粉川哲夫の【シネマノート】
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●釣りバカ日誌14 お遍路大パニック! (Tsuribakanisshi 14/2003/Asahara Yuzo)(朝原雄三)


◆海外で日本のトレンドについて話をする場合、マスレベルで公開されている映画のなかでいま一番便利なのが、「釣り馬鹿」シリーズだろう。むろん、「日本はいまどうなってますか?」というようなトレンドをとらえようとすること自体無理であり、「日本」というアイデンディティを前提することは浅薄だ。少しちゃんとものを考えている人間なら、「アイデンティティ」より「マルティテュード」に注目する方があたりまえであることを知っているだろう。しかし、そういアイデンティのう需要は依然あるし、そういうことで安心する層はある。だからそういう場合にこのシリーズは「便利」なのだ。
◆今回のシリーズがおさえているのは、結論的に言うと、会社のやめ方。おそらく、近年よく言われる「会社だけがすべてではない」という発想、「社畜」からの脱皮ということを意識したのだろう。たしかにそういう傾向(トレンド)はある。
◆今回、「スーさん」(三國連太郎)が過労ぎみなので、休みを取り、四国のお遍路に行くという設定だが、映像で見る三國が、やけに疲れた感じなのは、どうなのか? 三國は昔から役に入れ込む俳優だが、今回、過労ぎみという役どころをリアルに表現するために実際に消耗状態に我が身を陥らせ、ぎりぎりの表現をしているとは思えない。どこか悪いのかもしれない。そういえば、ハマちゃん(西田敏行)の女房役の浅田美代子も少し疲れた感じ。
◆ゲストスターとして三宅裕司と高島礼子をフィーチャー。三宅は、上海支店で功績を上げ、課長として帰国したエリート社員の岩田役。この役をはめるために、「ハナちゃんのお陰でなかなか出世できなかった」佐々木(谷啓)が、次長に昇格。高島は、漁業組合のトラック運転手をしながら女手ひとつで息子(金井史更――どこか高島に似ている)を育てる母親役。釣りの名所、柏島で旅館を経営する実家に住み、手伝いもしている。浜ちゃんとは、お遍路でスーさんに同行して泊まったその旅館で知り会う。道すがら車同士のすれちがいはある――2人を乗せたタクシーが高島のトラックを追い越し、どやされたタクシーの運転手(間寛平)が、「あれは、土佐のハッキンや」と言う。「ハッキン」とは8つのキンタマの意で、男の4倍強きの女のことだという。
◆初出勤の岩田は、改革の意欲に燃え、遅刻し、太田(中本賢)の船で出勤したハマちゃんに憤慨する。が、どなるところをおさえ、懐柔策に出ようと、退社後の時間に「行きつけ」のバアに誘う。そこは、バンドがいて、カラオケ代わりに客が歌える。しかし、歌となると、ハマちゃんは、岩田のレベルではない。完全に彼を食ってしまい、ハマちゃん改革の勢いは急速に消失。このシーン、ちょっとミュージカルのおふざけのようなスタイルでつくられているが、西田の歌いっぷりは、明らかに『ゲロッパ』を意識したもの。あんな程度の歌を歌わせるのなら、こっちは徹底的に歌ってもらいますといった意気ごみの演出。実際に西田はいい演技をしている。
◆高島礼子は、最初スネているが、もみあっているうちに「許せる」とか言ってよりをもどす男女の寸劇を演じるテレビのCMで見たのが初めてだったが、その後、あっというまに「有名女優」となった。実際、いい仕事をしていると思う。しかし、この映画で、泊まったハマちゃんが自分の息子をかわいがり、息子も彼に従うのを見て、ハマちゃんに惚れ、寝酒のビールを持ってくるシーンで、彼女が笑いながらビールを飲むと、えらく(タバコで?)汚れた不揃いの歯が見えた。驚き。高島は、セクシーで濃艶や役がはまり役のようだが、歯は何とかしないといけませんな。商売なんだから。
◆母子で暮らしている息子に、外から来た男が釣りを教え、息子がなつくというのはパターンだが、釣りが特に教育的機能があるわけではない。大工仕事でもペンキ塗りでも同じだが、釣りは絵になりやすいのだ。
◆ハマちゃん陥落に失敗した三宅と高島の出会い。それから2人がどうなるか、エリートサラリーマン三宅の未来はいかに。
◆お遍路なんかよりも、釣り場として最高の場所にめぐまれた四国に引かれてついてきたハマちゃんが、高知でよさこい祭りに遭遇するシーンで、よさこい節で踊る人々をながめる一群のなかに高知知事の橋本大二郎とその奥さんらしい人の姿が移る。撮影にあたり高知県の協力を得たのだろう。
(松竹試写室)



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●アイデンティティ (Identity/2003/James Mangold)(ジェイムズ・マンゴールド)


◆きびきびした表現。ある意味で刑事ものであり、またサスペンス、スリラー、ミステリー、オカルトの要素をあわせ持ち、そして映像的なひねりがきいている。実は、「アイデンティティ」など存在しないというドラマ。これは、多人格や「マルティテュード」(多数性)を前提する今日の社会文化思想からするとあたりまえだが、ハリウッド映画の常識にはまだなっていない。ハリウッド映画で多人格が描かれることはめずらしくないが、それは、あるべからざるものとして描かれる。この映画は、若干ちがう。
◆最初、「解離性同一性障害」の殺人犯マルコム(プルイット・テイラー・ヴィンス)に質問するドクター(アルフレッド・モリーナ)のシーンから始まり、そういう犯人を裁けるかどうかというプロットがしばらく展開し、いきなり舞台が移る。何だ!?と思わせておいて最後に謎解きをする。基本にそのテーマを置きながら、映画的現実と「解離性同一性障害」の主人公の「妄想」とをうまくからめて使った映画作り。主人公がドラマを作り、それに映画内のドラマがからむ重層性。
◆トータルに語ると、ネタをばらしてしまうので、映画内現実の話だけする。ハイウェイから離れたモーテルが舞台。セコイ感じの(実際にセコイことをしている)男(ジョン・ホークス)がフロントにいる。そこにすべての登場人物が集まる。生真面目な父親(ジョン・C・マッギンリー)が運転する車。妻(レイラ・ゲンズル)とやや屈折した内面をしのばせる子供ティミー(ブレット・レール)が同乗している。ハイウェイで何かを轢き、車を降りたとき、妻が通りがかったエド(ジョン・キューザック)の車に轢かれる。彼は、盛りの過ぎた女優(レベッカ・デモーネ)の運転手として雇われた。キューザックは、一家を乗せてモーテルへ。そこへ、パトカーが到着。「警官」のレイ・リオッタが、囚人(ジェイク・ビュシー)を護送しているという。しばらくして険悪な雰囲気のカップル(クレア・デュヴァル、ウィリアム・リー・スコット)も到着。ケイータイが通ぜず、モーテルの電話も通じないので、電話をかけに車を走らせるキューザック。しかし、ふりしきる雨で洪水になり、道をふさがれる。そこで立ち往生している車の女(アマンダ・ピート)に出会う。彼女が売春をしているシーンがちらりと出た。彼女を乗せてモーテルにもどるキューザック。そして事件が始まる。表面的には、護送中の死刑囚が逃げ出し、次々にモーテルの客を殺していくかのように進むが、からくりがある。すべてが相対化された事件。
◆100年前モーテルの土地が、餓死した先住民の墓であり、また、ここに集まった人物がすべて5月10日生まれだという話が出てきて、そういうオカルトのりにはしたくないなと思うと、それがちゃんと相対化される。実にスマート(かしこい)ドラマ作り。
◆レイ・リオッタは、警官であるのもかかわらず、どこかトロい。それがカギ。キューザックは、医者の見当がつかないことがわかると、あの事故で重症を負った女の出血する傷口を裁縫用の糸と針で縫い合わせる。コールガールの女は、貯めた金を持って故郷に帰り、オレンジ園を開くのが夢。そういう女といっしょに暮らせればいいという男の夢と、そういう夢を自分で作り、自分で演じる「解離性同一性障害」の患者。
◆幼児のときに虐待を受けると、自分の人格の「同一性」(アイデンティティ)がつかめなくなり、多人格的なパーソナリティになるという。ティミーはそういう前歴があり、いまの父親はステップ・ファーザーだ。これも、一つの暗示。
◆モーテルのシーンでは、雨が降りどうしなのだが、これも一つの暗示。映画技法的には、CGを使う場合、しばしば、解像度をごまかすために雨のシーンを使う。『GODZILLA』が典型。しかし、この映画ではCG処理はメインではなく、そういうごまかしのために雨のシーンが続くわけではない。
◆この映画でも、ドクターが患者に質問をするときに使うのは、MDではなくて、ソニーのカセットテープレコーダー。警察は、いまでもそうなのだろうか? 実のところ、MDというのは、音はいいが、機械的な信頼性に欠けるところがある。わたしは、最近、音の録音にはDATかSVHSのデッキを使用している。
◆エドの車のなかにジャン・ポール・サルトルの『存在と無』の英訳がある。一つの暗示。
(ソニー・ブルー試写室)



2003-08-25_2

●ポロック (Pollock/2000/Ed Harris)(エド・ハリス)


◆試写状の写真を見たとき、真っ先に浮かんだのが、ジャクソン・ポロックの写真から刷り込まれた記憶だった。次にタイトルを見て破顔一笑。写真のはげ頭の男がエド・ハリスであることに気づき、大笑い。それほど構図的には似ている。エド・ハリスは、長年ポロックの映画の構想を練ってきたらしい。監督・主演するだけ熱が入っている。ペインティング・コーチにクーパー・ユニオンの教員・画家のリサ・ローリー(Lisa Lawley)がなり、映画に登場する1947年以後のポロックの作品をコピーし、ハリスの筆さばきの指導もしているというが、ハリスの腕もなかなかのもの。ビートたけしも片岡鶴太郎も、役者はみんな達者だね。
◆アーティストを描くこの手の映画にありがちなナルシシズム的な要素は抑えられている。さもなくてもポロックには他者への甘えがある。人生よくしたもので、世の中からは認められず、認められても自分に厳しすぎてダメだダメだと思っているポロックのような人間のまえには、リー・クラズナー(マーシャル・ゲイ・ハーデン)のような女性があらわれる。彼女は、近くのアトリエ(23 East 9th Steet)に住む画家で、すでに1936年にどこかのパーティで彼に会っていたらしい。彼のアパートを訪ねる直接のきっかっけとなったのは、おそらく、1942年1月にマクミレン画廊で開かれた「アメリカ絵画とフランス絵画」展に出品されたポロックの「誕生」を見てからではないかと思う。
◆もし、リーがいなかったら、ポロックという作家は存在しなかったかもしれない。存在したとしても、1940年代のグリニッジ・ヴィレッジにアル中の変なやつがいたなぁぐらいのエピソードで終わってしまったかもしれない。初めて彼に定期的に謝礼を払うスポンサーとなるペギー・グッゲンハイム(エイミー・マディガン)に会わせるようにしたのもリーだった。彼女は、ペギーの秘書ハワード・ピュツェル(バッド・コート)にくりかえしアプローチをかけ、ついに彼がペギーを連れてポロックの絵を見に来るような手はずをととのえる。
◆著名になる人物には、必ずいくつかのタイプの、それぞれの機能を発揮する重要人物がいる。彼女は、競争相手としてデ・クーニング(ヴァル・キルマー)をポロックに引き合わせ(ちょっとお人好しに描かれているクーニングだったが)、また新進の批評家クレメンス・グリーンバーグ(ジェフリー・タンバー)も連れてくる。彼もポロック評で名を上げたが、彼によってポロックは有力な批評的バックアップを得ることになる。左翼美術批評のハロルド・ローゼンバーグ(ジョン・ロットマン)の姿もあった。
◆ポロックが、知り会ったばかりのリーを連れて両親の家に行き、いっしょに食事をするシーンがある。そのとき、ジャズドラマーのジーン・クルーパーを礼賛する彼が、ラジオから聞こえてくるクルーパーの演奏に合わせて(というよりそれを上回るテンポで)テーブルを叩く。それは、彼のジャズへの傾倒をあらわすというよりも、全員むっつりと食事する雰囲気を打破しようとしているようでもあり、また、彼のエキセントリックな感じを表現しているだけのようでもある。
◆ポロックは、プレスによると、すでに25歳(1937年)のころからアルコール依存症の治療を受けはじめているらしいが、ハリスの演技は抑えてあって、(全身ぼろぼろになって路地でころがっているようなシーンはあるが)「天才」性を表現するためにその「病的」側面を強調するようなありがちな描きかたはしない。逆にそれだけ、実際は大変だったのではないかという想像をかきたてる効果もある。ポラック自身は、自分のアルコール癖のことを十分わかっていたように思う。でなければ、治療など受けなかったはずだし、リーが自分の救済者であることを見抜けなかっただろう。本格的な活動に専心できる見通しが立った時点でロングアイランドへの引越しやリーとの結婚を決意したのは、リーのごり押しの結果ではなかったろう。彼は、ニューヨークという環境のなかではまともな仕事ができないことを知っていたし、そういう生活が潮時だと思っていたのだ。
◆ロングアイランドの人里はなれた環境のなかで例の絵の具をたっぷり含んだブラッシで「跳ね」をつける「ドリップ」技法を発見するシーンは、その通りではなかったとしても、なかなか感動的だ。ここで見つけるなということが、見る側にはわかっている。しかし、逆に、わかっているからこそ感動的なのだ。そこは映画としての内的論理の問題。心理的揺れが始まり、アルコールに再び手を出したポロックが、近所の雑貨屋へビールを買いに行き、木箱に入れて自転車で運ぶ。そのとき、自転車に乗りながらどうしても1本欲しくなり、片手で栓を抜いて(エドの演技は抜群)飲もうとするが、そのままバランスをくずして転倒する。それは、見ている側からは十分予想できるのだが、その倒れるまでの演技の巧さが、このようなプロセスの信憑性(こういうこともあったかもしれないという)を生み出す。
◆映画では、写真家のハンス・ネイマスのムービー撮影の過程でポロックがえらく消耗するように見える。しきりに、「おれはフォニー(ニセもの)だ」とぼやき、やめていた深酒をはじめる。何があったのかは、映画では明記されない。われわれが知っているポロックの大半の写真は、みなハンスのものらしい。一つ考えられるのは、撮影のとき、くり返しを要求され、それが彼には耐えられなかったことだ。彼にとって同じことのくり返しほどの拷問はないし、そういうことにしぶしぶつきあうなかで次第に精神病理学的な症状を呈してきたのかもしれない。
◆ポロックは、ビート・ジェネレイションのハシリとなった。彼の制作の本領はスピードにあった。彼が早描きだったということではなく、出来上がった形象ではなく、形象がキャンバスにあらわれるスピードを彼は尊重した。キャンバスでそのスピード感覚を体験できなくなったとき、車の忘我的運転はある種の代償になったかもしれまい。最初の方のシーンで彼がジー・クルーパーのドラムに合わせてテーブルを叩いたのも、彼がまだ絵の制作のプロセスのなかで思い通りのスピードを出せていないときの代償行為だったとも言える。
◆ポロックは、晩年、若いファッションモデルの女ルース・クリグマン(ジャニファー・コネリー)と親しくなる。ある日、深酒した彼は、彼女と彼女の女友達を乗せたまま車を暴走させ、大木に激突する。彼と彼女の友達は即死したが、ルースは生きのび、ポロック回顧の本を書く。それは、ちょっと自殺のような事故だった。彼がリーから離れたのは、彼が行き詰まっていたからでもあり、彼女の束縛から逃れたかったからでもあっただろう。
◆ポロックが死んだとき、リーはヨーロッパにいた。彼女は、出発前に彼を誘ったが、彼は、「ヨーッロッパなんかは、うんと若いときか、年取ってから行くとこだ」と行って、関心を示さなかった。ポロックの方は彼女にうんざりしており、「結婚したのに子供も作ってくれなかったお前なんてくそくらえだ」と叫ぶが、リーは、「絶対に別れてなんかやらないからね」と彼を捨てない。ロングアイランドに引越し、つかのま「おだやか」な毎日が訪れたとき、ポロックはリーに子供を作ろうと言ったことがあった。リーの答は、「子供はあなただけでたくさん」、生活も貧しいし、制作することが先決でしょう、というものだった。賢夫人である。実際、彼女は、ポロック未亡人として、彼の作品を守った。なんか、絵に描いたような話だな。もうちょっと裏が知りたいが、そういう面をにおわせる描写はこの映画にはない。
(ソニー試写室)



2003-08-25_1

●陰陽師 II (Onnmyouji/2003/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)


◆今回はちょっともってまわっている。脚本にも参加した原作の夢枕獏が、主役の野村萬斎に「踊ってもらう」という注文をつけたらしいが、にもかかわらず野村はどこか元気がなかった。
◆ポルノ時代から「社会派」的な映画を作ってきた滝田が、なぜこういうオカルトものを作るかには、理由があった。それは、天皇制の問題だ。この点は、前作『陰陽師』でははっきりしていた。ところが、今回はこの問題もあいまいになっている。話は、右大臣・藤原安麻呂(伊武雅刀)の娘日美子(深田恭子)の「奇行」の謎を安倍清明(野村萬斎)が追うプロセスのなかで、それが、藤原安麻呂自身の指揮で行われた出雲一族の虐殺につながっていることがわかり・・・というぐあいに展開する。そこには、マイノリティの弾圧・虐殺というテーマがあり、しかも、アマテラスやスサノウなどの出雲神話の登場人物の名が出てくるので、この分なら天皇制の核心まで突き進むのかと思わせながら、それが、ただの夢枕獏流「怪奇譚」に終わってしまう。今回の滝田は、原作を自分のものにできなかった。その意味では、夢枕獏を全面に出すことによって前作の「ヤバさ」を雲散霧消させたということか。
◆前作ではまだ官僚主義批判が意味をもった。しかし、いまの時代には、公家を茶化していまの政界を暗に批判するようなことは全く新鮮味を持たないし、批判の対象はもはや官僚主義であるかどうかなどではない。官僚は、見事に姿を隠してしまった。見えるのは、「北朝鮮」のような「外敵」である。自民・公明勢力にとっての「抵抗勢力」なるものも、無理矢理作った「外敵」のバリエイションの(お粗末な)一つである。最大の「外敵」例は、アメリカが捏造した「サダム・フセイン政権」だった。こういうコンテキストのなかでは、この映画は、全く政治性をもてない。すべてが、内へ内へと繰り込まれて行く「内敵」だけを描いているからである。
◆征服された出雲の民の一人、幻角(中井貴一)は、藤原一族率いる現政権への復讐を念じ、魔界に魂を売り渡して超能力を得る。そして、「失政にあえぐ貧しい民」を助ける術師として復讐の機会をねらう。(いまの時代、小泉や竹中は「失政」をやっているといわれるが、その「失政」を貧困や病気に「あえぐ」民のイメージで批判することはできない――不景気といいながらうまいもの屋に列をなす「民」がいるわけだから、 構造が全然ちがうのだよ――だから、この映画はおとぎ話にすぎない)。そのために息子の須佐(市原隼人)に魔術をかけ、八掛で定められた数だけの人間の肉を食わせることによって超能力を得させ、アメノムラクモの剣を振りまわして平安京を暴れ回させることによって京を暗黒のなかに突き落とそうという。それは、ある点まで成功し、「ハルク」みたいになった須佐がアメノムラクモの剣を地面に突き立てると、京の都に大地震が起こって街が崩壊する。しかし、それは、アマテラスの登場によって救われる。
◆今回は、完璧に夢枕獏のオカルト・ロマンにすぎないから、アマテラスがどうして登場するのか、日美子(ヒミコと読ませる)の謎とは何なのかはここでは書かない。それを書いたら、もう、この映画、あえて見る意味がないからだ。それは、「営業妨害」になるかもでしょ?
◆イントロで、すでにこの映画は、映像的に破綻している。清明の友人役で出る源博雅(伊藤英明)と談笑しているシーンで、2人(とりわけ伊藤)の鬘の縁の部分が浮き出て、皮膚と鬘の境がくっきり出てしまい、いかにも鬘という感じを与える。歌舞伎や新派なら許せる、というよりその方がいいが、CGを駆使したとかいうこのタイプの映画でこの感じは致命的である。
◆外部に「敵」が捏造されるような時代には、清明の「時が過ぎればすべてはまぼろし。滅びるときは滅びる」というニヒリスティックな台詞も、全然カッコよくない。こういう時代に映画が出せる批判は、政治の操作や捏造が、姑息に見えるような「真実みのある」たくらみや操作を映画技術によって見せることだ。
(東宝試写室)



2003-08-22_2

●S.W.A.T. (S.W.A.T./2003/Clark Johnson)(クラーク・ジョンソン)


◆映画としてはひきつける。最近は、アメリカのイラク侵攻もあって、ハリウッドの戦闘ものを見るとうんざりするが、こういう映画はアメリカでないと作れないことはたしか。映画以外でも、表現の規模が大きくなれば、それだけ、国家や組織体や社会との連関(アジャンスマン)がはっきり出てくる。それは、国家の声明を代弁しなくても、そうなってしまう。映画がいかに「絵空事」だとしても、連関として、映像の外とのつながりを深くしていく。だから、味気ないことを言えば、アメリカの観客は、こういう映画を見て、次第にイラク侵略を肯定していく。刀根さん、最近、Sheldon Rampton & John Stauber: Weapons of Mass Deceptionを読みました。内容的には、あたりまえのイラク侵攻をめぐるアメリカのメディア批判ですが、速い出しっぷりがよかったですね。しかし、ベストセラーになったにもかかわらず、3大メディアは無視したとか。
◆S.W.A.T.というのは、警察の組織でありながらほとんど軍隊と同じだ。むしろもっと軍隊的かもしれない。この映画の主役ジム(コリン・ファレル)は、海兵隊の特殊部隊出身という設定。彼を買う巡査部長「ボンド」(サミュエル・L・ジャクソン)も海兵隊出身だ。その意味で、この映画では、警察=軍隊の攻撃のほとんどあらゆる手法が披露される。事件も、イントロをなす人質を取った銀行ジャッカーの掃討作戦、たてこもり犯の保護、テロ的な犯罪の処理など、メニューに事欠かない。また、アクションも、カーチェイスはむろんのこと、ヘリコプターの墜落からヘリの高速道路着陸、その離陸の阻止、地雷の処理など多彩だ。
◆主なストーリーは、マルセイユあたりからやってきたシンジケートの御曹司が、国際指名手配されている人物で、それがたまたま捕まる(父を謀略で殺した叔父に復讐しに来た)が、護送される途中、手下による奪還作戦があって、S.W.A.T.の登場となる。S.W.A.T.は、一応、そのフランス語なまりの男(オリヴィエ・マルティネスがいい感じを出している――『運命の女』ではあっさり殺される役だった)を逮捕するが、そいつが、取材のテレビカメラに向かって「おれを逃がしてくれた奴に1億ドル払うぜ」と言ったために、事態が変わってくる。これも、いかにもアメリカで、金目当てに、ロサンゼルス中のくせ者がこぞって、「逃がし」作戦に出てくる。これは、笑える。
◆この映画は、もりだくさんで、いい上司とダメな上司との違いも見せてくれる。また、仕事仲間の「友情」と「妬み」のドラマもある。イントロのドラマで、ジムとS.W.A.T.の仲間のブライアン(ジェレミー・レナーがいい味を出している)は、慎重な上司の命令を破って突撃作戦に出る。その結果、人質を全員救出するが、一人の女性を撃って怪我をさせてしまう。その状況では、それしか方法がなかった感じだが、保身のことばかり考えている上司(ラリー・ポインデクスター)の決定で、配置換えか失職かを選ばされる。大胆な作戦を決行した(それだけに魅力のある)ブライアンは、武器倉庫の管理なんかやっちゃいられねぇよとばかり、職を捨てる。S.W.A.T.を愛するジムは、その配置換えを甘受する。そこを「ボンド」に見出され、S.W.A.T.に復帰するが、それ以来グレてしまったブライアンは、ジムを冷笑する。その妬みが、後半のドラマで活かされる。こうなれば、最後は、2人の対決(殴り合いか殺しあいか)になることは必至。このへんも、ハリウッドのアクションものの定石を踏んでいる。
◆とにかく、この映画、アメリカとハリウッドの「現象学」といった感じ。ハリウッド的映画を作りたいと思っている映画の卵は必見。
(ソニー試写室)



2003-08-22_1

●マグダレンの祈り (The Magdalene Sisters/2002/Peter Mullan)(ピーター・ムラン)


◆アイルランドに実在した、女性の「不届き者」を閉じ込める修道院を批判的に描いているのだが、ここでも、『アマロ神父の罪』にも似たカソリック文化に特有の「見世物趣味」のようなものを感じた。ただし、密室のイジメ的な部分を描きながら、そういう場所ではそうせざるをえないシスターたちの宿命のようなものも描き、そういうシステムを作った国家なりカソリック教会なりへ批判を投げ返しているところがいい。
◆1964年から1996年まで実際にアイルランドにあった「非行女性」の「更生施設」の「実話」だというが、驚くような理由で、女性たちが「非行」の烙印を押される。マーガレット(アンヌ=マリー・ダフ)は、従兄弟にレイプされたがためにここに入れられる。バーナデット(ノーラ=ジェーン・ヌーン)は、孤児院の遊び時間に外の男に色目を使ったというだけでここに連れてこられた。ローズ(ドロシー・ダフィ)は、私生児を生んだために収容される。同時期にいっしょに収容されるこの3人のドラマに、院内で知り合うクリスピーナ(アイリー・ウォルシュが熱演)の悲痛なドラマがからむ。彼女は、私生児を生んだために連れてこられた。姉に預けられた息子が院の塀の外に来て密かな「面会」をする。「信仰」の篤い彼女は、信仰ために狂っていく。こうした施設がもたらす最も残酷な面を象徴的に描く。
◆シスター・ブリジット(ジェラルディン・マクイーン)は非情だが、ありがちなイジメ屋的には表現されていない。むろん皮肉をこめてだが、『聖メリーの鐘』(The Bells of St. Marry's)を見てほろほろ泣くような「純真さ」の持ち主でもある。それよりも、色気たっぷりだったり、ブス(失礼)でいかにも「刑吏」タイプとか、いくつかのタイプのシスターの組み合わせが、こういう組織に必要なメンツの型をあらわしていて面白い。
◆この映画は、ヴァチカンを激怒させたというが、明らかに聖職者かカソリックの学校の先生とおぼしき人が、途中で出て行った。まあ、事実としてもこういうのを露骨に見せられるのは無理なのかな? と同時に、そういうのをいまの時代にも凝視できないところが、まだ、こういう面を乗り越え切っていないということなのではないか? おそろし宗教。
(ヘラルド試写室)



2003-08-21

●阿修羅のごとく (Ashuranogotoku/2003/Morita Yoshimitsu)(森田芳光)


◆向田邦子の脚本、和田勉の演出で1979年にNHKで放映されたドラマの映画化。映画は、テレビからではなく、小説化されたヴァージョンから筒井ともみが再脚本化しているが、音楽の使い方など、テレビ版に似ている。映画が始まっていきなり、アート・アンサンブル・オブ・シカゴの「ラジオのように」のフレーズが流れ、「ええ?!」と思った。テレビでは、この曲は使っていなかったが、かなりすっとんきょうな調子の音楽がくり返し流れる。そのパターンをこの映画では「ラジオのように」でやっている。しかし、どうだろう?エンディングでは、ブリジット・フォンテーヌが、フランス語で、「それはラジオで言っているように、言葉だけももの、何でもない・・・」といった意味のことを歌う部分がそのまま使われている。こういうソングは、何に付けても合うかもしれないが、この映画の内容とは関係ないのではないか?
◆「ラジオのように」は、自由ラジオに関わった者、そしてフリージャズに染まった者には、忘れがたい曲だ。何せ演奏がアート・アンサンブル・オブ・シカゴだからね。廃盤になって久しいLPのCD版(POLYSTAR PSCY-5103) が日本で1992年に出たとき、カナダの自由ラジオ関係の友人が欲しがり、みやげに持っていったことがあった。そういういわくのある曲が、あまり期待していない映画でいきなり聞こえてくると、驚く。
◆最近、BSで『阿修羅のごとく』の当時の録画映像が再放映された。わたしは、ちらりと見て、和田勉の演出にうんざりしてしまった。70年代には「神格化」されていた和田。わたしもこれほどひどいとは感じなかった。しかし、いま彼の演出を見ると、この作品の場合、あれだけの芸達者の俳優を使いながら、その力を発揮させず、ひたすれ自分の狭い観念の枠のなかに閉じ込めて演技させているのがはっきりと見える。NHKは、何人こういう一人よがりの演出家を生み出してきただろう? 少し時代がたってみると、彼らがやったことには何の奥行きも先見の明もないことが暴露する。その点、演出に関しては森田芳光の方が格段すぐれている。しかし、それにもかかわらずドラマとしては和田演出のテレビ版の方がはるかによいのは、役者たちのレベルの違いのせいだと思う。
◆大体、母親役に八千草薫、父親役に仲代達矢というどちらかというとミドルクラスの山の手風の演技が得意な役者を置き――事実ドラマの設定はそういう感じだろう――ながら、長女役に大竹しのぶを持ってきたことが最大の誤りだ。大竹という女優は、暗い過去があるキャラクターや底辺から這い上がったような役をやらせるとすばらしい(ちょっとパターン化するきらいがあるが)。しかし、彼女には、「育ちのいい」女の役はできない。先頃夫をなくしたハデ好きの華道の師匠で料亭の主人とできているという設定でも、大竹がやると、えらく影のある女になってしまうのだ。
◆次女役の黒木瞳は、何を演ってもそうだが、まったく陰りがなくつまらない。いまどきのテレビドラマならいいが、映画では見る気がしない。テレビ版ではこの役を八千草薫が演っていたが、彼女も陰りというもののない役者だった(この映画ではけっこう厚みのある演技をしている――とくに最後のシーン)。黒木がそれを真似ているとは思えない。それに、彼女には、八千草の優雅さ(というか、「実用」からはずれているようなところ)はない。
◆三女役の深津絵里はがんばっているが、元ガリ勉で、いま図書館勤務の男性恐怖症的女性という絵に描いたような役をやらされて損をしている。別に不細工なメガネなどかけなくてもいいのに。
◆四女役の深田恭子は一番楽だったかもしれない。自己顕示欲が強い末娘の役で、これは、あまり時代を意識しないでできる。その分、言葉も今様になり、時代考証に凝ったというセットにもかかわらず、深田がしゃべる瞬間、ドラマの時代設定がふっとんでしまうところが笑える。
◆時代考証で思い出したが、黒木が外から飛び込んできて、そのあわてぶりをごまかす台詞として、「ジョギングしてきた」とか言う個所がある。しかし、「ジョギング」という言葉が一般に使われるようになったのは、80年代になってからである。わたしが、ニューヨークで1979年ごろ、徐々にジョギングをする人口が増え、スニーカーを並べる店が増えてきたのに気づき、日本の一般誌に書いたとき、この言葉にはまだ注釈が必要だった。
◆興信所員で、三女と親しくなる勝又を演る中村獅童の大げさな演技はどうしたのか? この役者は『ピンポン』ではなかなかだったのに、今回は全然リアリティがない。演出がダメなのだ。
◆大竹と不倫する料亭主人役の坂東三津五郎はいい。妻(桃井かおり)の目を盗んで大竹の家に通う感じと坂東本人の不倫スキャンダルとがだぶり、不思議なリアリティがかもしだされる。
◆影の形でしか登場しないが、仲代の妾役を演る紺野美沙子の悲しげな目がいい。あとは、見るべきものはない。
◆最初に「阿修羅」の像が映されるが、一体、ここに登場する女たちのどこが阿修羅だというのだろうか? これは、そもそも原作の責任だ。この程度の裏表は、誰でもが持っているものであり、戦前ならいざ知らず、始まりが「昭和54年冬」に設定されているドラマでこの程度の二面性を「阿修羅のごとく」と言えたのは、NHKという特殊な世界のなかだけのことだった。
◆この映画、向田の描いた世界がリアリティを持たないのは、そういう時代、あるいは、そういうやり方(<女は、内輪でときおりぶちまけることはあても、通常は本音を隠すもの>といった)で単純化できた時代が終わったということだろう。
◆向田の描く家庭は、70年代の時点においてすら、彼女の願望の世界にすぎなかった。願望を描くことは自由なのだが、この映画のように時代を明記し、あたかもその時代がそうであったかのように描くのは、歴史の捏造である。しかし、歴史というのは、いつもこういう形で願望と誤解を堆積させてきた。だから、後には戻れない。その結果、ベンヤミンが「歴史哲学テーゼ」で言ったように、「過去の真のイメージはちらりと浮かぶ」(Das wahre Bild der Vergangenheit huscht vorbei.) にすぎないわけだ。しかし、その方法が映画であり文学であるのではないのか?
(東宝第1試写室)



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●ボブ・クレイン (Auto Focus/2002/Paul Schrader)(ポール・シュレーダー)


◆トップ・クレジットが、いかにも1950年代風。モンローのシルエットも見える。バックの音楽はカウント・ベイシー風。ストーリーは、1964年のロスから始まるのだが、アメリカでは、1960年代末まで50年代文化が続いていた。地方都市では、もっとあとまで50年代のままだった。この映画の登場人物たちは、50年代のプラスとマイナスのなかを振幅している。
◆ボブ・クレインは、1928年に生まれの実在の人物。1956年からはロスのKNX-CBSのDJ。「DJ」といっても、いまのDJとは違い、しゃべりながら、レコードをかけるというやつ。レコードをかける手さばきよりも気のきいたしゃべりがメイン。そんなボブが、1965年、CBS TVの『0012捕虜収容所』で一躍スターになる。しかし、1971年にこの番組が終了。それを期に彼の転落人生が始まり、1976年、アリゾナのスコッツデールのホテルで殺される。この映画は、彼のドラマティックな半生の裏面史。
◆酒もタバコもやらず、日曜には教会に家族で行き、大声で聖歌を歌うような敬虔なキリスト教徒のボブ(グレッグ・キニア)の人生は、撮影現場でたまたま一人の男と出会ったことによって激変する。その男ジョン・カーペンター(ウィレム・デフォー)は、 SONYの初期のビデオレコーダーの開発に関わっているエンジニア(SONYをやめてからはアカイの仕事をする)。なぜボブがジョンと親しくなったかはよくわからない。ジョンが意図的に彼に近づいたのかもしれない。ボブは、すでに『0012捕虜収容所』の主役として有名だった。ジョンに同性愛的な嗜好がないわけではなかったという示唆もある。いずれにせよ、2人は親しくなり、ジョンに誘われて、ボブは初めてストリップ・バーに行く。そこで白塗りのストリッパーが踊っているシーンが、いかにもポール・シュレーダーらしくセンシュアル。ジョンは、そういう店で女を引っかけるのが趣味。ボブは、ジョン=メフィストフェレスの誘いで、初めて妻(リタ・ウィルソン――いかにも50年代の「主婦」をそれっぽく演じる)を裏切る。
◆ジョンは、まだテスト段階のビデオレコーダーをボブに見せる。そして、たちまち、これで、ひっかけた女とやるところを撮ろうということになる。ビデオに撮るということはジョンに教わるのだが、もともと、ボブには、メディア・セックスの素地があったのだろう。(しかし、ジョンとの出会いで、彼は、自分の魂を映像に売り渡すことになる)。彼は、ポラロイドを使って女の性的な姿態を撮り、コレクションする。それが妻にばれ、その仲も壊れるのだが、この映画は、性的欲動というものが、制度や慣習の壁のなかで歪められ、制約される不幸の物語だ。前にも書いたが、ドゥルーズとガタリが再定義した「生の内在的な第1の力としての欲望」の印画が、この映画の物語であり、1960年代前期のアメリカの状況を支配するものだったという示唆。
◆ジョンと一緒にオージーをやった記録ビデオを見ていて、ジョンの手が、ボブの尻に触っているのを発見して、ボブが血相を変えるシーンがある。ジョンは、最初、「オージーでは誰の手だって同じだろう、気持ちよければいいと思ってやったんだ」と言うが、ボブは許さない。彼には、同性愛は罪なのだ。しかし、ボブとジョンとの関係には、多分に同性愛的なものがある。これなども、いまだったら、あっさり「愛」と認めてしまえることだが、1960年代前期にはそうはいかなかったのだと、シューダーは描く。
◆いまでは、メディアが性的欲動の「アジャンスマン」の一つであることは、あたりまえである。ドゥルーズとガタリが、『アンチ・オイディプス』のなかで、「鐙」-「馬」-「騎士道」-「宮廷風恋愛」という一つの「欲望のアジャンスマン」を記述したように、ビデオというテクノロジーと道具が(器官としての肉体、情報関係としての社会秩序、距離を置いたセックス等々と)関連しあった「欲望のアジャンスマン」がある。自分たちのオージー・シーンが映っているビデオを見ながら、ボブとジョンがマスターベーションするシーンがあるが、こういう自由さが結局、抑圧されてしまうプロセス。そういうものとしてこの映画を見ると面白い。
◆ボブの忍耐強いエイジェントを演じるロン・リーブマンが渋い演技。ボブが初めて行ったストリップ・バーで踊っている「ミス・キティ」を演じるテリー・ギアリー(Teri Geary)は、ここではちょい役だが印象的。他作品はないようだが、いずれ名前が出てくるかもしれない。
◆いま英語で「ビデオレコーダー」は、「VCR」と言うが、この映画では、日本と同じように「VTR」と言っている。
(ソニー試写室)



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●ネレ&キャプテン (Wie Feuer und Flamme/Never Mind the Wall/2001/Connie Walter)(コニー・ヴァルター)


『レボルーション6』は、1987年のベルリンが舞台だったが、こちらは、1982年のベルリンが主要な舞台。最近のドイツでは、80年代への回顧が強まっているのだろうか? 東ベルリンのパンクスのドキュメンタリー的なシーンを期待したが、それは満たされなかった。(映画に出てくる東ドイツのパンク・ムーブメントをつぶすためになされた「ミールケの命令」は実在し、主人公たちが反ナチ運動の犠牲者をまつるドームに行き、バラの花束をささげるデモも実際にあったらしい。しかし、その映像がいかにも夢を見ているような感じなのだ)。東ドイツの官憲や通関職員の官僚主義が「いかにも」の風情で描かれているが、東独批判が主題ではない。東西の壁に隔てられるという設定は、むしろ、「ボーイ・ミーツ・ガール」ドラマをもりあげる装置。それはそれでいいだろう。ときがたち、昔の恋人のことを思い出し、会いに行くというドレマは、わたしは好きだ。
◆1989年11月1日、ネレ(アンナ・ベルトー)は、ニューヨークのUPS(United Percel Service)の作業場で従業員として荷物の整理をしている。そのとき、近くのテレビが、ベルリンの壁崩壊のニュースを映している。それに見入るネレ。彼女の記憶が1982年にさかのぼる。当時西ベルリンに住んでいたネレは、祖母の葬儀のために東ベルリンに行く。そこで、パンク・ロックのグループが演奏をしているのに出会う。彼らは、週末だけ教会のなかで演奏する。教会と反体制との関係は東ドイツでも強固だった。演奏を見ているネレの目とパンクスのリーダー格のキャプテン(アントニオ・ヴァネク)の目が合う運命的な出会い。以後、彼女は、たびたび東ベルリンの彼に会いに行く。彼らの演奏を撮ったビデオを持ち出し、西側の放送局ZDFの局員に渡し、放映してもらったりもする。これは、不本意な編集をされた形で放映され、キャプテンたちの不信と怒りを買うが、愛は続く。
◆ところで、わたしも経験しているが、ベルリンでは、放送は、狭いエリアなので、西側の人々が東側の放送を視聴したり、その逆に、東側の人々が西側の放送を見聞きしているということが当たり前だった。電波のレベルでは、東西の壁はなかったのである。
◆当時のぴりぴりしたベルリンの雰囲気を知る者として、ネレが、キャプテンに会うために、廃棄物投棄(西側のゴミは東側に捨てられていたという――そういう提携が東西ベルリン間でなされていたのか?)の船に忍び込んで東に密航するというエピソードは、ウソっぽいが、彼女の情熱を表現するための映画的効果なのだと受け取っておこう。
◆ネレが持ち込むデッド・ケネディーズのEP盤の演奏をはじめ、当時のロックサウンドが聴けるが、音をストレートには流さない。キャプテンたちの演奏も、彼らの動きと音とをズラしたり、時代の距離を差し込むかのような操作をしている。スタイル的にはさほど斬新なわけではないのだから、そういう操作はしないで、ストレートに流したほうがよかったのではないか?
◆東ドイツの官憲が、「心情にとらわれない」処置をせよという意味のことを言うときの字幕の原文は、「ザッハリッヒ」(sachlich)という言葉だった。これは、「具体的に」とか、「ありのままに」という意味もあるが、要するに「ずばっと」というような意味なのである。1920年代の「ノイエ・ザッハリッヒカイト Neuesachlichkeit」は、「新即物主義」と訳された。
◆ネレが捕まったとき、婦人警官がタオルのようなものを持ってきて差し出し、無言で顎をしゃくる。それでおまえの恥部をぬぐえというのだ。「?!」と思うネレに、婦人警官は、「逃げたら、犬にかがせるからね」。これは、いかにもドイツ的な怖さ。
◆キャプテンの家の寒々とした感じが面白い。食事のときも、みな、無言で食べる。
◆試写中、面白いことがあった。すでに開映後30分もしないころから、どこかでいびきが聞こえた。右まえの男がしきりに後ろを見る。わたしの位置を疑っているらしい。そのうち、いびきの音量が高まり、その発生源がわたしの左前の人物であることがわかった。開映まえにバルセロナがどうのと景気のいい話をしていたおじさんだ。おそらく映画館主か何か興行関係だろう。こういう人は、よく寝る。寝れる映画は買いなのだろうか、あるいは失格なのだろうか? とにかく、発生源がわかったので、右前のおじさんは、すごい顔で2席隣のいびき男をにらみつけた。そして、ついに、「あんた、眠らないでよ」と言い、バシリと腕を叩いた。いびき男がびっくりして起きたことはいうまでもない。しかし、あの音では、叩かれた方はかなり痛かったのではなかったろうか?
(映画美学校第2試写室)



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●アマロ神父の罪 (El Crimen del Padre Amaro/2002/Carlos Carrera)(カルロス・カレラ)


◆見終わった最初の印象は、それがどうしたという感じだった。ありがちな宗教界批判。運命的な流れを拒否したいと思いながら黙認する老神父と、流れにままにまかせる若い神父、・・・無力感を感じさせるだけで終わる映画のように思えた。しかし、少し時間がたつと、この映画の不可思議さがだんだんわたしの内部で高まってきた。
◆カソリックのベニト神父(サンチョ・グラシア)は麻薬取り引きにかかわり、事実上の「妻」アウガスティナ(アンヘリカ・アラゴン)がいる。全教区を統括する司教(エルネスト・ゴメス・クルス)は権力をほしいままにし、身を粉にして貧者を助けている解放神学派のナタリオ神父(ダミアン・アルカサル)を破門する。若いアマロ神父(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、なりゆきでアウガスティナの娘アメリア(アナ・クラウディア・タランコン)に惹かれ、妊娠させてしまい、堕胎をさせ、死なせてしまうが、同じポストにとどまる。一見、ありがちなカソリック/宗教界批判のようでいて、どこか違う。わたしが無神経なせいかもしれないが、彼らのやることがたんたんと描かれていて、別に「悪い」ことをしたという印象を受けないのだ。そういうこともある――それが人生だという感じ。
◆たしかに、ドラマの途中で脳梗塞を起こし、最後に車椅子で出てくるベニト神父は、彼のあとを継いで何事もなかったかのように儀式をとり行なうアマトの姿を見て、怒りをあらわにして教会を去るかのようにも見える。しかし、その表情は多義的だ。そうでない意味にも読める。
◆アマロがバスに乗ってメキシコのアルダマの小さな町にやってくるシーンから映画は始まるが、のんびりと走るバスがいきなりハイジャックされる。そのシーンも、どぎついけれど、世の中にはそういうこともあるんだといった感じの描き方。ハイジャッカーが金品を奪って去ったのち、バスは何事もなかったかのように走りはじめる。◆アマロとアメリアとの出会いも、彼が彼女をだましたという感じはしない。彼女は、非常にセクシーで、彼を見た瞬間から彼を好きになり、彼と寝たいという思いが込みあげてくる感じがセンシュアルに伝わってくる。だから、2人が「愛欲」におぼれるのは当然であり、それを拒むことの方がおかしいという感じがする。飛躍した言い方をすれば、この映画では、欲望は、ドゥルーズとガタリが再定義したような意味、つまり「恥ずべきもの」、「欠如を出発点にするもの」ではなくて、「生の内在的な第1の力」、「生成変化させる力」として描かれているように見える。
◆顔つきからして「怪しい」感じで描かれている老女ディオニシア(ルイサ・ウェルタス)も、別に「悪い」わけではなく、彼女の「生成変化させる力」としての欲望にしたがって生きているにすぎない。彼女が最初に強い印象を与えるシーンがある。聖餐式(聖体拝領の式/コミュニオン)で神父が信者の口に入れてくれる「聖体」のパン(ビスケットのような形をしている――正式の呼び名があるのだろうが、わたしはカトリックの大学は出たが、不信心なので、知らない)をこの老女は、一旦口に含み、次の瞬間、それをひそかに出して、隠す。この女は、反キリスト者なので、そういうことをするのかと思ったら(実際にそうなのかもしれないが)、家に持ち帰り、それをかわいがっているネコにやるのだった。このあたりも、面白い。彼女のやることが、見方によって多義的な解釈ができるからだ。
◆通常の意味で「悲惨」な感じがするのが、アメリアが堕胎に失敗するシーンだろう。ディオニシアの手引きで、アマロは、彼女を町はずれのあやしげな医師のところへ連れていく。外で待っていると、突然、ディオニシアが「血が止まらないんだよ!」と叫びながら出てくる。手術室に飛んでいくと、アメリアが下腹部を血に染めてぐったりしている。アマロは、彼女を車に乗せて、町の大きな病院に運ぼうとする。が、その途中でも血はとまらず、手を差し延べたアマロの手にべっとりと血のりがつく。このあたり、カトリック文化圏の「残酷の美学」というか、「見世物」的というか、何かそんなことも感じられる不思議なシーンである。アマロとアメリアが逢い引きしているのを隣の部屋で気づいている重度身体障害の少女の姿も「見世物」と紙一重である。「通常」の意味では、彼女が無言で「批判」のまなざしと身ぶりを示しているように見えなくもないが、そういう風に単純に見れないのが、この映画の不思議。
◆映画の表題は、アマロは「犯罪」(crimen)は犯したかもしれないが、道徳的な「罪」( pecado)は犯してはいないということを示唆しているようにも見える。カソリックの世界では「堕胎」は「犯罪」であり「罪」なのだが、「犯罪」と言って「罪」とは明記しないところが面白いと思う。
(ソニー試写室)


2003-08-12_1

●イン・ディス・ワールド (In This World/2002/Michael Winterbottom)(マイケル・ウィンターボトム)


◆本当の意味での「ドキュメンタリー」というのは、こういう映画をいうのだろう。主役の2人は映画出演の経験はない。町の人々もほとんどそのままのしゃべりをしている。演出と演技はあるが、一つの特殊な場に人が置かれれば当然そうなる・するであろうような言葉と身ぶりの説得力とリアリティが出ている。それにしても、ウインターボトムは、いつもアクチュアルだ。彼のような映画作家を映像アクティヴィストというのだ。
◆パキスタン北西のペシャールの難民キャンプからロンドンまで陸上をパスポートなしで移動する15歳の少年ジャマール(カマール・ウディン・トラビ)と20代の従兄弟エナヤット(エナヤトゥーラ・ジュマディン)。金を取って難民を西側に送り込む組織、その方法、危険、知恵、不幸、幸運などがリアルに描かれる。以前、メキシコから北米への「不法入国」のドキュメンタリー(BBC)を見たことがあるが、人間には運というものがあるのだということを痛感せざるをえなかったが、今回もそうだった。
◆2人の脱出は、親戚や友人たちの熱い期待と支援によってスタートする。(牛を殺し、解体するシーンがあるが、それは、2人の門出を祝うためだろうか?)いくらそういう組織があるといっても、「闇」の組織だから、口づたえでしか情報は入ってこない。金を渡しても、それが果たして信用できるのかどうかもわからない。「難民」たちは、そういうあぶなっかしい確率のもとで自分の命(文字通り)を見知らぬ(その多くはあやしい)男たちに託する。
◆画面が黄色に見える砂嵐で視界のきかない道を走るトラックを乗り継ぎ、タフタンへ。そこで警官のチェックを受け、警官が、「これは何だ?」とエナヤットのバッグのなかのウォークマンをとりあげたとき、ジャマールがすかさず「あなたへの贈り物です」と言い、その場を解放される。彼にはそういう機転とユーモアの才能がある。面白いのは、あらかじめ知らされた人物を探し、尋ねていくと、ほぼ自動的に指示があり、トラックに乗せられることだ。そのトラックは、ときには果物の運搬者であったり、またときには動物といっしょだったりする。ようやくイラン国内に入り、1万レアルも払わされて怪しげなホテルへ。案内の男は、「そんなもの捨てろ」と2人の服と帽子を着替えさせる。たしかに、アフガン難民ぽい格好は少し変わった。しかし、2人がそこからテへランへ行くバスに乗ったとき、バスのなかに警官が入って来て、パスポートの提示を求める。「アフガニスタン人だろう?」と言われて、彼らは首を振るが、相手は見抜いている。2人の言語はタシュケント語で、ペルシャ語はしゃべれない。結局、2人は、ふたたびパキスタンへ送還される。再会した仲介の男の台詞がふるっている。「旅行したと思うんだな。また金を払えば手配はするよ」。
◆エナヤットが持っていた虎の子のドルで再び挑戦。テヘランに入ると、情景が一変する。街には商品があふれ、女たちも西欧的な服を着て闊歩している。ここでも、名前をたよりに訪ねた先で薄汚い部屋に案内される。しかし、そこは一応「ホテル」で、それなりの金を取られる。エナヤットでパキスタンの貨幣ルピーからイランのリアルへ両替したとき、はたしてぼられてはいないのだろうか? そのとき人のいいエナヤットが「信用するよ」と言って、受け取った札束をしまおうとすると、ジャズ・ピアニストのマル・ウォルドロンのような瞑想的な顔をした男は言った。「数えな。おれは悪人かもしれないから」。
◆テヘランまでは、(それなりの危険と苦労があるとしても)ヒッチハイク風の旅だったが、テヘランから国境の村マクーへ行き、そこから山を越えてイスタンブールへ行くのがきつそう。寒くて空気も薄そう。村でもらったか買ったかした服や運動靴もどこまで気候の厳しさに耐えられるのか? しかし、20日以上かけて、2人はイスタンブールに到着。映画は、細かな描写はしない。20日があっというまに描かれる。しかし、街の怪しげな通り、どこへ行ってもサッカーでは仲間になれる不思議なコミュニケーション。この種の映画で必ず出てくる「搾取人」がいないこと、そういう――実はそれがおおむね普通の――「現実」にささえられた描写が、この映画にリアリティをあたえている。
◆マクーを去るとき、村のおばさんが、器に火をともして2人を清めるような儀式をした。ふと、わたしは、日本のお盆で火を焚く習慣(迎え火と送り火)があることを思い出した。こういう習慣は、この辺とつながりがあるのだろうか?
◆インスタンブールでは、宿泊に300万リラ払わされる。言われるがままのように、工場で働くことになる2人。そこは、食器のフォークなどを作る工場で、そんなことをしていて手を機械にはさんで指でもなくすのではないかというようなあぶなっかしい工場。が、そこへいきなり男がやってきて、車に乗せられる。この街で、小さな赤ん坊を連れた夫婦に会う。彼らは、デンマークに行くのだという。彼らもいっしょにその車に乗る。コンテナーに乗せらるシーンでいやな予感がした。赤ん坊を含む5人をコンテナーに押し込むように乗せた男は、外からドアーの取っ手にかんぬきのような棒を指す。それは、ユダヤ人を強制絶滅収容所へ送る列車のシーンでよく見たシーンと同じだったからである。なかには、ジャマールたちの一行以外にも老人たちが乗っていた。が、薄暗くて全貌は見えない。
◆コンテナーは、陸路を運ばれたのち、フェリーに積み換えられる。行き先はトリエステ。わたしはかつてクロアチアのラビンというところでラジオアートの集まりがあり、トリエステ経由で行こうとしたことがある。このイタリアの街は面白い。が、トリエステまで車を出すという招待先の提案は断った。あとで知ったが、トリエステからクロアチアまでの車の旅は大変のものだったという。しかし、この映画の「難民」の旅と比較すれば、その「大変」さは何でもない。彼らは、暗い、空気の薄いボックスに40時間も閉じ込められ、トリエステに着くのだから。その間に、ジャマールの幼児のほかは、どうやら命を落としてしまったらしい。(ウィンターボトムは、こういうところもしつこく描かない――それがかえってショッキングだ)。トリエステに着き、コンテナーのドアが開かれたとき、ジャマールに意識はもうろうとしている。まわりには昨日まで元気だった者たちが倒れている。すべてを知ったとき、彼は、やり場のない怒りと悲しみの叫びを上げながら、港湾のひと気のないコンクリート道を走りつづけるしかなかった。
◆追いつめられれば、持てる者から奪うしかない。ジャマールは、トリエステのカフェーでアクセサリー売りのようなアルバイトをつかのまするが、ある日、身なりのよい夫人のハンドバッグを奪って、金を抜く。その金で列車の切符を買い、パリへ。そして、パリからカレー市のサンガト難民キャンプへ。パリで知り会った若者が、うまい方法を教えてくれた。それは、板切れを長距離トラックの車体の下にはさみ、そこに乗って行く方法だ。以前、飛行機でこの方法を企て、凍死した男がいた。長距離トラックならなんとかやりぬける。
(東宝試写室)



2003-08-09

●シモーヌ (SImOne/2002/Andrew Niccol)(アンドリュー・ニコル)


◆『ガダカ』と『トゥルーマン・ショー』の脚本を書いたアンドリュー・ニコルの監督・脚本作品だから、いまの映画のメディア状況のツボをおさえている。しかし、ニコルがそういう感じなのか、あるいは予算やプロダクション・デザイン(ヤン・ロルフス)に問題があるのか、少しでもコンピュータのことを知っている者には、「??!!」と思わせる個所が多すぎる。とはいえ、ストーリーは、抜群に面白いので、見ているうちにそういう技術的なインチキさは気にならなくなる。むかしアカデミー賞を取ったことがあるが、いまはさっぱり売れない、その名もタランティーノならぬタランスキー(アル・パチーノ)が、たまたまその熱烈なファンからもらったシミュレーション・ソフトでヴァーチャルな女優シモーヌ(レイチェル・ロバーツ)を作り上げ、有名女優ニコラ(ウィナノ・ライダー)が降りてしまった役を埋め、なんとか完成にこぎつける。ところが、それが当たってしまい、シモーヌも、国際的な人気を獲得してしまう。どうするタランスキー?
◆タランスキーが落ち目だと知って無理難題を言うわがまま女優をウィナノ・ライダーが見事に演っている。万引きで逮捕されたウィナノ(防犯カメラに彼女が毛皮のコートなどを万引きしているのが映っていた)が復帰できるのか心配したが、アメリカではそういうことは大した問題ではないらしい。その点、日本はモラリッシュだねぇ。見事といえば、タランスキーの娘レイニーを演じているエヴァン・レイチェル・ウッドが猛烈うまい。あまりに存在感があるので、最後にこの子が何か特別の役を与えられるのかという錯覚をおぼえてしまう。
◆あえて問題点を言っておこう。コンピュータに没頭しすぎて片目を腫瘍で失い(これは真実味がある――わたしもあやうくそうなりかけた)、脳に腫瘍が転移している男ハンク・アレノ(イライアス・コティーズ)が持ってきたソフトは、3.5インチのハードディスクに入っている。ここまではいい。しかし、世界的な評判になるような映画を、(その出演者をコンピュータで創造しただけでなく)編集から何から全部タランスキー自身でやってしまったかのように描かれるのは、あまりに嘘くさい。ウィナノが降りてしまった作品は、途中まで出来ており、ジェイ・モーアが相手役を演っているのだが、この論理で行くと、この映画は全部最初から撮影も編集もタランスキー一人でやっていることになる。分業の厳しいいまのハリウッドでは無理な話だ。最後のクレジットのあとのおまけのシーンで、タランスキーがスーパーマーケットでDVDを回している。それを合成して、シモーヌの日常を紹介する映像を作るというわけだが、ハリウッド映画はまだそうはなっていない。
◆こういう映画を作るのなら、最初に、相当進んだ映像システムを見せ、それをタランスキーが一人であやつって観客を信用させなければならない。実のところ、原理などしらなくても、たとえば、 discreet の flame のようなソフトを使えば、この映画でやっていることに近いことがパソコン上でも出来る。たとえば、シモーヌの声をローラン・バコール風にするとか、涙を流させるとか。しかし、映画用のカメラで撮影したフィルム映像と合成するということになると、SGI のような会社の大きな装置が必要になる。映画では、がらんとしたスタジオに大型の液晶モニター(これはよろしい)とパソコンともワークステーションとも見える程度のマシーンが3、4台床に置かれているにすぎない。(ハードディスクを直接インサートできるようになっているマシーンは、ワークステーションだろう)。しかも、シモーヌの人気が出てきて、CMに登場したり、テレビに出演したりする。当然、高速回線などの設備がなければならないが、そういう装置の存在は全く示されない。
◆一番おかしいのは、彼の意志とはうらはらにシモーヌのキャラクターがひとり歩きしてしまうのにたまりかねたタランスキーが、ワークステーションにウィルスソフトを入れてデータを消してしまう。そのときのソフト媒体が、いまではとうになくなっている5インチフロッピーなのだ。こんなもの、いまどき、どこをさがしても売っていない。
◆面白いと思うのは、問題のソフトを作った「ハンク・アレノ」(Hank Aleno)という人物だ。この男は、彼をたたえ、その死をいたむサイトによると、コンピュータの天才で、RRR (Radical Regulated Cooling System)を作り、財をなした。2002年に亡くなるまえに話していた最後のプロジェクトは、「究極のデジタル・セレブリティ」を創造するソフトの開発だったという。このサイトに載っている彼の写真は、映画でもそのまま踏襲されており、片目を眼帯とサングラスで覆っている。 ここまで読んだ読者は、「ヴィクトール・タランスキー」のサイトも見ておいた方がいい。しかし、ここまでやるのなら、生身の役者レイチェル・ロバーツも使わずに、『ファイナル・ファンタジー』のように最初から「アンドロイド」を作ってしまった方がよかっただろう。技術的にはもうそういうことも可能だ。それで、このドラマのような事件を起こせたら申し分ない。
(ギャガ試写室)



2003-08-07

●死ぬまでにしたい10のこと (My Life Without Me/2003/Isabel Coixet)(イザベラ・コヘット)


◆すべて登場人物は生活のために必死で働いている低所得の人々。みんながいつもタバコを吸っているのは、それを暗示している。舞台はカナダだが、アメリカでもカナダでも、わたしの無責任な観察によると、ミドル・クラスより上の男はだんだんタバコを吸わなくなり、逆にロワー・クラスの男女、ミドル・クラスの女性の喫煙率が高い。夫ドン(スコット・スピードマン)、2人の娘と暮らしている23歳のアン(サラ・ポーリー)は、夜になると、大学の清掃の仕事に出かける。昼間建築の仕事をしている夫ともうまくいっている。父は刑務所に入っており、母(『ビデオドローム』のデボラ・ハリー)のグチを聞くことが多いが、貧しいながらおおむね平穏な毎日だ。職場では、ちょっと不器用なローリー(『バタフライ・キス』のアマンダ・プラマー)と仲がいい。が、ある日急な腹痛を覚えて病院に行き、検査を受けると、内気な担当医(ジュリアン・リチングズ)からあと2、3ケ月の命だと宣告される。映画は、あまり彼女の驚きや逡巡をありがちに「劇的」に描くことをせず、カフェーでノートに10項目のリスト(10 things to do before I die)を作るシーンへ移る。そして、それを次々に実践していく。
◆致命的な癌にかかって、のこされた命を「懸命に生きる」話は、よくあるし、わたしの知り合いにも、死ぬまえに何冊も本を出し、マスコミにその「闘病生活」を公開しながら死んでいった人がいる。しかし、アンの場合、そういう見ているのが耐え難い「懸命さ」というものがない。それが非常に新鮮で、こういう状況に陥ったら自分もまねしてみたいと思わせる。わたしが、アンのような宣告を受けたら、メキシコに行くつもりだが、彼女の10項目の予定のなかに、「夫以外の男性とセックスすること」というのがある。その一方で、「夫にいい相手を見つけること」というのもある。そして、それらの計画がみなうまく行くところが、この映画の解放的なところだ。本当に絶望的な状況は、それを「ありがち」なパターンでなぞらえたドラマで追体験することなどできはしない。むしろ、「ありがち」ではないはっとするような方法もあることを見せ、生き方は、どんなときでも、決して一つではないことを示唆してくれた方が役に立つ。
◆この映画では、あたかも彼女の短い命を知っているかのように、周囲が彼女に優しい。こういう事態に至っているのに、夫のあの態度は非現実的だという批判がIMDbに載っていたが、そうではない。彼女の人柄が周囲をそうさせるのであり、そういう人柄の人(不幸にしてわたしはそうではないが)は実際にいるのだ。「悪」そのもののような役をやったアマンダ・プラマーが演じても「いい人」にならざるをえない人柄。アンが行く美容院の美容師(髪を凝ったブレード[braid 三つ編み]にしている)を演じるのは『パルプ・フィクション』に出ているマリア・デ・メディロスだが、この人の顔は、ちょっとアバズレの感じなのだが、そういう子でも、アンのような人にだったら親切だろうなと思う。
◆娘が18になるまで誕生日ごとに聞かせるお祝いのテープをアンが吹き込むシーンがある。映画のナレーションは、そのナレーションとだぶっている形式でつくられている。だから、この映画は、彼女の死後、遺された者の目と時制で描かれているとも言える。それならば、世界は死に行く者の目から見られているわけだから、普通とはちがって見えるのはあたりまえだ。その意味でもIMDbの読者の批判はあたっていない。ダンボール箱いっぱいのカセットテープを、彼女は、担当医に託す。彼は、「それも治療のうちだから」と言って今後十数年間、テープを代送することを約束する。何年も先のことを計画し、それを確実に実行したり、その代行を約束したりするのは、いかにも西欧的だが、わたしは好きだな。
◆この映画では、物語が重要な要素をしめる。全体がアンの物語る物語だが、登場人物たちもそれぞれに物語を聞かせる。アンの母は、誕生日の日、夫は刑務所におり、たった一人でバーに行き、バーテンダーに今日は誕生日なんだと話したら、彼が、ピーナッツを皿に盛り、その上にローソクを載せてくれた。終わり近く、彼女は、自分のあとを託せそうな女性に出会う。彼女の名もアン。これを、あの『トーク・トゥー・ハー』のレオノール・ワトリングが演じている。彼女は、子供を持ちたくないという。それは、彼女が、看護婦として出産に立ち会ったときの事件に起因している。生まれてきたのは頭がくっつき、心臓は1つの「シャム双生児」だった。その父親はその子を見ようともせず、一旦保育器に入れたが、親たちの希望でそこから出すことにした。彼女は、その夜、その子が冷たくなるまで抱きしめていた。みんなある意味で「泣かせる」話。ところで、こういう物語という形式は、「あなた(you)」を前提にしたいかにも西欧的なコミュニケーション形式だ。この映画でも、アンは、自分を指して、「これがあなた(this is you)よ」と言うが、これを日本語にするときは、「これがわたしよ」と訳さないとサマにならない。このへんに、言語とコミュニケーションの深い問題がある。
◆アンが死の恐怖と闘う姿は心理主義的な「ありがち」な形では映されないが、雨のなかでずぶぬれになりながらたたずんでいるシーンにそのわずかを見ることができる。道の向こうで、いくつものクリスタルグラスに水をためて音を出しているグラス・プレイヤーの姿がある。その姿が、もう一度まぼろしのように出てくる。このショットの示唆するところは何か?
◆アンが、知りあった新しい男リー(マーク・ラファロ)から借りて読む本は、ジョージ・エリオットの『ミドルマーチ Middlemarch』 。ジョン・バージャーの『To the Wedding』も読んだらしいが、この映画のスタイルは、どこか前者に似ている。
(松竹試写室)



2003-08-06

●歌追い人 (Songcatcher/2000/Maggie Greenwald)(マギー・グリーンウォルド)


◆ピーター・バラカンの絶賛にもかかわらず、あまり好きになれなかった。わたしが、ジャズやブルースは好きなのに、カントリー・ウェスタンのようなものを好きでないせいもある。いや、それどころかわたしは、そういうものに、いまのアメリカを全く魅力のないものにしている元凶があるとすら思っている。フォークソングもいやだ。そう考えると、60年代のアメリカの反戦ソングだってやばい。そもそも「フォーク」という発想自体がまやかしである。一体、「フォーク」なんかどこに実在するのか? わたしは、ビートルズも嫌いだが、それは、この映画があつかっている200年まえのアメリカへの入植者の「フロンティア」の「大衆的伝統」と、本土(イングランド/スコットランド/アイルランド)を介してビートルズが共有しているものを感じるからだ。だから、ビートルズが好きな人はこの映画も大好きだろう。
◆ニューヨークといっても1907年だから、男性至上主義さかんなりしころで、女性の教員など例外的な時代。しかもmusicology(音楽学)などというマイナーな学問を教えるリリー(ジャネット・マクティア)。映画は、彼女がピアノを弾きながら歌うシーンから始まり、しかもカメラが、部屋にある蓄音機、シューベルトの写真や家具をなめて行くので、彼女の書斎かと思ったら、そこは教室だった。(*ここですぐ前の席におじさんが遅れてきて座り、画面の下側の字幕が見えなくなった――この人、その後30分あまり団扇で体を冷ます。その風がこちらに来て、視聴を大いに妨害される――この映画の評価がやや低いのはこのせいもあるかもしれない)
◆リリーは大学が自分の仕事を評価してくれないのにうんざりし、妹エレノア(ジェーン・アダムス)が教師をしているノースカロライナ州のアパラチアへ行くことにする。妹の家で近所の少女ディレイディス(エミ・ロッサム)が歌う歌が、自分の研究課題である200年以上昔の入植者の民謡であることに気づき、仰天する。以後、彼女は、ニューヨークから当時としては最先端メディアの蝋管録音機を取り寄せ、民謡の採取を開始する。そうした民話の古老ヴァイニー(パット・キャロル)との出会い、町の生活経験があり、都会人への偏見が強いトム(エイダン・クイン)との出会い→最初反発、そして最後はありがちな愛情関係へというメロドラマ、妹が年上のハリエット(E・カサリーン・ケール)と同性愛関係にあることの発見と驚き、それに端を発する大詰めの事件へと進むドラマはうまく演出されているのだが、どこかありがちなパターンでわたしは感動できなかった。
◆作中、トムが、村人の歌なんか採集してどうするんだ、そっとしておくことが彼らのためになるのだというようなことを言うくだりがある。おそらく、彼女のような仕事がなければ、歴史は消えてしまうのだろうし、音楽にかぎらず、文化人類学的なフィールドワークの対象はいつもそういうあやうさを持っている。歴史の採集は果たして誰のためになるのかという問題。
◆『歌追い人』は、アメリカの「大衆的伝統」を過剰に美化していることは否定できない。しかし、その「伝統」は、あくまでもアメリカ西南部の白人の「伝統」であって、東ヨーロッパからのユダヤ人、黒人や東洋人等々の移民たちの「伝統」とは無関係だ。この映画は、たまたまそうした「大衆的伝統」に焦点を当てているにすぎないにしても、それが、いまの時代になされ、そして、高く評価される(この映画は、2000年のサンダンス映画祭で特別審査員賞を得ている)ということの意味は考えてみる必要がある。
◆リリーが村人を訪ねてまわると、見知らぬよそ者が来たというので、住人がいきなり銃をかまえて飛び出してくるシーンがある。そういうのは、西部劇やハリウッド映画のなかでは見慣れたものだが、この映画を見ていて、ポピュリズムが強調されているのにうんざりしたせいか、レーガン以後のアメリカが国家規模でやってきたこと、そしてブッシュ親子がさらに露骨に引き継いだことを思い出させるのだった。
◆ダンカン・ウェブスターは、『アメリカを見ろ!』(Looka Yonder!/1988)(安岡信訳、白水社)のなかで、アメリカのレーガン政権がいかにポピュリズムの復活に意を用いてきたかを80年代の映画やポピュラー音楽を使って鋭く分析している。「伝統」の強調は、ノスタルジアとしてではなく、「過去の戦略的な総動員」として見る必要があるとウェブスターは言うが、まさに、レーガンが言っていることなどノスタルジアの強調にすぎないと嘲笑しているうちに、着々と「過去の戦略的な総動員」がなされてしまったのが、この20年間だった。
◆唯一面白いと思ったのは、映画の結末、この村を離れるに際して彼女が選んだ生き方だ。キリスト教の浸透した前近代の因習世界にありがちな事件が起こり、リリーが調査の意欲を失ったとき、いまごろになってニューヨークの大学から、彼女の仕事の意味を再認識し、本格的な調査に潤沢な予算をつけるというオッファーがもたらされる。しかし、彼女は、それを断り、トムとの新生活へと向かう。どうやって暮らすんだというトムの問いに、彼女は、あなたたち(ディレイディスも連れて)が歌い、蝋管録音機で録音して売り出すんだと言う。「これからは、蝋管を買って音楽を聴く時代が始まるのよ」。たしかに、アメリカのミュージック産業は、グラスルーツなものを発見し、粉飾してマーケットに乗せるというやり方で発展してきた。リリーは、そういう文化産業の先駆者の一人になろうというわけだ。これは、いまや情報と化した土地へのありもしない信仰にもとづく愛国心、無理だらけの宗教心、もうどこにもありはしない「フロンティア」への「スピリット」の扇動等々にもとづくレーガン/ブッシュ系ポピュリズムとは一線を画する。まあ、こうして見ると、結末を知ってからもう一度この映画を見ると、印象が全くちがうかもしれない。
(松竹試写室)



2003-08-04

●座頭市 (Zatoichi/2003/Takeshi Kitano)(北野武)


◆「座頭市」というタイトルからみて、続編を作るつもりはなさそう。1発ねらい。何を? むろん、たけしのことだから、国際映画祭の賞だ。事実、ヴェネチア映画祭出品が決定している。そういうところがみえみえの作り。博打に勝った市と(知りあったばかりの)新吉(ガダルカナル・タカ)と「芸者」ならぬ「遊女」(大家由祐子・橘大五郎)を料理屋に連れ込み、太鼓持ちを呼んで遊ぶシーンなど、さしずめ外国人向けに「芸者遊び」を紹介するためのもの。細部はどうでもいい作り。しかし、ヴェネチアも、こういう作品にはもうだまされないのではないか?
◆とはいえ、勝新太郎の「本編」を全然見ていない観客には、「本編」を見て見たい気にさせるかもしれない。「本編」から取ったと思われる要素はむろんあちこちになる。たとえば、冒頭の切り合いのシーンとか、徳利がすぱ~っと切れてしまうとか、灯篭が斜めに切れるとか、賭博場でのやりとりとか・・・。
◆殺陣には新味がある。つまり、これもたけしらしい要領のよさだが、ちゃんと体を動かさなくても効果だけ出すやり方だ。たとえば、刀を構え、さっと振るシーンを映し、次の瞬間、切れているショットにつなぐとか。中間を省略することによってかえってスピード感を出す。そのくせ、浅野忠信には、普通の(つまり肉体の技術を要し、疲れる)殺陣をやらせる。
◆映像のきびきびしたリズム、照明の切れ味、雨と地面の古典的な撮り方、適度に配置した(外国人向け)文化人類学的「らしい」ショット、タップのリズムで村の祭りの踊りを演出したのも外国受けねらい。が、わたしには、テレビの時代劇の何十本ものショットを編集しなおしてつないだだけという感じ。演出では工夫したかもしれないが、市役のビートたけしの「自然体」(何もやらない)はセコすぎるという感じ。
◆この映画引かれているいくつかの糸の一本は、「おきぬ」(大家由祐子)と「おせい」(橘大五郎)は、幼いとき、盗賊に襲われて親たちが皆殺しにされ、「彼女」らは、身をやつして旅をしながらその仇探している。もう一本は、道場荒らしの浪人に負け、師範代の地位を失った浪人・服部源之助(浅野忠信)が、肺病を病んだ妻おしの(夏川結衣)を連れて、金目当ての殺し屋をやっている。この二組と座頭市とが同じ宿場で合流する。その宿場を仕切っているのがやくざの銀蔵(岸部一徳)で、服部がこいつに用心棒としてやとわれることになる。座頭市というトリックスターが賭博場でゆさぶりをかけ、全体が揺れる。そして、最初はばらばらの糸がからみあう。次第にわかるのは、「おきぬ」たちの家を襲ったのは、盗賊団「くちなし」だったということ、そして、その首領と幹部らのいまの姿が暴露され、制裁を受ける。
◆最も悪い奴は、市井のなかに身を隠しているという視点が、勝新太郎の「本編」から引き継がれているが、たけしの座頭市が、あまり抑圧されてきた人間の感じがしないので、逆に(相手がどんなに悪いことをしてきたとしても)なにかこっちがいじめている感じがする。
◆タップと村祭の組み合わせは、岡本喜八の『ジャズ大名』で「ええじゃないか」とジャズを結びつけたののパクリか? 後者は、日本の庶民の反権力的な気分とジャズとを結びつけることによって、その気分の時代を越えた新しさを感じとらせてくれたが、『座頭市』は、ただの思いつきにすぎない。
◆「めくら」、「こじき」といった差別語をあえて使っているのがわかる。これらの語の背後に、たけしの皮肉な笑いが見える。「めくらの方が人の心がわかる」と言う市。その彼が、悪党のかしらを殺さずに、その目を切り裂き、「一生めくらで暮らせ」と捨て台詞を吐く。悪党への情けというわけ?
(松竹試写室)

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