粉川哲夫の【シネマノート】
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マグダル パイナップルパン王子   ウォーク・ザ・ライン   カミュなんて知らない   ジャーヘッド   キング・コング  

2005-12-12

●キング・コング (King Kong/2005/Peter Jackson)(ピーター・ジャクソン)

King Kong
◆11時開場の試写だったが、無理をして出かける。17日公開だから、試写はもうやらないらしいからこの日のチャンスを逃すと、公開まえに見ることができない。が、意外と混んではおらず、好きな席を選べた。中俣さんが隣に座る。彼女はいつもわりあい後方の席を取り、わたしは前の方なので、顔を合わせてもいっしょに座ることがない。が、最近はわたしが少し後方に座るようになったので、この日はたまたま波長が合ったというわけ。この映画の話になり、わたしは、「これって、紀元前の恐竜に時代から現代まで時空を横断するんでしょう?」などととんでもないことを言う。予告を見て、そんな感じがしたのだ。『コリン・マッケンジー もうひとりのグリフィス』のピーター・ジャクションなら、そんな遊びもやるのではないかという空想と願望。
◆画面が綺麗なのが目を引く。ナオミ・ワッツは、適役。ジャック・ブラックは、『愛しのローズマリー』と『スクール・オブ・ロック』を思いださせ、ちょっと目障り。エイドリアン・ブロディも『戦場のピアニスト』のイメージが強かったので、そのキャラクターとだぶる。その点では、アンディ・サーキスがよかった。
◆ふと、キング・コングは、バービードール・マニアだったのだという思いが浮かぶ。ナオミ・ワッツは、バービードールである。必ずしもバービードールではなくてもいいのかもしれない。要するに、フィギャーが好きな大きな子供である。
◆エンド・クレジットにニュージーランドのスタッフの名前がたくさん出て来る。すでに『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズで、ピーター・ジャクソンは、彼の故郷のニュージーランドに、映像製作やポストプロダクションの会社を生み出した。これは、「ピーター・ジャクソン効果」と言うが、今回も、「髑髏島」の撮影もニュージーランドで行なわれた。特殊撮影のWETAデジタル、特殊メイクやミニチュア製作のWETAワークショップは、ともにピータ・ジャクソンらが創立した会社。
◆オープニングは、1933年のニューヨーク。大恐慌後の時代を活写する小物がたくさん出て来る。街にあふれるホームレス。無料のスープを求めて列をなす人々、『シンデレラマン』にも出てきたセントラルパークの「フーヴァー・ヴィル」のおびただしい仮小屋、デモの隊列。この時代に最初の『キング・コング』が封切られた意義は大きい。
◆この映画では、キング・コングは、徹底してエコロジー的生き物だ。1986年の『キング・コング』でも、キング・コングは、水中の爬虫類などを採って食べ、襲う人間を丸飲みにしていた。が、ここでは、パンダのように竹や植物しか食べない。菜食主義なのだ。そういう生き物を生け捕りにし、興行のタネにし、あげくのはてはエンパイアステイト・ビルに追いつめ、飛行機で攻撃をくわえるのだから、人間は、アグリーだ。
◆若い船員のジミー(ジェイミー・ベル)が、ジョゼフ・コンラッドの『闇の奥』を読んでいる。『地獄の黙示録』も、『闇の奥』をベースにしていた。ヨーロッパ人が、「未開」を問題にするための「教科書」。
(東京国際フォーラム/UIP)



2005-12-08

●ジャーヘッド (Jarhead/2005/Sam Mendes)(サム・メンデス)

Jarhead
◆湾岸戦争のばかさかげんと虚しさがひしひしと伝わってくるような映画。力作だ。冒頭、『フルメタル・ジャケット』のシーンそっくりの調教(兵士を殺人者に仕立てるための訓練)が出て来る。『地獄の黙示録』でワーグナーをかけながらヘリコプターを飛ばすシーンを見、ヘリからヴェトナム人の村を機銃掃射するシーンで、兵士たちが、歓声を挙げる。完全に人を殺すことに関心が移動している。
◆人を殺すことを訓練され、そのつもりでイラク国境の砂漠地帯に派遣されたジェイク・ギレンホールとピーター・サスガードが、結局「敵」を殺すことができず、失望する。この失望は、観客には、二重化された虚しさとしてうつる。ジェイク・ギレンホールのナレーションで言われるように、「ぼくはいまも砂漠のなかにいる」という言葉がこの映画をの重奏低音になっている。
◆ギンレイホールは、入隊したときカミュの『異邦人』を持参している。時代設定は、1989年だから、このころカミュはすでに多くの人々に忘れられていた。ちなみに、この小説は、日本では、いずれ再読される時期が来ると思う。というのは、これは、「無動機殺人」のモデルを提供している以前に、アルジェリアでフランス人がアラブ人を殺す物語であり、労働力としてフランスに浸透しはじめた異国人への差別的な殺人のはしりであった。日本でも、いま、外国人が増え、彼や彼女らに職場を奪われ、怨みをもっている日本人が生まれつつあるからだ。
(ヤクルトホール/UIP)



2005-12-07

●カミュなんて知らない (Kmyu-nannte shiranai/Who's Camus Anyway?/2005/Mitsuo Yanagimachi)(柳町光男)

Kamyu-nante shiranai
◆第18回東京国際映画祭で「日本映画・ある視点作品賞」を受賞し、カンヌ国際映画祭やニューヨーク映画祭への出品も決まっているのだから、ここでは、遠慮のない批評を書かせてもらおう。一言にして、この作品は、期待に反した。映画を撮ることを描いた映画の映画であるわりには、映画についての入れ込みが安すぎる。最後のシーンは、悪くないが、それ以外のシーンは、古さを感じさせる。しかし、そういう「悪条件」のなかでもすぐれた才能は他を圧して光る。吉川ひなのは、適役だったこともあるが、圧倒的な存在感を示したが、中泉英雄は、この作品でその才能を余すところなく見せた。
◆しかし、もと映画監督だったが、いまは「映像ワークショップ」なる授業で学生に映画をつくらせている中條という教授が、うすぺらだ。本田博太郎の演技は悪くないから、脚本が安いのだ。「アシェンバッハ」というニックネームは、ヴィスコンティの映画『ベニスに死す』(むろん、原作はトーマス・マン)から学生が名づけたことになっている。まあ、いまの学生なら、この映画も見ていないかもしれないから、その程度でもいいが、一応映画を撮っているような学生なら、アッシェンバッハがゲイであることぐらいは知っていて当然である。しかし、中條と「アッシェンバッハ」とのつながりは、かけている丸メガネぐらいしかない。ならば、それ以外は、どうでもいい展開をするのならいざしらず、中條がキャンパスでその姿を見てレイ(黒木メイサ)に惚れ込んでしまうというのも、月並みだし、しかも、彼女との食事をとりつけた彼が、顔に白いクリームを塗り、白いスーツを来て出かけるというのは、一体なんなのか? むろん、『ヴェニスに死す』でダーク・ボガードが見せたしぐさをもじっているのだが、ボガードは、おしゃれのつもりで顔におしろいを塗ったのだ。そこには、「道化」になるという意味もむろん込められていたが、中條のように、耳の周辺はいいかげんに塗り残しているようなぞんざいな化粧ではなかった。こんなかっこうをしてきたら、レイは、とたんに逃げ出してしかるべきだろうが、そうはしない。「このおっさん、何?!」という反応もない。しかも(しかもがいくらでも続く)、レイの「実態」を知った中條が、自暴自棄になり、研究室に帰って(家に帰れよ)、ワインをがぶ飲みし、中條を探して学生たちが研究室に行くと、まさに『ヴェニスに死す』の最後の場面のかっこうで倒れている。『ヴェニスに死す』では、ボガードは、顔からおしろいや眉墨が垂れ、見るも無残なかっこうで倒れ、そのまま昇天してしまうのだったが、こいつはただ酩酊しているだけだ。元映画屋なら、もっと徹底した倒れ方をしてほしい。しかも、このていたらくをしたオヤジが、最後には、はればれした顔をして学生に映画撮影の指導をしている。この男にとって、キャンパスで見せたあの深刻ぶったツラは一体なんだったのだという風情である。
◆わたしは、いつも学生を見ているので、「学生」は嫌いだ。ここで言う「学生」とは、個々人としての学生A、Bではなくて、マスコミを主として「学生」というステレオタイプでくくられた顔のない(顔があっても単なる出来合いの仮面にすぎない顔)「学生」である。この映画では、そういう「学生」のありがちないくつかの「パターン」をならべているにすぎない。そうしたステレオタイプからわずかにのがれることができているのが、吉川ひなの(一応この大学の編入生ということになっている)と中泉英雄がつくりだしたキャラクターだが、実は、こういうちょっとひねった「仮面」をつけている「学生」もけっこういるんです。
◆もう一つ中條という先生の映画的イメージの浅薄さを書いておく。この男が、図書館で本を借りるシーンがある。その本の表紙が見えるのが、3、4冊借りたの本のうち、はっきりと表紙が見えるのが、みずず書房から出ているモーリス・メルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』と青土社のレスリー・フィドラー『フリークス』である。大学で映画を教えている教授が、いまどきこんな本を翻訳で、しかも図書館で借りて読むようでは、この人の講義のレベルが思い知られる。中條の年令(映画で設定されている)なら、これらの本は学生時代に精読していてしかるべきではないか? まあ、学生用のプリントでもつくるために図書館で借りたという想定もできなくはないが、わざわざタイトルをカメラにさらすような本ではない。もし、この人が、『見えるものと見えないもの』をちゃんと読んだのなら、『ヴェニスに死す』のあの茶番はやらないだろう。
◆この映画で、一番ありがちな「学生」を演じているのは、自分はモテモテだと思っている松川(柏原収史)。こういう手合いは、サークルなどにはいくらでもいる。変にモラリッシュな悩み大好きの久田(前田愛)もよくいる。「正規」の恋人が山登りをしているあいだに2人の男とキスしたぐらいで自責の念にさいなまれるような「純真さ」の持ち主ということになっているが、映画なら、もっとそういう社会的身ぶりの奥底を描くべきだ。その点で、キャンパスにはあまりいそうにない感じになってしまった(脚本のせい)が、田口トモロヲ演じる、「35歳」の学生。日本の大学には、たまにフケた学生がいて、みなユニークで面白いが、こいつは全然面白くない。この歳ならやりそうなことしかやらず、その点で、この映画は、35歳で学生をやっている人間を理解していないのだ。
◆オープニング・クレジットで、黒木メイサに「(新人)」という但し書きがついていた。この女優は、すでに深作健太の『同じ月を見ている』に出演しているが、クランクインがこちらの方が早かったのだろうか、それとも、柳町光男のような「大家」から見ると、あの程度の出演は出演のうちに入らないのだろうか?
◆「カミュなんて知らない」というタイトルは、「不条理」思想の「祖」であるアルベール・カミュなんか知らないという意味である。ところで、カミユは、小説『異邦人』で、アラビア人をピストルで殺して裁判にかけられたとき、殺人の理由を訊かれて、「太陽がまぶしかったから」と答える。別に理由なんかない、「ばかばかしいこと」(「アプシュルディテ」=これを日本語では「不条理」と訳すが、「不条理」には、カミュがこの小説の「理論版」である『シジフォスの神話』で論じた「アブスルディテ」の含意が飛んでしまう)なんだというわけだが、これは、要するに「俺は何も知ったこっちゃねぇんだ」ということである。そうすると、「カミュなんて知らない」というタイトルは、この「アプシュルディテ」を「知らない」というわけだから、「知らない」を二重化していてなかなか意味深なのだが、映画では、「アプシュルディテ」を「不条理」と解しているから、カミュを超えることはできなかった。
(映画美学校第2試写室/ワコー+グアパ・グアポ)



2005-12-06_2

●ウォーク・ザ・ライン (Walk the Line/2005/James Mangold)(ジェイムズ・マンゴールド)

Walk the Line
◆実在の人物を映画化すると、本物とどの程度そっくりであるかが問われてしまうが、そういうことを言うのなら、「形態」や「雰囲気」を問題にすべきなのだろう。しかし、まんざら本物を知っているとついつい細かなちがいをあげつらってしまう。その点、わたしは、ジョニー・キャシュやジェーン・カーターをよく知らないので、そういう問題なしに映画を見ることができた。
◆プレスで見るかぎり、ホアキン・フェニックスとリーズ・ウィザースプーンは、「本物」のキャッシュとカーターにかなり「形態」と「雰囲気」を似せることに成功しているように思える。映画のなかで聴く2人のライブは、すべてフェニックスとウィザースプーンの実演だという。エンドクレジットのバックで「本物」の2人の声が流されるので、それと比較すると、ウィザースプーンは、ジェーン・カーターのややハスキーでヴィヴラートする声質を出しきれていないことがわかるが、そんなことは問題にしないでいいだろう。
◆幼いときのシーンで、出来のいい兄が電気ノコの事故で死に、ラジオで音楽ばかり聴いて父親からどなられてばかりいた弟のジョニーが生き残こる。父親は嘆き、それが親子双方のトラウマになる。父親との確執はあとまで尾を引く。ここにも、貧しさゆえの断絶がある。ベルリンに軍役で出かける息子をろくに見送らない父親。地面にペッと唾を吐くのは、(アメリカ映画ではよくあるが)相当きつい軽蔑と無視の表現ではないか?
◆表現者に、少なくとも映画や小説にとりあげられる表現者に幸せな生い立ちや生涯を送った者は少ない。ジョニーもその典型。が、実在のジョニーは、もっと不幸であったかもしれないし、あるいは、これほど不幸ではなかったかもしれない。一般には、ジョニーとジェーンは、結婚後は幸せな人生を送ったことになっている。
◆ジェニーがまだ訪問販売のさえない仕事をしていた時代に結婚した妻ヴィヴィアン(ジェニファー・グッドウィン)は、バンド仲間になったジェーンに嫉妬する。映画が描くその過程は、きわめて月並みでわかりやすい。でも、こういうことは、実人生でもよくある。ばかばかしいほどありがちなパターンなのだが、人は、それをくりかえす。
◆この映画でもそうだが、キリスト教の重さが基調低音になっており、多くの人々は、信仰にあつく、その一部がそれに反抗する。アメリカで「ラディカル」であるためには、反キリスト者であるしかないかのようである。そういえば、ファックとかマザー・ファッカーというような罵りの言葉も、みな、キリスト教的な神を冒涜することが含意されている。しかし、そういう過激さというものは、いずれはもとにもどってしまうような気がする。
◆1968年にフォルサム刑務所の囚人たちのまえで演奏し、録音された『ジョニュー・キャッシュ・アット・フォルサム・プリズン』の現場を「再現」したシーンは、この映画の山場だが、なかなかよく仕上がっている。タッチングなシーンだ。
(フックス試写室/20世紀フォックス)



2005-12-06_1

●マグダル パイナップルパン王子 (McDull, prince de la bun/2004/Toe Yuen)(トー・ユエン)

McDull, prince de la bun
◆今月は色々たてこみ、あまり試写が見られなくなりそうなので、短文でも、なるべく早く書き、アップロードしようと思う。
◆この映画を配給する主力にたっているらしいのが、宣伝プロデューサの市川篤氏。彼とは、彼がまたコムストックという出来たての配給会社にいた猛烈女性・町口由美さんの後任として入社したころから知っている。ちなみに町口さんがいかに「猛烈」だったかを書いておくと、彼女にたとえば、ある映画への興味を話し、たまたまその作品の英文資料なんかが会社にあると、それを全部FAXで送ってきたりする。あるときなど、家に帰ったら、部屋中がFAXのロールでいっぱいになっていた。海外のある街がいま「面白い」と話すと、数週間後には、行ってしまうというようなバイタリティというか、とにかく猛烈なのだった。いまは、ベルリンにいるらしい。そんなわけで、町口さんのあとにあらわれた市川さんは、ひどくクールでおとなしく見えた。だから、彼が、『ムトゥ 踊るマハラジャ』で大ヒットを飛ばしたとき、この人も顔に似あわずタフなんだと思ったりもしたものだった。市川さんは、マカヴェイエフやゴダールなどのユニークな配給もやっていたので、彼の独特の入れ込み方は知っていたが、『ムトゥ 踊るマハラジャ』は、彼のそうした入れ込み方の感性的な部分がどこにあるかがよくわからしてくれたのだった。
◆この映画は、まさに、市川好みの作品である。見せてもらったあと、別れぎわに、「これって、市川さんの自伝じゃない?」と妙なことを言い、市川さんは、きょとんとしていたが、わたしが言いたかったのは、この映画からただよう、母子関係の雰囲気が、市川さんから感じられたということなのだ。わたしは、市川さんの親子関係はよく知らない。が、以前に、大学でゼミの学生のためにレクチャーをしてもらったとき、たしか、お母上が、よく映画に連れて行ってくれたというようなことを話していたように記憶する。
◆あまり市川さんのことを書くと、迷惑だろうが、それはそれとして、この映画の主人公は、シングルマザーの子どもである。ところで、いまシングルマザーと子供のワンペアレント・ファミリーが増えているというが、これは、すでに文化となっていて、たとえ、家に父親がいても、いまの家庭は大なり小なり「シングルマザー」化している。つまり「父親」の不在である。これは、アメリカからはじまったが、その機能しかたは、アメリカと日本とではちがうし、日本と香港ともちがう。そのへんの差異をこの映画でとくとながめることも面白い。
◆シングルマザー現象、父親の不在、ワンペアレント・ファミリーといった現象と、アニメとはどこかでつながっているはずだということを、最近考えている。この映画は、そのヒントをあたえてくれえそう。
◆香港が中国に帰属したことを、この映画の主人公は、よくは思っていない。それは、街がどんどん破壊されるのを描いたシーンでもよくあらわれている。過去が破壊され、過去を忘れることを強制させられることへの怒り。映画のなかに、マグダルのせりふとして、「パパは過去、ママは未来、マグダルは現在」というのがある。これは、過去=パパを引き離され、未来=ママとやっていくしかないマグダルの「現在」を都市論的かつ家族論的、さらには、中国の政治の現在をも視野に入れながら、揶揄しているような含蓄がある。
◆この映画ほど、わたしが中国語を理解しないことにフラストレイションをおぼえさせられたことはなかった。早口の中国語の使い方た実にユニークで面白いことは十分推察できるが、その本当の面白さがわからない。だから、中国語がわかる人は、この映画を10倍楽しめるだろう。
(メディアボックス試写室/マジックアワー)


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