粉川哲夫の【シネマノート】
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2006-12-26

●デジャヴ (Deja Vu/2006/Tony Scott)(トニー・スコット)

Deja Vu
◆明日は用事が入っているのでこれが今年最後の試写になる。あいにく雨。なぜかブエナビスタへ来るときはよく雨が降る。地下鉄の乃木坂駅を出て進むと、国立新美術館の建物が見える。トンネルの下の壁に壁画が描かれている。大きいカメラを持った人たちが写真を撮っている。下に作者の名前が表示されているので「壁画」と書いたが、体裁は「グラフィティ」に近い。グラフィティであれば、その上に誰かが絵を加えたり、場合によっては原形をとどめなくされることもある(そういう「匿名性」がグラフィティの特徴)が、この場合はどうなんだろう? 監視カメラなんぞで監視付の「壁画」になりそうな雰囲気。ブエナのビルの入口でいつも席がかちあうO氏の姿。やばい。
◆女性が黒い涙を流す「映画が盗まれている」の「海賊版撲滅キャンペーン」のあたらしいバージョンを初めて見た。なんか苛々した気持ちにさせられる旧版は、いまでもJIMCAI(日本国際映画著作権協会)のサイトで見ることができるが、新版はアニメ調で、もっと疲れる。試写を見に来る人にこういうものを見せても意味があるのかなぁ?
◆タイムスリップ系の作品だが、機械装置である日時にタイムスリップする「バック・トゥ・ザ・フューチャー」式の要素と、どういう仕掛けでタイムスリップしたのかはわからないがズレを起こしてしまった時間のはざまで観客に期待と驚きのドラマをもたらす両方の要素を融合している。後者の系列で最近のものでは、『椿山課長の七日間』、『イルマーレ』、『この胸いっぱいの愛を』などが思い出される。『イルマーレ』ではポストが、『この胸いっぱいの愛を』では(墜落する)飛行機が、タイムスリップのインターフェースになっていたが、どうしてタイムスリップできるのかは明示されない。『デジャヴ』の場合は、装置を使ってタイムスリップするのであるが、その装置の仕組みがいまのテクノロジーでは十分想定できる範囲で構想されていながら、かなめのところは「時間の謎」に回帰するようなつくりになっているところが、新しいといえば新しい。
◆発端は、あのハリケーン「カトリーナ」に襲われたニューオリンズのミシシッピー川を運行するフェリーの爆破事件である。543名の犠牲者を出した事件を調べるATF (アルコール・タバコ・火器局)の捜査官デンゼル・ワシントンは、FBI捜査官のヴァル・キルマーに案内されて、アダム・ゴールドバーグが指揮する特別チームの施設に行く。そこでは、7基の軌道衛星をつかって地上のあらゆる動きを記録している。この装置を使って事件当時の船およびその関連する場所のスキャンをしようというわけだ。ただし、この装置には、あらゆる場所をシームレスに観察できるが、その映像は「4日と6時間」まえのものをリアルタイムで見るという制限がある。映っている映像を記録することはできるが、場所の選定は一回しかできない。「4日と6時間」にかぎられるのは、メモリーの容量の問題だということだが、それなら、何とかなりそうな気もするが、そういう設定がないと、ドラマに緊迫感が出ないのかもしれない。
◆いま、普通のパソコンで「Google Earth」が動くが、静止画ながら世界中を上空から俯瞰し、ズームして一軒一軒の家までながめ、さらにパンしてその家の側面まで見ることができる。静止画は、ひんぱんに更新されているので、建築物の変化などは容易に知覚することが出来る。これをもっと高度にしたのが「スパイ衛星」であり、これならば、地上を走る車のナンバープレイトでも識別可能らしい。むろん、動いている人間もリアルタイムで知覚し、いまでは、『ピースメーカー』(1997)のときにはフィクションだったことが、具体化されている。そういえば、同じくジョージ・クルーニーが主演している『シリアナ 』(2005)に出てくるミサイルによるアラブの王族暗殺のシーンでは、無人偵察グライダーから地上を監視する映像がスリルをもりあげたが、このシーンの映像ほど鮮明ではないにしても、いまの軍事技術では、ほとんど似たことが出来るらしい。
◆もし「Google Earth」の静止画が、1秒間に24枚更新されれば、映画の映像と同じ環境が成立する。むろん、それを全世界にわたって行なうのは、まだ無理である。しかし、「スパイ衛星」は、たとえば北朝鮮の核施設の周辺を常時毎秒15コマぐらいの頻度で監視撮影をしている。つまり動画撮影をしているわけだ。『デジャヴ』では、これを俯瞰だけでなく、全方位的に、しかも部屋の内部にいたるまで行なえる装置があるという設定になっている。一体、個々人の家のなかをどうやって監視するのかという疑問がわくが、『マックス・ヘッドルーム』的な世界が現実化すれば、それも不可能ではないかもしれない。実際、いま建物のあちこちに監視カメラが付き、それらが無線でリンクされたりもしているから、回路のハック仕方では、そうした監視映像を統合し、全方位的な監視システムを組むことも、場所を限定すれば可能である。
◆その意味で、この映画は、タイムスリップのサスペンスドラマとしてだけでなく、未来社会への批判的なイメージをすりこませてもいる。ここでは、ドラマ性の必要上、リアルタイムで過去をスキャンするという設定になっているが、いますでにあるVR技術を使えば、ある特定の条件がそろったとき、それをモデリングして、ヴァーチャルな空間を構築し、そこで殺人なりテロが起こったことを「再現」的にシュミレートすることが出来る。その簡易な例は、交通事故や殺人などをテレビのニュースが説明する際に使われている。
◆この映画のいいところは、理論的には可能な技術を使い、そのうえ、その技術性を誇示しないところである。デンゼル・ワシントンが、フェリーの爆発後、川から発見されたポーラ・パットンが鍵を握っているとみて、彼女の事件当日の「過去」にタイムスリップするシーンでも、その装置は『ザ・フライ』のように仰々(ぎょうぎょう)しく見せることはしない。それは、基本的に、人間の身体をデジタル情報に分解し、異なる時空に移しかえてからサンプリングするという装置である。ちなみに、映画に出てくるタイムスリップ・マシーンは、国防総省のDARPA (国防高等研究局)のためにカーネーギー・メロン大学が実際に作った無人ロボットカーを流用しているという。それでふと思ったが、このマシーン「H1ghlander」は、無人ロボット車だと思われていたが、本当は、DARPAが「テレポート」の実験のために作ったものだったのか?
◆まえにも書いたことがあるが、時間は、連続であるとはかぎらない。アウグスティヌスは、『告白』のなかで、時間について知っているつもりでいても、いざ「時間とは何か?」と問われると、さっぱりわからなくなると言っている。マルチン・ハイデッガーは、『存在と時間』の思考をこの引用から始めるが、結局、時間への問いは、「何か?」という形では問えないということに行き着く。ハイデッガーに影響を与えたアンリ・ベルクソンは、時間を比喩的に(いわば印象派絵画の方法で)問う。彼の時間論というより、彼が時間を論じるスタイルをまねて無責任に言うと、時間は、映画の駒のように断続的に流れているのかもしれない。あなたにやや特殊な能力があれば、映画を見ながら、その24駒のあいだの区切りを知覚することができるかもしれない(目を1秒間に24駒以上の速さでしばたたかせれば、可能かもしれない)ように、時間のとぎれ(それは無だろう)を直覚(ちょっかく)できるかもしれない。
◆時間が断続的に流れているとすると、一つの駒が途切れた瞬間に、別のトラックにまぎれ込んでしまうということもありえるだろう。人の死というのは、そういう瞬間かもしれない。普通の「生」は、上映中の映画のように、視覚的にはわからない度合いで断続しながら流れているが、あるとき、それが別のトラックに逸脱してしまう。しかし、そうだとすると、いままで流れていたある「生」が、突如、別のトラックにつながってしまうということもありえるだろろう。「狂気」や「天才」は、そういう逸脱の「生」なのかもしれない。
◆映像や音の編集は、この映画で描かれるタイムスリップと時間操作をあたりまえのこととして行なっている。だから、映画のタイムスリップものは、どんなに幼稚なものでも楽しめるのだ。ジル・ドゥルーズは、映画のスクリーンと脳とをアナロジカルな関係でとらえる。つまり、われわれは、映画を見ながら、自分の脳が外化されたものに立ち会っているのである。だから、脳をいじれば(ということは、「脳外科手術」をするということではなく、「思考」することだ。こちらの方が本当はもっとラディカルないじり方なのだ)タイムスリップはできるということでもある。「想像」とか「妄想」という言葉は、もっと現実的なものとして考えた方がいい。つまり、われわれは、つねにすでにタイムスリップをし、時間を操作しているのであり、映画のタイムスリップものは、その「わかりやすい」事例でしかないのだ。
◆ヴァル・キルマーは、ずいぶん肥ってしまった。ジム・カヴィーゼルは、この映画では、一目その顔を見ると、その役柄がわかってしまう役をしている。この映画で最高の演技はポーラ・パットンかな?
◆ワシントンが、ブルース・グリーウッドに会ったとき、「オクラホマでいっしょだったね」と言うが、これは、1995年にオクラホマで起きた連邦ビル爆破事件の際にいっしょに捜査に加わったという意味。この事件のときは、当初、イスラム系の「過激派」の犯行という見方が浮上し、捜査が進められたが、最終的に、ネオナチ系の2人の青年が逮捕された。爆破の方法は、当初、車に仕掛けられた爆薬によるものとされたが、いまでは、複数の高性能爆薬が使われたという説もある。そうなると、たった2人のネオナチ青年では無理で、「内部犯行説」も出てくるが、主犯はすでに処刑されてしまった。『デジャヴ』の場合、最初の爆発は車に仕掛けられた爆薬によるが、その火が機関部分に引火し、大爆発を起こしたということになっている。この場合、「内部犯行説」も出てくるようなあいまいさを導入すると、もっと面白くなったのではないか?
(ブエナビスタ試写室)



2006-12-20

●愛の流刑地 (Ai no rukeichi/2006/Tsuruhasi Yasuo)(鶴橋康夫)

Ai no rukeichi
◆寺島しのぶは、普通の意味での「美人」ではないが、それもまた「美人」かと思わせる色気のある女に変容できるような実力を持った女優だ。ヒロインは、彼女のそんな特性が活きるキャラクター。読書が好きで、豊川悦司演じる小説家の作品に入れ込んでいる。そんな彼女が、元編集者で豊川を知っている友人(浅田美代子)から小説家を紹介され、次第に愛しあうようになる。彼女には夫(仲村トオル)がいるが、関係は醒めている。彼は、絵に描いたような会社マンで、いつも帰りが遅い。絵に描いたようといえば、すべてがそう。そもそも渡辺淳一の原作がそうなのだから、仕方がない。
◆かつて、斉藤美奈子だったか、渡辺淳一という作家は、女を馬鹿しているというようなことを書いていた。彼は、独身女も主婦も、暇をもてあますと、男とやることばかり考えているといった偏見をもっているのではないか、と。まあ、そういうスタイルを見つけ、そのパターンをくりかえしているのが渡辺淳一方式なのだから、憤(いきどお)っても仕方がないが、その点では、この映画は、原作より奥行きがある。監督の鶴橋康夫はがんばったというわけだ。
◆しかし、ここで描かれているセックスは、ホモセクシャリティやポリセクシャリティといった20世紀には遅くとも認知されたセクシャリティの奥行きはない。豊川は、つきあううちに、初見とはうらはらの寺島の反応に、「3人も子供を生んだ女」が、あんな歓喜の極みに達することができるのだろうか、と自問し、行きつけのバーのマダム(余貴美子)に尋ねる(これも、実に月並みだ)。セックスの強度は、ここでは、単に女のあえぎの激しさでしか測られていない。
◆歓喜の極みに、寺島は、「殺して」と言い、豊川は、その求めに応じて首を絞める。大島渚が『愛のコリーダ』で描いた阿部定のパターンだ。こちらは、女が男の首を絞めたが、映画は、その逆で、その結果、豊川は、殺人罪に問われる。殺しはしたが、それは愛だったんだというのが、豊川の主張だが、そんな個別価値的(そう思えばその通りだし、思えない奴からすれば無価値)なことをぐたぐた問題にするのも渡辺淳一流。
◆よくわからないのが、豊川を調べる検事(長谷川京子)の存在。というよりも、長谷川が色気を見せながらふるまう理由がわからない。あまりに意味ありげなしぐさで登場するので、ひょっとすると、尋問の過程で豊川と出来てしまうのかと思った。これも、女は、いつももだえているという渡辺淳一式認識の結果か?
◆もっと月並みだと思うのは、豊川演じる作家が、寺島と出会うことで、長いスランプを脱し、彼女をモデルにした小説を書きあげるという構図。まあ、新しい愛と創作欲の昂進というのは、よく言われることだが、よく言われるということは、その構図がもう役立たないということでもある。何かには役立つかもしれないが、何も新しいことを発見させないのだ。
◆この映画には、佐藤浩市、陣内孝則、松重豊、津川雅彦のような実力派がチョイ役で出ているが、彼らが演じさせられているのは、みな月並みの月並み、つまりありがちなキャラクターをさらにありがちにしたようなキャラクターなのだ。気の毒というほかはない。
◆じゃあ、この映画には見るべきところはないのかというと、わずかにはある。それは、殺人と嘱託殺人との違いが論じられる点だ。法廷で、寺島の母(キャラクターとして)を演じる富司純子、寺島の夫役の仲村、そして豊川の三者のあいだで演じられる競演は見ものだ。ここでは、娘を殺された母が、娘の愛人(豊川)を、娘を殺した殺人犯と娘を愛した人間との二重性のなかで理解しようとする屈折した感情と思念を富司が見事に演じ、他方、そんな二重性など理解できない「フツーの常識」というわくのなかで生きている人間の疑問といらだちを、仲村が地味に演じている。母親のように理解してくれれば、話は早い。が、夫の疑問は一蹴できるものではない。両者が等価に提示され、そのはざまで豊川が苦しむという構図は悪くない。
◆この部分は、性愛のはてに犯した殺人という例よりも、余命いくばくもない病人が愛する者に殺害を依頼する場合の方がわかりやすい。嘱託殺人であれ、罪を問われるわけだから、ある程度の覚悟がなければ出来ない。その覚悟を「愛」と呼ぶのか、それとも、「親切」と呼ぶのかは、議論が分かれる。そして、この問題は、「人はなぜ人を殺してはいけないのか?」という問いに行き着きもする。今年、わたしの友人が自らの命を絶った。それは、わたしにとって、肉親の死よりもショックであり、深い喪失感をあたえた。が、人にショックをあたえ、悲しませるから自殺してはいけない、まして人を殺してはいけない――というロジックは、万全ではない。人は、死ぬことが出来る、そして必ず死ぬべき存在であるかぎりで、自ら死ぬこともあれば、また人を殺すこともある。意図的に自分や他人を殺さないのは、逆立ちをして歩くことはめったにないのと同じ程度の偶然ではなかろうか?
◆寺島は、最初京都に住んでおり、豊川と京都で出会うのだが、その後二人が逢い引きを交わすのが、JRの京都駅ビルにある「ホテルグランヴィア京都」。このホテルは、最近、評判がいい。京都のホテルは、目下、猛烈な競争下にある。外資系の新しいホテルもいくつか建設中であり、古いホテルは苦境に立っている。大分前に「京都ホテル」が「京都ホテルオークラ」に変わり、オークラの傘下になったように、合併や身売りが進んでいる。駅前にもたくさんホテルがあるが、どれも駅に近いという点をのぞけば、味気ないところばかりだった。が、グランヴィアは、便利さの点では、駅とドア・ツゥー・ドアであるうえに、それなりの雰囲気を持っている。市内に泊まっても、どのみち駅には来るのだから、それなら駅構内のグランヴィルへという発想がなりたつ。しかし、わたしの好みからすると、ホテルは散策するストリートから近い方がいい。わたしは、駅の周辺はあまり散策しないから、グランヴィルには泊まらない。
◆小道具と食べ物の出てくるシーンを見ると、その映画の質がわかるというわたしの単純テーゼからすると、この映画は、失格。セックスすることが気になっているのかもしれないが、食事のシーンはおざなり。料理ぐらいちゃんと食べろよと言いたくなるし、並んでいる料理も見映えだけ。長谷川京子が使うオープンリールのデッキは何だ? 映像的に見映えがするので使ったのだろうが、いまどき、こんなテープデッキは使わない。
(東宝試写室/東宝)



2006-12-14

●ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド (Brothers of the Head/2005/Keith Fulton + Louis Pepe)(キース・フルトン + ルイス・ペペ)


◆本編のまえに『さくらん』の予告編を見せられたが、すでに見てしまった目からすると、この予告はひどい。「なめんじゃねぇよ」という啖呵を宣伝の売りものにしたいようだが、それはやめた方がいい。そのシーンは、ほんの一部でしかないし、映画は、このせりふから表象されるイメージとはちがう。
◆1975年に忽然とあらわれ、ブリティッシュ・ロック界をかく乱し、1年たらずで消えてしまった「結合体双生児」によるパンクバンド「ザ・バンバン」の誕生から終焉までを追ったという設定のこの映画は、ピーター・ジャクソンのモキュメンタリー『コリン・マッケンジー/もうひとりのグリフィス』を思い出させた。ジャクソンのは、最初から「モック」(mock)→まがいものであることがわかるが、『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』のほうは、うっかりするとだまされる。それがねらいだとすると、こういう書き方は「ネタバレ」ということになるかもしれない。
◆70年代イギリスの「隠されたパンクロック史」といったおもむきで楽しむこともできるが、わたしが面白いと思ったのは、この映画の主人公として設定されている「結合体双生児」の存在だ。といっても、わたしは、2人の人間がたがいに結合しており、その状態で、一方が女を愛し、他方がそのあいだかたわらでがまんをしているといった「特殊」な(常人とは異なる)状態に関心を持ったわけではない。それよりも、人間は、いまますます、一人のなかに何人もの「人格」を抱えているということがあたりまえになってきて、この「結合体双生児」は、決して「特殊」ではないと思いから関心を持ったのだ。 だから、「結合体双生児」の一方のつっぱしりも、他方の落ち込みも、現代に生きるわれわれが日々経験していることであるという風に見ると、この兄弟の関係はなかなかせつない。
◆一人のなかに二つの人格を設定するのは、わかりやすいが、本当のところは、もっと多人格的であり、その「人格」は、「人格」という言葉で表現するには不十分な、イメージ的にもっと「ミクロ」なサイズで表現されるべきものだと思う。その点では、「結合体双生児」や轆轤首よりもキマイラの方が適切だし、頭は一つでも『スパイダーマン2』でアルフレッド・モリーナが演じる博士の身動きの方が、いまの状況にかなっている。
◆この映画は、イギリスの大衆文化のなかにある見せ物的な要素も取り入れている。この映画の「結合体双生児」は、『エレファント・マン』の影響も感じる。ところで、『オペラ座の怪人』は、舞台がパリということになっているが、「怪人」の生い立ちを示すシーンは、いかにも『エレファント・マン』風である。これは、原作者アンドリュー・ロイド・ウェーバーのバクグラウンドからすれば、当然のことだと思う。つまり、イギリス的なのだ。
◆『エレファント・マン』評でも書いたが、身体的に障害のある者を「見せもの」にすることがタブーになる背景には、単に弱者への繊細な神経と人道的な配慮が強まったという点よりも、「見せもの」の社会的・政治的機能の変化がある。このタブー化は、現実の隠蔽をとりつくとっており、きわめて政治的な操作でもある。現実は、もともと、決して「美しく」はなく、むしろ「醜い」ものだが、それをあたかも「美しい」かのように「見にくく=見えにくく」する操作がある。安倍政権が芸なく反復しているスローガン「美しい国」、「美しい日本」が、まさにそのかっこうの例だ。国家は、本来「美しい」ものなどではない。国家は、人も殺すし、戦争もする。国家の名のもとに「汚い」金を循環させる。「国民」はそれをリアルに見る権利があり、見据えることが義務だと思うが、国家の醜さをカモフラージュしてそうさせないようにするのが政治家の仕事であり、腕でもある。だから、非政治家である個々人(つまりマクロ政治の人ではなく、ミクロ政治の人)は、まずもって現実の「醜さ」を直視する必要がある。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2006-12-13

●ハッピー・フィート (Happy Feet/2006/George Miller)(ジョージ・ミラー)

Happy Feet
◆南極の氷の大地のうえでペンギンの一団のリーダーっぽいのがちょっとワルなダミ声でスペイン語の「マイ・ウェイ」を歌い、見栄を切る予告編をワーナーの試写室で何度か見るたびに、早く本編を見たいと思っていた。この予告編がかかるとき、場内からはくすくすという笑い声がもれるのを聞いたから、この作品に期待した人は少なくなかっただろう。あとで知ったが、このダミ声の主はロビン・ウィリアムズだった。しかし、この映画は、予告から想像されたピカレスク・コメディの要素よりも、一羽のペンギンの「ビルドゥングス・ロマン」(定訳ではこれは「教養小説」と訳されるが、「生長のロマン」の方がわかりやすい)にくわえて、魚の乱獲で生存をおびやかされているペンギンの目で見た人間文明のシニカルな描写まであり、子供から大人までの観客を満足させうるエンタテインメントのなかなかの力作であった。
◆映像は、モーション・キャプチャー・システムのセンサーを身につけ、さらにペンギンのくちばしの動きをシミュレイトするためのヘッドギアをつけたダンサーやパフォーマーがペンギンの動きをし、それをコンピュータに取り込んでペンギンの動きに変形するというやり方をしている。わたしがモーションキャプチャーの技術を具体的に見たのは1990年代初めにサンノゼで開かれたヴァーチャル・リアリティの会議においてだったが、そのころは、パフォーマーの身体から何本もの線がコンピュータのインターフェースにつながれていた。いまは、身体に時計のようなセンサーをつけるだけになった。レンダリングの技術も飛躍的に高度化し、この映画のような生々しく、かつかわいい映像が具体化されるようになった。この映画のペンギンは生々しいが、いまのCG技術ならもっと生々しくすることもできた。それを「童話」風にちょっとやわらげているところが、いまのCG技術の余裕でもある。むしろ、いまは、CGをCGらしくなく使うのがイキなのだ。
◆雌ペンギン、ノーマ・ジーン(声=ニコール・キッドマン)と雄ペンギン、メンフィス(声=ヒュー・ジャックマン)との出会いからはじまるので、2人(=羽?)の関係が物語の中心をしめるのかと思ったら、物語は、やがて生まれる子ペンギン、マンブル(声=イライジャ・ウッド)を中心に展開するのだった。「ノーマ・ジーン」というのは、言うまでもなく、マリリン・モンロウの本名なので、意味ありげに思ったのだ。まあ、ペンギンのコミュニティで最高の歌姫とみなされ、つまりはもっともセックスアッピールのある雌ペンギンという設定ではあるが、「ノーマ・ジーン」とくると、もっと期待がふくらむ。
◆マンブルが生まれるまでのプロセスは、『皇帝ペンギン』で見たのとほとんど同じシーンをCGで見ることになる。ノーマ・ジーンが卵を生み、メンフィスが育て、ノーマ・ジーンは、餌を採りに旅に出る。そのあいだにメンフィスは、卵を暖め続け、やっとマンブルが生まれる。
◆マンブルは、足が「普通」ではないが、「障害児」でイジメを受けるということを暗黙に描きながら、同時にそれをはずす設定にしているところがうまい。彼は、足が自然にタップダンスのリズムを踏んでしまう「障害」があるのだ。が、ペンギンの世界では、それは「普通」ではない。彼や彼女らにとって「普通」であるはずの歌唱能力がかぎりなくゼロにちかいのも手伝って、マンブルは、顰蹙を買い続けることになる。しかし、イジメられても、彼はめげない。
◆仲間から離れて自分だけの世界にこもることが多いマンブルだが、これは、生長にとってはよいことかもしれない。この部分には、アウトサイダーがどのようにして自律性や独立独歩の精神を身につけるかがよく描かれている。冒険→大きな鳥・・・との出会い。アデリーペンギン5人組に出会うのも、そういう孤独な放浪の成果だった。
◆ロビン・ウィリアムズが声を担当しているもう一羽のキャラクター「ラブレイス」は、新興宗教の教祖のパロディであるが、嫌みがない。彼は、人間に捕まって、首にタグをつけられた経験がある。ところで、いま、絶滅種に入ったペンギンを保護するために、ペンギンに無線タグをつける追跡調査が行なわれている。マンブルは、ペンギンが食糧難になっている元凶が人間による魚の乱獲だということを知り、人間に訴えに南極を越える。
◆人間に捕まって水族館に入れられてしまったマンブルが、ペンギンの目で人間を見ているシーンがなかなかいい。これは、異文化コミュニケーションや、動物コミュニケーションの観点からも興味深い。最後に、人間がペンギンのコミュニティを訪れるシーンは、まさに、『未知との遭遇』である。
◆ペンギンと人間とが暗黙に理解しあっているというのは、まんざら嘘ではないかもしれない。近年、人里に移り住むペンギンがいるらしい。アザラシの脅威を逃れられて、卵を育てる場所として人里を選んだのだ。と同時に、せっかく卵を生んでも暖めることをしないペンギンもいるという。なんか、子供をつくっても放置したり、折檻したりする人間と同じではないか。
◆こういう現象を、すべて「温暖化」のせいにするのが最近のはやりだが、「温暖化」という概念は「地球」や「世界」と同じように大きすぎるのではないだろうか? 『不都合な真実』は「温暖化」の危機に関してなかなか説得力があったが、「温暖化」と名づけることで、その要員が個々人の日常生活にあることがうやむやになる。日本は、世界のうまい魚を輸入し、食ってしまう人々の住む国だ。もし、ペンギンが食料不足で絶滅の危機にあるのだとすれば、日本の美食はその遠因になっているかもしれない。石油が温暖化の鍵をにぎっていることはたしかなら、石油に依存する車に乗ってはいられないはずだが、自家用車はやめても、タクシーを全く使わずに生活するのは無理である。それは、都市が自動車の機能をもとにして出来ているからだ。「遊歩都市」がベースになれば、車はなくても生活できる。しかし、世界が「遊歩都市」になるのは、今後、いつの日にか、何か壊滅的なことが起きてからでしかないだろう。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2006-12-12

●幸福な食卓 (Shiawasena Shokutaku/2006/Komatsu Takashi)(小松隆志)

Shiawasena Shokutaku
◆同じ東銀座のUIPで『輝く夜明けに向って』の試写があったが、UIPのビルのエレベータに乗ってから、変更を決心した。じきに最終試写になるからである。松竹の試写会場はほぼ満席。年令層はやや高め。女性が多い。
◆家族の物語。瀬尾まいこの同名の原作の映画化だから、ある程度ストーリーを書いてもいいだろう。父親(羽場裕一)は、3年まえに自殺未遂を起こしている。それが原因かどうかは不明だが、母親(石田ゆり子)は家を出ている。離婚したわけではなさそう。家族はほかに中学3年生の娘の佐和子(北乃きい)と、高校で天才児と呼ばれながら大学へは行かなかった長男の直(平岡祐太)がいる。映画は、何も映っていない画面で父親らしい声が、「お父さんは、今日で父さんを辞めようと思う」と語るところから始まる。 タイトルのあとで映るのは朝食のシーンで、父親はそこで息子と娘にそう宣言したらしい。が、「お父さんを辞める」とはどういうことなのか?
◆映画では、父親の自殺はしばらく明かされない。佐和子が何度か風呂場を意味ありげに見るシーンが、やがてその日のシーンにフラッシュバックする。父親は生き延び、学校教師を続けていたらしいが、「お父さんを辞める」とともに、教師も辞めてしまい、予備校教師のアルバイトを始める。
◆この映画は、人ごとのようにせりふをしゃべる古い演出法をとっており、俳優の演技力が十分に活かされているとは言えない地味なつくりだが、意外と「いま」の社会的感性をとらえている。「社会的」という意味は、感性は個々人のものだとしても、それが社会化して、一種の「時代的気分」になり、個々人が、家庭なり職場なり学校なりでいっしょになると、その集団のなかにおのずからただよってくる気分があるということである。
◆いま、わたしが世の中を傍観して感じるのは、「壊れやすい」という印象である。自分が壊れたくないから、あるいは、他人から攻撃や圧力をかけられることを極度に恐れるため、他人に対しても神経を使って距離を置く。しかし、現実には、距離ばかり取っては生きて行けない(というより、いまの社会生活がそういう「距離」を取った生活の形になっていない)ので、「修羅場」に直面すると、泣いてしまったり、「切れ」たるする。この映画の登場人物は、みな「壊れやすい」。そのなかでも、父親と母親が息子と娘よりも「壊れやすい」というのは面白い。彼や彼女にむかって「しっかりしなさい」と言っても意味がない。そうしなければならないということは十分わかっていながら出来ない自分を恥じてもいるからだ。
◆せりふはあまり説得力がないが、この映画で一番目を引くのは、出てくる食事の具体性だ。生活していれば、さまざまな料理を食べているわけだが、映画では、「グルメ」を強調するような映画以外では、日常的な料理の多様さには注意をはらわない。多くの場合、食事のシーンは手抜きである。しかし、この映画では、朝食にキンピラゴボウと煮たかぼちゃ、生卵、漬物とみそ汁が食べられる状態で出されていたり、給食のサバがきっかけで北乃きいが転向生の勝地涼と友達になるとか、食べ物が重要な鍵になっている。おそらく、「壊れやすさ」を維持したまま他人とつきあうことを可能にするのは、いっしょに食べるということかもしれまい。日本のいまの「グルメ」志向には、そういう壊れやすさの亢進という事態(その不幸な極には自殺者の増大がある)と連関しているかもしれない。
◆平岡祐太の新しい彼女・さくらは、「グルメ」志向で、高級な海苔(銘柄を見損なった)を持って中原家を訪れ、手巻き鮨を作って食べるとか、彼女の手作りのシュークリームには、必ず卵の殻がちょびっと混入していたりする(クリームを作るときにそういうことがある)とか、けっこう描写が細かい。
◆勝地涼のハイテンションのふるまいは、いずれ何かの理由でこけるのではないかということが予測できてしまうところがつまらないが、彼と北乃との関係も、距離を解体するように見えて、微妙に距離を取り続ける関係だ。それが、最後の方の出来事で明らかになる。
◆ずばりと言ったり、論争したりするカルチャーは、いま、確実に古くなり、それは、夫にづけづけいい、ときには殴っても見せる「ジャガー横田」のようなタレントによってテレビのなかでだけ維持されているにすぎない。こうなると、生活レベルから立ち上がる今後のカルチャーは、江戸の「粋」や「風流」のような方向に向うのだろうか? 『さくらん』をそんな方向で見ることもできる。
(松竹試写室/松竹)



2006-12-07

●さくらん (Sakuran/2006/Ninagawa Mika)(蜷川実花)

Sakuran
◆土屋アンナが布団に寝そべり、長い煙管を持ってこちらを誘惑的な表情で見ているハデ派手の写真をあちこちで見て、月並みな感じがした。その吹き出しに、「花魁をなめんじゃねぇよ」とあるのも、カチンと来た。こんな図柄を見て、「なめんじゃねぇよ」と言いたいのはこっちの方だ。で、あせって見ることもあるめぇと劇場試写はパスしたが、それは、むろん、わたしの偏見だった。すばらしい!それは、オープニングからすぐわかった。『嫌われ松子の一生』を「天才肌の映画」と「天才」を安売りしてしまったが、同じクライテリアで言えば、この作品は、『嫌われ松子の一生』以上に天才のひらめきが横溢した作品だ。色と光の入念な処理も尋常ではない。写真家・蜷川実花だからこそできる、映画の24コマの一つ一つのコマを一枚一枚のスチル写真として仕上げたかのような作り。
◆考えて見ると、この映画は、原作=安野モヨコ、音楽=椎名林檎、脚本=タナダユキという具合に、女性間のコラボレイションが奇跡的に成功した「女性映画」でもある。原作の遊女たちは、金持ちに「身請け」される以外に郭の外に解放されることはないが、タナダユキの脚本は、土屋アンナが演じる主人公のきよ葉、のちの日暮をぐっといまの女性のつっぱった生き方のほうへ一押し、原作に、『明日に向って撃て』的な(いや、もっといい例があるだろうが)「解放」の要素を加える。ただし、いまわたしは、「いまの女性のつっぱった生き方」と書いたが、こういうつっぱった女性は、いま逆に少なくなりはじめているのではないか?
◆脚本のしっかりしたフレイムワークに、音楽を担当した椎名林檎の多様なアレンジメントが、遊び心を加えるが、ジャズ、タンゴ、Jポップまで、いや、ある種のクラシックも入る多彩な音が、すぱっと止まって、空気の音しかしないシーンでも、土屋アンナの演技は持つ。それは、悪いが、『ナナ2』の中島美嘉には転んでもできないレベルの演技。宣伝では土屋の「なめんじゃねぇよ」が売りになっているが、彼女はそれを頻発するわけでもないし、また、それが特に決まり文句であるわけでもない。が、中島美嘉のせりふでパンチがきいているのは、「ばかやろう」と「ふざけんな」ぐらいなのである。郭のしたたかな女将を演じる夏木マリ、クールな番頭役の安藤政信もすばらしい。木村佳乃なんかは、テレビのCMでそのイメージが安売りされていて映画に出ても、そのイメージが観客の頭のなかに残光として残るハンデを負っているが、この映画では、そんな残光は完全に取り去られている。菅野美穂も、カワイイだけの女優を脱した。
◆遊女が、手練手管で男をあしらうのは当然だが、この映画では、登場する男たち、つまりは遊廓の客たちは、ほとんどすべて、女たちに笑われている。「女の映画」といえるゆえんでもある。きよ葉・日暮に入れ込み、彼女の方も惹かれて行く「誠実」そうな商家の若主人惣次郎(成宮寛貴)をきよ葉・日暮が見限るシーンは、微妙である。本来は郭の外には出られない彼女が、彼の真意を確かめるために危険を犯して彼の店を訪ねる。出てきた惣次郎が当惑の次に見せる一見やさしそうな笑いに、彼女は、決別の決意をする女特有の反応。この映画では、女の登場人物(「禿〈かむろ〉と呼ばれる幼女たちも)だけが光り、男で最後まで肯定的なあつかいを受けるのは、父親が誰かを知らぬ女郎の子として生まれた番頭役の清次(安藤政信)だけである。その点で、最初の方から登場しながら、役としても演技としても永瀬正敏の存在が空疎な印象をあたえるのは、しかたのないことか?
◆ポリモーファス(動的で多形的)なこの作品について書けば書くほど、異なるメディアへ不当な侵入をくわだてることへのうしろめたさとフラストレイションを感じる。とにかく、見テクダサンナマシ(でよかったっけ?)。
◆【2007-12-11追記】わたしとしては、えらくべた誉めだったが、1年ぶりに再見して、印象を異にした。映画を見せて話をする大学の講座で学生に見せようと、DVDを買ったのだ。300インチのスクリーンで見たのだが、映像のレゾルーションがフィルムより劣るためだろうか、映像よりも音楽の方がサエていた。プロットも凡庸である。とても、ワン・フレームづつ撮ったようには見えない。土屋と安藤が遊郭の上と下の階で見つめ合い、その上に月が出ているシーンのような美しさが随所にあるように見えたが、今回は、このシーンといくつかを除くと、大した印象を残さなかった。一言で言えば、これは、椎名林檎によるVJのような映画である。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2006-12-06

●孔雀    我が家の風景 (Peacock/Kong que/2005/Changwei Gu)(クー・チャンウェイ)

Peacock/Kong que
◆家族とは不思議なものだ。誰でも、気づくとそのなかにいる。そして、それは多くの場合桎梏である。親の存在はうざったい。完璧に自分を満足させてくれる家族などいない。早く死んでほしいと思うような親や兄弟もいる。だが、そのくせ、自分がある年令になると、進んで家族をつくろうとする。そして、親子の桎梏をくりかえす。 この映画は、そんな家族の「輪廻」を劇的にかつ淡々と描いている。見終わって、どちらかというと家族をうたいあげるアメリカ映画のように「ハッピー」な気分にはさせられないとしても、ま、いろいろあるけど、こんなもんかという半分あきらめ、半分納得の気分にさせられる。
◆毛沢東の文化大革命(文革)の嵐が吹き荒れた時代が終わった中国。が、地方にはまだ文革の極端な変動のゆがみが残っている。ただし、この映画は、文革に対して必ずしも全面否定的な態度をとっていないように見える。ある意味では、この時代ほど、個々人が個性的な時代はなかったと言っているかのようにもとれる。文革は、必ずしも全員を同じ鋳型にはめる運動ではなかった。文革によって、特権的であることへの批判は高まった。これは、確実に、子供と親との関係を変えた。親はもはやそれまでの因習的な権威を子供に対してふりまわすことはできなくなった。この映画に登場する子供たちと親との関係には、そういう状況が映し込まれている。
◆映画は、カオ家の長女ウェイホン(チャン・チンチュー)、長男ウェイクオ(ファン・リー)、次男ウェイチャン(ルゥ・ユウライ)の3人の思春期から結婚までを反復的に描く。映画は、母(ファアン・メイイン)と父(チャオ・イーウェイ)と3人の子供たちがまだ同じ家に住んでいる時代からはじまる。彼や彼女らは、こうした家族がやっているように、家のテラスの丸テーブルで身体をよせあって食事をしている。このシーンは、「はじめにテラスでの食事があった」と言うかのように、3人の子供たちのそれぞれの物語の区切りとしてくりかえし登場する。といっても、彼や彼女らは、「団欒」をするわけではなく、黙々と食事をしている。それぞれの意識のなかに、貧しさや仕事への不満、兄弟同士、家族内の問題への決してハッピーではない思いがあるように見える。
◆「楽しくない」食事風景というのは、日本の映画ではあたりまえのように見られる。というより、日本映画で家族の食事シーンを楽しいものとして描いているものはあまり多くない。が、この映画の場合、食事風景がそれほどハッピーには見えないにしても、彼や彼女らが食べている料理や食品への描写はしっかりとしており、それらは、粗末であっても、家庭の味をもった旨さがあるのだろうと思わせる。わたしにはわからないが、環境を知っていれば、彼や彼女らが、何をどうやって食べているかがわかるような映像だ。さすがは、撮影監督としてならしたクー・チャンウェイの作品である。ちなみに、この映画は、彼の第一回監督作品である。
◆映画が描く1970年代は、西欧では、パンクカルチャーが浸透した時代であった。この映画に登場するカオ家の3人の子供たちには、どこかパンクのおもかげがある。中国にパンクカルチャーが入るのは、もっとあどだが、「パンク」をもっと広い意味にとらえるならば、直接の交流のない地域間でも「構造的」にシンクロした同種の現象を発見することがよくある。いずれにせよ、ウェイホン、ウェイクオ、ウェイチャンを「パンク」だと見なせば、彼女や彼らの行動がなんとなく理解できるだろう。
◆そのなかでも長女のウェイホンは、最もパンクである。家の近くの野原に着陸する落下傘部隊に憧れ、その隊員になることを志願するが、その試験に失敗すると、大きな布をミシンで縫い合わせ、落下傘のようなものを作って、自転車の後ろに取り付け、街を走り抜ける。この女性の性格を実に生き生きと描いたシーンである。なお、このシーンには、そんな娘の姿を見つけて驚いた母親が、彼女の自転車を追いかけ、落下傘に追いすがり、2人とも転倒する、文字通り痛い落ちが付く。
◆この映画の父母は、「パンク」な娘や息子を忍耐強く育てる。3人とも、見事に両親に迷惑をかけて、はばからない。ウェイホンは、アルバイト先の保育園で幼児を床に取り落とし、怪我をさせる。手土産を持って謝りに行くのは、母親だ。長男のウェイクオは、知能に障害があり、アルバイト先の冷凍庫の扉を、上司がなかにいるのを忘れてうっかりロックしてしまう。あやうく凍死をのがれた上司のもとへ謝りに行くのは父親だ。
◆文革時代の中国には、「自力更生」という思想があり、専門家に依存しないで何でも自分でやることをよしとする気風があったが、母親は、ウェインの頭に鍼を刺し、鍼灸の治療をする。注射も彼女が自分でやる。ちらりとだが、父親がラジオを半田鏝で直しているシーンもある。
◆次男のウェイチャンになると、資本主義化したいまの中国の若者が呈示するような心の屈折(ある種の「解離」的なパーソナリティ)を見せる。問題のある兄を愛しながらも、周囲への見栄や体裁から自分を偽ってしまい、それがさらにプレッシャーになって、自分を追い込み、両親、とりわけ父親とうまくいかなくなる。
◆子供たちは、ある意味では、勝手に生きているから、何があっても自業自得という感じがするが、子供たちを忍耐強く育てる両親の姿は、見ていて辛いものがある。それが親というものだろうが、結婚して子供が出来ても、あっさりと問題を放棄することがトレンディになってしまったいまの時代(東西を問わず)から見ると、この時代の中国の親世代は、まだ家族が確固とした価値であった時代の文化を引き継いでいたのだなという思いにかられる。
◆3人の子供たちは、それぞれに異性を愛し、結婚をする。面白いことに、そうした3人のなかで、最後に一番しあわせに見えるのは、さまざまなハンデを負い、数々のいじめも受けてきたウェイクオなのだ。足に障害があるが、強気でしっかり者の妻のおかげで、2人のラーメン屋風の屋台の店は栄える。これは、家からの脱出の夢ばかりいだいている者への痛烈な教訓かもしれない。
◆音楽はフェリーニ的なノスタルジックな響きがし、孔雀の使い方にしても、監督は、明らかにフェリーにを意識しているように見えるが、この作品は、フェリーニよりももっと苦みのある作品にしあがっている。
(CINEMAT 銀座試写室/キネティック/アルゴ・ピクチャーーズ)



2006-12-05_2

●NANA2 (NANA2/2006/Otani Kentaro)(大谷健太郎)

NANA2
◆『NANA』は、明らかに、新しい映画の見られ方を作った。「メディアミックス」というのは、製作側の区別だが、観客側に文字通りの「メディアミックス」を生み出したのが、『NANA』だった。ただし、観客側の「メディアミックス」は、映画そのものに関しては、甘い対応を生む。映画の質の低さは黙認される。実際、『NANA』は、原作のマンガ、音楽、映画、そしてバブリーな主役たちのバブリーなアウラの総合のなかで観客の関心を掻き立て、それらの異なるメディアが互いに補完する力で煽り立てられた雰囲気のなかで見られたのだった。そこでは、「馬鹿野郎」や「ふざけんじゃねぇ」は迫力あるリアリティで言えるが、もっと一般のせりふの方はさっぱりの中島美嘉が、「立派な女優」として通用した。
◆さて、今回、柳の下にいつも泥鰌がいるということになるのだろうか? 前回、強力なインパクトとなった歌だが、歌そのものだけでなく、レイラこと伊藤由奈が歌うシーンの彼女の身体パフォーマンスの方が、主役の中島美嘉よりも映画的にはるかにサエている。それは、事実上、『NANA2』が出来るまでに、伊藤由奈が歌手として中島美嘉を圧倒してしまったということかもしれない。伊藤由奈のせりふは、帰国子女みたいな英語一本槍で逃げ道があるが、中島美嘉の「無愛想」なせりふは、まるで時代劇の武士言葉。なんとかしてくれよという気になる。また、今回の出演者は、前回の宮崎あおい(今回は→市川由衣)、松田龍平(→姜暢雄)、松山ケンイチ(→本郷奏多)に比して、カリスマ性が乏しい。その分、中島美嘉は当然のことながら、玉山鉄二、丸山智己、成宮寛貴らに重圧がかかるわけだが、中島は、スチルで見ると迫力があるが、普通のせりふの場面では、恐ろしく貧弱だ。丸山、玉山はそこそこにこなしているが、姜は、松田龍平にとうてい及ばない。
◆そんなこともあってか、逆説的に、またの名をハチという小松奈々役の市川由衣が、前作の宮崎あおいよりも、オバカで「フツー」の女をなかなかうまく演じているように見えた。また、松山ケンイチに代わった本郷奏多も、かすかにゲイっぽく、アンドロイド感覚のシンを新鮮に演じている。しかし、そういう逆説的な産物では、『NANA』のヒットをもう一度味わうことは難しいだろう。
◆それにしても、わたしは、市川由衣が演じる小松奈々の「フツー」さに、日々大学で接している女子学生たち(今流には「女子生徒」と言う)を思い出し、複雑な気持ちになった。市川由衣は、「こういうのいるんだよねぇ」感覚で彼女らを見事に演じている。まあ、彼女が代表しているのも「解離」感覚なのかもしれない。
(東宝試写室/東宝)



2006-12-05_1

●幸せのちから (The Pursuit of Happyness/2006/Gabriele Muccino)(ガブリエレ・ムッチーノ)

The Pursuit of Happyness
◆医療機器のセールスが思わしくなく、女房に愛想をつかされ、幼い息子をかかえながら証券会社の無給のインターンシップをやり抜いて、正式採用にたどりつく努力物語。「実話にインスパイアーされた」(inspired) アメリカンドリームを地で行くような話だが、ちょっと変。ウィル・スミスが演じるクリス・ガードナーという男は、決してタダモノではない。映画では、医療機器が売れず、おまけに駐車違反で高額の罰金を課せられ、アパートを追い出され、安モーテルでも支払いが遅れ、追い出されて教会のシェルターに息子といっしょに逃げ込む。あげくのはては、血まで売る始末。しかし、クリスのかっこうやセンスからは、いくらでもその日暮らしの金や方法を見つけ出せる人物に見える。
◆まず彼が売り歩く医療機器だが、これは、レントゲンより精密に「骨密度を測定する」機械だというのだが、それを何十台も卸し、自分の家にプールしておいて、それを自分で一個ずつ売り歩いている。価格は250ドル。時代は1981年だということになっているが、この値段でこの医療機器というのは安すぎるのではないか? クリスは、「ヒッピー・ガール」に持ち逃げされたものを奪い返したり、地下鉄のホームに落としてしまったり、その機器をけっこう乱暴にあつかうが、それでも致命的に壊れる気配はない。調子が悪くなっても、電気屋でハロゲンのランプか何かを買ってきて交換すれば、直ってしまう。いずれにしても、彼は機械に強いらしい。それだけの能力がありながら、適当なアルバイトもせずに、ひたすら「ホームレス」まがいのことをするのは、解せない。地下鉄のトイレに泊まったりするのは、これでは、ただの「趣味」ではないか?
◆夫婦は、ひょんなことからダメになるものだから、クリスの妻リンダ(ダンディ・ニュートン)が、彼の仕事の不振にさっぱり理解がなく、ほとんど彼の甲斐性のなさを馬鹿にしているのも、わからないではない。しかし、これだけ無理解になるのなら、クリスのほうにも何か原因があることをもうちょい示してもらいたい。これでは、ただただリンダが金の鬼みたいに見えてしまう。クリスがもっと甲斐性がないのでなければ、ハリウッド・ドラマ的なストーリーとしては「説得力」がない。この分では、妻の無理解にもかかわらず難関を乗り越えた男のドラマという結果から出発して、そのことをもりあげるためすべてのドラマがわざと構築されているという便宜的な設定に見えてしまう。
◆原題にある「Happyness」は、正しくは「Happiness」であるが、「i」が「y」になっているところがミソである。つまり、「Happiness」ほど完璧ではない「しあわせ」という意味だ。そもそもこのタイトルは、金のないクリスが子供をチャイナタウンにある中国人の保育園に預けるのだが、その建物の壁に「i」→「y」の落書がある。
◆クリスが最後に努力が報われてインターンシップをしていた会社で本雇いになることがわかったとき、クリスは、「やったぁ!」と笑顔で叫ぶのではなく、涙を流す。これは、日本人が同じようなシチュエイションに遭遇したときの反応に似ている。最近は、スポーツの競技大会などでも、日本人の選手も、勝ったときにアメリカ人的な笑顔とゼスチャーをする。が、アメリカ人も、ときには、こういう泣き顔をするのだということをあらためて目撃した感じ。



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