粉川哲夫の【シネマノート】
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2004-12-27

●ビヨンドtheシー ~夢見るように歌えば~ (Beyond the Sea/2004/Kevin Spacey)(ケヴィン・スペイシー)

Beyond the Sea
◆たぶん、これが今年の打ち止め。六本木1丁目の地下鉄駅を降りたら、「特別警戒中」という腕章をつけた男女警官があちこちにいる。試写室の入口に近づいたら、配給会社の人がドアーを開けて迎え入れる。が、わたしのまえの女性が入ったら、ぱっと手を離したので、閉め出しを食った感じ。男性には開けてくれないらしい。ドゥルーズのFrancis Bacon: Logique de la Sensationを読んでいたら、K女史が大声でしゃべりながら入ってきた。まるで「我が家」。あとから来て隣に座った人が同じ動作を5分以上もくりかえし、手が触れるので見たら、メガネを入念にタオルで拭いているのだった。そんなに汚れているのだろうか? 上映までに満席で、補助椅子が出た。
◆ケヴィン・スペイシーが監督・製作主演し、歌手ボビー・ダーリンの生涯を映画化しているというので、たぶん、彼の「道楽」的な作品だろうとたかをくくっていたら、全くそうではなかった。ボビー・ダーリンという人物への尋常ならざる関心はもとより、ケヴィン・スペイシーという映画人の映画的表現に対する姿勢、彼の居場所である現在のアメリカ(むろん、ブッシュ政権の)への彼の批判的な政治的姿勢を明確にあらわす傑作だった。彼は、たとえばアンソニー・ホプキンスのような職人俳優(「わたしは最高の監督としか仕事をしない」と言っているが、「最高」とは何を基準にしているのか?)ではなく、政治的こだわりを忘れない映画人である。
◆誰でも書くだろうが、スペイシーの歌はすごい。ボビー・ダーリンに似ているというよりも、ボビー・ダーリンという人物の「構造」にシンクロナイズしているので、似ているとか似ていないとかいうことが問題にならない。これに比較すると、ジェイミー・フォックスの「レイ・チャールズ」などはただ似せているにすぎないという気がしてくる。
◆冒頭、ナイトクラブの裏口のような通路を関係者といっしょに早足にタバコを吸いながら歩いて行くケヴィンの姿があり、調理場のようなところを抜け、ステージに出る。マイクをつかんで歌いはじめるのが、「マック・ザ・ナイフ」。ボビーのヒット曲の1つだが、言わずと知れたブレヒトの『三文オペラ』のテーマソング。最初にこの曲を選んだあたりにケヴィンの姿勢が出ている。かなりノって歌い、観客も大喝采。いい感じだなと思っていると、カーテンの陰に少年の姿を発見して、ケヴィンはいきなり歌うのをやめる。なんだ?!と思うと、カメラが引き、映画撮影の装置が見える。このシーンは、なかなかにくい。ボビーが自分のステージを映画におさめる(実際にやったかどうかは知らない)ということと、ケヴィンがこの映画を撮るということを重ねているだけではなく、「中断」というブレヒトの技法を採用したものだ。
◆全体的に、ブレヒト演劇の手法が随所で使われている。ラース・フォン・トリアなども、かなりブレヒトの手法をつかっている(『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『ドックヴィル』を参照)が、ケヴィンの使い方は、もっと「正統的」。が、ブレヒトを「正統的」に継承すると、日本のブレヒト劇のように、古くさくてつまらない「白け芝居」になることが多いのだが、ケヴィンの場合はそうはなっていないところが見事。ケヴィンは、一体、いつどこでブレヒトを学んだのだろうか?
◆普通ならフラッシュバックで見せるところを、少年時代のボビー・ダーリン(ウィリアム・ウルリッチ)と壮年のボビー(ケヴィン・スペイシー)とを画面に同時に出し、対話させるような演出をするが、自然な感じで受け取れる。少年ボビーの家に叔父(ボブ・ホスキンス)がアップライト・ピアノを入れてくれ、母親(ブレンダ・ブレッシン)がスイングジャズを弾きはじめると、外の路上で、人々が踊りだし、やがて、それがシームレスに「ミュージカルシーン」に変貌するとか、大胆な手法を使うが、スタイル倒れしていない。スタイルとしては、「シュールレアリズム」的かつ「表現主義」的だが、少年の新鮮な驚きと喜びがストレートに伝わってくる。
◆素朴なリアリズムの技法を使わないのだが、ふと、少年ボビーと母親のシーンで、母親が少しふけすぎているように感じられた。これは、後半のプロットの布石であることがやがてわかる。「母親」役のブレンダ・ブレッシンよりも、より存在感のある演技をしているキャロライン・アーロンがなぜ「叔母」役をやっているかもやがてわかる。なお、37歳で死んだボビーを45歳のケヴィンが演り、老けすぎではないかという批判があるが、だからこそ、ボビーに関しては、実在のボビー/映画の登場人物としてのボビー/ケヴィンその人の三重の要素をシームレスに転換する技法を使っているのである。
◆わたしの世代にとってボビー・ダーリンは、興味をもたなくてもラジオから自然に聞こえてくるようなポピュラーな歌手だった。ジャズばかり聴いていたわたしは、ボビーのヴォーカルはジャズとしては甘いという印象が強く、自分からレコードを買って聴くことはなかった。ボビーのヒット曲になった「Beyond the Sea」というのは、もともとは、シャルル・トレネの「ラ・メール」の英語版で、こちらは、ジャズに深入りするまえにはまっていたシャンソンのレコードでよく聴いていた。イヴ・モンタンが歌う盤もあったと思う。映画でも、ちらりとトレネの声が聞こえた。
◆そんなわけで、ボビー・ダーリンが、1960年代になってアメリカのヴェトナムへの介入に反対し、次第にロバート・ケネディのシンパになり、ポリティカル・ソングを歌いはじめたということは全く知らなかった。映画では、北爆のエスカレート、ロバート・ケネディの暗殺など当時の状況を象徴する事件がスケッチされ、彼が政治意識を強めるプロセスが描かれるが、それと平行するように妻サンドラ・ディー(ケイト・ボスワース)との不和が進む。彼女とは、わたしは見ていない(早くみなくては!)が、ジョン・カサベテスの『九月になれば』(Too Late Blues/1961/John Cassavetes) の共演がきっかけで、彼女がまだ17歳のときに結婚したという。ケイト・ボスワースのパートは、50年代ぽい感じは少し出していたかなというところで、あまり印象的ではなかった。ボビーのマネージャー、スティーヴ・ブラウナーを演じたジョン・グッドマンは、ボブ・ホスキンスと同様、卒なく役をこなしていた。うまいけれど、賞を取るとすれば、キャロライン・アーロンだろう。
(ギャガ試写室)



2004-12-22

●サマリア (Samaria/2004/Ki-duk Kim)(キム・ギトク)

Samaria
◆ちょっとKEYをのぞいて会場へ。電車のなかの本の広告に、「ご注文はこれでよかったでしたか?」というのを「変な日本語」としていたが、配給会社の人が使う「ごあいさつさせていただいてよろしいですか?」というのも変と言えば変だ。しかし、言語に「変な」はない。発語され、合意が成り立てば、言語は「正しい」のである。ダンカン・ワッツの『スモールワールド・ネットワーク』(阪急コミュニケーションズ)を読んでいたら、声をかけれれ、見上げると川本三郎氏だった。
◆キム・ギトクは、今野雄二氏が最近ぞっこんホレ込んでいる監督で、先日、大学で「映画と身体」という特別講義をしてもらったときも、ギトクのことがとりあげられ、『春夏秋冬そして春』からの映像が上映された。独特の映画作家だと思う。肉体への執着も面白い。取り上げられる非常にローカルな素材にもかかわらず、作品の根底にあるのは、意外にヨーロッパ的なものであるような気がする。ギトクが、パリで過ごしたことと無縁ではないはずだが、韓国の監督の発想は、日本の映画作家とくらべると、はるかに「ヨーロッパ的」であると思う。
◆ギトクの作風には、「罪と罰」と「正と義」とが西欧的および儒教的にまじりあったようなある種の「潔癖さ」へのトラウマのようなものがある。日本の女子生徒の「援助交際」にインスパイアーされたという三部構成のこの作品の第1部「パスミルダ」と第2部「サマリア」の半分までは、いわば「ポストモダン」な感覚で物語が展開する。その娼婦と寝た男は、至福の体験をしたあまり、仏教信者になるという言い伝えがあるという「パスミルダ」にどこか似た少女チェヨン(ソン・ミンジョン)は、親友のヨジン(クァク・チミン)を会計と監視の役にして、「援助交際」をくりかえす。2人は、西欧的観点ではレズとみなされるだろうが、東洋的な観点では、この年令の少女に特有の親しさの関係にあるだけなのかもしれない。
◆陰湿さを感じさせないチェヨンの「援助交際」は、そのままつづくのかと思っていると、いきなり「罰」のファクターで幕を閉じる。連れ込みホテルを急襲した警官の姿を見て、チェヨンは、窓から飛び降り自殺してしまう。これまであっけらかんとした調子で話が展開してきたので、急に儒教道徳の世界に引き戻された感じがするが、これは、必ずしも「罰」ではない。ヨジンが、チェヨンの理念つまり「パスミルダ」であることを過激に継承し、彼女のかつての客を一人一人ケータイで呼び出し、セックスをし、しかも前にチェヨンが受け取った金を返すという行為を実践するからだ。
◆ここで、わたしは、フェリックス・ガタリが、精神分析医と患者との関係について語った言葉を思い出した。彼によると、精神分析医と患者との関係は、生産者が消費者にものを売るというような関係ではなく、コミュニケーションと情報交換の関係なのだから、もし金を払うということが必然なら、両者が金を払いあわなければならないという。これは、すべてを利潤を生むべき交換にしてしまう資本主義と、利潤を生むとはかぎらないコミュニケーションとしての情報交換との矛盾(要するに情報資本主義というのは矛盾しており、資本主義の終末形態だということ)をあばくための異化効果的な言い方なのだが、チェヨンとヨジンがやったことは、まさに前・脱資本主義を体現している。
◆わたしは、ヨジンがチェヨンの「遺志」をより過激に継承するところをもっとふくらませるだけでもよいと思うが、それでは終わらせないところがキム・ギトク流なのだろう。つまり、彼は、韓国の現在というファクターを無視することはできない。そのファクターを体現するのが、妻を亡くしたあと、男手ひとつで娘ヨジンを育ててきた父親ヨンギ(イ・オル)だ。彼は、刑事であり、「援助交際」を取り締まる立場にある。彼には、妻がいながら自分の娘歳の未成年の少女とセックスする男を許すことができない。これは、わたしなどの価値観では「悪」でもなんでもないのだが、キリスト教的にも儒教道徳的には「悪」とみなされる。
◆いま、「わたしなどの価値観では『悪』でもなんでもない」と言ったが、わたしに娘がいて、彼女がヨジンのようなことをやるのを知ったら、どうだろうか? キム・ギトクは、親子という論理では割り切れない「超越論的な論理」もはずさない。『魚と寝る女』でも、一方で非常にシュールな物語を展開しながら、決して身体的な現実性をはずさなかったが、この映画でも、韓国という具体的なコンテキストのなかで生きている父親と娘の現実をはずさない。
◆しかし、そういう「古風」(ただし、彼が娘に語る話は、みな西洋の逸話や故事である)な父親も、すでに過渡期のなかにあることをキム・ギトクはしっかりととらえている。最終章のタイトルが「ソナタ」であるのもそのためだ。父親が娘に車の運転を教える終盤のシーンがそのことを示唆する。このへんは、車輪が泥と石のぬかるみにはまって動けなるなるなど、象徴主義的な表現が目立ち、ちょっと古い感じがする。この感じは、映画のタイトル「サマリア」にもはっきりと出ている。これは、言うまでもなく、『新約聖書』の「ヨハネ第4章」に出てくる「サマリア人」を指しており、ヨジンは、イエス・キリストが被差別民であるサマリア人に近づいたように、通常の価値観では軽蔑されるべき「買春」するオヤジを対等にあつかう。
(東芝エンタテインメント試写室)



2004-12-21

●トニー滝谷 (Tony Takitani/2004/Ichikawa Jun)(市川準)

Tony Takitani
◆いまや「ブーン」というハムが聴こえる音響装置と本当笑ってしまうほどありきたりなBGMが特徴になってしまったメディアボックス。しかし、ここの試写会はだいたい盛況。今日も、終了時に見渡したら、ほぼ満席だった。
◆村上春樹の原作にもとづく作品。市川準の作品は、『ノーライフキング』、『大阪物語』、『東京メリーゴールド』、『竜馬の妻とその夫の愛人』などを批評したことがあるが、今回の作品は、村上の原作を意識してか、それらとはかなりちがう。映像のスタイルは、あえて形式的にしている。坂本龍一のミニマルなテンポのピアノソロが流れる。カメラが右にパンすると、別のシーンに映るとか、プロットの切替に、坂を上がってくる宮沢の首が映り、やがて全身が映るとか、ナレーションを受け継いだ形でイッセーないしは宮沢が棒読みに読むとか、ある意味では月並みだが、形式化することによって逆にいい雰囲気を出してもいる。
◆見ている最中に「ここで終わってほしくない」と思うことが何度かあり、そして、結局、「もうちょっと見たいな」というあきらめの余韻をのこして終わる。いい意味でも悪い意味でもある種の個性的な雰囲気をもった作品。主演のイッセー尾形と宮沢リエは、彼と彼女としては最上の演技をしている。2人に合った役柄だったことも事実。宮沢は、尾形のように努力しなくてもアンドロイド感覚があり、この作品のキャラにあっている。
◆フラッシュバックで描かれるトニーの学生時代の姿は、尾形が若作りにして演じているので、ちょっと滑稽。キャンパスで聞こえる「全共闘」の活動家のアジ演説の口調もおかしい。しかし、原作の時代認識がその程度のものであることを考えれば、この「リアリティ」のなさも肯定できる。全共闘運動に賛同できない者にとっては、その活動家の演説もそんな程度にしか聞こえなかっただろうから。
◆原作が発表されているので、すこし「ネタばらし」をする。こんな記述で「わかったしまうからつまらない」と思うむきは、以下は読まないでほしい。映画は映画であり、「内容」を記述したものを読んで映画を見た気になるのなら、映画はいらないと思うが、あいかわらずそういう手合いが多い。だからまともな映画評は「学術雑誌」のような場でしか書けない。が、「学術雑誌」の読者は、映画好きは必ずしも多くはないので、書いても反応がない。これじゃ、行き止まりだ。
◆戦前に中国に渡り、トロンボーンのジャズプレイヤーとして仕事をしていた父。彼のアメリカ人の友人のすすめで「トニー」となづけられた主人公は、子供のころから機械などのスケッチがうまく、大人になり、イラストレイターとして成功する。ずっと女にも結婚にも興味がなかったが、ある日、仕事で事務所にやってきた女(宮沢りえ)を愛するようになり、結婚する。彼女は、主婦として「完璧」だが、きれいな服を見ると、買わずにはいられないという性癖があった。夫(イッセー尾形)は、十分な収入があるらしく、彼女の言うがままにし、家には大きな衣装部屋まで出来た。が、ある日、夫の苦情までいかない「忠告」に彼女は、服の一部をブティックに返品することを考える。しかし、その帰り、交通事故を起こして、あっけなく世を去る。しばらくして、男は、亡妻と体のサイズに近い女(宮沢りえのダブルキャスティング)をアシスタントとして雇う。条件は、亡妻の服を着て出勤すること。けげんな顔をする彼女を男は衣装部屋連れて行き、ゆっくり見させる。女は、部屋にさがったブランドものの服や靴を見、身につけているうちに泣き出す。このシーンは、不思議に感動的。しかし、それでどうというわけではなく、彼女は服を持って帰る。だが、それで、新しい2人の生活が始まるわけではなく、なにもなかったような日常がもどる。
◆衣装とは、記号であり、衣装が人を意味づける。表層にやる意味づけが重要な世界、そのスタイル自体が表層で出来ている村上春樹の世界では、身体に身につける衣装、靴、身体を表層から規定する家やインテリアは重要だ。宮沢(B)が宮沢(A)の残した服と靴を身につけるシーンは、この村上的「記号論」が一番よく出ているシーンだ。残念ながら、わたしは、村上春樹の世界的名声にもかかわらず、かれの小説を評価できない者の一人である。このシーンの面白くはあるが、「ものたりなさ」が残るところもまた、「村上春樹的」と言うべきか。
◆「それがどうしたの?」というのが村上春樹の世界である。しかし、そういう世界に宮沢りえは実によく合う。この映画では、イッセーはやや臭すぎる。夫婦だが「セックスレス」の感じもいい。「表層」とは、「うすっぺら」ということではなくて、世界には、もともと「中身」なんかないという意味での「表層」だ。世界は、ソシュール以来、「表層」にしか意味がなくなった。その意味では、村上はタイムリーなのだが、わたしに言わせれば、だからといって、「表層」の下になんにもないというポーズばかりをしなくてもいいだろうということだ。世界が「記号のたわむれ」になったとき、世界がたった1枚の「表層」だけになってしまったわけではなく、その下にあって「本当」の内実だとそれまで思われていたものが、所詮は、もう一つの「表層」であって、世界は、つまるところ、極限大の「玉ねぎ」のように、「表層」の下に無限の「表層」が続くということなのだ。それは、別に「村上」流に退屈なわけでも、空白でも欠如でもない。
(メディアボックス試写室)



2004-12-20

●ローレライ (Lorelei/2005/Shinji Higuchi)(樋口真嗣)

Lorelei
◆出ようとしているときに知りあいからコンピュータの不具合についての問い合わせがあって、時間がなくなった。市販のわたしの知らないソフトについてだったので、てまどう。駅までタクシーを飛ばす。焼き鳥の煙がもうもうとたちこめる有楽町のガード下の屋台の飲み屋のまえを、これもある種の「死臭」じゃないかなどと(そこを愛する人には)フトドキなことを考えながら、東宝へ。満席になり、映画がはじまったら、室内の温度がかなり高くなった。
◆どこが「未完成」なのかわからなかったが、製作年度が「2005年」になっているように、この試写は、まだ完成版の上映ではないという注意があった。
◆路線が「戦後民主主義」なのは意外だった。カミカゼ特攻隊に反対で「ダメ艦長」と見なされた絹見少佐(役所広司)が、いまは役職からはずされている元海軍の艦長だった浅倉(堤真一)から秘密の指令を託される。浅倉によると、アメリカは、前日の1945年8月6日の広島についで日本に原爆投下を計画しており、その原爆が輸送艦によって運ばれているという。その輸送艦を撃沈することが使命だが、浅倉は、そのために手に入れたという、ナチスドイツが開発した特殊兵器「ローレライ・システム」を積んだUボートを絹見に見せる。集められた乗組員たちは、國村隼、小野武彦、ピーエル瀧、柳葉敏郎、妻夫木聡、佐藤隆太らによって演じられる。ピーエル瀧がなかなかいい味を出している。
◆たくみなひねりがあり、それをここで明かすことはできないが、戦うことや「国を守る」ということにも、2派あることを示唆する。役所が、「大人が始めた戦争は大人が責任を取るべきだ」つまり若者を犠牲にしないということを言うシーンがある。これは、将来のある若者を犠牲にするカミカゼ特攻隊が戦力の浪費だという絹身の発想につながっている。ここで、絹見らの世代が戦って死ぬとしても、それは、「国家のために死ぬ」のとはちがうし、やみくもの戦争肯定ではない。
◆絹見少佐と対極の発想として、日本は腐りきっているから東京が原爆で壊滅して出直すほうがよいという発想が対置される。かつてダグラス・ラミス(彼は、多くのすぐれた著作を発表しているが、『ラディカルな日本国憲法』[晶文社]には、光栄にも、「粉川哲夫との対話」という章がある)は、アメリカという国は、『地球最後の日』(だったと思う)で見られるように、自分の国がもうダメだと思うと、地球をまるごと巻き添えにして自滅するような国だと言ったことがある。この映画にも、最初は「戦後民主主義」的な発想をよそおいながら、実は本音ではこのような発想の持ち主だあったことを暴露する人物がいる。なお、ちなみにわたしは、「戦後民主主義」の肯定論者のはしくれである。
◆面白いのは、この映画には、1945年に東京にも原爆が投下されていたらどうだったかという仮説的な視点がある。むろん原作『終戦のローレライ』(講談社)にある視点なのだろうが、映画は、それをうまくとらえている。アメリカの占領と支配、そしてその延長線上にあるいまの日本がないことは明らかだろう。それがなければ、当然、アメリカによる軍事支配のやりかたも変わっている。「高度成長」はなかっただろう。絹見少佐は、いまの日本を肯定している。他方、いま憲法を改正し、場合によっては北朝鮮にも先制攻撃を加え、自衛隊を正式の軍隊にすべし等々と唱えている連中は、いまの日本を否定している。あなたはどちらを取るか? 「平和ボケ」と誰が言おうと、60年間戦争をせずに来れたことは評価すべきだし、海外で日本をそんな言葉で批判する国はないということを知るべきだ。
◆ナチの収容所と人体実験の経験を持つという設定の日系ドイツ人、パウル・A・エプナー(香椎由宇)は、『マイノリティ・リポート』のサマンサ・モートンの演った役柄を思わせる。柳葉敏郎が演じる将校の最期のシーンは、『K-19』を思い出させる。『K-19』のほうが、実話にもとづいていることもあって、柳葉のシーンよりも納得でくるものであったが。
(東宝試写室)



2004-12-15_2

●ベルンの奇跡 (The Miracle of Bern/Das Wundr von Bern/2003/Soenke Wortmann)(ゼーンケ・ヴォルトマン)

The Miracle of Bern
◆海外では評判の作品だが、お客はあまり多くはなかった。最前列にすわったのだが、左右には誰もおらず、気になって後ろを見たら、数人の顔が見えた。
◆しかし、この映画は、見て損をしないと思う。わたしがきらいなスポーツが主題の映画であり、国中の期待を背負ってドイツのサッカー・チームがワールド・チャンピオンになるという話ではあるが、映画を見ながら、国家とは何か、家族と国家との関係などを考えさせる。
◆1954年のドイツ、ルールの炭鉱の町。当時のドイツは、戦争の傷からまだいえていない。第2時世界大戦で従軍した兵士のなかには、ソ連軍に捕らわれ、収容所に入れらたまま、運よく生きていてもまだ帰還しない者もいた。ちなみに、日本人も、終戦とともにソ連に「抑留」(当時はこの言葉が使われた)され、大分たって日本に帰ってきた人たちがいた。わたしが高校で日本史を教わった小川という先生は、そういう経験をされたかたで、収容所で強制労働をさせられ、防寒も食事もひどく、歯がぼろぼろになってしまったという話を授業中にしておられた。 ドイツの場合は、もっと多くの捕虜がいた。
◆この町からワールド・カップのチームに抜擢される青年ヘルムート(サーシャ・ゲーベル)を中心に、チームが優勝にいたるサッカー・ストーリーと、彼と親しく、サポートをしていた年下の少年マチアス(ルーイ・クラムロート)の家庭の物語とがからみあいながら展開する。ルバンスキーという名前からわかるのだが、この家族はポーランド移民である。もともと決して裕福な家庭ではない。さらに、新婚のスポーツ記者夫婦アネット(カタリーナ・ヴァッカーナーゲル)とポール(ルーカス・グレゴロヴィッチ)がワールド・カップを取材するというファクターもからむ。これは、一見余分なファクターのようにも見えるのだが、国家と家族とスポーツとマスメディアは、切っても切れない関係にあることを思うと、なぜこういうファクターが入れられているかがだんだんわかってくる。
◆娘イングリッド(ビルテ・ヴォルター)と息子マチアスの手を借りながらバーを開業している母親クリスタ(ヨハンナ・ガストドルフ)。長男のブルーノ(ミルコ・ラング)は、「共産党」に惹かれている。貧しいながら、何とかやっていた一家にある日、突然の変化が起きる。抑留されていた父親リヒャルト(ペーター・ローマイヤー)が11年ぶりに帰還したのだ。普通なら、それは喜ぶべきことなのだが、ひどい抑留生活で(しかも収容所内での「窃盗」の嫌疑で刑に服せられてもいた)心身ともにぼろぼろになっており、彼が帰ってきただけで、その日からマチアスの家庭は暗い雰囲気につつまれる。
◆リチャルトは、一家をささえなければという気持ちだけは強く、そのあせりがかえって彼を追いつめて行く。炭坑の仕事に復帰したが、閉所恐怖が出て、仕事を続けることができない。もんもんとして日々を送るなかで、家族にあたる度合いが増していく。自分を不幸にした「共産党」に接近する長男ブルーノとはますます溝が開いていく。妻の誕生日にと、みずから料理をするが、その肉は、マチアスが大切に飼っていたウサギのものだった。このへんの、よいと思ったことが裏目に出てしまうディレンマの感じが、ヴィヴィッドに描かれている。ぺーター・ローマイヤーが好演。
◆家族関係が回復していくことと、サッカーチームが苦戦の末にハンガリーのチームに打ち勝つ過程とが、単なる同時進行ではなく、動的にからみあったかたちで描かれる。実際、家庭と国家との関係は、不即不離の関係だ。だから、国家は、つねに家族/家庭の管理を陰に陽に進める。このい映画にには、国家の直接的な影は見えないが、ワールド・カップは事実上国家行事であり、国家の威信や存亡がかかっているかのように国中の人々がテレビとラジオの放送に熱狂する。先ごろも、北京で、たかがと思えるサッカー試合が、日本と中国の人々をつかのまナショナリストにした。中国は、その技法をもっと利用しようとしている。「拉致家族」の問題も、家族・家庭・家が、いかに国家と切り離せない関係にあるかを教えてくれる。
◆国家の形態は時代とともに変わる。日本の場合は、天皇制国家だから、天皇ファミリーが日本のその時代その時代の家族モデルを示す仕組みになっている。日本国家は、「和」をタテマエとする家庭へ個々人を集め、帰属させることによって、戦前・戦中においては軍事を、戦後は経済を機能させてきた。ところが、いま、国家は、「和」よりも競争や闘争の人間関係によって「国力」をつけようとする段階になった。そのため、家庭は、よくてスポーツチーム、悪くすると、家庭内暴力や虐待のような文字通りの闘いと紛争の場となる。
◆グラムシも言ったように、国家は、人々を管理し、抑圧する権力装置であると同時に、個々人を保護し、教育する装置でもある。国家が存在する現状では、国家から放り出された「難民」は、日々の生活と初頭教育の援助をうしなう。が、問題は、いま国家は、管理と生産の「現場」としても家庭がその機能を果たさなくなっていると同時に、個々人を保護し、教育する場としても、核家族に代表されるような「家庭/家族」という単位が用をなさなくなってきていることだ。ネイション国家と核家族はセットになっている。が、ネイション国家が終末にちかづいているいまの国家にとって、いまわれわれが慣れ親しんでいる「家庭/家族」が次第にお荷物になってきているのも事実なのだ。
◆この映画では、最初権威主義的だったサーカーチームの監督ヨーゼフ・"ゼップ"・ヘルベルガー(ペーター・フランケ)が、次第に反省し、態度を変えていくプロセスも見られる。最初、彼は、選手のルール違反に「罰」をもってむくいていた。同様に、マチアスの父も、権威的な態度を少しづつ捨てていく。スポーツチームや家庭という単位の「長」の変化は、国家の変化とつながっている。ある種の「民主化」は、ドイツでも日本でも、スポーツチームのなかでも、家庭でも、この半世紀の必然的な動きだった。個々人の「自発性」を刺激しながら、あたかも国民の自発的な意志で選択されたかのように行う管理にとって、マスメディア(新聞と放送)はかかせない。その意味で、この映画は、よく見ると、国家問題のすべての要素が発見できる。
◆長男のブルーノは、次第に「共産党」にコミットしていき、東ベルリンに移住する。当時は、まだベルリンの壁が出来ていなかったので、大げさな政治事件にならずに、移り住むことができたのだった。
◆主役級の少年を演じたルーイ・クラムロートと父親役のペーター・ローマイヤーとは実生活でも親子関係。
◆サッカーチームの監督の依頼で靴鋲がネジになっていてとりはずしのきく特性のサッカーシューズを作って持ってくる人物「アディ」が登場するが、これは、「Adidas」の創設者アディ・ダスラーのことだという。
◆最期のクレジットの裏で当時の実況放送を担当したアナウンサー、ヘルベルト・ツィマーマンの声が流れる。
(東宝試写室)



2004-12-15_1

●アイ・アム・デビッド (I Am David/2003/Paul Feig)(ポール・フェイグ)

(I Am David
◆大分以前から試写状をもらいながら、今日まであとまわしにしてきたのは、タイトルのちょっとナリシスティックな感じと、中途半端に「肉体派」で、泥くさくした「トム・クルーズ」みたいなジム・カヴィーゼルが好きではないからだった。が、見て見たら、カヴィーゼルはちょい役で、ちょっと地球にまぎれ込んだ「E.T.」のような雰囲気のある少年デビッド役のベン・ティバーが終始前面に出る物語だった。
◆マイケル・ウンターボトムの『イン・ディス・ワールド 』は、15歳の少年がパキスタンからロンドンまで命がけの旅をする物語だったが、これにくらべると、本作で描かれる少年デビッド(日本では、Davidを「デイビット」、「デイヴィッド」、「デビット」とかさまざまに表記するが、できれば「デイヴィッド」か「デイヴィット」に統一してもらいたいものだ)の逃避行は、ややのんびりした感じがする。
◆時代は1950年代。「反共主義者」の烙印を押された一家がブルガリアの強制収容所に入れられたが、両親から引き離されたデイヴィッド(ベン・ティバー)は、ある偶然からそこを逃げ出す。教えられた通りに、ギリシャに入り、サロニカから船でイタリア、そしてスイスへと移動する。しかし、ウンターボトムの映画の主人公にくらべると、周囲は好意的で、ときには通報されそうになったりもするが、それほど深刻なことにはならず、金持ちの豪邸に泊めてもらったり、最期には、ジェーン・プロウライトが演じる愛情深く、開けた精神の持ち主に出合い、肉親のもとに帰ることができるようになる。スリルはあるが、ちょっとウソぽい感じがするが、現実は奇なるもので、こういうこともけっこうある。「E.T.」のような雰囲気と言ったのは、そのことで、デイヴィッドには、最初からマレビト的な要素があり、ツイているのだ。
◆最初、流れてくるナレーションを聴き、これは、デイヴィッドが収容所でいっしょで、いつも彼を庇護してくらた男ヨハン(ジム・カヴィーゼル)の語りなのかと思ったが、そうではないことがやがて明らかになる。だとすると、一体、これはだれなのか? 成人したデイヴィッドなのか? その問いは、最期のほうになってわかる。これが誰であるかについては、映画評と映画を見ることとはちがうと主張するわたしでも、明かすのをやめておいたほうがいいと思う。
◆ある意味では、この映画は、ソ連の主導で「共産主義」圏につくられた「収容所」(グーラーグ)を批判する映画ではなく、人生には運というものがあり、人間のなかには、運の悪い奴と運のいいマレビトとがいるという話である。ヨハンは、まさしく運の悪い人間だった。
◆かつてアレクサンドル・ソルジェニーツィンの『収容所列島』という本がベストセラーになったことがある。当時、この本が描いた「収容所」の存在をめぐって「左翼」のあいだでも議論が起こった。それは、CIAの捏造であって、「社会主義」の国にそんなものがあるはずがないという主張をする者もいた。いま、多くの人は、権威主義的な国家には必ず収容所があることを知っている。「民主主義」を標榜する国でも、状況次第で「収容所化」がいつでも起こることも少しは知られるようになった。しかし、問題は、その分、「どうせ収容所なんかどこにでもあるんでしょ」とわかったようなことを言い、その存在をなくそうとする努力や批判の力がすっかり失せてしまったことではないか? この映画で、収容所の「実態」がフラッシュバックでしか描かれないのは、そういう時代の雰囲気とどこかでリンクしているように思えた。
(ヘラルド試写室)



2004-12-14

●オーシャンズ12 トゥエルブ (Ocean's Twelve/2004/Steven Soderbergh)(スティーヴン・ソダーバーグ)

Ocean's Twelve
◆隣のシネマスクウェアとうきゅうの階段の上のほうまで列ができていたので、相当混むかと思って入場したら、上映直前でも4分の3ぐらいの入りだった。劇場が大きいということもあるが、常連の顔がそう多くないところを見ると、時間の関係か、あるいは、すでに見ている人のうわさが流れたからか。そういうのは、けっこう微妙に作用する。荷物検査があったが、上映中両袖に制服を着た警備員が立って客席をにらみつけていた。彼らは、上映中もスクリーンのほうを一度も見なかった。ご立派。
◆3分の2ぐらいまでは、かなり退屈だった。全般、アンディ・ガルシアが、前作『オーシャンズ 11』でだまされたおとしまえをつけさせようと、世界中にちらばっている「オーシャンズ」のメンバーを一人ひとり訪ね、脅しをかける。ジョージ・クルーニー、ジュリア・ロバーツ、マット・デイモン、ブラッド・ピット、前作では出ていなかったキャサリン・ゼタ=ジョーンズ等々、みな鎗々たる役者の顔をおがめるのだから喜ぶむきもあるかもしれないが、ガルシアのこのくだりはワンパターンであり、意味がない。前作を見ていなければひねりもわからないし、前作を見てない人に前提をダイジェストする機能としても、うまいやり方ではない。その点では、本作は、誰でもが楽しめるというものではない。
◆これだけの俳優をそろえ、パリ、ローマ、アムステルダム・・・でロケをし・・とくるわりに、ポイントがなく、俳優一人ひとりの特性がドラマのなかでは活かされておらず(もともとそういうことをねらっていない)、この映画ってナニ?という印象をあたえる。わたしは、ハリウッドのセレブ俳優たちの旅行付プライベートパーティと考えるのがいいと思う。最後のほうに、ご一党がはしゃぐシーンがあるが、まさにこの雰囲気を出演者たちが楽しむために映画<も>撮ったというのが、本作という印象。だから、前作についてはむろんのこと、出演者について知っていれば、「楽屋落ち」がかぎりなく楽しめる。しかし、ソダーバーグというひとは、どうしてこんな「遊び」ができるのだろうか? ジョージ・クルーニーなんかは、映画技術的にも、ソダーバーグをえらく尊敬して、影響も受けているようだが、よく考えると、ソダーバーグって、そんなにすごい作品は作っていないのですね。
◆ジュリア・ローバーツが「ジュリア・ロバーツ」のふりをするとか、ブルース・ウィリスがカメオ出演しているとか、重要な役で出ているアルバート・フィニーを、なぜかクレジットしないとか、「遊び」が多すぎるのだが、こういうところが、この映画に参加している俳優たちにとってはたまらないところなのかもしれない。そうした映画製作上の「遊び」にくわえて、俳優たちが将来自分で演出もできるような映画製作の基本を見せてくれるところもあり、その意味でも、ソダーバーグは、役者たちにとって「いい先生」なのかもしれない。
◆この映画でブレイクしたのは、ヴァン・カッセル。わたしは、『ジャンヌ・ダルク』でも見ているはずだがが、この俳優の顔をはっきりとおぼえたのは、『ジェヴォーダンの獣』でシニカルな片腕の男を演じたときだった。今回、彼が、悔しさを演じるところが実にいい。今後いい展開を見せる俳優だろう。
(新宿ミラノ座)


2004-12-13_2

●ナショナル・トレジャー (National Treasure/2004/Jon Turteltaub)(ジョン・タートーブ)

National Treasure
◆歴史学者のベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)は、幼いとき、祖父ジョン(クリストファー・プラマー)からアメリカに隠されている財宝の話を聞いた。ジョンは、曾祖父からその秘密を教えられ、自分でもそのありかを探しつづけてきた。息子のパトリック(ジョン・ボイト)も、その半生をその探究に費やしたが、いまでは、その存在に懐疑的になっており、息子のベンには、その話をしないようにしていた。ジョンが孫のベンに話したことによって、ベンの人生が変わる。しかし、財宝が見つからないために、一家は「気違い」あつかいされ、ベンは、一方で「天才的な歴史学者」という評価をうけながら、うさんくさい目で見られてもいる(そういうキャラクターはニコラス・ケイジにはうってつか)。
◆映画は、ベンが、「行動派」のイアン(ショーン・ビーン)とともに北極圏で手がかりを見つけるところから始め、イアンの裏切りと彼の一派との闘い、彼の追求を逃れなながら、情報に強い若者ライリー(ジャスティン・バーサ)の力を借りて、財宝へ一歩一歩近づくという『インディ・ジョンーンズ』や『ハムナプトラ』流のアドベンチャー・サスペンス。アクションや「科学的」小道具も、ストーリーがまずあって、それを活かすために要請されたというエンタメもののパターンではある、華を飾るために導入されていることがみえみえのダイアン・クルーガーが、古文書のドクターであるとは見えない、FBI捜査官役のハーヴェイ・カイテルはもったいない等々、ケチをつければきりがないが、エンタメとしては、楽しめるだろう。
◆しかし、映画の社会的な機能をパラノイアックに意識すると、この映画、なかなかの「問題作」である。わたしは、歴史の素養が乏しいので判断に迷うが、とりわけ建国時のアメリカ史とフリーメイソンとの関係をどうとらえるかで、この映画の意味や機能が変わってくる。まず、アメリカが、建国の時代にはまだいまよりましな民主主義や自由の意識が国家的レベルで横溢していたと考えるならが、この映画は、反ブッシュの映画になる。また、逆に、この映画で暗黙に賛美されているフリーメイソンが、世界を支配しようとする「陰謀集団」や「国際的支配階級」(international ruling class)にすぎないと見なすならが、この映画は、ブッシュのやり口に代表されるキリスト教的世界支配を肯定するドラマにもなる。
◆この映画では、問題の秘宝は、12世紀のテンプル騎士団からフリーメイソンに受け継がれ、イギリスの独占を回避しながら、アメリカに持ち込まれたという。そして、その秘密には、フリーメイソンのメンバーだったというョージ・ワシントンやベンジャミン・フランクリンも関わっていることになっている。1ドル紙幣に印刷されている頂点に眼がついているピラミッドの図柄は、フリーメイソンのものとされるが、これは、ドルの世界支配を象徴してもいる。ちなみに、ハル・アシュビーの『チャンス』の最後のほうで、富豪の葬式がその邸内で行われるが、棺が運ばれる墓は、まさにこの図柄を写した「ピラミッド」になっている。
◆フィリーメイソンに関しては、その解釈自体がフリーメイソン的であり、ゲーテやモーツアルトがメンバーだったという場合のフリーメイソンは、「世界市民」や「自由博愛」を主義とするネットワークである。が、文化権力という観点から考えれば、ゲーテやモーツアルトのほうがロックフェラーやブッシュ一族よりもはるかに世界的な「文化権力」であり、世界の人々の感性や思考を支配している。
◆隠された財宝を発見する冒険サスペンスの側面を維持しながら、その一方で、この映画は、アメリカの建国に関連する「独立宣言書」、ワシントンの「国立公文書館」、フィラデルフィアの「独立記念館」など、アメリカ合衆国の「原点」に注意を喚起する仕掛けが仕組まれている。これは、いまのアメリカがやるべきことは、「原点」の見直しであることを考えれば、この映画の冒頭にあるように、孫が祖父の、息子が父親の話にもう一度耳をかたむけれみるのは悪くないだろう。
◆問題の宝は、「王」(一人ある一国の権力者)が独占することのないようにフリーメイソンが隠したという設定になっている。しかし、それならば、映画で発見されてしまう宝は、最終的に、ハーベイ・カイテル演じるFBIのもと、つまり「国家の財宝」(ナショナル・トレジャー)になってしまうわけだから、これは、フリーメイソンの精神に反するのではなかろうか?
◆「独立宣言書」は「国家が過ちを犯したときには、その政権を倒す権利を人民が持つこと」を肯定しているというようなことがちらりと出てくるが、この「国家の過ち」が、ブッシュなのか、それとも、ブッシュがやっていることが、そういう代理行為なのかは、意見の別れるところだろう。もし再見する機会があったら、よく考えてみたい。
(ブエナビスタ試写室)



2004-12-13_1

●エターナル・サンシャイン (Eternal Sunshine of the Spotless Mind/2004/Michel Gondry)(ミッシェル・ゴンドリー)

Eternal Sunshine of the Spotless Mind
◆風の強い日、早起きして六本木1丁目の地下鉄駅を出る。1pm開始というのはわたしにはあまりユージャルではない。昼飯どきなのか、飯倉片町へ向かう路上で弁当を売っている。この時間にここを通ったとき何回か見たから、「名物」なのだろうか? 信号の切替がトロい(最近少しよくなった)横断歩道で、短いスカートをはいた女子生徒が2人、赤信号をさっさと渡っている。車の通らない赤信号の横断歩道で立ちつくすのは、日本人とドイツ人ぐらいのような気がするが、彼女らの時代には変わるのだろうか?
◆主演がジム・キャリー、脚本がチャーリー・カウフマンなので、『トゥルーマン・ショウ』と『マルコヴィッチの穴』をブレンドしたようなシュールレアリズム性とノワールなユーモアがただよう。ケイト・ウィンスレットは、先日、『ネバーランド』で「会った」ばかりなので、新鮮さがないが、逢ってすぐ意気投合し、その日に寝てしまいたくなるような(いないようでけっこういる)女性の感じをよく出している。ただ、愛想のつきた相手の記憶を消してしまう決意をするようなタイプの女性を演じるには、すこし「健康」すぎるような気がする。その点では、キルスティン・ダンストのほうが適役。
◆ジョエル(ジム・キャリー)とクレメンタイン(ケイト・ウィンスレット)は、偶然出会い、恋しあうが、ありがちなパターンで別れてしまう。が、ジョエルにとってショックだったのは、彼女が、自分の記憶を消してしまったことだった。仕返しにというわけではないが、彼も、同じ「診療所」で記憶削除の「治療」を受けることにする。映画は、彼の意識のなかにカメラを持ち込んだかのような映像でそのプロセスを見せる。半意識のなかで彼は、感動し、後悔し、苦しみ・・・彼女との経験を追体験することになるが、はたして、彼の決断は・・・? あとは見てのお楽しみ。
◆わたしは、もともと無責任で忘れっぽいので、あまり記憶を消したいとは思わない(いや、それどころか、どう記憶を維持しようかと苦慮している)が、わたしよりもマジめで修羅場を生きてきた人は、「あの人」の記憶だけは消してしまいたいと思う場合があるのだろう。カントは、「・・・のことは忘れること」というメモを壁に張って、忘れる努力をしたというが、記憶の抹殺というのは、究極の殺人ないしは自殺にほかならない。ボケやアルツハイマーなどで記憶を失ったとき、人は、自分だ誰であるかわからなくなり、究極的には、自分が人間であるという意識も失う。そういう人に会うと、相手に死なれた場合よりもつらいし、この映画のように、自分から相手の記憶を抹殺したということを知らされたときには、相手によって自分が最大限に無視され否定されているのを感じるはずだ。
◆記憶は、おそらく身体を人工的に操作する際の最後の「戦場」になると思うが、この映画には、必要なときに特定の記憶を消せる医術(というよりもデジタル技術)が金さえ払えば誰に出る利用できるものとして登場する。トム・ウィルキンソンがいかにもチャーリー・カウフマン的雰囲気で演じるドクターは、記憶をマッピングし、そのユニットを消すことによって、記憶を自由に消滅させる技術を開発し、「診療所」を開いている。レセプショニストを演っているのが、『スパイダーマン』シリーズでメアリーを演じているキルスティン・ダンスト。このひと、気が多いような印象をあたえておいて、実は一途だったりする女性を演じるのがうまい(独特の目つきのせいか?)が、ここでも面白いキャラクターを演じている。
◆記憶削除の処置は、ヘッドギアのようなものとコンピュータを結んだ装置でできるようになっており、「出張治療」もやってくれる。「診療所」で患者が執着する記憶の品々を使って、それらに反応する「感情の芯」をスキャンし、マッピングする処置を済ませれば、あとは、助手たちが、患者の家に「出張」して処置してくれる。マーク・ラファロとイライジャ・ウッドがその助手を演じている。ラファロは、最初どうということもないが、そのうち、装置を「オートモード」にしてダンストとセックスにふけったりするいいかげんなキャラクターをうまく演じている。あの『ロード・オブ・ザ・リング』のイライジャ・ウッドがもう一人の助手をやっているのがよくわからないが、あのぎょろ目がこの役割のアブサードな感じにぴったり。この映画のキャスティングは、まず「目つき」で俳優を選んだのではなかろうか?
◆カウフマン的ジョークと思えば、何でも歓迎なのだが、あえて言えば、記憶の構造は、この映画で描かれているようなシーケンシャルなものではなく、もっとぐちゃぐちゃしている。この映画で問題になっている「記憶」は「データ」にすぎない。だから、事実上、コンピュータによる記憶のマッピングなどは不可能に近い。映画では、ファイルを消すように記憶のユニットを一つ一つ消して行くが、記憶は相互にもつれあっており、こうは行かない。一つの記憶は、すべて全体化されており、一つの記憶ユニットを消すと全部消えてしまうようなところがあり、記憶という機能を全部だめにする覚悟でないと記憶は消せないのだ。とはいえ、この映画でも、消したはずの「記憶」が、部分的によみがえるシーンがある。これは、データは消せても、記憶は消せないことを示唆してもいる。
◆この映画では、『ラブ・アクチュアリー』における「クリスマス」のように、「バレンタインデイ」がジョエルの脅迫観念になっている。「バレンタインデイ」に母親ぐらいからしかカードが来ない(日本でチョコレートを贈るのがパターンになっているが、「バレンタインデイ」で贈るのはチョコレートだけではない)のを嘆くシーンがある。相手がいないことを思い知らせる日なのだ。
◆『アダプテーション』でも感じたが、カウフマンよりもゴンドリーの趣味か、ある種「瞬間芸」的なショットがかなりある。意識のなかの描写ということより、映画表現として面白い。たとえば、「診療所」でマーク・ラファロが、いきなり、犬みたいなかっこうでダンストを驚かせるとか、ジョエルとクレマンタインが歩いていると、車が吹っ飛んでくるとか。しかし、それは、瞬間映されるだけで。以後どうなっただろうと思わせながら、どんどん先へ行く。
(ギャガ試写室)



2004-12-08

●北の零年 (Kitano Zeronen/Year one in the North/2004/Yukisada Isao)(行定勲)

Kitano Zeronen
◆吉永小百合、渡辺謙というわたしが好きでない大味の「大俳優」と3時間近い長さ、それから宣伝用のDVDで見たときに感じた冗長さに、見に行くのを一瞬ためらったが、見てみると、そう悪くはなかった。しかし、全体のトーンは、「文部科学省推薦」のハリウッド映画といったところで、結果的に、「それでどうした?」と言いたくなるようなところがある。
◆明治政府から北海道移住を命じられた淡路の稲田家の人々の半生の物語。映画は、家老の堀部賀兵衛(石橋蓮司)、小松原英明(渡辺謙)らの先遣隊を追って、小松原の妻・志乃(吉永小百合)らの一行が船旅で北海道の静内へ向かうところからはじまる。「陸が見えたぞぉ!」と叫ぶ男が登場する典型的なシーンのすえ、一行は小松原英明らが、「殿をお迎えする」屋敷を建造中の村へ到着する。英明は、理想に燃え、ここに「われらが国」を建設しようという情熱に燃えている。
◆「団塊の世代」が見れば、国家から独立して自分たちの「国家」をうちたてようという「革命」の「夢」をいだく人々の話だから、「うん、おれたちがやろうとしたこともこういうことだったんだ」と、ちょっとばかり苦い懐かしさを感じるかもしれない。しかし、情報資本主義の時代には、土地は情報との関係でしか「価値」を生まないから、土地に執着する革命や「国づくり」は失敗する。土地はもはや「拠点」(ホーム)とはなりえない。「ホーム」は、「家庭」にも大地にもなく、「ホームページ」のなかにしかないというのが、いまの時代の困難であり、可能性だ。
◆全体としては、「まとも」すぎるトーンで、クロウト向きではないが、場面の転換には新鮮なものがある。作物は実らず、「殿」は1年も遅れたやって来て、「家」を維持する意思のないことを告白する等々、「夢」はどんどんやぶれていく。理想に燃えていたはずの小松原さえもが、静内の村を捨てる。そのことを決定的に印象づけるシーンで、人々が呆然とたたずむ背景(家のなか)で、突然、「ええじゃないか」の声がわきおこり、人々が踊り狂う姿があらわれる。幕末の日本の各地で、「ええじゃないか」と歌い、踊り狂う「運動」が起こった。これは、岡本喜八の『ジャズ大名』(1986年)や今村昌平の『ええじゃないか』(1981年)でもとりあげられているし、1970年代には、日本的「革命」の一つのイメージとして過剰にもてはやされた。
◆ついでに言っておくと、日本で「革命」が起こったとわからないくらいその持続時間が短い(だから日本では「革命」が起こったことはないという説もある――ただし、「革命は10分だ」と言うのは正しい。10分後には硬直し、制度化していく)のは、「ええじゃないか」に象徴されるように、歌い狂って終わりというケースが多いからではないだろうか? かつて笠信太郎が名づけた「花見酒の経済」ではないが、革命のほうも、「花見酒」の興奮ではじまり、おわるのが、日本のパターンのように思える。まあ、イリイチが特別の意味をこめた「コンヴィヴィアリティ」も「宴会」と無関係ではないから、「ええじゃないか」的「花見酒」も悪くはないのだが、これでは、アキシデンツまでもプログラムするいまのシステムには太刀打ちできないでしょうね。
◆国家が、状況次第で人民はむろんのこと、組織すらも裏切るということを教える点で、啓蒙映画としては「反国家主義的」と言えるかもしれない。日本のように国家的規模でまるごと動くパターンが貫徹されてしまった国では、もうすこし地域主義や拠点主義が強まってもよいかもしれない。というより、いま、国家自体がそういう要素が下から沸き起こってくれることを望んでいる。しかし、この映画が、全共闘時代ならもっとアクチュアルに見えたかもしれないと思えるかぎりにおいて、国家がいくら太鼓をたたいても(ちなみにこの映画は文化庁の援助を得ている)、そういうグラスルーツ・パワーはまきおこらないだろう。
◆映画として、豊川悦司は、一貫してカッコいい役を演じた。終盤、志乃らが、豊川とアイヌの古老(大口広司)の助けを借りて育てた馬が、軍国主義に邁進しはじめた明治政府の命令で徴用されそうになったとき、誰が仕掛けたかはわからないが、20頭の馬たちが一斉に馬屋から飛び出していくシーンがある。これは、なかなか見どころのあるシーンだった。
◆小松原英明と志乃の娘(少女時代)を演じる大後寿々花が猛烈うまい。静内の人々の弱みにつけこんで財をなすが、ふたたびおちぶれる持田倉蔵(こんな名だったかぁ)を演じる香川照之は、どこか、『赤い月』の演技とだぶる。酒びたりになるところは、『ホテル・ビーナス』を思い出させる。
(東映試写室)



2004-12-07_2

●コーヒー&シガレッツ (Coffee and Cigarettes/2003/Jim Jarmush)(ジム・ジャームッシュ)

Coffee and Cigarettes
◆今日は偶然渋谷で2本見ることになったが、まえのが終わって少し時間があるので、街を歩く。毎週ゲストを呼び、教室を教室でなくするシリーズを主宰しているが、12月17日のゲスト矢部直氏(United Future Organization)とこの映画のあと打ち合わせをするので、どこかいい食事の場所はないかと、目についた店をのぞく。朝までやっている店は多いが、ガキむけで落ち着かない。美味しい料理の店を知らなくもないが、みな10時ごろには閉まる。これでは、東京はいつまでたっても大人の街にはなれない。
◆久方ぶりのジャームッシュ。いまのアメリカで「コーヒー」というと、スターバックスに占領されたかつてのコーヒーハウスとの関連で屈折した思いをいだく人が少なくない。「シガレット」は、ご承知のように、アメリカでは「あぶない」ものの仲間入りをしてしまった。こういういわくつきの2つを主題にした12のエピソード構成したこの映画は、いまのアメリカへの批判を内にひそませている。最後のエピソードで、久方ぶりに見るビル・ライスが、ちらりと「1970年代後半のニューヨークは最高だった」という感慨を語るが、たしかにいまのニューヨークにくらべれば、1970年代後半のニューヨークはラディカルで熱狂的だった。それは、まさにわたしが住んでいた時代のニューヨークであり、その思いを暇にあかせて「ニューヨーク・パラノイア」というページで表現しようとしているが、暇がなく、さっぱり進展しない。最近も、ニューヨークの人からそのページへのオマージュをもらった。
◆シガレットを吸い、コーヒーを飲む出演者の楽屋落ちと演技とをないまぜにした会話(そのバックで聴こえる音楽の選曲も繊細――映画のあと会った矢部直氏も、この映画のCDを買ったと言っていた)が12編あつめられているこの映画は、出演者を知っていればいるほど楽しめる。イギー・ポップとトム・ウェイツの会話なんか、内容は別にしてきいてみたいだろう。冒頭は、やはり、『ダウン・バイ・ロー』のロベルト・ベニーニ。訛のある英語でスティーブン・ライトとしゃべる。テーブルの上に5個もコーヒーがならんでいて、あとから来たライトに、「コーヒーを注文しておいた」と言って、コーヒーをすすめる。すっかり冷えきっているように見えるが、そんなことはどうでもいい。とにかく可笑しい。このギャグは、何か問題があるのではないかと思って相手を呼び出したが、「問題なんかないんだ」「本当にないのか?」「くどいな」・・・とナンセンスな会話で終始するアレックス・デスカスとイザック・デ・バンコレの"No Problem"でもくりかえされている。
◆ケイト・ブランシェットは、一方が有名女優、他方がそのいとこでマイナーなパンクシンガーの2役を演じわける。セレブリティとしての「金持ち喧嘩せず」の優雅さを見せる役と屈折したロワー・クラスの女の役とで全く目つきもちがう。アルフレッド・モリーナとスティーブン・クーガンとのチャプターでは、コーヒーでなく紅茶を飲んでいたが、自分が有名であることを鼻にかけるクーガンがフランスのだと言って指し出すシガレットをモリーナは「あとの楽しみに」とか言って断る。相手がどうせマイナーな役ばかりやっているのだろうと、見下していたクーガンが、モリーナが、スパイク・ジョーンズと仕事をするということを知ると、それまで連絡先も知らせようとしなかったのに、急に態度を変える。まあ、こういうやつはよくいるね。
◆ウータン・クランのGZAとRZAは、タバコは吸わず、紅茶を飲んでいる。どうなるのかと思っていたら、ウエイター役でビル・マーレイが登場。「何やってんだ?」「ウエイターをやって身を隠している」とうせりふがいい。そして、コーヒーをすすめて断られると、自分でポットからがぶ飲み。タバコもすぱすぱ。これは、ジャームッシュの、あるいはビル・マーレイの、繊細なGZAとRZAへのオマージュか?
◆若い男女が深刻そうにテーブルを囲んでいる。そのうち、男(ジャック・ホワイト)が、女(メグ・ホワイト)にニコラ・テスラの話をはじめる。テスラによれば、「地球は音響的共鳴の伝導体 (conductor of acoustic resonance)」だという。そして、自作したという高圧電流の放電装置の実験をやる。台車に乗せて持参し、テーブルのかたわらにおいてあったのだった。この話は、テスラを知らないと嘘っぱちのように聴こえるかもしれないが、それほど荒唐無稽な話ではない。この装置も、「テスラ・コイル」の模型だろう。邦訳では、マーガレット・チェイニー『テスラ 発明王エジソンを超えた天才』(鈴木豊雄訳、工作舎)が読みやすい。テスラは、カルトの人々のあいだでも教祖にあがめられている(この映画の登場人物たちも幾分その気があるようだが)。オウムは、テスラの「地震兵器」を実現しようとしたし、少しまえ、白装束で世を騒がせた一団も、テスラの「スカラー波」にかぶれていた。実際にテスラは、毀誉褒貶のなかにある人物だが、わたしなど、電波を使ったパフォーマンスなどをやっていていつも思うのは、自分で新しいと思うことでも、よく調べると、電気や電子に関することでは、テスラがすでにみな手をつけてしまっているということだ。なお、「地球は音響的共鳴の伝導体」は、最終のビル・ライスとテイラー・ミードの会話でもくりかえされる。
◆なぜか、全編モノクロの画面の右側のピントがときどきぼけるので、自分の目がおかしくなったのかと思ったが、終わってから、客を見送っていたアスミック・エースの竹内伸治氏に訊いてみた。「え、どこがですか?」と驚いているところへ、後ろから、「全部だよ、全部」と憤懣やるかたない声を挙げた人がいたので、見ると、山口正介氏だった。もっと話をするのかと思ったら、ムッとした顔で去っていったところをみると、山口氏は相当頭にきていたのだろう。
◆[追記/2004-12-14]言うだけ言ってさっと立ち去る凛(りん)とした雰囲気が印象的だったので、上のように書いたが、少し不正確だったようだ。光栄にも、山口正介氏から早速メールをいただいた。その一部を引用させていただく。「実際のところ、僕の発言は以下の通りでした。『最初から最後まで三分か四分おきに、ピントがあったり外れたりしていたよ』。もう少し細かく伝えるべきでしたが、こんな感じでした。本当は二十秒か三十秒ごとにピントが合ったり外れたりしていましたね。おそらく、私見によればピントの設定がオートフォーカスになってて、画面のコントラストが低かったために機械が合ったのに外れているのでは、と判断して、正確なピントを探していたのではないでしょうか。感じとしては精度の悪いカメラのオートフォーカスがなかなか合焦しないときのファインダーの見え方に似てました」。
(シネセゾン渋谷)



2004-12-07_1

●もし、あなたなら~6つの視線 (Yoseot gae ui siseon/If you were me/2003/Chan-wook Park and more)(パク・チャヌク他)

If you were me
◆席についたら、配給のアルシネテランの長友さんから、「シネマノートの『微笑みに出逢う街角』を拝見しました。オスギさんのところが面白かったです」と言われて、ギョッ。ヘンリー・コルネリウスの映画に『わたしはカメラだ』 (I am a Camera/1955/Henry Cornelius) というのがあるが、いわば「わたしはカメラ/マイク」にすぎない。聴こえたこと、目に入ったことは書く。ところで、『わたしはカメラだ』は、クリストファー・イシャウッドの小説『The Berlin Stories』をジョン・ヴァン・ドルーテンが舞台化し、それがブロードウェイでヒットして映画化されたもの。その後、ボブ・ホッシーの『キャバレー』によってより鮮烈なスタイルで再映画化された。
◆各編の終わりにそのつどクレジットが出るので、オムニバスというより、6本の短編集。ただし、韓国の現在を批判的に描いている点で6本は共通性がある。すべて、リアリズム的描写のようにみえるが、微妙にシュールのほうに振られている。いや、むしろブレヒト的な「異化効果」がまぶされていると言うべきか。
◆『彼女の重さ』(イム・スルレ)は、女子校生の肥満意識をあつかう。先生が、「おまえ、目方を減らさないと就職も結婚もだめだよ」とぼそっと言ったりする。就職面接では、面接官は、最初から最後まで相手(みな女性)の体のことしか訊かない。明らかにセクハラであることをポーカーフェイスで描いてみせるところが実におかしい。最後にカメラが引き、撮影風景が映る。みなプロっぽい感じのスタッフがぞろぞろといて、映画の世界のコミカルな感じとの対照がこれまたおかしい。
◆『その男、事情あり』(チョン・ジェウン)は、ミドルクラスの巨大マンション(団地)が舞台。吹き抜けの壁に「2度と繰り返さないよう制裁を」などいう大きな文字が書かれている。寡黙な「薄気味悪い」感じで演じられている男がエレベータに乗る。場面が変わって、もう小学生ぐらいなのにおねしょをしてしまう少年を母親がおしおきをしている。水を飲ませず、見せつけたコップの水も母親が飲んでしまう。がまんできなくなった少年は廊下の水ボトル(アメリカのように太い大きなボトル)のあまり水を飲んでしまう。そのあげく、またおねしょ。おしおきに、カゴを持たされ、隣近所のドアをたたいて、塩をもらい歩く(こういう慣習があるらしい)。マンションのドアがやけに狭いのはなぜか? ドアを開けた相手がどいつもへ理屈をこねたりして塩をくれないところが面白い。で、少年はあるドアをたたく。そこには、ドアに指紋が張ってあり、「性犯罪者」という表示がある。韓国には、犯罪者を見せしめにする慣習があるのだろうか? 奇妙でシュールな面白さ。
◆『大陸横断』(ホ・ギュンドン)の「大陸」とは何かと思ったら、交通の激しい大道路だった。脳性小児マヒの中年男(キム・ムンジュ)の日常を悲しくユーモラスに描く。自分のアパートのドアの鍵を閉め、ささったままの鍵を抜こうとしてもたもたしていると、入ろうとしているのだと思い、せっかく閉めた鍵を開けてくれる人がいる。地下鉄の出口でばら銭を落としてしまい、拾おうとしていると、通りがかりの人がコインを投げていく。センチな描きかたは全くしていないが、それがかえって、悲しい。
◆『神秘的な英語の国』(パク・ジョンピョ)は、韓国のミドルクラスの親たちの英語熱とエゴを皮肉る。発音がよくなるようにと、舌の手術をする子供専門の歯医者。その手術ぶりを延々と映すのが、次第に正視できないような気分にさせる。看護婦がバーニーの衣装をつけていたり、麻酔のかけ方がいいかげんだったり、ブラック・ユーモアたっぷり。
◆『顔の価値』(パク・クァンス)は、駐車場の受付の女性(やや場違いな化粧と衣装をしている)を見そめた男が、意外な事実の直面する話。中国の『聊斎志異』、日本の『雨月物語』のような話。しかし、6編のなかでは一番奥がない。
◆『N.E.P.A.L.』(パク・チャヌク)は、このシリーズのなかで最も凄みのある作品ではないか? ソウルの食堂で「無銭飲食」の疑いをかけられて保護されたネパールの女性チャンドラ・クマリ・グルンの数奇な物語。まるでカフカの『城』のよう。彼女は、精神障害の韓国人とみなされ、警察、病院、施設をたらいまわしにされる。何でも、ネパール語というのは、精神障害者がしゃべる韓国語のようなひびきをもっているという。笑ってしまうような話だが、当人にとっては冗談ではない。笑う者は、事情がわかるにつれて、笑いが凍りつくだろう。金もなく、周囲が威圧的に見える外国人というハンデを負っている者は、ただでさえ口数が少なくなる。そいう人が、ネパール語を通訳してくれる者もいない環境に置かれたらどうなるか? タイトルのN.E.P.A.L.には、「ネパール」とともに、「Never Ending Peace And Love」をかけている。カメラの視点をずっとチャンドラの位置に置き、顔を見せないまま進む最後のシーンが感動的。
(シネカノン試写室)



2004-12-06_2

●レオポルド・ブルームへの手紙 (Leo/2002/Mehdi Norowzian)(メヒディ・ノロウジアン)

Leo
◆カフカとともにジョイスは必読だった世代にとって、「レオポルド・ブルーム」とくれば、ジョイスの『ユリシーズ』であることはすぐわかる。だから、大いに期待して会場に足を運んだ。その期待は裏切られなかった。ジョイスというと構えてしまって観念的になりがちなのが普通だが、ノロウジアンは、非常に柔軟に『ユリシーズ』を解体した。一見、『ユリシーズ』の内的意識の流れの時間性を普通の時間性に平板化してように物語を進めながら、最後に、物語の時間が円環構造をもっていることに気づかせる。なかなかたくみだ。
◆久しぶりのエリザベス・シューが、かなりいい演技をしている。非常に短いが、彼女がペンキ職人のジャスティン・チャンバースとセックスするシーンに、全然トーンも役柄もちがうにもかかわらず、『リービング・ラスベガス』を思い出した。デニス・ホッパーが、けちで卑怯で陰湿なヤクザオウナーを演じ、自家篭絡中の演技を見せる。『クラッシュ』や『ペイバック』でもややニヒルな表情が得意のデボラ・カーラ・アンガーが、ここではホッパーにいびられるあわれな女を演じる。ジョゼフ・ファインズは、どこかにエキセントリックな要素を隠した役がうまいが、母を虐待する父親を殺してしまい、15年の服役をおえた男スティーヴンを演じる。サム・シェッパードは、南部の人間を演じるのが好きなようだが、驟雨が降りはじめたとき、雨を浴びながら空をあおぎ、「だから南部を離れらねぇ」と言うシーンは、彼好み。
◆(映画美学校試写室2)



2004-12-06_1

●レイクサイドマーダーケース (The Lakeside Murder Case/2004/Aoyama Shinji)(青山真治)

The Lakeside Murder Case
◆東野圭吾の原作がいいのだろうが、今回の青山真治はなかなかいい。仙頭武則流海外受けねらいがみえみえの『EUREKA』とはちがい、同じプロデューサーとの作品であるにもかかわらず、ローカルなコンテキストに足をすえている。『EUREKA』のように、ローカルなものに中途半端なグローヴァルさをまぶせてグローバルなものにしようとしても、カンヌやヴェニスでいっときの評価を受けるだけ。ローカルであり、かつそれをこえている(トランス)つまり「トランスローカル」であってはじめて、その作品はグローヴァルになれるのだ。
◆薬師丸は、一歩前身、役所は基本的に同じ、柄本は職人芸、豊川は天才芸と言ったら言いすぎだが、役が合っている。
◆競争原理を無批判に受け入れている日本のアッパーミドルへの痛烈な批判にとどまらず、その先にある絶望感がすけて見える。金持ちの医者夫婦(柄本明、黒田福美)とその隣人の親たち(鶴見辰吾と杉田かおる、役所広司と薬師丸ひろ子)が、子供たち(村田将平、馬場誠、牧野有沙)を有名な私立校に入れるために、塾の辣腕講師(豊川悦司)を雇い、医者の別荘で面接の予行演習と特訓をやっている。役所は、薬師丸と別居中だが、このときのために呼び出された。有名私学は、父親のいない家庭の子供を歓迎しないからである。が、役所の愛人でカメラウーマンの真野裕子が突然その別荘を訪ねてきたことから事態が一変する。彼女が来た理由は? そして起こる事件の首謀者は?
◆「子供は親を見て育つ」という言葉が語られる。子供をいい学校に入れ、競争社会で「勝組」に参入させたいという親のエゴ。それを見て育つ子供たちの心のなかにどのような感性と性向が根を張っていくのか? 映画の答は、親たちよりも平然と「目的のためには手段を選ばない」ドライな子供たちの生き方であり、すべてを悟っているかのような彼らの態度である。
◆何か所か青山らしいもってまわった思わせぶりのシーンがある。役所は、フラッシュのような電光に襲われるという妄想がある。フラッシュが目のなかでさく裂し、目をおおってしまう。これは、意味があるかもしれないが、なくてもよい。
◆いまの世の中には、自分の子供を「ナンバー・ワン」にしたいという親が多い。が、「オンリー・ワン」になるのは怖い。「オンリー・ワン」が「ナンバー・ワン」になるとはかぎらない。誰でもが、実は、「オンリー・ワン」なのだが、それを抑え、隠し、安全と信じる「エヴリマン」をよそおい、その一方で「ナンバー・ワン」を夢みる。が、現実は、宝くじやクイズを除き、「ナンバー・ワン」は、「オンリー・ワン」のうえに「ナンバー・ワン」なのだ。「ナンバー・ワン」は一人しかなれないが、いつまでも「ナンバー・ワン」であるわけではない。「ナンバー・ワン」であるかぎり、かならず誰かにその座を奪われる。なぜ、「オンリー・ワン」をめざさないのだろうか? 「ナンバー・ワン」か「エヴリマン」かしかないと思っている競争主義。誰もが「ナンバー・ワン」になるわけにはいかないので、さまざまな「競技」をつくり、そのなかで「ナンバー・ワン」をめざす。かくして、世は、ゲーム(競技)だらけであり、スポーツ選手が理想モデルとなる。
(東宝試写室)


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