粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-04-25

●憑神(つきがみ)(Tsukigami/2007/Furihata Yasuo)(降旗康男)

Tsukigami
◆久しぶりの木村大作の撮影。「浜ちゃん」色が染みついている西田敏行だが、ここでは貧乏神をうまく演じわけている。妻夫木聡は美形としての演技と使い分けられる彼のアンチヒーロー的な特質が活かされている。死神役の森迫永依が面白い味。一番ダメなのが赤井英和。
◆神社をまちがえたために福の神ではなく貧乏神に取り憑かれた別所彦四郎(妻夫木聡)。憑神は「飛ばす」ということが出来ることを伊勢屋こと貧乏神に教えられからくも運命を逃れるが、貧乏神の次には疫病神(赤井英和)、さらにその次には死神(森迫永依)順々に憑くことを知らなかった。
◆貧乏と疫病は避けられても、死は避けられない。なら、どうする、最後の人生をどう生きるか? というのが、原作者・浅田次郎の挑発。しかし、浅田次郎のことだから、ダメ人間として終わるといったスラッカー的人生にはならない。わたしにはその辺が不満。
◆冒頭、古い映画にはよくあったモノクロフィルムの傷が合成されている。これは、この映画が疑古典的なスタイルで撮られているよという木村大作のメッセージであろうか? それとも?
◆家名を500両で売る話が出て来るが、江戸時代に家名を買った家の子孫はどのぐらいいるのだろうか?
◆かつて若死した演劇研究家・小刈米けん([日+見]という印刷屋泣かせの字)の著書に『憑依と仮面』(せりか書房)がある。小刈米の射程は、柳田国男や折口信夫の理論はもとより、早稲田小劇場の「巫女」白石加代子の演技からインスパイアーされた実体験に裏打ちされ、民衆劇の根底に「憑依」を洞察し、演技とは「憑依」と「仮面」から構成されていることを論述したスケールの大きな本だった。わたしは、酒豪の著者と新宿や荻窪の飲み屋で朝まで話をする機会がよくあり、「憑」という文字を見ると、彼を思い出す。
◆他方、「憑く」という現象は、人間を越えたものが人間に「とりつく」ということを表象しているが、電気や電波体験が基本にあるわたしなどから見ると、それもそうだが、そういう超越的な越境よりも、物同士(人間も物だ)の「荷電」のイメージの方が強い。人間に何かが「とりつく」とも言えるが、人間と何かとが「惹き合い」、「親和力」で影響し合うのだ。
◆ただし、この映画は、そうした「憑依」や「憑き」への考察よりも、幕末の風物を活写している点が興味を引く。将軍徳川慶喜の権威喪失、官僚システムの空洞化、由緒ある家の形骸化、榎本武揚に象徴されるような新階級の醸成(明治になって一気に浮上する)、都市の変化、花街の世紀末的・「えいじゃないか」的祝祭。まあ、「世紀末」が永劫回帰的に空回りしているいまの時代と似ていなくもない。しかし、そのとき、その永劫回帰の渦のなかでスラッカー的な意味で「怠惰」に暮らすか、それとも「実存的」スリルを求めて何かに身を挺するかは分かれ目になる。ここでは、別所彦四郎は、彰義隊に加わわり、上野の森の花と散るという形で終わる。おそらく、いまの時代も、一方で、こういう願望が根を張りつつあるのではないか? わたしは、こういう時代は出来るだけダラけた方がいいと思いますが。
◆それは別にして、浅田次郎が彰義隊を支持する背景には、ひょっとすると、彼の靖国批判が隠されているかもしれない。靖国神社には、大村益次郎の銅像が立っているが、彰義隊を容赦なく討伐したのは大村益次郎であり、そのとき怨みを飲んで死んでいった彰義隊のおびただしい死者の霊をやわらげる目的で建立されたのが東京招魂社であり、それが、のちに靖国神社となったのだった。
(東映試写室/東映)



2007-04-24

●ザ・シューター (Shooter/2007/Antoine Fuqua)(アントワーン・フークア)

Shooter
◆何度か見たが、スティーヴン・スピルバーグとマイケル・ベイが登場して変な日本語で『トランスフォーマー』の宣伝をするクリップは、見ていてつらい。今回も本編の試写のまえにその上映があった。夏に公開で、まだ見ていないが、予告編はつまらない。スピルバーグがイグゼキュティヴ・プロデューサーをつとめているからなのだが、彼がここまでしないでもと思う。
◆正攻法のサスペンス。復讐のテーマ。ひねりもきいている。「定型」で楽しめるが、たとえば、ケネディ暗殺のからくりを暗示させたり、「殺さなきゃわからない奴が多すぎる」と誰かが言ういまのアメリカで、どうすればブッシュを暗殺できるかを暗に挑発しているようなところもある。ネッド・ビーティが演じる上院議員は、どこかチェイニー副大統領を思い出させる。これらは、すべてわたしの妄想かもしれないが。
◆戦争に正義がないことに関しては、イーストウッドよりクールな感じがする。イーストウッドは、戦争を否定しながら、その否定はあくまで硫黄島の闘いに関してであって、戦争そのものを否定してはいない。これに対して、この映画は、利潤獲得を至上の原理とするシステムのもとでは戦争はセットになっていることを教える。そして、戦争は、民族の独立とか、エネルギーの確保とかの「正義」からではなく、利潤獲得のための手段であり、いま、イラクでアメリカ軍が「苦戦」しているとしても、それすらも利潤獲得に役立っているということを理解させる。
◆斉藤敦子さんによると、字幕がよくないとのことだが、わたしは、アクションに気をとられ、字幕をあまりよく見なかった。色々なところにあった、いまのブッシュ政権を揶揄するせりふの「刺」(とげ)はどう訳されていたのだろうか?
◆日本の洋画の題名というのはよくわからない。英語名の定冠詞を勝手に取り去るなどは日常茶飯だが、この映画では、何と、原題にはない「ザ」を冠している。おかげで、Ted KotcheffやJosef RusnakのThe Shooterとまぎらわしい題になった。原題は、ただのShooterである。
◆海兵隊の特殊部隊の狙撃手(シューター)という設定のボブ(マーク・ウォールバーグ)は、アフリカでの任務で相棒のドニー(レーン・ギャリソン)を失ったのち、ワイオミングの山奥で愛犬と隠遁生活を送っている。ドニーの死は、「本部」が十分な援護をおこたった結果だった。冒頭のこのシーンで、まず、組織に居座るキャリア組と一匹狼的なボブとの対比がえがかれる。組織対個の一つの定型である。
◆次の定型は、登場する役者たちへの観客の先入観の活用である。ウォーバーグが『PLANET OF THE APES 猿の惑星』で「猿顔」のウォーバーグを見たときは大笑いしたが、この映画では、『スリー・キングス』→『ミニミニ大作戦』→『ディパーテッド』の流れのなかのウォーバーグ(への観客の)イメージを前提している。ボブの狙撃の腕を買い、隠遁先を元の上司が訪れるというのも、よくある型だが、その面子を見ると、その後に展開するドラマの予想がつく。当然、そうした予定調和を満足させるのも、エンタテインメントものの定型である。
◆アイザック・ジョンソン大佐役のダニー・グローバーは、『ランボー3 怒りのアフガン』でバンコックの寺院で隠遁するランボーを訪ねて来るトラウトマン大佐役のリチャード・クレンナとはかなりイメージが違う。最初「堂々」としていても、最後はわからない。このチームの一員ジェック・ペインを演じるイライアス・コティーズは、組織の関数のような役割を演じるのがうまい。その彼が、最初からニヒルな目をし、禿げ上がった頭(これは地だが)をして出て来れば、とても単純な「善玉」を演じるはずがない。ポール・ハギスの『クラッシュ』であらぬ嫌疑をかけれる損な錠前屋を演じたマイケル・ペーニャは、ここでも損な役を演じるが、その損なや役は、『ワールド・トレード・センター』の消防士ウィル・ヒメノに劣らず人を助ける。まわりが一切信じられなくなったボブが、拉致したFBI職員ニックは、孤立無援のボブの最後のよりどころとなる。
◆ジョンソン大佐の依頼を最初断るときボブは、「それに、俺はあの大統領が嫌いだ」と言う。この分だと大統領の出てくるシーンではブッシュのニュース映像かそっくりさんの映像を使うのかと思ったら、そうはしていなかった。あまりみえみえでは面白くないから、このへんが適度だろう。
◆わたしが楽しんだのは、ここで披露されるサバイバル・テクニックだ。警官に撃たれ、傷をしたボブは、唯一信じられるかつての相棒ドニーの未亡人サラ(ケイト・マーラー)のところに逃げ、治療をする。消毒には砂糖を使うのは、ナポレオンの時代からやられてきた方法だという。彼女に、弾を摘出し、縫い針で縫う手術をしてもらうために、自分で吸い込むボンベ(ヘアスプレー程度のサイズ)は、「窒素・・・」とか言っていたが、何を流用したのだろう?
◆J・F・ケネディの暗殺は、依然、真相が明かされてはいないが、この映画では、この映画に出て来るTRAP T-250Dのようなリモートコントロールの攻撃システムを使えば、無人でも可能なことが示唆される。どういう自動システムでも、動く相手、変動する風などの予測しにくい条件のなかにいる「獲物」を仕留めるためには、「最後の一擲(いってき)」を決定する人力と経験による判断が必要なわけだが、この映画でボブは、はからずもそのような役目を負わされる。そのシーンはなかなか見どころがある。そして、ケネディの場合は、オズワルドがその役目を(知らぬまに)負わされ、そのからくりを(おそらく)知らないままジャック・ルビーに暗殺される。ボブは、オズワルドの二の舞をからくも逃れ、その陰謀を仕組んだ相手を暴き、復讐する。
(UIP試写室/UIP)



2007-04-17

●そのときは彼によろしく (Sonotokiwa kareni yoroshiku/2007/Hirakawa Yuichiro)(平川雄一朗)

Sonotokiwa kareni yoroshiku
◆ドラマで「突然」は常套手段だが、それは、当然起こるということに意味があるのではなく、人と人が出会ったり、事件が起こったりする仕方のスタイルを色づけるさまざまなテクニックの手段なのだ。だから、都合よく「突然」の出来事がドラマに組み合わされていても、腹を立ててはならない。
◆この映画でも、幼い智史が「突然」町はずれの廃バスのなかで出会った少女・花梨は、やがて彼の両親(小日向文政・和久井映見)にかわいがられるようになり、彼女が孤児生活のなかでいっしょにくらしていた少年・佑司とともに、家族同様の毎日を送るようになる。が、彼女は、ある日、「突然」姿を消す。仲良かった智史・佑司・花梨は、ばらばらになる。しかし、13年後、いまでは(幼いときの夢で)アクアプランツ(水草)の店を開いている智史(山田孝之)のまえに「突然」、いまでは森川鈴音という名のトップモデルになっている花梨(長澤まさみ)として姿をあらわす。まだまだ多くの「突然」があるが、「ネタばれ」を気にする向きがおられるので、このへんにしておく。
◆鈴音=花梨の「突然」の出現は、単なる「突然」の導入だけでなく、智史がオタク的キャラクターで、アクアプランツにしか興味がなく、「森川鈴音」という子供でも知っているらしい著名人を全く知らないという設定によって演出される。彼女も、最初、自分をはっきりとは明かさない。だから、二人の再会のドラマ性が高まるわけだ。
◆山田孝之は、『電車男』でアキバオタクを好演したが、『手紙』での玉山鉄二の弟役はぱっとしなかった。山田は、この『そのときは彼によろしく』で、オタク的キャラクターが得意であることをあらためて証明した。
◆山田が今的な意味での「オタク」をたくみに演じる俳優だとすると、長澤まさみは、いまよく出会う(ポスト広末的な)「女の子」のステレオタイプをうまく演じる俳優だ。「キャリアウーマン」ぽい感じが流行らなくなったいまの時代に「女の子」(ある時期には、「女の子」でもどこか「自立」の雰囲気をただよわせた)であるということは、だらだら~っと男に甘える「女の子」になってしまうのではなく、適度に醒めた距離を取りながら、いきなり「そーじゃないよぉ~」的な「男の子」っぽい態度での甘えを相手の男に見せる・・・というか、とにかく、微妙な〈距離取り〉が彼女らのコケットリーとセクシーさの鍵になっている。
◆智之のアクアプランツの店には、"Aqua Plants Shop Trash"という英語の看板があるが、なぜかこの近所の店の表示はみな英語である。カメラが移動して行ったとき見える看板もみな英語だった。設定は日本の地方都市だが、まあ、それは常にsomewhere elseのどこかなんでしょうね。夢でもなく現実でもない映画の世界を呈示する一つの方法としてこういうやり方がある。そういえば、いま日本の都市には、英語の看板が氾濫しているが、それは、若いときにアメリカなどの都市に憧れた青年が中堅になり、都市のプラニングや管理をするようになって、かつて彼らが夢みたスタイルを現実の場で「ドラマ化」した結果であるような気がする。
◆「そのときは彼によろしく」とは、死を予感した者が智之に言い残す言葉だが、この映画は、ある意味で智之が経験する別離を描く。3人が出会ってからばらばらになるまでの13年間に智之の母親(和久井映見)は死に、3人が再会した「現在」から5年後までのあいだに智之の父(小日向文世)も死ぬ。智之を距離を置きながら愛していた郁生(本多力)は、ケーキの修業にパリに旅立つ。そもそも、13年まえに鈴音と佑司という親友と(けんかをしたわけでもなく)別れたも、智之の孤独な宿命を暗示していた。とすると、再会の直後に交通事故で瀕死の重傷を負うが、奇跡的に回復し、幼いときからの夢であった個展をひらく佑司は、智之にとってかけがいのない存在だということになる。
◆映画を見ていて、たぶん原作はもっと深くて、微妙な解釈ができるのではないかと思うことがある。この映画も、市川拓司の原作は時間についても、友情についても、もっと奥行きのある記述になっているのではないかという思いを残させた。男が二人に女が一人の「友情」関係では、異性愛と同性愛の境界線がゆらぐ。原作は、このへんにも深い切り込みを入れているのではないか? 原作を読んでいないので、憶測の域を出ないのだが。
◆山田や長澤の幼い時代を演じる子役たちの演技が抜群。知っている人は知っているのだろうが、プレスにも名前を掲載してもらいたかった。
(東宝試写室/東宝)



2007-04-16

●スパイダーマン3 (Spider-Man 3/2007/Sam Raimi)(サム・ライミ)

Spider-Man 3
◆「たった一度きり、最初で最後のマスコミ試写会」という儀式にわたしは、午前8時起きして六本木ヒルズにおもむいた。TOHOシネマズの階段には、すでに3本の列ができている。試写状にケータイを「没収」する旨の記載があったが、それを初めて知った人たちもいて、「これから3時間ぐらい、電話できかいからぁ」といった電話をする声があちこちから聞こえる。わたしは、ほとんど何も持たずに来たので、気が楽だった。「没収」されたケータイは、紙袋に詰められ、帰りに係員が座席に戻すので、終映後、席を立たないでほしいという通達があったが、わたしは、さっと立ち、そのまま会場をあとにした。
◆『宇宙戦争』のときもそうだったが、ものものしい「儀式」のわりには、映画自体はそれほどの驚きはなかった。上映まえの儀式があまりにものものしいために、映画が負けてしまうのかもしれない。映像技術の面で、『スパイダーマン』から『スパイダーマン2』への移行の際に見られた技術的な飛躍は感じられなかった。にもかかわらず、スパイダーマン(トビー・マグワイア)やハリー・オズボーン(ジェイムズ・フランコ)の動きはえらく派手であり、ピーターの祖父を殺したらしい強盗フリント・マルコの「変身」は、『スパイダーマン2』のDr. オクトパスの変身以上にコミックス的であり、その分、世界が嘘っぽくなった。
◆今回、「親子」の関係のドラマという側面が強くなった。スパイダーマンであるピータの場合、叔父(クリフ・ロバートソン)と叔母(ローズマリー・ハリス)に育てられ、彼と彼女が育ての親であるが、ピーターは、叔父の死を忘れることができない。フリント・マルコには娘がおり、その親子関係が彼の行動の鍵を握っている。スパイダーマンに父親ノーマン(ウィル・デフォー)を殺されたと思っている息子のハリーには父親コンプレックスがあり、父を乗り越えられないこととペーターへの怨みと復讐の念とがからみあっている。
◆今回、「謎の黒い液状生命体」がスパイダーマンの身体に無数の蛭のようにとりつき、彼の赤と青のコスチュームを黒く染めてしまうという、いままでにない事態が起こる。これは、プレスでは心のなかの「悪」のような解説がなされているが、端的に「外」から襲われ、心も変わってしまうのだと考えた方がよい。人は、心のなかに「善」と「悪」を持っているのではなくて、心はスポンジのように「外」の「水」をしみ込んでそれなりの反応を示すにすぎない。ここは、唯物論的に行こうではないか。
◆「悪」に染まったピーターが、黒いスーツを身に着け、街をかっ歩するとき、すれちがう女たちに、ピストルを突きつけるような指の仕草をする。これは、ある種のマチョ気取りの身ぶりなのだが、英語で何と言うのだろう?
◆男は浮気だから、愛する恋人がいても、目先の目立つ女に関心を示したりもする。それが一時的な気まぐれだとしても、愛する恋人の方はさびしい気持ちになる。キルスティン・ダンストという女優は、そういうしぐさが実にうまい。ピータに緊急接近するのは、彼の同級生で金持ちの娘グウェン(ブライダス・ダラス・ハワード)である。それから、ピーターが突然人が変わったような態度を示すとき、MJが「あなた一体誰なの?!」と言うときの目つきもいい。こういう感じは、ダンストならではである。
◆今回、モダンジャズがかなり使われる。MJ(キルスティン・ダンスト)が主役をつとめるブロードウェイ・ミュージカルの舞台『マンハッタン・メモリーズ』で歌うのも、アーヴィン・ベルリンの "They Say It's Wonderful" だった。あまりうまくはなかったが、それはわざとだったかもしれない。彼女の初日の舞台は新聞のレビューでくそみそにけなされ、主役交代になるからだ。失業した彼女は、ジャズクラブでウエイター件歌手として働き、ジャズを歌う。
◆ピーターのアパートの家主を演じているエリヤ・バスキンは、端役として多くの作品に出ているが、わたしが最初に彼の個性を印象づけられたのは、『ハドソン河のモスコー』のアナトリィ役を演じたときだった。それから20年以上たったいま、彼もずいぶん老けたなと思う。他人のことは言えませんがね。でも、エリア・バスキンはいい仕事をしているし、その娘アースラー役のマジェイナ・トヴァ(→)が、ちょい役ながら、きらりと光る演技をしている。
◆ピーターのアパートの部屋には警察無線を聴くラジオ受信機がある。その銘柄はRadio Shackの"Reallistic"だ。でも、Realisticは短波用で、警察無線は聴けたかな?
(TOHOシネマズ六本木ヒルズ/ソニー・ピクチャーエンタテインメント)



2007-04-11

●マルチェロ・マストロヤンニ 甘い追憶 (Marcello, una vita dolce/2006/Mario Canale, Annarosa Morri)(マリア・カナーレ、アンアローザ・モッリ)


◆とにかく1950年代の末から60年代にかけて「洋画」というものを見始めた者には、好き嫌いを問わず、マルチェロ・マストロヤンニを見ないわけには行かなかった。本ならば、「また茂木健一郎かぁ」というようにあっさり敬遠できるが、マルチェロの場合、監督も共演者も気になる連中ばかりとくると、見ないわけにはいかなかった。つまり、 マルチェロ・マストロヤンニという俳優は、わたしにとっては、ジュールズ・ダッシンやデシーカやフェリーニやアントニオーニの「つけたし」として不承不承に知ることになった俳優だった。
◆ひとつには、どこかに醒めた職人気質があって、何でもうまくこなすのだが、その「同化的魔術」にこちらが引っかかって「同化」の気分に浸るということが出来なかったのだ。いまの日本では、役所広司がそのタイプかもしれない。この映画のなかで使われているソフィア・ローレンのインタヴューによると、マルチェロには「田舎者の抜け目なさ」があるという。だから、当時の意識では、彼を一躍有名にした『甘い生活』よりも、ピエトロ・ジェルミの『イタリア式離婚狂奏曲』(1961年) の道化的で自虐的なキャラクターが面白かった。
◆マルチェロで思い出すのは、アントニオーニの『夜』(1961 年)を見たときのことだ。相手役のジャンヌ・モローがしゃべる(二人の愛は終わったと)のをさえぎってマルチェロがキスをするのだが、字幕に「黙って、黙って、黙るんだ」と出たのがえらく気にいり、いずれ自分も使ってみようと思った。イタリア語も「黙れ」を3回くり返したのだと思うが、原語の方は全くおぼえていないで、この字幕のリズムに惹かれたのだ。しかし、その後のわたしの恋愛体験のなかでは、とうとうこの台詞を使う機会はなかった。わたしが出会った相手はみな、このようなシチュエイションになると黙ってしまい、こちらが「黙って、黙って、黙るんだ」と言う必要がなかったのである。
◆アルカイブと多数のインタヴューを合成して作られたこのドキュメンタリーで、初期のマルチェロが、かなり「田舎臭い」タイプだったことが指摘されている。それが、『甘い生活』でがらりと変わった。映画宣伝的にもマルチェロの売り込み方が変わったということだ。しかし、これによって彼は、かえって心の奥に秘めているものを明かさないという姿勢を強めたように思う。マルチェロは、基本的に努力家で、「ドンファン」とはちがうのだが、世間的には、「宵越しの金は使わない」という態度をし、撮影のときも、台本をあらかじめ頭に叩き込んだりはしないというふりをした。
◆このドキュメンタリーには、マルチェロの2人の娘が登場する。舞台女優フローラ・カラベッラとのあいだの娘バルバラ・マストロヤンニと、カトリーヌ・ドヌーブとのあいだの娘キアラ・マストロヤンニだ。彼女らが比較的長いコメントをしている。マルチェロは、私生活を守ろうとし、2人の娘とのことを語ることはなかったので、2人の発言はなかなか面白い。バルバラはキアヌよりも父親といっしょの生活が長いので、彼女の証言からは、マルチェロの日常が浮かび上がる。キアヌが、父の映画を見て思い出したりするが、なつかしいのは、その姿よりも声だと言っているのが印象的だった。たしかにマルチェロの声は独特でセクシーだった。
◆私生活を維持するためにマルチェロはかなりの無理をしたが、そのせいか、マルチェロが、自分に無理を強いる役を演じるとき、わたしは最も彼らしい役をしているように思う。無理をする人間が適役なのだ。『イタリア式離婚狂奏曲』、『夜』、そして『8½』がそうだ。そういう無理をする役がマルチェロに合っているということを強く実感させたのは、マルコ・フェレーリの『最後の晩餐』(1973年)だった。ここでマルチェロは、サディスティックなセクシャリティに執着のあるナルシシストの国際線機長を演じている。他の役者もみなツワモノで、ウーゴ・トニヤツィ(シェフ)、ミッシェル・ピコリ(テレビ局のプロデューサー)、フィリップ・ノワレ(裁判官)と、最後に生き残る女性をアンドレア・フェレオールアがあやしく演じている。ここに登場する社会のセレブたちは、みな性的に屈折しており、そのうえ、この世をはかなんでいる。セックスをし、グルメ料理を死ぬまで食いつくすという、バフチーンが礼賛するフランソワ・ラブレー的な「祝祭」と悪ふざけを描いたこの映画は、カンヌ映画祭では猛烈な顰蹙を買ったと、このインタヴューでフィリップ・ノワレがなつかしそうに回顧している。
◆『イタリア式離婚狂奏曲』を監督したピエトロ・ジェルミは、アルカイブのインタヴューのなかで、マルチェロの国際的な人気は、彼がイタリアの俳優のなかでは「ローカルすぎない」こともあるいう。つまり、臭すぎず、適度の「イタリア」らしさをただよわせているところがいいという。クールな意見だ。
◆インタヴュー(この映画のためのものはなく、みなどこかで一度見た感じがする)のなかでマルチェロは、自分の「師」はルキノ・ヴィスコンティで、フェリーニは「友人」だと言っている。なるほど、フェリーニといっしょにいるときのマルチェロは実に楽しそうだ。それと、フェリーニという監督は、ヴィスコンティとは対照的に気さくな人間だったようだ。撮影スタジオで、彼がスタッフにコーヒーを運んだりするシーンが見られる。マルチェロは、ヴィスコンティとは『白夜』(1957年)で初めて仕事をするわけだが、マルチェロの演技の質が一段レベルアップしたのはたしかにこの作品からだ。しかし、『異邦人』(1967年)はいただけなかった。これは、ヴィスコンティの映画としても出来がよくない。一説では、原作者のアルベール・カミュ夫人があれこれ注文を出し、さすがのヴィスコンティも手が出せなかったという。いずれにせよ、このマルチェロ・ドキュメンタリーでは、ちょっとではあるが、ヴィスコンティがマルチェロのころを語る映像を見ることが出来る。彼を正面から撮った動画を見たことがないので、感動的だった。
◆マルチェロというとフェリーニとの関係で論じられることが多いが、わたしは、フェリーニよりもフェレーリ、そしてフェレーリよりもエットレ・スコーラがマルチェロに一番合っていたと思う。彼の映画では、マルチェロは他の監督のときよりも「自然体」を見せているように感じられる。それは、一つには、いっしょに仕事をした年齢もあるかもしれない。マルチェロには、非合法時代に「共産党員」である者が見せる「心の内を明かさない」姿勢が染みついているようなところがある。おそらく、彼も党員だったのだと思う。そういう古典的な「活動家」のキャラクターと古典的な政治性を共有する監督スコーラとの仕事がうまくいかないはずはない。スコーラとの作品は、『あんなに愛しあったのに』(1974年)も『特別な一日』(1977年)も『ヴァレンヌの夜』(1982年)も『マカロニ』(1985年)も『スプレンドール』(1988年)も『BAR(バール)に灯がともる頃』もみなすばらしい。
◆ソフィア・ローレンは、『昨日・今日・明日』(1963年)でも『あゝ結婚』(1964年)でも『ひまわり』(1969年)でもマルチェロと息の合った共演をしており、そのすべてが名作だが、このドキュメンタリーでは、アルカイブからの証言以外には登場しない。彼女は、まだ現役だからインタヴューに出てもいいはずだが、自粛したのだとすれば、賢明だったかもしれない。映像なので失礼を顧みずに言うと――肥満したクラウディア・カルディナーレ(『汚れなき抱擁』、『8½』など)やフィリップ・ノワレ(前述)、すっかり気のいいおばさんになってしまったアヌーク・エーメ、もともと怖かったがもっと恐ろし気になったリーナ・ヴェルトミューラーらの映像は、時の非情さを感じさせるからである。ローレンは、映像の記憶を壊すことをさけた?
◆このドキュメンタリーのなかで、お世辞抜きにマルチェロを懐かしむのは、マルチェロの出演作の多くの音楽を担当したアルマンド・トロヴァヨーリである。このドキュメンタリーは、彼の弾くジャズピアノで始まり、何度か彼がピアノに向いながら、マルチェロを懐かしむシーンがある。これも時の非情さだが、その真摯な表情さがそれを癒してくれる。
(メディアボックス試写室/クレストインターナショナル)



2007-04-10

●インランド・エンパイア (Inland Empire/2006/David Lynch)(デイヴィッド・リンチ)

Inland Empire
◆すでに内覧はあったが、社内試写初日なので、さぞかし混むだろうと思って行ったら、そうでもなかった。30分まえになっても前の試写が終わらず、パンフは積まれているが、配られる気配もないので、ロビーの自動販売機でコーヒーを取る。が、えらい味で、捨てに行った。その後、「デイヴィッド・リンチがプロデュースしたコーヒー」というのを配給さんが出してくれ、ちょっといやされる。モカ系のそのコーヒーは、リンチの会社があつかっているらしいが、彼の映画とはどう関係があるのかわからない普通の味だった。
◆冒頭、ドドーンと腹に響きながらも、ノイズ系の響きのする音に、まず期待がはずんだ。画面一杯に"INLAND EMPIRE"という文字を書き詰めた感じのタイトルの前後に出て来るモノクロの二つの映像は意味ありげで、一方は、長く白光を投射しているライトであり、もう一つは、古い「蓄音機」の針と盤面とが接触するショットである。そのスクラッチ音の使い方もノイズ的。音も映像も、というより音や映像への姿勢が、『イレイザーヘッド』に一番よく似ている。
◆『イレイザーヘッド』については、『キネマ旬報』にかなり入れ込んだレヴューを書いた記憶がある。作品は伝説化されていたが、日本で公開されたのは1981年だった。1980年の『エレファントマン』があたり、その波状効果で公開されたのだ。
◆ジル・ドゥルーズは、デイヴィッド・リンチに興味はないようだが、リンチの作品は、ドゥルーズが1983年/1985年に刊行した映画論で言っていることと重なる部分がある。いや、ドゥルーズの観点でこの作品を見ると、納得がいくと言っておいた方が無難だろう。昨年ようやく翻訳が出た『シネマ2*時間イメージ*』(宇野邦一・他訳、法政大学出版局)から、ランダムに引用してみよう。「『私に一つの脳を与えてください』というのが、現代映画のもう一つの形象である」、「アントニオーニは、現代的な頭脳と、疲労し消耗し神経症になった身体とが世界に共存していることを批判している」、「世界そのものが頭脳」、「哲学と映画のまれに見る婚姻」、「だからといって抽象的ではない」、「脳とはもはや一つのズレ、刺激と応答の間のある空虚以外のなにものでもない」、「イメージの連鎖によってではなく、たえまく再結合される断片化によいって作動する」、「脳の三つの構成要素とは、点-切断、再結合、黒か白のスクリーンなのである」。
◆リンチは、台本なしに撮影を始めたという。が、にもかかわらず、全体としてプロットがある。このへんが、あえて言えば、ドゥルーズの言う「脳の映画」らしくないところであると言えるかもしれない。映画のなかの映画、映画を撮ることを撮った映画という点だ。これは、ある意味で月並みだ。「脳」のとって、二重化(意識)はあたりまえだからである。まず俳優ニッキー(ローラ・ダーン)がおり、彼女は、数日まえに新作映画『暗い明日の空の上で』のヒロイン、スーザンの役が決まったばかりだ。相手役は、デヴォン(ジャスティン・セロー)。その監督が、ジェレミー・アイアンズが演じるキングスリー・スチュワート。俳優の私生活と役柄とが交互に、交錯しながら展開する。それらの時間は、「現在」だけではなく、過去が混じりあう。その映画『暗い明日の空の上で』の時間も複雑だ。さらにこの映画の異なる時相のなかに登場するロスト・ガール(カロリーナ・グルシカ)がテレビと夢想(?)のなかで見る世界がある。しかもその世界は、ウサギ人間が登場する戯画的映像(どこかで見たことがある)(ただし音は別)と、ポーランドらしい場所で展開されるドラマからなっている。
◆ポーランドのシーンは、実際にポーランドで撮影された。なぜポーランドなのだろうか? そのヒントは、冒頭のシーンにあるように思う。ポーランド系らしい一人の初老の女性(グレイス・ザブリスキー)が女優ニッキーの豪邸を訪ねてくる。近所に引っ越してきたので、挨拶に来たというのだが、他人が知らないはずのニッキーの私事を知っている。
◆ハリウッドの有名な丘が映るのも暗示的である。このハリウッドも、撮影所とハリウッドのヴァイン通りとに二重化されており、その通りでで売春婦が死ぬシーンがあるが、それが撮影のための演技であることが暴露される。その通りは(実際の通りも使われている)セットだったとも取れるし、実際の通りとセットの通りとが入れ子状になっているという風にもとれる。
◆頭がうさぎのヒューマノイドが出て来るシーンには、テレビの公開放送のような、観客の笑い声(あるいはあらかじめ録音されたものをそのつどかぶせる)が聞こえるが、このうさぎは、悪魔を象徴する山羊と同様に不吉な印象をあたえる。それは、決してバニーガールのイメージではない。このうさぎは、『不思議な国のアリス』のうさぎだという意見がある。そういえば、『不思議な国のアリス』んも世界も入れ子状で多重化されている。
◆リンチのこの映画の世界は一見「複雑」だが、その複雑さは、実の俳優が映画のなかで俳優を演じ、その登場人物がまた演技や嘘を見せるといったような多重化によって構成されているにすぎない。いわば紙を何重にも折るやり方であって、異質なものがレベルを変えながら混在し、分子レベルで混じりあっているというのとは違う。それは、たしかに「内陸」(inland)へ向って複雑化して全体をなしている「帝国」(empire)なのだが、その内部は平面図に図解できるような横の複雑さにすぎない。
◆最初の暗示的な映像にひっかけて言うと、この映画は、そうした平面的な複雑さを気まぐれにサーチライトで照らして見せているような感じである。サーチライトではなく、全体を照射する全方位的なライトがあれば、事態はもっと単純になるはずだ。同じく最初に出て来た「蓄音機」の針のように、レコード盤の溝(グルーブ)を「内側」に向って進むという意味では、「内奥」へ入り込むのだが、どの道同じ平面を動いているにすぎないのである。
(角川ヘラルド試写室/角川映画)



2007-04-09

●フリーダム・ライターズ (Freedom Writers/2007/Richard LaGravenese) (リチャード・ラグラヴェネーズ)

Freedom Writers
◆1994年のサンフランシスコ、ロングビーチにあるウィルソン高校に23才のエリン・グルーウェル(ヒラリー・スワンク)が国語の教師として赴任してくる。が、受け持つことになったクラスは、ラティノ、アフリカン・アメリカン、中国人、カンボジアなどの人種でかたまり、エリンの話などまるできいていない。このクラスには、学校内のあらゆる意味での「落ちおこぼれ」や問題児(出演者がリアリティを出している)のふきだまりだった。彼や彼女らは、人種のタテワリで結束し、異なる民族間でいがみ合いをくりかえしていた。時代も悪く、2年前(1992年)に起こったロス暴動の後遺症がクラスにまで引き継がれていた。学校は、教育の使命はとうに放棄し、規律を教えれば十分と割り切っている。かつて公民権運動の活動家であった父親(スコット・グレン)をもつエリンは、あえてこの学校を選んだのだが、現状は彼女の予想をはるかに越えていた。父に相談すると、彼は、いまの仕事は腰掛けにして、転職を考えた方がいいと言うのだった。しかし、彼女は屈しなかった。
◆とはいえ、この映画は、それほど「頑張り」を強調しない。むしろ、彼女の天性と幸運が難関を打開していったように見える。外の縄張りと人種的セクト主義がそのままもちこまれた教室では、生徒は人種ごとにかたまり、授業には不向きだった。エリンが人種別にかたまるのを変えたとき、生徒は反発し、教室から姿を消してしまう。転機は、ラティノの生徒が、アフリカン・アメリカンの生徒を馬鹿にするマンガを描き、エリンが黒板の方を向いているすきに回すというイジメをやったときだった。最終的にその絵を見た彼女は、ナチスのホロコーストの話を始める。カギ鼻をユダヤ人の特徴として、差別し、強制収容所に容れて大量殺戮をし、縄張りを争うどころか侵略して国を奪ってしまったナチス・・・。その話は、貧困のゲットーに住み、人種間、ギャングと警官、親と子の抗争にまきこまれている生徒たちには、歴史のエピソード以上のリアリティをもって響いた。
◆映画では明示されないが、エレンの父はユダヤ系の可能性が強い。黒人(アフリカン・アメリカン)の公民権運動に賛同した白人や、60年代に「ニュー・レフト」や「ニュー・ラディカルズ」として活動した白人には、ユダヤ系が多かった。これは、一つには、それは、40~50年代のアメリカでは、赤狩りでわかるように「反共」的気分が広まり、学校ではマルクス主義や左翼思想を敬遠するところが多かった。そうした思想や知識は、親兄弟を通じてしか伝達されなかったので、教育熱心なユダヤ系のファミリーの子供が時流に流されずにそうした思想を親から受け継ぎ、デモのやり方や警官との闘い方を学んだ。
◆原題 "Freedom Writers"の由来は、映画のなかで説明される。エレンは、彼の父親が関わった「公民権運動」で、バスの人種隔離政策に反対した活動家たちと "freedom riders"、その活動を"freedom rides"と呼んだことを話す。改革に否定的な教科主任(イメルダ・スタウトン)と学校を動かすために、生徒たちの日記を本にすることにしたとき、生徒たちは、本のタイトルとして"freedom Writers"を選んだ。
◆エレンは、最初、教室の現状を打開しようとして、ラジカセを持ち込み、ラップミュージックをかける。これは、ちょっと雰囲気を変えたが、「先生、無理すんなよ」的な顰蹙を買った。画期的だったのは、ノートを配り、日記を書かせたことだった。そこには、生徒たちは、家庭のことや、幼いころに経験した恐るべきこと、難民キャンプのこと・・・を書いた。この映画は、そうした日記をまとめ、出版した本(The Freedom Writers Diary)がもとになっている。
◆教師のはしくれとして、わたしが共感し、感動したのは、エレンが日記のためのノートをはじめとして、全員にくばる本(そのなかには、『アンネの日記』もある)、それからホロコーストに興味を持った生徒たちをホロコースト・ミュージアムへ連れて行く費用も、みな、彼女が自腹を切ったことだった。ミュージアムの帰り、彼や彼女らをホテルのレストランに連れて行き、パーティを開いてやる。それも自腹だ。彼女はそのために、デパートの下着売り場とそのホテルの接客でパートタイムをしたのである。大学でも、読むに耐えないような「教科書」を学生に売りつけるような教師がいる。切手一枚も学校から出させようとする教師がいる。むろん、学校が出すと言うのなら、出させて、それを学生のために使うのはいい。しかし、エレンがちゃんと学校の図書館にある本を生徒に教科書として貸し出そうとしたら、教科主任が、「あんな生徒たちに貸したら、落書するだけよ」と言って貸し出すこと許さない。だから、彼女は、自費で買って与えたのだった。学校の「制度」を越えて何かをやろうとすれば、自腹を切るしかない。
◆メリル・ストリープがハーレムの小学校で貧しい子供たちにヴァイオリンを教える『ミュージック・オブ・ハート』でも、ストリープは、生徒全員のために自費で買ったヴァイオリンを使わせていた。
◆エレンの夫は、最初非常に協力的にみえるが、帰りが遅かったり、いつも学校の話ばかりしているエレンに、学校と「ぼくたち」とのどちらを選ぶのかと言い出す。ある意味ではあたりまえの成り行きだが、この映画を見ていると、夫があまりに月並みに見えて来る。しかし、映画は、夫をあえてそういう存在としては描いているわけではない。むしろ、不可避的な帰結としての描き方だ。実在のエレンとその夫との関係にもとづいているのだろうが、映画としては、ありきたりな挿話。
◆エレンが、ナチスのホロコーストを使ったのは、若干ワイルドカードの使いすぎという感じがしないでもないが、現代史と反権力運動の歴史を学ぶとき、ナチズムから入るのは非常に効果的である。映画では、縄張り争いのため、通学にもピストルを持ち歩き、撃ちあいまでするシーンが出て来るが、生徒たちは、外に出れば捕まえられ、殺される危険につきまとわれていたアンネ・フランクの状況に共感する。日常的にはゲットー間の抗争を経験することが少ない日本の文脈から考えると、そういう読み方もあるのかということにはっとさせられる。
◆ホロコーストの証人を呼ぼうという気運が生徒たちのあいだで高まり、資金獲得のパーティを開いたりして、アンネ・フランクの友人だったミープ・ギエスをヨーロッパから呼ぶことに成功する。この高齢の女性を演じるのが、パット・キャロル。1927年生まれの芸達者な役者らしいが、ここでは「素人」ぽい感じを出し、まるで「ホンモノ」のよう。
◆やっかいな学校組織のなかで「官僚的な日和見主義」をきめこむキャンベル教科主任を演じるのは、『ヴェラ・ドレイク』を演じたイメルダ・スタウトン。この映画におけるラグラヴェネーズの演出法は、一見「いかにも」のタイプでありながら、それに陥らない役を作る。スタウトンは、もっと意地悪なタイプの「小役人」にして、それがエリンに振り回され、見る方はそれで溜飲をさげるといったタイプにすることもできたであろうが、そうはしていない。そこが面白い。エリンの夫役のデンプシーの演技も同様だった。
(UIP試写室/UIP映画)



2007-04-05

●サイドカーに犬 (Saidoka ni inu/2007/Negishi Kichitaro)(根岸吉太郎)

Saidoka ni inu
◆母が出て行ってしまった家庭の幼い少女・薫(松本花奈)がふうっと夢見ることをそのまま映像化したような映画。腹が少し出た父親は頼りなく、彼女が夢見ることが「現実」にそのままの形で起こることはないとしても、「でも、そんなことがあったらいいな」と思う少女らしさにはふさわしい。彼女は、実母とはちがった「母」がほしい。それは、「母」であり「姉」であるような存在だ。中村獅童と別れ、シングルマザーとなってその美しさに奥行きが出来た竹内結子が、そんな少女のあこがれの女を演じる。
◆不動産の営業係だが、どこか人嫌いの感じのある30歳の薫(ミムラ)が20年前を回想するという形式。終わり近くまで30歳の薫は登場せず、10歳の薫役の松本花奈と、母(鈴木砂羽)が突然去ったあとに現われるヨーコ(竹内結子)とがドラマの中心になる。
◆母がいなくなった家に薫が一人でいると、いきなりドイツ製の自転車に乗ってあらわれ、食事の支度をするヨーコ。彼女は、スーパーで、実母はなかなか買ってくれない「ムギチョコ」を買ってくれ、袋ごと渡してくれる。ラーメンの皿に大雑把に空け、弟(谷山毅)と2人で自由に食べさせる。母親はこういうことはしない――ということを前提とすれば、これは、子供にとっては夢のようなことだ。
◆父親があらわれたとき、映画の雰囲気が突然猥雑な感じになった。父親を演じているのが古田新太。わたしは、この手の顔が嫌いで、その「粗野」な言葉使いと態度にうんざりする。わたしは登場人物と役者の印象とをごっちゃにし、〈大体、こんなやつが竹内結子みたいな女を彼女にするははずがないだろう〉、と思う。実は、この意外性が、この映画の仕掛けであり、面白いところでもある。
◆あるシーンで、古田は、椎名桔平、ドミーズ雅、山本浩司とマージャンをしている。部屋にはタバコの煙がもうもうとしている感じ。谷山は専用ゲーム機(親父がどこから持ってきた)をピコピコ言わせながら遊んでいる。こんなもの長時間空気の悪いところでやり続けたら、幼い身体に悪いという感じ。その喧騒のなかで、松本(薫)は教科書を開いて勉強をしている。竹内(ヨーコ)も、無関心に本を読む。こういう空間は、わたしなら無理しても避けたいので、このシーンは、わたしにとっては「拷問」になる。が、ねらいは、こういう猥雑な人間関係のなかに、彼らとは通常なら似合わない竹内結子をぽんと置くことなのだ。
◆まあ、その場合、あんまり「高貴」でも、またあんまり「不良」ぽくても一般受けがしなくなるので、竹内結子あたりがバランスよくおさまる。少女(薫)の夢と願望の「想定内」におさまるからである。薫の目から見て、「どうしたんだろう?」と思わせる、やや奥行きのあるシーンは、父親が「もう飯いいや」(飯だけつくらせているわけではないが、薫の目には、そういう面が記憶に残ったということ)と言ってヨーコと縁を切り、竹内がすんなり去るときにふと見せる涙のシーンである。ここは、竹内の演技の技量が確実に広がったことを示唆する。
◆古田が演じる父親は、薫にとってどんな存在だったのだろうか? あやしい仲間と中古車のブローカーをやっているが、だんだん盗難車の売買にまで手を出し、やばい状態になる。視点が子供の薫だから、父親と母、ヨーコとの修羅場は描かれない。別れのシーンも、「もう飯いいや」だけである。子供に見える範囲で世界が構成されるからだ。その父親が、あるとき、50円玉の縁に何かを巻きつけて100円サイズにしたものを、自動販売機で使えると言って、薫にくれる。映画の終わりの方で、彼女がそれを自動販売機に入れると、警報がなってしまい、彼女は一目散に逃げる。そのときのことを薫は回想しているわけだから、すべてがなつかしく思われるはずだ。しかし、こういう父親というのは、なさけない感じがしないでもない。拡大解釈すれば、こんな父親はいなくてもいいし、家を出て行った母親もいらない。薫にとっては、ヨーコと家出のような気分で田舎の海岸に行って過ごした夏休みが最高の「家庭生活」だったのである。
◆大熊ワタルの音楽に「メジャー」な映画で出会うのは、『豚の報い』以来だが、残念ならが、大熊らしさが活かされていなかった。
(メディアボックス試写室/ビターズ・エンド)



2007-04-03

●ボラット (Borat: Cultural Learnings of America for Make Benefit Glorious Nation of Kazakhstan/2006/Larry Charles)(ラリー・チャールズ)

Borat
◆GAGAの試写室が、先日オープンしたばかりの六本木の東京ミッドタウンのビルの37階に移った。初めてなので手間取ると思い、早く出ようと思ったが、やっかいなメールの返事などで遅れる。乃木坂駅で降り、外に出たら、看板を持った人が立ち、方向を指示していた。すでにけっこうの人。一階にイタリア料理の「ダノイ」などもあるビルをうろうろし、レセプションで聞いたら、ギャガは別棟だった。試写室は37階だが、33階の受付に行かなければならない。それから(なぜか)内階段を登る。うーん、これだと地下鉄の駅を1つ歩くぐらいの距離がある。昔の試写室がなつかしい。
◆最初に「カザフスタン」政府の文字(いかにもベルリンの壁崩壊以前のイメージで)が出てくるので、マジでカザフスタンをからかっているのかと思ったら、カザフスタンは、この映画の観客がほとんど知らないことを前提としたギャグのための仕掛けにすぎないのだった。まず、カザフスタン」の国営テレビのレポータという設定のボラット・サカディエフ(サシャ・バロン・コーエン)が、「西洋文明」と比較して「カザフスタン」がいかに「特殊」であるかが痛烈にレポートする。そのあげく、「プロデューサーのアザマート(ケン・デヴィティアン)とともに、「栄え(はえ)ある国家カザフスタンのためにアメリカから学習する」(この映画の副題)べく、アメリカにおもむく。
◆ニューヨークからはじまる2人の旅は、一見、仮想の「カザフスタン」という「無垢」な目でアメリカを観察し、そういう形でアメリカを批判する――というよくあるパターンかと思わせる。しかし、そうではないことがだんだんわかってくる。これは、基本的にギャグ映画である。ギャグのためなら、政治も文化的差異もシモネタもなんでも動員しようという半端でない根性でつくられているのだ。
◆ギャグやジョークに差別が使われるのは常套である。いまの時代、アメリカでは人種差別は命とりになるが、それでも、人種差別だと非難されないために、「まんべんなく」異なる人種を配列し、その相互関係のなかで相殺するようなテクニックを使う。あるいは、この映画の「カザフスタン」のように、普通の人があまり知らないような国をネタにし、その国の人間をコケにして笑いを取ったりする。
◆すぐ見てわかったが、この映画は、典型的なジューイッシュ・ギャグ・ショウである。ジョークのエスカレートの仕方が典型的だ。ユダヤ的ジョークは、基本的に諧謔と皮肉に満ちているが、もう一つの特徴として、かぎりなく話が飛躍していく。これは、シュールレアリスムやカフカの小説の飛躍、シャガールの絵にある造形的飛躍のように「昇華」された形であらわれることもあるが、もっと「庶民的」なレベルでは、この映画のボラットの行動のように、駄洒落のためには右翼ネタも左翼ネタも手加減せず、幼児的なスカトロジーネタのサービスまでしてしまう。
◆この映画、脚本・製作・主演をこなすサシャ・バロン・コーエン自身がユダヤ人であることを逆手にとって、非ユダヤ人が言ったらたちまちレイシストという烙印を捺されかねないギャグを連発する。カザフスタンのあたりにはもともとユダヤ人差別があったが、映画の「カザフスタン」では、ユダヤ人をコケにするお祭りがあるという設定になっている。女は、売買され、ボラットの妻も、もとは奴隷だったという。まあ、ユダヤには、ナレーション/物語の伝統があり、そこにはホラ話が混在するから、この映画のナレーションで言われたことも話半分にきかなければならないわけだが。
◆映画の冒頭に出る文字も、ある意味ではホラである。ロシア文字が出て来るが、あまり意味をなさない。ボラートがしゃべる「カザフスタン」語は、東ヨーロッパなまりのヘブライ語やポーランド語がいりまじっているという。ほとんどタモリの「中国語」と同等のものと考えてよい。ちなみに、その昔、タモリがテレビでやっていた「中国語」は、いまでは差別になってしまうのでできないらしい。まだテレビでその芸を見せていたころ、中国に旅行したタモリが、田舎でタモリ中国語を使って村人に話しかけたら、向こうは、(中国語には方言がたくさんあるので)どこの方言だろうという顔をしながら、一生懸命耳を傾けてくれたという――その話をタモリがテレビでして大笑いをしていた。
◆最近、NBCのラジオショウ "Imus in the Morning"の名物的ホストのドン・アイムスが差別発言で物議をかもし、結局、この番組自体がつぶされることになった。問題は、彼が、バスケットボール戦に言及した際、黒人女性選手たちのことを笑いながら "nappy-headed hos" (「縮れっ毛頭のスケたち」ががんばるねぇといった意味合い)と呼んだのが、セクハラで人種差別だということになったのだった。"hos"は、"ho"の複数で、"hooker"や"whore"(いずれも売春婦の意)などと関係のある、女性の蔑視語である。面白いのは、同じような言い方をしても、それが黒人のスヌーピー・ドッグスなら許されてしまう点だ。アイムスは、アイルランド系の白人で、大物の政治家に対しても歯に衣着せぬ質問をあびせるのが面白かった。別に、確信犯的人種差別主義者であったというわけではなかったが、この一言で彼の人生は変わった。
◆この映画の場合、カザフスタン政府から抗議があったらしいが、公開は支障をきたしていない。これは、そのときどきの状況とタイミングが大いに作用するのだろう。かつて、『ミッドナイト・エキスプレス』は、トルコを歪めて描いたという非難を受け、わたしがこの映画をニューヨークで見たときは、本編上映のまえに、トルコがいかに「民主的な」国であるかをうたったトルコ大使館提供の短編を併映していた。アイムスの事件がマスコミに対して巻き起こしたインパクトは大きいから、「縮れっ毛頭のスケ」より強烈な「差別」にあふれた『ボラット』の場合、今後は安泰ではないかもしれない。
(GAGA試写室/20世紀フォックス映画)



2007-04-02

●ゾディアック (Zodiac/2007/David Fincher)(デイヴィッド・フィンチャー)

Zodiac
◆わたしはこの映画を2度見た。1度目は、「迷宮入」の連続殺人事件で消耗していく人々の屈折の物語として見た。犯人の究明に身を入れた才能肌の新聞記者ポール・エイブリー(ロバート・ダウニーJr.)は身体を壊し、新聞の挿絵漫画家のロバート・グレイスミス(ジェイク・ゲレンホール)は家庭を捨てることになる。しかし、2度目に見たときには、事件は事実上ちゃんと「解決」し、この映画は「まっとうな」終わり方をしているように見えた。エイブリーは、この事件がなくてもアル中になり、過度の喫煙で肺気腫になっただろう。グレイスミスも、どのみち入れ込めば家庭のことなど忘れる人間であり、この事件についての本を書きあげただろう。この映画は、ある意味で、仕事に身体を張る男たちの話であるが、同時に、独特の仕方で現実にコミットする映画でもある。
◆映画は、1969年7月4日の独立記念日の夜にカリフォルニア州バーレイーホで実際に起こったカップル殺傷事件のシーンから始まる。連続殺人の予告と暗号尾で書かれた文書が『サンフランシスク・クロニクル』紙にも届いたことから、新聞社では緊急会議が開かれ、記者のポール・エイブリーが動く。この時点ではロバート・グレイスミスは、会議の様子をはたから見ているにすぎなかったが、事件は彼の関心をつかんで離さなかったし、次第に彼の推理が有力なものになっていく。
◆プロとしての自負とそれなりの実績のあるポール・エイブリーは、最初、新聞の小さなコラムを担当しているだけの若い挿絵漫画家グレイスミスの存在自体を問題にしていない。が、次第に彼に注目し、親友になる。時がたち、事件に賭けたエイブリーは、この事件のためだけではないはずだが、酒とドラッグに溺れ、バーでジャンキー的な生活を送るようになる。だが、この映画は、エイブリーが落ちぶれ、グレイスミスが成功して行くなどということを描くわけではない。もっと、込み入った、人生ではあたりまえのことを自然に描いているところがいい。
◆グレイスミスが事件にのめり込んで行くプロセスは面白いし、素人ならではの着眼も目を見張らせるが、この映画は、事件の解明は必ずしも警察の捜査と逮捕だけではないことを示唆しもする。実在のグレイスミスは、実際にこの映画の原作を書くことによって、警察レベルでは未解決のこの事件に答を出している。その意味で、この映画は、典型的な捜査やジャーナリスティックな推理の障害を示唆してもいる。
◆この映画は、捜査の方法自体に新しい側面を呈示しているだけでなく、この犯罪そのものの「新しさ」を指摘する。犯人は、過去の殺人事件の「引用」という形で犯行を行なっているらしいという点だ。
◆この事件が「迷宮入り」した要因の一つとして、鑑識の問題がある。この辺もこの映画特有の「両義性」(現実はすべて両義的である)に彩られているのだが、ブライアン・コックスが演じる鑑識の権威メルビン・ベリーが別の解釈を許容していたら、犯人は捕まっていたかもしれない。ベリーは、アル中になって職を辞めるが、だからといって、この映画は、原因が彼のせいだとも言わない。
◆この映画は、当然のことながら役者がいい。ロバート・ダウニーJr.の演技はアカデミー賞まちがいない。長年にわたって事件を担当する刑事デイブ・トースキーを演じるマーク・ラファロも、味のある演技を見せる。相棒が食っているサンドウィッチをもらい、中身のトマトを出してナプキンの上にのせ、レタスとバーガーの中身だけを食べるシーンが印象に残る。彼は、トマトが食べられないのである。
◆グレイスミスの妻となるメレニー(クロエ・セヴィニー)は、70年代風というか、若干ヒッピー的な匂いを感じさせる女性。『アメリカン・スプレンダー』でホープ・デイヴィスが演じたジョイス・ブラナーとちょっと似ている。しかし、アメリカ人の女としては家庭的で、事件の没入しすぎて家庭のことをないがしろにしただけでなく、犯人らしい人物からダンマリ電話までかかるようになって、子供たちをも危険にさらすというので、家を出てしまうが、グレイスミスを捨てるわけではない。家を出たあと、重要な情報を持ってきたのも彼女であり、そのとき、一人暮らしのグレイスミスに「ちゃんと食べてるの?」と尋ねる。
◆題名の「ゾディアック」に関しても、両義的な解釈を示す。犯人が使う丸十字のマークの出所だが、一つは、Zodiacという名の時計のマークであり、もう一つは、映画のフィルムを上映する際のフィルムの設定位置を表示した丸十文字マークである。しかし、このマークを見たとき、わたしは、イタリアの街頭で見た右翼のグラフィティのマークを思い出した。70年代後半のイタリアでは、アウトノミア運動という新しい運動が盛り上がり、79年にはそのなかから「赤い旅団」が生まれたという嫌疑から警察と軍による大規模な弾圧が始まったが、そのさなかで、アウトノミア派のグループが街頭の壁に描くグラフィティや落書に、右翼が反対の落書を書き加えるとき、そこに付けるマークがこの丸に十字のマークだった。わたしがローマで見たものでは単独の丸十字は少なく、大抵の場合、アウトノミア派がつけるハンマーと鎌のマーク(コミュニズムのシンボル)のうえに丸と十字を重ね書きするのだった。わたしが撮った写真では、「アウトノミア・オペライア」というグループの名につけた鎌のマークのうえに丸十字を書き加え、その下に「死刑執行人(より)」と書き加えられている。「ゾディアック」事件の方がアウトノミアとその反対派の運動の方があとなので、ひょっとすると、このマークは、「ゾディアック」事件で有名になったマークがアメリカからイタリアに波及したのかもしれない。
(丸の内プラゼール/ワーナー・ブラザース映画)


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