粉川哲夫の【シネマノート】
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2005-10-31

●ロード・オブ・ウォー (Load of War/2005/Andrew Niccol)(アンドリュー・ニコル)

Load of War
◆事実にもとづいた社会・政治的裏付けと映画的リアリティがうまくブレンドされた作品だが、出来がよければ映画というものはますますエンターテンメント性を強くするから、この映画が、よく言われるような「武器商人」や「戦争株式会社」と化した国家への批判になっているかどうかは疑わしい。要所要所にはめこまれたサスペンス・シーンは、ドラマとしてのリアリティを高めるが、その分、現実に対して疑問をいだかせたり、「武器商人」についてもっと調べてみようという気にさせる力を失う。「クールで面白かった」が、この映画の感想になる。
◆「自爆テロ」が横行する世の中だが、自爆テロをするには爆薬がなければできない。また、イラクで依然として「武装勢力」がいるが、武器供給の道がなければ、それが勢力を得ることはできない。日本の都市でも銃を使った抗争がかなり増えている。それも、どこかから銃が供給されなければ、起こりえない。だから、ニコラス・ケイジが演じる武器商人ユーリのような存在は、リアリティがある。ユーリが、ウクライナから両親とともにブルックリンに移住してきたことも説得力がある。ロシアの崩壊後、ロシア人マフィアの暗躍はつとに知られている。そういう意味で、マスメディア的な「通念」に訴えるリアリティは実にうまくブレンドされている。
◆ユーリが育ったのは、ブルックリンのブライトン・ビーチで、そこは通称「リトル・オデッサ」と呼ばれる。ここで彼は弟ヴィタリー(ジャレット・レト)とともに育った。リトル・オデッサを舞台にした作品はかなりあるが、ティム・ロスが出演している『リトル・オデッサ』(Little Odessa/1994/James Gray)は、この街で育ったやはり兄弟がロシアマフィアに関わっていく話だった。また、『トゥー・ウィークス・ノーティス』にも、この一帯が出てきていた。ただ、これらの映画の主人公とユーリとが違うのは、ユーリーがユダヤ人ではないということだ。ユダヤ人のふりをすることが得策だと考えた父親が、ユダヤ人のふりをして「コーシャ」レストランを開いたのだった。
◆すでに『ニューヨーク情報環境論』で書いたが、このエリアには、1972年以来、ロシア系のユダヤ人が住みはじめ、故郷オデッサにちょっと似ているところから「リトル・オデッサ」と呼ばれるようになった。すでに、わたしが訪れた1970年代の末ごろに、このあたりはある種の「闇の街」と化し、そういうところが好きなわたしには、心のやすらぐ街だった。当時、ニューヨークでは街を浄化する「ジェントリフィケイション」が始動しはじめ、「うさんくさい」場所がなくなりはじめていたことにも反発をおぼえていたので、しばしばこの街を訪れた。ちょっと緊張しながら撮った写真も、わたしのサイトに載っている
◆ユーリー一家は、ソ連の崩壊後にニューヨークにやってきたのだったが、リトル・オデッサはそのまえからユダヤ系のロシア移民の街だった。外国に出ることを禁じられたいたソ連の市民のなかで、ユダヤ人は、親戚を訪ねるという名目で海外に出ることが比較的「自由」だったためである。が、多くの異民族にかこまれた民族コミュニティがそうするように、彼らも自衛の必要から「マフィア」にコミュニティの「安全」を依頼する(あるいはそういうことを名目に「マフィア」が勢力を延ばした)ようになった。いずれにせよ、米ソが対峙していた冷戦時代にも、ソ連とアメリカとのあいだには、ユダヤ人のコネクションがあり、そのなかで情報と物のひんぱんな交易がおこなわれていた。チェルノブイリで原発事故が起きたときも、そういうネットワークを通じて、マスコミよりも早くニューヨークのユダヤ系ウクライナ人コミュニティに現地の情報が伝わるのだった。
◆ユーリーが、武器の取り引きに手を染めるのは、リトル・オデッサでロシア・マフィアの銃撃戦を見てからだが、手を広げるきっかけは、旧ソ連時代にウクライナで将軍をしていた叔父とのコネクションだった。冷戦の終結とともに、ソ連軍は、武装解除した。「未来」の希望を失った軍人たちの規律はみだれ、武器庫の武器を売る軍人が出て来る。1990年代以後にステレオタイプ化する話である。どの程度そのようなことが行なわれたのかはわからないが、わたしのささやかな体験でも、ソ連崩壊後のロシア社会で「非合法」の幅が以前とは比較にならないほど広がったことは否めない。わたし自身に関して言うと、モスクワに入るためのビザを得るのに賄賂的なものを要求され、入国をあきらめたことがある。
◆ユーリーの商売はどんどん発展し、かつてリトル・オデッサの美人コンテストで見初めたが高嶺の花だったミス・アメリカのエヴァ(ブリジット・モイナハン)を妻にし、豪邸に住むようになる。かわいい息子も生まれた。が、弟はコカインで身をボロボロにし、病院にはいった。のちに更生し、まともな仕事につこうと決心したが、その間に他人を信用できなくなったユーリーのたっての依頼でふたたび武器売買の世界に首をつっこみ、不幸な末路をとげる。
◆武器商売にとって民族紛争や部族間抗争がおいしい条件であることはいうまでもない。この映画には、「いかにも」のつらがまえの独裁者とその息子が登場し、はでな武器購入と残忍な抑圧のかぎりをつくす。あまりに絵に描いたような感じなので、ケイジのクールな姿勢とこの映画のシニシズムをたたえたディスクールを壊してしまうが、エンターテインメントとしては必要だったのだろう。
◆わたしは、ユーリーの妻が、次第に夫の素顔を知って行くプロセスが一番面白かった。美人ではあるが、「虚名」で世をわたってきた女が、そのことに自ら気づき、かつそういう「虚名」に近づいてきた男の素顔を知ったとき、彼女はどうするか? ブリジット・モイナハンは、なかなかいい演技をしている。
◆かつて武器取り引きの世界に君臨していたが、ユーリーのその座を奪われる男シメオン・ワイズ(いかにもユダヤ系)をイアン・ホルムが重々しい貫禄で演じているが、ユーリーに対して大した反発もせずに消えてしまうのは、ちょっとおかしい。そんな簡単に敗北する男ではないだろう。
◆ユーリーを追うインターポールの刑事役でイーサン・ホークが出演しているが、武器商売は、もともとインターポールなどの及ばない超国家的(というよりインターナショナル・ルーリング・クラスのと言った方がいい)規模の取り引きと化しているので、ホークが「ヒーロー」になるはずはないにしても、彼をわざわざ起用した意味がない出方だった。もっとも、『ガダカ』が監督デビューとなったアンドリュー・ニコルにとって、イーサン・ホークはいつでも「友情出演」してくれる俳優の一人だから、その程度のおつき合いで出演したのかもしれない。この映画は、最初のディスクール(後ろを向いていたケイジがクルリと観客の方を向いてしゃべりはじめる)からすると、「良心」を体現したようなホークの存在は不要だった。悪行は滅びないことを徹底的に描いたほうが、批判性ははるかに高まっただろう。
(安田生命ホール/ギャガ・コミュニケーションズ)



2005-10-26_2

●力道山 (Rikidozan/Yeokdosan/2004/Hae-sung Song)(ソン・ヘソン)


◆タクシーで銀座から直行。開映15分ぐらいまえに着いたので、ロビーにはかなりの人。前の試写をやっていて待っているのだったが、入場したころにはほぼ満席になった。これだけ入ると、いつも「寒い」この試写室もほどよい室温になるのだった。
◆「満を持して」登場する韓国と日本の共同製作だが、描かれている時代を体験している者の目には、ちょっと苦しい印象を受ける。ところで、映画のプレスなどでこの「満を持して」という表現がある時期からしきりに使われるようになったのは、なぜだろう? この言葉、辞書によると、もともとは「弓を一杯に引く」という意味で、そこから「十分準備をして機会を待つ」、「自信のある」といった意味に転じたらしいが、それなら、「自信作」といえば済む。おそらくこの語句の響きが好まれるのだろう。でも、この語句が使われると、わたしにはその対象が月並みなものに見えてしまう。ひねくれていてすみません。
◆ソル・ギョングが演じる力道山は、ちょっと「鳥越俊太郎」と「赤井英和」をまぜたような感じで、本物とくらべると、体型は貧弱で、その日本語もあまりに「外人」的である。ちなみに本物の力道山には、英語が混じることはあったが、「朝鮮語なまり」はなかった。これは、映画としてやはり、相当致命的だ。冒頭、1963年12月8日に赤坂のニュー・ラテン・クォーター(映画ではNew Havana Club) で起こった出来事を再現する。客席のあいだから一人の男が少しよろめき加減に現われ、舞台のマイクをつかんで、スピーチをするのかとおもったら、いきなり「この店には殺し屋がいます」と言う。これは、ロバート・ホワイティングも『東京アンダーワールド』(松井みどり訳、角川書店)で描いている、力道山がヤクザに刺された直後の出来事である。映画は、ここからバックして、力道山が、二所ノ関部屋で力士として差別に苦しむところから、レスリングへの開眼、渡米、帰国してからの成功・・・と時代をたどる。
◆ホワイティングの本でも書かれているが、力道山は、戦後、相撲に見切りをつけ、建築業界に入る。その手引きをした新田新作は、相撲界にもにらみのきいた男で、「住吉会系のヤクザ」だったという。映画では、各界に隠然たる力を持つ人物として描かれ、藤竜也がその役を演じている。そして、その人物は、プロレスリング界も牛耳っており、力道山に八百長を強制しもする。彼は、アメリカにも行かせてもらい、さらには、藤の情婦だった女(中谷美紀)を妻としてもらい受けた義理があり、しばらくはその指示にしたがう。しかし、独立独歩の気性の強い力道山は、中谷からの願い(藤からの指示もあったろうが、さもないと力道山が殺されるかもしれないという懸念が彼女にはあった)もあって、一旦は従う気になるが、試合中に、自分を抑えることができなくなり、藤を裏切り、彼から絶縁を宣言される。この事件があって以後の力道山には、このヤクザの親分の存在がいつも恐怖の源泉としてあり、そのことが、赤坂のクラブで、すれちがいざまちょっとぶつかっただけにすぎなかった(かもしれない)相手を「殺し屋」の意図的な攻撃と思い込み、過剰攻撃をすることにつながる。その男(山本太郎がこの短いシーンを演じる)は、それで、「殺される」と思い、夢中で刺したというのが警察での自白だが、映画も、ほぼそのまま描いている。
◆力道山が、さびしがり屋で、女に対しては「母」的なものを求める人間であった点は、中谷美紀が演じる「綾」との描写でうまく描かれている。一時代まえの古風な女を中谷は見事に演じている。そのキャラクターは、どちらかというと、『電車男』のモードだが、すでに彼女は、『疾走』で、そうでないモード変更もできることを示しているから、やはりうまいなぁと思う。
◆わたしが子供時代にテレビや映画で見た力道山からは、朝鮮人という出自も、だんだん昂じてきたらしい不安神経症も(むろん、興奮剤と鎮静剤とのあいだを行ったり来たりしていたことも)見えなかった。彼は、完璧なまでの「ヒーロー」だった。日本という国は、不思議な国で、芸能界やスポーツ界が「朝鮮」系の人たちによって支えられてきたことをつつみ隠して来た。近年、少しづつ状況がかわってきた(たとえば、先ごろ和田アキ子の「カミングアウト」があった)が、エスニック・バックグラウンドが大体明らかなアメリカとは大違いである。それは、日本には厳然と、天皇制という「人種差別」と「男性至上主義」の装置があり、「日本民族の男子」以外は、どのみち「つけたり」(有用であっても)だという「原則」が存在するからである。皇室典範の改定で、女性天皇の可能性が明記されそうだが、そうなったとしても、「男系」がベターとされることは変わらないし、また、外国人が天皇になることは全く不可能である。国家の根底で、血統主義を敷いているかぎり、その国が「民主主義」をタテマエの上でもよしとすることは不可能だ。
◆映画のなかで、成功した力道山が、「皇太子」(おそらく現天皇)のまえで「天覧試合」を見せるシーンがある。そのとき力道山は、レスリングのどぎついシーンをあえて見せ、皇太子を驚かせるが、これでは、力道山が天皇制に対していだいていたであろう、潜在的な憎悪や怨みは示唆できない。この映画には、力道山の兄が登場する。彼は、朝鮮料理の店を開き、力道山にとってはそこがヴァーチャルな「故郷」であったが、『血と骨』でも触れられている1959年から始まった北朝鮮への再帰国の動きのなかで、北に帰る。ホワイティングの本によると、彼は、力道山に向って、(日本を負かせたアメリカ人を「日本人」がやっつけるのを見て快感をおぼえたという日本人とは異なり)「"戦争挑発人で、非常識で、肌が生白くて碧眼の資本主義者たち"を、北朝鮮の出身者がこてんぱんいやっつけるのを見るのは痛快だ」と言ったと言う。わたしは、以前、力道山の弟子となった大木金太郎が、戦前・戦中の朝鮮で、「教育勅語」を暗唱されたことを語り、それを暗唱して見せるのをテレビで見たが、そうした朝鮮支配と朝鮮人差別をもろに受けて来た力道山の思いは、この映画でもっと強く描いてしかるべきだった。
◆いまでは、力道山は、自分の出自を隠していたと言われるが、ある意味では、彼は、この映画でも使われている台詞「プロレスは人種も国境も問われない世界のスポーツだ」の通り、脱人種、脱国家の人でありたいと願ったことも事実である。わたしの目に映った力道山は、別に「日本人」にとってどうのこうのというヒーローではなく、スーパーマンや鞍馬天狗が「ヒーロー」であるのと同じ意味の「ヒーロー」だった。わたしは戦争は知っているが、幼いわたしにとって、それは映画のなかの戦争と同じ意味しかなかったから、急に姿をあらわしたアメリカ人に怨みもコンプレックスもなかった。
◆この映画でも、シャープ兄弟とタグを組んで闘った木村政彦が、力道山の「敵」にまわり、対戦試合をすることになったときの悽惨な試合は、ほぼ正確に描かれている。わたしも、その様をテレビで見たが、力道山の「空手チョップ」に対して木村が新たに編み出したという「猫手パンチ」は、全く効を奏せず、そのうち、(映画では、木村が力道山にローブロウを加えたことになっているが、テレビではよくわからなかった)いきなり狂ったように木村に空手チョップの雨を食わせ、その当時の白黒テレビでもわかるくらい、木村が出血して倒れた。
◆力道山にとって、ルー・テーズとの闘いは、忘れることの出来ないものだったと思うが、映画ではこのことへの言及はない。一度は負け(たとえ談合試合だったとしても、その緊張感は抜群だった)たが、次の闘いでその間に力道山が編み出した「かけす」(だったか?)とかいう技法(ルーの「岩石落とし」を回避するために足をからませる戦法)が登場し、またまた緊張を生んだ。が、それでも勝てない力道山を見るのは、子供のわたしには、上には上があるということを教えるいいレクチャーだった。「絶対に反則はしない」という伝説のダラ・シンの実にキビキビした動きと互角に対決した力道山の姿も印象に残る。
◆力道山の死は、偶発事故だったかもしれないが、それ以前に蓄積されていた心理的なダメージを含めると、自力で生きる人間の困難さ、とりわけ日本社会でそうする場合の組織的は妨害・攻撃がいかなるものであるかを思わせる。彼は殺されたのではないとしても、それ以前に相当程度心理的に「負傷」していた。もともと負っていた「傷」に加えて、暴力団や組織の圧力は相当なものであったことが想像できる。その意味で、渋谷にリキパレスを建てたこと自体、そうした組織(暴力団)にとっては、相当な挑戦を暗示したのだった。力道山には、安藤昇的な寝技はできなかった。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)



2005-10-26_1

●単騎、千里を走る。(Qian li zou dan ji/Riding Alone for Thousands of miles/2005/Yimou Zhang)(チャン・イーモウ)

Qian li zou dan ji
◆病気の息子(中井貴一が声だけで出演)の「願望」を満たすために父親(高倉健)が中国に渡り、民俗儀式の舞踏家(リー・ジャーミン)の演技をビデオカメラにおさめようとする。が、その舞踏家はちょっとしたいざこざにまきもまれ、刑務所に収監されている。ようやく本人に会い、刑吏の配慮で刑務所内での撮影を許されるが、この舞踏家は、自分がかつて村に置き去りにした息子のことが気になって演技ができない。そこで、高倉は、その子を連れにはるばるその村に行く。遭難しかかったりしながら、リー・ジャーミンに再会し、撮影をするが、そのとき、高倉の息子はこの世にいない。
◆映画は、高倉が、日本の小さな漁村で漁作業をしているシーンからはじまる。嫁(寺島しのぶ)からの電話で、息子の重病を知らされ、東京行きを決心する。しかし、はるばる病院を訪れた父親を息子は拒絶する。映画は、直接には理由を示さないが、高倉は、ながらく息子に会っておらず、宗教劇の研究をしていたらしいということも、嫁から手渡されたビデオ――かつて息子が中国の麗江市に行き、テレビのために自分で撮った映像が使われているドキュメンタリー――で知ったという始末。そのビデオのなかで、くだんの舞踏家が、今度あなたが来たときに、『三国志』にもとづく仮面劇「単騎、千里を走る」を踊ると約束したのだが、嫁の話では、息子は、それを見に行けないことを残念がっていたらしい。
◆この映画は、観客にある種の「思い入れ」を要求するような映画である。父と子、そして高倉健という俳優への一定の思い入れがプリセットされている。もし、それがわからなかったり、共感できなかったりすると、この映画は、なんか飛躍の多い、話に無理のある映画に見えるかもしれない。だいたい、息子が見たいと言っていたという伝聞だけで、中国旅行を決行してしまう。中国語が全然できない身で、「リー・ジャーミン」という名前だけしかわからない舞踏家をさがそうとする。しかも、収監されている本人に芸をさせて、それをビデオに撮るというのだから、「横暴」ではないか。高倉は、別にいばりくさるわけではなく、朴訥に自分のやりたいことを提示するだけであり、中国人もみな好意的に彼を迎えるのだが、こういう設定は、まだいまほど「外国人」が多くはなかったころの日本で、アメリカ人が示す「横暴さ」(そのことを気づいていないのだから、むしろ、「天真爛漫」な横暴さと言った方がよいかも)思いださせる。「一介」の漁師が、外国に行って、決して万人的ではない願望的要求を通そうとするというのは、自分が「マレ人」だと思っているからであり、自分の国ではそうではないのに、中国ではそれが可能だとう相手を見下した考えが根底にあるからではないか?
◆しかし、もし、あなたが、父子の確執に悩んだことがあるならば、この映画は、別様に見えてくるだろう。映画は、直接には何も示唆しないが、一体、この父親とその息子とのあいだには何がったのだろうか? いま、わたしがカッコをつけて「横暴」と書いたが、そうした「横暴」さと、思い込んだらすぐに実行に移さずにはいられない「性急」さが、息子との確執の要因にもなっているのかもしれない。また、リー・ジャーミンの息子の話も、高倉の息子の生い立ちとダブらされているのかもしれない。高倉も、リーのように、幼い息子を置き去りにした経験があるのかもしれない。彼も、息子が幼いあいだどこかに収監されていたのかもしれない。
◆この映画では、誰も高倉に逆らったりしないので、彼が、60年代にヤクザ映画のなかで演ったように、耐えに耐えて見せたあと、どばっと反撃するような暴力は全く出てこない。しかし、俳優・高倉健の顔と身ぶりには、そういう暴力性が潜在しているから、見る側にはかなりの威圧感がある。高倉を道案内するガイド(チュー・リン――この映画に登場する中国人はみな素人らしいが、みな実に存在感のある演技をしている)が高倉に見せる腰の低い対応を見ていると、そこには、「大俳優」高倉健へのまぶしさから来る要素もあると思うが、それだけでなく(あるいは任侠映画で有名な「大俳優」であるからこそ)、高倉が潜在させている「暴力」への直感的な畏怖が感じられる。つまり、高倉が演じる人物の過去は、相当屈折していると取れるのだ。
◆そう見ると、父・高倉は、これまでの息子とのこと、息子へ心理的な「借り」の意識が日を追ってつのているところへ、息子の重病の知らせを聞き、いまこそ、ささいなことでもいいから何かをやってやりという気持ちになり、その切実な思いが、彼を中国への性急な旅に向わせたのだ、と。しかし、それは、双方をへだてた状態でしか、また、自分のではないリーの息子をしあわせにするという別の形でしか、実現されない。
(東宝試写室/東宝)



2005-10-24

●あおげば尊し (Aogebatotoshi/2005/Ichikawa Jun)(市川準)

Aogebatotoshi
◆『ノーライフキング』以来、わりあい見ている市川準の監督作品であることと、テリー伊藤の映画初主演ということが興味を誘った。テリーは、末期ガンの老父(加藤武)をかかえた息子の役を演じる。テリーは、父親の仕事を引き継いで小学校の教員をしている。周囲の教員のあいだでは、教師であることへの疑問と教育へのシニシズムがうずまいている。そんななかで、どちらかといえば「良心的」な教員であるテリー。彼が、父親の死を(いまの時代には失われがちな――と監督は言いたいらしい)「人間らしさで」むかえ、見送る。しかし、なんか違和感がのこるのは、なぜだろう?
◆加藤武は、話すことに障害があるという役だから、言っていることがはっきり聞き取れないのは当然だとしても、ぱきぱきしゃべるテリーの台詞でもときどき不明瞭に聞こえる。要するに録音(橋本康夫)に問題があったのではないか? あるいは、光学録音(宇田川章、大場広樹)の段階での失敗か?
◆テリーは、演技的には破綻がない。しかし、テレビでさんざん見慣れた顔であることと、年令のわりに老成している風貌は、現実にはありえなくはないにしても、彼が「息子」の役をやるのはこっけいなのだ。テレビの彼のコメントを聞き慣れた者には、彼と「小学校教員」というのは不似合いだ。目はいつも冷静で、しゃべり方もクールなので、彼がどんなに「誠実」な態度の演技をしても、その背後に彼の批評精神がすけて見え、リアリティが薄れる。
◆テリーを使うのなら、何か暴力的な要素のあるキャラクターがいいだろう。以前、彼がテレビで声をふるわせて怒るのを見た。それは、演技だったかもしれない。テレビ出演なれしている彼には、おのずからスタニスラフスキー・システム的俳優術が身につき、それほど本気でないしぐさも、やっているうちに「役になりきってしまう」ということがあるだろう。いずれにせよ、テリー・伊藤という人物は、単純ではなく、この映画の主人公のような役を演じるのは偽善なのだ。
◆ご都合主義な教員への批判もある。しかし、それは、あまり根底的ではない。何か変わったことをやれば「いかがなものか」と言う手合いはどこにでもいる。テリーは、いまの子供が死にゆく老人や、介護の必要な老人に触れるチャンスが失われていることを思い、自分の父親のところに自分の生徒たちを連れてくる。結果は、一人の屈折した生徒をのぞき、じきに離れていってしまう。それが、いま「普通」なのだとしても、これだけではつまらない。が、だからといって、このたった一人の「例外」が掘り下げられるわけでもなく、ものたりない。
◆タイトルは、「あおげば尊し」などは、もう卒業式でも歌われないし、そういう精神はもう生徒たちのなかからは失われている――という通念があることを示唆する。テリーの父親は、生徒に体罰を加える厳しい教師だった。だから、卒業生のなかからは、一人として彼に仲人を頼んだりする者もおらず、家を訪ねて来る者もいなかったという。その彼は、死期がまじかい床のなかで、妻(麻生美代子)や嫁(薬師丸ひろ子)らの介護を受けながら、ほとんど無言の毎日を送っている。その姿は、自分が教師時代にしたことの「罪」を身体の不自由という形でつぐなっているようにも見えるし、また、いまの時代の教育現場に対する「お手上げ」の状態を象徴しているようでもある。
◆原作は、重松清だが、ここには、ウィリアム・フォークナーの影響があるのだろうか? ときおり聞き取りづらい声で何かを言うだけだが、そこに横たわったいることが一つの時代の証言であり、異化であるといったスタイルは、フォークナーの『響きと怒り』以来、有名だ。細部は忘れたが、ボブ・ラフェルソンの『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970) にも、そういう父親が出てきたと思う。
◆わたしも教師をしているが、「あおげば尊し」的な願望などは持ったことがない。教師だからといって一律に「尊敬」しろといっても無理な話である。尊敬するかしないかは、個々の関係のなかで生まれるべきであり、さもなければ、「あおげば尊し」はイデオロギーである。ところが、この映画を最終的にダメにしているのは、一旦うたがった「あおげば尊し」を、最後の最後で、やっぱり「あおげば尊し」は失われていなかったのだ、といったシーンを作ってしまったことだ。
◆「あおげば尊し」を出さないで、事実上の「あおげば尊し」のドラマになっているのが、黒澤明の『まあだだよ』(1993)だろう。これは、松村達雄が演じる先生の魅力が教え子たちを引きつける様を描いているのであって、卒業式で(強制的に)押しつけられるようなゼスチャーではない。
(メディアボックス試写室/スローラーナー)



2005-10-19

●イベリア (Iberia/2005/Carlos Saura)(カルロス・サウラ)

Iberia
◆「巨匠」カルロス・サウラの新作ということで期待をして見たが、映画としては新味を感じられなかった。わたしが、フラメンコにさほど興味がないせいだろう。が、100分ほどの短時間のあいだにこれでもか、これでもかと繰り出されるダンス・パフォーマンスを見ることはめったにできない。出演者(音楽家も含む)の名前を羅列すると、サラ・バラス、マノロ・サンルーカス、アイーダ・ゴメス、エンリケ・モレンテ、エストレージャ・モレンテ、ロサ・トーレス=パルド、ホセ・アントニオ、チャノ・ドミンゲス、ホルヘ・パルド、ヘラルド・ヌニェス、パトリック・デ・バナ、ミゲル・アンヘル・ベルナ、ロケ・バーニュスといったすごい顔ぶれだ。
◆観客の姿は見えないから、この映画は、「ドキュメンタリー」ではなく、映画のために「セット」を組み、そこで彼や彼女らが踊ったはずである。が、全体のトーンは、「事実」があって、それを映像化した「ドキュメント」があるという感じをあたえる。フロアーに衝立のように置かれたスクリーンに映るビデオ映像。そのあいだを踊るダンサーたち。カメラはその動きを追うが、その映像を見ていると、その現場にいた方がはるかにいいだろうという気持ちになってくる。カメラが見てくれたことによって、その「現場」にいる以上のものを見てしまうということはないような気がするのだ。むろん、それは、錯覚で、カメラだけがそのシーンを与えるのであり、もしわたしがそこにいたとしたら、この映画を見ているときのダンサーたちの動きは絶対に見えないのだろう。しかし、なんかひっかかる。
◆この映画で見る一連のダンス・パフォーマンスは、スペインの作曲家イサーク・アルベニスの組曲『イベリア』へのオマージュである。フロアーのスクリーンにも、アルベニスの写真が映され、『イベリア』誕生100周年を祝う体裁になっている。その写真を見たり、この映画で演奏されるアルベニスの音楽を聴くなかで、ふと思ったのは、アルベニスがユダヤ系ではないかということだった。わたしは、アルベニスの履歴を知らないのだが、その名「イサーク」は典型的なユダヤ名である。音楽は、非常に「マルチチュード」的というか、イベリア半島に流れ込んだあらゆる民族文化が混交している印象を受ける。
◆ディアスポラで散らばったユダや人を分ける2つの言葉として、「アシュケナージ」と「セファルディ」がある。前者は、中央・東ヨーロッパに定住したユダヤ人の流れを組むユダヤ人を指し、後者は、スペインとポルトガルに定住したユダヤ人の子孫を指す。組曲『イベリア』には、この「セファルディ」への濃厚な想いがあるように聴こえた。ただし、ここにある「ユダヤ」性は、イスラエルとパレスチナ/アラブとのあいだの相剋の一方のファクターとなっている「ユダヤ」や「ユダヤ教」のそれではない。いまでも、民俗というレベルで見ると、アラブ的なものとユダヤ的なものとのあいだにはまじりあっているものを感じる。アルベニス/サウラの「ユダヤ」性は、ハイブリッド性であり、さまざまなものが混じりあっているうねりである。
(スペースFS汐留/コムストックオーガニゼーション)



2005-10-18_2

●プルーフ・オブ・マイ・ライフ (Proof/2005/John Madden)(ジョン・マッデン)

Proof
◆この映画が描くのは、ある種の狂気と、狂気とのつきあい方であるが、その狂気は、わたしには、さほどの狂気には見えない。アンソニー・ホプキンスが演じる「天才的数学者」ロバートは、死ぬまえの5年間、ほとんど狂気のなかをさまよい、彼女の娘キャサリン(グウィネス・パルトロウ)が介護する。が、あまりに色々な役をやりすぎたアンソニー・ホプキンスが演じる「天才」は、あまりに凡庸な印象をあたえる。グウィネス・パルトロウは、父親から受け継いだ数学的才能の持ち主という設定だが、その神経症的体質はうまく表現しているとしても、これもあまり数学者的ではない。ただし、かつてシャルロット・ランプリングが見せたようなヤバイ神経症体質のリアリティはない。この程度の過敏さや危なさなら誰でも持っているはずで、いかにもお嬢様的だ。
◆狂気のなかにさまよっていた数学者が、その最後の5年間に、数学史に輝く発見をしたのか、それともそうではなかったのか、発見された論文は、彼のものだったのか等々が軸になっているが、数学の超専門的なことをわかって作っているわけでも、また、こちらがわかって見るわけでもないから、こういうプロットは、所詮、象徴的な意味しかもたない。とすると、「数学」はあまり関係なくなるわけで、ここでの「数学者」とは、「日常生活とは距離のあることに関わっている人」といった意味にすぎなくなる。
◆結局、この映画は、いくつかの異なるキャラクターを配置してそのあいだに生まれる位相のズレを見せるにすぎない。まあ、ドラマというものは、そういうものだが、終わってから、「それがどうした?」という思いを起こさせるのは、どこかに問題があるのだろう。ロバートは「雲の上」にいる。キャサリンは、「地上」と「雲の上」のあいだをゆらいでいる。彼女と親しくなるハル(ジェイク・ギレンホール)は、ロバートのかつての教え子だが、凡才なだけ、「地上」の「善人」である。葬儀でニューヨークからかけつけた、キャサリンの姉クレア(ポープ・デイヴィス)は、通貨アナリストで、実利的な「地上」の「俗物」の役まわりだ。ただ、ロバートの「狂気」がそこそこなので、すべての位相がそこそこになる。
◆クレアが「俗物」だといっても、それほどでもない。キャサリンは、葬儀のあとパーティを立ちあげようとする姉に反発する。父の家を売ろうとするのにも激怒する。たしかに、クレアが「通夜」のパーティを仕組んだのには、その場を人脈作りのネットワーキングに利用しようというこんたんがなかったわけではない。キャサリンをニューヨークに連れて行って休ませるようなふりをして、その実、父の家から彼女を追い出して、売りさばこうとしたことも事実だ。しかし、これらは、特に「悪辣」なことではない。誰でもがよくやっていることだ。もし、彼女のこうした「俗っぽい」行為や意図を非難するならば、自分は、「聖人」の高みに位置していなければならない。しかし、観客にはわけのわからない数学では、「聖なるもの」は保証されない。
◆フラッシュバックするシーンで、ロバートがキャサリンに、「いままで自分は狂っていたが、もとにもどってきた」とか言い、仕事に没頭したあげく、「完成した」と一冊のノートをキャサリンに渡す。そのページを開いたキャサリンは、唖然とする。それは、まさに、『ビューティフル・マインド』のあるシーンを思い出させる。観客は、数学者のラッセル・クロウが庭にある離れの小屋で日夜、暗号解読の仕事に熱中しているのを見る。が、不審に思った妻(ジェニファー・コネリー)がその小屋のドアーを開けると、その壁には、無数の無意味なメモや新聞の切れ端がならんでいる。このシーンの力に比べると、ロバートのノートの衝撃は10分の1ぐらいしかない。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュイケーションズ)



2005-10-18_1

●綴り字のシーズン (Bee Season/2005/Scot McGehee & David Siegel)(スコット・マグギー&デイヴィッド・シーゲル)

Bee Season
◆今年の2月に見た『チャレンジ・キッズ』でドキュメントされた「スペル暗記」(Spelling Bee)のコンテストで天才的な才能を発揮し、カリフォルニアのオークランドの小さな町のトップから全米のトップへと上昇していく一人の少女に焦点があてられているが、暗黙には、彼女をそこまで育てあげた「ユダヤ的インテリ」の「完璧」な父親の存在への疑問、彼が知らずして生み出す子供たちと妻の苦悩がメイン。
◆家庭を外から見るのと内から見るのとでは大違いであるし、また内から見ても、その構成員たちの心の奥にしまわれている思いや無意識は、同じ家族でもわからないことが多い。とりわけ絵に描いたようなきれいごとでやってきた家族には、あるとき脳溢血や心臓発作のように奔出する鬱積がよどみ、増殖する。だいたい、初見のとき「なんていい家族なんだ」と思うときは、そうではないか、じきにそうではなくなるかの場合が多く、逆に、いつも喧嘩と紛争にあけくれている家族のほうが長続きをしたりする。
◆こういうことを知っている者には、この映画の導入部は、なんともうさんくさく感じる。むろん、それを意図して描かれているわけだが、見る人によっては、「なんてすばらしい家族なんだ」と思ってしまうかもしれない。夫ソール(リチャード・ギア)は、講義もうまく、学生に信望のあ大学教授。家では料理や家事も積極的に手がけ、子供たちの教育にも熱心だ。娘のイライザ(フローラ・クロス)は、柔順に父親の指導に従い、めきめき「スペル暗記」の才能を発揮し、コンテストを勝ち抜いていく。兄のアーロン(マックス・ミンゲラ)は、成績優秀だが、かつて父親から特訓されたチェロ演奏は、いまでは父親のバイオリンと合奏をする程度の「趣味」に域にとどまっている――つまり父親に距離をとっている。妻のミリアム(ジュリエット・ビノシュ)は、「貞淑」な妻だが、ときどき顔に暗い影が走る。画面では思わせぶりにしか映されない「謎」の行動もある。が、表面的には、「和気藹々」とした食事のときに「知的」な会話がとびかうような「高級」な家庭である。
◆リチャード・ギアは、多くの場合「ハッピー」な男を演じるのがうまい役者なので、「破綻」が明らかになったとき、「自分は一生懸命家族のためにやっているのになぜなんだ?!」という衝撃に襲われながらも、その理由がさっぱりわからない男を演じるのには向いている。また、ジュリエット・ビノシュは、古くは『ポンヌフの恋人』(1991)でも、英語の映画で成功をおさめた『ショコラ』でも、オフビートなキャラクターを演じるのが得意だったので、ここでも、彼女の顔を見て、これは、ただの「主婦」「母親」ではないなということがすぐわかる。それに、彼女は最初から「悲しそう」な顔をしている。
◆ギアは、大学で、ユダヤ神秘主義の「修復可能性」について論じる。ビノシェは、壊れたり、捨てられたりした日常のモノを「修復」することに異常な執着を見せる。彼女は、他人の家のなかにあるそういうモノを放置できず、他人の家からそういうモノを採集してきては、「修復」する。そのコレクションが映されるシーンは、スリリングである。
◆絵に描いた意味で「完璧」なユダヤ系の男が、結果的に「暴力」とは別の支配を行使していること。現代の、ユダヤ的メールショーヴィニズム(男性至上主義)の問題。息子は、反抗し、インド系の新興宗教(ハレ・クリシュナ)に入ってしまうが、父親につれもどされる。彼を勧誘する女(ケイト・ボスワース)のあいまいな態度にリアリティがある。彼が、ユダヤ教徒であるにもかかわらず、ふと通りがかったカソリックの教会をのぞいて、外に出ると、この女が近づいてくる。異教徒が異なる教会に来るということは、その人物が迷っていることを意味する。そういう人は、新興宗教に入信する可能性を多分に持っている。
◆息子に比して、娘は、父親に柔順なようにみえる。しかし、彼女は、逆にその外見的な柔順さによって、父親をあわれんでもいる。ある意味でのベンヤミン的「天使」なのだ。彼女は、ある綴りを思い浮かべると、そのモノの姿が見えたり、鳥があらわれて、スペルを教えてくれたりする(そういうシーンで突然使われるCGは、なんか唐突な感じもあるが、美しい)。ところで、ベンヤミンといえば、彼は、ユダヤ神秘主義の「修復可能性」を現代のテクノロジーとの関係でとらえかえそうとした。彼は、現代の(たとえばデジタル技術に象徴的な)「複製可能性」のなかに、古代ユダヤ的な「修復可能性」を見、そうすることによって、現代のテクノロジーの諸問題(ボードリアール流に言えば、かぎりなき「シミュラクラ」、生命までもが「複製可能」となる一回性・独異性の喪失)をのりこえる方途をさぐった(『複製技術時代の芸術』参照)。
◆『チャレンジ・キッズ』も、見ようによっては、アメリカの競争主義に疑問符をつきつけていたと言えるが、この映画は、その点では、はっきりと、アメリカ的競争主義を否定する。つねにトップであるよりも、トップから身を引くことの意義が印象深く描かれる。が、2番にとどまるにせよ、イライザがエリートであることにはかわりない。『ミート・ザ・ペアレンツ2』の父親(ダスティン・ホフマン)は、スポーツ競技ではいつも負けている息子を賞賛し、その記念の数々を(まるで特等や一等の賞状やトロフィを飾るのと同じように)飾っているが、そういう育てられ方をした子供とは違う。そういえば、『ミート・ザ・ペアレンツ2』の父親もユダヤ系であった。
(FOX試写室/20世紀フォックス)



2005-10-18_2

●ファイナル・カット (The Final Cut/2004/Omar Naim)(オマール・ナイーム)

The Final Cut
◆発想的には面白いが、ユニークというわけではない。生まれた子供に、その一生を記録する「ゾーイチップ」というのを脳に埋め込む慣習が定着している(未来の?)社会の話というのだが、それが、国家の強制なのか、強力に管理されているのかといったことがいまいちわからない。どうも、そのチップに関する規制はあるらしいのだが、それがこの映画のテーマであるわけではない。問われているのは、をのチップの情報がありのまま使われず、「編集者」によってアレンジされるということだ。そうしたチップを製造している巨大企業「アイテック社」の批判も一応は出て来るが、それはほんのエピソードにすぎない。
◆チップを埋めた者が死ぬと、その人のチップから取り出された情報を適当に「編集」し、葬儀の列席者たちに見せる習慣があるという設定なのだが、それがどうした? と言いたくなってしまうようなところがある。「美しい」記憶だけを「編集」して見せてもいいではないか。が、映画は、娘を陵辱したり、密かに犯罪的な行為をした者が、その忠実な記録(ゾーイチップ)の存在にもかかわらず、そういう部分の記録は葬り去られ、きれいごとの人生が披露されることに憤(いきどお)りをおぼえ、その人物とその会社を摘発しようとする男を登場させる。ある種の「正義派」ないしは「反体制派」である。とはいえ、この人物(ジェイムズ・カヴィーゼル)は、脇役にすぎず、主人公は、「編集者」(ロビン・ウィリアムズ)だから、こういう人物を置いても、座りがよくない。
◆本来自分のしていることに疑いをもたないウィリアムズは、 かつて「編集者」仲間だったカヴィーゼルに強力を迫られるが、その協力・非協力がこの映画のテーマではない。ガヴィーゼルが摘発しようとしている「アイテック社」の秘密をにぎる弁護士が死に、そのゾーイチップの編集を未亡人から依頼されたウィリアムズは、そのなかに、かつて子供時代に、自分がその死に荷担してと思い込んでいた友人の映像を発見する。冒頭から脅迫観念のように映される少年時代の悪夢。廃屋で子供らしい冒険遊びをして、友人が下の階に転落する。すぐにそばに走ったが、ぐったりして動かない友人に驚き、恐怖のあまりそこを逃げ出す。
◆なんかすっきりしないのは、「編集者」はゾーイチップを埋めてはいけないという規則があるらしいのに、ウィアムズは、実は、ゾーイチップを装填していたというくだり。そもそもこれだけテクノロジーが進歩しているとしたら、どんな「編集者」であれ、あらかじめゾーイチップの有無ぐらいの調査があってしかるべきだ。それをまぬがれてここまできてしまったということもあるが、この映画では、それほどの心理的屈折は描かれない。
◆ゾーイチップの社会政治的な側面、それに関わる「編集者」の心理的葛藤、そのどちらも中途半端な描き方で、結局は、自分の「原記憶」の問題の話なのだが、その点でも、その「原記憶」を両親が操作したらしいことの問題は、あいまいなままで終わる。
(映画美学校第1試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)



2005-10-18_1

●アメリカ、家族のいる風景 (Don't Come Knocking/2005/Wim Wenders)(ヴム・ヴェンダース)

Don't Come Knocking
◆冒頭、カーボーイ(よく見るとサム・シェッパード)が西部の荒野を馬で走る「いかにも」のシーンが映る。その画面の色が、往年の西部劇の色なので、それは、スクリーンのなかを見せているのかと思うと、そのあとのシーンで、撮影中に「ハワードが消えた」つまり撮影中にカーボーイの衣装のままドロップアウトしてしまったということがわかる。人にはドロップアウト願望があり、重要なときに直面しているときほどそれが昂進したりする。わたしなんかも、ああ、ここで踵(きびす)をかえして、別の方向に行ってしまったらなぁという思いに襲われることがよくある(実際にそうしたこともかなりある)。旅が始まるのもこういう瞬間なのではないか?
◆「なぜ死ななかったんだ」と自問するシェッパードの顔は、演劇界が瞠目する新人劇作家として登場した『カーボーイ・マウス』のシェッパードからはるか遠くに来ている。顔には深い皺が刻まれ、口もとは、若いときより醜くなった。むろん、わたしは、『天国の日々』(1978)や『ライトスタッフ』(1983)から有名になった若き「俳優」シェッパードを知っている。また老年にさしかかった「俳優」シェッパード(最近では、『レオポルド・ブルームへの手紙』で触れた)を知っている。しかし、彼の横顔のアップを見て、彼の若いときを思い出したのは、この映画が、シェッパードにとって非常に「自伝的」な要素を持っていることを感じたからだ。彼は、当然、この脚本を書くとき、そのことを十分意識しただろう。
◆1971年にまだ20代のシェッパードが発表した『カーボーイ・マウス』に、彼はニューヨーク・パンクロックの「女王」パティ・スミスと出演した。ところが、彼は、初演の翌日、誰にも告げずに役をドタキャンし、ニューヨークを離れてしまったという。これは、舞台と映画撮影との違いはあるが、まさにこの映画の出だしと同じである。街を歩けばサインを求められるぐらい有名になった映画俳優ハワード(サム・シェッパード)は、急に人生に疑問をいだき、撮影をドタキャンし、人家のあるところまで馬を走らせる。現金を持っていないので、最初は、とある家の主に馬の拍車とブーツをあたえて皮ジャンと着替えを物々交換するつもりだったが、そのうち馬もあたえ、靴下のまま列車のとまる線路まで歩く。思いついた行き先は、30年も会っていない母親(エヴァ・マリー・セイント)のもとだった。
◆この映画は、血縁とは何かということを考えさせる。血縁とは、遺伝子情報の継承ネットワークだが、われわれは、それを無視できない。家族なんて、血縁なんてと思いながら、「血は争えない」といった「因縁」や「業」からまぬがれない。だから、何かの転機に還る先は、親元であったり、兄弟や親戚のところであったり、その関連物である故郷や親の遺品になる。30年もよりつかなかった息子をハワードの母は淡々と迎える。ちゃんと駅まで車で迎えにきてくれる。家に着くと、地下に部屋を用意した旨を伝え、自室に行く。親不孝した息子に言いたいことは色々あるはずだが、このすがすがしいまでの淡泊さは何だろう? あきらめの果ての愛とでも言うべきか。
◆この母親は、息子が新聞に取り上げられた記事をスクラップし、アルバムにしている。ハワードは、それのページを繰りながら、自分の半生を思い出す。複数の女との浮き名、ドラッグへの耽溺、よっぱらい運転、ドラッグ所持での逮捕・・・。新聞の見出しが踊る。このあたりも、ある程度、シェッパードの実人生とダブる。この映画には、ハワードが知らずに別々の女にはらませ、生ませた息子(アール:ガブリエル・マン)と娘(スカイ:サラ・ポーリー)が登場するが、シェッパードにも、女優のオー=ジェイ・ジョーンズとの子、ジェシカ・ラングとのあいだの2人の子供がいる。この2人とは正式に結婚したのだが、それ以外にも、この映画のようにあとでその存在を知った子供がいるかもしれない。
◆自分がなした子供を平気で捨てる男もいるが、たとえ捨てたとしても、その存在を忘れることはできない。だから、いっとき頭のなかから捨て去っても、そのことを償おうとしたり、過去をとりもどそうと思う瞬間が出てくる。まして、ハワードのように、母親から、子供の存在を知らされて初めて自分に子供がいたことを知るような場合には、会いたいという思いがつのる。これが、血縁の因縁や業というものだ。
◆しかし、この点で、ヴェンダースは、スカイという人物に少しちがった観点と観念をあたえているように見える。彼女は、図書館へ行ってコンピュータで「ハワード・スペンス」を検索し、その写真を見つめる。彼女は、のちに自問するように、「父」に言う。何度も何度も自分の顔を鏡に映し、あなたの写真と合わせて、どこがダブるのかをさぐった・・・でもそれだけでは、血のつながりがあることはわからなかった、と。つまり、彼女は、血縁の「因縁」や「業」という観念に距離を置いている。彼女の考えをもっと能動化すれば、そこには、血縁をこえた連帯や共同性が生まれるかもしれない。最期のシーンは、そのことを示唆する。
◆しかし、妊娠したのも知らなかったといえ、結果的に無責任な男を持った女や子供は、急に姿を現した男・父親をすんなり受け入れることはできない。アールの場合、その反応は憎悪だった。バーのウエイトレスの女(ドリーン:ジェシカ・ラング)をたらしこみ、「ファックして」子供を作り、どこかへ消えてしまったことを許せない。しかし、ハワードは、あきらめずアールを追う。他方、スカイの方は、少しちがっている。彼女が本心どう思っているかはわからないが、彼女は、自分の父親が有名俳優ハワード・スペンスであることを知っており、ハワードを距離を置いてつけまわす。一旦は話を始めたが、呪詛の言葉を残して消えてしまったアールのアパートの住所を教えてくれるのも、この娘だ。彼女の母は、最近死に、彼女はその骨壷を持ち歩いている。
◆この映画の白眉ともいうべきシーンは、円熟したジェシカ・ラングが、ハワードに一喝を加えるシーンだろう。脱出願望と血縁への回帰につきまとわれたハワードが、再会したドリーンに、彼女と子供への義務をはたすために結婚したいと言ったとき、彼女は、それまでの苦悩と怒りを爆発させる。おそらく、ドリーンという女性は、自律したすばらしい人なのだろう。彼女は、ハワードの子供を生んだとき、そのことを本人に伝えようとして、ハワードの母のところに電話した。しかし、母のもとへすでに長いあいだ近づかなかったということを知り、それ以上連絡するのをやめたのだろう。有名俳優なのだらか、調べれば連絡先はわかるし、こういう場合、彼を訴えることもできた。厖大な慰謝料を請求する女もいる。しかし、彼女はそうはしなかった。彼女もまた、血縁の「因果」や「業」には距離をとることができる境地にいる人間なのである。
◆この映画で、失踪したハワードを捜索し、撮影現場に連れもどす映画会社のエイリアン的男をティム・ロスが演じている。彼は、潔癖症であり、家庭は持たないと言う。これは、やや抽象的な存在で、ドラマのなかで浮きすぎているが、ハワードと対照的なキャラクターとして提示されている。テイム・ロスは、一面でエイリアン的、アンドロイド的な面のある俳優だが、そのなかに「悲鳴」や「不安」を隠しているキャラクターに適した俳優だ。だから、その分、ここでは、やけに非現実的なキャラクターになってしまい、アイロニカルな笑いも出ない。
◆ハワードの出現で頭に来たアールが、部屋の荷物を窓から投げ捨てるが、怒りがおさまってから、散乱した荷物を拾いながら、小型アンプとエレキを拾って、つなぎ、即興演奏をするシーンがいい。ドラムは、投げ捨てられて転がっているゴミ缶の蓋で、それをアールが足でたたく。この散乱物のなかに大きなソファーがあり、ハワードは、そこに座って一夜をすごす。近くに塔があり、そのてっぺいんに星条旗がはためいている。カメラがハワードの顔の回りをまわり、その流れのなかでちらりとこの星条旗が見える。いかにも、ヴェンダースらしい象徴表現だ。その意味で、邦題はノット・ソー・バッド(それほど悪くない)である。
(映画美学校第1試写室/クロックワークス)



2005-10-12_2

●タブロイド (Crónicas/2004/Sebastián Cordero)(セバスチャン・コルデロ)

Crónicas
◆ひと気のない水辺でダミアン・アルカザール(『アマロ神父の罪』に出ていた)が演じる髭づらの男がセッケンで体を洗う。近くに廃屋となった石作りの小屋があり、男はそこへ入るが、何をするわけでもない。一体この男は何者か? やがて小屋の外に止めてあった(というより捨ててあって、一見動きそうにない)車を運転して街に向う。それが彼の車だったのだ。ということは、街から彼はこのひと気のない場所に来て何かをしていたということだ。しかし、街に入った彼は、いきなり飛びだしてきた子供を轢いてしまう。たちまち人があちこちから集まってきて車を取り囲む。そして、その子の父親が血相を変えてその男につかみかかる。
◆これは、正確な描写ではない。映画は、男が車を運転しているあいだに、「子供の死体発見」という見出しの号外を見せ、その関連取材をしているジョン・レグイザモとレオノール・ワトリング(『トーク・トゥ・ハー』、『死ぬまでにしたい10のこと』)が路上でリポートしているのを映す。レグイザモは、テレビの人気レポーターで、ワトリングは、プロデューサーという設定。男の車は、その間に自分の息子を助手席に乗せ、この場所に入ってくる。だから、男が子供を轢いた騒ぎは、すぐレグイザモたちの知るところとなり、現場中継がはじまる。
◆息子の死に狂った父親は、男を殴りつけただけでは気がすまず、家から灯油を持ちだし、アルカザールにかけ、火をつける。このラテン的激情がほとばしるような展開が凄いのだが、その騒ぎを離れたところで知った男の妻が、幼子をかかえたまま夫の方に走ってくる。当然、その幼児は、泣き喚いている。このあたり、撮影とはいえ、自分では選択できない状態で出演することになったこにの幼児にとって、このテンションの高い経験は、その後の人生にとってどんな影響をあたえるのだろう、などと思ってしまう。
◆ようやくたどりついた警察に男は助けられるが、子供を轢き殺した罪を問われて逮捕される。男をリンチした男も逮捕される。が、留置場はすさまじく、ダミアン・アルカザールは殺されそうになる。このあたり、貧しさがゆえの悲しさのようなものが、ひしひしと伝わってくる。翌朝、妻が留置場を訪ねると、火傷を負った身であるのに、体中に糞をまみれさせたまま裸で留置場にいる。これは、いじめれれるのをのがれる方法の一つなのだというが、えらく悲しいではないか。こういう、社会の極端な階級差がそのまま底辺に生活する者のあいだに二乗化されて押し当てられたかのような支配と被支配の関係をこの映画は、実にリアルに描く。
◆ラテン・アメリカの海賊テレビについては少し知っているが、通常のテレビがどうなっているのかは知らない。しかし、映画で描かれているところでは、マイアミをキーステイションとして南米の各都市に配信しているのが普通らしく、レグイザモは、マイアミベースのテレビマン。現場で取材し、ビデオ撮りして、マイアミに映像を送信し、そこからネットワークに流されるというシステムのような。ちなみに、この映画に出てくる、ネットワーク・ニュースのアンカーマンを、あのアルフレド・モリーナが演じている。
◆この映画では、マスメディアのなかの人間が、報道の真実をめぐってモラリッシュな格闘をする。「真実」を求めたレグイザモの取材が、裏目に出て、真実とは別の「真実」が作られてしまう。それを放置し、その報道によってますますスター性をたかめるレグイザモをワトリングは責めるが、それは、「舞台上」のやりとりにすぎないように思う。現代のマスメディアは、事実を伝える(あるいは伝え損なう)のではなく、「事実」を作り出す(捏造)するのである。「マスメディアあり、ゆえにわれらあり」なのだ。だから、そんなモラルに悩んでいては仕事にならないし、それを悩んでいるかのようなドラマを作ること自体が一つの欺瞞ですらある。というと、この映画のメディア批判的な要素を否定することになるかもしれないが、思うに、マスメディアの一つである映画には、そのままの形ではマスメディアを批判することができないだろう。批判すらもが、ドラマを彩る要素になってしまうからだ。いずれにしても、マスメディアの逆説をドラマ化したものとしては第1級である。
◆ジョン・レグイザモの近年の活躍はめざましいが、わたしは、彼を『マイアミ・バイス』や『スーパー・バリオ』以前から見ていたように思う。彼が演じる「卑劣な奴」はなかなかのものだった。
(映画美学校第1試写室)



2005-10-12_1

●ロード・オブ・ドックタウン (Lords of Dogtown/2005/Catherine Hardwicke)

Lords of Dogtown
◆かならずしも評判がよくないので、後回しにしてきたが、1970年代のカリフォルニアのスケボー「運動」をべースにしたものだというのと、デイヴィッド・フィンチャーが製作総指揮に関わっているというので、是非見たいと思っていた。お客はあまり多くない。聖路加タワーのソニーの試写室は、まえにも書いたが、夏でも冬でも冷蔵庫の冷凍庫のドアを開けたときのような風が吹いたいる。それを避けて、席を移動すること3回。やっと、後ろから2番目の列に風の来ない場所を見つける。これは、冷房設備の欠陥で、そのためにかなりの試写人口を失っているのではないかと思う。
◆冒頭、ジミー・ヘンドリックスの曲ののち、スプレー缶を振るカラカラという音がし、スプレーが噴射される。窓からこっそり抜け出す若者。寝静まった別の家の部屋では、立てかけたサーフボードを持って外に出ようとする若者の姿がある。次に瞬間、近くのベッドに寝ていた男が飛び起き、「殺すぞ!」と叫ぶ。ベトナム後遺症があって、戦場の悪夢を解きはなてないのだ。こうした短いショットのなかで、比較的保守的な環境、そのなかで思春期をすごす若者、ベトナム戦争が終わろうとしている1970年代中期といったこの映画の背景を観客に印象づける。なかなか見事な導入部である。
◆「ダイアリー」で書いたように、デイヴィッド・フィンチャーが製作に関わっているのが興味を引くが、この監督は、「青春もの」を得意とする。前作の『サーティーン』については、見て「疲れた」と書いたが、それは、否定ではなく、なかなかインパクトがあるという意味だった。ここで描かれているのは、ある意味での「運動」の歴史である。カリフォルニアの通称「ドッグタウン」と呼ばれるヴェニスビーチのサーファー・グループが、スケートボードの「実験」を開始し、それが、やがてスケボー・ブームの火付け役になり、そのグループの面々もスターになる。が、そうなれば、商売がらみの勧誘も激しくなり、連帯し、パイレット(海賊=異犯者)精神にあふれた仲間関係は変わってこざるをえない。熱きときからしらけのときまでを見通す歴史的視点。
◆「運動」にはリーダーがいる。また「運動」にはテクノロジーがからむ。新しいテクノロジーへの注目と採用があらたしい「運動」を生む。スキップ・イングロム(ヒース・レジャー)は、サーフボードを売る「ゼファー」の経営者であるが、ドッグタウンのサーファーの教祖的存在で、彼がスケートボードの車にウレタン製を採用したことが、スケボーの技術を飛躍的に変えた。彼は、そのボードを無料で若者たちに配ったことも、「運動」を押しあげた。
◆やはり70年代なのだなと思わせるシーンがいくつもある。トニー・アルヴァ(ヴィクター・ラサック)やジェイ・アダムズ(エミール・ハーシュ)が、金持ちの家のプールを見つけては、その斜面を使って「プール・スケーティング」の練習にはげみ、新しいスタイルをあみだして行く。この場合、よその家に無断で入るわけだが、こうした「スクウォッティング」行為は、70年代にはあたりまえだったし、多くの場合、「かっこいい」ことと見なされた。いまは、そうはいかない。
◆「運動」の盛り上がりには、偶然も作用する。彼らが、プールを使えたのは、プールに水が入っていなかったからだが、そいうプールがいくらもあったのは、当時、カリフォルニアでは、渇水がつづき、テレビは、節水を呼びかけていた。プールに水を入れるのを保留にする家も少なくなかったのだ。
◆ヒース・レジャーが演じるスキップ・イングロムを見ると、わたしは、アウトノメディアのジム・フレミングを思い出す。彼への酒井隆史のインタヴューが『インパクション』(2005年147号)に載っているが、ジムは、スキップよりもインテリだが、若者をオルグするやりかたが非常に似ている。スキップは、1975年に開かれたベイン=キャデラック・スケートボード・チャンピオンシップに「Z-BOYS」たちを出場させるが、レジスタレーションのとき、列にならんでいては出場にまにあわないと見た彼は、受付の男に100ドル札を見せる。これで、列に並ばないで入れてくれないかというわけだ。男はOKし、スキップは、手に札を握らせるが、入れてしまってから札を見た男が舌打ちをする。その札は1ドルだった。100ドルは見せたが、それは、100ドルを渡すという意味であるとはかぎらない。権威的な体制をすりぬける技にたけている。
◆成功すると近づいてくる女や企業の連中の存在がある。映画ではそれを絵に描いたように描くのだが、実際、この映画のシーンを真似たかのような現実がある。歴史がたってみると、ジェイ・アダムズのように、そういう誘惑に乗らず、インディペンデントの道を守り通した者の方がカッコよく見えるが、マスコミで知られるような有名人は、「転向」なしには生まれえないのだろう。まあ、話は変わるが、「郵政民営化反対」を唱えていた政治家の最近の「転向」ぶりは、転向のカッコわるさのなかでも最悪だ。
◆「Z-BOYS」のなかでトップスターになったのは、トニー・アルヴァとステイシー・ペラルタ(ジョン・ロビンソン)で、彼らは、選手としての活躍後、それぞれ会社を設立した。独立路線を抜いたジェイ・アダムズは、麻薬所持で逮捕され、「現在保護監察中」だという。映画の終わりの方で、自分の小さな仕事場で、淡々とサーフィンボードにサンドペーパーをかけているスキップの姿があるが、彼は、いまどうしているのだろうか?
(ソニー試写室/ソニーピクチャーズ・エンタテインメント)



2005-10-11_2

●あらしのよるに (Arashinoyoruni/2005/Sugii Gisaburo)(杉井ギサブロー)

Arashinoyoruni/
◆イントロがなかなか美しく、ドラマティック(狼の群れが山羊の親子を追う)なので、この分だと、「本篇」は腰くだけになるのではないかという予感。日本映画ではそういうことが多いからだ。案の定、狼の声の役の中村獅童が、「・・・でやんす」という言葉を使うのが、イントロの質にくらべて、えらく安っぽく、急にトーンダウンした感じになった。とはいえ、見ているうちに、この映画の奇妙なところに興味をおぼえ、最後まで見てしまった。
◆変な映画なのだ。一言でいうと、セックスレスの同性愛物語。ヤギ(メイ=女名だが、これは「メイメイ小山羊」のメイ)と狼(ガブ=「ガブリ」とかぶりつくのカブ)が愛しあうようになる物語だが、成宮寛貴と中村獅童が「このままいっしょにいられるといいね」などと言いあうので、同性愛性はいやがうえにも高まる。それが悪いというつもりはない。かえって、食べるということとセックスとの深い関係をはからずも解き明かしていて、面白かった。
◆この物語の狼はヤギを常食にしている。だから、両者が親しくなるということはほとんどありえない。が、ありえないことが起こったとき、どうなるか? しかし、狼としては、どんなに親しくなっても、ヤギを突然食べたくなる衝動に襲われる。相手のヤギの側からすると、突然襲われるのではないかという不安がつねに残る。この関係は、実は、男と女、性的意識を持ちうる同性同士・・・が「異常接近」したり、密室に閉じ込められたりしたときに起こる感情と似ている。
◆異性なり同性なり、あるいは動物でもなんでもある対象に性欲をいだくということと、食品や料理を見て「食べたい」ということのあいだには、密接なつながりがある。ある説では、セックス(性交)は、食べることから派生したのだという。だから、「たべちゃいたい」という言葉で、相手への性的意識を表現することは正しい。しつこいラブシーンのなかには、まるで相手の肉体を食おうとしているかに見えるものもある。ブロージョブなどは、はとんど食っているにひとしい。この映画のなかで、山越えをするメイとガブが、吹雪に立ち往生し、雪穴で食べるものもなく、とりわけガブが飢えの極致に達したとき(とにかく常食の「食べ物」が目の前にいるのだから)、それを察したメイが、自分を「食べて」と言う。これは、わたしには、セックスしてと言っているように聞こえてならなかった。
(東宝試写室/東宝)



2005-10-11_1

●愛より強い旅 (Exils/2004/Tony Gatif)(トニュウー・ガトリフ)


◆画面にいきなり肌が映り、強烈なビートの音楽が聴こえる。ニュージャズにも似たサウンドに怒りを含んだポリティカルなポエトリー・リーディングがまじっている。カメラが引くと、その肌は全裸のロマン・デュリスの背中で、彼は、ビールを飲みながら、窓辺に立っている。高層のマンションらしく、パリの街がひろがっている。デュリスのしぼんだ陰茎をちらりと見せながら、カメラは室内を映す。大きなスピーカーがその音楽を鳴らしているらしい。ベッドに起き上がったルブナ・アザバルが半裸で皿にたっぷり入った白いヨーグルトをスプーンで食べている。2人はいかにもセックスのあとのようで、そのヨーグルトがデュリスの精液を想像させる。「アルジェリアに行くよ」決心したようにデュリスが言うと、アザバルが、じょうだんじゃないよといった面持ちでゲラゲラ笑いだす。
◆しかし、2人は電車をただ乗りし、アルジェリアへの旅をはじめる。いつもヘッドフォンを離さず、その音楽が、バックグラウンドではなく、ストレートにひびき、こちらも彼と彼女がかけているのと同じヘッドフォンで聴いているような状態にまきこまれる。テクノ、フラメンコ、ライ、スーフィー、エスニック・ミュージック・・・と多様なスタイルの音楽が全編に流れるが、これらは、すべて監督トニー・ガトリフが提供している。原題は、exilsつまり「(複数の)脱出」だが、この語には、「亡命」、「亡命者」、「追われた者」の意味がある。その際、追われるのは、「故郷から」である。
◆ロマン・デュリスは、先日『真夜中のピアニスト 』で見たが、この映画の彼は、アルジェリアから来て、底辺の生活を経験しているフランス人といういでたち。相手のアザバルは、フランス国籍を取ってはいるが、アルジェリアのイスラム系の血を引いている女という設定で、映画のなかに、「14歳のときから放浪生活をしてきたんだから」というせりふがあるように、シティ・ワイズの(街づれした)女である。その場のノリでもりあがり、2人で入ったバーで目が合った男とトイレでやってしまったりする。それを知って頭に来たデュリスが、「淫売女、誰とでも寝るなんて、どこでそんなことをおぼえたんだ!」と怒ると、「ポルのよ」と答える。
◆彼女は、いかにもインテリの男がひっかかりやすいタイプの女。ハスッパだが、セクシーで、調子があえば、いっしょになんでもやってしまう。彼女の誕生日を彼女のパスポートを盗み見して知った彼(2人はその程度の関係だったということでもある)が、通過点の街でシャンパンを買ってきて、それを砂のなかに埋めておき、彼女のまえで取り出す。彼女は喜び、シャンパンのかけ合いが始まる。しかし、2人は、どこかに悩みを隠している。デュリスの父は、反植民地主義の活動家で、アルジェリアで闘争に加わり、逮捕されて死んだ。アザバルは、背中の傷の意味を隠している。
◆少なくとも、デュリスにとって、この旅は、心の旅でもある。父が活動し、死んだ土地アルジェリアを訪ねる。それは、彼にとっての魂の故郷への帰還だ。それは、彼が、ただアルジェリアにもどるだけでは実現できなかったろう。セルビアで知りあったアルジェリア出身のイスラム系の男女(2人は対照的にパリに向う)から、祖母への手紙を託されたことが縁で、セラピューティックな呪術的な儀式に参加することによって可能となる。「巫女」的な女の手引きでトランス状態に入って行くシーンはなかなかのもの。映画を見ている者をも、ある種のトランス状態にする。
◆無賃乗車をしたり、トラックの荷台にこっそり乗ってセルビアを経由し、まちがって乗った船でモロッコに入り、ようやくアルジェリアに到着する。なぜか、アルジェリアでは、おびただしい人々が彼と彼女が進む方向とは逆に歩いている。このシーンはよくわからない。逆行していることを示唆するためにこういう撮り方をしたのだろうか?
◆【追記/2005-10-20】このシーンについてフランスでいつも「シネマノート」を読んでくれているIEさんが、面白いコメントをくれた。「わたしの紀億の中では、ちょうどその頃(映画が撮影された時期)、アルジェリアで地震があった様に思うのです。だから、フランスからやって来た若者二人と逆方向に歩いている人たちは、被災地から避難しているのではないかと。でも本当の避難民なのか、映画のために呼ばれて来た人たちなのかわかりませんが。/調べてみますと、撮影のためにアルジェリアに行った時に現地で地震があった模様です。監督のトニー・ガトリフはこの映画のために40年振りに祖国のアルジェリアに入ったそうですが、久しぶりに戻ってみると、地震がわたしを迎えてくれた、ということを言っています」。
◆2人が出会うイスラム人は、時が来ると、アラーへの祈りをする。デュリスとアザバルは、宗教的な祈りはしない。しかし、彼らは、音楽を聴く。それはあたかも祈りのようだ。だから、父の墓にもうでるデュリスは、墓石に自分のヘッドフォンをかける。トランス状態に陥る儀式への2人の参加は、たがいに別の方向から来た「祈り」が合流する瞬間かもしれない。
(メディアボックス試写室/日活)



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●インサイド・ディープ・スロート (Inside Deep Throat/2005/Fenton Bailey, Randy Barbato)(フェントン・ベイリー&ランディ・バルバート)

Inside Deep Throat
◆同じ京橋だが銀座よりで、多少時間があったので、周囲を少し散歩。クロアチア料理の店というのがあった。食の誘惑に弱いわたしとしては、ちょっと気になるが、いま入るわけにはいかない。
◆1972年にニューヨークで公開され、爆発的な話題になった映画『ディープ・スロート』の誕生と顛末のドキュメンタリー。製作関係者はもとより、『プレイボーイ』誌ノヒュー・ヘフナー、ノーマン・メイラー、ジョン・ウォーターズ、事件を報道した『ニューヨーク・タイムズ』のスター記者タルフ・ブルメンタール、この映画の主役ハリー・リームズを有罪にもちこんだ検事ウィリアム・バーゼルらが登場する。日本では、修正と別バージョンを加えた「別もの」が上映されたので、アメリカで起こしたような衝撃は起こらず、それを見ても、アメリカでこの映画が巻き起こした事件を想像することはできなかった。おそるべきことに、このドキュメンタリーに登場する『ディープ・スロート』の映像が、いまだにボカされている。日本では、まだこれから日本版の『ディープ・スロート』が必要とされるのだ。
◆しかし、日本でそういうことが今後起こる可能性はない。なぜなら、すでにインターネットや半公認の市場で、「無修正」のポルノが手に入るので、表向きに禁止で事実上「公認」というダブル・ストラクチャーが定着しつつあるからだ。これでは、いつまでたっても、日本では、解放の文化は生まれず、お上の目をうかがいながら、つかのまうかれてみせる程度の「解放感」しか味わえない。
◆発端は、美容師ジェラルド・ダミアーノの映画製作願望。映画を撮りたいと思い、思いついたのが、趣味と金儲けだった。ギャラのいらない素人のリンダ・ラヴレイスを使い、俳優経験のあるジェラルド・ダミアーノをからませた。撮影はたったの6日間。当時のブルーフィルムの撮り方だ。笑えるのは、不感症に悩む女リンダがダミアーノ扮する医者に見てもらうと、「あなたはノドのなかにクリトリスがある」あると言われ、以後、ブロウジョブにはげむというプロット。ポルノは、どれも、こういう工夫をし、もったいをつけてあそこを見せるのだが、『ディープ・スロート』は、リンダのブロウ・ジョブを見せるためにこのプロットを発明した。
◆『バッド・アス』が回顧した『スウィート・スウィートバック』にしても、『イージー・ライダー』にしても、低予算で作った映画が、痙攣的なヒットをとばし、映画の歴史を作ってきた側面があるということ。作る方の「志」が高いからといって、それが評価されるわけではない。人気というのやバブルであり、バブルが歴史をつくる。これは、最近の日本の選挙でもドイツの首相選挙でもいえること。
(映画美学校第1試写室/コムストック)



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●僕のニューヨークライフ (Anything Else/2003/Woody Allen)(ウディ・アレン)

Anything Else
◆雨のなかを京橋駅から小走りに。1時の開映はつらい。この会場、エレベーターでしか行けず、先日、ある人が、終映後トイレに行ったら戸締めにあい、ビルのなかで『ターミナル』のような「生活」を朝までしてしまったとか。まあ、そんなことは、今日の試写とは関係ない。それよりも、上映少しまえにわたしのすぐまえに座った人の座高が非常に高くて、スクリーンが見えない。それは仕方がないが、その人、映画の最中に頭を右に、そしてしばらくして左に傾ける。だから、こちらは、それに合わせて頭を動かさなければならない。わたしは低く腰を下ろしていたが、ひょっとすると、わたしのすぐ後ろの人もわたしの頭の動きにシンクロさせていたのではなかろうか?
◆ある時期からウディー・アレンの作品を見るのがつらくなった。二番煎じと感じることが多くなったからだ。発端は『ギター弾きの恋』だったろうか。あるいは、『セレブリティ』でも少し感じたかもしれない。そう考えて行くと、『世界中がアリ・ラブ・ユー』にもその要素があった。とにかく、『ブロードウェイと銃弾』までは、見終わっていつも「幸せ」と賛嘆の気持ちに満たされた。うまいなぁ、面白いなぁという気分で座席を立ったものだった。本人が出演しても、入れ歯ががくかくするようなしゃべりで、哀れさをおぼえる。こうなってしまったのは、ミア・ファーロウとの裁判ざたの敗北からだった。養子や養女たちを犯した疑惑だったが、その養女の一人、スン=イと結婚してきわどい逃げ方をしたが、彼の消耗は激しかったように思う。二番煎じがひどくなったのは、このころからだ。
◆しかし、ウディがいま、自分の作品の「パターン」の総整理をして見せてくれているのだと考えれば、いまウディの作品を見るのは、いいチャンスかもしれない。どれかの新作を見てから、過去の作品をDVDなどで細かく見る。これは悪くないだろう。
◆ウディ・アレン映画におけるパターンを思い出してみよう。(1)浮気ないしは愛の気変わりというテーマ。(2)困った不条理な状況にまきこまれる主人公というテーマ。(3)セックスへの執着とあけすけなセックス談議。(4)ユダヤ性。(5)スラップ・スティック的な身ぶりと「お笑い」的なだじゃれ。(6)ジャズのスタンダードナンバーの使用。(7)ナレーションとアサイドの使用。(8)本のタイトルへ関心を引く。
◆今回は、イントロの音楽は典型的なアレン調。コールマン・ホーキンスのテナーとダイナ・ワシントンの歌。そして、しゃべりながらアレンとジェイソン・ビッグスが歩いてくる。歩きながらしゃべるシーンというのも、アレンの映画の重要な要素。アサイドは、ちょっとぼやきや皮肉を観客にこぼすという感じで使われることが多いが、この作品では、ナレーターが画面に登場するような形にまで全面化されることがある。それを演るのはビッグスである。これまでのアレンの映画では、ナレーションは、ボイスオーヴァーで出てきて、それをしゃべっている当人の姿はほとんど出てこなかった。
◆ビッグスとリッチが、はじめて会った記念日だというので、プレゼントの交換をする。ビッグスはイヤリングをあげ、リッチは、本を渡す。本は、ジャン=ポール・サルトルの『蝿』と『出口なし』がいっしょに入っているやつ。このへん、昔のアレンなら、内容を意識して本を選んだが、ここでは、単にタイトルで気を引いているだけ。リッチがビッグスに気がなくなってきている意味で、「蝿」と「出口なし」というタイトルはおかしいが、だじゃれの域を出ない。いま、少しサルトルへの関心が再燃してきたが、ちなみに、この2つはサルトルの主要な政治的戯曲であり、翻訳もある。舞台で上演されたことも何度もある。パーティで会った女が、ドストエフスキーの『地下生活者の手記』を読んでいるなどと言うのも、単にタイトルを意識しているにすぎない。
◆アレンは、スタンダードの「カクテルジャズ」風の曲を使うが、この映画では、ヴィレッジ・ヴァンガードでダイアナ・クラールに歌わせたいる。短いシーンだが、贅沢な使い方である。ここでクラールが歌うソングの歌詞は、リッチとビッグスの出会いをもりあげるアクセサリーにはなっている。しかし、月並み。今回は、本屋の代わりに名盤を集めているレコード屋が出てくる。そこで、コール・ポーターのLPをビッグスがリッチに贈る。「このレコードを聴いて君を思ったとBが言い、Rが感激して抱きつく。こういうシーンも、昔だったら、もうちょっと仕掛けがあったと思う。なんか単純すぎる。
◆ウディ・アレンは、軽薄をよそおいながら、つねに「政治的」な批判をしのびこませるのが得意たっだ。それが、たとえば、『バナナ』のように、けっこう的確な状況批判と政治パロディになっていた。この映画でも、アレンが演じるルーズベルト島のパブリック・スクール教師で、なにかとビッグスが精神的に頼りにしている友人の口と身ぶりを通して、現在のブッシュ政権下の状況への絶望的心情が示されるが、ちょっと紋切り型で、状況とかみあっていない。彼は、「ユダヤ人が戦争の元凶である」という考えが広まりつつあり、アウシュヴィッツの再来もまじかいと怒る。意外とそうかもしれないが、少なくとも、映画的に説得力がない。ただ、この人物のエキセントリックさを表現しているにすぎないような受け取られ方しか生まないのである。
◆上映中、場内から笑いはほとんどもれず、わたしも笑えなかったが、唯一、アレンぽくていいいなと思ったのは、BとRのところにころがりこんで来たRの母親(ストッカード・チャニング)が、ある日、若い恋人を連れて帰ってくるシーン。その男が、Bの書斎のテーブルの上にあるアップルのiBookをいきなり持ちあげたので、どうするのかと思ったら、それを自分の方に持って来て、その蓋の上にコカインをひろげた。iBookを吸引台にしようというわけだ。なるほど、iBookのつるつるした「ポリカーボネート強化プラスチック」製の蓋は、最適なんだ。
◆ウディ・アレンがせかせかしゃべるのは、以前だといかにもブルックリンのユダヤ系「庶民」から成り上がったユダヤ系知識人という感じが出ていて面白かったが、最近は、小うるさいお婆さんのような感じに見え、いただけない。ユダヤ的な強引さや押しつけがましさは、この映画では、もっぱらダニー・デヴィーロが演じている。Bのエイジェントだが、マネージメントの能力がなく、Bは他にのりかえようとする。そのことを告知されたときのDの態度と台詞はいかにも「ユダヤ」的。
(メディアボックス試写室/日活)



2005-10-04

●タブー (Taboo/2003/Christopher Renshaw)(クリストガー・レンショウ)

Taboo
◆ベルリンのカバレット風の出し物が出来なくもないスペース。椅子と椅子との間も十分あって、快適な空間。片隅にカウンターがあって、セルフサービスでコーヒーが飲める。フィルムの映写装置はあるのだが、今日の上映はDVDだった。しかも、ところどころにキズがあり、映像がとぎれた。これは、残念。DVDはすでに市販(英語版)されているから、。
◆いわずと知れた2002年ロンドンのヒット・ミュージカルの映画化。ボーイ・ジョージの自伝的物語。2002年の舞台だが、構成とリズムは70年代後半年風。わたしは、このタッチのミュージカルを1970年代後半にニューヨークで毎週のように見た。だから、非常に懐かしい気がした。映画化された『キャバレー』のブロードウェイ版は、もうちょっと規模が大きかったが、タッチは非常に似ている。
◆実質的には、フリーになっていたが、お固い家庭では、ホモセクシャルやドラッグがまだ「タブー」であった70~80年代のロンドン。ボーイ・ジョージがスターからドラッグ中毒でぼろぼろになる半生をベースにしているが、「主人公」は、確信犯ではないゲイの(あるいはホモイロティックな)若者フィリップ(ポール・ベイカー)。彼は、「タブー」だらけの家庭――「ここにいたらおしまいだ」という思いをエスカレートさせた末、ロンドンに出てきて、「カバレット」風のバー「タブー」でボーイ・ジョージと知りあう。ゲイバーという感じでもないが、常連はゲイだらけ。
◆作風は、舞台をそのままドキュメントした感じだが、映画なのだから、ボーイ・ジョージが若づくりをして自分を演じることも可能だったが、さすが「トライセクシャル」のB・G。自分は、道化役を演じ、自分の役柄を若いユアン・モートンにまかせている。それは、賢明なことだった。とにかく、ユアン・モートンが、80年代のボーイ・ジョージを彷彿とさせる演技と歌唱で、魅惑された。最初、ふらふらっと、え、ボーイ・ジョージって、まだこんなに若いの、という幻覚的な思いに襲われた。
◆小劇場はどこでもそうだが、空間の使い方がうまい。この映画の「セット」になっている「カバレット」は、客席から向って右にバーカウンターがあり、そのとなりに階段、中央にトイレがある。これらが、場面場面でうまく使われる。壁には、しばしばマルチで映像が投射され、距離を置いて電話で話している別々の人物の顔が写されたりする。しかし、これは、70~80年代に特有な方式かもしれない。いまは、コンピュータと連動した映像や照明を駆使できるから。
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