粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-09-29

●2046 (2046/2004/Kar Wai Wong) (ウォン・カーウァイ)

2046
◆ホールに入ると、コムデ風の黒服の人々がおり、ガードマンが入る人をチェックしている。なんかものものしい雰囲気。テーブルには、すでにプレスが山積みされ、開場30分まえから準備完了のおもむき。が、そのわりにお客のほうはライター系の顔が多く、加納姉妹なんぞの姿はない。そういうのは別にやるのだろうが、「大もの」作品への期待が会場にみなぎっているというのとはちがう。
◆なぜ映画祭でカーウァイの人気が高いのだろう? とにかく欧米ではカーウァイ人気は衰えない。IMDbでも、この作品に対し、めったにない「8.6」という得点がついている。わたしは、カーウァイというのは、おもわせぶりのくわせものだと思う。さもなければ、つまらないことをやってもそれが「偉大」だと思われてしまう幸福なひとなのだと思う。結局、彼の映画は「オペラ」であり、一定時間をお定まりのムードに包み込むスタイルだが、そのムードが、『花様年華』では、トニー・レオンとマギー・チャンの抜群の演技でうまくいったが、今回はちょっとねぇという感じ。自分を「オペラ」をしなければならない映画が、『椿姫』なんかのオペラ曲を何度も流してしまっては、オペラには勝てない。
◆この作品でキムタクが映画の国際舞台にはばたくといったことが言われているが、まあ無理でしょう。映画のなかで彼はほとんど日本語しかしゃべっていないし、テレビのCM出演よりは緊張しているようだが、この映画はレオンの映画だし、次はチャン・ツィイー、その次はファイ・ウォンとコン・リーが前面に置かれ、キムタクの存在を圧してしまう。マギー・チャンは、今回はちょっとしか出ないにもかかわらず、そのアウラはすごい。キムタクなんかに目をうばわれる余裕をあたえない。キムタクを出したのは、外資かせぎの手管にすぎないのではないか?
◆カーウァイが、意味ありげに出す数字は、大体、政治的年号であることが多い。ここではホテルの部屋番号といろいろかけて、観客を韜晦する。
◆映画で映される世界は、新聞記者のチャウ・モウワン(トニー・レオン)の記憶と、彼が書く『2047』というSF小説の出来事という形で提出される。
(東京国際フォーラム ホールC)



2004-09-27

●運命を分けたザイル (Touching the Void/2003/Kevin Macdonald)(ケヴィン・マコドナルド)

Touching the Void
◆19日からの飛び石連休で試写会通いから解放された。その間に、すこし映画以外の仕事のデータの整理や、自前のサーバーシステムの整備などをやった。このサイトのバックボーン回線のTKU_NETが「夏休み」とか「停電」とかの理由で年に何度も1日ちかく無接続になることがあるので、対策を考えている。近々、この「シネマノート」専用のサイトを立ちあげる予定。技術を無批判にあてにすることは別にして、回避できる理由で脱線する電車とか途絶する電話とかは問題外であるように、ときどき止まるネットもいまでは問題外。
◆『ソウ』と同じアスミック・エースの配給で、「切らなければ、二人とも死ぬ」、「生か死か――『その状況下でほかに選ぶ道はない』」という一般チラシの文言を見て、これは、どこか『ソウ』のような映画なのかと思ったら、全然そうではなかった。ザイルを切るかどうかというくだりは、さらっとしか描かれない。問題は、そういうサイコドラマではなく、考えさせるとことは深い。
◆ドキュドラマとしては、仕掛けはシンプル(登場人物は3人、舞台は氷と雪の山)だが、なにせ人間なんか塵のように飲みこんでしまう大自然のなかのドラマ。そして自然と人間というドラマにくわえて、人間と人間との信頼と不信、「愛」なんて安っぽい言葉とはちがう連帯感のドラマが展開される。実際に起こった事件の「再現」であるから、その「結論」はわかっているのだが、見ているうちに引き込まれる。
◆ペルーのアンデス山脈にある標高6,344メートルのシウラ・グランデ。1985年、登山家のジョー・シンプソン(ブレンダン・マッキー)とサイモン・イェーツ(ニコラス・アーロン)がこの未踏の山に挑戦する。ほとんど垂直の氷を登るような登山。ロック・クライミングというよりアイス・クライミングのよう。映画は、登頂まではそれほど困難もなく進むかのように描く。しかし、90メートルのザイルでたがいの体を結んで2人が下降しはじめたときに事故が起きる。ジョーが落下し、下にクレバスが口を開ける空中に宙づりになったのだ。そして、時間がたつなかで、ザイルで結ばれ身動きできなくなったサイモンは、逡巡のすえにザイルをスイスアーミーナイフで切る。
◆ジョーは、氷床に落ち、一命をとりとめたが、片足の筋を痛めてしまった。落ちた場所は深いクレバスの氷床。登るしかないが、足が使えない。ここから彼の孤独で壮絶な闘いがはじまる。ここですごいと思うのは、彼は、全く見込みがないにもかかわらず、このクレバスの底に降りることを決断する。その下に「出口」があるかもしれない。虎穴に入らずんば虎子を得ずというが、それがあった。しかし、「平地」に降りてからがさらに地獄。足の骨が折れ、歩けなくなった彼は、腰を地面に下ろしてイザるように移動する。20分かけて・・・メートル。
◆この映画には、ジョーとサイモン本人が顔を出し、証言をしている。ドキュドラマとして撮られたショットとショットのあいだは、彼らのナレーションに近い語りが入る。サイモンがザイルを切ったことは、直面した状況ではしかたのないことであったにしても、彼は、世間の非難をあび、苦境に立った。ジョー・シンプソンが、この映画の原作『死のクラバス アンデス氷壁の遭難』を書いたのは、そんなサイモンの苦境を救うためもあったらしい。プレスのなかで、登山家の大久保由美子氏は、「逆説を切り抜けたせいか自信に満ちあふれた表情のジョーに対して、その後の苦労がしのばれるどこかおどおどした表情のサイモン」と書いている。しかし、わたしには、サイモンは、全然「おどおどしている」ようには見えなかった。2人が面と向かって話すようなシーンはないが、2人のあいだには、しっかりした信頼関係が回復されており、サイモンも、ザイルを切ったことへの呵責と罪責感を完全に乗りきっているようにわたしには見えた。
◆壮絶なドラマなのだが、この映画には、「手に汗握る」ようなアクション映画の「迫力」はない。むしろ、自然のなかで人間がやっていることなんて実に卑小なものであり、そこで人間が生きようが死のうが、そんなことは大したことではない――だから、生きるということはすごく孤独なことであり、そして、だからこそ、誰かを必要とするのだということが描かれる。
◆ジョーがもうろうとしたとき、Bony Mのバンドの歌が何時間も聞えていたという。それではっとしてまた動きだし、ついに岩から水が染み出る場所を見つける。この映画は淡々と撮っているが、彼がちょっと妄想状態におちいるときだけ、映像に幻想的なシーンを混ぜた。これは、しなくてもよかったかもしれない。ドキョメンターリー的な方法に徹したほうがいい。
◆ジョーが感動的なことを言っていた。彼は、もう助からないと思う。そして、生きるのなどどうでもいいと思うこともある。しかし、それにもかかわらず彼が、イザっても移動しつづけたのは、なぜか? 「誰かのそばで死にたかった」からだという。たった一人では死にたくない。人間は孤独だから、せめて死ぬときぐらいは誰かにいっしょにいてほしい。遭難をしたのは、彼が25歳のとき。この語りを録音したのは、42、3歳(ジョーは1960年生まれ)。しかし、彼のようにくりかえし自分の命を危険にさらしたことがないまま馬齢をかさねてしまったわたしは、死ぬときぐらい一人で死にたいとも思うのだが。
(テアトルタイムズスクエア)



2004-09-22

●アンナとロッテ (De Tweeling/Twin Sisters/2002/Ben Sombogaart)(ベン・ソムボハールト)

De Tweeling
◆試写室では特にはドラマはなかった。空調がうるさいのと、通路灯が明るいのが気になったが、ケータイの画面確認のように点けたり消したりではないので、画面に集中するうちに慣れてしまう。しかし、最近は、非常灯を消し、本来の暗闇を用意してくれる会場が徐々に増えてきたわけだから、ここももうすこし整備しては。
◆父親の死でそれぞれ階級も住む国も違う親戚に引き取られて、離れ離れにされた双子の姉妹が、ナチが台頭する時代に翻弄される。ロッテは、オランダの裕福な叔母に、アンナはドイツの田舎の叔父に引き取られる(叔母は母方、叔父は父方の親戚ではないか?)。 ロッテの家は、プロテスタントで、ユダヤ人と家族ぐるみのつきあいをしており、彼らとの自宅パーティでロッテはのちの恋人に出会う。一方アンナは、ドイツでそだったがゆえにナチと反ユダヤ主義を(全面的にではないが)受け入れてしまう。成人してからようやく涙の再会をはたす2人だが、ロッテから婚約者の写真を見せられ、何気なく「ユダヤ人じゃないでしょうね」と言ってしまうアンナ。ドイツ人を許せないと思いはじめているオランダ人のロッテには、血を分けた姉妹の口からそのような差別的な言葉が出るとは予想しなかった。
◆戦争が終って、アンナがオランダにロッテを訪ねてくる。まだしこりが取れないロッテだったが、開いたトランクのなかのアンナの結婚写真の額をたまたま見て、逆上する。ドイツの軍服を着たアンナの夫マルチン(ローマン・クニッツカ)は、自分の婚約者ダヴィド(ユェローエン・シュピツェンベルガー)をアウシュヴィッツで死に追いやったナチの手先にほかならないと思ったからだ。
◆ふと思い出したが、コスタ・ガブラスの『ミュージック・ボックス』(Music Box/1989/Costa-Gavras)は、敏腕女弁護士が、ナチの大量虐殺に荷担していたという疑いをかかれらた実父の弁護を引き受けるが、次第にその事実が明らかになり、それまで愛していた父と決別する話。ナチの歴史的な犯罪に対して、その犯罪者の娘であることへの責任の重さと、それをうけとめようとする女性の厳しさが描かれている作品だった。これにたいして、『アンナとロッテ』は、「責任」というような(おそらく「精神力」の強い人でなければ守れない)モラルをふりかざすことはない。自分の兄弟姉妹でもナチに荷担する者は許せないという意識は、ロッテの場合も強い。しかし、この映画のすぐれたポイントは、ナチを支持しているように見えたドイツ人でも、内部から見ると、その荷担は決して単純ではないということを描いている点だ。
◆アンナの夫マルチンは、オーストリア人であり、徴兵されていやいやドイツ軍に入った心優しい青年だった。また、アンナがまだ10代のころ、村の鍛冶屋の青年(ナチに心酔している)と親しくなったとき、義父は、彼女をさんざん殴りつけた。それは、幼いころから続いていた虐待の一つでもあったが、しかし、彼は、次第に村で力を持ちはじめるヒトラー主義者たちに懐疑的ではあったと思う。それを暗示するシーンがある。だから、アンナは、ナチに心酔はしなかったし、マルチンのような青年をえらんだのだ。しかし、外から見ると、そのような屈折はわからない。
◆1944年、アンナの家族は、すでにアウシュヴィッツの「絶滅収容所」へ送られたダビッドの弟とその両親のユダヤ人家族を家にかくまう。それは、さながら『アンネの日記』の日常だ。しかし、ユダヤ人をかくまう、いや、そもそも他人の世話をするということは綺麗ごとばかりではない。映画では、ロッテの義父が、配給のクーポン券を隠し、こっそり食品を受けとって自分だけパンやソーセージを食べるのをロッテに見つかり、彼女から糾弾されるシーンがある。彼は、彼女に「おまえも食べなさい」と言ったが、彼は、居候にまで(その時代の)「最上」の食事をあたえる必要はないではないかと思ったのだった。それは、そういう状況のなかでは無理からぬ人情ではある。つまり、この映画の目線は、上から出も下からでもない。
◆つらい毎日を送る少女アンナが、ロッテを思いながら入水自殺をはかりそうになる、あるいはそういう願望を持つシーンと、離れているロッテがそのような夢を見たか、あるいはそのようなテレパシーを感じたか(両義的に描かれている)のようなシーンとがかさなりあうシーンがある。双子のようなDNAが同じ者同士がたがいにテレパシーを感じることがあるという。わたしは、そういうことはなくはないと思う。わたしは、かつて、母親が脳溢血で床に倒れたのと同時刻に新橋のTCC試写室にいて、席に座ろうとして、床にすべり落ちてしまうという経験をした。どんなドジをやっても椅子に座りそこなうなどということはありえない環境だったのだが。
◆映画は、すでに80歳代と思われるロッテが優美なサナトリウムにおり、そこへ、アンナが訪ねてくるところからはじまる。ロッテは、アンナに気づくと、彼女を拒否して外に出て、サナトリウムの庭になっている森に歩いて行く。彼女を追うアンナ。画面がフラッシュバックし、ジェイムズ・ジョイスに似た風貌の父親との幸せな日々のショット、1926年の父の葬式、ナチ台頭の1936年、アンナが義父・義母の「虐待」を村の神父に救われてカソリック系の家政学院へ入り、メイドになる1939年、ドイツがオランダに宣戦布告する1940年、ダビッドがヴァイマル近郊のブーヘンバルト強制収容所に拉致される1942年といった明確な時代と現代とがフラッシュバックする。最初、それは、ちょっとわずらわしいが、だんだん慣れてくる。
◆アンナとロッテの役は、それぞれ、シーナ・リヒャルト(少女時代)、ナディヤ・ウール(若い時代)、フドゥルン・オクラス(老年)、そして、ユリア・コープマンス(少女)、テクラ・ルーテン(若い時代)、エレン・フォーヘル(老年)が演じている。4人とも熱演だが、ナディア・ウールとフドゥルン・オクラスが力演。
(映画美学校第1試写室)



2004-09-17

●イブラヒムおじさんとコーランの花たち (Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran/2003/Francois Dupeyron)(フランソワ・デュペイロン)

Monsieur Ibrahim et les fleurs du Coran
◆エンディングで流れるティミー・トーマスの「Why can't we live togehter」(1972年)がすべてを語っているように、この映画の基底には、アラブ対イスラエルの対立がある。「アラブ人」と「ユダヤ人」はどうして「いっしょに生きることができないのか?」「Tell me why, tell me why?」「No more war, no more war.....」「Just a little peace.」「All we want is some peace in this world.」「Everybody wants to live together.」「No matter, no matter what color.」「You are still my brother.」。しかし、映画は、政治のことをあからさまにはも問題にしないところがいい。
◆パリの下町「ブルー通り」(rue bleue) に父親と住む少年モモ(ピエール・ブーランジェ)は、ストリートワイズの街っ子だ。彼の初体験は、昼間からこの通りで商売している売春婦(「コーランの花たち」)とだった。母親は、モモが幼いときに家を出てしまったので、彼は、父親(ジルベール・メルキ)に育てられた。父親は、会計士のようなことをやっているらしいが、いつも不満そうな顔をし、電灯をケチケチと消したり、モモが担当の買いものにも文句をつける。モモが落ち込んでいいると、顔見知りのストリートガールが、「ちょっとおいで」と彼女のアパルトマンに連れて行って、なぐさめてくれる。そうした一部始終を、この通りで食料品店を開くイブラヒム老人(オマー・シャリフ)が見ている。彼は、モモが万引きをしても寛容だ。そして、いろいろなことを教えてくれる。
◆モモの父親は、「おまえの兄は優秀だったのに」とたえずモモをあせらせる。この家には、たくさんの本があり、いかにもヨーロッパの古典的なユダヤ人の家庭の雰囲気だ。ユダヤ人は、教育熱心であり、家には、蔵書を持っているというのが一般的イメージだった。父親は、不機嫌な顔で帰ってくると、書斎で本を読んだりする。失業すると、毎日本ばかり読んでいる。最後に、「大人になったら会おう」という置き手紙をして、モモを置き去りにする。このシーンは、冗談ではないのだが、なんかこの父親が愛らしく、かっこよく見えた。本当のところは、全然かっこよくはないのだが。
◆イブラヒムは、モモが彼を「アラブ人」と見なすと、自分はアラブ人ではなく、「黄金の三角地帯の出身だ」と言う。それは、トルコからペルシャにおよぶ広範なエリアを指すらしいが、ちなみに、イブラヒム(アブラハム)は、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の重要人物であり、その故郷は、現在のイラク南部の町ウルだとされている。そして、田中宇氏の「腰砕けケリーの政策は、ブッシュの焼き直し」(『PLAYBOY』2004年11月号)によると、この「ウル」は、2003年4月15日に米軍がイラク人各派を集めて最初の会議を開いた場所である。『コーラン』では、イブラヒムは、ウルにとどまり、『聖書』ではアブラハムは、ウルからカナン(イスラエル周辺)に移住したことになっている。こうした屈折をふまえると、この映画のイブラヒム老人が、「黄金の三角地帯の出身だ」ということは、メタファー的に、その「故郷」が「パレスチナ」であり、また、「ウル」でもあるということだ。
◆孤独なユダヤ人の街っ子が、脱「アラブ」の「スーフィー」(イスラム神秘主義者)と出会い、父があっけなく自殺してしまうと、訪ねては来たが、息子をまえにしてその顔もわからない実母は相手にせず、自分を「あなたの息子にしてほしい」と頼む。つまり、このユダヤ少年もまた「ユダヤ原理主義」を越えているのであり、実際に彼を正式の養子にするイブラヒムと彼との関係は、脱原理主義の新たな出発である。故郷にいる息子たちにモモを会わせたいと言って、貯金をはたいて赤いスポーツカーを買い、2人で旅に出る。コースは、スイス→アルバニア→ギリシャ→トルコ。宗教、年令を越えた連帯。養子縁組は、その連帯を形にするために儀式にすぎない。
◆都市の映画としても、あの(『アラビアのロレンス』のスター、最近では、『オーシャン・オブ・ファイヤー』で元気な姿を見せた)オマー・シャリフの「物語」としても、そして、上述のようなパレスチナ・アラブ問題を考えさせる触媒としても、見れる奥行き。これは、この映画のすぐれたところだろう。イブラムを俳優オマー・シャリフのダブらせて見るとき、映画の小さなエピソードとして登場する映画の撮影現場のシーンが面白い。ここでイザベル・アジャーニがちょっと姿をあらわし、イブラヒムの店で水を買う。イブラヒム=オマー・シャリフが、こんなつまらない映画(路上で撮影されている)なんか目じゃないよという表情をするように見えるのは、思いすごしかもしれない。が、赤いスポーツカーで、砂漠地帯を走る姿は、確実に、『アラビアのロレンス』時代の彼とダブる。
◆わたしは、渋谷で育ったので、「花たち」が立ちならぶ姿には慣れっこだった。自分の家は道玄坂の上のほうだったが、そのあたりまで、夜遅くなるとわたしの家の戸口にも客を引く「花」の姿があり、出入りするときに話をしたこともあった。一度、「ヒロポン」(覚醒剤)を所持していたとかで刑事にぱくられたが、すぐにもどってきて、同じ場所に立っていた。この映画のモモの時代1960年代(モモの家の隣の少女がフラフープをしている)だから、ちょうどわたしのこの時代とダブる。
(ギャガ試写室)映画は、政治のことをあからさまにはも問題にしないところがいい。
◆パリの下町「ブルー通り」(rue bleue) に父親と住む少年モモ(ピエール・ブーランジェ)は、ストリートワイズの街っ子だ。彼の初体験は、昼間からこの通りで商売している売春婦(「コーランの花たち」)とだった。母親は、モモが幼いときに家を出てしまったので、彼は、父親(ジルベール・メルキ)に育てられた。彼は、会計士のようなことをやっているらしいが、いつも不満そうな顔をし、電灯をケチケチと消したり、モモが担当の買いものにも文句をつける。モモが落ち込んでいいると、顔見知りのストリートガールが、「ちょっとおいで」と彼女のアパルトマンに連れて行って、なぐさめてくれる。そうした一部始終を、この通りで食料品店を開くイブラヒム老人(オマー・シャリフ)が見ている。彼は、モモが万引きをしても寛容だ。そして、いろいろなことを教えてくれる。
◆モモの父親は、「おまえの兄は優秀だったのに」とたえずモモをあせらせる。この家には、たくさんの本があり、いかにもヨーロッパの古典的なユダヤ人の家庭の雰囲気だ。ユダヤ人は、教育熱心であり、家には、蔵書を持っているというのが一般的イメージだった。父親は、不機嫌な顔で帰ってくると、書斎で本を読んだりする。失業すると、毎日本ばかり読んでいる。最後に、「大人になったら会おう」という置き手紙をして、モモを置き去りにする。このシーンは、冗談ではないのだが、なんかこの父親が愛らしかった。
◆イブラヒムは、モモが彼を「アラブ人」と見なすと、自分はアラブ人ではなく、「黄金の三角地帯の出身だ」と言う。それは、トルコからペルシャにおよぶ広範なエリアを指すらしいが、ちなみに、イブラヒム(アブラハム)は、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教の重要人物であり、その故郷は、現在のイラク南部の町ウルだとされている。そして、田中宇氏の「腰砕けケリーの政策は、ブッシュの焼き直し」(『PLAYBOY』2004年11月号)によると、この「ウル」は、2003年4月15日に米軍がイラク人各派を集めて最初の会議を開いた場所である。『コーラン』では、イブラヒムは、ウルにとどまり、『聖書』ではアブラハムは、ウルからカナン(イスラエル周辺)に移住したことになっている。こうした屈折をふまえると、この映画のイブラヒム老人が、「黄金の三角地帯の出身だ」ということは、メタファー的に、その「故郷」が「パレスチナ」であり、また、「ウル」でもあるということだ。
◆孤独なユダヤ人の街っ子が、脱「アラブ」の「スーフィー」(イスラム神秘主義者)と出会い、父が自殺してしまうと、自分を「あなたの息子にしてほしい」と頼む。つまり、このユダヤ少年もまた「ユダヤ原理主義」を越えているのであり、実際に彼を正式の養子にするイブラヒムと彼との関係は、脱原理主義の新たな出発である。故郷にいる息子たちにモモを会わせたいと言って、貯金をはたいて赤いスポーツカーを買い、2人で旅に出る。コースは、スイス→アルバニア→ギリシャ→トルコ。宗教、年令を越えた連帯。養子縁組は、その連帯を形にするために儀式にすぎない。
◆都市の映画としても、あの(『アラビアのロレンス』のスター、最近では、『オーシャン・オブ・ファイヤー』で元気な姿を見せた)オマー・シャリフの「物語」としても、そして、上述のようなパレスチナ・アラブ問題を考えさせる刺激剤としても、見れる奥行き。これは、この映画のすぐれたところだろう。イブラムを俳優オマー・シャリフのダブらせて見るとき、映画の小さなエピソードとして登場する映画の撮影現場のシーンが面白い。ここでイザベル・アジャーニがちょっと姿をあらわし、イブラヒムの店で水を買う。イブラヒム=オマー・シャリフが、こんなつまらない映画(路上で撮影されている)なんか目じゃないよという表情をするように見えるのは、思いすごしかもしれない。が、赤いスポーツカーで、砂漠地帯を走る姿は、確実に、『アラビアのロレンス』時代の彼とダブる。
◆わたしは、渋谷で育ったので、「花たち」が立ちならぶ姿には慣れっこだった。自分の家は道玄坂の上のほうだったが、そのあたりまで、夜遅くなるとわたしの家の戸口にも客を引く「花」の姿があり、出入りするときに話をしたこともある。一度、「ヒロポン」(覚醒剤)を所持していたとかで刑事にぱくられたが、すぐにもどってきて、同じ場所に立っていた。この映画のモモの時代1960年代(モモの家の隣の少女がフラフープをしている)だから、ちょうどわたしのこの時代とダブる。
(ギャガ試写室)



2004-09-15

●ターミナル (The Terminal/2004/Steven Spielberg)(スティーヴン・スピルバーグ)

The Terminal
◆スピルバーグは、文明論的な作品を作ると同時に、子供(とりわけ両親の離婚で淋しさを味わっているような)や大人をせめて映画館のなかにいるあいだだけでもハッピーな気持ちにさせるチアリング・エンターテインメントを作るのもうまい。本作は、9・11以後、アメリカに「かつてのアメリカらしさ」がなくなってしまったと感じているアメリカ人を元気づけてくれるような映画だ。
◆「庶民」や「大衆」というものはどこにもいない。「アメリカ人」も「日本人」もレッテルにすぎない。しかし、個々人は、ときととして「庶民」や「大衆」や「アメリカ人」や「日本人」になることがある。それは、個々人が集団や組織や制度のなかに置かれるときだ。どんなに「個性的」な個人でも、ひとつの集団のなかに入れられれば、その集団性に染まる。家に帰れば「変人」であるあなたも、会社では会社言葉を使い、その空気を共有する。映画や小説のなかには、そういう空気を身ぶりや形にすることをもっぱらとするものもある。映画のなかでえがかれる「庶民」性や「アメリカ人」性というものは、どのみちそうした「空気」が典型的に形象化されたものだ。
◆そういうものを「アイデンティティ」と称してそれによりかかるのは鼻もちならないが、それらがいっとき、ある種の「いやし」効果を持つことはたしかだ。そして、自分が、たとえばアメリカを好きかと訊かれたときに、自分のなかでその基準としているのは、そんな意味での「アメリカ」だ。むろん、それが「いい」とばかりはかぎらない。いま日本で流布している「北朝鮮」のイメージのように「悪い」印象だけの場合もある。アメリカも、いま「いい」印象は薄くなってきた。アメリカ人がみな「ブッシュ」や「チェイニー」や「ウォルフォヴィッツ」のような奴ばかりであるかのような印象さえ生まれている。
◆この映画は、アメリカという社会のなかに潜在する「よき」アメリカを描く。そのためには、ちょっぴりいまの「悪しき」アメリカを代表するような人物を対照させるのがわかりやすい(それがこの映画に登場する空港警備局主任の役どころある)。そして、この間のアメリカの転換を最も象徴的に示唆する場所としてJFK空港がえらばれた。いま9・11以後のアメリカの変化(「悪しきアメリカ」への転換)を最も直接感じさせるのは、空港である。かつてはスウィートな笑顔で冗談を言ったパスポートチェックの係官も人を潜在的なテロリストとして見る目つきをしている。しかし、それは、いまのアメリカ政治がそうさせたのであり、空港という国家と国家のボーダーが寄り集まる場所であるがゆえに、そうならざるをえないのだ。
◆東欧のある「共産主義国」からJFKに着き、イミグレイションを済ませようとしたビクター・ナボルスキー(トム・ハンクス)は、パスポートチェックで拘束される。彼が飛行機に乗っているあいだに、彼の国では政変が起こり、国家としての機能を停止してしまったのだった。スピルバーグは、うまいところに目をつけたと思うが、こういう状態になったとき、現行法では、その旅行者は(パスポートが無効なため)空港の外に出ることができなくなるらしい。かくして、ビクターは、仕方なく、空港内をさまよい、時間をつぶすことにする。以後、カフカの『掟のまえで』の主人公のように役人(スタニリー・トッチ)との交渉を続けることになるが、許可は下りない。が、その間に、彼は空港内のインド人の清掃員(クマール・パラーナ)、フードサービス係のメキシコ人(ディエゴ・ルナ)や荷物運搬人(チー・マクブライド)やショップの店員らとしたしくなっていく。
◆ビクターが最初全く英語が出来ないのは、国家安全保障省直属の空港警備局主任ディクソン(スタンリー・トゥッチ)とのやりとりを面白くするための「方法的」操作ではあるが、ちょっとやりすぎ。案の定、空港内の無料パンフ(各国語がある)を使って自分のクラコウジア語(ハンクスは、ブルガリア語とロシア語をまぜたような発音をしているが、正確には何語であるかは不明)と英語を比較しながら、英語をマスターしてしまう。
◆ここまで書いてきて(この連載はいつも発作的に書く。けっこうミスタイプの誤記もある。だから「ノート」なのだ)、確信を強めたが、この映画は、カフカの『掟のまえで』をかなり参考にしているのではないか? 門のなかに入ろうとして一生を門のまえで過ごしてしまったカフカのこの物語の主人公は、通常「悲壮」なイメージで読まれることが多いが、カフカ自身、この物語を『審判』のなかで取り上げ、登場人物にさまざまな解釈をさせている。『ターミナル』は、いわば明る性格にアレンジされた『掟のまえで』であり、ビクターは、さまざなな境界線(ボーダー)のあいだで身動きできなくされているいまのアメリカ人でもある。
◆そういえば、空港警備局主任のディクソンは、ビクターが空港内で「生活」しはじめると、困惑し、何とか彼を排除しようとする。空港を出るなと言ったのは、彼だが、それは、法の番人としての論理であった。しかし、彼は法の番人であると同時に組織の人間であり、昇進が気になる勤め人でもある。空港に住みこまれて問題を起こされれが彼の汚点になる。そこで、ビクターを誘導して、一歩でも空港の外に出るようにしむけたりもする。そうすれば、不法入国で逮捕できるからだ。しかし、ビクターはしたたかにそういう罠にはまらない。
◆デイクソンはいみじくもビクターに言った。「君は法の隙間に落ちたんだ」。しかし、いまの時代、そういう「隙間」にこそ逆にさまざまな「自由」があるのかもしれない。というより、もともと自由はそういうあやうい「隙間」のなかにしかないのだ。少なくとも、規則にがんじがらめになっているディクソンよりもビクターのほうがはるかに自由を生きていることだけはたしかである。ちなみに、トム・ハンクスは、もともと、カフカの登場人物のような「道化的」「トリックスター」的なキャラクターに向いた役者だが、役人をやっているスタンリー・トゥッチもなかなかいい演技をしていた。
◆空港内の工事現場で働くようになったり、ゼタ=ジョンズとの軽いラブストーリー、ちょっとユニークなことをすると急に評価が変わる(あるいは、ユニークなことをする者を評価し、歓迎する)アメリカ的な「空気」を思わせるエピソード、等々、アメリカが好きだと思ったことのある者には、なつかしい思いをさせてくれるサブプロットが満載だ。
◆ビクターがニューヨークへ来た理由がエピローグとなるが、ここでも、スピルバーグは、かつてコケにされていた父親というものが再評価されつつある今日のアメリカの空気をつかんで、ビクターの父親の存在をうまく使っている。そのシーンで、老ベニー・ゴルソンがテナーを演奏するのを見れるのも楽しみ。
◆最初のシーンで、空港警備局の主任と係員が、一番マークするのが、中国人の一団。いまや、少しづつ「差別」の相手が対中国人にシフトしつつある。
◆この映画のストーリーは、『トゥルーマン・ショー』や『シモーヌ 』のアンドリュー・ニコルとSacha Gervasiが書いている。たしかにニコルの感じは出ている。
(銀座ヤマハホール)



2004-09-14

●血と骨 (Chi to Hone/2004/Sai Yoichi)(崔洋一)

Chi to Hone
◆劇場に入るとたくさん席があいていたが、中央の見やすい席にはすべて「関係者席」という紙がはってある。なんと、全体の半分ぐらいが「関係者席」。「ワシらは関係者じゃないんだよネ」と苦笑いをしているライターさんもいた。「関係者席」は、崔監督と原作者の梁石日(やんそぎる)の挨拶がはじまる寸前でも半分ぐらいしか埋まっていない。で、結局、通路に立っていた人たちがそこに座る。それでも全部は埋まらなかった。ということは、早く来て、スクリーンを見上げる前列やどのみち見にくい左右の席に座った人たちには不満が残ったということである。「関係者席」に座ったのは、テレビ屋さんが多かった。まあ、広報的な影響度からすると、呼ぶ方としてはテレビ屋さんを優先するのはあたりまえだ。しかし、ナマの現実から考えると、こういうやり方は利口ではない。いまの時代、クチコミとかウェブのようなミクロな情報が大きな影響をあたえたりするからだ。現に、おすぎの辛口批評が影響度大だというので、各社が彼にとびついたが、ろくでもない作品を絶賛する最近の彼のテレビCMで影響される観客はほとんどいないだろう。
◆一言で言えば本作は、力作である。外国映画賞は確実である。映像の奥行き、重み、役者たちの配分、彼や彼女らの意気込み――すべてファーストクラスだ。しかし、見終って、はてこれはなんの映画だったのか、なんのドラマだったのかと考えると、はっきりしないようなところがある。その代わり、終ってから、明るい照明の地下鉄駅やアーケードなどを歩きたくないな、すぐに家に帰らず、すこし夜道を歩いてみたいなというような気分におそわれた。挨拶のとき、梁石日氏が、「この映画はボディーブローを受けたような」と言っていたが、たしかに、考えさせるところは多い。
◆しかし、1923年に10代で朝鮮半島の済州島から大阪にやってきて血みどろの人生を送った金俊平という朝鮮人(梁石日氏の父がモデルだという)を主人公とするこのドラマのなかに、同じように半島から渡って来た朝鮮人一般をダブらせることはむずかしい。在日朝鮮人の50年史を見ることも無理だ。というのも、彼のキャラクターがあまりに特殊だからだ。むろん、似たような人物はいたかもしれない。しかし、この映画の金俊平のような文字通りの「自分勝手」を押し通せた人物はそう多くはなかったし、ユニークすぎるのだ。それは、やはり小説のなかの人物である。崔監督は、それを忠実になぞった。
◆一応は、「祖国防衛隊」に身を挺する朝鮮人、出征する朝鮮人、戦争が終って、皇国日本に協力したのを仲間から責められる朝鮮人、終戦直後の大阪の「朝鮮人部落」の活気、朝鮮人民共和国の成立、1959年から始まった北朝鮮への再帰国などはスポット的に活写されてはいる。ただし、これらは、あえて言えば、今日、「朝鮮総連の在日朝鮮人の北朝鮮への帰国事業」を告発する人々の視点で描かれているように見える。簡単に言えば、「拉致」批判の目で見た日朝史である。
◆金少年が単身船で大阪に着くシーンから始まるが、ビートたけしが演じる成人した俊平の話になるので、彼が大阪でどのような青春を送ったがわからない。映画では、すでに、なにかというと人をなぐりつけ、自分が欲しいと思う女に会えば強姦して自分のものにする俊平がおり、そうしていっしょになった李英姫(鈴木京香)が妻とてしいる。そして、蒲鉾工場をはじめて小金が出来、向かいの家に妾の山梨清子(中村優子)を住まわせ、妻を尻目に毎日のようにセックスに通う俊平がいる。この人格がどのように形成されたのかが全くわからない。
◆梁石日が『血と骨』という小説を書いたモチーフの一つには、おもうに、許せない父という思いがあっただろう。なにかというと母をなぐりつけ、死の病に陥ってもビタ一文出さなかった父。最終的に、最後の日本人妾とのあいだの息子を連れて、稼いだ金7000万円と多大な財物をもって朝鮮人民共和国へ渡ってしまった父。だから、息子金正雄(新井浩文)のナレーションがベースになっているこの映画でも、「やっぱりおやじは偉かった」といった感慨はないし、父への同情は全く感じられない。むろん、その必要はないし、それが、スタイルだということだ。
◆しかし、物語が「特殊」であるだけ、この映画は、逆説的に普遍性を獲得する。これは、朝鮮人の物語であると同時に、戦前戦後を生きた日本人の物語であり、また、国境をまたぎ、横断して生きる者すべてに共通するドラマでもある。おそらく、崔監督とプロデューサーは、映画屋さんだから、当然、そうした国際受けを意識しただろう。ビートたけしがセックスをするシーン、入浴するシーンなどで、あのボカシマークがはいる。これは、日本のあいも変わらぬ「検閲」状況をからかっているというより、海外映画祭ではボカシなしで上映するつもりだが、日本ではそうはいかないので行った便宜的な処置だと思う。つまり、この映画は、日本での上映よりも、海外での上映により重きを置いているということだ。
◆映画のスタイルとしても、ハリウッド映画を意識している。たとえば 、のちの金俊平少年が「君が代丸」で大阪の港に近づく冒頭のシーンは、『ゴッドワーザー PART II』(The Godfather: Part II/1974/Francis Ford Coppola) など、ヨーロッパなどからのアメリカ移民が船でマンハッタンに近づく典型的なシーンと酷似しており、『海の上のピアニスト』(La Leggenda del pianista sull'oceano/1998/Giuseppe Tornatore) の冒頭のナレーションにあるパターンとそっくりだ。「皆同じことをする。一人が甲板に向き直って声の限りに叫ぶ、『アメリカだ!』と」。この映画でも、甲板で一人の男が「大阪だ!」と叫ぶ。
◆ビートたけしは熱演だが、彼がやたらにふるう暴力シーンでは、なぜか場内から笑いがもれた。どこか、彼のテレビショウでのふるまいに似ていたからだろう。
◆女を「子孫生み機」とみなしているようなふるまいの金俊平にもかかわらず、脳腫瘍で倒れ、おそらく手術に失敗して半植物人間になった清子を家に連れ帰り、金タライで体を洗ってやる。彼が、「心優しい」姿を見せる唯一のシーンである。それをたえずカバーするのが、妻の連れ子金春美(唯野未歩子)の夫高信義(松重豊)。
◆この映画に登場する男たちの大半は、暴力的であるか敗者であるかである。 俊平が済州島時代に生ませた息子朴武(オダギリジョー)にしても、俊平が娘花子(田畑智子)を無理矢理嫁がせた夫(寺島進)にしても、みな暴力的である。一方、俊平に借金し、厳しい取り立てを苦に自殺してしまう元「祖国防衛隊」の趙永生(國村隼)や大山(塩見三省)は、強者にいじめられる敗者である。話をやや大げさにすれば、この構図のはてには、戦争の原理がある。男を勝者と敗者に分割する社会があるかぎり、男はこのように二分されるであろうし、そのはざまで女たちは、苦しみつづける。
(丸の内プラゼール)



2004-09-13

●ボン・ヴォヤージュ (Bon Voyage/2003/Jean-Paul Rappeneau)(ジャン=ポール・ラプノー)

Bon Voyage
◆好みとしてはちょっとちがうなという作品。ナチドイツにパリが占領される時代を描いたフランス映画としては、ハリウッド映画のように深みがない。むろん、あえてそういう描き方をしているのだろうし、イザベル・アジャーニがめったに演らない「オバカ」な女を見るのも悪くはないが、なんか拍子抜け。ヴィルジニー・ルドワイヤンとイヴァン・アタルはなかなかいい。政治と歴史(うわべだけ)、ラブストーリー、アクション、コメディをこきまぜた作品といえば言えるが、どれも中途半端。
◆愛想をつかした金持ちの初老男につきまとわれた有名女優ヴィヴィアンヌ(イザベル・アンジャーニ)が、その男を発作的に殺してしまい、昔の恋人フレデリック(グレゴリ・デランジェール)に助けを求める。ところが、死体を捨てに行く途中、車の事故を起こして逮捕され、刑務所に入っているうちにヴィヴィアンヌは、大臣のボフィール(ジェラール・ドパルデュー)に接近。その間にナチの侵攻が進み、金持ちたちはボルドーに逃げ、刑務所も大混乱。ヴィヴィアンヌもボフィールもボルドーへ。一方、フレデリックは、刑務所仲間のラウル(イヴァン・アタル)に助けられて、脱獄。ヴィヴィアンヌを追ってボルドーへ。まもなくパリが陥落。ナチと手を結んだヴィシー政権が成立。ボフィールは、すんなりヴィシー派に荷担し、地位を守る。ここに、ドイツから核融合の要となる重水がナチの手に渡るのを防ごうとそれを持ちだしたユダヤ人のコポルスキー博士(ジャン=マルク・ステーレ)と教え子のカミーユ(ヴィルジニー・ルドワイヤン)がからみ、フレデリックがまきこまれる。
◆歌舞伎のように、様式化された動きをめざしているようなフシもあるが、わたしには、ただのドタバタにしか見えなかった。フレデリックの自動車事故も出来すぎ。ボルドー行きの列車のなかでフレデリックはカミーユと初めて顔を合わすが、列車の揺れ方が実に不自然。フレデリックは作家で、書いた原稿の束がタイプライターケースからばらばらっとすべり落ちる。別におっちょこちょいの性格ではないのに、よくものを落としたり、ぶつかったりする。それが、ちっとも面白くない。ボルドーのレストランで逃げ回るシーンでも、スラップスティックではない映画があえてスラップスティックの手法をそこだけ入れたという感じでおさまりが悪い。
◆ゲシュタポに追われたフレデリックとカミーユが映画館に逃げ、キスをして相手をくらますというよく使われてきたパターンを使うが、どうせ使うのなら、もうちょっと味をつけてほしい。すべて、パターンを使いながら、「型」になっていないのは、8年ぶりの演出とはいえ、ラプノーとしてはなさけない。
◆この映画、アメリカでは好評。その評価は、もっぱらそのスタイル。なかには『カサブランカ』(Casablanca/1942/Michael Curtiz) にくらべたりしている者もいる。おいおい、じょうだんじゃない。『カサブランカ』は、ナチの侵攻が現在進行形の時代に作られたアメリカ映画ですぜぃ。それは、ラブストーリーでありながら、ばっちりと反戦とレジスタンスの意志を内に秘めた映画だった。クロード・レインがぽいとヴィシー水の瓶を捨てるところとか、エンドクレジットでフランス国歌とアメリカ国歌とがだぶるようにしているとか、細部のあちこちに同時代的な政治的メッセージがこめられたいた。もし、『ボンボヤージュ』がそういう精神でそのスタイルを採用するのなら、断然、時代設定を現代にしなければならなかった。フランス映画の「アメリカ化」は近年激しいが、いくら「アメリカ化」しても、フランス映画には『80デイズ』のような超ナンセンスはまねできないだろう。 (アスミック・エース試写室)



2004-09-10

●酔画仙 (Chihwaseon/2002/Kwon-taek Im)(イム・グォンテク)

Chihwaseon
◆時代は1850年代から1880年代の30年間。墨絵の才のある少年スンオプが貴族のキム・ビョンムン(アン・ソンギ)に拾われる。一旦は飛びだしたが、数年後、画材屋で働いていたスンオプは、キムに再会する。彼の画才を見抜いたキムは、知り合いの画家に弟子入りさせ、彼は画人として頭角をあらわしてくる。中国の支配下での鎖国政策と官僚制がくずれていく朝鮮の歴史を背景に、一人の画家の半生を描く。成人したソンオプを演じるのは、『オールド・ボーイ』のチェ・ミンシク。キーセン(妓生)役で『4人の食卓』のキム・ヨジンが存在感の演技を見せる。
◆演技派のアン・ソンギ、チェ・ミンシク、クム・ヨジンのほかに、ソン・イェジンとユ・ホジョンが色をそえ、俳優陣は豪華で、時代背景も興味をそそる。しかし、わたしには、どこかはいりこめないところがあったのは、わたしが、絵や陶芸(スンオプは最後は陶芸をやる)についての素養がないからだろうか? 酒を飲まないといい絵が描けない(だから彼の画風を「酔画」と言う)という設定(なお、チャン・スンオプは実在の画家で、この映画も彼の伝記にもとづいている)も、あまり切迫した感じはない。酒への淫しかたも、『モンパルナスの灯』(Amants de Montparnasse/1958/Jacques Becker) でジェラール・フィリップが演ったモディリアーニようなの「病的」あるいは「世紀末」的なのとは違うし、といって横山大観(この人も晩年まで酒を飲みながら描いたらしい)のような(「仙」とはなっているが)泰然自若とした感じもあまり感じられない。べつに誰かにあてはまる必要はないのだが、とにかく、酒と絵との関係の切迫さが表現されていないのだ。
◆この映画に登場する日本軍は、朝鮮の保守派を倒そうとする開化党(アン・ソンギ演じるキムはこの運動に関係している)を助けるように描かれており、登場する「日本人」は、戯画化されていない。これは、事実とは別に、映画というメディアの社会的機能の問題として、この映画が潜在させているミクロな政治姿勢をおしはかるインデクスとなる。つまり、この映画は、先日の北京のアジアカップで日本批判が高まったとき、意外に日本を「擁護」する論調が韓国で出たことと無関係ではないし、現在の韓国=日本関係を意識した政治姿勢の流れのなかにあるような気がする。
◆韓国は、いま、かつて日本がアメリカから摂取してきたものを日本がやった数十倍のペースで摂取し、日本を追い越した。そこからは、日本を「見下す」目は出てくる(すでに出ているが)としても、かつて、わたしなどが学んだ、日本を外から鋭く批判する目は、次第に出てこなくなるかもしれないという気がする。友好はけっこうだが、韓国の人たちが、日本の支配政権のことをどう思っているだろうかということが気になった時代の能動的な面(ネガティブな面もむろんあったが)も捨て難い。でも、韓国にとっては、もう日本の政治なんか問題じゃないかも。
(松竹試写室)



2004-09-09

●コラテラル (Collateral/2004/Michael Mann)(マイケル・マン)

Collateral/
◆さすがマイケル・マンの新作の試写だけあって、夏枯れの時期にしてはお客が多い。席は好きなところと選べたが、しばらくして例の問題に直面。背中を「モミモミリアルプロ」で揉もれるような感覚を感じる。後ろの人がまたわたしの椅子の背に足をかけているなと思い、意図的に後ろをふり向くと、何と、『スーパーサイズ・ミー』に登場しそうな人が膝を縮めてやっとのことで座っておられた。これじゃ文句も言えない。おかげで、上映中、その人の感情的リアクションをたえず背中に感じながら見るハメになった。
◆マイケル・マンは、わたしの好きな監督の一人だ。彼の作品には、必ず「リアリズム派」の人から言わせると「ありえない」ショットがある(たとえば、『ヒート』でデニーロとパチーノがバンバン撃ちあうシーンがあるが、弾の方向がでたらめだ――とかいう批判)が、そういうことはどうでもいいのだと思う。この映画でも、たまたまたどりついた場所であるはずなのに、そこが殺し屋にとって目的の場所の近くだったり、車が通りで横転して大破し、パトカーが来たりするのに、その後警察が大きな動きを示す様子がないとか、人がかなりいる場所で銃をたてつづけに撃つのに、警察がすぐに反応しないとか、一人の殺し屋(トム・クルーズ)と一介のタクシードライバー(ジェイミー・フォックス)とのドラマに都合のよいように周囲が動く。しかし、マンにとっては、2人の異なるキャラクター、異なる生き方、価値観を持つ男が「運命的」に出会うということが重要なのだ。
◆マックスは、ベンツを買って好きな客だけを乗せるリムジンサービスを自営したいという夢をいだきながらタクシー運転手をしている黒人。たまたま拾った客ヴィンセントは、麻薬捜査の裁判にとって重要な証人5人を消すようにシンジケートのボスから依頼されたプロの殺し屋。彼は、マックスの車を待たせておいて、最初の殺しをするが、その犠牲者が窓から落ちて、マックスの車の上に落ちてしまったので、死体を彼の車のトランクに隠す。こうして2人の腐れ縁が始まる。
◆おそらく、ヴィンセントにとって、マックスをまきぞえにして、次の殺しをする必要はなかっただろう。最初の死体がマックスの車の上に落ちたのなら、その場でマックスを殺してそこを去り、別の車を拾えばよい。そもそも、後始末などしないで、そのままそこを去ってもいい。しかし、そうしなかったのは、2人のあいだに「運命的な関係」があるからなのだ。マックスにとって、ヴィンセントという人物との出会いは、被害以外のなにものでもない。しかし、ヴィンセントにとっては、マックスは、どこか惹きつけるものがあったはずだ。結局、彼が最終的に浮き彫りにしたいのは、そういう人物なのだ。『アリ』ではモハメッド・アリだったし、『インサイダー』では、ラッセル・クロウが演じたジェフリー、『ヒート』では、ヴァル・キルマーが演じたクリスだ。それは、みな男と男との関係だが、ゲイ関係とも友情ともちがう何かであるとことが、マイケル・マンの映画の特徴だ。
◆ヒッチコックが、スタイルのみを追求しているだけのようでいて、冷戦時代の社会的意識と感性を批判的に描いていたように、マイケル・マンも、男と男のドラマをスタイリッシュに描きながら、直接触れるようなダサイことはせずに、現在のアメリカ社会に蔓延する意識と感性をさりげなく異化している。最初のほうで、マックスが、車にガソリンを入れにガスステーションに寄るシーンで、「(イラク)戦争に勝ったのにこの値段?」と言う台詞がそもそも意味深い。戦争に行く兵士にとって、殺人は「仕事」であり、基本的に兵士は「殺し屋」である。戦争が始まると、社会は、万人の社会的意識は「殺し屋」にさせられる。自分は他人を殺さないとしても、内心、「殺せ、殺しちまえ」と思うようになる。この映画で、トム・クルーズが、彼の殺し計画の資料が入ったカバンをたまたま奪った街のチンピラをまたたくまに撃ち殺してしまうシーンに「スカッと」しなかった者がいるだろうか? 戦争が起きていなくても、人は、心のなかに殺意をいだいている。というのも、競争をあおる社会に生きているわれわれは、どのみち潜在的な「殺し屋」だからだ。つい先ごろも、われわれは、アテネ・オリンピッククの報道を通じて、「愛国主義者」にさせられ、他国の選手を「殺す」「殺し屋」にさせられたばかりだ。「北島勝て!」と声援することは、潜在的に「ブレンダン死ね!」、「北島よ、ブレンダンを殺してくれ!」と言うことなのだ。
◆マックスが最初に拾う客(ジェイダ・ピンケット=スミス)とのシーンが意味深い。キャリアウーマンぽい黒人の彼女は、行き先の経路を指定する。が、マックスは、別の経路の方が早く着くといい、そうでなかったら、料金はいらないという。「賭けね」と彼女が言う。彼女にとっては、すべてが「競争」なのだ。やがて彼女は検事であり、裁判をひかえてナーバスになっていることがわかるが、マックスのと「賭け」に負けたことで、つっぱった感じが引き、マックスに親しさを感じる。彼は、「競争」で他人を蹴落とすような人間ではないことがわかったからでもある。このシーンがかなり長く、印象深い理由は最後にわかるが、マックスのような気質が「競争」と戦争に奔走するアメリカに対置されてもいる。わかれぎわに、マックスは、フロントグラスにはさんであるモルジブの島の写真を彼女にわたす。「これを見ると心が癒されるから、あんたもやってみたら」と。
◆「コラテラル」というタイトルは、シュワルツネッガーが出た『コラテラル・ダメージ』を思い出させる。これは、テロで妻と子供を失ったシュワが、家族の死を「副次的被害」(collateral damage)だと言われ、頭に来て、独自で犯人を探し、復讐を果たす。マンのこの映画では、この「コラテラル」という言葉は、「まきぞえ」といったような意味だが、いまのアメリカでこの言葉を聴けば、イラクで米軍が空爆をしたことによって「副次的」(collateral)に死亡した市民のことを暗に指すことは常識だ。このへんに、マンの暗黙の戦争批判があらわされている。
◆1986年の『トップ・ガン』のトム・クルーズからは、今日の彼を想像することはできなかったが、彼は、どんどんいい役者になってきていると思う。転機は、オリバー・ストーンの『7月4日に生まれて』あたりだと思う。今回の役は、風貌からしても、マイケル・マンの好みからしても、『ヒート』のデニーロとだぶるところがある。しかし、デニーロが演った場合には決して出来なかったであろう部分は、その目つきだ。デニーロが演れば、絵に描いたような「冷酷」な殺し屋の目になるだろう。しかし。クルーズは、その無意味さを知っているが、「仕事」と割り切ることに慣らされた殺し屋の、「冷酷」とは異なる目つきをする。次々と平然とした態度で人を殺すヴィンセントを見て、マックスが、「施設ででも育ってそんなハートの人間になったのかい?!」と言うが、アメリカが平然と民間人を殺しているいまの時代には、われわれは、どのみち、クルーズが見せるあの目つきをしているのだろう。
◆最後まで、ヴィンゼントという人物がどういう素姓の人間かはあかされない。12歳のとき、暴力をふるう親父を殺したと言うが、すぐに冗談めかす。彼は、そういう日常性を捨ててしまった人間なのだ。最初の殺人を終えたあと、マックスを近所に有名なジャズクラブがあるから行こうと言う。そこには、「デクスター・ゴードンやチェット・ベイカー、チャーリー・ミンガスなんかも演奏しに来たことがある」というので、彼は、ジャズが好きなのだなと思う。実際に好きなのかもしれない。ジャズのインプロヴィゼイションのズレが好きだとも言う。しかし、彼は、それに身をまかせることはしない。その知識を利用して、依頼された犠牲者を平然と殺す。
◆ヴィンセントは、殺しの予定者のデータをすべてノートパソコンに入れている。反撃に出たマックスが、それを捨ててしまったとき、ヴィンセントは、彼をシンジケートの依頼者のところに行かせ、失われたデータを取ってこさせるが、相手は、USBのメモリースティックに入れて渡す。しゃれてる。
(日劇1)





●インストール (Install/2004/Kataoka K)(片岡K)

Install
◆『あずみ』でがんばった上戸彩が主演、角川映画の再編第一弾でもあるので、一応見ておこうと思って、東銀座まで足を運んだ。が、途中で出たくなるようなひどさ。役者はだれも活かされておらず、中村七之助の役などは、全くの無意味で、この役者には怨みはないのに(『ラストサムライ』の明治天皇役は見事だった)そんな「歌舞伎ズラなんかみたくねぇよ」と言いたくなってしまう。上戸が通う高校の英語の先生役の菊川怜にいたっては、「友情出演」(大体この名称はなんだ。ギャラをまけてもらったってことだろう)とのことだが、オバカな役で気の毒このうえない。
◆原作は、第38回文藝賞を取った綿矢りさの同名小説(『文藝』2001年冬号初出)。原作の主人公「私」は、上戸彩のイメージではない。映画でも一応は明示されるが、原作では、「まだお酒も飲めない車も乗れない、ついでにセックスも体験していない処女の一七歳」で、たまたま知りあった「ドラえもんに出てくる出木杉くんみたいな」小学生からインターネットのエロチャットを教わる。しかし、チャットの相手が「クリトリス」と入れてくると、「ぬれた。一つのHな言葉が書かれるたびに、一つのJHな言葉を書くたびに、下半身が熱くたぎって崩れ落ちそうになり、パンツが湿った」と書いているように、非常にナーブな少女である。これは、「処女」なんかくそくらえという活発きわまりない上戸彩のキャレではない。どっかに羞らいの表情を隠したキャラクターでないと演じるのは難しい。早熟な小学生を演じる神木隆之助はかなりいい。
◆映画で上戸が捨て、あの小学生が欲しいと言って持って行って直すコンピュータは、MacintoshのColor Classic IIになっている。原作では明記されてはいないが、「おじいちゃんが六年前買ってくれた」コンピュータは、(とうとうちゃんとは使わずに捨ててしまい、それをのだが)「起動のための三角ボタンを押」すと、「ジャーン! と予想外に盛大な起動音を押し入れに響かせてから起動した」と書かれているから、マシンがMacintoshであることはまちがいない。しかし、Color Classic IIが発売されたのは、1993年10月であり、この映画の時代設定からするとちょっと古すぎる機種だ。映画では、このマシーンは、「8年まえ」におじいちゃんが買ってくれたことになっている。マンションの物品や街路の風景からすると、映画の時代はどうしても現代だから、「8年まえ」というと、1996年ということになる。このころ、孫とメールするためにMacを自分用と2台同じ機種を買う「おじいちゃん」というのも相当特殊だと思うが、結局「カタカナだらけの説明書にてこずって」使うのをあきらめてしまうような人だから、買うとすれば、当時一般的な機種、つまりPerformaシリーズではないか?
◆細部に凝ったつもりで、その意味がないいいかげんさは、フラッシュバックのシーンで出て来るその「おじいちゃん」のせりふにもあらわれている。彼は、映画のなかで孫と自分は「メル友」になるんだと言う。しかし、「メル友」という言葉は、2000年に入ってから(ケータイメールが普及してから)流行した言葉であって、1990年代にこの「おじいさん」が言うせりふではない。さすが、原作にはそういう言葉もシーンもない。
◆この物語の基本は、映画でも上戸がもの憂げなボイスオーバーで語られるように、「毎日みんなと同じ、こんな生活続けていいのかなあ」という不安とそういう画一性を助長する学校や家庭への批判を漠然といだいた娘と早熟な少年(と呼ぶにはまだ早い)との出会いであり、性愛でも純愛でも友情でもない、奇妙な「連帯」が新鮮なのだ。
◆最初から最後までちゃちなテーマ音楽のヴァリエーション(Rita Iota)が流れつづけ、全体のトーンをはずそうとしている(それが、「ヴァーチャル」感覚だと思っている誤解)のは、何の効果にもなっていない。
◆あまり細かいことを言ってもしかたかがないが、自分の部屋から机からベッドまでマンションの粗大ゴミ置き場に捨て、がらんとした部屋で掃除機をかけるシーンで、ジュータンにゴミもくぼみもないのはいかがなものか? まあ、デザイン的にシュールな感じを出そうとしていることはわかるが、中村七之助が姿をあらわし、「あんたには人生の目標がない」なんてのたまわる階段のシーンとか、浮世絵をどはでにデザインした布団のある部屋とか、「見栄え」に金をかけてはいる。しかし、シュールな空間デザインをするなら、スチルショット的にではなく、映画の、つまり動きのなかでのシュールさを出さなければだめだ。
◆上戸が目覚めたとき、犬の泣き声と「コケコッコー」というにわとりの泣き声がするが、これはじょうだんか? いまどき、にわとりを飼っている家なんかないだろう。といって、それがシュールに感じられるような演出でもない。
◆この映画も原作も、「同じこと」をすることへの不満・不安・批判があるが、いま少しづつ、自分があまりに「ユニーク」すぎることへの不安を感じ、どれだけ自分を「フツウ」(みんなと同じ)に見せるかに腐心する若者が増えているのではないだろうか? その意味で、もう「インストール」の感性は賞味期限を過ぎてしまった。
(松竹試写室)



2004-09-07_2

●恋に落ちる確率 (Reconstruction/2003/Christoffer Boe)(クリストファー・ボー)

Reconstruction
◆新橋から地下鉄で渋谷に出たが、時間があるので紀伊国屋と古書センターをのぞく。時間が中途半端なので飛び込んでくる本がない。これはと思う本は向こうから飛び込んでくるものだと信じているのがいけないのか? 開場時間の10分まえぐらいに行ったがまだ数人しか待っている人がいなかった。最終的に集まったのは50人ぐらい。カンヌでカメラ・ドール賞を取り、その後数々の賞に輝いた問題作なのに不思議。
◆化学実験をした者ならよく知っているはずだが、化学で「発生機の酸素」というのがある。これは、通常の酸素よりも数倍以上の酸化エネルギーを有していて、酸化処理などを急速に促進する。わたしは、この言葉が好きで、ときどき使ったことがあるが、印刷されたものを見ると、大抵、「発生機」が「発生期」に直されているのだった。話がもってまわるが、この映画は、いわば、《発生機》の想像力をまのあたりにさせてくれるような映画だ。そこには、映画をなりたたせる想像力、作家の想像力、他人に愛を感じるときの想像力、そしてそういうさまざまな想像力が重層的に起動している場に身を置く観客の想像力・・・が生のまま存在する。
◆原題は、邦題とはうってかわった抽象的かつ「現代思想的」な「 Reconstruction 」つまり「再構築」ないしは「再構成」で、このタイトルは、最初、いくつかの印象的な断片が見せられたあとに、さっと画面に出て来る。もうわたしは、この時点で感動に陥った。以後、最初の断片がデジャヴュのように意識のなかに残り、それらがその後「再構築」される画面と響きあってさまざなな想像を生み続けて行く。
◆「再構築」ということが、最初に見せた街頭風景――やがて「アレックス」という名であることがわかる詩人のマヤコフスキーのような風貌の男(ニコライ・リー・カース)が歩いてくる――アレックスがカフェー・バーに入り、カウンターにいた女(マリア・ボネヴィー)に話しかける(そこに彼の想像かもしれないショット――そこでは二人は逢い引きしている――が入る)――と思うと、その女の夫と思われる初老の男アウグスト(クリスター・ヘンリクソン)が小説を書いているシーンがあらわれ、これまでの断片と関係のある想像をくりひろげようとしている。アレックスのロマン的・パラノイア的想像とアウグストの作家的想像とがからみながら、「ドラマ」が展開する。
◆シガレットが宙に舞い、両の手のひらのあいだで踊るシーンは、最初アップで見せられるので、映画のためだけに作ったシーンかと思ったが、やがて「再構築」の段階で、それが地下鉄駅のホームで行われている「大道芸」の手品(むろんそのまま撮ったわけではないとしても)だということがわかる。これは、この映画の性格を示唆しているし、そもそも映画というものはそういうもの(両手の操作のあいだに浮くヴァーチャルな存在の連鎖)なのだという暗示でもある。
◆そうした錯綜する主知的な技法を使いながら、そこから浮かび上がる男と女の「ロマンス」の描き方は非常に感性的だ。アレックスが、自分のアパートのドアを開けようとすると、ドアがなく、隣人(自分はみな知った顔なのに)は相手にしてくれないくだりとか、まえの恋人に会い、新しい恋人との約束に遅れてしまい、しびれを切らした女が店を出てしまい、アレックスが夜の街を走るシーンなど、誰の想像のなかの世界であるかなどということを別にして、その描き方に感動してしまう。
◆音楽の使い方がうまい。最初、『五線譜のラブレター』でも使われたコール・ポーターの「夜も昼も」(Night and Day) が流れる。また、サミュエル・ハーバーの「弦楽のためのアダージョ」(Adagio For Strings)は、これまでJ・F・ケネディの葬儀のときとか、『エレファント・マン』(The Elephant Man/1980/David Lynch)や『プラトーン』(Plagoon/1986/Oliver Stone)でも使われているポピュラーな曲だが、コペンハーゲンの夜の街路、すれちがう男と女、「ドラマ」を期待させるのでも「事件」を予感させるのでもないプロセスと共鳴しあい、この曲がこれまであたえてきた「感傷的」な感じとは全く違う響きをあたえる。
◆章を分けるように、監視衛星から撮ったかのようなコペンハーゲンのノーアポート駅を中心とした市街写真が見え、それが固定すると、「アイメ ヒルトン」とか「アレックス オービー・バー」というように「登場人物」の名と場所の名が出る。その意味では、この映画は、監視カメラが都市のあらゆる場所に設置され、どこからでも個々人の行動を監視できる条件がととのったときに、そのモニターを見ながら想像力を発揮したはてに生まれるような物語だと言えないこともない。ポスト・サヴェイランス社会の感性
◆シガレットとライターがかなり重要な鍵をにぎる。ベルリンなんかもそうだが、「タバコは命を縮める」というアメリカでは定説になっていることが嘘ではないかと思えるほど、ヨーロッパの人間はいまでもよくタバコを吸う。アイメなどは、地下鉄のなかでシガレットを持ったままでいる。アレックスが近づいてライターを貸そうとするが、それがない――というシーンがあるが、コペンハーゲンの地下鉄内は喫煙自由なのだろうか?
◆コペンハーゲンの街路を「美しく」描いたなどと言うつもりは全くない。しかし、この映画を見終わって、シネセゾン渋谷のビルのドアーを押し開けて外に出たら、そこは渋谷の道玄坂だったが、わたしは、なぜか、何て「アグリー」な街に出てしまったのだというショックにおそわれた。そこには、いかなる想像力も喚起させない風物があり、昼間見た『スーパーサイズ・ミー』にこそぴったりだが、植草一秀氏でも目をそむけるだろう太いぶくぶくの脚にルーズソックをはいた中学生がわたしのすぐ先を歩いていた。
(シネセゾン渋谷)



2004-09-07_1

●スーパーサイズ・ミー (Super Size Me/2004/Morgan Spurlock)(モルガン・スパーロック)

Super Size Me
◆この映画も、ヴィデオアクティヴズム系の映画である。日本では、もっぱらマイケル・ムーアの『ボウリング・フォー・コロンバイン』と『華氏911』で知られるようになったが、単に「客観的」な視点をよそおって撮る「ドキュメンタリー」とは違い、撮影者と撮影関係者がみずから被写体に深くかかわり、撮影する側と撮影される側とのインタラクティブな関係を描くヴィデオアクティヴズムの歴史は、1980年代からはじまった。しかし、それは、アメリカでも、これまでかぎられた観客のものだったが、それが、一般化してきたのは、ムーアの作品の功績が大きい。少なくとも、彼の作品がハリウッドの大作と互角の観客動員数を上げるというようなことがなければ、この映画が全米で公開されることもなかっただろうし、この映画も、公開後1週間で製作費(30万ドルとみなされている)を上回る51万6641ドルを稼ぐなどということは起こらなかっただろう。
◆やったことはきわめて単純。アメリカ人がマックなどのジャンクフードを食べて肥満し、不健康な状態に陥っているのを「実証」するために監督のモルガン・スパーロック自身が、ニューヨークからはじめて、肥満の多い州(ミシシッピーがトップ)を回りながら、食事は1カ月間マクドナルドの「外食」だけですませ、その健康状態をチエックし、報告する。その結果は、見てのお楽しみだが、好きでないものを毎日食うこと自体が非常に不健康なことだから、それで調子が悪くなっても不思議ではないという感じもする。
◆マクドナルドをはじめとする「ジャンクフード」が体にいいはずがないことは、この言葉が広まりはじめた1970年代末ぐらいから知られていた。初めてアメリカに行ったとき、マクドナルドにかぎらず料理のサイズの大きさに驚き、同時に、それとくらべるとあまりに小さすぎる日本の一皿のサイズに憤りを感じ、「アメリカはいいなぁ」と思ったりしたことがある。しかし、次第に、エコロジー感覚が強まり、タバコの害、肉は体によくないとか、ヴェジタリアンのすすめが「知識人」のあいだでは言われはじまた。わたしも、ニューヨークで、大学の仲間の教員たちと会ったとき、タバコを吸うと、「おれは吸わない」と軽蔑した目でわたしを見る者の数がだんだん増えていった。「ジャンクフード」という言葉も1970年代に広まった。
◆いま日本でも、わたしがその昔ニューヨークで「これは!」と思ったような横に幅の広い人がふえはじめている。それと平行して、路上や電車のなかで飲み物やバーガーなどを飲食している人の数がふえている。両者に関係がないはずがない。おそらく、今後、急速に日本でも、この映画が問題にしているようなことが深刻になるだろう。
◆モルガンが、30日間の「マック三味」を始めるにあたって「最後の晩餐」をとる。それは、彼のパートナーのアレックスが作ったヴェジタリアン料理。サラダやアーティチョークを使ったメニューで、なかなかうまそうだった。アレックスは、「ヴィーガン」(vegan) つまり肉や魚、卵、チーズ、ミルクを避け、そして汁のなかに動物性のものが入っているのも嫌うウルトラヴェジタリアンらしい。実験に入るまえのシーンで、彼女は、モルガンに、「どうして肉なんか食べるのかわからない」と言う。モルガンは、ヴェジタリアンではないらしい。が、いっしょに生活しているので、その食事は自然と菜食志向になっていたようだ。その彼が、いきなりマックだけの食事になるのだから、尋常ではない。
◆この映画には、マクドナルドに対する訴訟運動のことも出てくるし、多くのインタヴューが挿入されている。マクドナルドに対する闘いといえば、この映画には出てはこないが、「牧師」のかっこうをして日常レベルの反権力運動をしている「牧師」ビリー(Reverend Billy) が、数年前にニューヨークのマンハッタン(ここだけで83軒もあるという)の店頭で「説教」をやり、警察を呼ばれて捕まったことがある。彼は、いま最も熱を入れているのは、G・W・ブッシュの批判と戦争推進者を批判する「説教」パフォーマンスだが、これまたマンハッタンににょきにょき増えたスターバックスに対する批判もくりひろげてきた。彼のウエブサイトには、その猛烈でファニーな活動ぶりが掲載されている。このような映画が登場する背景は、奥深く、ブッシュとその一党の跋扈にもかかわらず、アメリカはまだ捨てたものではない。そして、とりわけ、その闘い方が、ユーモアやアイロニーをバネにしたものであることは、注目すべきだろう。
(スペースSF汐留)



2004-09-06

●バッドサンタ (Bad Santa/2003/Terry Zwagoff)(テリー・ツワゴフ)

Bad Santa
◆受付が慣れていないと思ったら、お客も、いつもとはちょっと雰囲気がちがう。メディア関連業界のようだが、試写に頻繁に来る客ではなさそう。「地図が小さすぎてわかんないよ。電話したって住所わかんないって言うし。ネットで調べたら徳間ホールで出ていた」という声がきこえた。そう、試写状には、住所など書いてないことが多いですね。
◆はっきり言って、ポイントのわからない映画。クリスマスやサンタクロースをこけにしている点で、アメリカではかなりきわどい反応を受けたことが予想されるが、別にそれらを根底から批判しているわけではなく、fuckやshitが頻発して強引に笑わせるにすぎない。そのくせ、変なところで「キリスト教的ヒューマニズム」に還ってしまい、「純朴」な少年とのある種「父性愛」的な物語になってしまう。
◆『34丁目の奇跡』(Miracle on 34th Street) (1947年版でもリメイクの1994年版でも)にも出て来たが、クリスマス商戦の期間中、デパートやスーパーマーケットでは、サンタがいて、そこに子供がやってきて、願い事をするという恒例のイベントがある。ウィリー(ビリー・ボブ・ソートン)と「小人」の黒人マーカス(トニー・コックス)は、毎年、2人で組んでそういう仕事をして歩いている。実は、彼らにとってサンタと「小人の妖精」は表向きの顔にすぎず、仕事が終るイヴの日、仕事先の金庫を破るのがメインの仕事。マーカスは如才ないが、ウィーリはなげやりで、酒に酔ったままサンタ役をやったり、休み時間に女店員(彼は、大柄な女に弱い)をひっかけたりしている。そこに、きまじめで肥満ぎみのチビ(ブレット・ケリー)があらわれる。彼は、ストーカーのようにウィリーにつきまとい、結局、自分の家に連れて行く。彼の父親は脱税だかで収監中で、彼はかなりの豪邸にアルツハイマー気味の祖母(クロリス・リーチマン)と2人暮らし。最初、ウィリーは、チビの無心さにつけこんで、バーで知りあってすぐやってしまったサンタフェチの女スー(ローレン・グレアム)を連れ込んだりしているが、次第にチビとのあいだに奇妙な愛情が生まれる。
◆どぎつい言葉が頻発する点では、fucking系言語の使い方を学べる。まえにつきあったことがあるらしい黒人のストリートガールにウィーリーが再会するエピソード的シーンで、ウィリーが「またやろうぜ」みたいなことを言うと、彼女は、「変態はナシだよ。こないだはあのあと1週間もクソができなかった」と叫ぶ。
◆ウィリーがユダヤ人であることが最初に示唆される。ナレーションで、こんな仕事はやりたくねぇと毒づきながら、「おれにはクリスマスなんてあったためしはない。でも、それは、おれがユダヤ人だからじゃなくて、おやじがぶんなぐるぐらいしかプレゼントをくれなかったから」と。彼に惚れるスーもユダヤ人。監督のテリー・ツワゴフも、その名前からするとユダヤ人だろう。
◆音楽を、最初ショパンの「ノクターン No.2」からはじめて、全編ポピュラーな曲ばかりで押し通したのは、言葉のギャグのドギツサをやわらげるためだろうか? とにかく、この映画も、英語に堪能なことが「鑑賞」の第1条件。だから、わたしは失格。
(スペースSF汐留)



2004-09-03_2

●ソウ (Saw/2004/James Wan)(ジェームズ・ワン)


Saw
◆『ヴィレッジ』を見たあと、六本木ヒルズのまわりを散歩。こういうものができると、周囲にオシャレな店しか存在できないらしく、みな、「よごれ」のない店ばかりでつまらない。その一方、そうしたエリアをちょっと抜けると、今度は反動で「わびしく」見えるだけの町並みになる。
◆外でしばらく列を作ったあと、受付でプレスといっしょに(試写状についていたが、1片だけ欠けていた)ジグゾーパズルの破片の1片がわたされる。上映まえに、監督のジェイムズ・ワンと原作・脚本・出演のレイ・ワネルが挨拶をする。2人とも若く、学生っぽいが、頭のいい明るい「青年」という感じ。終映後、「ティーチイン」があるとのことだったが、わたしは、深夜から朝までオーストリアのクンストラディオが企画した「 RE-INVENTING RADIO」にネットで参加しなかればならないので、出なかった。2人の感じがいいし、「ティーチイン」なんて言葉がいまでも生きのこっているのかと驚いたので居残りたかったが、残念。
◆作品は、その性格上、ここでは内容に触れることが難しいのだが、比喩的に言うと、先日見た『 ツイステッド』 と『ブレアウィッチ・プロジェクト』とに共通する要素がある。配給のアスミック・エースの竹内伸治さんの趣味かな?
◆タイトルは、肉体を切り取れるという意味で「肉体的」なノコギリ (saw) と、知的なゲームとしてのジグゾウパズル (jigsaw) をかけている。なお、jigには、「ペテン」や「詐欺」という意味もある。
◆映像的に「残酷」なシーンがあるが、全体がゲーム感覚なので、感性的なボディーブローをくらうことはない。それが「長所」であり、また「短所」でもある。だから、本作は、コンピュータゲームに向いている。むろん、ジェイムズ・ワンはそういう感覚のクリエイターだと思う。
◆ジェイムズ・ワンは、オーストラリア出身とのことなので、アメリカやイギリスとちょっとちがうセンスがある。この映画で一番「アメリカ人」的なイメージで登場するタップ(ダニー・グローヴァー)が、象徴的だと思うが、そのまま(ハリウッド映画の)パターンで行くのかと思わせておいて、それもあっさり否定してしまう。といって、イギリス的にアイロニカルではないところが「オーストラリア」的と言えば言える。
◆人間がチェックメイト状態に置かれたときどうするかという線でストーリが進むが、それが最後に相対化されるので、その「チェックメイト状態」は、実験室のマウスがどう動くかといった感じになり、じゃあ自分ならどうしたとか、おまえならどうするとかいうようなインパクトはない。この「軽さ」(結果的な)も、もともとのネライなのだと思うから、あとは好き好きの問題になる。
◆基本的に、「アメリカ」的なファミリー信仰やフレンドシップは否定されている。しかし、「連帯」とか「友情」とか「信頼」とかを越えたなにかを示唆するかというと、それはない。
◆とにかく、作品よりも、素顔で見たジェイムズ・ワンとレイ・ワネルの印象がすがすがしく、今後どんな作品を作るのだろうという期待をもたらすのだった。
◆この映画は、ストーリー頼りで論旨を進められないので、まさに映画コメンテイテーの腕がためされるようなところがあるが、ただ、わたしはあんまりノレなかったので、このようなダラダラした書き方になる。この作品の批評者としては失格か?
(ヴァージンシネマ六本木)



2004-09-03_1

●ヴィレッジ (The Village/2004/M. Night Shamalan)(M・ナイト・シャマラン)

The Village
◆受付で内容について明かさないという「誓約書」にサインしてしまったので、「内容」については書けないので、暗示的なもの言いにならざるをえない。が、基本として言えることは、この映画は、「スリラー」や「ミステリー」ではなく、現代とくに9・11以後、G・W・ブッシュとともに変わり始めた世界の空気に対するシャマランの心境がはっきりと出ている。9・11の直後に製作がはじまった『サイン』にも、アメリカ国内で起こりはじめた排外主義の要素が色濃く流れている。わたしはこの映画の思わせぶりなところに批判的だったが、『ヴィレッジ』とあわせて見直せば、考えがかなり変わるだろうと思う。
◆森に囲まれた盆地に一群の人々が住んでいる。着ているものから判断すると19世紀以前の村かと思われる。森に誰かが入ると、必ず奇怪なことが起きる。人々は、それを恐れて森へ入ろうとしない。しかし、1人の男が、森を越え、その先に行ってみよう、行かなければならないと思う。しかし、それは、正しいことなのか? この村の人々は、あらゆる意味で限界を越えないということで「平和」を維持している。それは、『刑事ジョン・ブック/目撃者』(Witness/1985/Peter Weir)に出て来たアーミッシュのように、「近代文明」に距離を置いて生きる方法である。
◆この映画の時間がいつの時代に設定されているにせよ、戦争、テロ、殺人、幼児虐待、誘拐・・・おさまるどころかますますエスカレートして行く今日の状況のなかで、それらにまきこまれないでいる一つの方法をこの映画は提出する。しかし、そこには、逆説と皮肉がひそむのを避けることはできない。孤立には多大のお犠牲とコストがともなう。まして、脱近代の時代に「前近代」の生き方をすることほどぜいたくなことはないからだ。
◆日本では、「自然に恵まれた」という言葉が愛される。しかし、ここで言う「自然」は決して自由放任状態のなかでは存続しない。「自然」ほど人為的に保護され、育成されることによって維持されているものはない。それは、庭園はむろんのこと、森林や林や池や川もそうだ。逆に言えば、「美しい」自然の背後には、ものすごい企みと周到な準備や操作があるのであり、けっしてきれいごとではないのだ。
◆この映画の「村」の人々は、問題があれば、長老たちが聞き役になって、教会で話しあう直接民主主義のようなやり方で村を運営している。初めの葬儀のシーンで、村中の人が一同に会して野外で食事をするが、これがこの村の性格を示唆している。そのなかの一人(エイドリアン・ブロディ)がまわりとは異質の笑いを浮かべているのがちょっと気になるが、すぐに忘れてしまうだろう。この村で一番骨がありそうに見えるのはルシアス(ホアキン・フェニックス)で、彼は、「盲目」の女性アイヴィ(ブライス・ダラス・ハワード)を密かに愛している。アイヴィの妹のキティ(ジュディ・グリアー)は、彼が姉ルシアスの方を好きだとわかると、身を引く。2姉妹の父エドワード(ウィリアム・ハート)と、ルシアスの母アリス(シガニー・ウィーバー)は、この村の長老の役目を負っている。人々は、一見、「つつましく」、「素朴」だ。
◆『サイン』でも村の人々は「奇妙な出来事」に恐れおののいた。今度の作品を見てから『サイン』を想起すると、あの作品で重要なのは、最後に謎解きされる出来事の要因(わたしは、それが安っぽいと批判した)ではなく、ああした謎めいた出来事に対する人々の反応の方であることがわかる。9・11に関して言えば、9・11は、この事件がオサマ・ビン・ラディンとアルカイダの一党の仕業であるかどうかよりも、この事件をきっかけに、あれと同じような事件がまたどこかで起こるのではないかという恐怖心を世界にうえつけたことだ。逆に言えば、不可解な出来事というものは、国家や組織や集団の構成員たちを自由にあやつる重要な手段になりえる。「テロが起きる」という脅迫によって、この3年間にいかにセキュリティが強化されたろうか? そして、そういうパラノイアを起こさせ、人々が「自由」に行動できなくするには、たまに「人工的」な「事件」を起こしたほうが効果的だ。『ヴィレッジ』は、このへんのからくりにも抵触する。
◆ほんのちらりとガラスに映るだけだが、シャマランの姿が見える。彼がそこでどういう職業の人間であるかをしかと考えてみることは、意味があるだろう。
◆最後の公言できない山場は、単に驚かせるというよりも、奇妙に新鮮な印象をあたえる。わたしは、ふと、マイケル・ケインが主演した古い映画『国際情報局』(The Ipcress File/1965/Sidney J. Furie)で彼が屋敷の塀を乗り越えるシーンを想い出した。
(ブエナビスタ試写室)



2004-09-02

●舞台よりすてきな生活 (How to Kill Your Neighbor's Dog/2000/Michael Kalesniko)(マイケル・カレスニコ)

How to Kill Your Neighbor's Dog
◆ケネス・ブラナーとロビン・ライト・ペンの組み合わせに期待して見たが、すこしがっかりした。どちらも演技は申し分なく、特にロビン・ライト・ペンと子役のスージー・ホフリヒターはいい感じを出していたのだが、何が問題なのかわからない。イギリス人の劇作家がロサンジェルスに住んでいる設定だが、極めてアメリカ的な場所(LAに人間は自分の話しかしない」とぐちる)にイギリス人が住んでいるという齟齬(いつもグチを言い、タバコが好き)をあらわそうとしているにもかかわらず、設定した場所がロスである意味がはっきりしない。すべてが中途半端で、妻のアルツハイマー気のある母(リン・レッドグレーブ)の存在も全然活かされていない。
◆盛りをすぎて人嫌い(自分にも)なっている作家ピータ(ケネス・ブラナー)。隣家の犬の吠え声が気になって眠れない。子供が欲しいがその気にならない厭世主義的な夫ピータにもかかわらず、明るくふるまっている妻メラニー。彼女は、足にハンディキャップを負っている少女エイミー(スージー・ホフリヒター)が母親と引っ越してくると、彼女を家に招く。可愛くてしかたなく、家に預かったりもする。これは、ピーターにはたまらないが、最初は、書いている戯曲に出す子供の実態を観察するだけだと思って関心を向けたのが、運のつき、エイミーの子供らしい対応に、次第に心が開かれて行く。しかし、なんか先が読めてしまって、つまらない。
◆一つには、台本を書くピータの(ものを書く者なら誰でもが経験する)鬱積感、彼の台本で稽古が進む舞台、最終的な成功といったプロセスが軸になってはいる。しかし、舞台がまたつまらない。役者の演技も(台本がなかなか仕上がらないから?)おそまつ。演出家ブライアン(ダイヴィッド・クルムホルツ)は、アメリカの演出家をパロっているのかもしれないが、安っぽすぎる。
◆面白いのは、せりふのあや。しかし、それは、字幕を見ていてはわからない。おそらく、この映画をイギリスやアメリカの劇場で見たら、場内の笑いが絶えないだろう。原題の「あなたの隣家の犬をどうやって殺すか?」の「犬」は、アルメニア人の隣人が飼っている犬とピーターが嫌いな子供とをかけている。メラニーがベッドルームに入ると、すでにベッドにいるピータがおならをしたらしく、メラニーが「臭いわね」と言うと、「アロマセラピーだよ」とピータが応える。ピーターのファンでニセのピータになりすます男(ジャレッド・ハリス)の英語が、ピータと会ったことによって段々イギリス英語になっていく。こういうあたりは非常に面白い。
◆英語圏では、この作品は評判がよく、DVD も売れているらしい。わたしが感応できなかったのは、おそらく、そういう英語的あやが頭を通さずに直接感覚に通って来ないからだろう。この作品に関しては批評家失格。ごめんなさいね、キネティックの日名拓史さん。
(メディアボックス試写室)



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