粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-12-19_2

●ノー・カントリー (No Country for Old Men/2007/Ethan Coen + Joel Coen)(イーサン・コーエン、ジョエル・コーエン)

No Country for Old Men/2007
◆非情とか冷酷とかの範疇を飛び越した「合理性」の男アントン・シガー(ハビエル・バルデムの演技が絶妙)が可笑しい。「主義」をまげない「古風」さや「非情」さと、機械人間的な「一徹」さのアンバランスが不思議な感動を呼ぶ。とやたら括弧つきで書いたが、ここで使われている言葉があくまでも暫定的なものであることを示すためだ。
◆砂漠で見つけたやばい金に手をつけたためにシガーに追われることになるルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は、シガーに互角に対抗するかに見えながら、最後には負ける。が、その負け方が一面「憐れ」でありながら、どこか「滑稽」なのも可笑しい。これは、いかにもジョエル/イーサン・コーエン兄弟ならではのセンス。
◆同様に、事件を追うべき保安官エド・トム・ベル(トミー・リー・ジョーンズ)は、もはや「民主主義」も「人道主義」も信じてはいないが、だからといって何もしないというのではなく、にもかかわらず大したことはできない。この「諦め」と「躊躇」とがいりまじった不思議な気分をジョーンズがかもし出す。
◆シガーは、「合理的」な理由だけで人を殺すのではなく、そこに「偶然」をまぜる。殺そうとする相手にコインの賭けを当てさせ、殺さない場合もある。この屈折したロジックは、なかなか深いものをもっている。映画のなかで、モスの妻(最初「娘」かと思った)カーラ・ジーン・モス(ケリー・マクドナルド)が、シガーにそのような賭けを迫られ、それを拒否するシーンがある。彼女が、そのあと殺されたかどうかはわからない。殺すか殺さないかを相手に決めさせるのは卑怯だと彼女は言った。ここでわたしが興味を持ったのは、アメリカがイラクに攻め込み、フセイン政権を倒したとき、降伏か否か、さもなければ空爆だという形で、その運命をフセインに決めさせた。そもそも、日本に原爆を投下したときも、アメリカ政府のロジックは、日本が原爆を落とさせたというものだった。そのようなことを考えると、ハビエル・バルデムが演じる殺し屋は、きわめてアメリカ的な殺し屋なのだ。
◆シガーは、ボンベにつながれたエアガンのようなものを持ち歩き、そのノズル部を相手の額に押し当てて殺す。これは、ふと、『かつて、ノルマンディで』や『ファーストフード・ネイション』で豚や牛の眉間をねらって殺戮するシーンを思い出させる。そういえば、ミヒャエル・ハネケの『ベニーズ・ビデオ』(Benny's Video/1992/Michael Haneke)では、父親の屠殺場で豚が眉間に屠殺用のガンを押し当てられて殺されるのを息子がビデオに撮り、それをくり返し見、そのあげく知りあったばかりの少女を同じ器具で殺してしまう話だった。
◆ハネケの映画の少年ベニーズは、少女を殺す意志はなかった。少女に豚を殺す凶器を見せたとき、「撃ってみて」と言われ、躊躇すると、さらに「臆病」と言われ、発射した。結果は想像外だった。『ノー・カントリー』の殺し屋シガーは、ベニーがそのまま育ってしまったようなとこもある。
◆シガーは、保安官のベルに撃たれて負傷したとき、薬局のまえで車を爆破し、騒ぎのすきに薬品を盗み、自分で治療をする。そういう治療は、『ボーン・アイデンティティ』でジェイソン・ボーン(マット・デイモン)もやっていたが、シガーの場合は、なんでも「自力」でやりぬくという彼の人間性からすると、それが当然といった感じで、悲壮感は全くない。
◆コーエン兄弟の作品のなかでは「一番暴力シーンが多い」とのことだが、ガンエフェクトがなかなかすばらしく、納富貴久男氏の感想を聞きたいと思った。ちなみに、砂漠のシーンで使われた「血」は、特注品で、通常の映画用の「血液」には糖分がふくまれているので、虫や動物をおびき寄せる恐れがあるのを避けたという。
◆コーマーク・マッカーシーの同名の原作の映画化だが、そのタイトルは、ウィリアム・バトラー・イェイツの詩「ビザンティウムへの船出」( Sailing to Byzantium」に由来するという。
(ショーゲイト試写室)



2007-12-19_1

●靖国 (Yasukuni/2007/Li Ying)(リー・イン)

Yasukuni/2007
◆冒頭、ブランクの映像の背後で物がぶつかる音がする。それから雑然とした作業場が映る。老人が日本刀を振るシーン。窯のなかで火が燃えている。町工場のような風情だが、やがて、そこは、靖国神社境内にある【→誤り→下段の追記参照】刈谷直治(90歳)の仕事場でであることがわかる。ここでは、1933年(昭和8年)から終戦の1945年までのあいだに8000本もの軍刀(「靖国刀」)が作られてきたという。刈谷は、「最後の靖国刀匠」で、いまでも刀を作りつづけている。「靖国刀」は、戦時中、実戦でも使われたはずだが、いま作られる「靖国刀」は、何に使うのだろう。が、いずれにしても、それは、靖国神社の「ご神体」なのだ【→追記参照】という。
◆刀鍛治の映画かと思わせるスタートだが、監督リー・インが刈谷に向けたインタヴューがはさまり、徐々にこの映画のねらいがはっきりしてくる。リー・インのとつとつとした外国語なまりのおだやかな調子の日本語は、刈谷氏の心なごませ、訊かれるる相手に抵抗感をあたえない。だから答える刈谷もたんたんとしている。だが、このドキュメンタリーは、日本の最も矛盾をはらんだ部分へ鋭いまなざしを注ぎ込んだ驚くべき作品なのである。
◆ここでこの刀匠が依然として「靖国刀」を作っているように、靖国神社は、戦前と変わっていない。だから、靖国へ行けば、そこには、1945年以後「民主化」されたという日本など幻想であることがわかるだろう。それが最もはっきるするのは、この映画がしっかりとドキュメントする8月15日の靖国だ。わたしは何度も見たし、ここでも取り上げた『蟻の兵隊』でも映されているが、8月15日の靖国には、戦中の軍人のかっこうをした人たちが姿をあらわし、また、彼らや戦争を批判する人たちが一堂に会する。そして、それとは関係なく、ただの物見遊山でやって来て、タコヤキなどを食っている若者の姿もある。はては、小泉首相靖国参拝賛成のビラを配りに来たアメリカ人までいる。驚くべきことに、夜間には、戦前戦中と全く変わらぬ白装束に身を固めた神官(?)たちの不気味な行列までがこの境内で行なわれる。ここには、戦前から今にいたる時間が連綿と(つまり無反省に)流れているのである。
◆靖国神社は、古代の神道とは関係のない施設である。それがどんなに「古代」の装いをしているとしても、それは、日清・日露の戦争で非業な死を遂げた軍人たちの霊を慰めると称して建てられた(東京招魂社を解消発展させた)近代の施設なのである。だから、ここで「連綿」と流れている時間とは、明治の軍国主義から始まった近代主義的な時間であり、その間の国家をゆさぶった戦争によっても、いささかもゆらぐことのない時間である。おそらく、靖国の確信犯的関係者にとっては、「戦前/戦後」という時間の区切りはないのだろう。むろん、「え?! 戦後民主主義?」てなものだろう。何も変わってはいないのである。
◆わたしは、これまで、くりかえし、日本は天皇制国家であると強調してきた。専門分野ではないことを羞らいもせず、『電子国家と天皇制』(河出書房新社)などという本を出したのも、国家としての日本が天皇制から決して切れてはいないことを確認するためだった。海外の領事館や大使館に行けば、日の丸よりも菊の紋の方が重視され、領事や大使の部屋には天皇皇后の写真がまるで戦前の「御真影」のように飾ってある。それなら、はっきりと日本は天皇なしには成り立たない国家なんだと明記すればいいのに、そうはせず、あたかも「民主主義国家」だという素振りをしているところに、人々が日本を国としては愛せない理由がある。といって、わたしは、そうすべきだと思うわけではない。わたしは、どうすれば、天皇制国家を脱せるのかに興味を持っているだけだ。
◆天皇制の問題は、日本ではタブーである。天皇制反対をとなえれば、そのリアクションはただちに起こる。ただし、天皇制は、単なる政治制度ではなく、諸制度から日本で暮らす人間の日常的身ぶりや感情のなかまで浸透しているマクロ/ミクロな制度なので、単なる「反対」ではどうにもならない。天皇制反対論者と「天皇主義右翼」との対立は、実は、天皇制の深さを覆い隠す単なる「イヴェントショウ」になっている。また、天皇制と天皇ファミリーとはつながっていても、天皇やそのファミリーをパロディ化したり、けなしたりすることは、天皇制を批判したことにはほとんどならない。
◆日本で天皇制や靖国に反対すれば、必ずといってよい度合いで、攻撃を受ける。それは、「日本人」にかぎらない。この映画にも、「靖国主義者」たちが君が代を歌っている席に批判の「乱入」を企てた中国人【後記:これは「日本人」とのこと】の青年が負傷させられるシーンがしっかりと記録されている。その青年は、「危険だから保護する」と称してその場から移動させようとする警官に対して、不合理を批判するためには、こんな怪我などなんでもないと言う姿が、わたしの脳裏に焼きついた。
◆リー・インのこのドキュメンタリーは、一方的に「靖国主義者」を批判するわけではない。靖国の内部に深くコミットしている刈谷直治氏のような人を取り上げる際も、その姿勢はかわらない。だから刈谷氏も出演することを受けたのだろう。これは、マイケル・ムーアが『ボウリング・フォー・コロンバイン』でチャールトン・ヘストンをはめたようなやり方でインタヴューしているわけではない。一体、刀信仰とは何なのか、台湾や中国大陸等で行なわれた捕虜の「試し斬り」、軍人が好むと思われている切腹等々は、アメリカの銃信仰とは別種のものだろう。それは、靖国信仰とも密接な関係があるはずだ。刀は「日本人の魂」とか、伝統の象徴のようにい言われるが、それは、1933年に「靖国刀」が作られはじめたあたりから定着していった信仰なのかもしれない。
◆何度も書いたように、靖国の「魂」はヴァーチャル(メディア的に実質的)なものである。日本の伝統的な信仰では、魂は祖先の土地とともにある。が、靖国は、本来、土地を捨象したレベルで成り立つ「魂の場」である。だから、伝統的な「祖霊信仰」を信じる日本人は、靖国に違和感をいだく。むろん、全く異なる信仰体系に属するキリスト者も、靖国を魂の場所だとは思えない。「合祀」は、そういう複数多様性を完全に無視している。
◆靖国には、日本がその「近代」を放置していることの証(あかし)である。このドキュメンタリーで、台湾の女性活動家が、日本の兵士に「千人斬り」で殺されたり、陵辱された台湾の原住民の名において、靖国神社の関係者(責任者は出てこない)に「英霊の合祀」の矛盾を鋭く突きつける。批判はこれまで多くの人々や活動家が提示してきた。靖国も日本政府も、それを無視している。日本は、「近代」にも成り切れないし、当然のことながら、「近代」を越えることもできないでいる。
◆結局、刈谷直治氏のように、「あいまいに」生きるしかないのか?
◆【追記/2008-05-16】この速書きノートが書かれてから早くも5ヶ月が経った。その間に、衆議院議員・稲田朋美が提起した批判――国際交流基金(2003年に独立行政法人化したが、外務省の対外文化宣伝部門の機能を持つ)が「こういう映画」の製作を助成するのはいかがなものかという――に端を発し、上映の自粛や、マスコミでの喧々諤々の議論が盛り上がった。ちなみに、「スカイパーフェクトTV!」241チャンネルの「日本文化チャンネル桜」は、そうした「批判」を精力的に報じており、YouTube で見ることができる。そんな状況変化のなかで、このノートに対してもとがった意見が多数よせられた。このノートの意見を全面否定するものに対しては言葉がないが、事実誤認に関しては、明記して訂正したい。境内で暴行を受けた日本人青年を「中国人」と書いたことは、ベルリンの河内秀子さんの指摘で訂正した。今日、「taru」氏は、「刈谷氏は高知に在住であり、現在も靖国神社の中で刀を作っている訳ではありません」という指摘をくれた。たしかに、あのような作業場が靖国神社のなかにあるはずがない。また、「taru」氏は、<「刀」がご神体だとは映画の中でも言っていますが、それと「靖国刀」とは別物です。「靖国刀」がご神体だとはどこにも言ってはいません>という指摘もくれた。たしかに映画は、言葉のうえではそう言ってはいない。それはあくまでもわたしの意見である。刀が「神体」ならば、どの刀も「神体」の意味合いを含むだろうという観点で、そう書いたのである。いずれにせよ、このノートを詳細に読んでくれたのを感謝したい。
(映画美学校第1試写室/アルゴ・ピクチャーズ)



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●ダージリン急行 (The Darjeeling Limited/2007/Wes Anderson)(ウェス・アンダーソン)

The Darjeeling Limited
◆ワーナーの出やすい席に座ったので、エンドロールを飛ばして、外へ。地下鉄を乗り継いで六本木1丁目からFOX試写室へ。何とか15分まえに飛び込む。さいわい混んではいなかった。
◆最初にアンダーソンの短編『ホテル・シェヴァリエ』(Hotel Chevalier/2007)を上映するというので、理由がわからなかったが、終わってから『ダージリン急行』がスタートすると、「Part 2」という文字が出て、なるほどと思った。『ダージリン急行』のPart 1として作られているのである。パリのホテルに(小説を書くため?)1年も泊まっている男(ジェイソン・シュワルツマン)が、1年ぶりに恋人(ナタリー・ポートマン)と会う。電話をかけて来た彼女が来るというので、ルームサービスを頼み、スピーカーに接続されたiPODをかける。音楽は、ピーター・サーステッドの1969年のヒットソング「Where Do You Go to (My Lovely)」。映画内容は、この曲の歌詞とかなりからみあっている。
I know where you go to my lovely
When you're alone in your bed
I know the thoughts that surround you
'Cause I can look inside your head
◆「本編」の冒頭に、インドで「神風」タクシーで駅に急ぎ、列車に飛び乗ろうとするビル・マーレイの姿が映るので、またマーレイがドラマの中心に顔を出すのかと思ったら、彼の出演は一種のカメオ出演だった。彼は列車に乗り遅れ、首尾よく乗るのは、ジェイソン・シュワルツマンで、予約されているコンパートメントに行くと、オーウェン・ウィルソンがいる。そののちエイドリアン・ブロディがあらわれて、3人が兄弟であることがわかる。父親が死に、いろいろあって3人の関係が変わってしまったが、長男のフランシス(オーウェン・ウィルソン)が計画を立て、次男のピーター(エイドリアン・ブロディ)、三男のジャック(ジェイソン・シュワルツマン)との関係を修復する「魂の旅」に出かけようというわけだ。
◆3人のそれぞれに味のある俳優とアンダーソン独特の雰囲気が魅力だが、わたしには、全体としてどこか波長が合わない。英語をしゃべる3-40代の世代の知り合いと話すと、一様にベタボメなのだが、わたしには、ある種のナルシシズム世代の感性をひきづっている登場人物たちが好きになれない。金持ち育ちらしい三人兄弟を演じるエイドリアン・ブロディ、ジェイソン・シュワルツマン、オーウェン・ウィルソンは、みな、いい演技をしている。
◆ウェス・アンダーソンは、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』でも『ライフ・アクアティック』でも、父親の問題にこだわってきた。今回も、根もとには父親の問題がある。今回は、登場人物が父親になったり、目の前の父親との関係が問題になるというのではなくて、問題の父親はすでに死んでいる。おそらく、父親が生きていたときは、何となく関係が続いていたフランシス(オーウェン・ウィルソン)、ピーター(エイドリアン・ブロディ)、ジャック(ジェイソン・シュワルツマン)の3兄弟が疎遠になってしまったらしい。理由は、ピーターが遺産を独り占めしたとか、長兄のフランシスが仕切りすぎるとか、売れっ子小説家のジャックが家族をネタにしたとか、色々あるが、家族がいっしにいるということが壊れている現代では、それがあたりまえで、特に理由などない、とわたしは思う。
◆しかし、アメリカ人で「単親ファミリー世代」のウェス・アンダーソンは、まだ「家族」幻想を捨て切れないらしい。この映画は、疎遠になった3兄弟がたがいに「スウィート」な関係を取り戻す話である。その際、そのきっかけとなるのが、「旅」であり、しかもインドという異文化圏への旅であるというのは、いかにも「素朴なアメリカ人」にありがちのパターンである。
◆旅の途中で急流で溺れそうになった子供を助け(一人は死ぬ)、親の家に招かれるエピソードがあり、この村での体験が3人にとって「魂の変革」に重要な影響をあたえることになるのだが、その子の父親を演じているのが、『その名にちなんで』のイルファン・カーン。彼は、たしかにインド出身だが、インドの素朴な村人を演じるには西欧の雰囲気がただよいすぎており、目つきが村人とはちがうのだ。
◆冒頭のタクシーの運転手も、列車のアテンダント(アマラ・カラン)や車掌も面白いし、ヒマラヤの修道院で尼僧をしているという母親をいまやウェス・アンダーソン・ファミリーのアンジェリカ・ヒューストンが演じていて笑えるのだが、描かれている異文化が無知な「差別」すれすれで、苦笑を禁じえないようなところがある。
(フォックス試写室/20世紀フォックス映画)



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●スウィーニー・トッド (Sweeney Tod/2007/Tim Burton)(ティム・バートン)

Sweeney Tod/2007/Tim Burton
◆時間のせいか、空席が目立ったが、かなり完成度の高い仕上がりになっていた。わたしは、1979年にニューヨークのURISシアターで、スティヴン・ソンドハイムの音楽・作詞、ハロルド・プリンスの演出によるブロードウェイ・ミュージカルの初演を見た。非常に評判が高いので見に行ったのだったが、せりふの細部が理解できなかったためか、殺すことの意味がいまいちわからなかった。アンジェラ・ランズベリーがあくの強い演技をしていて印象的だったのと、舞台の仕掛けが非常に機能的に出来ているのをおぼえている。その後、テリー・ヒューズとハロルド・プリンスが映画化したバージョン(1982)が公開され、期待して見に行ったが、こちらは裏切られてしまった。さらに、時代が下って、ジョン・シュレシンジャーが映画化したもの(1998)も見たが、シュレシンジャーらしからぬつまらなさで、『スウィーニー・トッド』というのは、グラン・ギニュール的なスリラーでしかないのかという思いが強くなった。
◆さすがはティム・バートン、ブロードウェイのミュージカル版(ミユージカルと映画を同列で比較するのもナンだが)をこえる面白さだ。ここでは、『スリーピー・ホロウ』の「擬古文」的スタイルを継承し、さらに、カメラで撮った映像を『コープスブライド』(Corpse Bride/2005)的な味つけをして、物語性を強めるといった、凝ったテクニックを駆使している。
◆『ヘアスプレイ』を「ミュージカル映画」とみなすならば、この映画もミュージカル映画である。ミュージカル的にも美しいシーンがいくつもある。たとえば、オーストラリアに流刑されていたスウィニー・トッドが帰還する船の上でデップが歌うシーン、トッドの娘ジョアナ(ジェイン・ウィスナー)を愛する水兵アンソニー(ジェイミー・キャンベル・バウアー)が歌う街路のシーンなどなど。
◆それにしても、こういうスタイルの作品だと、ジョニー・デップはうまいなぁ。ここには『パイレーツ・オブ・カリビアン』シリーズのような「空想冒険的」なキャラクター、『ネバーランド』の「純真」さ、得意の「ワル」というか「偏屈」というか、デップが演じてきたすべてのキャラクターが見出せる。
◆ヘレナ・ボナム・カーターは、『ファイト・クラブ』のときとまさるともおとらない強烈なキャラクターを演じている。彼女は、ティム・バートン夫人。
◆全編にみなぎる都市への嫌悪、権威(アラン・リックマンが演じるターピン判事)への反発、底辺の人々への共感は、原作のものでもある。
◆復讐で人を殺したのが昂じて、材料の肉に困っている隣のパイ屋の女将ミセス・ラベット(ヘレナ・ボナム・カーター)のために、次々に客の首を剃刀でカッ切って殺してしまうという床屋のスウィーニー・トッドの物語は、18世紀から19世紀にかけてのイギリスで進行した機械工業や科学的「合理主義」の動向と密接な関係がある。
◆この映画では、冒頭に歯車とミンチのマシーンが映されるが、まさにマシーン・テクノロジーが台頭し、他方では、それに反対する「ラダイト」(織物機械を破壊する運動)が起こったりした。トッドの理髪室では、リクライニングのイスで首をカッ切られた客は、イスが倒れた床にポッカリと開く穴から地下に転落する。地下にはボイラーがあり、肉をそぎ落とされた死体はすぐに焼かれる。
◆メカニズムが生み出すリズムは、モダン(近代)という時代の時間を規定し、「早さ」や「忙しさ」が価値となる。無駄がないことも「モダン」の条件だ。「スローライフ」とか「スローフッド」といった傾向が出て来た21世紀でも、「モダン」の動向は一向に終末の気配を感じさせない。「ポストモダン」は早すぎた。その意味で、この映画は、復讐という前近代(プリモダン)の要素が、能率という「モダン」の要素に出会って、意味を失ってしまう皮肉を描いてもいる。そして、それは、ティム・バートンのすぐれた時代意識によって、911→復讐→わけのわからない自爆と空爆の虚しい空回り状況にある現代を考えさせてくれもする。
(ヤクルトホール/ワーナーブラザース映画)



2007-12-12

●ジェシー・ジェイムズの暗殺 (The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford/2007/Andrew Dominik)(アンドリュー・ドミニク)

The Assassination of Jesse James by the Coward Robert Ford/2007
◆雲がたれこめた広大な雪の原野のトップシーンにヒュー・ロスのナレーションがかぶり、風の音や鳥、虫の声が聞こえる。音的に非常に繊細な構成であることが感じられる。エンドロールにはおぼただしい数のサウンド関係者がリストされているが、音のあつかい方が絶妙である。
◆「ジェシー・ジェイムズ神話」のなかから生身の人間としてのジェシー・ジェイムズを浮き彫りにすることに成功している。権力にたてつく不敵な悪党・義賊ではなく、恐れや不安にかられ、絶望感もいだく生身の人間の側面と、ぞっとするような非情さや、他人への無関心をあわせ持った複雑な人物である。ブラッド・ピットの5指に入る入魂の演技。
◆ジェッシーの兄フランクの役を演じるサム・シェッパードも貫禄。もう劇作家はやめた方がいいかもしれない。
◆原題には、「ジェシー・ジェイムズの暗殺」というだけでなく「卑怯者ロバート・フォードによる」と、暗殺者のロバートのことも明記している。"coward"(卑怯者)に"the"が付いているのは、「あの卑怯者」つまり、通説で「卑怯者」にされている・・・という意味である。この人物を演じるケイシー・アフレックは、いつも自信なげで内向的なキャラクターを作りあげた。アフレックは、そういうキャラクターにうってつけの目と頬をしている。
◆通説によると、ジェッシーを暗殺したロバート・フォードは、最初は、ジェシーにあこがれて弟子入りするが、やがてジェシーにかかった賞金に目がくらんだのと、カンザスシティ警察の脅しに屈して、ジェシーの家に住み込み、計画的にジェシーを殺したことになっている。しかし、この映画では、ジェシーに対するロバート・フォードの関係をそのような単純なものにはしていない。むしろ、警察との取り引きについて明示的にはえがかず、実際にそういう意識がロバートにあったとしても、もっと複合的・偶然的な理由でジェッシーを殺すことになったという解釈である。
◆その意味で、この映画は、ジェシーのキャラクターを浮き彫りにしただけでなく、それにおとらず、ロバート・フォードという、他者依存の強い(その意味でジェシーの対極にいる)青年が運命に翻弄される姿を痛ましいまでに描く。何をやって生きたらよいのか迷う若者(誰でもそうだが)が、ひょんなことで首に賞金のかかったジェシーを撃つことになったが、にもかかわらず、世間は彼に卑怯者の汚名を着せる。そのとき思いついたのが、「ジェシー・ジェイムズを殺した男」を売り物にすること。そのあげく、みずから役者になって舞台で兄のチャーリー(サム・ロックウェル)といっしょにその現場を再現するにいたる。それは、最初は評判になる(しかし、映画は、それをシニカルに描く)が、最後は、観客の罵声をあびることになる。このシーンでも、この映画は、微妙な現実の襞(ひだ)を描くことを忘れない。単に一方的に観客が彼を罵倒するようになるのではなく、ロバート自身が次第にその芸に愛想をつかし、観客の反応にも不安と妄想をいだき、双方の神経のよじれが決裂へ導くという描き方だ。
◆世間のうわさは、いつも「虚像」を生み出す。それが、ばらばらの個々人を「マス」(塊)として一時的でヴァーチャルな結束や安心感を生み出す。それは、権力にとっては必要不可欠の装置だった。この傾向と度合いは、マスメディアの登場によってさらに強まり、規模が大きくなる。ジェシー・ジェイムズの伝説は、新聞メディアによって浸透したが、アメリカでは、1833年に The New York Sun は、両面印刷によって料金を引き下げた"penny press paper" を出し、読者と急速に増やし、マスメディアとしての新聞のモデルを作った。ジェシーの生涯は、1847年から1882年まで(映画は、彼が34歳の1881年からロバートの死の1892年までを描く)であるから、彼は、まさに大衆紙が普及しはじめる時代とともに生きたのだった。ロバート(1860~1892年)は、大衆紙や大衆本に描かれた「ジェシー像」で彼を知り、憧れをふくらませたのだった。
◆ロバートの姿を見ながら、思い出したのは、『チャプター27』で描かれたジョン・レノンの暗殺者マーク・デイヴィッド・チャップマンである。この人物についても、背後に組織の扇動があったという説があるが、監督のシェーファーは、そういう描き方をしていない。この方が、ファンや身近な者による殺人の屈折がリアルにとらえられるような気がする。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-12-11

●ランジェ侯爵夫人 (Ne touchez pas la hache/2007/Jacques Rivette)(ジャック・リヴェット)

Ne touchez pas la hache
◆会場でもらったプレスに寄稿している「フランス文学者」によると、この映画の原作となっているバルザックの『ランジェット侯爵夫人』( La Duchesse de Langeais 1834 ) は、「フランス的恋愛心理というものと縁のない日本人にとっては、どうしても理解できないとことがある作品」だとして、得々と解説をのたまっていた。いわく、「日本人には分かりにくいのですが、恋の国フランスにおいては、じつは、これこそが恋の実態なのです。つまり、恋というのは、カースル・キーピング(城の攻防戦)と同じで、押したり引いたりしながら、攻撃側と守備側とがともに秘術を尽くして城(女性の貞操)の攻防を楽しむものなのです」だって。しかし、こんなことがわからないとしたら、「日本人」は、「恋愛映画」の大半を理解できないのではないだろうか?
◆とはいえ、原作のことはおいておいても、この映画はわかりにくい。それは、ランジェット侯爵夫人(ジャンヌ・バリバール)とモリヴォー将軍(キューム・ド・パルデュー)のやりとりがわかりにくいからではなっくて、ジャック・リヴェットがなぜバルザックのこの作品を映画化したのかがわからないからだ。というよりも、リヴェットは、本当にこの作品を映画化したかったのかどうかがあまり伝わってこないもやもやを感じさせるような作品だということだ。
◆リヴェットは、原作の文章を俳優たちに棒読みさせるようなディスクールと、通常の映画的・演劇的ディスクールとを使いわけるようなやり方をしているが、それは、必ずしも、テキストと映像との関係に関する実験というわけではなさそうである。それよりも、バルザックの高名な作品からの映画化だということを印象づけるためにそうしているふしもある。が、それならば、なぜタイトルを「Ne touchez pas la hache」 (斧に触れるな/Don't touch the axe)と変えたのか? この「斧」(hache) について、2008年2月7日から開かれるベルリン映画祭のカタログには、こんな記述がある。
"Don't touch the axe" were the words of the guard on showing him the weapon used to behead Charles I. From this moment on, Armand de Montriveau decides to ignore his inamoratas and do everything in his power to get his revenge ...
◆バルザックが、「時評的」に小説を書いたという意味で考えると、リヴェットのこの作品は、アメリカとフランスとの関係を思わせる。すねることもあるが、基本的に押すことしか知らないモンリヴォー将軍と、したたかな外交術が身についているが、自滅的なまでに自己中心的なランジェット侯爵夫人との関係は、さいまのブッシュとサルコジとの関係にも見られレル。「ランジェット侯爵夫人」を「フランス」に重ね合わせなくても、「モンリヴォー将軍」はきわめて「アメリカ」的だ。が、いずれにしても、なんかすっきりしないところが残る(しかし、深いことに思いを馳せられるわけでもない)作品だ。
(京橋テアトル試写室/セテラ・インターナショナル)



2007-12-07

●ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記 (National Treasure: Book of Secret/2007/Jon Turteltaub)(ジョン・タートルトーブ)

National Treasure: Book of Secret
◆午前9時会場、10時開映というので、ラッシュの地下鉄に乗らなければならなかった。慣れないわたしは、もたもたしていて、乗客がはみ出しそうになっている乗車口に背中を向けてもぐり込んだ。すると、閉まりはじめたドアに向って外国人の大柄の女性が背中と尻を向けて突進してきた。ドンという衝撃もショックだったが、常々日本の電車の混み様を批判している外国人が日本人以上に露骨な尻押乗車を実践したのを目撃した方が衝撃だった。田舎者が都会に出てくると、都会人以上に「都会化」する原理と同じか?
◆苦労して9時すぎには六本木ヒルズの会場に到着したが、TOHOシネマズの巨大な会場には、がらがらだった。やな予感。12月21日に「世界同時公開」とのことで、あまり試写をやらないとのことだが、内覧で見た人の噂が流れたのだろうか?
◆案の定、会場の雰囲気もあるのかもしれないが、どこかノレない仕上がりだった。前作の『』には、アメリカ史を考え直させるような奥行きと謎解きの面白さがあったが、今回は、「祖国と祖先への敬い」を強調したファミリー映画である。前作の「宝探し」の面白さから、ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)の曾祖父がリンカーン大統領暗殺に荷担したという嫌疑(これが今度の新しいプロット)を晴らすことがテーマになっている。つまり、宝物の探険・発見から、名誉の回復ような「精神」の問題に焦点が移ったのだ。これは、いかにもいまのアメリカの社会的気分にふさわしいという点では面白いが、アメリカの外にいるわれわれには、ちっとも面白くない。
◆すべてが「プリテンシャス」なのだ。ベン・ゲイツ(ニコラス・ケイジ)の母エミリー・アップルトン(ヘレン・ミレン)しか解けない古代人の絵文字といわれても困るわけで、映画なら、それなりのロジックで、謎解きを「合理化」しなければならない。それが、この映画では、専門家の特権的な形而上学でうやむやにされてしまう。最終的に誰もわからない領域を設定した場合、こちら側としては、信じるか信じないかしか、選択の余地がない。そのとき、ドラマの展開仕方や、映画技術への思い入れがそれほどできなくて、こりゃだめだぁと思い始めた観客には、とたんに、すべてが空虚に見えてくる。今回は、そんな感じだった。
◆今回初出演のヘレン・ミレンは、ジョン・ヴォイトが演じるベンの父親パトリック・ゲイツと相性がわるく、離婚したという設定。トレジャー・ハンティングに入れ込む夫に迷惑をかけられたらしいが、再会したとたん口喧嘩になるという設定ですぐわかるように、根は、それほど憎みあっているわけではない。こういうありがちな夫婦関係のパターンも安い感じ。
◆ヘレン・ミレンが、姿をあらわしたとき、エリザベス女王に似ている女だなと思ったら、ヘレン・ミレンだった。『クイーン』のエリザベス女王は、メイキャップのためかと思ったが、ミレン自体がエリザベスに似ているのだなと再確認。
◆エピソードとして、当時のヴィクトリア女王がアメリカを二分した南北戦争のときに、ひそかに南軍を支援したというのは、いまの日英関係との関連では、なかなか面白い皮肉になっている。
(TOHOシネマズ六本木ヒルズScreen7/ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ・ジャパン)



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●ファーストフード・ネイション (Fast Food Nation/2006/Richard Linklater)(リチャード・リンクレイター)

Fast Food Nation
◆本屋をのぞき、コーヒーを飲んで、ふたたび同じ試写会場にまいもどった。今回も30分まえに来てしまったが、すんなり入れた。箱を使う人によってがらっと変わるのが貸会場の常。
◆広告などから想像されるこの映画のイメージは、『スーパーサイズ・ミー』のドラマ・ヴァージョンという感じだが、これは、リチャード・リンクレイターの新たな状況論であり、いまのアメリカのみならず、高度資本主義諸国で生きる個々人が直面している政治状況(あくまで大文字のではなく小文字の政治――日常性のなかにやどる政治)を描いた野心作である。
◆リチャード・リンクレイターは、政治意識の強い映画作家である。しかし、彼は、決して、政治を政治として描くことはない。『スラッカー』(Slacker/1991)は、レーガンが登場し、保守的な方向で右旋回していく80年代のアメリカで登場する「スラッカー」に焦点を当てた。ヤッピー的な立身出世には背を向け、といってヒッピーにはなりきれない新しい「怠惰」(ラフォルグ的な)世代だ。日本では、20年ぐらい遅れて、「ニート」や意味が変えられた「フリーター」とともに社会化する傾向をいち早くとらえるだけでなく、そこに積極的なものを見出そうとしていた。
◆2003年の『スクール・オブ・ロック』は、そういう「スラッカー」が、ちょっとしたきっかけで、「熱血教師」になってしまう話だった。その際、日本ではその「熱血教師」の面だけが見られる傾向があるが、ジャック・ブラック演じるデューンが、もともとは、教育などとは縁のない「スラッカー」だったという点が、重要なのだ。
◆一見ただの再会ラブストーリーの体裁をしている2004年の『ビフォア・サンセット』も、かつて(どの程度の政治活動をしていたかは不明だが)何らかの意味で反権力的な意識を共有していた男と女が再会し、その失われた時をとりもどしそうになる(「そうになる」ところが微妙)話だ。ここでは、依然として体制に従属しないで生きようとしているのは、女の方で、男は、作家として成功し、本の宣伝のための講演旅行しにパリに来た。それが、最後のシーンで微妙な変化を見せるところが意味深い。
◆いうまでもなく、この作品は、1995年の『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(Before Sunrise)の続編でもある。ブダペストからウィーン行きの列車のなかで偶然出会う男女(『ビフォア・サンセット』と同じ、イーサン・ホークとジュリー・デルピー)は、いずれも、これからどう生きるかを求めている。男は、存在感のないアメリカでの生活を逃れて、ヨーロッパに旅行をしに来た。これも、スラッカーを脱出しようとしているキャラクター。女は、1968年の五月革命を闘った親を持つ「スラッカー」世代だ。
◆リンクレイターは、つねに、新しい生き方に関心があり、1998年の『ニュートン・ボーイズ』(The Newton Boys)は、1920年代に人を殺さずに連続銀行強盗を続けた貧しい農村出の4兄弟のリアルストーリーをあつかっている。
◆2005年の『がんばれ! ベアーズ〈ニュー・シーズン〉』(Bad News Bears)は、リメイクで、リンクレイターは依頼されて引き受けたらしいが、これも、仕上がりは、「スラッカー」文化をどうするかがテーマになっている。元プロ野球選手でいまはアル中の「負け犬」(ルーザー)あつかいされている男(ビリー・ボブ・ソートン)が、チーム意識などないガキどもの野球コーチを引き受け、自分もガキどもも変わる話。アメリカ的競争主義とは別の、いわばコンヴィヴィアルなチームワークを発見するプロセスがリンクレイターらしい。
◆いまの時代、もうイデオロギー的な反権力闘争は有効性がない。それは、権力自身が、その内部の対抗装置、一種の起動修正と自己活性化の装置を内蔵するようになった(「危機管理」という言葉が象徴的だ)からである。そこから、個々人の身近な環境を問題にするエコポリティクスが浮上するが、これも、近年の企業のエコブームが示唆するように、権力そのもののアジェンダになってきた。『ファーストフード・ネイション』では、ハンバーガーに使われる肉の問題、それをめぐる社会政治的な問題が、企業の経営サイド、ハンバーガー店で働く者、ハンバーガーの肉を提供する食肉会社の側(インサイダーとアウトサイダーの両面)、食肉会社で働く「不法就労者」の側・・・から複数の視点でとらえられ、なかなか見ごたえがある。
◆メキシコとアメリカとの国境を越えるてアメリカにやってくる「不法就労者」の映画では、古くはグレゴリー・ナヴァの『エル・ノルテ 約束の地』(El Norte/1983/Gregory Nava)が鮮烈な印象を残したが、その感じは、わたし自身、サンディエゴと国境を接するティワナで目撃した。昼間から国境をへだてるフェンスのところで夜になったらフェンスを飛び越えようと待機している人々がたくさんいるのだった。この映画に登場するメキシコ人たちは、国境を無事越えると、手引きする業者によって食肉工場に連れて行かれる。アメリカの多くの産業が、こうした不法就労者の安い労働に依存している。
◆「ミッキーズ・バーガー」のマーケッティング部長ドン(グレッグ・キニア)は、バーガーのミンチに牛の糞が混入していたという告発があったことを受けて、食肉工場の調査に出かける。が、この映画は、彼が、食肉工場の驚愕する現状を摘発するという方向では進まない。不法就労者の姉妹(カタリーナ・サンディノ・モレノ、アナ・クラウディア・タランコン)と姉の夫(ウィルマー・ヴァルデラマ)が工場で経験することも平行描写される。ドン自身はというと、食肉管理のいいかげんさ、偽装のからくりを知っても、それは一時ショック受けるだけで、いきなり登場して、とうとうと「現実論」をぶつスキンヘッズの男(ブルース・ウィリス)の方向にとりこまれてしまう。ウィリスは言う、「糞が入っていようが、焼いちゃえば同じさ」。
◆ドンが調査のためにコロラド州コーディに行き、現地の「ミッキーズ・バーガー」店に入ると、そこで働いているのが、アシュレイ・ジョンソンが演じるアンバーという高校生。ジョンソンは、1983年生まれだから、高校生を演じるにはちょっと熟れすぎている感じもするが、とにかく、彼女の意識の変化が、この映画の一つの方向にもなっている。最初、政治意識があまりなかったが、ショップで仲間(ポール・ダノら)と自分らが置かれている労働者としての状況(使い捨て)を意識し、たまたま行った野外パーティで環境保護グループを形成する大学生(ルー・テイラー・プッチら)と知りあうなかで、大量の牛から出る糞尿が環境を汚染するという現実を知り、彼らとともに、深夜、牛を解放するアクションを起こす。
◆リンクレイターは、しかし、映画のなかでも言われる「グリーンピース」的な抗議行動に期待をかけているわけではない。農場の柵をはずして、牛を逃がそうとして、直面した現実は、柵をはずしても牛たちが逃げないという皮肉だった。餌を十分与えられる牛たちは、逃げる気がないのだ。このへんに、リンクレイターがこだわっている「怠惰」の問題が読み取れたりもして、面白い。
◆この映画には、ビルの調査では案内されなかった牛の屠殺と解体を行なう工場のシーンが出てくる。夫が怪我をし、それまでモーテルの掃除婦をしていたシルビア(カタリーナ・サンディノ・モレノ)は、工場の人事を仕切っている現場責任者(ボビー・カナヴェイル)に性的代償を払って、解体工場で内蔵を抜く仕事をもらう。屠殺と解体のシーンは、実際の工場で撮ったと思うが、牛や豚の肉を食べるということは、こういうシビアなプロセスを経ていることを思い知らせる。
◆『かつて、ノルマンディで』のときは豚だったが、牛の場合も、眉間の衝撃をあたえて、失神させる。まだ完全には死んでいないうちに、首を切り、血を抜く。さもないと肉がまずくなるらしい。が、鶏よりはむろんのこと、豚よりも大きい牛の体内には、実に大きな内蔵が詰まっている。それを出して行く解体のプロセスはすさまじい。
◆肉を食べるとき、こういう過程を記憶から取り去っているわけだが、では、なぜ、魚や植物なら平気で、動物はダメという観念が出てくるのだろうか?魚も、捕獲したときの暴れ方は尋常ではない。野菜でも、顕微鏡で拡大すれば、切られたときや煮られるときに、相当な抵抗を示すかもしれない。すべては、人間の知覚の標準値で判断されているにすぎない。意識のあるものを殺すのは、動物愛護に反するとか、だから菜食主義が正しいとかいう理屈は都合がよすぎる。
◆しかし、殺害されるときの反応、どの規模で空気を撹拌したか、周囲にどの程度の化学的変化を与えるかという度合いを計れば、意識のレベルが高い動物の方が、その度合いは高くなる。これを「業の深さ」と考えれば、牛は鶏よりも「業が深い」と言えないこともない。その深さによって、「果報」も異なるわけだが、それなりの深さを持つ生命体の死に方には、適切な「果報」とそうでない「果報」とがある。屠殺される牛は、果たしてその「業」にふさわしい「果報」なのか?
◆しかし、肉牛は、自然の産物ではなくて、ほとんど人工物に近い。食肉にされることを前提に生まされ、育てられる。その「業」(ここでは、生命体としての潜勢力)は、食肉として余すところなく使われるときに「果報」を満たすのではないか?
◆とはいえ、「因果応報」のロジックからすれば、人工物の「業」は、それを作った者に返って来るわけだから、人工物としての肉牛を作り、それから作ったバーガーで病気になるのも、これまた「因果応報」ということになる。
◆安易に、半可通で「業」だの「果報」だのと書いたが、半可通ついでに言えば、そういう不適切な「因果応報」は、自然のサイクルとしての「輪廻」がうまくいっていないのではないかと思う。しかしながら、「輪廻」とは、動いている車に飛び乗るのとは違い、輪廻はおのずから輪廻し、人間がそれをコントロールしようとするのは、所詮、幻想にすぎず、人間は、自分を「解脱」させ、無になることによってしか、輪廻の環に加わることはできないのではないか? つまり、肉を食わないのは勝手だが、だからといって菜食が輪廻にかなっているというわけではなく、われわれに与えられている選択は、断食するか、世俗に生きるかのいずれでしかないということだ。
◆リンクレイター映画ではおなじみのイーサン・ホークがアンバーの叔父役で出ているが、彼は、まさに「スラッカー」世代であり、この映画でも、「嫌いな仕事は一切しない」人生を送って来たという設定。彼は、アンバーに、「革命は若いときしか起こせない」と言ってアンバーをたきつける。このへんは、リンクレイターの本音だろう。
(映画美学校第2試写室/トランスフォーマー)



2007-12-05_1

●迷子の警察音楽隊 (Bikur Ha-Tizmoret/2007/Eran Kolirin)(エラン・コリリン)

Bikur Ha-Tizmoret/The Band's Visit
◆30分より少しまえに行ったら、宣伝の人は来ていて、試写室も空いているのに入れてくれなかった。通常、こういう場合には、列をつくらせたり、番号札を配ったりするが、それもしないので、開場になったとき、あとから来た人が先に入場する始末。試写会場の基本がわかっていない感じ。でも、いまや試写室の「アエロフロート」となった感の映画美学校第2なら仕方ないか。
◆この映画に関し、イスラム教徒のエジプト人、しかも警察の音楽隊が「敵国」のイスラエルの「アラブ文化センター」の開幕式に招待されて来たが、招聘先の手違いで空港からとんでもないところに行ってしまい、緊張が走るが、たまたま「演奏」した「サマー・タイム」のおかげで、さもなければあぶない関係の二つの民族が融和的な関係になる――といった要約を目にした。全然ちがうのだ!
◆招待されて来たが、出迎えがなく、自力で似た名前の場所に行ってしまうというのはそのままである。が、冒頭にあらかじめ「かつてエジプトの警察音楽隊がイスラエルに来たことがあったのだ。おぼえている人は少ない」というテロップが出るように、この映画の舞台は、アラブ・イスラエル関係の雪解け期であるということを最初におさえる必要がある。つまり、イスラエルを訪ねたエジプトの警察音楽隊の連中には、いま考えるほどの政治的緊張感を感じてはいなかったということだ。彼らが緊張しているとすれば、それは、日本人が初めて集団で外国旅行をしたときの緊張感や、世界競技などで国家を代表して来るグループなどがいだく緊張感である。
◆ジャズは何度も出ては来るが、それで両民族が緊張を解くわけでもない。映画を見るまえに、「サマー・タイム」がどうのこうのという文章を読んだとき、アラブとイスラエルとのあいだにあるアメリカの存在がそういう形で示唆されているのかとも思ったが、全然そうではなかった。この映画は、民族と民族との映画であるよりも、もっと個人的なレベルを鋭く描いているところが面白いのだ。
◆音楽隊の団長のトゥフィーク(サッソン・ガーベイ)は、年齢もほかのメンバーより上に見えるが、貴族的な威厳すらただよわせる。最初は、規則大好きの役人かと思ったら、息子に自殺され、妻も失うという悲しい過去の持ち主であることがやがてわかる。寡黙な彼の口を開かせたのは、彼らがまちがってたどり着いた町の食堂の女主人のディナ(ロニ・エルカベッツ)で、何でもあけすけなく語る彼女と、古風な男との対置が面白い。そのあいだに、この音楽隊のなかでは一番プレイボーイ的なカレード(サーレフ・バクリ)がいる。
◆迷い込んだ町で一夜をすごすわずかの時間のなかで起こるいくつかのエピソードがなかなかうまく描かれていて、あきない。カレードが、知りあった若者がシャイで、クラブに行っても、これまたシャイな相手の女性に自分の気持ちを伝えられないのを助けるシーンとか、トゥフィークがディナと出かけ、彼が次第に心を開いて行くシーン、隊員たちが食事に招かれたいえが、たまたま主人の誕生日の祝いの席で、ちぐはぐな雰囲気が流れるシーン(ここで、「サマー・タイム」をいっしょに歌い、座がなごむわけだが、そのまえのちぐはずさは、政治的な感情とは無関係だ)等々。
◆ロニ・エルカベッツが演じるユダヤの女は、ある種のユダヤ人女性の典型を見せてくれる。トゥフィークとカレードを自分の家に連れて行き、西瓜をふるまうときの西瓜の切り方の「粗雑さ」がなかなか実感的だった。ユダヤのこういう女性には、何人にも会ったことがある。疲れるが、押しつけがましいほど親切で、性的にも肉感的なのだ。グループ・シアターの開祖の一人ハロルド・クラマンは、かつてインタヴューしたとき、「ユダヤ人というのは、物質的で性欲的な民族ですよ」と言っていた。ちなみに、彼もユダヤ人である。
(映画美学校第2試写室/日活)



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●歓喜の歌 (Kanki no Uta/2007/Matsuoka Joji)(松岡錠司)

Kanki no Uta
◆30分まえでほぼ満席。出演者たちのちょっとしたしぐさにも場内からどっと笑いが上がり、通常の試写会とはちがう。よくもわるくも、日本の試写室の反応は、どんなに「面白い」作品にもこれほど笑いが上がることは少ないからである。だから、それだけ、この映画が面白いという判断するのは短絡だろう。現に、わたしのとなりの男性は、あらかじめ配給さんが確保してあった席に上映まじかに滑り込んだのだが、上映中一度も笑い声を上げなかった。それどころか、何度も時計を見、なぜか両手を手話のように空中で踊らせるので、スクリーンを見つめているわたしの視界にその動きが入り、落ち着いて映画を見ることができなかった。
◆それぞれに癖のある俳優をこれだけ多彩にそろえた作品は久しぶり。先が読めるし、ありがちなパターンで構成している(むろん意図的に)わけだが、出演者たちのバックグランウドと、そういう彼や彼女たちがこの映画で演じている役とのギャップや近さを考えながら見るのも面白い。
◆キャスティングのユニークさは、奇抜なキャスティングをせず、むしろ「いかにも」のキャスティングをしているところだろう。それは、出来そうでできない。「ありがち」を避けようという意識が働くからだ。が、ここでは、笹野高史にビルの管理人をやらせるとか、自宅にこもってアニメを見、その吹き替えに熱中しているオタク(映画では「ニート」)を波岡一喜にやらせるとか、塩見三省に自家足袋が似合いそうな建設会社社長をさせる等々、いかにものキャスティングもいとわない。藤田弓子がむかし、「がんばり娘」役を演じていたのを知っている者には、彼女が、入院中の夫の経営する中華料理屋と自分のリフォーム洋裁店とをかけもちでやっているのなど、それだけで笑える。
◆原作の立川志の輔の師匠を立てて立川談志に寺の住職役をさせるのは、そつがなさすぎるが、渡辺美佐子が、かわいくて綺麗な(ちょっとボケが来ている)お婆さんを演るとは思いつかなかった。由紀さおりも、あの一重まぶたと、急速に風格をつけ、横にひろがった(昔は細みだった)顔を大いにいかし、アッパーミドルで「みたまレディスコーラス」という奥様コーラスグループを仕切っている(当然傲慢さもひそめている)役をやらせるのも、なかなかニクいキャスティング。『ミス・サイゴン』でならした歌のプロでもある平澤由美が、スーパー
でやけに通る声で「いらっしゃい、いらっしゃい」をやっていたかと思ったら、コーラスの練習のとき、とびきりうまい声で歌うシーンがある。これは、平澤の技量からすればあたりまえなのだが、映画ではどこにでもいそうは「小娘」で出てくるので、なかなか新鮮だった。
◆基本には、「社会批判」があるが、最後にはそれが「うやむや」になるところも、「落語」的であり、日本って、こういう感じで今後の百年もやっていくのだろうなと思う。
◆小林薫が演じる市立「みたま文化会館」の主任は、与えられたポストで、与えられた仕事を卒なくこなして、あとはスナックで「外国人ホステス」に入れあげるという「役人」。仕事に情熱はない。卒なくやっていれば、特に余分な仕事はしなくてもよい。たしかにこの手の「役人」はごまんといる。企画なども「先生」方に役を振り、特に問題がなければ、何年も同じプログラムをくり返す。防衛省の問題も、このロジックのなかにある。ところが、こういう官僚組織は、ちょっときしみを起こすともろい。この映画の場合は、文化会館の晦日のブッキングをだぶってしてしまったこと。しかも、この市には、アッパーミドルのおばさまたちがやっている「みたまレディースコーラス」と、どちらかというとワーキングクラスの女性たちがやっている「みたま町コーラスガールズ」というのがあって、そのどちらもが、大晦日の同じ時間帯を予約することになってしまった。さあ、どうする「主任」さん?
◆ここには、いま確実にギャップが広がりつつあるアッパーミドル・クラス対ワーキング・クラスとの「格差」の問題も見え隠れする。公民館のような「公共」(パブリック)施設は、階級差別なく「市民」の権利を満たすはずのものだが、問題は、その「市民」が「格差」をかかえている場合、そのすべてが「公共サービス」の恩恵を等しく受けてもよいのかである。この映画の「みたまレディースコーラス」のメンバーたちは、「みたま文化会館」ではない使用料が高額の民間のホールを借りようと思えばできなくはない階級の人たちだ。が、金持ちはより高い税金を払い、低所者は、より低い税金を払う。だから、公民館のような公共サービスは、金持ちでも貧乏人でも、先着順で利用できる。そして、それだからこそ、公共サービスを提供する役所側は、手を抜いてはいけない。この映画は、ある意味で、公共側が、その使命にあらためて目覚めることを描いたドラマでもある。
◆では、その場合、公共スペースは、どの階級に向いたスペースであるべきなのだろうか? バブル期に、日本中でイヴェントホールが建てられたが、その仕様のスタンダードは、「国際会議が可能」、「公開録音が可能な設備と環境」といったもので、えらい馬鹿金をかけて、豪華ギンギンのものを作るところが多かった。おかげで、やろうと思えば、どこの市でも「国際会議」や「公開録音」が出来る条件はととのったが、そんな目的で使われることはめったにないから、多くの場合、場違いな使い方をしたり(この映画の冒頭に、「豪華」なホールのステージで、老人たちたカラオケまがいのことをやっているシーンがある)、地元とは無縁の「メジャー」指向の公演が打たれたりするわけである。その土地にどんな人が住んでいるのかとは無関係に建てられた公共施設が多いのだ。
◆「格差」は、どんな市にも入れ子状に広がっているから、その市の見える「顔」に合わせて「公共」スペースを作れば、ふだんは見えない「顔」の方から文句が出る。「公共サービス」の側は、こういうジレンマに悩まされ、あげくは、この映画の飯塚主任(小林薫)のようないいかげんが一番賢明で無難な行政の対応ということになってしまう。基本の問題は、いま、「公共性」というものそのものが、意味をなさなくなっている点だ。
◆いま、最も「公共的」(たとえば遊歩道がたっぷりあって、緑もゆたかな都市空間など)に見える空間は、大企業のビルのまえや周囲であることが多い。広い歩道は、市や都のものではなく、私企業(プライベート)の慈善(チャリティ)として提供されたものなのだ。そのおかげで、そういうスペースを「私有」していない個々人は、都市のなかでつかのまの「公共的」な気張らしが出来るというわけだ。
◆西欧的な概念としての「パブリック」は、もともと、「金持ち」階級の「チャリティ」としてあたえられた。「パブリック」なものを使うのは、「貧乏」階級で、「金持ち」階級は、そういうものには近づかなかった。それは、日本でもある時代まではそうだったが、戦後、一億中流化の幻想が昂進するなかで、そういう「住み分け」は崩れた。そして、本当は「チャリティ」をするべき立場にある「金持ち」階級が、「貧乏」階級と同等の市民的「権利」を主張するようなことが起こりはじめた。
◆この映画でも、ダブルブッキングがわかったとき、「金持ち」階級の「みたまレディースコーラス」の側は、「みたま町コーラスガールズ」に会場を譲るのが道義だった。しかし、この映画は、階級格差をこえて、人々が連帯することをよしとしている。その点で、安田成美が見事に演じている、「フリーター」的な夫を持つ横断的階級の人間が、さわやかな笑いで、両階級をつなぎ合わせてしまうのは、いかにも日本的である。
(京橋テアトル試写室/シネカノン)



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●KIDS (Kids/2007/Ogishima Tatsuya)(荻島達也)

KIDS
◆乙一の小説には、個々人がいまの時代に直面している(と思われている)心の微妙なレベルに触れるような繊細な描写があり、同時に、そういう「現世」的な世界とシュールな世界とのあいだを柔軟に横断するシュールな要素がある。この映画は、乙一の『傷―KIZ/KIDS―』の映画化だが、そうした乙一的なフィーリングをかなりうまく描きながらも、映画という形式の限界からか、最後は、乙一のシュールな部分を、そのまま映画的スペクタルに移してしまい、乙一的な繊細さやシュールさが観客サービス的なサスペンスのレベルに低落してしまった。主役の玉木宏、小池撤平がいい。栗山千明は、これまでとは別の顔を見せる。
◆海辺が近い工場地帯の町。グループといつももめ事を起こしている「男」っぽいタケオ(玉木宏)と、どこからともなくやって来た「子供のときには女の子に見られた」というアサト(小池撤平)を対照的に配置し、そのあいだに、いつもマスクをしているわけありの女性シホ(栗山千明)を置くのは、ありがちな構成だが、だからといって、ここでトリュフォーの『ジュールとジム』(突然炎のごとく)的な関係に向うわけではない。
◆いま、日本では、「純愛」や「やさしさ」や日本流の「ポリティカル・コレクトネス」(あえて翻訳すれば、「やっぱし社会はこうあるべきでしょ」的な「公正」の尊重とでも言うか?)が流行っているが、この映画も、若干その傾向にそまっている。荒れ果てた公園の片付けや修理をするシーン、最後の「人助け」などのシーンが、その典型だが、原作はもう少し屈折していると思う。
◆アサトもタケオも親の問題を背負っている。タケオの父は病院で「植物人間」になっている。アサトの父は死に、母は刑務所にいる。母は息子を憎んでいるらしい。2人の出会いのなかで、そうした関係がかわっていく。
◆それぞれに「傷」を負っている3人が出会うのが「ダイナー」(昔流には「喫茶店」だが、ニュアンスがある――むろんもとは英語のdinar(簡易食堂)から来たのだが、日本独特の意味あいになっている)というのも、ありがちなパターンではあるが、喫茶店ではなく「ダイナー」であるところがちょっぴりちがう。
◆この映画で面白いのは、いま流に「傷」=トラウマが問題になっているのだが、その「傷」が「肉体」のそれと「心」のそれとの両方にまたがっていることだ。そして、アサトには、(肉体的)な傷を移動させる超能力がある。移動だから、直すのとは違う。移動した傷は、どこかに(傷のはきだめ?)蓄積される。このへんは、しつこく考えると面白い。
◆傷をいやすという言い方は、「トラウマ」という言葉とともによく使われるが、心ははたして傷を負うのだろうか? そして、心の「傷」は、肉体の傷がいえるように、いえるのだろうか? 「Trauma」は、もともとは、「外傷」を意味した。すり切れたり、破れたりした傷だ。だから、それは、縫合したり、包帯で保護すれば、癒える可能性がある。が、心には、「外」と「内」の境がない。皮膚や肉は、何らかの攻撃や打撃で「外傷」を受けるが、心は、言葉や表現によって「傷」つく。が、その「傷」は、ある言葉や表現を理解したり誤解したりした結果であるから、その記憶が続くかぎり、癒えることはない。心の「傷」はいえるのではなく、忘却されるにすぎない。あるいは、心は、「傷」つくのではなく、自分が好まない記憶を押しつけられることによって、その記憶に苦しむのだ。それは、「傷」とはちがう。だから、逆に、「無神経な人」つまり記憶しない人は決して「傷」つくことはない。
◆この映画の登場人物たちは、いずれも、幼いときになんらかの肉体的な暴力を受けた経験がある。が、それがこころに重い「傷」を残しているとすれば、それは、肉体に残された外傷のためではなく、そうした暴力を受けたという記憶の重さのためである。この映画で、アサトは、他人の肉体的「外傷」を一旦自分の体に移し、それからそれを他人に移す。が、問題は、外傷が消えたからといって、その外傷を受けた記憶が消えるわけではないという点だ。超能力者のアサトにも、記憶の操作はできない。
(東映第1試写室/東映)



2007-12-03

●アイ・アム・レジェンド (I am Legend/2007/Francis Lawrence)(フランシス・ローレンス)

I am Legend
◆雑草が生え、ひと気のないマンハッタンを、犬を連れたウィル・スミスが車で走る予告編を見て、なかなかいい感じだと思った。癌を直すはずの人工ウィルスの発明によって生態系のバランスが崩れ、致命的なウィルスが蔓延し、ニューヨークは、壊滅状態になってしまったという設定。しかし、本編を見ると、人間は死滅したのではなく、凶暴なゾンビと化し、生存者を襲って、次々にゾンビの仲間に加えていくのだった。映画は、むしろ、そのホラー的な部分が見せ場で、人間のいなくなった場所で一人の人物がいかに生き抜いていくかということは、あまり深くは描かれない。その部分は、予告編ですべて言い尽くされているのだった。
◆別に「孤独」の描写が好きなわけではないが、予告で見せる寂寥感がなかなかリアリティがあり、こちらで押していったら、なかなか面白い作品になったのではないかと思うのだ。むろん、この映画は、リチャード・マスシンの同名のSF小説の映画化であり、多数の人間が「人間ならざる者」になるというのが物語の前提だから、そこを抜かすわけにはいかないのかもしれない。だが、これまでの映画化のなかで、シドニー・サルコウとウバルド・ラゴーナの『地球最後の男』(The Last Man on Earth/1964)では、その「亡者」たちはゾンビというよりも「痴呆者の群れ」で、それらとの闘いの描写はぐっとおさえ、主人公の心理的葛藤の方に焦点を当てていた。今回の作とくらべると、作りは地味だったが、モノクロがうまくいかされ、不条理な寂寥感がよく出ていた。主役のヴィンセント・プライスもよかった。映画のレベルは、こちらの方が高いように思う。
◆その後、このマスシンの原作は、ボリス・シガールによって映画化されている。『地球最後の男 オメガマン』(The Omega Man/1971)だ。本作の冒頭部分は、ほとんどそっくりこの作品を継承している。そこでネビルを演じているのがチャールトン・ヘストンだから、ウィル・スミスの甘さはない。場所もマンハッタンではなく、ロサンジェルスだが、ひと気のない街を車で走るところはよく似ている。ただし、すぐにヘストンらしく、機銃を乱射し、「敵」を倒す。その場合、右翼のヘストンが出ているだけあって、この「敵」は、顔を白く塗ったりしているものに、明らかに黒人などのマイノリティで、しかも、ゾンビではなくて、ちゃんと意識があるのだ。細菌も、中国とソ連とが戦争を始め、細菌爆弾が使われてためにこういう事態になったという設定なのだ。本作では、さすがこういう時代錯誤はつかえないので、「冷戦から内戦へ」さらには体外から体内の戦争へといういまの動向にふさわしい内容に変わっている。
◆今回の新作『アイ・アム・レジェンド』には、「地球最後の男」になってしまったという孤立感や、もうとりかえしがつかないという切迫感がシガール作品より弱い。
◆ウィル・スミスが、AMの放送で呼びかけているというアナウンスが流れる。『地球最後の男』(1971)では、プライスが受信機(+送信機?)で周波数を変えながら、呼びかけるが、反応がないというシーンがある。今回「AM」という言葉が使われているのが興味深かった。いまラジオというとFMで、それが2010年ごろから世界中、デジタルになることになっており、AMは、過去のものだと思われている。すでに、先日、ヨーロッパのいつくたの都市でAMバンドをチェックしてみたら、もうほとんど使われていなかった。しかし、アンテナはかさばるが、AMは遠くまで電波が届くので、非常事態というときになると復活するかもしれない。
(サロンパス・ルーブル丸の内/ワーナー・ブラザース)




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