粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-06-27_2

●包帯クラブ (Hotai-kurabu/2007/Tsutumi Yukihiko)(堤幸彦)

Hotai-kurabu
◆新橋のワーナーから有楽町の東映へ。30分まえに着いたが、たちまち満席になった。最初の強い印象は、柳楽優弥が、『誰も知らない』や『星になった少年』のイメージを払拭し、本木雅弘と織田裕二を混ぜ、原田芳男の体臭をまぶしたようなキャラをたくましく演じていること。同じくいい演技をしている石原さとみは、『あずみ』時代の上戸彩に似ている。
◆「包帯」は「傷」を覆い、保護するものである。この映画の場合、「傷」は「心の傷」つまり「トラウマ」で、「包帯クラブ」は、トラウマを癒すボランティア集団だ。それは、自殺しようとしたワラ(石原さとみ)が病院の屋上で出会ったディノ(柳楽優弥)から教わった不思議な「手当て」である。そこから、彼女の友人たちが賛同して、インターネットにサイトを作り、そういう「手当て」を引き受け、(たとえば、鉄棒の逆上がりが出来ないことで「傷」を負った子には、その鉄棒に包帯を巻き)その写真をウェブに掲載するようなことを始める。
◆基本的にアメリカの影響だが、日本では、傷やトラウマという発想があたかも客観的事実であるような風潮が定着した。いまの30代以下の世代は、悩みや苦しみをトラウマに還元することを好む。しかし、そういう発想は、アメリカで定式化されたフロイト流セラピーと同様に、極めて歴史的なものであって、この先10年後にいまほどの「説得力」を持つとは思えない。その昔、岸田秀が、ブルーノ・ベッテルハイムの『Symbolic Wounds: Puberty Rites and the Envious Male』(1954) をせりか書房から『性の象徴的傷痕』というタイトルで翻訳したとき、「心の傷」という言葉はあったが、いまひんぱんに活用されるような「トラウマ論」的な用法はまだ一般的ではなかった。その翻訳の最中に岸田に会ったとき、「傷ではわからないんで、『精神的傷痕』と訳したところもある」と言っていた。思うに、いま、個人的「諸悪の根源」をトラウマに還元する思考方法は、極めてイデオロギー的、傾向的なものであって、それによって覆い隠されているものがあることに留意すべきだ。
◆映画では、貫地谷しほりが演じる三枚目の女タンシオ、佐藤千亜秘妃が力を入れて演じる元つっぱり女的リスキ、田中圭が演じる、幼いときに教師に陵辱されたトラウマを持つギモの参加によって、「包帯クラブ」は、話題になる。そして、「大学にいかなけりゃ、負け組になるだけでしょう」といった勝組指向で、クラブのそんな発想は幻想よと軽蔑していたテンポ(関めぐみ)も、結局はこの発想を認める。われわれは、みな「傷」を負っているとしても、いま日本ではやりの「トラウマ還元論」は、そういう「傷」がいずれは癒されるという「ミクシィ」的オプティミズムに陥っているように思える。
◆本当に「傷」があるのなら、たがいにその傷の存在、それぞれの傷がことなることを認めあうことしかできないだろう。心の傷は完治しない。が、最初から、傷つくこと(心に烙印されること)などないのだと考えれば、傷にこだわる必要はない。問題を「傷」ととるか、それとも「記憶」の一形態ととるかは、大違いである。傷などと言わずに、記憶の方に解放すれば、もっとましな治療法が見つかるのではないか? 弾傷は動くというが、トラウマは、固定的に考えられる傾向が強い。記憶は、それに対して、流動するものだ。記憶を脳の部所に配分する「局所理論」がもはや全く意味を持たなくなったいま、記憶理論の方が、「トラウマ論」よりはるかに有力だろう。
◆出演者たちの演技も映像も非常にいいので、それならそれでいいじゃないかと言われるかもしれないが、この映画には、当然のことながら、堤幸彦特有の、ジャーナリスティックな意味での「いま」へのサービス過剰と気配り、バランス感覚へのおりこうな配慮がありすぎる。ディノが「イラク」と思わせたいがどうもまがいっぽい場所でカメラのシャッターを切り、そのかたわらに「包帯」が結ばれている「おまけ」のシーンが、この「気配り」過剰を如実にあらわしている。「包帯クラブ」の発想は、極めて日本的(いまに限定した)であって、とても海外では通用しない。
◆この映画に登場する人物たちは、たしかに、わたしが大学でいつも接している学生(生徒)たちに共通する「傷つきやすさ」をあらわしている。いまの子は、実際、「傷つきやすい」ように見える。それも、一つの社会的トレンドであって、実際にはそうではなく、時間と状況が異なれば、どこかに吹き飛んでしまうのかもしれないが、非常に些細なことで傷ついたような反応をし、他者や同僚を「傷つける」ことを極度に恐れる。これは、中国や韓国の留学生とは決定的に異なる「繊細さ」であるから、今後、どちらが国内で「たくましく」生きることになるかと問うならば、答は明らかであるように見える。
◆天童荒太の原作が、「包帯クラブ」のアイデアをどこから得たかはわからないが、ミミ・レダーの『ペイ・フォワード』と似たところがある。しかし、こちらは、この映画のようにはハッピーな終わり方をしなかった。
(東映試写室/東映)



2007-06-27_1

●ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団 (Harry Potter and the Order of the Phoenix/2007/David Yates)(デイヴィッド・イエイツ)

Harry Potter and the Order of the Phoenix
◆非常にわかりやすい。それだけ単純だということでもある。しかし、いまのイギリスやアメリカの状況との関連で見ると、なかなか意味深い。ここでは「ホグワーツ魔法魔術学校」対「魔法省」として描かれるが、学校に国家の介入が強くなり、それに学生と先生が反抗するパターンを踏んでいる。このあたりには、西欧の自治組織に蓄積されている連帯の方法そのもので、60年代の『if もしも・・・』などとも変わりがない。
◆いまイギリスでも、パンクへの関心が再燃したりして、「反抗」の文化への関心が高まりはじめているような気がする。今回の『ハリポタ』にも、そんな雰囲気が連動しているような気がする。「騎士団」は、80年代的には「武闘派」のアウトノミストであるが、2000年代的には、「テロリスト」と非難される。
◆学生闘争のアナロジーもそうだが、法廷劇的な要素が多いのも今回の特徴。凡庸だといえば凡庸なのだが、それがこの映画を「わかりやすく」している。
◆ハリーを演じるダニエル・ラドクリフも、いまや18歳。映画のなかでも、ディメンターとの闘いの話を後輩たちに話して聞かせる立場になった。俳優は、18歳ぐらいなら、はるかに年下の役を演じるが、ラドクリフの場合、けっこう老けが早く、ずいぶん歳を食った感じに見える。そういう演出なのか、それとも、そういう体質なのか?
◆魔法省がホグワーツに送り込む役人の教師ドローレス・アンブリッジを演じるのが、イメルダ・スタウトン。いつも笑みをたやさず優しそうにみえるが、根っからの官僚。こういうのってどこにもいる。そういえば、スタウトンは、『フリーダム・ライターズ』で、似たような官僚的なキャラクターの教科主任を演じていた。
◆ドローレスは、どんどん「合理化」を推進する。その感じが、行き過ぎた「能力主義」への批判になっている。彼女は、「ダメ教師」のシビル(エンマ・トンプソン)を罷免しようとする。ベストセラーになった『クリエイティヴ・クラスの台頭』のリチャード・フロリダも言っているが、「ダメ」人間も含めて、多様な人間を共存させる都市や組織が最もクリエイティヴな人間を生み出す。その意味で、ドローレスの処置は、最も反創造的なのだ。
◆みんな魔法使いだから、突然出現するのはあたりまえだが、今回、そのスピードが高まった。映像として出現するスピードを上げることは、映像技術的にはむずかしいことではない。むしろ、監督の「世界観」次第である。移動のスピードが上がるということは、テレポートの可能性を肯定することだ。その意味で、今回の『ハリポタ』は、「世界観」的にはデジタル度が上がっていると言えなくもない。
◆例によって、ロトスコープ・アーティストが多数クレジットされている。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



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●トランスフォーマー (Transformers/2007/Michael Bay)(マイケル・ベイ)

Transformers
◆開場まで相当時間があるので、六本木で生ビールを飲んでから銀座へ。ビックカメラで新製品をながめたりして時間をつぶし、マリオンへ。予想したほど多くの人は来ていない。席が決まってからコーラーを飲んだが、氷でどっしり重いスモールサイズが300円だった。いやな臭いのポップコーンも売っていたが、買う人の数が少なくて、助かる。席に運ばれたら、いい迷惑じゃ。
◆予告では『スターシップ・トゥルーパーズ』的な単純なイメージだったが、いきなりイラク戦争が続くカタールからはじまり、さすがはスピルバーグが製作総指揮をしているだけのことはあるわいと思う。だが、それは最初の方だけであることに気づく。
◆ここに登場する地球外生命体「トランスフォーマー」は、「超合金」世代にとってはたまらぬ魅力なのかもしれない。そもそも、この映画は、日本のタカラの変形ロボット「トランスフォーマー」をアメリカがアイデア輸入して発売し、そこから出来たテレビシリーズ(1984~1987)にもとづいている。だから、iMDbなどの採点を見ると、異状に(?)点が甘い。入れ込み方が、普通の映画とはちがうのだ。
◆しかし、わたしのように、変形ロボットで遊んだことがなく、ロボットへの関心が、映画の「歴史的現実」から来ている者には、あまり楽しめないのである。映画では、映像技術の変化とともに、人間そっくりのアンドロイドからさらには軟体動物的な融通無下の生体、さらには消えたり現われたりのテレポート的存在へ映ってきたが、そういう視点からすると、どんなに変身[トランスフォーム]してもどれも角ばったメカであることには変わりがないこのトランスフォーマーは、一時代まえのロボットを思わせ、それは、いまのテクノロジーの先を行こうとしてきたスピルバーグのやり方ではないように見える。
◆作品は、スピルバーグではなく、マイケル・ベイのものだが、なんか、地球外生命体ものやロボットへの新しいイメージ作りに行き詰まって、レトロ趣味を使ったという感じがしてならない。『宇宙戦争』でスピルバーグは、H・G・ウェルズの原作を意識したのか、メカ・テクノロジー的な地球外生命を登場させた。しかし、その場合には、メカの裏に本当の地球外生命がいて、それらを道具としてあやつっているという含みがあった。しかし、今回は、その「細胞」の一つ一つまでがメカ、つまり無垢のメカであり、それが自在にさまざまなメカ(要するに歯車やエンジンの合成体)に変身するのである。メカは、映画技術的には、表情の微妙さを無視できる。そのため、展開されるドラマは、メカがうごめきあう荒削りなアクションに集約する。
◆とはいえ、一応スピルバーグが製作しているだけに、国家への不信がドラマの基底にある。ただし、いま作られる映画は、『ダイハード4.0』にしても、『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』にしても、国家はロクなことをしないということを前提にしている。
◆ドラマは、2種類の同系統の(だから原題が transformers という複数になっている)地球外生命体がある物質を求めて地球に来て、その発見と争奪戦をするという話である。その物質を19世紀に発見した人間がおり、その孫サム(シャイア・ラブーフ)の家にその物質の所在を解析できるものがあるというので、サムがメカ・エイリアンに追われることになる。その「もの」とは、祖父が探険のさいにかけていたメガネで、そのレンズに沈殿している情報を解析すれば、どの角度から問題の物体を見たかがわかり、その所在を解析できるというのである。
◆この点だけは、実に面白い。いま先端の映画技術では、アナログ映画のあるシーンをデジタルで再現する(あるいは似たようなシーンを合成する)場合、その映画に映っている人物の目を拡大し、その瞳の形から、彼ないし彼女がどこを見ているか判断し、その情報をもとにデジタル映像の光(照明)角度や影の位置を決めるという。レンズにそれを使った視覚の情報が沈殿しているかどうかはわからないし、いまの(人間の)技術でそういう沈殿を読み取ることはできないであろうが、アイデアとしては、面白い。
◆シャイア・ラブーフとその恋人役を演じるミーガン・フォックスがなかなかいい。ミーガンは、この映画で始めて見たが、なかなか存在感とオーラのある役者だ。シャイア・ラブーフは、若い時代のリチャード・バートン、ロベール・オッセン、ハリソン・フォード、クライブ・オーウェンなどを思わせる表情を持つ。
◆『ダイハード4.0』のときもそうだったが、ネットワークが破壊されたとき、頼りになる通信システムとして、短波やCB無線が出て来る。しかし、これは単純すぎる安易な発想ではないか? 911で中継システムやサーバー拠点が機能不全に陥り、ダウンタウンではネットもケータイも使えなくなったとき、活躍したのは短波やCB無線ではなくて、既存のワイヤレスLANを使った(アンテナをつけて、出力を強めたりした)自前のWiFiネットワークだった。これならば、まがりなりにも、コンピュータであつかう映像や画像も送りあえるからだ。とはいえ、コンピュータが強力な電磁波爆弾のようなものでCPUが機能不全に陥ったとき、アナログ回路による短波放送が長距離の交信を可能にすることはたしかだ。
(丸の内ピカデリー1/UIP映画)



2007-06-26_2

●パーフェクト・ストレンジャー (Perfect Stranger/2007/James Foley)(ジェームズ・フォーリー)

Perfect Stranger
◆『天然コケコッコー』が2時間1分の作品だったので、近くのブエナビスタに行く。今日は半日映画を見ることができる日なので、ばっちりはしごをしようというわけだ。しかし、この映画、もし地下鉄で移動する時間があったら、後回しにした作品。ウィリスは好きな俳優なので気にはなったが、いまいちポイントがつかめない作品だったからだ。実際に、最後まで先が読めない作品だった。といって、納得の行く意外性のためにそうなのではなく、ただ作為的などんでん返しでそうなるにすぎないのだった。これでは、2度見る気にはなれない。
◆ハル・ベイリーが演じる新聞記者ロウィーナは、最初、上院議員のスキャンダルを記事にしたが、編集部でつぶされ、新聞社を辞める。ベイリーが演じると、社会派の記者というよりも、大物のスキャンダルをターゲットにするのが好きな、アグレッシブなキャラクターが強調される。が、彼女の辞め方は、ちょっと不自然な感じがする。(それは、観客の直感にすぎないのだが、その「不自然」さの理由が最後にわかる)。ときどき、フラッシュバックで、彼女が幼いときに義父から陵辱を受けたらしいことが示唆される。つまり、彼女は「トラウマ」を負っている。
◆この映画の登場人物は、みな「意味ありげ」なのだが、そういうパターンは、広告代理店のCEOハリソンを演じるブルース・ウィルスにはあまり向いていない。彼は、どちらかというと、直裁的なキャラクターを演じるのに向いているからだ。そういえば、ハル・ベイリーも、屈折したキャラクターよりも、直裁的なキャラクターの方が向いている。彼女の才能を浮き彫りにした『ブルワース』でも、またかならずしも彼女の才能がいかされているとはいえない『チョコレート』でも、感情を内に隠そうとしてもおのずから顔に出てしまうような女を演じていた。そういうあいまいさのキャラクターの極みは、ポーラ・ミランダが演じるハリソンの妻である。彼女が、なぜ無表情なのか、彼女が描いたことになっている、眼球を拡大した絵が最初の方に出て来るのがなぜなのかは、最後までわからない。
◆フリーになるのとほぼ同時にロウィナーは、幼なじみの白人の友人グレース(ニッキー・エイコックス)の不可解な死を知り、調査に乗りだす。グレースがハリソンとインターネットの出会い系サイトで知り合い、不倫関係にあったらしいことをつきとめ、ハリソンに接近する。その助けをするのが、かねてからジョヴァンニ・リビシが演じるハッカー、マイルズだが、わたしには、彼が演じた『ヘブン』の警察官吏のイメージがダブり、何か、本意でないことをやっているのではないかという感じがしてしまう。この映画の登場人物たちは、みな、隠し事をしている風情なのだ。
◆いまこの文章を書いている時点では、わたしがなぜそういう気持ちをいだいたかの理由がはっきりしているのだが、それを書くと、またネタバレ摘発者に文句を言われそうだから、やめておく。それに、この映画の核心のネタは、一度知ってしまうと、それで映画のすべてがわかってしまうたぐいのもので、たとえば『スティング』の最後のシーンの騙しのように、その結果がわかっているのに、何度見ても面白いといった形式には出来ていないのである。
◆ハッキングのシーン、アクション、ラブシーンにも映画的な見どころはなく、テレビで見るくらいで済む作品。わずかに、ロウィとハリソンが、それぞれに疑心をいだきながら「愛しあう」シーンがなかなかよかった。こういうシーンを見ると、この演出・脚本が出演者をほとんど活かし切っていないという印象を強くさせられる。
(ブエナビスタ試写室/ブエナビスタインターンッショナル・ジャパン)



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●天然コケッコー (Tennen kokekko/2007/Yamashita Atsuhiro)(山下敦弘)

Tennen kokekko
◆前から見たいと思っていたが、タイミングが悪かった。今日も、実は、『エディット・ピアフ~愛の賛歌』を見に行こうとしているときに、メールがたてこみ、普通より30早いその試写に行けなくなったのでために、1pmのこちらの試写にしたという次第。しかし、予想通り、非常に面白かった。客の数も多く、通路には補助椅子がびっしりだった。
◆最初、「都会人」(俳優は地元の人じゃないから)が「田舎」を美化しすぎているという印象を持ったが、すぐにそんな印象はどこかに行ってしまった。カメラ(近藤龍人)が単なる「美化」をこえた美しさを表現していることもある。映画は夢だから、こういう空間が田舎にあってもいいじゃないかという気持ちになっていく。
◆舞台は、テレビのチャンネル数も少ない「天然」にあふれたこの山深い村。映画の視点は、ここに住み、小学生と中学生がいっしょで全生徒6人の分校に通う右田そよ(夏帆)のもの。そこに都会から転校してきた大沢広海(岡田将生)がなじみの薄い世界を見る視点が加わるが、それでこの世界が変わるわけではなく、最後は、彼がこの村に同化する。
◆ただ、ちょっと深読みすると、この田舎世界で「おおらかに」生きているように見える人たちも、みな、どこかに痛みや影をかかえており、それを「天然コケッコー」の雰囲気でまぎらわしながら生きているような気がする。その場合、この環境は都会とはまったく異なり、都会とは別の時間が流れていることはよく表現されていると思うが、登場する人物が、みな「都会的」なのが気になってくる。それは、役者がそうだからだが、登場する人間たちには、都会人は異なるものを感じないのだ。
◆そよの両親を演じる佐藤浩市と夏川結衣は非常に都会的である。田舎の狭い世界で生きていてちょっぴりエキセントリックな青年シゲちゃん(廣末哲万)やのんびりした先生(黒田大輔)は、ほとんどマンガの世界にしかいないようなキャラクターだ。つまり、この映画に登場する人物は、みな、「観念的」ないしは「空想的」なのだ。それは、一面で、原作がマンガ(くらもちふさこ)であるということを最高度に活かしているこをを意味する。映画は、原作の舞台となった山陰の浜田市で撮影されたが、この映画は、その場所をありのままに写し取ったのではなくて、その場所にもう一つ次元の異なる映像世界をつけ加えたのだ。それは、逆に、浜田市を映画の世界の方に変えるきっかけとなるかもしれない。「村起こし」とは逆に。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2007-06-20_2

●ブラック・スネーク・モーン (Black Snake Moan/2006/Craig Brewer)(クレイグ・ブリュワー)

Black Snake Moan
◆南部の社会の特質からいまの戦争体制のアメリカまで、目配りを感じさせながら、まとまりが悪い。共通して(おはやりの)トラウマを抱えている3人を登場させながら、ポイントが定まらない。
◆ラザルス(サミュエル・L・ジャクソン)は、名うてのブルースマンだが、妻に裏切られて、ブルースを捨てる。彼の家の近くに血だらけで倒れていたレイ(クリスティーナ・リッチ)を助け、介護するのだが、彼女は、幼少時代に受けた陵辱(またか)のせいでセックス依存症になっていて、そんな目にあった。彼女が唯一やすらぎをおぼえる恋人ロニー(ジャスティン・ティンバーグ)が兵役に服すことになって、別れを告げた矢先彼女は知り合いの黒人を呼び出し、セックスをせがむ。ロニーのトラウマは、不安が亢進して銃が撃てないこと。終わりの方になって、ロニーの神経症が戦争体制の社会への批判を代弁していることがわかるが、そういう方向で終わらせるんはつまらない。
◆初老のアフリカン・アメリカンと白人の若い女との組み合わせなら、もうちょっと面白い話になったような気がする。ラザルスは、非常に禁欲的に、ひたすらレイを「正道」にもどそうとするかにみえるが、その間にめばえる男としての愛情、最初は自分を拘束する人間としてしか見なかった相手に次第に愛情を感じていく若い女の心の動き・・・そこへ、不安神経症のために徴兵解除になったロニーが戻って来る。よくある話だが、どうせよくある話なら、映画なのだから、よくあるパターンをくりかえしてもらった方が、見る方としては、その型を楽しむのだが、その辺をちょっとひねくりまわす。それが決して成功してはいない。
◆これだと、最初はみんなぎらぎらしていたが、最後は、みんなちんまりした「キリスト教徒」たちなのだなという印象を持つ。クリスティーナ・リッチは、役者としてはいい仕事をしている。リッチは、『アダムス・ファミリー』の子役時代から、『アイス・ストーム』、『200本のタバコ』と少しづつ「悪魔っ子」を脱皮して行くのを見てきたので、『モンスター』では、まだ「魔性」の子供役をやっているのかと思ったが、今回は、完全に「少女」を脱皮した。が、いわくつきの女であるところが、クルスティーナ・リッチらしい。
◆最初と最後に、アルカイブから持ってきたサン・ハウスの弾き語りを映す。ジャクソンは、フェリシア・コリンズの手ほどきで、ブルース・ギターを習い、映画のなかでその実演を披露している。ラザルスがいっしょにバンドを組んでいた相手役として、セドリック・バーンサイドとケニー・ブラウンとうホンモノのブルースマンが出ているが、バーンサイドの祖父は伝説的なR・L・バーンサイドだという。この映画のブルースへのこだわりは、本気なのだが、どこか腰砕けなのはなぜだろう? 斉藤正樹あたりに訊いてみたい。
(UIP試写室/UIP)



2007-06-20_1

●ミリキタニと猫 (The Cats of Mirikitani/2006/Linda Hattendorf)(リンダ・ハッテンドーフ)

The Cats of Mirikitani
◆感動的な傑作ではある。とにかく、「ホームレスの画家」ジミー・ツトム・ミリキタニと偶然ニューヨークの街頭で出会った(という設定の)ドキュメンタリー作家リンダ・ハッテンドーフが、彼の人生に興味をいだき、映像を撮りはじめととき、折しも9・11が勃発、汚染された街頭の外気で咳き込むミリキタニを彼女の自宅に住まわせ、友人になり、やがて未知ながら親戚であるジャニス・ミリキタニの存在が明らかになり、さらには、第2次世界大戦の勃発によって敵性国人としてカリフォルニアの日系人強制収容所に収容されたときに生き別れになった姉カズコとの再会を果たすのだから。
◆しかし、その一方で、これでよかったのかな、という印象を残す映画でもある。ジミー・ツトム・ミリキタニは、1920年にカリフォルニアのサクラメントで生まれたので、アメリカと日本の二重国籍を持っていた。その後広島にもどって幼少・少年時代をすごしたが、軍国主義が台頭する1938年、日本を捨ててアメリカに渡った。しかし、1941年12月8日の真珠湾攻撃に対してアメリカは、翌年、行政令を発行し、「敵性外国人」の強制隔離を開始し、12万の日系人を急ごしらえの収容所に送った。アメリカの市民権を持っていたジミー・ツトム・ミリキタニは、これを不当とし、市民権を放棄した。同じ様に批判的抵抗のあかしとして市民権を放棄した日系人は数千人のいたという。
◆ジミーは、自分が市民権を放棄し、非アメリカ人ないしは「亡命者」――文字通りの「ホームレス」――として生きることに誇りを持っていた。だから、映画のなかでも、リンダ・ハッテンドーフがジミーを市の事務所に連れて行き、ソーシャル・セキュリティを受けられるという話になったとき、自分は市民権を捨てたのだから、そんなものはいらないと言い張る。ここには、市民権を放棄して自らラディカルなホームレスになり、それを長年実践してきた彼の誇りと矜持が感じられる。しかし、ここには屈折した事情がある。実は、彼の市民権は、1959年に回復されていたのだ。放浪生活を送っていた彼はそれを知らなかったのである。
◆しかし、知らなかったとはいえ、彼の主義は主義であり、それを通してやることはできなかったのか? とはいえ、ジミーは、すでに80歳の後半に達していた。映画で見る彼は、とてもその歳は見えないし、言うこともしっかりしている。驚くべきことは、長い、しかも不安定なアメリカ生活にも関わらず、彼の日本語や日本的素養は並ではなく、イラク戦争やアメリカへの批判も、どきっとするような鋭さに貫かれている。彼は、結局、こ綺麗なアパートメントをもらい、生活保護を受けるようになるのだが、そんな彼が、すんなりとそうした「社会保障」を受け入れたとは思えない。しかし、この映画は、彼自身の、そして、(おそらくは)彼とリンダとのあいだに生まれたであろう葛藤を全く描かない。これは、不思議である。
◆ニューヨークでの生活は、若いときは刺激に富んでいて、毎日がばら色でありえるが、高齢者にとってニューヨークは厳しいところである。気候も半端ではない。しかし、ジミーは、1980年代後半からずっとニューヨークでホームレスをしてきたらしい。パークアヴェニューで住み込みの料理人をしていたが、雇い主が死に、職を失ったからである。当時の大統領ドナルド・レーガンは、「働かない者は食うべからず」と公言し、ホームレスの保護を縮小した。ジミーは、まさに、新しい階級社会から振り落とされ、ホームレスになる老人の典型だったわけだ。
◆最初の方のシーンで、ジミーが、韓国人の花屋の親切で、店が閉まったあと、表に張り出したビニールシートのなかの空間で寝泊まりしているのが見える。明らかに零下を相当下った温度のなかで、手袋をしながら絵を描いているのが印象的だ。そして、そういう生活に誇を持っている彼の発言を聞くと、むしろ、無理をしても彼にはそういう生活を続けてもらいたいという気持ちが働く。
◆リンダのアパートメンの一室で、床にマットを敷いて生活し、おそらくインスタントラーメンのようなものをリンダに作らせ、ツユがぬるいと文句を言い、リンダが「困った人ね」みたいな反応をしているシーンがあるが、ここでは、二人のあいだにある種のラブ・ストーリー的なものを感じる。年令を越えた愛である。映画を、二人の出会いと、リンダとの生活で終わらせることもできた。そうしたら、リンダは仕事が出来なくなってしまうかもしれないが、それは映画としては夢がある。勝手な観客の感想ではあるが。
(松竹試写室/パンドラ)



2007-06-13_1

●アドレナリン (Crank/2006/Mark Neveldine & Brian Taylor)(マーク・ネヴァルディン & ブライアン・タイラー)

Crank
◆非常に「カシコい」映像。あっちこっちから借用したテクニックを感じさせるが、それをうまく使っている。すぐに気付くのは、『スリー・キング』の影響。「中国製」のあやしい薬(「競馬馬を殺すやつ」というせりふもあった)を注射されたジェイソン・ステイサムが息苦しくなると、体内にズームするカメラがドキドキ動く心臓を映すなぞは、そのままの借用。パロディは意識せず、ちゃっかりと借用している。そういうあっけらかんとした感じとユーモラスな飛躍がこの映画の面白さ。
◆ジェイソン・ステイサムが意識をとりもどし、もうろうとした意識でDVDをかけるシーンでは、完全にステイサムの「目」で撮るので、この映画、「わたしはカメラ」的な「一人称」で徹するのかと思ったら、そういうこだわりはあっさり捨て、つぎのスタイルに移る。そういう「アザトさ」もいい。分割画面もよく使うが、「このスタイリスティックな感じを見てください」といったおもむきは全くなく、軽く遊んでいる。場所を示すのも、ためらいなく Google Map (に似せたスタイル)を使う。
◆ステイサムに致命的な薬物を打ったホセ・パブロ・カンティーロは、「ホモ」という設定で、文字通りラベンダー色の上着を着ている。全体としてステレオタイプ的なキャラクターを配置し、ステイサムの恋人イヴ(エイミー・スマート)は、「スラッカー」のタイプ。ステイサムが必死に電話しつづけても、電話は留守番モードにしたまま寝ており、やっと出てきても「寝てたのにぃ」的な「怠惰」な反応をする。
◆ステイサムが生き残るには、「アドレナリン」を出し続けなければならないということがわかる。一つには怒ること。猛烈走るのもいい。セックスもいいというので、チャイナタウンの街頭でイヴと路上セックスにおよぶ。ところで、この映画のタイトルは「アドレナリン」となっているが、映画のなかでは、「アドレナリン」という言葉は使われなかったと思う(聞き間違いなら失礼)。その代わり、「エピネフリン」(epinephrine) が使われていた。いまでは、アドレナリンもエピネフリンも同じ意味だが、この名称の由来はなかなか「政治的」だ。「アドレナリン」は、ラテン語のad (・・のかたわらに)+ren (腎臓)の合成語、「エピネフリン」は、ギリシャ語のepi(うえ)+nephros (腎臓)の合成語である。「アドレナリン」は、高峰譲吉の発明と命名(1900年)、「エピネフリン」はジョン・ジェイコブ・エイベルの発明と命名(1897年)とされ、高峰がエイベルの研究室を訪ねていたことから、高峰がエイベルの研究を盗んだといった疑惑も出たらしいが、すでに1885年にポーランドのナポレオン・サイバルスキー(Cybulski)が、1886年にアメリカのウィリアム・ベイツが発見していたという記述もある。いずれにしても、日本の薬事法では「アドレナリン」を正式名とし、アメリカでは、「エピネフリン」を一般的に使っているらしい。
◆いずれにしても、アドレナリン/エピネフリンは、危機に直面したときに出る副腎質ホルモンで、「ファイト(闘い)とフライト(飛行、ダッシュ)のホルモン」と言われるらしいが、ここに目をつけて映画を作ったのは、なかなかおりこうである。「ファイト/フライト」は、まさに映画のかなめでもあるからだ。その意味で、この映画は、全編「ファイトとフライト」に終始する。
◆もし、この映画で、イヴの「スラッカー」的怠惰さが、シェイブの「ファイトとフライト」にもっと鋭く対置されたら、この映画に奥行きが出ただろう。アクションとしては面白いが、思想的に読み込ませるような奥行きはないからだ。でも、そういえば、友人のあやしい医者ドク・マイルス(ドワイト・ヨーカム)も、あまり働くのは好きではない「スラカー」的風情だ。
◆命がかかっているといはいえ、シェイブの行動は、「働き過ぎ」であり、「スラッカー」の対極だ。ただし、彼の「働き過ぎ」は、たとえば、『ダイハード 4.0』にくれべれば、スラップスティック的に描かれ、すべてがナンセンスに見えるほどシュールにエスカレートする。つまり『ダイハード 4.0』のジョン・マクレーンは、あたりまえの日常的価値のために「働き過ぎる」のだが、シェイブは、ほとんど無意味に「働き過ぎる」ことによって、彼自身の「労働(行動とおこない)」を異化する。そのため、この映画の基調には、あえて深読みすれば、「労働の拒否」やラフォルグ的な「怠惰」を礼賛する「スラッカー主義」がある。
◆アメリカでは、イタリアの「アウトミア」運動のような「過激」な形はとらなかったが、スラッカー主義というかたちである種の「怠惰」主義が流行した。しかし、そういうカルチャーの集大成でもあるリチャード・リンクレイターの「Slacker」(1991)が出たころには、その巻き返しが起こり、ブッシュ政権の登場とともに、そして911とともに、スラッカー主義は蹴散らされてしまった。日本でも、「ゆとり」への反逆、「フリーター」の格下げは確実に制度的レベルでも明確になり、はてしない「競走」主義が「あたりまえ」のものになってきた。
◆原題の「Crank」 は、「覚醒剤」ないしは「そういう麻薬をやる」という意味だ。その意味では、映画の主題とスタイルがはっきりする。全体が、まさに「覚醒剤」をやっている感じである。しかし、日本では、このタイトルはつけられないことになっている(?)。
(シネマート銀座試写室/ムービーアイ)



2007-06-12

●ダイ・ハード4.0 (Live Free or Die Hard/2007/Len Wiseman)(レン・ワイズマン)

Live Free or Die Hard
◆公称では「世界で最初の試写」だというので、午前8時開場、9時上映といういささかわたしの生活時間を狂わす試写会にはせ参じた。妙な動きでもしたら、すわ「痴漢」にされかねない密着空間に驚きながら、ふだんは乗ったことのない早朝の地下鉄で六本木へ。空港なみのセキュリティチェックだというので、極力荷物を減らし、ふだんは着ないポケットの多い上着に必要最低限の品物を詰め込んできたので、すんなりと入場。席はかなり空いていて、希望の席を確保。しかし、寝ていないせいか、周囲の話声が頭に響く。大声で話をしている人がいると、相手の方は寡黙なことが多く、一人の話ががんがん周囲に響く。「あの人、ファンタジー好きじゃねぇだろうてのがオープニングでわかるよね、ククク」なんて声が聞こえ、神経をさかなでされるが、何とか上映開始時間まで耐える。が、配給会社の人の挨拶がはじまる直前になって、両手にポップコーンとコーラをかかえた紳士が隣にどかりと座り、いままでの自由が吹っ飛ぶ。この御仁、映画が始まってもポップコーンをポリポリ音を立てて食う。そのたびに安いバターの臭いがただよう。最初は、どうせジェットコースター・ムービーなのだから、そういう些細なことは忘れさせてくれるだろうと思っていたら、意外とこの作品、繊細なオープニングで、ポリポリ食う音が気になる。ついに、「すみませんが、うるさいんですけど」と言ってしまう。そのとたん、口元に持っていった手がストップモーションになったのが面白かった。
◆配給会社の話では、この日に上映されたフィルムは、まだ色調製が済んでいないプリントで、青みが強いとのことだったが、全体に緑を帯び、肌の色がややセピア系になるところが、かえってよいような気がした。サイバーテロが主題で、全米有数のという設定のハッカーが登場するが、デジタルレベルでの妙技にはお目にかかれない。そのかわり、見どころは、これでもかこれでもかとエスカレートするアクションとかっこいいガンエフェクトだ。実際のサイバーテロになったら、ガンはほとんど有効性を持たないはずだが、映画では依然、ガンが見せ場になる。映画とはそういうものなのだ。おそらく、ガンが映画からなくなるとき、映画は映画ではないものに変わるのだろう。
◆ブルース・ウィリス演じるジョン・マクレーンは、不死身でなければならない。今回は、天然ガスの爆発やジェット機の突撃といった不死身ではいられないはずの攻撃が満載だが、にもかかわらず、マクレーンは不死身である。対するマイ(マギー・Q)は、一見知能派に見えながら、めっぽうコンフーが強いアジア女で、マギー・Qがその役を見事にこなしている。国防総省のセキュリティ担当だったが、自分のプログラムを無視されたことへの復讐としてサイバーテロをたくらむ知能派のガブリエルを演じるティモシー・オリファントもいい。
◆エイドリアン・ブロディ的な甘さをたたえた美形のジャスティン・ロングが演じるマットというハッカーは、ドラマ内的に見ても、無能すぎる。ドラマ内的には無能ではないことになっているのだが、映画のなかでやることがコンピュータの操作として無意味なのだ。このキャラクターは、むしろ、ウィリスのサンチョ・パンザ役。クリフ・カーティスが演じるFBIも無能で頼りない。しかし、ウィリスが独力でやることが見せ場なのだから、その必要があったのだろう。
◆この映画でもそうだが、ハッカーは、ケータイのカメラでもテレビ局のカメラでも、ありとあらゆるカメラや回線をハックし、自分のモニターに接続させる。世の中は、たしかにワイヤード・ソサエティになってはいるが、いかにすぐれたハッカーでも、全米のあらゆる電子装置を一つながりのものとしてコントロールするのは、無理である。しかし、そんなことはどうでもよくなってしまうところが、この作品の映画らしさだ。
◆NSA (国家安全保障局)は、普通人のケータイまでも盗聴し、保存しているというが、そのデータへのアクセスがハックされれば、一人のハッカーが、あらゆるシステムを操作の対象にすることは可能だろう。しかし、この映画のように、画面で見ながら、つぎつぎにリアルタイムでハッキングを進めることは無理というもの。たしかに、NSAには、街や公共の場所の監視カメラの映像、電話、放送電波、インターネットのトランズアクション等々は記録している。しかし、電波としても、ネットを介しても外に接続されていない信号のすべてを記録しているわけではない。とはいえ、NSAのデーターが危険なのは、もともと分散されていたものが、一か所に集められ、管理されているからである。それらを使ってシュミレーションはできるから、「現実」にかぎりなく近いヴァーチャルな存在物を構築することができる。
◆その意味で、わたしがこの映画で一番興味を持ったのは、「テロリスト」たちが、全米のあらゆる放送をジャックし、そこにホワイトハウスの映像を映し出し、それを爆破して見せるシーンである。ジャン・ボードリアールは、「911は存在しなかった」という挑発的な文章を書き、(一部で)物議をかもしたが、911から生じた事態(911を利用して起こされた戦争や総統制化)は、911がヴァーチャルな映像的事件であっても実現可能だった。
◆放送をジャックした画面で、「テロリスト」たちは、宣言文を、アメリカの歴代の大統領の録音をコラージュして作った。その声にあわせて画面にケネディーやブッシュ(これが一番長かったのは、意図的な皮肉だろう)の顔が現われた。これも、まさにボードリアール的な効果である。
◆証拠隠滅のために、問題のプログラムの作成に協力したハッカーを次々に殺害していくが、その一人であるマットをジョン・マクレーンが助けたことから、マクレーンは殺し屋たちに追われることになる。その一人が、ビルの屋根をましらのように飛び移るが、フランス語をしゃべっているので、ああやっぱり彼かと思った。『アルティメット』でダヴィッド・ベルとともにその妙技を全面披露したシリル・ラファエリである。彼は、この「パルクール」 (Parkour) の名人で、あちこちでひっぱりだこなのだなと思う。
(六本木 TOHO シネマズ/20世紀フォックス映画)



2007-06-06

●夕凪の街 桜の国 (Yunagi no machi, sakura no kuni/2007/Sasabe Kiyoshi)(佐々部清)

Yunagi no machi, sakura no kuni
◆麻生久美子がこれまでで最良の演技を見せた作品だ。広島で被爆し、生き残った平野フジミ(藤村志保)とその娘・皆実(麻生久美子)と息子・旭(伊崎充則)の物語(「夕凪の街」)から始めて、養子に行き、名も変わり、初老の歳を迎えた旭(堺正章)とその娘・七波(田中麗奈)の物語(「桜の国」)につなぐ。そのあいだに、皆実と旭の妻・京花(栗田麗)は白血病で死ぬ 。皆実の「白鳥の死」を麻生が悲しく、美しく演じる。日本が「拝金主義」に陥る以前の(そのころの映画ではよく描かれた)ある種の素朴さや「つつましさ」(この言葉が生きていた時代)を麻生とその恋人(打越豊)役の吉沢悠が味わい深く(ということは「昭和30年代」映画風に)演じる。
◆被爆の直接的な映像は出さない。もっぱら、あの地獄を被爆者自身が描いた「原爆の絵」を使う。幼い皆実が被爆した妹を背負って夜道をさ迷い、彼女の背中で妹が死んで行くシーンと、米軍が撮影した核弾頭の爆発と廃墟化した広島の俯瞰写真がわずかに出て来るだけ。それがかえって、日常のなかで何世代にもわたって続く原爆投下の呪いがあらわになる。映画のなかで、広島の人々は原爆のことに触れたがらないという。
◆映画で使われたのと同じかどうかはわからないが、「原爆の絵」はウエブで見ることもできる。「原爆の絵 解説・インデクス」は、13枚の絵とそれらが描く場所を特定している。
◆昭和30年代のシーンで、麻生と藤村が銭湯につかるシーンがある。彼女らも、そしてそこでいっしょになる女性たちの身体にも、肩や腕や脚にケロイドの跡がある。被爆地の銭湯をなにげなく撮るという視点はすごい。
◆皆実が26歳で死んだのち、弟の旭は、水戸から広島に戻る。彼は、疎開で被爆をのがれ、そのまま叔母夫婦の養子になっていた。5歳から広島を離れていた彼は、すっかり茨城弁になっている。すぐに「・・・だっぺ」が出てしまう。少年時代から壮年までを一人で演じる伊崎充則は、なかなかいい演技を見せる。
◆旭(伊崎充則)は、広島で少女・京花に出会う。彼女は、母の裁縫の手伝いをしている。彼が彼女を好きに成ったとき、母は、被爆者との結婚に反対する。彼だけが被爆を逃れ、「ピカ」の呪いから自由な家系を維持できると思っていたと言う。被爆者が被爆者を差別するという屈折。夫と二人の娘を原爆で亡くした彼女からすれば、そう考えるしか救いがない。しかし、旭は京花と結婚し、七波をもうける。やがて、京花は、小学生の七波を残して死ぬ。
◆昭和33年(1958年)の「夕凪の街」広島と、平成19年(2007年)の東京(「恋が窪駅」の看板が映る)との前後2つのパートに分けながら、フラッシュバックする映像は、重層的に原爆のしこりを強烈に印象づける。ドライな活動的な女の子風に登場する田中麗奈が演じる七波は、最初、原爆のことを知らないかに見える。父親(堺正章)は、そのことを全然話さずに彼女を育てた。が、彼女は、母親が黒い血を吐いて死んだのを覚えている。そういう彼女に、彼女の一家の受けた試練を知る機会がやってくる。
◆麻生久美子が「昭和30年代」の女を演じたのを意識するかのように、田中麗奈は、いまの若い女性を演じようと意識しているように見える。つまり、(最初は)過去を意識せず、割り切りがよく、じめじめしない。そういうキャラクターを演じようという意識が少し出すぎている感じがしないでもないが、その強さは、それが両親や祖母の被爆を知るにつれて次第に変わってくるところを出すための布石なのかもしれない。それを映画で出すには、『暗いところで待ち合わせ』とは少しちがう演技をしなければならないからだ。
◆伊崎充則がほどよい存在感で演じた旭の老年時代を演じるには、堺正章はあまりふさわしくない。テレビでふざけている彼の笑い顔が染みついているわれわれ観客には、堺が真面目な顔をすればするほど、いきなりすっとんきょうな大声を出すのではないかという思いがしてくるのを避けられない。堺のキャスティングは、プロデューサーからのものであって、監督は最初「意外に思った」そうだが、これはミスキャストである。それと、堺の方も、もしそういうキャストを引き受けたのなら、言葉のどこかに(伊崎が見せた)茨城弁の残滓でもただよわすべきだった。茨城弁というのは、歳をとっても消えないものであり、むしろ、歳をとればとるほど出て来たりする。ところが、堺の言葉は、全くの東京弁(というか堺正章弁)であって、そういう配慮が全くない。そういうことならば、伊崎にも、その程度の訛(なまり)を発音させておけばよかったということになる。
(松竹試写室/アートポート)


2007-06-05

●ウィカーマン (The Wicker Man/2006/Neil LaBute)(ニール・ラビュート)

The Wicker Man
◆最初のシーンが出てからも、うしろで日本語ぽい英語(男)と普通の英語(女)が聞こえていて、ヤな予感がしたが、案の定、映画の途中で背を蹴られる。そして、クライマックスで女が興奮した声でストーリーについて口走る。あまりに耳障りなので後ろを睨んだら、やめた。女は金髪で、男に肩を寄せあうようにして見ていた。背を蹴ったのは男の方らしい。デートの場所を間違えているやから。たまにいる。
◆こういう男は、この映画で描かれる島に行くべきだろう。そして最後にこのニコラス・ケイジが演じる男エドワード・メイラスのようになるべきだ。この島は、要するに「アマゾネス」が自主管理するコロニー。しばしば蜂の巣もコロニーと呼ばれるが、このコロニーは、女王蜂が支配する蜂のコロニーとアナロジカルな関係になっている。女王役のシスター・サマーズアイルを演じるのはエレン・バースティン。彼女は1932年の生まれだから、もう74歳になるわけだが、歯のあたりを除けばまだまだ若い。
◆そういう設定だから、キャスティングとメイキャップで強調されているのだろうが、出て来る女性がみな存在感がある。メイラスの婚約者で、突然姿を消してしまったウィロー役のケイト・ビーハンなどは、まるで無声映画の名女優のような目つきで最初からその存在感と、どこかこの世を超越している夢見がちなオーラを発している。メイラスが単身乗り込むサマーズアイル島のホテル・バー(?)のマダム、ビーチ(ダイアン・デラノ)にしても、メイドのシスター・ハニー(リリー・ソビエスキー)にしても、なかなか迫力がある。
◆しかし、この映画は、色々と気を持たせながら、まさかそんな単純なと思う方向に進む。最初に想像したのは、これは、ケイジの幻想プロセスを映すのかということだった。車から落ちた人形を渡すために追いかけて停車させた車が、母親と娘を乗せたまま大型トレイラーに激突され、炎上。娘を助けようとしたケイジは二次爆発で吹き飛ばされる。しかし、同僚の女性警官(これも意味ありげな顔ばかりする)によると、車のなかには誰もいなかったという。ケイジは、この事件後、その激突の悪夢と白昼夢に襲われつづける。そのたびに彼は鎮静剤を飲む。だから、この映画全体が彼の悪夢・白昼夢という形式になっているのかと思ったのだ。
◆冒頭、田舎街のコーヒーショップにケイジと同僚のピート(マイケル・ワイズマン)がいて、彼がカウンターで物思いにふけっていると、カウンターのなかの女性が、「ハンバーガーでトリップしてんの?」などと意味ありげなことを言う。このワイズマンがなかなかいい演技をしており、のちに重要な役をするのかと思ったら、見せ場はここだけなのだった。すべてがこの調子。
◆問題のコロニーでは男性は子孫存続のためのただの種馬的存在で、マジョリティは女性である。しかし、その核は、「シスター」だらけであるように、きわめてキリスト教的色彩が強い。エドワードは知らなかったが、ウィロウは彼の娘を生んでいたという。その娘が行方不明になったから助けてというウィロウの手紙が8年ぶりに届き、エドワードは島に乗り込んだのだったが、娘を探してあやしい水槽を調べると、そこにはキリスト像があったりする。
◆あえて拡大解釈すると、エドワードが娘かわいさで、島を捜索するやり方(警官だからそうなるのだが)は、ブッシュがイラクに乗り込むやり方とイメージが重なる。島は、シスター・サマーズアイルの私有地なので、州の法律に全面的に従う必要はないし、エドワードはこの島が属するワシントン州の警官ではないので、この島を捜索することはできない。しかし、彼は、定期的に荷物を運搬しているセスナ機の男を買収して島に乗り込み、家々に乱入する。だから、このコロニーが、キリスト教を感じさせないものになっていれば面白いのだが、むしろ原理主義的なキリスト教やクー・クラックス・クラン的なものを感じさせる。
◆わたしは 見ていないが、ケイジの役をクリストファー・リーが演った『ウィカーマン』(The Wicker Man/1973/Robin Hardy)のリメイク。
(ソニー試写室/アートポート)




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