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粉川哲夫の【シネマノート】
今月気になる作品
★★ ソラニン (リンク参照)。 ★★★ シャッター・アイランド (この映画で、スコセッシの主要テーマが「パラノイア」であったことがわかる。タクシーの「密室」から孤島の医療刑務所まで拡大されても、基本は変わらない)。 ★★★★ 第9地区 (リンク参照)。 ★★★ 月に囚われた男 (リンク参照)。 ★★ アリス・イン・ワンダーランド (リンク参照)。 ★★★★ 17歳の肖像 (リンク参照)。 ★★★★ オーケストラ! (リンク参照)。 ★★ クロッシング (リンク参照)。 ★★★ ジョニー・マッド・ドッグ (気を滅入らせる意味では今月最高。少年がポルポトの少年兵士のように変貌して行く恐ろしさ。その先には虚無しかない)。 ★★★★ プレシャス (リンク参照)。 ★★★ ボーダー (鍵を暗示しながら、その予想を裏切る結末に、「そりゃないよ」と言いたくなるが、そのヒネリ具合が面白い。デニーロ65歳、パチーノ68歳の作品ながら、演じる人物たちは精力旺盛)。 ★★★★ スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド (なまりの強い英語をまくしたてる「思想家」のしたたかさが鼻につくが、次第にその魅力に惹きこまれて行く。映画の声の分析のところなど、「理論」に合う作品だけを選んでいる感じもするが、そのお手並みは見事)。
ヒーローショー 運命のボタン シスタースマイル ドミニクの歌 パリより愛をこめて ザ・エッグ ロストクライム-閃光- ザ・ウォーカー モダン・ライフ ブライト・スター いちばん美しい恋の時 殺人犯 告白
2010-04-28
●告白 (Kokuhaku/2010/Nakashima Tetsuya)(中島哲也)
◆この作品、力作だと思う。が、試写を見て、すぐに以下で敷衍するパラグラフを書いたまま、仕上げることなく、時間がたち、一般公開がはじまった。この作品は、「ネタバレ」を犯さないと十分なことが書けないような作品の一つで、やっかいなので後回しにしているうちに、日がたってしまったこともある。ここに書いていない作品には、『ぴあ』『報知』『キネマ旬報』のコラムに先に書いてしまって、あらためて書く気勢をそがれたというものもあるが、『告白』に関しては、まだどこにも意見を発表していない。そんななか、読者のかたからメールで、<先日「告白」を観まして、ものすごい衝撃を受けたのですが、「シネマノート」にはありませんでした。中島哲也監督の作品で「シネマノート」にあるのは「嫌われ松子」だけですし、粉川さんは、中島監督をお好きではないかもしれませんしが、「告白」をご覧になっていらっしゃるのでしたら、ぜひ、作品について触れていただきたく思います>という丁寧なメールをいただいた。中島哲也は、尊敬する監督の一人だが、たしかに、このノートでは、『嫌われ松子の一生』しかあつかっていない。あの作品についても、もっとたくさん書くはずだったが、意気込みが逆作用してあれだけしか書けなかった典型的な例でもある。が、こういうメールをいただいては、書かないわけにはいかない(2010-06-10)。
◆「いまの」中学生や「ひきこもり」に悩む親、そういう生徒をかかえた教員の屈折とねじれがなかなかうまく描かれているという思いがかなりのあいだ続くが、結局彼や彼女らは肯定的にはあつかわれず、松たか子が演じる中学教師・森口悠子つまりは中年世代が彼や彼女に復讐して溜飲を下げるという方向に進む。これでは、「若者」をせっかく鋭くとらえながら、その核心にあるものをどぶに流してしまう。「いまの若者」にうんざりしている「大人」の意識が描かれているにすぎなくなるからだ。しかし、この映画は、そんなに単純ではなかったはずだ。
◆森口は、自分の教え子に原因のある「事故」で3歳の娘を失った。彼女は、それが事故ではなく、殺人だと確信するが、問題の2人の生徒(「犯人A」と「犯人B」)は、「少年法」に守られて、大人の罪を問われない。彼らも、それを承知のうえで「犯行」に及んだらしい。といって、この映画は、少年法を批判しているわけでもない。むしろ、少年法があったから、彼らが「殺人」を犯し、また彼女が「復讐」することができるという相互的な仕組みが描かれている。
◆その点では、この映画は、実にスタイリッシュであり、見事な仕上がりである。が、あつかっている問題が、きわめて「社会的」なので、この映画を「映画としての映画」、スタイルを楽しむためだけの映画として見ることもできない。映画としては「完全犯罪」の作りなのだが、その隙間から「社会」が漏れ出るのだ。この映画は湊かなえの同名の原作小説(双葉社)にもとづいているが、小説は、映画よりも読者の想像力と構想力に負うところが大なので、そうした「社会」への逸脱と遺漏は、読者の自由性にまかされる。が、映画はより直接的で、具体的な個物や肉体を突きつけるので、観客が「想像変更」(現象学の用語)する度合いが限られる。つまり、映像と「社会」との通路が太くなり、映画が直接「いま」や「ここ」の現実を「参照」させてしまうのだ。
◆そうなると、現実には、森口という教師が示すことは、映画のなかだけの「復讐」に見えてきて、彼女がそこにいたる生徒たちのやったことのリアリティが色あせてしまう。現実には、この映画で生徒たちが示したことは、彼らの「犠牲者」である教師によっては決して復讐しえないものであるというのが現実だからである。
◆この映画は、過剰な自意識で構成されている。教師をことごとくバカにしている生徒「犯人A」は、自分がやっていることの意味を100まで承知している。その意味ではワル中のワルである。が、いつの時代にも、こういう「大人」をおびえさせる「アンファン・テリブル」はおり、その「犯人A」が、物理学者を母親に持ち、早くから電子工作に手を染めているというのも示唆的だ。電子工作というのは、手先と頭との両方(カントが言ったという言葉にならえば、脳の外在的な側面と内在的な側面)を使う、つまりは脳をホーリスティックに使うので、脳のパフォーマンスを最大限発揮させるのに役立つのである。
◆しかし、人間は、別に「天才」ではなくても自意識過剰な存在である。この映画の秀逸なシーンで、森口教員が辞めた後任として入ってきた「ウェルテル」という教師(岡田将生)が、「熱血教師」ぶりを発揮し、生徒は、それを十分意識しながら「熱血教師」への「それなり」の「おつきあい」をするというのがある。この場合にも、この「ウェルテル」とて、自分がそういう道化役をしていることを全く自意識しないわけではなく、その感じもこの映画ではちゃんと描かれている。その意味では、この映画は、自意識を自意識しているのだある。そして、おそらく、ここが、映画としてのこの映画の矛盾になっているのかもしれない。小説ならば、「自意識の自意識」は、読者のほうにまかされるのだが、それを映画で意識しようとすると、自分のまなざしを見返すことができない視線をあたかも見通せるかのように主張するのと似て、理論的に矛盾するからである。「理論的に矛盾する」という言い方があいまいに響くとすれば、(現象学で言う)「超越論的主観の侵犯」を犯していると言おう。
◆要するに、最後に「サスペンス」的展開になることと、森口教員が、みずから「謎解き」をしてしまうことが、わたしとしては、この映画にいだく不満なのである。映画が、「社会」への若干の通路を開こうとすれば、「謎解き」なしのあいまいさを残すしかない。それと、わたしのかぎられた観察にもとづく直感によれば、「犯人A」のようなアンファン・テリブルは、いま無数におり、しかも、「犯人A」のようには「犯罪」は犯さず、学校では「平静」を装っている――あるいは狂気や暴力は極力内に押し込めており、対する教員のほうは、ますますストレスを深めさせられている。 そして、現実に、「負ける」ないしは淘汰されるのは、そういう教師のほうであり、よかれ悪しかれ、この「アンファン・テリブル」たちが、これからの時代を支配するようになるのは確実なのだ。 とすると、この映画も小説も、中・高年層の憂さ晴らしでしかないかもしれない。メールをくださったTさん、こんなところでどうでしょうか?
◆【追記/2010-06-11】映画好きの女子大生が『告白』を見たというので、話をしていたら、<松たか子が最後に言う「なんてね」って、どういう意味ですか?>ときかれた。そうか、もう「なんちゃって」の時代ではないのだ。実は、わたしが、このレヴューを書くのを後回しにしたのは、この台詞(せりふ)に言及すれば、この映画のすべてが語れるが、そうすると「ネタバレ」になり、ネタバレモラリスムの連中が眉をつり上げるような気がしたからである。しかし、この《一括相対化》の用語がわからない世代が増えているとすれば、むしろ、このことから始めたほうがよかったのだ。「なんてね」は、「なんちゃって」よりもソフトな言いかただが、いずれにしても、一旦強いことを言い、相手を驚かせたり、脅かしたりしたあとで、「なんちゃってね」と言うことによって、すべてを「水に流す」語法である。むろん、言ってしまった以上、いくら「なんちゃってね」という語を付加しても、言ったことが無化されるわけではないから、この語法は、そういう形で、言ったことがもたらすかもしれない深刻な帰結に対する責任を回避する予備工作的な操作である。前述したように、わたしは、この映画は非常にいい線を行きながら、結局は「旧世代」の目線になっていると思うのだが、その点がこの台詞で露呈している。
(東宝配給)
2010-04-27
●殺人犯 (Saat yan faan/Murderer/2009/Chow Hin Yeung Roy)(ロイ・チョウ)
◆冒頭、ひと気のないシャフト(高層のアパートビルに囲まれた狭い空間)の地上の苔むしたようなタイルのうえをカメラがなめるようにうごく。その瞬間、どかんという音とともに上から血だらけの人間が落ちてくる。ショッキングなシーンだが、この分だと、こいつはサスペンスかスリラーで来るかなという期待と予想がわく。だが、必ずしもそうはならない。落ちてきたのは、香港警察特捜班のタイ警部(チェン・クアンタイ)で、以後、病院に収容され、意識をとりもどさない。彼は、主席警部のレン・クォン(アーロン・クォック)と捜査に従事していたらしいが、このレン警部は、タイが落ちてきたあたりのベランダで倒れており、病院で意識をとりもどしたときには、その間の記憶をすべて失っている。彼には、妻(チャン・チュニン)と息子(タン・チェンヤッ)がおり、「普通」に「美しい」妻と対照的に妙にオタクっぽいメガネをかけた息子の姿がちょっと気になるが、特に異常なことは発見できない。
◆だから、レンが、同僚のクァイ(チョン・スファイ)と事件の謎を追うなかで、レン自身が犯人ではないかという気になってくる。そういえば、宣伝のポスターで不気味な薄笑いを浮かべている男の顔は、アーロン・クォックのものだった。こいつが狂っていて、アパートの階上で同僚の体にモータードリルで穴を空け、失血状態にして突き落としたのだ、と。そういう推理を立証する証拠が、以後、どんどん出て来て、なんだ、ありがちな主人公=狂気ものなのか、と先が読めた気になる。だが、そうではないところがこの映画の面白いところ。ストーリーを明かして「ネタバレ」になるような映画にロクなものはないとかねがね主張し、「ネタバレ」警告人から何度もクレームをいただくわたしとしては、この際、その「ネタ」を書いてしまいたい誘惑にかられるが、その一発勝負的なネタの奇抜さには、すっかり頭が下がり、今回はそのことには触れないことにする。
◆ある意味で現代的な「イジメ」と復讐、家族・家庭というコンセプトの終焉というテーマ、他方でアジア映画でなければリアリティをもちえない奇想天外な怪奇譚・幻想物語の要素をこき混ぜた、ブッ飛んだアイデアがここにある。それにしても、「不老症」と「早老症」とは考えたもの。とはいえ、このくだりも最後には相対化され、映画の「真実」は、観る者が自分で決めるしかない。ここは、『シャッター・アイランド』の「結末」と似ていなくもない。予告編も、香港の限られたサイトにしかないようで、これは、映画館で見るしかないだろう。見て損はない。
(ツイン配給)
2010-04-22
●ブライト・スター いちばん美しい恋の時 (Bright Star/2009/Jane Campion)(ジェーン・カンピオン)
◆25歳で夭折したイギリスの詩人ジョン・キーツ(ベン・ウィショー)の短い「晩年」が、史実にもとづいて描かれるが、カンピオンは、キーツが生きた19世紀の前半の時代のテンポと「空気」を映像のなかに溶かしこもうとしている。テンポは、19世紀の時間感覚に合わせるかのように、ときには眠くなりそうなくらい「ゆったり」しているが、キーツの死の知らせに文字通り「息をつまらせる」ブローンの激越な演技は、ジェーン・カンピオンが『ピアノ・レッスン』(The Piano/1993)でも示した独特の映像手法とあいまって、強い感動を呼ぶ。この映画は、よい劇場の大スクリーンでみるとき、その映像の100%の効果を体験できる。
◆冒頭、布に針を通している超アップが見える。裁縫をしているのはファニー・ブローン(アビー・コーニシュ)であるが、彼女は自分の服をすべて自分で縫うと告げる。映画のなかで見える服は、すべて彼女が縫ったということになるが、それは、まさに、キーツが詩と詠み、手紙を書くことに対応している。つまり、この映画では、<書くこと>と<縫うこと>とがアナロジカルな関係になっている。キーツの詩と手紙からの引用の言葉の多彩さと呼応するかのように、ファニー・ブローンが着ている服がひんぱんに変わる。19世紀のイギリスのコスチュームに関して、わたしはまったく無知だが、そのディテールと衣装換えの微妙な変化がわかれば、もっと面白く見れるだろう。
◆詩的なシーンがたくさんあるが、それもすべて「つましい」描き方をしながら、かつ華麗である。部屋のなかに蝶がたくさんいて、ブローンの手に留まったりしてるシーンがある。彼女の妹マーガレット(イーディ・マーティン)と弟サミュエル(トーマス・サングスター)が野外で採集してきて部屋のなかに放したのだ。部屋に入って来てその蝶が飛び交うのを見た母親(ケリー・フォックス)は、「空気を入れないと(死ぬ)」と言う。事実、しばらくして、その蝶がすべて死骸となって床に落ちている。このシーンは極めて暗示的である。ブローンは、「キーツから手紙が来ないと、わたしは死んだも同然、まるで空気がわたしの肺から吸い出されてしまったよう」と言う。また、最後の方のシーンで、キーツのイタリアでの客死を聞いた彼女が、次第に悲しみをつのらせて行き(このシーンは、この映画で最も激情的に描かれる)、泣き崩れてしまい、「息ができない」と母に訴える。キーツが手紙のなかで重ね合わせた蝶とファニーとの関係が、ここでも反復される。キーツは、彼女に、「わたしたちが喋喋であればいいなと思ってしまうこともあります。そして、夏の三日間しか生きなければいいなと」と書いていた。実際、キーツは蝶のような存在であり、蝶のようにはかなく死んだ。だが、残されたファニーは、蝶にはなれなかった。だから、彼女は野外をさすらい、彼に想いをはせる。
◆キーツの死の知らせを知ったあと、ファニーが雪のなかを泣きながら暗誦する「Bright Star」のあと、エンドロールにかぶって、ベン・ウィショーの声が流れる。彼が朗読するのは、「Ode to a Nightingale」(夜鳴き鶯によせる抒情詩)である。どちらも、宮崎雄行編『対訳 キーツ詩集』(岩波文庫)で読めるが、訳が古文調て実感が出ない。
◆キーツの仕事をサポートしつづけたチャールズ・ブラウン(ポール・シュナイダー)は、最初から、ファニーがいみ嫌う存在として描かれる。チャールズがキーツに同性愛的な意識を持っていなくもなかったと思うが、これも、19世紀的な調子で「あいまいに」描かれる。チャールズは、ブローン家のメイドのアビゲイル(アントニア・キャンベル=ヒューズ)に手を出し、妊娠させ、結局彼女と結婚するのだが、終始カッコよくはない男をポール・シュナイダーはたくみに演じている。ただ、キーツ自身が彼をどう思っていたかは、終始あいまいで、はっきりはしない。ファニーを恋していたことは確実であり、彼女こそ「輝ける星」(Bright Star)だったと思うが、それだけでもないような感じがする。
(フェイス・トゥ・フェイス配給)
2010-04-21
●モダン・ライフ (La Vie Moderne/2008/Raymond Depardon)(レイモン・ドゥパルドン)
◆「田舎に住みたい」、「農業がしたい」と本気でのたまう御仁がいる。むろんそういう「田舎」はあるし、21世紀の「カントリー・ライフ」というガイド付の商品もある。そこそこの土地を区画して、木造の家と庭と畑のある場所。そこで、農園をやり、花を植え、野菜を作る。ハーブなんかも不可欠のメニューだ。もうちょっと気張って葡萄を植え、ワインをつくってもいい。ワインやジャムを作ったら、ブログの写真を載せよう。まあ、いいでしょう、暇と余裕があるのなら、やってみてください。しかし、この映画は、「田舎がいい」と礼讃する作品ではない。この映画を見て、そう思う人がいるとしたら、よほどのマゾか、この村の厳しい生活と自然環境が想像できない人に違いない。この映画は、「田舎」を美化しないし、農業の産業化に取り残された村を哀れむわけでもない。
◆映画は、小高い山の上の土道を車のなかから撮った映像からはじまる。山が見えるから、「田舎はいいな」と思う人がいるかもしれない。が、道路はたに立っている電柱や柵はとても手入れがいきとどいているとはいえない。むしろここは僻地であり、過疎地であり、忘れられつつある場所なのだ。だから、バックで流れる音楽(ガブリエル・フォーレの「エレジー 作品24」)もいかにも物悲しい。が、監督・撮影のレイモン・ドゥパルドンは、農業の「産業化」から取り残された農民とその生活を哀れむためにこのドキュメンタリーを撮っているわけではない。彼にとって、南仏のこのセヴェンヌの村とその住人たちは、彼の映画のなじみのロケ地であり、おなじみの「登場人物」なのである。それらが、他の世界から孤立しているとか、滅び行く運命にあるとかいうことはどうでもよい。結果的に、そういう映像世界が現出することになったとしても、それが目的ではない。
◆すでにドゥパルドンは、2001年に『農夫の横顔:接近』(Profils paysans: l'approche)を、2005年に『農夫の横顔:日常』(Profils paysans: le quotidien)を同じ場所と「登場人物」を使って撮っている。この村と村人からすれば、ドゥパルドン夫妻が車に撮影機材を積んでやってくるのは、ある種の「移動祭日」のようなものであり、楽しみであるはずだ。写真家でもあるドゥパルドンは、すでにこの村人たちを撮り、それが新聞に掲載さたこともあり、この村ではある種の「セレブ」になっている。当然、歓待もあるだろうし、酒や食事の宴もあるはずだ。しかし、この映画のなかでは、村人たちがそのときどきに食べたり飲んだりするものを薦められるようなシーンはあっても、彼が歓待されるシーンもないし、村人たちが盛大に食事をするシーンもない。大半は、この村に点住する農民たち(そのなかには村の男アランのところへ娘といっしょに都会から再婚してきているセシルのような女性もいる)へのインタヴューで構成されている。
◆その意味では、この「移動祭日」は、カメラを鏡にして、ドゥパルドンと村人とが対話し、対面することに終始する。それは、いわば、カットを無数に増やした静止画写真の連続であり、それに声が随伴する。これは、村人の「ありのままの生活」を写しているのとはちがう。もし「ありのまま」だとすれば、それは、彼や彼女ら(とりわけ高齢のブリヴァ兄弟シャライ夫妻など)がながいあいだ続けてきた「姿勢」と「対応」、人や自然への対応の仕方であり、「モダンな生活」からくらべるとはるかに「つましく」かつ「つつましい」態度である。実際、はるばる尋ねてきたドゥパルドンに対して、一人暮らしのポール・アルゴーは、タバコを吸いながらテレビに見入っていて、ドゥパルドンの来訪に無関心であるかのようだ。「都会流」にいえば、愛想がえらくわるい。が、そのとき彼が見ているテレビでは、フランスのカソリックのアベ・ピエール神父の葬儀の中継を流していた。「カソリックなの?」というドゥパルドンの質問に、「いや、プロテスタントだ」と答えていたから、神父の死を悲しんで無口になっているわけでもなさそうだ。つまり、これが彼には「普通」だということだ。お客が来たら、愛想よくしなければならないというのは「近代」(モダン)社会の脅迫観念である。そんなものにこだわってきたから、「近代」は終わるのだ。こう考えると、この映画が描く世界は、その「過疎」的な雰囲気にもかかわらず、「近代」よりもしたたかであるかもしれない。
◆「愛想」「笑顔」「大仰なゼスチャー」・・・そういうものは、ここにはない。そして、もし、「自然に生きる」(これをいまでは、い「地球にやさしく」と、環境のほうに視点を移し替えてりまう)つもりなら、エコロジカルな食事をしたり、アスレチックをやったりするよりも、しゃべりたくないときにはしゃべらないということ、やりたくないことはやらないということが先決だ、といわんばかりである。
◆この村は、物品や機械を優先する「モダン・ライフ」からすれば、すべてが「貧しく」、「滅び行く」過程にあるように見えるかもしれない。しかし、少なくとも「滅び行く」と思われる老人たちのほうが、はるかに「自然に」生きているかどうかはわからないが、言語に対して「自然な態度」をとっている。自分にさからって語ることはない。
◆この映画で一番「ドラマティック」なシーンは、ジャン=ロワ夫妻の居間のシーンである。例によって、カメラに向かい、ジャン=ロワ夫妻と、すでに初老の息子ダニエルの3人が座り、カメラの背後のドゥパルドンとなごやかなおしゃべりをしている。そのうち、どこからともなく黒い犬がやってきて、ダニエルの隣の椅子にポンと飛び乗り、ちゃんと座り、この「写真撮影」に参加する。ダニエルは、さりげなく、犬を撫で、首輪をひっぱったりする。最初は無視していた犬が、二度目に触られたとき、ダニエルの手を「うるさいな!」といわんばかりに噛むのである。むろん手加減をした噛み方だと思うが、この犬の態度が面白い。拡大解釈をすれば、この村では犬もまた、「自然に」生きているのである。「田舎はいいな」と思っている都会人は、まず都会で「自然に」生きてみではどうか? むろん、田舎の自然は、環境的には都会よりも厳しいだろう。都会には都会の「自然」がある。が、いずれにしても、「モダン」を代表する都会は、「自然」を失い、各人が自由にあやつることが出来る(はずの)世界になろうとしてきた。しかし、それが果たせないことがだんだんわかってきた。が、それならば、都会に「自然」をとりもどせばよいではないか。といって、それは、都会に緑をといった発想を言っているにではない。かつて都会にはあった「つましさ」と「つつましさ」の文化を見直すということだ。
(エスパース・サロウ配給)
2010-04-15
●ザ・ウォーカー (The Book of Eli/2010/Albert Hughes)(アルバート&アレン・ヒューズ)
◆絶対に負けないヒーローというのは、映画や劇だけの存在で、「現実」にはありえないことだが、じゃあ、映画にとって「現実」とは何かといえば、結局、フィルム上の光の変化が現実であり、一般に言うところの「現実」は、そういうヴァーチャルな現実の隙間から仄(ほの)見えるだけなのだ。その意味では、この映画の「殺陣」(マーシャルアート)やガンアクションは、小気味よい。痛快である。デンゼル・ワシントンのアクションは、『パリより愛をこめて』のトラボルタと互角、いやそれより上である。ワシントンは、スタントなしですべて自分で演じたという。
◆仕込み杖ではなく、大型のサバイバルナイフであるところが違うが、デンゼル・ワシントンが演じる「ウォーカー」ことイーライは、明らかに「座頭市」である。その旅のなかで出会う徒党(バイクに乗って旅人を襲う)の本拠地にでんと座って、権力をほしいままにしている悪党の親玉「カーネギー」(ゲイリー・オールドマン)は、さしずめ、やくざの親分である。こいつが登場するシーンで、本を読んでいるのだが、その大判の本の表紙には、「ムッソリーニ」とある。
◆イーライはなぜ歩く? 彼には、座頭市とはちがって、自己に課した使命がある。原題になっている「イーライの本」を運ぶためだ。が、その「本」には「the」がついているから、ただの本ではない。西洋人にとっては、「ザ・ブック」といえば、聖書に決まっている。で、その向かう先は「西」。敵たちをなぎ倒しながら行き着く「西」はサンフランシスコだった。
◆世界(少なくともここで描かれるアメリカ)は、キリスト教に依拠した政権によって、まさに若きリュック・ベッソンの傑作『最後の戦い』(1983)のような、あるいは、そのモデルであるはずのクリス・マルケル『ラ・ジュテ』(La Jetee/1958/Chris Marker )のような「ポスト・アポカリプス」的廃墟と化し、多くの人々が視覚を失ったりしている。愚かな戦争がオゾン層を破壊し、紫外線の直射が強まったのだという。
◆世界を破滅に導いた「キリスト教に依拠する政権」とは、G・W・ブッシュとネオコンのキリスト教右派を思い出させるが、そういう政権の失敗が明らかになったにもかかわらず「聖書」を守るというところが、アメリカのしがらみではないかとも思う。アメリカは、多民族・多宗教の国であり、キリスト教がダメなら、ほかの宗教もあるし、もしキリスト教で失敗したのなら、もう宗教そのものをやめてしまえばいいと思うが、そうはならないのが、伝統と記憶のしがらみであり、それしかないのかもしれない。が、イーライは、アフリカン・アメリカンの風貌(デンゼル・ワシントンが演じているのだから)をしているが、悪党は白人で構成されているところを見ると、この映画のなかのもう一つのキリスト教と聖書の存在は、さまざまな伝統のなかの一つとしてのそれらを守るという、文化と記録への愛の表現にすぎないのかもしれない。たしかに、イーライがたどり着く場所――アルカトラズ島――には、西欧文化の記念碑的な著作が並べられていた。
◆イーライは、歩く人、旅する人であり、記録を保持し、伝承する人である。伝統や民族の記憶は、いつもこういう形で保持されて来た。当然、その過程で変容や逸脱が生まれ、ヴァリアント(変異体、異文)が生じる。聖書はもとより、古いテキストは、口承(こうしょう)で引き継がれ、書かれたテキストも、いまのようにオリジナルなきコピーマシーンはなかったから、手書きで伝承された。中世ヨーロッパの修道院では、さまざまな書物が書き写されたが、それを行うのが「書記生」の仕事で、彼らは気分次第で、自分の考えを書き加えたりもしたらしい。となると、伝統や伝承とは何であるかが問われる。現象学のフッサールは、「伝統とは起源の忘却である」と言ったとメルロ=ポンティが書いている(「哲学者とその影」、『シーニュ』所収)。わたしは、それをフッサールがどこで書いているのかを探したが、ついに見つからなかった。メルロ=ポンティは、フッサールの遺稿をルーヴァンのフッサール文庫で閲覧したから、それは遺稿のなかにあったのかもしれない。が、いずれにしても、「伝統とは起源の忘却である」という言葉自体が、その「起源」を忘却され、「伝統」になる。
◆一冊の本なり、人類の遺産的な記録媒体がある場合、それをあつかうやり方には、二様ある。一つは、それを継承し、広め、そのユーザーがみずから活用することである。イーライはそうしようとしている。他方、カーネギーは、それを独占し、民衆を操るために利用しようとしている。彼は言う、「それはただの本ではない、兵器なんだ」。宗教も、その定義次第であるとしても、自らの維持するためにみずから信じる宗教と、「民衆のアヘン」としての宗教とがある。ネオコンたちは、たしかに、キリスト教を後者として利用しようとした。
◆カーネギーはイーライを泊め、自分の娘のソラーラ(ミラ・クニス)を一夜の花嫁として提供してイーライから情報を盗もうとするが、賢明なイーライは、その策略を見抜く。彼がソラーラにしたのは、食べるまえに祈ることを教えることだった。これは、極めてキリスト教的な習慣であり、それをこの時代の人々はこういう「敬虔」な習慣をすっかり忘れてしまったという設定である。アメリカ映画では、時代が右に傾くと、この種の身ぶり・習慣を強調し、復活させようとする映像が目立つ傾向がある。しかし、考えてみると、食前に祈るという身ぶりは、必ずしもキリスト教的と取る必要はないかもしれない。日本でも、わたしの母親などは、食事のまえに箸を捧げるようなかっこうをして目礼をしていた。昔の人は、どこの国でも「いま」よりは敬虔(けいけん)だったのだ。
◆終わりのほうで、イーライの衣装が、イスラムとヒンズーをまぜあわせたような白の衣装になり、頭髪をスキンヘッズにしてりまうのはなぜだろうか? 民俗学的・宗教学的な博学に尋ねてみたい。
◆カーネギーにしばしば虐待を受ける妻の役を演じるジェニファー・ビールズを見るのは、わたしは久方ぶりだった。すこし歳をとり、別のアウラが生まれていた。
◆悪党ながらカーネギーの冷酷横暴さには異議のあるナンバー2、レッドリッジを演じるレイ・スティーヴェンソンは、その屈折をうまく演じていた。
◆イーライが、カーネギーの攻撃を逃れながらたどりつく荒野の一軒家の夫婦(マイケル・ガンボンとフランシス・デ・ラトゥーア)の感じは、どこかで見たことがある。追いついたカーネギー一派が『ワイルドバンチ』に出て来るような機関銃で家を蜂の巣にするシーンも含め、思い出せないが、デジャヴュのようなシーンである。
◆イーライが使うマッチの箱には「KFC」(ケンタッキーフライドチキン)のロゴマークが見える。
◆最初の方で、カーネギーが支配する街に到着したイーライが、さまざまなジャンク品がならぶ店に入る。店主はいきなりイーライに銃をつきつけるが、あっさりイーライに奪われてしまう。その類人猿風の顔をした店主を演じるのがトム・ウェイツ。イーライは、バッグから箱型の電子機器らしきものを出す。店主が、「ああ、ファントム 900じゃないか、動くのか?」と言う。わたしは、最初、イーライがいつもつかっているiPod的な機器かと思ったが、それよりもはるかにサイズが大きい。で、ネットで「Phantom 900」を検索してみたが、そういう製品は見当たらなかった。「ファントム」は聞き間違いかもしれない。あるいは、架空の製品か?
(角川映画・松竹配給)
2010-04-14
●ロストクライム-閃光- (Lost Crime/2010/Ito Shunya)(伊藤俊也)
◆久しぶりに「大人」の作りの日本映画を見た。原作(永瀬隼介『閃光』)に負うところ大としても、全体を把握しなおし、優れた多数のカットに分解し、統合しなおした手並みは見事。三億円事件という、いまや1968年の日本を表象させる一つの神話と化した出来事への映画的イマージネーションを刺激して、大いに楽しませる。冒頭、火の輪が見えるが、それが、石油缶で作ったストーブのなかの火を起こすためにホームレスがその石油缶を振り回している火であることがわかる。なかなか暗示的な導入である。
◆全共闘運動が高まるなかで起こった三億円事件は、時代の気分としては、痛快な事件だった。実際には、この事件が、当時まだまだエスカレートしていた「反権力」運動側にとってプラスになったのか、それとも、この事件を利用して進められた警察のアパートローラー作戦にとってプラスだったのかはわからない。ただ、当時は、これほど世の中を騒がせた事件でなくても、何か事件があれば、それを利用してアパートを一軒一軒回って住人の身元調査をしたり、たかが赤信号を渡っただけの「活動家」を別件で逮捕したり、「活動家」が古本屋に立ち寄れば、後をつけて来た刑事が古本屋の主に彼ないしは彼女が買った本の名を尋ねたりといった奇奇怪怪なことが普通だったから、おおざっぱに見積もれば、この三億円事件は、権力に対して異議を感じている人間を元気づける方に役立ったのではないかと、わたしは思う。
◆この映画は、しかし、そうした三億円事件の「社会効果」には焦点を当てない。当時、憶測された単独犯説、政治的ないしは知能犯的なグループによる犯行説、警察による陰謀説といった諸説を統合したパラメーターを持ち出すのだ。つまり、全共闘グループ+不良グループの連合による犯行と警察の「特殊事情」とによる「迷宮入り」である。これは、事実ではないかもしれないが、サスペンスとしては、クレバーなとらえ方である。そして、この解釈は、サスペンスとして効果的であるだけでなく、この事件を単なる過去の事件として物語のなかにノスタルジックに押し込めずにいまの時代も続く権力の性格を思い起こさせる点でも成功している。
◆奥田瑛二が刑事をやるとすれば、その人物は「素直」な人柄の男であるはずがない。実際、彼が演じる滝口政利は、3年まえに愛妻(中田喜子)をガンで亡くし、一人暮らしをしている。定年まであと2ヶ月である。彼は、過去にあの三億事件の犯人を追い詰めながら取り逃がしたという無念な記憶がある。が、それよりも、奥田らしいシーンがこの映画には何箇所も出てくる。奥田が出る以上、彼が口にする食い物には最低限の気遣いがいる。映画には、最初隅田川死体で浮かぶラーメン屋の主人の捜査で奥田と渡辺大が尋ねるラーメン屋で出されたラーメン(奥田の旨そう食い方を見よ――ただし、食っているのには湯気が見えるが、運んでくるラーメンには湯気が立っていない)、極秘に情報をもらうために呼び出した刑事を招待する焼肉屋(テーブルの上の贅沢な肉や野菜)、一人暮らしの奥田が、自分で作ったトースト(目玉焼きと軽くあぶった厚切りのソーセージがのっている)、生ビールを旨そうに飲みながらつつく七輪の上のホルモン焼き、隅田川沿いの「おたふく旅館」で女将(烏丸せつこ)が作ったらしいおにぎり(それにそえられた新香とジャコ?にお猪口での酒)――決してこれ見よがしではないが、しっかりと撮っている。食のシーンがちゃんとしている映画に愚作はない。
◆半世紀もたてば、全共闘(映画では、当時流行の中国語略字を使って「全共斗」と書かれたヘルメットが見える――その全部が白いのには若干違和感があるが)の連中の人生も変わる。大病院の院長(宅麻伸)になったのもいるし、高級クラブのオーナー(かたせ梨乃)になったのもいる。家業(?)のラーメン屋(針原滋)を継いだ者も、(あいかわらず初志を貫徹して?)ホームレス(飯田裕久)になってしまったのもいる。暴力団の組長(ダイヤモンド勝田)は、別の系統か? いや、そういう全共闘もいただろう。あの時代、党派に属しているかどうかを問わなければ、誰もが「全共闘」だったから。
◆事件が起きれば、家庭に波風が立ち、それが地獄にまでエスカレートし、家庭崩壊が起こる。この映画は、そのへんの機微を正しくつかんでいる。事実は知らないが、この映画のなかの三億円事件で現金輸送車の護衛係は、責任を感じて自殺する。その首吊り現場を見てしまった6歳の息子は、事件の実行犯へ深い恨みをいだく。その子は成長して、記者(武田真治)となっても、そのことを忘れず、調査を続ける。/少年のころから事件を犯していた息子の父親(夏八木勲)は、警察官という仕事柄、ジレンマに立たされる。警察官の父親への反抗というのは、月並みが図式だが、父親が何らか社会的な機能を果たしているばあいの息子の「非行」は家庭崩壊の要因になりえる。そして、その子が長じて(奥村知史)あの三億円事件に関わっていたとなると、ただでは収まらない。このへんの描写はリアルである。
◆奥田とコンビを組む渡辺大は、ヘルス嬢(川村ゆきえ)と同棲している「進歩的」な刑事役だが、最初はあきれるほど下手。しかし、だんだんよくなり、最後に隅田川に飛び込むシーンでは、けっこう様になっていた。頭から撮ったかどうかはわからないが、とにかく、最初のほうがせりふもしぐさもダメだった。川村は、それっぽさを出していて、まあまあ。それっぽさといえば、警察官を演じる面々は、やや過剰。すべてが軍隊式で、時代錯誤。ところで、いまの刑事のなかには、犯罪関係の情報を得るためにデリヘル嬢なんかと同棲しているような「進歩派」も実際にいるらしい。要注意。
◆【最後に若干の批判】三億円事件は、すでに時効になっているのだから、いま実行犯がわかっても、罪に問われることはない。だが、その事件を迷宮入りさせたのが警察だったとすれば、その事実が明るみに出るのは、いつの時代でも警察にとっては不都合である。だから、犯人がバレそうになったとき、その人物の暗殺が始まった。その背後に警察がいるのは明白である。その意味で、この映画は、警察への確とした批判になっているのだが、あえて言えば、その点では、不十分である。なぜなら、この映画は、陰謀が警視庁内部だけのものとして描かれていて、検察のレベルは全く問題にされていないからである。もし、犯罪が起これば、検察庁(法務省管轄)が同時に動くから、警察のやることを検察が見逃すはずはない。検察がいしょにならなければ、この映画が描くような大きな陰謀は実現不可能である。犯罪の重さ軽さを左右するのは警察ではなく、検察であり、その検察が、いま、ますます末期症状的な横暴さをふるっているのである。その意味では、むしろ、いま警察を笑うことは、警察などは道具にすぎないとみなしている検察を見逃すことになる。このへんのことに関しては、郷原信郎「小沢狙い撃ちに見る検察の暴走と劣化」(『中央公論』2010年4月号)が役に立つ。
(角川映画配給)
2010-04-13_2
●ザ・エッグ (Thick as Thieves/2009/Mimi Leder)(ミミ・レダー)
◆『ペイ・フォワード』以後、ミミ・レダーのフィーチャー・フィルムを見る機会がなかったので、期待したが、残念ながら、裏切られた。一体、ミミはどうしてしまったのか? 似た映画ですぐ思い浮かぶのは、フランク・オズの『スコア』だが、そんな小気味よさも、ひねりもない。
◆出演者は大物ばかりだ。モーガン・フリーマンを起用し、渋い演技では定評のあるラデ・シェルベジアや(レダーの傑作『ピースメーカー』でも、グレゴリー・ホブリットの『ジャスティス』でも、重要な脇役を見事に演じた)マーセル・ユーレス、しけた刑事がはまり役のロバート・フォスターといった俳優人は完璧だ。ただし、ラダ・ミッチェルを筆頭に、どの俳優もベストを演じ切れていない。というより、出演に熱が入っていない。シェルベッジアとユーレスは短い出番をそれぞれに破綻なく演じているとしても、肝心のアントニオ・バンデラスが全然よくない。非常に無理をしている感じがして、痛々しい。そもそも、ラダ・ミッチエルに「ロシア人」を演じさせるのは無理ではなかろうか?
◆一個所だけ、ロシアのバックグラウンドを持つミミ・レダーらしさが出ているシーンがあった。それは、盗んだロマノフ王朝の秘宝が木製であることに不満を表したバンデラスに、ラデ・シェルベジアが言うせりふだ。「あれは1917年のことだった。ロシア。人々は飢えていた。宝石なんかなかったんだ。ダイヤモンドなど残っていない。希望もなかった。しかし、皇后アレクサンドラは〔たとえ木製でも〕自分のミステリーエッグを所有せざるを得なかった。たぶんきみはわかるだろう、なぜわれわれが革命を起こしたかが。人々は、何かを信じる必要があったんだ。・・・俺は殺人者じゃない。ただの貧しい〔ロシア〕移民だ。たぶんきみと同じように」。このとき、バンデラスは言う――「そうは思わないね。俺はきみとは全然ちがう」。バンデラスの役柄は、革命のキューバを逃れてやってきた「移民」である。ここで、二つの「革命」が暗黙に比較されている。ミミ・レダーは、ロシアの最後の皇帝ニコライ2世の皇后アレクサンドラを銃殺した「革命ロシア」には反対なのだ。シェルベジアが演じている人物には批判的なのだろう。まあ、こういう観点から見れば、この映画も面白いが、ちょっと「内輪」すぎる内容だ。
◆この映画は、ニューヨークのブライトンビーチでロケをしている。ここは、別名「リトル・オデッサ」と言われ、ソ連時代に亡命したユダヤ系のロシア人が多かった。映画でもしばしば使われている。ここをもっぱら舞台にしたずばりのタイトルの『リトル・オデッサ』(Little Odessa/1994/James Gray)があり、ここを根城とするロシアマフィア(ティム・ロス)とその弟との悲劇を描いた。『ロード・オブ・ウォー』でニコラス・ケージが演じる男もこのあたりの生まれという設定だった。
(日活配給)
2010-04-13_1
●パリより愛をこめて (From Paris with Love/2010/Pierre Morel)(ピエール・モレル)
◆パリのアメリカ大使館の大使(リチャード・ダーデン)のもとで働く有能な大使館員ジェームズ・リースを演じるジョナサン・シース・マイヤーズは、いい目をしている。この映画、キャスティングは、完璧で、彼の恋人キャロリン役のカシア・スムトゥニアクは、ふと見せる悲しそうな目が最後に活かされるし、今回スキンヘッズにして、ワイルドな感じを全開させるジョン・トラボルタも、彼としては新しいキャラクターを生み出すことに成功している。まあ、それにしても、彼演じるCIA諜報員チャーリー・ワックスは、よく殺す。絶対に怪我をしないから、こいつはスーパーマン以外の何者でもない。観客は、その超人的なアクションを楽しめばよい。ガンエフェクトとカーアクションは、なかなかのもの。
◆映画の古典的王道がアクションだ(った)とすれば、この映画はその定石を踏み、いい線を行っている。問題があるとすれば、アクション効果のためにはレイシズム的な表現や無慈悲な殺人表現も許されるのかどうかである。が、映画というものは、モラルを越えて突き進まざるをえないのだと思う。たとえば、戦争をどんなに「批判的」に描こうとも、「敵」を攻撃したり殺戮するシーンに共感をおぼえれば、あなたがある種の「殺意」をいだいたことには変わりがない。殺意は誰にでもある。問題は、にもかかわらず実際に殺すかどうかである。映画を見て、ある種の殺意が満たされたとしても、実際に人を殺していなければ、殺人ではない。映画で殺人シーンをくりかえし見れば、殺人者になるわけではない。もしなるとすれば、それは、別の要因が働いている。映画で人を殺すことと、実際に人を殺すこととの違いは、人を殺すことによってではなく、映画をたくさん見ることによって養われる。映画の殺人と、歌舞伎の立ち回りシーンとのあいだに、基本的な差異はない。
◆レイシズムも、モラル的観点から見たのでは、この映画を論じることにはならない。そもそも、映画は、本来、どんなに差別的な表現をしても、レイシズムとは関係がない。映画で「レイシズム」が問題になるとすれば、それが、映画として紋切り型であるかどうかである。映画は、想像力の装置である。だから、実際にありえないレイシズムを描がけば描くほど、それは、レイシズムについての思考や批判に刺激を与えうるものとなる。逆に、それが、紋切り型の「レイシズム」を描けば、レイシズムの描き方として単純すぎる(ステレオタイプ)として批判されても仕方がない。問題は、映画表現としての強度と深さの問題である。
◆その点では、この映画は、人種の描き方がステレオタイプである。それは、辣腕プロデューサーのリュック・ベッソンの選択でもある。商売人の彼は、ステレオタイプの大衆性を熟知している。それも、ある意味では、大衆映画の技法である。以下に、この映画で使われているステレオタイプを列記してみる:アメリカ大使館がCIAの支部であること(実際のところ、大使館員は、潜在的にみなそういう機能を持たざるをえないわけではあるが)/殺される「悪人」はほとんど白人以外/中国人→徒党を組む/中国人マフィアはコカインの取引を牛耳っている/イスラム系=テロリスト/自爆テロリストとは狂信的な信仰関係で動く/似ていれば、「インド人」俳優がイスラム系のキャラクターを演じるのもあり・・・。
◆ステレオタイプでも、ちょっとひねっていて面白いのは、少年ギャング。ドラッグの元締めを追って、スラム地域へ行き(そのときのジョン・トラボルタのせりふがいい――「こういうところはパリのガイドブックには出てなかったな・・・[ニューヨークのスラムで育った]昔を思い出すよ」)のアフリカ系の売人に案内されて、建物に入ると、少年たちがいて、彼らがいきなり銃を取り出して、トラボルタとマイヤーズをホールドアップする。これは、カンボジャのポルポトの少年兵の怖さを思わせるし、映画としては、古くは『カラーズ 天使の消えた街』、最近のものでは、『闇の列車、光の旅』や『ジョニー・マッド・ドッグ』のシーンを思い起こさせる。
◆ジョナサン・シース・マイヤーズが「いい目をしている」と書いたが、その目はどちらかというと、「ホモイロティック」(ゲイではないが、ゲイ的な)な感じだ。面白いのは、最後の方で、マイヤーズにカシア・スムトゥニアクが撃たれたあと、トラボルタの目が、同じようような目をしていることだ。ある意味で、この映画は、マイヤーズとトラボルタが「ホモイロティック」な関係に入っていく映画でもある。「同志」的関係には必ずそういう要素があるのだが、この映画での二人の目は、単なる「同志的」なものとは、少しちがっていた。
◆そういえば、サミット会場にテロリストが潜入するというので、トラボルタとマイヤーズが、CIA職員の運転する車を突っ走らせるシーンで、助手席に乗ったトラボルタが、ラジオのダイヤルを回すと、バート・バカラックの「Close to You」が聞こえて来る。トラボルタは、「ああ、これが好きなんだ」と言い、隣の職員に「何か言ったらどうだい? これは、あんたとおいらのことだろう」と言う。このとき聴こえるのは、この歌の「Everytime you are near ? /Just like me, /They long to be close to you/Why do stars fall down from the sky/Everytime you walk by/Everytime you walk by」の部分だ。車が猛烈なスピードを出しているから、「あんたと俺は一蓮托生だよ」といった程度の意味にもとれるが、もっと意味深にも感じられるた。ちなみに、この歌手は、カレン・アン・カーペンターではなくて、マット・モンロー。なお、明らかにこの映画の原題が意識しているテレンス・ヤングの『ロシアより愛をこめて』(From Russia with Love/1963)のテーマソングを歌ったのも、マット・モンローだった。
(ワーナー・ブラザース映画配給)
2010-04-07
●シスタースマイル ドミニクの歌 (Soeur Sourire/2009/Stijn Coninx)(ステイン・コニンクス)
◆試写会場の東劇に入ったら、カウンターを持った人が、「試写ですか?」ときく。なんか人が多い。エスカレーターを登ったら、また「試写ですか?」ときかれ、そうだと答えると、「どうぞ」と先導され、劇場内に連れていかれた。大勢の人がいる。なんだ、キリスト教関係の団体に声をかけて、客を動員したのか?!と思ったが、すぐにそうでないことがわかった。『幸福の黄色いハンカチ』のポスターが見えたのだ。今回、『イエロー・ハンカチーフ』の公開に合わせて(逆か?)『幸福の黄色いハンカチ』のデジタルマスター版が上映されるのだが、今日はその一般試写なのだった。動員された教会関係の人で一杯になり、試写を見れなかったのは、メル・ギブソンの『パッション』のとき。会場はいまはなきヘラルド試写室だったのを思い出した。
◆この映画は、実は、カトリック教会、さらにはバチカンにも反逆する主人公の話をあつかう。宣伝で使われている写真だと、スール・スーリー(英語では「歌う尼僧」)ことジャニーヌ・デッケルスを演じるセシル・ド・フランスが「清純」な白い尼僧姿をして「明るい」笑顔を見せている。しかし、映画は、そんな「清純」な女の話ではないし、結末も「明るく」はない。もっと屈折していて、保守的な1950年代のベルギーでは、むしろ「パンク」的精神にあふれた女の話であり、「女」であることにも安住できなかったたぐい稀な人の実話の映画化だ。ジャニーヌ・デッケルスは、家を飛び出し、自分で修道院に入って尼僧になり、そこで世界的ヒットを飛ばす「ドミニク」で歌手になるが、結局、修道院を飛び出し、最後は、いっしょに住んでいた女性と心中をする。
◆ジャニーヌがレズビアンであったのか、それとも「性同一性障害」であったのかどうかはわかっていない。映画では、ジャニーヌは、ボーイッシュなメイクをしている。ネットで実在のジャニーヌの姿と声に接すことができるが、セシル・ド・フランスは、実在の彼女をよくまねている。1975年生まれのフランスが、20代から50代までのジャニーヌを破綻なく演じる。映画は、ファンタジーの装置だから、実際に似ているかどうかよりも、われわれがファンタジーする「ジャニーヌ」と、セシル・ド・フランスが演じる「ジャニーヌ」とがファンタジー的にかぎりなく接近すれば、それでいい。その意味で、彼女の演技は見事である。
◆明るい笑顔には、悲しい出来事や忍耐が隠れていることが多い。「ドミニク」という歌も、一見「清らか」で「明るい」が、それを歌ったジェニーヌは、決してそうではなかったし、それを歌った環境も決して「明るく」はなかった。時代は1950年代から1960年代の初め。表面的には、まだ「反乱の60年代」の華々しい気配はなく、冷戦の暗雲と冷気が深くただよっていたのだが、やがて訪れる大きな変化を予兆する出来事が起きつつあった。日本では、日米安保条約の改定をめぐる論争が始まっていた。アメリカでは、キューバ革命(1959年)への危機感が高まった。中東危機も深まる。ケネディ(アメリカ)、ド=ゴール(フランス)、フルシチョフ(ソ連)が同時期にデヴューする。韓国ではクーデターが起きる。映画の舞台となるベルギーは、1957年にオランダ、ルクセンブルグとベネルックス連合を形成したが、ベルギーのかつての植民地コンゴでは、反乱が相次いだ。表はまあまあ「明るく」ても、裏は大変だったのだ。
◆ジャニーヌが、家で母親(ジョー・デスール)と対立するのは、ただの個人的な感情のすれちがいからだけではない。寛容な父親(ヤン・デクレール)が経営するパンケーキの店を継いでほしいという親の気持ちと、アートなんかをやっていては食っていけないという不安から母は娘をしめつけ、娘は、それに反発するという悪循環だった。この時代は、どこもまだ「豊か」ではなかった。『17歳の肖像』にも、似たようなシーンがあった。いつの場合も、家の状況と国の状況とはシンクロしあっている。
◆ジャニーヌが修道院に入ったのは、一元的な理由からではなかったが、親への反発も大きな理由のひとつだった。それは、当時の修道院の状況から考えると、みずから刑務所に入るようなことだった。実際、映画で見られるように、その閉ざされた門、厳格な規律、私物の不許可、面会の制限、手紙の検閲、集団行動、規律に反すれば雨のなかでも戸外で縛られ、祈りの仕置きを受ける等々、むしろいまの刑務所よりも厳しい条件だ。その意味では、ジャニーヌは、反逆の子であり、当時としては非常に「ラディカル」な人だった。
◆美術学校以前からの友達アニー(サンドリーヌ・ブランクが実にいい演技をしている)は、同性愛者的に描かれており、早い時期からジャニーヌに愛情表現をする。彼女はそれを最初拒否するが、自分のなかに同性愛的感情があることを感じはじめていく。親も公認の男性ピエール(ラファエル・シャルリエ)には、性愛を感じることができず、親の目を盗んで、深夜にアニーの家を訪ねるようになる。しかし、当時のカトリック教育を受けた彼女は、同性愛者になることには抵抗があり、アニーとの縁を無理やり切ろうとするために修道院に入ったようなところも見える。
◆修道院は、非常に保守的な場所だが、そこにも新しい風が吹き込む。バチカンでは、1958年、ヨハネス23世が新しく法王の座に就き、ある種の「規制緩和」がはじまる。おそらく、そうした空気のなかで、カトリック教会のメディア戦略が始まる。ちなみに、プロテスタントのほうは、もっと早くからラジオ(やがてテレビ)を使った宣伝を開始しており、日本でもラジオの「ルーテルアワー」は1951年に開始された。映画のなかに、修道院のドキュメンタリーフィルムを作るプロジェクトを担当するデュボワ神父(ベルナルド・アイレンボッシュ)が登場し、彼がジャニーヌを発見し、レコードの発売、歌手としてのデヴューのきっかけをつくるところが詳細に描かれているが、このようなことは、バチカンの「規制緩和」の空気のなかで生まれたのだった。それは、彼女がいくら才能を持っていても、それだけでは実現しなかったことであり、また、彼女の才能と野心と当時の状況とが奇跡的にからみあうなかで実現したことだった。
◆映画は、そうした教会を描くときにも、それを一枚岩的には描かない。どんなに保守的な組織のなかにも、面白い人はいる。役職上、氷のような表情をしている者でも、ときには、やさしい顔をすることがある。そうした屈折とゆらぎを、修道院長役のクリス・ロメ、最年長尼僧役のツィラ・シェルトンが演じる。彼女が修道院に入ろうとするのをとめる、街の教区の神父ジャンを演じるヨハン・レイセンもなかなかいい感じを出していた。ちなみに、ツィラ・シェルトンは、フランスでウジェーヌ・イオネスコの舞台の多くに出演していた人だ。
◆しかし、教会は所詮教会である。だんだん、ジャニーヌが有名になるにつれて、その限界を露呈させる。刑務所化している空間が新しい表現やアートを許容できる限界は決まっている。ジャニーヌは、修道院を去り、シンガーソングライターとして生きようとする。が、さまざまな壁が立ちはだかる。まず、世界的に知られるようになったその芸名「Soeur Sourire」ないしは「The Singing Nun」は、教会とレコード会社が権利を握っていて、彼女が自由に使うことができないのだった。むろん、それまでに百万枚以上も売れたというレコードの印税もすべて彼女とは無関係であった。映画では、修道院が、レコードの収益を教会のために使えることをあてにして、彼女を大いに利用したことが描かれている。
◆「俗界」にもどったジャニーヌは、新しい家を買って、アンと共同生活を始める。そこから、プロデューサーのブリュッソン(フィリップ・ペータース)のサポートでカナダツアーをするプロセスは期待にみちている。しかし、それは、モントリオールの大会場で「ドミニク」を歌い、万雷の拍手ののち、アンコールに応えて歌い始めるまでのことだった。勢いに乗って、「ピルの歌」を歌ったのがまずかった。会場にいた神父の一人が教区の責任者に通報し、その情報はただちにバチカンにおよび、翌日から、ツアーの会場のキャンセルが始まる。相手が悪い。CIAより怖いと言われるバチカンだ。ジャニーヌの才能に惚れ込んでいるブリュッソンは、別の会場を探しまわり、最後は、ストリップ劇場やバーで彼女に歌わせるが、彼女のプライドが許さない。このへんも、厄介なアーティストをかかえたマネージャーの側から見ても、自分の才能を信じているのに、周囲が自分を認めてくれない不遇なアーティストの観点から見ても、面白い。
◆アンとの関係をスキャンダラスに報道されたり、当時のバチカンが頑として認めなかった産児制限を支持する者とみなされたジャニーヌは、どんどん孤立していく。しかし、バルビタールの瓶を手にしたジャニーヌとアンの最期のシーンは、信じがたいほど「楽しげ」で「幸せ」そうである。これも、ある種のラブストーリであり、ジェニーヌにふさわしい特異なラブストーリである。
(セテラ・インターナショナル配給)
●運命のボタン (The Box/2009/Richard Kelly)(リチャード・ケラー)
◆リチャード・ケラーの評価の高い旧作『ドニー・ダーコ』のときもそうだった(とわたしは感じた)が、本作も、「深遠」のようでいて「コケオドシ」、「思わせぶり」のようでいて「けっこう真実をついている」ような両義性につきまとわれている。原作は、リチャード・マシスンの短編 「死を招くボタン・ゲーム」(伊藤典夫訳、原題:Button, Button: Uncanny Stories)で、こちらは、こんなにもってまわってはいない。
◆映画は、ある日、朝の5時45分に玄関のベルが鳴ったらしいことに気づく夫婦ノーマ・ルイス(キャメロン・ディアス)とアーサー(ジェイムズ・マースデン)が目を覚ますところから始まる。ノーマが階下のドアーを開けてみると、そこに「(その)箱」(原題)がある。やがて、アーリントン・スチュワードと名乗る、あごが半分えぐれた男(フランク・アンジェラ)があらわれ、その箱の説明をする。 その装置のボタンを押せば、100万ドルをもらえるが、その代わり、二人が知らない他人が死ぬ。赤の他人の死と引き換えに現金をもらうか、それとも赤の他人を自分の隣人とみなすか。これは、「他者性」とは何かへのモラル的な問いに誘い(いざない)はする。が、映画はそれをそのまま追うわけではない。以後、まがりくねった話が始まる。
◆コケオドシだと思うのは、たとえば、サルトルの戯曲「出口なし」が2度登場するが、それは、サルトルの戯曲そのものとの関係よりも、単にそのタイトルを使いたかっただけという印象をおぼえる。最初は、ノーマが高校の授業でこの戯曲について触れる。次は、彼女と夫が、見に行く舞台が「出口なし」であるという設定。二人外出するとき、息子のウォルター(サム・オズ・ストーン)はベビーシッターのデナ(ギリアン・ジャイコブズ)にあずける。この子はもう赤ん坊ではないが、アメリカでは小学生でも、親の外出時にはベビシッターを雇うのが普通である。この女性が、やがて不可解な行動に出ることになるが、二人が出かける劇場でも、不可解な人物の姿がある。むしろ、「出口なし」の状況をかきたてるために、「出口なし」というタイトルを使ったのであって、別にサルトルの必要はなかったように思う。ちなみに、この映画は、「1976年のヴァージニア」という設定になっているが、サルトルがアメリカでこの時代に流行ったわけではない。
◆この映画に登場し、どうやら「異世界」にあやつられているらしい人間たちは、みな、急に鼻血を流す。どばっとではなく、話をしている最中にたらりと血が出てくるのである。おおむね、「闇の組織」の秘密を漏らしたときなどに出たと思う。が、これも謎めかされたまま最後までその理由は明らかにはならない。
◆箱を届けて来て、二人に「解説」をほどこしてくれる謎の人物アーリントン・スチュワード(フランク・アンジェラ)については、一応、1976年にNASAが行った火星探査の「バイキング・プログラム」に関わっていて・・・それにNSA(国家安全保障局)やCIAがからみ・・・というもってまわった話が持ち出される。アーサーは、NASAのために火星探査船で使う全方位カメラををデザインしたことになっているが、監督のリチャード・ケリーの父親は、NASAに勤め、そこで「火星ヴァイキング・ランダー・プログラム」に加わっており、火星表面の最初の写真を撮ったカメラの開発をしたという。また、彼の母は、映画のなかのノーマと同じように、事故でX線を浴び、足が不自由になったという。ノーマとアーサーは、彼の両親をモデルにしている。
◆そうだとすれば、息子のワォルターは、リチャード・ケリーの少年時代がモデルになっているのか? 映画のなかで、ウォルターは、(異界の謎の組織によって)視力と聴力を失い、自室から出られなくなる。要するに強度の「ヒキコモリ」状態に陥るわけだ。アーリントンによれば、彼がその「永遠の闇と沈黙の世界」から逃れるためには、アーサーがノーマをピストルで殺さなければならないという。ノーマは、そんなことをしたら夫は犯罪者になってしまうから、自分が自殺するだけではダメかと訊くが、それではダメだという。要するに、父親が殺人者=犯罪人になり、母親が死ななければ、子供は「ヒキコモリ」から脱出することができないわけである。簡単に言えば、家庭が崩壊し、しかも父親が第1級の犯罪者にならなければ、子供は「まとも」に生きることができないというのだから、面白いではないか? これは、国家と家族/家庭とがリンクした形で機能する現存のシステムを完全に否定するアナーキーな原理だからである。このへんは、「ヒキコモリ」が深刻な問題になっているいまの日本の状況を考えても、非常に面白いと思うが、映画は、そういう面を積極的に描いているわけではない。
◆こんな書き方をすると、わたしが、映画からテーマを引き出すことに関心があるかのように思えるかもしれないが、そもそも、「テーマ」などというものは、映画の製作者の側にとっては、製作を進めるためのレールにすぎず、また、観客にとっては「わかったつもり」になるための小道具である。わたしにとって映画の基本は、映像と音の空間に包まれ、知覚的・思考的な経験をすることである。だから、いま書いたような「テーマ」は、観念としてではなく、知覚・思考経験としてその場で直覚されるのでなければならない。しかし、その点では、この映画は、決してそのような「テーマ」を直覚的に経験させてはくれなかった。
(ショウゲート配給)
2010-04-05
●ヒーローショー (Hihroshou/Hero Show/2010/Izutsu Kazuyuki)(井筒和幸)
◆ここに登場する男たちは、かつてグレていたが、その後就職したりして、幾分歳をとった。みな、「ワルガキ」から「少年愚連隊」になり、それから「大人」になったような世代である。自衛隊に入っていたのもいる。お笑い芸人を目指しながら、まだバイトで食いつないでいるのもいる。そういう過去を持つ連中が、昔の「連帯」と「暴力」をよみがえらせるという方向に進むが、どうもそれがサエない。井筒は、むしろ、時代が変わったこと、もうそういう「連帯」や「暴力」が存在する余地がなくなったことを描こうとしているのかもしれないが、どこか及び腰だ。チラシには、「R‐15指定=中学生は鑑賞不可」と書かれているが、その対象となっているはずの暴力シーンも、思いもよらぬ方向に暴力がエスカレートして行く虚しさや怖さは、出ていない。根底に虚しさを持つ集団的暴力の表現としては、最近のものでは、『ジョニー・マッドドッグ』が凄かった。また、『息もできない』は、まさに「暴力の現象学」のような映画だが、その最後のほうで「新世代」が見せる暴力は、まさに無の暴力――それがなにものにも通じない、その中心に空虚な穴があいている暴力だった。
◆井筒は、例によって、出演者たちにかなりハードな撮影を強いたらしいが、しかし、映画が示唆する登場人物たちの持つらしい「過去」のわりには、鬼丸というワルを演じた阿部亮平以外は、みな「やさしい目」しかできない俳優ばかりだ。もとは相当暴れ、その後自衛隊に入ったという設定の石川勇気を演じる後藤淳平は、途中から、かなり屈折した目をするようになるが、しかし、とてもそういう過去を秘めた目の表現には至らなかった。
◆わたしは、この映画に暴力表現への新しい切り込みを期待したが、それがかなわなかったので、ファミリー(家族・家庭・組・党派)という観点でこの映画を見たことにした。そのほうが、面白い要素を発見できるだろう。この映画の登場人物たちは、それぞれ異なるタイプのファミリーに属している。田舎に父母がいる、ある種「あたりまえ」のファミリーを持っているのは、鈴木ユウキ(福徳秀介)だ。彼の母は、折にふれ、田舎の食べ物などを東中野の彼のアパートに送ってくる。自衛隊にも勤め、いまは配管工をしている石川勇気(後藤淳平)の母は、彼が彼女の家に帰ると、若い男とセックスをしている。ある意味で「崩壊した家庭」である。ユウキとお笑いコンビを組んでいたことがあり、いまも発作的にやりたい放題のバカをする癖が抜けない剛志(桜木涼介)は、鬼丸(阿部亮平)という、明確ではないが、どこかの「組」と関係のあるらしいヤクザ気取りの男とある種の徒弟的「ファミリー」関係を維持している。だから、剛志は、バイト仲間のノボルが彼の彼女に手を出すと、鬼丸に頼んで、ノボルに焼きを入れてくれるように頼む。ここで「徒弟的」ファミリー関係が始動し、鬼丸がノボルをやっつけ、金まで脅し取るが、いっしょにいたツトム(米原幸佑)とユウキがとばっちりを受ける。そのことをツトムから聞いた兄の拓也(林剛史)は、昔の「ファミリー」(ある種「愚連隊」的ネットワーク)の石川勇気に連絡を取り、勇気が「おもしれぇ、久しぶりに暴れてやっか」的なノリで助っ人にやって来る。ちなみに、ツトムと拓也の家は、父親が市長選挙の運動中で、母親もその応援に入れ込んでいる――要するに、名声とビジネスを目指す功利的「ファミリー」である。家では、みんながそれぞれにケータイをやっているようなこの種のファミリーはいま増えている。
◆ファミリーは、色々な形態があっていいし、いいもわるいも、現実に多様なのだが、国家という存在は、ファミリーを「わかりやすい」単純な形態に統合したがる。この映画に出てくるファミリーでは、田舎に住み、夫婦で屋台を開いている、父母がそろい、一応「地道」に仕事をし、子供を気遣っているような形式のファミリーが、好ましいとされる。勇気の母の家は、「崩壊した」ファミリー、剛志や鬼丸のファミリーは、「暴力団」、ツトムと拓也の家は、「金と名声にしか目がない」功利主義的なファミリーとみなされ、肯定的には受け取られない。そして、実際、この映画自身も、その「わかりやすくて」単純な、一般的基準を肯定しているように見える。ここが、この映画のつまらないところだ。母の家庭をよしとはしない勇気は、調理師の免許を取って、石垣島に渡り、食堂を開こうと夢見ている。彼女のあさみ(ちすん)に子供がいることを知って動揺するが、すぐにその子と3人のファミリーを作ろうと決心する。この映画で中間的な役(ある種の道化)を演じるユウキも、最後は両親のところへ帰る。ただし、彼らが、そのままうまく行くかどうかはわからない。
◆井筒和幸は、近年ますます、映画よりも、「日本国家」を論じることのほうが好きであるかのような態度が目立つが、その点では、この映画からは、いまの日本国家への井筒の「悲しみ」のようなものが伝わって来ると言えないこともない。しかし、国家に関心のある人は、とかくして、「あれか、これか」の判定しかせず、本当は能動性や創造性に転化するかもしれない「多様化」を単なる「混乱」や「崩壊」の序曲として受け取ってしまう。この映画で描かれる「バイオレンス」は、「多様化」した「ファミリー」のそれぞれの歯車が不幸な連結を起こしてしまったところから凝縮的に生まれたアキシデントである。その「連結」は、別様でもありえたのだ。それをこういうやり方で描いたのでは、何も生まれない。国家ならば、そういうアキシデントを「犯罪」と呼んで切り捨てるだろう。が、映画は、それを「犯罪」ではなく描くことが出来たはずなのだ。せっかく、ファミリーの「多様さ」を出したのなら、そのファミリー間の共存不可能性ではない側面をもっと想像力豊かに探ることもできた。が、そのときは、決してこの映画のような「悲劇」的なトーンにはならないだろう。井筒は、「悲劇」よりもドギツイ「喜劇」を撮るべきだ。
(角川映画配給)
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