粉川哲夫の【シネマノート】
HOME anarchyサイト 雑記 『シネマ・ポリティカ』 粉川哲夫の本 封切情報 Help メール 日記 リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) |
★今月公開の気になる作品: ★★★ワールド・トレード・センター ★★★16ブロック ★★地下鉄(メトロ)に乗って ★★★★サラバンド ★★★★★父親たちの星条旗 ★★★★トンマッコルへようこそ ★★★エコール
センチメンタル野郎 父親たちの星条旗 めぐみ――引き裂かれた家族の3030年 長州ファイブ トゥモーロー・ワールド エンロン 愛されるために、ここにいる あなたになら言える秘密のこと 魂萌え! アート・オブ・クライング 7月24日通りのクリスマス 手紙 パフューム ルワンダの涙 ディパーテッド
2006-10-31_2
●ディパーテッド(The Departed/2006/Martin Scorsese)(マーティン・スコセッシ)
◆開映40分ぐらいまえに着いたが、7階の会場から2階まで列が出来ており、5階分の階段を下りなければならなかった。こりゃ大変だと思ったが、実は、2,3列にまとめる整理がなされなかったので、客がスポンテイニアスにだらだらと1列に並んだために、下まで列が延びてしまっただけなのだった。すぐに開場となり、降りて来た階段を再び上る。
◆冒頭に、黒人たちのデモの映像が映り、ジャック・ニコルソンの声で、「アイルランド人はイタリア人に差別されてきたんだ。ニガーも、差別がいやなら、自分の手で勝ち取れよ」といった差別的言語丸出しのせりふが語られる。なるほど、『ギャング・オブ・ニューヨーク』は、ニューヨークへのイタリア移民とアイルランド移民との壮絶な闘争を描いた。今度は、ボストンのアイルランド系移民のなかで、マフィアになった者と警察に入った者との屈折した闘いが描かれる。あいかわらず、暴力描写の工夫は群を抜いている。ここまで来ると、映画のなかの殺人や銃撃戦は、「ほんもの」とは独立したリアリティに達している。
◆わたしは、以前から、レオナルド・ディカプリオとマット・ディモンとマーク・ウォーバーグとのあいだには、どこか似たところがあるという印象をいだいてきたが、今回、その3人が一同に会した。似たもの同士が集まると、その違いがはっきりする。なるほど、ディカプリオとデイモンはかなり似ているが、ディカプリオには、スウィートなところがあり、デイモンには、シャイな要素がある。ウォーバーグは、デイモンに似ているが、3人そろうと、一番、他とは似ていないことがわかる。
◆気にいらなければ、誰でも殺し、そのくせFBIとも通じ、州警察内にエイジェントを送り込んでいるアイルランド系マフィアのボス、フランク・コステロを演じるジャック・ニコルソンは、抜群の臭い演技で、他を圧している。警察の幹部役でわきを固めるマーティン・シーンは、敬虔なカソリックという設定をたくににこなす。マフィアのスパイと警察のスパイとの両方を愛してしまう精神科医マドリン役は、ビーラ・ファミーガ。妊娠したことをデイモンに伝えるときの表情など、未来の大ブレークを予測させる演技。
◆ちなにみタイトル The Departedは、theがついているから、特定の「故人」のこと。多くの死があるから、それが、どの「故人」なのかは議論の別れるところ。(未完)
(サロンパスルーブル丸の内/ワーナー・ブラザース映画)
2006-10-31_1
●ルワンダの涙 (Shooting Dogs/2005/Michael Caton-Jones)(マイケル・ケイトン=ジョーンズ)
◆30分以上まえに着いてしまったので、試写室には誰もいなかったが、いつも座る席にプレスシートが置いてある。そして、なぜかわたしの許容範囲が全部「予約」されている。こういうのはフェアーではない。機嫌を悪くして一つまえの席にしたが、それらの席は、1席を除いて映画が始まっても、空席のままだった。全体に空席が目立つ試写会だった。
◆しかし、映画は、なかなかの出来だった。監督によれば、「白人」の視点の「一分」を守り、ルワンダ人に身をすり寄せることはしなかったという。たしかに、ここには、もともとルワンダの紛争(フツ族対ツチ族)と虐殺の発端を作り、それを煽りさえした西欧諸国(旧植民地諸国)の自省と痛みが鋭くえがかれている。この作品に比較すると、『ホテル・ルワンダ』などは、ある種の政治「ホラー」に見えてくる。
◆原題Shooting Dogsは、フツ族に虐殺されたツチ族の路上に放置された遺体を野犬がむさぼるので、ベルギーの国連平和維持軍のデロン大尉(ドミニク・ホロウィッツ)が、ツチ族を擁護するクリストファー神父に、犬を撃っていいかと尋ねるシーンに呼応している。神父は、国連平和維持軍は、相手が攻撃してきたときに撃つはずだが、犬は撃ってこないのだから、撃つ必要はないだろうと応える。大尉自身、自嘲的に、国連平和維持軍は、平和を「維持」するのではなくて、「監視するだけ」なのだと言う。このへんの皮肉も、このタイトルに含意されている。
◆英語の"exploit"が日本語で「開発する」と「搾取する」との両方を意味するように、「民族闘争」や「民族差別」は、「搾取」としての「文明」への「復讐」の面がある。この映画で「ヒューマニズム」を最後まで貫き通そうとするクリストファー神父(ジョン・ハート)も、その構造的な機能は、「植民地」にキリスト教的西欧文明を移植することである。西欧的植民地化は、通常、土地や資源の暴力的独占という側面からみられることが多いが、その最も洗練された形態は、意識/精神の植民地化である。キリスト教的ヒューマニズムは、身体の独占は、奴隷化であるが、意識/精神は、身体から切り離し、独占してもよいということを前提としている。意識/精神は、リセットできるのだ。
◆クリストファー神父の学校で、キリスト教に帰依する少女マリー(クレア=ホープ・アシティ)の意識は、西欧人に同化している。
◆はずされた身体への攻撃。フツ族的身体とツチ族的身体とのあいだに厳密な違いがあるわけではないというのは、嘘かもしれない。が、キリスト教的西欧文明によれば、万人は神のまえでは(つまり神の奴隷としては)平等である。民族浄化は、こうしたタテマエの帰結である。
(続く)
(映画美学校第1試写室)
2006-10-26
●パフューム ある人殺しの物語 (Perfume:The Story of a Murderer/2006/Tom Tykwer)(トム・ティクヴァ)
◆けっこうの人。開映まえ、となりで臭いパンを食い、ジュルジュルとジュースか牛乳をじゅるじゅるという音を立てて吸う女。こう感じるのも、以下で書くような現代的「偏見」。
◆天才的な嗅覚の持ち主で、やがて香水調合師になり、さらに・・・にまでなるジャン=バプティスト・グルヌイユの「生涯」。といっても、そんじょそこいらの「伝記」ものとは一線を画す、シュールな展開。そもそも、まだ赤ん坊のジャン=バプティストが、いきなり相手の差し出した手をつかむことからしてただ者ではないし、このシーンを思いつく監督もただものではない。
◆ジャン=バプティストは、パリのセーヌ河沿岸の魚市場で商売をしている女から生まれた。この女は、商売をしながら、まるで糞でもするかのように彼を生み、魚のガラが散乱する地面に放置する。画面から臭いがただよってくるような映像は、なかなかのもの。18世紀なかばのパリの街路は相当汚かったらしいが、その感じを実感させる。
◆が、この映画は、リアリズムの映画ではない。幼いときから自分のやることを悟っていて、どんどん実力を発揮していく成功物語的な側面をちらりと見せながら、それを大胆に裏切っていくスタイル。生長したジャン=バプティスト・グルヌイユ(ベン・ウィショー)は、香水調合師のバルディーニ(ダスティン・ホフマン)に「認められ」というよりも、自分を無理矢理認めさせ、香水調合師として成功するかにみえる。レイチェル・ハード=ウッドらが演じる娘たちとの出会いも、ラブロマンではない。
◆いまの時代、臭いであれ匂いであれ、強烈なにおいは、禁物だとされる。電車のなかで1両だけ客がほとんど乗っていない車両があったので、もの好きなわたしは、あえてその車両に移動して、うっとなった。魚の腐ったような臭いを発する男が座っており、みなが敬遠して別の車両に移ったのだった。他方、ハグしらこちらの服に匂いがついてしまうほど強い香水をつけている女も嫌われる。いまの時代は、ある意味で、無臭への願望が強い。ところで、18世紀のパリは、そうではなかった。多くの記述があるように、街には汚臭がただよっていたし、人々の口臭も強かった。そもそも、いまのような歯科技術が発達していなかった時代だから、40歳もすぎれば、人はみな歯槽膿漏になり、口が臭かったのだという。香水や葉巻が発達するのも、そういう背景があったからである。
◆においに鋭敏なジャン=バプティスト自身は、やがて、自分に体臭がないことに気づく。口臭のほうはどうかわからないが、このあたりは、この物語の一つの設定であり、とにかく、身体性が他の人とは違うのである。ある意味では、「現代人」的であるわけだが、18世紀というコンテキストのなかでは、当然、差別の対象になる。と同時に、彼自身も、自分になくて他人(とりわけ若い女)にはある体臭を特異なやりかた(?)で追い求めることになる。
◆ジャン=バプティストの超能力で厖大な集団がみんな乱交パーティ状態になってしまう大詰めは、見もの。ここでは、キリスト教の原点(愛、犠牲、カニバリズム、肉体と肉化〈インカーネイション〉)がからかわれてもいる。最高に解放感をおぼえさせられる必見のシーン。
◆ジャン=バプティストが、嗅覚を開くときの描写で使う高速のウォークスルー画面は、使い方としては誰でも思いつきそうだが、なかなか効果的。
◆テクノロジーは、さまざまな感覚をコントロールすることに成功してきて、いま、「最後」の砦としてにおいの領域がある。デパートのある階(の一角)を各社の香水や化粧品の匂いで印象づけたり、街路に香水を噴霧してその製品のプロモーションをするといったことは大分まえから行なわれている。『チャーリーとチョコレート工場』では、上映中にチョコレートの匂いを撒く装置を使うと言っていたが、どの程度実行されたのだろうか? わたしが見た試写ではその装置が持ち込まれ、実際にチョコレートの匂いがした。しかし、空中に同系統の匂いを噴霧するというのではなく、もっと脳神経に働きかける(脳の反応次第では、普通では「チョコレート」の匂いが、ドブ川の臭いにもなりえる)ような技術が開発されなければ、匂い/臭いのコントロールは無理だろう。ただし、「無臭」というコントロールはあり、すでに、口臭や消臭のさまざまなスプレー商品の普及、臭いを避ける風潮(構造的プロパガンダ)にみられるように、「無臭」がスタンダードになっている。タバコへの反発も、「無臭」志向のなかで強まる。「臭い」は差別され、「くせぇ奴」は「うさん臭く」思われる。いま、いじめ的差別の最初のサインは、「あの子臭い」だそうだ。
(サロンパスルーブル丸の内/ギャガ・コミュニケーション)
2006-10-18_2
●7月24日通りのクリスマス (Shichigatsu-nijuyokka dori no kurisumasu/2006/Murakami Masanori)(村上正典)
◆開映まえにくりかえしくりかえしくりかえしKの歌うテーマソング「ファースト・クリスマス」を聞かされ、すでにうんざり。ウディ・アレンの『バナナ』にオペラを聞かせる「拷問」というのがあったが、こういうパターン化したソングをくりかえし聞かせるのは「拷問」だ。
◆「ロマンティック・コメディ」ということだが、なんで日本の「コメディ」はお笑い的ドタバタなのだろうか? 途中から、かなりシーリアスになるが、結局、日本のコメディというのは、恥ずかしくて真顔で表現できないことをクッション入りで表現する方法なのだ。
◆中谷美紀は、うまい。彼女は、書き言葉から十分に咀嚼(そしゃく)されていないせりふがあっても、脚本を無視しない範囲で自分流に表現し、また、明らかに情景説明のための(本来なしでいい――表情や身ぶりで表現すべき)モノローグ的な台詞でも、「人ごと」のようなトーンには陥らない。
◆こういうドラマは、最初から登場人物のドラマとしてよりも、出演者中谷美紀や大沢たかおのドラマとして見た方が面白いのではないか? 彼女や彼がどういう演技をして、それがうまいとか下手だとかよりも、彼女や彼がそういうドラマを演じているというドラマを見るほうが面白いし、実際に観客はそうしているはずだ。観客は、その女性(本田サユリ)を演じているのが中谷美紀であることを知っている。メガネをかけ、「もっさりした服装にペタンコ靴」姿でも、「中身」はカワイイ美人であることを知っている。いずれ、いまのダサい「仮」の姿を脱ぎ捨てて、ヒーロー(大沢たかお)を屈服させるだろうという期待。すべては、そこに持っていく「じらし」(ティージング)であり、その微妙な振幅を笑ったり、泣いたりするわけだ。
◆出演者のドラマとして見ると、電車のなかで再会した大沢が中谷に「本田? 本田だろ」とぞんざいなもの言いをするのが許せない。てめえ、中谷美紀になんてこというんじゃ。ストーリのなかでは、大沢は、演劇部の先輩で、部内で一貫して三枚目の中谷には高嶺の存在という設定。しかし、それにしても、後輩にこういう口のきき方をする先輩にロクなやつはいない。が、実際、その「かっこよく」ふるまっているのが、そうでもないことが暴露するわけだから、ここでわたしをイラっとさせたのは仕掛けとしてはいいのかもしれない。
◆こういうドラマの作り手側としては、中谷をまず、「普通の女性」(って誰でしょうか?)にかぎりなく近づけようとする。しかし、市役所勤めで、「バサバサ髪」に「ずり落ちるメガネ」のサユリだといっても、いまの市役所には、そういう女性はいないかもしれない。「普通の女性」ってなかなかいないものだ。だから、ここでまず、中谷の演技に直面するわけで、彼女が演じるキャラクターに共感するわけではない。もし、キャラクターへの共感を求めるのなら、「普通の女性」ではなく、個別特殊なキャラクターにした方がいい。
◆その点、『ブリジット・ジョーンズの日記』のキャラクターほうが、「共感」の操作度は高かったかもしれない。「普通度」が高かったかもしれない。だから、この映画がまねている方式は、『ノッティングヒルの恋人』なんだな。ヒュー・グランツがもてないはずがないことを観客は知っている。それを、いっときじらして、最後にはめでたしめでたしの持っていく。わたしの印象からすると、『地下鉄(メトロ)に乗って』でのキャラクターの印象も重なって、大沢たかおのは、いわゆる「美形」のヒーローではない(そんなことをわたしの学生に話たら、「そんなことないですぅ」と言われたが)。サユリは、奥田聡史(大沢たかお)を東京で成功したライティング・デザイナーだと思っているが、奥田自身は、いろいろわけありで、昔の彼女のやっかいになって仕事をしている。サユリの思い込みと聡史のかっこづけとが空転しながら、最後に二人が本音で向いあうというところがやまなのだろうが、わたしはあまりのれなかった。
◆コメディの道化的な役割で登場する「謎のポルトガル人親子」は、ただただうるさく、うざったいかぎりであった。YOUは、「自然体」でサユリの父(小日向文世)の「愛人」をこなしたいたが、その「自然体」はだんだん惰性の気配がしてきた。
(東宝試写室/東宝)
2006-10-24
●手紙 (Tegami/2006/Shono Jiro)(生野慈朗)
◆ずいぶん前から試写はまわっていたが、日時が合わなくて見る機会がなかった。別の作品を見て、ギャガの試写室を出るとき、この作品を見るために早くからかなりの列が出来ているのも見ていた。だから、今日は、相当早めに来たが、たちまち満席になった。本を読んでいたら、『週刊金曜日』の土井伸一郎氏に声を書けられた。「持ち込み以外は書かせない」という路線(?)になってから、持ち込みということを一切しないわたしは、あまり書いていないが、土井さんとは、『話の特集』時代からのつきあい。ついつい、「ねえ、ねえ、最近の『週金』の映画欄は、投稿欄みたいになっちゃったよね」と口をすべらす。
◆お断りしておくが、この映画をまだ見ていない人と、東野圭吾(原作)のファンは、以下を読まないほうがいい。あまり肯定的なレヴューにはなりそうもないからだ。この映画のファンからはどなりつけられそうだが、わたしはこの映画を見ながら、ふと山田孝之と、あの「ホリエモンメール」事件の永田寿康(→)とがダブってしまい、困った。『電車男』のときはそうではなかったにに、ここでは本当によく似ている。あの事件を映画化するのなら、山田しかいまい。そんな不謹慎な意識で見ていたら、途中からあらわれ、山田に言い寄る吹石一恵(→)が、辻本清美(→)に似ているなという思いに襲われた。さらにもう1つ言うと、この映画の後半での沢尻エリカが、外見だけ(声は除く)山瀬まみに似ている。そうなると、山田が演じる「弟」も、吹石が演じる金持ちのお嬢さん・朝美も、へんな感じになってくる。全くの「個人的」な妄想で申し訳ないが、もし、この映画の出来がもっとよければ、わたしのそんな妄想はすぐに吹き飛んだろう。
◆わずかの救いは、メガネをはずして登場する後半のシーンでの沢尻エリカが抜群であることだった。この映画が、彼女の演技と彼女の出るシーンを標準にして仕上がっていたら、すばらしいものになっただろう。沢尻がメガネをかけて登場する前半のシーンでも、演技はよかった。彼女の役は、直貴(山田孝之)が働くリサイクル工場の食堂で働く女。刑務所にいる兄(玉山鉄二――出番は少ないがいい演技をしていた)のために、何かと差別を受け、世の中に距離を置きがちな直貴(山田孝之)に好意をよせ、あえて彼につきまとう。
◆直貴が幼友達の祐輔(尾上寛之)とお笑いコンビを始め、たちまちテレビに出演するほどの人気を得るという設定だが、2人が見せるお笑いが、全然面白くない。これで人気コンビとして大受けするようになるという設定は無理というもの。しかし、ストーリー上、有名になり、世間の注目を浴びる過程で直貴の隠れた面が意地悪く暴かれるというようにしなければならないので、とにかくそういうことにするというわけだ。これでは、リアリティは出てこない。
◆わたしは、映画で食事のシーンをいいかげんにしている作品でロクなものはないという独断を持っているが、この映画も、食事のシーンは、全然ダメだ。直貴が有名になり、彼のファンとして近づく金持ちの娘・朝美(吹石一恵)の家に招かれ、彼女の父親(風間杜夫)と3人で食事するシーンで、テーブルには色々出て、「おいしい」という感嘆のせりふは出るのだが、話ばかりで、3人とも皿の中身を減らさない。これでは、「うまい」というのはお世辞で、本当は、直貴の口に合わず、出す方も、食が進まなかったのかと勘ぐりたくなってしまう。それに、メイドさんもいるようなけっこうの豪邸で、コース仕立てなのに、順序もめちゃくちゃにメイン料理も前菜(とおぼしきもの)も同じテーブルに並べられている。何か変。
◆もう一つ、説教をたれる老人(僧侶とかもある)が出てきて、その映画の基本に触れるようなことを言うようなシーンがある映画というのは、(それが一つのスタイルだとしても)手抜きをやっているという独断的認識をわたしは持っている。プロセスに分解して表現するのを省略するときにやる手法なのだ。電話でおおむがえしにしゃべるという安い手もあるが、人生を達観しているような人物をちらりと出して、何らかの「要諦」を語らせるのも、表現の強度という点からいえば、安い方法である。この映画では、その役を、直貴が転職した秋葉原の電化製品店の会長(杉浦直樹)が演じる。彼は、直貴の兄の罪は、人を殺し、被害者の家族を苦しめているということだけではなくて、彼がいまだに弟の君を苦しめていることも含めて罪なのだといったことを言う。省略技法でなければ、会長がわざわざ直貴のところまで来て、いかにも親身であるかのように、そういうことを言うときは、魂胆があるものだが、この映画ではそうではない。まあ、そういう場合があってもいいが、肉親に獄中者がいることをかぎつけ、直貴を埼玉の倉庫に飛ばすような会社の会長が、そんなことをしそうにはない。するとすれば、魂胆がある。社長ではなくて、「会長」であるところでアリバイを作っているとしても、なんかヤナ感じなのだ。
◆作り手としては、もっと素直に見てくださいということになるだろうが、世の中は、そんなに単純じゃないでしょう。差別は、もっと屈折しているのであって、沢尻エリカの優しい笑顔や同情的な悲しい顔ではどうにもならない。
◆刑務所にいる兄は弟に手紙を書き続け、それが弟を苦しみのなかに追い込むくだりがあり、手紙の持つ複雑な要素をちらりとあらわにするが、手紙は、もっともっと悪魔的な要素を持っているのであり、獄中の兄にとって手紙は「般若信教」なのだ(と被害者の息子――吹越満)は言うが、それだけではない。原作は、そのへん、もうちょっと突っ込んでいるのではないか?
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)
2006-10-18_1
●アート・オブ・クライング (Kunsten at græde i kor/The Art of Crying/2006/Peter Schønau Fog)(ペーター・ショーナウ・フォー)
◆最初、ありふれた家庭の風景が見える。11歳のアラン(ヤニク・ロレンセン)、姉サネ(ユリエ・コルベック)がおり、父(イエスパー・アスホルト)と母(ハネ・ヘローデン)がいる。あとから考えれば、この父親はやや神経症的だという印象を受ける。母と口喧嘩をすると、下の階にしょげた顔をして籠ってしまう。が、そういう親父もいるから、まだここではこの映画の特異な世界に気づかない。が、父親が階下に引きこもると、サネがなぐさめに行く。これも、そう珍しいことではない。しかし、そのとき、彼女が下着だけになるのを見ると、「え?!」という感じになる。母と父のベッドには、アランが真ん中に入り、「川の字」になって寝るのも、一瞬、デンマークでも家族が「川の字」になって寝ることがあるのかと思ったが、すぐに「ありえない」という確信がわいてくる。こうして、この映画は、じわじわと不思議な世界に観客を連れ込む。その「不思議さ」は、ちょっと、『ライフ・イズ・ミラクル』や『ククーシュカ ラップランドの妖精』を思い出させる。とはいえ、この映画は、どんどん不可解な世界に連れ込むのではなくて、くりかえし日常的な現実に連れもどす。ここには、核家族のかかえるあらゆる深刻な問題が姿をあらわす。
◆この映画の父親は、父権のパロディである。彼は、もはや、生きる力を失い、些細なことで失望し、自殺を宣言する。が、それを実行に移す勇気はない。それは、ある種のポーズであり、なぐさめられることを期待している。しかも、そのなぐさめには、リビドーの痙攣がともなっている。困った醜悪な父親なのだ。したがって、ここでは、「家庭」はもはや普通の意味での家庭ではない。それは、崩壊している。が、子供たちが彼を馬鹿にしてはいないところが、皮肉の痛烈さを増強する。彼や彼女らは、父親を静かに終わらせようとする。
◆この物語は、1971年に時代設定してあるようだ。この時代、アメリカでは、核家族からシングル・ペアレント・ファミリーへの地盤変動が始まろうとしていた。80~90年代にかけて拡大し、一般化したシングル・ペアレント化は、いま、また転機をむかえようとしている。映画は、かつて邪魔者あつかいした父親をもう一度みなおそうとしている。この映画は、子供たちが母親と生き生きと暮らしはじめるところで終わるが、それから30年後のこのファミリーには、どんな変化が訪れただろう?
(映画美学校第1試写室)
2006-10-17_2
●魂萌え! (Tama moe!/2006/Skamoto Junji)(阪本順治)
◆阪本順治にしては、山のない、ダレた仕上がり。125分が長く感じられる。桐野夏生の原作は、おそらく、登場するたくさんの女性をそれぞれ個性的な存在として書き分けているはずだが、映画に登場する女性たちは、それぞれ個性的な女優を起用しているにもかかわらず、平板である。
◆しかし、小説を原作にしている映画は、小説ならばこう描かれているのではないかという想像をしながら見ることができる。常磐貴子を出している以上、原作では、彼女の役は、もっと個性的なのだろうとか、三田佳子が演じる愛人は、かなり原作に近いのではないかとか、林隆三が演じる60男が辛辣にあつかわれているのは、原作の最低基準で、女たちにも、そういう辛辣な目が向けられているはずだとか・・・。いずれにしても、原作の女たちは、もう少し「フェミニズム的」な意識の持ち主たちだったのではないかと思う。「フェミニズム的」と言っても、別にフェミニズム運動に荷担しているとか、そういう本を読んでいるなどということではなく、もっと「自律」の意識が高いのではないかということだ。
◆夫(寺尾聡)が浮気などするはずがないと妻・敏子(風吹ジュン)が思い込んでいたという設定は、この映画では、単純に知らなかった→知って驚愕という形になっている。しかし、それだと、敏子がアホだったというだけのことで、面白みがない。もし、このことが、夫の死後にわかるのではなく、生きているあいだにわかったら、どうなっただろうか? 夫は、バレて慌てふため、言い訳に終始したのだろうか? 人のよさそうな、愛人との隠れた生活などなさそうな風貌で登場し、すぐ死んでしまう寺尾の表情からすると、そういう生活が、敏子との生活と何の矛盾もなく存在していてもいいはずだ。実際、わからなかったというよりも、その二重生活はうまくいっていたのだ。
◆「うまくいっていた」のは、夫の嘘がうまかったからではなくて、2人がたがいに過剰な介入や独占をしあわずに生活してきたからではないのか? そういう風に解釈した場合は、この物語は、全然違う展開をする。その場合、敏子にとっては、その夫とのあいだに維持された――過剰な介入をせずに敏子とある種の距離をもちながらうまくやってきた――生活が、夫の死によって崩壊したことが問題なのであって、だまされたぁ!→くやしい!という問題ではないはずだ。しかし、映画は、単純に、敏子のリベンジのような形で進む。彼女をとりまく「親友」たち(藤田弓子、由紀さおり、今陽子)も常識的すぎて、敏子を俗っぽくするのに役立つだけだ。
◆風吹ジュンが、映画館の映写技師になるくだりがあり、麿赤兒に泣きついて「弟子」にしてもらうらしいが、映画で見るかぎり、風吹の感覚は、全然それっぽくない。最後のシーンでは、どうやら映写技師としての仕事を得たらしく、「名画座」風の映画館でデシーカの『ひまわり』をまわしている。いまどき『ひまわり』をやっている映画館なんてあるのかと思うが、この作品は、戦争による別離の物語で、そこには、戦地から帰って来ない恋人(マルチェロ・マストロヤンニ)をソフィア・ローレンが探すという山場がある。「名画座」で映されているのは、やっと再会した2人が相手の立場を認めあう形で、つかのまの再会を終わりにするシーンだ。しかし、この映画は、一体、『ひまわり』とどこでクロスするのだろう?
◆演技的に、風吹ジュンが一番ダメ、常磐貴子は、才能を発揮する場所がなく、豊川悦司はもったいない。加藤治子や左右田一平がそつなく演じているのは、年の功。林隆三はテレビノリ。唯一、演技が光るのは、三田佳子。
(シネカノン試写室/シネカノン)
2006-10-17_1
●あなたになら言える秘密のこと (La Vida secreta de las palabras/2005/Isabel Coixet)(イサベル・コイシュ)
◆「ひとりぼっちでいること」のある種の肯定があるところがいい。映画は、一応、「ひとりぼっちでいること」を肯定しながら、「でも、それだけでは不幸でしょう」という示唆をくわえる。これは、ある意味では月並みだ。が、それではドラマにならない。え、何でドラマにならなければいけないの? とはいえ、「ひとりぼっちでいること」に固執する女性とのあいだにある種の「愛」が生まれ、「いっしょにいてほしい」と告げる男に、女が、「そうしたら、あなたは、ある日突然わたしが泣き出し、あなたはわたしの涙の海に溺れるわ」と応える。すると、彼は、「それならぼくは泳ぎをおぼえるよ」と言う。言葉にすると洒落た言葉遊びのように聞こえるが、このせりふの重みはすごい。彼は、もともと水恐怖症であり、泳ぎをおぼえるなどということは並大抵のことではないことが布石されているからである。
◆ここに登場する人物――とりわけ主人公の位置にいるハンナ(サラ・ポーリー)は、深刻な体験をしたすえに他人を恐怖し、他人を信じられなくなっている。生きていることが「恥」であると思っている。映画でやがて明らかにされる出来事からすれば、それは当然だと思う。しかし、いま、多くの人々が、他人を、そして自分を嫌悪するようになっている。「嫌悪する」というのが言い過ぎなら、他人と自分に距離を置きたいと思っている。
◆それは、個々人が気難しくなったとか、傍若無人な人間が増えたからではない。むしろ、個々人の意識が「大きすぎる」ものとなり、まずとりあえずは「自我」を多人格化をしなければならないところに達したことがある。(だから、ハイデッガーは、『存在と時間』で、「意識」という近代概念を "Dasein" 現存在に替えたが、その話にここで立ち入るのは、混乱を招くのでやめる)。しかし、いくら多人格化されても、問題は、「人格」という概念そのものに限界が露呈したことなので、この方法では、状況に対処できない。いずれにしても、人は、「自分」の内部の「内乱」に対処することに明け暮れて、他人のことなどかまってはいられなくなったのだ。
◆これは、文学史的には、ジェイムズ・ジョイスが『ユリシーズ』のなかで、「内的独白」という形で形象化した現象であり、それから半世紀して、「冷戦から内乱へ」という政治構図のなかで具体化したことでもある。いいかえれば、他人・自分嫌いは、「内乱」と「テロ」の時代に対応した個人レベルでの現象であり、個々人の「内部問題」の解決と、「内乱」/「テロ」の解決の見通しのつかなさとは相互に連関しているわけである。しかし、「内的独白」として「自分」と対話できるあいだはいい。そこには、まだ「恥」の意識は薄い。が、フランツ・カフカが、『審判』で、主人公の死のあとまで「恥だけが生き残っていく」と記したとき、「自我」は、ミクロ化した。もはや「独白」では解決しないところまで来たのだ。
◆わたしは、「イディオシンクラティック」(idiosyncratic)や「イディオシンクラシー」(idiosyncrasy)という言葉が、こうした状況にいる個人の特性をあらわすのにぴったりだと思う。個々人は、いま、大なり小なり「イディオシンクラティック」になっている。この語は、これまで、「特異体質」とか、個々人特有の性格や行動(身ぶりや話し方)、もろもろの特質などを言い表すのに使われた。いずれにしても、この語は、「個性」よりも微細な概念である。他人の「個性」とのつきあいも大変だが、他人の「イディオシンクラシー」とのつきあいは、もっと大変だ。それは、その人自身にも予測がつかないくらい気まぐれに急に変わったりもするからだ。
◆この映画の登場人物たちは、みな、その意味で、「イディオシンクラティック」であり、そのことを知っているがゆえに、他人に対して距離を置いて生活している。言葉の訛からして、どこかから亡命してきた気配のあるハンナ(サラ・ポーリー)は、自動制御の機械を操作する工場で働いている。昼になると手持ちの弁当を黙々と一人で食べる。中身は、リンゴとチキンカツとライス。そんな彼女が所長に呼ばれる。仕事はよくやるが周囲との交流がない彼女に組合から中傷があったらしい。所長は、彼女に1カ月の休暇をあたえる。
◆彼女の部屋は、簡素といえば簡素、殺伐としていると言えば殺伐といった感じ。洗面台に同じ銘柄と思われる石けんが沢山積んである。すぐ思い浮かぶのは、『恋愛小説家』でジャック・ニコルソンが演じた潔癖症の小説家のバスルーム。そこには、石けんが山と積まれており、彼はそれを一回に一個ずつ消費するのだった。ハンナは、そうではなさそうだが、消費量は多いのだろう。彼女の過去が示唆される。ときどき精神的な介護をしているらしい女性(ジュリー・クリスティ)から電話がかかってくるが、話をしない。
◆1カ月の休暇を彼女は、海上に浮かぶ油田掘削現場で看護士として働くことにする。彼女には、看護士の経験があった。その現場では、少しまえ事故があり、重い火傷を負った男ジョゼフ(ティム・ロビンス)の介護が彼女の仕事だった。彼は、当面、ショックのため目が見えない。そんな彼との毎日がはじまる。それは、それぞれが肉体の「孤島」にいる二人が新しいコミュニュケーションを発見していくプロセスである。
◆孤島か船のようなその現場には、初老の責任者、オタク的な海洋学者(ダニエル・メイズがうまい)、機関室係のスコットとリアム、掃除係のアブドゥル、それから料理係のサイモン(ハビエル・カマラ)がいる。スコットとリアムは、同性愛関係にあるらしい。サイモンは、世界各国の料理に通じており、食べさせる相手の出身地の音楽をかけながら、最適の料理を作ろうとする。ほかはみな、自分の「孤島」に住んでいる。「ひとりぼっち」でいれるためにこの仕事を選んだふしがある。
◆ハンナは、サイモンの料理に動かされる。彼の料理を食べたとたん、それまで禁欲的なまでに抑え込み、いじめてきた味覚が突然われをとりもどす。それは、自分を少しづつ開く発端でもあった。しかし、この映画は、料理に力を過剰に強調しないところがいい。それですべてか解決するほどなまやさしいところに彼女や彼らはいないからだ。
◆最初から、ずっとではないが子供の声のナレーションが入る。なぜそれが子供の声なのかは、最後にわかる。
◆いまは病室にいるジョゼフだが、彼の部屋でハンナは、彼の過去を少し知る。テーブルのうえに、ペンギンから出ているジョン・バージャーの『イメージ』(John Berger, Ways of Seeing"、邦訳、パルコ出版)が置かれている。ちなみに、この映画は、このジョン・バージャーに捧げられている。わたしは、バージャーを久しく読んでいないが、バージャー再考のような動きがあるのだろうか?
◆この映画は、ハンナの寡黙さや、他の登場人物たちの屈折を、社会と政治の状況に関連づけている。もし、クロアチアの動乱がなければ、ハンナは、こんな寡黙や潔癖症とも無縁であったかのように。ジョゼフは、幼児期のときに父親から受けた教育がトラウマになっている。父親は、水を恐れるジョゼフを海に放り込んだ。家庭から国家までさまざまな暴力の支配がある。そうした状況のなかで、恐怖に身を縮めざるを得ない個人。しかし、拷問被害者の社会復帰を進める運動の活動家であるインゲ・ゲネフケ(ジュリー・クリスティ)は、言う。ヒトラーは、アルメニア人を虐殺したあと、「そんなことをおぼえている者はいない」とうそぶいた。そして、ヒトラーのホロコーストから半世紀後に、バルカンでまたホロコーストが起きた。ここでは、セルビア人によるクロアチア系、ムスリム系住人の大殺戮、クロアチア系とムスリム系によるセルビア系住民強制収容所、ムスリム系住人によるセルビア系女性の集団レイプなど三つどもえ(という言い方では単純すぎる)の紛争が続き、全体で20万人の死者、200万人の難民が出たとされる。
◆ここで、人が歴史に学ばないことを非難しても、その責任は自分に帰ってくる。ヒトラーやミロソヴィッチのような「悪役」を血祭りにあげても、解決にならない。というのも、社会は、ますます、個々人を孤立させるようになっており、他者への警戒心や不信感を煽る環境も過剰にととのっており、ホロコーストが、個人単位でも実行可能になってきたからだ。そして、個々人の内部でも「紛争」が絶えず、もはや安定した「アイデンティティ」など不可能になってきたからだ。個々人の内部「紛争」が他者への攻撃に拡大する。
◆だから、孤立という社会現象を否定的に見ないことが前提ではないか? この映画で、ハンナは、ジョゼフとともに、どうやら「伝統的」な交流を回復する方に行きそうであるということを観客に感じさせる。責任者のディミトリは、いまの現場が閉鎖になるので、チリに新な孤独の場を求めて行くらしい。海洋学者のマーティンも、おそらく、同じようなライフスタイルを続けるだろう。わたしの関心は、むしろ、彼らにある。
(東芝エンタテインメント試写室/樂舎)
2006-10-12
●愛されるために、ここにいる (Je ne suis pas lê pour être aimé/2005/Stéphane Brizé)(ステファヌ・フリゼ)
◆30分まえに着いたが、配給の人は来ていなかった。会場で待っていると、続々と観客が来て、ほぼ満席状態になった。わたしの隣の席に身体の大きな人が座わり、うしろの女性と話している。そしして、彼が本格的に「定住」を決心したとき、その女性が、「あなた本気でそこに座る気?」と言う。苦笑しながら、立ち上がる男性。文字づらではすごいことが起きたみたいだが、ながいつき合いのある人同士のあいだでのみ通じるユーモラスな会話。
◆この映画は、言葉や身ぶりや表情の瑣末な部分にひそむ機微にふれるような深さを持っている。とても、1966年生まれの監督の作とは思えないくらいの目配りだ。登場人物は、どれも、抑えた演技で、「普通の人」を見事に演じている。男と女が出会い、愛が高まって行くプロセス描くにしても、すぐに「情熱的」にキスし、ただちにベットインしてしまうような定番に陥ることはない。静かに(しかしタンゴを)踊るなかで、次第に高まっていく情感を微妙な表情の変化のなかで描く。
◆こういう映画を見ると、フランスも日本も変わらないなという印象を受ける。あるいは、監督のステファヌ・フリゼは、小津安二郎なんかの影響を受け、逆にこういう登場人物を思いついたのだろうか? 51歳の誕生日をまじかにひかえた(おそらくドラマのなかで51歳になっただろう)という設定のジャン=クロード(パトリック・シェネ)は、歳より老けて見える。実際に俳優シェネは映画出演時に58歳だ。その彼に特に若作りのメイキャップをほどこさずに出演させている。離婚し、仕事場兼自宅に住む彼は、裁判所の決定を実行に移す執行官の仕事に疲れている。貧しい人をアパートから追い出すようなことにうんざりしている。そういう彼が、窓から見え、音も聞こえる向い側のビルのダンススタジオに興味を覚える最初の方のシーンは、あきらかに周防正行の『Shall Weダンス?』(1996)か、ピーター・チェルソムのリメイク『シャル・ウィ・ダンス?』(2004)の影響だ。
◆いま、日本のテレビ(は特に)も映画も、日本人の日常を表現するとき、非常にオーバージェスチャーで表現する傾向がある。それは、マスメディア的表現の型にすぎず、「日本人」は、日常生活では、定番的な出来事(たとえば結婚式、スポーツの会場、テレビカメラの前など)のとき以外は、あいかわらずシャイであり、身ぶりも表情も表現も地味である。テレビや映画の表現は、まるでそういう地味さへの反動のような感じすらする。その点、「アメリカ人」は、日常生活のなかで、まるでハリウッド映画のなかから出てきたような表情や身ぶりをする傾向(あくまで)がある(全部が全部ではないということ)。しかし、内部に入ってみると、「アメリカ人」とてそんなにオーバージェスチャーではなく、「日本人」と変わらない面を持っていることを発見する。これは、アメリカでは、それだけ、すでにヨーロッパでは失われてしまった「公的」な場がまだ残っているということかもしれない。ちなみに、「公的」な場とは、リチャード・セネットが鋭く指摘したように、個々人が演技する場であり、それが、20世紀後半のヨーロッパでは、凋落した。
◆『親密すぎるうちあけ話』でもそうだったが、フランスには、アパルトマンに住み、そこを同時にオフィースにし、(日本のように、成功したら仕事場と住居を別けるのではなく)代々そこで同じ仕事を続ける人がいるらしい。この映画の主人公も、父親(ジョルジュ・ウィルソン)の仕事を継ぎ、自分の息子(シリル・ケトン)にも継がせたいと思っている。こういう場合、たいてい、親の代からつかえている「オールドミス}(失礼)のセクレタリーがおり、ドラマを引きしめる。実際、この映画でも、終わり近くで、ジャン=クロードの秘書が決定的な忠告をする。「(もしあたしが相手の言ったことを文字通りでなく、的確に受けとっていたら)いまごろ一人身ではないでしょう」。ここは、なかなか実感がこもっている。
◆ジャン=クロードがダンス教室で出会う、ひとまわり年下の女性フランソワーズ(アンヌ・コンシニ)との関係がメインだが、そのあいだに彼と彼の父親とのやりとりが、これまたその機微を鋭くとらえた形で表現される。看護施設にいる彼の父のもとへ、彼は、毎週見舞いに行き、散歩をしたりモノポリーゲームをしたりする。が、父親は、ことごとく文句を言い、ゲームも本気でやってない、お義理で見舞いに来るんだろうとからむ。頼んだチョコレートが、いつものカカオ80%のでないと言って、「お前、チョコレートひとつ買えないんだから」と嫌みを言う。だから、ジャン=クロードは、毎回、喧嘩別れのような形で父のもとを離れ、運転する車のなかで、面と向って言わなかった罵詈雑言を吐く。他方、ジャン=クロードは、彼の息子ともうまくは行っていない。
◆しかし、親子というものは、基本的にこんなものではないか? 「親の心子知らず」を演技しあうことが親子(とりわけ父子)なのかもしれない。ただし、そういう「演技」をうまくやりつづける場(家庭)がなくなってしまった。だから、ジャン=クロードの父親は、去って行く息子の姿を窓からそっと眺めるしかない。ジャン=クロードがテニスの試合で獲得した数々のトロフィーも、「あれはいまどこにあるの?」と尋ねられた父親は、「あんなものは引っ越すときに捨ててしまった」と言うが、事実はそうではない。息子のことは、些細なことも気になり、新聞に出れば、小さな記事でも切り抜いてとっておくのが、親なのだ。しかし、面と向っては、それを言わない。この映画の親子は、まさに浅田次郎が描く親子だが、フランスはおろか、日本でも「生活」とは無縁のわたしには、これが「普通」だと言い切る自信はない。監督の小津的世界への傾斜の産物かもしれない。
◆小説家志望のオタク的雰囲気(こういう言い方は差別だとわたしに言った人がいる)の男と婚約し、結婚をまじかに控えたフランソワーズの示すしぐさも「小津的」に見える。彼との結婚に不安と疑問をいだいている。そんなときに再会(彼女が子供のとき、母親がジャン=クロードを知っていた)したジャン=クロードに急速に魅力を感じて行く彼女。そして、キスを交わした時点で、ジャン=クロードが、彼女の婚約を知り、驚いて身を引く。母親と姉が同席する食卓で、フランソワーズが、結婚式の招待客を決める母親のわがもの顔を見ながら無言で涙を流すシーンなど、非常に往年の「日本映画」的ではないか。
◆静かで地味な人物像、しかし彼や彼女のなかでゆらぐ愛情や怒りやメランコリーが、タンゴ(しかも、プレスで黒田恭一氏が指摘しているように、「カルロス・ディ・サルリの、いわゆる古典的なタンゴ」と、エレクトロニカ的要素も導入したゴタン・プロジェクトによるタンゴを使い分け、からみ合わせている)のリズムで、微妙な距離をとって効果的に表現されている。
◆原題は、「愛されるためにそこにいるのではない」という意味で、敷衍すれば、受動的に「愛される」ためではなく、能動的に「愛す」ためにそこにいるんだという意味で、邦題だと、逆の意味になってしまうような気がするが、いかがなものか?
(メディアボックス試写室/セテラ・インターアショナル)
2006-10-11_2
●エンロン (Enron: The Smartest Guys in the Room/2005/Alex Gibney)(アレックス・ギブニー)
◆期待したが、それほどではなかった。細かい数値への言及が多かったためかもしれない。エンロンが最初から「悪」で、その立役者たちが「悪党」であることを前提としたインタヴュー集(基本的にこのドキュメンタリーはインタヴューで出来ている)だからかもしれない。しかし、「悪党」というのなら、この程度のことをやっている企業人はいくらでもいる。むしろ、彼らは、「犠牲者」ではないか? 何の? アメリカで1970年代から始まった「規制緩和」のである。ならば、規制緩和政策の唱道者こそが、「悪党」ではないのか?
◆この映画を見ると、日本のように官のしばりが強いところは、規制緩和はまだ必要だと思うが、歯止めのない規制緩和は、システムを壊すということはよくわかる。しかし、資本主義というシステムは、その本質として規制緩和をもっている。資本主義システムは、ギャンブルを内包しており、それ自身のテロス(究極目的とロジック)のなかに破滅をはらんでいる。だから、資本主義のロジックを忠実に遂行したエンロンが、あのような破局に陥るのはあたりまえなのだ。
◆その意味では、この映画は、資本主義の行く末をスケッチしてくれる。しかし、この映画は、資本主義を越える先には展望がないから、この「破局」をただただ遂行者たちの「失敗」としか見ない。これは、資本主義の可能性を楽観したおめでたい視点である。資本主義の現時点での問題を、資本主義内部の目で描くとすれば、もはやギリシャ悲劇的な「悲劇」として描くしかあるまい。つまり「運命」である。誰が「悪く」て誰が「良い」ではなくて、「悪」も「善」も「運命」と化しているのだ。
◆エンロンの創始者たちは、みな元「オタク」らしい。映画は、オタクから人前に出て堂々と挨拶し、されには芝居もやれるようになったと映画は皮肉を言うが、いまの資本主義の可能性と限界を知るには、「オタク」から入る必要がある。
(映画美学校第1試写室/ファントム・フィルム)
2006-10-11_1
●トゥモーロー・ワールド (Children of Men/2006/Alfonso Curarón)(アルフォンソ・キュアロン)
◆この試写室のスクリーンは、最前列が見やすいが、今日は、わたし一人しか最前列にはいない。開映まで本(ブルナール・スティグレールの『象徴の貧困』)を読んでいたので、どのくらいお客が入ったのかはわからなかったが、映画自体は文句なしの傑作であった。
◆時代は、2027年。冒頭に、人々がニュースを聞いて、嘆き悲しんでいる様子が映る。この18年間、地球上に子供が生まれなくなっていたが、その「最後の子供」リカルドが、事故で亡くなったというニュースである。女性が妊娠しなくなっても、人工受精やクローン化もあるではないかという半畳を入れる間をあたえず、映画は、「未来への希望を失った」社会の様相をアップテンポで紹介する。そのテンポは、ジョン・レノンのBring On the Lucieが流れる最後のシーンまでよどまない。
◆過去を描くことで、現在を照射し、未来を示唆するスタイルがあるとすれば、この映画は、「近未来」を描くポーズをとりながら、現在と近未来を批判的にスケッチするというスタイルだ。それは、見事に成功している。初めの方で、テロによる爆発のシーンがあり、ギリアムの『未来世紀ブラジル』を思い出させるが、『未来世紀ブラジル』は、「近未来」を意識したデザインがほどこされていた。この映画では、そういう操作はほとんどない。いまロンドンの人々がやっている生活が、あまり抵抗なく「2027年」につながってしまうから不思議。
◆いま、時代は爛熟と退廃の極みに達し、現在の皮を一皮むくと、その下には、過去と未来とが見え隠れするようなところまで来ている。そういうシフトは、映画ではあたりまえだが、それが、日常のなかで起こるようになってしまったのが、いまの時代なのだ。だから、セプテンバー・イレヴン(9.11)は、その意味で「映画的」に見えた。先日のロンドンでのテロ未遂事件後、機内への持ち込み荷物の規制が過剰なまで強化されたが、それは、非常に「シュール」であり、ナチの時代への逆行であとともに、同時にオーウェル的な「未来」の突然の出現でもあった。
◆こうなってくると、現在の直線的な延長線の上に「未来」を想定することなど不可能であり、説得力がない。未来は、現在の知性や理性や過去の記憶の総合の位相としてあらわれるのではなく、それらからの《切断》として突如あらわれる。これは、映画というよりも夢の形式に近づく。またしてもカフカである。カフカのリアリティは、まだまだ、というより、いよいよ切迫力を増している。
◆『トゥモロー・ワールド』をカフカに引き寄せる必要はまったくないが、カフカの世界の「夢」性が、幻想や眩暈のそれではなく、極めて具体的・現在的であることによって、その分「未来的」であるのと、この映画が似ているのだ。へんな「空想」には迷い込まない。この映画で、わずかに「空想SF」的なシーンといえば、主人公セオ(クライヴ・オーウェン)が、元妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)に頼まれた通行証を得るために訪ねた従兄弟で大臣のナイジェル(ダニー・ヒューストン)のオフィースにいる息子のアレックス(エド・ウェストウィック)がゲームの操作に使っているインターフェース(→)ぐらいだろう。それは、指の動きを腕時計状の装置に集約し、キーボードの役割をするらしいシステムで、これが、卓上の小さなモニターと連動している。いまコンピュータの一番の課題は、キーボードに代わるインターフェースを何にするかである。アレックスの使っているやつも、将来のキーボードの予測的な一つかもしれないが、まずは、こういう形にはならないだろう。このアレックスは、典型的なオタクだが、オタクもまた、現在のなかに出現した近未来現象である。超現在としての近未来。
◆セオとジュリアンは、デモ活動のなかで出会い、ともに同志として闘ったアクティヴィストだった。2027から逆算すると、彼らが出会ったのは、ベルリンの壁崩壊のころだろうか? ジュリアンの母親は、9.11で亡くなったことになっている。セオの親友のジャスパー(マイケル・ケイン)は、60歳代の設定だろうか? そうだとすると、生まれは、1960年代であり、1970年代のパンク・カルチャーやアウトノミア運動の洗礼を受けた世代だということになる。むろん、80年代のドイツ赤軍の活動も知っている。この映画では、ジャスパーは、郊外のエコロジスト風の家に住み、この世代の多くがそうであったように、60年代のヒッピー運動へのあこがれを隠さない。マリワナを吸い、瓶詰めのオリーブを食べて「イタリア!」と唸る。かかっている音楽は、「禅ミュージック」だというが、その音はノイズ系のエレクトロニカである。家のまわりには、カメラが仕掛けられ、警官の侵入を感知して、コンピュータの画面に表示する。自律的な電子装置。妻は、元フォトジャーナリストだったらしいが、MI5の拷問を受け、いまは、「痴呆」状態で、食事は、ジャスパーがスプーンで食べさせる。
◆ジュリアンが指揮する「フィッシュ」(FISH) という活動グループは、状勢の緊迫化とともに、武装志向に傾斜し、「革命」を夢みて、「爆弾テロ」や「政治拉致」も辞さない。セオは、いまでは、そういう路線には、組みすることができない。そういう彼とジュリアンとが再会したのは、彼女が、ある計画のために彼の協力とコネを期待したからだった。それは、 18年ぶりに妊娠した一人の女性を安全な場所に送り届け、そこで子供を生ませようというものだった。おそらく、自分も子供を失っているジュリアンは、本気でそう考えたのだろう。しかし、フィッシュの内部では、それを「革命」のために政治利用しようとする一派があった。
◆いつの時代にも、「反」が結局、権力体制の補完物になってしまうパターンがある。いまの時代でいえば、「テロ」がそうだし、「国際自由主義圏」に対立しているように見える北朝鮮もアメリカや超大国の軍事路線を補完する。対立や競争という原理を越えなければ、もうにっちもさっちも行かないところに来ているにもかかわらず、くりかえし、「党」志向の「反」勢力が生まれる。しかも、その組織性を見るならば、体制と変わりがないどころか、その古い面を体現しており、その点で、権力には、やりたくても出来ない、しない方がいいことを代わりにやってしまう。権力にとっては、ありがたいことである。セオは、そういうジレンマをのりこえる人物として描かれる。
◆エマニュエル・ルベッキの撮影はすばらしい。セオの車が襲われるとき、まず火のついた車が突っ込んで来て、それからバイクが吹っ飛ぶシーンは、猛烈なリアリティがある。ルベッキは、突然すごいことを起こすショットで観客を驚かせるのが好きらしく、彼が撮影している『ジャー・ブラックをよろしく』でブラッド・ピットが車にはねられて、吹っ飛んでしまうシーンも、度肝を抜くとことがあった。
(東宝東和試写室/東宝東和)
2006-10-10_2
●長州ファイブ (Choshu Five/2006/Igarashi Sho)(五十嵐匠)
◆休み明けでみんな忙しいのか、この試写も客が少ない。わたしを含めてたったの3人。が、映画は、海外ロケのシーンもしっかりと作ってあり、楽しめた。
◆この映画は、表向きは、「日本を変えるために、命をかけて海を渡った」5人の日本人を描いている。この言い方は、この映画の宣伝文句にもある。しかし、映画を見ると、彼らは、最初から「日本」を意識していたのではなく、「日本」や「日本国家」建設よりも「藩」であり、そのなかの「長州藩」だったことがわかる。つまり、彼らは、個別具体的でローカルなもののために渡航し、勉学に励んだのであって、「日本」や「世界」や「地球」といった漠然とした「理念」のためにそうしたのではなかったのだ。
◆「長州ファイブ」の山尾庸三(松田龍平)、井上馨(北村有起哉)、伊藤博文(三浦アキフミ)、遠藤勤助(前田倫良)、井上勝(山下徹大)は、尊皇攘夷の思想と運動の限界を認識し、禁を冒してイギリスへ留学するのだが、長州藩がそれを許し、資金を援助したということは、画期的だった。映画のなかで、この「長州ファイブ」が、ロンドンのパブで薩摩藩の同様の留学生に出会うシーンがあるが、当時の藩には、いまの区や県とはくらべものにならないラディカルさがあったのか?
◆未知の国に行き、その先進「文明」に触れ、こんな国を相手に闘っても日本が勝てるわけがないと思い知り、先進「文明」の習得に熱意を燃やすようなシーンも、通常の意味では「感動的」だが、この映画の目配りのいいところは、「文明」の国のもう一つの側面にも目を向け、5人の若者たちが、貧困や差別のもとにおかれたマイナーな人々と出会い、「文明」のもう一つの側面にも目ををむけていたという設定をしているところだろう。彼らは、単に産業革命下のイギリスの華やかな面だけを見てきたわけではないという視点である。
◆欧州で学び、藩の「生きた機械」になって帰ってくるというせりふが何度か出てくるが、「生きた機械」という言葉は当時からあったのだろうか? この映画では、実際に彼らが技術を習得する具体的な過程を描いたシーンはない。そうか、こういうコツでできるのかといった発見のシーンもない。彼らこそ、おそらく、技術への日本の姿勢(先進技術を受け入れ、その性能を発展させる改造の才)を最初に方向づけた者たちだと思う。
◆工場で働く山尾庸三が知りあい、純愛をいだく聾唖の女性エミリー(プレスには、一切、外国人俳優の名が書いてない)とのエピソードは悪くない。実在の山尾が実際にそういう体験をしているのかどうかは不明だが、帰国し、やがて「日本工学の父」となったが、盲・聾の教育の普及にもつとめたという。
◆興味深いのは、そういう彼らが、いつ「藩」意識を捨てたのかという点だ。あるいは、彼らは、生涯、藩の意識は捨てておらず、明治国家というのは、実は、日清・日露戦争以後急速に突き進む軍国主義日本とはちがい、内部に多数の「藩」的異質性を内包したトランスローカルな国家であったのかもしれない。それが、そうでなくなったのは、日本を取り囲む国際状勢であり、列強の圧力であった。むろん、藩の変質も同時に進む。異質なものを異質なまま緊張関係をたもったまま維持することはむずかしい。外部の圧力が加われば、内部では統合化が進む。内部のクリエイティヴな「対立」は、外部に移し替えられ、外部を「敵」として措定するようになる。
◆いまの北朝鮮も、まさに戦前の日本をたどりなおしているような感じだ。脱線ついでに言えば、北朝鮮は、核爆弾に投資するよりも、コンピュータネットワークに投資すべきだった。ドラッグや贋金や兵器に国内の知とエネルギーを投入するよりも、ハッカー(コンピュータプログラミングに強い者)の育成と、電子ネットワークの全国展開に向けるべきだった。が、そのとき、統合的な国家は、瓦解せざるとえない。これが、上記の近代的(ないしは近代化的)ジレンマである。
(CINEMAT銀座試写室/リベロ)
2006-10-10_1
●めぐみ――引き裂かれた家族の30年 (Abduction: The Megumi Yokota Story/2006/Patty Kim + Chrisu Sheridan)(クリス・シェリダン + パティ・キム)
◆最初、そうは思わなかったが、マジで「横田めぐみ」さんの拉致のドキュメンタリーであることを知って、二の足を踏んだ。が、それが、あの『ピアノ・レッスン』や『イン・ザ・カット』の監督ジェーン・カンピオンの製作によるものだということを知り、興味をおぼえた。が、その期待はあまりむくわれなかった。使われている映像の多くは、すでにさんざんテレビで見せられたものばかりであり、証言も、必ずしもまだ信用できるものという保証がなされたわけでない元北朝鮮工作員・アン・ミョウンジョンにもっぱら依存しており、彼がこれまで週刊誌などでしてきた話をくりかえしきかされるにすぎない。
◆わたしが、わずかに「新鮮」だと思ったのは、いつも仲のいい映像ばかり見せられている横田滋・早紀江夫妻が、この映画ではちらりと齟齬を見せる。「あんたが、聞いたことをそのまましゃべるから誤解を受けるんだ」と滋氏が言い、早紀江氏が、「はい」と冷たく答えるシーン。
◆独自に撮ったショットではなく、テレビニュースからのものだと思うが、小泉首相が金正日総書記と会談するため会場に向う映像で、小泉の固い表情もさることながら、彼につき従う安部晋三(現総理)がほとんど泣きそうなばかりの顔をしているショットがある。すでに知られているように、この時点で、彼らは、会談で公式に明かされる拉致被害者の死亡というニュースを知っており、北朝鮮側に強行な姿勢で対決する決意を固めていた。安部は、緊張すると泣きそうな顔になるタイプなのか? ブッシュにもそんなところがある。都心で大きなテロが起き、安部がそんな顔をするのは見たくない。
◆拉致問題に、安部は、力を入れてきたが、この映画の映像にも、中山恭子の姿が見え隠れする。帰国した拉致被害者を北朝鮮へ再渡航させなかったのは、彼女の提案が大きく作用していると言われる。肝の座った策士であり、その分、危険な女である。
◆この映画を見てあらためて思ったが、横田早起江という人の不思議さだ。彼女は、泣きながらでも声がふるえない。こういうタイプの人は、日本人には少ない。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズ)
2006-10-05
●父親たちの星条旗 (Flags of Our Fathers/2006/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)
◆クリント・イーストウッドが硫黄島の戦闘の映画を撮ると知ったとき、ふと、戦時体制にのめりこみつつあるブッシュ政権好みの映画が出来るのではないかという懸念が浮かんだ。考えてみれば、それは愚かな懸念である。ハリウッドは、すでに、大分まえからブッシュ政権に一線を画すようになっている。そして、もしハリウッドがどういう傾向のなかにあったとしても、そのなかでイーストウッドが時流に乗る映画を作るはずもない。実際に、この映画は、そうした懸念を吹き飛ばす傑作であった。
◆ある意味で、このことは、ブッシュの政策が、伝統的な「右派」にも愛想をつかされるほどひどい状態に陥っているということでもある。イーストウッドの政治信条は、伝統的な「右派」のものであり、民主党とは異なる。地域や伝統を重視し、全国的な統制には反対する。国を愛するのは、地域を愛するがゆえであり、彼らにとって、国家は、地域を一つに(均質に)統合するためのものではなくて、あくまでも地域と地域を連合させ、ネットワークするものとしてあるべきなのだった。が、アメリカの歴史のなかでは、この地域主義とポピュリズムが国家の利害と一致した形で戦争を遂行するという形をとってきた。しかし、そういう古典的図式がもはやなりたたないのが「テロ撲滅」をうたうブッシュ・ドクトリンなのである。
◆映画の最後の方に、自分らは、「戦友を助けるために戦ったのであって、国家のためではない」というせりふがある。これは、まさしくイーストウッドの伝統的「右派」としての姿勢を表明するものであるが、それが、いま、逆に新鮮な印象をあたえるとすれば、それは、いまの国家が、地域を抑圧し、食い物にする存在以外の何ものでもなくなっているということであり、ある種のナチズム的体制になっているということでもある。
◆この映画は、その構造自体、その内部にクールな「距離」が装填されている。あるときはセピアっぽく、あるときは、モノクロにかぎりなく近いダークパープル色にミュートにされた映像が、そのことを示唆する。戦闘シーンも、かつてスティーヴン・スピルバーグの『プライベート・ライアン』やテレンス・マリックの『シン・レッド・ライン』が、戦闘のガン・エフェクトを革新した以上に非常に新しい効果を加えていて、見ものである。
◆硫黄島の歴史的に有名な国旗掲揚を行なったとされ、英雄にまつりあげられた兵士の一人、海軍衛生下士官ジョン・"ドク"・ブラッドリー(ライアン・フィルップ)が、映画の主人公的位置にいるが、そのパーソナリティは、幾重にも多層化されている。映画のナレーション的主体の位置は、彼のいまや中年になった息子に置かれている。「名誉」あるはずの国旗掲揚について何も語らないできた老父に息子が興味を持ち、その沈黙の謎を調べはじめるという体裁だ。その秘話を語り始める老ブラッドリー、回想場面は、ミュートされながらもリアルな1945年の硫黄島、さらには、彼が硫黄島から帰国し、英雄として歓迎されるアメリカでのシーンに移り、ときおり「現在」にもどる。
◆わたしは、繰り返し見てきた硫黄島でアメリカの兵士が星条旗を掲揚しようとしている写真が、半分やらせであるということをこの映画で初めて知った。おそらく、一般には、この映画の原作をなすジェイムズ・ブラッドリーとロン・パワーズのノンフィクション『Flags of Our Fathers: Heroes of Iwo Jima』(2001)(邦題『硫黄島の星条旗』、文芸春秋社)で初めて実証されたのだと思う。アメリカでも発表当時から嫌疑がもたれていたらしいが、いつのまにか忘れられてしまった。そもそも、わたしは、この旗が、米軍が硫黄島で日本軍を陥落させた証として立てられたと思っていたが、事実は、まだこのあと31日間も激戦が続き、勝利の証ではなかった。また、これがこの映画の核心だが、AP通信の記者ジョー・ローゼンタールが撮ったこの写真は、最初に掲揚されたあとで掲揚しなおされた際に撮られたものであって、旗を掲揚した兵士も全員が同じわけではなかった。2回上げたのは、最初の旗をチャンドラー・ジョンソン大佐(ロバート・パトリック)が記念に欲しいと言い、降ろして取りはずさせたためだ。2度目の掲揚のとき、ローゼンタールが「絵になる」ことを直感して撮影をしたわけだが、この段階で戦争宣伝の要素が加わった。
◆ニューヨークタイムズに掲載された写真に一番注目したのは、国税局で、この写真で国威を発揚し、戦争国債を売れると確信した。そのために、国旗を掲揚した兵士が米国に連れもどされ、戦争国債のキャンペーンに人寄せタレント役で全国行脚させられた。しかし、この戦争キャンペーンがはじまるまえに、硫黄島では、旗を掲揚した6人のうちの3人は戦闘で死んでしまっていた。その埋め合わ工作をめぐる喜悲劇――アダム・ビーチがその屈折をブリリアントに演じる――もこの映画は鋭く描く。当時、アメリカは、決して経済的に良好ではないどころか、140億ドルの負債をかかえ、他方、ルーズベルト大統領の死などもあり、戦争に勝てなければ、あぶなかったのだ。この映画は、戦争宣伝のすさまじさと愚かさを暴いている点でも、これまでのハリウッド戦争もののなかで群を抜いている。この映画ほど、鋭く描いてはいなかった。
◆戦争に宣伝の要素は不可欠である。戦争は、実戦レベルの勝利に先立って、情報戦での勝利がある。日本の敗北は、情報戦の敗北であったが、1982年にNHKで放送され、2005年10月に「NHKアーカイブス」で再放送された日本のスパイ組織「東」(とう)についての画期的なドキュメンタリー『私は日本のスパイだった~秘密諜報員ベラスコ~』が実にヴィヴィッドに描いているように、情報は収集されていても、それを読み解く能力や情報への認識を完全に欠いていたことが日本の敗北と、被害の拡大につながった。「東」は、当時のスペイン大使須磨彌吉郎のアレンジで作られ、Alkasar Velascoを中心にアメリカの原爆情報まで収集していたが、日本の軍部は、その重大さを認識できなかった。いまのブッシュ政権も、CIAのイラク情報を無駄にしたことによって、現在の泥沼のなかに陥っている一面もある。戦争には、負け方にも被害を最小限に食い止める負け方があるが、それを左右するのも情報への敏感さであり、その意味では、戦争は、情報戦だけで十分なのである。
◆1940年代のアメリカ経済は、1つの危機に陥っていた。戦争の出費がその要因の1つであったが、その危機を乗り切り、その後の、アメリカ主導の世界経済の方向性をさだめることになったのは、新しいマーケッティングだ。ディヴィッド・リースマン(David Riesman)のベストセラー『孤独な群集』(The Lonely Crowd/1950)が分析した孤立化した個人をどう結びつけ、消費へ向けて統合するかが、課題だった。ヴァンス・パッカードが『隠れた説得者』(The Hidden Persuaders)を出したのは1957年だが、この本が売れたのは、すでに宣伝と広告の技術がアメリカ社会を変えつつある時点での「現状確認」と批判だったからである。この映画で描かれる「星条旗を掲揚する兵士たち」の写真は、まさに、1950年代になって軌道に乗り、やがて世界の全域に輸出されるマーケッティングと「隠れた説得」の技術の最も効果的な最初の事例となったのだった。
◆戦争と父親という観点がいろいろ考えさせる。戦争と母親という観点とマスイメージは、危険に身をさらしている兵士の息子(いまは娘もいる)を思う母、息子を失って嘆き悲しむ母といったパターンに向いている。その点、父親の場合は、自分もかつて出征し、戦争の武勇伝を息子に語る父親というのがパターンとしては好まれる(ベトナム以後、戦争のひどさを息子に伝える父親というイメージもないではないが、それはマスイメージではない。みな、負け戦さの話はしたくないのだ)。しかし、この映画では、ジョン・"ドク"・ブラドリーは、息子に硫黄島のことを一切語らなかった。いや、語れなかったのだ。これは、捕虜などの経験者の場合には考えやすいパターンではあるが、この映画の場合、かつては自分の戦争体験を誇りを持って子供に語ることができたのに、この戦争はそんなことが出来ないじゃないか、という戦争批判(ただし、そこには、戦争そのものへの批判よりも、戦争のやり方への批判)とともに、「戦争体験を誇りをもって語る」という父親の役割の破産と終わりが示唆されている。これは、家庭における「父親」の機能が変わったこととも関係があるし、「パターナリズム}(父親的温情主義)や「パトリオット」(愛国者)の「pat」が「父親」(pater/father)とつながりがあるように、国家と管理のやりかた自体の変化(脱ボス、脱中心)が関連している。 (丸の内ピカデリー1/ワーナー・ブラザース映画)
2006-10-03
●センチメンタル野郎 (The Sentimental Bloke/1919/Raymond Longford)(レイモンド・ロングフォード)
◆無声映画の歴史のなかで必見とされる一作。見たいと思いながら、そのチャンスがなかった。今回、「オーストラリア映画祭」で公開されるこの作品は、いわば最終的な「復元版」(2004年)で、ナショナル・フィルム&サウンド・アルカイヴによって極力、オリジナルに近い形で修復されたヴァージョンである。これを見ないわけはないと、早々と試写会場におもむいた。すでに沢山の人が来ていると思いきや、まだ数人しか客がいない。会場へは入れず、ロビーで待つこと30分。開場となり、上階のホールへ移動。オーストラリア大使館の関係者、ときどき大きな催しで見る映画界の著名人などの姿はあるが、意外と場内は閑散としている。幸か不幸か、上映時間が大幅に遅れ、そのあいだに席が半分以上埋まった。生演奏をする「ジェン・アンダーソン&ザ・ラリキンズ」バンド(ジェン・アンダーソン、ダン・ワーナー、デイヴ・イーヴァンス)が、飛行機のキャンセルで昨日到着できず、さきほど空港に到着したばかりなのだった。しかし、チューンアップをするあいだ、フィルムセンターの主任・岡島尚志氏が、このフィルムの経緯についての興味深いエピソードをまじえた説明があり、あきることはなかった。
◆演奏とボーカルは、ロック、フォーク、カントリーの入り混じったどちらかというと「田舎臭い」ものだったが、映画の舞台は、最後は田舎の葡萄園に行くところで終わるが、主に都市(シドニーのウルムル Woolloomooloo地区)である。だから、わたしは、ときどき、演奏なしで見て見たいという気持ちに襲われたが、ただし、この映画にはどこか醒めたところがあり、この映画に音楽をつけるのは、かなり難しいかもしれない。ときどき出る字幕が、ドラマに対して冷ややかであり、タイトルの通り「センチメンタル」に流れる登場人物たちを冷笑しているところがある。いや、冷笑というと言い過ぎだ。映画のなかで次々に展開される、センチメンタルなドラマを、トーキーなら、ナレーションで相対化するような操作を、字幕と俳優自身がちらりと見せる二重化によって、ある種、諧謔的な笑いをさそうのだ。言い換えれば、全編にわたってブレヒト的な「異化効果」が仕掛けれているとも言える。
◆賭博にはまってブタ箱行きとなるビル(アーサー・トーチャー)は、出所して、工場で働く女性ドリーン(ロッティ・ライエル)に会い、一目惚する。最初は相手にされないが、しぶしぶ受け入れられたかと思うと、そこにハンサム男があらわれ、ビルはやきもきする。それからいろいろあった末、ビルとドリーンは、結婚することになり、ビルは彼女の母に会う。ドリーンの家は裕福だったが、父親が死んだので、彼女は働きに出ることになった。すべてが、ありがちなドラマなのだが、それをつねにやや冷笑的に見ている目がある。人生ってこんなもんさ、と言っているようであり、同時に、映画なんてみなこういうセンチメンタルなドラマの繰り返しだよ、と今日もくりかえされている娯楽映画のパターンを見透かしているようなところもある。
◆字幕は、当時の街言葉を表記しており、そのニュアンスを訳すのは、難しいかもしれない。その字幕の雰囲気(わたしには、よくわからない文字もあるので)次回は、音楽なしで見て見たい。
◆家のなかがセピアで、外の場面になるとブルーというように、場面場面で、画面の色が変わるには、当時のスタイルらしい。いま見ても、なかなか凝っている。
(フィルムセンター第1 大ホール)
リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い) メール: tetsuo@cinemanote.jp シネマノート