粉川哲夫の【シネマノート】
  HOME      リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)

白いカラス   ぼくセザール10歳半1m39cm   ブラザーフッド   ドーン・オブ・ザ・デッド   レディー・キラーズ   キル・ビル Vol.2   トスカーナの休日   シルミド   ワイルド・レンジ   ディープ・ブルー   天国の本屋・恋火   ドット・ジ・アイ   キューティハニー   深呼吸の必要  

2004-04-30_2

●深呼吸の必要 (Shinkokyu no hituyo/2004/Shinohara Tetsuo)(篠原哲雄)

Shinkokyu no hituyo
◆はしごをしてもう一本見ることにした。最悪の作品で今月をしめるのは後味が悪いからだ。レイアウト上、月の最終に見た作品がページのトップに来るというのもまずい。『深呼吸の必要』は、もっと早く見るつもりだったが、タイミングが悪く、後回しになっていた。最初孤立した人たちがいて、だんだんにそれが・・・という予定調和的な、先の読める作りではあるが、予想した通りに話が進む場面に接しても、無駄をしたとは思えないだけでなく、逆にその「あたりまえ」の帰結から、日本社会の持つ「構造」のようなものへ思いを向けさせるようなところがある。そしてまた、それを変革不能の基本的な構造と見て、ただ「安心」するか、それとも、「まてよ」と思うかといった、余韻を残しているところも、見どころ。
◆沖縄らしい空が見える港に船が着く。沖縄のどこかの離島だろう。女3人(香里奈、金子さやか、長澤まさみ)、男2人(谷原章介、成宮寛貴)が、それぞれつながりがないらしいが、誰かを探すかのような素振りで船を降りる。そこへ、小倉利丸に似た顔の中年男(大森南朋)が車でやってきて、5人を集める。彼らは、インターネットなどの募集を見て、沖縄にサトウキビの刈り取りアルバイトにやって来たのだった。はるばる沖縄にやって来た彼女や彼らの思いは、それぞれちがう。単なるアルバイトに来たのではない。ある種の脱出。癒しを求めて? だから、彼らは、協同して働かなければならないキビ刈りに来たとはいえ、協同して働くことには抵抗がある。が、最初はぎくしゃくした5人の関係が、次第にうちとけていくことは、誰でも予想がつく。そして、そのプロセスは、「感動」的である。
◆5人のなかで一番、絵に描いたような「今っ子」ぶりを示すのは、川野悦子(金子さやか)。彼女は、キビ刈りの依頼人である平良老夫妻(北村三郎、吉田妙子)の家に着き、同じ部屋で皆がざこ寝すると聞かされ、ブウたれる。「シャワーもないのぉ?!」は、いかにものせりふ。文句を口には出さないが、決して好んで来たわけではないという感じをただよわせるのが、西村大輔(成宮寛貴)。みんなで食事をしたあと、自分の食器だけをかたづけるところに彼の性格がよく出ている。彼は、この人集めを仕切り、キビ刈りの仕事を指導する田所豊(大森南朋)に反抗する。実際、田所は、いかにもの「リーダー」で、今の子から見れば、言葉のひとつひとつがおせっかいで、おしつけがましい。一番年上の池永修一(谷原章介)は、ジェントルな男だが、触れられたくない過去がありそう。風貌があの「雅子さん」に似た、終始一言も口をきかない土居加奈子(長澤まさみ)は、他人にきついことを言われたら、壊れてしまいそうなアブナイ少女。立花ひなみ(香里奈)だけが、最初から、「健康」的で、かえって、なぜこの人は、こんな仕事に加わったのだろうという疑問が起きるくらい。映画は、彼女が子供のときに、プールで競泳をするシーンから始まるので、彼女が映画の基本的な「眼」の役を果たすのだろうということはわかる。ま、ある種の緩衝地帯のような役目。香里奈の演技はすばらしい。ほかに、最初、こんなしなやかな生き方をしてるひともいるんだぁと思わせる仕方で登場し、実はそうではないことがわかる(これもよくいる)女性・辻本(意図的な符合か?)を久遠さやかがコンヴィンシングに演じている。
◆今日、たしかに、人は集団行動を好まなくなってきた。わたしが勤めている大学でも、「コンパ」は下火らしい。「らしい」というのは、わたしのゼミでは「コンパ」はやらないからだ。昔から、わたしは「パーティ」しかやらない。わたし自身、休むと文句を言われたり、「つきあい悪いなぁ」と嫌みを言われたりする「コンパ」は一切ドロップアウトしてきた。だから、いまの学生のコンパ離れには全く驚かない。「コンパ」もパーティの1種だと思うが、「パーティ」と銘打つと、好きなときに来て、好きなときに帰れるような「自由さ」を感じるらしい。(そうともかぎらないんだけどね)。
◆いずれにしても、個が拘束される(おせっかいをやかれることも含め)ということについては、意識が敏感になってきた。で、このことは、当然のことだし、もっと個をむき出しにしてもしすぎではないと思うわたしからすると、この映画は、じゃあ、なんでバラバラの個を束ねる必要があるのか、という疑問を感じる。この映画の場合は、むろん、それは、孤立した個が集まる話で映画を作るためというのが一つだが、バラバラの個が協同するようになるプロセスを描く以上、バラバラであるよりは、いっしょであることのほうがよりよいという認識が前提になっているはずだ。しかし、はたして、バラバラではいけないのか? ここには、「沖縄」という「前近代」的な環境を設定し、そこに都市の「若者」を投げ込み、試行錯誤させた末に、やっぱり君たちも「伝統」を忘れてはいないだろう、と言わせてしまう強制が感じられるのである。
◆いまの時代、「個」が強調され、以前のようにばらばらであることが否定的なこととは見られなくなった背景には、問題の個が、ことごとく、とりわけ電子メディアによってマリオネット状に、知らず識らずのあいだに、結びつけられ、束ねられ、ソフトに管理されているという環境の変化がある。本当の連帯とかコミュニケーショは、別に個が「孤立」していようが、いまいが関係なく可能だし、そうでなければ、その連帯は体裁か強制の擬制にすぎない。突き放されているのなら、それほどのチャンスはないはずなのに、それを「淋しく」感じたり、誰かを呪ったりする。他方、過去の「万歳集団性」(banzai-collectivity)をなつかしむ「大人」は、「若者」にとってのせっかくのチャンスを上からぶち壊し、ソフトやハードなやりかたでひとつにまとめようとする。
◆面白いと思ったのは、ここでは、仕事の具体的なことは、すべて田所が指示し、平良の「おじぃ」と「おばぁ」は、細々したことを一切言わないということだ。キビ刈りの期限があり、それを過ぎると、大きな欠損が出ることがわかっていながら、彼と彼女は、彼ら5人をせきたてたりはしない。「なんくるないさー」(なんとかなるさ)が口癖で、いつもおっとりとしている。孤立している土居加奈子のような者には、何気なく気を使い、やさしくする。わたしが、ふと思ったのは、これはまさに「天皇制」だということだった。集団をやさしく「慈愛」のようなもので包む年長者がおり、彼らは、現実の厳しさへのフィルターとなる。が、それでは現実は成り立たないから、その部分は、「侍従」的な部下(田所)が、彼らの命令を実行に移すという形ではなく、彼らの思いを思いはかるという形で実行する。その代わり、「おじぃ」は、若者よりも積極的にキビを刈り、「おばぁ」は、手作りの弁当を運んできて、働く者をやさしさで包む。憲法で天皇は「国民統合の象徴」と記されているように、「国民」がたがいに「連帯」する象徴的モデルを寡黙に示すのが天皇ファミリーなのだ。
◆この映画の世界は、その意味で、非常に保守的な世界である。この映画が描くようなプロセスが進行すれば、世の中は丸くおさまるだろうが、これでは、いまわれわれが突きつけれれている環境やテクノロジーのの別の可能性――個々人の「特異性」の解放と「マルチチュード」というような新しい個々人の関係の実現――を展開することによって、現実を全く新しい方向に変革するという側面は出て来ない。いま、(別に「若者」だけではなく)人が、痛みや悩み、拒食症や過食症、いじめ、虐待といった形で「表現」しているものを、「トラウマ」や、家庭や制度の欠陥に還元するのは、ごまかしである。そういう「病」が、現代のテクノロジーや諸環境から離れた場所に隔離することによって、癒されるという発想は、単純すぎるし、「病」を単なる異常な事態としてしか見ていない。
◆この島では「顔」の田所が、集まった5人を平良の家に連れていったあと、自己紹介をさせ、各人の顔写真を撮り、それから全体を2人づつの組みに分ける。これは、ゼミでも会社でもよくやる最初の「グループ管理」。むろん、全員が一丸になってやるという管理方式が瓦解してから「発明」された方式。この男、70年代流活動家の経験、「人権」や「エコロジー」への目配りもひととおり意識しながら、結局は管理者になってしまうタイプ。なんかやだな、と思っていると、後半、他の5人と同様に「現代の悩み」を心にいだいている「孤独」な人間であることが暴露する。そうこなくっちゃね。あ、誤解のないように言っておくが、最初のほうで、この田所が小倉利丸と似ていると書いたが、それは、あくまで顔つきだけである。
◆ミッシェル・フーコーも指摘したように、今日の管理は、強制的なものから、「セラピー」的なものになった。ここで言う「セラピー」は、現状維持のための方策であり、ばらばらになってしまった(ように見える)「個」を「集団」(家庭から国家にいたる)のなかに引き戻す管理技術である。教育と管理に精神分析が深く関与し、精神分析のノウハウが、生き方のノウハウになる。まあ、イラク人質事件で3人の「人質」たちに対して日本政府とマスメディアとが「国民」を総動員して取った「国家共同体への再帰属化」の一大キャンペーン(これが天皇制的管理である)にくらべれば、「セラピー」的管理のほうが、各個人の意思を尊重する素振りをするだけまだましではある。
◆この映画のタイトルは、長田弘の同名の詩集(晶文社)から取られているという。晶文社で思い出すのは、このタイトルの「・・の必要」だ。これは、当時晶文社の編集長をしていた津野海太郎が好んだ言い回しで、彼自身『小さなメディアの必要』という本を出している。おそらく、長田の『深呼吸の必要』も、津野の命名によるものではないだろうか。
(ヘラルド試写室)



2004-04-30_1

●キューティハニー (Cutie Haney/2004/Hideaki Anno)(庵野秀明)

Cutie Haney
◆『新世紀エヴァンゲリオン』で伝説化した庵野秀明だが、以前に『ラブ&ポップ』を見たとき、映画としてはあまりぱっとしなかったのだが、今回、「ハニメーション」なる新技巧を凝らしているというので、期待して見た。結果は無残。ワーナーの優美な試写室が泣く。『ラブ&ポップ』にわずかあった面白い要素は、原作の村上龍からのものだったのだろう。テレビの原作アニメに入れ込んでいた人には、違う印象なのかもしれないが。
◆「ハニメーション」とは、プレスによると、「通常のアニメと同様に、アクションのキーとなる絵(原画)を1枚1枚作画し」、「次に、この原画を撮影し、そのビデオを参考に、佐藤江梨子がまったく同じポーズを再現、ビデオで1コマずつ撮影」。その映像を部分的に「CGで補い、さらに背景や爆発、ビームなどの素材と合成しつつさまざまなデジタル処理を施して完成」するというもの。しかし、それがたとえ、あえて「ハニメーション」などと新たに呼ぶ必要のある技法であるかどうかは別にしても、全然活きていないのだ。「パーフェクトなボディ(B88・W58・H88)」とかいう佐藤江梨子の肢体をこれ見よがしに映したショットは多いが、別に彼女のアクションは、あえてアニメの原画のポーズを「再現」したような人工性(でなくても、とにかく新しくて面白ければいいのだ)は感じられない。あえて言うなら、わずかに市川実日子が(まあ、メガネと髪型の効果もあるが)「つくりもの」的な感じを出していた。村上淳なんかは、全くいいところを出す場がなかったという感じ。
◆日本の変身ものでは、必ずと言っていいほど、かけ声(この映画では「ハニー・フラッシュ!」)があり、型を作る。そのために映像の動きが一瞬止まるわけだが、これは、この手の作品には致命的なのではないだろうか? こういう静止によって型を見せるというのは、歌舞伎あたりから来ているのかもしれないが、歌舞伎の場合は、全体の動き自体が「型」であり、「見得を切る」身ぶりの静止は、型のなかを動くアクションにアクセントをつけるのだ。しかし、この映画では、全体が「型」を持っていないために、「ハニー・・・!」と来ると、それは、ただただ流れを中断するためだけの効果しか持たない。
◆絵柄として印象に残ったのは、バベルの塔のどこかの階の回廊のようなスペースに、顔を半分ずつ白と黒に染めたブラック・クロー(及川光博)が、バイオリンを弾く子分を引きつれてあらわれるシーンぐらいか。
◆及川や市川や吉田日出子(なんで彼女がこんな映画に出るんだい?)は、さすがにとりつくろっているが、「執事」を演る手塚とおるが最悪。台詞が全然だめ。松田龍平は「友情出演」とのことだが、やめておいたほうがよかった。
(ワーナー試写室)



2004-04-28

●ドット・ジ・アイ (Dot the I/2003/Mathew Parkhill)(マシュー・パークヒル)

Dot the I
◆30分まえに行ったら、すでに前の席が半分ほど埋まっていた。1時の回を見て、ハシゴする人たちだろう。それはいいのだが、席に座ろうとしたら、えらく強烈なワキガの香りに襲われた。わたしは、ワキガがセクシーでいいと感じるときもあるのだが、この日はだめだった。相性の問題もあるかもしれない。で、いさぎよく後部の席に退散することにした。このメディアボボックスには、ここが「シネセゾン試写室」と言われていた時代から来ているが、いつも最前列にしか座ったことがなかった。が、4列目からのながめは、消して悪くはなかった。この映画の構造にも合っているような気もした。
◆ロンドン郊外のちょっとリッチな住宅のなかでヤッピーぽい男(ジェイムズ・ダーシー)が料理をしながら、スペイン系の女性(ナタリア・ヴェルベケ)に愛を語っている。切った玉ねぎの輪をリング代わりにして、彼女の指にはめ、結婚してほしいと言う。ごくあたりまえの「映画的」な安定したフレームの映像のあいだに、民生用のDVカメラで撮ったようなショットがパッパッと混じる。ということは、われわれが見せられている映像に2種類あるということが類推できる。一つは、普通の映画の目。これは、登場人物の目になったり、映画内の「客観的」視座になったりする。もう一つは、「映画」的な「客観性」を持たないことをあらかじめ示唆する形で提出されるのだから、それは、誰の目か、誰の視点かということに関心が向く。実際にこの点が、この映画の鍵になってもいる。
◆この鍵を明かすわけにはいかないので、表面的なことだけを記す。カルメン(ナタリア・ヴェルベケ)は、マドリッドから前の恋人の手を逃れるためにロンドンにやってきて、ハンバーガーチェーンのFeedWellで働いている。新たな恋人バーナビー(ジェイムズ・ダーシー)はリッチでハンサム。しかし、求婚され、独身最後の「ヘン・ナイト・パーティ」に出席した晩、それまでの気持ちががらっとひっくりかえってしまう男と会う。パーティの会場となったフレンチ・レストランでは、フランスの習慣で、「ヘン・ナイト・パーティ」のとき、その主賓が、その場に居合わせる客のなかから、自分が一番魅力的と思う相手を選び、キスをする。パーティたけなわのとき、レストランのマネージャーからそう告げられたカルメンは、一般の客もいるレストランの会場を見回し、一人の男を選ぶ。彼は、仲間2人とこの店にやってきて、自分のほうをDVカメラで撮っているのを知っていた。なぜ、撮るのか? が、その男を指名し、キスした瞬間、このひとこそ自分の本当の恋人だと思ってしまう。
◆キスぐらいでそんな気になるのは説得力がないように思えるが、その男キット(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、ブラジルのリオデジャネイロ出身で、言葉はポルトガル語でも、「同国人のよしみ」みたいなものがあるのだろうか? あるいは、そういうふれこみでキットは意図的にカルメンに近づいたのだろうか? これは、映画で謎解きされる。
◆カルメンは、街で生き抜く術にたけた「シティ・ワイズ」で、自分がまえに働いていたホテルにキットと忍び込み、「Don't Disturb」の札のかかっている部屋を見つけ、廊下の電話からその部屋番号でルームサービスの食べ物やワインを注文し、2人で廊下に座り込んで、宴会を開く。すぐに見つかり、マネージャーに追われるが、うまく逃げきる。
◆話は飛ぶが、われわれが最初に見た、9.11事件で飛行機がWTCに突っ込む映像は、監視カメラの映像だというが、監視カメラが遍在化するにつれて、重要な変化は、個々人のプライバシーが犯されるというような問題ではない。「プライバシー」などというものは、もうとうの昔に終っている。それよりも、自分が自分以外の者に見られているという意識が強まり、特定の観客がいるいないに関わりなく、何らかの意味ですべての行為が「演技的」になることだ。それは、ある一定数の人間がそのことを意識するようになれば、問題はない(なくはないが「安定」した状況が訪れる)。しかし、現段階では、まだ大多数の人は、監視カメラの遍在という現象に対して、見られる=監視されるという側からの意識しかなく、監視カメラの増加によってわれわれg過剰に「演技的」になるということは意識されていない。
◆監視カメラにかぎらず、現代の電子機器は、人をハイパーパフォーマーにする。ケータイの使用者は、知らず識らずのうちに自分を路上や車中の「パフォーマー」にしている。こうした状況は、言い方を変えれば、「パブリック性」の再編を意味している。それまで「プライベート」だと思われていたことや領域が、パブリックなものになり、新しい社会性を帯びるのだ。これまで「パブリック」と見なされたのは、「人前をはばかる」という言葉が示唆するように、他人の目との関係でその「パブリック」度が決まった。これからの「パブリック」性は、電子メディアの存在との関係で決まる。だから、「他人のことなんか知らないわ、フン!」といった感じで手鏡を車中で取り出し化粧をする女の子も、それは、車内を自分の「プライベート」な場所にしてしまっているのではなくて、それが、彼女にとっての新しい(一応)パブリック性なのである。
◆この映画は、こういう問題を熟知して作られた映画ではないが、カメラの監視機能に関心を持って作られているという点で、こうした問題との関連で見ることができるし、そう見ると、この映画が活きる。あえて言えば、カルメンは前・監視カメラ的人間、キットは、本来、前・監視カメラ的人間であるが、無理して監視カメラ的人間になっている。そして、映画の観客は、この映画という監視カメラシステムと一体になって、登場人物相互の監視的ギャップが生むドラマとその監視過程を楽しむ。
◆しかし、問題は、今日、監視カメラも監視という機能を果たせなくなったことである。つまり、総監視体制のなかでは、監視から逃れることができる「安全地帯」はなく、監視自体が「誰かに見られている」というパラノイアを増幅するだけの儀式になっている。つまり、もはやわれわれは、自分で監視する必要がないのである。だから、この映画のように、映画が監視システムであるような設定のもとでは、つかのま古典的な監視の楽しみにひたることができるとしても、次第に、見る=監視することに飽きてくる。この映画の最後のほうで、これでもかこれでもかと「謎解き」(監視情報の解読)をやってくれても、あまり感動できないのは、そのためではないか? まして、そうした監視に復讐するかのごとくカルメンが最後に取る行動は、リアリティがないのである。
◆映画というものも監視システムだが、客席という「安全地帯」をヴァーチャルに設定することによって古典的な監視体制を維持する。観客が客席で反応する一部始終を監視されるとしたら、映画は成り立たない。しかし、テレビ→デジタルテレビ→インターネットと進むにつれて、観客はもはや監視から自由ではなくなる。
(メディアボックス)



2004-04-27

●天国の本屋~恋火 (Tengoku no honnya-koi bi/2004/Shinohara Tetsuo)(篠原哲雄)

Tengoku no honnya-koi bi
◆隣の女性が、終始鼻をつまらせ、頬の涙をぬぐっていたから、おそらく、この映画は当たるだろう。竹内結子は、この作品で、テレビ女優を脱して映画女優になれることを実証した。2役をなかなかの存在感でこなした。相手役の玉山鉄二はまあまあだが、脇をかためる香川照之は、さらに円熟。いつもどこかに暴力的なにおいをただよわせる新井浩分も、ここではいつもとちがった雰囲気を出している。脇役で最高にがんばったのは香里奈。原田芳雄は、あいかわらず「困ったおじさん」風の演技だが、それも遊びの境地と思えば、気にならない。吉田日出子、根岸季衣、「特別出演」の香川京子、それから『刑務所の中』でオフビートな看取を演じていた斉藤歩は、あまり力を見せる場がなかったが、手堅い演技そし、ちょっと顔を出す鰐淵晴子は、なかなかねちこい感じを出していて、彼女の主演作を見たいという気にさせた。
◆松久淳と田中渉の共著という形をとるベストセラー小説『天国の本屋』と『恋火』がこの映画の原作。篠原哲雄の職人芸的な処理で、2つの作品がたくみに連結され、面白い世界を構築することに成功している。
◆勝手なノリでコンサートのピアノを弾いてマネージャー(斉藤歩)からクビを言い渡される町山(玉山鉄二)は、気づくと、天国の「手配師」ヤマキ(原田芳雄)によって「天国」にある本屋に連れてこられている。その本屋は、本好きが夢見そうな建物の雰囲気をただよわせており、そこではしばしば朗読会が行われる。これは、自分の本を持ってきて、店の誰かに読んでもらうという仕組み。本屋というが、本を買っている者はいない。街は、路上のアーティスト、物売り、シックな喫茶店(そのママを鰐淵晴子が演じる)などがあり、これも、ある種の趣味を示唆する。
◆本屋で店番をする由衣(香里奈)は、弟を交通事故で死なせたのを苦にして自殺をはかる寸前にヤマキによってここに連れてこられた。彼女の願望は、いま天国にいるはずの弟に再会すること。実際にそのシーンはあり、隣の女性はオイオイ泣いた。メールヘンチックな心暖まるシーンではある。
◆この天国に来る者は、死んだときの姿のままであり、100― [死んだ歳] の年月をここで過ごす。結婚もできるが、子供は生めないという。原田=ヤマキが語るとみなインチキ臭く響くが、100歳を過ぎて死んだ者は、その差の年令の人間として生まれ変わるという。
◆町山は、この町で桧山翔子というピアニストだった女性に出会う。彼女は、花火師の恋人・瀧本(香川照之)のミスで片耳の聴覚に異常をきたし、ピアノを辞め、以後、体調をくずし、夭折したのだった。彼女には、完成させようとして完成できなかった未完の作品があるが、ピアノに向かうとひどい耳鳴りがして、天国でもその作品を完成できない。こういう設定だと、ピアニスト、町山との出会いが何を意味するか、2人の関係がどうなるかは、容易に想像できるだろう。むろん、それが、ヤマキのねらいでもあったわけだ。
◆天国のシーンと平行して、『恋火』のドラマが展開する。これは、美浜という海沿いの町。町起こしをしている若者グループ(大倉孝二が騒がしい演技をして全体の格調を壊しているのが残念)が、もともとこの町にあった花火大会を復活させようとする。その中心になるのが、長瀬香夏子(竹内結子)で、彼女は、花火会社の社長(塩見三省)(塩見も新井も、『GO』でコワい役をしていたが、この映画ではどちらもやさしいのが笑える)に頼み込んでこの企画を進める。が、彼女たちがどうしても実現したかった古来からの「和火」(恋する花火)はできないという。それは、それを作っていた花火師がある事件以来、花火から手を引いてしまったからだった。まあ、こうなると、その花火師が誰であるかは想像にかたくない。この映画は、ある種の予定調和を楽しむ映画なのだ。そして、長瀬という女の子をなぜ竹内がダブルキャストで演っているのかも、すぐにわかる。彼女がいっしょにいる叔母(香川京子)にはピアニスト娘がいたが、12年前に病死した。もうこれ以上は書かないほうがいいだろう。
◆わたしが一番感動したのは、いまは廃品回収の仕事を散漫にやって隠遁している瀧本(香川)にもう一度「和火」をやってほしいと思って訪ねた長瀬(竹内)が、すべてを投げてしまっている瀧本の態度に怒り、彼の頬にビンタを食らわすシーン。これ、本気でやったのではないかな。役者としてのリキが入っていた。
◆観客にはその仕掛けがわかっている予定調和をどのように整合させるかがこの映画の決めてとなるが、それは、かなり成功していると言ってよい。
(松竹試写室)



2004-04-26

●ディープ・ブルー (Deep Blue/2003/Andy Byatt & Alastair Fothergill)(アンディ・バイヤット&アラステア・ファザーギル)

Deep Blue
◆「自然」を撮ったものに関心が薄いわたしだが、「動物」が中心らしいので、渋谷まで足を延ばした。銀座からすると、渋谷は遠い。心理的な関数もからんでいる。渋谷は、もうエクスプレッショニストのガキの街になってしまい、レコード屋ぐらいしか面白い場所がないから。結果は、なかなかユニークなBBCのドキュメンタリーであった。
◆28年間海専門の写真家・中村征夫が、この映画を見て、「自分はいったい何をやってたんだろう」と「自責の念にとらわれてしまった」とプレスに書いているが、たしかに中村氏の「環境ビデオ的」な海とは全くちがう。地上以上に熾烈な生存競争のある世界。しかも、それをあたかも魚がカメラを持ったかのようなスピード感と身のこなしで撮っている。
◆かねがね、わたしは、戦争を見ても、また、大きな駅の雑踏を見ても、人間と微生物とのあいだには、差などないという印象を持ってきた。顕微鏡で見る細胞分裂や血液のなかでの白血球と細菌との闘いと、生き物同士の闘い、人間と人間との闘い、殺人や暴力、集団での行動様式・・・これらのあいだには、基本的なちがいはないのだと思う。だから、人が人を殺さないのは、同族の生物の多くが通常共食いをしないのと同じ程度のことにすぎず、その一方で人間は、地球上のさまざまな生物を殺して食用に供したり、何かの用途に用いている。
◆雲を突き抜けると、広大な海が見える。カメラはさらに海面に降下し、海中を映す。無数のイワシの群れが高速に回る巨大な渦を作りながら泳いでいる。そこに、空中からアホウドリが急降下してイワシをくわえる。そいて、イワシからすれば巨大なマカジキやイワシクジラがあらわれ、大量のイワシを飲み込む。こうなると、「弱者」とは何なのかという気持ちになる。食われるために存在しているのか、と。しかし、1トンもの目方があるシロイルカにしたところで、天敵がいる。北極熊や白熊だ。熊は、氷に割れめを作り、魚を捕る。
◆群れで行動し、ラッコ、アザラシ、アシカ、ペンギンなどのとりわけ子供を捕獲し、食するシャチの行動は、人間の盗賊や強盗もまだ「なさけ」に満ちているように見えるが、別にシャチが非道なわけではない。しかし、シャチの群れが、コククジラの親子を追いかけ、親子を分離してから、子の方を集団でいためつけ、水中に引き込んで窒息させるシーンは、すさまじい。しかも、シャチが食べるのは、その子クジラの舌と顎だけなのだ。引き離された親クジラは無事だったが、13カ月かけて育てたわが子を失い、孤独に泳いでいくのだった。とはいえ、人間は、もっと組織的なやり方でさまざまな動物を捕まえ、殺し、その舌だの肝だのを食しているのだから、こんなシーンを「すさまじい」と驚いてもいられないし、戦争が終ることがないのもわかるような気がする。
◆エイのひれに付属品のうようにこびりついている魚がいるが、おそらく、こういう寄生虫的パラジット生活が、最も「非暴力」的な生き方なのかもしれない。これらにしたところで、海中のプランクトンを食べるのだから、ミクロレベルでは殺生をしている。集団を組まないで大海原を放浪しているかに見えるウミガメは、エビなどを食べるようだが、シャチとくらべれば、「非暴力的」に見える。しかし、ほとんど自然物のように海中にあって、そう攻撃的な感じを見せずに口を開け、どば~っと、海水ともども何10トンというエサを飲み込んでしまうシロナガスクジラはどうだろう? その姿は、台風や竜巻に対して「暴力」を云々するのに似て、暴力・非暴力や殺生の概念があてはまらない感じがする。
◆ペンギンというと、おっとりと氷の上をよちよち歩いている姿ばかり見せられてきたが、この映画は、海を猛烈なスピードで泳ぎ、そこからいっせいに、突き立った氷の崖の上に向かって宇宙飛行のような姿勢で勢いよく飛び移るコウテイペンギンの姿も見せる。氷の上に胸だがちんと着陸し、それから(よく見る)歩行を始めるのである。これは、「おっとり」などという動物ではない。
◆この映画には、深海の実に異郷的な(が、エレクトロアートのように人工的でもある)世界も映る。「深海を訪れた者は、宇宙を訪れた者より少ない」というナレーション(ナレイターは、最近『ワイルド・レンジ』の悪徳牧場主の役でお目にかかったマイケル・ガンボン)があるが、おそらく、人間は、地球の異変が起こったとき、宇宙によりも、深海に逃げるのではないだろうか? 宇宙事業は、いずれ、海底事業にシフトするような気がする。
(東芝エンタテインメント試写室)



2004-04-20

●ワイルド・レンジ (Open Range/2003/Kevin Costner)(ケビン・コスナー)

Open Range
◆開場時間より少し早く行ったせいか、列のトップから2番目だった。ヤな気配。開場3分まえになって会社の人が到着。そんなに多い客をあてこんでいないのか? 上映時間が近づいても、席はかなり空いている。先ほどから、すぐ前の席の人が扇子を使い、抹香臭い風がわたしの鼻をかすめる。アレルギーが起きそう。右隣には巨漢が座っているので、風を避けられない。席の面積自体が狭すぎるのだ。後ろを見たら、全部空席だったので、椅子の背をまたいで後ろへ移動。不作法を失礼。
◆作りが地味なのと、ケヴィン・コスナー特有の(悪く言えば、20分ぐらい切り詰めたほうがよい、冗長な、よく言えばゆったりした)テンポで、とっつきにくいが、見ているうちにだんだん慣れる。コスナーの演技も悪くないし、ロバート・デュバルがユーモアをたやさないキャラクター(ボスのスピアマン)を圧倒的な存在感で演じているし、助演のアネット・ベニングがなかなかいい。銃撃シーンで、銃撃と銃撃との間隔がかなりあるのが、連射過剰の銃撃シーンばかり見せられている者にとっては、新鮮。コスナーは、「古典的」な西部劇を撮りたかったのだろう。
◆ボス(デュバル)、チャーリー(コスナー)、バトン(ディエゴ・ルナ)、モーズ(アブラハム・ベンルビ)の4人は、野生の牛を放牧しながら西部の大平原を自由に移動する「フリー・グレイザー」(自由牧畜業者)である。が、今回幌馬車を停めた地域の近くの町ハーモン郡を牛耳る牧場主バクスター(マイケル・ガンボン)は、フリーな牧畜業者を敵視し、この町をボスらが牛を連れて通過するのを許さない。そして、町に買い物に来たモーズを痛めつけ、グルの保安官によって留置される。返って来ないモーズを心配したボスとチャーリーが、町に来て言われたことは、「時代が変わった。もうフリーの時代ではない」だった。ここから、バクスターとその手下たちとの対立が激化して行く。バクスターは、実は、町民にとっても抑圧的な存在であり、この闘いは、やがて市民戦争の様相を呈して行く。
◆ボスは、「この国を旅するのに許可がいるのか?!」と怒るが、バクスターが、「フリー・グレイザー」を「時代遅れ」と見なすのは、必ずしもまちがってもいない。時代は1882年。アメリカでは、1876年にグレアム・ベルの電話機、1879年にエディソンの蓄音機、1879年に同じくエディソンの白熱電球がそれぞれ発明され、テクノロジーのレベルでの大変革が起きはじめていた。こうした技術は、個人の力を発揮することと個人の自由を大幅に広げたが、その個人は、個々人全員ではなくて、ある特定の、一握りの個人だった。むしろ、特定の個人への権力集中は強まり、「普通」の個人の「自由」はせばめられた。組織の中央集権化は進み、ある一定の範囲(それが「プライベート」な領域と呼ばれる)では従来と比較にならない「自由」が認められたが、その代わり、臨機応変の対応・交渉による関係よりも、あらかじめ定められて規則や契約による関係が重視されるようになる。
◆ブッシュ政権になって、ホームランド・セキュリティ(祖国保安)の名のもとに、個人の「プライバシー」は犯されるようになった。ブッシュは、たしかにこの映画のバクスターのように低俗で強欲だが、ブッシュもまた時代の申し子である。テクノロジーの大変化は、いつの時代にも、人々に大きな決断を要求するが、その決断がテクノロジーの本質にかなったやり方でなされることはない。逆に、現状を維持するために、せっかくテテクノロジーが目くばせしてくれる可能性に目をつぶってしまう。そして、「保安」の名のもとに、テクノロジーのポテンシャルを抑止してしまうような規制をより徹底させてしまう。テクノロジーは、こうして、数世代の逡巡と無駄な時間をすごしたのち、やっとその本来のポテンシャルを発揮するというわけだ。しかし、そのときは、すでに新しいテクノロジーが個々人の自由や創造性にとってすぐれた可能性を示唆する時代になっている。このくりかえし。
◆バクスター一派との闘いを2人だけで闘わなければならなくなったボスとチャーリーが、雑貨屋に行くシーンがある。そこで、ボスは、店の主人が自分では食べたこともないと言うスイス製の高価なチョコレートとキューバのハバナ葉巻を買う。チャーリーは、モーズの傷の治療で世話になった医師の助手をしていた女性スー(アネット・ベニング)のために茶器のセットを注文しようとカタログの覗く。チャーリーは、スーが、医師の妻ではなく、独身の姉だということを知り、急速に心をよせるようになった。スーの方も、(傭兵や用心棒として沢山の人間を殺してきた過去を持ちながら)「やさしい」チャーリーに心惹かれる。専制的な人物、平凡な暮らしを望む町民、その「悪」と対決するよそ者、その男に恋する女――古典的な西部劇のキャラクターはすべてそろっている。
◆アネット・ベニングは、ずっと独身を通してきた女性が、どこか胸に響くところのある男に出会い、心の内では彼への思いを熱くしているが、それを微塵も顔にあらわさない「古典的」なタイプを見事に演じる。ただし、最後の方で、チャーリーから「結婚してほしい」とプロポーズされたとき、顔面にぱっとあらわした笑いはまずかった。このとたん、彼女は、現代人になってしまった。抑えていたものが一挙に取れた演技であるとしても、あんまりうれしそうで、しまらない。
◆バクスターの発言のなかに、「アイルランドくんだりから来て、牛を追っかけやがって」というのがあった。つまり、彼は、人種差別主義者という設定なのだ。ボスのもとで働くバトンは、メキシコ人、モーズはおそらくユダヤ人だろう。聞き間違いかもしれないが、医者もユダヤ人だと判断できる台詞があったような気がする。こうしたマルチカルチャリズムを肯定するボスたちと、白人至上主義者との対立。
◆闘いが出てくるアメリカ映画を見ると、わたしは、悪い癖で、映像世界と現時点のアメリカとの関係に思いをはせてしまう。バクスターの風貌は、捕まった「サダム・フセイン」にちょっと似た風貌(意図的?)をしており、コスナーのやったことは、イラクの「民主化」とダブるのかなとも思った。ブッシュは、世界を「自由」に「放牧」しようとしてフセイン政権と対立し、フセインのクエイト侵略を機に湾岸戦争を起こし、それがイラク戦争まで来るのだから、「自由」の規模をアメリカからグローバルなレベルに拡大すると、コスナー/デュバルもブッシュもあまりちがいがないような気がする。しかしながら、コスナー/デュバルの闘いは、アメリカの内部に壁を作る者に対する闘いなのだから、バクスターは、やはり、ブッシュとダブらせた方が適切だろう。
(ヤクルトホール)



2004-04-19

●シルミド (Silmido/2003/Woo-Suk Kang)(カン・ウソク)

Silmido
◆ハードな作品だ。韓国という国は、この50年間に、すべて映画になるようなすごいドラマを経験した。そして、これまで秘密や情報操作のとばりにつつまれていたことが、いま、一挙に明るみにだされつつある。映画の素材がいくらでも社会にころがっているということは、映画を通して見た経験が、ふたたび「現実」にフィードバックするチャンスにもめぐまれていることを意味する。イラクでの人質事件に対する日本の国家としての対応は、日本の国家権力の陰湿な面をさらけだしたが、韓国は、このまま行けば、日本より魅力ある国になるだろう。
◆事実の存在が撮影を押し上げ、それが迫力を生み出している一方で、その迫力のゆえに現実に起こったことの本質が見えなくなっているようなところもないではない。現実は、いつもさまざまな別のアプローチを可能にする。だから、この映画が、現実にあった「シルミド」事件のすべてではない。
◆北朝鮮人民軍特殊部隊の31名が、海から韓国のパク・チョンヒ大統領のいる青瓦台の近くまで侵入するシーンと、父親が北に亡命したために屈折した人生を歩むことになった男カン・インチャン(ソル・ギョング)が、殺し屋としてヤクザの親分のパーティに忍び込んで、短刀で刺す、という二つの事件が同時に描かれるところから、この映画は始まる。侵入は、1968年1月21日に実際に起こったことであり、パクの暗殺は失敗し、特殊部隊の大半が殺された。カンの事件は、おそらくもっと前に起こされたはずだが、彼は逮捕され、死刑の宣告を受けた。
◆パク・チョンヒは、1979年にKCIAの部長に会議の席上で暗殺されたが、その後、韓国では軍のクーデターが起こり、チョン・ドファンが大統領となった。彼は、韓国の経済を急成長させたが、光州事件のような弾圧も辞さなかった。この時代の屈折は、『殺人の追憶』で鋭く描かれている。パク・チョンヒの弾圧に苦しみ、『KT』でも知られる金大中事件でひどい目に遭ったキム・テジュンが大統領になってから、韓国は、パク・チョンヒ時代の弾圧と秘密の政治を脱する。最近、パクの長女のパク・クネがハンナラ党から立候補したが、あの時代の暗い思い出は、彼女を見ても、よみがえらない。もう、韓国は、『純愛中毒』のようなヤッピーもいる国になった。
◆韓国には、パクの暗殺もそうだが、やるときにはやるといった大胆でドラマティックな気質が生き残っているのだろうか? 青瓦台襲撃事件のあと、韓国空軍に密かに、この事件の報復として、韓国の特殊部隊によるキム・イルソン暗殺が計画された。やられたらやりかえせでは、最近、パレスチナのハマスの指導者を2人も国家の名のもとに堂々(?)と暗殺してしまったイスラエルにはかなわないが、この計画は、軍とは関係のない重刑の獄中者をシルミド(実尾島)という無人島に集め、空軍准尉チェ・ジェヒョン(アン・ソンギ)の率いる指導官から、死の特訓を受けさせ、『ボーン・アイデンティティ』のマット・デイモンも真っ青な殺人機械を作り、北に潜入させるというもの。1968年4月に作られたこの秘密部隊は「684部隊」という。
◆最初憎みあっているカン・インチャン(ソル・ギョング)とハン・サンピル(チョン・ジョエン)、指導官と集められた者たちとのあいだに、次第に不思議なきづなが出来ていくところを、決してお涙頂だい的には描かないところがいい。『MUSA 武士』でも渋い演技をしていたアン・ソンギが、指導官のリーダー、チェ・ジェヒョンを演じ、ここでもいい味を出している。彼を補佐する指導官チョも、悪くない。
◆過酷で残酷ではあるが、訓練のあとに出る食事が、豊かなのが、印象的。それが、終りの方では、急に痩せる。これは、684への予算がカットされたことを意味する。食事のシーンをないがしろにする映画はまずダメだといっていいが、この映画は、食い物の映像的使い方がうまい。すべての訓練がおわった日、酒がふるまわれるが、それは、どぶろくのようなものらしい。大きなやかんに入っている。
◆すでに知られているように、684部隊の計画は、上層部からの指令で中止になる。このとき、部隊のメンバー(31人が訓練で生き残った)はどうしたか? そして、指導官らは? 訓練の最終日、部隊員たちは、「生きて帰って来る」ことをみんなで約束する。それは、不可能かもしれない。しかし、彼らは、キム・イルソンを殺し、朝鮮半島の統一を達成し、自分たちが「英雄」になるのだと教え込まれた。実際には、彼らの戸籍は抹殺されていたのだったが。
◆彼らの誰一人として「左翼」はいなかったのだが、彼らが連帯感を共有する歌が、「赤い旗」の歌であることは面白い。この歌が、この映画の節目、節目で何度か歌われる。歌詞が、状況との関係で意味深い。
(東映7階試写室)



2004-04-14

●トスカーナの休日 (Under the Tuscan Sun/Audrey Wells)(オードリー・ウェルズ)

Under the Tuscan Sun
◆実は、この映画、今日見るつもりはなかった。また『パッション』に振られたのである。今日は、1時間まえに行ったが、ヘラルドの試写室があるビルの入口を入ろうとしたら、なかから出てきたX氏が親切に「2時間まえに一杯だって」と教えてくれた。じょうだんじゃない。こんな試写ってあるかよ。聞くところによると、キリスト教関係者をたくさん招待していて、その人たちが先陣を切って駆けつけるらしい。はぁ、信仰のある人たちにはかないません。恐れ多いから、試写は遠慮し、公開後に見ることにします。で、路上で試写状をめくり(そういう人が何人も)、この映画を選ぶ。同じ銀座では見たいものがなかった。日比谷線に乗って六本木へ。ふぅ、キリストの呪い。
◆予想はしていたが、それ以上に良質な作品だった。そんなに深みのある作品ではないが、見て解放された気分にさせられる。原作(フランシス・メイズ)があるのだが、離婚したばかりの作家・批評家フランシス(ダイアン・レイン)に、監督のオードリー・ウェルズはかなり波長を合わせている。女同士の連帯? フランシスの友達で、レズのパティを演じる韓国系のサンドエラ・オーがなかなかいい。
◆深刻ではないが、離婚の味気なさがよく描かれている。離婚したフランシスが、とりあえず泊まるホテルは、通称「離婚収容所」と呼ばれ、離婚したばかりの男や女が泊まっており、夜な夜な壁の向こうから泣き声が聞こえてくる。さらに滅入ってしまう彼女に、親友のレズ、ゲイの仲間がトスカーナへのパック・ツアーにいっしょに行かないかとさそう。パティは、レズの相手と暮らしており、人工受精で妊娠中。そのレズカップルは、一見、しあわせそう。
◆躊躇したのち、思い切ってゲイのツアーに加わったフランシスは、イタリアで解放感を味わう。ひまわりが一面に咲く畑、美しい雲が浮かぶ紺碧の空、冷えた白ワイン、オリーブの実、色とりどりの果物の並ぶ市場、まあ、グラビア雑誌風の描写ではあるが、イタリアに行きたくなる光景。彼女以外はみなゲイ(日本では「ゲイ」は男にしか言わないが、英語では、総称で、メイル/フィーメイル・ゲイで区別する)なのもよかった。
◆バスのなかから外を見ていたフランシスは、コルトーナという町の古い一軒の家の壁に「売り家」という表示を発見し、ひらめく。この家を買って住んだらどうだろう? 次の瞬間、彼女は、ツアーを中止して、スーツケースを持ってバスを見送っていた。しかし、不動産屋のマルティニ(ヴィンセント・リオッタ)に案内されて会った家主の老伯爵夫人は、気難しく、フランシスより先に物件を見に来ていたドイツ人のカップルも断り、相手が文句を言うと、「ファシスト」とののしる。フランシスにも、いまいち決心がつかないと言い、「神のお告げがないと売らない」と頭を振るのだった。あきらめた彼女が、歩きかけたとき、家のなかに鳥が迷い込んで来て、フランシスの頭に糞をする。そのとたん、伯爵夫人は、「神様のお告げだ」と、物件を手放す決心をする。こういう感じは、いかにもありがちな絵に描いた「イタリア」という印象を受けるかもしれないが、わたしも、その昔、ローマの民宿のようなホテルで、この映画の「伯爵夫人」のような老婆と長期滞在の部屋代の交渉をしていて、全然わからない理由でいきなり、半値ぐらいで泊まれてしまった経験がある。
◆300年まえのこの家を改築するために不動産屋から紹介されてきた「職人」は、ポーランドの移民者で、休憩時間には本ばかり読んでいる大学教授風の男やまだ思春期のおもかげを残す青年もいる。最初はぎごちない(ろくに工事も出来ない感じもあり)彼らとの関係が、次第にうちとけて行くくだりもいい感じに描かれる。彼女が食事をつくり、いっしょに食べるシーンがすばらしい。この映画でも、何度か料理や食材のシーン(ただし、日本のテレビでタレントが一口いただいて「ウーム」とか、作り方を見せるようなシーンはない)がたびたび出て来るが、なぜイタリア料理というのは、ひとをしあわせにするのだろうか? わたしも、イタリアンには狂いぱなしである。
◆住みたいと思った場所で、気にいった古い家に住むなんて、申し分ないことだが、落ち着いてくると、淋しさがつのってくる。不動産屋のマルティニは、「不動産屋」というよりも、苦労人のホテルのマネージャーといった雰囲気の男。フランシスは、ついつい、彼が来たとき、彼の胸に顔をうずめて泣きたいという顔で泣いてしまう。彼は、やさしく彼女を抱き、なぐさめたのち、いい台詞を言う。「おくさん、もう泣かないでくださいね。また泣かれると、妻を裏切ることになるから」。こういうクールさって、いいでしょう。
◆この映画では、このマルティーニは、特別のあつかいを受けているような気がする。フランシスがツアーのときに街で見かけ、やがて友人になる、いつも目立つ帽子をかぶった女キャサリン(リンゼイ・ダンカン)は、16歳のときにフェデリコ・フェリーニに会い、アイスクリームを買ってくれて、「子供のような熱意があれば、道は開ける」と言われ、それ以来、フェリーニ的な人生を送っている(らしい)。ある日、彼女は、フェリーニの映画『甘い生活』(La Dolce Vita/1960/Federico Fellini)の世界と彼女の現実とが混濁したかのように、街の噴水のなかで「パフォーマンス」をしている。アニタ・エヴァーグがトレヴィの泉で演じるシーンだ。見物人のなかにフランシスとマルティーニがいる。彼女が言う、「映画ではマルチェロが彼女を水のなかから連れ出すのよ」。すると、マルティーニは、服のまま水のなかに入り、キャサリンを救い出す。キザぽさなど感じさせない妙に感動的なシーン。
◆フランシスは、街で偶然出会った男マルチェロ(ラウル・ボヴァ)と恋に陥る。急に話が甘ったるくなったので、やばいと思ったが、そうはならなかった。しあわせそうだったゲイのカップルのパティも、ある日突然、大きなおなかをかかえて、サンフランシスコからコルトーナにやって来る。いきなり泣き出す彼女の話では、子供の親になることの決心がつかず、相手の女が去って行ったという。
◆この町で、この家でフランシスが経験するさまざまな人間関係を見せられながら、次第に伝わってくるものがある。それは、サンフランシスコではあたりまえだった「独占する愛」とはちがった、もっと自然な愛の形、人間関係がこの町には確実にあるということ。この家に住みはじめたときから、フランシスが毎日、窓から外を見ると、同じ時間に、一人の老人(あのマリオ・モニッチェリが演じている!)がやってきて、壁のくぼみに新しい花を生けて帰る。目が合っても、にこりともしない。その老人が、最後のシーンで、笑みを浮かべ、帽子を上げる。この変化のなかに、この映画が経験させようとするすべてがある。
(ブエナビスタ試写室)



2004-04-13

●キル・ビル Vol.2 (Kill Bill: Vol.2/2004/Quentin Tarantino)(クエンティン・タランティーノ)

Kill Bill: Vol.2
◆公式的には2回しか試写をやらないというので、混むことを予想し、開場の45分まえにマリオン9階の開場におもむいたが、すでに8階まで列が出来ていた。相当の期待。知り合いの顔もあちこちで見えたが、席でおとなしくダグラス・マグホールの『ナオテクノロジー・ルネッサンス』(アススペクト)を読む。この本によると、「『想像力』だけが唯一のレジャーになる日が来る」かもしれないという。
◆映画は、Vol.1にくらべると、多彩さに欠けている。決闘・格闘の仕掛け、映像の凝りも弱い。場内から、前回はしばしば聞かれた、納得と意外さへの感動の笑いはほとんどなかった。ハットリ・ハンゾウの刀も登場するが、見せ場は、刀ではなく、この映画の基調となる中国の老僧パイ・メイから伝授された空手のように指を使う必殺の技「五点掌爆心拳」。これをくらった相手は、五歩歩いたのち、内蔵が破裂して死ぬという。
◆今回は出づっぱりのビルを演じるデイヴィッド・キャラダインは、67歳とは思えぬ若さで、若いユマ・サーマン演じるザ・ブライドことブラック・マンバの(元?)恋人役を演じている。ときどき、かつて『ウディ・ガスリー わが心のふるさと』(Bound for Glory/1976/Hal Ashuby)で見せたような放浪者的な雰囲気を残している。だから、この映画では、スターリング・ヘイドン風の悪役の表情を見せるが、全体としては、あまり悪辣な印象は薄いのである。とのため、Vol.1では、ユマが復讐する必然性が(姿をあらわさないだけ)強まったが、いざ姿をあらわしてみると、一体こいつのどこが悪いのかという感じになってしまう。
◆まあ、その分、親歳ほどもある男と若いザ・ブライドとの屈折した愛は「美しく」描かれてはいる。最後の再会から決闘にいたるシーンは、この映画のなかで最もタランティーノ的形式美にあふれている。
◆Vol.2でも、藤田敏八監督、梶芽衣子主演(南原宏治や岸田森のような怪優や、伊丹十三も出ていた――みんな故人だ)の『修羅雪姫 怨み恋歌』のテーマソング(「怨み節」)がシメになっているが、結局、この映画は、「女囚さそり」シリーズへのオマージュであることをはっきりさせた。
◆タランティーノは、いつもそうだが、この映画でも、たとえば「日本人の怨みは怖い」とか、「アメリカ人の傲慢さ」というようなくだりがあるが、ここから、アメリカの現在への暗黙的な関係を予断することはむずかしい。そういう作りにはなっていない。それは、それでいいのだが、それなら、Vol.1のように映画美的な形式性にもっと強める必要があった。
◆ザ・ブライドもビルもエル(ダリル・ハンナ)も教えを受けたパイ・メイを演じるのは、ゴードン・リュー。Vol.1でもジョニー・モーを演じていたが、今回の役は「老僧」である。長い白髪のあいだから見える皮膚は中年のものであって、とても老人には見えない。それが、キャラダインのようなしぶい「若さ」ならいいが、全然しぶくない。そのくせ、言うことや態度は「老人」のもの。これは、ミスキャスト。
◆パイ・メイの寺でザ・ブライドが修業するとき、茶わんに盛ったご飯を箸ですくえなくて怒られるシーンがある。中国が初めてではないはずだし、箸なんてすぐ覚えられるはずだから、このシーンのたどたどしさは不自然。
◆最初のほうで、Vol.1の紹介をかねて、虐殺の起こるエル・パソの教会のシーンが、より詳細に描かれる。画面は白のコントラストの強いモノクロ。ここで結婚式のリハーサルをするのだが、オルガンンを弾く役(このシーンでは弾かない)の黒人がオルガンに向かってすわっており、タバコをぷか~と吸う。その煙が意味ありげに画面全体に拡がる。この黒人プレイヤーを演っているのが、何とあのサミュエル・L・ジャクソン。
◆ここで、ザ・ブライドが、外に出ると、そこにビルがいる。愛し、自分の子供を宿したザ・ブライドが、他の男と結婚しようというのだから、心おだやかでないはずだし、そういう設定になっているのだが、キャラダインはそういう屈折を表現しない。それは、この男の性格を示唆しているようにも見えるが、キャラダインという「善人」俳優の限界であるようにも見える。
◆エルの片目はどうしたのかが、わかるが、Vol.1以来、何か凄く残酷なことを仕掛けるのではないかと思わせるエルは、見せ場でもあっけない。とにかくこの編、あっさりしすぎている。アイデアが尽きた?
◆ザ・ブライドに岩塩を詰めた弾を打ち込んで生け捕りし、墓地に彼女を生き埋めにするバド(マイケル・マドゼン)も、あっけない死に方をする。Vol.1でも出てきて、「おれらは復讐されても当然なんだ」といった変に悟り切ったことを言うバド、タランティーノのお好みの役者マドセン、こういうあつかいにはがっかり。なお、ザ・ブライドが生き埋めにされる地面の前には、「Paula Schultz 1823-1898」と記された墓碑銘がある。これは、ジョージ・マーシャルのB級コメディ『The Wicked Dreams of Paula Schultz』(1968)を指示しているらしい。
◆Vol.2ではっきりするのは、タランティーノにおける家庭観か? ザ・ブライドは、ビルが彼女に自分の女になって「家庭」を作ることを拒否し、そのために残酷な仕打ちを受けた。彼女の闘いは、そうした強制への「復讐」であった。彼女が自分の幼い子供と生きるということを暗示してこの映画は終るが、これは、彼女が家庭を肯定したことにはならない。ビルは、3人でいっしょに暮らすことを求めた。それを封殺して、彼女は、2人で生きる道を求める。娘と彼女が『子連れ狼』のビデオを見るシーンがあって、笑わせるが、彼女は、これから定住するつもりはないだろう。
◆通常、ハリウッド映画は、安定した家庭を壊されたために「復讐」するというのが定石である。復讐が成功した主人公は、ふたたび家庭を取り戻す。家庭は、安住の地というわけだ。この論理を国家にまで拡大したかのような国家観がアメリカにはあり、ブッシュは、そのロジックでアフガンとイラクを攻撃した。しかし、家庭/国家という定住志向とは異なる生き方の伝統もアメリカにはあるし(まさにキャラダインが演じたウディ・ガスリーがその象徴だ)、そんな伝統とは無関係に、タランティーノは、家庭/国家を否定する。しかし、ザ・ブライドは、流れ者としては、宇宙飛行士かジェイムズ・ボンドのような正確さとスピードで世界を移動し、そういう移動の自由を拘束するビルも、「毒蛇暗殺団」という名のわりには、トランスナショナルな感じはしないし、「自由な個人」を抑圧し、振り回す手管に本当の恐ろしさが感じられない。これでは、ビルは、たかだかG・W・ブッシュといったところか? まあ、ブッシュは、ビルのような最後を遂げるべき存在だとは思うが。
(丸の内ピカデリー1)



2004-04-09_2

●レディー・キラーズ (The Ladykillers/2004/Ethan Coen & Joel Coen)(イーサン・コーエン&ジョエル・コーエン)

The Ladykillers
◆半蔵門からふたたび銀座にもどる。まだ時間があるので、ビックカメラのなかを散歩し、直久へ。カウターに座り、ラーメンを注文したら、後ろから声をかけられた。高崎俊夫さんじゃないか。席を移動してしばらくおしゃべり。高崎さんも目的は同じであることがわかり、いっしょに新橋へ。
◆独特のファニーさがだんだん薄らいできたコーエン兄弟の新作。今回は、ウィリアム・ローズの原作にもとづく同名の作品(邦題『マダムと泥棒』The Ladykillers/1955/Alexander Mackendrick)のリメイク。トム・ハンクスの役を旧作ではアレック・ギネスが演っていた。旧作がコメディの傑作だとすると、本作はダジャレ的演技とプロットのドタバタ。旧作でのピータ・セラーズの位置を埋める役者はいない。
◆コーエン兄弟には、古典的な意味でのコメディ映画は作れない。この作品は、カジノの金をごっそり強奪することを計画した「プロフェッサー G・H・ドール」が、カジノまで地下道を掘るのに好都合な家を借り、仲間と犯行を実行するが、黒人の老家主(イルマ・P・ホール)に見つかりそうになるすったもんだを描く。そのドタバタは、少しもおかしくはなく、映画の結末部分では、コーエン兄弟の趣味が出て、それまで無理して維持してきた「コメディ」的要素が、ブラック・ユーモアに転じる。そう、彼らはブラック・ユーモアなら得意なのだ。しかし、ここでは、バランスがわるいため、そのブラッック・ユーモアも、「ユーモア」としては、ストレートすぎ、どこか陰惨な印象を残す。
◆トム・ハンクスは、それなりにこなしているが、彼は、「プロフェッサー」のような、したたかさを背後に隠したキザな喜劇的主人公よりも、『フォレスト・ガンプ』のようなちょっと「タリナイ」喜劇的主人公を演じるほうがうまい。その点で、この映画で端役ながら一番強い印象を残したのは、ドジな殺し屋「将軍」を演じたツィ・マーだ。終始無言の彼は、市川昆監督のようにいつもタバコをくわえていて、タバコ嫌いな家主があらわれると、火のついたままのタバコを手品のように口のなかに「しまってしまう」。そのすっとぼけた味がなかなかいい。
◆コーエン兄弟の趣味で、今回も、場所を南部に設定しており、教会シーンでゴスペルやブルースをふんだんに聴かせるが、教会シーンは、『ブルース・ブラザース』のまねの域を出ない。
(ヤクルトホール)



2004-04-09_1

●ドーン・オブ・ザ・デッド (Dawn of the Dead/2004/Zack Snyder)(ザック・スナイダー)

Dawn of the Dead
◆ヘラルドへ『パッション』を見に行ったが、30分まえなのに満員で入れなかった。ここは、消防法の規定で補助椅子と立ち見ができない。緑の非常灯がなく、特殊な規定になっているらしい。さて、夕方の予定が決まっているから、ぶらぶらするのは惜しい。昨日は、ベルリンのリブートFMの臨時イヴェント「デジタル・エッグス」にストリーミングで参加してくれといわれ、つきあい、徹夜だった。折しも、日本人人質事件。国家自体が意味を失っている時代に、(本当はブッシュ政権の圧力で)「国家の正義」とか「国益」とかを旗印に自衛隊を派遣し、人命を犠牲にしても派遣をやめないという小泉政権。リブートFMは、うつわとしてはいいので、「ポリティカル・ミックス」をやる。DJミックスが音楽を使うところを、ブッシュの最近の発言や映画のなかで戦争について語られた印象的なナレーションやディスクールをあらかじめクリップし、ノイズをかけながらミックスした。というわけで、あまり眠らずに試写に来たのだ。にもかかわらず、半蔵門まで走ることになる。むろん地下鉄で。
◆ジョージ・ロメロへのオマージュだというので期待したが、ロメロを越えているところは全く見出せなかった。ただし、この世の終りという終末への絶望感とニヒリズムは、ロメロ作品よりは強まっていることはたしか。ここでは誰も生き残れない。これは、時代がそうさせたのだろう。
◆病院で異常な感じの患者に会ったのを気にしながら自宅へ帰った看護婦のアナ(サラ・ポーリー)は、愛する夫(ジャスティン・ルイス)が、それから数時間後にゾンビに変身した隣人に襲われ、そらから町中がゾンビだらけになることは予想しなかった。町をやっとのことで脱出した彼女は、警察官のケネス(ヴィング・レイムズ)、麻薬の売人のアンドレ(メキ・ファイファー)らと出会い、無人化したショッピング・モールに避難する。そこにはゾンビの襲撃をのがれたガードマンたちがおり、一瞬危険な雰囲気が流れる、アナたちは監禁されるが、やがていっしょに行動するようになる。
◆ショッピング・モールの向い側のビルに一人の男がおり、大きな板に文字を書き、コミュニケーションをとってくるシーンがおもしろい。やがて、彼とケネスが双眼鏡ごしにチェスをしたりもする。しかし、この男も最後までは生きのびることができない。食べるものが尽き、「腹が減った」というサインに、ケネスたちは食料を犬に結わえ付けて届けようとするが、犬を入れたとたん、そこにゾンビが殺到する。
◆危機に瀕したとき、陣頭指揮を取る者、卑怯にふるまう者、命ごいをする者、不幸としか言えない事故にめぐり遭う者、ラッキーな者、自分を犠牲にする者・・・・そういう典型が描かれているが、それらの成行きも、あくまでも典型にすぎず、斬新さはない。
(東宝東和試写室)



2004-04-06

●ブラザーフッド (Taegukgi hwinalrimyeo/2004/Je-gyu Kang)(カン・ジェギュ)

Taegukgi hwinalrimyeo
◆敵と味方との対決・闘争といったハリウッド的戦争映画ではなく、戦争が、同じ国、軍隊、家族・兄弟同士のなかにも無慈悲な溝をつくってしまうことをここまで迫った大型映画は少ない。映画のサイズが大きくなればなるほど、戦争映画は、それ自体が戦闘体制の形態をとり、戦争に対する批判の目は消えてしまうものだが、この映画はそれを越えた。
◆カン・ジェギュ監督が舞台あいさつ。司会はホテルのベルボーイのような服を着た「クロ」ちゃん。今日は、映画の性格上か、かなり神妙な感じだったが、監督の名を発声するときは、例によって、プロボクシングの競技者紹介のような爆発的な大声になってしまった。カン・ジェギュは、にもかかわらす終始控えめでさめた姿勢を崩さなかった。
◆時代は、1950年。ジンテ(チャン・ドンゴン)は、亡くなった父に代わって細々と靴屋を営み、弟ジンソク(ウォンビン)を学校に通わせている。貧しいながらも、そのまま行けば、彼は恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)と結婚し、ジンソクは大学に進学するはずだった。が、6月25日、ソウルの街にサイレンの音が鳴り響き、朝鮮動乱の勃発を告げる。北の朝鮮人民軍が停戦ラインの38度線を越えて、侵略を始めたのだった。家からの避難勧告が出て、ジンテらはとりあえずテグ駅までたどりつく。しかし、そこでジンソクは、急に軍人たちに拘束され、「18歳から30歳までの男子」はただちに徴兵されると告げられ、そのまま強制的に軍用列車に乗せられてしまう。ジンテは、弟はまだ18歳にはなっていないこと、徴兵義務は一家に一人であるはず(韓国には、家を守るためにそういう原則になっていたらしい)だということを主張し、とりあえずいっしょに列車に乗り込むが、逆に、そのために彼も徴兵のなかに加えられてしまう。(このあたり、戦争開始のどさくさの緊迫感がよく描かれている)。こうして、このときから、ジンソクの闘いがはじまる。
◆組織に巻き込まれた人間は、自分の自由を実現しようとするとき、その組織の上位に登ろうとする。それが、名声欲や物質欲の充足をめざす場合はありふれた話だが、兄ジンテは、不条理な理由で徴兵されてしまった弟ジンソクを家にもどすためだけに「戦功」をあげ、それと引き換えに上官から弟を除隊させてもらおうと考える。上官は、一応その約束をするが、そういう兄の魂胆は弟にはわからない。兄は、めきめきと兵士としての力をつけて行くが、究極の目的や魂胆がどうあれ、人は、一旦軍の組織に入ると、次第にその意識も感性も軍という組織に密着した非情で機械的なものにならざるをえない。戦争は、「強い」、「勇敢」な兵士を育て、優遇する。「弱い」兵士は落ちこぼれと見なす。「弱い」兵士である弟は、兄の変貌ぶりの異常さがわかる。まだ彼は機械にはなっていないからだ。軍のような一次元的組織では、「弱い」ということが、わずかな救いであり、そこにどれだけ「弱さ」が残っているかが、軍を殺人機械からわずかに遠ざける逆説的な可能性となる。しかし、兄には、そんなことはわからない。軍は、基本的に殺人機械だから。兄が弟を救うために武勲をあげようとすればするほど、兄への弟の心は離れて行く。この悲劇。
◆近年の韓国映画では、「北」と「南」を単純に敵味方の関係で切るような図式はない。この映画では、「北」との戦いが描かれるが、より強いスポットが当てられるのは、「内なる敵」との闘いである。中国の介入によって戦争が膠着状態に陥るなかで、韓国内部で、「反共」の意識が強まって行く。「アカ」を摘発する集団が生まれ、市民の総チェックがはじまる。ジンテの恋人ヨンシンが「連盟」に入会したのは、さもなければ食糧の配給を受けられなかったためだったのだが、そのために彼女は拘束され、処刑される。こういうことは、(第二次世界大戦のときの日本でもドイツでも)数多くにあり、多くの人が人知れず殺されていったはずだが、この映画では、その現場をジンテとジンソクが見てしまうというシーンが用意される。このへんが「映画」ドラマなのだが、まあ、いいだろう。多くの人が不条理に殺されてきたのだから、せめて映画と想像力の世界のなかでだけでもいっとき解放されてもいいからだ。
◆一介の靴屋の職人が短期間に軍人としての力をつけ、次々に武勲をあげるなどということも、現実にはありえないことかもしれないし、後半のある「予想外の出来事」も、やりすぎという感じがしないでもない。しかし、そういう「非現実性」は、この映画の「現在」が、今日であり、かつて激しい戦闘があった場所にたたずむ老ジンソクの「現在」の意識に合わせられているということによって、相対化されている。そのやり方は、『プライベート・ライアン』に似ている。過去の記憶は、想像や強調によって「非現実」的な要素を含み、実際にそうであったよりもドラマチックになる。それをいまの現実に引き戻し、再考をせまる。
(日比谷スカラ座)



2004-04-05

●ぼくセザール10歳半1m39cm (Moi Cesar, 10 ans 1/2, 1m39/2003/Richard Berry)(リシャール・ベリ)

Moi Cesar
◆上映まえに場内に「暗いチープ」な音楽とフランス語の語りが聞こえていた。すぐに映画のトラックからのものだとわかったが、これだとちょっとやばいなという気がした。しかし、映画が始まってみたら、同じ音が全然ちがって聞こえた。映画とはそういうものである。
◆オープニング・クレジットのバックで、マリア・カラスが歌うベリーニの歌劇『ノルマ』の有名な「清らかな女神よ」が流れた。なぜかと思ったら、主人公セザール(ジュール・シュトリュク)の母シャンタル(マリア・ド・メディルシュ)と父ベルトラン(ジャン=フィリップ・エコフェ)の部屋にマリア・カラスの本や写真がやたらあるのだった。おそらくシャンタルの趣味なのだろう。が、なぜ?
◆初めは、街なかの墓地での葬式のシーンだ。ダビデのマークの墓碑、かぶっている礼式帽と祈りの言葉から、ここに集まっている人々がユダヤ系であることがわかる。ベルトランもユダヤ帽をかぶっていたから、セザールの家はユダヤ系なのである。このことがわかると、彼の両親がいつも口喧嘩をしているのが納得が行く。ウディ・アレンは、『アニー・ホール』(Annie Hall/1977) や『ラジオ・デイズ』(Radio Days/1987)のなかで、ユダヤ系の家庭とアングロサクソン系の家庭の雰囲気の違いをコミカルに対比していたが、傾向として、たしかにユダヤ系の家庭の雰囲気はにぎやかである。
◆雨が降り、カメラが垂直位置からたくさんの雨傘を映すシーンは、ふと、『シェルブールの雨傘』を思いださせた。カメラの位置やフレームにはこだわっていて、視点は、すべてセザールの身長(1メートル39センチ)に設定されているという。ということは、つまりこの映画の世界は、セザールの視点から見られた、彼の自意識の世界だということである。この映像は、最初、疲れるが、次第に慣れてくるから面白い。
◆子供にとって、親の言動や行動が不可解に見えることがある。過剰な想像をめぐらせて、事実とはちがう、とんでもない思い込みをしたりもする。セザールは、父がしばらく家を空けることになったとき、パパはてっきり刑務所に入れられたんだと思う。彼の視点から描かれているから、その理由は説明されない。大人の側から見ると、それは、おそらく、出稼ぎに行ったように見える。
◆セザールには、学校に行かないマセた親友モルガン(マボ・クヤテ)と密かに恋心をいだいている同級生のサラ(ジョゼフィーヌ・ベリ)がいる。モルガンの母は、モロッコあたりの出身だろうか? 病院に勤めている。父親はいない。とても自立しており、セザールにポルノを見せてくれたりする。ジョゼフィーヌの両親は離婚しており、定期的に会いに来るひょうきんで騒がしい父親は、新しい恋人と暮らしている。ジョゼフィーヌの母は、ダライ・ラマの本を読んだりしている。
◆映画の話を「現実」に短絡させることはできないにしても、フランスでは、父親が収監されたような場合には、周囲も学校もその子供をいたわる習慣があるようだ。セザールは、自分の思い込みを学校で打ち明けたために、校長から呼ばれ、その日から、学校中の仲間が、顔お会わせると、「がんばれよ」とはげますのだった。日本なら、これは、絶対にないだろう。
◆このごろ映画ではフランスとイギリスにまたがる話がよく登場する。『スイミング・プール』もそうだったが、この映画もそうだ。モルガンが、「ジャーナリストだった」という会ったことのない父親への思いがつのり、落ち込む。いつも兄貴役だった彼が、そんなになるのを見たことがなかったセザールは、モルガンの父探しにいっしょにロンドンへ行くことにする。手がかりは母に宛てられた古い1通の手紙。しっかり者のジョゼフィーヌも加わり、3人はユーロスターに乗る。資金は、セザールが、父親のカードを拝借して、現金を下ろした。ジョゼフィーヌとセザールがモルガンの母親のところにお呼ばれしているということにして、留守をカモフラージュ。ここでも、ケータイが活用され、ジョゼフィーヌの母親は、ロンドンにいるジョゼフィーヌのケータイに電話したのに、彼女がモルガンの家にいると信じ込む。
◆この映画にあのアンナ・カリーナが出演するというので、期待した。一体どんな役で出るのか? 1年1本ぐらいの率では仕事をしているようだが、わたしは、近年は、ジャック・リヴェットの『パリでかくれんぼ』(Haut bas fragile/1995/Jaques Rivette)ぐらいでしか見ていない。いやあ、久しぶりに見たアンナ・カリーナは、ちょっとバッチかった。この映画では、ロンドンに住むフランス人の「パンクおばさん」という役柄だった。3人があてどもなく街をうろうろし、とあるカフェで食べ物を買おうとしているときに知り会う。凄いマスカラにサングラス。声はがらがら。タバコすぱすぱ(だったかな?)。このグロリアおばさんは、3人のお助けウーマンで、ジョゼフィーヌが変態にさらわれそうになったときも、救いだす。
◆この映画のクライマックスは、モルガンとその父親とが会うシーンだろう。センチメンタルな出会いでも、ドラマティックな出会いでもなく描いているところがいい。見知らぬ子供からいきなり息子だと告げられたとき、男は、どうするだろうか? その男がどういう人間性の持ち主であるかだけでなく、2人の関係がどうだったのかということが、最初の態度にあらわれざるをえないだろう。モルガンの父と母との関係は、彼がロンドンへの冒険を敢行したことを無駄には思わせるものではなかった。
◆映画を見終って、なぜ、セザールがユダヤ系なのかということがわかった。彼以外の子供たちの親は、みな離婚か離別を経験している。いま、家族は、マルチなものになっている。離婚も養子縁組も、単に引き裂かれた関係を意味するのではなく、ある種の「エクステンデット」(拡張された)家族の変種として定着しはじめている側面もある。これに対し、ユダヤ系のファミリーは、(これもステレオタイプ的な言い方にすぎないにしても)傾向としては、いがみ合いながらも、夫婦いっしょにいる率が高いように見える。それは、血縁的な意識が強いからである。
(スペースFS汐留)



2004-04-01

●白いカラス (The Human Stain/2003/Robert Benton)(ロバート・ベントン)

The Human Stain
◆ロバート・ベントンの作品を最初に見たのは、『クレイマー、クレイマー』だった。公開されてすぐニューヨークで見たのだが、まわりの観客がみな泣いていた。単親家族と子供の問題がニューヨークではあたりまえになっていたので、それを再確認させられたわけだ。この映画はヒットし、日本でもやがて「クレイマー現象」という言葉が生まれた。『プレイス・イン・ザ・ハート』は、もっと社会批判のはっきりした映画だったが、わたしには、いまいちという感じがした。今回も似た印象をいだいた。なぜだろう? ベントンは、ある意味では社会派なのだが、どこか歯切れが悪い。「大物」俳優が出ているが、燃焼しきっていないのも同じ。
◆主人公の大学教授コールマン・シルクを演じるアンソニー・ホプキンス、映画のなかでナレーションも行っている作家ネイサン・ザッカーマン役のゲイリー・シニーズ、コールマンが知り合う、屈折した過去を持つ女性ファーニア・ファーリーを演じるニコール・キッドマン、ファーニアの元夫で戦争後遺症におかされたベトナム帰還兵レスター・ファーリーを演じるエド・ハリス、4人とも「大物」俳優である。「大物」がこんなにいると、映画の「磁力」が分散するのではないか。おまけに、老教授コールマンの若いころの話が、ひんぱんにフラッシュバックして描かれるので、さらに焦点がぼける。
◆基本は、人種問題である。コールマンは、ユダヤ人として初めて古典教授の地位を得、マサチューセッツ州のアテナ大学の学部長をつとめるが、授業のとき、いつもさぼっている2人の黒人学生を「スプークス」(spooks)と呼んだために、教授会で糾弾され、辞職を余儀なくされる。彼が言ったspookは、「幽霊」(授業に姿をあらわさないので)という意味だったが、この語は、俗語で「黒人」を軽蔑的に指す。これが、ひっかかったのだった。彼の親しいアルリカン・アメリカンの同僚も彼をかばわず、彼は職を捨てる。彼の妻アリス(フィリス・ニューマン)は、「辞めた」という話をきくと、「あなた、ちょっとおかしいわ(something wrong)」と言って、彼にもたれかかった。それが彼女の最後の言葉になるのだが、something wrongと弱々しく言う言い方が印象的だった。
◆コールマンがspookという言葉を使って非難された時代は、1998年ということになっている。映画のなかで、クリントンがモニカ・ウィンスキー・スキャンダルの釈明をしているテレビが見えるが、80年代の初頭ぐらいまでの時期とくらべると、レーガン政権後期のアメリカでは、えらく「道徳的」、「家庭的」な傾向が強まり、うさんくささは、敬遠されるようになった。クリントンも時代がちがっていたら、あれほど話題にはならなかっただろうと話しながらキャンパスを歩いている学生が映るが、「ポリティカル・コレクトネス」(PC)という言葉が横行したのもこの時代だ。この言葉、わたしに言わせれば、一種の自粛概念で、「政治的正しさ」の名のもとに、弱者を守るポーズをとりながら、くさいものに蓋をする道具になっていた。コールマンも、「PC」の名のもとに糾弾されたのである。
◆映画では(原作はユダヤ系「大」作家フィリップ・ロスの名作)わかりにくいが、失意のコールマンは、ほとんど隠遁するように生活している作家ネイサン・ザッカーマンを突然訪ね、自分の失意の人生を小説にしてくれと頼む。映画で見るかぎり、2人は友人ではなく、この訪問は、突然の押しかけのように見える。が、とにかく、2人は親しくなり、コールマンは、しばしばネイサンのもとを訪れるようになる。映画のフラッシュ・バックは、論理的には、コールマンがネイサンに語ったことを彼が整理するという形態になっている。彼の学生時代のこと、ヴィレッジに住んでいたときに出会った女性スティーナ(ジャッシンダ・バレット)、(ナッツ・キングコールの「チーク・トゥ・チーク」がかかる)・・・。そして、場面が「現在」にもどり、コールマンがネイサンを誘って、踊り出す。
◆このシーンは、あれ、コールマンとネイサンはホモ関係なのかと一瞬思わせるが、自分に新しい恋人が出来たのがうれしくてたまらないということをあらわす表現だった。しかし、これは、映画的表現としても、あまり説得力がない。が、その女フォーニアが34歳年下だと聞いたネイサンがあきれると、コールマンが、真顔で、「ヴァイアグラのおかげなんだ」と言うところが可笑しかった。『恋愛適齢期』のハリー(ニコルソン)もヴァイアグラを使っていた。ヴァイアグラって、便利のようだが、半日ぐらい勃起がとまらなくなったり、ときには勃起しすぎて出血したりすることもあるらしい。閑話休題。
◆フォーニアは、キッドマンが演っているわけだから、設定としては「美しい女」ということになる。そういう女性が、インスタントなアルバイトをし、居住を転々として暮らしている。その理由は、エド・ハリス演じる元夫の暴力から逃れるためという設定。なるほど、論理的にはわかるが、映画は別に論理の辻褄をぴしぴし合わせる必要なない。そんなことをするとかえってつまらなくなる。これが、おそらくロバート・ベントンのダメなところだろう。が、それはともかく、キッドマンがあまり活かされていない。14歳のとき、継父がしじゅう彼女の下腹部に触るというアビュースをし、家を飛び出たということになっているが、これもいかにもありがちな話。ありがちでも、描き方と演じ方ではもっとちがっただろう。さらに、ベトナム帰りのレスター(エド・ハリス)と結婚し、娘を得たが、その娘が火災の事故で死に、それを機にレスターの虐待が始まる。
◆このあたりまで進んだとき、となりの席の中年が、いきなりケータイを出し、メールを読み出す。わたしがちらりと見ると、すぐに止めたが、しばらくして、また光を感じて、左を見ると、背広の袖に隠しながらメールを読んでいるのだった。映画は見ないらしい。まあ、退屈になったのでしょうね。
◆コールマンはユダヤ系だが、ユダヤ系といっても、一様ではない。わたしは、昔、ニューヨークでイーディッシュ演劇の研究をしていて、「あなたは中国系のユダヤ人か?」と訊かれたことがある。黒人のユダヤ人もいるし、色々だ。映画のなかで、コールマンの素姓が明らかになる。それについては書かないが、彼は、ユダヤ系という制約ともう一つの人種的制約を負っていた。ユダヤ系の制約は、学問的努力で克服したが、後者の方はフォーニアに会うまで克服できなかったという話。
◆ここで書かないある部分については、ジョン・カサベテスの『アメリカの影』(Shadows/1959/John Cassavetes)で、もっとドラマティックな形で描かれていたとだけ言っておく。
◆ユダヤ人性のほうも、ある時代までは、学問的な努力や能力の差などでは決して越えることができない壁であった。コールマンが、その壁を越えて、全米初の古典文学教授になれたのは、それだけ、ユダヤ人性の方が人種概念としては形骸化したからである。いまのアメリカでは、イスラム系は、その人がどのような地位にいようが、忌み嫌われる傾向がある。黒人性の方は、教科書的には、1960年代の公民権運動以前は、かなり宿命的な壁になった。だから、顔が白くて、「白人」(コケイジャン)と見られるのを利用して、「白人」になりすます黒人もいた。その場合、生まれた子供が黒かったらバレてしまうので、子供を絶対に作らない黒=白人もいたらしい。
◆コールマンの父親は、靴の会社を経営していたが、大恐慌で破産し、その後、人種的制約もあって職がなく、食堂車のボーイをしていた。過労がたたって、突然死ぬ。なぜ、この映画では、コールマンの妻も、彼の父も、みな心臓発作で倒れるのだろうか?
◆コールマンには、パワフルで聡明な母親(アン・ディーヴァー・スミス)がおり、彼の「決断」を非難する。にもかかわらず、彼は、立身出世のためにその「決断」を選ぶ。
◆ネイサンが、氷の張った湖で釣りをしているレスターに会いに行くシーンもなんかよくわからない。誰か説明してください。レスターの危険な感じはよく出ていたが。
◆邦題の「カラス」は、フォニーが、「わたしはカラスよ」と言うのと、彼女が、檻のなかのカラスに話しかけるシーンから取っているが、カラスがそんなに重要とは思えない。フランツ・カフカも「わたしはカラスだ」と言ったそうだが、「カフカ→カヴカ」はチェコ語でカラスという意味らしい。
(ギャガ試写室)



リンク・転載・引用は自由です (コピーライトはもう古い)   メール: tetsuo@cinemanote.jp    シネマノート