粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-11-21_2

●酒井家のしあわせ (Sakaike no shiawase/2006/Kure Miho)(呉美保)

Sakaike no shiawase
◆家族というのは、いつもごたごたし、喧嘩がたえないのが「普通」とういう認識で酒井家をえがいているのはいいが、ユースケの「男と暮らす」宣言は、拍子抜け。最後の種明かしで、「そうだったのか!」と納得の解放感を味わわせるのならまだしも、そんな程度のこと、しかもかあちゃんがすべてお見通しだったというのでは、観客をばかにしている。
◆テレビと映画とがちがうとすれば、これは、テレビで十分の作品。
◆ファニーな感じはあるが、ものたりない。大阪弁でまくしたてる友近の母親役は、板につきすぎている感じ。ま、テレビのりというか。この映画で一番の注目は、酒井家の末娘を演じる鍋本凪々美(なべもとなおみ)。天才的な子役だ。
◆もっと細かいところで評価しなければならないのだろうが、家庭ものは苦手なので、これでパス。自分で見て、判断してください。そんなに悪い作品ではない。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)



2006-11-21_1

●硫黄島からの手紙 (Letters from Iwo Jima/2006/Clint Eastwood)(クリント・イーストウッド)

Letters from Iwo Jima
◆11月13日の「完成披露試写会」を見送って、社内試写に来た。13日は、ブリュッセルとリモート・セッションがあり、離れ業の一日だった。「完成披露試写会」には楽しいお祭り気分があるが、映画を見る環境としては必ずしもよくない。このワーナー試写室のような最良の設備の試写室なら、丸の内ピカデリーのような大劇場より小ぶりのスクリーンでも、環境的にははるかにいい。「完成披露試写会」の場合、(13日にはなかったが)監督や俳優の挨拶があったり、かなりの待ち時間があったりする。これも、良し悪しだが、外国映画の関係者の場合、司会者の低俗な質問(司会者が低俗でなくても、そうなりがちなのはなぜ?)や黒船到来以来変わらないかのような儀式的な花束贈呈や「フォトセッション」に、彼や彼女が耐えている姿を見るのがたまらない。もっとも、クリント・イーストウッドなら、慣れているからそんな素振りも見せないだろう。彼は、まだいまのような偉大な監督になるまえに来日したことがある。連続テレビシリーズの「ローハイド」の役者としてである。そのとき、記者会見で、吹き替え役の山田康雄に向ってイーストウッドは、「俺が口パクやるから、適当に日本語をしゃべってよ」と言って笑わせたという。わたしは、当時、その話を新聞か週刊誌で読んだ。
◆この映画は、硫黄島に「硫黄島協会」の職員たちが上陸し、洞窟の砂地のなかから幾束かの手紙を発見し、その手紙の内容によってその後のシーンが組み立てられているという体裁をとっている。そのような手紙がいつ出土したのかはわからないが、そうした手紙からこの映画で描かれているようなドラマが判明したというのは、フィクションだと思う。映画のなかで、栗林忠道中将(渡辺謙)が、家族に宛てて書いている手紙は、その10数年まえに彼が研修中のアメリカから息子に送った手紙や硫黄島と本土との連絡が途絶する以前に家族へ宛てた手紙(『「玉砕総指揮官」の絵手紙』、小学館、『栗林忠道硫黄島からの手紙』、文藝春秋社などに収録)と重複するように見える。むろん、そんなことはどうでもいい。イーストウッドは、硫黄島の戦闘から浮かび上がる「軍事文化」の違いを、どちらかに荷担することなく、鋭利に見据えている。
◆命令の厳守は、日本軍においてだけでなく、アメリカ軍においても同じだ。しかし、その命令に「精神性」がまといつき、命令される兵士が「理不尽」な思いをしなければならなかった(そして、「理不尽」な死さえ受け入れなければならなかった)度合いは、確実に戦前戦中の日本軍においてより強かった。この映画のなかには、上官(坂東工?)が徴兵でやってきた一平卒の西郷(二宮和也)らを何かというと殴りつけるシーンが出てくる。命令を守らなかったために憲兵の士官から「生きては帰れない」ことがわかっている硫黄島に配属された清水(加瀬亮)の例もある。
◆しかし、イーストウッドは、もっと重要な違いに注目する。それは、「玉砕」の思想である。それをこの映画で主導的に体現するのが、中村獅童演じる伊藤中尉だが、イーストウッドの解釈は、硫黄島で日本軍が、信じられないような兵力の格差にもかかわらず米軍が予測した5日をひと月以上うわまわる期間もちこたえることができたのは、総指揮官である栗林忠道が、「玉砕」という思想に対して距離を置くことができたからだというものだ。
◆それにしても、この映画での中村獅童の役どころはさえない。彼のツキが落ち始めるのは、不倫の「一般人女性」を同乗させた車での事故以来だが、この映画は、それを加速させかねない。そういう役どころなのだから仕方がないが、彼の俳優キャリアにとって、あまり得ではなかったのではないか?
◆負けると決まったら「玉砕」してしまう日本軍。それは、映画のなかで「再現」されるが、神聖さなどとはほど遠い悲惨な集団「殺人」である。しかもそれを「自発的」であるかのようにさせるのだから、残酷だ。手榴弾をヘルメットにぶっつけて文字通り「玉砕」するわけだ。が、アメリカ的発想からすれば、これほど「無駄」なことはない。それは、兵士への仕置きの暴力も同様だ。限られた兵力を最大限に発揮するためには、兵士に傷を負わしたりするのは「損」であり、まして「玉砕」などもってのほかである。
◆とはいえ、「玉砕総指揮官」(前述の本で括弧が付されているのが意味深い)と呼ばれることでもわかるように、栗林忠道も最後は「玉砕」したことになっている。が、はたしてそうだろうか? 闘う力を奪われたときにアメリカ兵であれば、投降するのがあたりまえである。アメリカの生活を知っている栗林は、もし彼が一平卒であったら、そうしたかもしれない。が、日本軍の思想に染まっていた――というより、総指揮官としてその深部に食い込むコミットメントしていた彼としては、頭では知っていても、自分から進んでそうすることはできなかった。映画は、このあたりの微妙な感じをさりげなく描いている。
◆このことは、1932年のオリンピックで馬術競技の金メダルを取り、世界を知っている「西男爵」(実在の西竹一のことらしいが、プレスの記述では「バロン西」になっている。これでは何のことかわからない。日本語では「バロン」と「男爵」はすぐにはつながらないから)の場合も同じだ。映画では、体罰主義の軍文化に対して持つ彼の違和感が微妙に描かれている。
◆さまざまな角度からの「軍事文化論」であることがこの映画を、ただの戦争映画から区別している。
◆外国が日本や日本人を描くときにありがちなステレオパターン化は、かなり回避されている。『ラストサムライ』も、けっこうちゃんとやっていたが、こちらはもうワン・ランク上。しかし、パン屋を営む西郷の妻花子(裕木奈江)の、アップで映る目にマスカラ(?)が見えるのは、ヘン。戦時中にそんな余裕はなかった。また、西郷に赤紙が来たとき、「愛国婦人会」と書かれたタスキをかけた奥さん連の姿が見えるが、筆で書かれているその文字のタッチが、つたなすぎる。当時の筆書きの能力は、庶民レベルでもいまにくらべれば相当なもので、こんなにつたない文字を書く人は少なかった。まあ、そういう人がいたという設定と考えれば、それでもいいのだが、特にその下手さかげんを見せつける必要なない。
◆『父親たちの星条旗』同様、ガンエフェクトは、すごい。納富貴久男さんのようなプロならば、その詳細を分析できるだろうが、素人目でも、個々の銃火器や爆発状況で工夫がこらされていることがわかる。
◆わたしは、この映画で表現される「玉砕」への異議に興味を持ったが、それがメインテーマになっているわけではない。たまたま、わたしがその点に興味を持ったにすぎない。が、玉砕の問題は、最近また話題になっている「いじめ」の問題、自殺率の高さ、自嘲や見栄や面子の文化、あきらめや散ることの美学、などなどと相互関係を持っていると思う。アメリカ的民主主義(むろんタテマエであれ)の観点からすると、「玉砕」は「犯罪」である。同様に、「いじめ」も」「犯罪」とみなされるだろう。日本でも、いま、「いじめ」を「犯罪」とみなそうとする観点が出ているが、その背景には、日本社会の「アメリカ化」という問題もある。
◆『国際諜報局』(The Ipcress File/1965)のなかに、ハリー・パーマー(マイケル・ケイン)の上司ロス大佐(ガイ・ドールマン)が、新しく出来たらしいロンドンのスーパーマーケットで、「こういうのはちょっとね」的な不満を言うシーンがあったが、1960年代のヨーロッパでもまだ徐々に浸透しはじめたばかりだった。日本だって、1964年がその大きな転機である。しかし、いまではあたりまえになってしまったこうした「アメリカ化」の一枚下の層には、さまざま「伝統」のよどみがある。それは、日本の場合、ヨーロッパよりもより深刻な形で矛盾を生み出しているように思う。その「よどみ」のなかには、「玉砕」を美とする発想や、「いじめ」がある主のユーモアの表現形式でもあったりする文化があり、そう簡単には、「玉砕」・「いじめ」→犯罪というわけにはいかない。
◆自殺に関しても、現にいまでも、「自殺」という代わりに「自死」という表現をよしとする傾向があり、「自死」は、殺人とはみなされにくい。話が、やっかいなところへ行った。「ノート」としては長すぎる。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2006-11-16

●約束の旅路 (Va, vis et deviens/2005/Radu Mihaileanu)(ラディ・ミヘイレアニュ)

Va, vis et deviens
◆この映画の主人公シュロモ(幼年時代=モシェ・アガザイ、少年時代=モシェ・アベベ、青年時代=シラク・M・サババ)とその母親は、キリスト教のエチオピア人だが、内紛が続くエチオピアから、旱魃や飢餓を逃れて、隣国のスーダンに徒歩で避難して来た。しかし、民族浄化と内紛の激化するスーダンの難民キャンプは、避難地とは程遠いものだった。そこには、アフリカの各地からやって来た避難民がおり、エチオピアのユダヤ人とみなされている「ファラシャ」の一団もいた。イスラム教徒でもキリスト教徒でもない彼や彼女らは、エチオピアではよそ者あつかいされ、中東でのイスラエルの強権的な姿勢の強まりとともに、エチオピアで「ユダヤ人」として生活することは、安全ではなかった。
◆シュロモと彼の母親がどのくらいスーダンの難民キャンプにいたかはわからないが、1984年、彼の運命を変える出来事が起きた。イスラエルが、情報機関モサドを使ってスーダンのファラシャの「救出」作戦(「出エジプト」にならって「モーゼ作戦」と呼ばれる)を始めたのだ。つまり、「ファラシャ」であれば、スーダンからイスラエルに移送され、イスラエル人としての生活が送れる可能性が生まれたのである。シェロモの母親は、自分はだめでも子供だけでも生き延びさせたいという願いから、このチャンスを利用する決心をする。彼女は、子供を少しまえにキャンプで死なせてしまったファラシャの女にシュロモを預け、難民キャンプのどん底生活から脱出させる。わけがわからぬままにキャンプを離れたシュロモの意識には、心を鬼にして彼を「追い払い」、見送る母親の姿がずっと焼きついている。映画は、「脱出」先のイスラエルで彼がすごす幼年時代から、結婚する青年時代までを描く。
◆ユダヤ人といっても色々で、東ヨーロッパのユダヤ人は「アシュケナジ」、いずれもパレスチナを出てイベリア半島に定住したユダヤ人は「セファルディ」と呼ばれる。この映画は、エチオピアのユダヤ人「ファラシャ」をあつかっているが、実際のところ、「ファラシャ」がユダヤ人なのかどうかは議論がわかれる。いま「ユダヤ人」を、ユダヤ教の信仰者ないしは、ユダヤ教的戒律を日常生活のなんらかの規範にしている者たちのことを意味するとすれば、ファラシャは、ユダヤ人ではない。彼や彼女らが「ユダヤ人」であるという決定は、極めて政治的なものだった。イスラエルの「モーゼ作戦」は、中東での覇権拡張の一環であったが、ファラシャがユダヤ人である根拠は、「ソロモン王とシバの女王の子孫」だというもので、どう見ても人種差別的・血統主義的である。
◆イスラエルに着き、やがてシュロモは、同年代の息子と娘のいるイスラエル人の家に養子として引き取られる。ヨラム(ロシュディ・ゼム)とヤエル(ヤエル・アベカシス)の夫婦、ヨラムの父は、みな、シオニスト的なイスラエルには反対の「左翼」で、民族主義的な偏見のない人々だった。ヤエルは、非常にリベラルで正義感にあふれた「義母」として、映画を見る者の心を打つが、のちに、「あなたを養子にすると夫が言ったとき、内心抵抗があった」とシュロモに告白する。それは、わけへだてなくシュロモを育てたヤエルのその平静な表情の奥にいかほどの苦労や悩みがあったかを思わせ、二重の感動を呼ぶ。むろん、それは、ヤエルを演じるヤエル・アベカシスの演技のすばらしさのおかげでもある。
◆本来キリスト教徒であった主人公シュロモが、イスラエルの生活のなかで「ユダヤ人」としての二重生活をしなければならなくなる屈折、それを克服する過程、国がどこであれ、「国民」となったときの、自分と国家との関係、そして「肉親」とは、育ての親とは・・・イスラエルのなかでシュロモをの義母や義父たちのような「左翼」(映画では「左派」という訳語をあたえていたが、彼や彼女らは、はっきりとした「反体制」の立場を抜いている――日本語では、しばしば「左翼」と言うべきところを「左派」というようなマイルドな表現を好むが、それは、この映画の登場人物の姿勢――「左」だあることが難しい国家のなかであえてそれを公言しているのだから――に対して失礼であろう)。
◆原題の"Va, vis et deviens" は、直訳すると、「行き、生き、そして成りなさい」。これは、スーダンの難民キャンプで、ファラシャの女性といっしょに行き、「もどってこないのよ!」シャロモに向って母親が言うときの言葉である。親は、ときには、生き、成長させるために子を捨てなければならないときもある。
(松竹試写室/カフェグルーヴ)



2006-11-14_2

●007・カジノ・ロワイヤル (Casino Royale/2006/Martin Cmbell)(マーチン・キャンベル )

Casino Royale
◆最近、サロンパスルーブル丸の内での試写が多いような気がする。一か所が立て続けに使われるという傾向はどこから来るのだろうか? この日、かなり早く行ったが、すでに一階のエレベータホールの段階でかなりの人。劇場のある7階から階段に長い列が出来ているのはわかるが、このビルは、階段に直接入れる入口がわからないので、まずエレベータに乗って7階の劇場に行き、それから階段にならばなければならない。が、この日は最後列が、開場40分まえで地下2階まで延びていた。
◆フィルム・ノワール的なオシャレで緊迫感のある映像。一時代まえから引き継いできた「007」シリーズのエンターテインメント・スタイルを完全に脱皮した新しさ。仲間や恋人の背信と裏切りのタイミング、裏切りと見えながら、最後に明かされる真実といったひねりの魅力。
◆007シリーズは、いまではイアン・フレミングの原作であることも忘れられそうだが、原作の『カジノ・ロワイヤル』こそが、ジェイムズ・ボンド・シリーズの第一作で、ここで、敵を自分の判断で殺せる「殺しの番号007」を得るプロセスが明かされるわけである。だから、この原作は非常に重要なのだが、その「映画化」は、屈折したものになった。『007/カジノ・ロワイヤル』(Casino Royale/1967)というタイトルで知られているジョン・ヒューストン、ケネス・ヒューズ、ヴァル・ゲスト、ロバート・パリッシュ、ジョゼフ・マクグラスの共同演出による映画化は、原作をほとんど無視したパロディ作品であり、ピーター・セラーズ、オーソン・ウェルズ、ウディ・アレンのような異色の出演者やファッションの面白さはあっても、007ものとしては、がっくり来るような作品だった。その意味で、今回のマーチン・キャンベル版は、映画化第1作の『007は殺しの番号』(Dr. No/1962/Terence Young)から数えて44年目にしてやっと原作の映画化となったわけである。
◆ただし、この映画は、原作の時代や、他の007シリーズとの関係をほとんど意識してはいない。ケータイが出てくるから時代設定は「現代」ということになるが、これまでのシリーズが暗黙に「冷戦」や「テロ」といったステレオタイプの「政治」を意識してきた(そこが面白いのが)ような意味では、「政治」を意識しない作りになっている。『ロシアより愛をこめて』(From Russia with Love/1963)ではすでに定番となった新兵器も今回は出てこない。それよりも、ジェイムズ・ボンドという人物をこれまでのシリーズよりもその「人間性」に肉薄して描こうとしている。ボンドは、ここでも不死身だが、「サイボーグ」的な不死身さで防御されてはいない。クリス・コーネルのテーマソング「You Know My Name」にあるように、誰も助けてなんてくれないから、自分で身を守る (Arm yourself because no-one else here will save you) 必要性から出た武装なのだ。
◆その意味では、この映画で6代目のボンド(ダニエル・クレイグ)が「死の商人」ル・シッフル(マッツ・ミケルセン)から受ける拷問は、他のどのシリーズでボンドが受けた拷問や攻撃よりも痛そうである。また、「ボンドガール」と呼ぶには今回ためらいのある――それだけ「自然」な――ヴェスパー・リンド(エヴァ・グリーン)が、恐怖と絶望の淵に陥ったとき、彼女をなぐさめ(といっても、自分が相手を包容できるほど安全な位置にはいない)、冷たい水のシャワーの下にうずくまる彼女を抱くシーンがせつない。
◆非情な、神経が高ぶると目から血の涙が出てくる(しかし血も涙もない?)悪役ル・シッフルを演じるのは、『しあわせな孤独』で全く対照的なキャラクターを演じていたマッツ・ミケルセン。
◆新ボンドのダニエル・クレイグは、『ミュンヘン』や『ジャケット』の脇役で注目され、『レイヤー・ケーキ』(Layer Cake/2004/Matew Vaughn)で主役をつかみ、この作品につながるように見えるが、彼がこの映画のキャラクターとも一脈通じる主役を演じた『レイヤー・ケーキ』は、2004年の作品で、日本では、公開が『ミュンヘン』や『ジャケット』と前後した。
◆『レイヤー・ケーキ』は、5月に見たが、ノートを完成しないままになっている。非常に面白く見たし、好きな作品だったが、こういう場合にかぎってノートを後回しにしがちだ。こちらは、ボンドのようにタフな設定にはなっていないが、性格的にはどこか共通するものがある。
◆M役のジュディー・デンチは、最近見た『華麗なる恋の舞台』(こちらは2004年の作品だが)よりもぐっとしまった色気のあるシニアー・ウーマンを演じている。
◆出てくるコンピュータは、みなVAIO。製作会社の一つのColumbia Picturesは、SONYの傘下だから、当然といえば当然だ。
(サロンパスルーブル丸の内/ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント)


2006-11-14_1

●犬神家の一族 (Inugami-ke no ichizoku/2006/Ichgikawa Kon)(市川崑)

Inugami-ke no ichizoku
◆いま「犬上家」ものをリメイクする意義がわからない。むろん、それは、この作品の出来次第で、これがハッとさせる出来だったら、そんな疑問は浮かばないだろう。残念ながら、ここには、リメイクの意味も、市川崑監督がわざわざ登場する意味もないような気がする。
◆遺産相続の問題は、原作が発表された時代よりも、また映画化ブームが起きた時代よりも、いまはもっとどぎつくなっている。が、その代わり、さまざまな法的装置のために、この物語・映画で描かれるような「ずさん」な環境が設定される余地がない。このへんが、いま見る「犬神家」ものを「恐く」感じさせない要因の1つではないか?
◆1970年代後半から横溝正史の「犬上家」ものが続々映画化され、角川書店で見立つカラーの装丁の文庫本が出て、わたしもその何冊かを読んだ。映画の方が先だったのだが、その文章の冗長さかげんに驚き、なるほど、こういう作品が映画化には向いているのだなと思った。つまり、横溝の作品は、原作よりも映画の方がいいのである。
◆しかし、今回ふたたび起用された石坂浩二が金田一耕助役をやっている篇だけでも5本もあるほどに、横溝の「犬上家」ものの世界は、もうほとんど出つくした。それと、70~80年代ならば、まだ血縁的などろどろしたものへの実感ようようなものが残っていたかもしれないが、いまでは、よほどの工夫をしないと、一族郎党のしがらみのようなもののすごさやおどろおどろしさは実感させにくい。
◆この映画がダメだと思ったのは、東京から駆けつけてきて「那須ホテル」にたどりついた金田一耕助(石坂浩二)が、例によってぼさぼさの髪をかくと、頭からぽとぽととフケが落ちるのだが、そのフケがぜんぜんフケらしくないことだ。糞リアリズムの必要はないが、明らかにフケとは異なる物質を映像化するのならば、それなりの「理論」がななければならないだろう。その「デフォルメ」に見あった映像展開がなされなければならないだろう。が、事実は、フケにみたてた適当な物質で間に合わせた映像なのである。
◆助清(尾上菊之助)がかぶっている「白いゴム」のマスクにしても、多少とも物語の時代を意識するのなら、こんなに「出来のいい」ものでは困る。手に取って見たわけではないが、映画で使われたのは、本当に「ゴム」製だろうか? けっこう高価な特殊プラスチック製ではないのか?
◆いま『犬神家の一族』をリメイクするのなら、テレビでさんざん風化してしまった顔を使うべきではない。三谷幸喜と中村敦夫の顔を見てそう思ったのだが、本当はそんなことではないだろう。テレビで見慣れた顔を使っても、そうでなくする演出はできるだろう。だが、この映画では、それほどテレビで見慣れた顔ではない俳優の顔までが、みんなテレビで見飽きた顔に見えてしまうのだ。
(東宝試写室/東宝)



2006-11-08

●ラッキーナンバー7 (Lucky Number Slevin)(ポール・マクギガン)


◆映画美学校は映画の学校だが、その試写室は、あまりよくない。フットライトが明るく、通路側の席にすわると、その光りにじゃまされる。どのみち、映画に引き込まれれば、そんなことは忘れてしまうのだが、最初はしばらく、気になる。非常口を指示するライトも、工夫して目立たないようにしているところもあるのだから、何とかしてほしい。
◆作品は、文句なしに面白い。俳優は、あるとき、飛躍的な高みに達してスターになるが、この映画ではジョシュ・ハートネットがまさにその幸運をつかんだ。この映画は、彼の大ブレーク作となるだろう。彼をサポートするブルース・ウィリスは、ますます渋みを加え、かつてのゲイリー・クーパーやケリー・グラントやリチャード・ウィドマーク・・・の域に近づいている(→)。ルーシー・リューも実にファニーでチャーミングな感じの役柄を演じ、ハート・ネットをサポートする。モーガン・フリーマンとベン・キングスレーは、もとは一緒に悪事を働いていたが、いまは敵同士の関係になり、ストリートを隔てた似たようなビルのペントハウスに住んで、にらみ合っている。ベンは「ラビ」という名で呼ばれ、モーガンは、「ボス」と呼ばれるが、手下の者たちの方も、一方がユダヤ系、他方がアフリカン・アメリカンで統一されている。
◆映像がおしゃれだ。トップクレジットは、会計簿のページなのだが、その文字が動いて、クレジットになる。やがて、この会計簿が、この映画のドラマの核心にあることが明らかになる。「ラビ」と「ボス」の2つのビルを映すのに、カメラを巨大なアングルに載せてぐるりと回したようなやり方をする。むろん、CGの処理なのだろうが、CGらしさを感じさせない。やたら人が殺されるが、その血潮のエフェクトも新鮮だ。
◆ヤクザの掟の絶対性のようなものが1本の線としてあり、それに、カタギの浮かばれない人生がからむ。一匹狼の殺し屋は、ヤクザの掟に忠実だが、非情なはずの彼がカタギの弱者を救ってしまう。全体にこの映画は、働いても運がなく、競馬の賭けに手を出して、墓穴をほってしまう(いまの日本の「標準」になりつつある認識論では)「下流の負け組」への目配りがある。この映画ではヤクザの怪しい金がその弱者を破滅に追いやったのだが、いまの日本でも、サラ金や銀行やケータイの電話料まで、弱者を借り倒れに追いつめる。ヤクザの殺し屋に殺されなくても、生命保険で肩代わりにするしかないという認識で自殺する者がいるわけだから、金融システムそのものが、殺人と手をとりあって成り立つような仕組みになっている。だから、「下流の負け組」は、外と内なる殺し屋の目を逃れて生きるしかないわけだ。この映画も、そんな競争資本主義の谷間のエピソード。
(映画美学校第1試写室/アートポート)


2006-11-07

●華麗なる恋の舞台で (Being Julia/2004/István Szabó)(イシュトヴァン・サボー)

Being Julia
◆演劇を映画化したのではなく、映画で「演劇」を作りあげた。その楽しみは、演劇のそれに似ているが、この「演劇」は、映画でしか体験不可能なものなのだ。
◆イシュトヴァン・サボーは、俳優やスパイに関心を持つが、彼の関心は「仮面性」である。俳優もスパイも仮面をかぶる。この映画には、『メフィスト』に見られたようなはっきりした政治的テーマは出てこないが、ドラマの時間が、1938年に設定されているのが暗示的である。ヒットラーの台頭によってヨーロッパに危機意識が高まり、前年のイギリスでは、チェンバレンの挙国一致内閣が成立、1938年には、ズーデン地方の問題をめぐってミュンヘンでイギリス、フランス、ドイツ(ヒットラー)間の会談が行なわれた。以後、ヨーロッパ(というより世界)は、第2次世界大戦に突入していくわけである。
◆この映画が描く世界は、1938年のイギリスおよびヨーロッパの「虚構」的状況を意識しているのだろうか? 表面的には、そういう政治的含みはあらわにはされない。とはいえ、どの国でも、時代時代によって、「嘘っぽさ」や「虚構性」が社会の気分になるときがある。いわば、虚構の場である劇場と現実の場とがひっくりかえり、劇場のなかにしか「現実性」を感じられなくなる。そういう意味では、1938年のイギリスの政治状況は、まさに「劇場」であったと言えなくもない。
◆原作は、サマセット・モームの『劇場』(1937)。モームは、スパイの仕事をしていたことがあったが、彼の小説には、シニカルな要素がある。ある種の「仮面性」が彼の小説の要素とスパイスになっている。そんなところが、サボーと波長が合う。
◆その昔、サマセット・モームは、受験英語の問題によく出たので、モームの英文はかなり読まされた。いまのボジョレ・ヌーヴォーと同じで、モームのポピュラリティが日本でとりわけ傑出していた。さんざん読まされながら大半は忘れてしまった作品で、タイトルは忘れたが、息子が好きな女性を家に連れてきて、夕食をいっしょに食べたあと、その女性が食器を台所に片付けると、息子の母親が、そういうことをするのは下流の生まれだと軽蔑しながら、言葉にはあらわさないというくだりがあった。モームは、ここで、ミドルクラスの母親の差別意識とそれを表にはあらわさない仮面的姿勢を見事にえがいていた。
◆冒頭、マイケル・ガンボンが登場し、画面に向って話しかける。劇場の外に現実があるのではなく、劇場だけが現実なのだ、と。むろん、それは、俳優にとってだ。ガンボンの目がこちらを向いているので、「アサイド」かと思ったら、カメラが引くと、舞台で演技する若い娘がいた。それは、いまでは大女優になったジュリア(アネット・ベニング)の回想ないしは過去意識の表出で、ガンボンが演じているアクの強い男は、いまは亡き師ジミー・ラングトンなのだった。彼は、『ボギー!俺も男だ』でウディ・アレンを励ましたり、いさめたりする「ハンフリー・ボガード」のように、くり返し姿をあらわす。
◆スランプ気味のジュリアのまえに、彼女の息子歳のアメリカ人の青年トム(ショーン・エヴァンス)が登場し、意外なほど簡単に彼女が夢中になってしまうが、その風貌とものごしを見れば、観客は「こいつは」と思う。屈折のすえ、誰もが予想したような方向におさまるのだが、このへんは、ヨーロッパ人の「アメリカ人」差別のようなところを感じる。
◆役者にとって、劇場がすべてであるのはあたりまえで、ジュリアの「日常的」行為は、トムとの恋も、夫マイケル(ジェレミー・アイアンズ)や親友チャールズ卿(ブルース・グリーヌッド)とのやりとりも、すべて「虚構」なのだ。ジュリアは、終始、彼のまなざしのもとで舞台演技をし、また、(映画のなかの)「日常」を生きる。トムや、『イヴのすべて』のイヴのようにジュリアを越えたと慢心するエイヴィス(ルーシー・パンチ)は、「劇場」の外の「現実」にこだわっていたために、痛い目にあう。
◆「わたしには、ほとんど友達がいない」(I have few frend)がジュリアの口癖。創造的な仕事をしていると、「いるのは、友人ではなく知人だけ」ということになりがち。なぜなら、創造的であるためには、「自分」をいくつ(幾人)にも割らなければならないからだ。いくつもの「分身」との共同作業をなしとげ、ほっとするときのみ、一個の「自分」にもどる。この映画の終わりの方で、ジュリアが行きつけのレストランで一人うまそうにビールを飲みほすシーンは、多少なりとも創造的な仕事にかかわった者は、共感をおぼえるだろう。締めのヴォーカルに「煙が目にしみる」を使っているのよかった。ジェローム・カーンの歌詞は――恋人にふられて涙を流しているのをからかわれたら、「愛の炎が消えて、タバコの煙が目にしみるのよ」と笑って言うわ――と屈折している。
◆役者は、みな達者。わたしは、楽屋でジュリアの身の回りの世話をするエヴィ(ジュリエット・スティーヴンソン)が気にいった。
(松竹試写室/アルシネテラン)



2006-11-01

●王の男 (Wang-ui namja/The King and the Clown/Jun-ik Lee)(イ・ジュンイク)

The King and the Clown
◆この試写室の座席は、ゆったりとして大きく、隣との間隔もたっぷりとってあるが、身体を動かすと、イスに張ってある人工レザー(?)がギシギシ音をたてる。待っているあいだは、その音が気になる。しかし、この映画は、そんな瑣末で神経症的なことを吹っ飛ばすに十分な傑作だった。
◆冒頭、絵巻に描かれた民衆の姿を写し、その絵が融解して広場の大道芸シーンに入っていくのが見事だ。この最初のシーンと、末尾の、民衆が大挙して王宮を襲撃するシーンとともに、この映画の視座は、民衆に置かれている。しかし、享楽にふけり、わがまま三味をする王ヨンサングン(チョン・ジョニン)は、単なる暴君ではない。彼が、「偉大」な父の地位を継いだ息子が陥りがちな屈折と苦悩の持ち主であることをも鋭く描く。この王の一見放埒(ほうらつ)な日々は、その語の本来の意味のデカダンスであり、それは、まさに、ルキノ・ヴィスコンティが『ルートヴィッヒ』で描いたものと通底している。
◆大道芸の見せ物をいつも2人でやっている、どちらかといえば「男っぽい」チャンセン(カム・ウソン)と女形を演じるコンギル(イ・ジュンギ)が、カップルであるのかどうかはわからない。が、彼らの芸を大道で目にした大臣にすすめられて王ヨンサングン(チョン・ジョンニ)のまえで芸を見せたことがきっかけで、王は急速にコンギルに接近すると、チャンセンは、露骨に敵意をあらわにした。絶対的な権力者の寵愛(というより強制)とチャンセンとのあいだで苦しむコンギル、すべてが不当であることを知らないではないがどんどん理不尽な要求を強制することにのめり込んでしまう王ヨンサングン、目立つがゆえにいつも釘を打たれるチャンセン、こうした三者が、そのそれぞれのイディオシンクラシーのなかで描かれる。
◆保身にあけくれる官僚への王の反発という側面もある。大臣が、チャンセンとコンギルを王宮に招いたのは、彼らが仲間たちといっしょに大道でやっていた「風刺劇」が、官僚と王に反省をもたらすのではないかというねらいがあった。
◆王と庶民が登場するが、ここでは、勧善懲悪ものが描くような王=暴君、民衆=抑圧される者といったステレオタイプ的な構図はなりたたない。王も官僚も民衆も、それぞれがその「運命」のなかで生きている。そうしたギリシャ悲劇的な「運命」のなかで、チャンセンとコンギルという大道芸人は、まさに、たびたび見せる綱渡りのように、「運命」と「自由」とのあいだの細い境界線の上を自在に歩く。
◆政治論的なパラダイムもある。大道芸人が、結果的に民衆蜂起(→【追記参照】)を先導するくだりは、ある意味で、民衆文化が民衆蜂起と社会変革をリードするという、アナルコ・サンディカリズム的な発想にも通じている。そもそも、個々人がミクロな個の「集団」として分子化され、当の古典的な「個人」はたがいに孤立・分散化させられている現代では、こうした民衆主義は発生しにくい。すでにグラムシは、アナルコ・サンディカリズムを継承しながら、そこに「教育」(国家や権力側からのではない)というファクターを入れ、この映画のタームを使うなら、「大道芸」を文化運動、「大道芸人」を文化活動家として、「大道芸」→文化変革という構想をいだいた。しかし、これも、いまでは、フランクフルト学派の名づけた「文化産業」という形でとりこまれ、さらには、メディアと環境とが一体となった網の目的でシームレスなコントロールシステムとして、ほとんど無意味なものになった。
◆その意味では、この映画が描く政治論的パラダイムは、歴史的回顧にすぎない。しかし、この映画をモナドロジー的に(ということは、分子化された「個」を問題にすること)拡大解釈するならば、この映画は、あなた自身のなかにある「王」と「チャンセン」と「コンギル」を発見させる。その際、つねにあなたが対抗すべきなのは、分子化された個を、その「運命」にさからって単に再統合(均質化)しようとする官僚主義である。むろん、分子化されたあなたのなかには、「王」や「チャンセン」と「コンギル」だけでなく、「官僚」もいる。
◆どこかのブログで、わたしの「シネマノート」は、わたしがつねに一定の思想の側から映画を解釈しているにすぎないというような批判をしていた。それは、逆である。映画が、そういう「思想」にわたしを導いたのであって、わたしのなかにはいかなる「思想」もない。あるとしても、それは、未分化の形としてであり、それが形をなすのは、その映画を見たという体験のおかげなのだ。映画は、ときおり、わたしを「世界の果てまでつれていって」くれるということだ。勝手な妄想や駄弁もお許しねがいたい。
(角川ヘラルド試写室/角川ヘラルド映画)
◆【追記/2006-11-27】齋藤敦子さんによると、字幕に関して、古いプリントでは「王に対する呼称がすべて殿下になっていた」が、「新しいプリントはすべて陛下に直っている」という。彼女は、古いプリントで見て、おかしいと思ったそうだが、わたしは、うっかり見過ごしてしまった。ただし、わたしが考えたのは、王ヨンサングンの部下たちが、先王のカリスマから脱することが出来ず、すでに王になっている「ヨンサングン」を、先王が存命のときに呼んだように「殿下」と呼んでしまい、そのことがヨンサングンの父親コンプレックスを煽り、ますます無頼のかぎりをつくすようになっているのではないかということだった。朝鮮語がわからないので、憶測の域を出ないが、字幕を直したのだから、朝鮮語では、「陛下」と言っていたのだろう。
◆【追記/2006-12-30】このサイトをよく読んでくれている谷合佳代子さんから、わたしが「民衆蜂起」と書いているのは誤りで、正確には「クーデター」と書くべきではないかというメールをもらった。DVDで確認すると、「クーデターの場面で写っているのは制服の軍人(下級兵士?)と、馬に乗った高官です。宮殿に突っ込むシーンでは、職業軍人なのか、もう一ランク上に見える衣装を着た兵士が走っていました。映像的にはどうみても貧しい民衆が蜂起したということではなく、宮廷のクーデターに見えます。ただまあ、写っているのは一瞬です」という。そうだとすれば、わたしが「民衆蜂起」という言葉を使ったのは不適切であったかもしれない。が、わたしが言いたかったのは、「民衆蜂起」対「クーデター」という対立思考ではないので、詳細を別にアップしておく。なお、もう一点、「朝鮮語では王のことを「殿下」(チョナ)と呼びますから、最初の字幕に「殿下」とあったのは間違いではないと思います。でも日本語に訳したときは皇太子の敬称みたいだから、「陛下」に変えたんでしょうね」という貴重な指摘ももらった。多謝。


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