粉川哲夫の【シネマノート】
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3月公開作品短評 ★★★★★
★★ ツーリスト (アンジェリーナ・ジョリーがパリのキャフェに座っている導入部はなかなか気を惹く。が、それは続かない。リメイクの元作『アントニー・ジマー』を見ればわかるように、今回ジョニー・デップが演じている役は「誰でもいい」感じでなければならない。が、大スターのジョニーが演ったので、えらく気のない演技になってしまった)。
★★★+ アレクサンドリア (『アザーズ』でもはっきり出ていたキリスト教批判が、911以後の原理主義の台頭を意識して、より批判的に描かれる。ローマ帝国末期の民主的広場 <アゴラ>[原題]の破壊)。
★★+ アメイジング・グレイス (奴隷貿易の廃止のために闘い、その廃止に成功するウィリアム・ウィルバーフォースの「感動」の物語。歴史が一人の「偉人」で動くという教科書的な史観と、廃止200周年に合わせて作られたこの映画の背景にキリスト教原理主義者たちの影が見えるという批判もあった。遅れた公開で冷静な判断が出来るかもしれない)。
★★★ 神々と男たち (「武装イスラム集団」の暴力に対して非暴力を抜いたフランス人カソリック修道士たち。その悲痛さとともに、綿々と続くカトリックの凄さのようなものを見た)。
★★ ランナウェイズ (ええ?! ザ・ランナウェイズって、こんなにカワイイ女の子たちのバンドだったっけと思わせるところが限界。映像も美しすぎる。シェリー・カーリーを演じるダコタ・ファニングの少女バイバイ記念の作品として見るしかない)。
★★★+ トゥルー・グリット (←ロジャー・ディーキンスの映像がすばらしい)。
★★★ ザ・ライト エクソシストの真実 (その「狂人」は「統合失調症」なのか、それともオカルト的な「憑依」に取り憑かれたのか? 精神分析医が必要なのか、それとも悪魔の憑依を解く「エクソシスト」が必要なのか? けっこう真面目なアプローチ)。
★★★★ お家をさがそう (←「弱さ」とやさしさとせつなさの映画。ファミリー信仰の強いアメリカとしてはファミリーというものを冷厳に見ている)。
★★★★ ザ・ファイター (←アカデミー助演男優賞をもらって当然のクリスチャン・ベールの演技がすばらしい)。
★★★+ わたしを離さないで (←SF的世界がいまここにあるかのように表出するカズオ・イシグロの小説の映画化。これもせつなさの映画)。
★★+ イリュージョニスト (絵柄は素晴らしいが、『ベルヴィル・ランデブー』を観てしまった者には不満が残る)。
今月のノート
ザ・ライト メアリー&マックス 少年マイロの火星冒険記3D アンノウン
2011-03-11~31
●3月11日に起きた東北地方太平洋沖地震と、それによって引き起こされた福島第1原発のメルトダウン事故のため、試写の大半は中止となった。わたしは、その間、原発事故を適切に報道しないメスメディアにしびれをきらし、海外報道やネットの書込み、海外の知り合いの情報を紹介しようと、「雑日記」に連載を始めた。それは、時間でテーマを書き切る言語パフォーマンスの様相を呈した。したがって、事実関係には誤記もあるかもしれないが、この間の緊迫した状況は伝えられたと思う。
◎福島原発事故関連
●くりかえされる原発の問題 ●福島チェリノブイリ ●どっちが正しいの? ●マスメディアはいらない ●恐怖の教訓 ●メルトダウン以後 ●テレビ汚染 ●ジョゼフ・エーマン の「謎」 ●五里霧中 ●ウラニウム価格の暴落 ●「・・と聞いています」 ●ガイガーカウンター ●「基本」を言い続けること ●福島とスリーマイル島との違い ●原発依存症 ●ドイツ選挙のインパクト ●ウィンドスケールの事故 ●「善悪の彼岸」の笑み ●ドイツからのブーメラン ●「米軍の援助拒否」 ●放射能汚染の浄化 ●「再処理」ビジネス ●「壮大」なシナリオの破産 ●「コラテラル」な犠牲はたくさんだ ●トニー・バレル ●流言蜚語
2011-03-10_2
★★★ ●アンノウン (Unknown/2011/Jaume Collet-Serra)(ジャウム・コレット=セラ)
◆ベルリンで開かれるバイオテクノロジーのサミットに招かれてアメリカからやって来たマーティン・ハリス博士(リーアン・ニーソン)は、婦人(ジャニュアリー・ジョーンズ)とともに空港からタクシーでベルリン市内のアドロン・ホテルに着く。が、トランクをタクシーに積み忘れたことを思い出し、マーティンは婦人を残したままあわててタクシーの飛び乗る。だが、そのタクシーは、トラックから突然転がり落ちた大きな冷蔵庫にぶつかったバイクを避けようとして、スプレー川(らしい)に転落する。すると、女性の運転手ジーナ(ダイアン・クルーガー)は、気丈にも、気を失っているマーティンを救い出す。ベルリンには、けっこう女性のタクシー運転手がいるが、ダイアン・クルーガーのような「美人」運転手は見たこともないし、彼女のような女性に、真冬のベルリンの、しかも河中でこんな果敢な行動が出来るとは思えないが、映画は、観客をそらさないアップテンポで進むので、そんなことは気にならず、ドラマに惹き込まれていく。
◆マーティンが病院の緊急治療室で意識を回復したとき、妻も、サミットの関係者も誰も自分を探してはいないことに気づく。病室でテレビを見ことができるようになったとき、画面にホテル・アドロンでバイオテクノロジーのサミットが開かれようとしているというニュースを見る。自分は、このためにベルリンにやって来たことを思い出す。が、担当医(カール・マルコヴィックス)が止めるのもきかずにホテルに急行したマーティンは、自分の妻が自分と同名の男(エイダン・クイン)といっしょにおり、自分のことを全く知らないという予想外の出来事に直面する。自分はいったい誰なのか?
◆以後、マーティンの自分探しが始まるのだが、論理的には破綻がないにもかかわらず、せっかくのこの導入部の奥行きを浅くしてしまっているのは残念だ。どれが「本当」の事実かがあいまいであるところをもっと活用することもできただろう。が、全体は、リチャード・ドナーの『陰謀のセオリー』(Conspiracy Theory/1997) 的な展開になってしまう。ただ、『身元不明』のほうは、場所を冬のベルリンに設定しているので、冷戦時代の痕跡のようなものが感じられ、その雰囲気を芸達者なブルーノ・ガンツとフランク・ランジェラが盛り上げ、エンターテインメントとしては楽しめる体裁をととのえる。
◆この映画の「ベルリン」にはまだ「冷戦」の雰囲気が残っているが、実際のベルリンには、もうそういう気配は全くといっていいほどない。ベルリンの壁は、壊され、「博物館」の展示品か、記念碑としてほんの一部がもとの場所に残されているだけである。まさに、すべてが終わってリーアン・ニーソンとダイアン・クルーガーが、新しいベルリン中央駅 (Berlin Hauptbahnhof)からいづこへかユーロスターで旅立つ最後のシーンが、いまのベルリンにふさわしい。
◆ホテルが「テロリスト」に爆破され、無残な姿をさらすシーンの映像(むろん特殊効果によるとしても)を実在のホテルが許すのは、めずらしいのではないかと思うが、「ホテル・アドロン」は実在の「Hotel Adlon Kempinski 」を使っている。その警備部主任を演じるのは、『白いリボン』にも出ていたライナー・ボック。いかにも苦労人らしいドイツ人役を見事に演じている。彼が、爆破されたホテルを見上げて、呆然としている表情も、なかなかいい。
◆ダイアン・クルーガーが演じる女性は、ボスニアの不法移民という設定。それにしては「ドイツ人」っぽすぎるが、論理的にはつじつまが合う。そういう論理性が、この映画のすべてに見られる。彼女が働いていたタクシー会社がトルコ人の経営であったり、ブルーノ・ガンツが演じるユルゲンという男が、かつて東ドイツの秘密警察であったり、臭さあ~い感じを出すのがうまいフランク・アンジェラが、金をもらえば何でもやる殺し屋組織のボスであるとか、全体の整合性(もっともらしさ)はちゃんとしている。
◆殺し屋のスミスを演じるオリバー・スミスの身のこなしがなかなかいいので、調べたら、もともとスタントの人なのだった。
◆【追記】試写の時点では、邦題は「身元不明」となっていたが、3月11日の東北地方太平洋沖地震の被害者を配慮し、「アンノウン」に変えたとのこと。 (ワーナー・ブラザース配給)
2011-03-10_1
★★ ●少年マイロの火星冒険記3D (Mars Needs Moms/2011/Simon Wells)(サイモン・ウェルズ)
◆この映画は、わたしには因縁のような作品だ。まず、わたしはあまり快適な条件ではこの作品を観ることができなかった。そのエピソードは「雑日記」に書いた。そのため、「観てすぐ速書シネマノート」というわけにはいかなかった。ところが、その後、『キネマ旬報』(2011年5月上旬号)で2000字ほどのレヴューを書くことになった。さらに、『スポーツ報知』(2011年4月16日号)の連載コラム(「シネマ斬り」)でもこの作品を選ぶことになってしまった。「なってしまった」というのは、えらく主体性がない感じだが、書評や映画評というものはいつもそんなものだ。既存の活字媒体というものは、編集者や出版社が主体であり、こちらがデザインや流通方法を決めるわけにはいかない。どんな書き方をしても、依頼者や注文主の希望が反映する。そこで、(すでに試写を見てから大分たっているが)若干のノートを付しておこうと思う。上述のレヴューとあわせて読んでいただけるとありがたい。
◆わたしは、2Dの吹き替えなしで見たが、日本公開では3Dの吹替え版だけのようだ。これだと、この映画ご自慢のモーション・キャプチャーの面白さが半減する。登場人物の表情は、マイロ→セス・グリーン、グリブル→ダン・フォグラー、ママ→ジョーン・キューザック、キイ→エリザベス・ハーノイスのライブ・モーション・キャプチャーの産物であり、声も、マイロだけは11歳のセス・ロバート・ダスキー [Seth Robert Dusky] )が担当したが、同上の俳優たちが出している。
◆アメリカでは、1億5千万ドルかかった作品が、全米3117館で上映し、1週間の収益が7百万ドル弱、つまり20分の1以下だった。ちなみに、『トイストーリー3』は、2億(推定)かかり、全米4028館で公開され、1週間で1億1千万ドル以上の収益を上げたという。ゼメキスの会社 ImageMoversの総力をあげて、まさに『ポーラ・エクスプレス』以後の総決算として「満を持して」世に問うた作品が、当たらなかった理由については、『キネマ旬報』のゼメキス特集に書いた。
◆日本の宣伝では、ヤバいと思ったのか、監督のサイモン・ウェルズよりもロバート・ゼメキスの名前が前面に出される。また、サイモン・ウェルズの名が出ても、(これはむしろアメリカでのことだが)「H・G・ウェルズの曾孫(ひまご)」という言い方がされる。気の毒である。が、サイモン・ウェルズは、すでに自分のスタイルを確立させている監督である。とはいえ、彼の名をある程度浸透させた劇映画『タイムマシーン』は曽祖父の原作の映画化なのだから、H・G・ウェルズとの関係を持ち出されても仕方がないし、サイモン自身、むしろ曽祖父にあやかろうとしているところもある。
◆『少年マイロの火星冒険記3D』は、必ずしも「核家族」を推奨しているわけでもない。むしろ、ある意味では皮肉ってもいる。火星では、女性が前面に出ていて、「ババア」(「総督」と字幕ではなっているが、原作では「スーパーヴァイザー」つまり監督官ぐらいの意味)(声:ミンディ・スターリング)が仕切っているのだが、これは、「進んだ」地球の可能的現実だ。サッチャー時代のイギリスやアンゲラ・メルケルのドイツを考えればいいし、女性を管理者にする傾向はきわめて今的だ。また、すべてをロボットにまかせ、そのロボットが本当の「母性」を知らないので、それをソフト的におぼえさせるために地球から「理想的」な母親を拉致して、その母性をスキャンしてしまおうというのは、それほど非現実的なことではない。逆に、そのへんの現実性が、暗黙に、批評家や観客の意識を逆撫でしたかもしれない。
◆地球のテレビ放送を受信したのか、あるいはYouTubeのようなアルカイブからデータをコピーしたのか、1960~70年代の地球のサブカルチャーに入れ込んでいる火星人女性が登場する。キイ(声:エリザベス・ハーノイス)である。この子が持っているポータブルなパッドがすばらしい。透明で、どちらがわからも映像が見える。その映像を壁に投射するプロジェクター機能も持っている。
◆キイがマイロに見せる映像で、ヒッピーがペンキでバンにグラフィティ(落書)を描いていて、警官に誰何(すいか)されているらしい映像がある。このシーンの由来をあれこれチェックしてみたが、これぞと思う映画作品は見当たらなかった。70年代のテレビ番組だと書いているアメリカのレビューがあったが、どの番組かはわからなかった。キイが操作しているパッドにタイトルらしいのが見え、鏡文字で「・・・STREET」らしい文字が見えたが、全体を素早く読み取ることはできなかった。DVDが出れば、確認できるかもしれない。
◆グラフィティに入れ込んでいるキイもそうだが、マイロと同じように地球から母親といっしょに火星にまぎれ込み、地下世界で成長したグリブル(声:ダン・フォーグラー)は、オタク中のオタクで、さまざまな電子ジャンクを集めて、自分の基地を作っている。『ウォーリー』も、ジャンクを集めて自分の基地に保存していたが、彼は、グリブルのように、それをブリコラージュしてコックピットのような世界を作りあげることはしなかった。
◆今性(いませい)ということでいうと、たしかにこの映画の今性は少し古いかもしれない。なぜなら、もはや、オタクは今的ではないからである。時代は、オタクからヒキコモリに移った。その意味で、キイもグリブルも「行動的」すぎる。
(ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン配給)
2011-03-07
★★★★ ●メアリー&マックス (Mary and Max/2009/Adam Elliot)(アダム・エリオット)
◆どちらも精神的に難しい状態にある二人が出会う。映画では、はっきりと「アスピー」(Aspie) つまりアスペルガー症候群にかかっている人と言っているが、もっと広義の「自閉症」や「ヒキコモリ」のために他人との接触が難しいと考えたほうがいい。単なる「特異」の状態にある二人が交流する話というよりも、いまなんらかの意味で「ヒキコモリ」的状況に陥らざるをえない傾向が強まっているが、そういう状況に――決して楽天的ではないが――「なんとかやっていけるかもしれない」という気持ちをあたえてくれるような映画である。
◆監督のアダム・エリオットは、『ハーヴィ・クランペット』で、2004年度の最優秀短編アニメーション賞を獲得している。これも、本作と同様に、人形を使って一枚一枚コマ撮りをして完成した手の込んだ作品だ。セリフはなく、全編、『英国王のスピーチ』でアカデミー助演賞にノミネートされたあのジェフリー・ラッシュのナレーションで物語が進む。幼児のときに「トゥレット症候群」という診断を受けた子供が、他人とのコミュニケーションの困難に悩みながら生きる生涯を描いている。1922年にポーランドの田舎で生まれたハーヴィは、いずれも「普通」ではない両親が不慮の死をとげ、ヒトラーのポーランド侵攻がはじまると、難を逃れてオーストラリアに移住する。そこでやっと職を得て、いろいろな困難の末結婚もし、子供も生まれる。娘は才能を発揮し、アメリカに留学する。どこにでもあるような人生だが、つねに淋しさがつきまとうところが『ハーヴィ・クランペット』と『メリー&マックス』に共通するところだ。
◆『ハーヴィ・クランペット』のなかで、ハーヴィは、娘に「人はみな "ユニーク”なのだ」と教える。この考えは、アダム・エリオットの一貫した思想であり、だからこそ、それぞれに障害や持病をかかえている登場人物たちが、そのユニークさをとらえて描かれる。
◆オーストラリアのメルボルンの郊外に住むメアリー(声:トニ・コレット)は、他人と打ち解けない「孤独」な子供時代を送る。お菓子を過食し、マンガのキャラクターのフィギャーを集めるのが好き。両親もかなり変わっている。その彼女が、あるとき郵便局でニューヨークの電話帳を見つけ、何気なくそのページを開き、いろいろな名前から勝手な想像にふけっていたとき、ふとニューヨークの人に手紙を出してみようと思う。電話帳から選んだ一人の人物が、マックス・ホロヴィッツという名前だった。
◆マックス(声:フィリップ・シーモア・ホフマン)は、すでに老境の気難しい老人で、その彼のところにメアリーの手紙が届く。他人と話すこともなかった彼は、メアリーに、古いアンダーウッドのタイプライターで自分のことを書く。物語は、以後、二人が交換する手紙を軸に展開する。二人はそれぞれに歳を取り、メアリーは大人になり、大学に入り、マックスは宝くじに当たって大金持ちになる。むろん、いいことばかりではない。この成り行きだと、最後はメアリーがニューヨークにやってきて、年令を越えた愛が実を結ぶのだろうと思うが、そうもいかない。結末よりも過程が重要だ。
◆孤独な二人が、遠い距離を置きながら、手紙というメディアを使って交流し、つらい日々のなかにわずかの喜びを見出す。このことがこの映画の核心だ。この場合、距離の存在が重要なのである。二人とも、程度の差はあれ「自閉症」的人物で、ファイス・トゥ・フェイスの交流が苦手だ。他人の世界に入るのが怖い。が、たった一人でいるのもつらい。親はあまりかまってくれないようだが、かまわれるのも不愉快なのだ。自分が安心し、満足できる可動性のある「距離」が必要なのだが、それは、「普通」は得られない。が、手紙なら、それは可能になる。
◆自閉症やアスペルガーやヒキコモリにとって、「距離」の確保が一番重要なことをこの映画は実によく押さえている。
◆マックスは、「無神論者」だと書くが、ルーツはユダヤ系である。『ハーヴィ・クランペット』のポーランドの家も、明らかにユダヤ人の「シュテットル」(特殊村)の雰囲気で描かれるが、両親が死んでハーヴィが埋葬に立ち会うシーンに出てくるのはユダヤのラビではなく、十字架を胸にかけた牧師だった。が、どうみてもハーヴィはユダヤ人である。マックスの場合は、名実ともにニューヨークに住むユダヤ系アメリカ人で、こういう人物は、ニューヨークなら無数にいる。
◆メアリーは、やがて大学で心理学を学び、マックスをモデルにして『アスペルガー的精神を分析する』(Dissecting The Asperger's Mind) という本を書き、有名人になる。が、それは、マックスを傷つけ、それを知ったメアリーも自己嫌悪に陥る。このへんも、悪気がないのにすれ違ってしまう交流の難しさがよく描かれる。
◆結婚した相手にも敬遠され、自己嫌悪と自責の念が強まるなかで、メアリーがぼろぼろになっていくプロセスもリアリティがある。首を吊ろうとすると、飼っている鶏だけが心配するなんて実に悲しいではないか。そのシーンで、ピンク・マルティーニのリードシンガー、キーナ・フォーブスが歌う「ケ・セ・ラ・セラ」が使われるが、それが原曲以上に切なく感じるのは、そのシーンのせいか。
◆全体としては、悲しい話なのだが、にもかかわらず、メロドラマのように観客を泣かせて終わりというのではないところがこの映画のユニークなところ。交流がうまくいかない、すれちがってしまう不幸が、決して特殊なことではなく、そういう困難といっしょに何とかやっていくのが生きるということなのかと思わせてしまうところ、しかもそれを「説得力」のような押しつけがましさで描くのではなく、極度に傷つきやすい心にも優しく受け入れられそうなある種の可動的な「距離」を潜ませながら描くところがこの映画の繊細さである。
(エスパース・サロウ配給)
2011-03-01
★★★ ●ザ・ライト エクソシストの真実 (The Rite/2011/Mikael Håfström)(ミカエル・ハフストローム)
◆なんでも「見事に」演じられるアンソニー・ホプキンスが出ているのでやや引き、試写を見のが後回しになった。が、意外に面白かった。エクソシズム(悪魔祓い)をオカルト的迷信としてではなく、「狂気」へアプローチする方法としては、精神分析とそう違わないのではないかということを考え直す気にさせた。
◆「狂気」は、近代医学的観点からは、精神病理学の対象になり、その「憑依」(ひょうい)現象は、「スキツォフレニア」(「統合失調症」)だと解釈されたりする。が、精神病理学が、「憑依」する患者をエクソシズムよりもよりよく治療したかというと、疑わしい。そもそも「スキツォフレニア」が「治療」可能かどうかはわからない。とすれば、エクソシストのほうが、精神科医よりもより実りある実績をあげているかもしれない。
◆映画の初めに、教皇ヨハネ・パウロ二世の言葉として、「大天使聖ミカエルによる悪魔との戦いは今も続いている。悪魔は今も存在するからである」という言葉が紹介される。宗教的なエキソシズムと精神医学との違いは、後者が分子論的な説明をするのに対して、前者が、「悪魔」や「神」という「顔」のある存在で「憑依」を説明しようとする点だ。分子論的な現象には「顔」がなく、人間の知覚で直接認識することができないが、「悪魔」は、ちゃんとした「顔」をもってそこに存在しうるものと見なされる。近代医学の側からすれば、「悪魔」は「妄想」の産物にすぎない。
◆だが、エクソシストと精神分析医とが共有していることがある。それは、言葉であり、すべてを言葉にするという伝統である。この映画でも、エクソシストの導師ルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)が、悪魔か悪霊と対峙(たいじ)するときはつねに言葉で闘う。そして、悪魔は、その「論争」で語り倒されたときのみ、退散する。精神分析医も、治療の基本は「対話」であり、必ず言葉が介在する。いずれの場合も、「患者」は黙っているわけにはいかないのである。憑依者は、取り憑いた悪魔が憑依者の身体を通じて語るわけだが、言葉を発することにはかわりがない。
◆言葉への執着、すべては言葉で表現できるという発想は、極めて西欧的な伝統だ。むろんこの伝統のなかでも言葉にならないもの、「言い得ぬもの」は存在するのだが、「健康」や「普通」の状態は、言葉に出来、共有可能なものという発想がある。エクソシズムも精神分析も、その意味では「真理」や「公共性」の信仰に立脚している。が、これは、「隠すこと」を許さないということであるから、ときには、「侵略」し、「開発」し、「自ら隠す本質を持つ」存在のうえに虚構(ハイデッガー的な意味での「存在者」)を仮構することにもなる。
◆マルチン・ハイデッガーは、西欧的な「真理」は「隠れなさ」であると言ったが、それは、事実と命題との「合理的」「明晰判明」な《合致》としての「真理」を、「隠れる/隠れない」という原初的レベルで考え直し、「隠れていること」がすっかり開明されてしまうとはかぎらないことを言おうとしたのだった。『根拠律』(Der Satz vom Grund) のなかで、ハイデッガーは、ライプニッツの命題「いかなるものも根拠なしにあるわけではない」(Nihil est sine ratione)をあえて「無は根拠なしにある」と訳しなおし、ただ隠れたままあるだけということもまた真理なのだと言おうとしている。とすれば、"ratio"つまり「合理」と「根拠」「理由」を求め続ける近代科学に対して、エクソシズムは、究極に「無の闇」を残す点で、「西欧形而上学」以後の思考となじみやすいかもしれない。が、そこがヤバくもあり、面白くもある点である。
◆難しいことをかきすぎた。映画がそんなことを論じるわけではない。そういうことにも考えが及ぶような奥行きを持っているということだ。そして、この映画は、わたしには、日本のように、必ずしも言葉にするということがあたりまえではない環境では、憑依の問題はどうなるのだろうか、さらには、精神分析も、言葉にするということを基軸にしているとすれば、精神分析が日本の環境で有効性を持つのだろうか、といったことを考えさせた。
◆ストーリー:父親(久しぶりのルトガー・ハウアー)が葬儀屋で、死化粧の名人なので、子供のころから死体に接していたマイケル(コリン・オドノヒュー)は、父親の仕事を手伝っているが、思うことあって神学学校に通うことにする。4年後、指導教授のマシュー神父(トビー・ジョーンズ)に強く奨められ、ローマのバチカンのエクソシスト養成講座を受けることになる。もともと、憑依は精神病の現象だと考えていたマイケルは、講座に対して半身にならざるを得ない。「悪魔」の話が、スクリーンのある現代的な教室で行われるのも笑える。そういう彼に、講座の主任のザビエル神父(キアラン・ハインズ)は、実際にエクソシストをやっているルーカス神父(アンソニー・ホプキンス)を訪ねるように薦める。しぶしぶ訪ねた彼だが、ルーカス神父としばらく過ごすうちに、それまでの考えが根底から変わってくる。
◆この映画は、ジャーナリストのマット・バリーノ (Matt Baglio) が、ヴァチカン公認のエクソシストのグレイ・トーマス神父 (Father Gary Thomas) について書いた『The Rite: The Making of a Modern Exorcist』をベースにしているという。映画ではこのジャーナリストは、アンジェリーナという女性(アリシー・ブラガ)に変えられている。グレイ・トーマスへのインタヴューによると、この映画のようなエクソシストは存在する(自分がその一人)し、講座も実際におこなわれているという。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
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