粉川哲夫の【シネマノート】   リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)  
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2005-02-28

●PEEP "TV" SHOW (PEEP "TV" SHOW/2003/Yutaka Tsuchiya)(土屋豊)  ★★★3/5


PEEP
◆土屋豊のようなインディペンデントのメディア・アクティヴィストの作品が「普通」の試写室で上映されることはめずらしい。わたしは、土屋氏をむかしから知っており、1999年にアムステルダムでヘート・ロヴィンクらが開いたNext5Minutesに共にまねかれたとき、いっしょにアムステルダムの夜を楽しんだこともある。大学でも『新しい神様』の上映と講演をしたもらったのは大分まえだ。だから、氏が近年海外で高い評価を受けているのは、うれしいかぎりだ。本作のうわさは各方面から聞いていたので、期待して見に行った。期待は裏切られなかった。
◆けっこう運動関係の人の顔も見えたが、わたしの横にいたひとが、映像がちょっと「実験映画」風(わたしにはそのほうが面白い)になると、あくびをしたり、ケータイでメールを読んだりしているのが、気になった(というより、腹が立った)。そういう人は、土屋の作品を見る資格がない。ちなみに、この作品が2004年のロッテルダム・フィルム・フェスティヴァルで上映されたとき、途中で客席が半分になったらしい。おそらく、映像が「わびしい」印象をあたえたためだろう。たしかに、劇場のスクリーンで見ると、「映画」っぽい仕上がりではない。しかし土屋は、低予算とローテクを逆手に取って映画を作る戦略家だ。今回は、そういう作風が最もよく出ている。テーマと技術とプロデューシングが一体をなしている。
◆明らかに、この作品は、9・11に触発されて作られた。これは、土屋にとっての『11'09'01セプテンバー11』だと言える。彼は、WTCの爆破という出来事(それ自体は、広島・長崎の原爆を経験している者には、驚きではない)が、テレビの映像を通じて世界中の人の目に触れ、人々がそれを映像的出来事として見たということに「新しさ」を見る。そして、それは、たとえば、監視カメラの氾濫や、テレビのバラエティー番組で有名人のみならず個々人の私生活を覗き見したいという視聴者の欲望の昂進、植草一秀氏に象徴されるような(と土屋氏は言ってはいないが)「覗きサブカルチャー」の全般的昂進・・・と表裏一体のものであり、「テロ」だ、「戦争」だと言う以前に、このこと――つまり「覗き」の全世界化のなかにこそ、いま進行している深刻な事態があるのではないかという問いかけをする。
◆わたしは、かねてから、小倉利丸氏らの監視カメラの増殖に対する反対運動を尊敬しながらも、監視カメラなどというものは、20世紀後半になって浮上したテクノロジーの必然的産物であって、反対しようが、賛成しようが、抑えようのない動向だと思ってきた。それは、監視カメラの増殖を肯定するのではなくて、もし反対するのであれば、その動向そのものを異化してしまうような方向と方法でやらなければだめだということだ。テレビの例で言えば、テレビに反対するのなら、テレビを見ないというようなこと(あなたが見なくても、多くの人が見るだろう)ではなくて、テレビを(丁度、ダグラス・デイヴィスが「The Backward Televison」でやったような)テレビの機能転換をやらなければ意味がない。
◆この映画は、9・11のテレビ報道の「洗礼」を受けて、覗くということに強烈な直感をもってしまった青年・長谷川(長谷川貴之)が、盗撮からからはじまって、その映像をウェブサイトに公開し、さらには、そのサイトを通じてその長谷川に近づいてきた「ゴスロリ」ファッション(頭にボンネットのようなものを着け、下はロリコン趣味の気をそそる服を着る)の女・萌(ゲッチョフ・詩)の部屋のライブ・ストリーミング放送に至る物語である。その時間が、2001年9月11日から2002年の同日までに設定されており、その時間を重層化させながら、そのときどきのコメント的テキスト、ネットへの書き込み、モノローグ、インタヴュー、盗撮の映像を引き継いだ「ドラマ」などが交錯する。
◆渋谷駅まえでの盗撮では、秋葉原のトモカ電気・ラジオセンター店などで売っている送信機付の小さなビデオカメラをリボンのかかった小箱に入れて路上に転がしておき、その上を歩く女たちの股間を近くでモニタリングする)する。その次は、個々人の家に同様の装置をひそかに設置して、近くの車のなかで傍受する。棒のようなものの先端にカメラを付けて、女子トイレの天井や下の隙間から盗撮するという手口もある。いずれも、技術的には、よく知られたものであり、ハリウッド映画に出てくるような「技術先行」の無理なところがない。
◆この映画を見た人がどう思うかは知らないが、盗聴・盗撮はむろんのこと、ここで行われている以上のことが現実に行われている。猫をビニール袋に入れた映像をネットでライブ放送し、付属のチャットで「殺すかどうか」を議論させるというシーンにしても、1980年代初めに、ニューヨークのパブリックアクセスのテレビのライブで、犬を銃で撃ち殺すシーンを放送して問題になったことがある。また、萌が、自分の私生活をインターネットのライブで流すのも、すでに1996年ごろに試みた女性がアメリカにいた。この映画のなかで、長谷川が、自分が盗撮した映像をネットに流そうという気になったのは、アルバイト先の仲間に、「いまのネットはすごいよ」というようなことを言われ、女がチャットしながら服を脱いだり、性器を見せたりするサイトを覗いたのが推進力になったという設定になっている。ただ、これも、ずいぶんまえからある。わたしが言いたいのは、そういう「内容的」な点に驚いたり、感心したり、嫌悪したりしていてはこの映画のユニークさはわからないということだ。
◆「内容」では、盗撮されている家で男女が言い争っているシーンが面白い。それは、盗撮カメラの荒れた画面から映画的にカメラがつなげるドラマであって、実際に盗撮されたものではないなのだが、女が、「あんたさぁ、『反戦』だとか、『アメリカ反対』だとか言うまえに貸したお金をかえしてよ」と言うのである。この男の雰囲気が、「小熊英二」さんに似ているのも笑える。コンビニで働いており、ときどき集会のビラに見入っていたりしている。彼女が言うには、運動だとか連帯だとか言っている連中は、個人意識のなかにそういう「大それた」問題以前の問題があり、それをすり替えるためにそういうことを言っているのだと言う。このあたりは、「運動」大好きクンたちを大いに怒らせるかもしれない。
◆わたしは、土屋豊は左翼だと思っているが、いわゆる「左翼」の人たちは、そう見ないらしい。以前、ある「左翼」の「大家」に会ったとき土屋をほめたら、「ありゃダメですよ」と一蹴された。しかし、9・11というよりも、ブッシュが選挙の公正なプロセスをへずに当選し、それが冗談かと思ったら、それが世界の「標準」になりつつある今日の状況を考えると、「左翼」――つまり支配的な権力に否をとなえる人々――は、このへんで、これまでの集会やデモを含むプロテストの方法と姿勢そのものを変えなければならないだろう。日本の「左翼」は、これまで、海外で起こった「革命」にパラノイアックな思い入れをすることによって、勢いをつけてきた。そういうパラノイアは、ときには創造的な効果をもつが、実際には、自分のやっていることがパラノイアなのだという自覚を失い、そのため、いずれは訪れるパラノイア=夢の失墜という事態にいたって、転向や、自分がそれまで信じていたはずの左翼性そのものを逆恨みしたりする。よく見れば、いまの政府や企業で実権を握っている多くは、かつての「左翼」であり、その転向組なのだということを知るべきだ。
◆誰にでもパラノイアは重要である。パラノイアがなければ映画を撮ることも、表現をすることもできないだろう。それで何かをなしとげたいという欲望ではなくて、「こうなったらいいな」という夢としてのパラノイア。そういうパラノイアとしてなら、「パリ5月革命」も「文化大革命」も「アウトノミア」も「チアパス」も、そして「ヴェネゼラの2002年4月」も意味がある。しかし、それらを「つかのまの夢」としてではなく、「理想的な制度」として、というようり「目黒のサンマ」的に崇拝するのが、これまでの「左翼」の慣例だった。
◆長谷川がやっている盗撮は、そういうのとは異なるパラノイアにひたることである。最初のほうのシーンで、彼は、渋谷駅前の歩道で盗撮した映像を家に持ち帰り、それを見ながら自慰をする。その映像は、決して鮮明なものではなく、想像とパラノイアなしには、性欲をわきたたせはしない。むろん、彼は、それがパラノイアの単なる装置にすぎないことを知っている。だから、彼は、そういう行動を「正当化」することを社会に向かって訴えたりはしない。
◆実は、WTCの報道の最初のほうの映像は、付近の監視カメラの映像だったという説がある。そうだとすれば、9・11は、監視カメラが制度として正当性を得た象徴的な事件だった。いずれにせよ、「盗撮」とは、うさんくさいものとみなされるのに対して、監視は、正当化された。以後、監視は、社会制度のなかの一装置としてあたりまえのものとなる。
◆わたしは、かねてから、「デジタル・ヌーディズム」ということを提唱してきた。デジタル・テクノロジーは、すべてをあらわにするテクノロジーである。それは、距離性をはぎとり、身体の内的な距離から宇宙の外的な距離までのあらゆる距離を極限まで縮めようという方向で「発展」する。いまのテクノロジーが、遺伝子操作という極小と、宇宙開発という極大とのあいだを動いているのは偶然ではない。ここでは、すべてがあばかれるから、「隠す」ということはかえってやっかいなことになる。この技術体制のもとでは、すべてを明かせてしまうほうが楽なのだ。が、それには、「隠す」ということによって人を操ったり、支配したり、カッコをつけたりする志向をあらためざるをえない。それは、可能か?
◆この映画では、「ゴスロリ」ファッションの子たちの腕には自傷の跡がある。長谷川は鼻と唇にピアスをしている。ひきこもりの人もいる。電車のなかで批判のモノローグをつぶやいている男もいる。彼や彼女らが、長谷川のサイトに惹かれるのは、それがパラノイア装置だからだ。権力もパラノイア装置を拡充している。それに対する「オールタナティヴ」は、あまりにわびしい。が、それが権力の戦略である。みずからが設置し、維持・管理しているもの以外の「類似品」は「うさんくさい」ものと見なすように訓練する。
(TCC試写室/スローラーナー)

2005-02-25

●イン・ザ・プール (Inzapuru/In the pool/2005/Miki Satoshi)(三木聡)  ★★2/5

In the pool
◆ニュージーランドへ行くので準備をしなければという多少のあせりがあり、「駄作」は見たくないという心境。が、「あの松尾スズキが映画初出演で怪演をしている」というので、電車に乗る。が、依然どこかにヤな予感。電車のなかは、マスクをしている人だらけ。病院以上。車内広告の雑誌の見出しには、「ホリエモン」の名がおどる。日本では、いまでも「株」は土地みたいなものとして認識されていて、株を情報として「本格的」にあつかう奴が出てきたら、大慌て。憲法にしてもそうだが、日本は、形だけ西洋のマネをし、実際は慣習でやっているから、土壇場で慌てなければならない。わたしもそうだけど。
◆わたしの目には、あまり「異常」とは思えない(たぶん、ほかの観客もそうなのだろう)――だから観客がシンパシーを持てる――ある種の神経症にかかっている3人がいる。一人は、毎日というより出来れば1日中 でもプールで泳いでいたいと思う男・大森和雄(田辺誠一)。モノローグでは、それを「羊水」への回帰志向と説明する。プールに入れない時間が続くと、仕方なく、トイレの流しに水をためて手をつける。会社のエリート管理職なのだが、プールへ行く時間をつくるのに、小技をつかい、それが笑わせる。
◆ルポライターの岩村涼美(市川実和子)は、心配症で、ガス栓をとめたか、スウィッチを切ったか、鍵をちゃんとかけたかが気になり、仕事に出かけても、途中でマンションに引き返し、仕事をドタキャンしてしまったりする。それが昂じて、出るときにはビデオでガス台や電気器具の状態を撮り、後悔しないようにする。が、それがかえってディテールへの関心を惹起し、結局、マンションに舞い戻ることになる。この症例は、けっこうポピュラリティがあるだろう。
◆怒りを表に出さない営業マンの田口哲也(オダギリジョー)は、何日間も勃起したままという状態に悩んでいる。これは、あまりに空想的で面白くない。勃起ノイローゼをあつかうのなら、このように勃起しっぱなしというのではなくて、関係のないところでいきなり勃起するような症状のほうが現実性があり、また笑える。むかし、ニューヨークで、勃起不全なのか「職業」上の理由なのか知らないが、陰茎にシリコンを入れ、常時勃起状態にしている男に会ったことがある。彼は、パンツの下に強力なサポーターのようなものをはき、下腹に押えつけておくのだと言っていた。田口が、ポルノ俳優か何かの設定なら、面白いかもしれないが、設定がドタバタすぎて、笑えない。
◆「継続性勃起症」の田口をかわきりに、松尾スズキ演じる精神科医・伊良部一郎を訪ねるというのがこの映画のプロットだが、予感が的中し、松尾が最悪。だいたい、演劇の人が映画をやって成功したためしがない。松尾スズキは、演劇ではスゴいかもしれないが、映画ではダメ。演出はまだなんとかごまかせるとしても、役者となると、カメラの冷酷な目にそのアラが映ってしまう。映画も、演劇的にひと続きで撮ればちがうかもしれないが、カットのくりかえしでは、舞台でやって来た役者は、もたない。息のつきかたと勢いのつけかたがちがうからだ。それと、映画やテレビは、俳優の演技の無意識部分を冷酷に映し出してしまう。その傾向は、テレビのほうがもっと強い。松尾がいくらギャグを連発しても、全然面白くなく、会場から全く笑いばもれなかったが、それは、松尾が無意識に効果を計算しているサメた部分が、映像に出てしまったからだ。
◆診察を受けに行った田口や岩村が、伊良部に会って、その破天荒さに、これなら自分はマトモなんじゃないかと思うというような設定になっているらしいが、松尾の演技がダメなので、全然「破天荒」には見えず、見ているほうは白けてしまう。こういうのを見ると、市川なとりわけそうだが、田辺もオダギリも、みんなプロだという気がしてくる。意図的な逆ではなくても、上司役のきたろうとか、刑事役の嶋田久作がさりげなく演る演技のほうが、笑いをかもし出す。
(ヘラルド試写室/日本ヘラルド)



2005-02-22_2

●リチャード・ニクソン暗殺を企てた男 (The Assassination of Richard Nixson/2004/Niels Mueller)(ニール・ミュラー)  ★★2/5

The Assassination of Richard Nixson
◆「おとなりに座ってよろしいですか?」と端正な日本語で訊かれて、瞬間緊張した。「訊かれた」というよりも「会釈」されたと言ったほうが適切なほどエレガントなもの言い。そのときは、反射的に相手の顔も見ずに「ええ」と応えただけだったが、次の瞬間、「光栄です」と応えればよかったと後悔する。こういう言い方のできる人はどんな人だろうと思って横顔を見たが、長い睫毛しか見えなかった。
◆1974年に起こった実話にもとづいているというが、全体にいまいちという感じ。稼ぐことはいいことだと信じているボスのもとで、それに逆らうわけではないのだが、違和感をもっている男サム(ショーン・ペン)。その男が、特に怒るというわけでもなく、(わたしにはマインドコントロールにかかっていくかのように)航空機を乗っ取ろうとするまでの話。飛行機をホワイトハウスにぶっつけてときの大統領ニクソンを暗殺しようというのだった。全体が、ペンのナレーションで構成されており、その文章は、サムが好きな指揮者レオナード・バースタインに宛てれ書かれた手紙という設定になっている。
◆似たような話は、日本でもあった。1976年に、ロッキード事件への関与と脱税で児玉誉士夫が取り調べを受け、やがてCIAのエイジェントでもあったことがあきらかになったとき(それまで児玉は「民族右翼」の「巨頭」の名をほしいままにしていた)、渋谷区笹塚の甲州街道に面した「山口布団店」の息子さんが、小型セスナ機を操縦して児玉の家に特攻突撃したのだった。鉄筋で出来た家のために、児玉は怪我一つせず、特攻した山口氏が即死した。そのとき児玉は猛烈おびえ、以後、政界や財界への闇の影響力は急速におとろえたが、それはロッキード裁判のせいであって、突撃の効果がどこまであったのかどうかはわからない。わたしは、たまたまこの人の家から歩いて10分ぐらいのところに住んでいたので、この家のまえを通ると、いまだにこの事件を思い出し、かわいそうな気持ちになる。
◆この映画も、そういう「かわいそう」な人物の話だ。妻(ナオミ・ワッツ)とは、別居状態で、子供と会うのがせいいっぱい。淋しくなって彼女が働いている店に行くが、じゃまにされる。彼女としては、じゃけんにする気もないのだが、もうサムとはいっしょにはやっていけないと決めてしまったような感じ。新しい恋人もおり、それを見てしまうシーンが淋しい。友人のビニー(ドン・チールド)は、親身になってくれるが、彼といっしょに自動車タイヤの店を出そうという夢は実現しない。
◆サムが中小企業庁の事務所に融資を申請しに行き、その返事がなかなか出なくて、消耗するシーンがある。これもつらい気持ちにさせられるが、こういう官僚主義的な窓口で彼のようにストレートにやれば、当然あのような反応しか返ってこないだろう。これは、普通はわかるはずだ。が、サムにはわからない。バースタインに宛てた手紙のナレーションにもあるが、「正直者は馬鹿を見る」というパターンを地で行った結果としての不幸は、一時代まえの映画や小説にはよくあった。1970年代の雰囲気を描くことに監督もペンも興味があったらしいが、このへんが、わたしには、ちょっとピンと来ない感じがする。
◆それは、官僚主義への怒りを鬱積(うっせき)させながら、それを「特攻」という行為にもっていく(80年代日本の流行語で言えば)「ネクラ」さが、いま、もっと瞬発的な怒りと暴力にとってかわり、そういう「ネクラ」さをわすれかけているからかもしれない。しかし、わたしの記憶では、1970年代のアメリカは、不満なことに対してもっとストレートな反応を示したような気がする。とはいえ、わたしが肌近にアメリカを感じるようになるのは1975年からであり、この事件の起こる1年後からである。しかも、わたしはニューヨーク、サムは、ボルチモアだ。
◆1970年代前半のボルチモアというと、すぐに思い出されるのが、ジョン・ウォーターズである。彼は、この時代に『ピンク・フラミンゴ』(Pink Flamingos/1972)と『フィーメル・トラブル』(Femel Trouble/1974)でボルチモアのキリスト教的小市民性を徹底的にこき下ろした。彼の映画はマイナーであり、サムが見ることはなかったであろうが、もしサムが見ていたら、彼の鬱積は多少なりとも晴れたかもしれない。しかし、ジョン・ウ-ターズがこういう映画を作ったということは、とりもなおさず、ここでこき下ろされている要素――それがサムを追いつめもした――が、依然として支配的だったということでもある。
(テアトルタイムズスクエア/ワイズポリスー、アートポート)



2005-02-22_1

●極道の妻たち 情炎 (Gokudo no onnatachi/2005/Hashimoto Hjime)(橋本一)  ★★2/5


◆なぜかお客ががらがら。映画の評価は、客の数には左右されないはずだ。頭にカバンをぶっつけられようが、イビキになやまされようが、しっかりのその作品の可能性を引き出すのが批評の仕事だ。と、まあ、そういう姿勢でスクリーンに集中することにする。わたしは、基本的にこの東映の試写室が好きだ。いまどき、会社の人が仕事をしている机のわきを通って試写室に入るなんてところはない。スクリーンも小さく、椅子もわびしい。それが、東映のヤクザ映画を見るにはあっている。
◆しかし、今回は、ヤクザ映画そのものの未来は保留するとして、「極道の妻たち」ものはもう無理なのかなという印象をえた。高島礼子はいいし、韓国から夫を追ってやって来る韓国人・白英玉を演じる杉本彩も高島と互角の演技。その元夫役を演じる保坂尚輝も、(韓国人という感じはあまり出ていなかったが)計算高くもあり、かつ「家庭的」でもあり、オタク的でもある「いま」の中年の屈折を妙に印象深く演じている。病床で息もたえだえの大親分役の大木実、その「出来の悪い娘」役の未向[みさき]も、親をかさに来た、自分のことしか考えない女をそこそこに演じている。日本の「クリストファー・ウォーケン」松重豊も手を抜いてはいない。だが、すべてが、最後に「極道の妻たち」が堪忍袋の緒を切る大詰めにもっていくためだけの段取りにすぎず――いつもそうだとしても、その必然性が非常に弱いのだ。
◆問題は、勢力拡大にせよ、個人の欲にせよ、殺しあいをする必然性に無理がある点だ。こういう「ヤクザ」はもういないので、それなら、うんとシュールに(その点では、杉本彩が作りだしたキャラクターはいい)飛躍してくれなければならない。わたしが、その点で一番がっかりしたのは、西郷恭平(山田純大)が義姉の波美子(高島礼子)のところへやってきたときの波美子のせりふだ。恭平は兄の手前自制していたが、かねてから波美子を思慕していたが、そういう雰囲気はいいとして、波美子が彼にスキヤキの用意をしながら、(正確な言い方は忘れたが)「高いお肉をふんぱつしたわ」というようなことを言う。「ヤクザ」映画では、こういうみみっちい言い方はタブーである。「仁義なき戦い」シリーズのどこかで、バーゲンの衣類を買ったというので、どなりちらされる女が出てくるシーンがあったが、(映画のなかでは少なくとも)「ヤクザ」は、スキヤキの肉はつねに「最高」のものを買うのであり、さもなければ、そういうフリをし、決して「ふんぱつ」した的な発言はしないのだ。このへんの「生活」感の混濁に、この『極道の妻たち 情炎』の限界が露呈しているように思えた。
(東映試写室/東映)



2005-02-21_2

●世にも不幸せな物語 (Lemony Snicket's A Series of Unfortunate Events/2004/Brad Silberling)(ブラッド・シルバーリング)★★★3/5

Lemony Snicket's A Series of Unfortunate Events
◆今日は運がわるい日か、席で本を読んでいたら、後頭部をいきなりド突かれた。見ると、右腕に重そうなカバンをかかえたおばさん(だいたいこういうときって「おばさん」なんだな)が奥へ進みながら、わたしの頭にカバンをぶっつけていったのだった。ちょっとクラクラしたが、その人は気づかなかった。以前、わたしのすぐ横に座っていたOさんが、似たような「事故」に遭い、すかさず「何すんのよ!? 気をつけてぇよぉ!」と黄色い声でどなったのに接したが、わたしにはあの声はでないし、度胸もない。
◆映画がスタートしてすぐに思い浮かんだのは、『スリーピー・ホロウ』と『ビッグ・フィッシュ』だった。レモニー・スニケットの「世にも不幸なできごと」シリーズの映画化であるが、プロダクションデザイナーがリック・ハインリスク、撮影監督がエマニュエル・ルベッキなのだから、『スリーピー・ホロウ』に似るのはあたりまえだ。『ビッグ・フィッシュ』との直接的な関係はなさそうだが、原作のもつ「物語性」(ナラティヴィティ)という点で、『ビッグ・フィッシュ』との接点が生まれた。
◆冒頭、原作の「この本は非常に不愉快な本である」というのと同じ主旨が語られ(語り手は、ジュード・ロウ)、伝統的な「ハリウッド映画」のように「ハッピーエンド」にはならないぞということが示唆される。実際に、主役であるボードレール家の子供たち、クラウス(リアム・エイケン)、ヴィオレット(エミリー・ブラウニング)、幼児のサニーは、海辺で遊んでいるあいだに家が火事になって両親は焼死、家屋は全焼してしまう。最初からショッキングなスタートだが、それが、あまりシリアスに感じられないのは、ナラティブ性のフィルターがかまされていて、半分冗談のような印象を受けるからだ。「どうせお話なんだから」という印象だ。こういう効果が、ナラティブ性の基本である。
◆保護者を失った3人は、まず、オラフ伯爵(ジム・キャリー)のところへ預けられるが、こいつが子供たちが親から継承した遺産だけが目当ての食わせ者。大きいが、散らかり放題に家では、パンクっぽい連中(ただし時代は現代ではない)と彼が、うさんくさいパーティだか会議だかわからない集まりをしており、3人が安らぐ場所もない。それどころか、家政婦役をさせられる始末。
◆飯をつくれと命令されて、クラウスが考えたのが、あまりものをかき集めた「スパゲッティ・プッタネスカ」。字幕ではそのまま表記されていたが、これは、訳すと「娼婦風スパゲッティ」。なぜそういう名になったかというと、仕事に忙しい娼婦が、ありものの材料ですぐ作って食べるというイメージから来たらしい。日本のイタリア料理店にもたいていある。トマトソースにアンチョビとケイパーと唐辛子の味が特徴。まともな調理道具がないので、クラウスが(嫌みも込めて)痰壷でゆでたパスタの「スパゲッティ・プッタネスカ」は、みたところうまそうに出来たが、オラフ伯爵らは、結局、食べなかった。これは、料理の仕掛けを察知したためではなくて、映画自体が、食べることへの表現には関心がないからだ。ナラティヴのスタイルを重視すると、そういうディテールに凝ってはいられない。
◆オラフ伯爵のひどさがわかった(本当にはわかっていない)遺産管理人のミスター・ポー(ティモシー・スポール)は、3人をモンティ叔父さん(ビリー・コノリー)にあづける。この人は、「善人」という設定だが、家中に爬虫類がいる。が、遺産をねらうオラフ伯爵は、変装やあの手この手の策略で3人に迫る。次に身を寄せることになったジョゼフィーン伯母さん(メルリ・ストリープ)も「善人」だが、海に面した断崖絶壁にぶらさがっているような家に住んでいる。そして、ここにもオラフ伯爵の「魔」の手が迫る。
◆望遠鏡だとか本だとか、さまざまな小道具が意味ありげに出てくる。その意味を解釈するのは、「読者」/観客だが、シリーズ化されるうちに、「事典」が出来そうである。そういう予感をさせるくらい、先を読みながら製作されている。はたして、シリーズものとして成功するか?
◆映画も文学も、周期的に「物語」(ナラティヴ)なものに回帰する。その背景には、「すべてが語りつくされてしまった」という意識と、「リアリズム」への失望と不信があるように思う。先日テレビで、最近の日本では「予想できないような犯罪が頻発するので、犯罪小説の書き手たちが、困っているそうです」などというコメントをしたり顔でしている人がいたが、これは、ウソである。そんなことでへこたれるのなら、小説家なんかはやめたほうがいいだろう。ただし、こういうことは言える――そんじょそこいらの小説よりもテレビや新聞で報じられる「事件」のほうが面白い、と。それは、あたりまえである。なぜなら、テレビや新聞というものが、いまや、「物語」の周到な装置の代表だからである。
◆マスメディアが総「物語装置」になっている現状で、それらを圧倒する「物語」をつくるのは、たしかに大変だ。が、パターンを追わなければならないテレビや新聞が生み出す「物語」には誰も満足できないから、別のメディアがそれを満たさなければならない。映画は、基本的に「物語装置」であるが、映画が「物語」らしい物語のほうへ傾斜していく時期が周期的に起こるのは、なぜだろう? 映画にせよITにせよ、メディアは、新しい技術との蜜月時代というのがあり、その期間は、それまでは表現できなかった「現実」を表現できるのだという「リアリズム」信仰におちいる。が、そのうち、新しい技術が道具として自由に操作できるようになり、考えつくことで表現できないことはないという意識に達すると、メディアは空想や妄想や物語のほうに傾斜していく。むしろ、そういうやりかたのほうが、かえって「現実」と鋭く拮抗できるのだという意識が強まりもする。
◆表現者であれば、誰でも、「リアリティ」を追求する。が、その「リアルさ」には、直接身体に訴えるようなものと、想像力や夢をかきたてるようなやりかたで訴えるものとがある。「物語性」に傾斜したからといって、リアリティや現実性を捨てたわけではない。それどころか、リアリティを求める意識が強いからこそ、それを直接的なやりかたでは求められないという意識を強め、その結果として「物語」という領域に荷担することになるのだ。たとえば、カフカは、いまでは「リアリズム」(「幻想的リアリズム」なんて言葉も使われた)の作家と見なされるが、彼自身は、「物語」に執着していた。
◆物語と非物語とのちがいの基本は、相手を意識するかどうかではないか? 不特定多数の相手を想定するのではなく、あえて(それは不可能だとしても)特定の相手に限定して表現をすること。
(丸の内プラゼール/アスミック・エース)



2005-02-21_1

●ラヴェンダーの咲く庭で (Ladies in Lavender/2004/Charles Dance)(チャールズ・ダンス)  ★★★★4/5

Ladies in Lavender
◆早く着けるのではないかと、地下鉄の乗り換え駅を替えたら、たまたま来た逆方向の電車に乗り、かえって手間取ることになった。ヘラルドの試写室は、昔の経験から、行っても満員で入れないという脅迫観念が残っていて、最低30分まえには行くことにしているが、今日は15分まえ。すでに空席はわずかしかなかった。座っている人のまえを恐縮しながら、中央の空いている席に座る。こういうのって、早く着ていると、場合によっては顰蹙ものなんです。先日も、隣が空いていて気が楽だなと思っていると、開映寸前にえらく埃臭い(なぜだろ?)おじさんが座り、うんざり。わたしの場合はどうか? 「加齢臭」(あのツンとするやつです)がするって?! それは大丈夫。頭が薄くなるくらい毎日洗っているから・・・って、自分の身体の臭いが気になる人がますます増えているそうですね。まあ、こういう人は、アメリカの場末の映画館なんかに行くと、元気が出る。日本というところは、このコラムのように、つまらないことを気にすることによって成り立っている文化の場所で、それを活かしているのが「日本料理の繊細さ」というやつ。
◆先ごろ『スイミング・プール』でも渋い演技を見せたチャールズ・ダンスの第1回監督作品。初回にしては見事な出来栄えと言えるだろう。未婚のまま老年をむかえたらしい妹アーシュラ(ジュディ・デンチ)と、夫を第1次世界大戦で失った姉ジャネット(マギー・スミス)が都心から離れたコーンウォールの海辺の家で「余生」を送っているところへ、事件が起こる。浜を見ていたアーシュラが、海岸に人が倒れているのが見たのだ。医者(デイヴィッド・ワーナー)の介抱をうけさせ、とりあえず家に置くうちに、その青年アンドレ(ダニエル・ブリュール)には、バイオリンの天才的才能があることがわかる。アンドレの出現で、家政婦(ミリアム・マーゴリーズ)と3人だけの単調な生活が変わっていく。そこへ、この地にたまたま絵を描きに来たというロシア人(?)の女性オルガ(ナターシャ・マケルホーン)が(少し唐突に)あらわれ、彼の才能を兄(世界的なバイオリニストという設定)に推挙する。若い客人への2人の老女のつかのまのあわい愛情のドラマだが、もっと深読みすることもできる奥行きを残している。時代は、ヒトラーがラインラントに進駐する1936年。
◆食事をするシーン、家政婦のドルカスが食事の用意や家事をするシーンがパッパッと出るが、プディング、イワシのパイ包み焼き、オートミール(ポリッジ)等々、ちゃんと作られたものがテーブルに載っているし、出演者も(ほんの数秒のシーンにもかかわらず)ちゃんと食べている。こういうシーンのある映画作りは、信用できる。日本の映画の大半は、食事のシーンが手抜きになっている。
◆ラジオから当時の娯楽番組やニュースが聞こえるが、1936年という時代、ジャネットの夫の戦死を思い出しながら、「戦争はもうたくさん」とため息をつくアーシュラの言葉、アンドレアはドイツのスパイではないかという嫌疑をかける医者等々のある種政治的なエピソードも出てくるが、この映画には政治性は薄い。それよりも、コーンウォールの生活(浜に小舟が来て、市を開くとか、麦の取り入れ、その後の感謝祭のパーティとか)が生き生きと描き、抽象性に堕すことを避けている。
◆ロンドンでデヴューしたアンドレアの演奏をラジオを囲んで聴く「パーティ」が面白い。昔は、ラジオがどこの家にもあったわけではないから、こういうこともめずらしくはなかった。しかし、村人たちが、集まってくる雰囲気がいかにも「パーティ」っぽくて面白い。わたしは、海外でよく「ラジオ・パーティ」というのをやるが、この映画のシーンは参考になった。
◆原題は、「ラヴァンダー色の貴婦人たち」という意味だが、言うまでもなく、「ラヴェンダー」は、ゲイ/レズビアンのことだから、このタイトルには、「レズビアンの貴婦人たち」という含意も読み取れる。アーシュラとジャネットは、姉妹だが、姉妹のレズはいくらでもいる。とすると、この映画は、ちょっと意味が変わってくる。レズ的意識で生活していた女性カップルのところに、息子歳の青年が突如あらわれる。アーシュラとジャネットのあいだには、だからといって争いはなく、むしろ、姉は最初、張り合うようにアンドレアの世話をしようとするが、次第に、アーシュラのために身を引くようになる。それじゃ、2人はレズではないのではないかと言うかもしれないが、そういうこともあるのです。つまり、このぐらい年期の入った同性愛者にとって、男か女かという二者択一よりも、家にやってきた青年を2人で世話することによって、2人の関係が充実していくということもあるからだ。こう考えると、最後のシーンは、全然違った意味になってくるだろう。注意して見てほしい。
◆何を演っても『トゥルーマン・ショウ』のときとあまり変わらないナターシャ・マケルホーンとはレベルがちがうとしても、マギー・スミスは、うまい役者だが、ハリー・ポッター・シリーズであまりに顔が印象づけられてしまったので、演技は抜群でも、ハリー・ポッターのあのキャラクターがちらつく。同様に、ダニエル・ブリュールは、繊細にバイオリンを弾く(本当に弾いているのはジョシュア・ベル)が、 先月見た『ベルリン、僕らの革命』のイメージと重なり、落ち着かない。その点、ジュディ・デンチは、『アイリス』のアイリス役と少しダブるが、はまり役なのか、信憑性のある演技をしている。
(ヘラルド試写室/日本ヘラルド映画)



2005-02-17_2

●コンスタンティン (Constantine/2005/Francis Lawrence)(フランシス・ローレンス)  ★★★★4/5

Constantine
◆大きな試写会での手荷物検査はあたりまえになりつつあるが、今日は、身体検査まであった。ボディタッチはなかったが、若い女性の警備員が金属探知機で身体をさぐる。何も入れていないのに、わたしのコートのポケットに探知機を当てるとピーピーいってしまう。ポケットを裏返して見せ、パスしたが、わたしはなぜだろうと思いづづける。電波のパフォーマンスを演っているので身体に電磁波体が腫瘍のように住みついてしまったのだろうか? ときどき、切符などのタッチパネルでわたしの右手の指を全く認識せず、左手に替えてOKになるということがある。
◆西欧的な「神」や「悪魔」、「天国」や「地獄」の定説を下敷きにしたドラマで、実に面白かった。この映画は、コミックブック『Hellblazer』にもつづいているので、アメリカでは、キアヌ・リーブスが演じる主人公ジョン・コンスタンティンは、なじみのキャラクターである。だから、キリスト教の「定説」をパロティ化し、おちょくる部分とともに、原作と映画のキャラクターのズレないしはズラしが、観客を笑わせ、楽しませる。残念ながら、この試写では、場内から121分間、ほとんど笑いが聞こえなかった。
◆この映画の直前に見た『阿修羅城の瞳』とちょっと似ているのだが、ここでも、世の中は一見「人間」の姿をしているが、本当は「悪魔」が取り憑いている「人間」だらけで、本来「分限」を守っているはずの「天国」の天使と「地獄」の「悪魔」ルシファー(ピーター・ストーメア)が人間界にやってきて「悪さ」をする。ジョン・コンスタンティンは、そういう「霊」の憑いた男や女を「祓(はら)う」するプロ。本当は、そういう仕事は、神父がやるはずだが、ここでは、神父が全然無力で、ある意味では詐欺師的なジョンに「悪魔祓い」を頼っているのも笑える。ほとんど自分でもビューキ人間の神父を『アイデンティ』で怪優ぶりを見せたプルイット・テイラー・ヴィンスが演じている。
◆この映画の世界では、「悪」は、人間のなかにあるのではなく、あちらから「悪魔」がとり憑いた結果にすぎないという「世界観」があるようだ。人間は、「神」や「悪魔」が黙っていてくれれば、「平穏」(中間状態)で暮らせる。権力や力も「外」から来る。冒頭、メキシコの荒地で起こった出来事が描かれる。キリストが殺されたという「運命の槍」の先が発見され、それを一人のあやしいメキシコ人が手にして、いずこかへ去る。この槍を持つ者は世界の運命を支配するという。この男が陸路、次第に、舞台となるロサンゼルスに向かって近づいてくるのが、ドラマの不気味な基底時間にもなっている。
◆映像技術的には特別新しいという感じはしないが、既存のヴァーチャルな表現に必要な映像技術をありったけふんだんに使い、サービス満点という感じ。悪魔をやっつける小道具がどれもローテクっぽいのもいい。これらの小道具は、『007』シリーズのように主人公に対し信頼と尊敬の念をもって調達してくれる人物がいる。マックス・ベイカーが演じるビーマンだ。メガネをかけた老オタクという感じがいい。『アイ,ロボット』にも出ていたシア・ラブーフ演じるチャズ・チャンドラーは、ジョンのおかかえ運転手(しかし車はタクシー)で、いつかジョンといっしょに悪魔と闘いたいと思っている。このサンチョ・バンサ的な「師弟関係」も、大衆ストーリにはかかせない。
◆『阿修羅城の瞳』では目がコバルト色だったが、ここでは目が赤いのが「悪魔」憑きたちだが、チャズが、ビルの給水タンクに「聖水」を垂らし、「悪魔」憑きたちがいっぱいいる部屋のスプリンクラーをジョンがはずす(【追記/2005-03-13】ここは、「ライターの火を近づけた」のではないかというメールを遠藤さんからもらったが、むろん、スプリンクラーにライターの火を近かづけ、封印を溶かして「はずす」のだ――スプリンクラーではひどい目にあったことがあるので、わかります)。「悪魔」にとって「聖水」は禁物だから、効果満点。このシーンは、クラブの天井から血のシャワーがあふれると、客たちが異様に興奮し、それまで「人間」に見えたのが実は吸血鬼だとわかる『ブレイド』におとらず、愉快。
◆ジョンは、一度自殺し、生き返ったという経歴がある。これは、自殺を禁じるカソリックからすると「天国」には行けないということになる。だから、「悪魔」大王は、彼をわが子のように思っているところがあるが、彼は、何とか「地獄」行きを避けたいと思ってもいる。これもこの映画の一つの線。彼が自殺を逆手に取った戦略見せるプロットも面白い。
◆ジョンはタバコをやめられない。原作のコミックでは、彼は、労働者階級に属する人物という設定だが、映画でもカソリックとタバコと来ると、だいたいその人物の出自はワーキング・クラスと見てよい。いまのアメリカでは、タバコは肺ガンや心筋梗塞の原因になるとされているから、タバコを吸うということは「自殺行為」である。実際にジョンは、肺ガンの診断を受けるが、治療を断り、咳止めの薬を飲んでごまかしている。最初は、どうせ地獄へおちるのだからという投げやりな気持ちからそうしているが、それが変わってくる。このへんのアイロニーが実に面白い。なお、タバコに関しては、エンド・クレジットのあとに短いオマケの映像があり、そこがまた笑えるので見逃さないこと。
◆この世に「悪魔」がいるとすれば、「天使」もいる。しかし、「悪魔」が単純に「悪」だけやるようには描かれていないのと同様に、「天使」も油断がならない。『ザ・ビーチ』でコミューンの冷酷な(だんだんそうなる)リーダーを演じたティルダ・スウィントンが演じるガブリエル(【追記/2005-03-13】ここを「ルシファー」と書き、遠藤さんから指摘され、訂正した)は、教会で働いている。ジョンが困ったときに訪ねていくと、さーっと背中に大きな羽根がはえる。それを文字通りに見せるからおかしい。
◆この映画も最も太い線は、レイチェル・ワイズが演じる刑事アンジェラだろう。彼女は、妹イザベラの謎の自殺を追うなかでジョンに遭遇する。彼女とジョンの仲は、「セックスしないのがクール」な時代の感覚で描かれ、かっこいい。ジョンは、悪魔と闘うが、決して「マチョ」ではない。レイチェル・ワイズは、ここでは、『アイ・ウォント・ユー』や『アバウト・ア・ボーイ』で見せたセクシーさとは別のセクシーさを出している。
(丸の内ピカデリー1/ワーナー・ブラザース)


2005-02-17_1

●阿修羅城の瞳 (Ashura-jo no hitomi/2005/Takita Yojiro)(滝田洋二郎)  ★1/5

Ashura-jo no hitomi
◆昨夜、マンジャ・ペッシェの小川利幸シェフとクッチーナ・トキオネーゼ・コジマの小嶋正明シェフがコラボをするイヴェントに行き、身体的で知的な快楽を得たのち、仕事場にもどり、今度は別モードで朝まで仕事をした。あまり寝る時間がなく、ちょっとしんどかったが、午後、東銀座に足を運ぶ。
◆滝田洋二郎は、社会的意識のある監督だと思っていたが、今回は、ただの遊びに堕した感がある。
大体、映画が歌舞伎に手を出して成功することは稀なのだが、それは、失敗の典型。歌舞伎役者を使うのはいい。本作でも、市川染五郎は、そう悪くはない。少なくとも『娘道成寺 蛇炎の恋』の中村福助よりは要領よく役をこなしている。しかし、本作は、歌舞伎の舞台を映画の重要な構成のなかに仕組むという危険な賭けに挑み、見事に失敗している。それも、あの鶴屋南北だ。歌舞伎のなかでも四世鶴屋南北ほど、歌舞伎でなければ出来ないことをやったアーティストはいないのだから、それを映画のなかに取り込む場合には、よほどの才能とアイデアがいる。おまけに、ドラマのなかに四世鶴屋南北を登場させる(しかもそれを演じるのが、小日向文世ときている)。こりゃ、もう無理というもの。
◆文化文政の江戸、世の中は、「人を食らい、人の世を滅ぼそうとする」鬼だらけという設定は、たしかにいまの時代とどこかでリンクする。滝田が興味を持ったのはその点だろう。『陰陽師』と『陰陽師 II』では、まだ、時代劇を現代にリンクする意識がはっきりと感じられた。だが、本作では、「文化文政」という時代もいいかげんになっている分、現代との拮抗度も非常に弱くなっている。
◆いや、滝田は、これまでの路線を守る必要はない。スタイルや方向をまるっきり変えたっていい。ただし、映画として面白ければだ。いかにこの作品が安っぽいかは、小日向文世が演じる四世鶴屋南北が、いたるところに登場し、「いいぞ、いいぞ」「おもしれぇ」と口走りながら、映画で展開されるドラマを眺めている。そのあげく、「俺は見たものしきゃ書かねぇ」とほざく。これでは、まるで、南北にはまるで想像力が無かったみたいではないか。
◆広末保なども指摘したように、南北は、乱世としての「文化文政」のイメージを彼のおどろおどろしい舞台に移し込んだ。が、それは、彼の天才的想像力と構想力のたまものであって、「観察」の結果などではない。たしかに、文化文政の世には、南北の描いた世界に構造的にシンクロするようなおどろおどろしいものや事件が横溢していたのだろう。しかし、南北は、それらをまさにブレヒト的な「異化」のテクニックによって表現した。南北にとって歌舞伎小屋(とりわけ市村座)というメディアは、単なる「器」ではなく、彼の作品の形式と切っても切れない関係にあった。このがっちとしたメディア関係・構造を考えると、生半可なことで、それを別のメディアに移し替えようなどという恐ろしいことは考えられないはずだが、滝田は、そんなことはこれっぽちも考えなかったようだ。
◆世に鬼どもが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)するので、幕府は、「鬼御門」(おにみかど)という組織を作って、鬼退治をさせる。これは、ちょっと、人間と区別できないアンドロイドが跳梁跋扈しすぎたので、アンドロイドを見つけて殺す役割を負った主人公(ハリソン・フォード)が登場するリドリー・スコットの『ブレードランナー』を思わせる。いま歌舞伎役者になっている「病葉出門」(わくらはいずも)(市川染五郎)は、以前は、「安部邪空」(渡部篤郎)とともに、「国成延行」(内藤剛志)が率いる「鬼御門」の凄腕のメンバーだった。
◆鬼どもがいれば、そいつらを率いる者がいる。樋口可南子が演じる「美惨」がそうだが、彼女の念願は、闘争をこととする鬼神「阿修羅」をこの世に現成させること。樋口は、卒なく演じ、その実力を見せつけるが、「ハッハッハッ」とヒステリックに笑うのは、新劇的でいただけない。むろん、これは脚本が悪いせいである。
◆鬼というのは、憑くものらしく、「善良」そうな男女でも、鬼に取り憑かれると「鬼」になってしまう。宮沢りえが演じる「つばき」は、旅芸人の一座の属しているが、鬼が憑き、一座ぐるみで「盗賊」をやる。が、彼女は、自分に鬼が憑いていることを知らない。自分のやっていることがわからないというには、いかにも宮沢に合った役なのだが、このドラマは、鬼が憑いたくらいでは終わらず、彼女が阿修羅になるという方向で進むので、宮沢には荷が勝ちすぎる。
◆鬼は、節分の「鬼は外」という文句でも明らかなように、排除されるべき存在の象徴であり、鬼が形象化された絵や彫刻を見ると、外国人がそのモデルになっているような気がする。つまり、「鬼は外」には、外国人や異分子を排除しようとする意志が非常に濃厚に出ている。この映画は、そうした鬼の排外主義的な問題に触れながら、鬼を阿修羅つまり闘いの鬼神の方に重心を移してしまったために、この問題はどこかへ吹き飛んでしまう。
◆『CASSHERN』の林田裕至が美術を担当しているせいもあるのだろうが、ときおりあらわれる「地獄絵」が、イラクの戦場や近代戦の廃墟を思わせる。あえて、考えれば、鬼=異分子と共生できないところから、戦争が起こる(というより、共生しないために戦争を起こす)のだから、鬼の跋扈と阿修羅の存在はセットになって今日の状況を形作っている。しかし、滝田さん、鬼を排除する側からではなく、鬼を擁護する側から描かなければ、滝田的な社会批判はどこかへ吹き飛んでしまうよ。本作の鬼は、安い映画の「ゾンビ」にすぎない。
◆エンドミュージックは、ハービー・ハンコックのピアノでスティングが歌う「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」。おいおい、全然ちがうんじゃない?! この曲自体は好きだし、『リービング・ラスベガス』なんかでの使い方は実によかったと思うけどね。こんなことに大金を使わないで、本筋で使ってくれ。どうせ、お客の大半は、エンドクレジットとともに席を立つんだから。試写室では、「はやく終われよ」という感じで席を立てるのを待っていた人もいた。
(松竹試写室/松竹)


2005-02-15_2

●ヴェラ・ドレイク (Vera Drake/2004/Mike Leigh)(マイク・リー)  ★★★★4/5

Vera Drake
◆銀座の旭屋書店で時間をつぶして、京橋まで歩く。先ほど立ち読みしたインターネットについての在る本のくだらなさに何か腹が立ち、本文化の拙劣化は、売れることを含め、便宜上の理由で出す本ばかりが横行しているためではないかと思う。
◆リアリズムのスタイルで撮られた作品だが、これだけしっかり作られると、文句はつけがたい。ある種映画的伝統の重さと映画的俳優術のすごさを実感する。そして、たしかにこういう時代もあったのだなということを思い出す。日本もそうだったが、1950年代のイギリスでは、まだ「シャイ」と「つつましさ」の文化がとりわけ労働者階級には強く残っていた。欲望や愛をあけすけに言うことはなく、自分のために生きることよりも、他人のために生きることをよしとする文化もあった。むろん、文化や習慣はプラス/マイナスである。タブーがなくなったように見える現代でも、別のタブーが生まれている。また、昔がなんでもよかったわけではない。
◆ある時代の出来事をこの映画のように重厚に描くとき、その時代とそのドラマは「運命劇」にならざるをえない。それは、現代を批判するよりも、ああ、ああいう時代もあったのだなということを深く実感させる。それは、究極的には現代の批判になるかもしれないが、それよりも、いまの時代がすべてではなく、こういう時代もああいう時代もあったということを思わせる。そのことを基準にしていまの時代を批判するのも、また自由である。
◆タイトルは、ロンドンの労働者階級の街に住む初老の女性の名前。ヴェラ(イメルダ・スタウトン)は、兄弟で自動車修理工場を営む夫スタン(フィル・デイヴィス)、テイラーの店員をする息子シド(ダニエル・メイズ)、やや自閉症的な娘エセル(アレックス・ケリー)とつましい暮らしをしている。金持ちの家の家政婦をするかたわら、電球の製造工場でも働いている。一人で住んでいる老母の世話をし、戦後のひどい時代のなかで無気力に陥っている近所の貧しい一家のめんどうもみる。彼女は、善意の人であり、他人のために何かをすることが楽しくてしかたがない。アパートの階段で独り者の隣人に会うと、週末の食事に誘う。レジー(エディー・マーサン)は、ヴェラに呼ばれ、彼女の一家と近づきになる。彼女には、「ボランティア」などという意識はない。が、もう一つ彼女には、事実上の無償の仕事がある。欲しくない子供を宿してしまった「女性を助ける」ことだ。
◆映画の舞台は、1950年のロンドンで、この時代には、まだ戦争の有形無形の傷跡が残っていた。家に来たレジーとのあいだでひとしきり、戦争中の話がなされるのもそういう時代だからだ。ヴェラは、貧しいながらも、元気よく働き、みなにうまいものを食べさせる。一家の食卓風景はなごやかだ。他人が来れば、お茶をいれてもてなす。しかし、すべての家庭が彼女の家のようだったわけではない。彼女が世話している家は、ちらかり、一家が放心状態で毎日をすごしている感じだ。いまロンドンといえば、こういう面影は全くないが、わたしがロンドンを訪れた1976年ですら、ちょっと場末の喫茶店や「食堂」などに行くと、なぜか顔が薄汚れた男や女たちが、テー・カップ一つを手にしてぼんやりしていたりする風景があった。この映画には、そういう感じの人々がたくさん出てくる。
◆ヴェラがあまりに自然体で働くので、後半の部分まで、彼女がやっていることが「犯罪」であるなどということに気づかないほどだ。彼女が、チーズ削りで掻いた石けんをお湯に溶かして、注入器に入れて行うことも、ほとんどありふれた民間医療のような感じで展開する。だから、後半で、彼女が、逮捕されるとき、映画を見ているほうは、急に別の現実に引き戻されたことを感じる。そして、そのことを全く知らなかった家族のショックが、ただのショックではなく感じられるようになる。夫と息子とは反応は違う。夫の弟フランク(エイドリアン・スカーボロー)とその妻ジョイス(ヘザー・クラニー)も異なる。しかし、警察の論理としては、彼女は、1861年(!)に制定された「人身保護令」違反する犯罪を犯しているのである。
◆この映画で「堕胎」は、重要なプロットではあるが、この映画が描こうとしているのは、1950年代のイギリスにあった庶民的な「つつましさ」や「素朴さ」や階級差である。つましいという意味では、ヴェラを逮捕する警部(ピーター・ホワイト)もつましい。ヴェラをケアする婦警を演じるヘレン・コーカーは、まるでヴェラを心の底から気の毒に思っているかのような(薄い涙を浮かべているかのよう)高度の演技をしてそういう感じを演じている。彼女は、マイク・リーの前作『人生は、時々晴れ』にも出演したいた。
◆マイク・リーは、一貫して労働者階級の視点で描く。『キャリア・ガールズ』もそうだった。そこでは、「家族の絆」のようなものが重視されるが、それは、国家の支配装置の一機構としての家族ではない。むしろ、戦争や経済破綻のような国家の愚行から個々人が身を守る「避難所」としての家族・家庭である。ヴェラが家政婦として働く裕福な家とは違う。「問題」を起こしても200ポンド払える金持ちの娘(アレックス・ケリー)は、人身保護令とは関係なく、「合法的」に堕胎ができる。
◆ヴェラに秘密で金を摂取していた「闇の仲介者」リリー(ルース・シーン)が、「客」と密談する喫茶店のシーンで、彼女は、カップのなかのミルク入り紅茶を受け皿にあける。これは、小野二郎を一般の読者にも有名にした『紅茶を受け皿で――イギリス民衆感覚』(晶文社/1983)が論じている労働者階級の習慣である。こうすることによって熱い紅茶を冷まして飲むらしい。なお、わたしは、逆に、冷めるのを防ぐために受け皿をカップの上にのせる人を見たことがある。
(銀座テアトルシネマ/東京テアトル)



2005-02-15_1

●バッド・エデュケーション(La Mala educación/Bad Education/2004/Pedro Almodóvar)(ペドロ・アルモドヴァル)  ★★★3/5

La Mala educación
◆南北線の六本木一丁目のエスカレータを出ると、その周囲に7、8人の若い女性たちがタバコをくわえて立っている。「六本木一丁目の花たち」が客待ちをしているのではない。駅ビルから出てきて外モクをしているのだが、男女の差が近年逆転している。面白いのは、1970年代の後半に「嫌煙」の動きが出はじめたニューヨークで、そういう風潮に真っ先に飛びついたのは「インテリ」やトレンディな男たちだった。だから、昼のビジネス街を歩くと、女性がくわえタバコしているのがえらく目立ったものだが、いま東京がそうなっている。30年遅れかぁ。しかし、考えてみると、日米の女性の「社会進出」の時差はそのぐらいあるかもしれない。まあ、フジテレビの株取得に関しライブドアの堀江社長がやったことと言っていることは、やっと日本も「情報資本主義」に目覚めたかという思いをさせるが、その対応は、旧態然で、これじゃ、よくもわるくも変わらねぇなという感じ。
◆この映画では女性は重要ではない。アルモドヴァルだから当然だが、男性同士の愛が描かれる。が、このタイトルはよくない。これでは、「こんなわたしに誰がした」と教育を恨む話にうけとられかねない。しかし、原題(スペイン語では、定冠詞がついているが)も「悪い教育」なのだから、そういう含みがあるのを否めない。そうすると、この映画は、カソリック教会の付属校のマノロ神父が、禁を破ってイグナシオという少年を愛したこと、そしてそのあまり、彼と親しいエンリケ少年を放校に追いやったこと等々が、イグナシオとエンリケの人生を狂わせた――どうしてくれるというような月並みな話になってしまう。映画自体は、それほど単純なところにとどまってはいないのに。
◆カソリック教会憎しのアルモドヴァル監督としては「悪役」あつかいにせざるをえないのかもしれないが、わたし自身は、マノロ神父(ダニエル・ヒメネス・カチョ)が、ボーイソプラノの美しい少年イグナシオ(ナショ・ペレス)に傾ける禁断の愛のはかなさと心理的屈折に映画美を感じた。さらに、後年、「神父くずれ」して出版社主(ルイス・オマールが役を引き継ぐ)となり、今度はイグナシオの弟サハラ(ガエル・ガルシア・ベルナル)と恋に陥り、身を持ち崩すとか、「晩年」のイグナシオ(フランシスコ・ボイラ)がドラッグに溺れ、安っぽい「オカマ」に落ちぶれているとかいう場面のほうが、映画的に面白かった。こうなると、主役のガエル・ガルシア・ベルナルとフェレ・マルチネスの「現在形」での役は全くダメみたいだが、2人は、上述の多層的なプロットに複雑にからんでいるので、必ずしもそうは言えない。そうそう、ベルナルの唇はなかなか美しかったヨ。
◆この映画の時代設定は、1980年、1979年、1964年のあたりを行ったりきたりする。冒頭は、1980年の「現在」に、映画監督のエンリケ(フェレ・マルチネス)がマドリッドの事務所で製作担当兼恋人のマルティンに映画製作のネタを語っている。そこへ、昔教会の学校で一緒だった「イグナシオ」だという青年(ガエル・ガルシア・ベルナル)が突然訪ねてくる。彼は、名を変えていまは「アンヘル」というのだとエンリケに語るが、エンリケは、どうもイグナシオではないという気がする。しかし、彼は、2人のことを書いてあるいう原稿を置いて帰る。映画は、この原稿の内容に従って、16年まえにバックし、教会の学校(場所はガリシア地方?)の日々を描写していく。
◆映画は、ドラマのなかの「現在」のシーン、イグナシオが書いたとされる脚本「訪問」のなかのシーン、登場人物たちの意識のなかの記憶、エンリケがその脚本に従って撮る映画のシーン、元神父にして破産した出版社主ベレングエル(ルイス・オマール)の話が、交互にからみあい、そのなかで意外な事実がうかびあがる。しかし、その事実は、そうした異なるディスクールを重層化した以上、そこからは、それ見あったものが出てこなければ意味がないが、「結論」は、「それがどうした?」と言いたくなる程度のもの。
(ギャガ試写室/ギャガGシネマ)



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●チャレンジ・キッズ (Spellbound/2002/Jeffrey Blitz)(ジェフリー・ブリッツ)  ★★★3/5

Spellbound
◆映画を途中で出てきたような気分がしたので、もう1本ハシゴをすることにする。会場でパンドラの曽根さんが、わたしの『PTU』評を読みましたと言われ、しばらく話す。すごくいい映画なのだが、宣伝でその面白さを知らせるのが難しく、頭が痛いという。たしかにそうだ。「泣きました」って宣伝する作品じゃないしなぁ。あの作品は、とにかく見るしきゃない。
◆よくも悪くも、競争主義というアメリカン・カルチャーを目のあたりにさせられる作品。普通のアメリカ映画を見ても、あえて切り込んだ解釈でもしなければ、アメリカのマジョリティがなぜブッシュを推してしまうのかといった現状況を理解するたしにはならないが、この映画を見ると、そういう状況が若干理解できるような気持ちになる。
◆1925年以来行われている「全米スペル暗記大会」(The Scripps National Spelling Bee)の記録。出題者が口頭で単語を発音し、そのスペルを言い当てる競争だが、出場できるのは、16歳未満。彼や彼女らは、大会にそなえて、日夜単語を暗記し、練習にはげむ。出された単語に対し、その語源や言語パターンについての質問が許されので、そうした知識から単語のスペルを類推する能力もみがく。面白いのは、だいたい、チャレンジする子供の親たちが家庭をあげて必死で応援しており、彼や彼女らの優勝には、民族や階級や地域の期待が凝集される。これは、スポーツでも同じだが、アメリカ社会の基礎にある競争主義の仕組みがよく見える。
◆原題の「spellbound」は、文字の「スペル」と魔法/呪文という意味の「スペル」とをかけ、「文字にしばられた」と「魔法にかかった/うっとりした」(これがspellboundの普通の意味)という両義的な意味を示唆している。映画には、このコンテストに対する批判的な態度は感じられないが、このタイトルを拡大解釈すれば、アメリカ人が競争主義という「魔法」にかかっているいう風に取ることもできなくはない。
◆取り上げられている8人の出場者のうち、その多くがエスニック・マイノリティと労働者階級である。1代で財をなしたインド移民の、ニール・カダキアの父親は、猛烈で、彼には、この「スペリング・ビー」コンテスト専用のコーチをつけたうえに、スペイン語、フランス語、ドイツ語、ラテン語の家庭教師を1人づつつけ、さらには体力トレーニングもしながら、コンテストの準備をする。父親は、アメリカという国は、自分の力で富や地位を獲得できる「自由な国」だと礼賛するのをおしまない。メキシコ移民の子アンジェラ・アルニバルの勝利には、メキシコ人コミュニティの期待がかけられている。最終勝利をつかむヌープル・ラーラもインド移民の娘で、彼女の勝利はインド系アメリカ人の誇りでもある。
◆孤独で銃が好きなテッド・ブリハムのような少年のチャレンジを見ていると、こういうのが勝ってほしくないなという気持ちになるが、明らかにワーキング・クラスの両親のもとで、1冊の辞書をぼろぼろになるまで読んで練習しているエイプリル・デジデオのような娘を見ると、地方大会から勝ち進んで全米大会にのぞむのを応援したくなりもする。工場の閉鎖、転業を経験してきた父親にとって、彼女が夢であり、彼女のほうも、「アメリカン・ドリーム」をかなえようなどという野望はない。父親が喜んでくれることが夢なのだ。
◆いずれにしても、このコンテストの最終勝利者の姿を見ていると、勝利者には、一つのパターンがあることがわかる。天才的な子(ここではハリー・アルトマンやエミリー・スタッグ)は、トップにはならない。ニールのような「エリート」もそこそこまでしかいかない。どこか、暗黙のうちに組織的なバックのある者が、トップになる。それは、組織が票を集めて応援するというような場合もあるが、このコンテストのように、出場者の1人の能力がすべてを決定する場合でも、たとえば、会場に来ている応援の家族たちとか、その子の能力のなかに流れ込んでいる組織的なものが影響をあたえるような気がする。
◆わたしは、1番には縁がなかったが、級長とか、小中学校で生徒会長とか、サークルの委員長とかをやるやつというのは、言うことが違うことには気づいていた。みな「政治家」で、考えが個人をこえているのだ。クラス全体のことを考えた発言をしたり、「偉い」のである。子供のころわたしは、自分のことしか考えないか、あるいは、愛するにしても敵対するにしても、一回に一人づつの関係しか考えなかったが、トップに立つ子は、そうじゃない。わたしなんかは、なんでも一人でやるか、あるいは個と個の関係でやろうとするのだが、「偉い」人は、人間関係を、一対一の関係をこえた匿名的な組織的な関係としてとらえる能力があり、個が「滅私」的に貢献できる場や条件を知っている。人を支配し、世の中を動かすということはそういうことだ。しかしねぇ、こういう関係って、なんとか転換できないものか? わたしには、ヌープル・ラーラという子は、そんな「偉い」子の予備軍に見えたが、彼女はどういう人生を歩むのだろうか?
(松竹試写室/ハピネット・ピクチャーズ、パンドラ)



2005-02-10_1

●バタフライ・エフェクト (The Butterfly Effect/2004/Eric Bress + J. Mackye Gruber)(エリック・ブレス&J・マッキー・グラバー)  ★★★★ 4/5

The Butterfly Effect
◆アメリカでは評判になった作品なので、30分まえに会場に行ったが、映画がはじまっても、わたしの視界に見えるのは、最前列の北島明弘さん一人だった。後ろには、数人しかいない。情報が行きわたっていないのかなと思ったが、見ているうちにその理由がわかるような気がしてきた。既存のジャンルに分類しにくい映画なのである。だから、「どういう映画?」ときかれたとき、即座に答がでないので、相手は、ワケありの映画かと思ってしまいかねない。しかし、わたしは面白かった。
◆タイトルにこだわらずに見れば、観客は、主人公エヴァン(アシュトン・カッチャー)が、その記憶をくりかえしさまざまぶヴァリエイトしてよみがえらせるのに立ち合うことになる。エヴァンの「現在」は物語の時間と入れ子状になっているので、いわゆる「フラッシュバック」のような記憶の回帰ではない。記憶はそのたびに再構成されるので、同じ記憶のイメージが別の意味を帯び、別の物語を展開する。
◆若干、「バック・トゥー・ザ・フューチャー」ものに似ているが、エヴァンが時間を移動・操作する装置は、大げさな電子装置ではなく、大学ノートの日記だ。しかし、日記を読んでエヴァンが想起するイメージが、素朴に映像として提示されるわけでもない。日記は、彼が7歳のときに、「記憶喪失」の診断を受け、医者から日常のこまごましたことを記録することをすすめられ、はじめたものだ。だが、この映画は、クリストファー・ノーランの『メメント』のような展開をするわけではない。エヴァンには、記憶喪失に悩み、ノートを読むのではなく、まるで、時間の旅をする意気込みで読む。
◆断片的に示される前半のショットからも、エヴァンやその周辺の人々があまり「しあわせ」ではないことがわかる。彼の父親は精神病で入院している。彼が好きな幼友達のケイリーの父親(エリック・ストルツ)は、最初そうは見えないが、どうやら「幼児愛」の変癖があるらしい。その兄のトミーは、粗暴にみえるが、それには事情がある。これらの登場人物は、7歳、13歳、大人と3つの時間のなかでそれぞれ別の俳優によって演じられ、そのときどきの出来事がまぜあわされる。成人のケイリーを演じているのは、『ラットレース』にもでていた(いかにもアメリカの田舎にいる女という感じの)エイミー・スマートだ。
◆思いつきだが、この映画は、普通の上映の仕方ではなく、完全ループにして、休憩なしで連続的に上映し、観客は好きな個所から何度でも見れるようにしたらいいのではないか。ストーリーはあるが、シーケンシャルな連続で出来てはおらず、ある部分から予測できない方向に進んだりする。部分は、組み合わされて「全体」をつくる部品としての部分ではなく、部分のなかに複数の全体が潜んでいる。だから、どの部分から見ても、さまざまな「全体」に接することができるのである。
◆この映画は、「内容」よりもそのスタイルが映画的刺激をあたえてくれる映画だ。その意味では上映のされ方が変わらなくても、こちらの見方次第では、さまざまな「内容」を持つ。映画は、制作上のロジックとしては、3つの時代の登場人物を同一の名前で別々の役者に演じさせている。これは、制作上のロジックに素直に従うならば、同じ人格が5年、10年という時間の経過のなかで同じ人間が起こすドラマだということになるが、そうではなく、それらの3つの時代の人格をたまたま名前が同じ別々の人格とみなすことも可能である。実際に、「現在形」での主人公(成人のエヴァン)の「精神状態」が「普通」であるかどうかはわからないから、彼の視点で提示される「ドラマ」が彼の「一定の」意識にもとづいているという保証は全くない。
◆実のところ、「普通」などというものはないのであって、自分自身に関しても、昨日の「わたし」と今日の「わたし」とが同一だと思うのは、そういうふうに同一化しているわれわれの「常識」的な思考と感覚であって、その同一性の確固とした保証があるわけではない。
◆わたしがわたし自身を意識でき、そしてわたしがあなたと意識を共有できるのは、わたし自身の意識のミクロな単位が、わたしの意識全体のコピーとなっているというような構造をなしているからであり、その単位が、同時にあなたの意識ともコピー関係をなしているからだ。他人が怪我をするのを見て、身をすくめるのは、単なる「想像力」のためではなく、実際に他人の身体とわたしやあなたの身体とが「同じコピー」で、たがいに「レゾナンス」(共鳴)を起こすからだ。そもそも、共鳴がおきるためには、両方に同じ構造がなければならない。
◆フランシスコ・ヴァレーラとウンベルト・マトゥラーナが「構造的カップリング」と呼んだ現象は、彼らの分子生物学的な洞察にもとづいている。個々の物も個々の人間も、瞬間瞬間に変化し、流れつづけており、永久に変わらないモノは存在しない。その瞬間の単位をとれば、すべてはバラバラで、無関係に変移しているにすぎない。が、それらをカップリングさせるのが、われわれの感覚である。アンリ・ベルクソンが『思想と動くもの』(河野与一訳、岩波文庫)のなかでくりかえし言っていることもこのことにほかならない。が、そうだとすると、カップリングの仕方には色々あるわけで、別に、それを「普通」の時間軸でカップリングしなくてもよい。
◆われわれは、通常、無意識に「常識」という時間軸にたよってこのカップル化をし、そうしていることにも気づかない。映画は、あらゆる動きを別の時間軸に置きなおすことによって成立するが、映画の歴史は、「別の」時間軸を発見しつづけるよりも、見いだされた時間軸をくりかえし使うことによって、観客をその時間軸に慣れさせ、その映像を「日常的」な意識で見ることができるようにしてきた。しかし、「新しい」映画は、つねにそうした時間軸を発見しようとする。むろん、繰り返すが、提示された時間軸が「凡庸」でも、見る側が別の時間軸で見ることは可能であり、映画批評は、そうすることをしてきたはずだ。
◆冒頭、この映画のタイトルとなっている「バタフライ・エフェクト」を説明する文章が出る。「ある場所で蝶が羽ばたくと、地球の反対側で竜巻が起こる。」出典が「カオス理論」となっていて、「バタフライ・エフェクト」という言葉の張本人のエドワート・ノートン・ローレンツの名にはなっていないところが、この映画のあやしいところだが、映画や文学でとりあげられる科学や数学の「理論」は、その理論そのものとは関係ないと考えたほうがよい。
◆ガタリやドゥルーズがとなえた「分子革命」とか「ミクロポリティクス」は、イリヤ・プリゴジンの散逸構造論やカオス理論の影響を受けている。ビジネスの世界では、「カオス・マネージメント」というのもある。「カオス」という概念に対するこうした「濫用」に対して、アラン・ソーカルとジャン・ブリクモンは、「ポストモダン思想における科学の濫用」という副題をもつ『「知」の欺瞞』(邦訳、岩波書店)のなかで、彼らの「カオス」理解は、「ビジネス管理や文芸批評への応用は、ほとんどほら話だと思ってよい」と言い切り、ボードリヤール、ガタリとドゥルーズ、ヴィリイオにそれぞれ一章を費やしてこっぴどい批判を加えている。科学や数学の理論を哲学者や芸術家が引用すると、大体、科学や数学の側からは、こういう批判が出るが、彼らは、前提が全然違うことは認めないのである。
◆ローレンツ自身は、最初は、1963年にニューヨーク科学アカデミーに提出した論文のなかで、「ある気象学者の見解によると、その理論が正しい場合、一羽のカモメが一回羽ばたくだけで、天候の方向を永遠に変えるに十分であることになるだろう」と書いたらしい。それが、やがて「南米のジャングルに住む、たった1匹の蝶のたった1度の羽ばたきが、遠く離れたテキサスで巨大な竜巻を引き起こす可能性がある」とか、「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる」とか、人の気を惹く言葉に変換されていった(彼自身も色々な言い方でこの話をしているらしい)。
◆ただ、この映画は、そのタイトルと「カオス理論」という注釈にもかかわらず、「バタフライ・エフェクト」と「カオス理論」に関しては、せいぜいのところ、〈最初の前提が変わると、すべてががらりと変わってしまう〉といった程度のレベルでつながりを持っているにすぎない。カオス理論は、些細なことでとんでもないことが起きるということを理論づけたわけではない。逆に、一見無秩序(混沌)と思われる現象のなかにも、「決定論的な法則」(「初期条件への敏感な依存性」)があり、それは予測・制御できるということを論じているのがカオス理論であり、ここでは、カオスは、「混沌」や「無秩序」ではないのである。
◆その意味では、この映画は、「カオス理論」的に構成されているというよりも、むしろ、「フラクタル理論」的だと言ったほうが適切だろう。ベノワ・B・マンデルブローのフラクタル幾何学は、「部分を拡大しても全体と複雑さは変わらない」という基本認識にもとづいている。旧来のユークリッド幾何学の図形では、複雑な図形も拡大すれば簡素化する。アナログ写真は、拡大すれば点の集合になり、その点をさらに拡大すれば、単純な素地になってしまう。だから、アナログ写真の解像度を上げるには、細密度を高めるしかない。部分の単位を細かくするわけだ。しかし、そういうやりかたではなく、部分を最初から全体と同じ構造(その一部が全体のコピーとなっているような構造)にしておけば、そういう必要はない。むろん、それは、デジタル技術が登場するまで不可能だったわけだが、有機細胞や生命体は、みなそういう「部分」が「全体」でもある構造で出来ているのであって、デジタル技術は、それを疑似的に模倣しているにすぎない。
◆今回は、作品と関係のないことばかり書いたような気もするが、これだけわたしの思考の時間軸をずらせてくれたのだから、この映画は、やはり面白いのではないだろうか?
(映画美学校第1試写室/アートポート)



2005-02-09

●サイドウェイ (Sideways/2004/Alexander Payne)(アレクサンダー・ペイン)  ★★★3/5

Sideways
◆すでにゴールデン・グローブ賞をはじめ、多数の賞をとり、アカデミー賞も有力と言われていることもあってか、試写はかなりの盛況。ワインがテーマとあってか、ふだんは見ないが、ワインにうるさそうな表情の人たちの姿もある。「・・・とタイアップして・・・」というなまぐさい話も聞こえる。当然、ワイン業界とのタイアップが可能な映画だ。レストランもいいかもしれない。が、この映画、「日本の」本当のワイン好きが見ると、ちょっと途中で出たくなるかもしれない。ワインに対する「暴力」をたびたび見せつけられるからだ。「日本の」ワイン通って、超繊細だから。
◆アメリカの男性(とりわけボーイ・ボーイ[ガキっぽい]な男性)文化のなかには、結婚をまじかにした男が、仲のいい男性の友達と「最後のナンパ」を楽しむというのがあるらしい。その意味では、アメリカでは、結婚はある種の「貞操帯」の装着で、結婚の重みは日本などより重いようだ。ウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』で、マクッス・フォン・シドウ演じる初老の男が恋人(バーバラ・ハーシー)に心変わりされ、「ああ、結婚しておけばよかった」と悲痛な表情で頭をかかえるシーンがあったが、西欧的な結婚には、一応そういう重みがあるらしい。だから、ちょっとでも「浮気」すると、すぐ別居だ、離婚だとなる。まあ、日本も、契約社会になってきて、だんだんアメリカを追っていますが。
◆映画は、「最後のナンパ」目当てのジャック(トーマス・ヘイデン・チャーチ)と、ワイナリー訪問が目的のマイルス(ポール・ジアマッティ)の車での珍道中。ジャックは、CMなんかでそこそこ売れている俳優で、ナンパには自信がある。女なら誰でもいいという。マイルスは、アラン・ロブ=グリエばりの小説を書いている作家志望の高校教師。ワインで肝胆合い照らして結婚した相手に逃げられ、ルーザー気分の毎日。そんな二人が、サンディアゴからカリフォルニアのサンタバーバラに1週間のドライブ旅行をする。モーテルに泊まり、マイルスのお望みのワインバーやワイナリー、ジャックの好きなゴルフ場を訪ねる。マイルスは、レストラン「Hitching POST II」で働くマヤ(ヴァージニア・マドセン)に再会、ジャックは、「やっちゃえ」とマイルスはたきつける。ワイナリーの「Kalyra Winery」でアジア系の女性ステファニー(サンドラ・オーが、スケベな白人アメリカ人が好みそうなアジア系の女を力演している)と会い、彼女がマヤの友人でもあることがわかって、4人は意気投合。ジャックは、すぐにステファニーといい仲になる。彼女は、離婚し、2人の子供を母親にあずけ、そこで働いている。
◆マイルスは、ステファニーの家で、彼女とジャックのよがり声を聞いても、マヤには距離を置く。が、ワインの話をするうちに、次第に彼女の繊細さに惹かれて行く。この映画は、「ワイン初歩教室」みたいな趣があるのだが、2人の話は、そういう「常識」の軌道を追っている。一般に、カベルネ・ソーヴィニヨンのぶどうは、温度や湿気・乾燥などのいかなる土地条件のもとでも育つと言われる。他方、ピノ・ノワールのぶどうは、フランスのコート・ドールのようなごく一部の土地でしか育たない「気難しい」品種だと言われる。むろん、実際はそうではなく、いまでは、カリフォルニアやニュージーランドでもいいピノ・ノワール種のぶどうが栽培され、ピノを配合したおいしいワインがつくられている。が、いずれにせよ、カベルネ派とピノ派は相容れないわけで、この映画では、マイルスはピノ派だというわけだ。
◆わたし自身は、ワイン通とは程遠いが、ワインを飲むのは好きだ。その際、たまたまわたしが飲んだかぎりでのワインがそうだったというの過ぎないのだろうが、カベルネ系のワインが持つ「杉」の香りが好きでなく、なるべく、カベルネの成分の少ないワインを好む。それと、おいしい料理といっしょに飲むのが好きだ。とはいえ、料理を食べながらワインを流し込むのではなく、料理が来るあいだにワインを楽しむ。だから、待たされるのは、全然気にならない(西麻布のイル・ラーモのような「待たせるのがいい」と錯覚している店はごめんこうむるが)。とにかく、わたしは、ワインの銘柄や由来のこだわる「ワンイ・オタク」とは飲みたくない。最近のレストランは、こういう手合いを「処理」するために、ソムリエでも、実質的にお客の好みを直感的に引き出し、最適のワインを出す「古典的」なソムリエよりも、やたら知識だけあるタイプを配置しなければならないらしい。
◆ただ、マイルスとマヤが意気投合していくワイン談議は、ワイン通であるはずの二人の会話としては、おそまつすぎる。そこでは、ピノ・ノワールは、「育てるのが難しい」、「皮が薄くて繊細、性格は気まぐれで早熟」といった、ありきたりのピノ神話を語って、互いを暗示しあっているにすぎないからである。これは、非常にスノビッシュだし、映画的技法としてもおそまつ。マイルスは、メルローを軽蔑するが、これは、「苦労せずに作れる」という神話にもとづく俗説だ。メルローにだって、いいワインがいくらでもある。
◆この映画は、ワインをぬきにして見たほうが面白いと思う。いや、ワインはたかだかメタファーだと思って見ないと、この映画は見れない。二人が車でサンディアゴを出発してすぐ、車の後部座席に「Byron 1992 Sparkling」(「おいおいピノ・ノワール100%のワイン=シャンパンだぜ」とマイルスが言うが)を見つけ、その栓を無造作に空け、車のなかで飲みはじめるが、このシーンは、その後のシーンでのワインのあつかいを暗示する。最初に行ったワイナリーでめんどうくさそうにソムリエの講釈を聞きながら試飲するジャックは、ガムをかんでいる。これは、いくらマイルスとの違いを強調するにしても、ないだろう。こんな奴連れてくんなよ、と言いたくなる。
◆ワイン通という設定のマイルスにしたところで、ワインへの対応は粗雑すぎる。書いた原稿が出版されないことになって失意の彼は、ワイナリーのカウンターでワインをがぶ飲みし、あばれてしまう。こういうところで、これやったら、もう終わりでしょう。また、最後の方のシーンで、サンディアゴにもどり、ジャックも結婚し、その会場で新しい夫を伴った先妻にあい、彼女が妊娠していることを知り、会場を抜け出す。おそらく夕食とおもわれるが、ファーストフードの店で、ジャンクフードを食いながら、使い捨ての(しかも発泡スチロール製の)コップに(わたしの見間違いでなければ)1961年の「シャブル・ブラン」をついで飲んでいる。マイルスは、1000ドルもする1961年の「シャブル・ブラン」を所有しているという話をしているから、それすらもこんな風に飲むのだから、彼がいかに捨て鉢な気持ちになっているかわかるだろうと言いたいのだろうが、これは、ワインへの冒涜ではないか? そういう奴はこんなワインを持ってはいけないのである。
◆まあ、この映画を見ると、ワイン通にしたところでこのていたらくだから、アメリカの平均的なワイン意識、ひいては料理や精神的なものへの姿勢がいかなるものであるかが、想像できるだろう。ブッシュのような大統領が登場するのも、こういう感性に支配されている人々の必然的な要請なのだ。
◆もっとも、この映画は、ジャックのような典型的な「アメリカ人」を支持してはいない。それに違和感を持ちながらつきあっているマイルスを支持している。そして、この映画のショットが、全編にわたって、マイルスをある種「逆光」的なカメラ位置で撮られていることを考えると、この映画は、暗黙に、マイルスにすら「距離」を取っている、あるいは「フィルター」をかけているのかもしれない。ちなみに、原題の「Sideways」は、形容詞・副詞「斜めの/に、遠回しの/に」あるいは、名詞「(さまざまな/いくつかの)横道」という意味である。マイルスとジャックは、いくつかの「横道」をへて、「正道」にたどりつくが、その撮り方は、「斜めに」「遠回しに」なのかも。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2005-02-08

●さよなら、さよならハリウッド (Hollywood Ending/2002/Woody Allen)(ウディ・アレン)  ★★★3/5

Hollywood Ending
◆さすがウッディ・アレン。開映15分まえに満席になり、補助椅子が出る。この会場、先日「ハム音」のことを書いたら、キネティックの日名さんが大いに気にして、改善に奔走したらしい。おかげで、一応「ブーン」という音は消えた。
◆1970~90年代までののわたしの映画評を集めた『シネマ・ポリティカ』を見てくれればわかるように、ウディ・アレンには相当入れ込んできた。しかし、ながらく編集を担当したきたスーザン・E・モースが『セレブリティ』(1999) を最後に辞めて以来のアレンの作品には、がっかりさせられ、『ギター弾きの恋』(1999)、『おいしい生活』(2000)、『スコルピオンの恋のまじない』(2001) には、厳しい評価をあたえてきた。すべてが「二番煎じ」で、出演するアレン自身もますます「老い」(老いをあえてみっともなく出しているというより、安易という感じ)、惰性で撮っているとしか思えかったからである。だから、わたしは、日本では久々公開のアレンの本作を半分期待し、半分覚悟して見に行った。
◆往年の彼の作品を知っている者には、目をおおいたくなるような無残な個所(入れ歯をがちがちいわせるかのようなしゃべりかたでアレンがまくしたてるが、ジョークの軽さがない)も少なくなかったが、とはいえ、ここまでケツをまくられると、感動するしかないという気持ちがしないでもなかった。あちこちに、彼の過去の作品や人間関係も暗示され、同情を禁じ得ないという気持ちと、アレンのある種のしたたかさを感じた。
◆色々問題があるとしても、最後のオチは笑わせる。これも、別に意外なオチではないのだが、アレンの映画を見ている観客は誰も笑える。試写の場内は、このシーンでは、笑いがあがった。なお、この原題の意味は、「ハリウッド的なエンディング」という意味であって、ハリウッドとおさらばするという意味はない。
◆『地球は女で回ってる』を撮り終えたあと、ウディ・アレンは、老人性白内障にかかり、メガネをかけても視力が出なくなったという「噂」がある(終段の【追記】参照)。この映画では、「10年まえは巨匠」だったハリウッドの映画監督ヴァル(ウッディ・アレン)が、いまではハリウッドの辣腕プロデューサーになっている昔の妻エリー(ティア・レオーニ)のおなさけで、マンハッタンを舞台にする映画を撮るが、途中で「心因性盲目症」( psychosomatic blind)になり、目が見えなくなる。以後、目が見えないことによるドタバタが展開するが、こういう設定は、昔のドタバタ劇ではよくあった設定だとしても、いまでは盲人に対するハラスメントだという意識で、控えるのが常識となっている。しかし、アレンがあえて、こういう主題を入れたのは、彼自身が、一時的にであれ、盲目体験をしているからではないかと思う。アレンは、おそらく、白内障でだんだんモノの輪郭がつかめないところまで行きながら、手術するのをためらい、モネのように白内障を逆手に取ってすごい作品を作ってやるなどと居直ってみたり、失明の恐怖におののいたりしながら、この映画で描かれているような「いいかげん」な演出をしていた。その結果が、『セレブリティ』以後の3本の「駄作」なのである。しかし、このような自分を(多少のフィルターをかけながらも)さらけ出す自己暴露作品を撮ったということは、白内障の手術を無事済ませ、今後は、新規まき直しで行こうとしている前ぶれなのである。
◆興業成績への懸念を理由にあれこれ映画制作に介入してくるのがハリウッドの「スタジオ」のボスのつねで、そういう手合いにうらみのあるアレンは、トリート・ウィリアムズが演じるボスのハルを皮肉な目で描く。しかも、ハルは、エリーを寝取った相手でもあり、そうい男と、出て行った元の妻の下で映画をつくることになるヴァルは、それをウディ・アレンが演じるという点でも、また、その監督のやり口がアレンとしばしばダブりあうという点でも、アレンのユダヤ的自嘲がよく出ている。
◆ヴァルをつねに支えるエイジェントのアル(マーク・ライデル)は、ちょっとメル・ブルックスを思いださせる。むろん、アルはユダヤ人という設定で、自宅でユダヤ帽をかぶっているシーンが見える。ちなみに、メル・ブルックスもユダヤ人であり、そのユダヤ性を意識した作品が多い。そういえば、彼も、盲人から文句がくるのではないかと思わせる作品を作っていた。『サイレント・ムービー』(Silent Movie/1976/Mel Brooks)である。これに出演しているマーティ・フェルドマンはちょっとバスター・キートンに似ているいい役者だったが、若死にした。
◆エリーを演じるティア・レオーニは、イタリア系(生まれはニューヨーク)で、アレンの好みのタイプ。甘えさせてくれる女性だ。映像のなかの彼女は、アレンが生活をともにした女性たちとダブル。むろん、ミア・ファーローとも似ている。
◆この映画でロス(ハリウッド)をけなし(車がなくてはどうしよもない街――ニューヨークはその逆でいいという)、ロスをよしとするハルのもとへ恋人が行ってしまうのも、『アニー・ホール』(1977)の二番煎じではある。
◆ヴァルは、依頼された映画の撮影監督として中国人チャンを採用し、中国語(北京語)と英語がとびかう撮影シーンをコミカルに見せるが、実際に、アレンは、『ギター弾きの恋』、『おいしい生活』、『スコルピオンの恋のまじない』の3作で、中国出身のチャオ・フェイを撮影監督に使っている。とすると、この映画は、この3作の人選に対する自嘲でもあるのかもしれない。なお、本作では、ドイツのウェディゴ・フォン・シュルツェンドルフを起用している。
◆10年まえは「巨匠」で、美しくて若いエリーといっしょだったが、いまは、カナダの猛吹雪のなかでCMの撮影仕事をいやいややっているとか、わざとサエないかっこうで出てきたのではないかと思わせるヴァルなる人物像の設定とかを見ると、ある種「ユダヤ」的な自嘲文化の形式を見るような気がする。
◆ヴァルは息子とはうまくいっていない。音楽の趣味があわないからだというが、精神家医は、「心因性盲目症」の要因として、「何か見たくないものがあるのではないか?」という分析をする。それが、息子だったということを示唆するこのシーンは、例によって、アレンのフロイト流精神分析への批判だ。フロイト流精神分析には、なんでも家族の問題に還元する傾向があるからである。しかし、ドゥルーズもガタリもくりかえし言ったように、フロイト主義の「家族の再コード化」つまり家族のせいで病気になり、だから家族によって、家族とともにでないとなおらないという発想は、個々人を家族のもとで組織化する根本的な方法、支配のテクニックなのだ。だから、ガタリは、「家族主義の桎梏から解放され、過去への固着や退行よりも、むしろ今そこにある多くの実践にかかわっていくような無意識」つまりは「機械状無意識」の重要性を説いた(『カオスモーズ』参照)。
◆【追記】むろん、ウディ・アレンが白内障になったというのは、わたしの嘘である。いや、現象学的な「想像変更」である。だから、ひょっとして、本当かも。アレンは、今年の12月で70歳になるのだから。
(メディアボックス/日活)


2005-02-07

●海を飛ぶ夢 (Mar adentro/The Sea Inside/2004/Alejandro Amenabar)(アレハンドロ・アメナーバル)  ★★★★4/5

Mar adentro
◆この作品の試写は、1時と3時半にもあったが、ウエスタン・フロントとクンストラディオが「アーツ・バースデイ」のCDを作るというので音声ファイルの編集に時間をとられ、電車とタクシーをのりついで最終回に飛び込む。会場の階段を駆け上がったら、宣伝の本田敬さんにばったり。「シネマノート」のことを言われる。どうも、みんな冒頭の「悪口」の部分を楽しみにしているようだ。「文句ジジイ」のパターンをやめようと思っているのに、やめられないじゃない。開場20分ぐらいまでガラガラだったので、心配したが、やがてスペイン語の声なども聞こえてきて、最後にはほぼ満席。
◆26年まえ(1968年8月23日)に海に飛び込んで首の骨を折り、下半身不随になったラモン(ハビエル・バルデム)は、父(ホアン・ダルマウ)、兄ホセ(セルソ・ブガーリョ)、その妻マヌエラ(マベル・リベラ)、その息子ハビ(タマル・ノバス)の献身的な世話を受けて、一見、気持ちよい生活を送っている。オペラ(『トゥーランドット』や『フィデリオ』)を聴き、窓から海をながめ、詩や散文を書く。手は動かないので、口に特殊なヘラのようなペンをくわえて文字を書き、ハビがパソコンで清書する。彼は、当分、このままの生活を続けられそうである。しかし、彼は、「尊厳死」を決意し、それを違法とする国に訴えを起こしている。
◆尊厳死の合法化の運動をし、彼を支援しているジェネ(クララ・セグラ)のアレンジで、ある日、女性弁護士フリアとその助手マルク(フランセスク・ガリード)がラモンを訪ね、彼にインタヴューする。そのテレビ放映を見たロサ(ロラ・ドゥエニャス)は、感動し、「ファン」意識でラモンに会いにくる。彼女は、離婚し、子供を育てながら、魚肉処理工場で働くかたわら、「ラジオ・ボイロ」でDJ(レコードをかけながらしゃべる「古典的」なDJ)をやっている。ここで、当然のように、ラモンとフリア、ラモンとロサとのあいだに愛ないしは友愛のドラマがはじまる。この映画は、この2人の女性とラモンとの「ラブストーリー」として見ることもできるが、それだけにとどまらない。
◆フリアは、インテリであり、自分でも障害を負っていて、そのうえ、ラモンの弁護を引き受けた直後に発作を起こし、ベッドの人となる。ラモンとは文通と知的な世界の共有によって結ばれている。他方、「おっかけ」のような形でラモンに近づくロサは、インテリではないが、情熱の女性として描かれる。彼女は、「愛は衝動よ、理性じゃない」と言う。「ぼくを愛している人は、ぼくを死なせてくれる人だ」というラモンの主張からすると、ロサは、「彼を愛する人」になる。なお、この映画では、こうした2つの対照的な愛にたいして、もう一つ別の愛の形がさりげなく提示される。それは、ジェネとマルクの愛だ。彼らはラモンへのインタヴューで彼の家で顔を会わせたのが縁でつきあいはじめ、ジェネは彼の子を生む。月並みな関係ではあるが、結局それが一番人を「しあわせにする」と監督は言いたげだ。
◆わたし自身は、そうした愛の形を見るよりも、もっと象徴的な部分に関心をもった。兄のホセが、尊厳死などを選ばないでほしいとラモンに言い、奴隷にはなりたくないというラモンの言葉に、奴隷なんて言うのなら、「(父も息子のハビも)おれたちはみんなおまえの奴隷だ」と叫ぶシーンがあり、こういう患者をかかえた家族の視点も描かれており、そういう視点からこの映画を見ることもできる。むろん、尊厳死と制度の問題という視点もある。しかし、この映画は、そういう具体的な次元よりも、もっと抽象的なレベルに重点を置き、観客が死や生の根本問題を考えることをうながす。実際、なぜラモンが「尊厳死」を選ぶのかは、最後までよくわからない。それは、われわれが自分で考え、自己決定するしかない。
◆表面的には、ラモンは、このままでいたら、兄も父も生活していけなくなるという尊厳死の理由を明らかにするシーンはある。しかし、これは、兄や父がそのことを理解できない以上に、観客にも理解しがたい。まるで、もう尊厳死することを決めており、それが至上命令であるかのような感じである。実際に、彼は、その目的を淡々と果たすのだが、そのとき残るのは、一体この人物は何者だったのかという疑問であり、そこから、生きるということはどういうことなのか、そして死とはという根源的な問いが浮かび上がってこざるをえない。
◆ラモンが「事故」(死ぬために飛び込んだようにも見えるが、そうでなくもとれる)を起こした日が厳密に「1968年8月23日」と明記されているのが気になり、調べてみると、国連の「公民権と政治権に関する誓約」の記録にも、ラモン・サンペドロ・カメアンがこの日に「事故」を起こしたことが記されている。映画の最後に示されるように、この映画は、「事実にもとづいて」作れているわけだ。しかし、それでは、なぜラモンはこの日に「事故」を起こしたのだろう? それに関しては、さまざまなデータがあると思うが、映画というものは、そこで提示されたことが「妄想」を含むさまざまな想いを呼び起こすところがいい。わたしは、映画のそういう機能に惹かれるので、ここでは、それをふくらませてみようと思う。
◆「1968年8月23日」は、世界中が動乱と反乱にまきこまれた時期である。歴史の年表によると、この日は、南ヴェトナム解放戦線が、正月以後のいわゆる「テト攻勢」の勢いにのって米軍を圧倒し、ダナンで米軍を敗北させた日である。スタンリー・キューブリックの『フルメタル・ジャケット』が描いているのがまさにこの時代のダナンだ。以後、米軍はどんどん追いつめられ、ジョンソン大統領は、10月に北爆の中止を決定せざるをえなくなる。しかし、8月23日に入院してしまったラモンは、このニュースを聞いてはいなかっただろう。
◆西ヨーロッパの人にとって、ベトナム以上に関心を呼んだこの時期の事件では、「プラハの春」の抑圧がある。1958年にフルシチョフが首相になりソビエト・ブロックで「雪解け」が起こる。チェコでは、1963年5月にリプリスで開かれた「カフカ会議」が触媒になり、スターリン主義批判と「民主化」の運動が勢いを増し、東ヨーロッパに大きなインパクトをあたえた。「プラハの春」である。しかし、フルシチョフが失墜し、ブレジネフが書記長に就任(1964年)すると、揺りもどしが起こり、ブレジネフは、1968年8月21日、ワルシャワ条約軍を、東欧の「民主化」の拠点であったプラハに進攻させた。これは、東欧のソビエト・ブロックの知識人たちに大きな衝撃をあたえた。おそらく、当時まだフランコの体制下にあったスペインでは、このチェコ事件の衝撃は人ごとではななかったはずだ。それで絶望してラモンが水に飛び込んだわけだはさらさらないとしても、変革を求めていた若者には、暗い未来を予感させただろう。
◆ラモンがどういう思想の持ち主であったかは、この映画では(ハリウッド映画のようには)「解説」されないが、随所に彼の考え方を示唆する表現がある。ラモンは、ガリシア人(スペインでは地方性が強いのでそう呼ぶ)で、フリアは、「ガリシア人はへそまがりだから」と言う。ラモンはこだわりの人である。車椅子を拒否するのは、「失った自由の残骸にしがみつきたくない」からだと言う。一般に、ガリシア人は、「バスク人」などにくらべて、保守的で(フランコもガリシア人)、ここではバクスのような「独立運動」はおこらなかったらしいが、ラモンが「保守主義者」と一線を画していたことは、明らかだ。彼の尊厳死を阻止しようと乗り込んでくるカソリックの神父に対する彼の態度でもわかる。むしろ、車椅子の拒否への発言でもわかるように、「自由」に対しても超ラディカルだ。だから、尊厳死も、彼の場合は、自殺とは全く意味が異なると見なければならない。一つの政治的「実践」としての尊厳死である。それは、他人の助けを借りなければならないから、なんらかの「連帯」をも必要とする。
◆1968年には、バスク地方の分離独立を目指す「ETA」(〈バスク祖国と自由〉の組織)は、最高責任者が治安部隊に殺された「報復」として、治安警備隊の政治担当部長マンサナス警部を暗殺した。この事件がきっかけとなって、ETA側は「テロ」へ加速し、権力側は弾圧の強化へむかう。その後フランコ政権は終わりになるが、弾圧→「テロ」→弾圧の一層の強化という構図は、パレスチナでより常態化し、ついには9・11で常態化するわけで、1968年という年は、来たるべきものへの敏感な意識をもっている者には、「5月革命」の夢に酔ってばかりはいられなかったはずなのである。
◆ラモンは、そういう「ポスト1968」に夢をもてなくなった者の一人かもしれない。映画でちらりと示されるように、彼は、船員としてアジアを含む多くの都市を旅している。何人からの女性の存在もあったらしい。だから、ふと、彼は失恋して自暴自棄になり、海に飛び込んだのかという想像も生まれる。しかし、彼が海へ飛びこむシーンで見せる表情と飛び込み方は、「自殺」のそれではない。そういうわけで「映画的妄想」のロジックとしては、彼は、1960年代に稲妻のように瞬間だけひらめいた解放のイメージとその持続の夢をベットのなかで持続させようとしたと拡大解釈することを許す。
◆その具体的な方法の一つが、空を飛ぶという彼の「想像」である。映画のすばらしさは、そうした想像を映像として形をもたせることができる点だ。ラモンが空を飛ぶシーンは、解放を夢みる者を魅惑する。彼はこの日に空を「飛び」、海に飛び込んだ。これは、(海への)下降であるが、(空への)飛翔でもあった。解放を夢みて地上を飛ぶことだ。そして、ラモンは、不随のベットに横たわりながら、くりかえし、部屋の窓から飛びだして、空を飛び回ることを夢みる。つまり、彼は、死ぬために飛んだのではなくて、自分を解放するために飛び、想像の世界では、より解放的な世界を生きてきたわけである。しかし、それなら、なぜその生活を終わりにするのか?
◆ラモンは、死は未来であって、過去ではない、終わりではないと語る。この解放経験を未来に解き放つために死ぬと言おうとしているかのようだ。自分のこれまでの26年間は、「生きるのは権利ではなくて義務だった」、自分は、「尊厳のある生き方などしていなかったから、死ぬことぐらい尊厳のあるものにしたい」とも言う。しかし、こういうせりふは、ある意味で彼が「逃避」のために死を選ぶような印象をあたえる。
◆最後のほうで、一つの示唆がある。療養所にいるフリアは、記憶を失っている。記憶の喪失も一つの死である。肉体の死と記憶の死とでは、どちらをえらぶか? 尊厳死は、記憶の死を避ける一つの方法である。ラモンは、自分が老い、兄や父も老い、ボケるのを恐れたはずだ。記憶を保持したまま生きる方法として、彼の「書く」という行為がある。しかし、記憶の問題、「記憶の戦略」に関しては、アメナバールのつっこみは、本作では、まだ不十分だろ思う。
◆実在のラモンが死んだのは、1998年5月4日である。関係はないかもしれないが、この日は、中国の抗日運動、「五四運動」(1919年)が開始された日である。これも関係ないと思うが、ラモンが「事故」を起こした日は、1927年にサッコとヴァンゼッティが冤罪の罪を負って処刑された日でもある。
◆アメナバールは、『オープン・ユア・アイズ』ですでに、延命技術が常態化した時代の「死」と「生」について問題を提起していた。『オープン・ユア・アイズ』へのわたしの評価は低かったが、「死者と生者の世界の共存」というテーマをあつかっている『アナザーズ』をあわせて見て、さらに本作を見ると、彼の関心が、あきらかに、人間が「自然」には死ねない時代における「死」の問題を一貫して考えていることがわかる。
(スペースFS汐留/東宝東和)



2005-02-03

●サーティーン (Thirteen/2003/Catherine Hardwicke)(キャサリン・ハードウィック)  ★★★3/5

Thirteen
◆終わってから、すぐに地下鉄に乗る気分にならず、八重洲仲通を歩き、それから中央通に出て、神田駅のほうまで歩く。ちょっと雰囲気のいい「カフェデロンギ」という店があったので入ったら、エスプレッソやカプチーノにならんで「グラッパ」が壁のメニューに見えた。早速注文。こういう店でグラッパが飲めるなんて。ぐっとあおって外へ。寒い日はグラッパにかぎる。
◆すぐに地下鉄に乗る気にならなかったのは、ある意味で疲れたからだ。話は、13歳の2人の少女トレイシー(エヴァン・レイチェル)とイーヴィ(ニッキー・リード)とトレイシーの母親メラニー(ホリー・ハンター)のいわゆる「アドレスンス(adolescence)」(思春期のどさくさ)物語。年令がら、こういう少女を見ると、こいういう子をもっている「親」の視点に立ってしまうから、万引きだ、ヘソや舌にピアスをやった、ドラッグだ、セックスだ、イジメだ、手首自傷症候群(リスト・カット・シンドローム)だということでやきもきするメラニーの意識に同化して、疲れてしまう。そのくせ、自殺の問題は出てこないので、中途半端に心をもてあそばれた感じになる。ここまでくれば、当然死の問題は回避できないはずだが、そこまではいかない。おまけに、映像が、大人には理解できないことで笑ったり、泣いたり、怒ったりする2人の少女の意識に同調して、たえず動く(手持ちのビデオカメラで撮ったらしい)ので、さらに疲れるのだ。
◆この映画の発端は、監督のキャサリン・ハードウィックがつきあっていた恋人の娘、ニッキー・リードとの出会いであったという。そのときハードウックに、トレイシーにあたる娘がいたかどうかはわからないが、ある点で、メラニーの位置にいたのだろう。グレていたニッキーをなんとかしたいと思ったのかもしれない。最終的にハードウックとニッキーは、いっしょに仕事をすることになった。この作品の脚本は、ニッキー・リードにクレジットされている。
◆「普通」の若い子(トレイシー)が、クラスで一番大人ぶった印象をあたえる子(イーヴィ)とつきあいたいという願望を持つのは、実際によくありがちなパターンである。そういう子とつきあえるようになって背伸びをしてみるのもよくあるパターンである。この映画は、そういう現実によくあるパターンをありがちなスタイルでなく撮っていることはたしかである。ただ、逆に、だからといって、こういう思春期のパターンをあらためて撮ってみても、どうということもないという気がするのをおさえられない。
◆大人になってみると、思春期の反抗なんてつまらいものである。ましてこの映画で描かれる「パンク」的な思春期は、もう願い下げにしたい。いつまでもこんなことをやっていてはしょうがない。とはいえ、一人の人間の歴史を考えてみると、進歩というものはないような気がする。21世紀の人間が、19世紀の人間よりも進歩しているということはない。もしそうだったら、21世紀の人間は「超人」になってしまうだろう。おそらく、そういう進歩を身につけて「超人」になる者も1%ぐらいはいるのだろう。しかし、大多数は、過去の人間がくりかえした過ちや馬鹿なことをくりかえしながら成長する。
◆「パンク」的な思春期と書いたが、それと相補的なのが、親たち大人の生き方だ。 母親のメラニーは、離婚し、アル中の矯正コースに通っており、娘がいる隣の部屋で年下のボーイフレンド、ブレディ(ジェレミー・シスト)とセックスし、たまたま娘が入ってくると、「ノックぐらいしたら」とのたまう。このブレディも、ドラッグ中毒でしばらく更生施設にいた。イーヴィのほうも、幼少期に彼女を犯す叔父がおり、実母の死、保護者となったブルック(『ザ・ハリケーン』、『微笑みに出逢う街角』、『レオポルド・ブルームへの手紙』などのデボラ・カーラ・アンガー)は彼女をほったらかし、そのボーイフレンドは彼女に暴力をふるう。こういう自己中心的な親たちがいれば、子供も同じようになる。つまり「パンク」的な思春期というのは、自己中心的壮年期のカウンターパートなのだ。むろん、いま進行しつつある「パンク」的思春期とはちがう思春期も、それにみあった大人の壮年期に呼応している。こういうしがらみは、個と個の単位でファミリーをつくる慣習がつづくかぎり絶えないだろう。
◆この映画は、そういう人生の一コマを描いているわけだが、わたしがいつも思うのは、そういう「青春」は各自が自分のやりかたで経験するしかなく、あえて他人から見せられるものではないということだ。他人のセックス談議と同じで、「あ、そう」と言うしかないのである。そういう「談議」で評価されるのは、その「語り口」や表現スタイルだが、この映画は、その点で、猛烈ブッとんでいるというわけではない。ま、どうやら、わたしは、こういう少女たちにうんざりしていて、その拒絶反応がこういう論評になるらしい。トレイシーやイーヴィの同年配が見たら、全くちがった印象をもつだろう。逆にそういう印象を聞いてみたい。
(映画美学校第2試写室/メディア・スーツ)



2005-02-02_2
●シャル・ウィ・ダンス? (Shall We Dance/2004/Peter Chelson)(ピーター・チェルソム)  ★★2/5

Shall We Dance
◆最近、試写状のサイズを大きくするのがトレンディになっている。この試写状も、A5版ぐらいの大きさで厚さも3ミリぐらいはあった。 これは、郵政省に挑戦して安い料金で配達するクロネコメール便のような新「郵便」が台頭してきたことと関係がある。郵政が民営化されれば、民間のこのトレンドを追いかけはじめるだろうが、当面は、民が官を追いつめている。
◆しばらくロビーに出ていて戻ったら、隣に荷物を股のあいだにはさんで(したがって大股開きで)座っている紳士を発見。さらにこの人、口を手で覆うこともせずに咳を5分おきにする。そのたびに前の席の人も不安げに首をふるわせる。はみだした足で窮屈なうえに、咳の無料配布サービスに閉口。身体をななめにかたむけ、咳をかぶらないようにするが、これって、すでに『Shall We ダンス?』の世界に入り込んでいるのではないか?
◆いわずと知れた周防正行の『Shall We ダンス?』のリメイク。大幅な改変をするのかと思ったら、意外に「原作」に「一応」忠実なのに驚く。役所広司の役にリチャード・ギア、ダンス教師の草刈民代→ジェニファー・ロペス、エキセントリックなダンスオタクの竹中直人→スタンリー・トゥッチ、えげつないエロばばあの渡辺えり子→リサ・アン・ウォーター、探偵の柄本明→リチャード・ジェンキンス(ふと思ったが、この人、曽我ひとみさんの夫のチャールズ・ジェンキンスさんによく似ている)、妻の清水美砂(【追記/2005-02-06】当然、「原日出子」のまちがい)→スーザン・サランドン・・・が割り当てられ、明らかに、役者たちは、原作の役者の体型をを意識して選ばれている。役所が乗っている電車からダンス教室の窓が見え、そこに草刈の物思いの姿があるというシーンも、ちゃんと踏襲しており、見ていて不思議な感じがした。
◆原作を踏襲しているということは、ここで再構築された世界が、(場所はシカゴということになっているが)アメリカ社会のなかでは、非常に「特殊」な、あるいは「架空」に近い世界になったということを意味する。なぜなら、「マジメでフツーのサラリーマン」ということ(それ自体架空なのだが)で作りあげられた原作の主人公・杉山正平は、作品発表の当時(1995年)ですら、どちらかといえば、シャイな日本人であり、わたしなどは、とうていあんなに遠慮ぶかくはなれないなと思ったものだ。が、そのシャイさ、遠慮ぶかさをリチャード・ギア演じるジョン・クラークがきっちり踏襲しているのだから、一体、この人物は、アメリカ社会では、どういうふうにうけとめられるのだろうかという興味がわく。
◆アメリカは、混成文化の社会だから、自分が「フツー」と思っていることをもって他の世界をおしはかることはできない。民族的、言語的、土地的、ジェンダー的、趣味的・・・な違いがはっきり出る社会なので、シカゴなどでは、ストリートを一本まがったら、自分が慣れ親しんでいるのとはちがった人間やコミュニティが出現しても不思議ではない。その点で、英語版の『シャル・ウィ・ダンス?』は、アメリカの観客にとっては、「外国」映画にちかいのではないだろうか? アメリカでの評価がわかれるのもこのためだ。
◆日本では、ダンス教室であれ、大学であれ、生徒と教師とのあいだにある種の線が引かれていて、学校で生徒と先生が意気投合しても、そのままラブラブになってしまうということは「普通」でないこととされる。しかし、アメリカでは、1950年代ならばともかく、少なくとも大人同士であれば、ポリーナ(ジェニファー・ロペス)がジョン(リチャード・ギア)に言ったように、教室で信頼しあえる雰囲気ができている相手に対し、(別にセクハラ的に誘ったのでもないのに)「生徒とのソーシャリゼイションはしないことにしています」というようなことはあまり言いわないだろう。
◆日本では、岸川舞(草刈民代)のようなとっつきにくい女はどこにでもいるが、竹中が演った青木富夫や渡辺えり子の高橋豊子のようなキャラクターは、いても自分をつとめて隠さなければ生きていけない。その点、アメリカでは、そういう「エクスプレッショニスト」はどこにでもいるし、逆に、シカゴやニューヨークでは、そうしなければ生きていけない。
◆ビヴァリー(スーザン・サランドン)は、夫の「秘密」がわかっても、それを夫につきつけて追求したりするようなことはしない。これも、いまのアメリカの「標準」では稀有のことである。そもそも夫婦のあいだで「隠しごと」をするということは、夫婦をやっていく意味がないというのが「標準」的なロジックで、実際には不倫や秘密があっても、すべてを「公開的」にしているかのごとくふるまう。だから、子供や隣人に自分の知らない夫の秘密がもれるようなことがあれば、妻は逆上し、収拾がつかなくなるのが「普通」だ。
◆そういうアメリカ的「普通」や「標準」を頭に置いて、この映画を見ると、いまのアメリカ人にとってこの映画は、ある種の「癒し」になりえる要素をもっていることがわかる。なんでもヅケヅケ言い、親しくなればすぐセックスし、ちょっとなにかがあれば別れてしまうというのは、素直でわかりやすいが、そういう幼稚さにアメリカ人がうんざりしているのも事実である。『クローサー』への関心も、そういう意識と無関係ではない。
◆ふだんはもっとフランクな役を演じている役者たちが、ここではすべてをぐっと抑えて演じているところが興味深い。その最たる例がジェにファー・ロペス。これは、彼女のキャリアにとっては非常にプラスだろう。わたしは、『ウェディング・プランナー』の彼女も好きだが、『シャル・ウィ・ダンス?』は、別のキャラクターも演じられることを立証している。『ターミナル』でがぜん注目度の上がったスタンリー・トゥッチは、「抑える」のとは逆の意味でその芸域の広さを見せる。最初出てきたときは、ちょっと彼とわからないくらい。
◆面白いのは、原作とリメイク版にあるもっとも大きなちがいは、原作には朝鮮人も中国人もアメリカ人も、少なくとも主要な登場人物としては出てこなかったのに対して、リメイク版では、可能性としては、全部白人(コケイジャン)を配列することもできたのに、黒人、ユダヤ人、ラテン系、東ヨーロッパ人、等々のエスニックバックグラウンドがある程度わかる多様な人物を配置しているエスニック・ミックスの構成になっている点だろう。これは、シカゴがそういう街だからという以上の意味があるように思う。
◆原作では、登場人物たちは、個性や癖や経歴(トラウマも含めて)の違いがあるとはいえ、日本の「標準」からそれほどはずれた決定的な対立や決裂におちいることはなかった。高橋豊子(渡辺えり子)が田中正浩(田口浩正)に「デブで汗っかきで気持ち悪い」と言っても、日本の「イジメ文化」のなかでは相殺されてしまうような程度のどぎつでしかない。しかし、それに対して、似たようなことをヴァーン(オマー・ミラー)がボビー(リサ・アン・ウォオルター)から言われるとき、彼は、その人格そのものを否定されたようなショックを受けるのであり、周囲にいる者も絶句するのである。
◆このへんは、日本人がしばしば理解できないところである。個々人の身体のテリトリーの幅が全然ちがうのであり、この狭さに応じて「人権」や「プライヴァシー」という発想もつくられている。かつて、アーノルド・シュワルツネガーが初めて日本に来て、テレビに出たとき、タレントか女子アナが、「すごい!」とか言って、いきねり彼の腕に触ったとき、彼は、「え! それはないよ!」という顔をし、それまで動物的なまでのたくましさを誇示していたのに、とたんに、繊細な人間になったかのような表情を見せたのだった。彼らにとって、身体は、見知らぬ他人がみだりに侵略できない私的領域であるので、そこに侵略されるのを極度に嫌う。だからこそ、逆に、親しくなればこってりとした肉体関係もありということになるのである。このへんの『Shall We ダンス?』と『シャル・ウィ・ダンス?』とのあいだの、身体のポリティクスと現象学を比較してみると、なかなか面白いのではないだろうか?
◆【追記/2005-02-06】「原日出子」と書くべきところを「清水美砂」と書き誤ったのを指摘してくれたのは、昨年ぐらいから「シネマノート」を読んでいてくださるというK氏(匿名希望)だが、こういう指摘は助かる。勝手なことを書き、勝手に変更も可なのがウェブのいいところでもあり、あてにならないところだが、「シネマノート」は、読者と作者との境界線を固定しないようにしたいと思っている。異論や反論も歓迎です。
(よみうりホール/ギャガ・ヒューマックス)



2005-02-01_2

●クローサー (Closer/2004/Mike Nichols)(マイク・ニコルズ)  ★★2/5

Closer
◆松竹を出て晴海通をあるいていたら、ソニービルの角でばったり旧友の立花義遼に会った。10年ぶりぐらいではないか。これからフィルムセンターに行くという。近くの喫茶店で話す。「ビートたけしをひっぱろうと思ってたら、芸大にとられちゃってさ」。あいかわらず、武蔵美で「政治家」をやっているらしい。
◆パトリック・マーバーのヒット舞台、2005年度オスカー受賞(クライブ・オーウェンとナタリー・ポートマン)、その他数々の受賞とノミネーション、ジュリア・ロバーツ/ナタリー・ポートマン/ジュード・ロウ/クライブ・オーウェンというスターたちの共演、等々のニュースを聞いて、興味をかきたてられた。しかし、本作は、世評の高い作品ほどがっかりさせられことが多いわたしには、まさにその典型となる作品であった。以下は、酷評になりそうなので、まだ見てない人は、読まないことをすすめる。
◆マイク・ニコルズの作品はだいたい全部見ているが、この映画を見ながら、ふと、ニコルズの事実上の映画デビュー作である『バージニア・ウルフなんかこわくない』(Who's Afraid of Virginia Woolf?/1966)を新宿のアートシアターで見て初めてニコルズという監督を知り、その後、『卒業』(The Graduate/1967)を見たときの失望感を思いだした。『卒業』で彼は、アカデミーの監督賞をとり、映画監督としての地位を確立するのだが、その評判とはうらはらに、わたしには、全然おもしろくなかったのだった。と同時に、この『クローサー』のスタイルが、エドワード・オールビーの舞台作品にもとづく『バージニア・ウルフなんかこわくない』にも似ているなと思った。しかし、『クローサー』には、『バージニア・ウルフなんかこわくない』のドラマ的な面白さはなかった。
◆マイク・ニコルズは、舞台演出でも高い評価を受け、舞台の映画化には慣れているはずである。彼の映画のスタイルには、必ず「演劇的」な要素が入るが、近年の『パーフェクト・カップル』 (Primary Colors/1998) でも、それを映画のために活かしていた。しかし、今回は、わたしには、「演劇的」な部分がやけに目について、映画としては楽しめなかったのだ。
◆ニューヨークで心身ともに行き詰まってロンドンにやってきたアリス(ナタリー・ポートマン)と、小説家志望のライター、ダン(ジュード・ロウ)との偶然の出会いからこの映画ははじまる。2人にはすぐいっしょに暮らすようになるが、ダンがモデルになっている写真家のアンナ(ジュリア・ロバーツ)との関係が急速に深まっていく。一方、匿名チャットサイトで「アンナ」という名の女性になりすましたダンが病院で医師をしているラリー(クライブ・オーウェン)をひっかける。架空のデートでからかおうとしたのだが、ほいほい「約束」の水族館に出かけていったラリーは、たまたまそこにいあわせたアンナと出会い、すったもんだのすえ、たがいに知り会うことになる。以後、4人のあいだで、愛憎のからみあいが数年という時間の枠のなかで展開する。
◆「演劇」的であるのは、まず、全体で4年ちかい時間が流れるのに、登場人物たちの表情にその時間の経過があらわれないことがある。すべてが現在形でえがかれているかのようだ。これは、冒頭の場面で、アリスが街頭で転倒し、額に傷を負うが、その数時間後、いっしょに歩いているシーンで、その傷は全然腫れていないことでもわかる。車に跳ねられて転倒し、意識も失ったのに、こうした象徴的表現で済ませてしまうのは、いかにも「舞台的」である。
◆ここでいう「演劇」とは、型や約束事(それらは、舞台の物理的な制約からも来る)が決まっている舞台演劇のことだが、それを映画でやろうというのなら、映画技術から来る制約をびしっとおさえ、そのうえで型や約束事にこだわるのでなければ、意味がない。ルキノ・ヴィスコンティは、舞台と映画の両面でそういう離れ業をやった巨匠の一人だが、今回のマイク・ニコルズは、とうていそういう離れ業の域には達していないし、彼自身が達した域にも達していない。
◆この映画の約束事は安易すぎるのだ。たとえば、アリスがロンドンの路上で車に跳ねられたのは、ロンドンが、日本と同じように人は右、車は左という右側通行で、左側通行のニューヨークから出てきたばかりのアリスは、交差点でついつい左に目をやってしまい、右から来る車に気づかなかったというロジックを前提している。そういう説明はないが、そういう理屈で彼女の事故を正当化している。しかし、映画では、(いや、演劇においても)そういう理路整然としたハプニングは、全然面白くない。理屈で説明ができない事故やハプニングが起こってこそ、ドラマになるのであり、わざわざ描く意味があるのだ。
◆同じような「演劇的」正当化が、ダンとラリーのチャットのシーンである。いまどき、女のふりをして応えてくれたチャット相手を真にうけるような馬鹿な男がいるだろうか? むろん、いないとはいえない。が、そういう男は、その程度の単純な人間であり、とうてい、ジュリア・ロバーツやナタリー・ポートマンがわざわざ演じる女性たちの気を引くことはできないだろう。このチャット・シーンも、アンナとラリーを出会わせるための単なる仕掛けにすぎないのだ。最初に意図があり、そのあとで方法が引っ張り出されてくるという典型的なやり方。しかし、これに関しては、脚本を書いたパトリック・マーバーにも責任がある。こんなプロットを使うようでは、インターネットのことを全然知らないとしか言えない。
◆「演劇的」であることによって楽しめるこの映画の唯一の長所は、せりふのおもしろさだ。ある意味では、この映画は、せりふを楽しむために映像がおまけについているような映画だ。気のきいたせりふに満ちているだけでなく、話すということのドラマの振幅が幅広く、セックスに関して自分をあけすけに語る一方で、傷つきやすい繊細な愛憎のエモーションが語り出されるていことは認めなければならない。しかし、この言語的振幅をばっちりと理解するには、字幕では難しい。
◆アメリカでウケた理由の一つには、愛する相手が別の相手とセックスしてしまうと、心おだやかでなくなるという、ごくあたりまえのことを「素直」に(つまり幼稚に)表現しているからではないだろうか? アメリカ人の多くは、セックスと愛とは別物だとは言わない。各人が、自分のやりたいことをやるというアメリカ的価値観からすると、愛とセックスとは一致するはずである。だから、うっかり妻/夫とは別の相手とセックスしてしまったら、それは、「愛していない」ということになって、じゃあ別居しましょう、別れましょうということになる。
◆しかし、事実上、セックスは、料理を食べるのと大差ないのであって、おいしい料理を、妻/夫以外の人と食べてはいけないという理由はない。が、それをそうしなければいけないという暗黙の「約束」を強制するところが、キリスト教的モラルであり、「近代」世界の大半が従属している(いや、させられている)価値観である。むろん、それならばそれで、「愛」などという無規定な概念を持ちだしてこないで、結婚という「契約」は、たがいに料理からセックス、あらゆる共同行為を最高のレベルで共有することだととするならば、そういう「モラル」も現実的なものになるだろう。
◆では、この映画は、目下どろどろの愛憎関係に陥っている人が見るのと、そういうこととは無関係に「平穏」な生活を送っている(が、にもかかわらず、「破滅的」な生活をしてみたいという願望がある)人が見るのと、どちらにウケるだろうか? それはわからないが、わたしに言えることは、もし、あなたがこの映画を見て、「泣ける」と感じたとしたら、あなたが陥っている状況は子供じみており、考えるほど「どろどろ」でもなんでもないということだ。そして、もしあなたが、この映画を見て、「どぎつい」と感じたとしたら、あなたの「平穏」な生活は、「平穏」なのではなくて、単に退屈なだけだということである。
◆演技的には、ナターリー・ポートマンが、飛び抜けている。ジュリア・ロバーツは、まあまあ。ジュード・ロウは、いまいち。クライブ・オーウェンは、『キング・アーサー』のアーサー王役のほうがよかったと思うが、ある種脂ぎった感じ(ロウは、対照的に「非セックス」のベクトルを担わされている)をよく出していたことはたしか。
(銀座ヤマハホール/ソニー・ピクチャーズ)



2005-02-01_1

●PTU (PTU/2003/Johnny To)(ジョニー・トー)  ★★★★4/5

PTU
◆うしろでかなり大きな声で古い映画の話をしているのは、たぶんXさんだと思うが、声がやけにはずんでいるのでその確信はない。お相手の女性のかたも同年配とみえ、昔話で盛り上がっている。盛り上がっているどころかラブラブに聞こえる。いいですね、あのお年であんな感じで映画の話ができるのは。
◆場内が暗くなって、いきなりバーンと香港の街路が映る。男か女かよくわからない髪の長い若者が逃げ、待ち伏せた制服の男たちが追いかける。すぐに捕まり、一人の制服男がごっついブーツを脱ぐ。それで男を殴りつけようというのか・・・。さすがジョニー・トーだねぇ。いいオープニングじゃないかと思った次の瞬間、映像が止まり、場内が明るくなる。何だ、映写技師が上映する巻をまちがえたのだった。
◆しかし、この作品は、決して、この最初の印象を裏切らなかった。いつも見ている映画作品とはかなりちがったセンス。これは、映画を見飽きている人も必見。おすすめです。
◆映画は、香港の機動部隊PTU (Police Tactical Unit)のメンバーが、夜から夜明けまでの時間に見せるプロセス。この時間帯は、普通は、眠りの時間。だから、このプロセスは、ある種の「夢」だ。普通ならもっと表情豊かで「人間的」だあってもいいように見える面々が、えらく無表情でロボット的であったりするのもこの「普通でない」時間のなかにいるからだ。ストーリも飛躍し、裸の人間が狭い檻に入れられて、床に転がっていたりする。だが、わたしのように、夜から朝までの時間が「普通」の時間であるような「倒錯人」には、この時間帯こそが「リアル」なわけだから、この映画のプロセスやドラマがやけにぴったりくる。
◆PTUと組織犯罪課、犯罪捜査課CIDとの三つどもえの確執があったり、闇組織同士の争いと牽制が浮上したりするが、これを香港の現実と重ねあわせることはできないし、その必要もない。それにしても、闇組織の親分が息子を殺されたみせしめに、子分たちを檻に入れ、ハンマーでなぐりつけるとか、デイパックかリュックを背負った怪しい集団が、いきなり銃を出して警察に応戦するとか、ミニバイクに乗った少年が、人気のない街路を走っている(しかし何も起こらない?)とか、タランティーノなんかが大喜びしそうなショット満載。
◆ジョニー・トーは、「香港ネオ・ノワール」のフィルムメイカーと言われるが、香港にかぎらぬフィルム・ノワールというジャンルのなかでも、彼は傑出している。彼のノワールは新しい。出演しているサイモン・ヤム(PTUのリーダー)、ラム・シュー(組織犯罪課刑事)、ルビー・ウォン(CIDのトップ)はみな俳優として一流とはいえないが、彼や彼女らが、「マジめ」に演技すればするほど、そこはかとないおかしみがわいてくる。これは、フィルム・ノワールの基本だが、フィルム・ノワールだから夜にシーンを設定するというのが、そもそも、笑える。そうか、フィルム・ノワールは、夜撮ればいいんだ、とあらためて思う。
(松竹試写室/パンドラ)


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