粉川哲夫の【シネマノート】
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ブロークン・フラワーズ シリアナ ぼくを葬る グッドナイト&グッドラック 春が来れば ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ 愛より強く 明日の記憶 ニュー・ワールド 隠された記憶 トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男 レント Vフォー・ヴェンデッタ
2006-02-27
●Vフォー・ヴェンデッタ (V for Vendetta/2005/James McTeigue)(ジェイムズ・マクティーグ)
◆今日は、めずらしく「映画が盗まれている、感動が盗まれている・・・」という不快なクリップの上映がなかった。その代わり、怖い女の警備員がスクリーンの横にしばらく立って客席の方をにらんでいた。「マスコミ試写」では一応名前を押さえているわけだから、そんなにしなくても大丈夫だと思うんですがね。
◆皮肉なことに、この映画は、権力を(したがってあらゆる意味での監視を)あざ笑うような話をあつかっていた。時代は、近未来のイギリスで、すでに「アメリカ合衆国」はイギリスの植民地になっているという設定。このへんに、この映画のアメリカ批判・揶揄がある。イラク戦争への荷担をブッシュから強制されたイギリス側からの小気味いい逆襲である。
◆冒頭、「ガイ・フォークス」(Guy Fawkes) の伝説が、速いテンポで紹介され、「正義は400年後でも世界を変えられる」というせりふとともに、「フォークス」のよみがえりとして「V」が登場する設定になっている。ガイ・フォークスとは、1605年11月5日に、国会議事堂を爆破し、国王ジェイムズ一世を暗殺しようともくろんだリーダの名である。この計画は失敗に終わり、フォークスとその一味は処刑された。以来、11月5日には「国王の安泰」を祝って花火を打ち上げ、「ガイ・フォークス人形」を燃やす「ガイ・フォークス・デイ」が開かれるが、この映画は、まさにこの「ガイ・フォークス・デイ」を逆手に取る。つまり、支配体制側の「祭り」を被支配者側の祝祭に転化するわけだ。
◆タイトルにある「V」は、「フォークス」の「F」のなまりであり、また「Victory」(勝利)の「V」を示唆するが、○のうえに「V」が重ね描きされたグラフィティが映画のなかに出てくる。この図柄を180度回転すると、Anarchyのマークに似た感じになる。むろん、それを意図していることは明らかだ。
◆日本では、広末涼子が典型なような「マシュマシュ」言葉というか、歯をしっかりつけない(「そしたら」が「ソスタラ」、「ました」が「まスィた」になる)発音が流行りだが、ナレーションのときのポートマンの発音が、舌足らずで、ちょっと類似性を感じた。しかし、それは、広末などどは違い、意図的な処置だったかもしれない。
◆V(ヒューゴ・ウィービング)は、独力で権力をあざ笑い、翻弄するが、最後は、若い世代に反抗と造反を継承する道を残す。そして、それが、ナタリー・ポートマンが演じるイヴィーのような、ひ弱な「小娘」であることが示唆的である。つまり、反抗と造反は、「英雄」ではなくて、「弱者」によって継承され、そこから「群衆」へと波及する。
◆とはいえ、ここで描かれる権力の構造は、かなり単純であり、支配される側のコンセプトも、たかだか20世紀前半期の「民衆」であって、ポストフォーディズム時代の「マルチチュード」的被支配者たちではない。この映画の権力は、(製作にあたって『1984』も参考にしたというが)「ビッグ・ファーザー」の支配であり、くりかえしサトラー議長(ジョン・ハート)がビッグ・スクリーンを通じて命令を下す。ここでの権威主義的支配構造は、「中央」から「末端」に放射されているのであるが、こういう支配構造は、いまでは、例外的にしかない。今日の支配は、ネットワーク化されており、いわば「中心」が移動しながら、支配する。「ビッグファーザー」は複数、いや多数おり、その顔もくるくる変わる。
◆しかしながら、この映画は、そういう状況のなかで権力そのものの存在を忘れたり、それに無関心になったりすることから目覚めさせるような力を持っている。どんなにネットワーク化さらたとしても、権力は存在し、それとの闘いは続いている。平和な暮らしをしているあなたも、ある日突然闘わなければならなくなる。もし、あなたがいまなんらかの闘いの渦中にいるとすれば、この映画は、あなたを元気づけてくれとこ、うけあいである。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)
2006-02-23
●レント (Rent/2005/Chiris Columbus)(クリス・コロンバス)
◆音楽も振り付けもワンパターン(たとえばすぐテーブルの上に乗るとか)で、途中で出たくなった。原作ミュージカルの音楽を大幅に変えているのだが、それは逆効果だった。出演者は悪くないのだから、クリス・コロンバスが愚鈍だったのだ。わたしは、『ハリー・ポッター』も、彼が担当しなくなってから面白くなったと思う。『アンドリュNDR114』もあまりよくなかった。
◆映画の最初の方のシーンは、まるで60年代のソーホーである。ロフトビルにレント(家賃)を払わずに居座り、友人が訪ねてきたときは、家主に文句を言われるのを避けるために入口の鍵を上から投げて渡す。これは、1960年代にソーホーがまだ倉庫や町工場の街であったころには見られた風景だった。産業構造のシフトとともに、次第に廃屋が増え、そこにスクウォッターとして住みついたアーティストたちは、「不法占拠者」として逮捕される可能性があるので、そんなことをしていた。リンゼー市長(実際にはその下で働いていたのちの市長エド・コッチ)が、都市活性化のためにソーホーをアーティストに貸すという政策を考え出し、ここからソーホーがアーティストの街になり、「ロフト・リヴィング」というスタイルが生まれるのである。これについては、むかし「ソホー――不法居住小史」(『ニューヨーク情報環境論』、晶文社)で書いたことがある。ちなみに、この本は、絶版になったと出版社から知らされたが、AMAZONで検索したら在庫があると出たので、3冊注文したら、3カ月ぐらいたってから、えらく言い訳めいた文章で、「入手不可能」のメールが届いた。文章自体はデジタルで読めるのだが、平野甲賀さんのデザインによる変形本で、わたしも余分に持っていたいと思ったのだった。古本屋にあったら、買うことをお薦めする。
◆この映画の原作ミュージカルは、1996年2月にイースト・ヴィレッジの「ニューヨーク・シアター・ワークショップ」で初演され、その直後の作者ジョナサン・ラーソンの急死事件も手伝って、評判を呼び、やがてブロードウェイに上り、「『ヘアー』以来の大ヒット」とまで言われるようになった。時間と場所は、1989年のクリスマスイブからの1年間のマンハッタンに設定され、映画もそれを踏襲しているが、ここには、原作者の特殊な思い入れというか、観客への暗黙の「約束」のようなものがある。つまり、ここで展開される世界は、一つの「夢」なのであって、この時代のニューヨークとは関係ないのである。実際、ラーソンは、このミュージカルをプッチーニのオペラ『ラ・ボエーム』の翻案として書いたふしがある。つまり、オリジナル・ミュージカルは、「ラ・ボエーム遊び」だったのだ。
◆しかし、映画は、そうした「参照関係」を楽しむような形式では演出されていない。むしろ、1989~90年という時代と実際のイースト・ヴィレッジを思い起こさせてしまうような演出になっている。が、そうなると、この映画の描く世界は、えらく空想的なものになってしまう。1989年にも、トンプキンス・スクウェアの近くとか、一部に「スクウォッター・ハウス」的な場所がなかったわけではないが、このミュージカル/映画のような規模でアーティストたちが「ボヘミアン」的生活をすることはもやや無理だった。すでに、1970年代の終わりごろでも、マンハッタンに住むアーティストたちは、安い住処を追われ、ブルックリンなどに「移住」せざるをえなかった。「ジェントリフィケーション」の大波は、金のないマンハッタンの住人から居場所を奪ったのだ。
◆エイズに関しても、この映画は、ミュージカルの「空想」的部分をばかげたリアリズムにおとしめている。この映画のなかで、フォーティーン・ストリートのストリッパー・クラブで働くミミ(ロサリオ・ドーソン)は、街の立ちんぼからヘロインを買い、ロクに消毒もしない注射器で血管に注入する。セックスもコンドームなどしている気配もない。実際に彼女はエイズにかかっているという設定なのだが、1989年という時代にこういうことをやっているのは、よほどのアホである。1985年以後、多くのマスメディアがエイズの脅威について報じはじめている。わたしは、1992年に「ビデオ・アゲンスト・エイズ」という企画を立ち上げ、町田市立国際版画美術館でエイズに関するドキュメンターリー展を開催してもらったが、そのとき、シカゴのヴィデオ・データ・バンクのミンディ・ファーバーらの協力を得て手に入れた多数の映像資料を見て、遅くとも1980年代末には、エイズ患者のあいだでも相当意識が高まっていることがひしひしと伝わってきた。この映画に出て来るエイズ患者のロジャー(アダム・パスカル)のような人物は、別にエイズでなくてもいいような存在で、あえて映画のキャラクターにする必要がないような気がする。ウィルソン・ジェリマイン・
ヘレディアが演じるゲイというより「オカマ」のエンジェルは、エイズで死ぬが、その死に方は、本当のエイズ患者に失礼なような死に方だ。
◆この映画のダメなところは、全体のMC役のマーク(アンソニー・ラップ)が16ミリの撮影機を持ち歩いていることにもあらわれている。何で16ミリなのか? 舞台では、それは、「いま」に距離を置く小道具として意味があったかもしれない。しかし、映画のなかでは、その映像が映り、しかも、それがテレビに買われて放映されるなどというエピソードが出て来るのである。1989年といえば、ビデオは相当普及していたし、テレビではニュース報道でフィルムを使うことはあまりなかった。それが、ライトも点けづに撮った映像が、それなりの明るさで映っていたり、テレビで使われたりするのである。うそもほどほどにしてくれと言いたくなる。
◆マークのかつての恋人で、いまは黒人の弁護士ジョアンヌ(トレーシー・トムズ)とレズ関係にあるモーリーン(イディナ・メンゼル)が見せるパフォーマンスというのが恥ずかしい。観客はやんやの喝采を送り、それが、「ホームレス立ち退き計画」への反対集会の目玉パフォーマンスになるという設定だが、この「マルチメディア・アート」まがいのヘタウマパフォーマンスのどこがいいのだろうか? こんな安っぽいパフォーマンスをメンゼルにやらせるのは気の毒であり、失礼ですらある。
◆コリンズ役のジェシー・L・マーティンは、オリジナルのミュージカルで出演していた俳優だ。この映画では、オリジナルメンバーが何人も出ている。10年近くたった彼や彼女らが演じるのだから、登場人物の年令を一段上げなければならないが、そういう操作はない。もとのミュージカルは、登場人物たちの若さということも重要なファクターだった。若いから、「俺たちアーティスト、だから家賃は払わない」なんて「ラ・ボーエーム遊び」も出来た。しかし、映画に登場する人物たちは、どう見ても、20代後半(いや、コリンズなどは30代後半にすら見える)に見えるから、そういう連中がこの映画のなかでやることは、決して「ラ・ボーエーム遊び」には見えないのだ。だから、アメリカの一部の批評で言われたように、「アーティストだからといって、家賃を払う必要がないなどという話はなってない」などという愚直な反発をくらうことにもなる。
◆【追記/2006-10-08】上記の「ノート」全文に対して、「厳しい」批判をもらった。基本的に怒り心頭に達しておられるようなので、わたしがなぜこのような「ノート」を書いたかをいま説明してもわかっていただけないだろうと思うが、とりあえず、ここに無断で掲載し、いずれゆっくり対応したいと思う。わたしとしては、いつもこういう熱烈な反応を期待しながら「ノート」を書いている面もあるので、感謝なのだが。
RENT について、粉川哲夫氏はあまりにも明らかな誤謬を、あまりにも数多く犯している。しかもそうした誤りのほとんどが、氏の勝手な憶測と解釈に基づいたもの、つまり知ったかぶりに起因したものである。現役の大学教授であり、自称ニューヨーク通として著書も多く、映画評論家としてそれなりの影響力のある者が、かりそめにもこの調子では、無責任という誹りをうけても仕方がないであろう。猛省を促したい。(全文→)(わたしのコメント→)(ブエナビスタ試写室/ブエナビスチンターナショナル・ジャパン)
2006-02-22
●トム・ダウト/いとしのレイラをミックスした男 (Tom Dowd & the Language of Music/2003/Mark Moormann)(マーク・モーマン)
◆久しぶりのTCC試写室。一番まえの席だとそっくり返らないと画面が見にくいので、2番目に座る。一番まえの列に客が来ないことを祈りながら。来ると、頭に隠れて、画面が切れてしまう。さいわい、わたしの前には最後まで誰もこなかった。ところで、このスペースはいつも「背徳的」な甘酸っぱいにおいがするのだが、なぜだろう?
◆トム・ダウドというと、わたしは、オーネット・コールマンの『FREE JAZZ』(ATLANTIC 1364)や『ORNETTE ON TENOR』(ATLANTIC 1394)の録音技師としての印象が強い。そのほかにわたしが持っているレコードのなかでは、レニー・トリスターノの『The New Tristano』(MJ-7041)や『lennie TRISTANO』(MJ-7087)の印象も強い。ルディ・ヴァン・ゲルダーのように前に出しゃばる録音ではなく、プレイヤーの特質を活かすのがダウド式なのではないかと思う。このドキュメンタリーのなかでも、ダウド自身言っているが、彼は、盲目のアーティスト(レニー・トリスターノ、レイ・チャールズ、ローランド・カーク)と相性がよく、彼らから独特の感性を学んだという。
◆録音エンジニアが、演奏にまで介入することはめずらしくないとしても、ダウドの場合は、すべてをわかっていて的確な指導をするのであり、この映画で彼が実際にそうしたコミットメントをするのを見て、わたしは、ひと時代まえの「編集者」のことを思い出した。20年ぐらいまえまでは、自分でも十分書けるが、自分ではそうしないで、的確かつ創作意欲をかきたる編集者がいくらもいた。わたしは、彼や彼女(女性は少なかったが)と「闘い」、「おだてられ」ながら、原稿を書いていた。
◆トム・ダウドの面白さは、彼が、1949年にアトランティック・レコーズの録音エンジニアとしてスタートし、ビニール盤に針でグルーブを刻み込む方式の録音からその後半世紀にわたり、ステレオ録音、さらには多重トラック録音、そして今日のデジタル録音までを自ら経験し、その間にさまざまな新しい録音技術を先導して来た点だ。テクノロジーを手作業として体感しているだけでなく、ミュジコロジーへの造詣、音楽家としての絶対音感をそなえ、まさにレコードの「編集者」としては抜群の人だった。
◆ドキュメンタリーに登場するレイ・チャールズにしてもエリック・クランプトンにしても、トムに対する信頼度はすごいものであり、彼らのあいだには、演奏家と録音技師との信頼関係はむろんのこと、単なる友人関係をこえた創造的な関係が感じられる。そこには、上下関係は感じられず、その語の本来の意味での「コラボレイター」の関係がある。
◆最後の方で、自分のことを他人は、世界の有数のミュージッシャンと仕事をして、さぞかし豊富なギャラをもらっただろうと言うが、自分が受け取ったのは、金額的には大したものではなく、問題は金ではなかったと述懐する。金、金と言っているやつはろくな仕事ができない。
◆核物理学を専攻し、18歳で軍に召集され、研究者として「マンハッタン・プロジェクト」にも参加したダウドが、音楽録音の世界に入ったのは、戦後、大学に入ろうとして、大学では、すでに現場で熟知してしまった核物理学をその先端においてではなく、20年ぐらい遅れたものを学習させられるだろうということに気づいたからだという。大学に入り、我慢しながら学位を取り、教授になるなどという不毛なことには耐えられなかったのだ。
◆ダウドは、「ミクシングのマジシャン」と呼ばれるが、アナログのマルチトラックのミクシング・コンソールのまえにすわって、デレク&ドミノスのアルバム『いとしのレイラ』の8トラックのマスター・テープを回しながら、エリック・クランプトンとデュアン・オールマンのギターをどうミックスしたかを再現して見せる。それは、ライブの一回的なパフォーマンスであり、いまDJがこれみよがしに(失礼!)やっていることをさりげなく、つつましく、しかし創造的にラディカルにやっていたのだということに気づかせるのである。
(TCC試写室/アップリンク)
2006-02-21
●隠された記憶 (Caché/Hidden/2005/Michael Haneke)(ミヒャエル・ハネケ)
◆プレスに、「見事な、恐ろしく知的な監督による驚異的な映画」とあるが、ちょっと思わせぶりすぎるような気もする。プレスに「衝撃のラストカット、その真実の瞬間を見逃してはいけない」とあったが、わたしは、その「ラストカット」を見て、これが「真実の瞬間」とは思えなかった。もう一度見ればわかるのだろうか? わかるといえばわかるし、わからないと言えばわからないのではないか? くりかえし再見を求める映画。わたしは、こういう映画は嫌いではない。それに、こちらの知覚もいいかげんなのだから、何を書いてもネタバレにはならないだろう。
◆最初、フランスのどこかなのだろうが、ちょっと日本の(新宿区や港区のように)谷の多い街のような光景がうつる。やがて、それが、ビデオ映像であり、匿名の相手から届けらたビデオを夫婦が不安気に居間のテレビモニターで見ていることがわかる。「あんたの家を監視してるよ」という脅しのようなビデオ。「実」の場面になって、夫のジョルジュ(ダニエル・オートゥイユ)が、車のあいだを出ようとすると、アラブ系か、有色若い男が猛烈なスピードで自転車を走らせてきて、ぶつかりそうになる。どうやら、この男が最初のビデオにも映っていたし、最後のシーンにも出てくるような気がする。が、そういう疑問をもつことと断定することが、この映画が提起する問題に対して観客がとる姿勢を試されているようなところがある。
◆妻のアン(ジュリエット・ビノシュ)が食事(パスタ、サラダ、チーズ、赤ワイン)を作り、夫婦が食事を始めると、しばらくして外から帰ってきた息子のピエロ(ダニエル・デュヴァル)がややふてくされたような顔をしてテーブルにつく。息子はワインではなく、オレンジジュースをコップにつぐ。息子が親に何か一物ある感じ。ここから、問題のビデオは、息子がからんでいるのではないかという疑問がわくが、それは、最後まではっきりしない。というより、観客がそう思いたければ、そう思えばいいような作り。
◆ピエロが水泳をしているシーンがあるが、カメラは、なぜか彼がターンするとき、彼のヒップを執拗に映す。それは、誰かが彼を同性愛的な目で見ているような視点だ。だとすれば、見ている相手は誰か?
◆ジョルジュの部屋にはたくさん本がある。その後のシーンで、夫は、テレビ局のプリテンシャスな(気取った)教養番組(スノビッシュなインテリが本や思想の話などをする)のキャスターであることがわかる。家に友人が集まり、知的な会話をする。本屋で作家のサイン会のようなパーティがあるが、そのとき、「ボードリアールが・・・」というような会話が聞こえる。
◆ジョルジュは、くりかえし幼児期の悪夢に襲われる。田舎の庭。同年だが、有色の子供に何かを強制されている。この子は、親が養子にしたアルジェリア人であることがやがてわかる。何かがあって、長じてからは会っていない。とすると、この人物がビデオの送り手か? しかし、これも観客が判断するしかない。同じような疑いをいだいたジョルジュがその男マジッド(モーリス・ベニッシュ)を探して、会うシーンがあるが、最終的にその男は、衝撃的な身ぶりで、ビデオなど送ってはいないということを「証明」するが、それが本当の証明かどうかはわからない。観客の疑問と登場人物の疑問とがリンクしており、その登場人物も最後まで疑心暗鬼であるというのが、この映画の面白いところ。
◆息子という者は、行き詰まったとき、母親を訪ねるものらしい。ジョルジュは、田舎に母(アニー・ジラルド)を訪ねる。マジッドのことを尋ねるためだが、それだけではない。このシーンで、久しぶりにアニー・ジラルドの姿を見た。
◆一つ濃厚なテーマは、ジョルジュが潜在的に持っているレイシズムである。彼は、幼いとき、両親が養子にしたマジットに嫉妬し、嘘の告げ口をした形跡がある。それがトラウマになっており、それを乗り越えてはいない。マジットがアルジェリア人であるというのも、暗示的だ。フランス人にとって、アルジェリア人は、20世紀における最初の人種差別的試練だった。アルベール・カミューの『異邦人』は、それを文書化した記念碑的な作品である。ところで、日本は、いま、人種問題では、『異邦人』の時代に位置しているが、日本では、まだ『異邦人』は書かれていない。
◆ジョルジュは、マジッドの息子(ワリッド・アフキ)を疑うが、それもはっきりしない。この映画、観客がジョルジュと同じような疑いをいだくと、それだけ、相手を人種差別するような仕掛けにもなっている。その意味で、「ラストカット」にピエールといっしょに映っているように見える「バイク」の男とこのマジドの息子とが同一人物なら、ピエールの世代は、アルジェリア人に対して差別を意識しておらず、彼らの世代は、ジョルジュを冷ややかな目で見ているとも考えられる。
(シネマート銀座試写室/ムービーアイ+タキ・コーポレーション)
2006-02-20_2
●ニュー・ワールド (The New World/2005/Terrence Malick)(テレンス・マリック)
◆映像描写のゆったりした時間の流れが思考をさそう。時代設定は、1600年代。「新しい楽園」を発見すべき命を受けたイギリスの船がアメリカのヴァージニアの岸辺にたどりつく。長い船旅で身も心もぼろぼろの感じ。その船で反乱を起こしたとかで捕らわれの身になっているのが、コリン・ファレル演じるジョン・スミス。砦を作った船長は、川上を偵察することを条件にジョンの縄を解く。船員を連れて川上に向うジョンは、たちまちネイティヴに捕まり、処刑されそうになる。が、酋長の娘ポカホンタス(彼女は、上陸したとき彼の姿を見ていた)(クオリアンカ・キルヒャー)が父に彼の命ごいをする。
◆原題には「The」が付いているから、「ザ・ニュー・ワールド」とは、当然、のちの「アメリカ合衆国」のこと。いまのアメリカのことを考えると、いまの時代に、こういうタイトルで、この国の最初のエピソードを描くというのは、アメリカの現在の「諸悪」の根源が、すでのこのときからあったことが示唆され、かなりきつい皮肉に響く。むろん、テレンス・マリックの意図はそこにある。トップクレジットのバックの銅版画(?)のような絵には、原住民を白人が侵略したり、略奪している絵が見える。
◆キルヒャーの素朴なしぐさと表情が圧倒的なリアリティを生んでいる。原住民の姫としての気品と、原住民の(理想化された)素朴さが、イマジネーションをふくらませる。
◆ジョンの屈折はややもってまわっていて、うまくつたわらないところがあるが、これは、イギリス人とネイティヴとのあいだにはさまった一人の繊細な感覚の男としては、わからないでもない。
◆クリスチャン・ベールの出現が唐突。これは、歴史的「事実」にもとづいているのかもしれないが、わりあいラブロマンスの雰囲気で見せられてきて、途中からベールがあらわれ、あまつさえ、ポカホンタスの夫になってしまうというのは、夢をこわす。が、この映画は、単に夢を売る映画ではなく、むしろ「現実」に引き戻すことをねらっているのだから、それでもいいのかもしれない。が、どこか、バランスが悪い印象は否めない。
◆400年昔の話だが、まさに、イギリスと「西洋文明」がアメリカの原住民にした罪科を、妙な懺悔感なしに淡々と描き、かつ、原住民の崇高さをやや強調することによって、そのあがないをしている。いかのもテレンス・マリックらしい瞑想的な仕上がり。
(松竹試写室/松竹)
2006-02-20_1
●明日の記憶 (Ashitano Kioku/Memories of Tomorrow/2006/Tsutumi Yukihiko)(堤幸彦)
◆けっこうお客が集まったので、開映まえに狭い試写室内は温度が高くなった。しかし、スクリーンが開くと、奥まったスクリーンからさーっと冷たい風が吹いてきた。これが、東映試写室の面白いところ。わたしは、このわびいしい感じを愛する。
◆アルツハイマーというテーマをあつかいながら、どこかリアリティがない。働き盛りの49歳のエリート会社員佐伯雅行(渡辺謙)が、記憶の異常に気づき、妻(樋口可南子)に伴われて医師(及川光博)の診断を受けるのだが、「記憶」病への突っ込んだ洞察が薄いために、表現に厚みがない。職場で上司の記憶がおかしくなり、部下があわてるシーンが何度かあるが、リアリティがない。佐伯の会社は渋谷にある設定で、彼は、ある日、駅から会社への道順を忘れ、ヒステリックに会社に電話し、女子社員の誘導で会社にたどり着くが、記憶を喪失したときというのは、この映画が描くようなヒステイリックな感じにはならないのだ。まず、自分が忘れたことをごまかそうとする。それに、なぜ、彼は、道順を通行人に訊かないのか?このへんがあまりにドラマドラマしすぎているし、渡辺謙の資質もあって、どなりちらすパターンになりがちだ。
◆堤幸彦は、この映画では「冗談」を前面に出す機会はなかったので、本調子が出せなかったのかもしれない。堤的ユーモアが出る場はほとんどなかった。
◆及川が演じる医師が、渡辺にする臨床テストで、「桜」、「電車」、「猫」という言葉を伝え、「この言葉をおぼえておいてください」と言って、いくつかの質問をしたのち、「先ほどの言葉をもう一度言ってください」と言うシーンがある。わたしも、この言葉をおぼえていることはできなかった。しかし、今度は、ペンやコインなどを5種類くらい机の上に置き、「何があるか覚えておいてください」と言って、その上に覆いをし、「さあ、何がありましたか?」と訊くと、渡辺は答えられなかったが、わたしは覚えていた(いまは忘れた)。おそらく、単語よりも物=イマージを記憶できない方が、記憶の病としては重症なのだろう。イメージとしても記憶できなくなるのが、怖いのだ。顔を見て、会ったことがあることを思い出せるうちはいい。いくら考えても会ったことすら思い出せなくなったら、終わり。
◆病院のシーンで、「MRIを撮る」と言いながら、あとで出て来る画像は、CTスキャンのものだったような気がする。MRIは金がかかるのと、通常はモニター画面で見るので、安く済ませたか?
◆そういう設定だから仕方がないが、樋口の演じる妻は、夫にとっては、「母」でもある。樋口はそれを見事に演じているが、仕事一筋のサラリーマンといっても、いまどきこういうのははやらないのだから、このへん、もうちょっと未来的距離というか、男としての新しさがほしかった。マチョっぽい渡辺謙が演じるのだから、これが見あっているというわけかな?
◆渋谷駅南口にオフィスを構える一流広告代理店の部長の一人娘にしては、佐伯梨恵が演じるキャラクターは、「育ちが悪い」。「~だよ」といった口調はらしくない。まあ、わたしがそういう粗雑な物言いを(男でも女でも)好まないということまるが。
(東映試写室/東映)
2006-02-15_2
●愛より強く (Gegen die Wand/Head-On/2004/Fatih Akin)(ファティ・アキン)
◆六本木から地下鉄で銀座→京橋。少し早かったので、通りがかりのコーヒー店に入り、エスプレッソを注文したら、「ない」が、同じ豆の使っているのが「リュシャン・カフェ」だというので、注文。一口飲んで吐き出しそうになる。最初から砂糖が入っているうえに、ココアまで入っている。メニュ書きをあらためて見たら、「リュッシャン」とは「Russian」のフランス読み。こんなのフランスにもロシアにはなかったけどね。え?、パリの亡命ロシア人のスタイル? じょうだんでしょう。
◆ハンブルクのトルコ系ドイツ人の話。まだ生きていたのかよと思わせるパンク男(ビロル・ユーネル)が、荒れまくる。クラブで働いているらしく、コンサートのあとの床から壊れたビール瓶や破損した器物の残骸などを片付けているが、もうやっちゃいられないという風貌。そのあげく、車をぶっとばし、壁に激突してしうまう。完璧、ハードコアパンクのノリ。ちがうのは、冒頭、イスタンブールの川岸にいならんだ5人のバンドと1人の女性歌手のジプシー音楽風の演奏からはじまるところ。この演奏は、ドラマの要所要所に入り、インド音楽なんかにもある場面転換の機能を果たす。この演奏によって全体の直情性が相対化されているわけだ。
◆先日、マルセイユで、翌日に演るパフォーマンスの会場のチェックをしに会場に行ったら、たまたま金曜の夜で、パンクロックの演奏が行なわれていた。バーでビールを飲みながら、少し様子を見たが、時代が30年ぐらいバックした感じがした。が、すぐに気づいたが、これは、ダセェのではなくて、これがいま流行りなのだった。マルセイユは、いまアートではフランスで「先端」を走っているとことがある。ひとまわりした「パンク」がヨーロッパでは「新しい」。
◆どこでもそうだが、移民者は、旧い要素を、郷土人以上に強く継承する。故郷ではとっくに捨てさられてしまった「伝統」をかえって強く移住先で維持していたりする。1983年生まれのシベル(シベル・ケキリ)は、家族の拘束と「自由」への欲求のディランマのなかで発作的に腕を剃刀で切る。収容された病院で彼女は、あのパンク男ジャイトの姿を見、彼に結婚を迫る。偽装結婚をして家を出るしか、自由になる方法がないというのだ。発作的に生きることをよしとするこの女もパンクである。ジャイトは、あとでわかるが1960年の生まれて、40歳をすぎている。彼を70年代パンクとすれば、シベルは90年代パンクということになるか。
◆しかし、この映画に出て来るように、トルコ系の移民たちがよく集まるヴェニューがあるらしく、そこでは、メインストリームのヴェニューとはちがう音楽のストリームが流れていたようだ。それは、イスタンブールや他のイスラム地域の音楽とも連動し、独特の傾向をつくりだしていたようだ。シベルは、ハンブルクのそういうヴェニューの音楽で育ったのであろうし、ジャイトは、(20代以後にトルコの村から移民して来たとすれば)80年代のネオパンクの洗礼を受けたのちに、シベルの世代が経験した音楽文化に合流する。
◆この映画を「パンク映画」と言うことは、この映画の解釈可能性を狭くしてしまうが、パンクという観点から見るのは、一つの見方だろう。パンクとして見た場合、ジャイトのパンク性は、外に向う。彼は、よく喧嘩し、物を壊す。70年代風のグラフィティが残る建物の彼のアパートの部屋は、放り投げたビールの空き缶や家具で散乱している。他方、シベルは、壊したり、他人を攻撃するよりも、自分を痛めつける。自傷のくせがある。ジャイトも、車を壁にぶち当てたり、グラスを割ってそのかけらのうえに手を置いて血だらけになるようなこともやるが、彼の「暴力」は概して外へ向う。2人ともドラッグが好きだが、ジャイトよりもシベルのほうが、ドラッグで「恍惚」となりやすいようだ。
◆パンクにしてもドラッグにしても、「甘えのカルチャー」の代表で、外側から見ると、ジャイトは(40を過ぎているのだから)特に、「甘えている」という印象を受ける。が、甘えるのは、甘えるうつわがあるからである。この映画は、ドイツのトルコ人移民の特性を鋭く描く。ここでは、父親と男の存在が強い。男たちは売春宿に通っているが、」「家族」は神聖だというタテマエはくずさない。ジャイトが、シベルの「依頼」を受けて、偽装結婚することにし、シベルの父親のところに娘をもらいに行くシーンが面白い。結婚というのは、親か親戚が同伴して、本人からではなく、親か親戚から娘の父親に許諾をえるものらしい。うんと昔の日本もそうだった。家族・親戚の存在を「神聖」化することが、その内部の構成員への圧迫となり、そのために、逆に「権威あるもの」には巻かれてしまう「甘え」のカルチャーが強まる。
◆ジャイトの女友達というよりもセックスフレンドのマレンは、美容院をやっているが、これを演じているカトリン・シュトリーベックが、実に70年代パンク風の存在感。こういう手合いとセックスしたら、骨までしゃぶられてしまうのではないかという感じ。80年代のベルリンなんかにはよくいた。
◆イスタンブールに住み、ホテルのマネージャーにのぼりつめる、シベルの姉のセルマ(メルテム・クンブル)は、典型的な脱民族主義者。家ではアスレチックをやり、アメリカンな生活をしている。シベルは、ジャイカが刑務所に入ったあと、彼女をたよってイスタンブールに行き、ホテルの掃除係の仕事をもらう。朝の5時に起き、仕事に精を出すが、やがて切れてしまう。「パンク」には、「労働の拒否」というカルチャーがしみ込んでいる。それは、ジャイトも同様だ。しかし、90年代以後、こうした「労働の拒否」→労働そのものの止揚・解放という方向は、完全に抑止された。そのことは、いま日本で「フリーター」という言葉がどのように受け止められているかからも判断できる。
◆この映画は、パンクに生きてきた2つの世代を淡々と見つめる。シベルは、姉さんのようにはなれないし、ジャイドは、友人のセレフ(グヴェン・キラック)のようにもなれない。結婚の許可を得るために「叔父」のふりをしてシベルの父に会ってくれたこのセレフも何をしているのかよくわからないが、とはいえ、刑務所を出たジャイトがシベルを追ってイスタンブールへ行こうとするとき、旅費を渡す。一応の仕事はしているのだろう。ドイツに移民し、一応は定住しているトルコ人の平均的なレベルを維持している。ジャイドはそうはなれない。
◆ジャイドは、最後に、生れ故郷へ行くらしいバスに乗るが、ジャイドがどうなるかはわからない。ふたたびハンブルグにもどるかもしれないし、イスタンブールで闇の仕事につくかもしれない。いずれにせよ、いまの時代と同じように、「労働」は止揚されない。ただし、ジャイトにしてもシベルにしても、この映画のなかで「労働を拒否することによる解放」をあらわに見せることはないので、この映画は、結局のところ、「労働の拒否」に対しては、それほど積極的な態度はとれないと考えているのかな、とも思う。
◆唯一、「解放」に時間を感じさせたのは、形だけの「夫婦」をつづけてきたシベルが、マーケットでふと思いだしたように食材を買い、家に帰ってきて(実にうまそうな)ピーマンの肉詰め料理を作り、いっしょに食べるシーンだ。しかし、母親に習った料理だと彼女が言うせりふからもわかるように、これでは、「家庭」回帰を肯定しているだけのように見え、実際に、この時間は以後続かないのである。
◆原題は、Gegen die Wand (ゲーゲン・ディー・ヴァント)で、意味は「壁に抗して」。ここには、70年代流の「アンチ」と「対立」の要素があるが、いま、70年代流の「対立」や「批判」のエレメントは完全に時代遅れのものとなった。その点で、この映画は、タイトルでは70年代流の要素が感じられるが、川縁のバンドの演奏場面でつないで行くというスタイルと、2人から激昂や暴力が消え去ったかのように見える最終部を考えると、この映画も、脱70年代の流れに属するような気がする。
(メディアボックス試写室/エレファント・ピクチャー)
2006-02-15_1
●ウォレスとグルミット 野菜畑で大ピンチ (Wallece & Gromit in The Curse of the Were-Rabbit/2005/Stev Box and Nick Park)(ニック・パーク+スティーヴ・ボックス)
◆なかなか字幕坂を上映する日とわたしのスケジュールがかみ合わなくて、ずいぶん遅い試写を見ることになった。おかげで、プレスは本になるほどの厚さ。が、プレスというものは、映画評を書く場合にほとんど参考になったためしがない。その情報の多くは、ネットや会社からのプレス情報をそのまま翻訳したりしてまとめたものが多いからである。
◆ハリウッド映画が面白いと思うのは、構造的にか意図的には、子供向きの映画でも、エイタテインメントをひたすら追求する映画でも、時代の要素を確実に取り入れところだろう。今回も、村の人々が丹精込めて育てている野菜を食い荒らす巨大ウサギが出現し、その駆除にウォレスとグルミットを頼まれるが、その敵は、実は「内部の敵」だったということが判明する。庭園を荒らす者は、銃で退治すればよいと考えるヴィクターは、さしずめ鷹派をシンボライズする。「敵」を片端からやっつければ、「内部」が改善されるという考えが、まったく意味をなさないこと、「敵」は内部におり、それを倒せば、全体も崩壊してしまうこと、「内部」を変えるしかないこと――このアニメは、そういうことを示唆する。
◆でもさぁ、映像を見るという知覚体験にとって、重要なのは映像の動き(だから「ムービー」という)であって、映像の寓意的・シンブル的メッセージを読み取るということは2の次だ。問題は、観客の無意識に作用するその映像の「動き」そのものが、観客をどういう方向へモティベイトするかだ。その点で、言葉をしゃべれないグルミットの「動き」と「身ぶり」に注目すると面白い。ウォレスに屈従するのではなく、醒めているグルミットは、事態がすんなりと読み取れる。
◆あなたが、このアニメのなかのキャラクターになるとしたら、誰が一番あっていますか? わたしには、ヴィクターは論外だし、レディ・トティントンはプリテンシャスだし、ウォレスは基本的にマヌケだし・・・ということになると、やはりグルミットなんですね。犬になってみるというのは、いまの時代、なかなかいいことかもしれない。この犬は、「勝者」にも「敗者」にもならないのだろう。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)
2006-02-14_2
●春が来れば (Ggotpineun bomi omyeon/When Spring Comes/Springtime/2004/Jang-ha Ryu)(リュ・ジャンハ)
◆体力が落ちているせいか、築地から聖路加セントルークスタワーまでの道のりがいつもより長いような気がする。いや、現実に長いのだ。聖路加看護大学のそばまで来たら、60~70歳すぎの女性たちがたくさん、ガイドの説明をきいていた。表示によるとこのあたりは、その昔、女子学院があったところとかで、その卒業生の人たちなのか、それとも昔看護婦だった人たちなのか・・・。
◆プレスが面白すぎるときは、映画がそれほどでもないという「法則」があり、渡されたプレスにある金智羽「これこそが『韓国独身男性』の真実の姿だ!」がなかなか説得力があるので、懸念した。金によると、いわゆる「乾流」ドラマのなかの「韓国人」は、「"生存率"が恐ろしく低いと思われる『韓国人』を描いて」おり、「韓国人の現状とかけ離れ過ぎていて、まるで夢のような世界」だという。韓国はまだ男尊女卑の国であり、女性が男性の収入に依存する率が高いので、女性はおのずから経済力のある男を夫に選ぼうとする。そういう条件は誰にでもあるわけではないから、男性の結婚率は低下し、その分、母親への依存が高まるという。「韓国独身男性にとって、オンマ[お母さん]は絶大な存在だ。オンマさえいてくれれば、独身でも案外"へっちゃら"なのである」。
◆ソウルでトランペットのクラッシックの演奏家になる夢をいだいているヒョヌ(チェ・ミンシク)は、毎年オーディションに応募しているが、はかばかしくない。恋人だったヨニ(キム・ホジョン)は、別の男と結婚するらしい。人生の方向がはっきりつかめなくて、ヒョヌは、いつもいらいらし、ビールばかり飲んでいる。とはいえ、その描写にはあまり陰惨な雰囲気はない。チェ・ミンシクという超大物俳優が演じているので、彼が演じるキャラクターを「普通」の男と言うのは違う感じがするが、彼は、「普通」の男を演じようとしている。が、チェ・ミンシクのイメージが「大俳優」であることには変わりない。この映画の主人公は、もっと自信なさそうであった方がよかったような気がする。
◆もしこの映画が面白いとすれば、それは、人生の方向が定まらない男が、田舎の中学校に職を見つけ、そこの吹奏楽部の生徒たちを指導し、最初はどうしようもなかった連中を元気づけ、コンテストで優勝させる――といった「がんばり」物語ではないところだろう。物語の流れとしては、自分の方もあまり興味のない生徒、生徒の方から見てもぱっとしない教師という組み合わせが、急速に変わって行く――といった、よくある「感動物語」の流れで進むように見える。ところが、そこには、双方に気張りがなく、たしかに主人公は変わるのだが、その変わり方に「いかにも」のドラマ性がなく、その分終始「自然」な感じが支配していて、見ていて悪い気持ちがしないのである。
◆最初の方のシーンで、いらいらしているヒョヌが、道路に設置された警察の監視カメラでスピード違反を検出され、彼が、車を停めてカメラにものを投げつけて当たる。韓国は、アメリカ並にスピード違反摘発のシステムが進んでいるのか?
◆訪ねて来た息子に食品などのものを持たせたり、大量の土産品を持って息子のアパートや家を訪ねる母親というのは、日本でもあるが、韓国では、その傾向が強いのか?
◆韓国も、ソウルのような大都市は世界の先進都市と同じようなことが起こっているのかもしれないが、この映画で主人公が赴任するカヌォン道サムチョク市のようなとこでは、炭鉱があったり、一時代まえの人間関係や社会・経済状況が残っているようだ。そこでは、ソウルのような都市では考えられない情念(炭鉱で働いていれば、つねに落盤事故から帰結する死亡事故の可能性があり、親にとっても子供にとっても、その不安はつきまとう)。大都市にはそれなりの不安があるが、それとは違った論理や情念が支配している場所がまだあるということは、「韓流」ブームの映画からはわからない。
(ソニー試写室/ソニー・ピクチャーズエンタテインメント)
2006-02-14_1
●グッドナイト&グッドラック (Good Night, and Good Luck/2005/George Clooney)(ジョージ・クルーニー)
◆ジョージ・クルーニは、「いなせ」な風貌とはうらはらに、一貫して「社会派」で、ブッシュ政権に対してもはっきりした批判の姿勢をくずさない。『シリアナ』も、そういう彼のチョイスが光っていたが、この映画は、彼自身の監督作品であり、その姿勢がいかなるものであるかがよくあわわれている。いずれも、スティーヴン・ソダーバーグの総監督指揮で、クルーニーのソダーバーグとの深い関係のなかで作られた作品だ。
◆この映画の主人公エド・マロー(デイヴィッド・ストラザーン)が賢明だったのは、彼のテレビ番組「See It Now」でマッカーシーを攻めるに際して、彼と放送局側が、「共産主義」や「左翼」と何らかの関係を持っているのではないかという疑惑を一切持たせない手続きを徹底させたことだろう。これは、論争において最も重要なことである。とりわけ、世の趨勢が極端な方向に傾斜しているときには、そういう疑惑を一切さしはさむことの出来ない条件のもとで闘う必要がある。
◆マローは、空軍の予備役の兵士が不当に解雇されたことを暴露する番組を作る。この背後には、当然、この兵士の思想への牽制があったのだが、その点を批判するなら、勝ち目はない。マッカーシーを利するだけである。そこでマローがとった方法は、軍人組合の尊重という大義名分を使いながら、権力の濫用をいましめるやり方である。軍を批判しながら、軍を否定するわけではない。
◆ただ、この作品は、アメリカの時代をある程度知っている者を前提としているようにみえる。まず、日本では「エド・マロー」のことはあまり知られていない。映画は、マローが彼の番組でジョゼフ・マッカーシーに一撃を加えることに成功し、彼が劇的に失墜するかのようにも見える描き方をしている。このドラマティックなプロセスは、マッカーシーの実写映像とドラマ映像とをうまく組み合わせて、なかなか迫力のある仕上がりになっているが、マッカーシーは、これだけで失墜したわけではないし、マッカーシーイズムは、マッカーシーだけの執念の産物ではない。エリック・ベントリー(Eric Bentley)の力作『Thirty Years of Treason (反逆罪の30年)』(1971)にあるように、「反共」批判は1930年代からはじまっていた。のちに「非米活動委員会」(House Un-American Activities Committee=HCUA)と名づけられる組織は、恒久的な委員会として、1945年から1975年まで存在した。マカーシーの活動は、むしろ、「非米活動委員会」に便乗してものであり、彼が失墜してからも、「反共」活動家への弾圧・抑圧は続いた。
◆アメリカは、ラース・フォン・トリアーが『マンダレイ』で皮肉ったように、「これぞ」と思ったことにつっ走る傾向がある。これは、「これぞ」と思うことがあっても、理念や原理原則では動かない日本とは対照的だ。それが、陽に振れる場合もあるが、負に振れた例が赤狩りである。が、そういう急速な「極端化」が起こるためには、長い醸成期間がある。この映画が描いているのは、その「極端化」の後半の期間にすぎない。
◆アメリカの「極端化」では、必ず最終的にバランス機能が働く。さもなければ、システム自体が機能しなくなるからだ。マッカーシーの凋落は、彼が、陸軍内部の「共産スパイ」の摘発に手を出したことからはじまった。軍のなかにそのような「分子」がいたかどうかは別として、軍の組織的なゆらぎを招きかねない批判は、つぶされるべきであるという、国家の保安上の判断がどこかで働いたのである。
◆「非米活動委員会」のやったことは、委員会が解散したあと、完全に終息したわけではなかった。ネオコンの発想の根幹には似たような要素がある。ジョージ・クルーニがエド・マローに注目したのも、このことと関係があるはずだ。ところで、「非米活動委員会」のスターは、マッカーシーだけではなかった。リチャード・ニクソンも委員会のメンバーだったし、ドナルド・レーガンは「反共主義者」の摘発に協力的な証人の一人だった。
◆マローの時代といまとでは、マスメディアの機能がちがう。いまのマスメディアのなかでは、とりわけテレビでは、彼の番組のような直裁的なメッセージは伝わらない。しかし、そうはいっても、メディアのなかでに身の振り方とか、責任の取り方とかの点で、マローのような首尾一貫した態度を見せることはいまの日本のマスメディアのなかでも可能である。ちなみに、マローの「See It Now」は、マッカーシーを追い込んだことを高く評価されたにもかかわらず、1958年には、放送が打ち切られた。マローは、1953年に始めたインタヴュー番組「Person to person」からも同年に降ろされている。
◆1961年にCBSをやめたマローは、ケネディ大統領から招聘を受け、米国広報・文化交流庁(U.S. Information Agency=USIA)の長官になる。ただ、わたしの古い記憶によると、USIAというのは、広報活動を通じて「アメリカ文化」を国外に浸透させ、海外でのアメリカの政治経済活動を円滑にするための、冷戦時代特有の「文化帝国主義」の先端機関であって、日本の「アメリカ文化センター」などもUSIAの一環に属していたのではなかったかと思う。当然、CIAと情報交換しながら活動する機関であった。ケネディ政権のもとでは、経済学者のジョン・K・ガルブレイスを駐インド大使にするような「大胆」な人事が採用されたが、そこには、当然、「左派」や「オールタナティヴ」な部分の「取り込み」の思惑もあった。病気のために1963年にUSIA長官を辞任したマローは、長官としてどんなことをやったのだろうか? なお、USIAは、冷戦の「終結」後、国務省に吸収された関係で、国務省のアルカイブのなかには、「情報政策」に関するモローの意見が明確に表明されている メモが残されている。
◆何度も書いたことだが、日本では「赤狩り」のことは知られているし、専門書も出ているが、本来「マッカーシーイズム」と書くべきところを「マッカーシズム」と書いて平気でいる(ちなみに大半の辞書や百科辞典までもがそうだ)状態が依然として続いている。インターネットの検索エンジンで、「マーッカーシーイズム」と入れてみると、ヒット数の少なさに驚かされる。書籍では、黒川修司『赤狩り時代の米国大学 遅すぎた名誉回復』(中央公論新社)のなかに、「マッカーシーイズム関係の文献」という章があるぐらいで、他は、「マッカーシーズム」の一本槍である。 「マッカーシーズム」と表記している論文や本は、現地リサーチにもとづいていないことを示唆する。(その点では、黒川氏の本は信用できるのではないか?)もし、アメリカで専門家なり関係者と会って、「マッカーシズム」と発音したら、相手がよほど勘のよい人でないと、何のことを言おうとしているのかがわからないだろう。嘘だと思ったら、試してみるといい。「マッカーシー」で一息飲んで、「イズム」と発音しないとだめなのだ。
◆時代を感じさせるジャズヴォーカルのスタンダードナンバーが、うまく使われる。歌うのは、ダイアン・リーヴス。画面の展開の初めで「アイ・ゴット・マイ・アイズ」がばーんと流れるとか、左派のキャスターがブラック・リストに載せられ、自殺する(当時こういう人たちがかなりいた――ブラックリストに載せられると確実に職を失う)ことをマローらが知るシーンのバックでは「ハウ・ハイザ・ムーン」が流れるとか、ジョージ・クルーニーの趣味が濃厚に反映した音楽の使い方。
(東芝エンタテインメント試写室)
2006-02-13_2
●ぼくを葬る (Le Temps qui reste/2005/François Ozon)(フランソワ・オゾン)
◆まえの映画が3時10分ごろに終わったので、はたして着けるかなという不安をいだきながら、内幸町からタクシーに乗る。道を知っている運転手ならば何とか行けるだろうが、知らないと確実にダメということがわかっている。運よく、飯倉のあたりをよく知っている人で、ホテルオークラから首都高速都心環状線の下に出てくれ、5分まえには到着。席はそれほど混んではいなかった。
◆フランスと日本とでは、「海」のイメージが違うようだ。日本で無意識に受け取られているような「陽気」なイメージではなく、「死」と隣あわせたイメージを持つというようなことをどこかで読んだことがある。だから、最初のシーンで海が映ったとき、とたんにわたしは、この映画は「死」をテーマにしているなと思った。先日、わたしは、ニュージーランドのニュープリモスで、毎日、海の見えるレストランで朝食をとり、そのあと海岸を散歩するということを日課にしていたが、海は、わたしには、どちらかというと不安を呼び起こす場所だった。海を見ていると、飲み込まれそうな気がしないでもない。ヴィスコンティの『ヴェニスに死す』も、(まあ、トーマス・マンの原作がそうだったわけだが)海が主人公の死に場所だった。
◆この映画の主人公ロマン(メルビル・プポー)がゲイであることを考えると、この映画のエンディングは、『ヴェニスに死す』との共通性を持っている。が、美少年へのあこがれ(距離を置いた接触)に終始するロマン主義的形式で彩られた『ヴェニスに死す』とはちがって、『ぼくを葬る』はポストロマン主義の作品であり、フアンソワ・オゾン特有のファニーなユーモアがちりばめられている。『スイミング・プール』や『ふたりの5つの分かれ路』にくらべると、ユーモアの要素は希薄だが、ロマンがたまたま立ち寄ったしょぼくれたカフェーで、そこを経営する女(ヴァレリア・ブルーニ=テデキス)から「子種」の提供を迫られるくだりが大笑い。彼女の夫は無精子症で、子種を誰かにもらうことを了解しているという。
◆ただ、進行性の早いガンに冒され、余命がいくばくもないことを医者から知らされた31歳のカメラマンのロマンが、少年からようやく脱した感じの青年(クリスチャン・センゲワルト)を意図的に追い出したり、田舎に住む祖母を訪ねたりするくだりは平凡。おまけに、この祖母を演じているのがあのジャンヌ・モローときては、何か、ロマンとモローのシーンは、モローを出すためだけに設定されたのではないかという気がしてくる。ジャンヌ・モローという女優は、昔から、どんな役を演っても彼女以外の何者でもなかった。(さすが、彼女が「小娘」時代に出ている『現金に手を出すな』ではちがっているが)。彼女を登場させるには、彼女と同等の登場人物を用意しなければならない。一応、この映画では、その祖母は、夫が亡くなったとき、息子(ロマンの父親)を捨て、家を出て、波瀾の人生を歩んだという設定になっている。でも、それは、ちょっととってつけた感じだ。まあ、久しぶりにジャンヌ・モローの姿を眺めることができたのはわるくないが、ちょっと異様な感じだった。
◆ロマンは、やたらと妹(ルイーズ=アン・ヒッポー)にあたる。彼女が子供を生むということがとりわけ許し難いらしいのだが、それは、彼がゲイであるからなのか、彼女と近親相姦的関係を持っていたからなのかはよくわからない。親の家に食事に招かれたが、すぐに妹と口論になり、早々に帰ることになるが、そのとき父親(ダニエル・デュヴァル)が車で送ってくれる。別れぎわにハグをするとき、同性愛者の彼は、父親を同性愛の対象として意識するようなしぐさをし、父が少しひるむ。このシーンはなかなか面白い。デュヴァルがなかなかいい演技をしている。
◆わたしが少しがっかりしたのは、ロマンがあれだけ子供を嫌っておきながら、自分が死ぬとわかると、次第に、継承ということを考えてしまうことだ。彼は、自分が子種を提供した女性の子供として生まれてくる子供に自分の遺産のすべてを継承させる決心をする。これは、「父親」になることは拒否しながら、結局において、「父親」になることを受け入れたことになる。わたしは、ゲイがパパ=ママ関係の「家庭」というものを拒否できる可能性を持っている点で異性愛者よりも高く評価する。このことは、子供を持つか持たないかの問題ではなく、資本主義社会の「中枢神経システム」をなす遺産相続のシステムに関わるかどうかの問題である。いま、一部の国、地域で、ゲイにも遺産相続の権利が認められたいるが、これは、ゲイのこうした脱家庭的ラディカルさを骨抜きにし、システムのなかにゲイを同化しようとする動きにほかならない。本来、資本主義システムを内部から変質させる力を持つ諸要素が、こうして取り込まれ、システムを延命させる。わたしは、資本主義システムが「崩壊」し、世の中がぐたぐたになればよいというようなことを言おうとしているわけではない。そうではなくて、すでに終末に達している資本主義システムの隙間からすでにそれをこえる新しい相貌をちらりちらりと見せ始めているのなら、いっそのことその新しい相貌を一挙に出させるようなことをした方がいいだろうと思うのだ。「男性」も「女性」も、「父親」も「母親」も「家庭」も、別になくならなくてもいいだろうが、それらが「名詞化=実体化」され、それらに縛られる必要はない。そういうもう形骸化した「名詞=実体」ではもうカバーしきれない複数で多様な現実があり、そういう特異性とマルチチュードの場が犠牲にされることで維持されている状態をこれ以上続ける必要などないということなのだ。
(ギャガ試写室/ギャガ・コミュニケーションズGシネマグループ)
2006-02-13_1
●シリアナ (Syriana/2005/Stephen Gafhan)(スティーヴェン・ギャガン)
◆アメリカだって、けっこう「大人」の映画が作れるんじゃねぇかとまず思った。「大人」という意味は、政治映画を作りながら、「批判」の「悲鳴」をあげることに精一杯で、そういう批判の機能を忘れている「青臭さ」を越えているという意味だ。現実は(いつの時代も)複雑だが、その複雑さは、「近代」という時代とは比較にならないくらい多元化し、錯綜してきた。権力も、それに反抗・造反する側も「中心」をもたない。あったとしてもそれを見せない。かつてコスタ・ガブラスが『Z』や『戒厳令』で見せたような政治的緊迫感、あるいはもっとあとだと、たとえばルイス・プエンソの『オフィシャル・ストーリー』が見せたような政治的リアリティがこの映画にはある。アメリカ映画ではめずらしい。『シティ・オブ・ゴッド 』やマイケル・ウィンターボトムの『インディス・ワールド』に通じるところもある。いずれにせよ、見て「面白かった」では済まない何かを残すような映画だ。
◆アメリカでは、いま、石油に代わるエネルギー源としてエタノールへの関心が高まっているが、石油が主要なエネルギーであることには変わりがない。近代化を突き進んでいる中国のような国は、アメリカがこの30年間にやったことを10年間で「復習」しているようなところがあり、現在の需要をたなあげにして、太陽エネルギーやエタノールへ投資をするとは思えない。かくして、中東の石油をどう獲得するかが各国の深刻なテーマになる。
◆困ったことにというより、かつてイギリスやフランスが敷いた路線がいまだに維持されているために、中東の石油は、産油国の王族や独裁的な政権によって握られている。政治的取り引きは、「合理的」な条件よりも、「不合理」で「前近代的」な条件のもとでやる方がやりやすいという判断は、「帝国主義」諸国の伝統だった。サダム・フセインは、サウジアラビアの王族よりも、「合理的」な権力だったが、アメリカにとっては、どうせ相手にするのなら、「前近代的」な王権のほうが都合がよかった。
◆王権のなかでは、世継ぎが生まれるかどうかとか、王と王子とのあいだの感情的な関係、そのとりまきたちの利権といった(「合理的」な思考では)予測のつきにくいロジックが動めく。映画は、国の名を特定しないが、アラブのある石油産出国の高齢の王の下で、ナシールとメシャールの兄弟が王位の継承を争っている。そのまま進むと、「民主化」路線のナシール王子が王位を継承しそうである。が、それは、アメリカ政府とテキサスのオイル資本にとっては都合が悪い。かくして、テキサスのオイル資本は、メシャール王子の擁立を画策する。そして、CIAは、ナシール王子の暗殺を計画する。
◆この映画が「大人」だというのは、上のような大きな構図があった場合、普通のハリウッド映画だと、単純にオイル資本とCIAの陰謀が成功するかしないかのサスペンスで進むのに対して、その流れに逆らうような内部要因を描いている点だ。現実は、つねに内部に矛盾をかかえこんでいる。中東の石油を独占するためにテキサス資本は合併や企業合同を試みるが、その内部は必ずしもすっきりとしているわけではない。むろん、王族のファミリーのなかも複雑だ。政府の内部も、司法省とCIAとでは利害が異なる。司法省と微妙な関係をもつ民間の法律事務所のファクターもある。その法律事務所の内部でも、その代表者とそこで、テキサスの石油企業用の合併のために動く弁護士(ジェフリー・ライト)とのあいだには微妙な利害・意見の食い違いがある。エネルギー・アナリストのブライアン(マット・デイモン)は、商売人であるが、産油国で家族とバカンスを過ごしているときに、ホテルのプールの事故で子供を失い、そのことに責任を感じたナシール王子(ホテルは王族の経営)がブライアンに謝罪の意を表明し、相談役に招いたとき、彼は商売人であることをやめる。人は、役割や利害だけで動くとはかぎらない。こういう変化は、いつ起こるか予測がつかないが、歴史はそういう不確定性で動く。
◆冒頭、アラブの武器商人に裏をかかれてしまうCIAの工作員ボブ・バーンズ(ジョージ・クルーニー)は、筋金入りのプロのはずだが、彼にとっても、また観客にとっても彼のその後の行動は予測を裏切る。この映画では、登場人物たちがみないい顔をしている。いつもカッコいい役ばかりするジョージ・クルーニーも、この映画では、登場人物としてのボブがいつもかいているであろう汗やたえずいだいている緊張感が直接こちらに伝わってくるような人物を演じている。彼が、捕まって拷問されるシーンで、彼の爪をはがすアラブ人活動家ムサウィを演じるマーク・ストロングは、実にいい演技をしている。ちなみに、このシーンの撮影中にクルーニーは、椅子に縛られた状態で倒れ、頭部を強打して、脳と脊髄を覆う硬膜を断裂したという(PLAYBOY 4月号)。
◆この映画が、「善玉 VS 悪玉」映画とはちがうのは、自爆テロの「要員」になっていく青年の描き方にもあらわれている。この映画では、4人の人物の意識変化が、持続的に平行して描かれる。更迭と再派遣に翻弄されるCIA工作員(ジョージ・クルーニー)、2大石油企業の調査を担当する弁護士(ジェフリー・ライト)、エネルギー・アナリスト(マット・デインモン)、そしてパキスタンからの出稼ぎ労働者の青年ワシーム(マズハール・ムニール)である。ワシームは、父親とこの国に来て、石油会社の現場で肉体労働をしているが、会社の合併の余波を受けて、失業する。その日の食い物にも困る彼のところに、「イスラム神学校」の活動家の手がのびる。そこでは、毎日豊富な食料があり、仲間たちとの「自由」な交流があるように見えた。しかし、この映画は、ワシームが、ここで単に「洗脳」されて「自爆テロ」の活動家になっていくかのような描き方をしない。彼のような追いつめられた青年が「自然」にそうなって行く様がリアルに描かれている。
◆4人の意識の変化とともに、それぞれの父子関係への視点もあるのが面白い。クルーニーの息子は大学への進学をひかえており、それまで家庭をかえりみることができなかったクルーニーには気がかりなところ。デイモンは、息子を失う。ライトの父親はアル中で徘徊をしたりしている。ワシームの父親は、職を失い、遊び暮らしている。父子関係でこの映画を見ても、一つの線が浮かび上がるだろう。
◆この映画を見ながら思い出したのは、マイケル・T・クレアの『血と油 アメリカの石油獲得戦争』(柴田裕之訳、NHK出版)だった。「テロリストと戦うために計画されたアメリカの軍事作戦と、エネルギー資産を守るために企画された作戦とを区別するのは、むずかしくなってきている」と言うクレアは、「石油以外の面で発展の遅れている国では、石油の生産が地元の経済や政治体制を歪ませ、それがほぼ確実に社会不安を招く」。「その結果起きる武力紛争は、西側諸国では民族間の抗争として報じられるかもしれないが、たいていは石油生産から生まれる数かずの歪みが発端だったり、激化の原因だったりする」。「アメリカはもっぱら石油を手に入れるためだけに、非民主的で唾捨すべき政権を武装させたりして繰り返し守ってきた」と述べている。クレアは、こういう状況から脱出する戦略として、(1)「エネルギーの購入を、外国における安全保障義務から切り離すこと」、(2)「輸入石油への依存を弱めること」、(3)「ポスト石油経済への必然的移行の準備をすること」をあげる。しかし、アメリカがこの100年のあいだにやってきた「近代化」(モダニゼイション)を遅れて追う国がまだ確実にあることを思うと、たとえアメリカがいまの路線からはずれるとしても、中東を戦場とし続ける動きは当分止まないであろう。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画配給)
2006-02-10
●ブロークン・フラワーズ (Broken Flowers/2005/Jim Jarmusch)(ジム・ジャームッシュ)地目
◆1日からニュージーランドに行っていたので、2月初めての試写まで10日たってしまった。2月は28日しかないから、今月もあまり試写を見れないことになる。今日こそは、朝から3本ぐらい見てやろうと意気込んでいたが、雑用に追われて、結局この1本だけとなった。
◆4、50年も生きていると、男には、あなたがゲイであれ、無精子症であれ、また、女性とセックスをしたことがないとしても、どこかに自分の隠し子がいるのではないかというパラノイアが芽ばえる。いくつかの色恋沙汰はあればなおさらだ。この映画でビル・マーレイが演じる中年あるいは初老の男ドン・ジョンストンは、ある日、彼の昔のガールフレンドと称する人物から、自分とのあいだに息子がいるという手紙をもらう。宛名はないが、隣に住み、親しくしているウィンストンという「エチオピア人」(?)が、その話にぞっこん入れ込み、その恋人探しの旅のスケジュールを組んでくれる。かくして、ドンは、いやいやながら、昔の恋人を一人一人訪ねる旅に出る。
◆設定自体が滑稽で、それがいかにもジム・ジャームシュの映画らしい。本当に息子はいるのか、それとも、デマなのか、とすると、その手紙を出したのは誰か・・・等々考えれば面白いし、それなりの暗示(ピンクの封筒、手打ち式のタイプライター等々)もないわけではない。ちなみに、ネットにアップロードされているビット数の高いトレイラーを見ると、誰かがポストに問題の郵便を投函あうる冒頭のシーンがそのままあり、その部分をストップして見てみると、手紙を投函する手は手袋をはめている。少し見える手はやや褐色をおびているようにも見えるが、定かではない。
◆しかし、この映画で問題なのは、謎解きではない。旅の途中でドンが、空港のベンチで隣に座っている女と目があい、そこで何かが起きそうな雰囲気がただようが、何も起こらない・・・というシーンが示唆しているように、この映画は、ドンという人物を、パラノイアほどではないあいまいな想像の境界線の上を歩かせるミニマリスティックな「ロードムービー」(あるいは「ロードムービー」のミニマリズム版)である。最後の方でドンが立ち寄る花屋でその店の女性とのあいだにほのかにただよう「ひょっとしたら」の感じもそうだ。それは、決してラブ・ロンマンスには発展せず、そのままで終わる。その中間的なあいまいさがこの映画の主人公なのである。空想とも妄想とも想像とも若干異なる次元が創造されているところが注目。
◆ウィンストンが「エチオピア人」である保証はないが、彼とドンはしばしばエチオピア・レストラン/カフェで会う。2人はただ、エチアピアコーヒーを飲みたくてそこを利用しているだけかもしれない。
◆昔の恋人を一人づつ訪ねるとき、最初に訪ねるローラ(シャロン・ストーン)が一番愛想よく迎えてくれる。その娘は、ストリップサービスまでしてくれる。みんな愛想よすぎるところがファニー。ここでの食事はチキンとロゼのワイン。デザートは切らしたとローラが言う。次に会うドーラ(フランセス・コンロイ)は、普通の意味でファニー。夫が帰ってきて、ドンは、いっしょに食事を食べるはめに陥るのだが、俯瞰からアップで映されるその料理がいかにもまずそう。アッパーミドルの家の「ヘルシー」志向の料理らしいが、どうも、みな冷凍をもどしたもの。一枚の皿のうえにゆでたニンジンの輪切り、機械で切った四角い魚のソテー、丸い型から抜いたライス。ドンは、石でも飲み込むような表情で食べる。客のペットと会話できるという「アニマル・コミュニケーター」を仕事にしているというカルメン(ジェシカ・ラング)も、ファニーらしいファニーなキャラクター。その意味では、わたしなどには、あまりファニーに感じられないが、彼女ともドンは、しっくりこない。時間は二人をかぎりなく遠くに引き離してしまったかのようだ。見るからに「プアーホワイト」っぽい男たちのヒッピー・コミュニティのようなところに住んでいるベニー(ディルダ・スィンストン)は、昔の悪い思い出のせいか、えらく愛想が悪く、そのあげくドンは、男たちに殴られる。
◆マリワナのジョークはもう古いが、ジャームッシュの世代にはこだわりがある。ウィンストンの妻が、庭に出る彼に、「タバコは吸わないのよ」と言い、それを聞き流して庭に出た彼が、ドンとマリワナを吸いはじめる。娘がそれを見て、「パパ、また吸っている」と言うと、ウィンストンが、「タバコじゃないよ」と言う。
◆ジム・ジャームッシュは、わざとらしくなくてファニーな雰囲気を作るのが得意だったが、この10年ぐらい、わたしはジャームッシュから遠ざかっていた。久しぶりに再会したのが、『コーヒー&シガレッツ』だった。この勢いで、ジャームッシュが次々に新作を発表してくれることを祈る。
(東芝エンタテインメント/キネティック+東京テアトル)
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