粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-05-22_2

●ブラッド (Rise: Blood Hunter/2007/Sebastian Gutierrez)(セバスチアン・グティエレス)

Rise: Blood Hunter
◆典型的なB級ホラー。わたしは面白く見たが、その魅力の大半をささえているのは、ルーシー・リュー。彼女がいなければ、この映画は全く面白くなかったろう。ルーシー・リューのファンは必見。
◆それにしても、ホラーなのにぞっとするシーンが(わたしには)全くなかった。すべてが(わたしの)日常的・映画的感覚の許容範囲の域を全く出ない。血糊もふんだんに使われ、肉体のあつかい方も、残酷であるはずだが、(わたしには)抵抗なく受け入れられる。わたしの感覚がマヒしているのか?
◆アニタ・オデイのジャズ・ボーカルが聞こえるが、曲解すれば、この映画は、ある意味でサラ・ヴォーン的であるよりもアニタ・オデイ的である。パッションのなかに微妙な隙間があり、ドロドロしてはいないのだ。
◆ヴァンパイア映画のヴァリエイションだが、ヴァンパイア映画につきまとうキリスト教的テーマは見えない。あえてそういうものを発見するとすれば、刑事の父親(マイケル・チクリス)に反抗し、家庭を拒否する娘トリシア(マーゴ・ハーシュマン)がヴァンパイアになることか?
(映画美学校第2試写室/LIBERO)



2007-05-22_1

●ショートバス  (Shortbus/2006/John Cameron Mitchell)(ジョン・キャメロン・ミッチェル)

Shortbus
◆『ヘドヴィグ・アンド・アングリーインチ』のジョン・キャメロン・ミッチェルの5年ぶりの新作なので期待した。残念ながら、前作で示された感覚と時代認識は、大幅に後退した。対立項を失ったポスト・ベルリンの壁世代(あるいはそういう時代に生きる人々)の情念を見事に映像化した前作に比して、ポスト911世代(あるいはそういう時代に生きる人々)が新につかんだものは、全く描かれていない。ひょっとすると、ポスト911人間は、この映画のように、準ファシズム的な集団性にひたって自分をなぐさめるとというなさけない状態に陥っているのだろうか?
◆毎度のことながら、セックスを表現する映画を日本で上映することの虚しさが、この映画の上映からも感じられる。隠す意味など全くないのに、いたるところに出現するボカシ。わたしたちは、依然、検閲が大手を振る国に生きている。
◆60年代のフリーセックス・パーティを再現しているかのようなショートバスというサロンの常連として登場する「元ニューヨーク市市長」トビアス(アラン・マンデル)は、明らかにエドワード・コッチがモデルになっている。
◆最初映像に映る「むつまじい」カップルが、実は、全然そうではなく、女(リー・スックイン)はオルガスムに達するフリをしている (faking orgasm) ことがわかる。その彼女がセックス・セラピーを職業にし、自分たちと似たような患者の質問には、faking orgasmを薦める。自分の世紀をビデオに撮り、自慰でしか性的快楽がえられない男もいる。そうした描写はみな面白い。わたしには、それがセックスであり、それを変えることはないと思う。が、映画は、そこからいわば「コミューン的」な一体感を持ったオルガスムへ向っていく。
◆こういう作品を見ると、70年代に突出したセクシャリティの文化はどこへ行ったのかという気持ちに襲われる。60年代流のフリーセックスのカルチャーには、一体感を高く評価する価値観が根底にあった。しかし、社会の多元化と連動して出てくる「多数性」や「マルチチュード」というコンセプトのなかで突出していたゲイカルチャーの先端部では、ゲイ・セクシャリティというものは、「男性/女性」というセクシャリティを質的に超えるものという認識があった。ここでは、一体感=オルガスムという単純極まりない性概念は瓦解する。性的快楽は、「オルガスム」ではなく、いわば「分子的」な 「ポリモーファス・パーヴァーシティ」(polymorphous perversity)こそが、性的快楽のスタンダードになる。その意味では、セクシャリティは、「ホモ」か「ヘテロ」かではなく、ガタリが言った「ポリセクシャリティ」か否かが問題になる。 ここから下降して、従来の「男性」「女性」というセクシャリティも脱構築されるので、「男」「女」がこの映画のように「乱交」パーティを開いても、そこでこの映画が観客に「感動」を求めるような形で描く「一体感」は生じないし、もし生じるとしたら、そこでは「ポリセクシャリティ」が単なる「モノセクシャリティ」に単純化されているのだ。
◆セクシャリティは、単なる個々人の趣味の問題ではなく、社会性を規定するから、この映画が描く単純で幼稚なセクシャリティがいまアップ・トゥ・デイトなものになっているのだとすると、そこでは、ある種の性的ファシズムが進行していると言わざるをえない。70年代に少しは進化した「ばらばらでもいい」という「知恵」がいま瓦解し、ふたたび「一体感」を求める風潮が強まっているのか?
◆ここでも、911がもたらした「孤立」や「不信」がテーマになっている。映画のなかで起こる停電に、登場人物たちは911の再来を予感し、おびえる。そして、その「不安」が性的コミューンへの指向を強めるのだ。だが、そうだとしたら、まるで911の「陰謀」の思う壺ではないか? 911から学べることは、人はみな孤立しているのであり、信じられないものだということではなくて、孤立し、信じられないと考えれば、昔からそうであり、孤立か連帯か、信じられるかどうか――という基準とは別の基準を求める以外に人間関係は成立しないということである。そんなことは、ベトナム以後みんなわかっていたはずなのに、ブッシュといっしょに、反ブッシュであるはずの人々もいっしょに意識が後退してしまった。
◆上で書いた「ポリモーファス・パーヴァーシティ」(polymorphous perversity)だが、『アメリカン・スプレンダー』のなかで、ハービー・ピーカーと恋人のジョイス・ブラナーの面前で、友人のロバート・クラムが若い女の子におんぶしてもらって喜んでいるのを見て、「polymorphously perverse」と言うシーンがある。ちなみに、わたしが1995年に解説したウエブサイトが Polymorphous Space となっているのは、「polymorphous perversity」のことも意識してのことだった。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2007-05-21

●監督・ばんざい! (Kantoku Banzai!/2007/Kitano Takeshi)(北野武)

Kantoku Banzai!
◆タイミングが悪くて公式では「最終」の試写に飛び込むことになった。30分まえに行ったが、配給の人は誰も来ていなかった。「う~ん」と口をにごす感想を語る人が多いので、配給さんまで投げてしまったのかと一瞬思う。試写室のドアが開いていたので、座って待っていると、しばらくして、列に並んでくださいと言われた。外にでると、けっこう長い列。早く来てもこれじゃいい席は取れないなとがっかりして入場すると、なぜか、みな後方に座り、前の3列はほとんど空いている。前の方を敬遠する大学の教室を思い出しながら、いるも座る席に無事着席。
◆結論的に、わたしは、「売れない3部作」(を作ると北野が言っている)の第1弾『TAKESHI'S』よりも面白く見た。まあねらいがはっきりしている。冒頭、北野武を模したハリボテの「タケシ人形」がMRIのトンネルに入って行き、次にCT、胃カメラ、超音波エコーと次々に診断を受ける。つまり、「北野武」の分身が全身的に診断されるわけだが、それは、あくまでも北野武の分身にすぎないのである。医者が、「今度は本人に来るように言ってくださいね」と医者が言い、イントロを終える。これは、これから展開する「北野武」という「おバカな」映画監督についての言及と分析は、あくまでも北野武の分身についての言及と分析にすぎないという示唆でもある。
◆わざわざそんなことを示唆しておくところが、北野武(この映画の監督)のまじめなところであるが、この映画は、自分に対してまじめすぎることによって出来上がった作品だ。この映画を見ながら、わたしは、先日72才で死んでしまった永川玲二が、『ユリシーズ』の翻訳者として知られていた若き日、文芸誌の座談会で、自分は現代文学のスタイルを知りすぎてしまったので、自分では小説は書けないとカッコいいことを言って、周囲を沈黙させていたのを思い出した。北野は、この映画で、いろんなスタイルを知り尽くしてしまったので、そんなのコ恥ずかしくって作れねぇやいといった顔で、「やくざ映画」、「小津安二郎風人情劇」、「昭和30年代映画」、「ホラー映画」、「ラブ・ストーリー」、「忍者もの」、「SFスペクタル」のパロディ版を次々と披露する。若き永川玲二のようにペダンティックに斜めにかまえて自分では作らないというのではなく、一応作ってしまうところが北野らしいしたたかさである。
◆あり意味で、この映画は、北野武がビートたけしとしてテレビでやっていることと、映画でやっていることとのギャップを埋めたにすぎない。「昭和30年代映画」に北野の幼少時の生活にダブる描写があるように、随所にこれまで彼がやってきたことがしたたかに引用されている。こういう形で彼は、自伝と方法論的整理をしているとも言える。
◆巨匠というのは、あるレベルのものが出来たら、それを反復し、細部を磨きあげて骨董趣味的な鑑識眼からケチをつけられないようにするものだが、北野はそういう巨匠性を拒否し、熟知のものを打ち壊す。それは、ある意味で70年代的「批判理論」の継承者であることを意味するなんていうと彼はテレるだろうから、言い換えれば、要するに70年代的シラケの文化を吸収した者の典型的反応である。自己肯定的なビートたけしなど存在しないが、自己肯定のポーズをとることによって「世界的」となったのが北野武だった。
◆しかし、アンチロマンや批判理論を無意識に体現している北野武=ビートたけしは、このような方法で、自己を批判しつくせるだろうか? というようりも、彼は批判理論の限界を知らない。別に衒学的な言い方で韜晦するつもりはないが、アドルノやベンヤミンの思考は批判理論をこえているかぎりでいまでも有効性を保っている。批判理論でしかなかったハバマスの無残さを見ても、また、シラケを理論化したボードリアールが所詮はその批判の渦巻きを内へ内へと掘り下げて行き、最後にはそれは、ボードリアール節とでも言うべき「心地よい」物語形式になってしまったのを見ても、批判はもはや終わりである。
◆映画のなかで「北野武監督」は、「暴力映画は二度と撮らない」と宣言するが、そう言いながらふとした瞬間に「暴力映画」風になってしまうということを自虐する。しかし、ダメだと言って見本を見せる「小津安二郎風人情劇」、「昭和30年代映画」、「ホラー映画」、「ラブ・ストーリー」、「忍者もの」、「SFスペクタル」のどれよりも、どうひねったとしても、「暴力」をあつかうときが一番面白いのは否定できない。どの道映画は「虚構」なのだから、もう「批判理論」は卒業して、映画の虚構に徹してはどうですかね? これだと、ネタ切れを韜晦しているようにしか見えないよ。
(映画美学校第1試写室/東京テアトル/オフィス北野)



2007-05-16_2

●ベクシル 2077 日本鎖国 (VEXILLE/2007/Sori Fumihiko)(曽利文彦)

VEXILLE
◆京橋から地下鉄で渋谷に急ぐ。ハチ公前って、なんでこんなに人が集まるんだろう? みんなが行くとこにみんなが集まる「みんな主義」はあいかわらず。とはいえ、かく言うわたしも、「みんな」が気にする曽利文彦の新作だというのでこの試写にやってきた。
◆CGは、Autodeskの既成モデルソフトのオンパレードといった感じ。その意味ではそこそこに楽しめるが、すべてのキャラクターが、ひたすら「まじめ」で、冗談の一つも言わない。独占企業が、人間をアンドロイドに改造しようと画策し、それに抵抗する「人間」と、支援するアンドロイドの話だから、深刻があたりまえなのかもしれないが、そういうときこそ、「残酷」な笑いやブラックユーモアが生まれる。そういうものは、この映画からは感じられなかった。そういうものに触れるレベルが欠落し、ただひたすらドンパチに終始している。
◆「ハイテク鎖国」をしいている日本に潜入する国連軍の女性兵士ベクシルの声を担当しているのは黒木メイサだが、おそらく、彼女はモーション・キャプチャーにも参加しているのではないか? というのは、ベクシルは、よくもわるくも黒木メイサだからだ。『カミュなんて知らない』ではおぼつかなかった黒木も、いまや売れ子だ。が、「悪女」を演じてもマジメすぎる彼女の一次元的な演技そのままに、ベクシルの表情と身ぶりは単調だ。しかし、この黒木が、プレスのインタヴューのなかで、面白いことを言っている――「今、みんな街中でメールを打っているけど、嬉しいメールも悲しいメールも、無表情で打ってますよね。それってどこか歪んでいると思う。その歪みが悪化していったら『ベクシル』みたいなことだって起こりうる」。
◆黒木がこう言ったのだとすれば、彼女は、『ベクシル』の事態を、いまのテクノロジーの「歪み」と見ている。しかし、問題は、そういう「歪み」を生み出しているのが、「いまの」テクノロジーかという点だ。テクノロジーが「いま」より後退したことによってそういう「歪み」が出ているのではないか? ケータイ・メールは、コンピュータの本来の可能性を極度に制限している。ユーザーの「無表情」はその結果である。(だから、映画はこの「無表情」の微細な表情を描かなければならないのだが)。
◆曽利文彦は、プレスのインタヴューのなかで、「今のテクノロジーの進歩というのは、知らないうちにひとつのつながりを絶っていく、個人化・孤立化していっている」と言う。だが、それは、「進化」ではない。「個人化・孤立化」は、電子情報テクノロジー以前の機械テクノロジーの本領だった。いまインターネットの世界で起こっているような「個人化・孤立化」は、電子テクノロジーを機械テクノロジーの政治でコントロールしようとするところから生じたゆがみであり、それは、いつかは自己矛盾に陥って、崩壊するはずだ。どんなにプロテクトをかけてもやぶられてしまうネットワーク、うわべだけ「人道的」な見地から抑止されているがかぎりなく「進化」している遺伝子操作や生命の人工的な創造の例を考えればよい。
◆曽利がプロデュースした『APPLESEED アップルシード』でもそうだったが、CGを駆使した(特に日本の)作品は、なぜか、「地球」とか「日本」とか、話の規模が大きくなる。CGは、むしろ、細胞のなかとか、規模の微細な世界を描くときの方がその本領を発揮すると思うのだが、そうはならない。これは、リアリズムへの考え方で腹をくくれないからではないだろうか? CGで微細な皮膚や微妙な表情を出すのは大変だ。だから、そのへんを省略する。動物ものではその点、(動物同士なら「こりゃインチキだよ」というかもしれないが)かなりの省略が可能だから、腹をくくれる。本当は、人形劇でも表情や身ぶりをクソリアリズムで描くわけではなく、相当な省略表現をしているわけだが、それにはしっかりしたリアリズム観が要る。要するに、言いたいのは、この映画の根底にあるリアリズム観(現実をどう知覚し、どう表現するかについてのコンセプト)があいまいなのだ。
◆ちょっと考えてみても、この映画が前提にしているテクノロジーや政治、そして情報についての考えは、遅れているし、基本的にまちがっている。2067年に、日本が「ハイテク鎖国」を開始し、諸外国は日本で何が起こっているかわからなくなるというのだが、そもそも、そんなことができる技術が可能になった時点で「日本」が存在しているかどうかもあやしい。また、ここで言われる「日本」は、情報論的な日本ではなくて、あくまでも情報論以前の地理的な日本にすぎない。安倍首相の「愛国」や「郷土愛」がだめなのは、そこで前提されている「国」や「郷土」が電子情報化時代の脱領土化されたコンセプトではなくて、手で触れば「実感」できると思われている地理的なコンセプトにすぎないからであるが、この映画も、ハイテクというよそおいで身をかためながら、その基本コンセプトが古すぎる。
◆情報的・情報論的な鎖国は、いまの日本がやっていることである。それは、うまくいっていないが、この「鎖国」を映画のイメージにすると、ジョン・カーペンターの『ニューヨーク1997』のSF版になってしまうというでは、映画的に芸がなさすぎる。
◆アンドロイドが作れる技術が登場するという2067年になっても、闘いというと銃撃と殴り合いがメインであるのが理解できない。日本列島から情報が漏れないようにすっぽりシールドをかけてしまうような技術があれば、電子的な方法で「人間」やアンドロイドの動きを止めてしまうことも可能なはずであり、その方が爆発にもとづく、どのみち化学的(つまり電子テクノロジー以前の)技術に頼るよりも効果的だろう。
◆この映画の「ハイテク鎖国」という発想は、いまのインターネットで使われているファイヤーウォールあたりのコンセプトから連想されているような気がする。わたしに言わせれば、ファイヤーウォールで武装したインターネットは、自分で自分の首を締めている。インターネットの可能性を制限し、それが出来ることを放棄している。ファイヤーウォールは、インターネットの進化ではなくて、退化である。インターネットが変えてしまう力を抑止し、世界を現状維持にとどめるための政治的操作にすぎない。
◆情報技術が進むにつれて、「中心/周縁」という発想よりも「トランスローカル」(translocal) という観念が重要になる。「物」優先の発想では、「肉体」にインパクトをあたえる「物」としての「ここ」がすべての「中心」だった。そういう「ここ」から発して、その「外部」が構想されるから、「外国」は「ここ」からすれば、「あちら」であり、「ここ」よりも観念的であり、「知識」で構築されたイメージにすぎなかった。しかし、電子テクノロジーは、そういう「ここ」をどこにでもある「ここ」(トランスな「ここ」)にする。
◆「日本」について言えば、いま、「日本」はニューヨークにもあるし、ベルリンにもある。それは、ニューヨークやベルリンに「日本人」がいるからではない。「日本」を情報的に構築できるととこでは、「日本」がどこにでも出現できるということだ。だから、世界にちらばる「日本人」が、インターネット上の「セカンド・ライフ」の世界で「愛国心」をいだくことが可能であり、そういう閉ざされた「日本」に引きこもることも可能である。それを「ハイテク鎖国」と呼ぶことは可能だが、その「国」は、日本列島としてあるのではなく、ネットのなかのヴァーチャルなトランスローカルな時間性のなかにある。
◆後半、このドラマの「諸悪の根源」があばかれるが、それが一人の「悪玉」に集約されてしまうのは、あまりに子供向きではないか? テクノロジーの「進化」が多様化と微細化だとすれば、「悪」も多様で微細化するだろう。ここでは、近代主義のドラマ構造(主人公、善玉、悪玉・・・・)自体が成り立たなくなるはずであり、こんな単純にはいかなくなる。
(シネカノン試写室/松竹)



2007-05-16_1

●怪談 (Kaidan/2007/Nakata Hideo)(中田秀夫)

Kaidan
◆三遊亭圓朝の面白さを教えられたのは、花田清輝の引用からだった。彼は、圓朝から始まる「しゃべるようにかく」文体をとりあげ、この方が、「『かくようにしゃべる』鴎外なんかの文体よりも、はるかに未来につながるなにものかをもっていることだけはたしかである」と書き、「伝通院の八ッの鐘がボーンと忍ケ丘の池に響き・・・」という『怪談 牡丹灯篭』くだりを引用していた。わたしは、この「ボーン」に惹かれ、当時岩波文庫の緑版で出ていた原作を早速読んでみた。いまわれわれが目にする圓朝の原作は、彼が、晩年、速記者に書き取らせたものであり、元はライブの語りである。その間合いや擬声語の絶妙な使い方に惹き込まれた。
◆この映画は、一龍斎貞水の講談的な語りとともの始まるが、ここで、この映画の方向がはっきりする。つまり、この映画は、三遊亭圓朝の『眞景累ケ淵』(しんけいかさねがふち)の世界を映画の世界にそっくり移すということはしない。むろん、「そっくり移す」ためには、相当のデフォルメが必要だ。ここでは、そうはしないで、適度に『眞景累ケ淵』的要素をそのままバラして観客に提供するという折衷的方法だ。
◆その場合、語り以外の部分は、舞台化された『眞景累ケ淵』に近づけた方が面白いと思うが、映像は、舞台的よりも映画ドラマ的である。圓朝講談で非常に重要な音の効果への配慮も薄い。
◆多少「舞台的」な要素を考慮したのかなと思わせるのが、主役のキャスティングである。新吉を演じる五代目・尾上菊之助は、いわずもがな歌舞伎の女形であり、三味線の師匠・豊志賀を演じる黒木瞳は、宝塚出身である。が、2人の舞台的バックグランドは、この映画が、『眞景累ケ淵』の舞台を継承するには、力弱い。なぜ二人が抜擢されたかはわからないが、尾上菊之助は、新吉のどこか自主性のない色男を演じるには向いている。黒木は、原作のなかで表現されている「男嫌いで堅い」性格には一応対応している。
◆2人の出会い方は、映画と原作とでは相当ちがっている。映画では、タバコ売りの新吉が道端で顔をあわせた豊志賀に「タバコはいかが」と声をかけ、一度遠慮した彼女がもどってきて「やっぱりもらっておこうか」となるように描かれている。原作では、豊志賀は、そんなもの欲しそうなことは絶対にしない。彼女の「男嫌いで堅い」姿勢は、職業上の必要条件だった。原作によると、師匠が「堅い」からこそ、「大家(たいけ)の娘」も稽古に来る。そのうえ、「堅い師匠」だというので、逆に男が稽古に集まったりもするのだという。新吉も、そういう男の一人として豊志賀の家に手伝いに来た。2人が恋仲になるには、映画よりももっと時間がかかっている。
◆黒木瞳は、宝塚出身といっても、宝塚の舞台の気配を完全に消してしまった女優(というよりテレビタレント)である。わたしは、彼女の演技に感心したことが一度もないのだが、彼女の目は、そこそこの屋敷と地位のある夫のもとで妻をやっているが、どこかで財産や子供のことが気になってしかたがない女といったキャラクターにぴったりの、どこか醒めた、ときには怯えを含んだ目である。といって、その怯えは、家庭内サイズで、それが極端な狂気にエスカレートしそうにはない。これは、『眞景累ケ淵』の豊志賀には向かないキャラクターである。
◆原作『眞景累ケ淵』(岩波文庫、1956年)の冒頭で圓朝がユーモラスな口調で語っているが、明治の文明開化とともに、非合理な「幽霊」という概念はすたれてしまい、幽霊が見えるというのは「神経病」だということになってしまったから、これから話す「怪談」は、怪談ではなくて「真景」なのだ、ただしその「真景」には「神経(病)」が「かさね(累)」られているんだよ、と。下総(いまの千葉県)の羽生村にあるということになっている眞景累ケ淵は、いわば、「真景」と「幻景」とが「かさなる」「淵」=接点であり、異なる時代、シュールな世界とリアルな世界等々がまじりあう場なのである。
◆映画は、そういう異次元のかさなりあいへの意識が薄く、すべてがどろんとした同じ平面で描かれる。「親の崇り(たたり)が子に報い」的な因果応報を文明開化の過渡期特有の斬新で前衛的な感覚で移し替えた圓朝のチャレンジがこの映画では死んでいる。
◆圓朝のねらいとしては、かつて「怪談」とみなされていた題材を使って、現代(明治初期)のドラマを作ろうとした。そして、幽霊が「神経病」の産物だとしても、それは、黴菌(ばいきん)に感染してなり、薬で直るといったものではなく、それまで「因果」と呼んでいた歴史的経緯がからんでいるということを暗黙に主張している。
◆この物語には、江戸から明治への激動の転換期の世相の雰囲気が色濃く出ている。藩士・深見新左衛門(榎木孝明)が金貸の皆川宗悦(六平直政)を殺すのも、豊志賀が、「男嫌いで堅い」というの暗黙のルールだった師匠のモラルをやぶるも、21歳の若者・新吉がまきこまれる諸事件も、「因縁」から出て来たというよりも、時代の諸相である。そうだとすると、いまの時代は、かつて「荒唐無稽」なものと見なされたものが、ヴァーチャルな現実として「真景」になるわけだから、『眞景累ケ淵』は、「怪談」ではなく、「実談」になるべきだろう。それにしては、この映画の愛憎も欲も、リアリティが薄い。
(映画美学校第1試写室/松竹/ザナドゥー)



2007-05-08

●きみにしか聞こえない (Kiminishika kikoenai/2007/Ogishima Tatsuya)(荻島達也)

Kiminishika kikoenai/
◆久しぶりに渋谷の街に来たら、欲望と競走意識と絶望の表情にわっと取り囲まれる感じだった。それが街だし、わたしが愛する場のはずだが、いつになく強い違和感を感じるのは、こちらの変化だろうか、むこうの変化のせいだろうか?
◆乙一の作品は、村上春樹などよりはるかにいいと思うが、この映画は、その映画化として、『暗いところで待ち合わせ』などよりはるかにいい出来だ。脚本(金杉弘子)がいいのだろう。
◆学校でも家でもかなり孤立している少女リョウ(成海璃子)が、ある日、なぜか突然ケータイなしでケータイの信号がつながってしまうという体験をする。相手は、シンヤ(小出恵介)というリサイクル屋で機械の修理をしている青年。彼は、実は、幼いときに両親の車に乗っていて事故に遭い、遺児になり、祖母(八千草薫)と長野県で暮らしている。事故のために聾唖になってしまった。まわりがみなケータイを持っているのに、「どうせ誰もかけてこないから」とケータイを持たないリョウと、ケータイを使えないシンヤとがケータイで話をするというシュールな設定が、非常に面白いし、ユニークだ。
◆かつてドイツの文芸批評家のワルター・イエンスは、カフカは、人間を「虫のように」描くのではなく、「虫として」描くのだと言ったが、この映画は、乙一の原作では、ひょっとして、ケータイでの通信が、孤独な二人の勝手な「夢」や「幻想」や「想像」であるかのように読めてしまうかもしれないところを、ず~んと突き上げて、「夢」でも「幻想」でも「想像」でもない、まさにケーイなしでケータイできる世界へわれわれを連れていく。神奈川(?)と長野とのあいだに1時間の時差を設定した仕掛けは、後半のドラマで活かされる。
◆二人のコミュニケーションは、ある種のテレパシーであり、ケータイという装置を持ち出さなくてもよいかもしれない。人は誰も孤立した島ではない。「自分」のなかに、〈過去〉〈現在〉〈未来〉の他者を潜在させ、現存させている。だから、〈いまここ〉のわたしと、〈いつかどこか〉のあなたとが出会っても不思議ではない。わたしがわたしだけだと思うのは、その複数の〈わたし〉はみなシャイだからだ。シャイな〈わたし〉が出会い、会話するためには何らかの道具がいる。それを「メディア」と呼んでもいい。
◆いまの時代は、リョウやシンヤのような「群れない子」の方がユニークな生き方をできるのかもしれない。シンヤは、そのうえ、「機械」を「自然」としてあつかえる新しい感覚がある。リサイクルの作業所に持ち込まれるさまざなな廃品を再生する能力は、シンヤの場合、「自然愛」のようなものに裏打ちされている。
◆リョウのヴァーチャルなケータイには、リンヤとは別に「原田リョウ」という女性(片瀬那奈)からもかかってくる。同じ「リョウ」であるところに隠された意味があるのかもしれないが、映画でははっきりしなかった。彼女に忠告をしてくれるお姉さん役のような感じで出てきて、すぐ消えてしまう。このキャラクターはなくてもよかった。乙一の『きみにしか聞こえない』と『失われる物語』を使っている関係で、出さないわけにはいかなかったのか?
◆【追記/2007-05-17】上述の個所について匿名希望の畏友から次のコメントをもらった――あれは、思うに、少女のリョウが未来の自分と交信していたんですよ。だから、原田リョウは少女リョウがシンヤに会う前に警告めいたことを言ったんです。少女リョウはピアノが弾けなくなっていたけど、それを克服し、母親が感激するシーンがありますが、その延長で少女はピアノの先生になったというわけです。リョウは結婚して原田姓になっており(結婚指輪をしてる)、何よりも、未来のリョウである証拠に、(わたしの記憶が確かなら)最後に赤いテープレコーダーが原田の部屋にありました。
◆映画の冒頭の自転車を使った「風見鶏」からして、この映画にはさまざまな暗示記号が鋳込まれているのだが、流れとしては、そういう布石を活かさない方向で展開し、それはそれでいいという気がする。そういう意味で、「原田リョウ」の導入は余分という感じが依然する。ただし、これが、「原田リョウ」ではなくて、「野崎リョウ」だったら、時間をもう一度ねじらせる意味で、面白いと思う。 (東芝エンタテインメント試写室/ザナドゥー)



2007-05-05

●マリナ・アブラモビッチのセブン・イージー・ピーセズ(Seven Easy Pieces/2007/Babette Mangolte)(バベット・マンゴルト)

Seven Easy Pieces
◆イメージフォーラム・フェスティヴァルで毎年楽しみなのは、鈴木志郎康さんの新作だったが、今年は出ていなかったが残念で気になった。こま切れで見ることに慣れていて、フェスティヴァル形式の観映が苦手のわたしは、今回も多数の気になる作品を見落とした。なかででも、「有名無名にかかわらず多くの友人知人個人たち」を撮ったかわなかのぶひろさんの『この一年 - part1』と『この一年 - part2』は、見たかったが、時間がおりあわなかった。
◆マリナ・アブラモビッチが、わが身に継承され、蓄積した「罪」を罰するかのようなパフォーマンスだが、バベット・マンゴルトは、あえてか、その過程での彼女の苦しみを昇華させた形で描く。自らを罰する過程よりも、その型のみを記録するかのように。
◆マリナが、2005年11月9日から15日までの7日間に毎日、午後5時から 0時まで、ニューヨークのグゲンハイム美術館で行なったパフォーマンスは、ネットでもたびたびとりあげられてきた。バベット・マンゴルトのこの映像が、マリナのパフォーマンスの「記録」だとすると、彼女がその生身をロウソクの火にさらし、カミソリで腹に傷つけ、巨大な氷の上に裸で横たわり、1リットルのワインを飲み、1キロの蜂蜜をなめるといったマゾヒスティックなまでの肉体主義的なパフォーマンスそのものとは温度差がある。が、わたしが面白いと思ったのは、映像と「ナマ」との距離ではなくて、肉体主義的なパフォーマンスがかつて持っていた衝撃度の変化であり、バベットの映像が、むしろ、そういうパフォーマンスを見る観客の平均的な感性を正確にとらえているのではないかということだった。
◆マリナが見せた7回のパフォーマンスは、「再演」と「引用」という距離が最初から内包されている。だから、「肉体主義的」と見えるマリナのパフォーマンスも、実は、その内部に距離が隠されており、単に体当たり的なだけの肉体パフォーマンスではない。
◆その「出典」を順番に挙げると、(1)ブルース・ナウマンの「ボディ・プレッシャー」(1974)、(2)ヴィト・アコンチの「シードベッド」(1972)、(3)ヴァリー・エクスポートの「アクション・パンツ」、(4)ギナ・ペーンの「ザ・コンディショニング、自画像の最初のポートレート」(1973)、(5)ヨーゼフ・ボイスの「死んだ野ウサギに絵を説明する方法」(1965)、(6)マリナ・アブラモヴィッチ自身の「トマスの唇」(1975)、(7)同「エンタリング・ジ・アザー・サイド」(2005)である。
◆「再演」されたパフォーマンスの常として、ときには、その「嘘くささ」がただよう。むろんそういう「距離」の新たな誕生を意識して行なわれる場合もあるが、マリナの場合はどうだったのか? たとえば、2番目の、半ば渦巻き状になった円形の大きな台の上に観客を集め、マリナ自身はその台のなかでマスターベーションをして、そのあえぎ声を聞かせるパフォーマンスでは、外からは見えない彼女が実際にマスターベーションをしているのかどうかが「疑わしく」なる。そして、映画は、そういう「疑惑」をライブを見ているときよりもさらに増幅し、それによって、パフォーマンスと演劇との差について考えさせる。
◆黒の革ジャンとパンツを着け、パンツのチャックをはだけて陰毛を見せたまま手にがっしりした自動小銃をかかえて動かない3番目のパフォーマンスは、映像で見る場合、彼女のかかえている銃がはたして「ホンモノ」かどうかが気になってくる。ライブの場合も、ひょっとして彼女が銃を乱射するのではないかという恐怖感が会場にただよったであろうことは想像できる。が、映像では、それが、恐怖ではなく、疑惑に転換されるのだ。
◆なかでローソクが燃えている金属の格子状の枠(ある種のベッド)のうえに寝る4番目のパフォーマンスでも、映画では、そのとき着ている服の下に防熱材を入れているのではないかという「疑惑」がまず浮かぶ。ローソクが短くなり、消えるとどんどん継ぎ足すが、炎の先端が服を焼くことはない。煙はいっさいあがらない。
◆5番目のパフォーマンスは、立てかけられた黒板、ステッキ、そしてマリナが着ているチョッキから、すぐにヨーゼフ・ボイスの「再演」であることがわかるが、その「再演」の仕方がいかにもキッチュである。 片足の靴底には鉄板が貼りつけられ、歩くたびに「ノイズ」を発するが、ノイズ・ミュージック的ではなく、足の桎梏という感じ。
◆6番目の「実演」では、7時間のあいだに1リットルのワインを飲み、1キロの蜂蜜をなめたのだが、映画では、そのリアリティは伝わってこない――というよりも、この撮り方が意図的なものであるとすれば、そのリアリティが軽いものに変容されている。実演を見た者か、実演について知識のある者しか、この映画のシーンを見て、それを実感することはできない。
◆このパフォーマンスで、マリナは、むき出しの腹にカミソリで星型の傷をつける。その星は、明らかにユーゴー軍ないしはワルシャワ条約機構軍の「赤い星」(ソ連の赤軍以来の)を示唆しており、星を形成する5本の線を5枚のカミソリ歯で刻み込むのである。しかし、そばにいればその痛みが共有されるはずのその行為が、映画で見ると、「けっこう浅く切っているな」というような醒めた印象をあたえるのだった。
◆マリナは、さらに、血がしたたる(切っているわりにはあまり出ない)腹を上にして、等身大の氷の十字架のうえに裸のまま寝そべる。マリナは、このパフォーマンスで、震えがとまらなくなったらしいが、映画は、そういう「葛藤」を全く描かない。
◆マリナは、自分の「故郷」旧ユーゴスラビアが、内乱におちいり、ナチスまがいの人種浄化にまでエスカレートした90年代の状況をわが身に引き受けようとする。自分の身体をさいなぬ上記のアクションにくわえて、氷のうえで自分の背中を鞭打つことによって、さらに自分の肉体に罰をくわえる。くりかえし「スラブの魂」を呪う(というより、その不条理を嘆くかのような)歌が流れるが、映画で見るかぎりでは、非常にナルシズム的なパフォーマンスに見える。
◆わたしの独断では、肉体主義的なパフォーマンスは、自分の身体を銃で撃たせたクリス・バーデンあたりで終わっていると思う。彼が極限をきわめたということではなく、彼が自分の身体を破壊(死)のぎりぎりのところまで追いつめざるをえなかったのは、それだけ身体のリアリティが希薄になる状況が亢進したためである。そういうリアリティが「身体的」なものから「サイボーグ的」、さらには「アンドロイド的」なところに変わるなかで、肉体主義的なパフォーマンスは衰退した。そして、殺人やホロコーストもまた、意味を変えた。ナチのホロコーストとミロシェビッチのホロコーストとの違いも、この観点から考えられなければならない。
◆マリナ・アブラモヴィッチのパフォーマンスは、「再演」という方法で、こうした変化に対応しているようにも見えるし、もっと単純に、依然として彼女が「肉体」を信じているためにこういうパフォーマンスを演っているようにも見える。このパフォーマンスは、一応、スーザン・ソンターグに捧げられている。が、晩年のソンターグも、湾岸戦争への対応に見られるように、ボケた感じがある。そんな彼女に捧げられているとすれば、マリナのパフォーマンスにナルシシズム以上のものを期待することはできないかもしれない。
◆巨大な「ワンピース」に身を包んでグゲンハイムの吹き抜け空間のせり上がって立つマリナの最終日のパフォーマンスは、そういうスノビッシュなナルシシズムの浪費的極致である。
◆このパフォーマンスのタイトル「セブン・イージー・ピーシズ」は、ブブ・ラフェルソン監督、ジャック・ニコルソン主演の古典『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970)を思い出させずにはおかない。こちは、マリナのような明確なチャプター分けはないが、60年代世代のアメリカへの政治的・文化的「呪詛」だった。そして、ニコルソンは、「無責任」と「逃走」という形でそれを表現した。これに対して、マリナのパフォーマンスは、引き受けることができない責任までも引き受けようとする。そして、それが出来ないことで自分を責める。これは、極めてキリスト教的であり、吐き気がするほど人間に対して傲慢な発想である。それは、うらがえせば、すぐに闘争に転化する。「闘争」よりも「逃走」だという語呂合わせがさんざんなされたのに、逃走の有効性は、いま逆に忘れられつつある。こんなもったいぶったパフォーマンスより、バスター・キートンがラッシュする身ぶりを映したワン・ショットの方がインスパイアリングだ。
◆【追記/2007-05-23】ニューヨークの刀根康尚さんにアブラモヴィッチの感想を聞いたら、「そっけない」返事が届いた。たしかに「肉体派」のパフォーマンスはつまらない。わたしも、最近、ますます「舞踏」への関心を失っている。
パフォーマンスを終えてイギリスから帰ってきたところです。粉川さんのシネマノートでバベット・マンゴールトの撮ったアブラモヴィッチのパフォーマンスの記録の映画評も読みました。マリーナのパフォーマンスは2005年のチェルシーの画廊でやったのも、みていません。バベットの映画も見ていないので何とも言えません。まあ、マリーナとはウイットニーのグループ展で一緒になったり、横浜トリエンナーレでも一緒だったので会えば挨拶ぐらいするしパーティーでダンスを踊ったりしたことはありますが、それだけの話です。まあ彼女は70年代から未だにパフォーマンスを続けている点が引退してご隠居さんになったアーティストと違う所かもしれません。
肉体派というか、ボディーアートと言われた60年代末に現れたコンセプチュアル・アートの一傾向もあまり興味はありませんでした。あの頃はデニス・オッペンハイムまでボディーアートとおもわれていたのですから。クリス・バーデンを一躍有名にしたLAのハイウエイに寝転がったパフォーマンスを見た時も、楽屋がすけてみえてしまって、しらけました。(かれは多分リコ・ミズノ画廊のだれかをつかってハイウエイ・パトロールに逮捕させるべく電話で通報させたようでした。そうしなければ発煙筒を焚いていても、自動車に轢き殺されたかも知れません)。そういう意味で田中岷の厳冬に裸で屋上などに長時間転がっているパフォーマンスも感心しませんでした。いわゆる舞踏家たちも同じです。僕は土方以外の舞踏家は認めません。土方はかれの最大の駄作である”肉体の叛乱”(1968)で一般に認められたのは彼にとって大変な不幸でした。土方はぜんぜん肉体派ではなかったのです。
(パークタワーホール/イメージフォーラム)



2007-05-01

●ヒロシマナガサキ (White Light/Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki/2007/Steven Okazaki)(スティーヴェン・オカザキ)

White Light/Black Rain: The Destruction of Hiroshima and Nagasaki
◆「岩波系」の試写のためか客の年令層が高い。普通(というのもナンだが)の試写会ではお目にかからない「教養」系の人たちが多い。みな戦争への思いがはっきりしているようで、高齢の被爆者たちの証言に胸をつまらせているらしい気配があちこちでする。
◆この映画で語られ、映されていることは、かなり知られていることである。しかし、14人もの被爆者が淡々と記憶を語るのは、このドキュメンタリーが初めてであり、その証言は、今後、くりかえし語りつがれるべき重みを持っている。『はだしのゲン』の作者の中沢啓治氏のように、何度も同じ話をしなれているはずの人でも、ここでの発言は新鮮に聞こえる。
◆ここで証言しているご当人が被爆直後に撮影された映像を見せるのもめずらしい。その映像ではとても生きのびることができないのではないかと思われた人が、いまここで証言をしている。これは感動である。当時少年や少女だった彼や彼女たちは、いっそのこと死んでしまおうかと何度も思ったという。親を失い、傷を負った姉妹のうち、妹は列車に飛び込んで死んだ。姉は、後を追おうとしたが、できなかった。
◆証言のなかで、被爆者が、被爆の肉体的な苦しみにくわえて、周囲の差別による心の傷になやまされつづけたことが挙げられる。女性の多くは、放射能の影響で不妊になったり、奇形児が生まれるのではないかという危惧などから、結婚を拒否され、自分でも諦めなければならなかった。この点を浮き彫りにしているのは、このドキュメンタリーのユニークさ。
◆この映画で使われている被爆者たちが治療(といっても、すべてが破壊されてしまったので、非常に限られたもの)されているシーンにカラー映像が混じっている。これは、明らかに米軍側が撮影したフィルムから取ったものだろう。アメリカでは、こうした映像がすでに情報公開され、アルカイブに入っている。
◆アメリカは、被爆者を招き、整形手術をほどこしたりしたが、この映画には、そうした「原爆乙女」(男性はいなかったのだろうか?)の一人として渡米し、現在アメリカに永住している笹森恵子氏にインタヴューし、彼女がテレビショウに出たときのシーンを引用している。ここに原爆投下機「エノラ・ゲイ」の副操縦士だったロバート・A・ルイス(この人はすでに会社経営で成功している)が登場し、寄付金を渡す。それは、この人の並でない人柄をあらわしていることはたしかだが、番組全体のイメージは、司会者の1950年代の米国特有の表向きの声と口調(日本のNHKにはいまでもある)もあって、わたしには、国家犯罪のどぎつさをカモフラージュしているような感じがしてならなかった。
◆この映画では触れられてはいないが、現在、おりにふれてわれわれが目にするそうした治療のシーン(顔面にガーゼをあてた痛々しい少年など)は、原爆投下からまもない時期に、日本映画社(日映)の人々が撮影したものである。彼らは、広島・長崎の原爆投下の実体を撮影し、国際赤十字にフィルムを送り、その惨状を世界に知らせるために危険をおかして現地におもむいた。米軍はまだ動いてはおらず、やがて公式に組織された「日米合同調査団」は、爆心地の放射能の危険を顧慮し、日映の映像を第一次資料として使ったという。そうだとすれば、このドキュメンタリーで使われているカラー映像は、投下から大分たってから少なくとも数カ月たってから米軍が撮影したフィルムからのものと推測できるのである。
◆日映の撮影は、すぐに中止命令を受け、フィルムはGHQに没収されたが、加納竜一、伊東寿恵男らのツワモノたちは、そのフィルムをコピーし、隠した。米軍は、日映のフィルムを使用して、『原爆の効果』というモノクロ映画を製作したが、これは、タイトルが示すように、米軍にとって「戦略爆撃」の観点から、広島・長崎の原爆がいかに「効果的」な兵器であったかをドキュメントしたものであって、原爆に対する批判は皆無であった。この間の経緯は、テレビ東京が、「没収された原爆フィルム」というすぐれたドキュメンタリーで詳しく追っている(1990年8月4日放映)。
◆1990年、福嶋行雄とマーク・ノーネスの両氏からの依頼で、わたしは、鶴見俊輔氏といっしょにこの『原爆の効果』を見て、鶴見氏と対談する機会をえた。その映像は、アメリカの国立公文書館のパブリック・ドメイン(著作権消滅あつかい)として公開されているが、貸与が禁じられているので、福嶋さんらは、手持ちのビデオカメラを公文書館の映写室のスクリーンに向けて全編を撮影してきたのだった。鶴見氏との対談は、『日米映画戦 パールハーバー五十周年』(青弓社)に掲載されている。
◆こういうドキュメントを見るとき、わたしは、いつも怒りで胸がふるえる。血のかよった肉体のある人間が何十万人もいる場所に原爆を投下するためには、人間は、極度の「抽象化」をしなければならない。話し、笑い、泣く個々の人間を単なる数値として、敵国の地理的な領土の単なる付属品として、(いや、領土ですら自然の嵩<カサ>と物質性を所持しているから観念的な抽象ではない)抽象化する者がいて、原爆の投下を命令した。人間は、戦略的な関数とみなされ、大量殺戮も、一つの技術的操作とみなされる。
◆人間が、対象化され、さらに客体として物象化されるプロセスは、戦争遂行者に特有のものではない。人は誰でもそういう能力を持っている。科学や技術は、人間のそうした能力(ハイデッガーの言う「計算的理性」、ホルクハイマーやアドルノが言った「道具的理性」)によって打ち立てられた。だから、ナチのホロコーストも、アメリカの原爆投下も、人間の能力のなかから出たものであり、似たようなことが今後もふたたび行なわれる可能性がある。それは、戦争反対の「政治」運動によって阻止されるわけではない。人間の能力が極端に振れるとき、そのようなことが現実化する。「人間的」な状態は、極端と極端との偶然的な中間状態のなかでしか維持されない。とすれば、可能性をどこまでも追求することよりも、「中間」や「いいかげんさ」を尊重する「あいまい」な姿勢を維持する場と習慣を極力根づかせることの方が、そうした中間状態の維持に貢献できるのだと言えないこともない。
(映画美学校試写室1/シグロ・ザジフィルムズ)


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