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2004-08-31_2
●変身 (Prevrashcheniye/Metamorphosis/2002/Valeri Fokin)(ワレーリ・フォーキン)
◆東宝を飛び出し、タクシーをひろう。案の定、読売中公ビルも金鳳堂も知らない。明治屋はしっていたので、鍛冶橋通から明治屋の1つ先の交差点で降りる。右を指し、「あれが金鳳堂ですよ」と言うと、運転手さん、「あれキンポウって読むんですか」と。え!?ちょっと自信がぐらついた。
◆水がしたたる音が強調されるスタート。映像はしっとりと奥行きのある映画的なタッチ。色はコダック。大部分のシーンが雨。プラハのうねうねした路地が映されるが、プラハってこんなに雨が多かったっけと思うくらい雨が降る。これは、最後のパーっと明るいシーンとの対比で必要な処理なのかもしれない。いずれにしてカフカに水を持ってくるのは予想外だった。
◆目が覚めると巨大な虫に変身しているというカフカの有名な短編にもとづくこの映画では、主人公グレーゴル・ザムザ(エヴゲーニイ・ミローノフ)は、小説が想像させるような形では「変身」しない。これは、実は、原作のモティーフに忠実な演出だし、スティーヴン・バーコフの舞台でも取られている方法だ。しかし、映画としては、「退屈」な印象をあたえるようで、わたしの隣の男性は、何度もあくびし、途中で名刺の整理(暗いところでよくできるねぇ)をはじめ、その次はケータイとにらめっこ。おいおい、一番前の席だぜぇ。帰った方がいいんじゃないの。
◆わたしは、この映画の『変身』解釈は面白いと思う。CGを使った変身技術がいくらでも可能になってしまったいま、どんなに凝った変身シーンを見せても面白くはないし、カフカ的ではない。そもそも原作でも、主人公が「実際に」変身しかたどうかは明確には書かれていない。まあ、そこがカフカのいつものやり方で、『審判』にしても『城』にしても、主人公が目覚めたところから「怪奇」な物語が展開するようになっており、「すべてが主人公の夢だった」と見なすことも可能なのである。しかし、そうなると、その後の「無意識」描写の作家と大同小異になってしまうのだが、そうもとれるし、そうでもないというところがカフカの面白いろいところ。この映画は、そのへんの微妙な揺れを何とか表現しようとしている。
◆『変身』の初版本(1916年)のカバーには、ドアーから顔を覆って出て来るガウンを着た男の絵がある。「虫」の絵ではなくて「悩める人間」だということが重要だとカフカは考え、イラストを描いたオットマル・シュタルケに手紙で説明し、この図柄になった。この点を分析に使っているフリードリッヒ・バイスナーの『物語フランツ・カフカ』(Der Erzaehler Franz Kafka, 1952)を翻訳したとき(せりか書房、1976年)、この絵を入れたいと思って探した。なかなか初版本が見つからなかったが、やっと慶応大学図書館に1冊あることがわかり、装丁を担当した工藤強勝さんといっしょに写真を撮らせてもらいに行った。
◆カフカの物語では、「カフカ自身のみならず、読者をも主要人物に変ずる」とバイスナーは書いているが、『変身』も読者の解釈次第で意味が変わってくる。この映画では、ザムザは、突然の事態に困惑する「被害者」のように描かれるが、出張づづきの毎日がいやになり、今日は仕事をさぼってしまいたいなぁという願望をちょっとばかり過激に表現した物語と解釈することもできる。また、一家のなかの働き手だった息子が、ある日、突然病に冒され、しかもしれが、世間をはばかるような病で、それがだんだんエスカレートしていって、家族も彼のことを見放すという物語として読むこともできる。この映画では、どちらかというと、後者の解釈に力点を置いている。
◆スティーヴン・バーコフの舞台『変身』は、1977年にロンドンで見た。工事用のパイプを組んだだけの空間がザムザの部屋と居間になる。テリー・J・マックギニティ (Terry J. McGinity)(この役者の消息はわからないが、のちにこの役をあのティム・ロスが演るようになる――映画出演以前の話)という俳優がそのままの姿でザムザを演じた。体を虫のように四つんばいにしてはいたが、この映画のザムザは、様式化した身ぶりというよりも、いわば突然四肢に障害を受けてしまった、声が出るが言葉にならない、四肢を動かそうとするが「まともには」動かないという身ぶりを見せる。
◆1988年にロマン・ポランスキーがザムザを演じる同じバーコフ演出の『変身』を見たが、あの小柄なポランスキーがはいつくばって様式的な身ぶりをするのが見ものだった。全体としては、主人公のかわいそうな話になっており、ロンドンの舞台よりも質は後退していた。これは、ポランスキーの要求もあったのだろう。フォーキン自身の舞台は見ていないのだが、この映画は、どちらかというとポランスキー版の『変身』に似た路線で演出されている。主人公は、邪魔物あつかいされ、リンゴを投げつけられたりして、だんだんぼろぼろになり、見放された「ホームレス」のようになって、誰知るともなく死んでいく。家族たちは、「やっかい者」がなくなったことに解放感をおぼえるかのように、はればれした姿でピクニックに行く。雨がすっかり晴れたある日、妹と父母が現代の市電に乗っている最後のシーンは、この感じをよくあらわしている。原作もそういうふうに書かれている。
◆家庭のなかに「ひきこもり」や「家庭内暴力」の問題児をかかえている親や兄弟にとっては、この映画のテーマは、実感があるにちがいない。カフカもそういうこと――つまり家庭というものがもっているそういう可能性――に関心があったが、彼自身は、自分が「平和な家庭」にとっての「やっかい者」だと思っており、それを自ら罰するためにこのような物語を書いたふしがある。つまり、これは、非常に自虐的な物語でもあるのだ。
◆しかし、自分を責めているだけでなく、同時に、自分を虫のなかに閉ざし、家族とコミュニケーションを絶ってしまうことによって、いっさいを放棄してしまうという――ある種の「ストライキ」あるいは「さぼり」や「ドタキャン」の願望もこの物語の重要な要素だろう。「田舎婚礼の準備」という未完の物語のなかには、結婚式に行くのがおっくうになって、自分が「大きな虫」に変身してしまったら、行かないで済むんだがと想像する主人公が出て来る。ただし、表現の手法としては、「想像」ではなく、実際に「変身」してしまい、そのイメージがストレートに読者に差し出されるところが、表現主義と共通項を持つカフカの新しさでもあった。
◆食べ物のシーンがしっかりと撮られている映画は、それなりの評価ができる域に達しているというのがわたしの独断だが、この映画では、最初から飲食のシーンがしっかりしている。まず、プラハの駅から汽車を降りたザムザが、雨がますます激しく降ってきたプラハの路地を頭にトランクを載せて歩き、一軒の家の窓を覗くと、なかでビールを飲んでいる客が見えるシーン。次は、変身後、妹(ナターリヤ・シュヴェッツ)が、ミルクかヨーグルトのボールを部屋に持って行くが、味覚が変わってしまって食べない。すると、妹は、生ゴミのバケツから野菜や果物の屑をトレイに並べてあてがう。これをグレゴールは喜んで食べるのだが、この果物の皮、腐りかけたリンゴなどが、ちょっと見にはうまそうに並んでいた(わたしがすでに「虫」の感覚なのか?)。メイドがサーブして家族が食事するシーンでも、ミネストローネ風のスープかシチューがうまそうだった。働き手を失って下宿人を取るようになってから、3人の下宿人に出す食事も、ポテト、チキンの股焼き、しっかりした腰のあるパン、ピーマンなどのつけあわせ、ヨーグルトなど、東ヨーロッパ風の家庭料理になっていた。
◆このシーンに出てくる3人の男は、いずれも「ユダヤ人」であることは、いつも頭にかぶっているユダヤ帽(ヤマルカ)でわかる。彼らは豚肉は食べないから、チキンであり、ほおばった一人が、うなずいて「いい味だ」という表情をする。ところで、この映画で下宿人を「正統派」のユダヤ人にしているのは、監督フォーキンのおふざけかもしれない。
◆映画では、ザムザが緑の生い茂った墓場を走り回る夢想シーンが見られる。そこで一塔の墓のまえに行くと、墓石に彼の名があり、「1883年~」と刻まれている。1883年というのは、カフカが生まれて年である。これは、ドラマをカフカの同時代に設定しているという含みもないわけではないが、最後にシーンに現代の市電が出てくることを考えれば、これも監督のユーモア。
◆なお、わたしは、『メディアの牢獄』(晶文社、1982年)のなかの「マス・メディア時代の家族と個人」という章の第4節で、「カフカの『変身』を家族構造の変化という観点からみてみると、1912年ごろに書かれたこの小説が、資本主義的論理の浸透にやってこうむる近代家族の変化を余すところなくとらえていることを発見して驚かされるのである」と書いている。
(メディアボックス試写室)
2004-08-31_1
●笑の大学 (Warai no Daigaku/2004/Hoshi Mamoru)(星護)
◆台風の余波で風強い。前の試写が終らず、待たされる。列を作る指示がなかったので、皆、なんとなくならんでいる。日本式。が、あとから来て、まえに進む人がいるので、不安になる。子供っぽい不安。
◆1940(昭和15)年、真珠湾攻撃をして第2次世界大戦に突入していく前年、思想と文化の統制はいよいよ厳しくなった。そんな時代を選び、警視庁の検閲官(役所広司)と浅草で劇場をはる劇団の座付作家(稲垣吾郎)とのほとんど2人芝居。
◆アイデアは抜群、一応は楽しめるのだが、台本(三谷幸喜)のせりふをきちんとこなす職人的な役所広司には、官僚の持つ独特のエキセントリシティが感じられないので、全体が「芝居」のように流れて行く。こういう役をやる俳優は、カレーのCMなんかに出て、にこにこしていてはだめ。その分、役所とは全然異なる演技的素養を持つ稲垣吾郎は、スマップで鍛えたアドリブ感覚(「名作台本」がしっかりしているので、アドリブはほとんどないと思う)で、役所を凌駕。
◆日本は、いまでも「検閲国家」だが、戦前・戦中の検閲はひどいものだった。1996年2月1日、アメリカで「コミュニケーション品位法案」(CDA)が成立した前後、インターネットではさまざまな反対運動が起こり、この事実上の検閲法案に反対の声明を発した。これは、のちに廃案になるのだが、わたしも、およばずながら、anarchyのウェブページのトップに「検閲済」というマークを付け、反対のキャンペーン・ページをはった。このとき日本の検閲の状況をまとめてみたが、そこに上田進が岩波文庫で訳出した1934(昭和9)年刊の『マルクス=エンゲルスの藝術論』のページを載せておいた。これを見ると「このXXごっこの結果、XXXXXXXされ、XXXXXXXX、XXXXXXXXつき、そしてつひにXXは、ながいことおさえつけられてゐたXを、たかくもたげるのである」といったように、「伏字」だらけになっているのがわかる。この時代でこうだったのだから、1940年には、検閲がもっと激しくなっていたことは十分予想される。
◆検閲というと、禁止という側面しか思い浮かばないが、実際の現場では、検閲官と被検閲者とのあいだに、なれあいや奇妙な「連帯」がはたらくことある。この映画のように、検閲官が次第にその任務を忘れて、表現そのものにのめり込み、結果的に台本を「面白い」ものにしてしまうということは、なかったかもしれないが、上の『マルクス=エンゲルスの藝術論』の例でもわかるように、伏字は、もとの文字の字数をそのまま「X」に置き換えているだけなので、読者は、大体「革命」だとか「プロレタリア革命」だとかの言葉が伏せらているのだということが予想できるわけで、ここには、検閲官の暗黙の「お目こぼし」があったはずだ。映画は、このへんの屈折した心理をドラマティックに描いて見せる。
◆『カメラ毎日』の最後の編集長で数年前に夭折した西井一夫は、「芸術ヌード」が警視庁に目をつけられ、何度か呼ばれた経験を話してくれたことがある。彼によれば、最も基本的なことは、検閲官にたいして「芸術」を持ちださないことだという。この映画でも、役所広司は、自分は、演劇には全く興味のない人間だと最初に宣言する。笑ったことなどない人間だとう言った。そういう手合いを懐柔するには「論理」しかない。ちなみに、わたしの独断によると、「右翼」や「権力」というものは、最も「論理的」なのであって、感情や情念では動かないのである。このへんが誤解されており、国家が「怒り」や「義憤」に燃えて戦争をしたりするとみなされている。
◆わたしもある種の「検閲官」を懐柔したことがある。自由ラジオの運動をやっていたとき、ネットワークを組んでいた仲間の局が(かつての)郵政省電波監理局から警告を受けたときの戦術として、わたしは、その仲間たちと竹橋の電波監理局におもむき、役人に、「どうすれば違反にならないようにできるでしょうか?」と尋ねるのである。「電波法違反だ」と言われ、「だからどうした」と反論すれば、相手は訴訟という手段に訴えてくる。「なんとかなりませんか?」と情実の願いをしても、相手は、反応しないだろう。そういう場合もあるが、この映画で、稲垣吾郎がおあいそに「雷屋」の今川焼きを持って行くと、役所広司は憤然と拒否する。それが彼らの「論理」だからだ。しかし、電波監理局は、監督官庁であるから、「どうすれば違反にならないようにできるでしょうか?」という問いに関しては答えざるをえない。その結果は、「まあ、『微弱電波』なんてものはな、雑音みたいなもんだから、こっちも問題にはしてない。適度にやってくれれば、いいんだ」とか言うようになる。そして、少なくとも、出向いた局の印象は深まるから、以後、めちゃくちゃなこと(高出力で送信する)をしなければ、「おとがめ」はないのであった。
◆たびたび書いたが、日本の映画は、依然として検閲されている。性器なんか見たくないとしても、『ドリーマーズ』のような「無害」な作品で昔ながらの「ぼかし」を見せられるのは、うんざりだ。しかし、上のような観点からすると、「ぼかし」のような安易な自己規制をしてしまうのは、配給側の努力不足であると言えないこともない。かつて佐藤重臣は、自分の「アートシアター新宿」(歴史的に有名な「アートシアター(新宿文化)」とは違うので注意)で無修正の『ピンク・フラミンゴ』を数年間にわたって上映しつくした。まあ、上映のサイズの問題もあるのだろうが、まさにサイズを考えないで権力への抵抗は出来ない。何万何千のデモを組織できれがいいというような「ビッグ・イズ・ビューティフル」的考えはもうダメなのだ。
◆ひんぱんに使われる章立て的な音楽(それ自体はうまく使われている)が、『ハドソン河のモスコー』(Moscow on the Hudson/1984/Paul Mazursky) にそっくりなのが気になった。
(東宝試写室)
2004-08-26_2
●WALKABOUT (Walkabout/1971/Nicolas Roeg)(ニコラス・ローグ)
◆夜の11時半に新宿で約束があったので、『ベルヴィル・ランデブー』のあと、同じ場所で上映されるこの映画を見ることにした。先日、この「幻の名作」の本邦初上映に関わった高崎俊夫さんから招待券をもらったので、来ようと思っていた。
◆わたしは、ニコラス・ローグは好きだが、この映画がオーストラリアを舞台にしているという予備知識なしに見た。が、最初、街のシーンが出てきたとき、「あ、どこかで見たな」と思った。そして、オーストラリア英語が聴こえてきて、そうかと思った。すぐに、わたしの記憶に埋め込まれたシドニーの街角が突如フラッシュバックした。
◆1971年という公開年月を考えると、この映画は、オーストラリアの問題的な「気分」とでもいうべきものを鋭く描いている。いまのオーストラリアからは考えられないことだが、1970年代以前のオーストラリアは、「白豪主義」で有名な国だった。それが、大転換するのだが、この映画は、そういう転換のはざまの時期を描く。それまでの生き方や価値観の限界や矛盾はわかっている。しかし、それを脱出する方向がはっきりしない。それが、最初のシーンと最後のシーンとの「同一性」によって示唆される。
◆シドニー・ブリッジが見えるプール付のマンションで安定した家庭生活を送っているように見える男(ジョン・メイロン)は、フォルクスワーゲンに娘(ジェニー・アガター)と息子(リュック・ローグ)を乗せてブッシュ地帯にピクニックに行く。が、この父親は、車のなかで「構造的地理学」などという論文を読んでいて車から出てこず、いきなり息子をおどかすかのように発砲し、そしてガソリンを車にはなって、ピストル自殺してしまう。これは、ある意味でのこの時代のオーストラリアの中流家庭の危機(しかしまだ見えない)をえぐりだしたものであり、以後、娘と息子がたどる砂漠の逃避行とアボリジニの青年(デイヴィッド・ガルピリル)との出会いは、オーストラリアの中流家庭がたどる変化を先取り的に素描してもいる。
◆面白いのは、オーストラリアの大変革が、まさにこの映画が封切られた翌年の1972年から始まるという点だ。わたしは、1970年代後半から大きな変貌をとげたオーストラリアに関心を持ち、1983年にメルボルン、シドニー、アデレイドの都市文化とメディアの動きをリサーチし、『遊歩都市 もうひとつのオーストラリア』を書いた。そのなかでも指摘しているが、1972年に労働党のゴフ・ウィットラムが首相に就任し、「白豪主義」から「多民族主義」への変革がはじまる。しかし、それは、「人道主義」からそうなったのではなく、もはや「白豪主義」では資本主義の高度化についていけないことが明らかになり、それをやめる必要が出てきたからだった。「白豪主義」にとどまるかぎり、海外移民や出稼ぎの労働力を導入することはできない。かくして、オーストラリアは、世界で最も移民しやすい国になったのだった。(むろん、いまはそうではない)。
◆砂漠を瀕死でさまよう娘とその弟が、狩りをするアボリジニに出会う。彼は、すばやい身ごなしで動物を手製の槍で射止め、ただちに解体し、さばいて焼き、その肉料理を食べさせてくれる。しかし、そういうことに慣れていない娘としては、心おだやかではない。むしろ、幼い弟のほうが、アボリジニにすぐなじんでしまう。アボリジニが動物を解体するシーンと、街の肉屋が肉をさばくシーンが交互にあらわれる。監督のローグは、アボリジニがやることを白人は、「野蛮」だ「野生」だと言うが、結局同じことをやっているにすぎないと言いたげだ。こういう観点は、80年代になるとそれほどめずらしいものではなくなるが、オーストラリアに関してこういう観点を提起したのは、ニコラス・ローグが一番早い。
◆いっしょに砂漠を移動するアボリジニの青年が、娘のラジオのダイアルを回してアボリジニの言葉が聴こえる放送を聴くシーンがあるが、アボリジニの言語の放送が始まるのは70年代後半からだと思う。これは、ローグの先取り的なシーンだろうか? ローグは、この映画で、短波や中波のラジオのノイズ音をたびたび映画のサウンドとして使っている。これも、サウンドアートの歴史から見ても早い。
◆この映画の娘は、アボリジニの生年に求婚され、とまどう。内心では彼のナイーブさに惹かれているが、それを言葉にあらわすことができない。最後のシーンで、彼女は、白人の男と結婚し、あきらかに「白豪主義的」な生活をすることになる。しかし、わずかに、彼女の心には、あのアボリジニの青年と可能であったかもしれない自由でしなやかな生活の夢がよみがえる。
◆ピクニックのシーンでも、ボンネットから荷物を降ろす娘のミニスカートからのぞく尻を父親がちらりと見たり、アボリジニの青年が、無邪気に木に登娘の太腿を気にしたり、「チラリズム」的な描写がたびたび出て来るが、これが、まさに、性的欲望を抑止していた「白豪主義」のオーストラリア(依然とオーストラリアには居座るビクトリア朝的モラリズムの抑圧)の当時の現状だった。
◆わたしが1982年にオーストラリアを旅行したとき、インテリたちは、アボリジニたちへの差別は否定したし、フェミニズムにも理解を示した。しかし、アメリカなどにくらべると、依然として保守的であることは見てとれた。20世紀初頭を舞台にしたピーター・ウィアーの『ピクニック at ザ・ハンギングロック』(Picknic at Hanging Rock/1975/Peter Weir)の世界がまだ残っていた。ウィーアもそういう状況への批判をこめてこの映画を作ったはずだが、ニコラス・ローグは、それを先取りしていたわけである。
(テアトルタイムズスクエア)
2004-08-26_1
●ベルヴィル・ランデブー (Les Triplettes de Bellevile/Belleville Rendez-Vous/2003/Sylvain Chomet)(シルヴァン・ショメ)
◆監督のシルヴァン・ショメが挨拶をする。まじめな人で、テレビ東京の女子アナの質問に細かに答え、会場の雰囲気は大学の授業風(ただし私語はない)。エンドクレジット曲をバックで流しているのがうるさい。ショメもそれを気にしているらしく、ミキサールームの方をにらむ。「この映画はハリウッド映画などとはちがう、インディペンデントの映画なので、面白かったら、その噂を友達に伝えてください」としめた。
◆脚本、絵コンテ、グラフィックデザインを全部一人でやっているショメは、すごい才能の持ち主なのだろう。シュールにデフォルメされた絵柄、はっと思わせる飛躍的な着想、マシーンや物の基本的な機能を熟知した使い方・・・尋常ではない。低予算を逆手にとって、せりふはほとんど省略し、必要な場合は、「あー」とか「ウー」とかいった生ま声だけで済ませる。その代わり、音楽には多才なミュージッシャンを動員して、映像を効果的にしている。
◆音に関しては、ジャンゴ・ラインハルトのギターをベースにしたり、ジャズやロックの多彩な引用があり、多くのことが語れるが、わたしがはっとしたのは、後半のシーンだった。マフィアのいるクラブで、その昔レヴューでならした「ベルヴィルの三つ子」たちがそれぞれの「楽器」で演奏をする。ローズ、ブランシュ、ヴィオレットの3人の老婆の一人は、新聞紙をマイクのまえでガサゴソいわせて、スクラッチのようにし、もう一人は、冷蔵庫のなかの網棚を弦のようにひっかき、最後の一人は、電気掃除機の吹き出し口を押さえたり放したりする。それに、この映画の中心人物の一人である老婆マダム・スーザが、自転車の車輪のスポークをチャラチャラいわせるというぐあい。これはもう非常にユニークなサウンドパフォーマンスである。
◆冒頭の無声映画の額縁舞台のフレームにレビューのシーンが映る。フィルムの傷が縦に数本見える。ここで映っていた女性たちがあとで登場する「ベルヴィルの三つ子」だ。そういう時代の流れをさりげなく暗示しておく周到さ。この黄ばんだフィルムのシーンが、モノクロのテレビのスクリーン映像に縮小し、カメラが引くと、老婆と子供がテレビを見ているシーンになる。いろいろにとれるのだが、おそらく、自分の息子か娘の夫婦が死んでしまって、その遺児つまり孫をひきとったのだろう。彼女は、古いピアノのゴミを払い、ミュージック・コンクレート風の演奏をきかせる。わたしは、見損なったが、最初の無声映画のシーンで見える「ベルヴィルの三つ子」の若い時代の舞台で彼女はピアノを演奏していたのかもしれない。おそらく、それだから後半、この3人にばったり会って、自然なそぶりで彼女らの家に行くのではないか?
◆老婆は、この「不憫な」孫のために子犬をみつけてくる。それから三輪車も。場面は変わり、犬はデブ犬「ブルーノ」に成長し、家の窓すれすれに高架線が走り、窓から列車の轟音がきこえる。都市化が進んだのだ。ここでも感心するシーンがある。窓から見える列車のなかで新聞を読んでいる人がいる。その新聞には、シャルル・ドゴールの写真が見える。すると、それがズーム・インしたかたちでテレビの画面に入り、動画になる。共和国への協力を訴えるドゴール。つまり時代は戦後になったばかりだ。むろん、この時代のフランスにこの場面で見るような高架線や林立する高層ビルはなかったが、この映画は、パリとニューヨークと郊外をシュールにミックスした感じでつくられている。
◆孫はやがて(それがいきなり飛ぶところがこの映画の特徴)自転車競争のプロ選手「シャンピオン(チャンピオン)」になったらしい。帰って来ると、老婆は、彼の体をマッサージするが、その道具がふるっている。芝刈機で腰をもみ、掃除機でももをやわらげる。食事を作って食べさせ、自分は、エッフェル塔のお土産ミニチュアの上に自転車の車輪を乗せ、スポークをチェックする。食卓の上で。しかも、そのチェックの仕方が、音叉をチーンと鳴らしながらなのだ。このファニーでシュールな着想のユニークさ。そして、その間、腹がへってたまらない犬が二人のテーブルのまわりを物欲しげにうろついている。食後は、老婆は、孫を抱いてベットへ連れて行く。
◆事件は、自転車競争の最中に起こる。この孫を含む三人のレーサーが、誘拐される。誘拐したのは、体が箱のような形をしたマフィア。何のために誘拐したかはやがてわかる。この映画は、映像を見てびっくりだから、バラしてしまうと、彼らを賭博に利用しようというのだが、それがまた傑作。ヴァーチャル・リアリティのプロトタイプのような、映画のスクリーンに移動する風景を映し、それを見ながら三人のレーサーが固定された自転車のペダルを踏み、速度を競い、観客が金をかけるというもの。こういう、テクノロジーの皮肉を逆手に取った着想がいたるところに出て来るのがこの映画の面白さ。
◆孫の救出過程で、この肝玉老婆はいまや老女となった「ベルヴィルの三つ子」に出会う(再会?)するが、その怪しげな売春宿のような家(このへんの雰囲気は、なるほどパリのベルヴュー的)に連れていかれる。その一人は、食事の用意のために、沼に行く。いきなり第二次大戦で使われた形の手りゅう弾を投げる。爆発音とともに空からおびただしい蛙が降ってくる。その夜のディナーが蛙のシチューであることはいうまでもないが、デザートが乾燥させたおたまじゃくしのシロップ漬(?)なのも笑わせる。
◆この劇場の椅子は、奥行きがないのと、ひじ掛けに飲み物のコップを入れるくぼみがぽっかり空いていて、肘がそこに入り込んで痛い。宙づりのステージがあるが、これは、この映画の「チャンピオン」が囚われてヴァーチャルな自転車競争をやらされる「劇場」の雰囲気に似ている。
(テアトルタイムズスクエア)
2004-08-26
●デビルマン (Devil Man/2004/Hiroyuki Nasu)(那須博之)
◆アニメの試写のときは、来る人の雰囲気ががらっと変わる。予想できるように、アニメや漫画の業界の、絵に描いたように「オタク」っぽい人、見るまえから相当のことを知っていて、細部チェックのために見るといった雰囲気をむんむんただよわせているこれも「オタク」っぽい人。
◆不動明ことデビルマン(伊崎央登)の父が発見した謎の新生命体は、究極の物体・エイネルギーのはずだったが、それは、「デーモン」であった。それが人間と「合体」し、増殖する。科学が神秘の謎の蓋を開けてしまった報いというテーマと、その「悪」が人にとりつき、人類を滅ぼすというゾンビ映画的なプロット。語りつくされた話なので、新味をみつけることむずかしい。宣伝されている映像技法にしても、モーフィングやリアルタイム・アニメーションに毛のはえた技法で、驚かされるものがない。
◆「悪」の権化サタンこと飛鳥了(伊崎右典)と人間代表牧村美樹(酒井彩名)とその中間者がデビルマンという構図は単純すぎる。ただし、サタンとデビルマンを双子の伊崎兄弟にやらせたのはわるくない。なら、もっと近親相姦的、ゲイ的要素をからめて描いたらよかったのではないか? エロス的なものを代表する(何でも「代表」させるようなところがこの映画の単純さ)のがシレーヌ(冨永愛)らしいが、これも迫力不足。
◆日本で(特にアニメで)CGが使われるとき、世界や歴史のスケールがとてつも大きくなってしまうのはなぜだろうか? 個々の人間ではなく、「人類」、渋谷や新宿ではなく、宇宙のどこかの抽象的な都市、人間は地域やエスニシティとは無関係なアンドロイドライクな存在になってしまう。神や悪魔が出て来るが、それは、具体的な宗教と関係のない、これまた抽象的でアバウトなものになってしまう。
◆ただし、この作品では、「宇宙都市」ではなく、「いま」風の日本の都市、家庭、学校が舞台になり、そこを「デーモン」が襲う。学校でのイジメ、「あいつはデーモンだ」という噂で、孤立させられ、パニック化した「デーモン狩り」の群衆に襲われるといったありがちなプロットが出て来るが、新味がない。最初は一部の疑心暗鬼から、最後は世界を巻き込んだ戦争になるのだが、戦争はそんな単純なロジックで始まったり、広がったりするのではない。
◆原作者の永井豪が「神父」を演じている教会は、「神父」という呼び名や教会の雰囲気からすると、一応「カソリック」の教会のはずだが、そこを訪れるデビルマンと牧村美樹(酒井彩名)が祈ったあと、牧村が、「何をお願いした?」ときく。それは、まるで神社に行ったときの感じなのだ。彼らにとって、そこが「カソリックの教会」である必要はあったのか?
◆意図的だとしても、せりふがみなモノローグ調で、何かへたな棒読みのせりふをきいているような感じがする。
◆宇崎竜童、阿木耀子、小林幸子、ボブ・サップ、小倉一郎等々、多彩な出演者だが、あまり活かされてはいない。
◆「おれは殺してはいない、食っただけだ」というせりふが、ちょっとひらめかせた。「食う」と「殺す」とはどういう関係があるのか? アメリカ人のセックスやキスの仕方を見ていると、相手に食らいつくような感じがするが、セックスは、食べるということと関係がある。食べられてしまえば相手は死ぬしかないから、食べることは殺すことでもある。その意味で、セックスは、殺すことを延期する方法である。エロスとタナトスとカニバリスは連係しているのだ。
(スペースFS汐留)
2004-08-24_2
●ツイステッド (Twisted/2004/Philip Kaufman)(フィリップ・カウフマン)
◆『透光の樹』を見たあと、渋谷駅から六本木までバスに乗る。めったに乗らないので渋滞の度合いを心配したが、難なく到着。エレベータに乗ったら、先に乗っていたご老人が連れのご夫人を蹴っとばしかねない勢いでどなり、驚く。その人、試写室でもずっとその女性を「いじめて」いた。
◆結末を隠しておいて、そこへいたるプロセスや謎解きを楽しませる(だから、最後に「なるほどねぇ」という意識を持つ)ヒッチコック流のスタイルを取りながら、まったく似て異なる作品。その謎は解くための謎ではなくて、単なるおもわせぶり。ただ隠しているだけだから、説得力に欠ける。
◆アシュレイ・ジャドがどのような高度な演技を見せるか期待したが、この脚本と演出では浮いてしまった。殺人課で男と互角にタフな捜査官で、仕事が終ると、バーに寄って強い酒をあおり、男をひっかけ、セックスするという役はジャドには向かない。これは、さしずめ『モンスター』のシャリーズ・セロン向きの役だ。
◆ジャドが演ると非常に無理をしている感じになる。殺人課の同僚捜査官にアンディ・ガルシア、市警本部長役にサミュエル・L・ジャクソンという大物俳優を登場させても、このドラマ仕立てだと、犯人をこれだと思わせておいて、次々にはずしていくためのコマにすぎなくなってしまうのである。だから、警察所属の精神科医の役を手堅く演じるデイヴィッド・ストラザーンとか、検死係の女性リサを演じたカムリン・マンハイムのような役者の演技が光ってしまう。まあ、その意味では、この映画は脇役やディテールを楽しむしかない。
◆冒頭、ジャドの首にナイフが突きつけられ、少し血が出ているが、いきなりその変態男を投げ倒し、銃をつきつけ、手錠をはめてしまうシーンは、ジャドらしくはないとしても、彼女のセクシーな演技が光る。しかし、あとは、どんなにハードな行為をしても、化粧がみだれない彼女の顔は、あまりにリアリティがない。が、ここから、すべてが彼女の幻想だったと裏読みさせるような作りも出来たはずだが、そういう屈折はない。
(アスミック・エース試写室)
2004-08-24_1
●透光の樹 (Tokonoki/2004/Negishi Kichitaro)(根岸吉太郎)
◆いつも薄暗いこの試写室の照明がなぜか明るくなった。この日だけかもしれない。お客は6割り程度。高樹しのぶによる谷崎潤一郎賞を受賞した作品の映画化のせいか、文芸関係の人の顔がちらほら。最近めったに試写会では姿を見ない川本三郎氏も来ていた。
◆日野皓正の音楽が全然よくない。思い出やムーディなシーンになると必ずミュート奏法を使うので、こっけいな感じがしてしまう。
◆映画でも小説でも、偶然の出会いというものを物語の発端にすることが多い。むろん、そういうことは現実に起こるし、事実わたしも、確率計算では非常に低い出会いを電車のなかや街で体験する。ただし、そういう出会いほど、映画や小説が描くような発展をしないものはない。偶然の出会いがドラマティックに発展するのは、そのチャンスを利用する意識が働くからであって、むしろ先に目的があり、偶然のチャンスが、その展開のために利用されるのである。小倉千加子だったかが、レイプというには、偶然の出来事ではなくて、周到な計算と計画の産物だというようなことを言っていた。レイプにかぎらず、偶然の出会いから発展する恋愛も事業も、そうだと思う。映画は、きわめて周到な計画にもとづく作業だから、その発端ぐらいは、偶然にまかせないと、全体がそらぞらしいものになってしまう。出会って当然のような出会い、確率としてかなり高い出会いなら、それを出発点にしても、無理はない。
◆東京赤坂で映像関係の会社をやっている今井郷(長島敏行)は、刀鍛冶の映像の仕事で金沢の鶴来へ出張するが、そこで「偶然」、自分が25年前に思いをよせていた女性の山崎千桐(秋吉久美子)に出会う。昔、この町にある大きな杉の樹に腰を降ろしている彼女の写真を撮ったことをロマンティックに覚えている彼が、同じ町に来るのに、彼女のことを忘れるということがあるだろうか? 小説でこの部分をどう描いているかどうかはわかなないが、小説なら、この部分を、読者の読み方次第で、彼がかなり再会の期待を持ってこの地を訪れたと解釈することも可能である。しかし、映画は、それがあたかも全くの偶然であるかのようにこのシーンを描く。
◆千桐は、寝たきりの老父(高橋昌也が力演している)の介護をしながら、巨額の借金に苦しんでいる。2人の出会いから、今井がその借金の返済を手伝うというように話が進むが、このドラマの売りは、彼女が、「わたし、郷さんの娼婦になるって決めていたんです」と言い、今井の方も、ある意味で彼女を「買う」という形で関係が続いて行くところだろう。ともに愛しあっており、金は問題ではない。しかし、型としてそういう形式を踏むというスタイル。それは、当然、会ってセックスをするということが中心になる。そんなもってまわったやりかたはしないで、どんどんやれがいいじゃないかというのは、「金沢」という設定や秋吉が見事に演じている「古風な女」の存在を否定することになる。
◆しかし、そういうやり方をするのなら、もっともっと格調高く撮らないとだめなのではないか? 音楽も、基本的に「職人」であって、インテリジェンスのとぼしい日野皓正なんかじゃない方がよかった。秋吉は、かなりがんばっていると思うが、男は、永島敏行のような脂ぎった感じの男では面白みがない。事実、彼が不治の病にかかり、会社を部下たちにまかせなければならないというくだりが出て来るのだが、そういうシーンでの彼と部下とのやりとりが妙にリアルに浮き上がってくる。永島を使えば仕方がないだろう。濡れ場も、彼がやれば、『遠雷』のトマト畑でのセックスみたいになってしまう。
◆千桐は、どちらかというと古風な女である。夫は女を作って家を出、娘と老父といっしょにくらしている。郷は、会社の仕事に追われ、家族と会う時間もない。外人クラブで女と遊んだり、仕事で女を紹介されて寝るようなことはある。つまり、女は、フィジカルな「愛」とは縁が薄く、男は、ひたむきな「愛」とは縁がない。そういう女と男が、女の借金の返済を契機として結ばれ、激しい「愛」をくりひろげるわけだが、その「金」は、このドラマをブートさせるためのヴァーチャルな条件であるにすぎない。
◆駅のホームでの別れのシーンは、映画史上いくらでもあるが、この映画の最後の方のシーンは、秋吉の力演でなかなかいい。
(シネカノン試写室)
2004-08-23_2
●五線譜のラブレター (De-Lovely/2004/Irwin Winkler)(アーウイン・ウィンクラー)
◆席でプレスを読んでいたら、いきなり「サムシング・ドリンク?」という声がしたので、見ると、日本人らしい女性が外国人らしい白人にコーラーを渡している。もう買っちゃってから「何か飲む?」もないものだが、この響きのいい英語の発音のあとは、英語まじりの日本語になってしまった。スクリーンには、非常口の位置と「会場内で飲食はご遠慮ください」というスチルが映っていたんだけどな。
◆コール・ポーター(ケビン・クライン)の伝記的なドラマだが、ちょっと甘ったれているという印象が拭えない。晩年になって、最愛の人リンダ・ポーター(アシュレイ・ジャド)にも死なれ、窓からエンパイアステイトビルが見えるマンハッタンのアパートメントで一人淋しく車椅子でピアノに向かう老コール・ポーター(こったメイキャップをしたケビン・クラインの2役)のまえに、『ファウスト』のメフィストフェレスのように一人の演出家ゲイブ(ジョナサン・プライス)があらわれ、彼を過去の栄光の世界に連れていくという構成だから、ノスタルジーと甘えはしかたがないかもしれないとしても。
◆しかし、こういう映画になると、アシュレイ・ジャドはうまい。1918年、ポーターとパリで初めて会うシーンで、タバコに火をつけてもらって、ぱっと頭をもどすシーンなど最高。愛し始めたら、実はぼくゲイなんだと告白されるが、もう男には飽きたからと言って結婚してしまう香り高く、かつ行動的でもある女リンダを見事に演じている。彼女は、彼をパリの社交界に導き入れる。彼女がいなければ、その後の彼はなかった。彼は、すでに『シー・アメリカ・ファースト』というブロードウエイの舞台を手がけているが、それは酷評され、パリに逃げて来たのだった。
◆ミュージカル仕立てのこの映画は、ポーターがかかわったブロードウェイのいくつかの名舞台を再現している。ポーター自身がジャズにおいてもミュージカルにおいても一つの歴史を作ったわけだが、「歴史学習」の好きな監督ウィンクラーは、ポール・コーターにからめてブロードウエイの輝ける時代を「学習」させてくれる。また、彼の数々のヒット曲が、リンダとの関係、彼が直面した状況との関係で「教育的」に配列されている。
◆ジャズヴォーカルが好きなわたしとしては、コール・ポーターにはなじみが深い。その意味で、映画のなかでケビン・クライン自身が歌うポータのスタンダード・ナンバーは、やはり、心もとない。アシュレイ・ジャドは、姉のウィナノが有名なカントリーシンガーなので、自分で歌うことにかなり抵抗したらしいが、監督にくどかれて歌っている。
◆むろん、クラインやジャドだけではもたないので、「レッツ・ミス・ベヘイブ」のシーンではエルヴィス・コステロ、「エヴリ・タイム・ウィ・セイ・グッバイ」ではナタリー・コール、「ビギン・ザ・ビギン」ではシェリル・クロウ、「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングズ」ではダイアナ・クラールを起用するといった具合に、鎗々たるミュージッシャンが出演している。が、コステロにしても、クラールにしても、芸達者な歌い手だから、これだけのチョイ役ではかわいそうな気もした。
◆1910~20年代のパリを経験し、そこで金持ちの美しい女と結婚し、社交界に出入りし、ヴェネチアで新婚生活をして、やがてMGMに迎えられて(アービン・バーリンの世話)ハリウッドとブロードウェイのセレブリティになるコール・ポーターにも、深い悩みや苦しみがあった。1937年、彼は、落馬事故で両足を骨折し、車椅子の生活になる。リンダの主張で脚を切るのをやめ、以後、さまざまな治療を試みるが、男友達とのつきあいはできなくなる。当然、仕事にも浮き沈みがあり、リンダの叱咤激励で立ち直る。だから、リンダが1954年肺気腫で死ぬと、彼は、リンダが固執した脚をまるでリンダの思い出を立ち切るかのように切断してしまう。しかし、彼女の思い出は、脚を失っても、痛みだけが残る「幻影肢」のように、消えることはなかった。
◆リンダがコールと結婚するとき、彼女は、「ラブ」よりも「インティマシー」を大切にするというようなことを言う。セックスの関係はないが、いっしょのベットで寝て、ときどき肌を寄せあったりする。おそらく、インティマシーのほうがラブより高級なのだろう。しかし、友人の家庭を見るにつけ、リンダを思いやり、子供を作ろうとする。しかし、それは、流産という憂き目を見る。華やかな彼らの人生も屈折していたのだ。
◆1910年代末から1920年代のパリといえば、ものの本(たとえば渡辺淳『カフェ』(丸善ライブラリー)によると、ユロリト、ピカソ、スーチン、モディリアーニ、レジェ、ブラック、藤田嗣治、ジャコメッティ、アポリネール、コクトー、ラディゲ、さらには亡命中のレーニン、トロツキーなんかがモンパルナスをのカフェを中心にたむろしていたというからすごい時代だ。ポーターとリンダは、ガルトルード・スタイン、スコット・フィッツジェラルド、ヘミングウェイなどの「ロスト・ジェネレーション」のアメリカ人のことも知っていたはずだ。ポーターの同性愛の恋人としてバレーダンサーの若者が出て来るが、セルジュ・ドゥ・ディアギレフのロシア・バレエ団の何度か目の公演があったし、バレエの公演はさかんだった。このへんの描き方は、この映画では、かなりセット風である。ヴェネチアのシーンも作りものめいている。が、このあたりに深入りしたら大変だろう。
◆この映画でもはっきりと描かれているように、ポーターには「道化になること」(「ビー・ア・クラウン」)という生き方の知恵があった。さもなければ、あんなに沢山の甘ったるい曲を生産しつづけることはできなかったろうし、ハリウッドの「バカ者」たちとつきあうこともできなかったろう。それは、彼がその才能を生き延びさせる戦術でもあった。
◆映画のなかで映される『夜も昼も』 (Night and Day/1946/Michael Curtiz)は、ポーターがイエール大学時代からの半生の伝記である。作られて時代と、当時のポータの著名度からハッピーなドラマになっているが、ちょっと見直してみたい気になった。
(スペースFS汐留)
2004-08-23_1
●隠し剣 鬼の爪 (Kakushiken Oninotusume/2004/Yamada Yoji)(山田洋次)
◆なぜか渡辺えり子風のしゃべり方の「おばさん」が何人もいる。松竹というのは、ファンクラブのような人を試写に呼ぶらしい。というより、松竹系のファインクラブの人たちは、ちゃんとターゲットにしている映画も見るということか?
◆山田洋次好みの過渡期もの。現代との写し絵的な構造も山田流。テレビ乗りしそうな俳優たちを使いながら、映画の味を出してはいるが、藤沢周平ものの先駆けとなった『たそがれ清兵衛』とくらべると、ややありがちなパターン(これが山田洋次映画の基本だとしても)に流れる。それならば、現代への未練を立ち切って、時代劇の様式に徹底した方がよいのではないか?
◆現代への山田流アナロジーは、今回は、すこしずれている。末期症状を呈しはじめている体制への謀反を起こし逮捕される狭間弥一郎(小澤征悦)のような存在はいつの時代にもあるし、その処理をめぐる藩のことなかれ主義は日本では毎度のことである。西洋の砲術を導入しようと、江戸から教師を招き、藩の武士を特訓するシーンは、新しいものは何でも輸入品という日本の「近代化」のパターンが揶揄的に表現されているにすぎない。
◆ただし、最初、まっすぐ行進できなかった藩士たちが、最後の方のシーンでは、号令一下「近代式」の隊列行進を様がえがかれるのだが、このあたりには、わずかに、山田洋次の現代(自衛隊が海外派兵した今日)への(いささか「日共」的な)批判が感じられる。
◆その体に松本幸四郎の歌舞伎的素養が染みついている松たか子は、しっかりした演技をしているが、その彼女が、「うれしい」を「ウレセェ」と現代流に発音している。もっとも、これは、「シ」が「ス」になまる東北弁だから? ただし、全体としてこの映画の出演者の東北弁は、ダニエル・カールの「山形弁」風に聞こえる。映画のニワカ勉強だから仕方ないか。とはいえ、大急ぎで断っておくが、山形弁を明確に分節して理解しているダニエル・カール(『ダニエル先生ヤマガタ体験記』集英社文庫参照)を馬鹿にしているわけではない。出演者の「東北弁」が非東北人にもわかりやすすぎる感じがすると言いたいのだ。
◆『たそがれ清兵衛』ですごみのある演技をした田中゚。は、2本目としては大したものだとしても、まえほどの新鮮さがない。立ち回りは見事であるが、永瀬と小澤の剣の師匠・戸田寛斎という役を演じる年令のわりに声につやがりすぎる。
◆家老の緒方拳、大目付の小林稔侍、永瀬の本家の家長役の田中邦衛などは、特にどうということもない演技だが、松たか子が嫁いだ先の非常なおかみを演じる光本幸子は、さすが「時代劇」の悪役の基本を見事に演じている。小澤の妻を演じ、緒方に命乞いをする哀れな妻を演じる高島礼子は、なかなか幽艶な感じを出していたが、ちょっともったいない役だった。
◆山田は古いタイプの映画人だからしかたがないのだが、せりふまわしが、一人しゃべり、次がしゃべるという型、しかし、そのしゃべりは、本当は誰にも向かっていないというモノローグ的なしゃべりであるといったところがある。
◆まず貧しいながらも「平和」な家庭がある。永瀬正敏演じる藩士は、藩ではうだつがあがらない方だが、家に帰ると、母(倍賞千恵子)、妹(田畑智子)、老祖母、先代のときに奉公に来た松たか子と、少し知恵の遅れたじいやがいる。友人の吉岡秀隆が尋ねて来てささやかながらも楽しい食事がはじまる。それから3年の月日がたち、状況が変わる。永瀬と同じ門下にいた小澤征悦が逮捕される。妹は吉岡のもとに嫁ぎ、幸せに暮らしているが、商家に嫁いだ松たか子は姑にこき使われ、病の床にふせている。
◆ほんの50、60年まえでも、日本には、「飼い殺し」という言葉が生きていた。わたしが小学校のころ、自転車(小学生が自転車で学校に通うというのはあまり例がなかった)で豊島川沿いの日産化学のまえを通ったが、その塀の奥には、所内で病気になった職員を入れる病院がった。なにせこの工場の煙突からは黄色い煙がもくもくとあがり、自転車で走る道路にも霧のようなものがたちこめていて、息を深く吸うと苦しくなってしまうのだった。当時、この病院は、「飼い殺し」の場所と言われていた。だから、江戸末期の東北地方で、松たか子のようなあつかわれ方をした女性がいても不思議ではない。
◆とすると、そういう被害者を救い出すということは「人道的」なことだろうか? 永瀬は、松たか子の境遇を知ると、その商家におもむき、彼女を自分の家に連れもどす。これは、いまならあたりまえだが、当時はありえない。むろん、時代劇は、「もとあったとおり」に描く必要はないし、映画表現には制限はない。しかし、このシーンを見ていて、わたしは、ふと、「人権」や「民主化」を大義名分にしてイラクを侵略したアメリカのロジックを思い出した。
◆ある社会、ある時代というものは、一つの完結したエンティティであって、そのなかにはそれ自体のロジックがある。だから、事態はそのロジックのなかで見ていかなければならないのであって、別の時代のロジックを持ち込むと嘘っぽくなってしまう。イラクは同じ時間と相互にからみあった空間を生きているわけだから、イラク「独自」ということは出来ないから、サダム・フセインの(西側から言うところの)「暴政」がイラク独自のものであって、肯定されるべきだとは言えない。しかし、江戸時代に行われたことをいまの目で「非情」というのはあたらないかもしれない。
◆だから、わたしは、時代劇というのは、それがあつかう時代の特定のロジックを発見・創造しなければならないのだと思う。その点でこの映画はどうかと言うと、それはあまりないと言わざると得ない。
(松竹試写室)
2004-08-19
●キャット・ウーマン (Catwoman/2004/Pitof)(ピトフ)
◆ご常連の姿が多い。けっこう気を惹く短い予告編を大分まえから見せられていたので、わたしも来てしまった。結果は、主役のハル・ベリーが意外とアウラ不足なのと、『スパイダーマン2』のような空中移動の新しい表現が出てしまうと、キャットウーマンの動きはお粗末。それと、せっかくのシャロン・ストーンを出しながら、設定に無理があるために活かせなかった。
◆広告会社のしがないデザイナーであるペイシェス(ハル・ベリー)が、巨大化粧品会社ヘデアに原稿を届ける最中にその秘密を覗いてしまい、追われるという設定。一方、彼女にはある日猫の使いがあらわれ、猫への変身能力が身につく。ヘデアは、ジョージ・ヘデア(ランバート・ウィルソン)と元トップモデルだったローレン・ヘデア(シャロン・ストーン)が経営しているが、ローレンは、若い有名モデルに熱を上げている夫をよくは思っていないが、秘密の企画に関しては慣れあっている。他方、悪党がやられるのだが、その現場で「猫女」を見たという噂に刑事のトム(ベンジャミン・ブラット)が捜査を始める。
◆この映画で一番面白いと思ったのは、「エルム街647番地」に住む猫研究家の老婦人(フランシス・コンロイ)。彼女の家には多数の猫がおり、部屋のなかには、映画の冒頭で紹介されるエジプトの壁画のなかの猫の図版やオブジェがいっぱいある。しかし、この女性に照明があたるのは、このシーンだけである。
◆ベンジャミン・ブラットは、『ピニェロ』で抜群の演技を見せるが、この映画のキャラクターは、『2番目に幸せなこと』(The Next Best Thing/2000/John Schelsinger)でマドンナの近づく「平凡」な男に近く、あまり活かされているとは言えない。シャロン・ストーンほど気の毒ではないが、彼を出すのなら、もっとほかの使い方があっただどうし、この役なら他の俳優の方がよかった。
(丸の内プラゼール)
2004-08-13
●アイ,ロボット (I, Robot/2004/Alex Proyas)(アレックス・プロヤス)
◆地下鉄六本木1丁目駅を降りて太陽がギラギラ照りつける路上に出ると、お盆休みに突入したのか、あたりは軒並み閉店。お客も夏枯れかとおもいきや、すぐに満員になり、補助椅子が出た。ロボットやコンピュータが人間のコントロールをはずれてしまうというよくあるテーマにもとづいているが、みどころはかなりある。ウィル・スミスはあいかわらず、しなやかで多才。
◆エンド・クレジットにSONYの名前が出ていたが、この映画に登場するロボットは、たしかにSONYのQRIOに似ている。ロボットは、すでに分散された形ではわれわれの日常のいたるところに存在する(シンプルなところでは目覚まし時計、さまざまな機器のオートマティックなコントロールシステム、自動販売機等々)が、近い将来、「人型」のロボットが量産され、この映画の世界のように掃除をしたり、さまざまな肉体労働に従事するようななるはずだ。しかし、その点では、いまの時点で一番作りやすいのはセックスロボットだと思うが、そういうものを作ろうという計画がおおぴらになったことはないし、そういうものを集めて、アンドロイド売春を始めたという者の話もない。この問題はタブなのか?
◆人間に危害を加えないないようにプログラムされているはずのロボットが、ロボット工学の権威にして、「ロボット三原則」の生みの親でもあるラニング博士(ジェームズ・クロムウェル)を殺したらしいという疑惑が、この映画が基本テーマである。博士の友人でもあるデル・スプーナー(ウィル・スミス)が、博士から連絡を受けて研究所に行くと、彼は、窓を破って、階下のロビーで死んでいた。が、その窓は人力では壊せない。ある事件でロボット嫌いになっているデルは、すぐさまロボットを疑い、博士の研究室に潜んでいたサニー(発音は「サニー」だが綴りはSONNYでSONYとの関係を思わせる)を逮捕する。
◆「ロボット三原則」によると、ロボットは、(1)「人間に危害を加えてはならない」。(2)「人間から与えられた命令に服従しなければならない」。(3)「前掲第1および2条に反するおそれのない限り、自己を守らなければならない」という。ロボットのプログラムは完璧であり、研究所の者も、警察の同僚・上司も、あれは、博士の自殺だとデルを説得する。が、疑わしいロボットは、解体されることになっているので、サニーの身があぶなくなる。
◆『アップルシード 』でもそうだったが、2035年と設定されているこの映画の世界でも、「V.I.K.I.」というコンピュータが世界の「良心」になっている。これがイエスといえば、すべては正しい。すべてはプログラムされつくされているわけだ。車は、自分で運転する必要はなく、すべて自動制御で動く。だから、デルのようにバイクを手動で運転するなどということは野蛮なことであり、時代遅れなのである。むろん、この姿勢の方が「自然」であることは、あきらかで、「V.I.K.I.」のような存在は最後に否定される。しかし、現実問題として、コンピュータのテクノロジーは、1が全を支配するようなシステムを生み出すことはない。もし、コンピュータの発達の先にある危険といえば、それは、カオス的な、中央コントロールできなくなるという可能性を恐れる者が、先取的にこういう超中央集権的なシステムを構築することなのだ。
◆最初の方のシーンで、アパートで目覚めたデルが、シャワーを浴びながら「JVC」のマークのついたCDプレイヤーで音楽を聴く。後半に、彼と知り合うスーザン・カルヴィン博士(ブリジット・モイナハン)が、ここに来て、このプレイヤーを音声コマンドで動かそうとするが、全然反応しないので、「なんだ、古いのね」というシーンがある。最初は気づかなかったが、このプレイヤーは現代の製品で、2035年には「骨董品」なのだ。デルは、これ以外にも、「古いもの」にこだわっており、街で手に入れた「コンバース・オール・スター」というマークのあるスニーカーを「2004年ものだぜ」と大事そうに履く。2035年には、スニーカーなどを履いている者はマイナーなのだという時代認識。
◆デルの上司(chジー・マクブライド)は、ロボットが殺人を犯した可能性が増えていくにつれて、頭が混乱し、「人間が人間を殺した時代がなつかしいよ」とぼやく。
◆思うに、「人型」のロボットが普及するにつれて、今日タブーとされ、克服されるべきと考えられている(本当は考えているふりをしているだけかもしれないが)差別や偏見は、一挙に肯定され、差別意識や偏見の度合いはエスカレートするのではないだろうか? いま、わたしは、コンピュータを動かしながら、処理動作が遅いときなどに、「トロイよなあ、こいつ」などという呪詛の言葉を投げつける。それは、相手がコンピュータであるかぎり許される。それには「人格」や「人権」がないと考えれれているからである。しかし、品性がいやしくない人は、コンピュータに対してもこういう言い方はしないだろう。こういう言葉をコンピュータに対して言っているわたしは、口に出さなくても、何かのときに相手をそういう意識で見ているのに違いがないからだ。
◆この映画は、ロボットに偏見を持っているデルが、サニーというロボットと出会って、次第に連帯していく側面もあるが、それが主題ではない。エンターテイメント性を配慮して、あるいは製作者の思考の限度からか、この問題は、そこそこで済まされ、あとはアクションが全面に出て来る。
(20世紀フォックス試写室)
2004-08-12
●華氏911 (Fahrenheit 9/11/2004/Michael Moore)(マイケル・ムーア)
◆会場についたら、階段にかなりの人が腰を下ろしていた。これは、けっこうこの場所ではめずらしい。ということは、いつもとは「客層」がちがうということ。そういえば、なぜか、テレビの2、3番をやっているアナウンサーとかパーソナリティの顔、テレビ屋風、編集者風の人が目につく。わたしは、腰を下ろしたくないので立ったまま本を読むことにした。しばらくして後ろを見ると、わたしから後ろはみな立っていて、座っている人がいないのだった。そうか、日本は、付和雷同する傾向が強いのだ。なら、マイケル・ムーアのように誰か1人が決断して新しいことをやれば、日本は変わるよ。
◆カンヌ国際映画祭でこの映画を見た(らっしい)ジャン=リュック・ゴダールが、「ムーアが考えているほどブッシュはバカではない」と言ったそうだが、文脈がわからないので、それがゴダールの真意かどうかわからないが、少なくとも、この映画は、ブッシュはバカだと言っているわけではない。典型的なパロディ映画の手法を使ってブッシュをとりあげているのであり、こうした手法は、アメリカのインディペンデントの映像メディア(たとえば、ペーパー・タイガー・テレビジョンとかインディ・メディアなど)では定石的な手法である。実際、湾岸戦争の勃発が予想された1990年にペーパータイガーとディープディッシュTVは、湾岸戦争反対のシリーズビデオを作った。わたしは、その一部をコピーして日本で流し、ちょとした「ブーム」になった。民衆のメディア連絡会も、このビデオがきっかけで立ち上がった。このシリーズビデオには、『華氏911』と似たようなスタイルと批判的トーンの映像がたくさん発見できる。
◆その意味で、わたしには、この映画は、それほど新鮮ではなかった。しかし、このようなスタイルと低予算の作品が、アメリカで最近までハリウッドのメイジャー作品と互角のベスト10入りしていたのは驚きだし、これによって映像に対するアメリカの観客の意識が多少は変わったと言えるのではないか? あるいは、「評判ほどじゃないな。映像も安いし」とこの手の作品はもうたくさんという気を起こさせたかもしれないが、とはいえ、なんらかの強いインパクトをあたえたはずだ。多くの映像が、テレビや既存の映画やドキュメンタリーから取られているので、あるひとたちには、「これならおれもDVビデオで作れるな」とかいったDIY精神をよびおこすだろう。
◆既存の映像で作られている部分は、イントロダクションと見ればよい。この映画の白眉は、戦争が、結局、貧困対策であり、他の手段でやるべきことを戦争経済でインスタントに解決し、その結果、民衆(しかも、入隊するしか食べていく手段がない若者たち)を犠牲にし、その家族、その町に何代にもわたって悲しい記憶を残させ、しかも、その一方で一握りの特権階級が財をなす――という戦争と戦争経済の矛盾をえぐり出したことだろう。
◆アフリカン・アメリカンをはじめとする貧しい少数民族にとって、入隊することは、高等教育や技術を身につけ、かつ報酬が得られるという点で、(召集さえなければ)おいしいチャンスである。イラク戦争が始まり、戦況が膠着するなかで、軍は、そうした貧しい町をターゲットに、リクルート作戦を展開した。映画でも、その様が密着取材されているが、リクルートされた黒人が言ったように、それは、「まるで会社の勧誘のよう」なのだ。「おれは音楽をやりたいから」としぶる若者に、ポピュラー歌手の名をあげ、そいつも軍隊出身だと説得する。
◆大きな戦争があると、アメリカの経済的チャンスに乏しい州の小町から多くの若者が戦争に動員され、戦死する。犠牲になるのは、ニューヨーク州やワシントン州の若者ではない。日本の新聞には決して載らないような町の若者だ。このパターンは、『マジェスティック』でも描かれていた。
◆ムーアの映画には、前作の『ボウリング・フォー・コロンバイン』でも銃を売っているスーパーマーケットに働きかけて、銃を売らなくさせるプロセスを撮ったシーンがあったが、これは、先述のインディペンデント系の映像メディアが先駆けた「ビデオ・アクティヴィズム」の技法である。今回は、ホワイトハウス前で、連邦議員を捕まえ、「あなたの息子さんを軍隊に入れませんか?」というパフォーマンスを演る実写シーンがあるが、これはその二番煎じである。しかし、フリントに住み、代々国家に貢献し、息子を戦争に出したライラという女性に密着し、彼女の意識が次第に変わってくるプロセスを撮っているのは、この映画の最も感動的な部分だろう。彼女は、もともとは、星条旗を毎日掲げ、その際、国旗が地面に触れないように気を使うという程の愛国者だった。しかし、その彼女が、ホワイトハウスのまえで、「ブッシュにだまされた」と言って泣く。
◆むろん、ブッシュの「だまし」の背景は、奥深い。ブッシュだけが元凶ではないし、それは、今年の選挙でケリーが大統領になったとしても、変わらないくらい奥深い。いまの中流以上の階級がいまの生活を維持したいと願うかぎり、決して変わらないかもしれないような構造のなかで魔がさしたように、そして魔がさしたかのようにそのチャンスを利用する真正の悪党の存在はなくなることはない。
◆途中まで書いた本欄を読んでくれた新書館の松下昌弘氏が、レイ・ブラッドベリの小説『華氏451』(1953)にも触れてほしいというメールをくださったが、40年ぐらいまえに読み、細部を忘れてしまったので、いまはできない。その映画化でもあるトリュフォオーの『華氏451』(Fahrenheit 451/1966/Francois Trufaut)と比較するのも面白いだろう。「華氏451」というのは、紙が燃えつきる温度のことだそうだが、これにひっかけて、ムーアは、「自由が燃えつきる温度」という意味でこのタイトルをつけた。『華氏451』の焚書は、直接的にはナチスがやった焚書を想起させるが、歴史的には秦の始皇帝が大規模な焚書をやったことがよく知られている。ただ、ブラッドベリの場合、テレビのような新しいメディアの登場のまえで本がどうなるかというメディア論的な意識がこの小説を書くときにあったと思う。
◆この映画の最初のほうに、イラク侵略に関しては最も率先的であった国防副長官のポール・ウォルフォウィッツが、(おそらく)大手のテレビカメラのまえで、本番まえに髪をなでつけているシーンがある。ところが、この御仁、手に唾をつけて髪をなでるだけでなく、クシを口にすっぽり入れてしっかりと唾を含ませ、それを自分の頭に持っていくのだ。これは、凄い。なりふりかまわないとはこういうことを言うのだろう。ブッシュ政権には、なりふりかまわぬ人物がたくさんいるが、こういうことを人前で平気でやる神経の持ち主はウォルフォウィッツが最高ではないか?
◆ペーパータイガーとディープディッシュの創立者の一人である友人のディーディー・ハレックから、『ショッキング・アンド・オウフル』(Shocking and Awful)というDVD がとどいた。題名は、邦訳すれば、「うわぁ、ひでぇなぁ」と言った意味だと思うが、100人以上のアクティヴィストやアーティストが撮ったビデオクリップを編集したイラク戦争反対のビデオ作品である。ここには、ムーアのこの映画のスタイルの原型がいたるところに見いだせる。ディープディシュから直接手に入れることができるが、困難なら、わたしにメールで相談してください。
◆その後、『週刊金曜日』(2004年9月3日号、No. 522)にこの作品の映画評を書いた。重複している部分もあるが、機会があったらご一読ください。
(よみうりホール)
2004-08-10
●マイ・ボディガード (Man on Fire/2004/Tony Scott)(トニー・スコット)
◆自分の仕事場のLANを高速にするため、ビルのパイプに数十メートルのケーブルを通す作業を朝までやっていた。何でも自分でやるのです。完全な肉体労働。最後のところでワイヤーがスタックし、大汗。午前10時に寝て、午後3時に起き、メールを見たら、夕方の6時までに原稿を入れてほしいという。さぼっていた新聞の書評原稿。食事も早々にキーボードに向かう。1時間で仕上げ、送信。こういうのは好きです。出来も悪くないと思う。昔、シメキリを大幅に過ぎ、印刷所で原稿を書いたのがなつかしい。このごろはこういうのは「X」らしい。いざ試写にと思って立ち上がりかけたら、FAXで棒ゲラがとどく。オイオイ、臨機応変はいいけど、もう直すところなんかないよ。が、末尾に気にいらないところがあり、直す。そんなわけで、劇場についたら開場時間をすぎていた。しかし、夏休み期間中なのか、難なく席が見つかる。ふ~う。
◆イントロで暗示されるように、「職人」トニー・スコットの腕のさえを見せた秀作。街を映すときは手持ちカメラのレゾルーションを落とした映像(『シティ・オブ・ゴッド 』に少し似ている)を使ったり、適度に「社会性」(貧民街の描きかたなどうまい)をあしらいながら、そこに深入りするのではなく、ドラマの書き割りに使う。しかし、それを観客が深読みすることもさまたげない。
◆デンゼル・ワシントンは、「正義派」をやると、鼻につくが、『トレーニングデイ』でもそうだったように、屈折のある、どちらかというと「悪」の人間を演じると活きる。彼が演じるジョン・クリシーは、元アメリカ軍の対テロ部隊で多くの「テロリスト」を殺してきた。一方で非常に信仰深い人間で、聖書の各章は頭に入っている。だから、彼は、昔の仲間でいまはメキシコで護衛の仕事をしているレイバーン(クリストファー・ウォーケン)と会ったとき、ふと、「神はわれわれを許してくれるだろうか?」とつぶやく。その「罪」を忘れるためのように、しょっちゅう酒をあおっている。そういう彼が、レイバーンのすすめで、メキシコの実業家サムエル・ラモス(マーク・アンソニー)、彼の妻リサ(ラダ・ミッチエル)、娘ピタ(ダコタ・ファイニング)
(丸の内ピカデリー1)の家にやとわれ、ピタのボディガードを引き受ける。メキシコシティでは、誘拐が頻発しており、裕福な階級はボディガードなしに子供を外に出せないという設定。
◆最初から対テロ部隊でさんざん人を殺してきたという設定だから、ピタが誘拐されたとなったとき、水を得た魚のようになって武器を調達し、敵地に乗り込み、ばったばったと相手を惨殺していくのを描くのに、手心はいらない。どうせ、それだけやったのだから、そのままハッピーエンドで終ればいいのだが、そうはならないところが、ハリウッド映画の「良心」といういやらしい儀式。しかし、この映画、社会性や具体性を意識しながらも、ヤクザ映画や西部劇にも通じる様式化もなされており、スタイル的に悪くない。
◆ひとつの線は、孤独で人を信じることができないジョンと、金持ちの娘であるがゆえに、外には自由に出られないピタとの友情/愛情。性愛をこえた(といって少しはあるか)関係がうまく描かれる。それは、むろん、彼女が誘拐されたときのジョンの激怒の布石ではあるが。予想できるように、ダコタ・ファイニングは、『アイアム・サム』や『コール』で見せた大人顔負けの演技している。こういう子は、大きくなるとジョディ・フォスターのようになるのだろうか? しかし、それまでには、ドリュー・バリモアのように、いろいろ屈折があるだろう。
◆クリストファー・ウォーケンが出ているので、後半でワシントンを助けて猛烈「怖い」老人を演じるのかと思ったら、ほとんど何もしなかった。プレスによると、監督は、ミッキー・ロークが演じている「悪徳弁護士」の役をウォーケンに向けたが、「もう悪い奴を演るのはうんざりだ」と言って、断り、この役になったという。おいおい、ウォーケン君、あなたが演じる「善人」なんか見たくないぜぇ。ところでミッキー・ロークも、あまりはっきりした役をあたえられていない。というより、最近のロークはどうしたんだ? 全然いい仕事をしていないじゃないか。
◆NAFTA(北米自由貿易協定)以後、メキシコには、日本の電子産業をはじめとする多国籍企業が進出するが、そのなかで、この映画の家族のように誘拐や脅しを恐れる階層の幅も拡がった。この映画では、誘拐がビジネスになり、警察もそれに一枚かんでいる。ジャンカルロ・ジャンニーニが演じる連邦捜査官は、ジャーナリストのマリアナ(レイチェル・ティコティン)と組んで警察の闇にメスをいれようとする。
◆はたしてジャンニーニのような大物俳優を出す必要があったか? 彼は個性が強いので、ついつい彼がまえにやった役を思い出してしまう。『ハンニバル』では、やはり似たような捜査官を演じていたので、今度もまた「警察」ギャングかあるいはジョンによってあえない最後(あの映画ではほんとうに「あえない最後」でした)をとげるのかと思ったら、そうでもなかった。しかし、マリアナにしじゅう迫り、情報と交換に寝たりするところが、役柄のメキシコ人というよりも、ジャンニーン自身がそうである「イタリア人」(むろんステレオタイプとしての)を思い起こさせ、混乱する。ここでも、有名役者を出したが、使い方がもったいない。
◆レイチェル・ディコティンは、そういえば、『アパッチ砦・ブロンクス』(Fort Apache The Bronx/1981/Daniel Petrie)で、ポール・ニューマンの恋人役をやったのが、印象に残っている。売人の陰謀にかかって、薬中にされ、ブロンクスの路上をふらふらと歩いている演技がなかなかだった。
(丸の内ピカデリー)
2004-08-11
●釣りバカ日誌15 ハマちゃんに明日はない!?(Tsuribaka-nisshi 15/2004/Asahara Yuzo)(朝原雄三)
◆おおもとのtku_netがシステム大改革ののため、昨日丸一日このサイトも止まった。本当は夜8時に復旧のはずだったが、わたしが組んだ復旧プログラムがうまく働かず、結局田舎のキャンパスまで足を運んで復旧。昨日、『マイ・ボディガード』のあと行けばよかった。おかげで、「抗議」と「注意」のメールが殺到。すんませんでした。
◆「釣りバカ」シリーズの試写には、なぜか老人の夫婦づれとか、あまりマスコミとは関係のないお客が多い。普通の映画館に行ったときのような感じなのだ。だから、その分、場面場面での普通の反応がわかって面白い。マスコミのヒトは笑いたくても笑わない人がいるからね。
◆江角マキコが出るので期待した。民主党が仕掛けた国民年金未納「踏み絵」キャンペーンの犠牲者第1号になり、所属事務所・研音を離れ、出演回数も激変した彼女をあえて起用したからには、その使い方に興味をおぼえる。予想した通り、この映画は、江角マキコのいまの心境と今後の身のふりかたを暗示するような仕上がりだった。起用してくれたプロデューサーの深澤宏に江角は泣いて感謝したのではないか?
◆例によって、日本文化論・社会論の「教科書」たるべきことを意識して、今回は、人事制度改革がテーマ。鈴木建設は、他社にならい、人事制度改革を行うべく、コンサルティング会社に依頼。さっそうと乗り込んで来たのが、コンサルタントの早川薫(江角マキコ)と上司の合田(小木茂光)。そして、「能力主義」や「成果主義」の導入を提案。当然、ハマちゃん(西田敏行)のように休暇をめいっぱい取って仕事をさぼる社員は排除。この案を推進する原口取締役(小野武彦)に対し、社長の鈴木一之助(三國連太郎)は、憤然と会議の席を蹴る。
◆この会議のとき、早川/合田組は、パソコンを持ち込み、会議室のスクリーンに PowerPoint か何かの画面を映し出し、説明する。が、面白いと思ったのは、このとき、この会議室の窓にはカーテンが引かれ、遮光の処置がなされている。いま、「一流」の会社なら、窓から光が入っていても、十分スクリーンの画面が見える照度の明るいプロジェクターを使う。鈴木建設は、人事の面でも旧い方式を尊重するのと同じように、旧型のプロジェクターを大事に使っているのだろうか? それとも、スクリーンの画面と室内のシーンとが遜色なく映るようにするための撮影上の処置だろうか?
◆江角が演じる早川薫という女性は、秋田から上京し、着々と競争に打ち勝って、いまのポストを手に入れたキャリアウーマンである。まさに、国民年金未納が発覚するまでは「順風満帆」だった江角を地で行っているよう。これは、当然、つまづく。江角自身は、「陰謀」によってだったが、映画では、鈴木社長の態度と意見から、自分がやっていることが人事制度改革と称しながら、結局はリストラであり、自分の会社の仲間といっても、所詮は競争相手でしかなく、本当の友達もいない――そんな思いに至るのである。
◆そこに至る過程では、故郷秋田にいる祖母(浅利香津代)のもとへ帰省し、クラスメートたち、とりわけ、同級のころの興味を持続させ、一筋に生きている福本哲夫(筧利夫)に再会したことが大きい。彼は、魚に興味を持ち、「暗い」と評される高校生だったが、そのまま好きな道に進み、いまは市の水産試験場に勤め、魚の養殖に情熱を燃やしている。まあ、「グローバリズム」と競争主義に明け暮れて来た薫/江角のような人間に、ときとしてその虚しさが胸におしよせて来て、福本のような「ローカリズム」に徹して生きている人間に新鮮さを感じることがあるのはわかる。あくまでもよくある話として。
◆江角は、今度の事件のおかげで、そしてこの映画に出たことで、以前より陰影のある演技者に成長した。上司に反抗して、鈴木建設の人事制度改革に反対し、コンサルティング会社で仕事を続ける見込みがなくなったとき、鈴木社長は、彼女を食事に誘い、よかったら、ウチの顧問にでもと救いの手を差し延べる。そのとき江角の目に涙が浮かぶが、この演技そする彼女の胸底には、国民年金未納スキャンダルで味わった思いが走っていたように見えた。
◆しかし、この映画が彼女にとって「名誉挽回」の新出発になるかどうかはわからない。ひょっとして、この映画の結末のようになったら、この映画は、もっとあたるだろう。
◆江角が国民年金未納問題で人身御供にあったのは、彼女のような「強い女」の時代が終りはじまったことと無関係ではない。日本では本来のフェミニズム運動は社会のサブのレベルでしか起こらなかったし、女性の人権はそれほど伸長したとはいえない。そして、それが、いま、逆コースを歩みはじめる。今後の10年は、レーガン政権の1980年代のアメリカの都市部で起こったことが急速に進むだろう。
(松竹試写室)
2004-08-06
●ヘルボーイ (Hellboy/2004/Guillermo del Toro)(ギレルモ・デル・トロ)
◆UIPの試写室に来るのは、久しぶり。前の試写が終っていなくて、外で待つ。真下に歌舞伎座が見える。1階にある「菊秀」というハサミ店は銀座では老舗で、その昔、祖父が、わたしが生まれた祝いにこの店で爪切りバサミを買った。それを譲り受けてわたしはずっと愛用していたが、切れ味が悪くなったので、この店に行き、研ぎを頼んだ。これもずいぶん昔の話である。まだこのビルはなく、一軒家だった。主人(たぶん先代の)は、それを見て、ひどくなつかしそうにした。ところが、1週間後に受け取りに行くと、主人が、「実は・・・」とすまなそうな顔をした。研いでいて歯を折ってしまったというのだ。ベルボトムなんか履いてイヤは奴だったわたしは、激怒し、「菊秀さんともあろう店が」とちょっとタンカを切った。結局、主人は、若造に看板を侮辱された怒りをひたすら抑えながら、「とにかくお預かりして・・・」とわたしを引き取らせた。が、それから数週間後、彼がわたしの家を訪ねてきた。「古い職人に同じのを作らせましたが、いまの職人ではこれが限界で」と言ってやや大振りだが形はそっくりの爪切りバサミを出した。「わたしも意地ですから」と言うせりふの裏には、壊してしまったので弁償しますといった姿勢よりも、看板の名誉を守るという意志の強さの方を感じたが、まあ、いまの時代は、こういう「意地」を見せる人もほとんどいなくなったのではないか? UIPに来て、この店を見ると、いつもこのときのことを思い出す。
◆この書き出しだと、日本の時代劇の話に移らなければならない感じだが、試写で見たのは、アメリカ映画である。オドロオドロしいシーンの連続だが、けっこう面白く出来ていた。イントロは、1944年、ナチス・ドイツが世界を滅亡に陥れるために冥界の門を開き、魔神を呼び出そうとする「ラグナロク計画」をアメリカ軍が阻止する。が、そのとき1匹の赤い小猿のような生き物があらわれる。BPRD(超常現象調査防衛局)を設立し、「ラグナロク計画」の阻止にも貢献したブルーム博士(ジョン・ハート)は、この「小猿」を密かに育て、BPRDのトップエイジェントになる。ヘルボーイである。ヘルボーイの額には、ヘッドフォンをかけているような二つのコブがある。これは、後半でわかるのだが、悪魔の角を折った跡なのだ。悪魔になりそこなったヘルボーイ。顔は、往年のリー・マーヴィンを「酢締め」(【追記】このくだりがよくわからないという指摘があったが、「酢締め」とは、要するに酢に漬けて旨みを出す調理法。洋食で「マリネにする」というのと似ている)にしたような渋くてタフな感じ。葉巻を吸うのが好きなところもリー・マーヴィンの雰囲気。
◆『オールドボーイ』、『スチームボーイ』と「ボーイ」つづきでまぎらわしいが、いずれもコミックブックとの関係があるところが共通している。1994年にマイク・ミニョーラによって作られたコミック・キャラクター『ヘルボーイ』は、以来、圧倒的なファンをもっているらしいことは、いずれも入れ込んだウェブサイトの存在からわかる。
◆この映画を見ながら、ふと思ったのだが、G・W・ブッシュとその一党がやりはじめたことは、ふだんは「共存」をたてまえとしているキリスト教権力の内部からある異教がたちあらわれ、世界制覇か、あるいは世界の滅亡/ハルマゲドンかといった二者択一的な単純論理で権力をむき出しにしはじめたという印象もある。とすると、いま行われている闘いは、イスラム教とキリスト教といった異なる宗教と価値観との闘いというよりも、同じキリスト教内部の異教同士の闘いと見るほうが適切だろう。スコットランドのカソリック修道院のシーンから始まり、霊界からよみがえったラスプーチンとヘルボーイの闘いで終るこの映画は、まさにキリスト教の異教同士の闘いの物語である。
◆この映画に出てくるラスプーチンは、もともとはキリスト教の修道院にいたが、やがて「フリスト」という新派をつくる。やがてロシアのアレクサンドラ皇后の寵愛を受けるようになる。血友病の皇太子の治療師としての信頼をえて、やがて政治的な影響力を強めて行く。皇后とラスプーチンの関係が、皇室と政界をまきこむスキャンダルに発展し、二人がウィルヘルム2世治下のドイツ帝国と密約を結んでいるという噂が流れ、ラスプーチンは暗殺される。この映画の冒頭に出てくる「ラグナロク計画」というのは、まさにこの密約の延長線上にあるわけで、コミックブックのノリとしては正攻法なのである。
◆CGIを使った色々な作品のソフトをかき集めて合成したという感もなきにしもあらずだが、おどろおどろしくもユーモラスな映像は、楽しめる。オカルト風の世界と日常世界とが交錯するアレンジがうまい。そうした日常性を代表するのが、ヘルボーイのサポートを命じられるFBI職員ジョン・マイヤーズ(ルパート・エヴァンス)。リズ(セルマ・プレア)は、「念動発火」の超能力を持っているために子供のころからいじめられてきたが、みずから精神病院に隠遁しているという設定の女。怒りをおぼえると体がブルーの炎につつまれる。『炎の少女チャーリー』もそうだが、体が炎につつまれるということ、それから、それが敵を焼きつくしてしまうという飛躍、ここには、なにか、エロティックなというか、非常に感覚を触発するものがある。
◆細々した台詞、図柄、あちこちの世界と連関しているプロット・・・コミックブックやアニメやオカルトものの造詣が深い人(わたしはそうではない)ほど、それだけ面白さが倍加するような奥行きがある。『スパイダーマン』のようにシリーズ化する可能性がある。
(UIP試写室)
2004-08-03
●エイプリルの七面鳥 (Pieces of April/2003/Peter Hedges) (ピーター・ヘッジズ)
◆夕方の6時まえだが、まだ日差しが強い。外は、「地球の温暖化」や「オゾン層の破壊」に警鐘を鳴らす環境主義者に好都合な熱波が居座り、歩くとふらふらする。困ったことに、そういうとき、室内は、外の暑さに逆比例して冷房温度が下がり、上着を着なければいられないほど寒い。冷房装置のインバーターから放散される熱波がさらに都市の外気を上昇させる。環境主義者はどこかで大転換が必要だと説くが、その言説は冷房のきいたオフィースのコンピュータから発信されている。でなければ、何も世間にむかってものを言えない環境だから、しかたがない。しかし、この「しかたがない」の行く末に、大きな破局が待っていることは、だれでもなんとなく意識している。
◆日本のお盆のようにいっせいに「里帰り」をするサンクスギヴィングの日。黒人かプエルトリカンに近いかっこうと化粧をしているが白人らしい女エイプリル(ケイティ・ホームズ)。彼女を愛していることがよくわかる黒人の男ボビー(デレク・ルーク)。2人は、大きな七面鳥に野菜を詰め、ローストターキの準備中。一方、一組の家族が車でどこかへ向かおうとしている。母ジョーイ(パトリシア・クラークソン)、父ジム(オリバー・プラット)、娘ベス(アリソン・ビル)、息子ティミー(ジョン・ギャラガー・ジュニア)、祖母ドッティ(アリス・ドルモンド)の5人。車中の「エイプリルの料理・・・」という台詞から、エイプリルが、ジョーイ/ジム夫婦の娘であることがわかる。そして、彼や彼女らがエイプリルのサンクスギヴィング・パーティに招かれていることも。が、どうやら、本当は行きたくないらしい。とりわけ、母親は、終始暗い顔をしている。
◆なにかが隠されているが、それを明示せずに日常的なシーンが、きれぎれに提示される。次第に、わかってくることは、万引き、放火、ドラッグディーラーとの同棲と親を悩ませた娘が、「厚生」し、よきパートナーを見つけて「まとも」な生活をはじめている。彼女は、外から見るとみすぼらしアパートメント・ビルに住んでいる。住人たちは、黒人、中国人、それからマシーンオタクのようなキザな男といったあんばい。マンハッタンには少なくなったが、ブルックリンやブロンクスにでも行けばまだある界隈。しかし、郊外でミドルな暮らしをしている両親と2人の子供たちには、警戒エリア。本当はそんなところへは行きたくない。
◆偏屈な感じはするが、別に病気には見えない母ジョーイは、ドライブの途中、何度かトイレで吐く。車に酔ったのではなさそう。おそらく、ニューヨークのアップステイトあたりから車を走らせているのだろうか、ハンバーガーインなどに寄って休みながらドライブする。車中、ティミーが写真のアルバムを出して見せる。彼が撮ったらしい母の写真をめくって行くと、ちらりと、乳房のない胸が映っている写真が見える。そうか、この人は乳ガンをやってんだと気づく。プレスによると、監督のピーター・ヘッジズは、母を失ったことがこの映画に大きな影響をあたえたという。おそらく、彼の母親は、乳ガンで亡くなったのではないか?
◆ジムが運転しながら、隣の席の妻を見ると、ぐったりとして眠っている。観客にとっては、それは、長いドライブで疲れて眠っているとしか見えないのだが、彼は、はっとして彼女に触る。そして、彼女がものうげに体を動かすと、すぐに手をもどし、今度は、そっと涙ぐむ。愛する者を失いたくないという気持ちと迫りつつある死への不安がよく出ているシーンだ。
◆「親の心、子知らず」という諺があるが、その逆もありだ。この映画は、むしろ、「子の心、親知らず」の映画であり、それが、ほぼリアルタイムの時間の推移のなかで変わってくるドラマである。
◆おそらくロクに料理などしたことがないエイプリルが、必死でローストターキーを作ろうとしている。が、いざオーブンに入れ、バルブをひねるとオーブンが起動しない。ときはサンクスギヴィングだから、修理屋はどこも休み。あとは、近所に頼むしかない。アパートビルのドアを一軒一軒ノックすると、みな警戒して相手にしない。黒人夫婦の家のドアをたたき、「ちょっとプロブレムがあるんです」と言うと、「白人がプルブレムだって、ほんとかい?」と冷やかされる。黒人の恋人がいるエイプリルは、精一杯非白人に自分を近づけようとしていても、黒人から見れば、「白人」以外の何者でもない。しかし、その黒人の女性は、とりあえず中にい入れてくれ、アドバイスをしてくれる。その夫は、目下ローストターキーを料理中で、その秘訣を教えてくれた。
◆わたしも昔、ニューヨークのこういう安アパートビルに住んでいたことがあるが、どこもかしこも、こういうところほど、なかに入ると、親密な関係が生まれる。エイプリルは、上の階の男が、最近新しいオーブンを入れたから借りたらどうかと階段で会ったおばさんから教えられ、頼み込みに行く。一旦はOKしたその男は、エイプリルが自分をかまってくれないと言ってヘソをまげ、オーブンに肉が入ったまま、彼女を閉めだしてしまう。怒ったエイプリルが、取り戻しに行き、そっちがやるならやったるかとばかり、一瞬のうちにこの男をノシてしまう。このあたりはドタバタ的でなくてもよかったシーンだと思うが、奪い返したが、中途半端にローストをしてしまった肉を中国人のおばさんが上手に焼き直してくれるシーンがあるので、そのマエフリとして必要だったのだろう。
◆中国人の家で、肉が焼ける間、そこの孫たちに彼女の勝手な「アメリカ史」を話すシーンがある。ここには、この映画のテーマが示唆されている。彼女は、子供たちに、アメリカは、白人が少数民族を殺す歴史だけれど、そのまえは、みんあが助けあっていたと語る。
◆あなたは、あなたのパートナーや身近な人の命があまり長くないと知ったら、何をしたあげるだろう? エイプリルとは会っていないらしい母ジョーイは、車が近づくにつれて、昔の思いがつのってきて、もうエイプリルのところへ行きたくないと言い出す。「あの子があんなだったから、わたしはガンになってのよ」と叫び、車をおりてしまう。彼女を追いかけながら、夫は、「いい思い出を作るために行くんじゃないか」と叫ぶ。しかし、その「いい思い出」を思い出せるのは、生きている者だけだから、死に行く者にとっては、説得力をもたない。
◆この映画で、吐き気をおぼえてトイレに行った母に、息子のティミーがマリワナを巻いて吸わせてやるシーンがある。このシーンの解釈は色々だろうが、マリワナが吐き気を軽くするからそうしたのではないとわたしは思う。むしろ、彼は、彼女が最も輝いていたときを思い出させようとしたのであり、彼女もそれを望んだのだろう。これは、アカデミー賞の最優秀助演賞にノミネートされたパトリシア・クラークソンのすばらしい演技で表現されているのだが、50代の半ばぐらいの年令と想像できるジョーイという女性は、1970年代のパンク・カルチャーの洗礼を受けた世代である。彼女にとって、70年代は最高に輝いていた時代であるはずだ。マリワナはいまでも吸われているが、彼女がトイレで吸うマリワナは、70年代を呼び戻すようなマリワナなのだと思う。そしておそらく、ときにはヘルスエンジェルのようなバイク族のボーイフレンドの腰に両手をまわして、街を走り回ったことがあるにちがいない。
◆彼女のそういうバックグラウンドが一気にあらわになるのが、最後の最も感動的なシーンである。ビルのまえまで行ったが、ひょんなことで傷だらけになったエイプリルの恋人の姿を見たり、落書だらけのビルを見たりして、びっくりしてしまった父親が、車をパークするのをやめる。しかし、とあるレストランに車を停め、「エイプリルの(まずい)食事を食べないで済んで助かった」と喜ぶ娘らがオーダーを始めたとき、ジョーイは、トイレで、しかられ置き去りにされる少女を見る。そのとき、彼女はある決心をする。
(ギャガ試写室)
2004-08-02
●オールドボーイ (Oldboy/2003/Chan-wook Park)(パク・チャヌク)
◆一般客にも開いた試写のようで、学生風の男女が多い。大分時間が押しての開場。ゲストの到着が、すぐまえに渋谷のホテルで行われた記者会見のために遅れたためであることがあとでわかる。入口で「マスコミ関係者」にだけ、大きな赤い紙バッグが渡された。なかには、プレスのほかに、原作となった土屋ガロン作・嶺岸信明画の『オールドボーイ』第1巻、同じ双葉社から出ている『漫画アクション』最新号、それから「OLDBOY」と印刷されたテープ1巻が入っている。テープは、結末を口外しないように口に貼ってほしいという。ようやくゲストのチェ・ミンシクとカン・ヘジョンが到着、やや緊張したおももちで舞台に立つ。ミンシクの話は知的。ボーイッシュな髪型と体型のヘジョンはセクシー。例によってフォトセッションにつきあわされる。ミンシクは懸命にサービスにつとめ、その姿を見てヘジョンが笑う。
◆今年のカンヌ国際映画祭でグランプリを取った本作は、一言にして、委員長をつとめたタランティーノ好み。様式化された暴力、不死身の肉体をもったヒーロー、肉体の個々の部分(たとえば歯)を破壊することへの執着、メロっぽい音楽、復讐というテーマと、タランティーノ映画のすべてがある。
◆場所の設定は日本ではないが、図柄は、原作にかなり忠実。なぜかわからぬが、15年間も私設の「牢」に入れられている男オ・デス(チェ・ミンシク)。そのあいだに体を鍛え、「不死身」の体力を身につける。復讐を念じて。哲学科の出身だという監督のパク・チャヌクは、「笑うときは、世界と一緒、泣くときは、おまえは一人ぼっち」といった意味深な文句をちりばめたり、鋭く飛躍するシーンを使って、非常に奥行きのある世界を生み出した。
◆「牢獄」は普通のマンションかホテルの部屋のような間取りだが、電子機器による監視システムがあり、一定時間になるとドアのすきまからガスが封入され、強制的に眠らされる。そのガスが、ロシアがチェチェンを攻略するときに使ったガス兵器だというのが笑わせる。その一方、食事は、ドアにあいた小窓からまるでラーメンの出前のようなやりかたで届けられる。
◆この映画には、キリスト教的なもの(ある意味では西欧近代主義の骨子)の根底が問われているようなところがある。土着的なものにいなおる、よく言えば土着的なものをうまく使った映画は、韓国のお家芸であったが、この映画は、それを一歩越えている。
◆この映画をキリスト教的なものを問い詰めているとわたしが思うのは、キリスト教が規定しているセックスの観念に対して根本的な問題をつきつけているからだ。この映画の復讐は、近親相姦的なセックスを善とみなすか、それとも悪とみなすかという問題が問われ、クライマックスでその問題に一つの回答があたえられる。
◆そもそも、キリスト教のなかには、セックス自体を罪とみなす考えがある。だから、性的なことは、神の冒涜と紙一重なのであり、性の快楽は、神の許しのなかでのみ肯定されるといったおもむきがある。近親相姦を罰した者、それに荷担した者に対する復讐。復讐された者が反撃することによってさらなる復讐を受けるという二重の復讐。わたしのように、近親相姦を罪とは考えない者には、実感できない部分が多いのだが、現実問題として、近親相姦を罪と思う者が運命的な仕掛けにはまって近親相姦してしまったことに気づくとき、自分が二重に罰せられたと思うだろう。
◆しかし、それは、キリスト教を批判したことにあるだろうか? キリスト教に立脚する西欧文明とその価値観をこえることになるだろうか? とはいえ、韓国にはキリスト教が日常生活のなかに根づいているというだけではなく、すべての近代化がなんらかの意味でキリスト教的だと考えれば、この問題と対決することなしには、近代をこえることはできないだろう。近親相姦を否定すると言ったところで、普通の家族生活をしていれば、近親相姦は、おのずから否定される。近親相姦を肯定するためには、近代主義的な家族・家庭を放棄しなければならない。
◆もう一つ、この映画で重要なのは、記憶の問題だ。オ・デスは、イ・ウジン(ユ・ジテ)というヤクザの会長によって記憶を消されている。だから、この映画でオ・デスの意識として映される場面は、必ずしも彼の意識そのものではなく、記憶を操作されたかれの意識の残像だと見なさなければならない。だから、彼が「脱出」したという事実に保証はない。それは、映画のうわべの流れでは、イ・ウジンによって泳がされる形で「脱出」するようになっているが、それも確定的なわけではない。「脱出」したオ・デスがたどりついた寿司屋のような店で出会う女ミド(カン・ヘジョン)の記憶もわからない。
◆西欧近代的な発想では、記憶は価値であり、忘却は罪である。だから、文化の度合いは、記憶の量つまり資料や文化財の集積の量ではかられてきた。図書館、博物館、美術館は、文化のバロメータとされた。しかし、フッサールが方向づけし、メルロ=ポンティがより広範に問題化した身体やそのネットワーク的な織物(ウエブ)としての「生活世界」の側から歴史と現実を見直すならば、記憶のなかに無意識の記憶や「匿名で機能する世界」を考慮しなければならない。身体などは、どんなにその記憶を顕在化しようとしても、しきれるものではないし、できないところ(隠れた地平をもつということ)が、身体の身体たるゆえんである。そして、世界には、そうした無意識の記憶にもとづく「文明」もあるのであり、そこでは、学習=記憶の再生/記憶の集積とは異なる生き方が展開されている。こういう視点から、レヴィ=ストロウスの「未開と文明」という発想、ひいては近代西欧主義をこえる文化人類学の視点が生まれたのであり、「未開」としてしりぞけられてきたテリトリーとエンティティが、西欧的な目に姿を見せるようになったのだった。
◆ちょっと話が大きくなりすぎたが、要するに近親相姦を罪としない生き方があるのと同じように、記憶を価値とはしない生き方や生活もあるということだ。コンピュータの浸透は、ある意味で、記憶をコンピュータにまかせることによって、個々人が、生身の身体では(つまりコンピュータやさまざまな装置との関係を取り除いた状態では)もはや身体的な無意識の記憶しかもっていないというところまで行くかもしれない。その地平に開かれる生活や知のスタイルは、いまとはまったく異なるものになるだろう。
(よみうりホール)
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