといった見方で論じられるだろう。プレスにも、「母親の愛を得たくてもそれがかなえられない少年の心の叫びを描いた衝撃の問題作」という文字が見える。映画であるから、どういう見方も可能だが、そのような見方は、この映画のせっかくのユニークさを台なしにしてしまうとわたしは思う。
◆この映画は、むしろ、子供は親などいなくても生きていけるし、ましてダメな親などいらないということを描いているのであり、親が庇護する「家庭」などなくても生きていけるし、子供は子供の世界を創造できるのに、それをダメにしてしまうのがむしろ親が統括する家庭というやつなのだ、と。
◆12歳の少年クンデル(ピョトル・ヤギェルスカ)が孤児院を抜け出したのは、母親(エディタ・ユゴフスカ)に会いたいからではなかった。彼は、孤児院で詩の才能を発揮したが、それは認められず、反抗的な生徒として罰を受ける。そんなところになんかいられねぇよというのが孤児院を抜け出した当面の動機だ。その足が母親のところへ向いたのは、そこが自分の住んでいたところだったからだ。が、もどってみると、母親はいたが、別の男とベッドで眠りこけている。母親の方も息子を好きだが、自分の勝手な生活を邪魔されたくもない。少年は、そんなことでくよくよしない。そして、すぐに自分流の独立生活をはじめる。ここからがこの映画の見どころだ。
◆空き缶や金属の屑を集めて売りに行く。いま日本では、「屑鉄」は、専門業者の仕事になってしまい、一般人、まして子供がクンデルのようなことをする余地は全くないが、わたしが子供のころはあちこちに「屑鉄屋」があり、河などをあさって拾った銅線などを持って行くと、そこそこの金をくれた。わたしは、壊れた鋳物のストーブを持ち込んで子供としては大金をもらい、それで友達と駄菓子を買って分けた。一度、砲金(回転部の軸受などに使う金色の合金)の粉を手に入れたので金の粉だと思って「屑鉄屋」に持って行ったら、「警察を呼ぶよ」と脅された。どこかから盗んできたと思ったのかもしれない。店のオヤジも本当に「金の粉」だと思ったのかもしれない。クンデルは、現代のポーランドの少年だが、向こうではまだ一般に開かれた「屑鉄屋」があるらしい。
◆クンデルが、食堂でスープを食べたとき、店の者は(昔から知っているので)めぐんでやろうとするが、所定の金額以上の金を払って出るところが面白い。少年がそういうことをするのは他愛がないように見えるが、彼にとっては、大人に甘えるのはいやなのだ。
◆後半、クンデルは、アル中の少女クレツズカ(アグニェシカ・ナゴジツカ)に出会う。彼女がアル中なのは、姉(バルバラ・シュカルバ)が「美人」で「聡明」で、両親が姉をかわいがるからだと一応は理由づけすることもできるが、事情はそんなに簡単ではない。大人がアル中になる理由が簡単でないように、子供だって同じだ。そんなことよりも、まず、子供は子供でいろいろなのだと考えるべきだ。クンデルとクレツズカが仲良くなったのは、それぞれがユニークだったからであり、「親から疎外されている」などという紋切り型の事情のためではなかった。
◆どの社会でも、時代時代の支配的規範があり、そこからはずれるマイノリティを排除しようとする。クンデルとクレツズカは、「子供」である以前に強い「独異性」の持ち主たちであり、そのために、彼と彼女は、この社会から排除される。最後の方で、クレツズカの姉がやることは、そのまま大人が他の大人を操るやり方であるところが面白い。彼女は暴力をふるうわけではないが、そのやり方はぞっとするほどしたたかであり、こういうのが、いつの時代も支配者になるのだなということをミクロなモデルで実感させられる。
◆子供が親の愛を受ける存在、「子供」=天使といった観念は近代のものだという指摘はアナールの歴史家によってくりかえしなされたが、貧富の差の激しい国や戦乱の続く国にいくと、そういう「子供」概念では規定できない子供がたくさんいる。そういえば、『ホステル2』にもそういう少年少女の集団が出て来た。
◆ルソーは、子供の「純真さ」のようなものをあがめる。しかし、アナール学派のフィリップ・アリエスに言わせれば、それは、子供がもともとそうであったからではなくて、社会経済の構造がそういう「子供」概念を必要としたことによってつくられたのである。アリエスによれば、「子供」という概念は18世紀の産物であり、それは、社会の都市化とブルジョアジーの誕生によって形成された。農村では、子供は、「未熟」な大人であり、早い時期から労働力となった。都市では、子供に労働をさせる必要はない。それよりも、知的な発達をとげ、個として、家の代表として生長することが求められる。学校教育も、このコンテキストのなかで広がって行く。
◆子供が近代以前には「非人間的」なあつかいを受けていたという解釈を主張するにせよ、そういう子供は、奴隷のように一生そのままであったわけではなかったから――大人にならないわけにはいかないから――そういう子供のあいだで、さまざなドラマがあったはずであり、しかも、核家族ではなかった時代の場合は、親が「愛情」をかけなかったから子供が不幸になったというロジックは成り立たない。この映画は、近代のフィルターで画一化された子供の世界を、別に近代以前がよかったとか、わるかったとかいうのではなく、それなりの生きたコンテキストのなかに引き戻したという印象を受ける。
(映画美学校第2試写室/パイオニア映画シネマデスク)
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