粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-06-28_2

●ふたりの5つの分かれ路 (5x2/2004/François Ozon)(フランソワ・オゾン)

5x2
◆前作の『スイミング・プール』ほどではないが、細部にいろいを鍵が隠されていて、それに気づけば、あるいは、それを拡大解釈すれば、この映画世界の奥行きがぐっと深まる面白さは、オゾンならではのもの。マリオン(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)とジル(ステファンヌ・フレイス)が、弁護士事務所で離婚の「契約」をするシーンから始まり、二人が初めて出あったところまでの5つの期間のエピソードを過去に向かって遡及する。5つのエピソードのあいだには、イタリア語のヒットソングをはさみ、各エピソードのどちらかというとシリアスな感じを「異化」する。
◆弁護士事務所の次のシーンは、2人は、離婚成立の「記念」にホテルで最後のセックスをするかのように見える。そう取ってもよいし、実は、最終的に弁護士のところで離婚の誓約書にサインをする以前に起こった最終的な決裂の出来事を映したものだと取ってもよい。ただし、その場合は、ブロック化されたエピソードは6個になってしまうが、これから出てくるエピソードは、時間を逆行させて見せていくんだよということを暗示するエピソード0だと考えてもいいのではないか? このへんの両義性が面白い。
◆過去を、現在を起点にしてさかのぼるといっても、この映画は、クリストファー・ノーランの『メメント』のように、時間の流れを逆転した形で行うのではなく、過去の複数のエピソードを新しい順にならべる。だから、登場するマリオンもジルも、だんだん若くなるのだが、だからといって、より古いエピソードがすでに終わった出来事だということにはならない。現在の平台のうえに等価に並べられることによって、等しく、新たな解釈が可能になる。
◆わたしは、以前、ある夫婦のために、たまたまわたしが撮っていたビデオ映像を編集して、結婚から子供の誕生、そしてその後のある時期までのDVDを作ってあげたことがある。そのとき、わたしは、特にスタイルに凝るつもりはなかったので、過去→現在への時系列に従ってエピソード・ショットをつないでしまったが、この映画を見て、別にマリオン/ジル夫婦のように別れてしまわなくても、ある人(人々)の人生(の一こま)を描くには、現在から過去にさかのぼる編集をしたほうが、その人生の多様性が出るのだなと思った。
◆大きなおなかをかかえたマリオンに対してジルがどこか無関心で、出産のときも、病院の近くに車をとめて、逡巡しながら、結局出産にはたちあわない。どうしてなのだろうと思っていると、後半でその理由がわかる。しかし、その「理由」も、別様に解釈しようと思えばできるように、明言しない。
◆万人的に「魅力的」でセクシーなマリオンに対して、ジルは、どこかとっつきにくい。もともと、マリオンと出あったとき、彼は、会社のキャリア組みで、彼女は、取引先の宣伝関連会社の社員だった。彼には、熟女っぽい(おそらくキャリアウーマンか金持ち)恋人ヴァレリー(ジェラルディン・ペラス)がおり、2人がカリプソで避暑を楽しんでいるところへたまたまマリオンが一人でやってきてジルと出会う。このへんから逆算して考えると、この時点では急速に燃え上がることになるとしても、ある種「階級的」無理があったのかなという思いを起こさせる。
◆ジルの兄クリストフ(アントワーヌ・シャピー)はゲイで、若い恋人マチュー(マーク・ラシュマン)がいる。マチューは、クリストフだけを愛するなどという考えはない。クリストフは、「自分は歳だから」と言いながら、それを許している。この二人をマリオンとジルが食事に招くひとときを映すエピソードでは、「浮気」が主題になっている。ゲイは、ヘテロとちがって、どこかでポリセクシャリティを暗黙に認めている。クリストフに嫉妬がないわけではないとしても、マリオンとジルとの関係とはちがう。だから、クリストフとマチューの話につられて、自分たちの「浮気」体験を告白してしまったのは、うかつだったかもしれない。
◆人生は、あるときそのことがなかったら別様になったかもしれないというようなことであふれている。結婚式の日、披露宴でジルがワインを飲み過ぎなければ、そのことは起こらなかったかもしれない。ところで、二人は、証人のまえで民法の結婚関連法規を読み上げるという非宗教的な結婚式をする。披露宴で家族が輪になるようにして熱狂的に踊っていたが、この踊りはどこの踊りだろうか? ちょっとギリシャ風にも見えたが、マリオンとジルは、どういう民族的バックグランドを持っているのだろうか?
◆ミッシェル・ロンダールとフランソワーズ・ファビアンが演じるマリオンの両親は、いつも喧嘩ばかりしていても、一応夫婦であり続けている。この二人が、結婚披露宴が終わったレストランのフロアーで、「煙が目にしみる」をバックにダンスをしているのをマリオンがちらりと見るシーンがある。取り方は色々だろうが、わたしには、この二人は、そのまま心中しても不思議でないような破滅的な雰囲気をしているように見えた。「喧嘩してもやはり愛しあっているんだな」などというものではない。むしろ、「うあわぁ、やだな」という感じだ。マリオンは、どう感じたのだろうか?
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズGシネマグループ)



2005-06-28_1
●アワーミュージック (Notre musique/2004/Jean-Luc Godard)(ジャン=リュック・ゴダール)

Notre musique
◆この文章を書いているのは、8月の末である。公開が10月だからというわけではない。だいたいわたしは、好きな作品、あまりに書きたいことが多い作品に関しては、ノートを先送りする傾向がある。すぐ下段にひかえるはずの『バッドアス!』の場合もそうだ。
◆『映画史』(第1部第2部)と同様に、この作品も、のめり込む者と拒絶する者とが分かれるだろう。スタイル的には、『映画史』と同じで、映画と書物からの引用とナレーションによって構成されている。基本のテーマも、戦争だ。ずっと状況の先端といっしょに歩んできたゴダールにすれば、9・11以後の状況を欠かすことはできないし、イスラエル・パレスチナ問題やバルカン半島の戦争について語ることは避けられない。
◆ダンテの『神曲』にならい、「地獄」、「煉獄」、「天国」の3部構成になっている。ダンテの『神曲』(La Divina Commedia)の「コメディア」は、日本語では「喜劇」で笑いと関係があるという印象が強いが、「コメディア」は、原義的には、必ずしも「喜劇」ではなく、「トラジェディア」が悲劇的な結末を迎えるのに対してある種「円満」な結末を迎えるということのようだ。ダンテにあやかっているこの映画も、その意味では「コメディア」の結末になっている。「コメディア」を「曲」と訳したのは誰か知らないが、この映画のタイトルの「ミュジーク」=「曲」だとすれば、この映画のタイトルは、「われわれのコメディ」という意味にも翻訳できる。
◆『神曲』で「三界遍歴」をするのはダンテだが、その三世界にそれぞれ案内人がいる。3つの世界をまたがりながら、ヴェルギリウス、ベアトリーチェ、聖ベルナルドがダンテに従う。この映画では、「ダンテ」はゴダールだとしても、それに対して、イスラエルの女性ジャーナリスト(サラ・アドラー)、通訳(ロニー・クラメール)、『リベラシオン』の記者(ジャン=クリストフ・ブヴェ)、フランス大使(サイモン・エイン)、パレスチナの詩人マフムード・ダーウィッシュ(本人)、スペインの作家ファン・ゴイティソーロ(本人)、フランスの作家ジェン=ポール・ベルグニウ(本人)など、「案内人」にふさわしい人物が登場するが、ナード・デューが演じる女子学生オルガは、ベアトリーチェ役というより、一貫した「案内人」であるような気がする。そして、彼女がサラエボ(「地獄」にふさわしい)にレクチャーをしに来たゴダール=ダンテにDVDを手渡す。ある意味で、この映画全体がこのDVDであってもいいかのような構成。現代の「神曲」の世界は、フィジカルな世界ではなく、デジタルな世界なのだ。いずれにせよ、彼は、彼女に導かれて、「三界」めぐりをする。
◆「地獄」篇では、破壊と殺戮と殺しあいの映像があちこちから引用される。ハリウッドの西部劇のショットも見える。「煉獄」篇のサラエボの空港のキオスクでゴダールがビールを飲み、葉巻を吸う。彼の葉巻は、彼の過去の多くの作品を思い出させる。大使館の部屋の壁にカフカの写真が見える。そしてその上にハンナ・アレントの若いときの写真がある。あ、アレントだと思っていると、すぐに彼女の話が出てくるのだった。ゴダールは、説明なしにある種の「教養」を要求する映像や画像や文章を引用するのがすきだが、このでは、ちゃんと解説してくれる。この写真は、わたしも好きで、1997年に作った未完のデジタル小説『ロスト・メモリー・ロスト』で使ったことがある。
◆トロイア戦争を描いたホメロスの「イーリアス」と「オデッセイア」に関し、所詮は、勝利者の側からの視点で描かれているにすぎないという会話が出てくる。その傾向は、マスメディアの「発達」とともにもっと大規模かつ周到になり、もはや、勝利者以外の視点が見えなくなってしまった。
◆「天国」は、所詮天国だからそうなのかもしれないが、アメリカの水兵は、境界線を越えることを阻止せず、さまざまな対立項が消え、のどかな世界がひろがっている最終シーンは、ゴダールにしては甘すぎるという気がした。とはいえ、とめどもなく出てくる文章の引用(かなりの程度知っている文献からのものなのだが)を聞き取るのはやっかいで、一度見ただけではフラストレイションが残る。もっとも、それがゴダールのゴダールたるところなのだが。
(映画美学校第1試写室/ブレノンアッシュ)



2005-06-21_1

●ボム・ザ・システム (Bomb the System/2002/Adam Bhala Lough)(アダム・バラ・ラフ)

Bomb the System
◆今日は渋谷なので、銀座へ行くのより、時間がかかる。運よく反対車線にタクシーが来た。そのまま10分ぐらい乗ればJRの駅がある。反対側の歩道から手で合図したのだが、察知してとまってくれた。日本では「Taxi!」と叫ぶとか、口笛を吹く習慣がないので、こういう場合には、もっぱら「手話的」身ぶりにたよらざるをえない。叫べばいいのだが、日本にいると、「目立ちたくない――でも無視されるのもいや」(ゼミの学生君の意見)というポスチャーが地になってしまう。
◆『ワイルドスタイル』の今日ヴァージョンだと聞いたが、若干ちがっていた。『ワイルドスタイル』は、映画のなかで80年代初頭のすぐれたグラフィティの形成過程を見ることができたが、この映画で描かれるグラフィティは、かなりお粗末。グラフィティの時代は終わったのだから仕方がない。が、グラフィティの質は落ちているのに、グラフィティへの弾圧は激化しているかのようだ。現状は知らないが、この映画の設定は、「ブレスト」ことアンソニー(マーク・ウェバー)を中心とするフィディアーティストと、それを取り締まる「ヴァンダル・スクワッド」の2人の警官ボビー(アル・サピエンツァ)とノール(ボンズ・マローン)との双方に痛みの残る「抗争」である。
◆いまのブッシュ体制を「ファシズム」だと言うのならば、その萌芽は、ジュリアーニ前市長のニューヨークで始まっていた。警官を多数採用し、都市の細々した条例を作り、ひたすら「浄化」につとめた。「ヴァンダル・スクワッド」もその時代に出来た。「ヴァンダル」とは「ヴァンダリズム」の「ヴァンダル」だ。つまり、都市の「公共物」をむやみに破壊したりする行為である。70年代にはそう見なされなかったグラフィティも、80年代にはそう見なされるようになった。すでにくりかえし書いたが、規制はあったが、地下鉄駅でキース・ヘリングが落書をするのを期待して駅で黒い紙を貼っておく(彼が書いたら、はがして保存する)などということが70年代にはあった。
◆『ワイルドスタイル』には、一方でグラフィティが「アート」として評価され、画廊のなかへ吸収される流れが出始めたときに、グラフィティは、あくまで街頭で(「危険」を犯しながら)書くべきだという方向との差異が潜在的に描かれていた。わたしは、ニューヨークでこのマイナーな映画のニュースを、HipHop専門局のWHBIで聴き、見に行ったのだった。そのときの録音がわたしの「ニューヨーク・パラノイア」のウェブページにアップされている。その後、すぐに『キネマ旬報』(1983年9月14日号)に紹介を書いた。これは、『シネマ・ポリティカ』でも読める。
◆わたしは、70~80年代のニューヨークでHipHopとグラフィティとブレイクダンスがからみあいながら出てくる過程をこの目で見た。グラフィティはHipHop以前から地下鉄のボディや車内、駅でさかんだった。アート表現の新風が上からではなく、下から沸き上がり、やがてそれが「上」から買い上げられ、取り込まれて行く過程をつぶさに見ることができたのは、貴重な体験だった。その影響で、その後も、ヨーロッパやオーストラリアに旅したときには、数日を必ず落書/グラフィティの見物と収集(写真に撮ること)にあてた。インターネットが始まり、スーザン・ファーレルという女性が「アート・クライムズ」というグラフィティの専用サイトを作ったことを知り、メールした。すぐに返事が来て、わたしが80年代に撮ったニューヨークオーストラリアのグラフィティのスライドの何枚かがそのサイトに掲載された。その当時」アート・クライムズ」は、スーザンが属していたジョージア工科大にサイトを置いていたが、大分まえに独立した。いま、彼女はどうしているだろう。
◆グラフィティと女性ということでは、この映画の場合、アンソニーがインド人のあやしげな「礼拝所」で知り合うアレクサンドラ(ジャックリン・デサンティス)が面白い。彼女は、いまの時代としては、「政治的」な女性で、「警官国家は危険」(Danger Police State」といった文字の見えるメッセージ性の強いポスターを貼って歩く「ポスター運動」をやっている。80年代にグラフィティ「収集」旅行をして、気づいたのは、ヨーロッパのグラフィティの方が、アメリカのよりもメッセージ性が強いということだった。しかし、ニューヨークでも何か事件があると、政府やCIAの批判の落書が急に街頭にあらわれるのが面白かった。アレクサンドラは、そんな流れを継承している。
◆色々映画に直接関係ないことを書いたが、この映画からは、グラフィティに関してはむろんのこと、「ポスター運動」についてもほとんど新しいものは得られない。ニューヨークのストリート・カルチャーも映画的に新鮮にえがかれているわけではない。若干のひねりを感じるのは、「ヴァンダル・スクワッド」の2人組の一人の黒人ノール・ショーツが、もともとはフィディ・アーティストで、アンソニーらを取り締まるのに屈折があり、また、取締に悪辣な手を使うことをいとわないアルも、最初にはわからない内的な屈折があることぐらいか。最初の、「悪徳警官」という印象が後半に行くにつれ、薄れ、それぞれに「苦しんでる」という感じに展開するのだが、それにしても、「体制を爆破せよ」と直訳できるタイトルはこけおどしだ。
◆【追記/2005-07-09】久しぶりにニューヨークの刀根康尚さんから貴重なご教示。「ボム・ザ・システム」の「システム」は、まず、「地下鉄システム」のことなのだった。以下、無断で掲載する。「ボム・ザ・システムとはじつに懐かしい名前です。たぶんこの映画が作られた頃には実在していた(今でも実在している)グラフィッティのための道具を(つまりスプレイやなんか)も売る店で、アラブ系の兄弟がやっていました。いまでも同じ店で同じ兄弟の経営ですが、2001年9/11以後、店名とアラブ人ということからか、店名をスクラップ・ヤードに変えてしまいました。ところで、この店の看板は昔のものを一部残して字だけをかえたので、ニューヨークのサブウエイの路線を表す丸で囲んだA,B,E,M,Qを線で繋いだ縁取りだけはのっこっています。ボム・ザ・システムのシステムとはサブウエイ・システムのことだろうと思います。70年代のサブウエイはグラフィッティ・アーティストたちの画廊だったわけですから。」 (東芝エンタテインメント試写室/メディア・スーツ+ナウオンメディア)



2005-06-15

●クレールの刺繍 (Brodeuses/2004/Éléonore Faucher)(エレノール・フォーシェ)

Brodeuses
◆今野雄二さんとばったり。最近とうとうパソコンを始められたとか。凝り性の氏のことだから、今後の展開が楽しみ。
◆妊娠してしまった17歳の娘クレール(ローラ・ネマルク)の感情と意識の変化につきあう90分。親には話さず、「匿名出産」(養子に出すことを前提にし、無料で出産できる制度があるらしい)をしようと決心しているクレールが、裁縫職人のメリキアン夫人(アリアンヌ・アスカリット)と出会い、彼女のアトリエで働くうちに変わって行く。メリキアン夫人は、息子をバイクの事故で亡くし、失意のなかにある。人を信じられなくなっているクレールは、他人に興味を失っているメリキアン夫人に逆に親しみを感じ、メリキアン夫人は、自分の身にふりかかったことをじっと耐えているクレールにいつくしみを感じる。
◆時間の流れを無視したようなショットのつなぎ方が、飛躍を感じさせるようでもあり、また、奇妙な(決して苦痛ではない)閉塞感をもたらしもする。映画がつまらないというよりも、田舎の時間のなかに入ってしまった感じで、間をもてあますところもある。映像的にどこかぎこちない感じがあるが、それがマイナスにはならない不思議なスタイル。
◆刺繍といっても、糸だけでなく、ビーズなどの多彩な光りもののパーツを編み合わせる「絢爛豪華」なしろもの。メリキアン夫人は、クリスチャン・ラクロアの仕事をもらったというから、相当の腕。
◆映画の作風、人間関係、登場人物の心理のいずれもが、刺繍のテクスチャーの感覚で、映画の進行も、織られて行く刺繍のテクスチャーのようなところがある。
◆フランスに住む者の目からすると、メリキアン夫人が、アルメニア人だとういうことはすぐわかるだろう。死んだ息子も、壁に貼られた写真からすると、アルメニア人だ。彼の友人で、やがてクレールを愛するようになるギヨームもアルメニア人だろう。では、クレールはどうなのだろうか? 彼女の友人の家で、友人の母がうなぎをさばくシーンがある。フランスでもうなぎを食べるが、このシーンは、アルメニア人のコミュニティを示唆しているのだろうか? いずれにしても、この映画には、エスニックの係数がかかっており、そのディテールがよくわかると、もっと面白く見れるのだろう。
(シネカノン試写室/シネカノン)



2005-06-14_2

●シンデレラマン(Cinderella Man/2005/Ron Howard)(ロン・ハワード)

Cinderella Man
◆段取りの悪い試写会。列に並んだら、受付で封筒を出し、黄色い紙をもらってくれと言われた。階段の下からふたたび9階へ。そのあいだに列の末尾は別のところへ延びている。ようやく開場したが、プレスは黄色の紙と引換に帰りに渡すという。なんの魂胆があってこんなことをするのかと思ったら、黄色の紙といっしょに配ったアンケートに答えさせるためだった。しかし、見たあとで感想などを書く時間はないから、こういう設定は意味がない。プレスは、あとでもらうと、ろくに読まない、読む時間がない人もいる。こういうことを全く計算に入れていない。帰りのエレベータのなかで業界っぽい人が、「(こういうアンケートを配るところをみると)どう宣伝していいか迷ってんだな」と言うのが聞こえた。
◆むろん、そんな心配はいらない力作である。大恐慌の時代のアメリカで、人々を元気づけたボクシングのヒーロ、ジム・ブラドックの話。ラッセル・クロウが、見違えるような顔でこの人物を演じきっている。ボクシング・シーンも見ごたえがある。彼を支えるユダヤ人マネージャー、ジョー・グールドを演じるポール・ジアマッティも、役にはまっている。ジムの妻メイを演じるレネ・ゼルヴィガーは、あいかわらず1時代まえの庶民の「女」を演じるのがうまい。『キューティ・ブロンド ハッピーMAX』でむっつりしながらもユーモアのあるキャラクターを演じたブルース・マッギルは、今度は、終始轟然とした態度の、1930年代のボクシング界に君臨したプロモータ、ジミー・ジョンストンを演じる。殺人ボクサー、マックス・ベアを演じるグライグ・ビアーコも、何をやるかわからない感じの「怖い」キャラクターを演じている。ジムが、港湾労働の現場で知りあうが、どこかで暴走してしまって早死にする男マイクを演じるのは、『イン・アメリカ』のパディ・コンシダイン。
◆大恐慌は、労働者階級を直撃した。ジョーは、家族をやしなうためにボクシングをする。電気をとめられたアパートで熱を出す子供、食べるものもないという生活。いつも格好をつけているマネージャーのジョーも、メイが訪ねて行くと、ドアはマンハッタンの豪華なマンションのそれだが、なかは、ろくに家具がない、ガランとした空間である。売れるものは売り尽くしたのだ。その殺風景な空間にぽつりと置かれたテーブルで、メイとジョーの妻(リンダ・カッシ)が、紅茶を飲みながら座っているシーンが印象深い。
◆エピソードとして出てくるだけだが、マイク(パディ・コンシダイン)は、港湾労働者の状況をなんとかしようと思い、「フーヴァー・ヴィル」(Hooverville)に行く。映画では、その場所は、一見して、セントラル・パークのなかのようである。無数の仮小屋が建ち、人々が寄り集まっている。「フーヴァー・ヴィル」というのは、大恐慌の時代に家を失った人々が自発的に作った仮住まいの「コミュニティ」であり、全米の各地に出現した。「フーヴァー」とは、当時の大統領、ハーバート・フーヴァーの名だが、その「村」とは、フーヴァーの失政の結果うまれた村という揶揄を含んでいる。当然、ホームレスや失業者のたまりともなり、警察はしばしばそこを「左翼、共産主義者の拠点」だとして攻撃をかけた。マイクは、そんなどさくさの犠牲になる。
◆こういう映画を見ると、『ベルンの奇跡』のときもそうだったが、苦難の時代には、必ず、「国民的」なスターが生まれ、人々を元気づけるのかと思う。そういう時代がそういう存在を呼び寄せるのだろう。ロン・ハワードが、この映画を作った意識のなかには、いまのアメリカが、経済的には「不況」ではないとしても、精神的には「大不況」だという認識があるからではないか?
◆しかし、ブレヒトが戯曲『ガリレイの生涯』のなかで、「英雄を持たない国は不幸です」というガリレイ弟子の言葉に対して、「英雄を必要とする国が不幸なんだよ」というガリレイの言葉を対置しているように、スターや英雄や有名人などが問題にならない「国」(国家が存在するかぎり、それは無理なのだろうが)こそが、「まとも」なのだ。
◆かつて、鶴見俊輔氏は、「誰でもがスターになれる時期がありますよね」と語ったことがある。氏によれば、それは、幼児の時代だというのだが、しかし、親からも周囲からも決してほめられたり、ちやほやされないで子供時代を終わってしまう幼児もいる。そして、そういう幼児たちが、成長して、スターや英雄への賛美の意識を高揚させるのではないだろうか?
◆「感動的」ではあるが、あいかわらず「家族」の強調。家族、家族、家族。家族は、アメリカ映画の「原罪」ではないか?
(丸の内ピカデリー2)



2005-06-14_1

●愛についてのキンゼイ・レポート (Kinsey/2004/Bill Condon)(ビル・コンドン)

Kinsey
◆わたしが子供のころ、『キンゼイ報告』という本の名は有名だった。『リーダーズ・ダイジェスト』というベストセラーなどの要約を載せる雑誌があり、親がとっていたので、その要約をざっと読んだ記憶がある。しかし、あまり驚くことは書かれていなかった。その時代の「自主規制」で都合よく要約されていたのかもしれない。この映画を見て、キンゼイ博士が、時代的には、超ラディカルな人であったことをあらためて知る。全米の男女のセックスの「実態」を統計学的に集めたデータにもとづく『キンゼイ・レポート』が出版されてのは1948年だから、ワスプ文化に染まっていたアメリカでは、文化的に20年先取りしていた。
◆アルフレッド・キンゼイ(リーアム・ニーソン)が、アメリカ人の性生活の実態を調査しようと思い立ったのは、昆虫の観察実験を通してだったが、この映画によると、エンジニアで日曜学校の教師でもある父親(ジョン・リスゴー)の偏ったピューリタリズムへの反抗からでもあった。映画は、その調査のためにクライド(ピーター・サースガート)という有能な助手にインタヴューの方法を教えるシーンからはじまるが、キンゼイが被質問者になり、クライドが質問をしていくなかで、質問が、キンゼイの父親(ジョン・リスゴー)との関係におよぶと、それまで流暢に答えていたキンゼイが口ごもる。映画は、こうしたインタヴュー実習からフラッシュバックする形で彼の半生をえがいていく。
◆「偉大な」という形容詞のつく仕事をなしとげる人は、たいていの場合、父親への反抗とか、幼いころに受けた侮辱とか、何かの抑圧が原動力になっているようだ。あるいは、「伝記」というものが、えてしてそういう描き方をするのかもしれない。いずれにせよ、キンゼイは、父親の態度とは逆の態度を選んで生きた。最初のほうに、父親が、日曜学校の教師として、コミュニティの人々に「説教」をするシーンがある。そこで彼は、車と電話とジッパーがいかに人々を「不道徳」に追いやったかを論じる。車が普及し、道路が延び、その道端に売春宿ができた。電話は、ベッドになかで恋人の声を聴くことを可能にした。ジッパーは、すぐに陰部を出すことを可能にした・・・・。要するに「文明の利器」が人々の性道徳をダメにしてしまったという。父の話を、キンゼイ少年は、ひややかな目で見つめる。
◆父への反抗であれ、どうであれ、キンゼイが妻クララ(ローラ・リニー)との関係においても、助手クライドとの同性愛的な関係においても、またおのずから生まれるクライドとクララとの関係に対しても、既存の「道徳」には従わなかった。この映画の邦題は、「愛についての」「キンゼイ・レポート」となっているが、キンゼイは、あるシーンで、「愛」については「調査」できないと言っている。「キンゼイ・レポート」は、「愛についての」ではなくて、「セックスについての」なのである。そして、セックスに関してキンゼイは、何も隠すものはないと考えていた。
◆わたし自身は、セックスは、食事のようなものだと思う。一人の食事もあれば、2人の食事もあり、また集団の食事もある。同性との食事もあれば、異性との食事もある。が、それでは、なぜ食事は、公開されるのに、セックスは隠されるのか? この映画では言及されないが、食とセックスとの間には、深い関係がある。昔は、食事するのを他人から見られるのを嫌うひとがけっこういた。いまは、テレビで、試食の光景で、料理に満足する表情を映すのをためらわない。ちなみに、アメリカやヨーロッパのテレビでも料理番組はあるが、日本の料理番組のようにその試食の身体的反応をストレートに映すことは少ない。日本のテレビが食の番組に熱心なのは、日本では依然として性表現が規制されているからではないだろうか? セックスの代理として食が利用されているような気がする。
◆キンゼイがセックスの実態の調査を始めた1930年代末から40年代にいたる時代には、キリスト教的な教えから来るおそるべき偏見がまかり通っていた。ボーイスカウトの教則本には、マスターベーションで排出される精液3 ccは、12リットルの血液を失うにひってすると書かれていたという。性教育の映像もあったが、その内容は、性病の悲惨な病状を見せて自由な性交への恐怖を植えつけるものばかりだった。そういう時代に、インデアナ大学にキンゼイの特別講座「マリッジ・コース」が作られたのは、画期的なことだ。ただし、そのタイトルからもわかるように、「セックス・コース」ではなく、「結婚コース」であり、既婚者や結婚予定者、大学院生しか受けられないという制限がもうけられていた。それは、「革新的」な校長のハーマン・ウェルズ(オリバー・プラット)の推挙によるものだったが、同僚のサーマン(ティム・カリー)のように反発し、いつかキンゼイをおとしいれてやろうと画策する者もいた。
◆キンゼイの「マリッジ・コース」では、昆虫のスライドを見せるのと同じ調子で、性器や性交の写真がスクリーンに映され、「道徳」的なフィルターのかからないキンゼイの講義が展開される。その講義シーンは、講義のやり方から見ても、魅力的であり、キンゼイが、単に学者であるだけでなく、有能なプレゼンテイター/パフォーマーであったことを物語る。そして、おそらく、彼は、ビジネスマンとしてもすぐれていたのではないか? というのは、同大学内に「キンゼイ・インスティテュート」を創設し、ロックフェラー財団から潤沢な助成金を獲得するからである。男性18000人に面接し、350の質問をした『キンゼイ・レポート』(The Kinsey Reports)の「男性版」(Sexual Behavior in the Human Male/1948)は、そうした援助のなかで結晶した。
◆この「男性版」で成功し、時代の寵児となったキンゼイが、「女性版」(Sexual Behavior in the Human Femal/1953) では、窮地に追い込まれ、寂しい晩年をおくることになる。アメリカで女性の「性の解放」が一般化するのは、早くて1960年代後半、より大きな規模では、1970年代になってフェミニズム的な発想が広まってからだった。「男性版」は、それまでおおぴらに出来なかった男性の欲望を正当化してくれた点で歓迎されたが、「女性版」は、男性支配と核家族が有力だった1950年代には、男性に恐怖をあたえ、また「善良」な男女に「家庭」破壊の不安をあたえた。
◆では、今日、キンゼイの思想は、受け入れらたのだろうか? キンゼイは、明らかに、いままたくりかえしその重要性が強調される「家庭」とは一線を画していたはずだが、この映画でも、最終的には、セックスは「愛」と切り離せないという示唆をする。キンゼイは、セックスはフィジカル(物理的/肉体的)なものだが、「愛」は、「超越論的」なものだと考えていたはずだ。両者は、どこかでつながっているとしても、それぞれ別の原理で動く。だから、彼は、セックスに対して、彼が専攻した動物学の見地からアプローチした。それは、セックスの単純化ではない。逆に、彼が昆虫の観察で知ったように、2つとして同じ昆虫がいないように、同じセックスはないという認識だ。存在するものを多様性に向けて解放することがキンゼイの根本思想である。これは、「愛」(とりわけキリスト教的な)を不要とする思想である。「愛」は、そうした多様性の「内在」として十分機能しうるからだ。しかし、こうした「スピノザ」的な思想は、危険視されるのが、西欧キリスト教社会である。
◆モーリス・メルロ=ポンティが、身体を「肉体」(corps)としてとらえるそれまでの発想に対して、「肉」(chair) という概念を付加する発想を展開した(『見えるものと見えないもの』)こと、ドゥルーズやネグリが「マルチテュード」という概念の源流にスピノザを見いだすこと――これらは、20世紀以後の思考を決定的に変えつつあるが、この流れのなかで『キンゼイ・レポート』を読んでみたらどうだろうか?
(松竹試写室/松竹)



2005-06-13_2

●理想の女 (ひと) (A Good Woman/2004/Mike Barker)(マイク・パーカー)

A Good Woman
◆『宇宙戦争』を見終わったが、ちょっとものたりない気持ちで、(時間もあったので)歩いて10分ほどのギャガへ。午後からの、監督・出演者(トム・クルーズ、ダコタ・ファニング)インタヴューに入れなかったという人々もいて、けっこうの盛況。映像はしっとりとし、音楽はノスタルジック。アメリカからすぐにイタリアに場面が移るが、ちゃんとイタリア語と英語をブレンドし、「欧州アメリカ映画」の悪しき轍を踏んでいない手堅い作り。
◆最初、21歳という設定ながら、なんでスカーレット・ヨハンソンがこんなに「子供っぽい」のかと思っていたら、その理由はうしろの方でわかった。濃厚な「熟女」を演じるヘレン・ハントとの隠された関係が重要なのだ。登場人物として2人は、たがいに「女」としての自分の魅力を競いあう。どう見ても、「女」としては、ハントが演じるステラの方が一枚も二枚も上手である。が、映画を見ていると、それが、ハントの演技の質とだぶってきて、ヨハンソンがいっそう「幼く」見えるのである。実際に、女優としての2人は、相当たがいに相手を意識したはずだ。その際、ドラマのなかでは、ヨハンソンがハントに負ける形になるわけだから、ヨハンソンは割りが合わない。とはいえ、そのからくりを知ったうえで2人のう「競いあい」を見ると、ヨハンソンもなかなかやるのぅという感じ。
◆オスカー・ワイルドの原作だから、トーンとしては、女にも、また結婚というものに対しても、冷ややかな距離が隠されているはずだが、映画は、それほどでもなく、「運命の皮肉」をテコにした軽妙な舞台風コントに仕上がっている。
◆途中で場内からしばらくのあいだ鼾の音が続いた。『宇宙戦争』で早起きして疲れた人か? 有名出版社の袋をデン床に置いたご婦人も、途中でケータイを開き、メールをチェックしはじめる。光りが漏れてわずらわしいので、「やめてくれません」と言ったら、ケータイを床に落としてしまった。小声で言ったのだが、そんなにショックだったのか? かえって恐縮。後半、若干退屈なテンポになることもたしか。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ Gシネマグループ)



2005-06-13_1

●宇宙戦争 (War of the Worlds/2005/Steven Spielberg)(スティーブン・スピルバーグ)

War of the Worlds
◆【追記/2005-06-17】IMDbに、「Information War of the Worlds in Tokyo」という戯文を書いた。試写こそが映画以上に「戦争」だったという話。あの試写会の「総動員体制」的なやり方は、特殊「日本的」で、日本でなければ無理なものだと思うので、海外の人にも知らせておきたかった。【追記/2005-06-24】この文章が無断で削除されているのを発見した。「感想」ではないので、そうしたのかもしれないが、掲載を許可しておいて、いきなり削除はフェアーではない。さいわい、ほかに転載されていたので、そのキャッシュをリンクしておく。
◆【追記/2005-06-29】ようやく「しばり」が解けた。さあ、何でも書けるというわけだが、なぜか情熱がわかない。あまりに規制をかけられたので、そちらの印象のほうが強くて、映画のほうのことは、この2週間のあいだに希薄になってしまった。まず、言えるのは、意外にメカニックに作られた作品だということ。特に彼/彼女でなければならないという役者は、トム・クルーズとダコタ・ファニングだけで、あとはだれでもいい作りになっている。ティム・ロビンスも出てくるが、彼でない役ではない。要するに、「宇宙人」が巨大で無敵の3本足のマシーンをあやつって人間を襲ってくるのをトムとダコタが逃げ回る(多少の抵抗もするが、あまり功を奏しない)サスペンスにすぎない。
◆あえてこの映画からH・G・ウェルズの原作をこえて現代の物語としてインパクトのある「思想」を読むとすると、それは、「宇宙人」が人類の誕生以前から地球侵略を計画しており、その機会をねらっていたという点だろう。ということは、つまり、逆に言えば、この戦争の関しては、人間もその歴史と平行して「責任」があるということにもなる。宇宙人は、陰険に地球を「監視」していたとすれば、人間の現段階での状況と、宇宙人の攻撃決定・開始は無関係ではないことになる。さらに言えば、この「宇宙人」は、人間が呼び込んだものであるということにもなる。さらに、この宇宙人は、人間の「祖先」の一人ですらあると考えることもできなくはない。
◆このへんで、わたしは、いつもの癖で、アメリカの現状況に思いをはせてしまう。ブッシュとネオコンの一党が登場し、彼らが一斉に「諸世界の戦争」(これが原題の逐語訳だ)を開始し、その終息の気配が見えないといういまの状況である。彼らを「宇宙人」と考えれば、われわれは、ただ逃げ回るしかないこの映画の民衆と同じである。そのためか、今回登場する宇宙人は、これまでスピルバーグが描いてきた宇宙人のように「聡明」でも「温和」でもなく、一匹ではろくな行動もできそうにない愚鈍な生き物のようである。
◆冒頭、港でクレーンをあつかうクルーズの姿が見える。彼は、短時間に大量の荷物の運搬をこなす有能なオペレイターという設定なので、おそらく、その技術が、あとで宇宙人の3本脚マシーンへの反撃に対して役に立つのかと思ったら、それは、深読みだった。このシーンは、単に、彼が「ワーキング・クラス」であることを示唆するにすぎなかった。
◆クルーズは、ワーキング・クラスの仕事をしているが、すでに別居中の妻には、両親の家がボストンにあり、明らかに非「ワークング・クラス」の人間と見える彼氏がいる。子供たちは、クルーズに失望しており、彼を信用していない。アメリカ人がよくやるように、娘にピーナッツバターのサンドウィッチを作ってやろうとすると、彼女は、「ピーナッツバター・アレルギーだから」と言って食べない。クルーズは、「ダメオヤジ」を演じる。しかし、そういう彼が、結果的に、一番「家族思い」だったということになるのが、この映画のスピルバーグ路線である。
◆わたしは、スポーツはやったことがないのでわからないが、キャッチボールによる子供教育というものがあるらしい。クルーズは、あまり彼とつきあう気のない息子を庭に連れ出し、キャッチボールをやる。強いシュートのボールを投げてて、ちょっとショックをあたえる。これで、明らかに、息子は親父を見なおす。そして、次はおだやかなシュート。あるときはしごき、それからやさしくというわけだ。なるほど、これが教育というものかと思った。わたしに関して言えば、わたしは父親とキャッチボールなどやったことはない。
◆【以下は2005-06-13に記載】
◆「あ」「か」「その他」の3行に分かれて並ぶこと30分、顔写真付きの身分証明書を提示して、誓約書にサイン、手荷物は、小型の透明ポシェットに入るだけの貴重品以外(むろんケータイを含む電子機器も)一切預け(ただし、その「紛失・損傷・汚損等」には主催者側は一切責任を取らないという)、腕に座席番号をプリントした名札(死体の足に巻くのと似たやつ)をつけられ、首にはネームカードをぶらさげられて、ようやく劇場に入室。わたしは、身分証明書の住所と試写状送付の住所とがちがうので、両者の関係を証明するものを出せと言われる。それは、無理なので、もたもたしているうちに向こうがあきらめる。とほうもなく厳重なセキュリティー体制下の世界最初の試写。UIPに登録されている人だけの限定参加。内容に関しては、6月29日まで言外しないという文書にサインをしてしまったので、いまは不可。不可不可不可の試写。一言にして言えば、試写だけが宇宙戦争だった。
◆こんなことをするのなら、いっそ、六本木ヒルズを「宇宙人」が占拠し、われわれを捕捉し、強制的に『宇宙戦争』という映画を見させるというような設定にしたほうがよかったのではないか? 上映中ガードマンが通路を行ったり来たりしていたが、このガードマンも、「宇宙人」の縫いぐるみを着て、雰囲気を盛り上げるべきだった。「世界初の試写」なら、そのくらいの演出がほしかった。もっとも、今回の「宇宙人」は、ただ攻撃するだけで、そんな頭がないのかもしれない。
◆さて、以上は、この映画の試写に対するごく「常識的」な反応である。たとえ、29日までその内容を口外しないという「契約」を墨守するとしても、今回の上映方法に関して書くことはできる。それは、どのような意味を持っているのか、そしてそこにはどのような「ねらい」があるのか? ひょっとすると、ここには、かつてオーソン・ウェルズがH・G・ウェルズの原作を使って試みたラジオドラマの「いたずら」以上のたくらみがひそんでいるかもしれない。ウェルズが1938年10月31日にCBSのネットワークを使って行った「いたずら」は、結果的に、ラジオによる情報操作の最初の全米規模での「リサーチデータ」をあたえることになった。ラジオはどうすれば、人心を動かすことができるか、ラジオによる意識操作はどの程度まで可能か・・・・。この事件から軍や警察は多くを学んだし、また、広告宣伝に関心のある企業も多くのことを学習した。
◆今回の日本における「特異」な試写は、今日の情報システムの機能仕方、とりわけ、日本から発信された情報がどのようにして世界に流れるかという「リサーチ」になりえる。また、ある一つの「情報規制」がしかれた場合、日本人および日本に住む人々(しかもそのなかの「メディアエリート」たち)がどのように反応するか(柔順であるのか、それとも反発するのか、あるいは不確定であるのか・・・)を知る「データ」をも提供する。6月13日から29日までの半月間という、インターネットと電子メディアの時代にしては、かなり「長期」のコミュニケーション・リサーチ。これは、単なる映画作品の宣伝のレベルを越え、日米の情報関係、対外的な情報環境のなかでの日米の情報関係をはかるリサーチにもなる。パーフェクトではないか!
◆スピルバーグは、かって、半分「冗談」めかしながら、第2次世界大戦における日米の闘いを「情報戦」としてとらえ、『1941』を作った。これは、アメリカでも日本でも当たらなかったが、ナチと日本が協力する潜水艦がカリフォルニア沖に潜入し、ハリウッドに向けて高射砲を撃つ。つまり、「ハリウッド」こそが、アメリカの「拠点」であるという情報論的には的確な認識だ。これは、実際、まちがってはいない。アメリカは、日本が真珠湾を「奇襲」したつもりになっていた時点において、すでに情報戦で勝っていた。
◆シュピルバーグとその「ご一党」が仕掛けたきわめて今日的な情報戦。これこそが、実は、本当の「宇宙戦争」であるかもしれない。試写会場への潜入者が「海賊映像」を作るかどうかなどということよりも、また、この映画の「内容」を誰かがどこかのブログやウェブページに書くかどうかよりも、(いや、それらもすべて含めて)この映画に関するあらゆる情報がどのように流れるのか、とりわけ日本から外部に流れるのか、この過程を「宇宙人」たちは静かに見守っている。
◆この「リサーチ」は、日本政府や日本の情報関係諸機関にとっても、きわめて重要な意味を持つ。奇しくも、13日午後の記者会見のために来日したスピルバーグは、午前中に官邸に出向き、小泉首相を「表敬訪問」した。官邸には「情報」関係の諸局もある。小泉は、ただのダミーであったかもしれない。彼は、それ以外に誰と会ったのか?
(VIRGIN TOHO CINEMAS 六本木ヒルズ/ユナイテッド・インターナショナル・ピクチャーズ・イースト)


2005-06-08_2

●ある朝スウプは (Aruasa supuwa/The soupe, one morning/2004/Izumi Takahashi)(高橋泉)

Aruasa supuwa
◆PFF(ぴあフィルイムフェスティバル)アワード2004グランプリをはじめ、バンクーバー国際映画祭、香港国際映画祭、イタリアのインフィニティ映画祭などで数々の賞を取っているというので、見たいと思った。先日、大学のゲストシリーズでお呼びした今野雄二さんもほめていた。が、わたしの期待が大きすぎたのか、なにか「古典的な学生映画」を見るような感じがした。インディペンデントでマイナーな映画ばかり上映される場でならば目立つかもしれないが、「大物」を見せるのと同じ場で見ると、音にしばしばハム・ノイズ(ブーンという音)が入ったり、映像(ビデオ)が不鮮明(あえてそうしているわけではない)だったりするのが気になってしまう。
◆しかし、そういうことを問題にするのはフェアーではないだろう。マイナー映画の枠のなかで批評すべきだろう。その点で面白いのは、カップルとして出演している廣井哲万(北川)と並木愛技(志津)のディアローグである。最初は脚本を丸暗記して読んでいるようでつまらないが、だんだん「迫真さ」をおびてくる。その深刻さが笑いを誘うような域にまで達するから、ディアローグとしては成功しているだろう。
◆北川が新宗教くさい「セミナー」にはまり、志津が断絶を感じる。男は、「世界では同時多発テロにみられるように、いま300以上の地域で紛争があり、《カルマ》がうずまいている。君の身体にもカルマがうずまいている。それをぼくが浄化してあげる」などと言い、志津の頭に「手かざし」をする。40万も出したというソファーを志津に追求されると、これは、カルマを浄化する羊水が入っているのだと言う。志津はついていけない。
◆この映画は、10月から翌年の4月までの7カ月に時間を設定し、その間に季節を感じさせる風景を入れ、二人の意識の変化を描き、その帰結として、2人がすっかり冷めきってしまうというふうに描いているように見えるが、わたしには、そうは見えなかった。この作品を絶賛しているトニー・レインズは、プレスのなかで「雨や雪が降る季節、ふたりの関係も冬の寒さと比例するかのように冷えきっていく」と書いている。そうだろうか? 映画の最後のほうのシーンに、志津が、「最後の食事」をしながら、その光景は、まえに見たことのある「デジャヴュ」だと言う。いっしょに生活をはじめ、旅行をしたときに見たという。が、もしそうだとすれば、7カ月の時間は何も変えなかったのである。
◆日本映画の多くがそうであるように、この映画でも、最初のも最後のも食事シーンは、2人が食の喜びとは全く無縁であるかのような味気ない。みそ汁、大きめの木の椀にもられたご飯、卵(最初のシーンでは生卵、最後は目玉焼き)、それにタクアンは、無表情に口に運ばれ、機械的にかっこまれる。彼と彼女は、あきらかに食を楽しんでいない。それに呼応するかのように2人のセックスシーンもない。性的関係を思わせるようなシーンもない。むろん、それは、意図的にそう描かれているのだろう。2人は、いまはやりの「アセックス」(非セックス)のカップルであり、「距離の文化」のなかで生きている。だから、フェイス・トゥ・フェイスの関係にやりきれなくなってアパートの外に飛びだした志津は、ケータイをかけ、北川と話す。そういうときは、彼女の顔にしあわせな表情が浮かぶ。
◆志津につきそわれて(外で待っているが)北川が精神科を訪れるところからはじまるこの映画で、志津は終始北川に対して「母親」的な位置にある。北川は、そういう「母」から逃れるために「セミナー」に入ったのかもしれない。少なくとも、この映画に「変化」が発見できるとすれば、それは、「母」=志津からの離脱である。しかし、そういう志津=母とは別れても、あの「羊水」の入ったソファーはどうしただろう? それも手放したのだろうか?
(映画美学校第2試写室/ぴあ+ユーロスペース)



2005-06-08_1

●姑獲鳥の夏 うぶめのなつ (Ubume no natus/2005/Akio Jissoji)(実相寺昭雄)

Ubume no natus
◆羽織姿の堤真一が数珠と鉦を手にしている写真が試写状や広告で使われているが、このままの姿は映画には出て来ない。それと、この映像から感じられるエキゾチックさは、堤が演じる京極堂こと中禅寺秋彦にはない。堤を起用したのは、堤が、原作者の京極夏彦と風貌がどこか似たところがあるところからかもしれないが、古文書をあつかう古本屋にして神社の神主、かつ安部清明の流れをくむ陰陽師という設定の中禅寺秋彦は、堤には荷がかちすぎた。だから、「脳」、「仮想現実」、「量子力学」といった概念から古今東西の古典文書を博覧強記に口走るとき、堤のせりふは、台本をただ棒読みしているにすぎなくなる。明らかにミスキャスト。
◆映像は、久しぶりに見る実相寺だが、絶妙である。その色のレトロな感じ、切り替えの妙、怪しさとシュールさと耽美の混交。楽しめる。
◆原作には、フロイトや「仮想現実」への言及があるが、この映画では、原作のやや岸田秀的「幻想論」(フロイト理論の俗説を曲解し、単純化したもの)を養老孟司的な「脳」論と、俗流「ヴァーチャル・リアリティ」論で補っている。堤真一がこれらを口走ると、実質以上にうそくさくなってしまうが、この映画にとっては、まあ、そんなことはどうでもいい。
◆京極堂が「憑きものはずし」に出向く雑司ケ谷鬼子母神近くにあるという「久遠寺医院」にいる産婦人科医の役を「すまけい」が演っている。こんなところでこの怪優に出会うとは思わなかった。60年代、すまけいは、もう手がつけられない天才の演技でわたしらを魅了した。わたしは、彼が、1972年4月4日にアートシアター新宿文化で内田栄一作『芸術版吠え王くそーツク』の主役を演ったのを見た。3月27日が初演で、すでに8日も舞台で絶叫しつづけたので、この日のすまの声は完全に割れていたが、とめどもなく飛びだすせりふの勢いはすごかった。このころは、しばしばSONY製のポータブルカセットレコーダー(けっこう重い)を持参し、芝居や映画の音を録音したが、このときのテープもある。そのうちサイトにアップしよう。
◆この映画は、実相寺の蓄積された人脈からか、芸能界から新劇、さらにはアングラまでの、ふだんはいっしょになることの少ない異色の役者たちを一堂に集めた感がある。いしだあゆみも、ジェラルディン・チャップリンのように痩せて、怪異だった。松尾スズキは、『イン・ザ・プール』の演技と全然変わらないのに笑えた。永瀬正敏は、堤真一とならべると、レベルが1段も2段も上の役者であることがわかる。彼のまえでは、堤だけでなく、「薔薇十字探偵社」などという気をもたせる探偵事務所をやっている榎木役の阿部寛とか、刑事役の宮迫博之なども存在感を失ってしまう。いつもは目立つ寺島進も、ここでは「普通」にみえる。田中麗奈は、頭のいい演技でソツがない。原田知世は悪くはないが、もうちょっとあやしさがほしかった。それには、彼女ではない役者を選ばなければならなかっただろう。最後のシーンで、京極堂の妻で、祇園祭で京都へ行っているという設定の千鶴子(清水美沙)が姿をあらわすが、土塀のわきのでこぼこ道をパラソルをさした和服姿で登場し、永瀬に挨拶の声をかけるという短いシーンながら、清水ならでの光る演技を見せる。さすが。最初と最後を白い傷痍軍人の姿でしめるのは、水木しげる。彼の絵を使っていると思われる「紙芝居」が、しばしば映画のシーンとかさなるが、その紙芝居師を演るのが、いまは『まんが日本昔ばなし』の声優として有名だが、かつての怪優、常田富士男(ときたふじお)(【追記】これは、わたしの妄想で、三谷昇が正しいと――というメールのご指摘をいただいた)。
(ヘラルド試写室/日本ヘラルド映画)



2005-06-07

●HINOKIO (HINOKIO Inter Galactic Love/2005/Akiyama Takahiko)(秋山貴彦)

HINOKIO  Inter Galactic Love
◆最初の予定では、まず『クレールの刺繍』をシネカノンで見て、それからシネマライズでの『メゾン・ド・ヒミコ』完成披露試写に行くはずだった。どちらも渋谷で、一続きで見れる。が、渋谷へ行くのが急にうざったくなった。なぜかわからない。とにかく銀座へ行きたかった。『ヒノキオ』は、ロボットの話だというので興味があったが、試写状のデザインがわたしを遠ざけた。監督第1作だというし、どこか弱いのではないか、という感じがした。が、それは、完全にまちがいだった。これは、力作である。今日の社会的空気をとらえている点でもすぐれている。
◆ロボット工学者の父(中村雅俊)を持つサトル(本郷奏多)は、交通事故で母(原田美枝子)を亡くし、同じ車に乗っていて生き残った彼は、それ以来、引きこもりになり、足も不自由になってしまった。心配した父は、彼に最先端のロボットとコックピット型のVRコントロールシステムをあてがう。サトルが「外界」と接触するのは、この装置を通じてだけであり、家でも、父親ともドアごしにしか話をしない。そういう生活が続いている。
◆時代の設定はいつかわからないが、このドラマのなかでは、こうしたロボットによる「代理入学」が許されている。これは、すばらしい制度だ。ドラマは、このロボット「HINOKIO」が小学校に入学したところから始まる。HINOKIOは、川沿いの安アパートに住んでいて、帰ると自分で身体からケーブルを引き出し、コンセントに差して、電源を供給する。しかし、彼は、自宅にひきこもっているサトルによって操縦されている。
◆ところで、なんでも時代を先取りしているフランツ・カフカ(ちなみに『海辺のカフカ』とは無関係)は、草稿「田舎婚礼の準備」のなかで、婚礼に行くのがおっくうになった主人公に、自分の衣服を着た代理の「肉体」を「送りつけること」を想像させている。「ほんとうの自分はその間ずっと自分のベッドにいて、ラクダ色の毛布にくるまり、細目にあいた窓から流れこむ空気を吸っている。ベッドのなかで大きな虫の姿になっているだろう」。これは、『変身』に結実するが、自分の身体を代理身体として「外部」に送りつけた主体の方が「くわがた虫」になってしまうというところに、カフカは、こうした「代理主義」(=表象主義)の原罪を見ていた。
◆先日、大学で久しぶりにVR(ヴァーチャル・リアリティ)の話をし、VR技術を紹介したあと、クロネンバーグの『ザ・フライ』のテレポーティングの映像を見せながら、身体のテレポーティングは可能かに触れた。帰宅してから、昨年『Star Trek: Technology of Disappearance』という本を出したアラン・シャピロからのメールを読んだ。アイルランドのRTE 2FMのThe Gerry Ryan Showで話をしたので聴いてくれという。早速聴いてみると、そのなかで、彼は、アンドロイドの実現性について、人間と区別がつかないアンドロイドが生まれる可能性はまだ先だとしても、人間がリモコンでロボットをあやつり、それが会議に出たり、旅行したりするのは、そう先のことではないと言っていた。まさに、この映画の世界である。
◆リモート・コントロールは、コントロールする側は、つねに安全地帯にいる。しかし、この映画は、その「定石」をはずす。VR技術ではすでにあるが、身体への抵抗感を実感させるセンサーシステムをそなえたロボットは、コントローラーの側に(調整はできるはずだが)それ相当のリアクションをあたえる。ロボットがなぐられれば、「痛み」を感じることができる。愛撫されれば、リモートで「愛情」だって、感じることができる。このリモート感覚のリアリティに関しては、マイロン・W・クルーガーによる先駆的な実験と研究(下野隆生訳『人工現実  インタラクテブ・メディアの展開』、トッパン)がある。
◆最初イジメをするが、やがて親友になるジュンを演じる多部未華子が抜群にうまい。ジュンは、母親との2人暮らしで、世に逆らうように「男」のかっこうをしている。それは、最初からすぐわかるが、わたしは、「彼」が「トランスジェンダー」(「性同一性障害者」というが、最初から「障害」と呼んでしまっているところが問題)なのかと思っていたが、「おてんば」が高じた程度の設定のよう。ロボット/アンドロイド問題をテーマにしているのだから、この問題は、もう少ししっかりとおさえた方がよかったと思うが。
◆映画の舞台となる街には、「おばけ煙突」がある。わたしが子供のころには、「千住のおばけ煙突」といって、千住の火力発電所の4本並んだ煙突が、見る角度で3、2、1本に見えるのが有名だった。監督の秋山貴彦は、「千住のおばけ煙突」を見ていないと思うが、その伝説に興味を持ち、愛着をおぼえる人なのだろう。本や他の映画で学習し、CGで再現したのかもしれない。いずれにせよ、「おばけ煙突」に執着する人には一つのタイプがあり、そういう人は、大体、過去を想像力で夢みることができる人であるような気がする。
(松竹試写室/松竹)



2005-06-01

●スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐 (Star Wars: Episode III - Revenge of the Sith/2005/George Lucas)(ジョージ・ルーカス)

Star Wars: Episode III - Revenge of the Sith
◆あくまでわたしにとってだが、いままでで一番なっとくがいき、アクチュアリティ(時代との生きた関係)を感じさせる。オーケストラを使うときには好きになれないジョン・ウィリアムズのスター・ウォーズのあっけらかんとしたテーマ曲が、ふつりあいに聴こえる内容。最初は、まだドラマがはじまっていなかったから、またかぐらいの感じだったが、最後は、完全にふつりあいだった。今回の音楽もウィリアムズなのだが、20年間に状況が大きく変化したことを感じさせる。そして、『スター・ウォーズ』でさえ、「共和国」の「帝国」化と「民主主義の危機」をテーマにしなければならなくなった。
◆愛する人の危機(病気や死)つまりは家族・家庭の危機の「救済」と「レベンジ」を名目にして戦争を始めたのがブッシュ政権だったが、この映画は、まさにこのことがテーマになっている。共和国の最高議長パルパティーン(イアン・マクダーミド)をブッシュ、愛するパドメ(ナタリー・ポートマン)の未来を悪夢のなかで予見したアナキン(ヘイデン・クリステンセン)を、アメリカの兵士にかさねてみると、この映画は非常にわかりやすい。その場合、ドゥーク伯爵(クリストファー・リー)は誰にあたるのだろう? メンス・ウインドウ(サミュエル・L・ジャクソン)は、ブッシュにあっさり罷免されてしまったパウエル前国務長官といったところか? そうすると、最後まで「正義」のジェダイ騎士オビ=ワン・ケノービ(ユアン・マクレガー)よ出でよという感じだな、いまのアメリカは。
◆今回、ライトセイバーをチャンチャンバラバラと切り結ぶシーンは、すべてコンピュータ内で出来てしまうようになったらしい。RealNetworksがメールで送り込んできたニュースにジョン・ノールだったかな(?)が説明していた。これだと、顔だけをはめ込めばいいわけで、クリストファー・リーのような80歳すぎのご老体でも、年令を感じさせない闘いぶりを見せられるわけだ。でも、この役者はいつ見てもいいですね。
◆まえから思っていたが、ホログラフィーのような映像で会議に参加した者(ヨーダなんかも参加することがある)が、会議終了とともに、さっと消えてしまうには、もうちょっと日本の会議に導入したほうがいいのではないか? だらだらとすでに決まっていることを報告したりするのではなく、このセンスでいきたい。でも、このカルチャーは、授業の終了のベルが鳴ると、パタンと本を倒し、講義を終わりにする教師、さっと立ち上がる学生・生徒というアメリカの学校カルチャー(事実は映画ほどではないが)と無関係ではない。
◆いずれにしても、その「幼稚」さも含めて、『スター・ウォーズ』は、アメリカが生んだ、アメリカ人の物語だ。しかし、考えなければならないのは、いまのアメリカの状況は、ブッシュが「悪」だからそうなっているのではなくて、テクノロジーと資本主義システムそのものの特性、その歴史的位置と深い関係がある。だから、いらずらに「民主主義」をとりもどせと叫んでもだめなのだ。
(FOX試写室/20世紀フォックス)


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