粉川哲夫の【シネマノート】
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2007-01-29

●今宵、フィッツジェラルド劇場で (A Prairie Home Companion/2006/Robert Altoman)(ロバート・アルトマン)

A  Prairie Home Companion
◆アルトマンの「アメリカ」への遺言として見た。「アメリカ」は、この「フィッツジェラルド劇場」のようにテキサス資本によって買収されようとしている。そのとき「アメリカ人」はどうするか? この映画の一晩の限られた時間のように、残された場で出来うることをみんなでする。では、すんなりとは買収されなかったが、結局はその場も閉鎖されてしまったとき、「アメリカ人」はどうするか? 放浪の旅のなかで夢を小規模であれ実現していくのしかない。アメリカには、ウディ・ガスリーのような放浪の旅のなかでの表現とでもいうような伝統がある。いま国家にさからうとしたら、「長征」(ロング・マーチ)的なさすらいしかない。わたしは、この映画を見ながら、そんなアルトマンのメッセージを聞いた。
◆劇場を家や国家のような所属の場所のメタファーにするのはよくある手だ。この映画にもそんなメタファー的な要素がある。アメリカには、劇場がスタジオ、あるいはスタジオが劇場になっていて、そこに観客を呼び、生放送をやる方式がある。日本でも、「公開録音」とか、ライブの「紅白」とかがあるが、そう多くはない。録音なら編集で消されることがあるが、先日の「紅白」で DJ OZMAのダンサーの「裸」問題が起こったように、ライブは、実社会のハプニング性と直結しているから、その場は、やり方によっては、ますます国家のメタファーにもなりえる。
◆わたしは、『ロバート・アルトマン BOX』の解説冊子のために「『ナッシュビル』と現代アメリカ社会」という一文を寄稿したことがあるが、そのなかで、わたしは、「『ナッシュビル』のなかで冷笑化されていることは、いまではすべて『あたりまえ』になってしまった」と書いた。アルトマンは、この映画のなかで1970年代中頃のアメリカを冷笑的に批判した。では、アルトマンの遺作となったこの映画は、いまの時代をどうとらえているのか?
◆ここではすくなくとも、「冷笑化」の方法は抑えられている。それよりも、集団で何かを生み出すということ、単純に言えば「連帯」に観客が思いをはせるような作りになっている。 ちなみに原題は、「或る」(a)が付いたあと、「大草原」(prairie)と「ホーム(家・拠点)」(home)と「仲間」(companion)の3語が相補的に並べられ、読むものがどこにウエイトをおくかで微妙に意味が変化するようになっている。
◆ところで、いまの時代、「連帯」や「仲間」は、過去のものであり、ノスタルジアのなかにしかない。さらに、 「フィッツラルド劇場」で美しい「連帯」を見せるアーティストたちには、つねに死の「天使」(ヴァージニア・マドセン)がつきまとっている。この番組を聴きながら車を運転してしていて事故を起こして死んだ女のなり代わりである。ファンであったがゆえに命を落とすとは皮肉である。彼女は、この番組と劇場を買い取るテキサス資本のオーナー(トミー・リー・ジョーンズ)にとりついて、買収を阻止するかに見える。しかし、劇場はなくなり、一部のメンバーだけが残る。主要メンバーの一人だったヨランダ(メリル・ストリープ)の娘ローラ(リンジ・ローハン)は、フィッツジェラルド劇場で初出演し、ようやく歌の世界で生きる自信をつけたかに見えたが、いまではソフト会社のマネージャーになっている。まあ、これもアルトマン的な皮肉だ。
◆ ギャリソン・キーラーの名司会としぶい語り。リリー・トムリンの久しぶりの達者な歌唱。身重のステージマネージャー役のマヤ・ルドルフのユーモラスな魅力。なつかしのL・Q・ジョーンズが演じる老シンガーは、死の天使に色気をいだいたために楽屋で昇天するが、それは幸せだったのか?
◆去る1月17~18日に、Art's Birthday 2007のネット放送イヴェントをやったばかりなので、劇場=スタジオ空間で放送をやろうとする者には、インスパイアーにあふれたこの作品を先に見て置きたかったという思いにかられた。
(メディアボックス試写室/ムービーアイ)



2007-01-26

●ブラッド・ダイヤモンド (Blood Diamond/2006/Edward Zwick)(エドワード・ズウイック)

Blood Diamond
◆六本木のギャガに『バベル』を見に行ったら、漠然と予感したようにすでに満席だった。最低40分まえぐらいに来ないとダメとのこと。今回はすぐにそう言ってもらったので、西新橋のワーナーへタクシーをつっ走らせることにした。渋滞のうえに道をしらない運転手氏で、やきもきしたが、何とか間に合う。が、運の悪い日というものはあるらしく、上映中隣の(かなり高齢の)老人が、「うんうん」声を出すので、見ると、完全に眠っており、どうやら夢のなかで声を出しているらしいのだった。それが、2時間以上続き、映画の印象が大分変わった。
◆一言で感想を言えば、う~ん、織田裕二の映画見たいだなぁというところ。金はかかっている。デカプリオもぼっちゃんぽい感じを、『ディパーテッド』からさらに脱皮。アフリカでのダイヤ密輸をかぎつけてきたジャーナリストを演じるジェニファー・コネリー、暴力的に拉致され、ダイヤ採集の過酷な労働を強いられる現地人を演じるジェイモン・フンスーも、いい演技をしている。しかし、こういう描き方だと、ただのサスペンスで終わってしまうのだ。「1994年」の西アフリカ「シェラレオネ共和国」という具体的な時間空間設定をしておきながら、「事実」や「現実」はあくまでもサスペンスのための素材にすぎなくなっている。たしかに、サスペンスとしては、2時間23分の長さを感じさせない見事な作り。が、こういう作り方をされると、あとになってかえって、「事実」の重みがこころに残る。それがねらいだったというのか?
◆映画のなかで、ダイヤが取れるはずのシェラレオネ共和国で公式にはダイヤの産出量がゼロなのに、リビアはダイヤから20億ドルの収益を上げている――ということから、シェラレオネからリビヤへの闇ルートと密売の可能性が演繹される。なるほど、そういうこともあるわけだ。GNPや人口も、闇の部分が極度に大きい国がある。
◆ダイヤは、まさに資本主義の本質と結びついている。豚に真珠で、そこに価値を見出せない者には、何の意味もないが、ダイヤに狂喜する女や男がいるかぎり、それは、価値を持ち続け、その採掘と所有と売買をめぐって、血みどろの闘いが続く。 その闘いは熾烈なもののはずだから、この映画でデカプリオが見せるような温情はありえないのだ。まあ、ドラマのうえでは、その温情のツケを自分で払うことになるが、そのためにかえって、ドラマがリアリティから遊離してしまう。彼の演技上の意気込みからすると、もっとドライな結末にもっていってもいいはずだった。その意味では、『ディパーテッド』の方がよほどリアルだった。
◆この映画ではあまり活かされていなかったが、ジェニファー・コネリーという女優は、『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』から一貫してそのもって生まれた目で得をしている。このすべてを物語るかのような目によって、彼女はどんな役でもつねに水準以上の演技をこなすことができる。
◆この映画で描かれる「反政府軍」のRUFは、まるで映画で最初から悪役に決められたナチやポルポトのステレオタイプで、これだけをみても、この映画の奥行きのなさがわかる。村から子供を拉致し、洗脳教育をほどこし、親でも敵として平気で殺せるような人格を形成する。それは、なかったわけではないが、この映画のように一方的なパターンでは、ただ一掃されれば、一巻の終わりで済むような印象だ。しかし、こういう集団はそんな単純なものではない。
◆アフリカの言葉が出てくるが、それがちゃんとしたものであるかどうかはわたしにはわからないとしても、都合のよいところでは登場人物がみな英語をしゃべりはじめるのをみると、たぶん現地の言葉も手抜きなのだろうという気がしてくる。RUFは、「民族主義者」のはずだが、「fuck」というような英語を連発している。
(ワーナー試写室/ワーナー・ブラザース映画)



2007-01-23_2

●ロッキー・ザ・ファイナル (Rocky Balboa/2006/Sylvester Stallone)(シルベスター・スタローン)

Rocky Balboa
◆最近はあまり主流ではない「アメリカ式教育映画」。ここでわたしが言う「教育映画」とは、迷っている若者に年長者や先輩が体験的な教訓みたいなことを言い、若者の方が感化されて、変わるといったパターン。以前にはよくあったが、最近は少なくなった。スタローンは、そういう「古典的」様式をなぞっている。それは、成功している。
◆60に手がとどこうとするロッキーがリングに復帰するトレーニングやボクシング・シーンもあり、最後の対戦が山場であることはたしかだが、見てからわかる主題は父と息子の物語。出来の悪い息子を持った父親は身につまされるかもしれない。ひょっとすると、スタローンは、息子で苦労している(した)のか? ちなみに彼には、すでに離婚している女優サシャ・ツァックとのあいだに2人、現在の妻で女優のジェニファー・フラビンとのあいだに3人の子供がいる。彼のような有名人を父親に持った息子は、幼いときから、父親を意識せざるとえず、生長しても、普通ならあっさり「おれは親父を越えた」と思えるのが、いつまでたってもそうはならず、なかなか「大人」になれないという煩悶につきまとわされることが少なくない。
◆映画のなかの息子ロバート(マイロ・ヴィンティミリア)は、親父のコネで入れてもらった会社でも、あのロッキーの息子としてしか見られない。そのため意識的に親父を避けているが、父親の方は、母親(妻)も亡くなっていないのに、どうして自分のところに顔を見せないのだとうと、会社に訪ねてきたりする。すると、いつも愛想の悪い上司がロバートに近づいてきて、親父といっしょに写真をとってくれとねだる。ロバートはますます親父を避けたくなる。このへんの屈折ははなかなか感じが出ている。
◆何をやっても芽が出ない感じの息子に手を差しのばそうとすればするほど離れて行く息子。妻とともに一生懸命育てたのに、どうしてこんなになってしまったのかと自問する親父。ついにロッキーは、息子に言う。「おかあさんといっしょに、お前をこの腕に乗せて、こいつは世界一のベビーだと思ったのに、どこかがちがってしまった」。まあ、わたしなんぞも、一度ならず親父に失望を語られたことがあったが、親というのは、いつもそう思うのかもしれない。むしろ、それが普通で、「わたしの息子は誇りだ」なんて胸を張っている親の方が異常なのかもしれない。
(TOHOシネマズ六本木ヒルズ/20世紀フォックス映画)



2007-01-23_1

●ラスト・キング・オブ・スコットランド (The Last King of Scotland/2006/Kevin Macdonald)(ケヴィン・マクドナルド)

The Last King of Scotland
◆政治スリラー的要素を維持しながら、独裁者の誕生と独裁者がホロコースト的な方向へエスカレートしていく過程の核心をけっこうつかんでいて、見ごたえがある、と中盤までは思った。
◆医学の学位を取った若者ニコラス(ジェームズ・マカヴォイ)が、じゃあこれからどこで仕事をしようかと、目をつぶって地球儀を回して最初に指が行ったのがカナダ。しかし、カナダは選ばず、もう一度やって指がとまったのがウガンダ。早速、知りあいのコネでウガンダのムガンボ村の診療所に行く。そこでは、たまたま(1971年)イディ・アミン(フォレスト・ウィティカー)の軍事クーデターが起きたあとだった。ひょんなことでアミンと知りあいになり、気にいられてしまうノコラス。最初は「主治医」ということだったが、だんだんアミンのアドヴァイザー役にされてしまう。
◆ふと思いだしたのは、ジョセフ・ケッセルの小説『奇跡の指を持つ男』で描かれているフェリックス・ケルステンのことだった。彼は、ナチの親衛隊のトップだったハインリッヒ・ヒムラーにかわいがられた。ヒムラーは、彼のマッサージを受けるときには情けをとりもどし、彼の助言をきいて強制収容所の捕虜の処刑を免除したことが何度もあったという。ただし、ニコラスの場合は、アミンをそんな感じではコントロールできず、結局、彼のもとを脱出するのである。その点で、設定はなかなか面白いのだが、結局はサスペンスに終わっている。
◆フォレスト・ウィティカーの右目と左目はバランスがちがうのだが、この映画はそれを最大限に活かしている。ウィティカーは、ときどき笑福亭鶴瓶に似た細い目で笑う「お人好し」のキャラクターを演じることが多いが、この映画では、子供からそのまま大人になり、人形を壊すような感覚で虐殺を行なう独裁者をけっこうリアルに演じている。しかし、ウィティカーの本性なのか、ときどき鶴瓶的笑顔が出てしまう難はある。
◆アミンとニコラスが出会うのは、アミンの乗った車が大きな牛にぶつかり、アミンが怪我をしているだけでなく、牛も大怪我をして悲鳴をあげているという現場だった。そのとき、ニコラスは、牛を苦しませないという判断から、アミンから拳銃を借りて牛を撃ち殺す。このシーンは、文化人類学的ないしは、政治人類学的にとても面白かった。というのは、アミンと現場にいたアフリカ人たちは、その行為にショックを受け、同時にそこに新鮮さを感じたからである。彼らには、牛を苦しめずに殺すことが善という観念はない。そして、この経験が、アミンには、「西欧的合理主義」へのイニシエーションとなり、一連の虐殺にまでエスカレートしたと、この映画は示唆したいらしい。それはあながちまちがってはいないかもしれない。
(FOX試写室/20世紀フォックス映画)



2007-01-19

●ボビー (Bobby/2006/Emilio Estevez)(エミリオ・エステヴェス)

Bobby
◆地下鉄駅に直結していて、ガラス越しに女性たちが料理をつくっていたりする(この日は昼食をしていた)通路(そこにあるトイレは男性・女性用も暗証番号で開く鍵付きである)を通って行くシネマート銀座が試写の場所。評価が高い作品なので、もうちょっとお客が来るかと思ったら、以外と少なかった。「政治もの」は敬遠されるのか?
◆ロバート・ケネディが暗殺される1968年6月5日のアンバサダー・ホテル(ロサンゼルス)に限定して描かれるこの映画のスタイルは、『マグノリア』のアンサンブル・プレイの方式に似ている。「グランド・ホテル方式」と言ってもいいが、あまりに大ざっぱな言い方だ。舞台となる場は、主として、このホテルの調理場であり、あとは、ロビーと一部の客室である。調理場が主な舞台となるのは、ボブが、調理場で働いている人々に声をかけようとして調理場を訪れ、そこで銃撃されたことを意識している。
◆元ドアマン同士の仲間、尊敬する副料理長とメキシコ系の若い調理人見習い、ロバート・ケネディの選挙本部で働く2人の男、金も名声もある老人と若い妻、徴兵のがれのために偽装結婚をするためにこのホテルに泊まっている2人、アルコールに溺れる元有名だった歌手とその夫等々。こうした「カップル」を「グランドホテル」方式で映す。それらのあいだを縫う横断的な動きをする登場人物もいるが、全体として断片挿話的。
◆アメリカ人からちゃんとした発音で呼ばれないプラハから来た特派員のレンカ・ヤナチェック(スヴェトラーナ・メトキナ)の役は、アルトマンの『ナッシュビル』でジェラディン・チャップリンが演った(偽の)「BBC特派員」をそのままいただいている。まあ、この映画自体が、アルトマンの真似なのだが、アルトマンほど皮肉がきいていないのが難。
◆昔ドアマンとして働いていたこのホテルのロビーに毎日やってくるジョン・ケイシー(アンソニー・ホプキンス)と元同僚のネルソン(ハリー・ベラフォンテ)がソファーで雑談するシーンがくりかえしあらわれるが、ベラフォンテの声の衰えが痛ましい。こういう形での出演は、なんか「慈善」といた感じがして、つらい。
◆こうしたアンサンブルプレイでは、どのモジュールも無駄のように見えても決して無駄ではないという入念さがないと全体がだらけてしまうのだが、ホテルの一室で、ヒッピー男からドラッグを買い、ハイになってしまうケネディの選挙事務所の男たちのシーンは、くだらない。そう考えていくと、どのモジュールも、あまり奥行きがない。
◆日常の瑣末さを積み重ねながら一つの展望やクリティシズムを見させるやりかたとはちがい、すべてがプリテンシャスである。だいたい、ロバート・ケネディが理想的な大統領であったかのような前提の映画は単純だ。ケネディ兄弟は、決して反戦的ではなかった。レーガンやブッシュとはちがった意味での「強いアメリカ」の路線の支持者であったことには変わりない。
◆仕掛けは込み入っているように見えるが、終わってみるとあっけない感じをぬぐえない。あえて言えば、それがアンチ・ハリウッド方式で、「これで終わってしまって、ハリウッド映画に慣れたアメリカの観客はいいの?」という感じのエンディングを突きつけて、あとは観客自身に考えさせるというねらいか? 歴史の事実を見つめるなら、この事件の現場にはハッピーエンドはないのはあたりまえだが、日常のディテールのなかに全く「分子的な変革」の要素を見ていないように思える。少なくとも、ヒッピーやヒッピーカルチャーのメインカルチャーへの反映が極めてステレオタイプ的にしかとらえられていないという点でも、それははっきりしている。
(シネマート銀座試写室/ムービーアイ)



2007-01-17

●クイーン (The Queen/2006/Stephen Frears)(スティーヴン・フリアーズ)

The Queen
◆東京国際フォーラムの上映環境はあまりよくない。椅子も固い。D1というスペースはあまり大きくないので、入り切るかと心配したが、ほどほどだった。配給・宣伝さんの見事な計算。大分早めに来て席についていたが、口のなかで古い車のギアをきしませるかのような音を発する英語が近くから飛び込んで来て疲れるので、退散し、近くのビックカメラに行く。
◆タイトルは、「クイーン」と力弱いが、原題は「ザ・クイーン」、あのクイーン、クイーンそのものといった含意で、迫力がある。よく言われるように、ヘレン・ミレンのエリザベス女王が、おそろしく「本物そっくり」で驚く。少しちがうのは脚の太さぐらいか(ヘレン・ミレンの方がやや「大根」である)。また、マイケル・シーンも、顔つきは若干ちがっていても、トニー・ブレアの感じをよく出しており、ここまで似てしまうと、安っぽいパロディー劇は作れない。実際、なかなか大人のセンスで作り、そのうえ奥行きのある皮肉もきいているなかなかの出来ばえだった。
◆しかし、「本物そっくり」といっても、わたしも(おそらく)あなたも、彼女をマスメディアを通じて知っているにすぎないのだから、その「そっくり」は、マスメディアで作られたエリザベス女王の社会的イメージとそっくりだというにすぎない。だから、マスメディアでさんざんこき下ろされ、社会的イメージが安っぽいものになっているチャールズの方は、マスメディアの関数通りに安っぽくなっている。しかしながら、この映画は、そういうマスイメージを、映画を使ってさらに増幅するのではなく、逆に、まずはマスイメージから出発して、マスメディアがとらえてこなかったエリザベスとその家族の「実像」に迫ろうとする。
◆映画の最後のほうで、ブレアが「もう少しご自分のことを考えられては」というようなことを言うと、「義務第一、自分第二(Dudy first, self second)と教えられましたからね」と答えるエリザベスだが、ある意味では、この人には通常の「自分」はない。つねに監視された生活のなかで、「自分」を奥深いところにしまい込む習慣ができている。逆に言えば、映画としては、彼女の「自己」をどのようにも映像化できるということでもある。
◆ダイアナの(事故)死にもかかわらず、バルモラル城からバッキンガム宮殿にもどらないエリザベスにマスコミから非難の声がわきあがったとき、エリザベスは、一人苦難に陥る――という風にこの映画は描く。夫のフィリップ殿下(ジェイムズ・クロムウェル)や皇太后(シルヴィア・シムズ)は、明らかにダイアナを嫌っており、王家を去った者は他人だというつっぱなした態度を取る。ダイアナが死に、離婚したチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)も悲しんでいるのに、彼らは、平気で鹿狩りに出かける。
◆エリザベスの内面を描くシーンの一つは、1万エーカー(1エーカーは約4千平方、1坪は約3.3平方)もある彼女の敷地を自分でドライブしていて、車を湿原にはめてしまい、ケータイで迎えの車を呼び、そのあいだあたりをながめながら時間をつぶしているとき、たまたま近くに美しい鹿があらわれるところだ。彼女は、その鹿にダイアナのイメージを重ねているかのように見える。そして、その鹿が夫たちの鹿狩りの手にかからないことを願う。
◆これは、むろん、映画が作りだしたフィクションである。しかし、このシーンは両義的だ。エリザベスが、優しい心の持ち主であるとごく一般的に解釈することもできるし、また、鹿の命には哀れを感じるが、ダイアナにはそうでない、あるいは、ダイアナを鹿ぐらいにしか見ていないという風にも解釈できるからである。
◆「義務が第一、自分は第二」という原理は、ビクトリア女王時代に確立されたものであって、これが、王政国家においては、国家が民族主義や経済至上主義に陥るのを防ぐ平衡装置になってきた。しかし、20世紀後半になって、国家がグローバル化し、一国主義がありえなくなってきたとき、王室や皇室を規制装置とする必要性が薄らいだ。日本の皇室がいま徐々に、そしてイギリス王室が大分依然から、「気高い」タテマエの見本を見せる主体から、スキャンダルの見本を披露する主体に変質するのは、こういう文脈のなかにおいてである。いまや、規制と平衡の装置は一国内にあるのではなく、世界にまたがるグローバルなネットワーク状の組織であり、「血」のつながりよりも、「情報」のつながりを重視する。
◆こう考えると、ダイアナの(事故)死を通じてあらわになり、この映画で映像化されたエリザベス女王の「危機」は、現代の権力システムにとっては必然的なものであり、エリザベスが、「義務第一、自分第二」という原則に固執すれば、「危機」に陥るのは当然である。しかし、ブレアが、ダイアナの(事故)死に乗じて自分のアドミニストレイションを拡張し、かねがね母親エリザベスに不満をいだいていたチャールズ王子がブレアにすりよって王室の改革めいたことをしようとしたにもかかわらず、エリザベスの王室は、最終的に致命傷を負わなかった。少なくとも映画はそう示唆している。
◆ところで、ヨーロッパの王室は、国家を越えている。情報的にはむろんのこと、血族的にもも、「血」の交換をくり返したきた。血のつながりがない日本の皇室とも緊密な連絡をとりあっている。ローヤル・ファミリーは、国家の特権階級ではなくて、国際的な特権階級であり、インターナショナル・ルーリング・クラスに属する。つまり、現代のグローバル権力と一体化しているのだ。それは、一国単位で見られた国家よりも、国連や赤十字や世界銀行やその他の国際組織との方が親密な関係を持っている。王室・皇室あなどるべからず。
(東京国際フォーラムD1/エイベックス・エンタテインメント)



2007-01-12_2

●クロッシング・ザ・ブリッジ (Crossing the Bridge: The Sound of Istanbul/2005/Faith Akin)(ファティ・アキン)

Crossing the Bridge: The Sound of Istanbul/2005/
◆日比谷線で一本なので、六本木駅から東銀座まで乗り、東劇へ。この映画に興味をおぼえたのは、イスタンブールが舞台になり、現地の伝説的なミュージシャンの姿をおがめるのもさることながら、わたしの場合は、アインシュテュルツェンデ・ノイバウテンのメンバーだったアレキサンダー・ハッケが出ていると知ったからだった。彼はあの『デコーダー』(Decoder/1984/Muscha)にも出ていたらしいが、どの役で出ていたのかは思い出せない。『デコーダー』は、情報操作・電子機器・ノイズそしてパイラシー(「海賊性」では何だかわからないし、「逸脱行為」ではその動的なニュアンスが消えてしまう)、さらには肉体性と電子情報的なものとの不可分離な関係があやしい雰囲気で描かれていた傑作だった。ノイバウテンのスターFM・アインハイトがハッカー的な活動家・アーティストを演じ、彼らや「過激派」を取り締まる情報管理官を、近年では『コーヒー&シガレッツ』で再会したビル・ライスが演じていた。
◆しかし、この映画は、ノイバウテンとは関係がなかった。そういえば、アレキサンダー・ハッケはFM・アインハイトとは異なるキャラクターであり、FM・アインハイトよりも「人望のある」人物であるような気がする。それは、この映画では、明らかに、プラスになっている。ハッケの「人望」のために、「ライブはやらない」という「国民的」歌手・俳優だったオルハン・ゲンジュバイのようなアーティストが、自分のアパートで演奏をしてしまうようなことが可能になったのだ。映画の終わりの、イスタンブールのホテルの一室でハッケが、手馴れた手つきでケーブルを巻いて片付けている姿が、彼の人柄を表しているようで印象的だった。
◆トルコ人なら誰でも知っているはずのオルハン・ゲンジュバイ、セゼン・アクス、ミュゼィイェン・セナール、アイヌールといったビッグ・スターをわたしはさっぱり知らなかったのだが、オルハン・ゲンジュバイが、かつてわたしが何度かいっしょにパフォーマンスをやったビデオアーティストのヒグマ春夫にそっくりなのが面白かった。まあ、そんなことはどうでもいいが、プレスに一文を寄せているサラーム海上氏によると、この映画のなかには、「イスタンブール音楽シーンの全てが描かれて」いるという。つまり、イスタンブールの伝統音楽から「イスタンブールのアンダーグラウンド~アヴァンギャギャルド~エレクトロニック~ヒップホップ~クラブ音楽」である。
◆トルコではある時期までクルド人の文化を広めることを禁じられていたという。この映画で全面展開されているクルドの音楽はむろんである。ハッケへのインタヴューのなかで、オルハン・ゲンジェバイは、そういう禁止の時代に、アラブ系の音楽文化を導入することを思いついたという。いま政治は、イデオロギーの政治から感性と情動の政治に中心を移しつつあるが、いつの時代にも、音楽は、敵対する双方にとって感性や情動の政治の重要な「武器」だった。クルドを差別してきた政党がクルドの音楽を弾圧するのは当然である。しかし、この映画を見ると、クルドは、アラブにはどうかわからないが、トルコの少なくともと=「西欧化」=近代化の感性・情動政治には勝ったのではないかという印象を受ける。
◆ベルリンの、かつて東西を隔てる壁のあったクロイツベルク地区にはトルコ人がたくさん住んでいたが、その多くはトルコからやって来たクルド人だった。ベルリンを拠点とするハッケとトルコ=クルドとの出会いは、その意味では運命的だった。
◆ここでふと思いついたことを書く(すべて思いついたことばかりだが、そのなかでもとりわけ思いつき的ということだ)。トルコでクルドの文化が差別され、その音楽を大っぴらに公開できなかったということと同じことが、日本ではどういう形で行なわれたのか? いま、さまざまな放送禁止用語や、「差別語」として無いことにさせられている表現がかなりある。その場合、「禁止」は強権的になされるのではなくて、ほとんどすべて「自粛」であるところに特長がある。その「自粛」は、表面的には、それらの表現が差別だからということではあるが、同時に、そういう形で問題の「被差別者」と目されている人々を差別してもいるのである。しかもその差別を、国家権力の側から直接ではなく、「国民」一人ひとりに自らやらせる形態を取っているところが、コントロールの方法としてはしたたかだ。その点、トルコのクルド人差別も、イラクのシーア派差別も、赤裸々で、直裁的なので、その闘争も「わかりやすい」ものとなる。日本の差別闘争は、非常に隠微なものとなり、まさに感性・情動政治のエキスの部分で闘われる。
(松竹試写室/アルシネテラン)



2007-01-12_1

●恋愛睡眠のすすめ (La Science des rêves/2006/Michel Gondry)(ミシェル・ゴンドリー)

La Science des rêves
◆出がけに勤め先の「小役人」と話がもつれ、出が遅れる。六本木1丁目からタクシーに飛び乗ったが、外苑東通で渋滞。やっとたどりついた交差点の手前で降り、走る。といっても開映30分まえだったですがね。癖で30まえに着かないと不安なのだ。
◆手作りの「ステファンTV」という「テレビスタジオ」のシーンから始まるのだが、わたしにはなつかしいものを見た感じ。というのは、その雰囲気が、ペーパー・タイガー・テレビジョンがよくやった絵柄と似ているからだ。卵ケースをたくさん使った防音、ハリボテのカメラ、何でも一人でやる柔軟性。その予感は当たり、後半の「スタジオ」のシーンにペーパー・タイガーがよく使っていたのと同じ手作りで手回し式のテロッパーが登場した。
◆「自由テレビ」や「パブリック・アクセス」テレビのスタジオという体裁で始まるのは、どういう暗示だろうか? 主人公のステファン(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、メキシコに住んでいるが、父親が死に、母のいるパリに戻ってくるという設定。映画を見ていくと、冒頭に出てきて、何度か登場する「スタジオ」は、母親の経営するアパルトマンの彼の部屋のなかにあるようにも見えるが、同時に、メキシコに「あった」とも取れるし、また、全く彼の空想の産物であるかのようにも取れる。
◆ステファンが母のアパルトマン・ビルの一室に住み、その隣に住む女性ステファニー(シャルロット・ゲンズブール)と知りあいになるシーンにしても、「ステファン」と「ステファニー」と類似した名前になっているように、「ステファニー」は、ステファンの「空想」の産物かもしれない。このように「あいまい」なところがこの映画の面白いところだ。まさに、最初の「スタジオ」シーンに出てくるハリボテのテレビカメラのようにである。
◆だが、ちらりちらりと出てくるように、ステファンは、父親から半田付けや工作を習い、パリの(?)自室にもラジオ工作の道具がある。それらでステファニーのためにヘッドギアーのついたおもちゃくさいテレパシー装置を作ったりする。そういうものを作ったかどうかは別にして、「手作り」のカルチャーの持ち主として設定されていることはたしかだ。「オタク」という言い方があまりに手あかがついてしまったので、「個にこもる」性格という言い方をしうよう――ステファンは、そんなタイプの男だ。映画のなかのシーンは、半分は「現実」で半分は彼の「空想」だと考えればわかりやすいが、映画というものは、そういう二分法的な区別を無意味にするメディアである。するのはいいが、気休めにすぎないということだ。
◆『エターナル・サンシャイン』にもヘッドギアー状の装置(こちらは、記憶を抹消する装置)が出てきた。こちらは、チャーリー・カウフマンとの共同脚本だったので、カウフマンの好みが強くでていたように思う。が、メディア装置好きという点は、両作品に共通し、それは、ゴンドリの好みだったのだなとわかった。

◆この映画を見ると、『エターナル・サンシャイン』で取り上げられた「記憶」の問題が、彼の脳への関心の方から来ていることがわかる。最初のシーンで、ステファンは、「スタジオ」のなかでドラムを叩いたあと、大鍋でパスタをゆで、そのなかにさまざまなもの(ビニールディスクまで)をぶち混む。これは、ある意味で、「脳」のイメージをパフォーマンスとして見せているとも取れる。つまり、これからみなさんが見るのは、あなたとわたしの(さまざまな自我・身体が融合した)「脳」のなかなんだ、と。
◆エマニュエル・カントは、「手は人間の外部の脳である」と言ったと言われている("Die Hand ist das ?u?ere Gehirn des Menschen."というドイツ文はあるが、どこでそう書いたのかは誰も書いていない)が、日本で流行りの(最近すこし陰りが出てきたかに見える)「脳」論に一番欠けているのは、「脳」と「手」との関係への関心だ。この映画には「手」へのこだわりがある。その分、この映画は「脳」を深く理解しているということでもある――かもしれない。
◆ステファンは、「PSR」ということを言う。それは、Parallel Syncronizing Randomnessの略なのだが、ステファンの説明によると、道路で人がぶつかりそうになってよけようとすると同じ方向へ行くことがあるのは、「PSR」の例だという。音楽の「共演」を「インタープレイ」ともいうが、実際には、「相互的」な面は意識されない。たがいの「脳」に内在するParallel Syncronizingの機能で、あたかも意識的に「合わせて」いるかのように合ってしまうので。
◆最近ようやく翻訳が出たジル・ドゥルーズの『シネマ2 時間イメージ』(宇野邦一ほか訳、法政大学出版局)は、まさに映画「脳」論であるが、そのなかで、ドゥルーズは、「『私に一つの脳を与えてください』というのが、現代映画のもう一つの形象である」と言う。彼は、たがいに入り組み合っていることを前提に、「頭脳の映画」と「身体の映画」とを概念的に区別する。ミケランジェロ・アントニオーニは、ドゥルーズによれば、これらの「両極」にまたがる映画作家である。アントニーニの作品は、「孤独」や「伝達不可能性」といったことをテーマにしているというレッテルで理解されてきたが、ドゥルーズによれば、「彼は、現代的な頭脳と、疲労し消耗し神経症になった身体とが世界に共存していることを批判している」と言う。
◆ステファンがパリで勤めるようになった会社には、四方田犬彦に似た同僚ギィ(アラン・シルバ)がいる。彼は、ステファンの対極で、「下半身」にしか興味がない。その意味で、ステファンが「脳」の人だとすると、「身体」の人なのだ。ステファンは、ある意味で、ギィに「感応」して、彼の「脳」世界を「身体化」しているともいえる。
◆ドゥルーズ的な意味での「脳」と「身体」とのあいだにあるのが「手」である。「脳」の側から見れば、「手」は、「脳」の外化されたものであり、「身体」の側から見れば、「身体」の極限である。ミシェル・ゴンドリーのこの映画は、「脳」の側の視点と「身体」の側の視点を混ぜ合わせる。だから、映像は、「脳」的であり、かつ「身体」的なのだ。
◆日本人の「伝統的」な習慣では、握手はせず、一定の距離を置いて「礼」をする。これは、どちらかというと、唯「脳」的な習慣である。これに対して、握手は、「外化された脳」と脳とを接触させるわけだから、脳と身体とを切り離さない両義的な文化である。
(アスミック・エース試写室/アスミック・エース)



2007-01-10

●それでもボクはやってない (Soredemo bokuwa yattenai/2006/Suo Masayuki)(周防正行)

Soredemo bokuwa yattenai/
◆昨年から試写がまわっていたが、不思議と大学の日と重なり、見ることができなかった。余すところあと1回の試写という時点で駆け込んだ。予想通りなかなかの力作。と同時に、周防がこれほど「社会派」とは思わなかった。これぞ、マクロではなくミクロなポリティクス、つまりイデオロギーに左右される政治ではなく、些細な情動や感覚を重視する政治における「左派」の作品だ。
◆痴漢の疑いをかけられ逮捕された青年・金子撤平(加瀬亮)が判決を受けるまでのプロセスを描く。この映画を見ると、折しもマスメディアをにぎわした植草一秀氏の事件のことが浮かび、マスメディア報道では「今度は」完全にやったという印象が浸透している氏も、実は「冤罪」なのではないかという気になってくる。このへんが、この映画の面白さであり、周防監督の「魔術」である。
◆わたしの独断では、日本の電車の特異「文化」とされる痴漢行為の最高責任は、混んだ電車を走らせ、この映画にもあったように、駅の「押し屋」が無理やり乗客を狭い車内に詰め込んでしまう電車会社側にある。こういう密着状態が常態化しているのなら、乗客は、車内の「痴漢」行為に慣れなければならなし、警察も「大目に」見なければならない。かつてわたしが「美少年」だったころ、何度か「痴女」と「痴漢」を経験したが、そういう人がいるのならやらせてやってもいいかと思い、黙認した。ただし、あるとき、中央線の電車(なぜか昔はホモ的「痴漢」が多かった)のなかでトロ~んとした目であまりにしつこくわたしの陰部を触ってくる男がいたときには、足を蹴飛ばしてやった。
◆「痴漢」行為には、「やった」か「やってないか」の線引があいまいな部分がからむ。「痴漢」する気がなくても、混んだ電車のなかでいやおうなくぴったりと身体がくっついてしまい、快感をおぼえることはあるし、ということは、人によって不快感をおぼえる者もいるということだ。そのとき、「快感」をおぼえた者は、潜在的な「痴漢」だということになる。しかし、そんな原理主義的なことをいえば、幼児をかわいいと言ってだきしめるとき、おまえは「幼児性愛」だと言われても仕方がないことになる。
◆この映画の面白さは、「痴漢」問題に焦点を置きながら、日本の警察・裁判制度の不可解さをあばいている点だ。「痴漢」をやったとホームで「被害者」の女性から手をつかまれた加瀬は、その時点で「逮捕」されたことになる。刑事訴訟法213条では、「現行犯人」は、「何人でも逮捕状なくしてこれを逮捕することができる」とある。この場合、誰が「現行犯人」であると決めるのかといえば、誰かがそう確信すればよいのであって、その確信が妄想的なものであるかどうかは、さしあたりは問われない。こういう不可解な法律は、道路交通法にもあるし、家宅捜査などは、「任意」ならば、「公務員」の立ちあいがあれば出来る。ということは、どこかの公立の学校の先生なんかが立ち会うだけでもいいということになる。
◆「自白」と「調書」のフィクショナルな関係は、ただただ警察の強引さ、いい加減さという視点で描かれているが、加瀬を取り調べる刑事(大森南朋)の性格や癖もさることながら、「自白」というオーラル・メディア的出来事を「調書」という型にはまった文字表現に押し込めるという警察をはじめとして官公庁で依然として基本とされているコミュニケーション形式にも問題がある。どんなに稚拙な文学作品でも解釈が一様ではないのに、犯罪という複雑な出来事を、(多くの場合)文章解釈のプロではないはずの刑事が調書を記す。これは、無理というものだ。
◆試写に先立ち、「あなたの判決は・・・有罪 無罪」というカードが渡され、帰りの出口に「有罪」と「無罪」の箱があり、そこに入れてくれと言われた。帰りに入れようと思ったら、その箱のまえにたちはだかって、「被疑者の側に立って作られてるんだから、答はきまっちゃうんじゃないの?」とクレーム(?)をつけている人がいて、入れるのを躊躇しているうちに、うしろから押されるようにして外に出てしまった。
◆たしかに「被疑者」の視点で撮られてはいるが、そのとき、あなたが被疑者であれば、彼を取り巻く警察や検察や裁判官の対応をどう見るかは意見が分かれる。それと、もしあなたが、「疑わしきは罰せず」という立場に立つのか、それとも、「疑わしきは罰せよ」の立場に立つかによっても、「判決」は分かれる。しかし、このへんが、この映画の「教育的」仕掛けなのだが、一見そういう2様の選択肢があるようでいて、観客は、ぐいぐいと「被告人」の方に同化させられていく。
◆深刻な内容をあつかいながら、どこかにいつも「おかしみ」があるのが、周防作品。演出にもユーモアがあるわけだが、キャスティングがなかなか微妙。加瀬を取り調べる刑事役の大森南朋は、硬軟自在の俳優だが、わたしには、『深呼吸の必要』でも書いたが、どことなく小倉利丸に似ているので、反警察の小倉が刑事を演じているような感じで、おかしい。尾美としのりを最初に記憶したのは、太田圭の『アラカルト・カンパニー』だったが、20代後半の青年を演じても少年ぽい感じのあった尾美が、検事を演じると、いかにも慣れていない検事という感じでおかしい。加瀬の母親役を演じているもたいまさこは、『アラカルト・カンパニー』でもそうだったが、怪優のイメージが強く、今回もいきなり怪優ぶりを発揮するのではないかという気をさせながら、結局「普通」の母親を演じているところがおかしい。「疑わしきは罰せず」の「良心的」な検事(正名僕蔵)に替わって登場する検事役の小日向文世もおかしい。小日向は、最近わたしが見たものでは、『7月24日通りのクリスマス』での中谷美紀の父親役のように、あたりさわりのない人物を演じることが多いが、どこかに(たとえば『阿修羅城の瞳』の鶴屋南北役のように、どこかずっこけたというか、まちがってしまっているというか、ある意味では「狂気」を秘めた役に特徴がある。だから、そんな小日向が検事を演ると、この映画では絵に描いたような検察官僚を演じるのだが、急に「ひゃ~!」と叫んで笑い出すのではないかという気がしてきて、おかしいのだ。「サカイ引越センター」のCMで(明らかに)トニー谷を真似たキャラクターで注目を集めた徳井優が、警察署の留置係を演り、加瀬の持ち込み品の文庫本を開き、手慣れた手つきでサっとシオリの紐を引き抜く演技をするのを見ると、なんかおかしい。『カミュなんて知らない』でデカダンな大学教師を演じていた本田博太郎は、この映画では適役を見事に演じている。留置場慣れしていて、留置されたばかりの加瀬の面倒をきめ細かくみるわけだが、最高におかしい。こういうおかしく、ユニークなキャスティングをしているので、そのコンテキストのなかでは、本来おかしいはずの竹中直人がそれほど「おかしみ」を与えない。加瀬の元彼女を演じているのが、わたしには久しぶりの鈴木蘭々だが、理由がなぜかはよくわからないが、このキャスティングもおかしい。意図的「ミスキャスト」の妙。
(東宝試写室/東宝)


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